弟分の黒猫が、今朝逝った。
ただの猫としては長命。妖怪の火焔猫としては、少し早すぎた。もともと病気がちで、体の丈夫な子ではなかったけれど。人型化もままならず、地霊殿の冷たい床を、靴ではなく肉球を鳴らして歩いていた。
先に亡骸を見つけたのは、お空。珍しくあたいを起こしに来て、あたいの足元で丸くなっているのを発見した。身体はまだ温かかった。
黒猫だけど、あたいの艶がかった短毛と違う、灰の混じった長毛をしていた。砂利やほこりがよく毛に絡んでいて、しょっちゅう手入れしてやっていた。あの子が。
晩年には、足を悪くしていた。さとり様が言うには、血栓ができていたとか、腎臓を悪くしていたとか。詳しい病状までは、あたいにはよくわからなかったけれど、
「いつ亡くなってもおかしくなかったわ。むしろ良く生きた方」
平坦な表情で、さとり様はペット名簿を捲った。白い肌に影は射さなかった。あまり、悲しんではおられない様子だった。
悲しくは、ないんですか。泣いたりは、しないんですか。なにか、思うことはないんですか。机越しの思念に意図せず、悲哀と軽蔑が混ざった。あたいの顔を、赤玉と霞紫の瞳で一瞥して、
「慣れたわ」
顔色も変えずそっけなく。名簿に載ったあの子の名の横に、日付を記した。起伏を見せないさとり様の表情は、白くて冷たかった。
◆
あの子の名前。拾ったばかりのころ、毛は綿毛のようにもふもふで、目は透き通るように真っ青だった。まだ自分の漢字を覚えきらないお空が顔を覗き込んで、「名前はソラにしよう!」と安直に提案した。地上に出たこともない癖に、どこで空の色を知ったのか。
「絵本で読んだ」
確かに、クレヨンみたいな空色をしていた。
紛らわしい名前は却下だと、さとり様にケチをつけられて、二人で名付け親になるように命令された。初めての体験に小躍りしていたら、今日は遅いからもう寝なさいと叱られた。結局新入りは名無しのまま、あたいたちに抱かれて地霊殿の最初の朝を迎えた。
翌朝、交わす視線が驚いた。昨日までの空色の虹彩が、嘘みたいな黄金色に染まっていた。鏡磨きの金色とは違う。輝きは鈍いのに、放つ光があたいを捉えて離さなかった。原石っていうのはこういうのを言うんだろうか。僅かに架かった翡翠が、あの子の瞳をなおのこと天然のように見せていた。
「コガネは?」
「なんか虫っぽいし、小金持ちみたいでヤダ。延べ棒とか!」
「なんでそっち方面に行くの。余計現金臭するじゃんかさ。コンジキはどう?」
「強そう」
クロガネ、出目金、キラキラ、ゴールデンアイ。外国の辞書や名付け辞典を引っ張り出して書斎で行われた命名大会に、さとり様が頭を抱えた。
あたいもお空も、無い語彙力を振り絞った。真っ白だった紙の余白がなくなった。あたいの丸文字と、お空の下手な字で真っ黒に敷き詰められたころ、
「キンイロ」
誰かがつぶやいた。振り向けば、こいし様が名無しの黒猫を高く抱えて、目を覗き込んでいた。それまで渋い顔をしていた猫が、我が意を得たとニャアと鳴いた。こいし様が微笑んだ。さとり様がクスリと笑った。あたいとお空はふくれっ面。続いて聞こえた満足そうな、ナーオの一声に、二人で相貌を崩した。命名権争いは、無意識の乱入に幕を下ろした。地霊殿に、家族が増えた。
◆
「亡骸をどうするか、ね」
さとり様が名簿をぱたんと閉じた。どこか機械的な手つきだった。
地霊殿でペットが死ぬのはこれが初めてではない。ペットの中には、妖怪化せずに寿命の短いまま逝った子もたくさんいたから。早くて一年、長くても二十年で、別れの時はいずれ来る。地霊殿が建造されて何百年の間に、多くの後輩たちの亡骸を灰にしてきた。あたいの能力通りに、両手で抱えて、炉にくべた。死体は好きだけど、家族の死体は例外だった。信仰はないけれど、何とはなしに手を合わせた。骨も残さない灼熱の炉が揺らめくのを見てきた。そのたびに、空しいなと思った。隣に立つお空も、なぜ家族を燃やすのかわからないって顔をしていた。
「いつも通り燃やしますか」
「それでもいいけど、貴方はそれを望んでいないでしょう」
この子だけは、って想ってる。そうあたいの心中を見透かして、名簿を引き出しにしまった。
さとり様は、いつも空しい火葬には立ち会わなかった。毛布で包んだ遺体を愛おしそうに撫でて、
「お燐、お空。後はお願いね」
亡骸に向ける背中は、いつも寂しそうだった。
◆
キンイロは、よくさとり様の足にじゃれついていた。小さい体を目いっぱい主人の足にこすりつけて、八の字を描いているのをよく見た。さとり様は歩きづらそうに、でもどこか優しい瞳でそれを受け入れていた。よくソファに座ったさとり様の膝の上で、長い毛に櫛を通されていた。嫉妬した。幸せそうに眠るキンイロにも、愛おしそうにブラシをかけるさとり様にも。ある日、羨ましくて扉の陰から見つめていたら、
「そんな目で見るくらいなら、貴方がお世話をしなさいな。お姉さん」
ブラシとキンイロが投げてよこされた。お姉さんの響きに、しっぽが揺れた。お空も手のかかる妹みたいなものだけど、同族の世話を任せられるのは初めてだった。張り切ってかけた最初のブラシに、キンイロがブミャアという不満の声を上げた。
その日から、さとり様はキンイロの世話をあたいに任せるようになった。ブラシ掛けに始まって、餌やりからお風呂、トイレの世話まで。私も手伝うと、よくお空が横から手を出してきた。小さい体を、二人でもみくちゃにした。時折上げる声に不服はなくて、暑苦しいお節介を喜んでいた。ペットの気持ちを読む、さとり様の気持ちが分かった気がした。
名付け親のこいし様は、無意識ながら興味津々だった。時々その瞳を覗き込んでは、にやにやと得体のしれない笑みを浮かべていた。もしかしたら、名付けたなりの母性があったのかもしれない。聞こうとしたときには、空気に溶けて消えていた。
世話役があたいに移ってからも、キンイロはよくさとり様に甘えた。あたいはただの姉分で、飼い主はあくまでさとり様だから、当然か。膝の上がお気に入りみたいで、さとり様の空色の上着を咥えて、乳飲み子のように両足を順繰りに押し付けていた。おなかを押されて苦しい、お洋服が伸びる。ぼやくさとり様の口元はほころんでいた。気持ちは分かるんだ。あたいもよくやっていたから。ただ、
「お前は恩知らずだねぇ、育て役のあたいよりさとり様の膝の上がお好みかい」
なんとなくやっかみで、首根っこをつかんだ。嫉妬癖はなかなか治らなかった。橋姫の存在を疑った。嫉妬の対象が二人ともだから、なおのこと。母にも娘にもなれればいいのにと願った。
キンイロがさとり様に抱いているのは、親愛か思慕か恩義か。聞けば首をすくめて、優しい香りがするのだと猫語で答えた。思わず首が縦に動いた。さとり様が纏うのは、いつだって暖かいミルクと母の香りだった。姉弟になれたと思った。
◆
「さとり様、あたい、ちゃんとした葬式を上げてやりたいです」
放つ言葉尻が震えた。葬式という言葉が、死を想起させて嫌だった。涙はまだ流れなかった。実感するには早すぎた。
なにより、さとり様の思考が読めた。この人はまた、毛布越しのひと撫でをするだけだろうから。そんなのは嫌だった。
「……そうね。準備は手伝うから、式はあなた達で」
「さとり様も!!」
一緒が、いいです。
言葉をさえぎるために、名前だけを叫んだ。願いは思念に乗せた。強く願った。飼い主の同席を、あの子もきっと望んでいる。なによりあたいが、望んでいた。一緒に、見送りをしたかった。あたいはペットの範疇を超えて、飼い主の愛情を試そうなんて大それたことをしようとしていた。愛があったのなら。愛があるなら。一緒に、泣いてと。目は瞑っていた。顔を見るのが怖かった。いつかの異変で勝手を起こした時よりも、よっぽど。足音が近づいて、
「おりん」
頬に触れた冷たい手に、瞼を開けた。距離は至近。さとり様の薄めの眉が、垂れ下がっていた。
「わかったわ。ちゃんとお葬式を上げましょう」
「本当、ですか」
「嘘はつかないわよ。お別れだものね」
言いながら、顔が自信なさげに伏された。眦に涙は見えなかった。
「ちゃんとしたお葬式をするのは初めてだし、地霊殿には特定の宗派はないから、いろいろと織り交ぜになるけれど」
さとり様が、地霊殿の書庫から、埃っぽく分厚い本を引っ張り出した。是非曲直庁経由の書物が多く、葬式に関連した本も多種あった。
形は問わない。宗教的な正しさよりも、送ってやったのだという証がほしかった。あの子が生きた証がほしかった。
「さとり様、遺骨も残したいです」
「……わかったわ」
地雷を踏んでるなと思った。さとり様はペットの遺品を残さなかった。いつも灰にするように指示していた。理由がきっとある。それを踏みにじろうとしていた。
「いいのよお燐。あなたの好きなようにやりましょう。あなたの弟分だものね」
読んで、あたいの意思を汲んだ。さとり様の意思は、どこにあるのだろう。葬式は、したくないか。骨を見たくはないか。主人の愛を、あたいはまだ疑ってしまっていた。
さとり様の子供でもあるんですよ。背にはなった思念には、答えなかった。
◆
ある日、キンイロが血を吐いた。あたいは蒼白、お空大慌て。急いで地底の医者を呼んで、診てもらった。
薄くひげを伸ばした医者は、動物型専門ではないがと頭につけて、
「もともと体が弱かったんだの。先は長くなさそうだぞ」
絶望が音になって聞こえた。
「お燐、これからもつきっきりで世話してあげなさい。お空も手伝ってあげて」
消沈のあたい達を、さとり様は慰めた。二人それぞれに頭をなでてから、
「キンイロ、貴方もしっかり生きなさい」
細指で、キンイロの平たい鼻を押した。ナーと一声、キンイロが答えた。
その日からは、寝るのも一緒になった。ごはんもできるだけ体にいいものを。人化のために練習していた怨霊取りも、やめさせた。人化がかなわなければ、それは寿命を削るだけの行為だったから。
『ねえさん』
キンイロは、あたいのことを猫語でそう呼んだ。こっぱずかしいからおやめといったけど、実際まんざらでもなかった。
『ねえさんも、さとり様のにおいがするね』
暖かいミルクと、お母さんの香り。
なぜいま、それを伝えたのだろう。腕に抱くキンイロの体は、小さく、暖かかった。
医者の通達以降も、さとり様の態度は変わらなかった。いつもと同じ。時折膝の上にのせて、撫でてやる。それだけ。キンイロももっと甘えればいいのに。
『さとり様が、この距離がいいんだって』
真意を問おうとして、キンイロを見たら、舌をちょこんと出して、眠っていた。
「おやすみ」
鼻をツンとついて、私も布団にもぐりこんだ。
◆
地霊殿の中庭に、お墓がある。といっても形だけの小さいものだけど。名簿の日付が増えるたびに、墓石に名を書き記していた。
火葬は、中庭で行うことになった。吹き抜けになっているから、荼毘に伏しても煙がちゃんと上る。
毛布にくるんだ体を、古い炉に横たえた。安らかな眠り顔に見えた。うっすらと開いた瞼から、キンイロの、金の目がのぞいた。さとり様、こいし様、あたい、お空の順にひと撫でずつして、お別れにした。
火の炉は、あたいの鬼火と、お空の太陽の力で。
お空は長年の経験で、火力の制御は心得ていた。骨だけ残すこともできた。
「さとり様、始めます」
「……ええ」
手で種火をこねてから、炉に向けてゆっくりとはなった。薄くキンイロの体を取り巻いた火を、お空が徐々に強くした。薄茶の毛布が焦げて、小さな一山を黒と紅蓮が包んでいく。とうに見慣れた、地獄の炎。あたいがキンイロに上げられる、最後の手向け。
死に燻されて、煙が立ち始めた。一歩後ろに下がって、さとり様の顔をちらり覗き込んだ。
表情は平坦。まるで暖炉の火を見るような目で、さとり様は炉を見つめていた。煙は目に染みず、涙の一つもこぼれない。
沸き起こったのは軽蔑よりも、失望の思念。膨らんだそれは、いっぺんに悲しみに覆されて、眦が熱くなるのを感じた。主のことはもういい。あたいにはどうしようもできないことだから。
主から目をそらして、炉を見つめていた。しばらくしたら、
「あのね、お燐」
背後のさとり様から、ポツリとこぼれた。涙ではなく、言葉だった。
冷めたスープのような、ひどく冷え切った声だった。
「灰も残さずに燃やすのは、辛いことを思い出すから」
「でも、その想起をよしとするなら、遺骨は残すべきかもしれない」
「毎年、その日が来るたびに、胸が締め付けられる」
「もっと愛してあげれば。もっとできることはなかったか」
「ないがしろにしていなかったか。本当に愛していたのか」
「心を読んで、距離をとってしまうから」
「他人の心を読めはしても、私は自分の心に確信を持てない」
「怖いの。実感がわかないのよ。遺灰をみて涙が出なかったらどうしよう」
「泣こうとして泣くのは、演技をするようで嫌。自分の心をそのままに、涙を流すべきだって、思いみたいなものもある」
「わがままでしょう。あなたのご主人様は。それが怖くてずっと逃げていたのよ」
「キンイロのことは、好きだった。とても大事だったわ。あなたたちと同じくらい」
「それでも、別れが近いのを知って、怖くなって。貴方に任せきりにした。距離を縮めるのを厭んだ」
「後悔はしてないわ。私なりの愛は注いでいたつもり」
火葬の間、さとり様はそんなことを話していた。あたいに語るんじゃなく、自分の心を整理してるようだった。それは告白のようで、懺悔のようでもあった。
十五分経った。これ以上燃やすと、遺骨が残らない。引き出さないと。
お空が火を緩めて、あたいが鉄板を引き出した。手が震えて、うまく取っ手をつかめなかった。
白く、細く、儚くなったキンイロがそこにいた。皮も肉も灰になって、名前の由来の金目が眼窩になくとも。
それは確かに、あたいたちが愛したキンイロで、あたい達を愛したキンイロだった。
お空が、初めに崩れ落ちた。床にへたり込んで、大声を上げて涙を流した。キンイロの名前を何度も読んだ。吹き抜けの中庭が、お空の鳴き声で満たされた。
「お空……」
その呼び名に、釣られた。胸がぎゅっとしまった。顔がぐしゃぐしゃになる。堪えようとして、余計にひどい顔になった。ようやく実感がわいた。形を変えた姿を見て、ようやく死の実感を得た。どうしようもない事実にそれを理解して、涙があふれた。のどが引くついてつっかえて、自然とえづいた。それでも、泣き叫ぶのは堪えていた。縋るように、主の顔を見た。
涙を流しながら、ぎょっとした。
「さとり様ぁ……」
霞紫をにじませて、たれ目がちな眦から雫をこぼして、唇を青くなるくらいにぎゅっと噛んで、薄い眉を引き結んで。
「キン……イロ……」
さとり様が泣いていた。大粒の涙をぼろぼろとこぼして、声は出さずに、静かに泣いていた。
駄目だった。そんな姿を見たら、駄目だった。声が漏れ出た。泣いていいんだと、諭された気がした。
さとり様を抱えるようにしがみついた。さとり様も、あたいの背中に手を回してくれた。自身が泣きながらも、慰めるように背中をさすってくれた。お空を見ると、こいし様が抱きしめていた。涙は流していないけれど、どこか虚ろな目で、キンイロの遺骨を見ていた。三人分の泣き声が、吹き抜けの中庭に響いた。
煙は薄く、空気に溶けていた。
◆
片付けをして、亡骸を埋葬して、手を合わせて。
キンイロが使っていた皿や毛布を整理していた。備品の管理は重要だ。どこにしまうか、何に使うか、指示を出すさとり様の声は少し枯れていて、目はうっすら赤く染まっていた。
「あとはいつもの倉庫。今日はそれで終わりにしましょう」
「わかりました。……さとり様」
「なに?」
あたいが死んだときも、泣いてくれますか。
向けられる平坦な顔に、卑怯とわかっていても投げつけた思念。
さとり様は、困ったように、呆れたように眉をひそめた。
ただの猫としては長命。妖怪の火焔猫としては、少し早すぎた。もともと病気がちで、体の丈夫な子ではなかったけれど。人型化もままならず、地霊殿の冷たい床を、靴ではなく肉球を鳴らして歩いていた。
先に亡骸を見つけたのは、お空。珍しくあたいを起こしに来て、あたいの足元で丸くなっているのを発見した。身体はまだ温かかった。
黒猫だけど、あたいの艶がかった短毛と違う、灰の混じった長毛をしていた。砂利やほこりがよく毛に絡んでいて、しょっちゅう手入れしてやっていた。あの子が。
晩年には、足を悪くしていた。さとり様が言うには、血栓ができていたとか、腎臓を悪くしていたとか。詳しい病状までは、あたいにはよくわからなかったけれど、
「いつ亡くなってもおかしくなかったわ。むしろ良く生きた方」
平坦な表情で、さとり様はペット名簿を捲った。白い肌に影は射さなかった。あまり、悲しんではおられない様子だった。
悲しくは、ないんですか。泣いたりは、しないんですか。なにか、思うことはないんですか。机越しの思念に意図せず、悲哀と軽蔑が混ざった。あたいの顔を、赤玉と霞紫の瞳で一瞥して、
「慣れたわ」
顔色も変えずそっけなく。名簿に載ったあの子の名の横に、日付を記した。起伏を見せないさとり様の表情は、白くて冷たかった。
◆
あの子の名前。拾ったばかりのころ、毛は綿毛のようにもふもふで、目は透き通るように真っ青だった。まだ自分の漢字を覚えきらないお空が顔を覗き込んで、「名前はソラにしよう!」と安直に提案した。地上に出たこともない癖に、どこで空の色を知ったのか。
「絵本で読んだ」
確かに、クレヨンみたいな空色をしていた。
紛らわしい名前は却下だと、さとり様にケチをつけられて、二人で名付け親になるように命令された。初めての体験に小躍りしていたら、今日は遅いからもう寝なさいと叱られた。結局新入りは名無しのまま、あたいたちに抱かれて地霊殿の最初の朝を迎えた。
翌朝、交わす視線が驚いた。昨日までの空色の虹彩が、嘘みたいな黄金色に染まっていた。鏡磨きの金色とは違う。輝きは鈍いのに、放つ光があたいを捉えて離さなかった。原石っていうのはこういうのを言うんだろうか。僅かに架かった翡翠が、あの子の瞳をなおのこと天然のように見せていた。
「コガネは?」
「なんか虫っぽいし、小金持ちみたいでヤダ。延べ棒とか!」
「なんでそっち方面に行くの。余計現金臭するじゃんかさ。コンジキはどう?」
「強そう」
クロガネ、出目金、キラキラ、ゴールデンアイ。外国の辞書や名付け辞典を引っ張り出して書斎で行われた命名大会に、さとり様が頭を抱えた。
あたいもお空も、無い語彙力を振り絞った。真っ白だった紙の余白がなくなった。あたいの丸文字と、お空の下手な字で真っ黒に敷き詰められたころ、
「キンイロ」
誰かがつぶやいた。振り向けば、こいし様が名無しの黒猫を高く抱えて、目を覗き込んでいた。それまで渋い顔をしていた猫が、我が意を得たとニャアと鳴いた。こいし様が微笑んだ。さとり様がクスリと笑った。あたいとお空はふくれっ面。続いて聞こえた満足そうな、ナーオの一声に、二人で相貌を崩した。命名権争いは、無意識の乱入に幕を下ろした。地霊殿に、家族が増えた。
◆
「亡骸をどうするか、ね」
さとり様が名簿をぱたんと閉じた。どこか機械的な手つきだった。
地霊殿でペットが死ぬのはこれが初めてではない。ペットの中には、妖怪化せずに寿命の短いまま逝った子もたくさんいたから。早くて一年、長くても二十年で、別れの時はいずれ来る。地霊殿が建造されて何百年の間に、多くの後輩たちの亡骸を灰にしてきた。あたいの能力通りに、両手で抱えて、炉にくべた。死体は好きだけど、家族の死体は例外だった。信仰はないけれど、何とはなしに手を合わせた。骨も残さない灼熱の炉が揺らめくのを見てきた。そのたびに、空しいなと思った。隣に立つお空も、なぜ家族を燃やすのかわからないって顔をしていた。
「いつも通り燃やしますか」
「それでもいいけど、貴方はそれを望んでいないでしょう」
この子だけは、って想ってる。そうあたいの心中を見透かして、名簿を引き出しにしまった。
さとり様は、いつも空しい火葬には立ち会わなかった。毛布で包んだ遺体を愛おしそうに撫でて、
「お燐、お空。後はお願いね」
亡骸に向ける背中は、いつも寂しそうだった。
◆
キンイロは、よくさとり様の足にじゃれついていた。小さい体を目いっぱい主人の足にこすりつけて、八の字を描いているのをよく見た。さとり様は歩きづらそうに、でもどこか優しい瞳でそれを受け入れていた。よくソファに座ったさとり様の膝の上で、長い毛に櫛を通されていた。嫉妬した。幸せそうに眠るキンイロにも、愛おしそうにブラシをかけるさとり様にも。ある日、羨ましくて扉の陰から見つめていたら、
「そんな目で見るくらいなら、貴方がお世話をしなさいな。お姉さん」
ブラシとキンイロが投げてよこされた。お姉さんの響きに、しっぽが揺れた。お空も手のかかる妹みたいなものだけど、同族の世話を任せられるのは初めてだった。張り切ってかけた最初のブラシに、キンイロがブミャアという不満の声を上げた。
その日から、さとり様はキンイロの世話をあたいに任せるようになった。ブラシ掛けに始まって、餌やりからお風呂、トイレの世話まで。私も手伝うと、よくお空が横から手を出してきた。小さい体を、二人でもみくちゃにした。時折上げる声に不服はなくて、暑苦しいお節介を喜んでいた。ペットの気持ちを読む、さとり様の気持ちが分かった気がした。
名付け親のこいし様は、無意識ながら興味津々だった。時々その瞳を覗き込んでは、にやにやと得体のしれない笑みを浮かべていた。もしかしたら、名付けたなりの母性があったのかもしれない。聞こうとしたときには、空気に溶けて消えていた。
世話役があたいに移ってからも、キンイロはよくさとり様に甘えた。あたいはただの姉分で、飼い主はあくまでさとり様だから、当然か。膝の上がお気に入りみたいで、さとり様の空色の上着を咥えて、乳飲み子のように両足を順繰りに押し付けていた。おなかを押されて苦しい、お洋服が伸びる。ぼやくさとり様の口元はほころんでいた。気持ちは分かるんだ。あたいもよくやっていたから。ただ、
「お前は恩知らずだねぇ、育て役のあたいよりさとり様の膝の上がお好みかい」
なんとなくやっかみで、首根っこをつかんだ。嫉妬癖はなかなか治らなかった。橋姫の存在を疑った。嫉妬の対象が二人ともだから、なおのこと。母にも娘にもなれればいいのにと願った。
キンイロがさとり様に抱いているのは、親愛か思慕か恩義か。聞けば首をすくめて、優しい香りがするのだと猫語で答えた。思わず首が縦に動いた。さとり様が纏うのは、いつだって暖かいミルクと母の香りだった。姉弟になれたと思った。
◆
「さとり様、あたい、ちゃんとした葬式を上げてやりたいです」
放つ言葉尻が震えた。葬式という言葉が、死を想起させて嫌だった。涙はまだ流れなかった。実感するには早すぎた。
なにより、さとり様の思考が読めた。この人はまた、毛布越しのひと撫でをするだけだろうから。そんなのは嫌だった。
「……そうね。準備は手伝うから、式はあなた達で」
「さとり様も!!」
一緒が、いいです。
言葉をさえぎるために、名前だけを叫んだ。願いは思念に乗せた。強く願った。飼い主の同席を、あの子もきっと望んでいる。なによりあたいが、望んでいた。一緒に、見送りをしたかった。あたいはペットの範疇を超えて、飼い主の愛情を試そうなんて大それたことをしようとしていた。愛があったのなら。愛があるなら。一緒に、泣いてと。目は瞑っていた。顔を見るのが怖かった。いつかの異変で勝手を起こした時よりも、よっぽど。足音が近づいて、
「おりん」
頬に触れた冷たい手に、瞼を開けた。距離は至近。さとり様の薄めの眉が、垂れ下がっていた。
「わかったわ。ちゃんとお葬式を上げましょう」
「本当、ですか」
「嘘はつかないわよ。お別れだものね」
言いながら、顔が自信なさげに伏された。眦に涙は見えなかった。
「ちゃんとしたお葬式をするのは初めてだし、地霊殿には特定の宗派はないから、いろいろと織り交ぜになるけれど」
さとり様が、地霊殿の書庫から、埃っぽく分厚い本を引っ張り出した。是非曲直庁経由の書物が多く、葬式に関連した本も多種あった。
形は問わない。宗教的な正しさよりも、送ってやったのだという証がほしかった。あの子が生きた証がほしかった。
「さとり様、遺骨も残したいです」
「……わかったわ」
地雷を踏んでるなと思った。さとり様はペットの遺品を残さなかった。いつも灰にするように指示していた。理由がきっとある。それを踏みにじろうとしていた。
「いいのよお燐。あなたの好きなようにやりましょう。あなたの弟分だものね」
読んで、あたいの意思を汲んだ。さとり様の意思は、どこにあるのだろう。葬式は、したくないか。骨を見たくはないか。主人の愛を、あたいはまだ疑ってしまっていた。
さとり様の子供でもあるんですよ。背にはなった思念には、答えなかった。
◆
ある日、キンイロが血を吐いた。あたいは蒼白、お空大慌て。急いで地底の医者を呼んで、診てもらった。
薄くひげを伸ばした医者は、動物型専門ではないがと頭につけて、
「もともと体が弱かったんだの。先は長くなさそうだぞ」
絶望が音になって聞こえた。
「お燐、これからもつきっきりで世話してあげなさい。お空も手伝ってあげて」
消沈のあたい達を、さとり様は慰めた。二人それぞれに頭をなでてから、
「キンイロ、貴方もしっかり生きなさい」
細指で、キンイロの平たい鼻を押した。ナーと一声、キンイロが答えた。
その日からは、寝るのも一緒になった。ごはんもできるだけ体にいいものを。人化のために練習していた怨霊取りも、やめさせた。人化がかなわなければ、それは寿命を削るだけの行為だったから。
『ねえさん』
キンイロは、あたいのことを猫語でそう呼んだ。こっぱずかしいからおやめといったけど、実際まんざらでもなかった。
『ねえさんも、さとり様のにおいがするね』
暖かいミルクと、お母さんの香り。
なぜいま、それを伝えたのだろう。腕に抱くキンイロの体は、小さく、暖かかった。
医者の通達以降も、さとり様の態度は変わらなかった。いつもと同じ。時折膝の上にのせて、撫でてやる。それだけ。キンイロももっと甘えればいいのに。
『さとり様が、この距離がいいんだって』
真意を問おうとして、キンイロを見たら、舌をちょこんと出して、眠っていた。
「おやすみ」
鼻をツンとついて、私も布団にもぐりこんだ。
◆
地霊殿の中庭に、お墓がある。といっても形だけの小さいものだけど。名簿の日付が増えるたびに、墓石に名を書き記していた。
火葬は、中庭で行うことになった。吹き抜けになっているから、荼毘に伏しても煙がちゃんと上る。
毛布にくるんだ体を、古い炉に横たえた。安らかな眠り顔に見えた。うっすらと開いた瞼から、キンイロの、金の目がのぞいた。さとり様、こいし様、あたい、お空の順にひと撫でずつして、お別れにした。
火の炉は、あたいの鬼火と、お空の太陽の力で。
お空は長年の経験で、火力の制御は心得ていた。骨だけ残すこともできた。
「さとり様、始めます」
「……ええ」
手で種火をこねてから、炉に向けてゆっくりとはなった。薄くキンイロの体を取り巻いた火を、お空が徐々に強くした。薄茶の毛布が焦げて、小さな一山を黒と紅蓮が包んでいく。とうに見慣れた、地獄の炎。あたいがキンイロに上げられる、最後の手向け。
死に燻されて、煙が立ち始めた。一歩後ろに下がって、さとり様の顔をちらり覗き込んだ。
表情は平坦。まるで暖炉の火を見るような目で、さとり様は炉を見つめていた。煙は目に染みず、涙の一つもこぼれない。
沸き起こったのは軽蔑よりも、失望の思念。膨らんだそれは、いっぺんに悲しみに覆されて、眦が熱くなるのを感じた。主のことはもういい。あたいにはどうしようもできないことだから。
主から目をそらして、炉を見つめていた。しばらくしたら、
「あのね、お燐」
背後のさとり様から、ポツリとこぼれた。涙ではなく、言葉だった。
冷めたスープのような、ひどく冷え切った声だった。
「灰も残さずに燃やすのは、辛いことを思い出すから」
「でも、その想起をよしとするなら、遺骨は残すべきかもしれない」
「毎年、その日が来るたびに、胸が締め付けられる」
「もっと愛してあげれば。もっとできることはなかったか」
「ないがしろにしていなかったか。本当に愛していたのか」
「心を読んで、距離をとってしまうから」
「他人の心を読めはしても、私は自分の心に確信を持てない」
「怖いの。実感がわかないのよ。遺灰をみて涙が出なかったらどうしよう」
「泣こうとして泣くのは、演技をするようで嫌。自分の心をそのままに、涙を流すべきだって、思いみたいなものもある」
「わがままでしょう。あなたのご主人様は。それが怖くてずっと逃げていたのよ」
「キンイロのことは、好きだった。とても大事だったわ。あなたたちと同じくらい」
「それでも、別れが近いのを知って、怖くなって。貴方に任せきりにした。距離を縮めるのを厭んだ」
「後悔はしてないわ。私なりの愛は注いでいたつもり」
火葬の間、さとり様はそんなことを話していた。あたいに語るんじゃなく、自分の心を整理してるようだった。それは告白のようで、懺悔のようでもあった。
十五分経った。これ以上燃やすと、遺骨が残らない。引き出さないと。
お空が火を緩めて、あたいが鉄板を引き出した。手が震えて、うまく取っ手をつかめなかった。
白く、細く、儚くなったキンイロがそこにいた。皮も肉も灰になって、名前の由来の金目が眼窩になくとも。
それは確かに、あたいたちが愛したキンイロで、あたい達を愛したキンイロだった。
お空が、初めに崩れ落ちた。床にへたり込んで、大声を上げて涙を流した。キンイロの名前を何度も読んだ。吹き抜けの中庭が、お空の鳴き声で満たされた。
「お空……」
その呼び名に、釣られた。胸がぎゅっとしまった。顔がぐしゃぐしゃになる。堪えようとして、余計にひどい顔になった。ようやく実感がわいた。形を変えた姿を見て、ようやく死の実感を得た。どうしようもない事実にそれを理解して、涙があふれた。のどが引くついてつっかえて、自然とえづいた。それでも、泣き叫ぶのは堪えていた。縋るように、主の顔を見た。
涙を流しながら、ぎょっとした。
「さとり様ぁ……」
霞紫をにじませて、たれ目がちな眦から雫をこぼして、唇を青くなるくらいにぎゅっと噛んで、薄い眉を引き結んで。
「キン……イロ……」
さとり様が泣いていた。大粒の涙をぼろぼろとこぼして、声は出さずに、静かに泣いていた。
駄目だった。そんな姿を見たら、駄目だった。声が漏れ出た。泣いていいんだと、諭された気がした。
さとり様を抱えるようにしがみついた。さとり様も、あたいの背中に手を回してくれた。自身が泣きながらも、慰めるように背中をさすってくれた。お空を見ると、こいし様が抱きしめていた。涙は流していないけれど、どこか虚ろな目で、キンイロの遺骨を見ていた。三人分の泣き声が、吹き抜けの中庭に響いた。
煙は薄く、空気に溶けていた。
◆
片付けをして、亡骸を埋葬して、手を合わせて。
キンイロが使っていた皿や毛布を整理していた。備品の管理は重要だ。どこにしまうか、何に使うか、指示を出すさとり様の声は少し枯れていて、目はうっすら赤く染まっていた。
「あとはいつもの倉庫。今日はそれで終わりにしましょう」
「わかりました。……さとり様」
「なに?」
あたいが死んだときも、泣いてくれますか。
向けられる平坦な顔に、卑怯とわかっていても投げつけた思念。
さとり様は、困ったように、呆れたように眉をひそめた。
家族が亡くなるのは…キますよねえ…
お燐の一人称の割に「温かいお節介」と、まるで自分を持ち上げるような表現に少し違和感がありましたが、そこ以外はお燐の感情がとても丁寧に描かれていて良かったです。
テーマが「家族の死」なのか、それともこれまでのキンイロに対する思いの積み上げが「お燐の自己憐憫」のためなのか混乱する結末だったので、そこだけ気になりました。
燐がどれだけ弟分をかわいがっていたかが伝わって来るようでした
ただ、燐の悲しみは伝わってきましたが反応や情動が人間と変わらない点だけは残念でした
作品の最後からタイトルにつながる所はすごく良かったです
読もう読もうと思ってましたが、たいだるさんったら情景描写うますぎて劣等感刺激度マックスでなかなか読めなかったぜ!
パルパルさせてくれちゃってもう、パルスィ萌えだと?お前がパルスィを産むんだよ!
でもたいだるさんが優しいお陰で読む気になれました、作品もテラ優しくて良かったです。持ってけ百点!
すごく好き。