舟幽霊の復讐号(MAR SEAS GHOST)
【第一の掟】
乗員には投票権が与えられる。そして戦利品の食飲料の平等な飲食の権利を有する。しかし食飲料が欠乏しているときは船長が食飲料を管理する
【第二の掟】
戦利品の食器類と宝石類を詐取してならない。実行犯は無人島に流刑する
【第三の掟】
船内でのギャンブルを禁止する
【第四の掟】
原則的に二十時には眠りにつき、以降の飲酒は甲板でおこなう
【第五の掟】
武器の整備を徹底すること
【第六の掟】
無力な女と子供に乱暴してはならない。そして船へ乗せてもならない。実行犯は処刑する
【第七の掟】
戦意を失ってはならない。実行犯は処刑する
【第八の掟】
船内で仲間と争ってはならない。陸での決闘は許可する
【第九の掟】
負傷者には臨時の給金を支給する
【第十の掟】
船長と操舵手は四倍の戦利品を得る。航海長と砲術長は三倍の戦利品を得る。その他の上級職は二倍の戦利品を得る。
【第十一の掟】
安息日は休日とする
以上を守りつづけるならば
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり
我々は永遠の放浪へ向かう
カリブの島々の海境よ
おまえの嵐に、おまえの波に
今は郷愁を感じるのだ
あの海の底より
悪霊たちの歌声が聴こえてくる
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……
一
雲を貫いて。
空から───船が降ってきた。
「まあ……」
と聖白蓮はそれを見て、頓狂な声を発していた。
おどろきを隠せなかったのだろう。
たしかに───おどろくべきことである。そして同時に騒ぐほどのことでもない。
幻想郷で不思議の十や二十は茶飯事である。
やがて船は降りきると白蓮の視界にはいらなくなった。
遠くに落ちたらしく、なんの音もしなかった。
「霧の湖のほうですね」
と村紗水蜜は推測した。
「分かるのですか?」
「距離を測るのは得意です」
物体の大きさを加味すれば、大体の距離を割りだせる。
海では必要な能力だ。
「船が降るなんて、なんなのかしら」
「外世の忘れものが流れこんできたのでしょう。よくあることです」
「……それもそうね」
「船が降る」 水蜜は自嘲的に言う 「私たちが言うのもヘンですが」
「それも、そうよ」
「掃除に戻りますか?」
ふたりが船の墜落を目視できたのは、墓場の清掃をしているからだった。白蓮は逡巡する。別に船が気になるわけではなかったけれども、あの光景は職務への緊張感を断ちきるには充分だった。
白蓮は頬を撫でると言う。
「休憩にでもしましょうか?」
命蓮寺の裏の井戸で手を清めると、ふたりは内陣裏の縁側に座った。
初春にしては寒かった。寒暖を繰りかえしながら、季節は徐々に変わってゆく。今は前者が幅を利かせているのだろう。終わりの季節の残滓がふたりの首筋に触れていた。
「気になりますか?」
「……何が」
と水蜜はとぼけた。
しかし白蓮が何を言っているのかは明白だ。彼女はにこにこと笑っている。その狡猾さはまちがいなく、彼女が人間だったことを証明していた。
水蜜は自分のとぼけかたと白蓮のしらじらしさがいやになった。
尤もその駆けひきは白蓮が水蜜を信頼しているからこそである。ほかの盲目的な寺の連中に対して、彼女はそう言うふうに振るまわない。
「悪霊を試さないほうが身のためですよ」
「試す!」 白蓮は芝居でもするように言う 「すこし気になるだけですよ。船には詳しいでしょう……ねえ?」
「ふん」
と鼻を鳴らすと水蜜は霧の湖の方角を見た。
「随分と大きそうでした。おそらく舶来船ね」
「そうなの?」
「蒙古でも宋でもない。西の船でしょうね……それに時代も新しそうだった」
あんな船は見たことがなかった。
寺の本堂の二倍はあるかもしれない。甲板の上の特徴的な三本の帆は、牙のように天へ伸びていた。それに船首の辺りにも三角巾のような帆があった───あれはなんの役割があるのだろう?
と思考に耽っていると水蜜は白蓮の視線を感じた。
水蜜は息を呑む。息などすでにしていないけれども、そう表現するほかなかったのだ。
「うれしそうですね」
と白蓮が言う。
そこに侮蔑と猜疑はない。海洋の心のように慈悲を向けている。
水蜜は白蓮と目を合わせると心を透かされるように感じるときがある。あるいは自分が分かりやすいだけなのかもしれない。
水蜜には独特の理屈があった。
生きものと言うやつは、心を皮フの下に隠しているので、簡単にそれを暴いたりはできない。幽霊だけが心をむきだしにして、往来を渡りあるかなければならないのだ───。
「潮の香りがする」
と白蓮が試すように言った。
「海のことを考えているとあなたは潮の香りがするわ。懐かしい……知っていますか? 最初に海を見たのはあなたを助けたときだったのよ。本当に……懐かしいね」
水蜜は湖の方角を見ると自分の孤独を痛感した。そして彼女は網膜の内に海の記憶の慰めを見る。彼女は船を沈めるのが本当に好きだった───あれは海の船であるように見えた。
海よ。
何故に今さら、目のまえに現れるのだ?
何故に今さら、体に情熱を与えるのだ?
あるいは単におまえの傍を離れたことへの当てつけなのかもしれないけれども。
それが海からのいやがらせなのだ。
二
ナズーリンが水蜜のところに来たのは数日が経ってからである。
「君も噂の船を見たかい」
「噂?」
「二度目とは言え、空に船だからね」
「向こうは墜落しましたよ」
幻想郷は奇妙な観光客の噂で持ちきりのようだ。
ナズーリンもそれに喰いついたと言うわけだ。彼女には蒐集癖がある。廃品回収者としての勘がはたらいたのだろう。
水蜜はナズーリンのペンデュラムのきらきらが目に痛かった。
「私も一緒に行けと? ほかに同業がいるでしょう」
「同業とは収穫を分配しなければならない。趣味じゃないね」
「仏門のくせに……」
と水蜜は呆れた。
「君は物欲が薄いだろう。それに……」
「それに?」
「その……口実を探していると思ってね。フフフフ、フフ」
水蜜はナズーリンの肉体的な貧弱さに軽蔑を感じ、頭脳の明快さに一定の尊敬をはらっていたけれども、今は後者もきらいになりそうだった。この鼠を殺そうと思ったのは一度や二度ではない。
しかし意外とふたりの相性は───わるくなかった。それはふたりが日の光の下よりも、夜の静寂をこのんでいるからだ。
「どうする?」
「そうですね……百回目が来たら、殺すことにしましょう」
「何が?」
「あなたの性格の不愉快さと、その封殺について」
「それはよかった。一緒にこないとは言わないんだね?」
「はい」
「よろしい。すぐに行こう……“鉄は熱いうちに打て”と言うからね」
ナズーリンが用心棒を求めたのは当然と言える。
相手が海の船であることは噂で知っていた。それが危険なところなのだ。船に先住民がいるとすれば、それは凶暴かもしれなかった。
海で熟成されると人間の魂は凶暴化しやすい。ナズーリンは身内にそれを学んでいた。もちろん身内とは水蜜のことである。
ナズーリンは湖への道中で霧が立ちこめはじめたとき、隣の水蜜の顔を横目で見た。彼女の皮フは真珠のように純白だ。
しかし唇だけは血のように赤く、そこへわずかに腐敗のような“むらさき”をぬめぬめとつやめかせていた。
美しい───と言うほかない。そしてナズーリンはその美貌にいつも弱者の本能的な恐怖を感じるのだ。
奇妙な疑問ではある───海に呪われさえすれば、すべての人間は水蜜ほどに美しくなれるのか?
「見えてきたな」
霧の中で船が幻影のように浮かんできた。
船は岸の近くで錨を沈めていた。
ふたりは岸で船を眺める。
「……ひどい」
とナズーリンはいやそうに言う。
ほとんど難破船だった。
船の側面は腐れかけていた。片面には二十ほどの砲窓があったけれども、肝心の砲台は半分ほどに減っている。帆は猫が障子にいたずらをしたようなありさまだ。
しかしナズーリンは船のありさまに“ひどい”と言うのではない。その原因は臭いである。潮と腐木の悪臭───むせかえるような。百年は海に浸かってないとこうはならない。
「英文だ」
と水蜜は船の側面に指を向けた。文章はかすれている。
しかし読めないこともなさそうだ。
『ROYAL FORTUNE』
「意味は」
「王さまの最後と読むのさ。君……鼻は大丈夫なのかい?」
水蜜は五感の中でも味覚と嗅覚が非常にわるい。
しかし海に関しては敏感だった。あたかも海が自分を知ってもらうために残したような機能だった。
水蜜は貧弱な小魚の気分になった。小魚の生死は海が決める。漁船や鮫がはこばれてくれば、小魚は死んでしまうしかない。彼女はいつも海の態系の頂点に君臨していた。
だからこそ───海の絶望的な支配力と水の断絶力を敏感に感じとってもいた。
水蜜は急に吐きそうになった。しゃがみこんだ。
胃がむかつく。それでも何も吐きだせない。それが余計に気分をわるくした。
「大丈夫か!」
とナズーリンは水蜜の背中を撫でた。それが効くのかも分からない。
しかし、ほかに何をしてやれると言うのだろう?
「連れてくるべきではなかったか」
「……大丈夫です」
と水蜜は微笑を返す。
気分はすぐに回復した。久しぶりの海の気配に体がおどろいているだけなのだ。複雑な郷愁が胸にしみこむ。
「ナズーリン……乗りこもう」
甲板ができそこないの橋のようにぎしぎしと鳴いている。
今にも穴が開きそうだ。すでに開いているところもある。
「さあ……どこから観光しようか」
「物色でしょう?」
「そうとも言うね」
水蜜は辺りを見た。
甲板の左右と帆の近くには内部への梯がある。後部の突きだしたところにはいくつかの扉があった。扉の左右には階段があり、後部へ登れるようになっている。そこには舵が取りつけられていた。
「貴重品を探すなら、船長室にしますか。うしろの中央の扉でしょう」
「分かるのか?」
「基本的に船長は上。ほかは船の内部です。力を誇示するためですよ」
ふたりは扉のほうへ歩いていった。
扉もいやな音でふたりを迎えた。
たしかに船長室らしかった。腐れながらも机と椅子は贅沢品のように見えた。壁は“さびさび”の刀剣類や装飾品で飾られている。
そして何よりも深紅のコートを着て、首にダイヤモンドの十字架をぶらさげている───奥の椅子の上の骸骨(ムクロボネ)は───いかにも船長らしかった。
「へえーー……」
とナズーリンは壁に近づくと飾りの曲刀を手に持った。愛用のダウジング・ロッドを振るように何度か振りまわす。
「舶来の刀は軽いんだな」
「どうです?」
「どれも錆がひどいな……」
それからナズーリンは骸骨を見た。彼のダイヤモンドの十字架は価値がありそうで、その美しさはペンデュラムにも劣らない。
是が非でも手に入れたかった───尤もその骸骨が本当に無害ならだ。
「それで」 ナズーリンは曲刀の先を骸骨に向ける 「客が来たのに挨拶もなしかい」
その一刹那!
骸骨は一瞬で立ちあがるとナズーリンに銃を向けた。
しかし水蜜も早業に遅れを取らなかった。すでにナズーリンの前に立ちはだかっている。
水蜜は余裕で警告する。
「そんな武器では勝てませんよ。言葉……分かります? 観光客さん」
別につうじるとは思っていない。ただ体面的に言うだけだ。
この舶来船の乗員に万が一でも言葉がつうじるわけはない。
しかし万が一とは可能性の消滅を示さない。もちろん滅多にないことではある。それでも万が一が起こることは稀にあるのだ。
『Japanese』
「……なんだと」
とナズーリンは驚愕した。
「それは……日本語……だな? ……どうだ」
あたかも骸骨は喉の具合を確認しているようだ。
「第六の掟は」 骸骨は流暢に言う 「……“女と子供を乗せてはならない”だ」
声はざらざらとしていた。潮に焼かれているのだろう。海の人間はそうなるのが常である。それは海の刺青なのだ。
「自分で乗ったのさ」
とナズーリンは水蜜のうしろで言った。
「目的は何かね」
「略奪だけど……交渉もしてやろう。君が話せるのだからな」
「してやろう。とは?」
「うちの悪霊は君の百倍も強い」
骸骨は眼窩で水蜜を値踏する。一見すると強そうには見えない。ただのひょろひょろの娘である。しかし彼は海の生きものなりに何かを感じとった。それは小魚が鮫に感じる、格のちがいと言うやつだ。
骸骨は両手をあげると言う。
「茶葉が切れてる」
「よろしい。君の名前は?」
「名前は……なんだろうな? 忘れているのだ。異名だけが記憶にある。私のことはブラック・バード(黒丸烏)とでも呼びやがれ」
銃の火薬は湿っていた。
四
「どうしてバードは幻想郷へ来たのでしょう?」
と帰りの道中で水蜜は聞いた。
ふたりは歩く。船を離れるほどにいやな潮の臭いも薄れてゆく。それに水蜜は一抹の安心と不安を感じるのだ。
「これは仮説だけど」 ナズーリンはひけらかすように言う 「あれから君が甲板を散策して……私が護衛もなしに……ひとりで! ……交渉しているときに聞いたことが由来していると思う」
ナズーリンの声は棘を含んでいた。
「残念ですよ。殺されなくて……幽霊の仲間が欲しかったのに」
「バードの船は人種が多様だったらしい。この国の浪人者に言葉を習ったと言っていた」
「それで?」
「分からないか? 言語だよ。幻想郷にも限度がある、国外の妖怪を無条件で引きこむはずがない。そこで条件になってくるのは……」
「言葉ですか」
「紅魔館の連中が例さ。意思の疎通は協調につながる。私が交渉できたようにね」
水蜜はさきほどのことを追想した。
ナズーリンが交渉しているとき、水蜜は甲板で湖を眺めていた。
ふたりにしても大丈夫だと思った。海はこの世で最も危険な場所である。だから船長と言うのはこの世で最も慎重な生きものにならざるを得ない。相手も馬鹿ではないはずだった。
そのうち扉が開くとバードとナズーリンも甲板に来た。
しかしナズーリンはすぐに別の扉へ消えてゆく。あとは水蜜とバードが残された。
「ナズーリンは?」
「うちの倉庫が気になるんだな。同胞(ハラカラ)よ……私の船はどうかね?」
「潰すのは苦労しそうです」
「無理とは言わないのだね」
「まあ……できますよ」
水蜜は万全のロイヤル・フォーチュンを想像した。星輦船の二倍の体躯とそれにふさわしいだけの頑丈さに───暴力的な四十門の大砲と三本の帆のひらめきに───興味はある。この船長と乗員たちはどんなふうに抵抗するのだろう?
しかし、そんな争いは望めるはずがない。
争いの神さまはすでにロイヤル・フォーチュンに興味がない。この船は死んでしまっているのだった。
「ほかの乗員は?」
「動きはするがね……船の中で眠っているよ。もう意見もしないし、文句も言わない。船の手足になってしまったのだ。あるいは……私もな」
「呪いですよ」 水蜜はバードの眼窩を見る 「あなたは血の香りがする。それが罰なのです。因果応報は知っていますか?」
「うちのヤポン(日の光の国の人)はいつもそれを気にしていた」
「博識ですね」
「ふん。照れるね」
霧のために対岸は見えない。だから水蜜は船の臭いの影響で自分が海にいると錯覚した。
しかし幻想郷はどこまでも内陸に過ぎない。そこには錯覚だけがある。海洋の心に触れることはできなかった。
それなのに───どうして魂が熱くなるのだ?
───その日の夜。
墓場で煙草を吸っていると白蓮に見つかった。
「……聖」
白蓮は水蜜を見つけるとヘンな顔で言う。
「煙が見えたので……来たのですが」
「私とは思わなかった?」
「いつからです」
「遊びですよ。頻繁に吸うわけじゃない」
「見つからないようにやりなさい」
「はい」
夜の白蓮は規律に甘い。昼にきびしいのは世間体を気にするからだ。
白蓮も水蜜の隣───墓石の台座に座りこんだ。
水蜜は白蓮に煙草と燐寸を渡した。わずかに迷ったあと彼女は煙草を口にして、燐寸で火を入れると煙を肺に吸いこんだ。
「おえ……」
白蓮の様子に水蜜は苦笑する。
「吸っているとすこしは寒くなくなりますよ」
「あなたも寒いのですか?」
「寒いよ」 水蜜は試すように言う 「幽霊は寒いのよ。いつも寒くて……海の底にいるようです」
「気をつけなさい。自虐も行きすぎると滑稽ですよ」
月はあかるい。満月だった。
水蜜はそれを自分の心臓なのだと夢想する。海にいるころはいつもそうだった。その妙な感傷は彼女の心臓が止まっていることに由来していた。
仮に捕らえようとしても月は逃げだしてしまうだろう。
実際───水蜜はついに海面の境月さえも触れそこねた。
そして船の残骸の上で目を覚ます。水蜜は眠らない。残骸の上の静寂だけは彼女に眠りを連れてくる。
「ナズーリンと船を見てきたそうね。どうでした?」
水蜜は素直に言う。
「まあ……思ったよりも沈めたかったよ……いまだに」
「バードさん……でしたっけ?」
「口実はある」 水蜜の声はよどみない 「あの船はすでに終わっているのです。今は葬儀を待っている」
「私はあなたを拾うとき、十割の善意でやりました」
「……」
「私はあなたを助けました。
それは……私はつねに敗北してはなりませんが、同時に相手も勝利させなければならないからです。それが争いの理想です。
私は誰にでも勝利する。そして相手も勝利する。両者が何かを得る。言っていることが分かりますか?」
「あなたに負けることで、何かを得たのは認めます。怖ろしいね……そんな理想を通すのは超越者の領域に手をひたしている」
「十割ですよ」
と白蓮は仏のように言う。
「十割でやりなさい」
「悪意でも?」
「あなたが半端に善意でやれば、一割の悟りも得られないでしょう」
と白蓮は予言のように言った。
四
またロイヤル・フォーチュンを見ることになったのはナズーリンが茶葉を寺へ持ってきたときだった。用心棒を任されたのである。
ふたりが甲板に登ると骸骨の乗員たちが清掃にいそしんでいた。
「ごきげんよう」
とバードはほがらかに顎骨を鳴らした。彼も甲板にいた。
バードは甲板に布を敷いて、そこに黒色の粉を並べていた。
「火薬を干しているのだよ」
「いつのやつです」
と水蜜はいぶかしんだ。
「何……ただの癖だよ。武器の整備は掟だからな」
死者が生前の行動にすがる。よくあることだ。
それからバードはナズーリンの茶葉を一別すると言う。
「なんだこれは」
「茶葉だよ」
バードは肩を怒らせる。
「これは紅茶ではない!」
「言われなかったからな。異国との交流をたのしみたまえ」
「あばずれ! 同胞よ。君も言ってやってくれ!」
水蜜は目を逸らすと言う。
「興味がないので……」
「カリブの無頼漢も君たちには負けるな。ふん? 紅白の衣装の娘と魔女に蹂躙されたぞ……この頭蓋骨の傷を見ろ。しばきまわされたんだ」
バードは幻想郷の“持てなし”を受けたらしい。つまり受けいれられたと言うことだ。
「じつは久々に船を動かそうと思うのだ。君たちもたのしめ」
と清掃が終わるとバードが催促した。
「どうします?」
「私はかまわなけど……ムラサは」
「それなら……」
と水蜜は頷いた。
「バード。私は倉庫の物を貰う……かまわないか?」
「持っていけ。すべてを」
ナズーリンが去るとバードは後部の舵へ向かった。水蜜もそれに同行した。甲板では乗員が錨を引きあげている。
「よろしいのですか」
「持っていても仕方がない、過去の栄光の産物などは。
君は物欲がないな。物に執着するよりは名誉なことだ。生きていると……特に男はいやに物を耽溺するからな」
「……そうですね」
「何が好きだ」
「さあ?」
と水蜜はごまかした。
バードは舵の前で言う。
「いつ以来の船出だろう」
「……号令は?」
「乗員は返事をしなくなった。どうして声をかけようか」
帆はひらいている。調整の必要もなさそうだ。
仕事が終わると甲板の乗員たちがばたばたと倒れはじめた。
静寂が訪れる。バードは舵を握りしめる。
あたかも胸の痛みをこらえているようだ。
「さあ……出かけよう」
空は快晴。風は微風。湖はバードを迎えている。
『以上を守りつづけるならば。
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり。
我々は永遠の放浪へ向かう。
カリブの島々の海境よ。
おまえの嵐に、おまえの波に。
今は郷愁を感じるのだ。
あの海の底より。
悪霊たちの歌声が聴こえてくる。
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……』
バードが英語で歌っている。水蜜は隣に立っている。乗員は甲板で眠っている。ロイヤル・フォーチュンは衝角で湖の霧を断つ。
「以前は二十隻で艦隊を組んでいたのにな」
「艦隊?」
「ブラック・バードはカリブで最も稼いだ……大悪党だ」 バードは誇らしそうに言う 「どうだ? 怖れたか」
「ふん。その程度の悪党なんて、幻想郷では珍しくもない」
正直なところ───バードはナズーリンに決闘で勝てるかもあやしい。と水蜜は推測していた。
しかし経験は用意に力の差をくつがえす。
すでにバードは人間ではない。彼は妖怪になっている。
そして妖怪の争いとは、精神の争いなのである。
バードの態度は荒事に慣れていた。
「あなたは海が好きそうですね」
水蜜には信じられないことだった。
「この仕事はすぐに好きになった。まともな仕事は食事もわずかで給料は安い。それに比べると悪党は喰えるし、すべてを自分で決められる。もし“いちばち”に失敗してもすこしの我慢で乗りこえられる。どちらがさかしいかは言うまでもないだろう。
たのしさの代償に余生は諦める。それが私の趣味だった」
「他者を害してもですか?」
「同胞よ……君が道徳を語るなよ」
「私を何も知らないでしょう」
「君は血の香りがする。ふん? 分かるとも。だから“同胞”と呼ぶんじゃないか。海に通じているからではなくな。
平等にしよう! 君もいたずらに私を語ろうとするな。反吐が出る」
水蜜は試しに本気の殺意をバードへ向けてみた。
それでもバードは気にしない。彼は独りごとのように呟く。
「悪事をはたらくのは賢くなかったな。船と一緒に海底へ囚われてしまうとは。報いがあるとすれば……それが罰なのか」
水蜜は急にはらわたの辺りがうずいた。
それはバードの達観したような態度が原因だった。
おそらくバードは海を憎んでいない。それどころか、愛してもいた。
もし海が何事かの目的を持ち、自分を囚えたのであるならば、水蜜は海を許せたはずだった。
しかし海は何も望んではいなかった。ふたりが海に囚われたのは単に才覚があったからだ。水蜜は海の命令で自分が船を沈めたくなるのだと信じたかった───それはなんのために? 船が通過することも許さないなら、なんのために大地のはざまを占領するのだ。
「なんの因果なのか、私は水面に戻っている。
しかし、すでに私は両足を死にひたしてしまった。
あとは永久に湖船のあるじでもやってやるさ」
「近くに陸がありますよ」
「ふん」
とバードは自嘲敵に鼻骨を鳴らす。
「……今さら」
その文句は水蜜の耳にしみこんできた。
今さら───本当にそのとおりだった。
水蜜は自分の醜さを理解している。生者の視線に耐えられるのは目のわるさと錯覚に期待するからだった。だから幽霊は魂を生前のかたちへ似せて、区別がしづらいように工夫するのだ。
「どうした」
とナズーリンは緊張した。戻ってくるとふたりのあいだに火花を感じたのである。水蜜のほうを窺うと───彼女はおぞけが走った。その苔色の瞳が純粋な殺意でぎらついていたからだ。
「岸に戻って」
と水蜜が吐きすてるように言う。
「おい……ムラサ」
「その男と喧嘩したわ」
水蜜は甲板のほうへ去っていった。
ナズーリンとバードのあいだに沈黙が訪れる。彼は顎骨を打ちならすと舵を切った。船が左に回転した。
「私を始末したくなったらしいな」
「あーー……私はムラサの味方をする。身内だし」
「受けてたつ」 バードはたのしそうに言う 「すでに火蓋は争いの神さまにゆだねられたのだ」
「失礼なことでもしたのかい?」
「考えかたのちがいだよ。それが我々を争わせる。あの娘は海がきらいなんだな。いや……愛憎と呼ぶべきか」
「対立するほどの理由には思えないね。誰が何を好きだろうとかまわないじゃないか」
「宗派がちがうなら、争うだけの価値はある。鼠には理解できないかね?」
「したくもないね」
ふたりは不意に鳶が水面へ向かうのを認めた。
鳶はすぐに空へ戻ってくる。その口には小魚がくわえられていた。
鳶はロイヤル・フォーチュンの帆に乗ると小魚を飲みこんでゆく。
「生命の縮図だな」
「あの小魚は君さ。悪霊に呪われたのを後悔しろ」
「ちがうね。私は地獄に行くが、小魚は行かない」
「口が減らないな」
「……そうだ」
とバードは思いだしたように言う。
「この土地は人間と魔物が共生しているらしいな」
「ふん。いつ“ぼろ”が出るか、私たちは不安でいるよ」
「なんでもそうだろう? 永久に栄えることなどない。昔……悪党の共和国があった。ナッソーと言う」
バードの声は軽蔑を含んでいた。
「共和国は二十年も栄えなかった。滅ぼされたのだよ、さらに巨大な力にな。この土地は何年目だ?」
「何百年も前からだと聞いている」
「……すばらしい」
岸が見えてくる。
「あの悪党どもが君たちのようにかわいらしかったら、許されたのかもしれないな……ハハハハ、ハハ! なんてね……考えるだけでも気味がわるいぞ」
五
「ナズーリン」
「どうした?」
帰りぎわ───水蜜は急に道中で立ちどまる。
まだ霧の中にいたけれども、すでに後方の船は見えなくなっていた。
「才覚……なんだと思う」
「……」
「思うんだ。どうして私が舟幽霊になったのか……それは恨みや怒りじゃない。
才覚なのよ。生前には気がつかなかった、船を沈めるための才覚よ。
バードもそう。それだけが私たちとほかの海の死者たちをへだてた」
「君は内陸に産まれるべきだったな。ふん?」
「沈めたいな」 水蜜は恍惚とする 「久しぶりに」
水蜜はバードになんの共感もおぼえない。
ただ巨大な獲物を前にして、涎をだらだらと垂らしているのだ。
ロイヤル・フォーチュンをやつざきにしたい。
使命が水蜜を高ぶらせる。
水蜜は生前の記憶が曖昧だった。それは海に磨耗されてしまったのだ。
かたちは消え、忘れられた。
そして水蜜の中には使命だけが残っている。
ときにナズーリンは水蜜を美しいと評価する。その理由は彼女の十割が海の暴力の化身だからである。
半端でないことは美しい。それには“すじ”が通っているからだ。
頭の中で何事かは言う───船を沈めろ。
寺に戻ると白蓮が本堂で読経をしていた。
水蜜は読経がきらいだった。それには対魔の力がある。呪文は彼女の魂をやつざきにしようとしていた。彼女は白蓮のうしろで読経に耐えた。いっときの痛覚が戻ってくる。生きているように感じた。
「おかえりなさい。ふたりとも」
と聖は読経を終えると振りかえった。
水蜜の瞳を試すように覗きこむと白蓮はその内部に“十割”を見た。
「腹は決まりましたか」
「あなたが私に教えたのは……破壊は最も愚かしいと言うことです」
しかし水蜜は言葉と裏腹に、獰猛に口角を釣りあげるのだ。
「沈めよう」
「善意ですか?」
「善意でもない。悪意でもない。
水場で乱暴者たちが接触したので、互いの“すじ”を通そうとする。よくあることです」
「ふん」
と白蓮は逡巡すると言う。
「まあ……海の決まりごとは門外漢です。専門家の好きにしなさい」
そのときナズーリンが思いついたように口をはさむ。
「なあ。私は稀に吸血鬼の館とも……取りひきをするんだ。あそこのあるじは骨董品が好きなんだよ」
「はい?」 水蜜は言葉の意図が分からない 「急に、何よ」
「大砲を倉庫で見かけたことがある。
分かるかい? 私が何を言っているのか」
「……借りるには金が要るんじゃない」
「そうですね」
と白蓮は平然と言う。
「浄財の使いどきです。派手にやりましょうか」
「待て!」 水蜜はおどろく 「みんなも手をよごすと言うの? 冗談じゃないわ!」
「手を汚すだなんて! あなたがやろうとしているのは……普通の葬式の延長でしょう?」
と白蓮は微笑した。
空は快晴。風は微風。
海洋の心は大雨の日を待っていた。
ロイヤル・フォーチュンが沈むまで。
星輦船は“舟幽霊の復讐号”を拝命する。
六
乗員のウォルター・ケネディがうらぎったとき、バードは規律の重要性を実感した。彼が大金を稼げたのは、規律にきびしかったからである。
風紀の乱れは容易に死を連れてくる。海上で不適当に振るまうのは致命的だ。それがバードとほかの悪党たちを分けたのである。
今では飲酒量も厳格にするべきだったと後悔していた。
バードの命日のとき───乗員たちは完全に酔っぱらっていた。自分のように茶を飲ませるべきだったのだ。
甘かった───と言えばそれまでだ。バードは冷酷に飲酒を制限できなかったのである。彼は乗員たちを本当に愛していた。
バードは乗員たちの欠点を自分の知恵で克服しようとした。
貴重な書物は積極的に奪いとり、聖書の解釈に熱を入れた。
聖書に“おまえは地獄に堕ちる”と言われたとき、バードは素直にそれを受けいれられた。そして聖書を甲板で焚書した。
『嵐だな』
とバードは英語で言う。彼は甲板で久々の雨を実感していた。
異国の暴風が頭蓋骨の中で音を切りさいた。
『諸君……久々の雨だ!
すでに塩水で渇くことはない。
第一の掟は“戦利品の食飲料の平等な飲食の権利を有する”だ!
好きに喉を潤したまえ!』
乗員たちは失礼にも返事をしない。静かに雨の音だけを聞いている。
バードは孤独を痛感して、それに意味を求めている。
海底にいるころ───過去の栄光を追想しないときはなかった。
そして同時に安寧を感じ、海の懲罰を受けいれた。
だからこそバードは不思議なのだ。
何故に今さら、この土地は自分を引きよせたのだ?
何故に今さら、悪党を水面に解きはなつのだ?
強者の欲望を想像しろ。力が欲しかった。儲けたかった。
弱者の後悔を想像しろ。死にたくなかった。悔しかった。
バードは考える。
肉の鎧が失われても。
考えを巡らせているかぎり。
その心には意味がある。
そして───東の風の気配が強烈になったとき、意味がバードを亡ぼしにくる。彼は東の空を見た。
空から───舟が降ってきた。
敵舟(テキシュウ)の船長が笑っている。
“幻想郷は悪党の亡びを望んでいる!”
霧は雨風に引きさかれていた。
ふところの望遠鏡でバードは敵舟の甲板を眺めた。
甲板には魔物がひしめいていた。
犬。鼠。雲。海。虎。僧。
魔物たちがバードを亡ぼしに来た。彼の葬式をするために。
そしてバードは水蜜が魔物たちに“げき”を飛ばしているのを見つけるのだ。彼を歓声をあげる。
『どうして教えてくれなかったんだ? 君も船長だったのか!』
いそいでバードは舵に着く。乗員たちを呼びさます。
『起きやがれ。海の愚者たち(MAR SEAS GHOST)!
大砲の準備しろ。暇なやつは茶を煎れておけ!』
もちろん敵舟はバードの準備を待ってくれない。今も矢のように突撃してきている。水場の争いに法はない。
先に亡ぼすか、亡ぼされるか。それだけなのだ。
錨を引きあげた。そしてロイヤル・フォーチュンも動きだす。
船体を左に回転させると敵舟のほうに向かってゆく。
すでに乗員たちは砲撃の準備を済ませていた。バードは彼等の手際にいとおしさを感じた。帆主の配備も済んでいる。あとは火薬が使いものになるかどうかだ。
両者が交差する。バードは叫んだ。
『No Mercy(殺せ)!』
砲撃と同時に敵舟の側面に英文が見えた。
そこにはThinker Ghost Ship(舟幽霊の復讐号)と書いてあった。
「やれ!」
と水蜜も叫んだ。
同時に両者の大砲が火を噴いた。
鉄の塊が両者の脇腹をえぐりとる。
舟幽霊の復讐号の大砲は甲板の両側に五門ある。
敵船の大砲は多かったけれども、こちらは法力に守られている。どこまで耐えられるのかは重要なところだ。
水蜜は争いの神さまの顔色を見ていた。
『おう。意外とやるな』
最初の交差が終わると両者は旋回戦にもつれあった。
バードが“意外”と言ったのは敵舟がこちらの砲撃に合わせてきたことだった。彼は知らない。この土地の魔物は射撃が大の得意だった。
『キャラックほどか。
油断するなよ……黒丸烏。ガレオンが負けるなどよくあることだ』
バードは船の体躯を呟いている。
カリブでロイヤル・フォーチュンはガレオンに分類され、敵舟ほどの体躯をキャラックと呼ぶ。
ガレオンは巨大であるけれども、その真価は随伴船がいてこそだ。
単体のガレオンは足が遅く、容易に喰いちらかされてしまう。
それに敵舟は奇妙な力で守られていると来た。
───やりようはある。
バードは自信があった。経験と勘は彼の気分をよくしてくれる。
『合図ですべての帆をとじろ。次の合図で砲撃だ』
しばらく旋回を繰りかえし───やがて互いの斜線は噛みあった。
しかし、その直前にバードは叫んでいた。
『今!』
ロイヤル・フォーチュンが帆をとじる。
風の煽りを失えば、船は急速に速度をさげる。
敵舟の砲撃がはずれた。
「伏せろ!」
と水蜜が叫んだころには敵船の一方的な砲撃が飛んできていた。
船体が砲弾にぶちのめされる。衝撃が腹の辺りを殴りつけた。
「ちくしょう、ちくしょう! やりやがったな!」
敵船は抜けめない。また舟幽霊の復讐号が砲撃の準備をするまえに射角を脱していた。
水蜜は船長だ。この法力船を彼女は望むように動かせる。
その操縦には遅延がない。他者の手を借りると絶対にどこかで遅れが出る。それなのに手動の船に先を行かれた。
許せなかった。水の上では負けたくない。いつでも海の一番でありたい。海洋の心を理解したい。争いの神さまが足を組んでいた。
───それから何度かの交差を経験した。両者は自分の主張を通すために帆で頻繁に速度を変えた。蜂鳥が宙空でそうするように。
そのたびに舟幽霊の復讐号が余分に痛めつけられた。船体が悲鳴を発していた。
水蜜の操縦はいやらしかった。しかしバードの操縦は壮大だった。津波のように彼は彼女を苦しめる。
バードの熟練の動かしかたはまさに生涯の縮図だった。彼は争いに生涯を投影していた。
「勝てるのか!」
とナズーリンは大声で聞く。
水蜜は敵船を一瞥する。
「バードは強い。争いに生涯を投影している。それに勝利するためには……私も悪霊としての生涯を投影しなければならない」
「……ムラサ?」
とナズーリンは水蜜の様子が心配になった。
「分かるか? 鼠には理解できないだろうな……これは技術の勝負じゃない。妖怪の争いは……精神の争いだ! 私たちは魂を賭けている!」
水蜜はバードをいまわしい───強敵と認めた。
もし水蜜が単に敵船を沈めるだけなら、舟幽霊の復讐号を使うことなどなかった。水で沈めてしまえばよい。
もちろん水蜜は手を抜いているわけではない。そんな精神は持ちあわせていない。本来の彼女は一方的な蹂躙をこのんでいた。
そうしないのは敵船を海の試練と思うからだ。
海は水蜜を辱めるために試練を幻想郷へ送ってきた。試練は乗りこえなければならない。そして海の一部を支配しかえしてやりたいのだ。
水蜜は乗員に命令する。
「合図をしたら、船につかまれ!」
水蜜は直感していた───負けたほうが地獄に堕ちる。
「船はまっぷたつにかぎる」
バードは敵舟が離れるのを認めた。
敵舟は微妙な距離でロイヤル・フォーチュンの周りを漂っている。
『どうした』
その選択は消極的に見えた。あの獰猛な悪霊らしくない。
『残念だ』
バードは失望を感じて、自分の勝利を確信した。彼は無益な争いがきらいだった。これまでは有益だったのに───意味があったのだ。
バードは争いに意味を見つけていた。
自分がこの土地に引きよせられたのは、あの悪霊に亡ぼしてもらうためにほかならない───バードは地獄が遠のくのを実感した。
しかし、その一刹那!
おどろくべきことが起きた。
敵舟が急に回転して、船首をロイヤル・フォーチュンに向けたのだ。
あきらかに舵の動きではない。
バードは気がつく。敵舟の右の錨が沈んでいた。
信じられない。あるいは自滅するだけの行動───合点が行く。
水蜜は錨を沈めることで、船幹に負荷をかけたのだ。
そして急制動の衝撃で船体を回転(Drift)させたのである。
『ハハハハ、ハハ!』
とバードは爆笑した。
船体がばらばらになるとは考えないのだろうか? ───錨をそんなふうに使うとは思いもしなかった!
急激に勝利の確信が薄れてゆく。
バードは周囲を見た。争いの神さまの微笑はどこにも見えなかった。
『満足だ! ……介錯しろ!』
敵舟が錨を切りはなし、ロイヤル・フォーチュンへ突撃してくる。
不意を突かれた。ガレオンの足では逃げられない。
魂がひりつく。
バードは自分の名前を取りもどそうとしている。
海を恨んだことなどない。しかし海底が退屈だったのも本当だ。
あの悠久の時は無間の罰と似ていたのかも知れない。
思いだす。過去の栄光が頭を過ぎさる。
───この感じだ!
『Sayonara thinker Ghost!』
以上を守りつづけるならば
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり
我々は永遠の放浪へ向かう
カリブの島々の海境よ
おまえの嵐に、おまえの波に
今は郷愁を感じるのだ
あの海の底より
悪霊たちの歌声が聴こえてくる
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……。
七
「……まっぷたつ」
と水蜜は恍惚と言った。
もとから腐れていたのだ。さすがの巨体も衝突には耐えられない。
ロイヤル・フォーチュンは“まっぷたつ”のむくろをさらしている。
「見ろ」
とナズーリンは指を向ける。
「向こうの信仰の地獄の門だ」
ロイヤル・フォーチュンの残骸の下───そこから巨大な腕が伸び、悪党を地獄に連れてゆく。
白蓮が読経を唱えはじめた。
「正気じゃない……片方が地獄に堕ちる。これは……そんな勝負だった。そうだろう?」
「それが精神の争いです。私たちは魂を賭けていた」
「分からないね。何が君たちをそうさせるんだ?」
「呪いですよ」 水蜜は目をとじる 「呪いだ」
と水蜜は帽子を深々とかぶった。
「久しぶりに眠れそうです」
使命が水蜜を高ぶらせる。
あたかも必要なことであるように。
何事かは言う───船を沈めろ。
水蜜は欲望を満たし、バードは救われた。
両者が何かを得たのである。
まさに完璧な勝利だった。
水蜜は満足していた。
その日の夜は湖の岸に停泊した。
すぐにみんなは眠ってしまった。つかれていたのだ。
ただ水蜜だけが起きていた。
みんなが眠ったころに星輦船は静かに動きだす。
やがてロイヤル・フォーチュンの残骸の切れはしを見つけた。水蜜はそれを引きあげると甲板に置いた。
その切れはしを枕にして、水蜜は月を眺めていた。
水蜜は右手を月に伸ばし、左手を胸の上に置いた。
そのうち睡魔が忍びよる。眠りに落ちる。
夢の中で水蜜は貝の中にいた。
その中に一定の鼓動を発している、一粒の血の色の宝石があった。
水蜜は真珠の夢を見ていた。
舟幽霊の復讐号(MAR SEAS GHOST) 終わり
【第一の掟】
乗員には投票権が与えられる。そして戦利品の食飲料の平等な飲食の権利を有する。しかし食飲料が欠乏しているときは船長が食飲料を管理する
【第二の掟】
戦利品の食器類と宝石類を詐取してならない。実行犯は無人島に流刑する
【第三の掟】
船内でのギャンブルを禁止する
【第四の掟】
原則的に二十時には眠りにつき、以降の飲酒は甲板でおこなう
【第五の掟】
武器の整備を徹底すること
【第六の掟】
無力な女と子供に乱暴してはならない。そして船へ乗せてもならない。実行犯は処刑する
【第七の掟】
戦意を失ってはならない。実行犯は処刑する
【第八の掟】
船内で仲間と争ってはならない。陸での決闘は許可する
【第九の掟】
負傷者には臨時の給金を支給する
【第十の掟】
船長と操舵手は四倍の戦利品を得る。航海長と砲術長は三倍の戦利品を得る。その他の上級職は二倍の戦利品を得る。
【第十一の掟】
安息日は休日とする
以上を守りつづけるならば
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり
我々は永遠の放浪へ向かう
カリブの島々の海境よ
おまえの嵐に、おまえの波に
今は郷愁を感じるのだ
あの海の底より
悪霊たちの歌声が聴こえてくる
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……
一
雲を貫いて。
空から───船が降ってきた。
「まあ……」
と聖白蓮はそれを見て、頓狂な声を発していた。
おどろきを隠せなかったのだろう。
たしかに───おどろくべきことである。そして同時に騒ぐほどのことでもない。
幻想郷で不思議の十や二十は茶飯事である。
やがて船は降りきると白蓮の視界にはいらなくなった。
遠くに落ちたらしく、なんの音もしなかった。
「霧の湖のほうですね」
と村紗水蜜は推測した。
「分かるのですか?」
「距離を測るのは得意です」
物体の大きさを加味すれば、大体の距離を割りだせる。
海では必要な能力だ。
「船が降るなんて、なんなのかしら」
「外世の忘れものが流れこんできたのでしょう。よくあることです」
「……それもそうね」
「船が降る」 水蜜は自嘲的に言う 「私たちが言うのもヘンですが」
「それも、そうよ」
「掃除に戻りますか?」
ふたりが船の墜落を目視できたのは、墓場の清掃をしているからだった。白蓮は逡巡する。別に船が気になるわけではなかったけれども、あの光景は職務への緊張感を断ちきるには充分だった。
白蓮は頬を撫でると言う。
「休憩にでもしましょうか?」
命蓮寺の裏の井戸で手を清めると、ふたりは内陣裏の縁側に座った。
初春にしては寒かった。寒暖を繰りかえしながら、季節は徐々に変わってゆく。今は前者が幅を利かせているのだろう。終わりの季節の残滓がふたりの首筋に触れていた。
「気になりますか?」
「……何が」
と水蜜はとぼけた。
しかし白蓮が何を言っているのかは明白だ。彼女はにこにこと笑っている。その狡猾さはまちがいなく、彼女が人間だったことを証明していた。
水蜜は自分のとぼけかたと白蓮のしらじらしさがいやになった。
尤もその駆けひきは白蓮が水蜜を信頼しているからこそである。ほかの盲目的な寺の連中に対して、彼女はそう言うふうに振るまわない。
「悪霊を試さないほうが身のためですよ」
「試す!」 白蓮は芝居でもするように言う 「すこし気になるだけですよ。船には詳しいでしょう……ねえ?」
「ふん」
と鼻を鳴らすと水蜜は霧の湖の方角を見た。
「随分と大きそうでした。おそらく舶来船ね」
「そうなの?」
「蒙古でも宋でもない。西の船でしょうね……それに時代も新しそうだった」
あんな船は見たことがなかった。
寺の本堂の二倍はあるかもしれない。甲板の上の特徴的な三本の帆は、牙のように天へ伸びていた。それに船首の辺りにも三角巾のような帆があった───あれはなんの役割があるのだろう?
と思考に耽っていると水蜜は白蓮の視線を感じた。
水蜜は息を呑む。息などすでにしていないけれども、そう表現するほかなかったのだ。
「うれしそうですね」
と白蓮が言う。
そこに侮蔑と猜疑はない。海洋の心のように慈悲を向けている。
水蜜は白蓮と目を合わせると心を透かされるように感じるときがある。あるいは自分が分かりやすいだけなのかもしれない。
水蜜には独特の理屈があった。
生きものと言うやつは、心を皮フの下に隠しているので、簡単にそれを暴いたりはできない。幽霊だけが心をむきだしにして、往来を渡りあるかなければならないのだ───。
「潮の香りがする」
と白蓮が試すように言った。
「海のことを考えているとあなたは潮の香りがするわ。懐かしい……知っていますか? 最初に海を見たのはあなたを助けたときだったのよ。本当に……懐かしいね」
水蜜は湖の方角を見ると自分の孤独を痛感した。そして彼女は網膜の内に海の記憶の慰めを見る。彼女は船を沈めるのが本当に好きだった───あれは海の船であるように見えた。
海よ。
何故に今さら、目のまえに現れるのだ?
何故に今さら、体に情熱を与えるのだ?
あるいは単におまえの傍を離れたことへの当てつけなのかもしれないけれども。
それが海からのいやがらせなのだ。
二
ナズーリンが水蜜のところに来たのは数日が経ってからである。
「君も噂の船を見たかい」
「噂?」
「二度目とは言え、空に船だからね」
「向こうは墜落しましたよ」
幻想郷は奇妙な観光客の噂で持ちきりのようだ。
ナズーリンもそれに喰いついたと言うわけだ。彼女には蒐集癖がある。廃品回収者としての勘がはたらいたのだろう。
水蜜はナズーリンのペンデュラムのきらきらが目に痛かった。
「私も一緒に行けと? ほかに同業がいるでしょう」
「同業とは収穫を分配しなければならない。趣味じゃないね」
「仏門のくせに……」
と水蜜は呆れた。
「君は物欲が薄いだろう。それに……」
「それに?」
「その……口実を探していると思ってね。フフフフ、フフ」
水蜜はナズーリンの肉体的な貧弱さに軽蔑を感じ、頭脳の明快さに一定の尊敬をはらっていたけれども、今は後者もきらいになりそうだった。この鼠を殺そうと思ったのは一度や二度ではない。
しかし意外とふたりの相性は───わるくなかった。それはふたりが日の光の下よりも、夜の静寂をこのんでいるからだ。
「どうする?」
「そうですね……百回目が来たら、殺すことにしましょう」
「何が?」
「あなたの性格の不愉快さと、その封殺について」
「それはよかった。一緒にこないとは言わないんだね?」
「はい」
「よろしい。すぐに行こう……“鉄は熱いうちに打て”と言うからね」
ナズーリンが用心棒を求めたのは当然と言える。
相手が海の船であることは噂で知っていた。それが危険なところなのだ。船に先住民がいるとすれば、それは凶暴かもしれなかった。
海で熟成されると人間の魂は凶暴化しやすい。ナズーリンは身内にそれを学んでいた。もちろん身内とは水蜜のことである。
ナズーリンは湖への道中で霧が立ちこめはじめたとき、隣の水蜜の顔を横目で見た。彼女の皮フは真珠のように純白だ。
しかし唇だけは血のように赤く、そこへわずかに腐敗のような“むらさき”をぬめぬめとつやめかせていた。
美しい───と言うほかない。そしてナズーリンはその美貌にいつも弱者の本能的な恐怖を感じるのだ。
奇妙な疑問ではある───海に呪われさえすれば、すべての人間は水蜜ほどに美しくなれるのか?
「見えてきたな」
霧の中で船が幻影のように浮かんできた。
船は岸の近くで錨を沈めていた。
ふたりは岸で船を眺める。
「……ひどい」
とナズーリンはいやそうに言う。
ほとんど難破船だった。
船の側面は腐れかけていた。片面には二十ほどの砲窓があったけれども、肝心の砲台は半分ほどに減っている。帆は猫が障子にいたずらをしたようなありさまだ。
しかしナズーリンは船のありさまに“ひどい”と言うのではない。その原因は臭いである。潮と腐木の悪臭───むせかえるような。百年は海に浸かってないとこうはならない。
「英文だ」
と水蜜は船の側面に指を向けた。文章はかすれている。
しかし読めないこともなさそうだ。
『ROYAL FORTUNE』
「意味は」
「王さまの最後と読むのさ。君……鼻は大丈夫なのかい?」
水蜜は五感の中でも味覚と嗅覚が非常にわるい。
しかし海に関しては敏感だった。あたかも海が自分を知ってもらうために残したような機能だった。
水蜜は貧弱な小魚の気分になった。小魚の生死は海が決める。漁船や鮫がはこばれてくれば、小魚は死んでしまうしかない。彼女はいつも海の態系の頂点に君臨していた。
だからこそ───海の絶望的な支配力と水の断絶力を敏感に感じとってもいた。
水蜜は急に吐きそうになった。しゃがみこんだ。
胃がむかつく。それでも何も吐きだせない。それが余計に気分をわるくした。
「大丈夫か!」
とナズーリンは水蜜の背中を撫でた。それが効くのかも分からない。
しかし、ほかに何をしてやれると言うのだろう?
「連れてくるべきではなかったか」
「……大丈夫です」
と水蜜は微笑を返す。
気分はすぐに回復した。久しぶりの海の気配に体がおどろいているだけなのだ。複雑な郷愁が胸にしみこむ。
「ナズーリン……乗りこもう」
甲板ができそこないの橋のようにぎしぎしと鳴いている。
今にも穴が開きそうだ。すでに開いているところもある。
「さあ……どこから観光しようか」
「物色でしょう?」
「そうとも言うね」
水蜜は辺りを見た。
甲板の左右と帆の近くには内部への梯がある。後部の突きだしたところにはいくつかの扉があった。扉の左右には階段があり、後部へ登れるようになっている。そこには舵が取りつけられていた。
「貴重品を探すなら、船長室にしますか。うしろの中央の扉でしょう」
「分かるのか?」
「基本的に船長は上。ほかは船の内部です。力を誇示するためですよ」
ふたりは扉のほうへ歩いていった。
扉もいやな音でふたりを迎えた。
たしかに船長室らしかった。腐れながらも机と椅子は贅沢品のように見えた。壁は“さびさび”の刀剣類や装飾品で飾られている。
そして何よりも深紅のコートを着て、首にダイヤモンドの十字架をぶらさげている───奥の椅子の上の骸骨(ムクロボネ)は───いかにも船長らしかった。
「へえーー……」
とナズーリンは壁に近づくと飾りの曲刀を手に持った。愛用のダウジング・ロッドを振るように何度か振りまわす。
「舶来の刀は軽いんだな」
「どうです?」
「どれも錆がひどいな……」
それからナズーリンは骸骨を見た。彼のダイヤモンドの十字架は価値がありそうで、その美しさはペンデュラムにも劣らない。
是が非でも手に入れたかった───尤もその骸骨が本当に無害ならだ。
「それで」 ナズーリンは曲刀の先を骸骨に向ける 「客が来たのに挨拶もなしかい」
その一刹那!
骸骨は一瞬で立ちあがるとナズーリンに銃を向けた。
しかし水蜜も早業に遅れを取らなかった。すでにナズーリンの前に立ちはだかっている。
水蜜は余裕で警告する。
「そんな武器では勝てませんよ。言葉……分かります? 観光客さん」
別につうじるとは思っていない。ただ体面的に言うだけだ。
この舶来船の乗員に万が一でも言葉がつうじるわけはない。
しかし万が一とは可能性の消滅を示さない。もちろん滅多にないことではある。それでも万が一が起こることは稀にあるのだ。
『Japanese』
「……なんだと」
とナズーリンは驚愕した。
「それは……日本語……だな? ……どうだ」
あたかも骸骨は喉の具合を確認しているようだ。
「第六の掟は」 骸骨は流暢に言う 「……“女と子供を乗せてはならない”だ」
声はざらざらとしていた。潮に焼かれているのだろう。海の人間はそうなるのが常である。それは海の刺青なのだ。
「自分で乗ったのさ」
とナズーリンは水蜜のうしろで言った。
「目的は何かね」
「略奪だけど……交渉もしてやろう。君が話せるのだからな」
「してやろう。とは?」
「うちの悪霊は君の百倍も強い」
骸骨は眼窩で水蜜を値踏する。一見すると強そうには見えない。ただのひょろひょろの娘である。しかし彼は海の生きものなりに何かを感じとった。それは小魚が鮫に感じる、格のちがいと言うやつだ。
骸骨は両手をあげると言う。
「茶葉が切れてる」
「よろしい。君の名前は?」
「名前は……なんだろうな? 忘れているのだ。異名だけが記憶にある。私のことはブラック・バード(黒丸烏)とでも呼びやがれ」
銃の火薬は湿っていた。
四
「どうしてバードは幻想郷へ来たのでしょう?」
と帰りの道中で水蜜は聞いた。
ふたりは歩く。船を離れるほどにいやな潮の臭いも薄れてゆく。それに水蜜は一抹の安心と不安を感じるのだ。
「これは仮説だけど」 ナズーリンはひけらかすように言う 「あれから君が甲板を散策して……私が護衛もなしに……ひとりで! ……交渉しているときに聞いたことが由来していると思う」
ナズーリンの声は棘を含んでいた。
「残念ですよ。殺されなくて……幽霊の仲間が欲しかったのに」
「バードの船は人種が多様だったらしい。この国の浪人者に言葉を習ったと言っていた」
「それで?」
「分からないか? 言語だよ。幻想郷にも限度がある、国外の妖怪を無条件で引きこむはずがない。そこで条件になってくるのは……」
「言葉ですか」
「紅魔館の連中が例さ。意思の疎通は協調につながる。私が交渉できたようにね」
水蜜はさきほどのことを追想した。
ナズーリンが交渉しているとき、水蜜は甲板で湖を眺めていた。
ふたりにしても大丈夫だと思った。海はこの世で最も危険な場所である。だから船長と言うのはこの世で最も慎重な生きものにならざるを得ない。相手も馬鹿ではないはずだった。
そのうち扉が開くとバードとナズーリンも甲板に来た。
しかしナズーリンはすぐに別の扉へ消えてゆく。あとは水蜜とバードが残された。
「ナズーリンは?」
「うちの倉庫が気になるんだな。同胞(ハラカラ)よ……私の船はどうかね?」
「潰すのは苦労しそうです」
「無理とは言わないのだね」
「まあ……できますよ」
水蜜は万全のロイヤル・フォーチュンを想像した。星輦船の二倍の体躯とそれにふさわしいだけの頑丈さに───暴力的な四十門の大砲と三本の帆のひらめきに───興味はある。この船長と乗員たちはどんなふうに抵抗するのだろう?
しかし、そんな争いは望めるはずがない。
争いの神さまはすでにロイヤル・フォーチュンに興味がない。この船は死んでしまっているのだった。
「ほかの乗員は?」
「動きはするがね……船の中で眠っているよ。もう意見もしないし、文句も言わない。船の手足になってしまったのだ。あるいは……私もな」
「呪いですよ」 水蜜はバードの眼窩を見る 「あなたは血の香りがする。それが罰なのです。因果応報は知っていますか?」
「うちのヤポン(日の光の国の人)はいつもそれを気にしていた」
「博識ですね」
「ふん。照れるね」
霧のために対岸は見えない。だから水蜜は船の臭いの影響で自分が海にいると錯覚した。
しかし幻想郷はどこまでも内陸に過ぎない。そこには錯覚だけがある。海洋の心に触れることはできなかった。
それなのに───どうして魂が熱くなるのだ?
───その日の夜。
墓場で煙草を吸っていると白蓮に見つかった。
「……聖」
白蓮は水蜜を見つけるとヘンな顔で言う。
「煙が見えたので……来たのですが」
「私とは思わなかった?」
「いつからです」
「遊びですよ。頻繁に吸うわけじゃない」
「見つからないようにやりなさい」
「はい」
夜の白蓮は規律に甘い。昼にきびしいのは世間体を気にするからだ。
白蓮も水蜜の隣───墓石の台座に座りこんだ。
水蜜は白蓮に煙草と燐寸を渡した。わずかに迷ったあと彼女は煙草を口にして、燐寸で火を入れると煙を肺に吸いこんだ。
「おえ……」
白蓮の様子に水蜜は苦笑する。
「吸っているとすこしは寒くなくなりますよ」
「あなたも寒いのですか?」
「寒いよ」 水蜜は試すように言う 「幽霊は寒いのよ。いつも寒くて……海の底にいるようです」
「気をつけなさい。自虐も行きすぎると滑稽ですよ」
月はあかるい。満月だった。
水蜜はそれを自分の心臓なのだと夢想する。海にいるころはいつもそうだった。その妙な感傷は彼女の心臓が止まっていることに由来していた。
仮に捕らえようとしても月は逃げだしてしまうだろう。
実際───水蜜はついに海面の境月さえも触れそこねた。
そして船の残骸の上で目を覚ます。水蜜は眠らない。残骸の上の静寂だけは彼女に眠りを連れてくる。
「ナズーリンと船を見てきたそうね。どうでした?」
水蜜は素直に言う。
「まあ……思ったよりも沈めたかったよ……いまだに」
「バードさん……でしたっけ?」
「口実はある」 水蜜の声はよどみない 「あの船はすでに終わっているのです。今は葬儀を待っている」
「私はあなたを拾うとき、十割の善意でやりました」
「……」
「私はあなたを助けました。
それは……私はつねに敗北してはなりませんが、同時に相手も勝利させなければならないからです。それが争いの理想です。
私は誰にでも勝利する。そして相手も勝利する。両者が何かを得る。言っていることが分かりますか?」
「あなたに負けることで、何かを得たのは認めます。怖ろしいね……そんな理想を通すのは超越者の領域に手をひたしている」
「十割ですよ」
と白蓮は仏のように言う。
「十割でやりなさい」
「悪意でも?」
「あなたが半端に善意でやれば、一割の悟りも得られないでしょう」
と白蓮は予言のように言った。
四
またロイヤル・フォーチュンを見ることになったのはナズーリンが茶葉を寺へ持ってきたときだった。用心棒を任されたのである。
ふたりが甲板に登ると骸骨の乗員たちが清掃にいそしんでいた。
「ごきげんよう」
とバードはほがらかに顎骨を鳴らした。彼も甲板にいた。
バードは甲板に布を敷いて、そこに黒色の粉を並べていた。
「火薬を干しているのだよ」
「いつのやつです」
と水蜜はいぶかしんだ。
「何……ただの癖だよ。武器の整備は掟だからな」
死者が生前の行動にすがる。よくあることだ。
それからバードはナズーリンの茶葉を一別すると言う。
「なんだこれは」
「茶葉だよ」
バードは肩を怒らせる。
「これは紅茶ではない!」
「言われなかったからな。異国との交流をたのしみたまえ」
「あばずれ! 同胞よ。君も言ってやってくれ!」
水蜜は目を逸らすと言う。
「興味がないので……」
「カリブの無頼漢も君たちには負けるな。ふん? 紅白の衣装の娘と魔女に蹂躙されたぞ……この頭蓋骨の傷を見ろ。しばきまわされたんだ」
バードは幻想郷の“持てなし”を受けたらしい。つまり受けいれられたと言うことだ。
「じつは久々に船を動かそうと思うのだ。君たちもたのしめ」
と清掃が終わるとバードが催促した。
「どうします?」
「私はかまわなけど……ムラサは」
「それなら……」
と水蜜は頷いた。
「バード。私は倉庫の物を貰う……かまわないか?」
「持っていけ。すべてを」
ナズーリンが去るとバードは後部の舵へ向かった。水蜜もそれに同行した。甲板では乗員が錨を引きあげている。
「よろしいのですか」
「持っていても仕方がない、過去の栄光の産物などは。
君は物欲がないな。物に執着するよりは名誉なことだ。生きていると……特に男はいやに物を耽溺するからな」
「……そうですね」
「何が好きだ」
「さあ?」
と水蜜はごまかした。
バードは舵の前で言う。
「いつ以来の船出だろう」
「……号令は?」
「乗員は返事をしなくなった。どうして声をかけようか」
帆はひらいている。調整の必要もなさそうだ。
仕事が終わると甲板の乗員たちがばたばたと倒れはじめた。
静寂が訪れる。バードは舵を握りしめる。
あたかも胸の痛みをこらえているようだ。
「さあ……出かけよう」
空は快晴。風は微風。湖はバードを迎えている。
『以上を守りつづけるならば。
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり。
我々は永遠の放浪へ向かう。
カリブの島々の海境よ。
おまえの嵐に、おまえの波に。
今は郷愁を感じるのだ。
あの海の底より。
悪霊たちの歌声が聴こえてくる。
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……』
バードが英語で歌っている。水蜜は隣に立っている。乗員は甲板で眠っている。ロイヤル・フォーチュンは衝角で湖の霧を断つ。
「以前は二十隻で艦隊を組んでいたのにな」
「艦隊?」
「ブラック・バードはカリブで最も稼いだ……大悪党だ」 バードは誇らしそうに言う 「どうだ? 怖れたか」
「ふん。その程度の悪党なんて、幻想郷では珍しくもない」
正直なところ───バードはナズーリンに決闘で勝てるかもあやしい。と水蜜は推測していた。
しかし経験は用意に力の差をくつがえす。
すでにバードは人間ではない。彼は妖怪になっている。
そして妖怪の争いとは、精神の争いなのである。
バードの態度は荒事に慣れていた。
「あなたは海が好きそうですね」
水蜜には信じられないことだった。
「この仕事はすぐに好きになった。まともな仕事は食事もわずかで給料は安い。それに比べると悪党は喰えるし、すべてを自分で決められる。もし“いちばち”に失敗してもすこしの我慢で乗りこえられる。どちらがさかしいかは言うまでもないだろう。
たのしさの代償に余生は諦める。それが私の趣味だった」
「他者を害してもですか?」
「同胞よ……君が道徳を語るなよ」
「私を何も知らないでしょう」
「君は血の香りがする。ふん? 分かるとも。だから“同胞”と呼ぶんじゃないか。海に通じているからではなくな。
平等にしよう! 君もいたずらに私を語ろうとするな。反吐が出る」
水蜜は試しに本気の殺意をバードへ向けてみた。
それでもバードは気にしない。彼は独りごとのように呟く。
「悪事をはたらくのは賢くなかったな。船と一緒に海底へ囚われてしまうとは。報いがあるとすれば……それが罰なのか」
水蜜は急にはらわたの辺りがうずいた。
それはバードの達観したような態度が原因だった。
おそらくバードは海を憎んでいない。それどころか、愛してもいた。
もし海が何事かの目的を持ち、自分を囚えたのであるならば、水蜜は海を許せたはずだった。
しかし海は何も望んではいなかった。ふたりが海に囚われたのは単に才覚があったからだ。水蜜は海の命令で自分が船を沈めたくなるのだと信じたかった───それはなんのために? 船が通過することも許さないなら、なんのために大地のはざまを占領するのだ。
「なんの因果なのか、私は水面に戻っている。
しかし、すでに私は両足を死にひたしてしまった。
あとは永久に湖船のあるじでもやってやるさ」
「近くに陸がありますよ」
「ふん」
とバードは自嘲敵に鼻骨を鳴らす。
「……今さら」
その文句は水蜜の耳にしみこんできた。
今さら───本当にそのとおりだった。
水蜜は自分の醜さを理解している。生者の視線に耐えられるのは目のわるさと錯覚に期待するからだった。だから幽霊は魂を生前のかたちへ似せて、区別がしづらいように工夫するのだ。
「どうした」
とナズーリンは緊張した。戻ってくるとふたりのあいだに火花を感じたのである。水蜜のほうを窺うと───彼女はおぞけが走った。その苔色の瞳が純粋な殺意でぎらついていたからだ。
「岸に戻って」
と水蜜が吐きすてるように言う。
「おい……ムラサ」
「その男と喧嘩したわ」
水蜜は甲板のほうへ去っていった。
ナズーリンとバードのあいだに沈黙が訪れる。彼は顎骨を打ちならすと舵を切った。船が左に回転した。
「私を始末したくなったらしいな」
「あーー……私はムラサの味方をする。身内だし」
「受けてたつ」 バードはたのしそうに言う 「すでに火蓋は争いの神さまにゆだねられたのだ」
「失礼なことでもしたのかい?」
「考えかたのちがいだよ。それが我々を争わせる。あの娘は海がきらいなんだな。いや……愛憎と呼ぶべきか」
「対立するほどの理由には思えないね。誰が何を好きだろうとかまわないじゃないか」
「宗派がちがうなら、争うだけの価値はある。鼠には理解できないかね?」
「したくもないね」
ふたりは不意に鳶が水面へ向かうのを認めた。
鳶はすぐに空へ戻ってくる。その口には小魚がくわえられていた。
鳶はロイヤル・フォーチュンの帆に乗ると小魚を飲みこんでゆく。
「生命の縮図だな」
「あの小魚は君さ。悪霊に呪われたのを後悔しろ」
「ちがうね。私は地獄に行くが、小魚は行かない」
「口が減らないな」
「……そうだ」
とバードは思いだしたように言う。
「この土地は人間と魔物が共生しているらしいな」
「ふん。いつ“ぼろ”が出るか、私たちは不安でいるよ」
「なんでもそうだろう? 永久に栄えることなどない。昔……悪党の共和国があった。ナッソーと言う」
バードの声は軽蔑を含んでいた。
「共和国は二十年も栄えなかった。滅ぼされたのだよ、さらに巨大な力にな。この土地は何年目だ?」
「何百年も前からだと聞いている」
「……すばらしい」
岸が見えてくる。
「あの悪党どもが君たちのようにかわいらしかったら、許されたのかもしれないな……ハハハハ、ハハ! なんてね……考えるだけでも気味がわるいぞ」
五
「ナズーリン」
「どうした?」
帰りぎわ───水蜜は急に道中で立ちどまる。
まだ霧の中にいたけれども、すでに後方の船は見えなくなっていた。
「才覚……なんだと思う」
「……」
「思うんだ。どうして私が舟幽霊になったのか……それは恨みや怒りじゃない。
才覚なのよ。生前には気がつかなかった、船を沈めるための才覚よ。
バードもそう。それだけが私たちとほかの海の死者たちをへだてた」
「君は内陸に産まれるべきだったな。ふん?」
「沈めたいな」 水蜜は恍惚とする 「久しぶりに」
水蜜はバードになんの共感もおぼえない。
ただ巨大な獲物を前にして、涎をだらだらと垂らしているのだ。
ロイヤル・フォーチュンをやつざきにしたい。
使命が水蜜を高ぶらせる。
水蜜は生前の記憶が曖昧だった。それは海に磨耗されてしまったのだ。
かたちは消え、忘れられた。
そして水蜜の中には使命だけが残っている。
ときにナズーリンは水蜜を美しいと評価する。その理由は彼女の十割が海の暴力の化身だからである。
半端でないことは美しい。それには“すじ”が通っているからだ。
頭の中で何事かは言う───船を沈めろ。
寺に戻ると白蓮が本堂で読経をしていた。
水蜜は読経がきらいだった。それには対魔の力がある。呪文は彼女の魂をやつざきにしようとしていた。彼女は白蓮のうしろで読経に耐えた。いっときの痛覚が戻ってくる。生きているように感じた。
「おかえりなさい。ふたりとも」
と聖は読経を終えると振りかえった。
水蜜の瞳を試すように覗きこむと白蓮はその内部に“十割”を見た。
「腹は決まりましたか」
「あなたが私に教えたのは……破壊は最も愚かしいと言うことです」
しかし水蜜は言葉と裏腹に、獰猛に口角を釣りあげるのだ。
「沈めよう」
「善意ですか?」
「善意でもない。悪意でもない。
水場で乱暴者たちが接触したので、互いの“すじ”を通そうとする。よくあることです」
「ふん」
と白蓮は逡巡すると言う。
「まあ……海の決まりごとは門外漢です。専門家の好きにしなさい」
そのときナズーリンが思いついたように口をはさむ。
「なあ。私は稀に吸血鬼の館とも……取りひきをするんだ。あそこのあるじは骨董品が好きなんだよ」
「はい?」 水蜜は言葉の意図が分からない 「急に、何よ」
「大砲を倉庫で見かけたことがある。
分かるかい? 私が何を言っているのか」
「……借りるには金が要るんじゃない」
「そうですね」
と白蓮は平然と言う。
「浄財の使いどきです。派手にやりましょうか」
「待て!」 水蜜はおどろく 「みんなも手をよごすと言うの? 冗談じゃないわ!」
「手を汚すだなんて! あなたがやろうとしているのは……普通の葬式の延長でしょう?」
と白蓮は微笑した。
空は快晴。風は微風。
海洋の心は大雨の日を待っていた。
ロイヤル・フォーチュンが沈むまで。
星輦船は“舟幽霊の復讐号”を拝命する。
六
乗員のウォルター・ケネディがうらぎったとき、バードは規律の重要性を実感した。彼が大金を稼げたのは、規律にきびしかったからである。
風紀の乱れは容易に死を連れてくる。海上で不適当に振るまうのは致命的だ。それがバードとほかの悪党たちを分けたのである。
今では飲酒量も厳格にするべきだったと後悔していた。
バードの命日のとき───乗員たちは完全に酔っぱらっていた。自分のように茶を飲ませるべきだったのだ。
甘かった───と言えばそれまでだ。バードは冷酷に飲酒を制限できなかったのである。彼は乗員たちを本当に愛していた。
バードは乗員たちの欠点を自分の知恵で克服しようとした。
貴重な書物は積極的に奪いとり、聖書の解釈に熱を入れた。
聖書に“おまえは地獄に堕ちる”と言われたとき、バードは素直にそれを受けいれられた。そして聖書を甲板で焚書した。
『嵐だな』
とバードは英語で言う。彼は甲板で久々の雨を実感していた。
異国の暴風が頭蓋骨の中で音を切りさいた。
『諸君……久々の雨だ!
すでに塩水で渇くことはない。
第一の掟は“戦利品の食飲料の平等な飲食の権利を有する”だ!
好きに喉を潤したまえ!』
乗員たちは失礼にも返事をしない。静かに雨の音だけを聞いている。
バードは孤独を痛感して、それに意味を求めている。
海底にいるころ───過去の栄光を追想しないときはなかった。
そして同時に安寧を感じ、海の懲罰を受けいれた。
だからこそバードは不思議なのだ。
何故に今さら、この土地は自分を引きよせたのだ?
何故に今さら、悪党を水面に解きはなつのだ?
強者の欲望を想像しろ。力が欲しかった。儲けたかった。
弱者の後悔を想像しろ。死にたくなかった。悔しかった。
バードは考える。
肉の鎧が失われても。
考えを巡らせているかぎり。
その心には意味がある。
そして───東の風の気配が強烈になったとき、意味がバードを亡ぼしにくる。彼は東の空を見た。
空から───舟が降ってきた。
敵舟(テキシュウ)の船長が笑っている。
“幻想郷は悪党の亡びを望んでいる!”
霧は雨風に引きさかれていた。
ふところの望遠鏡でバードは敵舟の甲板を眺めた。
甲板には魔物がひしめいていた。
犬。鼠。雲。海。虎。僧。
魔物たちがバードを亡ぼしに来た。彼の葬式をするために。
そしてバードは水蜜が魔物たちに“げき”を飛ばしているのを見つけるのだ。彼を歓声をあげる。
『どうして教えてくれなかったんだ? 君も船長だったのか!』
いそいでバードは舵に着く。乗員たちを呼びさます。
『起きやがれ。海の愚者たち(MAR SEAS GHOST)!
大砲の準備しろ。暇なやつは茶を煎れておけ!』
もちろん敵舟はバードの準備を待ってくれない。今も矢のように突撃してきている。水場の争いに法はない。
先に亡ぼすか、亡ぼされるか。それだけなのだ。
錨を引きあげた。そしてロイヤル・フォーチュンも動きだす。
船体を左に回転させると敵舟のほうに向かってゆく。
すでに乗員たちは砲撃の準備を済ませていた。バードは彼等の手際にいとおしさを感じた。帆主の配備も済んでいる。あとは火薬が使いものになるかどうかだ。
両者が交差する。バードは叫んだ。
『No Mercy(殺せ)!』
砲撃と同時に敵舟の側面に英文が見えた。
そこにはThinker Ghost Ship(舟幽霊の復讐号)と書いてあった。
「やれ!」
と水蜜も叫んだ。
同時に両者の大砲が火を噴いた。
鉄の塊が両者の脇腹をえぐりとる。
舟幽霊の復讐号の大砲は甲板の両側に五門ある。
敵船の大砲は多かったけれども、こちらは法力に守られている。どこまで耐えられるのかは重要なところだ。
水蜜は争いの神さまの顔色を見ていた。
『おう。意外とやるな』
最初の交差が終わると両者は旋回戦にもつれあった。
バードが“意外”と言ったのは敵舟がこちらの砲撃に合わせてきたことだった。彼は知らない。この土地の魔物は射撃が大の得意だった。
『キャラックほどか。
油断するなよ……黒丸烏。ガレオンが負けるなどよくあることだ』
バードは船の体躯を呟いている。
カリブでロイヤル・フォーチュンはガレオンに分類され、敵舟ほどの体躯をキャラックと呼ぶ。
ガレオンは巨大であるけれども、その真価は随伴船がいてこそだ。
単体のガレオンは足が遅く、容易に喰いちらかされてしまう。
それに敵舟は奇妙な力で守られていると来た。
───やりようはある。
バードは自信があった。経験と勘は彼の気分をよくしてくれる。
『合図ですべての帆をとじろ。次の合図で砲撃だ』
しばらく旋回を繰りかえし───やがて互いの斜線は噛みあった。
しかし、その直前にバードは叫んでいた。
『今!』
ロイヤル・フォーチュンが帆をとじる。
風の煽りを失えば、船は急速に速度をさげる。
敵舟の砲撃がはずれた。
「伏せろ!」
と水蜜が叫んだころには敵船の一方的な砲撃が飛んできていた。
船体が砲弾にぶちのめされる。衝撃が腹の辺りを殴りつけた。
「ちくしょう、ちくしょう! やりやがったな!」
敵船は抜けめない。また舟幽霊の復讐号が砲撃の準備をするまえに射角を脱していた。
水蜜は船長だ。この法力船を彼女は望むように動かせる。
その操縦には遅延がない。他者の手を借りると絶対にどこかで遅れが出る。それなのに手動の船に先を行かれた。
許せなかった。水の上では負けたくない。いつでも海の一番でありたい。海洋の心を理解したい。争いの神さまが足を組んでいた。
───それから何度かの交差を経験した。両者は自分の主張を通すために帆で頻繁に速度を変えた。蜂鳥が宙空でそうするように。
そのたびに舟幽霊の復讐号が余分に痛めつけられた。船体が悲鳴を発していた。
水蜜の操縦はいやらしかった。しかしバードの操縦は壮大だった。津波のように彼は彼女を苦しめる。
バードの熟練の動かしかたはまさに生涯の縮図だった。彼は争いに生涯を投影していた。
「勝てるのか!」
とナズーリンは大声で聞く。
水蜜は敵船を一瞥する。
「バードは強い。争いに生涯を投影している。それに勝利するためには……私も悪霊としての生涯を投影しなければならない」
「……ムラサ?」
とナズーリンは水蜜の様子が心配になった。
「分かるか? 鼠には理解できないだろうな……これは技術の勝負じゃない。妖怪の争いは……精神の争いだ! 私たちは魂を賭けている!」
水蜜はバードをいまわしい───強敵と認めた。
もし水蜜が単に敵船を沈めるだけなら、舟幽霊の復讐号を使うことなどなかった。水で沈めてしまえばよい。
もちろん水蜜は手を抜いているわけではない。そんな精神は持ちあわせていない。本来の彼女は一方的な蹂躙をこのんでいた。
そうしないのは敵船を海の試練と思うからだ。
海は水蜜を辱めるために試練を幻想郷へ送ってきた。試練は乗りこえなければならない。そして海の一部を支配しかえしてやりたいのだ。
水蜜は乗員に命令する。
「合図をしたら、船につかまれ!」
水蜜は直感していた───負けたほうが地獄に堕ちる。
「船はまっぷたつにかぎる」
バードは敵舟が離れるのを認めた。
敵舟は微妙な距離でロイヤル・フォーチュンの周りを漂っている。
『どうした』
その選択は消極的に見えた。あの獰猛な悪霊らしくない。
『残念だ』
バードは失望を感じて、自分の勝利を確信した。彼は無益な争いがきらいだった。これまでは有益だったのに───意味があったのだ。
バードは争いに意味を見つけていた。
自分がこの土地に引きよせられたのは、あの悪霊に亡ぼしてもらうためにほかならない───バードは地獄が遠のくのを実感した。
しかし、その一刹那!
おどろくべきことが起きた。
敵舟が急に回転して、船首をロイヤル・フォーチュンに向けたのだ。
あきらかに舵の動きではない。
バードは気がつく。敵舟の右の錨が沈んでいた。
信じられない。あるいは自滅するだけの行動───合点が行く。
水蜜は錨を沈めることで、船幹に負荷をかけたのだ。
そして急制動の衝撃で船体を回転(Drift)させたのである。
『ハハハハ、ハハ!』
とバードは爆笑した。
船体がばらばらになるとは考えないのだろうか? ───錨をそんなふうに使うとは思いもしなかった!
急激に勝利の確信が薄れてゆく。
バードは周囲を見た。争いの神さまの微笑はどこにも見えなかった。
『満足だ! ……介錯しろ!』
敵舟が錨を切りはなし、ロイヤル・フォーチュンへ突撃してくる。
不意を突かれた。ガレオンの足では逃げられない。
魂がひりつく。
バードは自分の名前を取りもどそうとしている。
海を恨んだことなどない。しかし海底が退屈だったのも本当だ。
あの悠久の時は無間の罰と似ていたのかも知れない。
思いだす。過去の栄光が頭を過ぎさる。
───この感じだ!
『Sayonara thinker Ghost!』
以上を守りつづけるならば
君はロイヤル・フォーチュンの乗員となり
我々は永遠の放浪へ向かう
カリブの島々の海境よ
おまえの嵐に、おまえの波に
今は郷愁を感じるのだ
あの海の底より
悪霊たちの歌声が聴こえてくる
“戻ってこい。帰ってくるのだ”……。
七
「……まっぷたつ」
と水蜜は恍惚と言った。
もとから腐れていたのだ。さすがの巨体も衝突には耐えられない。
ロイヤル・フォーチュンは“まっぷたつ”のむくろをさらしている。
「見ろ」
とナズーリンは指を向ける。
「向こうの信仰の地獄の門だ」
ロイヤル・フォーチュンの残骸の下───そこから巨大な腕が伸び、悪党を地獄に連れてゆく。
白蓮が読経を唱えはじめた。
「正気じゃない……片方が地獄に堕ちる。これは……そんな勝負だった。そうだろう?」
「それが精神の争いです。私たちは魂を賭けていた」
「分からないね。何が君たちをそうさせるんだ?」
「呪いですよ」 水蜜は目をとじる 「呪いだ」
と水蜜は帽子を深々とかぶった。
「久しぶりに眠れそうです」
使命が水蜜を高ぶらせる。
あたかも必要なことであるように。
何事かは言う───船を沈めろ。
水蜜は欲望を満たし、バードは救われた。
両者が何かを得たのである。
まさに完璧な勝利だった。
水蜜は満足していた。
その日の夜は湖の岸に停泊した。
すぐにみんなは眠ってしまった。つかれていたのだ。
ただ水蜜だけが起きていた。
みんなが眠ったころに星輦船は静かに動きだす。
やがてロイヤル・フォーチュンの残骸の切れはしを見つけた。水蜜はそれを引きあげると甲板に置いた。
その切れはしを枕にして、水蜜は月を眺めていた。
水蜜は右手を月に伸ばし、左手を胸の上に置いた。
そのうち睡魔が忍びよる。眠りに落ちる。
夢の中で水蜜は貝の中にいた。
その中に一定の鼓動を発している、一粒の血の色の宝石があった。
水蜜は真珠の夢を見ていた。
舟幽霊の復讐号(MAR SEAS GHOST) 終わり
これも面白かった
船乗りたちの熱い魂を見せてもらいました
ドン
オリジナルキャラクターも違和感なく受け入れることができたどころか、非常に良いと感じられました。
戦いになる動機が薄い……というか、感情の赴くままにという感じだったのでそこまではあまり刺さらなかったものの、いざ海戦が始まった後は面白く読めました。
有難う御座いました。
後半の海戦も読みごたえがあり面白かったです。
村紗の視点や知識はバードという男が如何に海を愛し海に携わる全てを愛し、そして海に愛される資格を持っていたのかを雄弁と語っていた一方で、村紗自身は海に対して憎みを抱きながらもその授かった呪縛から逃れられない悲哀さえ背負っており、その姿は海の愛と恩恵に与っていたバードからすれば愛憎とも称せるものであったのが実に皮肉でした。
その評価は彼は元人間として在る一方で、彼女は摩耗した舟幽霊のヒトガタとして在ったが為に表面こそ似通えども最初から相容れない存在であったという何よりの証拠で、同胞と言うには色々な物が欠けていたのでしょう。
バードというキャラクターで一番好きなのはやはり『あの悪党どもが君たちのようにかわいらしかったら、許されたのかもしれないな』から続くセリフでしょうか。
運命の綾で再浮上しても尚、自らの姿も生き様も恥じぬ毅然とした態度。村紗と対聯する良い個性が出ていて、この作品におけるオリジナルキャラクターの立場として十全の魅力となっていたように思えます。
そして湖上で繰り広げられる船舶の一騎討ち。船長としての意地もありましょうが、村紗とて星輦船を空に浮かべ一方的に蹂躙する手だって取れたのにも関わらず、敢えて同じ海の幽霊として対等の戦いを演じようとしていたのが実に良い物で。
大砲も紅魔館から借りた骨董品、射撃が得意な魔物の郷に入って尚も相手の土俵に立とうとしている。戒律で諭す者も船上の掟を布いた者も、いざ水場の争いに転じればそこに見境も法も無く、全てを賭して闘志を燃やすのです。
そこまでの前半の描写の殆んどが、村紗とバードが互いの矜持で競り合う為の土台として使われているからこそ、終盤の展開として恐ろしい程の迫力があったものでした。
故に、バードが自らの生涯で紡いだ手練手管を以て壮大に雄大に対峙していたからこそ、法力という彼の知らぬ存在故に放つ事が出来た執念の一撃が村紗の暴力的な意思表示にも見え。満足気に彼の漏らした最期の一言が歓喜と賞賛の入り乱れかのように感じられて、それは実に愛しい物ですらありました。
最後に村紗は夢の中で血色の真珠を抱いて終わりましたが、ナズーリンが村紗の肌を純白の真珠に準えた文脈から受け継がれていたのであれば。彼が地獄が行けたのと同じく、彼女もまた得た物があったのかもしれないという感触すら抱けたのです。
総じて爽快感も伴った王道の物語で、映画を丸々一本見たかのような満足感で腹が満たされすらもした作品でした。
村紗の葛藤も会話劇も潮風のように心地良く、最後まで文章全体から滾る熱気が衰える事無く輿の乗った状態で続いていたのも良かったです。
ありがとうございました。海の男たちに祝福と冥福を。そして乾杯を!
あまりオリキャラが得意な読者ではないのですが
バードのキャラがとてもよかったです。
短いながら
印象に残るやり取りをいくつも挟んでいるのに
話の本筋が船幽霊の村紗を描くことから一切ぶれないから非常に読みやすく感じました。
かなりロマンチックでありながらさっぱりとしたというよりは少し潮風のようにジトっとしたようにも感じた作品でした。
お見事
二人の強烈な意志のぶつかり合いが素敵でした。
素晴らしい作品を読ませていただきありがとうございます。
ストーリー・キャラの掘り下げ方はもとより、地の文の絞り方が素晴らしく丁度良くて読み疲れが一切なかったです