とある日の、麗らかな午後。私たち三人の呼吸音以外は何の物音もしない、薬草と柔らかな光が香る温室でのお茶会の最中に、
「あれだ。その、ミス・ノリッジには」
我らが英国ノリッジの隠宅へはるばる足を運んでくれやがった、幼きデーモンロードたるあんちくしょうが、
「少しばかり、その、社交性……が、足らないのではないかな」
つまらなそうに日傘を玩びながらそんな失礼なことを言い出したのは、私が一向に本から顔を上げようとしなかったからだろうか。
その呟きを耳にした、我が師。
既に肌と白髪と白髭と白いローブと白塗りの椅子の境界が曖昧になりつつある、我らがノリッジのグランドマスターは「ふぅむ」。
しわがれた呟きを、その白髭に埋もれた口からもらす。
そして、手のひらで顔から髭までをゆっくりと一撫でしたのちに膝上の本を閉じると、のんびりとした口調でこう呟いた。
「然らば、寄宿舎生活が宜しかろう」
宜しいはずもあるまい。
◆
しかし、寄宿舎生活の始まりである。
そもそもが未だ修行中の身であり、正確にはまだミス・ノリッジではない私である。グランドマスターの御言葉に逆らえるはずもない。
「五年後、書庫では学べないものを身につけたうえで帰宅せよ、との仰せです」
荷物持ちをしてくれていた師の使い魔は「お体には、充分に気をつけてくださいね」。
そう言い残すと、学院の門前にてドロンと姿を消してしまった。
故に私は顕界を遠く離れて、魔界にたった一人。
神都のすみっこにある広大な森の中に建てられた、古城を思わせる古めかしい建築物の門を。
どうせ形式だけだろうが――と、入学前は思っていたのだが――魔界神が直々に校長を務める、魔界一の権威を誇る女学校。マーガトロイド神学院の門を。
重い鞄と憂鬱を引きずりながら潜らねばならなかったのである。
そこで過ごした四年七ヶ月の年月をあえて記す必要はないだろう。
赤と灰色に彩られた四人用一人部屋の学生生活に、一体どれだけの価値があるというのか。
だから私の学生生活とは、退学を目前に控えた残り三ヶ月が全て。
然るに、その三ヶ月だけを思い起こして、ここに記そう。
私にとってこれまで生きてきた中でもっともしんどかった、この三ヶ月の寄宿舎生活を。
決して、忘れないように。
1945年 パチュリー・ノーレッジ
~~パチュリーの、寄宿舎生活は正直しんどい~~
背面が豪勢な総ガラス張りの学園校長室は、故に夕方ともなれば美しい茜一色の装いを見せる。
そこに据えられたる執務机と革張り椅子もまた、そんな景観に劣らず立派な物ではあるのだが……。
そこにマザーが座ると正直ごっこ遊びかなにかのように見えてしまう。
「ねえ、ミス・ノリッジ。もう一度考え直してみない?」
「結構です、マザー」
まったく、何度言ったら分かってもらえるのだろうか?
四月に入ってもう三回目。少々辟易してきた私の声は失礼なほどにそっけない。
夕食前の空腹が私の苛立ちに拍車をかけているようだが、そんなことはどうでもいい。
「でも、ほら。せっかくの
「マザー」
「正式に弟子を取るわけじゃないし、簡単に、そう。ちょっと簡単に後輩の面倒を見ればいいだけじゃない?」
「マザー」
「あと三ヶ月でしょ。その間ちょっとだけ、後輩がエッセイを書くお手伝いをしてあげるだけ――」
「神綺様」
低い声で御神名を口にすると、我らがマザーはビクリと怯えたように身体をふるわせる。
なんとも嗜虐心がくすぐられる光景ではあるが、ここで調子に乗ると行き着く先は地獄門。
潜った先にはミセス・夢子のメイド秘技が待ち受けているのである。
メイド秘技とは何か、と問われると、博識でもって知られるこの私ですら、どうにも答えようがない。
なにせそれを目にしたものは例外なく花と散った、という噂であるのだから知らない方が幸せなのだろう。
少なくとも世に言われるバリツとやら以上に危険な技であるのは間違いあるまい。
まあ、どうでもよろしいことだ。
人指し指で首元の黄色いリボンを僅かに緩め、すぅっと息を吸い込んで、
「何度も申し上げておりますが、私は別に中途退学になってもかまわないのです。学は、資格の為に修めるものではないでしょう?」
「でも、ほら……」
「それに次席の行く末など、主席がいるんだからどうでもよいではありませんか。お話は以上ですか? そろそろ夕食の時間なので、ハウスに戻らねばならないのですが」
「え、ええと……」
「それでは失礼致します。貴重なお時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした」
「う……」
ペコリと頭を下げて足元の鞄を手に取り、踵を返す。
触れるまでもなく自動的に開閉する、重厚な木製の扉を潜り抜けて、ふうと一息。
それを見計らったかのように背後でバタン、と扉が閉まる。
我ながら恩師に対して不躾な態度を取ったものである。
絶対たる魔界神に対するこの姿勢はあまりにも無礼。
卒業を控えたシックススが校長と衝突して、良いことなんて何もない。
なーんて一般論は私にとって、実にどうでもよろしいのである。
「まったく、あと三ヶ月だというのに」
思わず漏れる苛立ち。
濃紺のケープとスカートを翻して、ふわりと風に乗る。あと三ヶ月。そう、あと三ヶ月だ。
そもそも私は五年の在学を言い渡されただけで、飛び級で
だからあと三ヶ月すれば堂々と胸を張って顕界に戻れて。そしてあの、アホみたいな発言をしてくれやがった吸血鬼にいよいよ復讐かましてやれるのだ。
卒業できる、できないなんてどうでもよい生徒だっているのである。どうしてマザーはそれを理解してくれないのだろうか。
学舎をぐるりと円形に取り囲むように建てられた、12ある寄宿舎の一つ。
名前だけは大仰な二階建ての我がハウス・コンスキエンティアに戻れば、夕食を告げるベルが鳴り響く真っ最中。
やれやれ、危ない所であった。
◆
「オッパッチェー。えっぱり居るっきりんがー?」
120人にのぼる寮生の誰とも口をきかずに、夕食を済ませた後。
二階の自室へと足早に戻る私の背中へ声をかけてきたのは、我らがハウス・コンスキエンティアが誇るプリフェクトである。
一言で説明すれば人件費の節約であるが、それで済ませてしまってはノリッジの名が泣くか。
平たく言えば、教師や寮母に代わって学院内や寮内の風紀取締りや秩序維持にあたる、選ばれた最上級生である。
これを考案した古人の知恵には、なるほど。私も舌を巻かざるを得ない。
なにせ悪餓鬼どもの躾という面倒な仕事を餓鬼に押し付け、それを名誉と錯覚させるのだ。一石二鳥。素晴らしい生活の知恵と言えるだろう。
さて、このプリフェクト。そのお役目は各校によって様々ではあるが、各ハウス毎に寮母がいないこの学院におけるプリフェクトの権力は実に絶大である。
火の元の取り締まり、生徒間の紛争調停、寮内の治安維持及びそのための規約作成と、その影響力は強大で幅広い。
当然、プリフェクトの言うことはほぼ絶対。部屋の見回りを拒絶することは不可能。
誰がプリフェクトになるかで、その寮内の雰囲気まで決まってしまうのである。
生徒の自推、評判、教員からの印象。それら諸々を踏まえたうえでマザーから任命されるプリフェクトはまさに各ハウスの顔であり、ハウス内においては王でもあるのだ。
そんな、我らが王様が、
「ミス・イェーガー。なんか用?」
この、エレン・イェーガー。
私とおんなじ、学園内に指の数ほどしかいない種族魔法使い。だが私と異なり皆に愛されるプリフェクト。
彼女が動けば眩い金髪がふわふわパチリと空を踊る。
「んー? オッパッチェってさー」
「だから、何よ」
エレンはトントントンと階段を上って、足を止めた私の三段上の階でくるりと振り返ると、笑顔で、
「いーことあるよー、これから」
……念のため繰り返すが、こいつはプリフェクト。監督生である。
これでも各寮から一人ずつしか選ばれない超優良優等生なのだ。
が、その思考は夢時空に片足を突っ込んだかの如くに会話が成立せず、エレン嬢の申すことはいつも見事に五里霧中。
こやつが選ばれたのは先年のプリフェクトが厳格に過ぎた反動であることはもはや疑う余地もあるまい。
「で、用件は何かしら?」
「んー? それだけ」
本当にそれだけだったようで、エレンはさっと身を翻すとトントントンとリズムよく階段を上っていく。
エレンの後を追うでもなく私もまた階段を上るのだが、踊り場の時点でもうその後ろ姿を見失ってしまっている。
宿舎内では走ってはいけない、とはプリフェクトの言であったようななかったような。
相変わらず、
「わけがわからないわ」
もっとも彼女の言うことが分かるようになった暁には、私の頭の中はおそらくクロテッドクリームのようになっているに違いない。
まあ、すなわち。
理解できなくても問題ないということだ。
◆
翌日。
講義の後に、再び校長室に呼び出された茜色のパチュリーである。
「ええと、そうは見えないでしょうが一応日本人で、朝倉といいます。此度は魔法を直々に教えていただけるとのことで……マスター、とお呼びした方が宜しいですか?」
マザーの椅子の隣。机を挟んで私と相対している少女。
マザーのローブを濃紺に染め上げたようなマーガトロイド神学院の制服が似合う、見たことのないしかし黙れ眼鏡!
……ふう。怒りのあまり、途中で思考を変えてしまったようである。
改めて殺意の波動を視線に乗せて照射すると、我らがマザーはあせあせと、
「ほ、ほら、ミス・ノリッジってば、どことなくハウスの皆と……ええと、距離をとっているって話じゃない? だから」
「だから、外から適当に馬の骨を拾ってきたっていうのですか」
解説を始めるが、私はそんな話が聞きたいのではないのである。
私は頭を抱えた。
文字通り抱えてみせた。
無論、時にオーバーリアクションが有効な攻撃になることを知っているからである。
皆様に愛され続けて幾星霜。
魔界中の愛を一身に受ける我らがマザーの頭の中には、甘い甘いストロベリージャムが詰まっているに違いない。
だから私の放つ、「お願いですからほっといてくれません?」オーラを好意的に曲解するのだ。
斯様に勘違いを続ける魔界神ではあるが、その身は優秀な護衛によるメイド秘技に完璧に守られている。
ああ、ゆえに魔界神はいつまでもその勘違いを誰かに指摘されることはなく。
どこか方向性を間違った慈愛の化身としてこの魔界に君臨するのである!!
――なんて、いい迷惑。
にわかに私の体は魔界全土を代表する義憤に燃え上がった。
よもや親の敵、とばかりに一切の遠慮という遠慮を肥溜めに叩き落して睨みつける。
目で教師の横暴反対! と怒りのスクールリベリオンを繰り返す。
が、いみじくも魔界神神綺はミレニアム愛戦士であらせられる。
当然、その程度では引き下がってくれるはずもない。
「じゃ、じゃあ、こうしましょう。ミス・ノリッジとミス・朝倉が魔法で決闘するの。負けたほうが勝った方の言うことを聞く。これなら、私のゴッド★プレッシャーとか関係ないでしょう?」
「け、決闘、ですか? ええと、それは……」
「ええ、かまいませんマザー。それでいきましょう」
即答する。
自慢じゃないがこのパチュリー、この学院の次席である。そんじょそこらの三下に魔法で負けるほど柔ではない。
私の専門は田舎魔法と揶揄される精霊魔術。古典的で地味、特徴がないのが特徴。
だがそれゆえに小手先の誤魔化しはきかない。扱うものの手腕をダイレクトに反映するのだ。
「宜しい。では二人とも校庭に出てお辞儀をするのだ!」
さあ、その眼鏡で目にものを見るがいい日本人。
どんな魔法を使うのかは知らないが、古くさい魔法が新しい魔法に負けると思ったら大違いなのである!!
……と、いう事実を私は身をもって体験したのであった。
◆ ◆ ◆
私にとって医務室のベッドは、この学園内における第二の故郷である。
が、別に郷愁の念に駆られてここに戻ってきたわけでは、無論、ない。
ベッドの上で半身を起こすと、
「だ、大丈夫、ですか?」
同情なんて欠片もない。
心配げな、そう。やり過ぎたとでも言わんばかりの声が、逆に心を千々に引き裂く。
この痛みに比べれば、未だ首に残る鈍痛なんか。
――開幕一秒で負けるとか、ありえない。
「まさか、身体強化魔術なんて……。千年以上も前に廃れた原始魔法を引っ張ってくるなんて」
「? 身体強化って、そんな人気ないんですか?」
「ミス・朝倉。身体強化って上乗せじゃなくて、あくまで乗算なの。つまり基本的に研究漬けで身体が弱い魔術師達には利点が少ないのよ」
してやったり、といった表情でマザーがうんうんと頷く。
まったく。完全に裏をかかれた。
開幕の合図と同時に一息で距離を詰めてきた相手の回し蹴りで、一発K.O。
最初から敵がそうしてくるとわかってればやりようがあった、なんてのは馬鹿の戯言。
魔法使いが肉弾戦を挑んでくるとは思わなかった、なんて言い訳は恥の上塗りもいいところ。
身体強化や肉体改造はマザーの神としてのご利益の一つ、なんてことを忘れていたなんて、あまりにも迂闊。
そう、完膚なきまでに私は負けたのである。
「はぁ、白蓮さんが封印されてる千年の間に廃れちゃてた、ってことなんですね。で、今回はそれが有利に働いた、と」
ふん、なによ。そいつも貴方も本当に魔法使いなの?
むしろモンクかなんかなのではないの?
そんな愚痴も口に出しては惨めなだけだから。ギュッとシーツを握りしめて内心に押し留める。
「……負けたほうは勝ったほうの言うことを聞く、だったわね。いいでしょう。魔女にとって契約は絶対。何でも言うがいいわ」
「その……いいんですか?」
なにやら申し訳なさげな表情で問うてくる眼鏡。
その遠慮が――そんなはずはないのに――勝者の余裕に見えて、思わず涙がこぼれそうになる。
他の何で負けても、魔法では負けないと。そう、信じていたのに。
「じゃあ……」
そう前置きした眼鏡女の口からこぼれた言葉は、私の予想の少しばかり斜め上を行った。
◆
然るに、四人用二人部屋の主と相成ることが決定したパチュリーである。
で、あるが故にルームマスターとして下女の説明ぐらいはしておかねばならないであろう。
ハウスの廊下。静静と私の後ろをついてくる眼鏡であるが。
部屋に案内する途中の会話から把握できる範囲で、既に荒唐無稽な輩であると理解するに充分であった。
なにせ、
「いやあ、
から、始まって。
そこからはやれ仏の魔術師(何よそれ?)に命を救われただの。
その魔術師から先の身体強化を教わっただの。
顕界へ帰る為に法界からこの神都を目指したはいいものの、不法侵入者として処分されそうになっただの。
国境警備隊は辛くも突破したものの、最後にはミセス・夢子のメイド秘技(初めての生存者なのではないだろうか?) で原形を留めないほどズタズタに切り裂かれただの。
「ですが不法侵入は不可抗力ってことで、神綺様の慈悲で体を新調して頂きまして」
マザーの下でリハビリとしてのメイド生活を送った後、現在に至るらしい。
「……」
「?」
……何よ、その人生。
デティフォスも真っ青の急転落下である。
そもそも大妖怪(悪鬼羅刹の類か?)とやらの抗争に人間が巻き込まれてる時点でおかしいじゃないか。
「幻想郷では日常茶飯事ですが何か?」
ふうん。そうかい。年がら年中抗争かい。
どこかは知らないが、野蛮で、未開で、未発達な嫌な土地だ。
読書と平穏を愛する私としてはできれば一生訪れたくない場所である。
「で、貴方」
「はい?」
「莫大な魔力をお持ちのようだけど、本当に身体強化しか使えないの?」
そう、このアサクラと名乗った人間の魔力は尋常ではない。
上手く抑えてはいるが、最小に見積もっても種族魔法使いである私の三倍、下手すれば十倍以上に及ぶはずである。
一代で人がこれだけの魔力を持つなど不可能に近く、だからこいつは魔術師の家系。
本来ならきちんと教育を受け、ひとかどの魔術師になっていてもおかしくないはずなのに、
「ええ。あとはスターソードと高速飛行術ぐらいですね。それと工業用魔術をいくつか知識として知ってはいますが、これは……戦闘には役に立たないし」
ええいだからなぜ戦闘などという単語が出てくるんだ野蛮人。
魔法っていうのはこう、優雅なものであるのだ。戦闘に使うなんて本当に馬鹿げてるとしか言いようがない!
まあ、それはそれとして。本当にそれだけとは。
なるほど、莫大な魔力を持っていながら殴る斬るしかできないでは、流石に面白くはなかろう。
魔術を学びたい、という動機はまあ、理解できた。
が、そんな事は私の知ったこっちゃないのであった。
まったく、世も末である。
手荷物は大小一つずつのトランク。そして箒と短刀がそれぞれ一本ずつ。
神綺様の校長としてのゴリ押しがなければ、編入どころか新入すら危ういであろうド素人。
白兵戦能力こそ高いものの、魔術師――第十一学年生としては未熟も未熟。
下着を穿く習慣もない、腕力馬鹿な未開人とこの私が同室とは。
一つ溜息をついた私は、自室の扉を重々しく蹴破るように開け放ったのであった。
◆
中央には大きめの窓。二段ベッドが左右奥に二つ、狭いクロゼットが手前に四つ。
水差しなどを置くための小さなデスクが窓の下に一つ、が我らがハウスにおける標準的な四人部屋である。
標準的でないのは、部屋を埋め尽くす大量の書物。
「で、コネ眼鏡」
本を跨いで進み、普段使用している右下のベッドに腰を下ろす。
「なんですかその呼称……で、何です?」
「貴方、今の自分の状況は分かっている?」
「ええと、はい。多少は神綺様から伺ってます」
私に遅れて我が部屋へと侵入を果たし、そこに場所を問わず築かれた本による塔と城塞を見回して。
コネ眼鏡はうわぁ、なんて低い嘆き声を上げた後、部屋の中央。僅かに覗く床の上へ腰を下ろして結跏趺坐を組む。
「ええと、ミス・ノーレッジはこの私塾を卒業する為に、弟子の教育という課程をこなさないといけないんですよね? で、ミス・ノーレッジは――」
「ノリッジ」
「ええと、ミス・ノーレッジはこの宿舎の後輩と仲が悪いから、救済措置として私が第十一学年に編入という形になって、かつミス・ノーレッジの指導を受けると」
「……だいたいあってるわね」
発音以外は。
「おお、よかった。で、身体強化以外はろくに魔法を使えない私としては、これはもう渡りに舟というわけでして。授業料も神綺様が持ってくれるって話ですし」
「私は面倒を見るとは言ってないわ」
「そうですね。では気が向いたときにでもよろしくお願いします」
ぺこりと一礼して手印を組み、半眼で瞑想を始める眼鏡。
そう、このコネ眼鏡が提案してきたのはノリッジの秘術を教えろとか、神綺様が仰るようにきちんと指導をしろとか、そういった話ではない。
ただ、単に。
――じゃあ、相部屋お願いします。
これだけである。
私にはこのコネ眼鏡の意図が分からない。
安全確保の観点から、宿舎内では魔法は使えない。だから共に暮らしたって技を盗むことも不可能。だというのに共同生活を要求してくる意図は不明で、不気味でもある。
しかし、敗者である私はそれを受け入れざるを得ないわけで。
窓の外から、まるで私の内心を汲んだかのように。
「ナァア……」と、悲しげな猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
◆ ◆ ◆
そうやって、このコネ眼鏡と一週間ほどを共に過ごしたパチュリーである。
その共生結果を、知識を名に負う私としては包み隠さず正直に記さねばならないだろう。
存外、このコネ眼鏡は私にとって好ましい存在であった。
なにぶん、同室であるというのに、私のやることにまったく文句をつけてこない。
私自身ずっと一人暮らしであったゆえ、コネ眼鏡としても私の振る舞いに腹が立つ点は多々あるに違いないはずなのだ。
それくらいは、私にだって想像がつく。
だのに、コネ眼鏡は床に散らばっていた本を左下のベッドの上に押しやると、講義以外の時間を黙々と床上での筋トレや瞑想、バリツの型に費やすのみで。
ゆえに(筋トレが目障りなことを除けば)気楽。だがそれより何よりありがたいことは、私に対する良心的な無視であった。
私が哀れみを嫌うことを、肌で察知したのだろうか?
喘息の発作で私が苦しんでいる時も、このコネ眼鏡は何も言ってはこなかった。
ただ単に、コップ一杯の水と吸引器を私の手元近くに素早く用意して、それっきり。
貝のように口を噤むと、床に寝っ転がって死人のように息と気配を殺すのである。
部屋を出て行かない理由は、多分。
私の身に何かあったときに、迅速に行動できるようにするためであろう。
……まあ、マザーの下でメイドをやっていたというだけあって、下女としてはそれなりに優秀であるようだ。
時折、窓の下。一階の雨どい上を歩く白猫にキッチンからくすねてきたパン片をくれてやるという悪癖と、時々夜中に部屋を抜け出すことの二つを除けば、だが。
◆
そうやって、このコネ眼鏡と二週間ほどを共に過ごしたパチュリーであるが。
夕食後、制服を脱ぎ捨て、手鞄から取り出した普段着に着替え終える。
さあ、と空きベッドに積んである本の一冊に手を伸ばしたとき、
「ミス・ノーレッジは」
未だに床での生活を続けているコネ眼鏡が、
「学位が欲しいとは思わないのですか?」
そう、何気無く(を、装っているに違いない!)口にした際に、私はいよいよ時がきたかと内心で臨戦態勢を整えベッドにストンと腰を下ろしたのである。
「あればあったで、色々と便利だと伺ったのですが」
ふん、既にマザーに色々と入知恵されているようだ。まったく、信者とは便利なものであろう。
「おためごかしな。どうせ貴方は自分が魔術を身に付けたいだけでしょうに」
「まあ、それもあるんですけど」
苦笑しながらコネ眼鏡はくるりと目を回すが、そんな動作で誤魔化せるのは猫だけである。
「ミス・ノーレッジは、魔術の基礎は、やはり両親に?」
「勿論。それがなにか?」
「そうですか……」
いつもと同じように結跏趺坐で床から浮いたまま(魔力ではなく両腕の腕力で浮いているのだ!)、コネ眼鏡は思案して、
「学位をとる、ってことは」
チラリ、と窓に視線を向ける。つられるように視線を向けると、学舎の時計塔が目に映った。
「ミス・ノーレッジが社会において、一定の実力があると示された、って事ですよね」
「そうね。でも私の実力は私が知っていればよい。そうではなくて?」
「まあ、そうなんですけどね」
コネ眼鏡が私の顔を見上げて、ほんのりと笑う。
「そういうのって、くだらないかもしれないけど。ミス・ノーレッジの両親はやっぱり嬉しいと思うんですよ」
……ほう?
両親を引き合いに出す、という予想だにしない側面攻撃に、私の傾斜陣はいささかの再編を余儀なくされてしまった。
こやつ、なかなかやりよる。ただの直情馬鹿ではないようだ。
「それは……」
「はい?」
「私には学費を出してもらってる分だけ、両親に見返りを返さなくてはいけない義務があると。そういうことかしら?」
なるほど、そういう考え方はあるかも知れない。
だが、甘い。その指摘は的外れだ。
今現在、私の学費を負担しているのは両親ではなくて、修行先のノリッジ家なのだから。
これは五年の在学という修行の一環である。そう返そうとしたところ、
「何でそんなややこしく考えるんですか」
ん? 私は何か間違えた解釈をしただろうか?
コネ眼鏡の微笑が呆れに近い苦笑に変わっている。
「単に、愛娘が頑張った結果が形になれば、親は嬉しいだろうって。それだけじゃないですか」
……この背面攻撃に、我が傾斜陣は混乱をきわめた。
言語の弾丸を装填する統率力が完全に失われてしまったようで、砲弾が口から吐き出されてこない。
私が絶句するさまを目にして、何を勘違いしたかコネ眼鏡はやや伏目がちに、
「……もしかして、ご両親はもう? だとしたらすみませんでした」
「いや……双方健在だけど……」
「でしたら、是非。そんなことでも孝行になるわけですから、やはり卒業しておいて損はないんじゃないんでしょうか。学院全体で二位なんでしょう? ご両親は喜ぶと思います」
そこで言葉を切ったコネ眼鏡は、沈黙を守る私を不機嫌と判断したか。
最後に「無論、無理にとは言いませんが」と付け加えた。
が、私が沈黙していたのはコネ眼鏡の言に腹をたてたからでは、無論、ない。
私を病弱に生んだ両親を恨んで生きた過去の日々とか。
その両親が私を生かすために、財と努力を惜しまなかったことをメイドから知らされた時とか。
両親の元を離れて一人、名門ノリッジの門戸を叩いた、あの日のこととか。
ひるがえって絶大な魔力を持ちつつも筋トレに余念がないコネ眼鏡は、どうして魔術の基礎を身につけていないのか、とか。
要求が魔法を教えろでなくて、なぜ相部屋だったのか、とか。
齢十二、三程度の小娘でありながらなぜ祖国では猟なんて血生臭い肉体労働をやっていたのだろう、とか。
そんな事を、思い出したり考えたりしてしまっていただけである。
結局、私は再度口をひらく機会を逸してしまったため、その日の会話はそこでお開きとなった。
コネ眼鏡の膝の上では、白猫が居心地よさげに尻尾を上下させている。
◆
さて、このコネ眼鏡と三週間ほどを共に過ごしたパチュリーであるが。
「コネ眼鏡」
定位置。ベッドに腰掛けての読書中。
手元の文庫に視線を落としたまま、なるべく何気なくを装いつつ、
「何ですか? ああ、香り、気付きました? 昨日から共用の茶葉が変わったみたいなんですよ。なんでもアッサムからアリヤ――」
「そうじゃなくて」
「はて?」
チラリと目を向ける。
ティーポットを操る手を止めぬまま、器用に首を傾げるコネ眼鏡。
「貴方、なんで私に『魔法を教えろ』って言ってこないの?」
「エーと……」
結局、こっちの方から尋ねてしまった。マヌケな話である。
あと二ヵ月半である。あとそれだけ我慢すれば、私は晴れて誰の言うことを聞くでもなく自由の身になれるというのに。
……その一方で、何も問うてこないという態度が癪に障ったのも事実。
もしかしてこいつは『教えを請うには私ごときでは不足』と内心で断じているのではないかと。
まぁ、請われても無視されても腹が立つというあたり、私が修行不足の小娘に過ぎないのは疑いない事実なのであるが。
「そもそも、貴方」
「はい?」
「戦うための、魔術が欲しいのよね?」
「ええ。なにぶん妖怪が数多はびこる郷の暮らしですので。ただの人にとっては戦う為の道具は、多いほうがいい」
いや、その回答はおかしいだろう。
だって、ならば、
「では、貴方は貴方の為に、なんとしても私から魔術の知識を引き出す努力をすべきではなくて?」
「それは、そうなんですが」
ティーセットを机に置くと、コネ眼鏡は鍛、とバリツの演武を開始する。
「ノーレッジって、知識って意味なんですよね? 魔術師としては由緒ある名門の」
「……ええ、そうよ。それが何か?」
「ならミス・ノーレッジは、自身の知識に照らし合わせたその上で、何故かあって私に魔術を教えるべきでない、と判断したって事ですよね? それならば、仕方ないと思います」
――馬鹿ね、そこまで考えてなんていないわよ。
そう、返そうとして。
喉から声が絞り出せなくなっていることに気がつく。
アサクラが事もなげに発したそれは、まさに凶器だった。
手にしていた文庫本がスローモーションで、床に落下していく。
ああ、何たる無様だ。
この、ノリッジたる私が。
知識の在り方を、他者に指摘されて。
何一つ、言い返すことができないとは。
「そうやってミス・ノーレッジが否、と判断したことを他者が――たとえ神綺様であっても――強要するのは、やはり悪ではないでしょうか?」
重ねられた言は、私を震撼させるに十分な重みを持っていた。
自然と震え出しそうになる手を、ぎゅっと握り締めて誤魔化す。
屈辱に?
いや、違う。これは恥辱だ。
くだらない稚気に飲まれて、意固地になって。思考を放棄していた私自身に対する、恥辱。
――魔術は……
ああ、そうだ。
そうだった。
私は、ずっと。そうありたいと思っていたはずなのに。
「アサクラ」
「何ですか?」
「貴方にとって魔術とは何?」
アサクラは演舞をやめて床に腰をおろした。僅かに考えこんで、
「道具、ですかね。私が生きるうえで、もっとも強力な武器となる道具」
「その道具で――傷つけることと、守ること。どちらを望むの?」
戦うためだとアサクラは言った。
それは、何の為に?
一分ほどの沈黙の後。
「守るためでありたいと、そう、思います」
「傷つけるためではない」と明言はできない、か。
けど、まあいい。熟考の後の答えだ。そこに嘘偽りはないのだろう。
「貴女、家族は?」
「妹がいます。幸せになってくれればいいと、そう、思います」
「そう」
力を望み、そして要求が相部屋だったから。
こいつは一人で生きてきたのかも、と。そう思っていたのだけれど。こいつにもちゃんと守りたいモノがあるのだ。
それが分かって、少しだけ安堵する。
「明日から講義が終わったら実習室に行くわよ。部屋の予約はそっちでやっておくように。残る二ヶ月で基礎を一つと応用を一つ、教えましょう」
「はい、マスターパチュリー」
アサクラの頭の上で、白猫が嬉しそうに「ニャア」と小さく鳴いた。
◆ ◆ ◆
然るに、実習室Cのマスターパチュリーである。
このコネ眼鏡と生活を共にするようになって一ヶ月、魔術を仕込み始めてから一週間。
「どうですか?」
「悪くないわ」
魔術の基礎。
それは、己にとってもっとも具現化しやすい形で、魔力を魔法として型をとること。
それは火であったり、水であったり、者によっては鳥であったり、私にとっては本であったりするのだが。
このアサクラにとってそれは、
「私が言うのもなんだけど……歯車、というのも珍しい」
私達の目の前にはキリキリと回転を続ける、鈍色の金属光沢を放つ歯車が浮かんでいる。
「しかし、歯車でどうやって戦えばいいんだろう」
「なんだって全てを戦闘主体に考えるのよ。……薄く、縁を尖らせたものを生成して射出すればいいじゃない。丸鋸、物理馬鹿の貴方らしいわ」
「んな身も蓋もない……」
「魔術だって基本はそんなものよ。さて、この魔術に名前をつけないとね」
そんな私の呟きに、アサクラは要領を得ないといった表情を浮かべる。
「なぜ、名前が必要なんですか? そんなもの、なくても困らないと思うのですが」
ほら、とアサクラは二枚三枚四枚と、まるで刃物のような歯車を次々と生成してみせる。
……まだ基礎とは言え、こいつ意外に飲み込みが早いわね。
「名付け、というのは」
コホンと軽く、咳払い。
「それの存在を己が心が認めた証。それによって魔術は貴方の物として、より貴方の為に力を発揮する」
「存在を認めた証、か。なるほど、では名前が必要ですね」
意を得たり、とアサクラは頷くが。
「じゃ、回る歯車だからラウンドギアで」
「ちょっと待て」
なんだコノヤロウ。そんな脊髄反射で名前をつけるな。
「なにか?」
「貴方、もうちょっとよく考えなさいよ。貴方の魔法なのよ?」
「いいじゃないですか、分かりやすくて。そもそもマスターパチュリーの魔法は名前が大仰なんですよ」
「はぁ?」
はぁ?
「はぁ? じゃないですよ。なんですかさっきのエレメンタルハーベスターって。少しも名が体を現してないじゃないですか」
はぁ? 貴様。見本で見せてやった我が魔術にケチをつけるか!?
「金や土といった五行は基本。然るにエレメンタルでしょうに」
「金術と木術の合成の時点で既に応用ですよね? さておき、ハーベスターは?」
「……」
えーと、あれ? なんでだったっけ?
確か……そうだ!回「他にも、プリンセスウンディネとか。どこら辺がプリンセスなんですか」
「い、いいじゃないの。プリンセスの何が悪いのよ!?」
「基本属性にプリンセスとか矛盾してます。下女サハギンとかでいいじゃないですか」
「そんなの嫌よ! あいつよりローセンスじゃないのよそれ!」
「あ、でもグリーンストームはいいですね。なんか田舎っぽくて分かりやすいし」
……ブチン、と。
ほう、さっきから師に対していい度胸じゃないか。
然るに、
「エレメンタルハーベスターである!」
「なんの! 潰せ、ラウンドギア!!」
黄金色と鈍色の歯車が私達の間を飛び交い、相殺し合い、跳弾となって荒れ狂う。
我が魔術は優秀である。
弟子の魔術も強靭であった。
弾きあった無数の歯車は消滅することなく対魔術処理Cが施された壁へ、天上へ、床へと容赦なく突き刺さっていく。
――誰か! 誰か早く教師呼んできて! どっかの馬鹿が実習室Cで馬鹿やってる!!
遠くでなにやら声が聞こえるが、金属の擦過音と衝突音がうるさくてよく判らぬ。
なにせギィン! ギュイン! チュィィイイイン! と言う耳障りな騒音と火花から意識を逸らしたら敗北確定であるのだから、それだけは避けねばならない。
私にとって金は基底属性ではない分ロスも大きいが、そんなことは言い訳にもならぬ。
「さすがにマスター! やる!」
「当然よ」
――師が、弟子に遅れをとるわけにはいかないのだから。
……結局、どっちがユキでマイか実はまだよく分かってない姉妹教師が決死の表情で部屋に踏み込んでくるまで、私たちの生死をかけた無駄な戦闘は続いたのである。
ちなみに実習室Cは半壊したが、予約をしたのはアサクラなので私に罪は無い。
「卑怯だ!!」
知るか。無知は負けるのである。
覚えておくがよい我が弟子よ。世界を回すのは、フハハ。歯車でなくて知識であるのだ!
◆ ◆ ◆
自室に戻ってきたら、ベッドが真っ赤だった。
真っ赤、というのはそれ。比喩的表現と言う奴で。
正確には、赤黒く染め抜かれていた、と言うべきだろうか。
だが不可解なことに、
赤黒い池の中央だけは、
柔らかく、暖かそうな、白で――
――ああ。
自失していた呼吸を再会する。
吸い込んだ空気は、鉄の味がした。
「まったく、マスターのせいでひどい目に……――
思ったより、姉妹教師のタンデム説教から解放されるのが早かったか。
「なんで……」
呟いて、部屋へ踏み込んだアサクラは、ベッドの上の「それ」をそっと抱き上げて――
「! まだ、息がある!」
「!? 窓! 医務室へ行きなさい!」
幸か不幸か、そうやら「そいつ」はまだ「それ」になっていなかったようだ。
とはいえ、残っている時間はそう多くはないだろう。
駆け寄った私にそいつを引き渡すと、アサクラは素早く箒を手にとって私の腰に手を回し――
もどかしげに窓硝子を蹴破ると、そのまま箒と私を片手に宙へその身を躍らせる。
「医務室の場所は分かるわね?」
「分かります。一分で着きます」
「あまり時間がないわ。四十秒で行け」
「了解。ガルーダウィング、出力最大!!」
ズグン、と内臓を揺さぶる加速と共に、見る見るうちに校舎が近づいてくる。
そのまま減速もせずに再びガシャン、医務室の窓をぶち破って着地。
三十秒。悪くない。
「マスター! どうすれば!?」
「まだ、貴方にできることは何もないわ」
ベッドに猫を転がして、ベッド脇の魔方陣にバンと手の平を叩きつける。
ふわっ、と猫の周囲に斥力場が展開されたのを確認して、やれやれ。ふぅ、と額の汗を拭う。
私も幼いころよくお世話になった、緊急患者用ベッドである。その効果は身をもって体験済みだ。
「あ、あの、この子。ピクリとも動かなくなっちゃいましたが……」
血の気が引いたような、掠れたアサクラの声。
まあ、素人からすれば死んでいるようにしか見えないだろう。
「ベッド上の時間が周囲と隔絶されたのよ。一時間で一秒。ベッド上では今やそれしか時が進まないの」
「それは、すごい……にしてもマスター、流石に手馴れていますね」
私の言葉を耳にして若干余裕が出てきたのか、アサクラの言は私の虚弱体質をからかうかのよう。
……。
「三回目だもの。これ以上失敗は出来ないわ」
「三回目?」
呆けたようなその声を皮切りに、見る見るアサクラの表情から陽気が抜けていく。
そう、三回目だ。
「……もしかして、初めてじゃないんですか?」
頷きこそしなかったが、アサクラは正確に我が言葉の意味を理解したようだった。
蛮族とはいえ、腐っても魔術師か。知恵が回る。
「……では……マスターには」
その呻くような声は、まるで底無し沼の汚泥のよう。
「この子がこうなることが、予測できたんじゃないんですか?」
そう。
そうだ。その通りだ。
少しばかり楽しかったからって、私は浮かれて、そして油断していたのかもしれない。
「そうね。私には予測できた。できなくてはいけなかった」
小さく、息を呑む音。
「……失言でした。すみません」
「いいわよ。子供が怒りを押さえられないのは当然のことだもの」
一匹目は、四人用一人部屋の生活を始めて一ヶ月。
よく分類も分からないげっ歯類。恐らくはシマリスの一種であるそれ。
餌付けをしていたそれが、ベッドの上に転がっていた時である。
当時は僅かながらも純朴さが抜け切れていなかったから、万が一にも誰かが死体を見つけて届けてくれたのだ、という愚考を捨て切れなかった。
別の場所で殺して持ち込んだのであろうから、血の海がなかったというのもその愚考を僅かながらも後押ししていた。
今思えば、馬鹿らしい話ではあるが。
二匹目の夜鳴き鳥が弱々しげに体を震わせる様を見つけ、そして医務室に急行し。
そして、生来の脚の遅さゆえに全てが手遅れになったその時、自分の甘さを呪った。
「マスター」
「何よ」
「すみませんでした」
「……いいと言ったはずよ」
私は、何に怒っているのだろう?
純粋に、命が失われようとしたことに怒っているのか?
それとも、こんな無駄で悪趣味な行為に全力を注ぐ寮生達の愚かしさか?
それともこの、いずれノリッジを継ぐ私が。くだらない失態を三度も犯しそうになった、その事実に怒っているのか?
よく、分からない。
医療用保冷庫の中身を念のため確認してみるが、中身は薬品ばかり。予備の血液は無し、か。
もっとも、輸血用血液があったとしても、どうせそれは人間用だろうけど。
やはり、必要とあらば血は私が造るしかあるまい。
そう、必要とあらば。
保冷庫を閉じて、振り返る。
「アサクラ」
「はい」
「……選択をしなさい。あの子を生かすか、殺すか」
ベッド脇のアサクラの目に、僅かに怒りが灯る。
こちらに向けられる、なじるような視線。
「生かす以外の、選択肢があるのですか?」
「血を大量に失った状態で一定の時間が経過すると、脳細胞が死滅して身体制御に甚大な影響を及ぼす可能性がある」
「……すみません、マスター」
……相手は無知な蛮族、医療技術の発達していないだろう土地の出身。仕方ないとは分かってはいるのだが。
やはり、意図せずして吐息が漏れてしまう。
「分かりやすく言うと、不随――半身や、首から下が動かなくなったり、ろくにものが考えられなくなったりすることがある、ということよ」
「体、が……もとに戻らない?」
理解できない、とばかりにアサクラは呆とした顔でうつむき、視線を手のひらに落とす。
「そう。そしてこれは酸素欠乏から再供給までの時間が全て。だから今から名医に診せても、何も変わらない」
「……だからって、私が?」
「そうよ。本人の意見は聞けないもの。貴方が決めるの」
「そんな……」
アサクラが血に染まった己が胸元を抱いて、小さく肩を震わせる。
「あまり時間もないわ。医療用のステイシス・ベッドは患者の容態を保ってくれるけど、時が完全に止まるわけではない。ほんの僅かずつではあるけど、あの子は今も死に向かっている」
「……」
「時間はない。でも、悩みなさい。悩んで、そして決めなさい。命の価値を」
本来それは、他人が決めてよいものではないけれど。
でも社会で暮らす以上、自らの命を他者に預けなければいけない時があるのだ。大小の違いはあれど、必ず。
「障害が残った場合、貴方がどれだけ真心を込めて看護に当たっても、相手は一生満たされないかもしれない。『絶対に幸せにする』。わりとよく聞く言葉だけど、実際はそんな簡単な話ではない。……そう口にする輩の善心を疑うわけでは、ないのだけど」
でも、心なんてそんなものなんだ。
すぐに他人との比較を始めて、上がったり下がったり。
そして、迷って、容易く見失う。
そのことは、病弱で発作持ちの私が、誰よりもよく理解しているから。
アサクラが、あえぐような表情で私と猫。両者の間に視線を彷徨わせる。
「無理に冷静にならなくてもいいわ。人は心に依って生きる生物だもの。ならばせめて、今この瞬間だけは間違いないと。そう断言できる答えを出しなさい」
その後、長いこと、まるで石像のように。
身じろぎ一つせずに床に視線を投じていたアサクラが、ギュッと拳を握り締めて、
「……では、助けてください」
「いいのね? 死なせてあげれば恨まれる事はない。苦しみに満ちた生、という選択肢を、消してしまえる。それは慈悲でもある」
「助けてあげてください」
繰り返す。
「……理由を、聞かせてもらってもよいかしら?」
「生き方は、可能な限り本人が決めるべきだ。他人が決めてよいものではない」
ああ、そうか。
それがこいつの矜持だったか。
「もし、その猫が植物状態――すなわち、自分でそれを決められない状態が続いたら? その上で面倒を見る相手がいなくなったら?」
「その時は」
ギリッと、歯を食いしばった、しかし、泣きそうな表情で、
「私が、殺します」
「……そう」
それは、楽ではない選択だろうに。
「自分で助けたくせに」と、「己の都合で命を玩具にして」と。何も知らない第三者には偽善と罵られて。染めなくてもいい殺害に手を染めて。
でも、それを望むと言うのならば、
「いいのね?」
「マスターは私に包み隠さず事実を伝えて、そのうえで選択肢をくれました。ならば私も、そうしたい」
「――そう」
ならば、私がやるべきはもはやたった一つ。
洗浄、消毒済みのフラスコを手にとって、念のため再消毒。猫の血を一滴、そこへと落とす。
続いて右手に意識を集中。その手のひらから、体内から浮かび上がってきた、『石』を。
私を種としての魔法使いたらしめている、我が流派における不死の到達点。その試作品を僅かに削り取って、同じくフラスコへ。
「貴方の血液の組成を組み替えて、猫の体に適合できるものへ変換します。文句はないわね」
「はい。マスターが血を失ったら即、倒れそうですし」
言うが早いか、アサクラは消毒した己の腕にざっくりと、やはり消毒したナイフを突き立てる。
……この蛮族は採血、というものに思考が及ばないのだろうか?
まあ、いい。結果は同じだ。
さあ、始めようか。
三度目の愚は、決して、犯さない。
◆
「分からなくも、ないのよ」
校舎と宿舎とを繋ぐ、黄色いレンガの道の途中。
処置を終え、未だ目を覚まさぬ白猫を医務室に残して寮に戻る道すがら。
どうにも沈黙に耐えかねて、口を開く。
「何がですか?」
「私を許せない。排除したいというのは」
何気なく口にしてから、いや、これは語っておくべきことだろう、と確信する。
横を歩くこの蛮族が、夜叉と化してしまっては面倒だから。
「通常、魔法使いは己の家を継ぐことが多い。そういった者達は基本的にはシックススまでは上がらず、第十一学年までで卒業する」
「それ以上は、己の実家で学べばよいから、ですか?」
小さく頷いて、肯定。
「つまりシックススは独学で魔術を学び始めた者か、もしくはさらに上の一門に食い込もうとする者が大半。だから卒業時の席次には意味があるのよ。分かる?」
「……数字が若いほうが、上の――名門からの覚えがよい、と。そういうことですか」
「そう。魔術は秘匿されるもの。魔術師は他の職と違って、弟子を複数取ることは少ない。だからどんなに優れた教育環境を与えられても、ここにいるものは自身の研鑽のみに注力できない。自分と他人を比べてしまう。競争してしまう。ここが『魔術師の種を輩出する機関』である限り」
「競争、ですか」
「ええ、マザーもここは苦労してるんでしょうが。そもそもの門戸が狭い以上、どうしてもね。……だから他人を蹴落とすのは正しくもあるし、性格も歪んでくる」
ざっ、と。
隣、いや僅かに後ろを歩む足踏み音がひときわ高く響いて、消える。
私も足を止めるが、振り向きはしない。表情は見ないし、見せない。淡々と、まずは事実だけを情報として伝えるのが先。
「『アレ』が、正しいと。マスターはそう思うんですか?」
「私は愚かだと思う。でも他人には他人の正義がある。『子が大成すれば親御さんは喜ぶ』、だったわよね?」
「……しかし!」
「シックススにとって魔法とは己の全て。そして己の生涯をかけた、夢」
ここにいる皆、誰だって上を見続けていたいのだ。
魔術の、更なる高みに上りたいと。そう願う意志は、私には理解できてしまう。
「そしてもう一つ。ここの生徒達はほとんどが人間――いえ、いまだ己が生まれた種族のままよ。意味が分かる?」
「種としての魔法使いになっていない、と?」
「微妙に外れ。未だ魔法使いに『なれない』が正解よ」
「……容易ではない、ということですか」
そう、種族魔法使いに興味がない、こいつには。
魔術はあくまで道具であり、武器であると考えるアサクラには理解し難いだろうが。
「だから誰しも、十代にして種族魔法使いになれている私が妬ましい。そのうえ既に程々の名門に属している私が今更面白半分に学園に在席して、己の席次を下げているなんて許せない」
「ただの邪魔者、ってわけですか……席次を上げたいなら、一年多く勉強して、また来年。というわけにはいかないのですか?」
「できなくもないけど、意味はない。魔術もね、剣術や体術と同じ。始めるなら早ければ早い方がいい。流派を変えるならば、なおのこと」
「年を重ねると、他の一門に迎え入れられる確率が下がる?」
「そういうこと」
その一方で、基礎が身についていない者を一から鍛えるようなお人好しは魔術師にはいない。
もしそれがなされるとすれば、それは余程稀有な才能を持っている、ということだ。
だから凡人にできることなんて少しでもよい学園に入学し、少しでもよい成績で卒業することだけ。
「だからシックススは――嫌な言い方になるけど、高き天を目指して足掻く者達の集まりなのよ」
空を見上げる。
左右の木々が広げる枝葉の向こう、黄昏時の空には僅かに光る、一番星。
その他の星々は、未だ太陽の光に遮られて見ることができない。
そこに、確かにあるというのに。
「あと、もう一つ。先に私が告げた先例と、今回の件は同一犯ではないわ」
「? 何故、そう分かるのですか?」
「私は二つ、飛び級をしているからね。先例というのは、どちらも飛び級前の話よ」
「……ああ」
アサクラのそのため息は、何に対してのものだったのだろう。
同一犯がおぞましい犯行を繰り返したことではないという、安堵?
それともそういうことを行える輩が複数存在することへの、嫌悪?
「アサクラ」
「はい」
「貴方が知るべきは、これで伝え終えた。後は貴方の好きなようにしなさい」
「はい」
「相手の事情を知る前に、怒りに身を任せるべきではない。正しく知るべきを知り、その上で許せないならば。そのときにこそ初めて怒りなさい」
「はい。……マスター」
「なに?」
「虫を踏み潰し、獣肉を食べて生きているくせして。目をかけていた獣の死は、悼む。私達は、自分勝手ですか?」
「許しが欲しいのなら思考を捨てて神に祈りなさい。神の愛が貴方を救ってくれるわ」
だが、そう。だからこそ私には神は不要。故に私は魔女であるのだ。
そして、
「私もまた、貴方のあらゆる主張を論破し、貴方のあらゆる疑念に対して納得のいく答えを返せる自信がある」
だがそれは私の理をアサクラに浸透させられる、というだけの話。それは正解でも、ましてや勝利でもない。
「でもそれはあくまで、私の答え。――それに、生きるか、殺すか。この問いに恐らく絶対の答えはない」
「何なら殺していい?」「何は殺してはいけない?」
人が、顔をそむけがちな問い。
「殺していい命などない」「生きるための殺しは許される」
そのどちらの主張も間違ってはいないだろうし、しかしそのどちらも欺瞞を孕んでいるだろう。
だから、私達にできることなんて、
「重要なのは答えがないからといって投げ出すのではなく、決めたら迷わぬでもなく。常に問い続ける姿勢を忘れないことだと、私はそう思っている」
僅かな、沈黙の後。
ほぅ、と息を吐く、音。
「はい……マスターは」
「なに?」
「マスターは白蓮さんと話が合いそう。性格はともかく、とても、思考が奇麗だ」
冗談じゃない、殴り愛モンクウィザードとやらと、どうして私の気が合うというのか。
そう、罵倒するはずだったのに。頬の熱を自覚してしまったから、再び歩みを進めて話題を逸らす。
「知っていると思うけど、宿舎の中では魔法は封じられている」
「え!? 使えないんですか?」
え!? 気付いてなかったの?
「……誰でも簡単に魔法が使えたら、ちょっとした喧嘩で宿舎はすぐに灰になっちゃうでしょうに。子供達の良心を全面的に信頼するなんて、流石に馬鹿げていると思わない?」
「そりゃそうか。じゃあ犯人は窓か、入り口から進入したんですね」
「でもマスターキーを持つプリフェクトがアレだから、誰でもキーの入手は容易。密室でもなんでもないわ」
「では、犯人は絞れませんね」
「まあ、私を蹴落としたいシックススであるのは間違いないと思うけど。必要なら声をかけなさい。手は貸さないけど、知恵くらいは貸すわ」
「大丈夫ですよ」
自信満々に語るアサクラの声に、若干の不安を覚える。
振り向くと、そこには決意を湛えた静かな面持ち。
「ええ大丈夫。多分何とかなりますよ」
……いや、うん。正直ね、私も貴方の心配なんて全くしてないの。
貴方のとる、手段とか方法が周囲にもたらす被害の方が心配なのよバーバリアン。
とはいえ、任せると言ってしまった私にはもう、
「お手柔らかに」
そう、口にすることしかできなかった。
◆
『怪我や病気で動けないものを除けば、食事は寮生全員で』
今年のプリフェクト(つまりエレンだ)はそういう規約を掲げている。
だから、私と。
数少ない手荷物である、大きい方のトランクを手にしたアサクラが連絡もなしに遅れて食堂に着いたとき、全員から非難めいた視線を向けられたわけである。
だがそもそも非難というのは受け側が動じなければ何の意味も持たないわけで。
即ち無駄なことをするものだ、と思いながら私は粛々と食堂の一角に腰を下ろすのであった。
さてそうすると、残るアサクラの挙動が気になるわけであるが。
みなの視線を一身に浴びたまま、食堂の入り口を背にドスンと腰を下ろしたあやつは、はて。
縦は50cm、横は1mを超える、重厚なつくりのトランクをガチャリと開ける。
もうその時点で嫌な予感しかしなかったのだが、あやつが取り出した1m強の鉄パイプは、私の漠とした不安を確実なものへと変えた。
――まさか、鈍器振り回して脅迫するつもりじゃないでしょうね。
溜息をついて周囲に目をやると、入り口を向いている者達の非難が、あれ?
いつの間にか消え去って、どいつもこいつも慄きに目を丸くしているではないか。
流れるように再びアサクラに目を向けて……ああ!
アサクラが死人のように気配を殺せる理由が、今分かった。
って言うか、あんなものが私の寝室に平然と転がっていただなんて!
それは鈍器などではなかったのだ。
それは銃身と言うにはあまりにも大きすぎ、太く、重く、そして機能美があった。
それはまさに人が人ならざるものへと立ち向かうために作り上げた、銃を超えた何か。
座したアサクラは馴れた手つきでそれらを組み立てる。
驚愕に度肝を抜かれた寮生達は身じろぎすら忘れてそれらの様を眺めやるのみ。
たちまち組上がった2m超のそれにアサクラは箱型弾倉をはめ込むと、レバーを引いて薬室に弾丸を装填。
閉じたケースをドンと縦に立てると、そこに銃身を乗せて、銃床を肩へと当て――まずい!
「全員! 耳を塞いで伏せなさい!! 早く!!!」
私の叫びに寮生達が素直に従ったのは僥倖であった。
己が理解を大きく上回る異様な状況は、人から稚拙な反抗心を奪ってくれるようだ。
ガオン!! と。
獅子のそれすら上回る、圧倒的で無慈悲な咆哮が響き渡る。
それがもたらした結果もまた、やはり圧倒的。
この季節は埃を被っている、レンガ造りの暖炉。
そこに穿たれた大穴から流れ込む風が、くゆる硝煙を食堂中に散らしていく。
「五十六式対妖怪砲。里の職人達による、異能に依らずして理不尽へ抵抗するための鋼の意志。魔界じゃ古臭い兵器かもしれませんが、ま、威力には関係ないですよね」
誰もが理解せざるを得なかった。
魔法と、逃げ道をふさがれている、この食堂においては。
こともなさげに語るアサクラこそが、絶対の存在であるのだということを。
「えー、とりあえず私の邪魔をする輩にはこの20mm弾をプレゼント。直撃すれば、そう。人狼の頭すら一発でパンッ! ですよ、ええ」
私ですらゾッとするほどの酷薄な笑みを浮かべて、狩人の瞳が周囲を嘗め回す。
「さて、本日私達の部屋で白猫が一匹殺されかけ、今生死の境を彷徨っています。寮則に小動物の飼育を禁止する旨は無かったと思いますが……プリフェクト?」
「あー、まあ。使い魔を飼うのは許可されてるよね。危険生物は持ち込み禁止だけどねー」
私を除けば、唯一。
怯える素振りも見せないエレンの相槌に、アサクラはニコリと笑みを返して眼鏡を外す。
然る後に端整な顔を手のひらで一撫ですると、そこに浮かぶは憤怒の表情。
ドガン、と銃床を床に叩きつけて、
「五分待つ。犯人は席を立って、猫の前へ土下座しに行け。誰も名乗り出ない場合は端の奴から順に全員両手の薬指と小指を捻り折っていく。泣くほど痛いぞ」
ああ、これはただの脅しなんかじゃない。
多分、いや絶対こいつはそれをやる。間違いなく。
そして端から順番だから、いつか私の指もへし折られるんだろうなぁ……己の怒りが、私と無関係なことを示すためにも。
「それで誰も名乗り出ないなら、次はこいつで端から順に一人ずつ片足を吹き飛ばす。まぁ、そこまでで勘弁してやろうか。片足は残るし、指が三本あればペンだって持てる。諸君らが引き続き勉学に励むことは可能、というわけだ! アッハハハァ! 私ってば実にお優しいとは思わないかい? なぁ!?」
「た、たかが猫一匹で……」
小さく上がったその抗議を、アサクラは聞き逃さなかったようだ。
「その『たかが』、っていうのはさ。私達が猫より強いから『たかが』なのかい? だったら私からすれば魔法の使えないお前らなんて全員『たかが』だよ」
鷹のような目で、アサクラがギロリと周囲を見回す。
ビクリと身体をふるわせたのは、おそらくさっきの声の主。
恫喝するアサクラの声は、気弱な生徒の反抗心を圧し折るに充分すぎるほどの自信にあふれている。
だがその一方で、そんなアサクラの嘲笑は気丈な生徒の敵愾心に火を灯したようであった。
「犯人……じゃ、ないみたいだねぇ?」
ガタン、と端のテーブルから一人の生徒が立ち上がり、アサクラの前へと歩み出る。
雄雄しげで、彫りの深い顔立ち。その体躯は魔術師の卵にしては妙に屈強――と、思ったら、ふむ。オーク族か。魔術師を目指すとは珍しい。
そんな勇ましい姿を確認したアサクラの目がすっと細くなるが……ああ。
呆れたものだ。
あれは、そう。絶対によいパフォーマンスになるなぁ、とか考えているに違いない。
「はン! 筋肉だけは立派だね。いいよ。最初くらいは砲弾は勘弁してやる……来い!!」
アサクラがトン、と銃床を床につけた大砲からそっと手を離した、瞬間。
言葉も返さずに踏み込んだそのオークの速さは尋常ではなかった。ベキリ、と踏み足に蹴られた食堂の床にひびが奔る。
すわこれが身体強化なしか? と疑うほどのタックルは、
――正直、何が起こったのかはよく分からない。
分かるのは、気がついたらそのオークの足と頭の位置が入れ替わっていて。
そしてそいつは踏み込んだ勢いのままに、頭から床に叩き付けられていた、ということだけである。
アサクラが手を伸ばして、まだ倒れきっていなかった大砲の銃身をこともなげに掴む、と。
支え無きオークの逆さまの体がバランスを崩して、ドサリと床に倒れ伏す。
「嘘……」「……バリツだ」
「バリツって、東洋の神秘の?」「バリツ……あれが……?」
恐怖と、そして感嘆。両方のざわめき。
「筋力だけ、魔力だけで何とかなるなら世の中楽なもんさね」
気絶してしまったのだろうか?(死んでないわよね……?)
ピクリとも動かないそのオークをチラ、と一瞥してからアサクラが見せた表情は、ああもう。飢えた肉食獣のそれではないか。
「ご覧のとおり、抵抗は無意味だ。さぁどうするお前達? 犯人を五分以内に探し出さないと、みんな仲良く苦痛にのたうち回るぞ!」
「プリフェクト! 彼女は明らかに寮則違反です! 彼女を止めてください!!」
遂にどこかしらから上がった、悲鳴のような、懇願するような叫び声。
だがそんな嘆願を耳にした我らがプリフェクトは、
「えー。でもその子ってさっき、別に蹴ったり殴ったりしたわけでもないし。まぁ公共物破損はあるけど、これは即拘束には繋がらないし」
動じることなく、ふわふわの金髪を揺らしながら、いつもどおり。
「猫は友達だし。ふわふわでパチパチ友達。大事にしないとねぇ ……それに、さぁ?」
そこで言葉を切ったエレンの顔に、軽い怒りが浮かぶ。
「その子、名乗り出た犯人を殴るなんて一言も言ってないじゃん。猫に謝罪しろって言ってるだけだし。私はそっちの方がよっぽど正しいと思うし」
そのプリフェクトの言葉は、どうやらトドメとなったようだった。
機械仕掛けの神は降りてきはしまい。自らの手で犯人を挙げなければ、この場の全員が無残な目に合う。
その認識を浸透させたアサクラのなんと悪辣なことか。
だからもう犯人を庇い立てする余裕のある奴など、この場には誰一人として残っていないのである。
◆
「ろくでなし!!」
アサクラの前に叩き出されたシックススは、整った黒髪を肩で切りそろえた、大人しそうな外見で。
おおよそ暴力や凶行とは無縁そうなそいつが私を睨んで言うには、どうやらそういうことらしい。
「誰が、かしら?」
「あんたみたいな奴に何が分かるのよ? あんたみたいに恵まれた奴が、何でこんな所にいて私達の邪魔をするのよ! ここで学べる程度の技術や知識なんて、もう魔法使いになってるあんたはとっくの昔に身につけているんでしょう!? そうやって私達を見下して楽しいの!? お遊び気分でここにいないでよ!」
困った。
どうやらその叫びは、アサクラも白猫も無視して、たった一人。
未だ平然と食堂のすみに座す、この私だけに叩きつけられているようだ。
予想していたとはいえ、やはり困るものである。
白猫への暴行を弾劾するアサクラと、私を弾劾するこのシックススの思考は、決して交わることのない平行線。
アサクラが何を言ったとて、こいつは先程の叫びを盾に自身を正当化し続けるに違いない。
だからといって、私が私で以って反論を組み立てたところで、やはりこいつは何も聞き入れないのだろう。
こいつ――いや、恐らくはこの食堂に在する大半が等しく、己が私より劣る、ということを前提として受け入れているのだ。
それが真実か否か、問い質す姿勢を次元の彼方に追いやって。
事実、彼女へ非難の視線を向けているシックススは、ほら。一人だっていやしないのだから。
「私は劣っている」、「私は敵わない」。だから「こんな嫌がらせなんて遊戯に等しい」。
そういった負の開き直りを、私で以って切り開くのは困難だろう。
……はぁ。
私だってここに至るまで、それなりに苦労してきてるんだけどなぁ……。
けど、そういった不幸合戦を始めても不毛なだけであって。
だから、結局。
「人でなし」
私が反論するならば、私以外を引き合いに出すしかない。
「何がよ!!」
「貴方達が私を屈服させるのなんて簡単じゃない。いまアサクラがやってるでしょう? こいつは魔力でもなく、才能でもなく。武器と格闘技っていう後付けの暴力だけで今、貴方達を支配下においている」
私の言葉に便乗するかのように、アサクラが音を立てて遊底をスライドさせ、排莢。次弾を砲に装填して薬室を閉鎖。
ガランと薬莢が床に落ちる音が響き渡り、ビクリとそいつの身体に震えが走る。
……よくもまあ、こいつは人を竦ませるタイミングというものを心得ているものだ。
「喘息のせいで身体を鍛えられない私を打ち倒すなんて簡単。ただほんの少し膂力を鍛えて、適当に武装しておけばよかった。それだけで貴方達は、肉体的には脆弱な私を支配下におけたはずよ」
「……それは、そんな……」
そんな、何かしらね?
そんな野蛮な行為は嫌だった? 肉体の鍛錬なんかに時間を割きたくなかった?
だけど己の時間を消費もせず、顔も見せず。他者の命を足蹴にして願いをかなえる行為こそが何よりの蛮行であろうに。
思わず脚と腕を組んで――相手を威圧している己に気がついた。……ああ、私も結構怒っているっぽいなぁ。
「気分はどう?」
「……何だと?」
「気分はどう、と訊いているの」
ぎり、と。歯を噛み締める音が聞こえてきそうな表情。
「道を外れた気分は、どうなのよ?」
「……貴様」
「魔道を歩くを止め、外道を歩き始めた気分はどう? と訊いているのよ。答えなさい」
「黙れ!」
「黙らせたければ貴方が直にやったらどう? 貴方自らこの口を引き裂き舌を引っこ抜いては如何? 貴方の、貴方自身の、その手で!」
しんとした食堂に木霊する、私の声。
そして、
「…ら……、なら……! お望みどおりやってやるぁああああぁ!!」
魂の奥底から搾り出した、獣のような咆哮。
激情に依って私を殴り倒そうと走り出したそいつを、アサクラが後ろから羽交い絞めにする。
魔法にも、才能にも拠らない。
戦うために鍛え上げたであろう身体一つで、あっさりとそいつを押さえ込む。
「放せッ!! あいつ、あいつ! クソ女! ブッ殺してやる!!」
「悔しい、って気持ちはよく分かるよ。私はこの世に生まれ落ちてからこの十五年間、魔法の魔の字も学べなかったから」
「うるさい! 黙って腕を放せこの蛮族ッ!」
「妖怪に、襲われて。両親を早くに失って。誰も魔法なんて教えてはくれなくて。魔力量以外の取り柄なんて、私にはないってのに。魔法を使える奴ら皆が、妬ましかった」
荒ぶる相手とは、対照的に。
アサクラが、言葉をしみこませるように。ゆっくりと、しかし凛とした声で言葉をつむぐ。
「……放せよ」
「それでも、やっぱり、さ。無碍に、踏みにじっちゃいけないんだよ。吹っ切れるなら、自分を磨く方向に吹っ切れなきゃ」
「……」
「ちょっと視点をずらしてみれば、ほら。こんな三流魔術師だって、一流を押さえ込めるんだから」
「……お前なんかが、魔術師を、語るな……」
「そうだね。でも魔術師とかは関係ないんだ。奪われたものは、必ず奪い返そうとする。復讐しようとするんだ。だから、不用意に、奪っちゃ、いけない」
ポタリ、と涙が落ちる。
果たしてそれは屈辱か、それとも己を恥じているが故のものか。
それに気がつかない振りをして、アサクラは拘束を解いた。
「……殺すつもりなんて、なかったんだ……ただ、ちょっと、本でも、ズタズタにしてやろうって、踏み込んだら、飛び掛かられたせいで……」
反射的に反撃してしまったのか、それとも、対峙している最中にあの猫を私を攻撃する手段に用いることを思いついたか。
そこまで口にしたそいつは、そこで嗚咽に喉を詰まらせてしまう。
まぁ、今となってはどっちでも同じ。
そのまま膝をつき、床にうずくまってすすり泣く彼女に、誰もがかける言葉を持ち得なかった。
◆
アサクラに付き添われて、そのシックススは医務室のベッドの前で頭を垂れた。
それが心からの謝罪なのか、それとも外見だけだったのかは私には分らない。
人の心なんて、そう簡単に読めるものではないのだから。
ただ、これにて一段落。
これほどの騒動ののちに、私に嫌がらせを仕掛けてくる胆力の持ち主は流石にいやしないだろう。
私とアサクラは、再び元の、いや。
元以上の平穏な生活を取り戻すこととなったのである。
その代償が安かったか、高かったかと問われれば、多分、私は高かったと答えるだろう。
失われかけたものは、どこにでもあるもの。だけど、ひとたび失われれば、決して取り返せないものなのだから。
◆ ◆ ◆
「オッパッチェー。えっぱり居るっきりんがー?」
然るに、一週間後。四人用三人部屋の主と相成ることが決定したパチュリーである。
で、あるが故にルームマスターとして、現状の説明ぐらいはしておかねばならないであろう。
まずは今現在、我が部屋の左上のベッドが不当に占領されるへ至った経緯である。
「アサクラ」
相変わらずの結跏趺坐から返される表情には、「無理」とのスタンプが押されているかのよう。
「いや、プリフェクトの進入を妨げるとかは、ちょっと」
「ご自慢の腕力で何とかできるでしょう?」
「ご冗談を。プリフェクトの『見回り』は拒否できない。寮則じゃないですか」
「んーひどいなー二人とも。いいじゃない。ベッド余ってるんだし」
余っていれば好きにしてよい、というものでもなかろうに。
「……プリフェクトには、より広い個室が与えられているでしょうに」
「んー? 一人より三人の方が楽しくない? 同じ猫好き同士、仲良くしようよー」
そんなこんなで、新たなルームメイトである。
説明になっていないが、仕方がない。なにせ、こいつの思考を言葉で説明するのがそもそも不可能に近いのだ。
「ミス・イェーガー」
その行動、目的、魔法、出身、それら全てが不明。
名前だって正直、本名なのか怪しいものだ。偽名かもしれ「それ、偽名だからエレンでいいよ」……そうかい。
判明しているのは、そいつ自身が己をエレンと自称していることと、ふわふわでパチパチ。それだけである。
肩でくるくるまるまったふわっふわの金髪。愛らしい十代前半の容姿。
しかし一目で分かるそれだけしか、誰もそいつのことを知ってはいないというそいつが、
「マスター。この人なんでプリフェクトなんですか?」
「プリフェクトは見回りと称して、短時間なら好きな時に外出できる。プリフェクトは見回りと称して、どんな時間に寮内のどこににいてもよい」
寮としての対外的な体面というやつだ。寮内でも揉め事があるのは周知の事実だが、寮ごとにおける優劣を競う心理、というものある。
だから寮則違反を繰り返す奴がいると、寮全体の評判に響くのである。
徘徊するのが一般生徒なら寮則違反だが、プリフェクトなら見回りと言い切れる。
「……だから面倒な奴は頭に据えてしまえばいい、って事ですか」
「正解。社会的にも賢くなったわねアサクラ」
アサクラが全く嬉しくない表情で、首を左右に振った。
一応フォローをしておくとこのエレン、成績優秀かつ、時によく気がつく働きものではあるのだ。
ただ、普段の言動があまりにふわふわで、常人には理解できないだけ。
「楽しくやろうよー。残り少ない学生生活じゃん? ねぇ麿?」
「そう……ですね。よろしくお願いします。で、麿ってなんですか?」
「私知ってるよー。日本人って自分のこと麿って言うんだよね?」
「いつの時代の話ですか……まあ、好きに呼んで下さい」
あ、こら。容易く懐柔されるなアサクラ!
「マスター、諦めましょう。プリフェクトを敵に回すのは得策ではないですよ」
諦めたような表情で再び瞑想に戻るアサクラはあれだ。こいつ悟りすぎである。
ああ、本当に。
去年の私は何で真面目にプリフェクトを目指さなかったのか。
そんな後悔が胸中に渦巻き始める。
……まあ、面倒臭かったからなんだけど。
アサクラの脚の上で、ソクラテス(エレンが名付けた白猫の名前である)が私を慰めるかのように、うにゃんと鳴いた。
フン! まあ、術後の経過が順調で何よりなことだ。
◆
然るに、ルームマスターパチュリーである。
エレンとも生活を共にするようになって一週間が経過したわけだが。
「にゃー」
「にゃー!」
「なー?」
「にゃおーん!」
勘弁してほしい。
「猫は売るほどあります。三味線だって作れます」
「マスターよく三味線なんて言葉知ってますね。博学だなぁ」
「ほらオッパッチェー。みんなにはこの部屋で粗相をしないように言い聞かせてるし。そろそろ慣れようよー?」
この場合、怨むべきは響き渡る猫の鳴き声か、それともその程度に読書を阻害される我が集中力か。
我が蔵書は既に全て左下のベッド上へと押しやられ、床には限りない小動物達の群れである。
アサクラはこの猫まみれの状況を気に入ったか、もしくは白旗を揚げて全面降伏し、全てを受け入れたようであった。
猫の群れの中に寝っ転がる様には、なるほど不快さは見て取れない。
……って言うか、森の中にあるこの学園にこんなに猫、いないでしょう?
「はーい私が呼び寄せてまーす!」
「いいこと? エレン。ここは学舎であって動物園ではないの。分かる? そりゃあ私は卒業する必要なんてないから遊んでいても問題ないわけだけど、そういう様を目にした他の寮生達は流石に苛々するでしょう? ほら、お隣さんは今だって勉強を続けているはずよ? そこに『ンニャンニャ』とか『ミャオ』とか『フガー』とか雑音が入ってきたら腹が立つでしょう? プリフェクトならプリフェクトらしく、もう少し周囲に配慮してはいかが?」
「オッパッチェってさー」
アサクラの腹上に猫タワーを延々と築き上げつつ、エレンは笑顔で、
「優しくなったよね」
「はぁ?」
はぁ? あ、今十三匹目乗った。すごい。
じゃなくてぇ!!
「それに壁って防音じゃん? 窓開けない限り音は入ってこないはずだし」
「え?」
そうなの?
「オッパッチェってば、気付いてなかったの? 防音魔術処理」
「マスターは暇さえあれば本ばかり読んでますからね。そういったことには意識を向けてなかったと思います。あとエレンさん。そろそろ重い」
「あとさー、下級生とかこの部屋遊びに来るよ? 猫は癒される、気分転換になるって」
「はぁ?」
はぁ? 何言ってるのよ貴方ぁあ!!
「聞いてないわ! ここは私の部屋よ!」
「まあ、オッパッチェが麿を指導している間だけだからねぇ、下級生が来るの。やっぱ二人とも、この前の件も含めて色々と怖がられてるみたい」
「答えになってないわよ!!」
思わず力任せにベッドを殴ってしまう。が、ボフッという気の抜けたような音は怒りを助長するばかり。
「マスター、防音と分かった途端に急に声荒げ始めましたね。やっぱり鬱憤溜まってました?」
「なんで? 私おかしなこと言ってないわよ? なのにどうしてこんなに会話が成立しないの!?」
あれか、これが癒し系猫空間の力なのか?
私だけがその空間の外に居るからこんなにも言葉の弾丸が弾き返されるのか?
ギロリと腹立ち紛れにソクラテスを睨みつけるが、奴は奴で困ったように顔を伏せるのみである。
まったく、どいつもこいつも役に立たぬわ!!
……よろしい、ならば私自らの直接戦闘だ。
こうなったら一匹ずつ窓から投げ捨ててやる。猫だからどうせ怪我一つ負ったりはしまい。
決してこの私、猫が嫌いというわけじゃない。ただ、モノには限度があると言いたいだけなのである!
「とは言えエレンさん。猫は喘息にはよくないと聞いたことがあります。猫時空はちょっと失敗かもしれないですよ」
と、ここでようやく第三軍を気取っていたアサクラが戦線復帰である。
遅いわよアサクラ。ほら、さっさと猫どもを追い出しなさい。
「うーん、いいアイディアだと思ったんだけどなー」
「喘息は命にかかわる病気よ。貴方、もしかして私の殺害が目的で近づいてきたスパイか何か?」
「オッパッチェは変な小説の読みすぎだにゃー」
うるさい。
まあ……今現在特に影響がないってことは多分、喘息への悪影響はないんでしょうけど。
アサクラもそれには気がついているようで、むすっとするエレンを尻目に私の顔を見てクスリと笑う。
「仕方ない、猫時空は諦めるよー。オッパッチェの健康の方が大事だもんね」
「残念ですけど、仕方ありません。他の方法を考えましょう」
ふぅ……助かった。
これで猫もいなくなるし、猫がいなくなれば私の知らぬうちに他人が私の部屋に入り込むこともなくなるだろう。
思わずアサクラに礼を言いそうになって、何を馬鹿な、と口をキッと結ぶ。
よく考えたら、一ヵ月半前にアサクラがここに来てっから全てがおかしくなっていったのである。
全てはこの女が悪いんじゃないのか?
……いや、そうじゃない。
もとをただせばあいつが全て悪いのだ。
本の山からお目当ての幾つかを引っ張り出し、ノートを開いて万年筆片手にベッドへ寝っ転がる。
そうとも、よく考えたらあとひと月弱しかないのだ。
最近ゴタゴタしていたから中断していたけど、早くあれを完成させてしまわないと。
「? どうしました? マスター。不貞寝ですか?」
「違うわよ! 悪魔の顔した運命を水銀のマーメイドに変える術を模索してるの。邪魔しないで」
「オッパッチェって意外と言うことロマンシングだよね」
言ってなさい。
◆ ◆ ◆
然るに、マスターパチュリーである。
このコネ眼鏡と生活を共にするようになって二ヶ月、魔術を仕込み始めてから一ヶ月と少しである。
その集大成を、いまこの実習室Aで披露中。
アサクラが正面に向けた手のひらを中心に、半径二m程度の鈍色の魔方陣が浮かび上がった。
ほどなくしてその魔方陣は、同じく半径二mほどの鈍色に輝く炉を形成する。
ここまでは、予定通り。
「炉内の最終確認、開始」
「了解! 炉内の最終確認開始。TFC、PFC、CSC、異常なし」
「第一壁、及びダイバータ」
「問題なし。圧力正常、温度上昇に異常なし。順調そのものです」
「ふん。ここから先で躓いたら火の海ね」
「大丈夫ですよ。マスターのお墨付きですし」
何の迷いも無しにそう言いきられると、ちょっと、その、なんだ。
照れる。
「それも一種の思考停止です。気を付けるように……一気に臨界突破して、成功で締めくくりなさい」
「了解! アクセラレーションギア、バーストギア、回転数7200に固定!」
「冷却。忘れたら手が焼け落ちるわよ」
「分かってます! クールギア、ディセラレーションギア、3600を維持。遮蔽板形成。以後は炉内の目視確認は不可能。制御は魔力反応のみで」
「貴方が一番苦手な分野ね」
「……」
返事はない。
恐らく魔力の流れを感知するので精一杯なのだろう。
……が、まずいわね。
「ぐ……」
「ダイバータ温度異常上昇中。C、Dギアの回転が落ちてるわよ。Cギアを600、Dギアを400上げて水属性強化。冷却急いで」
「よく分かりますね……反応、制御閾値下に戻りました! 射撃秒読み開始!!」
よくやった。ここまでくれば、もうしくじりようはないでしょう。
「3,2,1……発射!!!」
ふっ、と正面の遮蔽板が吹き飛ぶと同時に、凄まじい熱量の奔流が荒れ狂う。
指向性を持たせられたそれは目の前にある実習室の壁を、そう。
対魔術処理Aが施された校舎の壁をあっさりと消し飛ばして、光の柱を魔界に穿つ。
十秒後、光の柱が消えた後にパチパチパチと小さく拍手。
えー、以上。工業用魔術の実演でした。
……まあ、そう言っても誰も信じないでしょうけど。
「成功ね」
満腔の溜息をついたアサクラが、どこか儚げな笑みを私に返してくる。
「ええ、さすがマスターです。私が前に顕界で実践した時は、熱が拡散して山火事になってしまったので」
まあ、碌に基礎もできていない状態で『これ』は、あまりにも無茶がすぎるだろう。
「にしても、貴方」
「はい?」
「相変わらず安直な名前よね……」
――じゃあ、マスターのおかげで完成したので……――
それを耳にしたときにはやはり、軽い目眩をおぼえたものである。
「いいじゃないですか。別に。分かりやすいは正義ですよ」
「まあ、いいわ。貴方の魔法だもの。好きになさい」
「ええ。好きにします……が」
「なに?」
「発射まで時間がかかりすぎますね。これでは実戦じゃ使えないかなぁ」
むぅ、とアサクラは腕を組んで低く唸るが、当然だ。
そもそもこれは「工業用」魔術なのであるのだから。
丹や精霊銀を練成するための炉形成魔術を無理やり戦闘用に書き換えたのだ。そりゃ時間もかかるというものである。
「いっそのこと、炉は実物を用意しておいた方がいいかもね。時短にも繋がるし、魔法炉形成のための魔力もケチれるもの」
「直径2m強の炉を持ち歩くんですか?」
「小型化するか、もしくは即時展開型にするか……面白い課題じゃない」
「私にはとても無理な課題ですよ……」
はぁ、とアサクラは溜息をついた。が、次の瞬間には顔を輝かせ始める。
「いずれにせよ、理論の証明もすんだことですし。これで論文一つ、完成ですね」
「『溶鉱炉形成魔術における砲台としての可能性と有用性』……馬鹿馬鹿しいけど、絶対にネタで被りはしないわね」
「後はこれを提出すれば、終わりですか」
卓上のエッセイをアサクラがパン、と叩いてみせるが。
「ん……」
それは、卒業がほぼ確定するということ。
そして、それは卒業する必要のない私が、他人の足を一つ引っ張るということ。
「どうしました?」
でも、このエッセイは私一人のものではないから。
「なんでもない。逃げるわよ」
「了解!」
すぐさまアサクラはエッセイと、壁に立てかけてあった箒を手に取る。
と、傍らに控えていたソクラテスが間髪いれずに跳躍、アサクラの肩へと着地。
ふむ、迅速なのは良いことだ。
箒に跨ってふわりと浮かび上がったアサクラの後ろに、するりと腰掛ける。
私達を乗せた箒が壁に空いた大穴から飛び立つと、
「またお前らかぁ!!」「逃がすかぁア! 壁直してけぇええ!!」
予想通り、上空から恐い声が二つ。そろそろ顔馴染である姉妹教師のご登場である。
なにせ私達ときたら片や国境警備隊を突破する蛮族、片や修行中とはいえ数十年魔女をやっている本職である。
そんな私達を押さえ込める教師となるともう神綺様とこのお二方くらいしかいないのだから、顔馴染みになってしまうのは仕方ないのだろうが。
……毎度毎度、大変だなぁ。危険手当とか時間外勤務手当とか、ちゃんと請求してるといいのだけど。
「ユキさんマイさん来ましたね。迎撃します?」
そしてさらりと迎撃という言葉がでてくる辺り、こいつの思考はもう色々と駄目である。
「……逃げ切りましょう。これでミセス・夢子辺りが出張ってきたら私達は膾にされて地獄行きよ」
「了解! マスター! マスター!?」
「なに?」
「祝杯あげませんか? 街に行って、色々買い込んで!!」
祝杯か。
……そうね。
「たまには、いいかもしれないわね」
無断外出は校則違反だけど、今更その程度で躊躇する私ではない。
校則を破る楽しみというのは学生にしか味わえない珍味なのだから。
「ぃよッし。季節外れだけど、お花見だ! ではではガルーダウィング、最大出力ぅ!!」
ドン、と爆発的な加速。
あっという間に白黒鮮やかな姉妹教師の姿が豆粒と化す。
「おのれぇええぇえ!!」「戻ってこぉおい!!!」
「アッハハハ! 一昨日来やがれぇーーー!」「ニャー!」
このアサクラとソクラテス、実にノリノリである。
……自分達でやっておいてなんだけど、慈愛溢れる魔界神の下で教師、って大変だなぁ。
私が教師だったら私達なんて即、退学にしてるわ。本当。
◆
然るに、中庭で花見に興じるパチュリーである。
「乾杯!」「乾杯」「かんぱーい!」
三月の風と四月の雨で五月の花が咲くと言われるが、もう六月である。
だから中庭を賑わす、アサクラ曰く「八重桜に似ている」という木々も、花を残すは僅かなりけりだ。
だがしかしそんなことはアサクラにとってどうでもよいようである……花見なのに。
私はどこかの誰かの影響で赤ワイン。
アサクラはウィスキーのロック。
エレンはアクアビットのソーダ割り。
流石にソクラテスに酒を飲ませるわけにはいくまいので、水、と。
……見事にてんでんばらばらである。
「ま、なんにせよ卒確おめでと、オッパッチェ」
「私が言うのもなんですが、おめでとうございます」
「……ありがと」
こういうのは、慣れないものだ。
まあ、慣れるも何も祝福されるなんて何年ぶりだろう、って話ではあるのだが。
「そういえば、エレンさんは大丈夫なんですか? 後輩の面倒」
「ああ、プリフェクトはね。それ免除なのよ」
「え? 何でです?」
「プリフェクトはあくまで寮生全員の模範だからね。後に続く寮生全員が弟子っていうのと、特定の個人への贔屓を防ぐっていう考えの間を取っているらしいわ。知ってれば私もプリフェクトを目指したのに」
「オッパッチェはどんな科目も余裕で単位取れるって思ってるでしょ? 問題に面してからじゃないと情報収集始めないからそうなるんだよ」
む、悔しいがその通りである。
講義の情報収集なんぞ完全に無視して、日がな最終試験の情報ばかり漁っていたというのはやはり、ちょっと自信過剰にすぎただろうか?
「じゃあ、エレンさんも卒確ですか?」
「おおむね。祝ってー!」
「おめでとうございます!」「……おめでと」
「きゃーーー!」
一気にグラスを空にしてソクラテスを抱き上げ、その場で華麗に猫ダンス。
幼い外見ながら、こやつかなりの酒豪である。
……と?
「うーむ……」
「どうしたの? アサクラ」
「いや、他のシックススは、なんで勉強を続けているのかなーって」
「ああ」
アサクラの視線を追ってぐるりと宿舎を見渡すと、なるほど。
学習室がある一角には今も煌々と明かりが灯っている。
その中には無論、シックスス以外も多少は含まれているのだろう。が、このタームの終わりに勉学に勤しむのはシックススが大半のはず。
「最終試験があるからねー」
「最終試験?」
「そう。最後の卒確要素ね。魔界の全スクール共通の統一試験と、各学校毎の個別試験。統一試験で一定以上の点数を取れれば卒業できるけど」
「みんな個別のほうでいい点が取りたいんだよー」
「……ああ、なるほど」
アサクラも、あの一件を思い出したのだろう。僅かに顔をしかめる。
そう、統一試験は公的な資格を与え、より専門知識を求められる個別試験は魔術師としての格を決める。
しかも個別試験に関しては、他のパブリックスクールのものを受験することも可。
魔界神が校長を務める我が学院の個別試験ともなれば、他の学園のトップ達が乱入してくることもあり、気が抜けないのである。
「お二方はいいんですか?」
「入門先、決まってるし。というか元の鞘に戻るだけだし。それに卒業水準なら余裕」「進学しないし。水準よゆー」
「……さいですか」
「もっともここにきて焦ってるようじゃあわりと厳しいよねー?」
「ま、ギリギリまで足掻きたいという気持ちは分かるけどね」
「はぁ」
アサクラが呆けた顔でグラスを傾ける。
「でもオッパッチェ」
「なに?」
「オッパッチェはミス・マーガトロイドを目指さないの? オッパッチェなら狙えると思うけど」
「なんですか? それ?」
「んー。うちの個別試験で満点を取った者にはね、神綺様のお墨付きで学園姓を背負う権利が与えられるのよー」
「『Sir』と同じで一種の称号みたいなものよ。まあ、まだ誰もその名誉を手にした者はいないのだけど」
「個別試験の範囲と難度、ハンパじゃないもんねー」
「ふーん。で、マスター?」
「面倒だからいいわ。マーガトロイドなんて英国では珍しくないし、どうせ私はノリッジを名乗るし」
「ノリッジだってそこまで珍しくはないじゃん。……ああ、尊敬してんだねぇ」
「うるさい!」
ゲインと蹴り飛ばしてやっても、エレンはニヤニヤ笑いを浮かべたまま。
全く、腹が立つ奴である。
「ではマスター。はいこれ」
「? 何よこれ?」
いきなりアサクラが突きつけてきたのは、一見して無骨さを印象付ける装訂の黒い本。
「はいそれを両手で大きく掲げて」
「??」
「ぶんまわす」
と、当然のように本がエレンの横っ面をぶっ叩くわけで。
普段なら撫でるような私の物理攻撃は、しかし――
「ニャァアアアアア!!」
張り倒されたエレンが地面と水平に吹っ飛んで、大地をゴロゴロと転がっていく。
「……何これ」
「ちょっと早いけど卒業祝いです。裏の見返しに身体強化の経文が書き込んであるのでアラ不思議。掲げるだけで一撃分、体が強化されます」
「……」
最後まで暴力から離れられない女である。
なんだ、あれか? 私にもバーバリアンの仲間入りをしろとでもいうのか? 無茶を言わないでほしい。
……でも、まあ。
少しだけ、気持ちよかったかも。
「本自体は白紙なんで、ご自由にどうぞ。日記代わりにでも使っていただければ幸い」
「その……」
「はい?」
「……一応、ありがとう」
「はい!」
そんな、アサクラの笑顔とは対照的。
膨れっ面のエレンが頭を振り振り戻ってくる。
「二人ともひどいなー」
「いやぁ、ちょうどマスターが殴りたいオーラ出してたんで」
「蛮族の策略に乗せられただけよ。私は悪くないわ」
「弟子に乗せられるなんて未熟だにゃー、っと」
エレンがいきなり口を閉ざす――と、なるほど。
見れば寮生が一人、宿舎の扉を開いて外へと出てくる所である。
「アーメリー。外出禁止時刻」
「……そこの二人はどうなんですか」
「中庭までなら敷地。アメリはどこ行くのん?」
「……ちょっと、図書館に」
そう語るのは、私と同じシックススの一人。栗色の髪を肩甲骨の辺りまで垂らした、真面目そうな少女。
「アーメリー、図書館もう閉館してるよー?」
「……」
「あはは、さすがに西側三番目上の窓の鍵はガタついてるから、揺すれば外れるんですとは言えないかぁ」
「!!!」
弾かれたようにエレンを見る顔は、うん。題するに「呆然」である。
……まあ、私もちょっと驚いたけど。
まさか私が第七学年の時に拵えた入り口その3を知っている奴らがいたとは。
「勉強熱心はいいけどさ。今日は私が見つけちゃったから、だーめ」
「……ですが」
「ほら、代わりに今日はオッパッチェが教えるから」
「はぁ?」
ちょっ、なに勝手言ってんだおまえぇー!!
「はぁ? って、だってオッパッチェ、余裕でしょ?」
「貴方だって余裕でしょうに!」
「私、説明とか解説とかムリ」
……まあ、そうかもしれないけどね!?
「それにほら、貴方。貴方だって私に教わりたくなんかないでしょう?」
「……いえ、もうなりふりかまっている余裕は私には無いので分かるなら教えてくださいミス・ノリッジ。解けるようになるならなんだっていいです」
なんだと。
「ここの、これなんですけど」
「ちょ、ちょっ――」
「192ページの、これです」
パチリとランタンに魔力の明かりを灯したそいつは、ずずいと遠慮なく問題集を突きつけてくる。
……ああもう、ここでやるやらぬの問答を続けるよりかは解いて追い払った方が早いか。
「これね。ああ、L回帰使えばいいんだけど……多分どっちの試験にも出題されないわよ、これ」
「え!?」
「どれどれ? あー、多分出ないねー」
「あのー、お二方。何言ってんです? そちらのお嬢さん固まってますけど」
? 私は何かおかしなことを言っただろうか?
「いや、だから試験に出ないって話をしてるのよ」
「いや、だから試験に出ないってなんで分かるのか、って話なんですよマスター」
苛立たしげにアサクラはグラスの中のウィスキーを回し始めるが……はぁ?
「もしかして……出題範囲、予測できてるんですか……?」
「まあ。所詮は人が作るものだし――神が作ってるかもしれないけど」
各教員達の勤務時間や行動を追っていけば、誰が設問作成を請け負っているかは概ね把握できる。
授業内容から教師達がそれぞれどんな本を所持、参考にしているか判別するくらいは、私にとってはなんでもないし。
そういったこまごましたものを一つ一つつぶさに追っていけばそれなりにアタリを付けるのは難しい話ではない。
「プ、プリフェクトは、何故?」
「んー? なんとなく」
その回答に、彼女はがっくりと肩を落とした……が、なんだろう。
私、睨まれてる? いや、どちらかと言うと、食いつかれているといった方が正しいか?
「……ミス・ノリッジは」
「なに?」
「今年の試験。どんな出題傾向か、概ね把握してるんですね?」
「だから。所詮試験のためだけの勉強なんて普通、まずそれを絞る所から始めない?」
茶髪の行動は迅速だった。
バタンと問題集を閉じるとクルリと身を翻して、あれよあれよという間に宿舎の中へと消えていく。
なんなのよ、いったい。
ため息をついてワインボトルに手を伸ばすが、あれ……ボトルが、ない。
ボトルを奪った犯人に目をやると、ちょっと微笑の呆れ顔。
……なんなのよ、いったい?
「ちょっとアサクラ。返しなさい」
「いえ、飲まない方がいいと思いますよ? これから長くなりそうですし」
「だねー。オッパッチェ、ちょっとしくじったね。いや、成功かな?」
◆ ◆ ◆
久々のアルコールは、想像以上に私の脳を蕩かせていたのか。
もしくはほぼ卒業が確定して、浮かれすぎていたのか。
いずれにせよ、だ。確かにこうなることぐらい、よく考えれば分かるではないか。
いつの間にやら中庭にはシックススが全員勢ぞろい。
一人が嗅ぎ付ければ、二人目も嗅ぎ付ける。二人目が嗅ぎ付ければ、以下略である。
いっそのこと嘘の出題範囲予想でも教えてくれようか。そう考えたりもするのであるが、『知識』を任ずるノリッジの名がそれを許してはくれない。
それを良いことに更には予想範囲のみに飽き足らず難問解説を要求してくる輩までいる始末である。
あれだけ私を毛嫌いしていたのにこれ。目的の為には手段など選ばす。流石は魔術師の卵といったところか。
ああ、げに腹立たしきはそんな私を眺めてニヤニヤしているアサクラとエレンであろう。
これはもう今日という日が終わったら奴らにはエレメンタルハーベスターである、と私は憤怒の鬼と化した。
が、蚊帳の外。止むことのない質問の嵐に流石に退屈してきたのか、二人が提案した「一つ質問する前に一杯空けろ」というのは真に馬鹿げた至言とも言うべきものであった。
これにより質問速度は次第に鈍化の様相を見せ始め、めでたくも私は日付を越える頃になってようやく自由を勝ち取ったのである。
十人近いシックススを屠り、ようやく取り返したワインは実にぬるくなっていた。
「おつおつ」
「そう思ってたのなら少しは手伝ってよね……」
「ムリだよー。説明とか私全然できないもん」
軽く頭を振りつつシートを離れ、花壇の縁に座るエレンの隣に、腰を下ろす。
エレンの膝の上で丸くなっているソクラテスは……こいつ酒飲んだな。気持ちよさげに(悪いのかもしれないが)お寝んね中だ。
「アサクラはどうしたの?」
「そこで寝てる」
見れば伏せるシックスス達に混じって、シートの端っこで酒瓶を枕に眠りこけるアサクラが目に映る。
実にいい気なものだ、なんて腹立ちをグビグビっとワインで押し流す。
「にしても、よくこれだけの人数潰すだけの酒があったわね」
「そりゃあ? 麿は最初っからシックスス全員呼ぶつもりだったんだろうし」
「そこに転がってる、キャットキラーも?」
「多分ね。そういう切り分けはできる子だし」
ああ、ほんとうに。
あいつは呆れるほどのお人好しである。
そして、この。今私の隣で中庭の花樹を見上げているふわふわも。
「オッパッチェも十分お人好しだよ」
そんなことはない。私は厳格で古風なノリッジであるからして。
しかし、そういえば……
「エレン」
私が矢面に立っていたため、あまり話題になることはなかったが、
「なに?」
いい機会だから聞いてしまおう。
「貴方、この学園に何しに来たの?」
この寮の、もう一人の種族魔法使いは。
一体何の為にこの学園に入学してきたのだろう?
「探し物、かな」
「探し物?」
そう、と言ってエレンはグラスのソーダ割りをクイッと飲み干すと、アクアビットのボトルにそのまま口をつけ始める。
「私ってさー。何でもできるけど、何にもできないんだ」
「よし、まずは言語学を修めなさい」
「アハハ、無駄無駄。忘れちゃうもん」
忘れることを理由に学ばないなど愚かもいいところ。
そう返そうとして、言葉を飲み込んでしまう。
ボトルを呷るエレンは姿形こそ可愛らしいものの、纏う気配には純粋さや無邪気とは一線を画す、そう。言うなれば、
老境が、見え隠れしている。
「貴方は……」
「オッパッチェが本だとしたらさ、私は黒板」
「……書いた傍から消えていく?」
「そう、書いても何にも残らない。でもね、消し書きが容易だから、なんだって手軽に表現できる。……っと、アタタ」
ほら、とエレンが差し出した手のひらの上に、突如として未開封の赤ワインが出現する。
今のは……何なの!?
魔法、で、あるのは間違いないのに。どんな魔法が行使されたのか皆目見当がつかない。
私に分かるのはエレンの髪がパチパチと静電気を帯びたこと、それくらいだ。
「……盗ってきたの? 作り出したの?」
「分からない。毎回、発動する魔法は違うみたいだから。私はただオッパッチェに送るワインがほしいと思っただけ」
……そんな、馬鹿な!
望めば、叶うというのだろうか?
「限界は、ないの?」
「まさか。なかったら神だよ。ただ、おおよそ人ができる範囲ならなんだってできる」
「……それでも、十分凄いわね」
「そう?」
エレンの笑顔はまるで、そう。
「でも、私にはこれをしたい、って強く願う思いが無いから、持ち腐れだよ」
生きることに疲れ果てた、老人のよう。
「エレン、貴方は……」
「なに?」
そっと、ソクラテスの背中を撫でるエレンに、問いかける。
「今、いくつなの?」
「千を過ぎてからは、数えてないな」
ああ、やはり。
すっと、顔ごと視線を上へ。僅かに残る天井の花へと向けたエレンが。
「書いて、消えないものを探してる」
「千年以上?」
「多分」
それは、その千年間、ずっと……
「うん、見つからなかったんだろうね。多分、これは忘れたくないなって思ったことは、一度や二度じゃないと思うんだけど。覚えてないからよく分からない」
「……」
「この学園に入学したのも私、もう五回目らしいよ? 神綺ちゃん曰く」
「だから、偽名?」
神綺ちゃんが付けてくれるの、とエレンは首肯する。
「いまだってさー。色々考えてるんだよ。オッパッチェはお胸でっかいねーとか。やった、十三段猫タワーとか。卒業、おめでとうとか、麿って本当に日本人なの? とか」
「最後のは、なんで?」
「うん? だって東洋人って黒髪だよ、おおむね。金髪はあり得ないなぁ」
「ああ ……ミセス・夢子に元の身体をぶっ壊されたから、マザーに新しい身体を貰ったそうよ。元はちゃんと黒髪茶瞳だったらしいわ」
「あー、神綺ちゃん金髪好きだからねぇ」
「覚えた?」
ちょっと儚げにエレンは笑って、先ほどのワインをはい、と押しつけてくる。
「でも、多分すぐに忘れる」
受け取ったワインは、かなりぬるかった。
「こうも何一つ覚えていられないとあれば、私の存在ってなんなんだろう。私なんていなくてもいいんじゃないかって、そう思わない?」
そんな、諦めを滲ませる問いに。
「思いません」
横合いから、差し挟まれる声。
「……起きてたんだ」
「マスターが今手にしているワイン、私の枕です」
「ああ、なるほど」
それで目が覚めたのか。
……どうりでぬるいわけだ。
「短距離アポートか。今回の魔法はショボかったねー」
「いえ、エレンさんが私と話したいと思ったからそういう結果になったんでしょう」
「麿もオッパッチェに似て、ロマンチストだよね」
「弟子ですから」
笑って、アサクラも私の隣に腰を下ろす。
「書いて、消えてしまうなら。刻み込めばいいんですよ。刃物でこうガリガリと。自分にも、自分以外にも」
「さすが蛮族は目の付け所が違った」
「あー、だからお花見?」
おお、とアサクラがいたずらっぽく上目を使う。
「エレンさんは流石にマスターと目の付け所が違いますね。その通りです」
「どういうこと?」
「ええとですね。マスター達を祝いたいと思ったのは嘘じゃないですけど……私は、私が知る花見という文化を、ここに残したかったんです」
「……何故?」
「マスターは以前、自分のことは自分だけが知っていればいい、とおっしゃいましたが」
アサクラは私とエレン、二つの顔に視線をめぐらせる。
「私は、他人と繋がることには意味があると信じている。他人に影響を与える意味があると信じている。マスターだってそうでしょう?」
「……何故?」
「だって、マスターの魔力の形である、本。本っていうのは、誰かに読まれる為に書かれるものじゃないですか」
「それは……」
「私の歯車だってそう。単独では意味を成さないものだから」
アサクラが私のワインボトルをひったくって、かわりにウィスキーボトルを押し付けてくる。
次に、ワインボトルをエレンに手渡して、エレンのアクアビットをひったくる。
「この二ヶ月は、私の人生の中でもっとも安らいだ、楽しい日々でした。お二方はどうでしたか? 迷惑でした? 疲れました? 忘れたいですか?」
「……馬鹿に振り回される、しんどい二ヶ月だった。でも、嫌いじゃなかったわ」
「楽しかったよ。うん、たのしかった」
「それはなにより。ならば、この世界にお花見文化を広げていきましょう。そうすれば各地でお花見を目にするたびに、この二ヶ月のことをいくらでも思い出せますよ」
「にゃーる。外部に刻み込むってそういうこと」
「で、まずはここから、かしら」
ええ! とアサクラがアクアビットのボトルを掲げる。
「じゃあ、乾杯しましょう。来年もこうやって皆が馬鹿騒ぎできる、花見という祭りがここに残ることを願って」
残る、の、だろうか? ここでお花見をしている連中は、来年には全員いなくなっているのに。
「残るよ、多分。だってほら」
エレンに言われて、気がついた。
なるほど。よく見ると二階の窓から、下級生達が物珍しげに中庭を見下ろしている。
ま、シックススが全員揃って中庭で酒飲みながら勉強しているのだ。流石に印象には残るか。
さあ、と、アサクラの求めに応じて。
瓶を、掲げて。
「それでは……乾杯!」
「乾杯」「乾杯!」
『か、乾杯ぁ~ぃ』
……なんだお前ら、モブの癖においしいとこ持っていきやがって。
起きてたんなら起きてたって言えよ、ちきしょう。
◆ ◆ ◆
そこからの一月はあっという間だった。
さて、なにから記していくか……まずは、試験結果であろうか。
結局、私は次席のままであった。
外部に刻み込む一環として、ならば私も一つ主席でも、と思ったのだが。上手くいかないものだ。
その後もシックスス達に付きまとわれて、私自身が最後まで詰める事ができなかった、なんてのは言い訳にもならない。
やはり主席の壁は厚かった……のかというと、そういうわけでもなくて。
どうも話を聞くに、これまで主席だった奴が学園の裏庭で大いに嘆いている姿を、多くのものが目撃したそうな。
つまり私は第三者に主席を掻っ攫われたのだ。
と、思いきや……
「へへー、主席」
なんてエレンが試験結果を突きつけてきたときにはもう、こいつ殴ろうかと思うまでもなくぶん殴っていた。
エレンは気持ちよくふっ飛んだ。ついでにソクラテスも吹っ飛んだ。
この腕に残る感覚が癖になりはしないか、ちょっと心配である。
これで最後、ということで、寮内のシックスス全員で後腐れなしの決闘を行うことになった。
戦闘など本来蛮族のやること。ゆえに一回戦で負けておこうと思ったら、何の因果か緒戦の相手はキャットキラーである。
これはわざと負けたら難癖をつけられるに違いないと確信した私は、仕方なく……仕方なくである。不用意に接近してきた敵を一撃の下に殴り倒したのであった。
瞬く間に敗者となったキャットキラーは「騙された!」などと嘆いていたが、馬鹿め。世界は日進月歩である。
その後の経緯を記す必要はあるまい。
ただ、優勝はアサクラだった。それだけが、未だに謎である。
もしかしたら皆、あいつがシックススでないことを忘れていたのかもしれない。
ソクラテスを誰が引き取るか。これは意外に揉めに揉めた。
二人とも退くようであれば私が、なんて配慮はまったく不要だったようで、両者、額を突き合わせての議論――否、喧嘩であった。
触媒として用いただけとはいえ、賢者の石試作型を投与してしまった猫の行く末だ。
私としてもその未来には学術的興味があったのだが、とても口を差し挟める状況ではない剣幕である。
侃々諤々の議論の末、結局エレンがソクラテスを引き取ることで概ね合意した。
アサクラが退いた理由はよく分からないが、何故か退いたアサクラはすっきりとした表情で、逆にエレンは少しばかり複雑そうだったのが印象的である。
でも、まあ。私も、これでよいと思う。
エレンには、共に歩む輩があるべきだ。
大掃除。最後の仕事である。
普段は掃除など当番生にまかせっきりのシックススであるが、こればっかりは我らが主役。
とはいえ、喘息持ちの私はカビもホコリも駄目。
仕方ないのでアサクラを代わりに働かせることにした。
周囲の目が痛いような気がしたが、気がしただけだった。何も問題はない。
卒業式、と言ってもそんなご大層なものではない。
礼拝堂に集まって、教師達のありがたいお話を拝聴するだけである。参加、不参加も自由だ。
当然のようにサボタージュしようと思っていた私だが、気付けば当日の朝にはアサクラの手によってガウン、ハット、フードの三点セットを着用済み。
そのままエレン共々、礼拝堂へ放り込まれていたとあっては、もう逃げようもない。
後でマザーに聞いた話では、式中に眠りこけていたのは私とエレンだけだったらしいが。
まあ、どうでもいいことだ。
式後、アサクラと合流。これまでお世話になったマザー、及びチューターやフェロー、レクチャラーらを回って歩く。
が、教員達にも人だかりができていて中々に待ち時間がかさむ。脆弱っ子にはしんどいものだ。
件の姉妹教師には嫌味を言われるとばっかり思っていたのだが、
「寂しくなるね」
なんて声をそろえて返されたときには、ああなるほど、教師とはやはり聖職者であるのだろうと感服したものである。
その後に差し出した手が無視され、代わりに痛いほどの抱擁を受けたのは、さて。感慨のなせる業か、それともささやかな復讐なのか。私には区別がつかない。
珍しくミセス・夢子を侍らせてのマザーは、「ミス・ノリッジが卒業できてよかったわ」なんて女神のように……そういえば、女神であった。
深々と頭を下げている最中に、いきなりアサクラがスターソードを生やしてミセスに切りかかったのには流石に肝を潰した。
が、ハラリ、とフリルをわずかに散らすのみでそれを回避したミセスが、満足そうに「及第」などと呟くにあたって、いよいよ私とマザーは呆れたような顔をつき合わせたのである。
ここで蛮族が、などと口にすれば私は恐らくメイド秘技で散ってしまうこと疑いなかったため、コメントは差し控えた。
「せーのぉ!!!」
三人と一匹でハウスの、続いてマーガトロイド神学院の正門を。内と外との境界線をピョンと、越える。
この後は三人、城下町で一泊。私は明日昼の便で英国ノリッジの隠れ家へ帰る。アサクラはメイド業務の後処理があるため三日後の便、エレンはしばらく魔界に残るとのこと。
だからもう、私達がこの門を揃って潜ることはない。
さらば。赤と灰色と、そして金色に彩られた我が五年間。我が学舎よ。
◆ ◆ ◆
――25番ホームに停車中の魔列車は、15時30分発、英国、ユーストンステーション行きの二十両編成、ドリームエクスプレス43号です――
――現在、顕界は戦時中のため、本数を大幅に削減しての運行となります。お乗り間違いの無いよう十分ご注意ください――
――なお顕界駅周辺は危険が予想されます。手荷物のお取り扱いには各自くれぐれもご注意くださいますよう、お願い申し上げます――
……正直、ターミナル駅というのはダンジョンと言っても過言ではないと思うパチュリーである。
「あ、マスター、あれみたいです。まだ20分ありますから走らなくて大丈夫そう」
「……それは、……なにより」
「オッパッチェってば本当に体力ないよね」
「にゃう?」
うるさい。
そもそも風に乗って移動するのは周囲の迷惑になるから歩け、なんて言ったのはどこのどいつだ。
とはいえ自身の大砲トランクに加え、私の巨大なトランクを抱えてなお息を切らさないアサクラに比べると少しばかり情けなくなってこなくも、まあ、ない。
「3 - 4E、と。この車両? ……あれ、アサクラは?」
「あそこ。呼び止められちっち」
ふむ、見れば何やら駅員と揉めているようであーだこーだと文句を言っているが……
流石にお得意の暴力で解決しないわよね?
不安に慄く私をよそに走りよってきたアサクラ曰く、
「マスター」
「なによ貴方、こんな所でくだらない喧嘩を始めないでよね」
「マスターのトランク、大きすぎるから客席への持ち込み禁止だそうです」
「……」
なんだ、あれだ。
私が悪いとでも言うのか。
仕方ないじゃないか。グランドマスターや両親へのお土産とか、本とか本とか本とか詰め込んだらそれなりにかさは増すものだ。
「麿の荷物って、あの大砲除けば小さいトランク一つだったよね」
「うるさい」
「で、とりあえず別料金で貨物室に載せてくれるそうですから、ちょっと手続きしてきます。車内で読む本だけ今抜いちゃってください」
「ん」
言われるがままにトランクから二冊の本を取り出すと、アサクラは閉じたトランクを易々と担ぎ上げる。
「じゃ、すみません。これ預けてきますので」
「ん。遅れないでね」
「マスターの速度に合わせる必要がないんで、余裕ですよ」
憎まれ口を一つ残したアサクラはなるほど、すいすいと人の合間を縫うように人ごみへと消えていく。
なんとなく手持ちぶさたになって軽く左右を見回していると、ソクラテスを頭の上に乗せたエレンが珍しく真剣な顔で、
「オッパッチェー」
「何よ?」
「麿がいなくなって生活していけるの? なんか、本気で心配」
「……大丈夫よ。いざとなったら使い魔を召喚すればいいだけのことだし」
学園を卒業した時点で私達は一応、魔界における職業魔法使いとしての公的な資格を得ているのだ。
故に低級な悪魔を召喚、契約して使役する権利を既に持っているのであるがゆえに、何も問題はない……はずである。
「ならいいけどさー。オッパッチェ」
「今度はなによ?」
「恥ずかしがってないで、麿とちゃんとお別れしなよ。多分、今日で一生の別れになるんだから」
息が、止まる。
「麿は人間だし、何より」
エレンはアサクラが私の足下に置いていった、『あの』トランクに目を向ける。
「普通の子が、あんな武器持ってるはずないじゃん」
……そうだ。あいつの住む幻想郷とやらがどんな場所かは知らないが、あいつは戦闘に巻き込まれて魔界に落ちた、と言っていた。
ならば、戻る先は……やはり戦場なのだろうか。
だから、ソクラテスをエレンに預けたのだろうか?
そう思うと、こちらに早足で歩み寄ってくるアサクラに、ああ。
なんと声をかけていいか、まったく分からなくなってしまう。
「すみませんマスター、お待たせしました。奴ら私が田舎者と見るやふざけた態度取りやがって」
そんなツッコミどころ満載の台詞が、今はありがたい。
「……殴ってないでしょうね?」
「穏便に済ませました」
「殴ってないとは言わないんだ」
「はいこれ。荷物の引き換え札と駅弁です。向こうの駅について5分位したら、この札持って集荷窓口へ向かってください。顕界側窓口と間違えないで下さいね」
駅弁と金属製のタグを「はい」と私に手渡したアサクラは、興味深げな表情で車両の窓ガラスにバン、と手をついた。
「あ、マスター。この窓開くみたいですね。立ってるとマスターすぐ体力なくなりますし、先に座ってます? もうあと5分で出発ですし」
「……そうね」
明るい、屈託のない表情。
こいつは寂しくは無いのだろうか、などと考えて、自分の愚かしさに気がつく。
よく考えたら、こいつとはたった三ヶ月の付き合いである。別段、離別を惜しむほどの仲ではないではないか。
車両に乗り込んで座席に腰を下ろす。
大荷物になるだろうから、と、隣と向かい。四席予約したのが無駄になってしまった形であるが、仕方がない。
貸切と思えばいいか、なんて考えていると、コンコン、と窓を叩かれる。
仕方無しに窓を開ければ、しまった。
この配置は失敗である。
「……見下ろされるのは好きじゃないのよ」
「そんなこと言わないでくださいよ。もうこれっきりなんですから」
そう言ったアサクラは、窓からするりとこちらに手を伸ばしてくる。
「機会があったら、幻想郷に遊びに来てください」
「嫌よ。そんな物騒そうなところ」
「……なんか壮大に誤解されてません? 今年はまぁ、周期の年とかで色々とゴタゴタしてますがね。普段は静かでいいところです……っと」
アサクラの言葉を遮るかのように、列車の警笛が短く三度、響き渡った。
それは、あと三分で列車が発車するという合図。
あと三分で、お別れという合図。
「こういうとき、なんて言って別れればいいんですかね」
アサクラが、ちょっとはにかんだように笑う。
「立派な魔術師になってください……いや、マスターはもう立派な魔術師だし……うーん」
「気取ったこと言おうとすると、失敗するよー」
「なるほど。では……」
逆の手で眼鏡を外してポケットにしまったアサクラの笑顔は、その流れる黄金の髪も相まってどこか太陽の輝きを思わせる。
「マスターはもうちょっと、笑った方がいいと思いますよ。多分、色々と損しているはずです」
ずい、と。さらに手を伸ばして。
「貴女に出会えてよかった。我が師、パチュリー・ノーレッジの未来に精霊のご加護があらんことを」
差し出された手を取るか、取らないか、逡巡する。
多分、この手を取ったら私は……
どうしよう。あと一分しかない。
何を言おう。何を言えばいい?
こちらこそありがとう、とか。
また会いましょう、とか。
健闘を祈る、とか。
言いたい事はいっぱいあるのに、何も口をついて出てこない。
「オッパッチェ。気取ったこと言おうとすると、失敗するよー」
うるさい。私はマスターなんだ。師匠なんだ。
弟子の前では何があったって、無様な所を見せるわけにはいけないんだから……!
「……魔術は」
「はい」
「魔術は他人の為にこそ、使いなさい。尋常ならざる力を己の欲望の為に行使し続けたなら、人は必ず過ちを犯す」
「はい」
「一しか知らぬ者には十を教え、道を見失い迷える者には幾多の道があるを示しなさい。そのためにこそ、我らノ……ノーレッジは存在する」
「はい」
然り、と頷いた、
「やはり、マスターの思考は、ああ……」
このコネ眼鏡は、なぜ、
「とても、奇麗だ」
私を見て、そんなふうに美しく笑えるのだろう?
「アサクラ」
「はい」
「常に、問い続ける姿勢を忘れないように。貴方は、私の……」
ずっと、伸ばされていた手を、一度だけ、ギュッと握り締め。
そして、手を離す。
機関車がすさまじい勢いで蒸気を噴出し始める。
悲鳴のような、雄叫びのような警笛が響き渡る。
ゴトン、と車体が揺れて、少しずつ車両が前へ前へと進み始める。
アサクラとエレンは、根が張ったかのようにそこから動かないから、少しずつ、私達の距離は広がっていく。
二人は、私に手を振っているだろう。
だけど決して、私を追ってはこないだろう。
私が、泣き顔をみられるのが嫌だ、と。なんとなく、知っているだろうから。
私は、識っていた。涙を流すというのは苦しいものばかりではないのだということを。
だけど、今日、それを、私は――
それを、今日。私は初めて知ったのだ。
◆ ◆ ◆
パタン、と黒い表紙を閉じる。
然るに、紅魔館地下大図書館のパチュリー・ノーレッジである。
学生時代の経験とは色濃く記憶に残るようで、春になると無性に花が見たくなるものである。
とは言え、生来の出不精。できることなら図書館にいたまま花見ができれば最上。
……それは酒の席での軽い冗談であったのだが。
いつの間にやらかつてのロケット発射口の淵にぐるっと、輪を描く様に桜の木が植えられていたのであった。
これは妙なり、と従者二人を呼びつけて労ったものの、一人は両掌を胸の前で合わせて、一人はスカートの端を軽くつまんで、謙虚に優雅に会釈するのみ。
まこと、紅魔館の住人は主以外が優秀である。
然るに大図書館の一角である月の間は今や、天井を開けば月見のみならず花見も楽しめる。
そんな紅魔館一、風情のある月花の間へと変貌したのであった。
故に、花見であろう。
とはいえ、一人で花見をしてもつまらぬもの。
司書に、そう。できるだけ静かな会話を楽しめそうな連中を集めてくるように命じたところ、
「だからさ、それなら各部にスラスタ増設すりゃいいじゃんか?」
「はぁ? ベクタード・スラストでしょ? スラスタを増設したら新たな燃料タンクも用意しなきゃだし、利点は少ないわよ」
「はあ? 推力偏向じゃ逆噴射できないじゃんか。急制動がかけられんぜ」
「あのね魔理沙。あまり無茶な機動ばかりしてると脳細胞が死滅して馬鹿になるわよ?」
ふむ。
運命というものは悪魔の皮を被って私を弄んでくれるわけであるが、それをあまり責めすぎると、
「ね……ねえパチェ? 貴女、私を理不尽に対する不満のはけ口か何かと勘違いしていないかしら?」
などとヘソを曲げてしまうので、最近はマーキュリポイズンを控えることにしているのだ。
しかしこればっかりは、やはり後でシルバードラゴンであろう。
司書の招待を受けてないはずなのにここにいる、金髪黒服火力馬鹿と黒髪白衣歯車馬鹿。
お互い推進機構には拘りがあるらしく、元ロケット発射口にてあーだこーだとロケット議論を続けているこの二人。
「そういえば60年ほど前に魔界で一人、在家を獲得しまして」
招待されたモンクウィザードは般若湯を手に、月を見上げてかく語る。
「そういえば60年ほど前、一人のメイドに和製給仕人形の作り方を教えてもらったのよね」
招待されたミス・マーガトロイドはドライジンを手に、花を見上げてかく語る。
「推力偏向とスラスタ増設。正解はどっちなんだろうねー?」
招待されたふわふわ頭はアクアビットを手に、天を見上げてかく語る。
――にゃー。
平然と未だ生を紡ぎ続けている白猫は、懐かしそうに一声上げる。
そう、一体どっちなのだろうか?
問答無用の性格と金髪は火力馬鹿のそれであるのだが、姓と総魔力量は明らかに歯車馬鹿のそれである。
その一方で魔法のみが残っただけで、血の繋がりはないような気もするし。
でも、まあ。
「どっちだっていいわ。重要なのは奴らは図書館では声を抑える、という猫でも知ってる常識を知らない蛮族だということよ」
やはり、私達三人と一匹が再びそろうことはなかった。
だがそれでも、我が弟子が生きた証は、今も目の前にある。
くだらないことでギャアギャア騒ぐ彼女達を見ていると、ああ。
我が胸中では懐かしき学生時代の記憶が一羽、また一羽と翼を広げて羽ばたき始め、
「貴方達……」
然るに私はやおら愛用の鈍器を手にお座敷シートから立ち上がり、それを大きく振りかぶると、
「図書館内では静かになさい!」
口角泡を飛ばして議論を続ける馬鹿二人に向かって、全力でそれを振り下ろすのであった。
他所でやった方が良いのでは?
魔界モノは未知の文化や文明がありそうで自分も興味がありましたが、物語の舞台として機能してるのは少ないので楽しかったです
マーガトロイドがただの姓では無く称号を兼ねていると言うのも面白いと言うか上手い
アリスはここを首席で卒業したんやなと即座に理解できるのと同時に魔界との繋がりも描写できる
列車での別れのシーンは鉄板ですな、所謂王道
ついでに下女サハギンと言うネーミングは色々な意味で目からウロコでした
悪の魔法使いが使いそう
エレンとか朝倉とかめったに見ないし新鮮でした
・神綺が管轄する魔界式正統派魔法(白蓮もココ)
・魅魔が司る外法式魔法(対敵戦闘に特化したような流派、魔理沙が継承)
だったのですが、紅魔館魔法司のパチェを、前者に説得力と諧謔とをもってを組み込んだ
作者様の筆力に脱帽です
二次創作での『イケ美鈴』のような朝倉の描写も秀逸でした
素晴らしい作品を読ませて頂きありがとうございます
「パチュリー、ウッ!」
半分死ねって言ってるようなもんよね
居酒屋での雑談ならとにかく本当に死にかけてるときにそんなこと言われると
この世界にはしっかりと背骨が通っていて、お話も舞台も自分の好みドンピシャでもうたまらんです。
独自の世界観が言葉のラッシュとなってオラオラ迫ってきており、それでいて気持ちのいい読後感を得ることが出来ました。
すばらしいです。
あとあれだろ!学院エピソードの一部が外部に間違って伝わっちゃって、プライマリスクールに通う未来の司書さんや未来の主席さんとかが「学院に夜な夜な出没し破壊の限りを尽くす蛮族とそれに篭絡された次席の魔女事件」の謎を暴こうと寄宿舎を脱走してたりするんだろ!そうに決まってるおれはくわしいんだ!
王道ものはいいですね!