Coolier - 新生・東方創想話

追うひとと追われるひと(後編)

2017/06/18 10:34:49
最終更新
サイズ
141.16KB
ページ数
1
閲覧数
1647
評価数
2/3
POINT
250
Rate
13.75

分類タグ


 天井の梁。
 目を開けると、まず最初に入ってくるのがそれだ。切り出した木の力強さを伝えるよう長く渡された梁は、この一室を広く、尚広く取り、壁の向こうへと続いている。何部屋も、どこまでも。
 蓮子の記憶には薄い、郊外の朽ちた家々にすら存在しない、木の骨組み。ざらつき、土の感じられる壁。障子紙を通し面として部屋に差し込む陽光。身体の下の柔らかな布団も、何処かで嗅いだ、草の混じる空気も。蓮子の身には未だどこか慣れないものがある。
 蓮子は身体を起こした。もうすぐこの屋敷にたくさんいる式の一人が起こしに来る。毎朝毎朝、同じ時刻、同じように。蓮子は眠気を強いて立ち上がり、その前にどうにか、布団だけでも畳もうとした。あの式たちは至れり尽くせりだから、どうにか動かなければ、でなければ、その生活に慣れれば、堕落してしまうような気がしたから。しかしその試みは果たされない。まだ起きて僅かというのにもう障子がすぱんと開け放たれ、式が一人、いや一体、部屋の中へと入ってくる。

「おはようございます!」

 いや全く、威勢の良い声が腹に響く。蓮子は片手を上げて返事を返した。

「おはよう。……今日も元気だね」
「おや、既にお目覚めでしたか。蓮子殿がまだお目覚めでなかったら面白おかしく起こして来いと仰せつかっていたのですが。ま、よいです。今日もよい日和でありますゆえ、春眠暁を覚えずといった事もありますので、些か心苦しさを感じていたところでもあります。仕掛けの用意も悩みどころであり……と、言っとる暇ではありませんな。ささ、主が待っております。今日の朝餉もよい出来と申しておられました。そのような些事は我々に任せて、どうかお顔を見せて差し上げて下され」

 そして捲し立てるような言葉のあと捲し立てるように布団を奪い取られ、蓮子は立ち尽くした。
 この、飛び込んできた式は、前鬼だったか後鬼だったか。どちらも同じような入れ物に同じようになって憑いて来るので正直どちらか分からない。彼らも特段区別は求めて来ないのだが、だがどちらも、妙に競い合っている節があり、それを知っているからこそ、判別できないのはどうにも気まずい思いがする。
 すぐにこの寝所の中に蓮子の居場所はなくなった。さあさあと背中を押されるようにして廊下に出るとすぐに掃除その他の物音が背後から聞こえてくる。殆ど真正面から差す朝陽が眩しい。蓮子はそのまま庭に降りると、横目に郷の遠景を見つつ井戸へと向かった。緑に囲まれた遠景は、山の中腹から、郷を見下ろすようにこの屋敷が建っている事を推測させる。この立地の由来を聞いたところ、今はここにある、と言われた。今は、の意味は蓮子には分からない。由来の答えにもなっていない。高い場所から、小さくなった人里や草原、もっと覗き込むと威容を放つ山が盆地の中に見える。
 この場所には趣を欠いた合成物はない。そのために造られた、人の手によらない郷。幻想の寄る辺。これが蓮子の招かれた場所だ。来てからそれなりに経ってるのに、まだ異質で新鮮味のある思いがする。
 朝の空気を浴びつつ顔を洗い、数分遅れで食堂、いや食卓だろうか? のある部屋に付くと、彼女は安いのか高いのかわからない食事テーブルについて蓮子を待っていた。

「まーったく、折角の御飯が冷めちゃうかと思ったわ。でも定刻通りね。おはよう、蓮子」

 彼女はそう言って蓮子を迎える。それが面映ゆくて気恥ずかしくて、小さなおはようを返して蓮子は椅子に座った。

「メリー、早くない? 私そんなに遅く起きたつもりないんだけどな」
「まあ、蓮子基準で言えば、四時に起きてるから。私が早いのかもね。やらなきゃいけない事とかね、知らない内に上がってくるのよ」
「……私も、何か手伝おうか」
「ううん、大丈夫。さ、早く食べましょう。今回はね、良いダシが取れたから。モノが良いと、やっぱり違うのね」
「そっか。うん、いただきます」
「いただきます」

 手を合わす彼女の佇まいは凛としていて、思わず目を奪われる。彼女に気付かれる前、料理に視線を落とし、その簡素な品に箸を伸ばした。
 美味しい、と思う。おそらく、何を使っても同じ感想を抱く。ここに来て何度となく彼女の手料理を食べ、その度に同じことを思ってきた。向こうに居る時も目立ってそんな素振りは見せなかったが、気配はあった。
 蓮子にはきっとこれは作れない。なんとなくそう思った。感情を差し挟む事はなく、ただ事実を咀嚼するように、そう感じた。

「ごちそうさま。……どうだった?」

 よい言葉を期待して、彼女は言う。いいや、本当は分かり切っている。蓮子がどう感じているかなど分かり切っているがその上で、なおも言葉による感想を求めて彼女はそう言った。

「結構な、お手前で」
「そう、よかった。ね、今日は蓮子も」

 言葉が、最後まで続くことはなかった。一瞬、鋭いような視線を横へやると、その先、柱の陰から、狐の従者が現れる。
 従者は、何も言わず恭しく礼をして佇んでいる。決して小さくはない身体と、なお大きいような尻尾が端正に揺れている。音もなく入ってきた彼女の様子を一瞥すると、面倒そうにメリーは立ち上がって近くへ行った。二言、三言の耳打ち。伝達は滞りなく行われ、メリーのその瞳、表情には強張りが表れる。
 何処かへ、足を向けようという誘いであったろうか。狐妖と蓮子との間に隔てられる精神的な壁。なるほど、何処かへ行くのだろう。蓮子にはそれらの会話は聞こえなかった。だがその言葉の端々、息の強弱から次の行動を蓮子は容易に想像できた。

「あっ……と、蓮子……」
「いいよ、大丈夫。私はいいから行ってきな」
「うん、ごめんね。適当にくつろいでて。そこの藍も、使っていいから」

 本当に申し訳ないように言い、傍にいる式に言い含めるような視線を残し。そしてメリーは空間を切り開き、一瞬の内に彼方へと消えた。蓮子にも見える、形の濃いスキマ。いつから使えるようになったのか、向こうではひた隠していたその力。本当はこじ開けたのか繋げたのかも蓮子の理解では怪しい。ただ予想通り彼女は去って行き、後には二人残された。蓮子と、威を纏う狐の妖怪。

「君は、どうするんだ」

 突然の質問に、言葉に詰まる。

「特に、用事は無しか。人里に連れていくこともできるが、あまり……その気はないようだね」

 それが世間話のような何かなのだと気付き、蓮子はよくわからない表情になる。
 確かに、あまり気のりはしていなかった。必要を思えば、例えば郷に馴染む、ご近所付き合いのようなもののため、行くべきでもあるのだろう。……しかし、一人で行って何になる。いや、違う。行くならきっとこの藍という式が蓮子に付いてくるだろう。だが。

「え、と。藍さん」
「藍で、いや藍お姉さんで良い。そんなにかしこまらなくても、もっと気軽に呼べばいいんだ」

 威をそのままに、柔らかな笑みを狐妖は向ける。

「もっと楽にして。我が主もそう、君には言っている筈だ。それとも、慣れないか。話したい事があるなら聞くが」

 思う所。確かに、無いではない。根本的に外と呼ばれている現世とは隔絶した感覚がある。心に浮かび、対面の狐妖の瞳を覗い、欠片の逡巡を経、おずと切り出す。

「メリー、こっち来てから忙しそうで」
「力になれないのが悔しいと」

 即座に返される言葉。思うそのままを透かされたようで心が揺れる。

「そうだね、紫様もあれで結構にお忙しい身だ。下手をすれば明日もその次も、そのまた次も、呼ばれ続けるんじゃないかな。でも、いいよ、そのままで。君は主の大事な客人だ。焦る必要なんてどこにもない。いいんだよ、そのままで」

 いいとは、何だろうか。その言葉は裏に別の意味を含んでいる。期待を、蓮子に負わせる物事を。言葉にすれば薄れ消えてしまう。もし問うたとしても答えてはくれないだろう。微かな微笑みに残して藍は去って行った。



 別に、四六時中ひっつくものでもない。次の日も、また次の日も。果たして藍の言葉通り、メリーは何処かへと呼ばれていき、蓮子はこの家に一人残されていた。メリーが何処へ行こうともそれを縛る理由は蓮子にはないはずだ。現に、どこへでも蓮子は行く事ができる。きっと幾らかの影響力がある彼女の従者をつれて、半ば特権的な位置で郷を回ることができる。
 その筈なのに。そう言葉に反芻しても、どうも良い心地はしないで、いまだ見馴れぬこの宅の、美術品を眺めたり庭を歩いたりして時間を潰していた。

 数日経ったのち、言い含めが増えたのだろうか、蓮子が家にいる間、藍は近くにいるともなく蓮子のそばにいるようになった。
 何処か物陰から、邪魔をしないよう蓮子の行動を見ている。気付いた素振りをすると近くに来てどうしたかと聞いてくる。特段に話す内容もない蓮子は大丈夫だと、やんわりと断るのだが、藍はまた遠くから、蓮子も気付くような遠くから、蓮子の動向を目視する。
 それがいたたまれなくなって、話しかけてみた。藍の言葉は続かない。飾られた美術品の解説を求めても、二言三言で会話は止まってしまう。
 それが何に起因するのか蓮子には分らなかった。その端緒が藍の側にあるのか蓮子の方に原因はあるのか。あるいは無いのやもしれない。どちらにも落ち度などはなくただ巡り合わせで。

 そこにある。だけど何かが噛み合わない。欲していた只中にありながら、軸のずれた回らない歯車を全身に感じている。
 贅沢だろうか。贅沢なのだろう。いつかの自分が夢枕に立ち叱咤する。さあ立ち上がるべき時は今で、解き明かすべき命題はそこら中に転がっている。何を惚ける事があるのだと。

 そうやって幾日が、幾月が過ぎたろう。メリーは、起き掛けに、今日は時間があると言った。常の調子から、そう易いものではない事は分かる。捻出してくれたのだろう。だが目元にも口元にも疲れは見えない。見せない。遊びに誘われた先は人里。
 初めて行くと伝えた時分の彼女の表情は喜色であった。蓮子はびくりとした。いつでも行けたのにそれは自分を待っていたからか、そう感じたように見える。確かにそう、そうではある。だが、それほど積極的な理由ではない。ただ、なんとなく、先延ばしにしていただけ。隠そうとはせずそのまま流した。
 人目を避けて、メリーは変装、いや体躯を、通常時と異ならせている。蓮子と同じか、あるいは少し小さいか。それでも分かる人にはすぐ分かるようで、時々お辞儀をされている。それを軽く受け、メリーはさらさらと流れるよう歩いてゆく。
 蓮子はそれにどう応ずればいいか分からず、ぎこちなく礼を返し彼女の後を行く。立場が定まらない。それが原因の端緒だと、自ずから理解できた。
 その居場所を彼女の邸に限定している蓮子は、未だこの郷の住人ではないのだ。だから蓮子を知っている者も、者の方がまた、少ない。その中でメリーだけが喜と楽を備えて蓮子に話しかけてくる。
 分かる。自らと、他者に対するそれとの、精神の壁。メリーは、蓮子に対してだけ甘い顔を見せる。
 その名を呼ぼうとして、人の耳を感じて、口をつぐんだ。他人の目に、あまりに不似合いな、子供じみた、児戯。ただ、そう呼ばなければ、彼女が傷付くだろう事も分かっていた。

「いいのよ、気にするなんて」

 彼女は言う。優しく、その名を呼べと。メリー。二人の名。
 照れ隠しで、俯く蓮子へ微笑みながら眼差しを向ける。暖かな眼差しを。
 ……それはどこまでも暖かい。俯いていても、それの正体が蓮子には分かる気がした。帰るとき、例の空間異常ではなくしばらく歩いていった。幻想に住まう者はおおよそ飛翔力を持っているが、それを彼女は使おうとはしなかった。
 夕焼けに赤く染まりつつある仄暗い空の下、他に影もなく二人きりで里から離れる道をゆく。長い影が地面に伸びる。鳥の鳴き声と風がないまぜになった音が、頭上を通り過ぎていく。

「山はちょっと厳しいかもね」

 歩きながら、そんなことをメリーは言った。山が何を指すか蓮子は知っている。郷の北、通称妖怪の山。遥か昔日、八ヶ岳の幻影。

「最初は、そうね、湖や神社。いっそ座学から始めてもいいかも」

 その時は、自分が教えてあげるとメリーは言った。
 明日は、無理だけれど、次はどこにしましょう。どこにでも行ける。そう彼女は言う。

「どこでもより取り見取りよ。ここは幻想の郷。活動先に困る事なんてない」
「活動」
「あのそびえる山塊が良いかしら。空の向こう? 海は範囲外だけど、地の底なら座標を知ってるわ」
「メリーは、物知りだ」
「それは、そうよ。この郷は私が創り上げ……たと一概には言えないのだけれど、それでも庭より知っている。何があって誰が居るか。この場所は私のもの。かわいやかわい、子供も同じ」

 そして、いいこいいこの真似をする。メリーは微笑みながら、くるっと回って蓮子の方へ向いた。

「でも、また好きで大事でそして大切に思っているのが蓮子、貴女よ。お望みとあれば、貴女には特段の妖威を提供できます。もはや時代の潮に埋もれ外界で得る事叶わなくなったとびきりの不明。科学の手垢なんて付いていないまっさらな不思議」
「うん、そうだね……。きっと、楽しい。秘封倶楽部の活動は暴くのが仕事だもんね。この郷には持ち切れないほどいっぱいある」

 目を細め、静かに蓮子は言う。それを聞く彼女の頬は無邪気に微笑みを浮かべている。
 無邪気に。

 ……蓮子の直感は、違和を既に捉えている。


――


 思えば、二人は、どうやって外で暮らしていたのか。
 メリーとは大学からの付き合いだ。蓮子から話しかけて、蓮子から引き込んだ。それからは一緒に居る。
 もういつの話になるだろう。一年や二年では利かない気がする。活動の思い出と、活動に関係する学業の思い出ばかり残る。蓮子は割合不良であるが、メリーはそれほどでもない。ただ、活動へ力を入れる蓮子の傍ら、自ずからメリーもそちらへ寄って行った。

 蓮子はそれまで一人だった。孤独ではなかった。友人はたくさんいたが、心の中で自身を形容する言葉は一人だ。蓮子の眼は蓮子だけのもの。蓮子を蓮子たらしめている重大要素の一つは、蓮子と他の人間の間に確かな隔たりを創り出している。
 だが、そこで拒絶へ走るほど蓮子はねじくれていない。確かに共感できないことはあるだろう。しかしそんなものは誰にでもある。ただ異能は先例に乏しく頼れないというだけで、その事実は重大でこそあれ、蓮子は友人と良好な関係を築いていた。
 だから、もしそこに一人である理由を見出すとするならば。それは共感ではなく実感。異能を持つことによる、まさしく自分自身に向ける探求心だった。

 蓮子は追い求めたがっている。"何か"を。自身の眼が何に関係するか、何をもたらしてくれる、何らもたらさないのかも不明なまま、ただ能力を理解し使える向こうへ行こうとしている。それは形容でしか表せないが、蓮子には切実な実感を持って抱え込まれていた。
 その実感を、実感に追われるようにして駆ける蓮子を、理解できる人間は少ない。
 メリーはどうだったろう。彼女も実は実感も共感もしていなかったかもしれない。ただメリーは異能を持っていたし、一緒に活動できた。付き合ってくれたのだ。メリーは相棒だ。友人だ。形容する言葉を持たない、ただ秘封倶楽部のメリーだ。
 ある時、これが区切りだと彼女は言った。その真意は蓮子は知らない。深い意味ではない。きっと本当に、それが区切るに適当な時だったのだろう。そして蓮子はメリーに誘われる形でここに来た。彼女の、メリーの行動はそれが一つの最終目標だったのだと、そう気付いた上で蓮子は共に来た。
 その時から、蓮子はメリーの保護下にある。当然だ、見たこともない、少なくとも住んだ覚えはない土地。偶然郷の有力者であったメリーの力を借りなければ、蓮子は右も左もない。最悪餌と終わる土地。
 だから、メリーは、蓮子をとかく気にかけ、家にいるときは常に意識を割いている。
 メリーは気付いていない。メリーは、外の世界でそんな態度を取らなかった。そして蓮子もまた気付いては居ない。外の世界で、蓮子はそんな態度を取らなかった。

 それが違和、不自然の正体。
 環境の変化に戸惑っているのだろうか。なるほど外界とはそこに存在する景色や空気からして違う。その違いに中てられて、一時の気の迷いだろうか。距離を測りあぐねているのだろうか。
 いや、違う、もっと違う。彼女はそんなことで自分を見失いはしない。彼女はただ抑えを外しただけだ。外の世界では必要がなかったものを、ほんの少し解放した。こちらが本質でしかない。違いというならもっと別のものがあるだろう。考えないようにしていた、力の差。彼女と己との存在の違い。
 それが表情に出ていたのだろう。その日、宅の廊下。前方のメリーは、向かい来る蓮子の相貌を確かに見た。

「あっ……」

 交錯しすれ違う視線に悲しみの色を、きっと自分も同じ色を浮かべているのだと感じながら、蓮子は彼女の横をすり抜けた。
 言葉など必要ない。想いを受け取ってしまうのに、言葉など必要は無いのだ。
 愛玩動物。確かに浮かんだその単語を否定する強さを、蓮子は持ち合わせていなかった。

 じくじくと燻る胸の感覚。善しと言えないこの感情。
 悩む自分が嫌で、瞼を閉じても眠れやしなくて。寝返りを打ってもなお晴れる事はない。
 生きてきた年月の差、経験の差、心の差。蓮子自身そう扱われている事が嫌なんじゃない。そう蓮子を扱わせてしまう事が嫌なのだ。避けられない溝はある。それらを受け入れる事が出来ると、蓮子は信じていた。しかしその実は、蓮子が一方的に受け入れられているのだ。蓮子には理解できないから。認識できるとしたら、それは向こうが下りてきたから。
 それが、許せない。はっとする。許せないのか。嫉妬や怯懦では決してない。それは怒りにも連なる感情。誰が許せないのだ、ただ不甲斐ないこの自身こそ許せないのだ。
 蓮子は、暴く者だ。秘封倶楽部の一員。オカルトマニア。それは強固なアイデンティティを蓮子に形成させ、確かな誇りをも内包している。その誇りが蓮子に囁く。曰く、守られながら探ったものに何の価値がある。
 今、蓮子は、彼女の能力を、理の通らない形で下げさせている。それが優しさなのか。もっと何か別のものなのか。当然に力の劣る、若く未熟な蓮子には分からない。若さ、埋められない時間の壁。
 蓮子は彼女のために何が出来るのか。何を、与えられると言うのか。蓮子は若く、未来がある。その事実が、今はただ憎い。
 一度離れるべきだろうか。蓮子自身の不足を補うために何処か旅にへと。当てはない。だが、この生活は、蓮子を……いや、蓮子だけでなし、きっと蓮子の大切な相方をも、堕としてしまう。淀んだ精神の檻に、自ずから沈み込んでゆく。
 その想いだけが時を追う毎に膨れ上がる。
 それとも、その思い自体も、若く未熟な蓮子の間違いなのだろうか。本当は蓮子が、ただ勝手に気を病んでいたたまれなくなっているだけではないのか。メリーは常に蓮子を待つ。メリーは今も信じている筈だ。蓮子が辿り着き、すぐにでもその精神を解消すると。くだらない悩みなど、同じようにくだらない労力で解決するのだと。
 分かるわけが、ない。
 手持ちの材料だけで分からないものを解き明かせるなら世の中に苦労ははびこらない。
 メリー、彼女に時間はたっぷりある。待っていてくれるだろうか。勝手に失望し出奔しようとする蓮子を。図々しくも往き、そして戻る気でいる蓮子を。待っていてくれるはずだ。成長した蓮子を、臆する事無く隣に居られる蓮子を。もしも居るのであれば喜んではくれるだろう。居るのならば。
 廊下が、軋んだ。蓮子は目が覚めた。障子が月明かりを通す。そこに、一つの影を浮かばせる。

「蓮子、起きてる?」

 その声は控えめで、きっと何も答えなければ居なくなるだろうほどで、蓮子は静かに返事をした。起きている、と。

「えっと、その、ごめんね。今日、一緒に寝てもいい?」
「……入りなよ」

 障子が開く。星空、午前二時四分。薄明りに浮かぶ彼女は、ひどく質素な寝巻を着ていた。
 蓮子が布団の中に体を寄せる。彼女は小さくお邪魔します、と言って、その片側に潜り込んだ。

「はは、久しぶりかな、こういうの」
「うん、そうだね」

 同じ布団で寝たのは、互いの家に寝具が足りなかった時以来。それからすぐに、どちらも二人目の寝具を用意した。泊まった数はそれほど多くはない。それでも、どちらも、相方がいつ来ても済むようにはしていた。
 布団の中に身を寄せる。外気は冷えるから。遠くに何かの鳴く声や風のざわめきが聞こえる。メリーは目を閉じて、蓮子の言葉を待っているように思える。
 蓮子に何か言う事があると、知っているように思える。

「メリー……」

 切り出す言葉をどうするか。彼女の耳が、ぴくりと震えた気がした。

「えっと、私ね」
「いってしまうの?」

 染みるような声。メリーは静かに、蓮子に向けて柔らかに、そう言った。
 彼女は、やはり、分かってしまうのだ。蓮子がどういった想いでいるか、どういった想いを抱いてしまったか。手に取るように、分かってしまうのだ。
 蓮子は逡巡する。だから蓮子は離れようとしている。

「心配しなくていいよ」

 蓮子はそう言った。はっきりと、確かに、力のある、前途を決して悲観していない声音でそう言った。
 残酷だろうか。その言葉だけでも、メリーにとっては十分伝わる。暗がりで互いの顔は見えない。だが、その力の声は旅への声だ。家を出て道を行く、決意の声だ。
 大丈夫、絶対帰ってくる。時間はかからない。すぐの、ほんのすぐの事だ。
 それを、なるべく明るいように伝えた。それが慰めになるかどうかも分からぬまま。メリーは、笑っていた。朗らかに、蓮子はすごいねと、そう言った。言って、押し黙った。
 笑い声が途切れ、止み、静寂が訪れる。沈黙の中、息遣いと空気の流れ。二人は、仰向けに寝ている。だが確かに、メリーは蓮子を見ていた。
 布団の中、もぞりと彼女の手が動く。左手が重なった。手は、握られる。その感触を確かめるように。力を込めて、いっそ引き留めるように。

「手紙、届くなら出すよ」

 蓮子の心は翻らない。彼女は、身体を引き寄せ、蓮子の身体に腕を回した。布団の中、外気が通り抜ける。込められた力を胴に感じる。ごめんねと彼女は言った。ごめんと。
 仰向けのまま、動く事も出来ずに、蓮子は天井を見つめていた。何を返せばよかった。いいと、気病むことなどないと言えば良かったか。
 その言葉が、空虚でしかないと、ただの気休めでしかないと蓮子は気付いていた。決断に変わりはない。それをどう取り繕ってもメリーには分かってしまう。それともそれを推してでも言うべきだったのか。
 悩む間にメリーの寝息が聞こえて来る。蓮子の言葉は、そのまま、封じられた。



 朝目覚めると、メリーは隣に居なかった。少し早く起きた気もして、布団を上げる。布団をしまい終え、ついでに着替えも済ませて、いつものように障子を開ける。
 なにか足りない。珍しく、式がいないのだと気付いたときには、既に蓮子は顔を洗って食堂へと着いていた。そして、食堂。何も用意されてはいない。

「来たか」

 灯りの落ちた暗がりから、静かな声音が蓮子を刺す。

「この広い屋敷を探し回るのも面倒だからね、取り敢えずここで待たせて貰った」

 狐の女性。彼女は背を向け歩き出す。付いて来いと言っているように。何故。聞きはしない。蓮子は自然と足が向いていた。そうするべきだと思った。
 中廊下、暗く長い屋敷の中、先導され、奥へ奥へといった先。今まで来た事もないような深い場所にそれはある。窓もない暗い空間は奇妙な灯に淡く照らされ、突き当りにの壁に両開きの襖。常より少し高く、厚い。それを、壁と繋ぐようにして、帯状の紙と紙が幾重にも重なって貼られている。

「これは結界だ。紫様は自分の部屋に入られるのを酷く嫌って……は、いなかったが、立場上防犯の必要があってね。自身は無視出来るからと、随分無理な物を張られた」

 帯には文字と模様のようなものがびっしりと書き込まれている。

「今は、力を失っている」

 手を触れる。紙の、かさりとした感触が手に伝わる。
 私は、ここで待っていると彼女は言った。蓮子は襖を閉ざすそれらを剥がしていく。指を掛ければいとも簡単に破れる紙の束。すぐに結界は消え去り入り口は解放される。長く動いてはいなかったろうそこに手をかけ、蓮子はそろりと襖を開けた。
 塵と埃が舞い降り、決して狭くない、広い、いや長い部屋が現れる。半ば通路のような部屋の中、雑然と、整然と、両側に積まれている物達。奥に行くにつれその量は多くなっていき、そして最後、その最奥にぽつんと正座をしている影。
 蓮子は、一つ息を吐いた。居る、のだ。どこからも消えて行方も分からなくなってしまったわけではない。その事にまず蓮子は安堵する。そして声をかけ、近付こうとした所で、蓮子は異常に気付いた。
 彼女は、こちらを向いていた。だが、彼女は背を向けていないだけで、例えば壁や、その部屋の一番奥に備えてある文机などとは全く無関係に、ただそこに座っていた。当然、近づく蓮子との軸も揃っていない。斜めになった彼女は、蓮子をその視界の端に納めている筈なのに、何も反応を示す事はなかった。
 近くに、目の前に立つ。その表情は穏やかで、何も悩むことを止めて。蓮子は彼女のこの表情をかつて見た事があった。何年も前に。
 何年も前。彼女の袖を引っ張った。懐かしい袖を。見覚えのある袖、どこにしまってあったのだろうか、昔の服を。

「メリー、起きてよ」

 呼びかけに、彼女は顔を傾けるだけ。目を合わせてもうつろ。メリーは、蓮子の方を向いて、向いただけで、座っている。
 蓮子は手を伸ばしかけて、しかし差し出せなかった。手を伸ばして、それでどうする。触れる事に何の意味がある。蓮子のその様を彼女は見ている。触れる事さえできない姿を。その視線に耐えられなくて、蓮子は目を背けた。
 その行為が、取り返しのつかないことになるのではないかと思って、蓮子は慌てて視線を戻した。今蓮子が直視できない事が、メリーを視界に入れてなければ、消えてしまうのではないかと思って。
 メリーは蓮子をうつろに見ている。従者を呼びに行くべき、なのだろう。声をかけても目の前に来ても、いっそ触れても、彼女には届かない。蓮子にはどうにもできない。しかし、藍を呼ぶこともできない。ここに彼女を残して良いものか。この、物だけがあるがらんの空間に。
 意を決した。腕を掴んで引っ張ると、彼女は立ち上がった。立ち上がるだけ。辛うじて倒れないだけの、力無い足元。蓮子は先に歩いた。腕を引くだけ彼女は着いてくる。
 部屋の前、従者は居ない。暗い廊下を手を取って歩く。長い廊下、誰も居ない廊下。庭に、従者は居た。彼女はこちらを一瞥し、そうかと呟いた。

「もう貴女には何も見えてはいないのだな」

 そして蓮子を見る。蓮子を、観察する。その怯えた、困惑したような表情を。
 君のせいだと、言わなくても。その言葉は突き刺さるように蓮子に伝わる。その原因と作用の如何を問わず、自ずから蓮子自身もそう思っている。

「君は、どうする?」

 その目、粘りつく、重みの目。蓮子を定めるような眼光。返答如何の傍に潜む暗い闇。瞳の奥が蓮子を射抜いた。蓮子の視線が硬直する。身動ぎ出来ない。

「紫様は決して弱い方ではない。その姿も何かの間違いだろう。だが、重い間違いだ」

 そうだ、間違いだ。叫びだしそうなほどに、蓮子はそう思った。声は出ない。対面に、相手は何歩も離れているのに、喉元を抉り取られるような感覚に陥る。
 既に無いのではないか、とさえ思えた。既に抉り取られて。蓮子に確認の術はない。手も、足も、つばを飲み込む動きさえもできない。
 ただ、許してくれとは、決して思わなかった。心にも浮かべない。もはや涙を目に蓄えながら蓮子は視線を受け続けていた。鋭いもの。それを突き付けられ続けても、でも逃げる事だけはしなかった。
 それは蓮子の意地だ。この場で、もしその生を終える事になろうとも。牙を立てられ報いを求められたとしても。謝れる相手は一人だけ。そして、その彼女は、そんなものが欲しいのではない。
 分かる。分かるさ。吠えるように心に唱えた。読めなかった、心の動き。察せなかった、その兆し。メリーはただ一緒に居たかっただけだ。応えられなくて離れようとしたのは蓮子だ。それでもなお、友達として居るために、蓮子は不義理を行いたくはないんだ。
 だから涙が恐怖に溢れて出ても、蓮子は決して目を逸らしはしない。もう縛るような暗い揺らめきは消えていた。それでも何もできない蓮子の、最後の意地で立っていた。
 呑み込むような、威の圧力が消える。その視線は静かなものになる。

「……お前は何をしてくれる?」

 彼女は静かにそう言った。それ以上の言葉を必要とするのか? 言外に聞こえる。
 手に触れる相方の手を、握り引き寄せた。メリーがその分近付き、彼女の体重を身体の片側に感じる。メリーは少し、ほんの少し蓮子に寄りかかっている。蓮子は寄りかからせて、そのまま立っている。
 その脚、もう揺るぎない。意志が、静かに灯り始めた。

「ふ、ふふ」

 狐が笑う。

「紫様の言った通りだ。君は追い詰められると実にいい目をする。それでいいんだよ、それで。まあ、追い詰められるまで役に立たないとも彼女は言っていたが。付いて来なさい。君の荷物は、もう纏めてある」


――――



――――


 東京とは街並みからして異なる。古の京の都を模倣したその地には、無機質なビル群はそもそも存在していない。
 あるのは、合成素材を組み上げて作った平屋と、それを支えるよう、補うように存在している多層構造の施設建造物。規則性を保ち、時に崩し、時に重なり、有機的にそのシルエットを形作っている。
 そして道は、造られた物を繋げ分かつ道は、ただ直ぐに引かれている。
 それが京の街路だ。ナズーリンは一目でそれが過去の遺物であると見抜いた。二目で、それが模倣であると見抜いた。
 位置が、違う。山が違う川が違うその道の幅が違う。かつて見た地とは何もかもが違う。だがその街は、違うのに、なのに忠実に街路は格子を描いている。
 違うだけであるならばよかった。その街には意図がある。かつての遺構に縋り付いてでも得なければならなかったもの。結界の真似事が、そこにはある。

「……とまあ、私から見た京の都はこんな感じだな」

 その都を外れ、今や道としての機能のみを主とした旧市街。草の覆う、建物の陰。草も刈り揃わぬ中、こそりと身を潜める様にして二人は居る。晴天、風、なびく。ナズーリンの懐から、四つ折りにされた紙片が取り出される。

「あとは、ほら。君の探してる、伊弉諾? なんとやらの関係地だ。取り敢えずこれで借りは返したからな」

 受け取り、中を見、蓮子の喜色は溢れ出す。そこには無数のバツ印が簡易な地形と共に記されている。そして、一つだけ赤い丸。簡素ながら特徴を捉えた地図と大まかな座標、それだけで蓮子には京の町との照合が容易にできる。昔幾度となく歩き彷徨った杵柄だ。伊弉諾物質の情報は数少ない。十三分だと跳ねるように喜んだ。

「わあ、さすがナズーリンさん。いやなっちゃんさん。ありがたついでにもう一つお願いが」
「なんだよ、やだよ。自分でやれ」
「なんだかあれから、結局誰も追っかけて来なくって、できれば理由が知りたいなと」
「ばか! お前私の事おだてて動く便利屋か何かだと思ってるだろ! 調子に乗るなよ、あくまで私が自発的に借りを――」
「ねえ蓮子、まだー?」

 二人の身体がびくりと震える。待たせてあった相方の声は、その場所よりもずっとずっとほど近い所から聞こえた。
 話す時間が長すぎた。泡を食って逃げ出そうとするナズーリンの背後から、既に影が伸びる。蓮子はもう間に合わないと悟った。その蓮子の表情を見、ナズーリンが振り返る。影が建物から顔を覗かせる。

「蓮子ったらー」
「あ」
「あ」

 時間が止まる。少なくとも、先日までの標的と直接目を合わせたナズーリンの身体は、確かに止まっている。
 蓮子は何かフォローを入れようとして、どうする事も出来ないと思ってやめた。彼女は、メリーは一瞬ぽかんとした後、蓮子を見た。ノーコメント。その好きにしろとの表情はメリーに伝わっただろうか。メリーはその興味の眼差しを見た事がない誰かに向けた。

「……わあ、可愛い! 誰? この人も裏表関係の人なの?」
「あー、まあ。そうね、うん」
「な、なっちゃんです。なっちゃんって呼んでください」

 言葉が出ず、しどろもどろ。これがあのナズーリンかと蓮子は思った。あの単身蓮子に脅しをかけに来たナズーリンかと。小さな身体はなお小さく。顔は俯き、目線はきっと泳いでいる。
 メリーがその小さな身体を覗き込む。なっちゃんは目を逸らす。メリーはまた覗き込む。ナズーリンは身体ごと逃げ続ける。

「あー、メリー? その子ちょっと人見知りでさ。勘弁してやってよ」
「むう。ま、仕方ないわね。蓮子の秘密を暴いちゃうのも味気ないし」

 頑なに逃げ続けるナズーリンに肩をすくめ、そんなことを言って背を向ける。蓮子は小さく安堵とも残念ともない息を漏らした。見ていたい気持ちもあるが、詮索されて困るのは同じだ。
 ごゆっくり、メリーは手を振って去っていく。

「……それで?」

 メリーの遠くに行くのを見送り、未だ小さくなっているナズーリンに水を向ける。

「君は良いかも知れないが、私なんてもしばれたらと思うと、こ、こわ」
「それでよく連れ帰るなんて言えたもんね」
「それとこれとは話が別だ!」

 激昂、声を荒げる。

「この際言っておく。君は慣れてるつもりだろうが、元来正気を失った妖怪ほど厄介なものはないんだ。今は落ち着いているように見えるが、その実その身体、いつ食われても不思議には思わないぞ……!」


――


 眼を閉じて佇んでいる。晴天の下。ナズーリンが去って暫く、蓮子はそこに居る。
 ただ、佇んで、そうしていた後、何か言われていた事を、敢えて意識から消して、蓮子はメリーの元へ戻った。
 メリーは、後ろ手に片足を振りながら蓮子を待っている。揺れるつま先、空を見上げて、そして蓮子に気付いた。

「ほら、良さげな場所。貰ってきたよ」
「あら意外と早い。ネタバレさんは?」
「もう帰ったよ。というかネタバレさんて、地味に失礼なのやめなさい」
「はぁい」

 気を緩め切った返事。弦の張られる事はない。こうやって見ると気付く。メリーはそうだと思いだす。少し前のメリーは、蓮子の前ですら、その弦を緩める事はなかったのだ。
 二人貰った紙片を覗き込む。紙片の示す先は、二人の容易く行ける場所。あのナズーリンがどのような手段を用いたのか、ただ一つ、監視の利便な場所を選んだろう事は、察しが付いた。

「これから暫くはこんなスポット巡りが続くのかしらね」

 地図を覗き込みながらメリーは言う。
 続くのだろう。力場は全て知っている。記された場所は、全て京都の近郊。そして、京都はかつてのホームだ。行ける場所は全て行った。紙片はそれらを網羅している。当然の様に量は膨大で、一つ一つ、巡るとしても相応に時間はかかる。
 だがこの単純な捜索を、蓮子は喜んでもいた。少なくともこの間はネタに困る事はない。活動をしている間、二人は二人でいる事が出来る。あり続けることが。
 それが、決してその場しのぎ以上の物ではないと知りつつも、しかしまだ、次に繋ぐことが出来るなら。蓮子は喜んでその画に飛びつく。
 停滞を望むその心に、矛盾があると知りながら。

「石さんに反応はないみたいね」

 近い場所、印の一つに近付きながら、メリーは言う。何処にいるとも変わらない石の蠢き。それはなんら特別なことを示さないと。
 石、仮称伊弉諾物質は、非常に不安定な状態だ。蓮子には幸いにして視えないが、それは本来あるべきではない歪みを湛えている。歪み。一つだけぽつんとある掌中の歪み。袋ごと握りしめ、それは共振する場所が必ずある。自然に有り得ない歪みを持った石と同等の、歪みを持った場所が。
 メリーは確信をもってあると言う。その場所が見つかれば嵌り合う。それを探すのが次の活動の目的であると。だが、果たして京の都にあるだろうか。かつて行った場所、あの頃の二人が届いたところに落ちていてくれるだろうか。同時に、辿り着けるほど大きいのならば。そうとも思う。心のよどみを振り払い歩く。詮無い。今はまだ、行くだけだ。
 取り敢えず、慣れた街路と郊外路を歩き、思しき場所に着き、もはやまばらな人の巡りにも配慮する事無くメリーは接続を始める。それは奇妙に、人目を集める。一人か二人、横目に通り過ぎていく。いずれ名が走り行けば通報される恐れもあるだろう。しかし誰が見ようが構うものか。蓮子が、やってしまえと促した。
 もう今更だ。二人は京に居るのだ。この国の首都に。既に存在は暴かれているのだから、活動を続ける以上遅かれ早かれ再度捕捉されるのは目に見えていた。

「うん、視えた」

 手応えを得たようにメリーは顔を上げる。その視界は、すぐさま蓮子に共有される。
 採れたての視覚情報、新鮮ゆえの明瞭さ。それとも、何か不明の脈、この国の底流を繋げる脈と触れたからだろうか。一段の濃さを感じ、視えるものが、混ざり、置き換わっていく――

 ――蓮子は、霧の中に在った。
 立ってはいない。足は無いから。それが現実の自分の身体ではなく受け取った感覚情報だと理解するまで一瞬の間を要した。
 そこは、先日視た山中。開けた中に、幾らかの人工的な盛り上がり。盛り土、いや、台座。台座のようにそれは見える。その不明物は二、三、その場にあるようだ。
 祭具。これは祭具、儀式の用意。理解に似た、当然のような認識でそれらを捉える。もっとよく、その様を得ようとする。自らのものではない視界になお瞳を凝らそうと。メリーも同じ感覚でいたようだ。徐々に徐々に、ピントが合わされていく。
 光景が、薄れる。時間切れだ。終わる景色の中最後に見えたのは薄い影。影が、濃度を増し行く霧の中、薄らとその存在と動きを見せる。
 意識が、戻される。その残滓の中、蓮子は確かに確信している。あれは、何か。あの行為者こそが伊弉諾物質の本質――

 覚醒。目の前、相方が目を開けた蓮子を確認する。
 どうだったか? とその視線は促している。蓮子は黙考の末、取り敢えず見たままを告げた。儀式の様と、誰かが居た。
 その言葉にメリーの認識と異なるところはない。強いて言うなら、メリーの眼にはもっとはっきり、台座であり祭祀の場であることが感じられたようだ。より近い方が鮮明なのだろう。蓮子には経由分劣化がある。

「やっぱり伊弉諾物質なんだから、あれって神代? なんだよね」

 メリーの語調はどこか訝しげだ。

「そもそも本当に神代なの? 蓮子が自信満々に持ってくるからそうなんだなって思ってるけど、もし違ったら私に視えてるのだって関係ないのになるんだからね?」
「ネタ元は大丈夫って言ってたから大丈夫とは思うんだけど、まあ、こんな欠片みたいなので視れるんだしキワモノである事には変わりはない。そもそも関連付けが残ってるだけで大分怪しい」

 蓮子の感覚はあれを神代の何がしかであると結論付けている。それは空気であったりかすかに見える景色の感じられるものであったり様々だが、メリーもそれを否定することはない。つまりメリーもある程度の確信はしているのだ。それがそんな事を吐くのは感覚以上に裏付けるものがないからだ。その神代の出来事が、何であるのか、探る事すら出来ていない。
 きっともっと詳細な映像が得られなければ進展しないだろう。神代は遠すぎて、結果を文献に合わせるほか確かめようがないのだ。
 そう、それに、確信だけは持っている。これがただの人間の、戯れに行う紛いものであるのなら、もしそのような事が出来る人間が居るのなら、二人はこんな泥沼の活動に身を投じてなどいなかっただろうから。

 京の都は北辺にある山脈に嵌まり込むようにしてそこにある。北西東に山を置いた平地の中、東西を流れ南部で合流する河川の間に都が位置する。昔は川の向こうにも町並みは広がっていたそうだが、今は内部へと纏まり、かつての首都東京と同じよう潮の引いた廃墟群を周囲に抱いている。
 西の廃墟街、手入れもなされない、物好きからすらも目を離された地を歩く。廃墟の街。かつての大都市群にはまず確実にこのような土地がある。蓮子達が産まれる前、何十年も前の施策とその結果、らしい。廃墟、朽ちた建造物、およそ何者の隠れられる、ともすれば犯行の巣でありそうなこの地を蓮子が通っているのは、きっとその感覚が今にそぐわないからなのだろう。
 蓮子にとって治安は、どこか遠い世界の概念だ。こういった場所が危険をはらむ、それは歴史的に読んだことはある。だが現代人たる蓮子には、メリーにおいても、それは大昔の事柄で、その身にこの廃墟街が危険な地であるという認識はなかった。
 それほどに現行の日本では犯罪の発生率が低い。物質的制約を失った結果だと、誰かの言葉を読んだ気がするが、実際、たまに起こる事件は凝り固まった私怨かイレギュラーじみた偶然の産物ばかりだ。自分の手の届かない場所や他者に自分から関与しに行く。居ないことはないだろう。必要は薄い。
 現代人にすれば野山にも等しいこの場所がどうして形成されるに至ったのか。たまに気になりはする。こういった場所は東京や京都のみならずもっと北東部の都であったり、西の、海峡を越えた都市であったりにも当然のように存在しているのだ。だからたまに調べようかと書棚を眺めたりもするのだが、いつも飽きるかどうかでやめてしまう。あの時代は人気がないから、面白味のある本がなく目が移ってしまう。たかだかウン十年、最近に過ぎるのだ。
 直線距離を突っ切って、清々しいほど人里離れた半端な土地、二人は最初の観測点に着いた。辺りを見回すコストも払わず、メリーはしゃがみ込み蓮子は近場の何の用途に使われたかも不明な石塀に座った。ぼうっと、ひざとひじをくっ付け考える人のポーズをとり、青い空を見上げる。
 割とすぐにメリーは身体を起こした。身体を起こして、ううんと首をかしげている、そんな後姿を蓮子は見ている。

「どうしたのさ」
「ああ、いや、そんな事もあるかなーって」

 言いながらメリーはこちらに手を伸ばし、その視界を蓮子と共有する。なんだか大分すんなり入るような気がして、蓮子の視界は塗り替えられていく。

 ――蓮子の視界は見覚えのある山の中の、もはや顔馴染みにも近いような場所で固定される。視点は結構低いのだ、ということに気づいた。周りが巨大という感覚もないので、おそらく地べたにほど近い場所から見ているのだろう。
 祭壇のような何かがある。蓮子は、おやと思った。その程度は、前に見ているのだ。霧があってよく見えない事も、終わり際に何者かの姿が見える事も、そのまま終わる事も――

「これ、前回と全く同じじゃん!」

 目が覚めるとともに蓮子は叫んだ。だよね、という表情でメリーも見ている。

「ここ、最初に視たところと結構離れてるじゃない? それでこの調子だと、何処で視ても一緒なんじゃないかなって」

 その二つで計るのも早計な気はするが、繋げるものが同じなら、同じ地方を少し移動した所で変わらないのも道理。分かりやすいと言えば分かりやすい。
 他の遺物、この手に保持する数少ない物質達は、そうと限らなかった。まちまちだ。場所によってぶれるものがあったり、脈をそもそも関係しなかったり。
 それが、全く変わらない。脈にある程度なりには関係が深いのかもしれない。あの光景が、そもそも力場の放出点を利用していたり……。

 次の日から、一日一つ、京の周りを順繰りに記された点を回る。地道な行動はそれまでと同じだが、一つ、別々に行動しなくなった事だけは以前と変わっていた。
 メリーはそれを喜んでいたかどうか。蓮子は、いっそ気にする事が減って、肩の荷が下りた気もしていた。行動の逐一に制限をかけ続けるのは思うより疲労する。決して、今も楽観できる状態ではないのだが。
 この豊かな国、人を管理し、その持てる技術をも統御するに至った人類の最繁栄点の一つ。蓮子にはその実感はない。物質は困らない。絶えず繰り広げられた人類進歩の果て、物質的制約は一つの達成を得た。それらの成果は成型食用物、非食造作物等に現出する。しかし精神は確信をもって貧しくなったと思っているし、それは相方である彼女も概ね同意している。
 曰く不足がない事にわけはあるのだと、人は言うがどうだろう。後の世でもなく、渦中の蓮子には、その真偽を図る術もない。必要がないから空想も衰微していった。あるいはそれ以外、波及させない人為な理由があるかもしれない。蓮子の思想はそれを嫌がるところに発している。そんな所で閉ざされてたまるか。蓮子は理想を追うことすらできず乾いた重苦しい人間になるのが嫌だった。拒絶した。抗うために、小さいころから地元を駆けずり、その勇名は一つのルートとしてモノや情報を伝える人脈と化した。だが。その眼も、培われた性分も、蓮子は欲しいものを得る事は出来ない。貴女は不幸な少女。彼女は蓮子の瞳を覗き込み言った。言葉が記憶を反芻する。迫るように、重い響きを伴って。彼女の表情が思い出せない。彼女はその声を蓮子を操るために使う事はない。至って普通の通り、日常の延長線のような調子で語りかけたはずだ。だがそれは蓮子に檻の様な印象をもって聞こえる。堅固な重い現実が新たに目の前へ現れた。そんな事を感じて。
 メリーは蓮子の手を取った。でも自分が居る。その時の彼女は、どんな表情をしてただろう。自慢か、誇らしげだったろうか。蓮子は難しい顔をして手を振り払った。彼女は困ったような表情で微笑みを浮かべた。仕方のない奴だと言うように。蓮子は拗ねて、メリーはほんの少しばかり肩を竦めた。蓮子は気難しい、ふりをしていた。機嫌を損ねたふりを。
 結局蓮子は、メリーの事が嫌いではなかったし、自身の不足もおぼろげながら抱えて、自覚していたのだ。最終的に蓮子はメリーの誘いに乗って結界を越えた。その答えも、そこに至る過程も、間違ったとは思わない。
 ただ……。蓮子は、この世界を捨ててあちらの世界へ去ったのだろうか。蓮子は追い掛けてきただけだ。蓮子はそこにあるものに取り敢えず手を出してきたにすぎない。手が届くようになってしまったから。だから届く場所に手を伸ばした。だが、彼女の言葉でその自覚が芽生えなかったと言えばうそになる。蓮子はきっと、向こうへ行くときに別れたのだ。こちらの世界と。手を尽くしてもろくに成果の出やしない、蓮子の居場所では端からなかったこの世界から。

 石がもたらす映像は予想に反してと言うべきか否か、他の場所で視ても変わる事のないものだった。メリーの言う通り目立つ地脈もそうでないのも、この石で視る限りは全て同じものを視る。
 サンプルはそれなりに採ったのだが、しかし、結局どう動いても変わらないのには困った。毎回同じ光景だといかな超常でも飽きる。
 ずいぶん、贅沢なことを言うようになったものだ。昔の蓮子は、この一つの映像を見るだけでも駆けずり回っていた。自嘲するも、なんともはや。もう蓮子はあの視界を暗記してしまっている。だというのに詳細の分かるほど情報が細かくないのには困ったものだ。
 一応印に付けられた脈を用いて活動を繰り返すことは可能だが……暇を潰すような動きに見切りをつけ地図を開く。そして、一つだけ、形の違う印に目を向けた。
 情報の記された紙に詳細な説明は載っていない。だが、探して貰ったのは脈と物質。脈を回ったのなら、この一つ形の異なる印こそ物質の在処だと推測できる。
 推測できる、自明の理ではある、のだが。

「ここって、京都の中だよね」

 印を辿ればそこにいく。
 京の都。古を模し、しかし全てにおいて人工的であるこの都市に手がかりの印は付けられている。
 蓮子は目を疑う。というより、京近郊を巡っている間視界の端に映り続けるそれを敢えて無視していた。メリーもこの位置には不思議な眼差しを向けていた。
 伊弉諾物質は、土地として場所と繋がっている脈とは違う。脈は街中にも、街中にこそある場合もあるが、元来物質は人工の中に在ることは出来ない。余程の人工的物体でもない限り、開拓された際に失われるからだ。建材に紛れている可能性を否定はできないが……それで見付かるならきっと既にメリーの眼は捉えているだろう。
 伊弉諾物質はその希少性もまた価値の一つである。建材の可能性は限りなく低い。だから、逡巡。まず思う事は、これは違うということ。何かの手違いで片づける、ほんの些細なこと。あのナズーリンが、たまたま調査を失敗した、痕跡にすぎないと。
 だが、それも言えなくなってきた。ナズーリンがそうも適当な情報を流すはずがない。彼女は借りを返すためにこれを渡した。それは、むしろ妖怪であればこそ大切にされる。裏切りは、どこまでも堕ちていくから。
 だから物質は京の中に在ると考えるのが自然だろう。それも何者かの手によって、何処か別の場所から移されて。
 蓮子は、その誰かやその場所に近付く事を、半本能的に危険と思っている。

「行かないの?」

 蓮子の顔色は、傍から見ても悪い物だったのだろう。首を傾げながらメリーが問う。

「いや、行く……」

 咄嗟に、反射的に蓮子は答えていた。
 だがそこに概算はない。考慮の体を成さないそれは判断と言えるのだろうか。蓮子は撤退の言を意識的に吐かないが、さりとて猪突が許容され得るわけではない。

 蓮子を唸らせ、いいや、危険ではないか? と二の足を踏ませている理由。二人が活動を再開して、京へ越してナズーリンの襲撃を終えて雑多な日々を過ごして、それでも姿を見せないあの集団。
 あれから数週も経つのに何を脅かされることもなく暮らしている現実。それはいっそ、不穏ですらあった。勿論迫られたとしても常に逃げる道は確保してある。だが、泳がされているのか、見えない所から、何が出来、何処までを出来るか見られているのか。
 元に戻っただけなのだろうか。つい最近まで、蓮子はその存在も定かではなかった。活動自体は数年以上前の方が派手であったにも関わらず、実際に居場所を暴き出されたのはつい先日になるまで皆無であった。彼らの捜査能力は、そんな常軌を逸したものではなかったのだ。
 ならばあれはなんだったのか。東京を離れるまでの猛追。二人に狙いを注いだのか、それとも彼らそのものが能力を上げたのか。少なくとも京都に来てからは、蓮子はそう言った人間を見ていない。
 力を注げば補足など容易いとでもいうのか。その底が見えない。煙に巻いて逃げおおせるイメージが沸き切れない。それが恐ろしい。

「不安なんだ」

 メリーは横から蓮子を覗き込んで言う。その胸中はメリーに汲み取られている。
 いっそ益体のない脈巡りを続行してしまおうか。さとりから手に入れた石はあってもその次のネタは持っていない。それが手に入るまで活動を途切れさせないという意味で、無益ともいえる活動には価値がある。
 だが、行けばそこに次のネタはあるだろう。そう気付いてしまうとどうしようもない。蓮子には無視が出来ない。微妙で複雑な蓮子の心情は、不確定時の怠惰なふるまいまでは黙認できても、確定時のそれまでは許容できない。
 それに行かなければ、情報の真偽すらも把握できないのだ。
 メリーの指摘を否定するか肯定するか、結局蓮子は肯定しなかった。沈黙をもって返し、肩と背中で付いて来いと促し、蓮子は足早に歩きだした。

「素直じゃないんだから」

 メリーは笑って付いてくる。
 京の街は、格子状である。もとあった市街を壊し、無理矢理に建設されたこの都市はその辺縁地と隔てるようにずれるようにしてある。
 塀や門はない。東京のように堅固なビル群が廓を形作ることもない。だが霊的な京の都はズレや違和をもってその辺々と旧市街を分けていた。
 それは蓮子のような一般人にこそよくわかる。利便性やら何やら、染み出るように郊外部にある店や建物と、京の本市街との間には、シュルレアリズムかだまし絵と見紛うような違いがある。目印は何処にもあるようには見えないのに、いきなり強烈な強引さで整然が飛び込んでくる。
 飛び込まされると言う方が正しいかもしれない。道路も建物も、明確な境界をもって並びを揃える。方位に沿い正確に直角に研ぎ込んだ幾何学模様。あまりに整理の行き届いた街路は目的地への経路をこれでもかと蓮子に教える。まっすぐ行って、右に曲がるだけ。徒歩であろうと数時間もかかりはしない。市街をまたぐレイラインを途中に無視し、一層人通りの増える中心部へ突入する。
 限界は、まだ来ていない。鞄の中、札の存在を意識する。一枚目の妖力爆弾は回数制限がない。防犯用具の意味もあるから、そうそう耐久性にも不安はない。だが、相手の姿が見えないのは何より怖い。蓮子は、いっそ挑発的行為をすら心に抱きながら京の内部へ突貫している。
 それはあまりに倒錯していないか。

「来ない……」

 心の疑念、蓮子のつぶやきは傍らのメリーにだけ届く。
 二人はもはや、街中に白昼堂々と並び歩いている。決して隠れるようではない。あんなにも潜んで動いてきた。追われもした。今二人は見えている筈なのに、彼らは手を出そうともしない。
 いよいよ、蓮子の心中は穏やかでない。何故来ないのか。もう理由が無いから? 蓮子達の活動を阻害する理由が。所詮小素人のごっこ遊びに過ぎないと言うのか。
 それとも割に合わないと判断したか。この二人組には危険が多い。これ以上の刺激を与える事はいたずらな消耗戦を招くと、そう判断して。
 どちらも、これと断定するにはあまりに根拠が脆すぎた。思う間にも歩みは進む。相方が蓮子に到着を知らせる。
 いつの間にか、通り過ぎていた。地図の、印の場所。周りを見回しても別の市販の地図を見ても。ここに間違いはない。蓮子は目の前の建造物を見上げる。門と、京的な外装を施された三階建ての和風建築物。その表札、政府保有。ただそれだけの、目立たない一棟の建物。

「メリー」

 促し、内部に眼を向けさせる。

「うん、ん……あると言えば、ある。無いって言われても、一回視たからやっぱある。うん、ここだね、間違いないよ」

 ついに、辿り着いてしまった。印は正しく二人はその真隣にまで来た。
 その場所には伊弉諾物質が確かに保管されている。保有者も想定と異なる所はない。秘封倶楽部、既に資料にすら収められている活動家が、目の前の場所を探り当てた。それだけで十分。それこそは対処されるべき危難、である筈なのに、その門中から警邏すら出て来る気配は無い。
 まさか。蓮子たちは本当に相手にされていないのではないか。秘封倶楽部がいくら気勢を上げたところで国家組織にとっては塵芥に等しい。それを無言のままに示されているのではないか。
 来るなら来いと、声を張り上げそうになってそれを抑えた。ひとり相撲だ。自らの妄想に気を捕らわれている。それは、するべきではない。
 蓮子は目を閉じ、息を大きく吐いて門を睨み見た。傍らのメリーは心配そうな視線を蓮子に送る。早く帰ろうとメリーが促した。確かに長居をする場所でもない。
 上等ではないか。二人は場所を知ったのだ。なおも沈黙を続けるのなら、先手を取るのは蓮子達だ。

「えっ喧嘩売るの。蓮子にしては随分攻めるけど、大丈夫?」

 仮の家、帰りすぐさま思いを打ち明けると、本当に意外であると言うようにメリーは驚いて見せた。

「蓮子って本当に危険な所だとさ、尻込みするじゃない」

 だから今回も近くへ行くだけ行って、それで活動は終了するのだと思っていた。そう彼女は言った。
 それはいともすんなり蓮子の心に刺さる。確かに蓮子は強硬派よりも慎重派で、よほど理由のある時以外は尻尾を巻くことも多い。その気があると蓮子自身も気付いているから、ぐ、と怯みかけた言葉を飲み込み、そんな事はないと言う。

「へえ」

 本当かどうか疑わしい。彼女の瞳は雄弁にその意を伝える。
 本当は試されているんじゃないか。とさえ思う。蓮子の怯懦を誹り、それを直面させるために。本当は四も五もなくただ行くと、そう言えばいいのだと、メリーの本心はそこにあるんじゃないか。
 思い至り、すぐに違う、あるわけがない事を思い直す。封印は完全だ。メリーは目の前で蓮子がどうなろうと何をすることもできない。しないし、しようとも思わない。ただ受け入れる。受け入れるしかできないのが、このメリーだから。
 だから試されてると言うのならば、そこなのだ。
 蓮子は、往く。往けるところまで往こうと決めている。メリー、悲しんでくれるか。この宇佐見蓮子が滅んでも、無様な死に様を見せても。
 忘れてしまうだろうか。釣り合う事も、価値を見出すこともなく、ただ取るに足らない愚物であったと。


――


 ――次の日、蓮子はメリーに告げ一人で外に出た。
 行く先は、事前に伝えられた、京の郊外。鼠に渡された隠れ場所。人目を避けた、廃屋の一つ。鼠は蓮子の動きを見続けている。監視の目は蓮子が一人で動いた事をすぐに伝える。
 外観は集合住宅と似ている。高さはそれほどではないが部屋と扉の並びは均一だ。月日に晒され朽ちかけた外階段を登り、その中で比較的損壊の少ない扉に手を掛ける。ぎいと軋み音を立てて開く中、ナズーリンは既にそこに立っていた。

「来たか」

 薄埃の積もった室内、ナズーリンはそのままの姿で居る。灯りは無く、薄暗い。窓から差し込む光にちりが見える。待っていたナズーリンに間髪入れず、蓮子が切り出す。

「この、紙。敢えて後回しにした、この場所だけど」

 紙片の中心、最後の一つ。ナズーリンはさも当然のように問いを受ける。

「ああ。そうだね、反応は人界の中にある。一つ、ぽつねんと。異色と言えば、異色だ」

 その声は淀みない。おそらくこう問われる事も想定していたのだろう。
 あの印は、あまりに特異だ。ナズーリンはあの場所が何を意味するか分かって、蓮子がその扱いに困る事も分かって、この紙片を渡したのだ。

「あの建物は政府所有。官ぐるみで動いているし彼らはそれを保管している。それは確かに難儀そうだね。だが不思議な事はないさ。騒いだんだろう? 紙面を賑わせたそうじゃないか。調べさせてもらったよ。あれは発見当時、確かに知れ渡っている。人口に膾炙しかけて、しかしそこで止まった。君は気付いたか? いつの間にか火の消えるように無くなった。君のような輩が大挙して押し寄せようとしていたにもかかわらず、だ。君も薄く感付きはしたんじゃないか? タイミングとしてはここだ。ここで手が入った、のだろう。その後手の内に入れている事をみるに、妥当なのだろうね」

 何らかの操作は既に入っていた。
 蓮子が最初に情報を入手したとき、彼女がサナトリウムに入って、能力は、その萌芽を見せ始めていたとき。既にあちらは動き始めていた。手を出した、その組織を探った所で詮無い事だ。敵が誰かなどと分かっている。いや、敵と言うのならば、蓮子達こそが彼らの敵なのだ。
 だが、彼らが何をしているか。何の意図をもって存在しているのか。それらを知る術が、その本義が知りたかった。ために、ナズーリンの力を求めている。彼女なら、その内情すら難を感じることなく露わに出来るだろうから。

「勿論、嫌だ」

 だがナズーリンは切って捨てる。

「私に理由がない。言ったはずだぞ、借りは返したと。もう私が君のために動いてやる義理はない」

 この語調。ナズーリンは、決して動かない。何を頼んだとしても、言葉通り彼女と蓮子の間に連関が無い。
 ただ、そこは蓮子も予想していた。あくまでナズーリンとの関係はここで最初に戻る。手が無いのは蓮子がその対価を盤上に乗せることが出来なければ、の話だ。
 今日は腰鞄にいつもと違うもう一つ、大き目の革袋を忍ばせてある。もはやこの世では見る事も手に入れる事すらも難しくなった革の袋。その重さを感じる袋の口を開けてナズーリンに見せる。

「ほう……」

 そこには薄明かりの中にきらめく金属的光沢。鈍く黄味がかったそれが強気な視線と共にナズーリンに示された。
 得心が行ったという風にナズーリンが見る。何故隠れ潜んでいる二人が今日まで生き延びられたのか。衣食住の調達手段に乏しい二人が今まで生活してこれた理由。その答えがそこにある。二人の持つ軍資金、人間社会の外郭に身を潜める者の命綱。

「これが、対価だと?」

 無言で差し出し続ける。言葉尻でやり込められそうで蓮子から言葉を発する事はない。
 札と一緒に渡された幾つかの鉱物。餞別だと渡された。建前上はメリーの保護だが、実際は情けをかけられたのだろう。全く情けない話だが、存在を一度抹消した蓮子達が再び人の世に潜むためには、この手の協力は不可欠であった。
 ナズーリンは舐める様にその袋の中身と、そして手に持つ蓮子とを見る。どうだ。蓮子は持てる価値を提示した。どうだ。これで通らなければもう出す物はない。祈るような蓮子を前にナズーリンは暫し思案し、

「受け取れないな」

 最終的に、そう言った。
 蓮子は耳を疑った。疑い、そして、その判断を受け入れるしかない事を悟った。否も応もなく。

「魅力的だと言えない事もないが、奢侈品の域を出ないしな。それで使われるには、安い」

 残念だったね。言うように語調が響き次を促してくる。次の対価はどれだ? 次は無い。それを理解して、なお次を求めるように言ってくる。
 己の不甲斐なさ、往く道の無さに拳が握られる。これ以上蓮子に持ち合わせている価値はない。指が手の腹を撫ぜ、ぎりと掠れた音が聞こえ、そして道の打開を心に求め、蓮子の右手は動きだす。力を求めて。そのわずかな初動を鼠妖の瞳が鋭く見咎める。

「その手を下げるんだ、宇佐見蓮子。駆け引きをしたがる奴は三流、わきまえると良い」

 そうだ、蓮子はその手の札を、切ろうとしている。切り札。分の悪い賭け。そしてきっと、もう通じない。先の対峙で蓮子の底は見切られた。それでも手は、下がらない。蓮子の瞳が、苦り潰した様に歪む。

「私は、情報が欲しい……」

 退けない。目の前の鼠妖は捜索に長じている。そして、交渉の相手になる者は、驚くほどに少ない。
 幾ら蓮子の手に超常の力が握られているからと言って、それで押し通せるほど甘くはない。それを感じればこそ蓮子は手管や詳細を欲している。力になると信じている。
 だが京に来てからそれなりに経つ。ナズーリンとしてそろそろ見切りも付いた頃だ。この機会を逃せば次また会えるとは限らない。
 だから、力をかざそうとしている。その本質的な、行為としての嫌味が、蓮子の感情から表情へと波及する。

「鏡を持ってたら、……いや、言うまい。随分、無謀な事を言うじゃないか。あまりに積極的。自分の身体を賭け台に乗せてまで、尚も欲しがるほどの事か」

 蓮子は応えない。沈黙こそが答えだ。

「生き急ぎ過ぎだ」

 切って捨てる言葉。蓮子がくぐもった声を出す。打開の案は、浮かばない。
 それでもなお姿勢を止めない蓮子に対し、ふうとため息をつき、ナズーリンが首を振った。

「……仕方ない奴だ、特別に教えてやる。うちの鼠達は他に君らを見張る奴は居なかったと報告してきたよ。欲しいも何も、教えてやれる情報はこのくらいしかない。大方、見切られたんだろうさ。そんな大層な事が出来る二人組じゃないってね」

 本当に面倒な奴だとナズーリンの瞳が言っている。蓮子の頬が引き攣る。引き攣り笑いを形作る。
 何かを根本から否定された気がして、蓮子は目眩を覚える。秘封倶楽部が取るに値しない。それを目の前に突き付けられた気がして。いいや違う、蓮子達は着実に近付いている。追いかける伊弉諾物質の本質に、一歩一歩確実に手を伸ばしている筈なのだ。それは確かで、それを邪魔されなくなった事は、むしろ感謝すべきなのだ。
 だが、あちらの脅威足り得なかった。あちらに届かなかった。ならばあちらの想定していた事とは何であったのか。その手がかりもない事が、蓮子の心を遥か奈落へと沈ませる。

「落ち込むなよ……」

 ふと、ナズーリンの耳が動いた。ナズーリンの気が逸れる。次いで、かん、かんと金属を叩く、いや、踏む音。
 音の出所は部屋の外。ナズーリンが扉越しに訝しげな視線を向ける。この建物に近付く人間はいない。人の居住地と離れているし、居ないからこそナズーリンはここを選んだ。そして近くに待機していた鼠を見る。鼠は、警戒を教えない。
 足音が、隠す気のない無造作な足音はそのまま、扉の前まで立って止まった。二人の視線が注がれる。それに呼応するようにノブが回った。開けるための、力。扉の前の存在は確かにこの部屋に目的を絞って行動している。何故。ドアには鍵。開く事はない。
 開かない事に蓮子は安心感の様なものを覚えた。その気配は何の障害を得ることなく、ねじ切る様にドアを破壊して入ってくるのではないか。そんな風に感じられた。それが杞憂であったことへの、安堵。
 だが、ねじ切らないだけだ。侵入の意思は現実的な手段に置き換わったに過ぎない。すぐにドアが乱雑に叩かれた。嫌な大きさの音が部屋中に響き渡る。この力は交渉ではなく敵意にこそ近いもの。乱雑な暴力を、壁越しにこちらへ向けている。
 ナズーリンが距離を取りロッドを取り出そうとしたその時、ドアが蹴り開かれた。轟音。怯むその一瞬に銃口が捻じ込まれる。意識の隙間、機先を制して。ドアから伸びる銃身に身動ぎを封じられる。遅れて、その主が部屋へと侵入した。

「どーも、……警察です」

 ねとりとした声。警察と呼ぶには、あまりに、市民と離れた凶相。その心はこの場に居る者を誅する事にこそ向けられている。それは、表情に、その顔つきに、色濃く反映されていた。
 凶器を逸らさず睥睨。蓮子を視認、確認した後ナズーリンへその視線を向ける。室内で隠さない、耳と尾。

「普通に居やがる。やっぱ効かねぇのか」

 短く、至極面倒そうに吐き捨てた。
 腰に提げられたホルダー。潜む事よりも即応性に重きを置いた器具に、蓮子の瞳は逸らされる。あれは、市街に潜むためではない。使われるための、この場で使う事を予定されていた、器具だ。使われるべき相手は二名しか居ない。その先が自らに向く事に、生殺与奪を奪われることに、蓮子は生理的嫌悪を催す。
 おそろしい。怖ろしいと思う自分もまたおそろしい。もしかすればこのまま、指の一本も満足な動きが出来ないで。それがやぶれかぶれ、突き付けられた末のパニックでしかなかったとしても、自らを破壊することに成す術もない自分を嫌い、心の中に竦みかけた腰を叱りつけ、蓮子は一歩前に踏み出した。相手の目が刺さる。

「下手な事をしてみろ。てめぇら一匹残らず殺すぜ」

 その声は、蓮子が抗う所を越えていた。気圧された蓮子の身体が止まる。上半身、札を取る動き。きっと腕も、肩も、猶予として許される事はない。
 誰何の声が油断ならないナズーリンから発せられる。

「俺ぁ……雇われだよ」

 出した言葉はそれだけだった。それ以上の対話を拒むように、口はつぐまれる。
 交流の意思は無い。当然だ。優位を使えるだけ使うように、ナズーリンを観察する。その立ち居振る舞い、声音、身体的特徴。そこに在るものが何であるか、数少ない情報を、隠れ潜む優位を、記憶と記録に妖は暴かれようとしている。
 悠長さが、不気味だ。害虫を駆除するならすれば良い。それをせず生かしておくのは布石だ。そして布石を張る人間は、往々にしてより大きい結果を求める。
 視線はナズーリンを離れ、蓮子を確認し観察する。体格も、表情も、トレード・マークと化してしまったその帽子も、余す事なく認識される。

「宇佐見、蓮子。本当に何処に行っても居るな」

 その言葉、蓮子とて同じ気持ちだ。言う人間は蓮子にとっても邪魔でしかないし、その布石は蓮子にとって無関係でもない。
 だが、今この瞬間は。今日の対象は蓮子じゃない。その凶意は蓮子には向けられない。
 その瞳が対象に向けて色を変えていく。銃身の先、一直線上にナズーリンの小さな身体。それは悪意、敵意、害意、そう総称されるもの。ここで何の理由もなく、事のついでにナズーリンへ向けられようとしている。
 自らの得物に対する絶対的な信頼。取り敢えずの手間で片を付けられる事への鈍い喜びが、人間の身と指先を覆う。
 蓮子は目を逸らしそうになった。もう、駄目だ。どうしようもないと思った。

「……おっと、そこまでだ」

 引き鉄、指、撃鉄が弾かれようとするその瞬間、ナズーリンの制止が入る。蓮子の視線が留められる。彼は構わず撃とうとした。しかし、場を包みかけている音に気付き、半歩引いた。
 ざらざらと、乾いたような掠れたような音が、壁から、天井から、三次元的にこの場を包む。小さな影が視界を縫う。ナズーリンは不敵に笑った。銃口をその身に定められ、未だ避け得ないにもかかわらず。しかし不敵に。

「その手の物を捨てろ、人間。甘く見たな、人間一人風情が私と私達に敵うと思うなよ」

 傍で見ている蓮子にも伝わってくる。その音の正体は、鼠は、床下にも壁も物陰からもいとも容易く室内へ染み込んでくる。すぐに床板は薄黒く染まった。蓮子の足元も、相手の足元も、既に流動する鼠の群れに埋め尽くされている。その群は指示が下れば秒とかからず空間の対象を包み込み、排撃する事ができる。
 排撃で済むのか。まさしく攻撃の意思を見せる動物に覆い尽くされるのだ。その身、到底無事であるとは思えない。

「は、どうかな。このポンコツども、お前が居なけりゃ消えちまうんじゃないか?」
「試してみるか……?」

 じりとざわめく攻防の末、相手が銃の先を逸らさず、そのまま二歩、三歩後退。振り返り、含み笑いを残し部屋の外へ消えて行った。
 遠ざかる足音、ナズーリンが鼠に追撃を命ずる。足音が徐々に聞こえなくなる。声もまた聞こえない。ナズーリンが駆け出し蓮子も追従する。
 人の姿は、無い。外には、指令の影響だろう道へ無造作に姿を表した鼠たちが、点々と散らばっている。あてどもなく、さまようでもなく。呆然と立ち尽くすように。
 逃げられた。その事実に、ナズーリンが唸りを上げる。

「あれは、銃だ。成形された小型の質量物を高速で撃ち出す携行兵器。人間には勿論脅威だろうが、私達にはまだ心許ない。筈だ。本来なら。あれは別の目的がある」

 歯噛みをするように、標的の消えた、整理の浅い入り組んだ路地を見渡す。

「退魔師としては二流三流。しかし器具は、一流に相違ない。あれは、喰らえば不味い。……くそっ、何なんだ本当。あんなのが居るなんて聞いてない。聞いてないぞ。鼠どももあいつの姿を見ていない。見えてないんだ。認識させないなんて、こんな失伝したような技術、今更有りか。こちらで無くなったから我々は郷に……」

 ふいに、言葉が途切れ、蓮子はナズーリンを見る。顎に手を当て、定まらぬ視線を目の前の地面に投げかけている。そして、呟くように小さく言葉を繋いだ。

「……だから、あの街路は模倣されているのか? 旧い遺物を取り戻すために?」

 蓮子に聞かせる意図はあっただろうか。独り言のように蓮子は聞こえた。ただ、蓮子は聞いた。そして蓮子にも、そのように思えた。
 だってこの科学世紀にあって、京に厳かに結界のある事は、至極当然のように蓮子は受け止めていたのだから。蓮子は東京の人間で、自分の産まれる以前に行われた街路整理など知る由もない。それは文化維持の残滓であったり観光産業のけなげな努力であるのかもしれない。ただ、蓮子がそう思っているということは、この社会そのものがそうだという事になる。この世界で育った蓮子が常識に思うほど、京は意図的なのだ。
 あの人間が去って行ったであろう方角を睨み、ナズーリンは蓮子へ向き直る。

「あれが君を追っているという、この国の役人どもか」

 眼光鋭くナズーリンは問う。

「何をしでかした」
「何を、だろう?」
「とぼけるなよ、あの様相は小娘に送るものを越えている。相応のものがあるだろう。……まさか、君そのナリながら大概あくどい人間か。盗み、いや、もしかして何人、何十人も……社会的重罪人?」
「まさか、違うよ。いや、でも、重罪人ではあるのかもしれない。少なくともあっちは、そう見ている。なっちゃんが知ってるか分からないけど、行き過ぎたオカルティストには罰があるの。誰が引っ掛かるんだろうって、オカルトじみた行為そのものに、ピンポイントで、法がある」
「知っている。調べた時に何度も目にした。だが何故それが罪になるんだ。肝試しをしたがる子供くらいこっちにだって居るだろう。他の物好きどもと君で何が違う」

 何が違うと言われれば、それは力だろう。蓮子の向かう力、メリーの直接的な力。だが、それ以上に、問題とされるのは二人のその在り方であるのかもしれない。
 二人はこの国を外れあちら側へ寄り続けている。こちらに居る事そのものがイレギュラーとして在る。そして人界の罪を定めるのは人である。人の罪とは、人の道に背く事に他ならない。

「おかしいよね、でもあるの」

 蓮子は自分たちを棚に上げる。

「大体は行き過ぎ防止だってことで結論付けてるんだけど、でもきっと、それは向こう側。あっちを想定して書かれた。きっとそのつもりで私達を見てる。……ううん、違う。多分知ってるんだ。妖怪のこと、幻想郷のこと」

 知った上で、知っているからこそ、なおその蓋を閉じようとしている。

「きっと彼らは、私達の様な人種が危難を運んでくるのを恐れている」

 そしてきっと、藪から蛇が出て来ることも。ナズーリンの様な、その気になれば市井に紛れ込むことが出来るような者をこそ、彼らは本当は怖れている。
 既に居る。呼び寄せてしまった。彼らは蓮子を恨むだろうか。国の危機と、そう判断するだろうか。
 何も返せないし負えない。無責任に振る舞う事しか蓮子には出来ない。

「えっまた来たの」

 帰宅後、事の顛末を掻い摘んで話すと、メリーは本当に驚いたようにそう言った。

「そうだよメリーが居ない時だけ狙って」
「私、来た事あるよ」
「へっ」
「いつだか、蓮子が出かけてる時に家に来て、出たら丁寧な対応で」
「それ、いつ」
「そんな最近じゃないよ。一か月弱? 内緒にしといてねって言われたから言わなかったけど」

 唖然として、口を開けたまま固まる蓮子に苦笑で返す。言葉にならない言葉を発しようとする蓮子を見、メリーは首を傾げる。

「んー? あまり変なことしなければ黙認する的な。一応了解しといたけどね。どうせ蓮子でしょ。蓮子蓮子」

 あけらかんと笑う彼女の言葉に悲壮は見られない。
 どうであろうと構わないのだ。その意思がどうであろうと、その結果がどうであろうと。その意思決定を、蓮子に、委ねている。意識してか無意識か、ただ蓮子による比重は大きい。
 それを問いただせば、違うというだろうか。違うと言えば、彼女の意識もまたそちらに傾くのだろうか。

「ちょ、なに?」

 頬をつねる。嫌そうに逃げるが追うと素直になる。なすがままにされる頬を、二三回つねる。

「なによ」
「いや、危機感足りてないなって」

 ナズーリンはすぐに何処かへと消えた。蓮子は実際に襲われる一歩手前まで行った。焦点を合わせず揺らぎ続ける心。おそらく彼女に生物としての芯は無い。危難を覚えず、ただメリーを謳歌している。
 それは一つの安寧、一つの理想。ナズーリンの言葉に違いはない。彼女は、半ば、半ばだと信じているが、狂っているのだ。蓮子はそれを理解している。その上で傍に居る。
 つねる指に触れた感覚は人のものだった。ナズーリンの言ったようにこれがいつか人を食うのだろうか。蓮子を、宇佐見蓮子を、その手で、その口で。
 頬を伸ばしながら彼女は笑む。朗らかに、全ての苦難を取り去ったように。

「足りてないって、どうにかなるわよ。そうそう大丈夫。蓮子なら出来るって信じてるから」


――


 襲撃からまた日は飛んで。蓮子とメリーの居住地はいまだ平和を保っている。
 ただ、厚手のカーテンは新しく購入した。住居が割れているまではまだしも、行動を把握されていたのだ。少しは目を付けられることを覚悟していた蓮子も、流石に四六時中張り込まれていい気はしない。
 活動は暫く自粛する。些か挑発しすぎたきらいは反省している。至って大人しく、この日々を過ごす。
 ……当然、ただのフリだ。あくまでこれはそう見せるため、蓮子がその程度、切っ先を向けられ脅しをかけられる程度で終わる筈がない。あくまで侮らせるため、見せ付けるため。機が来れば、そう遠くない機が来れば、蓮子は一転して向きを変える。
 何が自分を駆り立てるのか。何もかもを燃料にして走り続ける。蓮子は心の中に暗いともしびがある事を自覚する。それは力強く、しかし小さく、己の中に灯り続けている。
 それが動力、突き動かす力。その灯りを見、蓮子は得も知れない気持ちになる。きっと何処までも、行こうとするだろう。行き続けようとする。止まり、動けなくなるまで。その身体が破綻するまで。
 蓮子は自分がどこまで走りどこで破滅するのか、薄い膜の向こうで感じている。

「蓮子、買い物行くよ」

 玄関で呼ぶ声がする。鈍ったような声を返事の代わりに、蓮子は窓から目を離した。
 たまの買い出し、普通の街路。京の本市街ではない辺縁都市を掠めるように歩く。ここなら目の届かない事はないにせよまだ自粛中の言い訳は使えるはずだ。

「……ふ、ふっ」

 姿も見えず反応すらない相手を慮る不格好に思わず笑いが出る。隣を歩くメリーが蓮子の顔を覗き込み、楽しそうに微笑んだ。

「しばらくゆっくり出来るんでしょう?」
「あ、ああ、うん」
「折角だからのんびりしましょうよ。ここの所事件続きで疲れちゃったわ」

 隣を歩くメリーに目をやる。上機嫌だ、メリーは。メリーが機嫌を悪くしたところを見た事はあるだろうか。確かに蓮子も気を付けている。自分でわざわざ不快にする気はない。だがそれ以上に、メリー自身強くぶつかる程の感情を蓮子に主張しない。
 強さが無ければ衝突しない。蓮子が気を付けるよりむしろ、メリーが衝突の種を回避しているのではないか。蓮子が自分以外の理由でメリーへ不快を感じたことが、果たして、あったか。
 二人歩く。蓮子は歩きづらさを覚えた記憶はない。

 整理の浅い地形と所有権に捻じれる街路は、外縁を通る限りは延々と続く。
 首都の辺縁は、厳密には首都でないにもかかわらず人通りが多い。と言っても廃墟街に比べればだが。昔の街並みであることもあり些かのノスタルジアを抱かせる点、マニアに似た人種が多いのも確かだ。
 通りの人の中、前を横切る影に目が留まる。蓮子と比べ割合小さな体躯、目の錯覚か桜色とも藤色とも見紛う髪質。それはむしろわざと蓮子の視界に入って来たようにも思う。一瞬見えて人の中へと潜って行った姿、後ろ足と背中だけの情報を追い視線を流す。その方向、歩く人の途切れ目、彼女はこちらを向いて立っている。そして含むように体を返し、街路の脇、小路に姿を隠す。蓮子はメリーに少し待つよう言って、その後を追った。彼女は、路地のすぐで立っている。

「奇遇ですね」

 少女、古明地さとりは丸い瞳を蓮子に向けそう言った。蓮子の心に去来した様々なものを全て無視して、彼女は通りを盗み見る。

「あの方が、話に出る相方さん」

 なるほど。彼女は言う。何がなるほどだというのか。その真意を蓮子には悟らせず、ただ一通り観察を終えた後、さとりは蓮子に向かい合う。

「東に居た筈じゃ……」
「こんにちは、宇佐見さん。ご無沙汰、というほどでもないですが、今日は少し別件で。いや、遠かったです。あ、別に尾けてきた訳ではないです本当ですよ? そうだ、宇佐見さんは知ってますか。あの鼠の寝床を」

 鼠。用事とはナズーリンに対するものだろうか。だが、言葉に困る。蓮子は確かに何度か彼女と会ってはいるが、その隠れ家を知っているわけではない。待ち合わせ場所も、果たして二度使われる事はないだろう。
 だから、どう返そうかと迷っている内に、蓮子の言葉を待たず、柔らかい制止。

「ふふ、分かりました。自分の足で探すことにしましょう」

 その逡巡も迷いも、全て読み取られてしまうのだろう。なるほど察しが良くて便利だ。
 去ろうとして、立ち止まる。

「しかし、宇佐見さんも中々どうして業の深い方。一つ、忠告をしておくなら、その心の色はある種の妖が最も好む色です。私も好き。それが何を意味するか、聡明な貴女なら分かるでしょう。ゆめ気を付けなさい。それでも己の心に喰われたなら……」

 メリーが、痺れを切らして歩いてくる。それを横目に微笑みを浮かべ、適当な挨拶を後に彼女は路地の奥へと姿を消した。
 その背中を見送りつつ、メリーが隣に来る。

「さっきの子は?」
「道聞かれてただけだよ」
「ふぅん……」

 じとりとした眼差し。

「この間のなっちゃんさんもそうだけど、蓮子って小さい女の子とよく居るよね。そっちの気でもあるの?」
「そ、そんなわけあるか」


――――



――――


 浅い眠りから、ナズーリンは目覚めた。もう暫く横になっていない。常に壁にもたれるかうずくまるか、即時反応できるよう努めている。周囲は気付かぬ間に夜の帳が下りようとしている。、光の少ない土地、夜空を見上げ、月明かり。その薄い明るさに何かが陰を作った気がして、ナズーリンは即座にその場を離れた。
 俊敏な動きだった。もう影も、形もその場には残さないで、ナズーリンは移動を開始している。本当に何か居たのか、確認はしない。出来ない。その暇が惜しい。その時間にも一歩でも長く距離を稼ぎたい。
 ナズーリンのこの行動は何であろうか。何を避けている。ナズーリンは逃げている。自らを狩るものから。ナズーリンは遠ざかろうとしている。剣呑なる悪意から。身を隠し、仮の拠点すらも放棄して居場所を点々としている。
 あれからずっとナズーリンは何者かの襲撃を受け続けている。鼠の目は敵の姿を捉えない。何故か、捉えられない。
 ついに、京の辺の辺まで追いやられた。身体が、重い。休息が足りない。馴染んだ身体が恨めしい。今夜も、来る。来るのではないか。確証などない。どこにもない。来ない。来るはずも。だが来れば。来れば、逃れられない。
 伝令の網もナズーリンへの問題で寸断されてしまっている。徐々に、孤立が深まっていく。いや、それで済むか。ナズーリンはもはや自らの外を見る術を持たない。この状況は既に……。

「狩られて、たまるか」

 口をついて出た言葉は思いのほか大きく夜闇に響く。それが敵を呼び寄せやしないかと、無意識にナズーリンは体を小さくする。嘘だ、そんなのは杞憂だ、そうして、怯えてる自分こそが何よりも許せないのだ。奮励すべし。弱気では、乗り越えられるものも乗り越えられない……!
 そう思うナズーリンの死角から銃声が鳴り響いた。ナズーリンの大きな耳は、高速で過ぎ行く何かを知覚する。見えない弾は、きっと彼女の小さな体を掠めて行った。引き攣りそうな声を抑え、泣きそうになるのを堪えながら、彼女は走った。

「お困りのようですね」

 廃墟の陰から声。身を震わせ距離を取ろうとするナズーリンに、声はなおも語りかける。

「こちらですよ、ほら、こちらこちら、こちらにどうぞ」

 害意の無い声音に、幾分か冷静さを取り戻し、よくよく聞くと、その声、聞き覚えがある。

「はい、そうですね。今思った事で正解です。どうも、ナズーリン、いえなっちゃんさん。古明地さとりです」

 思いもかけない驚愕を、その眼は視ているだろうに、構いもせずに指を差す。何を言う事もなく、上へ向けてくいくいと指を動かしている。把握もしがたいまま、ただ早くしろと急かす指の動きにナズーリンは身を翻し、廃墟の壁の上に乗った。
 すぐに、人影が一つ、ナズーリンの後を追って来た。その軌跡は正確そのもの。何ら惑う事無くつい先程までナズーリンが立っていた場所へと居る。夜目を凝らし、ナズーリンはその姿を見た。手に持っているのは先日見た銃の類型。だが、身に纏っている物の質が、大きく異なる。
 多分に外の世界的な全身服。一目で分かる。あれは単なる暗視や防護のための服ではない。もっと根底、妖を意識したもの。人間はその装備で建物の陰に居たさとりを明確に補足する。姿形が追っていた者と違い一瞬の困惑。だが、すぐに、その少女の姿を妖と判断し銃を向けた。
 臆しもせず、古明地さとりはくすくすと笑う。

「はい、その行いは正しいです。その活動に身を置くものとしては当然の反応。しかしこわい、こわいですね。貴方は今何の躊躇いもなく銃を向けた。害意の象徴、そして何の躊躇いもなくこのいたいけな少女を害そうとしている。私を妖だと断じはしても、そこに人間らしい心は欠片もない。良心は痛まないのでしょうか……おや、揺れ動きましたね。そうです、良心は大切ですよ。良心を失えば人の心は保てませんから。まあ、尤も」

 長話に気を取られた人間の背後へナズーリンは飛び降り、振り向きざま渾身の力を込めて相手の脇腹へとロッドを打ち付ける。その力、たとえ防護の上からでも人間としての行動を不能ならしめるに十分。相手の気が付くまでもなく確かな手応えを感じ、人間は、鈍い声を発し崩れるように倒れた。

「私達人じゃないんで関係ないんですけど。あ、意識はある。結構丈夫。でも変な事しないで下さいね。例えば、そう、辛うじて動く左手を使って腰元の機械から何らかの信号を送ろうと試みるとか」

 聞いたナズーリンが慌てて左腕を取り押さえる。

「今は動けなくても痺れが収まったら残った右腕でその子を叩き落とそうだとか」

 慌てて右腕も取りうつ伏せに抑える。

「はい、ええと、応援? 応援が居るのですか。それはちょっと困り……ああ、私の力に気付きましたね。そうです私はさとり妖怪、人の心を読みます。だから貴方は隠し事なんてできない。思う所全て暴いてあげましょう。……でも、すると貴方は考える。ならば関係ない事を考えていればいいではないかと。現に今は全然別の事を心に浮かべている。良い心がけです。さとり妖怪といえば、それ。予習でもしましたか、昔話でも? でも、皆やるんですよね、それ。確かに効果はあるんですけど、もう慣れたというか。そもそもさっき視えてしまったので意味はないんですね。ええ、五人。そう、五人この周囲に散っています。お見通しなんですね。……あ、違うみたい。四人、四人ですか。それでも多いですね。ふふ、若い。今の当てずっぽうだったんですけど、ついつい言葉につられてしまう。四の数を浮かべる。ふふ、ふふ」

 暗闇に浮かぶ喜色。歓喜の声音が辺りを包み込む。

「ふふ、こわい? ふふ、怯えていますね? もう自信がなくなった。何を暴かれるか分からないと、不安になって仕方がない。もう問答も付き合わない、どうにか逃げ出す事だけを考えている。ああ、今、なっちゃんさん今暴れますよ、抑えてくださ……あら、止めてしまった。どうして止めるんです? もっと足掻いても良いのに。そんな子犬みたいにしてないで、別の何かを思い浮かべたり、身体を動かしてその上の軽い子をどうにかしてみたり。実際軽いでしょうその子。少しは抵抗してくれないと楽しくない……あ、酷いですよなっちゃんさんそんなに引いて」
「……趣味が、悪い」
「良いんですよさとり妖怪なんて、そんなでなんぼ。いや違う、違いますね。本当は私に対して送るその感情の根本、読まれて困るいやしい心根を嘲笑う事こそが私達の本義」

 そして再びナズーリンの下、大人しくなった人間に瞳を向ける。

「ほら、この方、既に仕事の事なんてどうでもよくなっている。今は、自分の、保身。そう、ほら、今一番知られたくないもの。外観が見えました。私が何を知ろうとしているのか分かる。次は、道を。いいえ、違います。そんなでたらめなものじゃなくて、番地を、近所の眺めを。そう、ほら、あなたの、あなた自身の最も大切な……。さあ、インタビューの続きですよ。ん? ふふ、そうです、そのとおり。妖怪は怖いんです。覚えて帰って下さいね」


――


 逃げて、逃げて、街は遠く、木々が身体を覆い隠す中、ナズーリンは息も絶え絶え背後の幹に寄りかかった。聞くだけ聞いて、一目散に逃走した。視えてしまえばこうも早い。もうナズーリンの居場所は失われた。人間の網にかかる事は二度とない。
 全て、協力者のお陰だ。古明地さとり。彼女が居なければナズーリンの身体はどうなってもおかしくなかった。運良く会わなければ。

「なんで……」

 荒い息で思いを訪ねる。何故、あんな所に居たのか。

「貴女がそれを言うんですか」

 対するさとりは冷ややかな声でそう答えた。その袖の中から一匹鼠を引っ張り出す。

「あ」
「舐められたものですね、この程度で私を張ろうなどと。この子に聞けばもうなーにもかも分かりましたから、それでこっちに来て、来たらまあうろうろして、やっと見つけたらあれですよ」

 呆れたように表情を浮かべる。

「余程運が悪い、いえ、良かったんですか。感謝するべきですね、この私に」
「それで、何の用だ。文句の一つでも言いに来たのかい?」
「いえ、私もそろそろ戻っておきたくて。流石にきないですから。貴女なら結界周りの情報も掴んでいるのではないですか?」

 ナズーリンは、露骨に嫌そうな顔を作ってみせた。
 つまり、あの宇佐見蓮子同様、ナズーリンの情報を、何か便利なように使おうというのだ。一度や二度ならともかく、こうも立て続けに来られると何やら自分が随分と安くなった気になる。
 だが、結界の情報、聞きに来る相手として間違ってはいない。確かにナズーリンは掴んでいる。帰る予定はなくとも常に結界の周辺へ鼠を遣わせていた。それは南下して東京へ着いた後も、遠く京都へ来た後も、変わらず続けていた。尤も、殆ど役には立たなかったが。
 鼠を放ってほどなく結界は強度を増し、中の情報を遮断。京に移る頃にはもう郷は完全に閉ざされていた。報告の限りではおそらく抜け道の類も全て封じられ、硬さから見るに取り込む機能も停止している。
 取り込む機能。大結界の中核機能でさえも、沈黙する。そこに至るのに、ナズーリンが思っていたよりもずっと速かった。中での進みが早いのだ。決して見えはしなくとも、急激な変化に察しはつく。
 結界の在り方の変容は趨勢の決着、どちらかが結界を操作する権力を得るに至った事を意味する。混乱期は一つの峠を過ぎたのだ。この先に見えるのは、果たして統一たり得るか。

「ん?」

 ……ふと思う。あちらは、何故争っているのだ? 八雲紫は、それほどの中心存在だったか?
 違う。確かに彼女はひとかどの実力者ではあったが、絶対者ではない。居なくなっても騒ぎにはなろうが混乱までには至らない筈だ。
 だが、郷は、混迷を極めている。結界の異常がそれを雄弁に物語っている。あれは、郷の根幹をなしている。博麗の巫女とともに、遠く据え置かれている暗黙の尊厳なのだ。
 そう、だから、ほぼ交渉で、起きたとしても小競り合いだけで、事は過ぎた筈だ。それでなければあの結界は動かせない。
 なのに、どちらかが趨勢を支配し結界を操作する権力を得るに至ったと仮定して、その末にした事が対外封鎖。何故だ。外に出さないようにしている? だが意味はない。元々あの中にしか居場所が無い者の集まりだ。出たがる者が居たとしてあまりに大掛かりに過ぎる。結界の在り様を変えるなど、到底失策の許されない最重要事項。
 何のために。そんな地道な手を取ってまでも成し遂げなければならなかった、それは何故だ。
 本当に、対外封鎖に意味がある。ふと、ナズーリンを明確に捕捉し追い回した人間が想起される。まさか、まさかとは思うが本当に。
 本当に外に備えているのか。

「思索は巡りましたか」

 古明地さとりは面倒そうに言ってのける。

「私の住処は地下です。幻想郷の結界は、直接には関係ないのですよ。当然上の趨勢だって関係がない。私が何故貴女を選んだのか分かっていますか?」
「他に知り合いが居ないからだろう」
「……まあそれもありますが、もっと単純に、貴女、地上と地底の抜け道を知っていますね?」

 ナズーリンの眉がぴくりと動いた。何処で知った。いや、相手をするのは不味い、しらを切るか。その逡巡を前に、今更遅いといやらしい笑みをさとりは浮かべる。
 地上と地底の抜け道。秘匿しているが確かにナズーリンはその幾つかを確保している。旧地獄跡地は、その性質上、出入り口を幻想郷に限らない。あくまで普遍的に存在する旧地獄の、その連絡路を利用することで、聖が封印された後でもナズーリンはかつての仲間と連絡を取り合っていた。

「連れてって下さい」
「あんた……」
「あら、乗り気じゃないみたいですね」

 やむなし、しかし不思議そうに体裁だけは取り繕って首を傾げる。

「互いによい話だと思いますよ? 貴女も目的は、はい、お寺ですね。お寺ですよね? 追われる身は一度仕切り直したい。ついでに何事か知りたい、聞きたいこともあると。よいと思います、その方針。ですが、貴女、だとしても、本当に通れると思いますか」

 あの、縦穴。地底と郷を繋ぐ道。郷の外側が封鎖されているなら、当然そこにも歩哨が立っているだろう。

「便宜を、図っても良いですよ。お願いしますと、言うならの話ですが」


――――



――――


「蓮子、何やってんの」
「そりゃあ、安全確認よ」

 錆びついた欄干、蹴り開かれて蝶番の緩み切ったドア、あの襲撃の合った建物、蓮子は壁を背にそろりと室内を覗き込む。
 誰も居ない。何の痕跡もない。部屋はあの時のままだ。空気も、埃に薄らと浮かぶ足跡も。……足跡も! 蓮子は慌てて中に入りそこらを歩き回った。阿呆でも眺めるようメリーは戸口に立つ。

「……変な、趣味にでも、目覚めたの」

 視線が冷ややかに蓮子を刺す。苦笑しながら蓮子は戻ってきた。部屋に大量の埃を舞わせて。
 ボロけた階段をかんかん踏み鳴らしながらメリーが降りる。蓮子はその後ろ、振り返り室内を見た。痕跡がない。ここにもない。ナズーリンは来ていない。
 自身が監視されていることを前提に自重した生活を送っていた蓮子だったが、それはあくまで表面だけの腹積もりであった。機が来ればまた動き出す、その下準備は進めているつもりだった。
 鼠の監視が消えていると、気付いたのは数日前の事だ。
 それまで、居ると思いながら見れば気配のあった、餌など置いておけば取って行った、あの手下の鼠が、どうも近頃居ない様な気がする。
 蓮子が妙な動きをすれば目は即座にその事を伝える。だから敢えて蓮子はこの場所に来た。危なそうな匂いのするこの場所へ。
 一人で来ないのは何だか怖かったからだ。二人ならば襲われない、気がする。それは気のせいではないのだろう。現にメリーは警戒され蓮子は侮られている。
 だがナズーリンは居なかった。この地、蓮子から目を離して別所へ移ったのだろうか。まさか、そんな事があるだろうか。あの話しぶり、彼女は確かに目的を持って動いている。メリーを見つけて、その監視を捨てるわけがない。

「……んこ、蓮子ったら。ちょっと、……れぇんこっ!」

 ふいに耳元で大声を出され意識を引き戻される。慌てて向くとメリーは苦いような呆れるような、形容のしがたい目で蓮子を見ていた。

「もう、最近そういうの多いよ。ぼっとしてない?」
「いや、そんなことは」
「ちょっと前ので懲りたんじゃないの。次は何やる気なの」

 次何するか、計画立てようとしていた要が消えてしまったのだ。
 何やら、こう、政府方は共通の敵の様な空気になって、内心蓮子は乗せる事が出来たのではないかと喜んでいたのだが、ナズーリンはその後打ち合わせる間もなくその場を去っていってしまった。
 おそらくもう一度くらいの接触はあるだろうと踏んでいるが、どうだろう。自分の脆弱さをしきりに出していたから、本当にどこかへと消えてしまったのかも知れない。

「もうさ、手を引いても良いんじゃないの」

 メリーの口からそんな言葉が飛び出してくる。

「こんなに怒られて、割が合わないよ。お国保有の伊弉諾物質、確かに魅力的だとは思うけどさ、他にもあるでしょネタぐらい。そもそも私が持ってるこの石だって蓮子がどっかから持ってきた別枠だし。別に諦めなくても、一度後回しにするとかさ。今は退くわけにはいかないの?」

 蓮子はくぐもった、うんともすんとも言いようのない唸り声をあげる。
 相方の言葉は正論だ。ここまで言わせて、そこには一理どころか二理も三理もあるだろう。蓮子は言い返すことが出来ない。無用なリスクを強いているだけだと、それは蓮子にも思えている。
 だが同時に、肯定の言葉を発せようともまたしなかった。駄々をこねるように、まだ、もう一息と、曖昧な沈黙を貫いている。
 なぜそうまで執着するのかと問われても返せる言葉もない。いいじゃないか、勝てなかったとして。勝つの負けるの俎上にすら立ってはいないのだ。なのに何故、挑みたがる。秘封倶楽部は政治結社ではない。反権力を、決して標榜してはいない。
 やめる、手を放す。その光景が一瞬浮かぶ。すぐに掻き消す。追うことの重圧から逃れた自分を幻視し、それを握り潰した。

 帰る、何処に?

 何処にだって帰る場所はない。蓮子は、少なくとも蓮子だけは、歩き続けなければならない。戦わねば、そうだ、戦い続けなければ。
 一瞬のうちに表情を変え蓮子はメリーに向き直る。力に溢れ、活力の権化となって、この蓮子は道のただ中でぐじうじ迷う愚行を犯さないと、その全身を以て表現する。
 それに対するメリーの反応は極小だ。彼女はどこか違うところを見ている。きっと精神的にも今の活動を重んじてはいないし、物理的にも、蓮子ではなくその肩越しをこそ見ているようだった。流れに乗るように蓮子もそこへ目をやる。メリーが話しかける。

「あの人、蓮子のお知り合い?」

 寂れた街路の向こう、仁王立ちにこちらを向く人影がある。それは確かにこちらを、蓮子を見ている。いや、蓮子をこそ見ているのだ。あそこにいる人物の標的は間違いなく蓮子だ。なぜなら……。
 蓮子は、己の鼓動が加速していくのを感じていた。蓮子の視力はその近づいてくる誰かの事を、顔を、相手と同じよう確かに認識している。そこに居たのは確かに知り合いだった。敵ではなく、確かに味方であるところの、見知って、そしてずっと見ていなかった者。恰好がこの辺りの好みではないとメリーは言う。そうだろう、蓮子は見れば理解できる。あれは東京好みだ。自分の居た頃の流れを汲んでいる。まずここに居るはずのない、東京の者。それが自らの視界に収まっている。向こうから、確かに蓮子へ定め歩いてくる。蓮子は、反射的に、一歩後ずさった。

「蓮子ッ!」

 怒声が周囲に響き渡った。本当はそれは逃げようとする、今にも踵を返そうとしていた蓮子を呼び止めるための些細なものだったのかもしれない。だが、蓮子にとってそれは怒声だった。決して聞きたくない、相対したくない過去の非難の声だった。
 数秒の出来事。対手は眼前に立つ。先ほどまでの力強さも、土壇場で見せる意地も全部消え失せて、怯えたような表情をして蓮子はそこに立っている。逃げ去ろうとしたのも、竦み上がったのも、それぞれ一瞬の内の出来事である筈なのに、蓮子の視線は傍らのメリーに、どうかそれに気付かないでくれるよう、祈るよう注がれていた。

「ようやく見つけた。ようやく……本当に京都に居たんだ」

 その声音が蓮子の肺腑をさくりと刺した。それは、期待していたとも期待しなかったともとれる言葉だった。胃を絞められるよう、腹腔を冷たい重しが通り抜けるよう。重い息が口から漏れた。

「久しぶり」

 そして、続けて、対手は何処か懐かしくも無感動な、感情のこもった声音でそう言った。

「……どうして、ここへ?」

 曖昧な笑みを浮かべつつ蓮子が聞いた。
 蓮子の居場所を知る者は本来誰も居ない筈だ。そう、蓮子の行き先を知るのはメリーだけだ。それは比喩でもなんでもない。誰とも連絡を取り合っていない。実際にメリーしか意思疎通の相手はいない。なのに、つくづく、会う筈もない知り合いに会う。
 相手。問いには、答えない。

「生きてるって思ってた。そう簡単にくたばるような奴じゃない。仲間内じゃ人食いザメに食われたのギャングにバーベキューにされたの色々言われたけど、でもそんな事ない。生きてる筈だって。……だけどそんなのどうだったって良いんだ。あんたこんな所で何やってる。こっちには居なかったよな、確か。今更ここに何する用があるんだよ」
「あるよ、ここに居るくらい、誰だってある」
「あるかよ。行ったんだろ、向こう。あんた一人で、本懐を遂げたんだろ! 何でいる! 何で! なんで……!」

 なんで、連絡の一つ寄越さない。
 絞り出すよう言葉は途切れた。無念と不満を織り込んだ表情で。黙って聞くだけしか蓮子には出来なかった。
 相手は、蓮子の眼前に来た。何も言わずに、複雑な表情を浮かべて、蓮子を見ている。蓮子は、逃げ出したいよう、泣き出したいよう、それでも無理にでも笑みを作り出したいように思い、おびえたような表情を浮かべながら、目を逸らすことができずにいた。
 メリー、何処に行った。自身の相棒はそのただならぬ様子に一歩下がって不介入を決め込んでいる。蓮子はその周辺視野で彼女を探した。対手の表情が、悲しげに曇っていくのを感じながら。
 かさりと、手に伝わる感触がある。咄嗟に目をやると、一枚の、紙封筒が握らされている。

「これ、渡しに来たんだ」

 手紙を?
 その掌中の封筒を開けない。見るのが、本心に嘘はつけない、怖い。
 怖い。郷に行くとはそういう事だ。博麗大結界は現行の何よりも堅固な結界。能動的な行き来など本来望むべくもないし、それらをすべて了承して、蓮子はあちらへ向かった。
 胸中に燻る感情は、雄弁に蓮子を締め付ける。彼女は間違いなく蓮子の友人だ。東京に居たころの、確かに旧い。
 蓮子は、その旧友に、何を告げることなくこの世から消えた。いや、旧友に限らない。蓮子の見知っていた人物は誰にも、何も告げる事はなかった。言えば際限がないから。その己のエゴをもって、強引に、霞のようにこの世界から消えてしまおうとした。
 蓮子は、捨てた。強く心に刻まれている。だから目の前の相手が、いかな蓮子の縁者だろうと、その過去に何があろうと、蓮子は居ないものとして接する。そう決めた。誰でもない、自分で決めたのだ。
 会えて嬉しくない事があるものか。だが、蓮子はもう何処かへと去ってしまった。未練を消そうと意図的に連絡を絶って、そして消え去った。蓮子に何が言える。出来る事なら会いたくはなかった。もう居ない者が、何を、何故言える。
 本来会う筈のない相手が、今目の前のここにいる。蓮子の居所を探し、見つけ出して。それに何も返すこともできない。心が、軋む。相手の表情が喜びを浮かべないようにしているのがわかる。沈黙が数秒流れる。蓮子の側から言葉を発していない、無意識に会話を切り上げようとしているからだ。それを感じているから、喜びを見せないようにしている。誰に。他ならぬ蓮子自身にだ。
 なんだ、この結末は。蓮子は自身が行う行為の結果を理解していなかった。行ったあと、どこに傷を残していくのか、誰がそれを為すのか。いつまで、こんな言葉を吐けばいい。いつまで友を、心を抉り続ければいい。蓮子が言わずとも、相手は勝手に話し続ける。
 蓮子は、自身の不義理の清算を受けようとしている。

「ヒロシゲ、乗るのが見えたんだ。嘘だって思ったけど、もし、本当なら。……これだけでもって」

 蓮子は口を閉じたままだ。言葉を探せなかっただけかもしれない。この場で言えなければ同じだ。
 悲しいほほえみが目の前に見える。

「……伝手は、まだ残ってるよ」

 対手は静かにそう言った。
 連絡も取らなくなった裏表ルートは、蓮子のためにまだ存在し続けている。
 その事実、それを教えてくれた事実に、何も返すことは出来ない。旧友は存在をし続けている。その事実に。
 蓮子は目を逸らし、目を瞑り、対面の彼女の意思を幻視し、衝動的に彼女へ背を向けて走り出した。
 後に残されたのは誰だ。駆け去ったのは、誰だ。蓮子は走った。振り返らず、ただその関係から逃れるために走った。
 その背を、じっと誰かに見送られながら。


――――



――――


 ――人目を避け山間を抜ける。基本的に抜け道というものは他者の介入がなされない位置にあるものだから、当然行くのは藪や草の中になる。知ってるもののうち人手の入らない辺鄙な場所へ行く。さとりはナズーリンの走り方や行く先の抜け穴を見てにやにやとしている。
 号令をかけると鼠もいくらか合流してきた。何割かは外に残し、適当に目立たない程度に動かしておく。

「ふうむ、もう少しゆっくり行こうか。鼠の追いつきが浅い。半端に抜け穴近くへ残られても困る」
「もう、おおよそあちらの手も入らないだろうと? 確かに人の歩ける地形ではないですが。甘い見通しでなければ良いのですけれどね」
「なに、じゃあ早く行こうって言うのか。遅れたのはどうなる」
「散開の令でも出せば良いんじゃないですか。実際あまり楽観視は出来ないと思うんですよね。あの心は、ううん」

 さとりが唸る。何か思うところがあるのか、しかしまだ確信は持てないようで言葉には出さない。
 ナズーリンも、思わないではなかった。最初に現れた人間はナズーリンをこそ狙っていた。あの貧弱で人間にしては胡散臭い宇佐見蓮子ではなく、ナズーリンを真っ先に獲物と定めていた。
 それは、妖だ。通常人に比すれば対処の順位は上がるだろう。だが、あまりに用意が良すぎた。そして、即座に伝達された。まるで存在を知っていたかのように。
 むうと首をひねっていると、にわかに戻る鼠の量が多くなりはじめた。

「お、よしよし。見ろ、ちゃんと追い付いてきた」
「ん……そのようですね……」
「迷わずに来たな。この組で全部だな。じゃあどうしよう、狩られないよう散開させるか、いっそ姿だけちらつかせて疲れさせて……」
「ちょっと、不味いですよ!」

 さとりがナズーリンの腕をつかむ。何だという間にナズーリンの耳がぴくりと動く。自分より大きい動物の動く音。まっすぐこちらへ向かってくる。
 それも、早い。足場の悪い山中、鼠たちが引き離せないでいる。

「嘘だろ……」
「鼠を尾けられ、というか、追い立てられて来たんですね。大分近い。そろそろ追い付かれそうな……」

 言う間に、両者とも反対方向へ駆け出した。こちらの移動が向こうにも伝わる。
 足音は違わずまっすぐにこちらへと向かってくる。

「なんだ、この執着は。都から出てったんだから良いだろ、もう!」
「ずいぶんと、嫌われているみたいですね。憎しみの心が視える」
「視えるのか」
「遠いですが、薄ぼんやりとなら」
「だが、そんなに恨まれる覚えはない」
「さあ、どうだか。妖なんてものは恨まれ疎んじられるのも仕事の内ですから。もはやあちら様には我々の存在そのものが許せないのではないですか?」
「横暴な。そういうの、人間道徳ではよくないんだぞ」
「人間じゃないですから、私たち。生命道徳は自らを脅かすものは排撃すべし、ですよ」

 軽口を交わしながら山谷を駆ける。距離の変わらぬ追手、さとりが後ろを振り向く。

「一人。の可能性は薄いですね。動きに自信がありすぎる」
「ちょっと待て。ええと、そこ、そこ、あと、そこ。見たかどうか報告」

 見繕って指示すると並走している群れの中から数匹がナズーリンのもとに駆け寄り、尻尾で拾い上げられ肩へ順番に置かれる。

「そこの、ついでにお前も。……ええ、三、いや五かな。多分五だな。後方左右展開、逃げる方向で既に中心は割り出され……ってこれ半包囲じゃないか! やばい、やばい」
「組んでいるとして間が長いなら敢えて転進する手もありますけど」
「後詰が居たらシャレにならん。一人ならともかく複数は無理だ。ちなみにあんたは……」
「私インドア派なので」

 こいつ、使えない。ナズーリンが思うと同時にお互い様だとさとりが言った。
 走りながら、銃声が聞こえる。一方向から。威嚇か、牽制か、取り敢えず向かう方向とは真反対。

「くそ、どこまで追いかけて来るつもりだ」
「演習にでも使われているのかもしれませんね」
「ふん……舐められたもんだ。しかしそれだって、こんな先の見えない作戦、さすがに体力は負けてないぞ。これじゃ演習というより持久走。追い落としのための勢子。その他鹿狩り巻き狩り……」

 勢子、大声で驚かせ獲物を追いかけたり退路を断つ人のこと。巻き狩り、徐々に包囲を狭め行う狩猟の総称。
 割合、似ている気もする。もしやと思う。既に包囲は完了しているのではと。

「ですが先回りなど……ああ、人間は移動手段を持っていますものね」

 深い山中を経由したとしても、連絡を密にし経路も定まっていれば可能なのだろう。現にナズーリンの移動できる方向は大きく制限されている。この逃走劇の間、角度はほとんど変わってない。いずれ山にも終わりが来る。前にも同じだけが展開していたら。まさしく言葉通り袋の鼠となる事だろう。
 しかし、身体の軽い鼠ならまだしも、装備の整った人間が同じ速度で動けることが凄まじい。ほとんどナズーリンや(意外に動ける)さとりと同じ動きをしなければ追ってはこれない筈だ。どんな跳躍をしているのだろう。見てみたいが、止まることはできない。しかし確認したい。というより、できれば無力化までもっていきたい。何らかの補助装置、そんな器具が出来ているのであれば――

「我々妖の優位性がなくなってしまう?」

 さとりが、唐突に言葉を差し挟んできた。ナズーリンは否定も肯定もできない。それは、自分の範疇ではない。

「別に恥じる事ではないですよ。人間どもは、怖ろしいですものねえ」

 厭らしく薄い笑みを浮かべ、揶揄するような響きでナズーリンに囁く。ナズーリンは手を振った。

「そんな事、言ってる場合か」

 岩場や谷めいた場所を俊敏に渡って走る。後ろをたまに振り向いても追手の姿はまだ見えない。それは相手からも視認されていないと言える筈だが、しかし、耳をひそめれば確かに聞こえる。
 さとりがそろそろではないのかと聞いてくる。事前に言った地点はもうほど近い。

「まさかこのまま、地底まで連れてくるつもりですか」

 あんなのに押し込まれては迷惑だ。心を読まずとも内心はひしひしと伝わってくる。それはナズーリンも同じ気持ちだ。鬼がやられるとも考えにくいが、相手の手持ちは未だに不明。何が悪転すると限らないし、その時非難を受けるのは自分だ。
 正直、真っ平御免だった。一応あの穴は人間では通れない筈だ。一般の、という枕詞が付くが。いかに術を掘り返そうと届きはしない、あれは異界へ捻じれる道。手引きもなく人界たる人間に耐えられるものか。
 だが、位置が割れれば同じ気もする。奴らはいつか届く。いや、届かないかもしれない。現に今届いていない。だがそれは、時間の果てに捨て去ったからであって、必要さえあれば必ず届かせるのではないか。
 領分ではない。それは自分の。ただ、確かに今最前にいるものでもあるのだと。渦中を目前にしているのは自分だけであるのだと。その事実らしきものに目を背けナズーリンは鼠を数組招集した。
 こうも確実に捕捉をされるのは、足跡や動きの他に、根本から妖気を捉えられた可能性がある。走るナズーリンの身体に鼠が群がる。表面をずるずると流体の様にうごめき、ほどける頃には鼠達は十数匹単位の編隊を組んで並走していた。群塊に紛れ自身も低く走る。
 憔悴した表情のさとりが灰色の塊の中から現れる。二種類分の妖気の写し。何も言わずさとりに鼠をけしかけたが特に抵抗はなかった。こういう時、覚り妖怪は説明が速くて良い。

「中々、手際が良いですね」
「ん? ああ、なんだ、羨ましいか。まあ部下の質は長の質とも言うしな」
「ははっ」

 乾いた笑いがさとりの咽喉から漏れた。
 すぐに、鼠の群れはナズーリンと独立して前進を始める。あらかじめ指定した方向へ向けて、四方八方に。それらと分裂しながら並走してすぐに、苔むした岩の陰に空間らしきものが視えた。岩と岩に挟まれたほんの少しの空間。それはあちらとこちらをつなぐ境目。素養のあるものでなければそれはただの物質的間隙に過ぎない。だが、ひとたび道を見つけたなら。
 ナズーリンが示す先、さとりが飛び込み、遅れてナズーリンが後ろを確認して、潜り込んだ。既にその姿は外から見えない。人型実体を二つ分納める広さなどない筈なのに、その岩間には、もはや何もありはしなかった。
 暗く湿った洞窟の中、ナズーリンは来た道を振り返る。すぐ後ろに付いて居た奴は現れた鼠を陽動と見抜いたろうか。少なくとも動じずに突き進んで来たら蛮勇である。
 作りは荒い。壁から得体のしれない草のようなものが生えて繁っている。その洞窟は打ち捨てられて最早久しい。きっと正規ではなく、実は非常道ですらないかもしれなかった。
 狭い、しかし歩ける空間の中、先行したさとりが空気の変化に気づく。外界とは違う、こちら側の匂い。表情やしぐさを変えないながらもさとりの歩調が早まっていく。行き止まり、偽装された岩をどけると広大な空間が広がった。彼方に街の灯りが見える、広大な地底空間が。

「……こんな、便利なものを」
「他言無用、使用厳禁だ。これだって見付けるのには相当苦労したんだぞ。何せ通常の路はすべて新しいのに移動されてる。これだって移し漏れか非常用だろう。変にバレて使えなくなるのは御免だよ」

 口に手を当てて、さとりは通ってきた路をしげしげと眺めている。ナズーリンは偽装工作を重ねている。終えたところでさとりが手で促した。

「まあ、取り敢えずは、私の家にどうぞ。少し、休憩しましょう。もてなしますよ」

 嫌な予感がして、ナズーリンはそれを固辞した。その恭しさは、探りの裏だ。
 たぬきのような腹の読みあい。誘導には耐えられる。暴かれそうなら殴って逃げる。そしてその心算をさとりは読んでいるだろう。読んだ上でどう動く。読まれた上で。
 軽い苦笑を残し、さとりが折れた。借りに対する返礼かもしれなかった。話は通しておくと言って、地底の都の灯りへ歩き出した。ナズーリンはなんとなく顔をしかめた。少し時間を潰さなければならない。やっぱりこいつ、嫌いかもしれないと思った。


――――


 澱んだ殺気が郷を覆う。穴を抜け、陽光を浴び、天狗の哨戒が空を舞うのを見た。きっとあれらからも、今のナズーリンは認識されているだろう。
 暗黙の静けさの中、隠れるよう人里へ向かう。視線を感じる。振り向かない。気付かないふりを続けながら無防備な背中を晒し続ける。ほどなくして人里の門が見えた。守衛が二人両脇を固めている。
 その張り詰めた気に圧されナズーリンは門の手前十数歩、ぴたり歩みを止めた。屹立している。意識だけは明瞭に眼前の鼠妖へと注がれている。ナズーリンは、おずと、自分は寺の者だと言った。通してくれないかと。
 寺。その単語に心が揺れ動くのがわかった。安全の証明ではなく、揺れ動いた。寺とて、人里に居を構えるようなって相応に経つ。この者たちさえ、小さな頃から存在を見知っている。その名。命蓮寺が証左となりきらない事に、如何程の混乱があったのか。推察しきることはできない。ただ腰低く、人里の賢者に繋いで欲しいと頼むと、ようやく目付を傍らに門内へ入ることを許された。

 人家の戸は閉まり、から風が吹き抜ける。人里の賢者は、ナズーリンを一瞥すると里内を歩かないよう言ったうえで木板に墨字で書かれた粗雑な許可証を預けた。見るまでもなく急造と分かる。長くは残さない意思表示か、間に合わせでも作らねばならなかった事態を象徴したか。この数か月、状況はこんなにも変貌する。人通りの明らかに減った大通りを抜けて、ナズーリンは寺の前に立った。
 他同様、そこにも影は無い。いつもなら誰かしらは見える。門前は半ば寄合所のようであったし、境内もあっちで歩くや掃除をするや、動く者がいた。静けさが境内に満ちる。嫌な静けさ、息を潜めるような静けさが。
 門を抜け、少し考え、本堂ではなく裏の仮庵へ足を運んだ。この様子ではそも主だったところは開店休業だ。それに、寺の連中とは顔を合わせたくはない。あくまでナズーリンは、特務行動中だ。
 仮庵は、以前見たときより整っているように思えた。灯りが障子紙を通し中の人影を浮かび上がらせる。微動だにしない影。近付くと、ナズーリンが地面を踏む音に、影が振り向いた。

「お久しぶりです、聖」

 障子紙の向こうから声をかける。その声に覚えでもあったろうか。この寺の主が庵から身体をのぞかせる。

「ナズーリン……?」

 少し、やつれたようにも見える。
 数瞬の間、居るはずがないという思い。動かなくなった聖にもう一度会釈をすると、ほとんど同時にナズーリンはその身体を抱きかかえられた。

「ナズーリン、よくぞ無事で……!」
「ぐ、聖、これは大げさでは、ぐぐっ」

 くぐもった呻き声を上げるナズーリンを急いで放し、服に着いたほこりを払い。愛しそうにその姿を見つめた後、庵に入るよう促した。
 古巣の匂い。どっと気の緩んだ気がして息をつく。そして深呼吸。備え置いてあった茶が差しだされる。

「息災でしたか」
「無事、この身を戻すことは出来ました」

 何もなかったとは言わない。何事もなければ未だこうやって戻ることもなかったろう。それも分かる聖が噛み締めるように目を閉じた。

「……そうですね。今は、ただその身が無事であったことを喜びましょう。そしてナズーリン、責任深い貴女のことです。帰るなら相応理由があるのでしょう。……報告を。私も心の準備は出来ました」

 報告。何をおいてもまず第一には外の現状。人界の様相と地政を余す所なく伝える。そして次に、外部にナズーリンの他にも妖が紛れ込んでいたこと。ただ、これはさほど問題ではない。ナズーリンの場合は任務だがこの情勢、それは普遍であろうし私的な理由で外に行く者もいるだろう。その中の人の世は確かに発展していたがそれだけで、こちらと干渉しあうようなこともなかった。
 だからこそ不可解だった。最後に人間の動きを伝える。この幻想の過ぎ去った人の世で、ナズーリンは明確に探索され、目視され、追われた。その事実を。

「そうですか。やはり外の、……人間達は、我々を敵とみなしましたか」

 ナズーリンの内心に反して聖にそれほど驚きは無い。相手がナズーリンを認識したことも、時を隔ててなお敵視が続いていたことも。当然の結末のように聖は言う。

「何か、わけがあるのですか」
「外はどうでした。あちらは、不老や不死に手を届いていましたか」

 それには答えず、聖は問いを重ねる。

「いえ、特には。文化や技術には変化が見られましたが、人類種としての本質は変わらないように見えます。まして、不老とは」
「でしょうね」

 諦観のような瞳。その表情が不自然で、ナズーリンは対面の聖を見つめていた。
 やはり聖は何事かを知っている。それが何か、どれほど重要であるかナズーリンには知る由もないが、それは外の人間にも関係があるように思えた。

「聖」

 ナズーリンが口を開く。

「八雲紫を見つけました」

 鍵だと思っていた。自身が発見したおそらく一等のイレギュラー。本来居るはずのない結界の重鎮。それはおそらく機密の最奥であり今回の混乱から外への派遣まで全ての根幹を担っている筈だ。
 その名を耳にしても聖は顔色一つ変えることなくそこに居る。
 やはり知っていた。聖が教えようとしなかった事の真相。不可解かつ重大な外への依頼。

「私の任務に必要ないというならどうぞ退けてください。ですが必要となるのであらば、話して貰いたい。私は知った。真実の一端を。もう伝えられるに十分の条件は備えた筈です」

 聖は黙っている。言葉を探すように。しばしの沈黙を経て口を開く。

「何かざわめいている事は知っていました。顔を合わせる事も無かった。もしそうだとしても驚きは無かった、だけの事です。……いや、訂正します。彼女が外に居るとは思いませんでした。ですがひとつ合点がいった。道理で見かけない筈です。しかし外とは、あの方の事ですし何か故あっての行動なのでしょうが、外。接触はしたのですか?」

 接触は、したかだって? 想定と違う反応、ナズーリンの背に出てはいけない汗が滲み出る。あの状態の八雲紫に、接触をして何の意味を成すのか。

「……身動きが取れない状況にある、と言っていました」

 聖は、あの八雲紫を知らない。
 ナズーリンの表情は至極冷静で、静かな深刻さえも帯びているが、内心では混乱と保身に思考を奔走させている。これは、不味いか。いや、いよいよもって大悪手だったかもしれない。これはナズーリンが知っているべきではない情報だ。聖が知らないということは当然依頼とも関係ない。ナズーリンはこれ以上不必要なことを喋らないよう心に固く口を閉じた。本来はすべて伝えるべきであろうが、聖は嘘のつける方ではない。知ってはいけない情報を、下手に拡散して恨みを買われても厄介だ。

「まあ、彼女は今回の騒動に殆ど関わりはありません。居れば助けにはなるでしょうが、動けないのでは仕方ない」
「関係ない?」
「直接は。あるとすれば姿を見せなくなったことですか。ですが、ええ、分かりました。貴女の想いは伝わりました」

 長く息を吐く。

「私が何を知っているか、でしたね」

 その語調に躊躇いが見える。それほど重大な事であるのか。前線のナズーリンにすら伝えるのを拒むほどに。
 小心なナズーリンの心に薄い後悔が芽生えた。これは、聞くべきではなかったのではないか。もはや八雲紫のヤマすら外れているのだ。これではただ知らなくて良い情報が余分に増えるだけだ。ナズーリンに敢えて知らせなかった気持ちを汲むべきだったかと。
 そうだ、今からでも遅くはない。やっぱり止めておきます。そう口に出そうとした瞬間、静かに聖は話し始めた。

「もう何年、いえ、もっと前でしょう。妖怪に、老いた者が出ました」

 その言葉を、はじめナズーリンは理解できなかった。それは、年経てない妖怪などこの郷には少ないだろう。むしろ人間と比較してその年がどこまで基準になるのか。妖は、心のそれをこそ重視する。心が老いさらばえない限り妖は老いることはない。
 だから一瞬、聖の何を言おうとしているのか見失った。年経た妖怪。そんな事を言うはずがない。無駄な分かり切った事を、言うはずが。だから少し考えて、ナズーリンは妖怪に起きたのかと問い直した。妖の在り様は精神で決まるのだから、それが例えば、精神の老いる何事か。抗いようのない外部的精神の引きずられが起こったとすれば確かに大事だ。
 だがそれは否定された。妖に催眠を起こすような大掛かりな異変はなかった。聖はこれがもっと単純な事だと言った。誰の行われた事でもなく、なるべくにしてなったのだと。
 ならば何も大層なことなど起きていない。起きてないのに、大きな事態はそこにあったように言う。
 だから、まさか老いるだけ老いたのか、そうナズーリンは聞いた。精神に何の変調をきたすこともなく、ただ老いるのか、と。
 果たして聖の答えは肯定、目を閉じたまま肯首が返される。その理由が、ナズーリンには到底思い浮かばない。

「簡単な答えですよ。老いという概念そのものが入り込んでいたのです」

 外から、この郷へ。
 とても簡潔なことの様に聖は言った。
 それに、間抜けなよう、は? とナズーリンは聞き返していた。
 この郷を覆う大結界は幻想と化したものを分け隔てなく取り込む。物質に限らない。概念までも例外ではない。そしてその概念が妖の形態に影響を与える。その可能性も以前から話されてはいた。実例もあった。
 だが、老い。生命の根幹概念の一つたる老いがあの大結界を抜ける。にわかには信じがたく、また、聞いた今でもあり得ないと思っている。

「それほど、人間は繁栄を遂げたのです。反面こちらは紛糾、そして、当時の急進派は姿を消した」

 聖の悲しくも強い語調。それが否応にもナズーリンに重みを感じさせる。
 そしてまた、長い息を吐く。

「ナズーリンは掴んでいないでしょう。あれは、徹底的に隠蔽が図られましたから。私ですら伝わったのは後も後。全てが終わってから。事そこに至ってから、初めてあの方たちの想いを知りました」
「そ、それで、その後は」
「老いが郷を去りました。人の世はそれまでと変わらず続き、禍根だけが残った。その根に怯えているのです。我々と、そしてきっと、人も」

 八雲紫は、窓だった。外を映し、伝える窓。まさしく結界の管理者は彼女だったし、その影響を無視できるのも彼女の特権だった。だから彼女は、外の様子を伝える、重大と言うほどではない、しかし重要な役割を負っていた。
 彼女はそれほど趨勢に関与していたわけではない。しかし、いきなり消息を絶ったことで憶測が生まれた。
 疑念は恐慌を生む。それが暴走の発端。そして――

「八雲女史はもはや必須ではない。居なくても相応の形には収まるだろう」

 時間が経ち、状況は変わり過ぎてしまった。事の次第を聞かされ蓮子は唸る。
 鼠は、メリーの居ない時、いきなり家に押しかけてきた。さぞ余裕のない、時間的な制約があるといった体で、そして開口一番に向こうの話を蓮子に伝えた。
 聞く限り、人の側は大分事を先に進めている。恐れおののいた人間は、準備を進め先手を打つつもりなのだ。その準備の中に蓮子がうろついた。そして準備はもう済んでいる。もはや蓮子になど構う暇のないくらいに。確かに追われる事はなくなった。だが、それは喜ばしい事であるのか?
 否、否だ。

「それを、何で私に?」
「成り行きだよ。事の次第は、君が代理で聞いておく。それが君の役割。こうなってしまった以上の、ただの人間の」

 一つの物事の結実。そこから除外された一つの大妖。

「ナ……なっちゃんは、どうするの?」
「さあ、私は自らの本分を全うするだけだ。その行く末がどうであろうと知った事じゃないよ」

 メリーが、彼女が築き、蓮子を招き入れたいと思った場所。二人をそこに紐付けるものが、失われる。
 咄嗟に口走ろうとする何かを、ナズーリンは眼で制す。

「君の帰る場所は何処だ? 君は帰る場所としてあの郷を救えるのか?」

 外様の君が、何の歴史も紐付いていない君が、逃げ出して、今外に居る君が。
 出来るわけがない。蓮子の居場所は郷ではない。君は今居る、この外がお似合いだ。
 それに何も返すことが出来ないでいる。咄嗟に言葉が出て来ないでいる。
 返せるはずだ、言えるはずだ。その言葉に臆することなく。自分の居場所など蓮子は初めから決めていた。何故こうやってこんな話をしている。何故人間である蓮子が、こんな何処とも知れぬ土地で人間以外である何かと話をする。その理由を思えば、それだけで証左となる、筈だった。


――


 鼠は去る。一人きりになった部屋、窓に空を見上げる。
 蓮子は、未熟だ。蓮子は何もできない。それが誰より身に染みるからこそ蓮子はここに居る。彼女を連れて、何処へも知れないで。蓮子は、何のために居る。出そうになったため息を呑み込んだ。出せばなにか悪い方へ転がり落ちて行きそうな気がした。

「ねえ蓮子、なんか変だよ。あのお友達と会ってから? ねえ……」

 いつの間にか傍らに居たメリーにも気づかず、蓮子は外を眺めている。
 蓮子はメリーの方を向く。心配そうな顔。常と異なる蓮子の様子を、ただ案じている表情。大丈夫だと、言おうとする言葉に力が入らない。

「蓮子らしくない、もっと明るく行こうよ。そんな思いつめてないで、蓮子が暗いと、私も参っちゃうよ」

 メリーの言葉はことさらに優しい。励ますように笑顔を作っている。本当に、蓮子を案じている。その気持ちが、伝わりすぎるほど伝わって、蓮子はまた視線を落とした。

「蓮子……」
「……あの子はさ、友達だったんだ」

 ぽつり、呟いた。見ればわかるとメリーは言った。その様相がきっとただならぬことも、感じただろう。しかしそれ以上は言わない。聞こうとはしない。
 それは優しさだろうか。蓮子が話すのを待ってくれているのだろうか。蓮子はどう伝えればいいか、迷って、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「戻って来いって言われた。家にもずっと連絡してないし、正直気まずい。けれど、あっちに行けば、怒られはしても何だかんだで受け入れてもらえる。そんな気がする。やっていけるんじゃないかって、思ったんだ」
「うん、良いと思うよ。東京ではずっと活動詰めだったもんね。折角近いのに会いに行く暇なかったし、あっちで落ち着くならそれも悪くないと思う」

 メリーはそれを肯定する。向こうの、蓮子の故郷へ。腰を据える。
 いっそ、落ち着いても問題ないだろうか。こんな無茶な生活をやめて、蓮子の故郷でメリーを招いて。何処か逃げるようで気に食わないが、静かにすれば藪をつつきに来ることもないだろう。
 メリーの故郷は、今のメリーのその場所は、何処なのだろう。あの地は、もう、彼女の心にはない。あの東京を、そこに据えても良いのだろうか。

「ねえメリー」

 朗らかなメリーに蓮子は話しかける。日常の延長線、ように。
 その様子を見、違和感でもあっただろうか、どこか体を強張らせてメリーは聞く姿勢を作った。
 蓮子は何を言えばいいのだろう。何もかもを捨てて出て、相方にも成果を分けられず。そのうえ相方からまた何かを捨てさせようとしている。それは一つの、彼女を構成してきた何か。重いもの、ひどく重たいものを。
 謝ればいいのだろうか。違う。そんな事をメリーは望んでない。与えればいいのか。それも、どこか異なる。
 蓮子は言葉を探した。一緒にいる理由。それは先ほどナズーリンに感じたものにも直結する。メリーと、なぜこんな所に居る。秘封倶楽部を引っ張っているのは蓮子だ。蓮子が辞めたいなら、続ける意味はない。
 秘封倶楽部でいる理由。それは負い目か。親友を救えなかった事も、受け止められなかったことも、壊してしまったことも。蓮子の心に澱として残っているからか。それとも脅されたからか。あの狐に。逃げたかったのか。重圧から、異なる誰か達から。
 どれも違う。決して、違う。

「私ね、メリーと対等で居たいと思ってた。ずっと対等の、いいコンビで。でももしメリーが望むなら、このまま何年も、何年も、何年も、こうして活動を続けて、そうして終わっていくのも悪くない。メリーが望むなら、秘封倶楽部はそうやって一つの結末を得ることが出来るんだ」

 そうだ、きっとそうなのだ。それは東京に行っても同じで、そこで終わっても問題ない。それが一番きっと綺麗な秘封倶楽部で、一番望まれるべき秘封倶楽部なのだ。
 だが。だが……!

「でもメリー、メリー、私は、私が、追い付きたいんだ。その先を、遠くを、私も見たい、一緒に歩きたいんだ……!」

 それが、想い。すべての蓮子の歩く理由。
 メリーは分からない。語る蓮子がその瞳の奥底に涙を湛えているわけを。何処までも置いて行かれる蓮子の弱さ、未熟さ。そうなりながらもその想いをメリーに語らずにいられなかったわけを。
 メリーの心にその記憶は封じられている。何を言っているのか、ただその気迫に押されて、メリーは茫然と聞いている。

「ちょっと、出て来る」

 メリーに聞かせて、その言葉を全て伝え終わって、蓮子は一つ区切りをついたように立ち上がった。
 その背に縋るよう反射的にメリーの目が追う。

「ま、待って、待って蓮子。どこへ行くの、ねえ」

 何か、感じ取る事があったのだろうか。いつになくメリーは食い下がる。玄関口に立って、出ようとする蓮子の後ろ。小さな声が届く。掠れる様に。
 蓮子が立ち止り、振り返る。もうそこに翳りはない。覚悟を決めた瞳。力強い表情を見せて蓮子は言った。

「メリーも、来るんだよ。だからちょっと待ってて。すぐに戻るからさ」

 颯爽と、蓮子は家を出た。
 歩く、歩く、前に、小さな鼠が先導する。導かれるまま、行く先には新たに連れられた廃ビル。今度は京の町、人の辺縁にほど近い位置のその一室で、蓮子はナズーリンと会う。
 前回は人里から遠く離れすぎたのが良くなかった。次はむしろ人に寄り、事があればその中に紛れてしまおうという心づもりだった。蓮子の立ち位置もナズーリンの立ち位置も人の側ではないが、かといって彼らが民衆の支持を受けているわけではないのだ。

「おや、来た」

 来るとは思ってなかったと言葉にいい、来るだろうと思っていたと表情でいい。
 来たよ、と蓮子は言う。

「君は表情がころころ変わる」

 その言葉の意味を説明しないまま、すうと差し伸べた左手に鼠が駆け上る。肩口に、耳元に、ちゅうと鳴き。報告を受け取る彼女には他にも鼠が乗り、群がっている。
 鼠の群体は流れる様に、しかし整然と彼女の身体を覆う。その姿が何故か美しく思えて、それが否定できなくて、蓮子は見蕩れる様にその様を眺めていた。
 ナズーリンの双眸が眼光鋭く見開かれる。神秘は霧散する。

「ついにやる気だ。奴ら、動き出したぞ。秘密裏を謳う割には随分大仰だな。ここから見ただけでも十、二十、全体で五十は居る。全員、良いモノを持っているんだろうなあ」

 感心したような、皮肉めいた笑みを浮かべて、ナズーリンは言う。

「組織行動は動くほどに派手になる。中々用心してはいるがこんなもの、私にかかれば丸裸だよ。しかしまた、その静かさ。本来隠しきれるものでもないんだが、市井に漏れ出ない統制がその規模を物語っている。知ってる奴がそれだけ多いなら、一部では公然の秘密なんだろうな」

 たとえ多少のブランクがあるにせよ、活動を続けている蓮子はオカルト関連も国の動きも注意し続けている。その蓮子が掴めていないのは、一体どれだけぐるみでの隠し事なのだろう。彼らが隠しおおせ、自らが知らずにいる物事に寒くなる思いがする。
 また鼠が入ってくる。別伝だ。郷のある山、麓に人の集まりを確認。

「ほう、早い。準備が滞りない。全部で何隊居るんだ? まずこちらの行き先は郷だろうな。それにこの様子、場所も分かっているか」
「政府は郷を覆う結界の存在を知ってる。だから、どの辺りに在るかまでは把握しているはず」
「なら、時間は無いぞ」

 浮かない顔で下を向く蓮子を、ナズーリンが一瞥する。怖気づいたものではない。

「どうした」
「やっぱり原因は、私たち」
「切っ掛けの一つではあるだろうね。だが、装備を整えてあったんだ、どうせ遅かれ早かれだったろうよ。なら、半端な調えの時に引っ張り出せたことを良しとするべきじゃないか」
「……」
「それで、君は何をやろうと言うんだ」

 戻って来たんだ、何かするんだろう。彼女の声がそう言っている。

「その前に、なっちゃんが何をする気か教えてよ」

 蓮子は即座に切り返した。ナズーリンが機を外されたように蓮子を見る。少し固まって、仕方なさそうに言葉をつづけた。

「……まあ、良いだろう。私の目的はあくまでも調査。この地での本拠は既に判明しているから、忍び込んで交渉材料の一つでも奪う。あるいは、攪乱かな」
「なら、同じようなものかな」

 もう蓮子に憂いはない。気負いは振り切った。

「向こうに手が回っている間に忍び込む」

 断定するように蓮子は言った。彼らに真っ向勝負を仕掛けるのは蛮勇を通り越して無謀。しかし郷への介入もまた、個人でやるべき所を越えている。
 ナズーリンが情報を持ってきたときから思っていた。人と妖の確執。きっと、いずれ人は反攻に出る。何をされたのか、詳細を蓮子は知らない。ただどこかで、人は優勢を盛り返す。そうあろうとする。その間隙を、突けるならと思っていた。真っ向は難しくても、横合いから掠め取ることなら。蓮子には切り札が残っている。強力すぎる札が、まだ。
 それを、伝えに来たのだ。蓮子は逃げない、秘封倶楽部は背を向けない。宣言しに来たのだ。今会える、妖の一員たるナズーリンに向かって、宣言をするために来たのだ。

「随分と、大それた。大胆と言うべきか。当然君の相方も連れていくだろう?」

 当然連れて行く。メリーが居なければ活動にならない。結界を視る事ではない、秘封倶楽部として居ることに意味があるのだ。その際の危険を考慮しているのだろうなとナズーリンの不敵な瞳は語りかける。
 ……考慮したなんて言えるわけがなかった。蓮子が頼むのは例の妖力爆弾と、内訳も知らない三枚目の札だ。二枚目は無理な制動で壊れかけており、その他に身を守る術も逃げる先も用意してない。元が無理筋なのだ。こんな強引を通す口で安全が何など笑い話でしかない。
 無謀だというだろうか。どこかのだれか、蓮子よりも先に行った誰かはそう言ってくれるのだろうか。それはもはや暴走と呼ばれる道理の通らない、ともすれば否を突き付けられる行為で、安易な自滅の道にしかならないと、言い放ってくれるのだろうか。
 言ってくれるならどんなに楽か。逆らうための道しるべがあるとすればどれだけ頼みになるか。ただの先駆者であり続けなければいけないことはとてもつらい。
 だが、行かねばならない。蓮子は知っている。人は、理性を追い求める時、必ず守りの姿勢に入ると。惜しいものを失えない。
 安定こそが人の理性の極致。行こうとすれば、理性を越える。
 厄介な奴だと、ナズーリンの表情は言う。逆に蓮子も言葉に出した。どうして付き合ってくれるのだ。ナズーリンの方は蓮子よりずっと能力が高い。蓮子は、足手まといだろう。
 蓮子は、また自身のせいで不当に相手の立つ位置を引き下げることを望まない。
 ナズーリンは言う。勘違いするなと。個人的にあちらに用があるだけだと。それは私用でしかないと。

「それに、どうせ行かなければならないのであれば、その札、有効に使わせて貰う。私の身体も、郷とはだいぶ勝手が違うからな。それと、惰弱と言われるかもしれないが、向こうに被害を出したくない。これ以上面倒の種が増えるのは嫌なんだ。その点君の妖力爆弾は都合がいいからな。だからそれで相子、貸し借りなしだ」

 小さく礼を言い、それ以上は言わなかった。優しい奴なのだ。そう思った。ただ、何の負う目もなく協力が得られた事実をありがたく受け取った。
 蓮子も惜しむつもりはない。必要があれば持っている札のすべてを注ぎ事を成す。どれも対人には余る力だ。強気の後ろ盾。札がある以上においてこの行動に憂いはないだろう。いや、あるわけがない。身を守ると言えこの戦力はあまりに過剰。この札は本来的にこの事態を予期して授けられている。
 使い切らねばならないほどの鉄火場を。それを切り抜けてみろと。もとよりそのつもりだ。蓮子は強く拳を握る。この活動は蓮子の意地。意地を越えるための意地。だから多少の無理でも押し通す。無理であろうとしたのかもしれなかった。

 短い時間、簡単な打ち合わせ。時刻と場所を指定して、そこで落ち合うと約して別れる。
 指針は決まり協力も得た。後顧の憂いが嘘のように無い。ほくほく顔で蓮子は帰宅し、メリーにその旨伝えた。
 後は行くだけだ。その筈だ。だが、反応が悪い。

「行くの。なんか蓮子じゃないみたい」

 冷めた目で、いっそ非難を帯びた目で、メリーは言う。
 蓮子はうろたえた。その表情は遠い記憶。いつものようにメリーは二つ返事で提案に乗ると思っていた。
 そのあまりの予想との違いに、心の中で誤りを探す。蓮子は個人としても二人としても意に沿った決断をしたはずだ。秘封倶楽部の決断を。探しても間違いは出ない。それが蓮子を増々困惑させる。
 メリーの瞳は冷たく鋭い。この時初めて不快を、いや明確に止めろとの意思表示を、メリーはした。

「何を見ているの? 何に追われているの?」

 瞳は、じっと蓮子を見つめる。メリーの心を、蓮子の心を、理解しているのかなじるように。
 そして音もなく手を伸ばして、蓮子の手頸を握った。突然の行動。驚く蓮子にも構わず手頸には力が込められる。
 熱い。抑えられ、脈がどく、どくと手の側に鬱血する。それでも彼女は離さない。離さないという、強い意思を見せる。
 何処へ行くの。低く、呟いた。

「……行くべき場所」

 握る力が強くなる。関節が少し嫌な軋み方をする。

「それは私の行くべき場所じゃない」

 強く、訴え、確認する言葉。彼女の言う事こそが真実だと、蓮子に認識させるための言葉。
 それは低く、低く、力強かった。生半な蓮子の答えを許さない迫力があった。実際に許さない。彼女は許さないだろう。失望は、確かな怒りに変わる。
 彼女は言葉を発しようとする。彼女の想いを、受け止めるために蓮子の口は結ばれる。

「蓮子は、なんなの? あれもこれもやりたいって、追う側の身にもなってよ。置いてかれるのなんていや。だけど蓮子は、どんどん行こうとする。先導なんてされなくたって、保護なんてされなくたって関係ないわ。それは、確かに蓮子には色々と世話になってることだってあるけど、でも、それも、私だって、自分で思ったりやりたかったりする事はあるのよ? 蓮子。ねえ」

 そして、吐き捨てる様に、

「私は、蓮子のペットじゃない」

 そう言った。
 その時の自分の顔を、見る事が出来れば、蓮子は何を思えただろう。縛られた身体を、動かせないまま、ただ相方のメリーの表情だけが見える。それは怒りでも悲しみでもない。蓮子は思う。きっといつかの自分も心の中では同じ顔をしていた。得も言えぬ感情。その発露。

「私蓮子が何考えてるのかなんて分かるわよ。ずっと一緒に居たんだもん。何やかやって理由を付けて、実は敵が出来たことをうれしく思ってた。京都にずっと居続けたのだってそう。それで来なくって、痺れを切らして行くんだ。我に艱難辛苦をだなんて、今時流行らないんだよ、そんなの! 良いじゃない、変なことしなくたって。無理なことしなくっても良いじゃない。……危ういよ、蓮子。私、蓮子が居なくなってしまうのが、一番怖い」

 震える声を、押し殺すように。既にその手に力はなく、それでも絡み付くよう手首に巻き付いている。それを優しくほぐす。

「私は、メリーを置いてったりなんかしないよ」
「うそ。うそつかないで」
「手を、繋ごう。何処へも行かない様に。遅れても、引っ張り上げられる様に」

 そして、一番言いたかった言葉を言う。

「だから私が遅れたら、絶対に引っ張り上げて欲しい。私は落ちても上がっても決してこの手を離さない。決して。だから、約束だ」

 こんな言葉を、もっと早く言えればよかった。こんな時こんな彼女にしか言えない言葉を、自分を、どうか行かせてくれ、強くさせておくれ。握りしめるよう手を取った。
 彼女はじっと蓮子を見つめた。その眼に半分涙ぐんで、これ以上何の否定も止める事も出来ないで、

「蓮子は、蓮子が」
「私は、居なくならないよ。消えない。少なくとも、あと暫くは」

 だからこれだけは信じてくれ。私はメリーの隣に居たいんだ。前でも後ろでもなく、同じ列のすぐ横に。手と手で繋がって、歩きたいんだ。
 そのためなら何だってするさ。それが宇佐見蓮子の存在理由なのだから。そう決めたのだから。

「そんなの、信じない。蓮子は無茶ばっかする。いざとなったらしがみついてでも止める。絶対、生き延びてみせる」

 気を取り直したメリーがそう言ってのける。蓮子はそれでいいよと微笑んで見せ、行こうと促した。


――


 不思議と、入口には誰も居ない。守衛も。いや、受付のある類の建物ではないため当然と言えば当然なのだが、静かすぎるか、とも思った。
 誰に咎められることなく門をくぐる。その向こう、ナズーリンが、柱の陰から手招きした。先に来て、待っていた。メリーに目配せし、蓮子はそそくさと建物内に入り込む。
 暗い静けさ、廃墟と見まごう廊下が蓮子の視界に入る。不思議は疑念に、そして警戒に変わりゆく。本当に誰もいないのか。危険を承知で、ためしに手近なドアを開け放してみた。誰の姿もない。人の居た痕跡だけが残されている。職員がなく連絡もつかないこの施設はこの日、機能を完全に止めていた。

「人、居ないね」
「そう、だね」
「ねえ、蓮子、言いたくないんだけど」

 こういうの罠っていうんじゃないの。言おうとするメリーに皆まで言うなと口止める。
 玄関口、入ってまだ十歩程度の入り口で早くもメリーは懐疑の目を向ける。落とし穴に自分から突っ込んでいくバカが居るか? 本当に行こうというのか?
 蓮子にも自信がなくなってきた。本来他に手を回す、混乱の内に、しかもそれほど重要性のなさそうな伊弉諾物質を狙うことに肝があったのだ。いくら勝算があってもこんなおもてなしの用意は想定していない。
 どうしたものかと案じている所、ふいに肩を叩かれる。振り返るとナズーリンが背伸びをしながらさりげなく耳打ちをする。

「やっぱりただの建物じゃないぞ、ここ。そうだな、ちょっと、多分あれだ。そこの調度を見てみると良い」

 調度。行く手、目に付いた花瓶を触り、覗き、持ち上げてみる。特に見つかる物はない。だがナズーリンは、顎でもう一度見ろと促す。

「蓮子何やってるの?」
「いやなんとなく気になって……いや、そうだ、飾りが多いんだ。こんなただの通路に」
「職員さんの心を和らげるとかじゃないの?」
「普通はそうなのかも知れないけど、こんな曰くつきの建物の場合はむしろ――」

 ふと思いつき花瓶をひっくり返してみる。水と花が零れ落ち、底には、

「これだ。こういうのが、そこら中にあるわけだ」

 まじないのような何かが、びっしりと描かれていた。
 メリーが覗き込み虫を見つけたような表情をする。飾られた額縁の裏、もしかすれば床の下にもそういったものは施されているのかもしれない。
 近くに居るナズーリンを見る。その視線に気付いて小さく手を振りナズーリンは否定する。専門外だ、話を振るな。蓮子は何も聞かなかった。確か彼女は寺、むしろこの類のまじないを施す側である。不得手もあるものだと思ったが、だがそれよりも、その様子から根本的に魔除けが効果を見せていない。それが気になった。メリーにもどうやら知覚すらされていない。尤も、今のメリーに退魔の仕掛けが効くのかどうか蓮子は知らないのだが。
 結局何の意味もない。なんだか、ちぐはぐだ。技術水準が見合っていない。ナズーリンという一つの妖怪を脅かし、妖の目を欺く術を持っているのにかかわらず、驚くほど単純なまじないだ。京都にも結界が張られている筈だったのに、ナズーリンには意味を成していない。

「メリーはこれ、いや、そうだな、これに眼が騙されるって事はない?」
「うーん、ないんじゃないかな」
「この間外からこの建物視たけど、これに惑わされたりは?」
「いや、ない、と思う。確かに嫌な感じだけどこれじゃない、別のだって分かるし、よく視ようとすれば痕跡が……下に……」
「下、か」
「ああ、ある。えーっとこの階の天井で大体四階くらい? 他の建物と同じくらいの感覚で良いよ」

 メリーの眼も、ほぼ、いやおそらく完全に、素通りしている。蓮子が遊びで作ったとしても、質の面では同じだろう。
 いや、そうだ、そこではないのか。秘封倶楽部はこの日本において人間としては最大級にあちらへ近づいている。その蓮子ですら妖避けの呪いなど使えるものではない。蓮子が知らない事を余人が知るわけはないのだ。
 だが相手は如何様かにして排撃の手段を持つに至った。それは蓮子の知らない技術。蓮子の知らない世界はまだある。行くべき場所は幾らだって残っている。それが確かに感じられた気がして、蓮子は薄く微笑んだ。
 すると、ふと思う。

「この建物、本部なんじゃないの……!?」

 やけに広い地下、必要以上に施され続けた結界的紋様。それが何に対するためのものであるか。必要である理由。建物がみすぼらしすぎるため埒外であったが、首都にあって地方支部というのもおかしい。
 とすれば、あの時この建物に目一杯近付いたことは相応に相手を焦らせていたのだ。意図しないとはいえ疑心暗鬼を生んだのなら些か気のすく思いもあり、気の毒な思いもあり。
 ただ良いこともあった。ここが本部で人が居ないのであればやはり手薄である可能性が出てきた。

「ついでに補足しておくと、この前視た時はあれ一階にあったからね。移動させたみたいだね」

 甘い思惑はすぐに塵と消えた。
 移動させるくらいなら備えもあるだろう。ほどなくして、下り階段を見つけた。逡巡を、ほんの少しよぎらせて、蓮子から先に降りた。
 いやに静かな壁に足音の反響を聞き、その息遣いすらも響いているような感覚を覚えながら、階段を下る。特に長さの変わることなく四階層分、メリーが歩みを止めた。目的物が横軸に視える。メリーは言う。
 力を発しているわけではない。ただ感じる。可視光、電磁波信号の視界の中に、在る筈のない違和となって感じられる。
 そうか、と蓮子は呟いた。方向も判明。同じ建物内、近い。階段の踊り場で、蓮子は深く息を吸う。
 建材の匂いが微かにする。メリーも、傍らで神経を緊張させている。その表情に怖れがよぎる。不安を実現させる事、その可能性が目前に迫りつつある事。
 蓮子は腰に収める札に手をやった。もし本当に罠であり、待ち構え、その身を晒すことになるのであれば、蓮子はいつだってこれをかざす。相手に向かって叩き付ける。
 使うことには、ならない方がずっと良いだろう。だが、もし、使うのであれば。
 メリーの帽子に手を置いて、押し込むように力を込めた。大丈夫だ、怖がることはない。蓮子の持つ切り札は、今この一瞬は無事に二人を切り抜けさせるだろう。
 なら、次は? 次はない。もし、使うのであれば。蓮子はそれを余す事無く使い切る、そのつもりでいた。出し惜しみはしない。未だ使えない三枚目。
 少し重たかった、借り物の力。蓮子のものではない誰かの保護。それを返してしまうために、清算してまた往くために。この場で全て使うつもりでいた。

 ナズーリンが前に出た。誰にも気づかれない様な、ただ意図を知る蓮子だけが分かる様な動きで。索敵を開始する。
 蓮子は素直に後ろを進む。初めてくる建物、内部の見取り図もないのにナズーリンは要所で蓮子にさりげない合図を送る。直感が優れているのだろうか。それとも、蓮子の与り知らぬ職業的技能であろうか。
 地下四階をひた進む。途中の扉には鍵がかかっており開かない。通路は無駄に入り組んでいる。階段は直通していた。この階が特別なのだ。惑わせる、阻む。蓮子は壁、天井を見る。その裏には嫌なものが隠されている気がする。
 曲がり角に差し掛かる直前、ナズーリンがぴたと止まった。

「……あ、えっと、すまない」

 申し訳なさそうに振り向いた。何事かと思う刹那、よく通る声が角の向こうから伸びてくる。

「出てきたまえ、そこに居るのは分かっている」

 そう言う事だという表情を作り、蓮子に行動を促す。要は、気付かず、おびき出されたのだ。まだ一行は物陰にいる。来た道を引き返しても、このまま居留守を使っても良い。
 メリーを見た。それは引き返しという後ろ向きな思い、前に進む破滅的な感情、そのいくらも含んだ同意の視線。もうとっくに線は越えている。だが、それでも、運命を共にしてくれるか。
 メリーは噛み潰すような、否定するような、しかし決して退かない決意の視線を蓮子に返した。

 雑念を振り払うように息を深く吸い、蓮子は呼応するように脚に気合いを込めた。
 秘封倶楽部が秘封倶楽部の活動を全うする、それは理由足り得るか。足り得るに十分だ。それで十分だ。純粋な活動家はその一事で事を起こすことが出来る。
 蓮子は純粋な活動家か? そうでありたいと願っている。そうと決めた事を、貫き通す者でありたいと思っている。
 それが蓮子の、この情けない蓮子の立つ寄る辺であると、蓮子は信じている。いっそ破滅的であろうとも、常に自覚し追い求めてきた。懐に札はある。まだ行ける。脚を踏み出せる。
 廊下の先には用意が調っていた。
 通路を埋める構えの列。メリーが息を呑むのが分かった。蓮子も、心の中で息を呑む。並ぶ銃身は構えのそれぞれから害意の象徴をこちらに向けている。それは迎撃の用意だ。決して通さない応対の。中央、一際位の高い人間が一歩進み出る。

「誰か来るとは思っていた。それが君とは思いもしなかった。宇佐見蓮子……君は、誰だ?」

 蓮子は答えない。一歩後ろのメリーも、もっと後ろのナズーリンも、沈黙を保っている。
 相手の後ろの方で話す声が聞こえる。

「あれが八雲紫……」
「刺激するなよ」

 今までの資料も全て使って、秘封倶楽部の事は把握されているのだろう。
 どこまでも、どこまでも。

「私達の目的は一つ。そっちが保有している伊弉諾……いや、とにかく、物質を貰いに来た」
「何故」
「興味があるから」

 返事を受け、つまらなさそうな眼差しを浮かべる。

「あれは君達には必要の無い物だ。そして、かつ文化財でもある。もっと文化に敬意を払いたまえ。考古学的な価値も言うまでもない。渡す理由がない」
「それでも私には、必要なんだ」

 交渉の様な話はそこで終わった。蓮子は自らの所信を表明し相手は否を伝えた。もう引き返せない。人の群れが蠕動を始めた。
 相手の気配がひりひり灼けつくように蓮子に届く。眼前の人の壁の恐怖を、圧力を、すぐ傍に感じる。
 傍らのメリーの心配そうな顔。大丈夫だ、まだ大丈夫だ、姿勢で語る。
 無力化の切り札、既に体に隠し手に持っている。一塊でいるならむしろ好都合。打ち付ければ終わり。だが身体が重い。泥流を進むように感じる。数多の意識が蓮子に集中している。振り切れ、怯むな、怯懦の壁を突き抜けろ。
 視線を前方の対象と交わした刹那、そこに居る全員と目があった気がした。蓮子は踏み込みつつ発動をかけた。

「君には誰かから言伝が行っている筈だ。次は甘い顔をしないと」

 その言葉は酷く乾いた衝撃音に掻き消される。
 ずっと向こう、筒を構え鷹の目で射抜く者がある。振りかざした一枚目が消え去る。蓮子はそう認識した。いつの間にか消え、掴む事も出来なくなった。右手が空を切った。
 全身が総毛立つ。感覚が鈍磨され、混乱が切り取られた時間を支配する。そして、予感。何が起きたかおぞましい想像を予感しながら、蓮子の目線は意識の前、反射として出来事を追う。見てはだめだ。警鐘虚しく視界の端が捉えている。右手、乾いた音、そこに在るもの。右手。目線が空を切る。在る筈の手は無く、いびつな破断面だけがそこに残る。
 蓮子の喉が絞まった。身体を損壊される恐怖と、痛み、不吉な赤い色が一度に迫りくる。理性は既にうずくまって、どこかへ寝転んでいる。意志が逃げる。脚を支える力が失われる。
 上げそうになる悲鳴、それを、視線に気付いて噛み潰した。
 メリーは見ている。私が傷つく様を、倒れ往く様を。決して倒れはしない。激痛を、指の激痛を握り潰し、その眼で、メリーの瞳を捉えた。
 そして彼女の瞳に刻み付けた。私は、決して倒れない、と。
 吹き飛んだ指を見せつける様に眼前へ掲げ、左手で腰のベルトを解き外す。

「三枚目ッ!」

 即応性の札。蓮子の動きへ対応するように銃声が壁に反響する。今度はその身体を狙って。その銃弾は、届かない。鞄の裏、いつも持っていくその裏地に思い切り貼り付けたそれが即座に力場を形成。蓮子と、そしてメリーと、外界を遮断する。
 向こうに表情が見える。怖れ、驚愕、人の使い得ない異界の力。弾は弾かれるでもなく消し飛ばされるでもなく、やんわりと推力を失って床に落ちる。
 ひどく簡素な、ぱらぱらとした音が響く。奇妙な静けさ。次第に音も聞こえなくなっていくのを感じる。
 後ろから声がする。ふっと目をやると、ナズーリンが慌てた様子で何か言っているのが見える。だが、駄目だ。もう聞こえない。何か訴える姿を見留めながら、その一瞬、二人は消え去った。

――

 晴天、木の屋敷と、庭に茂る草の匂い。草木の整えられた地面に倒れ、辺りを見上げて、蓮子はいっそ懐かしさすら覚えた。何かに呑み込まれ、出て来た場所はあの日滞在を続けたメリーの家。結界も、場所の制約も越え、二人は京から郷へ転送された。
 三枚目の札は最後の札。他の二枚と違い効力の説明はされなかった。一番最後の切り札、しかし確実にその場を凌ぐ事は出来る。そうとだけ言われて。
 だが、このような意味だとは。なるほど最後の札だ。使えば旅の終わりが確定する。二人の手に負えない問題から、まさしく連れ戻されるのだ。
 苦々しい表情が蓮子に浮かぶ。視界に入るのは土や木ばかり。つまり、失敗だ。得た物は何処に在る。何も無い。大言を吐いてこれとは、苦笑も出ないが、しかしこれが結末だ。
 メリーはどうしているだろう。見回せば少し離れた所にへたりと座り込んでいる。蓮子と周囲の景色を見るとも見ず、視線だけを動かし続けている。メリーは、自らの常識を外れたこの事態にただうろたえている。
 うろたえている。それはきっと突飛な現象に巻き込まれたからに限らない。この事態にどう反応すれば良いのか。どう感情を浮かべれば正解なのか、彼女は無意識のうちに探っている。
 何がメリーとして自然なのだろう。それをメリーであるメリーが探している。なんと不自然。不整合な行為。
 それが見ていられなくて、つかつかと歩み寄り、手を取った。激痛が走る。そうだ、吹き飛ばされていたんだ。メリーの手が血に染まる。それに構わず握りしめる。
 メリー、もういいんだ。私は全て知っている。相方は全て承知の上で付き合っている。

「私は無事だしメリーも無事。今はそれで問題ない、問題ないんだよ」

 紅く熱を持った両手をもう一度強く握りしめ放す。今はとにかくこの傷の手当てがしたい。今の所は麻痺しているようだが見てるだけで血の気が引くし、気が緩めば泣いてしまいそうだ。
 取り敢えずは、まずは、そう医務室、いや薬箱だ。だが薬で、包帯でこれがどうにかなるものか。血が、溢れ出る所を無意識に覗き込んでいる。その造形。奥歯がかちりと鳴った。
 そこに、札の動きを感知したのだろう、廊下を狐が現れる。音もなく、落ち着き払った様子で。
 彼女は蓮子と、メリーを見留め、そして蓮子の右手を見留めた。長い尻尾を揺らめかせ、再びメリーを見る。メリーは見返している。その謎の闖入者を。庭へと立った闖入者はメリーに近付く前、まず蓮子の近くに来た。
 隣にいる。メリーは蓮子の隣に。それを見ようともせず。言葉も交わさずどこからか取り出した粉薬を蓮子の口内に注ぎ込む。

「あ、あーっ」

 味わい嚥下すると共に自身の輪郭が滲む感覚。何を注がれたのか、酷い即効性に別の意味で気色が悪い。
 身体の何処に何が在るのかが分からない。痛みもどこか空気の壁の奥にある。そう、確実に痛みからは離れることができた。代わりに痛み以外の感覚もだいぶ引き離して。
 自らの呼吸音がやけに大きく聞こえた。狐妖が何か言っている。もう大丈夫だ。そんな事を言われたような、気がする。
 薬で朦朧とする意識の中、尻尾の生えた誰かと仲良くお話する自分を、愕然と見つめるメリーが見える。
 猜疑。よいように話を終えた直後の、謎の秘密。

「これ、誰? 何を、なんで知ってるの? 蓮子はここで」
「メリーっ」

 なんかもう面倒臭くなって、蓮子は両手で頬をぐにゅーっとつねる。片方は無いのだけれど、もう自分でもよく分からない。目をぱちくりさせて、メリーは蓮子を見る。

「メリーはメリーだから、そういうのいいから。それより折角良さげな場所に来れたんだから早く石視てよ。機会は早々巡らないよ」
「あ、わ、分かった。……いや、でも! 理由は教えて貰うからね! 流されないから!」
「おー、お任せ」

 我ながらなんと強引な機転だ。だが、良い機転だ。誤魔化されてくれたし、実際この場所は位相がどうのと説明されたことがある。結界の内外だ。他の場所と趣が違うこともあるだろう。
 恨めし気に振り返り振り返り、少し離れた場所へ歩いて行ってメリーはしゃがみ込んだ。そして両手で、渡してあった包みを取り出し覆うように握る。
 瞼を閉じ、眼を輝かせ、彼女は石を覗き込む。石のような物質を。

「場所が向こうに寄ってるのかな。ここじゃない、ここじゃないけど、でも、視えてる」

 うわごとの様に言って、そのうち、言葉も消えた。静かに。メリーはその世界に潜り込んでいる。
 蓮子もまた音を立てずに移動し、庭の石飾りにもたれかかり、据わった目で座り込む。藍も、いつの間にか傍にいた。声をかけようとしてかけられず、蓮子は視線を傾ける。
 庭の奥、見渡す郷の遠景に暗い渦が見える。空気の軋む、感覚の渦が。空一枚を隔てて鉄火場に居るのかもしれない。崩れれば蓮子も巻き込まれる、熱い場所。蓮子には視えない妖の最前線がそこにある。

「」
「ああ、あちらも本気だな。既に幾らかは山を登ってきている」

 声を出せず、目だけを動かした蓮子に聞きたいだろう情報を教える。

「どうだろう。結界の力を信じてはいるようだが、もし突破されたときはその穴から一斉に出で往くつもりらしいな。だが、その場では殲滅できたとして、その後はどうなる。もはや根無し草。共栄の道など端から閉ざされている。果たしてどう転ぶか、転ぶことすら出来るものか」

 痛み止めの効果で意識が薄れ、朦朧としている蓮子にもう一つ何かが手渡される。

「ホラ、気付け」

 少し大きめの丸薬のような何か。手のひらに乗ったそれを震えながら口に運ぶ。
 胃に落ちた感覚としばらく後、身体に悪そうな衝撃と共に鮮明な視界が戻ってきた。いや、霞んでいなかった。今までその瞳は正常に動作を続けていた筈だから、認識そのものが鮮明になったのだ。庭に在る物々、そこにいる二名、一名。痛みはぶり返している気がする。あまりに急激な認識の揺り戻しに、感覚の向こうで本能的な不味さを感じる。

「ら、藍さん、私大丈夫ですよねこれ。私常人ですけど、特に丈夫なとこは無い一般人ですけど」
「大丈夫、大丈夫だよ。君なら大丈夫」

 何をもって大丈夫とするのか、不安がる蓮子に適当なあしらいをかけてメリーを見る。
 うずくまって、石を持って、彼女は何を視ている。
 気付けば、知らぬ間に止血と手当てがなされていた。礼を言おうにも声をかけづらく、蓮子も一緒にメリーに目をやる。
 視える保証もないのに。彼女は潜り続けている。それが蓮子の、その場限りの言い逃れに終わる可能性も否定できないのに。見守るように蓮子はメリーを眺めていた。
 ふと気づく隣に立つ者の姿。
 ここに居る、旧く、力のある大妖。この偉大な妖は蓮子など及びもつかないほど時経ている。良い機会ではないのか。伊弉諾物質の話を聞ける、二度もない。

「……」

 視線を送り、悩む蓮子に優しい笑みが返ってくる。見透かされている。その心の動きを。そして教えてくれる。聞けば、きっと。そんな予感がある。
 逡巡を、かすかによぎり、蓮子は結局、言葉を止めた。それは都合の良い近道だ。真実は、蓮子が、二人が辿り着いてこそ、意味がある。

「少しいい面構えになったか」
「は……自分じゃそんな気はしないですけど」
「まあ、そんなもんだ」

 そしてふいに視線を蓮子からメリーへと向ける。
 メリーは既に戻っていた。呆然と余韻に浸っていたのが、ふっと我に返ると、蓮子の姿を認め、駆けよって来た。
 隣に立つ狐を見る。目を合わせる。全く知らない誰かを見る目で狐を見る。狐はこんにちはと言う。メリーは会釈を返す。狐は影のように後ろに下がり、二人の間から消えた。

「……大丈夫?」
「今のところは」

 欠損部に視線をやり、顔色を覗い、心配そうに尋ねるメリーにそう返す。
 そうだ、大丈夫だ。右手以外は。これはこの後どうすれば良いのだろうか。腐る前に切除するのか、縫合を重ねたりするのだろうか。想像しただけでふっと来る。痛そうだし、その光景を目にしたくない。
 だが、今のところは無事だ。その旨伝えると、メリーも意を決したように表情を切り替えた。

「視えた」

 そうだけ言った。意図が読めなかったが、すぐにそれが、興奮に近いものから来ていると理解できた。
 何を伝えればいいか、その逡巡が手に取るように分かる。言葉では上手く探せない。たったの一語に、ようやく凝縮した。そして、決して伝わらないと判断したのだろう、もどかしげにその左手を蓮子の眼に当てる。

 ――霧の中、いつも見る霧中の山、開けた場所の人影。蓮子の視界は今までより鮮明に引きずり込まれ、輪郭を細かにし、広場の全貌を目にさせた。
 そこには作られた祭壇、清められた土地。そして、遠くにうごめく、誰かたち。蓮子はぞっとした。誰か知らないものに蓮子たちの行動をも見られていたような気になった。
 そんなことはない。これはいつかのどこかの光景。誰かたちはこの広場を見ている。この広場の、広場にいた、人影を。
 人影が視界の前に進み出た。そして通り過ぎた。人影の顔は分からないものの、その誰かは明確に祭具を行使している。身にまとい、手に持ち、それは儀式を行っていると形容するに相応しい。そして祭具の行使される先、人影の前の祭壇にその儀式の大本がある。
 大本は死角になっていて見えない。そこにあるとは分かっているのに。ただどうにか見ようとしている、そのメリーの気持ちが伝わってくる。人影が祭具を下ろす。すぐに儀式は終わる。終盤だったらしい。視点は祭壇上の大本に向かう。
 人影はすでに動作を終え佇んでいる。何をしているのか。その沈黙に、待っているのか、と思ったとき、突然大本が光を放った。
 いや、ように見えた。それはメリーの感受性が知覚した気脈の発現。発せられた気は収束し、次の瞬間大きな束となって天に伸びていき、高く届いて拡散した。
 拡散したものがじわりと滲んで広がる。面となり満ちる。それは結界だ。結界が、空を、大地を覆いゆく。遥か彼方へ遥か遠く。それはやがて馴染み、薄れ、視えなくなる。
 だが、確かに存在する。二人の石はその起点に居る。否、その起点を見ている。
 人影が薄れゆく。景色も、みな。
 儀式は終了した――

 メリーの興奮した顔が目の前にある。映像から戻り、しばしの茫然のあと、蓮子はふと上を見上げた。空、遥かなる蒼い空。その空は、かの空か。太古より連綿と連なる青い空。あの向こうに、結界は在るのか。
 すると、途端に、この空が。博麗大結界を抜けた先に在るこの空が、たまらないものに見えて来て、蓮子はメリーと向き合った。
 その顔は同じ表情をしている。蓮子と同じように、この空に空想を馳せて、そこに在るものを感じた顔だ。

「伊弉諾物質全てが、結界の関係物だったりするのかな」

 逸るようにメリーは話を続ける。さすがにそれは考えにくいだろうと蓮子は言った。伊弉諾物質からメリーが読み解くものは様々で、限定の様子はない。順当に考えれば物質の関連物で濃く残りそうなものが視えるのだ。
 だがその可能性がないとは言い切れないだろう。この広さだ、気付かないほどの欠片でも関連が残っていればそれだけ視えやすくなるのだろうから。
 もう一度、目は中空、天空を向く。在れば、視えやすく。今も、あるのだろうか?
 消えてしまっているとは思いたくないが、しかし遥か神代の出来事である。とおい空の上、メリーも気づかないような場所に在る結界。どうやって確かめる。

「あっ!」

 いきなり、メリーが得心したように顔を上げた。

「これ、記録にあるんだ」
「……? 記録?」
「記録だよ。だから、何で知ってたのかって話」

 いまいち得心の行っていない蓮子にもう一つ言葉を重ねる。

「あの人達……政府側? の人が結界を知ってた理由だよ。私と違って視ることも出来ないのに知ってるって事は、多分向こうには記録が形として残ってて、それをもとに動いてるんだ」

 何か言いかけ蓮子は口をつぐんだ。そして、少し考え込んだ。蓮子は理由をこの郷に見ていた。この郷の存在を見、それを対手に思い法を整備したのだと思い込んでいた。実際に妖の存在を知り対策を施しているのだから外れはしない筈だ。
 だが、この郷のほかにも見ているものがあったのだとすれば、腑に落ちる点がある。
 二人は東京近郊で初めて捕捉された。本当に郷をこそ主眼に置いているのであれば、郷の入り口周辺にこそ監視の目が置かれる筈だ。東京の蓮子達を血眼になって追いかける必要も本当はない。
 なのに、秘封倶楽部は明確に排除対象とされた。郷と関係のない結界にこそ注意を向けているのであれば、どこで活動しても網はある。その行動は全国に及ぶ。
 あれは、その調査だった。二人は運悪くそれにぶつかった。

「ん、てことは……」

 今も調査を続けている。結界暴きを禁止している。

「結界は、在るのか。少なくともそういう事にはなっているのか」

 法は、罪は、皮肉にもその存在を肯定している。あの決まりごとは、確かに意味を持っていた。この土地の根幹を意識するように、崇めるように、畏怖をもって、立ち入るべからずの札をした。
 甲高い、乾いた音が一瞬聞こえる。

「何の音……?」

 メリーも聞こえている。幻聴ではない。
 蓮子よりもメリーの方がずっと違和感を持って聞こえているのだろう。少し遠くで佇む藍に目をやる。彼女はそうだと視線で言った。攻撃の始まりだと。

「ちょ、ちょっとメリー、そこ居て」

 怪訝な視線を郷の端にやるメリーを留め置き藍のもとに向かう。

「も、もうですか」
「こんなもんだよ。さて一両日かかるか一刻もつか」

 さらりと言ってのける。端から結界の破られない期待はないらしい。以前郷の妖怪は本質的に外の人間に勝てるものではないのだと聞いた。もう諦めているのか。聞く事が出来ない。
 それに。暗い感覚が蓮子をよぎる。逃亡に近い後ろめたい感情。ここは、落城の現場だ。この場に留まるなら身の安全すら保障できない。

「逃げるなら今のうちだよ。案内ぐらいなら付ける。私は残るが」

 そんな心情を見透かしたように言う。蓮子は心に首を振る。いいや、これはみな取る普遍的行動だ。蓮子がどうではなく合状況的に言葉を発せられるに過ぎない。
 だが当事者は既に覚悟を決めている。蓮子にとっては急すぎる。メリーはこちらに向こうとしている。今危険だと伝えたとき、逃げようとメリーは言ってしまうのではないか。それが怖い。メリーがその口で言ってしまう事がとても良くない事であると、蓮子には思えてならない。
 都合がよすぎるだろうか。だが、何かないか。
 悠然と立つ藍の前、蓮子は半狂乱で考えを巡らせている。要は取引の材料があれば良い。何か突き付けられるような弱みが出せるなら……。

「……藍さん、向こうと連絡する手段ってありますか」
「ん? ああ、そうだね、この結界の向こうへは無理だけれど、君が飛んできた場所にだったら紙片程度は飛ばせるな。あの札はかなり強引な使い方をしてるから、残る」
「じゃあ、手紙……そうだ、なっちゃん! 忘れてた、急いで書かないと……!」
「代筆しようか」
「出来るならお願いします。ええと――」

――

 銃火を身体に掠めながら、ナズーリンは狭い通路をかけていく。気付けば各所封鎖されていて、逃げることも出来ない。
 あの後、呆気にとられた人間たちの間にナズーリンは取り残され、その隙間もない場所からどうにかそそくさと離れられないかと身じろぎした所、彼らもまた我に返った。
 それからは無我夢中だ。とび越え、跳ね、駆け、どうにか今の今までは狩られずに済んでいる。
 だが、時間の問題だろう。銃火は身体で受け止めるにはあまりに鋭く重く、頼りの得物、お気にのロッドも片方おじゃんだ。
 そもそも何で自分がこんな目に合ってるんだ。荒事なんて専門外だというのに。

「なんだ?」

 身を潜めている場所にぐうと空気の渦が巻く。
 空間に小さな穴が開き、そこから一通の便箋が落ちてきた。

――

「おお、おお、上手く行ったな。人間どもが退却を始めたと」

 手紙には多くを書く時間は無かった。ただ、結界の秘密は暴かれた事、それだけはしっかりと書いた。それが護国結界であろうがなかろうが、彼らが存在を認識しているならおざなりにはできない。
 双方向の交渉ではない。脅迫にすら、なっていない。だが手を引かせるには十分。損得を計りなおすには十分。相手は退く判断をした。それで良いのか、良かったのか。根が除かれたわけではない。なお深く、確かになって残っただけではないか。
 蓮子は一度力ない笑みを返し、思い直して、努めて気丈な表情を作ろうとした。もう戻りはしない。行ったものは行っただけが残るのだ。
 メリーが、音が消えたと言った。そして、蓮子と藍の様子を見て何らかの解決があったのだろう事を察したようだ。
 蓮子はたじろぐ。全て落着したとメリーの瞳が言っている。

 抗争は先送り、外には出れない。

 蓮子の判断力は今、目先の問題をどう誤魔化すかに力を注いでいた。
こんなに長いものを読んでくれてありがとうございました。

なお、長いため作者自身誤字、脱字、表現の重複(!)把握できてない箇所があったりするかもしれません。もしあったらそういうやつは大目に見てください。かしこ。
ごまポン
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
ふう…いい秘封だった(賢者タイム)
タイトルに偽りのないチェイスチェイスチェイスな濃い内容でした。ウロボロスみたく互いに追い合うふたりのすれ違いがたまらんかったです
紫が自らに施した結界はそのままなのか、それともいつかまた暴かれる日が来るのか、蓮子自身が秘封倶楽部でありたいと願っていたからこそメリーで在ることを選んだ感じですので、当面は郷のなかでしょうか
過去の同志がいたのもなんかしっくりきちゃうこの蓮子は、なんでしょう、湿気って「あれ飛ばないな?」と思って近づいたら加速しだすロケット花火みたい。聡明なイメージが強い彼女のがむしゃらなところがとても人間らしくて、内向的なメリーとの差が際立っていて魅力的でした。密かになっちゃんに嫉妬心燃やすメリー(紫)可愛い
とても素晴らしい秘封小説でした、素敵なひとときに感謝です
3.100名前が無い程度の能力削除
時代なのかなぁ。面白かった。