Coolier - 新生・東方創想話

雨上がりの晴空 ~美鈴と私と昔の私~

2011/04/06 23:52:54
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-まえがき-
美鈴の過去の話です。「勝手に作んな」という方はブラウザバック推奨です。
あくまでサイドストーリー的な感じなので、オリキャラ無双です。ご注意ください。











 土砂降りの雨。

 もともと、紅魔館周辺は雨が少ない。にも関わらず、この日は盛大に雨が降っていた。

 陰鬱な雨、冷たい雨。あまり降らないはずの雨が降る度、私はいつも同じことを思い出す。

 私の名前は紅美鈴(ほん めいりん)。紅魔館の門番をしている。これでも博麗の紅白巫女や、胡散臭い黒い魔法使いと互角の戦いを繰り広げた実績もある。

 今日も私は門番。昨日も門番で、明日もまた門番だろう。雨が降ろうが槍が降ろうが、私はここで門を見張ってなくてはいけなかった。大きな門の前で雨に打たれながら、私は今日もここを守る。

 それにしても長い雨。いつから降っているだろうか。外に居る私には正確な時間は分からない。だが、長く降っていることだけは確かに分かる。

 こうも長いと、あの日のことを思い出す。あの時は、まだ幼かったなぁ……


………………

…………

……


 雨の中を、私は歩いていた。

 ずっと雨に打たれながら、その山を歩く。

 今までもずっとそしてこれからもずっと。

 そんな夜、私がこれから辿りつくであろう村では、非常事態が起こっていたようだ。



------------------------



「空庵さん! 妖怪だ! 妖怪が来るぞ!」

 静かな夜のはずだった。空庵と呼ばれたその青年は、もうすぐ床に就こうと準備をしている最中だった。村人の木こりが急に玄関の戸を開け、息を切らしながら入ってきたのである。そして告げたのは、妖怪が来たという旨のその言葉。空庵は部屋の隅に置いてある矛を手に取り、その木こりに問うた。

「分かった、今すぐ行く! 数は! 方角は!」

「南から二匹、烏天狗とお見受けしました!」

「烏天狗……厄介だな。まぁいい、女子供は北の山に避難させろ! 他は迎え撃て!」

 その時、村の櫓から金属を叩く音が響いた。その音は村中に響き渡り、村人たちがざわめき始める。

 木こりが家の外に出て、ざわめく村人たちに声を放つ。

「烏天狗だァー! 北の山に逃げるぞォー!」

 カァンカァンと鳴り響く金音に交じり、村人の悲鳴が飛び交った。女子供が叫ぶ中、男たちは民家や倉庫から、刀や槍、はたまた農具といった、武器になりそうなものを持ってきて構える。


「師匠! 妖怪です! 逃げてください!」

「騒がしいのぅ……ふぅ」

 空庵は自分の家の隣の家、師匠と呼んでいる老婆の家に入り、避難を促す。その老婆はお茶を啜りながら、ゆっくりと息を整えていた。

「師匠! 烏天狗ですよ!? 早く逃げてください!」

「そう慌てるでない……あ~、どっこいしょっと」

 老婆は湯飲みを置き、見るからに面倒くさそうに重い腰を上げた。

「わしも、逃げてばかりじゃちとつまらんのう」

「なっ、師匠! 師匠もご老体故……逃げるほうが賢明かと!」

「大丈夫じゃ。実戦で使わずに、いつ使うというのじゃ、武術というのは」

 老婆は腰周りを動かしながら、体を解している。どうやらやる気は満々のようだ。

「ほれ、行こうぞ、空庵」

「……は、はい」

 空庵は少々歯切れが悪そうに返事をした。



「空庵さん! 女子供は全員避難させました! あ、あれ? お婆さん……」

 空庵に報告に来た先ほどの木こりが、老婆の姿を見て驚く。

「は、早く逃げてください! こっちで……」

「構わん。師匠も戦うそうだ」

 空庵がそう言うと、木こりはさらに驚いたような顔で、二人の顔を見比べる挙動を取った。

「だ、大丈夫なんですか!?」

「大丈夫じゃ。わしとうて、お前さんたちが若かった頃は、立派に戦っておったろう」

「で、でも! もう10年以上も前のことじゃ……」

「わしゃあこの10年、稽古ならずっとしておったよ。それを実戦で使わずに……」

 そう言おうとしたところを、空庵が右手を掲げて制止した。

「師匠なら大丈夫だ。それよりも、やつらはどうなんだ」

「は、はぁ……烏天狗たちはまだ来てませんが、鳴き声だけが聞こえます。直にこの村にも来るかと」

 先ほどよりも自信の無い受け答えだ。だが自信なんてどうでもよかった。鳴き声が聞こえてるときは大抵来る。こちらも襲われるだけでなく、ちゃんと対策法は練ってあるのだ。

 まだ周りが騒がしいせいで上手く聞き取れないが、確かに「グァー、グァー」と烏のような鳴き声が聞こえる。あとどのくらいで来るのだろうか。そんなことを考えていると、外から叫び声が聞こえた。

「き、来たぞ! 烏天狗だ!」

 その声を合図に、村人たちが一斉に声を上げた。士気を上げるためと、相手を威嚇するために考えられた対策だ。実際に烏天狗相手に使うのは初めてだった。

「空庵さん、行きましょう!」

「ああ! 師匠!」

「分かっておる」

 再度覚悟を決めた3人は、村人たちが戦う家の外に飛び出していった。


------------------------


「くそっ! 早い!」

「風だァ! 踏ん張れェ!」

 烏天狗が風を巻き起こす。その中で、村人たちは風に耐えるために必死に抵抗していた。その中、烏天狗が村人たちの一人に襲いかかった。

「うわっ!」

 その一人は剣で斬りつけられ、辺りに血飛沫が飛んだ。その場に倒れこみ、くぐもった声を上げる。死んではいないようだ。

「え、枝之助さん!」

 他の村人の数人が叫ぶ。ある者は斬られた男性に駆け寄り、ある者はそこから逃げ出してしまう。だが、空庵は怯まなかった。

「こっちだ! 化け物!」

 天狗の後ろから空庵が切りかかる。人型に翼が生えた黒い化け物は、滑空して空庵の矛の斬撃を避けた。

「こいつは私がやる! お前らはもう一匹を狩れ!」

「ええっ? でも……」

「お前らは足手まといなんだ! さっさとどけ! それと枝之助さんを安全な場所まで運ぶんだ!」

「は、はい!」

 村人たちでごった返す中、二つに分かれていた班の一つが、もう片方に流れ込んで行く。数人は枝之助という斬られた村人を家の中に運ぶ。残されたのは一人と一匹、空庵と烏天狗が対峙していた。

 グァー! と烏天狗が鳴く。その瞬間、空庵が一歩を踏み出した。

 思い切り敵を突こうとするが、金属音が響き、烏天狗は剣を盾代わりにして防いでいた。だが空庵は手を休めない。その剣を振り切ると、何度も矛を敵に振り下ろす。

「くそっ……化け物め……」

 考えている間、隙が出来ていたようだ。強風が吹き荒れ、空庵の体を吹き飛ばした。

「ぐがっ!」

 木こりの家の前に重ねてある薪用の木々に、激しく体を打ち付ける。幸い頭は無事だった。空庵の体の上にその木々が散らばる。

「ぐぅ……」

 何とか体を起こすと、一つの妙案が思い浮かんだ。だが烏天狗が襲い掛かってきて、それを横に僅かな差で避けることに成功した。

「危ない……」

 額に汗が滲む。だが、拭っている暇なんて無かった。隙だらけのその妖怪に、空庵は矛を振り下ろした。妖怪はそれを避けようとしたが、避けられなかった。妖怪の脇腹を矛の刃先が抉る。妖怪はグァー! と悲鳴を上げ、翼を出鱈目に羽ばたかせた。

 羽根がちらほらと舞う中、そこで空庵は一瞬だけしゃがみ、左手で何かを掴んだ。残りの右腕でもう一度突き、先ほど同様、烏天狗は剣でそれを防ぐ。

 だが、さっきと違うのはそこからだった。

 空庵は左手に握っていた砂を、烏天狗の目を狙って撒いた。グァ? と烏天狗は一瞬驚き、次の瞬間、顔を押さえて苦しみだした。ガーガー、と鳴き叫ぶその妖怪を見据えたながら、空庵は首元めがけ、思い切り矛を振り下ろした。


------------------------


 一方、師匠と呼ばれたその老婆は、集団で敵に群がる村人たちから少し離れ、溜息を吐いていた。

「活気があるのう」

 そう言って、老婆はほっほっほ、と笑い始める。

「お前さん、ちと来てくれんかのう」

 老婆は集団の最後列に居る、一人の男に話しかけた。

「し、師範! 妖怪が来てんだぜ! さっさと逃げな!」

「いつまでも年寄り扱いするんでない。今すぐこいつらをどかせ」

「えぇ!? どかせって……まさか、師範!」

「大丈夫大丈夫、分かったならさっさとどかんかい」

 その男は額に汗を浮かべながら、「そいつから離れろ! 師範が出るぞ!」と叫ぶ。それを聞いた村人たちは次々に妖怪に対する手を休め、妖怪から離れていった。

 道が開け、老婆と烏天狗が対峙する。その時、もう片方の烏天狗を倒し終えた空庵が、その集団に入ってきた。

「く、空庵さん! 血が……!」

「いや、敵の血だ。それよりも師匠は……」

「今から戦うらしいです。だ、大丈夫なんですか?」

「多分な。師匠は私たちより何倍も強い」

 ばさばさと翼が羽ばたく音だけが響く中、老婆が口を開いた。

「ほれ、怖気づいたか?」

 その言葉の意味を理解したのかは分からないが、次の瞬間、烏天狗はグァー! と叫びながら、老婆に襲い掛かる。

「し、しはっ……」

 村人の一人が声を上げるが、もう遅かった。



 烏天狗はその場に堕ち、この世のものとは思えない雄叫びを上げた。



 老婆は右手だけを微かに上げ、静かに立ちそびえている。

 先ほどまで、普通の小さい老婆だったその人間は、なぜか今はとても高く見えた。

 絶対に崩れない、砦の様に――


 周囲がその光景に、動くことも出来ずにいると、烏天狗は立ち上がり、恨みを込めたような鳴き声を一つ、グァーと老婆に向けて放ち、村人たちの上を飛び去っていった。

「勝った……?」

「らしいな」

 村人の一人がかろうじて出した疑問に、空庵が答える。誰もが声を発することができない静寂の中、そのやり取りはここに居る全員に聞こえただろう。空庵は何か不満そうに鼻で笑い、身を翻して先ほど斬られた村人が居るであろう民家まで歩いて行った。

「かっかっか」

 だが一人、手を叩き笑いながら賛辞する者が居た。

「さすがだねぇ、昔と同じだ」

 その老人は老婆へと近づく。老人は村人の集団を抜け、老婆に近づいていった。

「だから大丈夫と言うたじゃろうに」

 老人が手を開くと、老婆はそこにある物を置いた。


 眼球。血管から千切られた、白と黒と赤が混じった、根のある球体。


「眼抜きは今でも健在じゃのう、かっかっか」

 老人は笑う。いまだ村人たちが話せずにいるなか、この2人だけが話を進めていった。

「わしも、まだまだ戦えるわい」

「さすが、師範だの師匠だの呼ばれるだけあるのぅ。なぁ――」

「美鈴さん」


 美鈴(みすず)と呼ばれたその老婆は、誇らしげに微笑みながら堂々とそこに立っていた。



------------------------



 あれから一ヶ月ほど経った、梅雨の季節のある日、振り続ける雨の中、一人の老婆が山道をせわしく歩いていた。

 強くもなく弱くもない雨に打たれ、泥水をはねらせながら、頭に被った笠をさらに深く被り直し、老婆は息を吐く。

 老婆の名は美鈴。本人は自分の名前を、派手だという理由で正直あまり好んでないらしい。

 美鈴がここに来るのは珍しいことではない。山菜や薪を採るために、月に2、3回、この山道を通る。そして今日もまた、いつもと同じ目的で、ここを通っていた。

 だがいつもと違うのは、雨が降っているということだ。いつもは晴れの日を見計らってこの場所に来るが、季節が季節なので、急に雨が降ってきてしまったのだ。だから急ぎ足で歩いている。一人暮らしの身で、風邪をこじらせるわけにはいかない。

 だがさっきから歩いているが山菜が見当たらない。歩いていれば倒木から勝手に生えていたりする茸などが見つかるはずなのだが、今日はなぜかまったく見つからなかった。前回来たときに、採らずに残しておいた場所にも、何も無い。近くで見てみると、既に採られたような跡があった。動物の餌になったのか、収穫はほとんど無に等しかった。

 数少ない収穫、数束の山草を腰元の籠に入れ、美鈴は帰ることにした。これ以上探しても、見つかる気がしなかったからだ。

 村に戻る道を歩いてる途中、獣の雄叫びが聞こえてきた。近くから聞こえてきて、美鈴は少し周りを警戒したようだ。動きを止め、雄叫びが聞こえた方向に視線を移す。

 木々の間から、熊の姿が見えた。茶色の毛皮を雨に濡らしながら、何か暴れている様子だった。だが、熊が一匹で暴れるのもおかしい。そう思い、老婆が目を凝らすと、その暴れてる理由、存在が、目に入った。


 少女が熊に襲われている!


 それを見て、美鈴は近くに駆け寄った。このままでは少女が熊に殺されてしまう。

 だが、近くで見たその光景に、美鈴は自分の目を疑った。

 少女は熊に襲われているのではない。闘っているのだ。しかも互角に。

 獰猛な熊がのしかかるも、少女はそれを華麗に避ける。赤い髪を翻し、ボロボロの衣服を見にまとったその少女の体は小さく、まだ6、7歳程度に見える。

 それが熊と闘っているのだ。美鈴は熊に気付かれないように、木の影に隠れてその光景を眺めている。

 熊が少女に噛み付こうとするが、少女は小さな体躯を活かして、熊の懐に入り込む。そしてそのまま、下から思い切り、肘鉄を熊の胴体に食らわせた。

 その後、熊は倒れて悶え叫び、やがて動かなくなった。

 少女が勝った。熊との闘いに。

 少女はその死体の腕を掴み、引きずり歩く。どこに持っていくつもりなのだろうか。


「……そこの」


 その後姿に、美鈴は声をかけた。少女は振り向き、美鈴を見つめる。


 雨水が地面を打つ音だけが、辺りに響き渡る。その中、数秒だけ、二人は見つめ合っていた。


 先に動いたのは少女だった。熊を置きっぱなしにして、脱兎の如く走りだす。

「……」

 美鈴は走り去っていく少女を眺めている。美鈴は分かっているのだ。慌てて追いかけることなどない。今は雨が降っている。


------------------------


 人間が居た。人間が居た。ここにも人間が居た。

 正確には、人間が来た。こんな雨の中、まさか見つかってしまうとは、正直予想外だった。

 もし捕まったら何をされるか分からない。その恐怖に怯えながら、雨でぬかるんだ獣道を走り続ける。

 運良く、その人間は追ってこない。だが油断は禁物、気を抜かずに、たださっきの場所から遠ざかることを考えた。

 木々や草むらの中をがむしゃらに走り、気づいた頃には体は傷だらけだった。足も腕も、木の枝などに引っ掻かれ、少量だが血が出ている。草の露が傷に滲みるが、そんなことは気にならなかった。

 走っているうちに、だんだんと草も少なくなっていき、やがてまともに道と呼べる道に出た。さすがにここまでは追ってこないだろう。そう思い、私は一度辺りを確認してから、歩き出す。

 せっかく仕留めた熊は置いてきた。明日、それが残ってるかどうかは分からない。だが少なくとも今戻るのは、自らあの人間に会いに行くようなものだろう。今日は熊は諦めて、拠点に戻ることにしよう。食料なら十分あるのだから。

 私は周りを見渡し、一本の大きな木を見つける。その下では雨をしのぐことができ、私はそこを拠点にしていた。周りは草と木に囲まれていて、まさかあの人間も、私がここを拠点にしていることも気づかないだろう。ここ最近拾った食料も、そこに置いていた。

 がさがさと草をかき分けながら、拠点に向かって歩き始める。未だ周りを警戒するが、人の気配は感じなかった。

 そしてすぐに、草をむしっただけの小さな拠点が現れる。兎の死骸や茸などが無造作に置いてあるが、これらは貴重な食料だ。いくら私でも、何か食べないと死んでしまう。

 私は木にもたれかかり、そのまま腰を降ろす。数度、息を吐き、手近にある茸を手に取った。

 傘の部分を小さくかじり、何度か噛んでから、吐き出す。毒は……多分無い。それを確認して、次は小さな口で、勢いよく噛みちぎった。

 茸を生のまま食べることに、私はもう慣れている。今までも、こうやって生き延びてきた。時々、熊や兎といった動物の肉も喰らい、場所も転々とし、自然の恩恵を受けながら生きてきた。

 その一つの茸を食べ終えると、ここでようやく、傷の痛みを意識した。腕にじりじりと痛みが伝わる。

 傷自体はどうでもいい。傷が深かろうと浅かろうと、放っておけば大丈夫だ。数日経てば治っているはず。

 今日は疲れてしまった。雨の中熊と闘い、人間に見つかり、そのまま収穫も無しに逃げてきた。

 今はおとなしくしていよう。また明日、あの場所に行ってみよう。人間に見つからないように、慎重にだ。人間に見つかったら何をされるか分からない。そう、だって――


 私は妖怪なのだから。



------------------------



 ……暖かい。

 雨は止んだだろうか。

 それ以前に、なぜこんなにも心地良いのだろうか。

 ふかふかして……暖かくて……柔らかくて……

 違う。何か違う。私はこんなの知らない!



 目を開けると、そこには屋根があった。

 夜なのだろうか、部屋は暗い。だが、僅かな明かりがあるお陰で、屋根を認識することができた。

 本来、あるはずの無い屋根。それがどうして、私と空を遮っているのか。

 パチパチと音が聞こえ、寝たまま視線を音の方に向ける。

 あぁ、囲炉裏だ。僅かな明かりはこれか。

 囲炉裏なんて何年ぶりだろうか。それを見て、やっと私は気づいた。

 ここは屋内で、私は布団の中に居る。つまり、誰かに連れ去られたということだ。

 どうして? 私はどうなちゃうの?

 さっきまで、外に寝ていたというのに……誰が私を移動させたの?

 とりあえず、この家から逃げ出せるかな。周りには誰も……


 居た。


 しかも案の定、あの時出会った老婆だ。僅かな明かりに照らされながら、座った状態で目を瞑っている。寝ているのだろうか。

 なんにせよ、これは機だと思った。逃げ出すなら今のうち。何を考えて私を誘拐したのかは分からないが、人間の考えることなんてろくなことじゃない。

 私はその老婆が起きないのを確認しながら、ゆっくりと布団から出ようと


「起きたか」


 しまった、気づかれた。

 老婆は立ち上がると、まだ布団から出ていない私の元に歩み寄ってきて、私を見つめる。私は少し怖くなって、布団を口元まで被った。

「怯えるでない、ワシゃあ何もせん」

 小さな声で、かつ私に聞こえるように、老婆は呟いた。だけど私は信じない。そんな言葉に何度騙されたことだろう。人間の言葉なんて信じられない。

 布団をさらに深く被る。老婆に怯えているが、布団しかすがれる物がないからだ。

 と、その時、老婆が私の隣に腰を下ろした。一瞬驚いて、私の体が跳ねる。

「お前さん、妖怪じゃろう」

 私に問いかけているのか、老婆が言う。

 熊と闘っているところを見たのなら……当然気づくだろう。

 布団の中で、私は身を隠すように、文字通り丸くなっていた。私は妖怪だということを、老婆は知っている。と、いうことは、私を殺すに違いない。人を喰らう「妖怪」は、退治される運命なんだ。怖い。すごく怖い。私は本当にここで殺されてしまうのだろうか。

 私の背中は汗でびっしょりになっていた。気持ち悪い。目を瞑っているというのに、その暗闇の中で世界がぐらぐら歪んでいた。生きている心地が無く、心臓は破裂しそうなほどに動悸している。

 鼓動が布団を伝って耳に入ってくる中、一つの雑音が聞こえた。何かを置くような雑音、その雑音に、私は「ひぃっ」と声を上げて怯える。それほど、今の私は他の「何か」に敏感になっていた。

 その雑音に続いて聞こえてきたのは、老婆の声。だが、私は布団を被ってたこともあり、上手く聞き取ることができなかった。

「――」

 分からない。耳に入ってくるのは雑音。その意味が分からない。

 次の瞬間、私の被っていた布団が剥ぎ取られた。

「いやっ!」

 私は悲鳴を上げる。丸くなっていた私の体は、そこから逃げることすら出来ずに、まだ身を守るように、両手で体を抱えていた。

「言うとるじゃろう」

 私はもう駄目だと思った。他の妖怪が猟銃や刀で殺されたように、私も撃ち殺されたり斬り殺されたりするはずだ。

 だが、私の耳に入ってきたのは、さっきと同じ言葉、私が信じないと思ったはずの言葉。

「何もしないと言うとるじゃろうに」

 老婆は私をじっと見つめる。私もその目をじっと見つめる。

「あんな山奥で暮らしとうたら、腹も減るじゃろう。食べなさい」

 その老婆は私の目の前に置いてある茶碗を、少しだけ前に差し出した。

 茶碗に盛ってあるのは……粥だ。久々に見る、まともな料理。暗い室内での囲炉裏の火に照らされているそれは、水分によって少しだけ輝いてるようにも見えた。

「……」

 私は動かない。もしかしたら毒が入っているかもしれない。毒程度では私は死なないけど、油断させて殺そうとしてるのかもしれない。

「そういえばさじを忘れてるのう」

 老婆がその場を立つ。その行動にさえ、私は怯えてしまう。老婆は向こうにさじを取りに行っている。これは……今なら逃げられる。

 戸はすぐ後ろにある。今ここで家を出れば、確実に逃げることができるだろう。そしてこの土地を離れ、また別の場所でいつも通り山菜や動物を捕食して生きていく。少し憂鬱になるような予定だが、殺されるよりは全然マシだ。

 私は座ったまま、老婆が居る方向を見つめたまま、そろそろと戸のほうへ寄る。その時、一つの言葉が脳裏をよぎった。


『何もしないと言うとるじゃろう』


 何もしない。

 信じない。そう心で決めた。

 なのに……どうしてこんな時に、思い出してしまうのだろう。

 私の動きは止まったまま、動くことを忘れていた。

 案の定、老婆がさじを持って戻ってきた。私は逃げる機会を逃してしまった。もう……強行突破、もしくは……

「すまんのう。さぁ、食べなさい」

 さじを静かに置いて、私にそれを食べるように促す。

 私は茶碗に盛られた粥をじっと見つめる。そういえば米なんていつぶりだろうか。ここ数年ほど食べてない気がする。いや、むしろ私は米なんて食べたことがあるだろうか。じゃあ、どうしてこれが米だと分かるのだろう。いつの間にか、私の口の中の唾液の量は増していた。

 私は意思とは裏腹に、なぜかさじを取っていた。

 そしてもう片手で茶碗を取り、私はその粥を……食べていた。

 美味しい。

 久々のまともな料理。他人の作った料理。 

 どうしてだろう、さっきまで警戒していたというのに、こんなにも美味しくて、幸せな気持ち。

 さっきまで考えていたことなんて、もう頭には無かった。ただ目の前の質素ながらも満足のできる食事に食いついていた。そして……泣いていた。

 そんな私の頭を、老婆は笑顔でそっと撫でてくれた。

「泣くといい。たくさん泣いて、たくさん笑うといい」



「ごち……そうさまでした」

 未だ涙ぐむ目元を腕で拭いながら、空になった茶碗を木製の床にことっ、と置く。

「満足したかえ?」

「はい……ありがとうございます……」

 私がそう答えると、老婆は少しだけ笑って見せる。どうして私は疑っていたのだろうか。こんなにも優しくて、暖かい料理を御馳走してくれる人間じゃないか。さっきまでの私は、どうして疑っていたのだろうか。

 そう考えると、一つの疑問が思い浮かんだ。

 なぜ私に優しくしてくれるのだろうか。

 いや、どうして私をここまで連れてきて、こうやって優しくしてくれるのだろうか。殺すため? いや、そんなはずがない。こんなに優しい人間が、私を殺すはずがない。

 じゃあ、どうして?

 聞いてみよう。私は自分で考えても分からない。妖怪だと知っていながら、殺さずに、そしてわざわざ連れてきて、料理まで食べさせてもらって……考えれば考えるほど、分からなかった。

「あの……」

「ん? なんじゃ」

 老婆は表情も崩さず、問い返してくる。その仕草に、私は少しだけ安心した。

「ど、どうして……私に優しくしてくれるんですか?」

「……」

 私が思い切って聞いてみると、老婆は黙ったまま目を逸らした。何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないか、そんな感じだ。

 数秒沈黙が続き、老婆は口を開いた。

「もっと気楽に話しなさいな。敬語なんて使う必要ないわい」

「え? あぁ……うん……」

 意外な答えに、少しだけ戸惑ってしまう。質問の内容には合わない、まったく関係の無い答えだ。話を……逸らした?

「ど、どうして、優しくしてくれるの?」

 私は言われたとおり、敬語を崩してもう一度聞いてみる。

「……寒かったじゃろう」

「え?」

 寒かった……?

「あんな雨の中、外で寝とるなんて寒かったじゃろう。足跡残して泥の中走りまわって、疲れとったじゃろうに。相手が妖怪でも、情けくらいかけるわい」

「……」

「ここに住んでも構わんよ。どうせ、あの山で熊でも狩って生きていくつもりだったのじゃろう。それならここに居たほうが楽に暮らせるぞ」

 やっぱり、この人は優しい人間だった。

「お節介だったなら、今すぐにでも出て行ってもらって構わんよ」

 お節介なんかじゃない。私は嬉しかった。やっと人間に優しくしてもらった。今まで、人間なんて信用できなかった。だけど、今こうやって私は人間と話している。人間が私を恐れてないのだ。

「……出て行かない」

 私ははっきりという。

「ここに居ていいなら、私はここに居る。おいしいお粥、ありがとう。その……」

 私は老婆をどう呼ぶかで迷った。「人間」や「老婆」しか思い浮かばず、固有の名前が分からない。

「『ばあさん』でよろしい」

「分かった。ありがとう、おばあちゃん」

 私は精一杯の感謝を込めて、そう呼んだ。


------------------------


 朝起きても、外は未だにしとしとと雨が降っていた。

 昨日は私の人生の機転なんじゃないかという出来事が起きた。そう、おばあちゃんとの出逢い。私はこの家に住むことになり、暖かい布団で寝ることができるようになり、そして暖かい食事を摂ることが出来るようにもなった。服もまともな着物を貰い、今までほとんど被っているだけだった布と違い、快適な服装で過ごすことも出来る。

 私がおばあちゃんと朝食を作っていると、一つのことを聞かれた。

「名前はなんというんじゃ」

 名前。誰もが持っているもの。人間だって妖怪だって持っているもの。人間は生まれたときに親に名付けられ、妖怪は人間たちに勝手に名付けられる。河童や夜雀など、おおまかな分類で名付けられ、あとは自ら固有の名前を決める妖怪だっている。

 だけど、私には名前が無かった。

 固有の名前だけでなく、種族としての名前すらも持っていない、誰にも分からず自分でも何も分からない妖怪。それが私だった。

「名前……無い」

 私はぼそりと呟く。今まで本当に一人で生きてきたので、名前なんて必要が無かった。私を呼ぶ人も私を管理する人も居ない。誰とも関わらない本当の「独り」で生きてきた。

「無い……か」

 おばあちゃんは少し上の空になりながら、ふぅっと息を吐いた。どこか想像通りだというような表情をしている。

「じゃあわしの呼びたいように呼ぶぞ」

 包丁を持つ手を止め、小さな私を見下ろしながら言う。


「メイリン。お前の名前はメイリンじゃ」


 今、私は呼ばれたのだろう。

 「メイリン」 今、おばあちゃんが放ったその言葉、いや、名前は、紛れもなく私の名前なのだろう。

「メイ……リン……」

 私は小さく、初めて呼ばれたであろう、自分の初めての名前を呟いてみる。

「嫌か?」

 そう聞いてくるが、私は首を横に振る。おばあちゃんは少しだけ微笑みながら、首を縦に振った。

 素敵な名前だ、と思った。その名前は私の脳、体、隅々まで浸透していくような気がした。まるで二つの歯車が噛み合ったように思えるほど、その名前はしっくりしたものだった。

 素敵な名前をもらったのはいいが、私には一つ、気になることがあった。

「えと、おばあちゃんは名前はなんていうの?」

「わしか? わしは……美鈴じゃ」

「みすず?」

「美しいに鈴と書いて美鈴。言っても分かるかのう」

 案の定、私には分からなかった。文字をどう書くのかも分からず、「美しいに鈴」と言われても、何がどうしてそこから「みすず」になるのかはさっぱり分からない。

「あまり気に入っておらんがの。こんな派手な名前は」

 派手、と言われれば、確かに珍しいかもしれない名前かもしれない。今までそんな名前は聞いたことがないし、それに似たような名前も聞いたことがない。まるで違う世界に来たような感じ。実際に私は、昨日までとはまるで違う世界に居るようなものだけど。

 その時、玄関から少女の声が聞こえてきた。

「おばあさん、おはようございます! あれ……?」

 明るい少女の声。雨音にも負けない元気な声で、おばあちゃんに呼びかける。玄関には、私と同じくらいの身長の少女が立っていた。おばあちゃんと同じ着物姿、髪は肩まである黒髪でおかっぱ頭の元気そうな女の子。初めて見る人間に、私は少し恐怖を感じた。だがそれはすぐに拭い去られることになる。

「おやおや、千枝、朝から何か用かい?」

「ええ、お母さんが漬物作ったので、おばあさんにも食べてもらおうということで。それよりも、そっちの女の子は……」

 そっちの女の子、というのは私のことだろう。私がこの子と初対面である以上、向こうも私の顔を見るのは初めてのはずだ。

「ああ、山に倒れておってのう。名前は……メイリンじゃ」

「めい、りん……メイちゃん? ええっ?」

 少女は混乱している。何かおかしいことでもあるのだろうか。

「お前の知ってるメイリンではない。でも、そいつの名前はメイリンじゃ」

「です……よね……だって、メイちゃんは……」

 メイリン。先ほど私が付けられた名前だが、何かいわくでもあるのだろうか。もしかしたらこの名前は、本当に何か特別な意味でも持っているのだろうか。どちらにせよ、少女は私以外の「メイリン」を知っているようだ。

 私が考えている間も、話は一向に進んでいく。

「はい、おばあさん、これ、漬物です」

「すまんのう。感謝して食べさせていただくぞ」

「できれば感想が欲しいってお母さんが言ってました。それにしても、雨、止みませんね」

 昨日から降っているはずの雨。私はこの雨に打たれながら熊を倒し、おばあちゃんはこの雨の中、私をこの家に連れてきて、この雨の中私は昨日のやり取りを行った。そう考えると、この雨が何かの記念のような気がして、止むのが少し惜しいようにも思える。

「梅雨じゃからのう。毎年のことじゃ」

「そうですけどね。でも、私は晴れのほうが好きです。特に、雨上がりの晴空が」

 雨上がりの晴空。雨が上がった後には、何ができるか。そう、あれができるんだ……

「メイちゃん」

「え?」

 私は不意に少女に話しかけられた、意外なことだったので、つい間抜けな声を上げてしまう。

「私、千枝っていうの。よろしくね」

「あ……うん。よろしく、千枝ちゃん」

「ちぃちゃん、って呼んでいいよ。私もメイちゃん、って呼ぶから」

 千枝ちゃんは笑顔でそう言う。素敵な笑顔。同姓の私でさえ引き込まれてしまいそうな笑顔だ。

「うん……分かった。よろしく、ちぃちゃん」

「こちらこそっ! じゃ、雨が上がったら一緒に遊ぼうね、メイちゃん。バイバイ」

「う、うん。ばいばい」

「雨の中、ご苦労だったね」

 手を振りながら、ちぃちゃんは家を飛び出していった。おばあちゃんが呟く。

「いい子じゃろう」

「……素敵な子」

「強い子じゃよ」

「……うん」

 私は半分生返事。おばあちゃんの言葉の意味はよく分からなかったけど、私はちぃちゃんの素敵な笑顔が、なぜか不思議でたまらなかった。


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 目の前に並べられた食事。ご飯にお味噌汁に漬物、肉も魚も無いけど、私にはずいぶん豪華な食事だった。炊きたてのご飯など、おそらく食べたことがない。

「い、いただきます!」

 その食事を前にきちんと合掌し、私は手をつけようと思った。が、一つだけ、使い方が分からないものがあった。

 二本の細長い棒。箸と呼ばれる物。見たことはあるが、使ったことはない。昨日粥を食べる時に使ったさじは、握るだけで掬うことが出来たが、この二本の棒を使ってどうやって食事を摂るかは分からない。とりあえず、二本まとめて握ってみることにした。

 ご飯の茶碗を口元まで持ってきて、よそう様に口に運ぶ。これでも食べられないことはないが、何か食べづらい。一旦茶碗と箸を置き、お味噌汁を手に取る。ご飯とお味噌汁が口の混ざり合い、ご飯に味がついた。お味噌汁が染みこんだご飯は今まで食べたことがないくらい美味しい。こんな質素な食事でも、私は初めてがいっぱいだった。私はもう一度、ご飯相手に箸を使う。つまり、また箸との苦戦を強いられるということだ。なんとか食べやすいような持ち方を四苦八苦しながら考えていると、おばあちゃんが私に声をかけた。

「箸の持ち方……分からんようじゃの」

 おばあちゃんは立ち上がり、私の傍まで寄ってくる。私の指を持ち、手取り足取り箸の持ち方を教えてくれた。

「こうやって……中指に乗せるんじゃ……人差し指を使って動かして、と」

 出来上がったであろう箸の持ち方。試しに開いて閉じてみるが、まだどこかぎこちない。

「これから慣れるといい。練習じゃ練習」

「うん……」

 箸を上手く持てないことに、少し落ち込んでしまう。その初めての炊きたてご飯食事は、それから何回かご飯粒を落としながら進んでいくのだった。


「ごちそうさまでした」

 今一度合唱をして、この料理を食べられたことに感謝する。

「おいしかった。まともな食事なんて久しぶり」

 そんな私を尻目に、おばあちゃんは食器を提げる。

「あ……私もやる」

 それに影響されて、私も自分の食べた分の食器を提げ始める。既に食器洗い作業に入ったおばあちゃんが、私に一つ言う。

「あまり妖怪みたいなことは言わんほうがええけんな」

「え?」

「お前さんは妖怪じゃろう。この村に住んでるのは人間じゃ。あまり、妖怪のことを好んでおらん」

「そう……だよね……」

 私は妖怪。他は人間。その間には絶対的な壁があり、妖怪は人間に嫌われている。おばあちゃんのような優しい人間ばかりではない。あのちぃちゃんも、もしかしたら妖怪を嫌っているかもしれない。それも全部、妖怪が人間を襲っているからなんだけど。

「だから、のう」

 おばあちゃんが私の頭に、手拭いで拭いた手をぽん、と乗せる。

「お前は人間。人間の娘じゃ。人間のメイリンじゃ。そういうことにせんかの」

 人間。私は人間。おばあちゃんはそう言う。それは名案だ。私は人間だということにしておけば、ここで平和に暮らせる。人間と妖怪の壁無く暮らせる!

「分かった。私は人間」

「そうじゃ。お前は人間じゃ」

 私は心から、おばあちゃんに出会えて良かったと感じた。いつの間にか雨も止み、私の心は今の空のように晴々としている。

「メイちゃん! 来て!」

 急に外から嬉しそうに私を呼ぶ声が聞こえた。その声の主は、他ならぬちぃちゃんだった。

「虹が出てるよ!」

 私は急がず外に歩き出す。玄関前にちぃちゃんが立っていて、指を指す空には綺麗な虹が架かっている。

「うわぁ……綺麗だね」

 場所を転々としていたり、ずっと雨が続いているせいもあって、私は暫く虹というものを見ていなかった。久々に見る虹は記憶内のかすれた像よりも新鮮で、そして何よりも美しい。おばあちゃんも家から出てきて、虹の架かる空を眺めている。

「私、虹が大好き。雨の後にしか見れないっていうのも、ちょっと特別な感じがしてね」

 ちぃちゃんが言う。私も虹が好きだった。陰鬱な雨が止んだ事実を表す、雨に耐えたご褒美のようなものだ。面倒が雨が降るごとに憂鬱になり、その雨が止むたびに私は気力を取り戻す。要は、雨自体はあまり好きではなかった。

「ねえ、メイちゃん、遊ぼうよ」

 また、考えている最中に不意に声を掛けられる。

「一緒に遊ぼ! 私がいろいろ案内してあげるから!」

「一緒に……遊ぶ?」

 今まで私は楽しそうに遊ぶ人間たちも見てきた。私と同じくらいの子供が、笑顔で楽しそうに遊んでいる光景。私が妖怪であることを隠して放浪していた場所先々に、その光景はあった。それを見るたびに、妖怪と人間の違いを見せつけられるような気がして心が痛かった。

「行ってきなさい」

 おばあちゃんが私の背中を軽く叩いた。その手に押し出されるように、私はちぃちゃんの誘いに返事をする。

「分かった。一緒に遊ぼ」

「やったー!」

 ちぃちゃんは喜びながら、私の手を掴む。

「じゃあ、おばあさん、行ってきます!」

「暗くならないうちに帰ってくるんじゃよ」

「はーい!」

 私はちぃちゃんに連れられるまま走っていた。だけどそれが妙に嬉しくて、楽しく思えた。


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 先程まで降っていた雨のせいで、地面はぬかるんでいる。歩くごとに泥が跳ねるが、あまり気にはならない。昨日までは裸足だったけど、今は草履を履いている。それだけでも妙に安心出来た。

「こっちこっち!」

 相変わらず私はちぃちゃんに引っ張られている。村の中で周囲は朝から様々な仕事をしている人たちが居る。洗濯をする人、畑仕事をする人、いろんな人が居たが、そのみんなに共通していたことは、私を物珍しげな目で見ていること。昨日までは居なかった余所者の私を見て驚くのは当然のことだろう。ちぃちゃんに引っ張られて名乗る暇も無いまま、私はその人々に小さく頭を下げていった。

 その時、急に私を引っ張る手が止まった。私は止まることが出来ず、少しだけちぃちゃんの背中にぶつかってしまう。

 止まった原因は目の前にあるようだ。立ちはだかっているのは、一人の背の高い男性。

「……おはようございます。空庵さん」

「……おはよう。千枝ちゃん」

 二人はそれだけ挨拶を交わし、互いにすれ違いざまに歩き始める。何か暗い雰囲気が漂っているが、私には調べる術も無い。また連れられるままに歩き出す。

「行こ、メイちゃん」

 空庵、というのだろうか。私は振り返り、その男性の後ろ姿を見つめていた。

「メイちゃん!」

 足が止まっていたのか、ちぃちゃんが困ったように私を呼んだ。

「あ、ごめん……」

 私は謝り、再度歩き出す。向かっているのはどこだろうか……何かとても知っている場所のような……

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 木々に囲まれた道の中、木漏れ日から射す光に照らされ、私はその山を歩いている。

「滑るから気をつけてね。雨降ったばかりだから」

 ちぃちゃんが私に気を配ってくれるが、その心配はいらなかった。


 ここは昨日まで私が居た山。


 土質から木の位置まで、私はほとんど把握している。ここの土は粘りが強く、滑りやすいかと聞かれるとあまり滑る山ではなかった。私よりもちぃちゃんのほうが足取りが怪しい。ちぃちゃんは私に気を使っているつもりだが、かえって私のほうが気を使ってしまう本末転倒なことになっている。

「ちぃちゃん、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、それよりも、もう少しだから」

 私の手首を掴む力が強くなる。もう少しで頂上のはずだが、いったい何をしようとしているのだろう。

 木々の中を抜け、私たち二人に陽が当たる。すっかり晴れた空にはまだ雲が浮かんでおり、ここまで歩いてきた私たちを歓迎するかのように出迎えてくれた。高いところに登ったというのに、その雲は全然近づくことがなく、太陽のように遥か遠くに浮かんでいた。

「もう見えるかな。ほら、メイちゃん、向こう見て」

 もうほとんど山の頂上。そこでちぃちゃんが、今まで歩いてきた方向を指す。その指につられて振り向くと、そこには美しい光景が広がっていた。

 架かった虹、さっきまで私たちが居た村、遠くに居る働く小さな村人たち、生い茂る山々に囲まれて、その村はまさに生きていた。

「すごい……」

 気がつくと私はそう呟いていた。今まで人間には嫉妬と恐怖しか抱かなかったというのに、今見ている人間たちは神秘的で美しい。こう遠くから全体を見てみると、家の一つ一つや人間の一人一人がまるで輝いて見えるようだった。その村の「一部」としてみんなに確実な役割があり、「一部」だからこそ欠けることも駄目。その「一部」に私もなりたいと思った。これは嫉妬よりも、純粋な憧れ。努力すれば叶う、そう思うのが憧れ。その憧れの念を、私はこの「村」に抱いていた。

「この場所、ちぃちゃんが見つけたの?」

 私は村を眺めたまま聞いてみる。ちぃちゃんは「ぅん……」と小さく呻いた後、重々しく口を開く。

「いや、おとうさんが。……もう、居ないけどね」

「居ない……」

 私は村からちぃちゃんに視線を移す。……聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。だがちぃちゃんは自分から話し始める。

「妖怪に……斬られて……」

 妖怪に斬られて。私は解釈した。ちぃちゃんのおとうさんは、妖怪に斬られて殺された。私は少し無神経だったか。聞いてから後悔する。

 だが、その次に紡いだ言葉が容赦無く私の心を抉った。


「だから私、妖怪が嫌い」


 妖怪が嫌い。

 この言葉は、何よりも私の胸に突き刺さる。どんな罵倒の言葉よりも強く。

 私は妖怪で、ちぃちゃんは人間。その壁はやはり高かった。

 私はちぃちゃんから目を逸らした。悲しい気持ちになろうとも、私はそれを堪えるために目を瞑る。私は人間なんだ。そう自分に言い聞かせた。

「ごめんね、暗い話して」

「……私こそ、なんかごめん」

 どうして罪悪感を感じるのかは分かっている。それは私が「妖怪」であるからだった。



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 一方、場所は変わって村のとある家。何を隠そう、美鈴の家である。そこに居るのは美鈴ともう一人、空庵だった。

「で、なんの用じゃ」

 美鈴が空庵に問う。空庵は出されたお茶に手も付けずに、閉じていた目を開けて口を開いた。

「あの子はなんですか、師匠」

 美鈴は何も驚く素振りは見せなかった。自分で注いだお茶に口を付け、少し啜った後に答える。

「見ての通り、子供じゃよ」

 空庵はその答えに、眉間に皺を寄せながら切り返す。

「どこから拾ってきたんですか」

「山じゃ」

「あの子の両親は……!」

「死んだらしいのう。気の毒なもんじゃ」

 淡々と話す美鈴に対して、空庵はだんだん激昂していくのが分かった。空庵の拳を握る力が強くなるが、次の言葉は至って静かな声だった。

「……妖怪ですね。あの子」

「違う。人間じゃ」

「嘘はやめてください。千枝が『メイちゃん』と呼んでました。そんな偶然、あるわけない」

「……」

 ここで初めて美鈴が黙った。言葉に悩んでいるのか、今一度お茶を啜り始める。

「まだ気にしているんですか……お孫さんのこと」

「お前さんに何が分かるか」

「だからといって妖怪を……!」

「……」

 再度美鈴は黙りこんでしまう。空庵は言葉を繋げた。

「師匠の教え通り、私は今夜、あの子を退治します」

「あの子に害は無い」

「邪魔をするのなら……師匠諸共……」

「……ばかもんが」

 空庵はその場を立ち上がり、家の外に出て行く。美鈴はお茶をまた啜りながら、悲しそうにその背中を見つめていた。


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 私が家に帰ってきたのは昼頃だった。烏の鳴き声が聞こえ、私はちぃちゃんと一緒に家に帰った。

「ただいま」

「おばあさん、ただいま!」

 さっきの暗い話をしていたときとは打って変わって、少女は明るく言う。

「おかえり。楽しかったかえ?」

「うん。また遊べるといいな。それじゃあね、メイちゃん、バイバイ」

「ばいばい、ちぃちゃん」

 手を振るちぃちゃんに、私は手を振り返す。

「どうじゃ。人間と遊ぶのは初めてじゃったろう」

「うん。人間って、素敵だと思った」

「そうかそうか。そりゃあよかったのう」

 おばあちゃんは笑いながら、昼食の準備に取り掛かる。私もそれを手伝うことにした。


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 道元にできた水溜りを避けながら、私は自宅までの帰路を辿る。

 先程までメイちゃんと楽しい時間を過ごしていた。少し重苦しい雰囲気にもなったけど……楽しかったな。

 家に帰ると、お母さんが出迎えてくれる。

「おかえり、千枝」

「ただいま、お母さん」

 静かな家の中で、そのやり取りだけが響く。前ならいろいろと家は賑やかだったはずだけど、でも、今は……

「お昼、出来てるわよ」

 お母さんが言う。私は「うん」と一つ返事で返す。それだけの殺伐とした会話。


『昼の休憩だなぁ。飯はなんだい』


 いつもなら聞こえるはずのその言葉を、私はしばらく聞いていない。

 そう、もう聞くことは出来ない。


 私は座敷に座る。お母さんが茶碗に料理を盛って、私のところへ持ってきた。重苦しい雰囲気の中、

「今日の……ご飯は……?」

 私が代わりに聞く。何が出てくるか、それすらも変わってしまった。

「漬物に、お味噌汁に、白米」

 質素な食卓だけど、これが普通の食事。前なら、釣ってきた魚や、採ってきた山菜が並べられたりもした。私が獲りに行けばよかったのだが、メイちゃんの手前、そんな無様な行動はしたくなかった。

 お母さんも座り、一言「いただきます」と小さな声で手を合わせて言った。私もそれに続き、「いただきます……」と、今にも消え入りそうな声で言う。


『いただきます!』


 いつもの威勢のいい声は聞こえてこない。私とお母さんは会話も無く、淡々と食事をしている。


『いやぁ、今日はお隣りの健蔵さんがなぁ』


 やめて。なんで頭の中でそればっかりこだまするの? もう、居ないはずなのに……

 食べ終えた食器を置く。お母さんは「ごちそうさま」と手を合わせ、私もまた「ごちそうさま……」と消え入りそうな声で言った。


『あー、美味かったなぁ。今日もあと半日、頑張ってくるぞ!』


 どうして、どうして。この食卓には、ある徹底的なものが欠けていた。


「お父さん……」


 またも消え入りそうな、小さな声で呟いた。その声はお母さんにも届いたようで、二人の間に、この家に沈黙が訪れた。


………………

…………

……


「烏天狗だァー! 北の山に逃げるぞォー!」

 それを聞いたとき、私は背筋が凍るような感覚に襲われた。

 妖怪。それは恐ろしい。最近、三ヶ月に一度くらいの頻度で、この村に妖怪が現れるようになった。

 妖怪にとって、ここは、いや、どこの集落だって、格好の餌場なのだろう。人間が住んでいて、その人間を襲っては、喰らう。特に、小さい子供なんか簡単に誘拐することができる。そんな中、私は……私の……

 女子供が山へ逃げる中、私は妖怪に立ち向かう村の人々を振り返った。

 その中にはお父さんも居る。

 木を削り出した槍を持って、お父さんは真剣な表情で妖怪の来る方向を睨んでいる。

 私は、お父さんがどうか無事であるように願って、山へと歩き出した。


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 村の女子供たちが山でざわめいてる中、私はお母さんと話していた。

「お父さん……大丈夫だといいね……」

 最初は何も返事をしなかったが、しばらくたってお母さんは口を開いた。

「大丈夫、きっと……」

 大丈夫、と言われながらも私の心配は収まらなかった。立ったまま、お母さんは軽く私を抱きしめる。それで少しは安心できた。

 でも、やっぱり不安だった。嫌な予感さえしてたから。



 しばらく経ってから、村人の青年が一人、私たちのところに走ってきた。そして言った言葉。


「勝ったぞ! 妖怪は逃げ出した!」


 一瞬の静寂が訪れたが、みんなは歓喜の声を上げた。

「やった……勝ったんだ……」

 私も思わず口を開く。手をつないでいたお母さんも口を開く。

「やったわね……」

 勝った。勝ったはずだ。だけど、なぜか私の中では、嫌な予感が続いていた。

 その中、その青年が私たちのところに近寄ってきた。

「千枝ちゃん、話があるんだ。お母さんも」


 私の予感は確信へと変わった。


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 私が帰ってきたときは、既にお父さんは生き絶えていた。

「お父さん!」

 走って近寄り、おそろおそる顔に被せられた布を取った。


 そこには、お父さんの寝顔があった。


 寝顔? うん、寝顔だよね? 嘘……だよね?


『なーんてな! 驚いたか! 千枝!』


 お父さんが目を開く。満面の笑顔で私に向かって言う。


「ちょっと、冗談やめてよ」


 私は笑った。そのお父さんの冗談が、嬉しくて、楽しくて、面白くて。


『千枝、お前はめんこいなぁ』


 お父さんは笑顔のままでそういう。いつもなら私を撫でてくれるはずだけど、その温かい手は私の上には乗っかってこない。


「えへへっ、大好き――」



「お父さん!」



 私は歓喜の声を上げた。


 だけど、違った。

 私の発言は、歓喜ではなく、悲鳴だった。


「お父さん!」


 もう一度、叫ぶ。お父さんは目を閉じたまま、びくともしない。いつの間にか、私は泣いていた。

 顔をぺたぺたと触る。温かい。でも、息はしてなかった。息を止めてるの? どうして?

 隣に居る空庵さんに私はしがみついた。

「冗談……ですよね? 空庵さん?」

 既にお母さんは家の入り口のところで泣き崩れていた。私はこの現実を信じられないまま、「これは嘘だ」と懇願し続ける。

 だが、静かに空庵さんは口を開いた。


「お前のお父さんは、最後にこう言った。『妖怪は何も悪くない。妖怪が悪いのなら、俺達だって悪者だ』と」


 そんなこと……聞いてないよ……

「空庵さん!」

 私は泣きながら、空庵さんにしがみついていた……



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 やはり箸の使い方は慣れないが、無事に昼食を終えることができた。「ごちそうさま」と言い、合掌する。

 食器を提げた後、おばあちゃんがそれを洗い始めるのを見て、私も手伝うことにした。

「メイリン、お前さん、確か熊と闘っておったの」

 唐突におばあちゃんが言う。

「う、うん……それが、どうしたの?」

 私は少し不安だった。やはり私は危険な妖怪なのだろうか。素手で熊を倒す力なんて、人間には無いはず。先程のちぃちゃんから聞いた話も重ねて、罪悪感が込み上げてくる。

「あれほどの力があるのならのう、ちょっと技でも磨いてみんか」

「技……?」

「後で詳しく話す。今は皿を洗うけえの」

 技を磨く、急になんなんだろう。これ以上の力は望んでない。むしろ力を失くして、普通の人間となんら変わらない体になったほうがいい。そうすれば、自分が妖怪である証なんて見当たらなくなる。この力があってこそ、妖怪と呼ばれている、そんな気がした。



 その後、私が連れてこられたのは、家の近くにある大きな建物だった。中は広く、おばあちゃんの家の四倍くらいはある。一面に畳が敷いてあり、全体的には少し汗ばんだ臭いが漂っている。

「道場、じゃ。わしがみんなを鍛えるために作っての。最近じゃ、わしくらいしか使う者はおらんがの」

 おばあちゃんが言う。「道場」というのは初めて聞いた。「鍛えるために」ということは、ここで何か練習でもするのだろうか。

「ちょっと待っとれ。少し体を動かすといい」

 そう言っておばあちゃんが外に行こうとする。私は追いかけようとしたが、体を動かしていろと言われたので、大人しく柔軟体操でもしていることにした。

 ほんの少し待っておばあちゃんが戻ってくる。何やら藁で作られたかかしのような物を抱えている。それを道場の中央に置くと、私に向かって言った。

「そうじゃな、まずは蹴ってみなさい」

「蹴る? これを?」

「そうじゃ。お前さんの動き、ちと怪しかったからのう」

 怪しい、とは……どちらにせよ、私はそれを蹴ってみることにした。数歩の予備動作をつけて、思い切り足に力を入れて蹴る。

案の定、そのかかしは吹っ飛んだ。道場の奥行きの四分の一程度吹っ飛んで、畳の床に落ちる。

「……すごい力じゃのう」

 すごい力、か。正直いらない。

「そうじゃの。足首の角度をもう少し、こう、調整して蹴れんかのう。そして体全体を使って。そうすればもっと強くなるはずじゃ」

 おばあちゃんが蹴る動作を取り、私も真似してみる。

「そうじゃそうじゃ」

 おばあちゃんはかかしを元の中央の場所に立てる。

「じゃ、もっかいやってみ」

 教わった通りにもう一回力を入れて蹴ってみる。するとさっきとは違う応えがあり、かかしは向こうの壁まで飛んで、壁に当たって落ちた。

「うわぁ……」

「飛んだのう。すごいもんじゃ」

 さっきよりも二倍は飛距離があるはずだった。私はまた強くなったのだろうか。

 それと同時に、少し楽しさを覚えた。少し工夫をしただけで、また強くなれる。さっきまでの思いとは裏腹に、もっと強くなってみたいとまで思う。

「すごい、これだけで……」

 壁際に落ちたかかしの元まで歩み寄る。そのかかしの、人間でいう脇腹のところが浅くへこんでいる。蹴られた跡だろう。これだけ飛べば、跡が残るのも当然だ。

「適当に戦うのと、型を知って戦うのでは、楽しさも違うわい」

 倒れているかかしを立ち上げてから、得意そうにおばあちゃんは言った。その姿を見ているだけで、私には新たな感情が芽生え始めていた。「強くなる」ことに関して、見方が変わった。まだ分からないけど……おばあちゃんは、きっと「強い」。

「私……」

「ん、なんじゃ」

 若干の武者震いをしている私を、おばあちゃんは横目で見る。

「私、もっと強くなりたい。もっと……」

「そうかそうか。飲み込みも早いようじゃしな。素質も十分。面白そうじゃの。じゃあまずは基本の型を覚えようかの」

 早速準備に取り掛かろうとするおばあちゃんに、私は笑顔で返事をした。


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 辺り既に夕暮れで赤く染まっている頃、おばあちゃんは稽古終了の合図をした。

「今日はこのくらいでいいかの」

 おばあちゃんの動きを真似して、かかしを相手に何度も何度も打ち込んだ。かかしはもうぼろぼろで、私も体中に汗をかいていた。

「頑張ったのう。一日でこれだけ覚えるとは、さすがじゃ。羨ましいくらいじゃのう」

 おばあちゃんが腕で額の汗を拭う。私は稽古中に渡された手拭いで汗を拭く。汗を吸った手拭いの質量は何杯にも膨れ上がり、搾ったら溢れでてくるんじゃないかと思うほどだ。

「明日もまた……稽古できたらいいのう」

「うん、そうだね」

 私は何気なく返事をした。でも何かおばあちゃんは暗かった。まるで明日が来ないかのような言い方。でも私は別に気にはしてなかった。ただ疲れてるだけなのだろうと、自分なりの解釈をしたからだ。

「さぁ、今日はもう帰ろうかの」

 おばあちゃんがわらじを履いて道場を出る。私もそれについていった。

「お、師範、今日も稽古ですかい?」

 そこでおばあちゃんを呼び止めたのは、一人の大人の男性。全体的に肌黒く、筋肉質の大きな体の人だ。頭に手拭いを巻いていて、見るからに力仕事が得意そうな感じがする。

「まぁな。お前さんもたまには来んかい」

 そう言われると、その男性は頭を掻いた。苦笑いをしながら答える。

「いやぁ、どうも最近は忙しくてしょうがねぇ。生活が最優先ですからなぁ。それよりも、そっちの嬢ちゃんは……見ない顔ですなぁ」

 私のことだろう。さほど驚かないということは、午前中に私を見かけたのだろうか。

「ああ、こいつか。山で倒れててのう。わしが助けてやったのじゃ」

「ふぅん……どこから来たんだい? 親は心配してないのかい?」

 男性は私に聞いてきた。急なことで私が返答に戸惑っていると、おばあちゃんが代わりに答える。

「……こいつの親は妖怪に殺されてのう……哀れなものじゃ」

 口からでまかせだが、私はこれでよかった。少し心が痛むような気もしたが、私には他の答えなんて用意していない。

「そ、そうかい……すまなかったね、変なこと聞いちまって」

「い、いえ……」

 私は首を横に振る。今はそれしかできなかった。

「まぁ、よろしくな、嬢ちゃん。俺は木こりやってるんだ。木を切って、それを売る仕事な。木が欲しかったらいつでも言いな」

「あ、はい」

 今度ははっきりと答えた。いつまでもおどおどしてはいられない。

「わしらは帰るとするかの。夕飯の支度もせんといかんしな」

「そですかぇ。そのうち顔出してみますよ。それじゃ、師範」

 木こりさんは私たちに背を向けて、手を振った。私はその背中を眺めていた。

「悪いやつじゃ、ないんじゃがのう。仕方が無いわい」

 また、おばあちゃんは悲しそうに言った。辺りを赤く染める夕焼けが、その寂しさに拍車をかけているようにも思えた。


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 夕飯を食べ終え、私は食器を提げる。おばあちゃんも食器を提げる。

 食器を提げるが、おばあちゃんは食器を洗おうとしない。どうしたのだろうと思うと、おばあちゃんが口を開いた。

「メイリン……お前は逃げなさい」

「え?」

 急に放たれた言葉。意味は分からなかった。逃げる? どこへ?

「いきなりすまんのう。わしは今からちと用事があってな。ここに居るのもなんだから……そうじゃな、千枝の家にでも行ってきなさい」

「ちぃちゃんの家……どこにあるの?」

 今日、遊んだというのに、肝心のちぃちゃんの家は知らなかった。

「向こうのあの家じゃな。一軒だけぽつんとあるじゃろう」

 玄関から出て、左側のほうを指さした。辺りは暗くなっているが、まだ完全に見えないわけではない。その先にあるのは一軒の家、そこがちぃちゃんの家だろう。

「おばあちゃんは……何をするの?」

「まぁ、ちょっとした儀式みたいなもんじゃ。一人でやると決まっておるのでのう」

 儀式……なんの儀式かは分からない。だけどこれ以上追求してはいけないような気がした。

「うん……じゃあ」

 私は一歩、外に出る。周りの家では、外に出る者はなく、午前とはうってかわって不気味なくらい物静かな村だった。

 ちぃちゃんの家の方向に歩き出すが、2、3歩踏み出したところで一旦振り返る。おばあちゃんは私を見つめていて、行くことを促すような視線を向けている。

 私は前を向いて、再度歩き出す。もう振り返る気はなかった。

 怖いのだ。もしも、振り返っておばあちゃんが居なかったらどうしよう。おばあちゃんが怒ったらどうしよう。そんな不安ばかり募って、振り返ろうとも振り返ることはできなかった。

 ゆっくり、一歩一歩確かめるように歩く。すぐそこにある家なのだが、おばあちゃんの家から離れたくない。まだ不安としがらみが残る気持ちで、戸惑うように、一歩が遅いのだ。

 ちぃちゃんの家に着いたのは、家から出てどのくらい経ってからだろうか。早くはない。遅かった。でもどのくらい遅いのかなんて、私には検討もつかない。頭の中がもやもやしていて、時間の感覚すらまともじゃない。

 そしてなぜだろう、また、振り返りたくなった。

 ここにたどり着いたことで安心を得たのか、それとも決心が揺らいだのか。どちらにせよ、私は私の見えない後ろが気になってしまった。おばあちゃんは……まだそこに立っているのだろうか。

 気がつくと、私は振り返っていた。たった今、歩いてきた道を。

 おばあちゃんは……居なかった。さっきまで家の前に立っていたおばあちゃんは、既にそこには居なかった。

 儀式とやらが始まったか。そしてなぜなんだろうか、この不安は。直感的に、どこか不安を感じるのだ。分からない。この目で「儀式」を確かめないと、この不安は拭えないように思えた。

 私は本当に駄目な妖怪だ。言われたことすらもまともにできない。そんな罪悪感を抱きながら、私は今来た道を、辿り戻ることにしたんだ。


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 メイリンが家を出た後、美鈴は家の中に入ろうとしていた。

 儀式なんてものじゃない。美鈴はまた、嘘を吐いた。何をするのかなんて、メイリンには言えない。だが、この後、美鈴の知らない誰かが死んで、また普通に何事も無く日常を過ごす。それだけの話だ。

「師匠」

 美鈴を呼び止めたのは一人の青年。そう、空庵だった。

「……」

 美鈴は何も言わない。いや、言葉が見つからなかったのである。そんな中、見つけだした言葉はこれだった。

「メイリンなら、すぐそこに居るじゃろう」

 千枝の家に向かって歩いているメイリン。空庵の目的の妖怪が、そこには居た。

「守らないんですか?」

 空庵がきっぱりと言う。どうやら、目的はメイリンではないようだ。

「……バカもんが。守るに決まっておるじゃろう」

 そう言うと、美鈴は歩き出す。空庵もそれについていくように歩き出した。行くべき場所はただ一つ、そう――


 道場だった。


 美鈴と空庵が向かい合う。空庵は矛を持ち、美鈴は後ろの腰に両手を据えたまま、そこに立っていた。

「師匠は……どうして彼女を助けたんですか」

「……」

 やはり、美鈴は何も答えない。

「妖怪を退治しようと言って、この道場を開いたのも、私たちに戦い方を教えたのも、全部師匠じゃないですか!」

 空庵は拳を握って叫んだ。その声には、当然のように怒りが混じっている。

「弟を殺されて泣いていた私に、大切な人を守る力をくれた……師匠だって、娘と孫を……!」

「自分のことだけ言えばよろしい。わしも年でな。考え方というのも、変わるもんじゃ」

「考え方とは!」

 空庵が矛の尻を激しく床に叩きつける、道場中にその音は響いた。

「……共存、じゃな」

「……共存?」

「今のお前さんには何を言っても無駄じゃろう。なら、わしを殺してメイリンも殺せばいい。のう、空庵」

「残念ですが、共存なんて信じませんね。結局は、妖怪は人間を襲う。私は……絶対に妖怪を許さない」

「喋ってる暇あるなら、さっさとかかってこんかい」

 美鈴のその一言で、お互いが構えた。

「……師匠、私はあなたが好きじゃなかった。強くて、ただ強くて、何事にも冷静で、挙句の果てには共存なんて言い出して」

「五月蝿いのう」

「私は今日、師匠を越える。あなたを殺す!」

 その姿を見て、美鈴は思っていた。


 強くなったのう、空庵。嬉しい限りじゃ。お前さんなら、きっと……。


 両者、一歩を踏み出す――


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 私、空庵は強くなりたかった。

 なぜ強くなりたかったのだろう。多分、それは誰かを守りたかったからだと思う。

 今、目の前に居る師匠、美鈴。この人は、私に戦い方を教えてくれた、とても強い人だ。

 そして私は今、この人を越えることができるのだろうか。

 それを考えるのはそこまでだ。次に考えなくてはいけないのは、戦い。

 共存なんて……できない。

 弟を殺され、私は二度と大事なモノを失わないために、妖怪から守るために、強くなろうとした。

 私は強くなれただろうか。

 それが今、試される。


 結果は一瞬だった。


 師匠が、その場に倒れる。

 私は目を瞑った。

 今までの、師匠との思い出が蘇ってくる。

 日々の鍛錬。

 共に釣りに行った昼下がり。

 家族同然の存在だった師匠を、私は今、この手で斬ったのだ。

 悲しくはなかった。胸の底から溢れ出す感情は、喜びでもない。ただ、「今は冷静になるのが一番だ」という自制があった。

 私は倒れた師匠を一瞥する。顔はまだまだ生きられそうな表情をしていた。だが傷は深い。暗くても分かるくらいに大量に出血もしている。長くは持たないだろう。だが、それでいいんだ。

 視線を道場の入り口に移すと、そこに向かって歩き出す。次はあの子を、メイリンを退治、殺す番だ。幼い子であろうと、妖怪は妖怪。人間を襲いかねない存在なのだ。今のうちに殺すのが最善の方法だ、と自分に言い聞かせる。

 外は暗かった。だが、完全ではない夜。藍色の空間に建つ家々の中の一つを見る。今は亡き枝之助さんの家、そして千枝の家である。メイリンはそこに居るはずだ。千枝という少女の前でもいい。その妖怪を……殺す。そのせいでどんな扱いを受けようとも……。最悪、私はこの村を出て行く。そのくらいの覚悟だ。

 その家まで歩き、戸を叩く。戸を開けたのは千枝だった。

「あ……空庵さん……何の用ですか」

 千枝は暗い。父親を失って以来、私を顔を合わせるといつもこんな雰囲気なのだ。おそらく、私が父親を助けられなかったなのだろうか。罪悪感は自分でも感じていた。

「メイリンを見なかったか?」

 私は問う。

「見てませんけど……メイちゃんがどうしたんですか?」

 見ていない。つまり、ここには来ていないのか。じゃあどこだ。まさか、逃げたか。

「見てないか。いや、見てないならいいんだ」

「そう、ですか……」

 千枝は暗そうに返事をした。

 逃げたとなると……あの山か。私はその家を後にし、山へと歩き出した。


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 私は、その場面を見ていた。

 見てしまった。

 おばあちゃんが、目の前で斬られた。

 空庵という人と戦い、私はそれを黙って見ていることしかできなかった。

 怖い。何よりも、怖いという感情しか出てこなかった。体が震える。目を見張る、おばあちゃんは床に倒れた。

 空庵さんが道場の出口に向かって歩き出した。私は急いで隠れる。運良く、私には気づかなかったようだ。千枝ちゃんの家のほうに向かっていく。

 それを確認すると、私はおばあちゃんのところに駆け寄った。

「おばあちゃん!」

「……大声出すでない」

 おばあちゃんは息も途絶え途絶えで、斬られた胸からたくさんの血を出しながら、私に語りかける。

「何か……聞きたいことはあるかのう」

 弱々しく言ったその言葉、私は今まで疑問だったことをもう一度、聞いてみることにした。


「どうして……私に優しくしてくれるの?」


 おばあちゃんは少し間を置いてから、静かに話し始めた。

「わしには娘がおっての。子供も居て、立派な母親になった娘が。だが、子を産んで間もなく、妖怪に殺された。その頃からじゃったかのう、この村に妖怪が頻繁に現れるようになったのは。

その残された子を見て思ったのじゃ。ああ、この子だけは守らなければいけない。死んだ娘に続いて、孫まで失ってはいけない。じゃが、わしももう老いぼれでのう。だから、若いもんに戦い方を教えるため、この道場を開いたのじゃ

順調じゃったよ。空庵のような強者まで出てきて、何度も妖怪を追い払った。じゃがのう、予定外の出来事というのは、やはりまったく予想もできんのじゃのう。

その孫がお前と同じくらいになったころな……妖怪に攫われてしまったのじゃ。

絶望じゃよ。わしは何度も何度も祈った。孫を返してくれ、孫が無事であるようにって。

数日後、孫は帰ってきた。どんな姿だったか、思い出したくもないわい。


腕だけ、ぽつんと家の前に置いてあったのじゃ。


わしは泣いたよ。そしてその妖怪を見つけて、殺した。すべての憎しみを見つけるようにな。その時、分かったのじゃ。ただ、守っているだけじゃ駄目だなと。もっと効率的な方法があるはずだと。

見つけた答えが共存。でも遅かった。すでにみんなは妖怪と『戦う』ことしか考えてなかったのじゃ。そして、いくら共存を願っても、娘も孫も、決して帰ってくるわけじゃないのじゃ。

そんなとき、一人の少女が現れた。ずっと悲しんでいたわしは、その子に肩入れした。


その子は親が居なかった。じゃから、わしが親になることにした。


その子には名前が無かった。じゃから、孫と同じ名前をつけることにした。



その子は妖怪じゃった。わしは、共存への一歩として、その子を迎え入れることにした」



「それが……私」

「そうじゃ。『メイリン』はわしの孫の名前。そして、千枝の親友の名前じゃ」

「……おばあちゃん」

 私は泣いていた。おばあちゃんの腕にしがみついて、小さな嗚咽を上げながら泣いていた。涙がおばあちゃんの袖を濡らす。

「泣くといい……そして、たくさん笑うといい……」

 私は、おばあちゃんが息絶えるまで、ずっと腕にしがみついて泣いていた。何も……出来なかった。泣くことしか。


 おばあちゃんが息絶えて、私は泣きながら立ち上がった。

「うぐっ……おばあちゃん……」

 おばあちゃんを見下ろす。暗くてよく見えないが、おばあちゃんの死に顔は笑顔だ。そんな気がした。

「ありがとう……」

 一日だけ。丸一日だけお世話になったおばあちゃんに、最大の敬意を示して、ただ一言「ありがとう」と言った。

 私は道場を出る。振り返らなかった。空庵さんが居ないことを確認して、ちぃちゃんの家まで走る。
 
「ちぃちゃん!」

 私は大声でちぃちゃんを呼んだ。中からちぃちゃんが驚いたような顔で出てくる。

「あれ、どうしたの? メイちゃん」

 何気なく聞いてくるちぃちゃん。これから、私はちぃちゃんに別れを告げる。おばあちゃんが死んだ今、もうこの村に居ることは難しい。空庵さんには妖怪であることも気づかれている。

 涙が滲む目を拭いながら、私ははっきりと言った。


「私、妖怪なの」


「え……?」

 ちぃちゃんの動きが止まる。

「どういうこと……?」

 ちぃちゃんは表情を変えずに聞いてきた。その驚いたような、悲しそうな表情で。

「私、元は名前も無かった妖怪なの。おばあちゃんに助けられて、メイリン、って名付けられたの」

 そう言い終えると、二人の間に静寂が訪れた。

 長かったような短かったような静寂。止まったような時間。それを動かしたのは、ちぃちゃんの涙だった。


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 立ったまま流している涙を、私は腕で拭う。その姿を見てか、メイちゃんまで泣きそうになっていた。


「ねぇ、ちぃちゃん、それでも私のこと、好き?」


 メイちゃんが聞いてくる。


 妖怪なんて大嫌い。


 そうだったはずだ。お父さんは妖怪に殺された。

 私は妖怪が嫌い。でもメイちゃんは大好き。でも、そのメイちゃんが、まさか妖怪だったなんて。


『妖怪は何も悪くない。妖怪が悪いのなら、俺達だって悪者だ』


 お父さんはそう言った。

 妖怪は悪くない。メイちゃんは悪かった? いや、悪くない。

 メイちゃんはこんなにもいい人だと思ってたのに、妖怪だったという理由で嫌うのは……


 私が悪いじゃないか。


 妖怪は……悪くない。


 私はメイちゃんが……大好き。


 私は右腕で涙を拭い、「えへへっ」と笑顔を見せて答えた。

「……大好きだよ、メイちゃん」

「私も大好き。でも私ね、妖怪だから、この村から出て行く」

 そう言われても、驚かなかった。メイちゃんは大好きだけど、メイちゃんは妖怪なんだ。だから私は……妖怪であるメイちゃんを受け入れる。

「うん……そう。分かった」

 私は一度目を瞑る。そして静かに目を開いて、言った。


「私たち、ずっと友達だよ。どんなに離れていても、同じ虹を見ているからね」


「……ありがとう!」


------------------------


「空庵さんは山に行ったよ。メイちゃんは……どうするの?」

「私、話し合わなきゃ」

「そっか。メイちゃん、小指、出して」

「え?」

 どうしてか分からなかったけど、私は言われるままに小指を出した。ちぃちゃんが私のもとに歩み寄ってきて、その小指に自分の小指を絡めると、言った。

「分かる? 指切りっていうの。約束するときはこうするの。私たち、ずっと友達だよね」

 私は口を開けて聞いていたが、意味が分かると、自然と涙が出てきてしまった。

「……うん、ずっと友達!」

「大好き、メイちゃん」

 私たち二人はずっと友達。今日、一緒に見た虹を、私は忘れることはないだろう。


 ゆーびきーりげーんまん、うそついたらはりせんぼんのーます


「元気でね! メイちゃん!」

「ちぃちゃんも! 今日はありがとう!」

 私は山へと走り出し、私とちぃちゃんはお互い手を振った。


------------------------


 山を歩いている私。


 空庵さんを探していた。


 あの人と話をつけないと、私は後悔する。確信があった。

 草をかき分けて歩いていると、広い場所で目的の人を見つけた。


 あの時、熊と戦った場所。


 そこで空庵さんは立ち止まっていた。私がこっそり近づこうとすると、急に声がした。

「こそこそついてこないで、堂々と出てきたらどうだ」

 紛れも無い空庵さんの声。私は諦めるようにその広場に出た。

「空庵さん……」

 空庵が静かに振り返る。その顔は落ち着いていて、黙って私を見据えていた。私はその目をじっと見つめていた。これから私はこの人と戦うのだろうか、それとも……

「お前が……メイリンか」

「……はい」

 私も驚くほど落ち着いていた。

「言わなくても分かるだろう。お前を殺す」

 空庵さんが一歩を踏み出した。私にはそれが分かった。だけど、私は人間を傷つけるわけにはいかない……!


 私は微かに斬撃を避け、腕を切り裂かれた。


「ぐっ……」

 私の腕から血が滲む。

「空庵さん……もう、やめてください」

 切り裂かれた腕を押さえながら、私は語りかける。だが、空庵さんは攻撃を止めない。

「うるさい! お前に、妖怪に、何が分かる!」

 私は攻撃を避けるが、頬を刃先が通り過ぎた。そこは一本の赤い線となり、たらりと血が流れた。

「弟は、私の弟は! お前ら妖怪に殺されたんだ! この、忌まわしき妖怪め!」


------------------------


 私には弟が居た。

 私たちの両親は、妖怪に殺されていた。見つけられたときには、既に見る影もない、喰いちぎられた遺体だった。

 そして私たち二人は、師匠、美鈴に引き取られ、生活をしていた。両親が殺されて、弟は自分の殻に閉じこもった、暗い性格をしていた。

 それを見かねた私は、家に引き篭っている弟を外に連れだした。一緒に遊ぼうということで。


 だが、それがいけなかった。


 山で遊んでいると、一匹の犬に遭遇した。

 その犬は可愛くて、私たち二人にすぐ懐いてきた。その時、私は弟の笑顔を久しぶりに見た。犬の頭を撫でている弟が、微かに笑っていたのだ。

 そして、その時はやってきた。

 私が、犬を可愛がる弟の近くで木の実を集めていると、悲鳴が聞こえてきた。

 私はすぐにそこに駆け寄った。だが、近づくことはできなかった。


 その犬が、まるで化物のように変化していて、その弟を喰っていたのだ。


 私は恐怖で動けなかった。犬が弟を夢中になって貪っているのを、私は目を見張って見つめていた。体が硬直して、動けなくなったのだ。

 犬が私の視線に気づき、こちらを向いた。その時に、私は動けるようになった。


 私は逃げた。弟が喰われている光景に恐怖して、ただ必死に逃げていた。


 妖怪は追ってこなかった。おそらく弟を喰っているのだろう。私はすぐに師匠に報告した。「弟が喰われている」と。

 師匠は矛を持ち、現場へと向かった。私もついていった。案の定、犬はまだ弟を喰っていた。

 その光景は見るに耐えられなかった。弟の体は無残に喰いちぎられ、両親と同じだった。私はこれで家族を、見るも無残な姿で失ってしまったのだ。

 師匠はその犬を矛で斬りつけると、すぐに犬は死んだ。もちろん、弟はすでに死んでいた。


「妖怪じゃ……こいつは……」


 妖怪。師匠が言ったその言葉で、私は「妖怪」に対する復讐心が込み上げてきた。



 弟と両親が埋まっている墓の前で、私は誓った。泣かなかった。ただ。復讐心に燃えていたのだ。


「絶対に、妖怪を許さない」


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「……妖怪と人間は……共存できるはずですから。私は空庵さんを殺しません。だから……私を、妖怪を信じてください」

「……ふざけるな!」

 どうして分かってくれないのだろう……私は、こんなにも考えて、苦しんで、悲しいのに。

 また空庵さんは矛を振り回し、私の足を抉った。私は体勢を崩し、そこに空庵さんがトドメを刺そうとした時だった。


 何かが聞こえた。


 ぐぁー、ぐぁー、という烏のような鳴き声。


「……これは!?」

 周囲に響くその鳴き声に、空庵さんが敏感に反応していた。私は何のことかわからず、周囲を見渡したが、やはり何のことかは分からなかった。

「くそっ……こんなときに」

「空庵さん! いったい……」

 聞こうとしたときにはもう遅かった。木々の葉がざわめき、何か強烈な気配を感じている。鳴き声と葉のざわめく音が混じり、静かだった山は騒音を奏でている。そのとき、急に黒い何かが現れた。


 うずくまりながら目を見開く空庵さんの後ろからそれは現れた。木々をかき分け、風が吹き、私はそこから剣が振り下ろされるのが分かった。


 空庵さんの背中が斬られ、黒い影が現れた。


「ぐああああ……っ!」

 空庵さんは悲鳴を上げた。背中からは血が溢れている。その場に倒れこみ、呻き声を上げる。

「ぐぅ……なん……だ……?」


 現れた黒い影。それは、烏天狗だった。


「烏……天狗……!」

 空庵さんがうつ伏せに倒れながら言う。

「こんなときに……どうすれば……」

 私の体は傷ついていたが、まだ戦うことはできた。勝てるかどうかは分からない。だが、ここで殺されるわけにはいかない。

 よく見ると、その烏天狗は何かがおかしい。顔が……歪んでいるような……

「あいつ……まさか……!」

 空庵さんが何かに気づいたようだが、私もあることに気づいていた。


 あの烏天狗、片目が見えてない。


 烏天狗はぐぁー、と鳴くと、その剣で私に襲いかかってきた。私はそれを咄嗟に避ける。だが足の傷口が痛み、体勢を崩す。

 私は傷ついてない方の足で、烏天狗の足を払った。烏天狗は倒れ、剣を落とす、その間に、私は体勢を立て直した。

 私は思い出す。おばあちゃんに教わったことを。


『そうじゃの。足首の角度をもう少し、こう、調整して蹴れんかのう。そして体全体を使って。そうすればもっと強くなるはずじゃ』


 烏天狗が体勢を立て直した瞬間、それを思い出してあの感覚を思い出し、烏天狗の脇腹に思い切り蹴りを入れた。

 グァー、と烏天狗が悲鳴を上げながら、吹き飛ばされる。その体は木に当たり、そこの根元に落ちた。

 よろよろと烏天狗は立ち上がると、またグァーと鳴き声を上げ、飛び立っていった。どうやら、撃退できたようだ。

「はぁ……はぁ……」

 私が最初に気にかけたのは、空庵さんだった。背中を斬られ、重症を負っている。私は近寄り、話しかける。

「空庵さん。だ、大丈夫ですか?」

 空庵は苦しそうな顔をしながら言う。

「まさか……妖怪にやられるとは……」

 不意打ちといえど、妖怪に攻撃されたことは精神的にも嫌だったらしい。悪態を吐いている。

「そして、妖怪に助けられるとはな……」

 私は空庵さんをじっと見つめる。私は空庵さんを助けた。それを自覚した。

「うぐぅ……メイリン……お前は……妖怪なのに、どうして私を助ける……?」

 空庵さんが私に聞いてくる。私はすっと答えた。


「妖怪は人間を殺す、なんて、誰が決めたんですか」


「そう、か……私は、妖怪から大事な人を守るために、強くなった。そして……復讐するために……」

 空庵さんは続ける。

「メイリン、お前も……何か、大事な人を守れるように……強く……」

 そこで空庵さんは気を失った。私はそれをじっと見据えていた。


------------------------


 気がつくと、私は村の家に居た。

 近くには医者が居て、私は動こうとするが、背中に痛みが走る。

「ぐぅっ……」

 私が呻き声を上げると、医者が気づいたようだ。

「おお、空庵さん、目を覚ましたか」

 医者が話しかけてくる。私は一体何があったのか分からなかった。

 妖怪に斬られて、メイリンに話しかけて、それで私は死ぬはずだった……

「なんか赤髪の少女がな、大人のお前さんを運んできたんだ。なんて力持ちなんだろうな。もしかしたら妖怪だったのかもしれんな」

 医者は「はっはっは」と笑っている。その通り、赤髪の少女というのはメイリンのことだろう。妖怪であるメイリンに、私は命を救われたのか。


 そうか、メイリンは早速、私を守ったのか。


 私は寝ながら天井を見据える。妖怪、か。復讐に燃えていた。だが、復讐に意味はあるのだろうか? 私は妖怪に殺されそうになり、妖怪に助けられた。私はもう、何に復讐したらいいんだ?

 分からない。だが、私は迷いなんてなかった。


 守れる者は守る。


 師匠はメイリンを守った。そしてメイリンは私を守った。枝之助さんも……

 私はもう一度、メイリンの言葉を思い出した。


『妖怪は人間を殺す、なんて、誰が決めたんですか』


 そうだな……その通りだ。

 だが私は、弟を、家族を殺した妖怪どもを許さない。

 メイリン……お前には一つ、貸しが出来たな。


 妖怪に、貸しか。


 私は無意識に、なぜか笑っていた。

------------------------


 私は空庵さんを守ったはずだ。

 そして、これからも人間を、妖怪を、守っていく。

 誰だって、共存は可能だから。

 私の旅は続く。どこまで続くかは分からない。だけど、どれだけ長い旅になろうと、私は今日という日を忘れない。



 そう、泣いて笑って、大きなものを得たこの今日を。


……

…………

………………



 気がつくと、土砂降りの雨は止んでいた。

 空は既に晴れ上がっていて、辺りには水たまりができている。陽の光が水面に反射し、少し眩しかった。

 人間との共存。私は今、それができているだろうか。

「美鈴、傘持ってきたんだけど……雨は止んだわね」

 後ろから声をかけられる。その声の主は、白い髪を編んでいるメイド服姿の女性、咲夜さんだった。

「……咲夜さぁん」

 私は咲夜さんに抱きついた。なぜか、急に抱きつきたくなったのだ。それだけ。

「えっ、きゅ、急に何!?」

 咲夜さんは頬を赤らめながら驚いている。傘は地面に投げ出され、少しだけ泥がはねた。

「咲夜さぁ~ん、ありがとうございます~」

「だ、だからって抱きつかなくても!」

 咲夜さんは人間。私は妖怪。お嬢様も妖怪で、どこぞの巫女や魔法使いも人間。

 この幻想郷では、妖怪と人間の共存ができている。それがただ、嬉しい。

 そして気がつくと、空には虹が架かっていた。


 あの時と同じ。雨上がりの虹。


 人と同じで、空が泣いたあとには、空が笑う。それが虹。

 ちぃちゃんと見た虹を、私は忘れない。そのときと同じ虹を、私は咲夜さんと共に見ている。そう、人間と。

 その時、来客があったようだ。門の前に、一人の来客が立っている。

「……来客のようね、美鈴」

 そう、私の出番。その来客は、見たことがない。なら、私は門番としてここを守る。

「私に任せてください、咲夜さん」

 咲夜さんから離れ、その来客の前に対峙する。守るために。大事な人を守るために。

「お前が美鈴か?」

 来客が聞いてくる。そう、私は美鈴。


「ええ、私が美鈴(メイリン)です!」


 私の元気な声は、その虹が架かる雨上がりの晴空にどこまでも響き渡った。


Fin
どうも、初めましての方が圧倒的に多いでしょう、えんたーです。
今回、創想話では初投稿となりました。雨上がりの晴空、楽しんでいただけだでしょうか。
テーマは「妖怪と人間の壁」、そして「守る」です。そのテーマに沿ったSSになってればいいなと思っています。
制作期間は大体3ヶ月ですね。成果が出てくれると嬉しいです。
あとがきが長くなってもアレなので、手短に終わらせましょうか。
ここまで読んでくださった読者様、読んでいただき、ありがとうございました。
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コメント



0.560簡易評価
2.70名前が無い程度の能力削除
物語の展開にちょっと不満。もう少し削れたのではないかなと。点数は不満分削って期待値込みで。
4.100名前が無い程度の能力削除
承と文の量がないせいで説得力が無いです
この設定この展開ならあと二倍は欲しい
例えば千枝ちゃんあたりは急な心変わりが意味不明でした。まどかマギカの杏子を見ている気分。
弟殺された奴は存在する必要がないと思います。あるいはもっともっと増やし、もう一人の主人公のようにする必要があると思います。説明不足の蛇足でした。
ただ、疲れてきたのか知りませんが、幻想入りら辺全てをばっさり切ったのはありだと思います
良い落差ができたと思いました
と思ったらこれひょっとして幻想郷の中?どっち?漬物好きなんですか?
長編過去シリアスというジャンルが好きなので応援します
6.70愚迂多良童子削除
見た感じ、日本の話ですよね?なのにメイリンって名前をつける所に違和感がありました。
幼少の美鈴の出生やその後が明言されていないため、幼少の美鈴と現在の美鈴が結びついていないように思えます。
いっそのこと、幻想郷入りまでの過程を書いた長編にしてしまったほうがいいんじゃないかと。

誤字報告
>>烏天狗
鴉天狗
12.20名前が無い程度の能力削除
話は悪くないんですけど芯がガタガタで背景もぼやけすぎてて何か変でした。
15.70名前が無い程度の能力削除
1クールで放送する内容を無理矢理1話分に縮めたOVAを見てる気分でした
もっと長くしても良いのでしっかりとした文章を読みたかったですね
とりあえずアクションパートは今の倍以上ないと燃えません