せまい教室の中で、一人の女性の声が響く。
椅子に座る生徒達の頭を通り越して、その澄んだ声は教室の後ろに一人で立っている僕に届く。僕は浴衣に革靴という奇妙な姿で授業を参観している。
「…であるからして、古代日本では託宣の儀式において巫女が踊りを踊ったと伝えられており…」
話を続ける彼女を見ながら、それにしても不思議な帽子をかぶっているものだと、つくづく思った。青を基調とした丈の長いワンピースは彼女の淡い色の髪とよく合っているし、また聖職者として清廉な印象を受けた。
だがあの帽子の奇妙な形は何だ? この「幻想郷」とかいう世界では教師はあの帽子をかぶらないといけない決まりでもあるのだろうかと、冗談めいたことを考える。この「幻想郷」に迷い込んでから今日で二日目だが、帽子のことは未だに彼女に聞けずにいた。
彼女はしゃべるのを区切るとその場で体をくるりと回し、手に取ったチョークで黒板に何か書き始める。漢字はやや角ばっているが、ひらがなは丸っこい字だ。青の混ざった白っぽい髪が背中でかすかに揺れている。
古代日本における神託の儀式では巫女が一心不乱に踊りをささげ、興奮からしだいに一種のトランス状態に落ちいる。そこで自らの身に神を舞いおろし神がかり、巫女は神のご神託を下す。そんな内容だ。
彼女は板書を終えると満足した表情でまた生徒たちと僕に向き直り、再び古代祭祀の話を続けるのだった。
うしろからでは生徒たちの表情はうかがえないが、彼らの心中を察することは容易い。二十を超える生徒のうち、半数ほどが顔を下に向け、大粒の稲穂のように頭を垂らしているからだ。
他にも鉛筆を手のひらでくるくる回す生徒や、雪の降る景色を見ながら頬杖をついている生徒などもいる。要するに、真剣に授業に集中しているものは一人もいない。
無理もない。つまらないからだ。上白沢慧音、と昨日名乗ったこの女性の授業は、率直に言って退屈そのものだった。彼女の講義をする声は抑揚がなく、トーンに変化がないため耳を素通りしてしまう。僕の大学で「死にかけ」というあだ名がついた白髪の教授がいるが、その七十代の老人よりも睡眠効果が高い授業だろう。
話の内容は筋が通っていて論理的だが、あまりにも難解だ。大学生の僕でもやっとついていけるぐらいなのに、今この教室にいる生徒は小学校の低学年から高学年ぐらいの児童だ。理解できるはずがない。
また一つ、小さい坊主頭が静かに机にくっついた。彼もまた、授業についていけず脱落してしまったようだ。これで寝ている生徒は13人に増えた。
最初は生徒たちから物珍しそうに見られていた僕も、彼らの意識を繋ぎとめるのには役にたたなかったようだ。
ある日突然知らない男が授業の見学をするなど不思議であるし、生徒たちは最初好奇心と懐疑の目で僕のほうを盗み見していた。しかし、それも最初の30分で終わった。残念ながら僕は何の面白みもない、ただの地味な男なのだ。二十二歳のつまらない男など、子どもの興味をそそるには力不足のようだ。
仕方なしに、僕は窓の外の雪を眺めた。しとしとと降りしきる雪を見ながら、僕はまだ迷っていた。慧音さんが昨日の夜話してくれたこと、つまりここは「幻想郷」という妖怪の住む世界である、という言葉を信じるべきかどうかを。じっと思考の波に漂いながら、そういえば昨日からまだ一度も雪がやんでいないなと、ふと気づいた。
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街の遠くのほうから、大きな鐘の音が聞こえた。慧音さんが後で教えてくれたのだが、正午を告げる鐘らしい。その音を合図に慧音さんは授業を切り上げ、生徒たちは机の上に広げた書物をカバンに仕舞った。
「雪が積もっているから帰り道は十分気をつけるように。分かっていると思うが、余計な寄り道をしたり買い食いをするんじゃないぞ。以上だ」
慧音さんがそう告げると、生徒たちは起立して先生に礼をし、思い思いにグループに分かれて教室を出て行った。彼らが手を振って教室を去る時、僕は初めて慧音さんが笑うところを見た。
それにしても、まだ正午なのにもう学校は終わりなのだろうか。生徒達が全員教室から出て行った後、僕は教卓に近づいて彼女に聞いてみた。
「たしかに私としては教える時間が足りないとは思う。でも、働かないといけないからな」
「え? 誰がですか?」
「あの子たちがだよ。帰って昼食をすませたら、家の手伝いや赤ん坊の世話をするんだ」
「でも、あの子たちはあんなに小さいんですよ? 5,6歳ぐらいに見える子どももいましたが…」
「ここでは子どもも貴重な労働力だからな。それに、あの子たちはまだ余裕のある家の子どもなんだ。貧しい農家だと、寺子屋に子どもを通わせる余裕もないんだ。そういう子は、朝から晩まで毎日労働をしなければならない」
学校に通わず毎日畑で鍬をふりまわす幼年者の生活をイメージしようとしてみたが、できなかった。成人しても学生でいる僕には、どこか遠く離れた世界の話としか聞こえなった。いや実際、慧音さんの言葉を信じるなら、ここは遠く離れた世界らしいのだが。
僕の沈黙を静かな抗議と捉えたのか、彼女は言葉を続けた。
「そういうものだよ、ここは。君の世界ではどうなっているか分からないが、この里の人間は小さい子どもから老人まで、みんな社会のためによく働いている」
慧音さんが言った最後の言葉が、僕の胸にじわりとのしかかった。あんなに小さい子どもが世のために働き、人の役にたっている。そう考えると、焦燥の念がふつふつと沸いてくる。
「さぁて、食事にしようか。大したものは作れなかったが、君の分も用意してきた。二人分の弁当なんて普段作らないものだから、あわてて詰め込んだんだ」
そう言いながら彼女は、二つの弁当箱を包んだ風呂敷を教卓の上に広げた。彼女が大したものを作れなかった理由を僕は知っている。昨日の夜、ロクに眠る時間がなかったからだ。僕のせいで。
教卓に二つの椅子を引き寄せ、僕たちは並んで座った。彼女から差し出されたお弁当箱のふたを開けると、彼女は謙遜を言っていたに違いないと、そう確信した。肉料理はなかったが、野菜のおひたしやらフナの甘露煮やらひじきの煮物やらが所狭しと並んでいて、とても片手間で作れるようなものではなかったからだ。
僕は丁重にお礼を述べ、彼女と食事をとることにした。せまい教室だが、二人しかいないと急に広くなったように感じられた。外からは既に子ども達の声が聞こえなくなっており、雪だけが音もなく舞っていた。雪特有の静寂があたりを包む。パチパチと鳴る火鉢の炭は、かえって静寂を強調した。
「それにしても今朝は驚いたよ。私の授業を見学したいって、急に言い出すんだから」
授業の時とは全く異なるリラックスした声で、彼女はそう言った。もっとも僕は寺子屋を見せてくれとは言ったが、授業を見学したいとまで言った覚えはない。彼女は思いこみが激しいのかもしれない。
「すいません、ご迷惑でしたでしょうか?」
「いやいやとんでもない。いささか、いつもより緊張したがね」
彼女はそう言うと、少しからかうような笑みを浮かべた。今のはあくまで冗談だと、表情で語っているようだった。間近で彼女の顔を見ると、そのまつげの長さに自然と目がいった。石炭ストーブが近くで焚かれているせいか、彼女の頬は昨日の夜よりもいくらか赤みを帯びている気がした。その赤みは、彼女の顔にやや童顔の印象を与えている。
僕は彼女が作った里芋の煮ころがしを口に運びながら、昨日から今にかけて起こった出来事を頭の中で整理することにした。今自分が何故ここにいて、自分が何をしているのか、結局のところ僕にも分からないからだ。
窓を見ると、雪はやや小粒になり勢いも弱くなっていた。夜には止むかもしれない。
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ついていないな。
缶コーヒーを買う時に自動販売機の下に落としてしまった百円コインを思い出しながら、僕は一人でそうぼやいた。
僕は黒いコートを着込んで品川駅ホームのベンチに座り、電車を待っていた。十二月二十三日、東京にしては珍しいほどよく雪が降る夜だった。今年はホワイトクリスマスになりそうねと、ベンチの前を横切る女性が嬉しそうに携帯電話でしゃべっていた。
僕は帰り道にコンビニで傘を買わなかったことを後悔した。おかげでコートが雪に濡れ、冷たく湿っている。面接を受けた会社から駅まで、僕は傘もささずに雪空の下を歩いた。
今日の採用面接もたぶんダメだろう。何十社も落ち続ければ、僕でもそれぐらいの空気は読めるようになる。カイロがわりに手で転がしていた缶コーヒーは、とうに冷たくなっていた。
教員採用試験に失敗して数カ月。民間企業に目標を切り替え就職活動をしてきたが、それでも教師になりたいという気持ちを消すことはできなかった。世間にはそんな宙ぶらりんな男を受け入れる余裕のある会社はない。気がつけば、僕にはもう卒業まで三カ月しか残っていなかった。
このまま民間企業を受け続けるべきか、あるいは思い切って留年し、来年にもう一度教員試験を受けるか。だが、どちらにしても自分が勝利をつかみとる姿がイメージできなかった。僕は負けることに慣れ過ぎた。
明日は大学に行って、今日の面接の結果を就職課に報告することになっている。だが、それで一体何がどうなるんだ? 最近はもはや、就職課の職員さんすらも敵のように見えてきた。かと言って親が待つ家に帰るのも苦痛であり、誰が敵で誰が味方なのかもう分からなった。
それにしても、電車が遅い。あと5分で到着するというアナウンスがあったはずだが、もうだいぶ待っている気がする。疲れがどっと出て、このままだと眠ってしまいそうだ。瞼が重い。
あれ、さっきから妙に静かだな。帰宅ラッシュは過ぎたとは言え、まだ深夜と呼ぶような時間でもないのに人の気配がしない。顔を上げようとした時、僕は視界がぐらりと歪んでいくような眩暈を覚えた。
線路を挟んだ向かいのホームに表示されているダンス教室の広告の絵がぐにゃりと曲がった。その色彩が互いに混じり合って、最後は一つの黒い色に溶けて消えていくような、奇妙な感覚が起こった。ああダメだ、眠くてたまらない。瞼が落ちる時、視界の隅で一つの目玉が見開き、僕を見たような気がした。
どこからか流れる歌声で、僕は意識を取り戻した。それは歌声というにはあまりにもキンキンとする女性の金切り声であり、悲鳴のようにも聞こえた。どうやら疲れて寝てしまっていたらしい。
奇妙なことに、自分の体が仰向けに横になっていることに気付いた。背中に冷たい雪の感触がする。おかしい、自分は駅のベンチに座って眠っていたはずなのだが。
上半身を起こし、あたりを見渡そうとして首を左右にひねった。そこで一つ、おかしなことに気がついた。目を開けているのにあたりが真っ暗で、何も見えないのだ。自動車のトランクの中に閉じ込められたら、これぐらいの完全な闇になるのだろうか。視神経の全てが一瞬にして切断されたような、そんな黒い光景だった。
たまらず目をこすっていると、遠くにあった歌声が急激に近くなるのを感じた。姿を見ることはできないが、その歌い主はやや高い上空から急速に降下し、こちらに接近しているようだった。
歌い主はそのまま高速で僕に近づき、僕の右腕と接触するぐらいに地面すれすれを通り過ぎて、後方のはるか上空までまた飛び上がったようだ。自由自在に空を飛んでいるとしか思えないような動きだった。
僕を通り過ぎる時、台風を思わせるような激しい風が舞った。風があまりに強いせいで、僕は起こしていた上半身をまた地面の雪にうちつけてしまった。
風がやむと同時に、今度は右腕が急に熱くなるのを感じた。沸騰したやかんの底を腕に押しつけられたような、そんな熱だった。とっさに左手で右腕をおさえると、コートが破れているのが分かった。それだけでなく、ぬめりとした液体の触感があった。
僕はそこで初めて、歌い主に刃物で斬りつけられたのだと気づいた。痛覚もようやく自分の役目を思い出したかのように、急に激しく僕の右腕をかけめぐった。あまりの激痛に、雪の上で僕はでたらめに身をくねらせ、もがくばかりだった。
過呼吸のように息が荒くなり、口の中が乾いて血のような味になる。かつて高校の授業でハーフマラソンを走っている途中で貧血になり倒れてしまったことがあったが、その時の口の中もちょうどこんな味だった。鼓動があまりに激しいため、心臓の音が耳にまとわりついて離れなかった。
そんな僕を嘲笑うかのように、歌声がまた猛烈な速さで僕に向かって空から駆け下りてきた。今度は心臓を一突きされるかもしれない。それも見えない相手に。死の本能的恐怖に心が支配され、僕は逃げることもできなかった。元々何も見えないのに、無意識のうちに僕は目をつむった。
しかし、何も起こらなかった。女性の歌声は消えていた。何事かと思いおそるおそる目をあけると、僕は視力が回復していることに気がついた。どうやら僕はどこかの森の中にいるようだった。静かな雪が夜の森に降り積もっていた。ここはどこだ?
雪のまぶしさに耐えながら目の焦点をあわせると、僕のそばに二人の女性がいた。
一人は髪が桜色で背が低く、見間違えでなければ背中に鳥のような羽根が生えていた。手を見ると、毒々しい紫色の爪が矢じりのように鋭く伸びていた。
もう一人の女性は青いワンピースのドレスを着た背の高い女性で、頭に家みたいな形の帽子をのせていた。こちらの女性は少女から僕をかばうような位置に立っており、少女の両腕を強く掴んでいた。
この状況から推測するに、僕を襲ったのは爪が長い少女で、帽子の女性は僕を助けてくれたのだろうか? どうしてあの小さい少女は僕に襲いかかったのだろう? それに、少女の背中にある羽根みたいな物は何だ? 僕は仰向けに倒れたまま、朦朧とした目で二人を眺めていた。二人は取っ組み合いの状態のまま何か言い合いをしたかと思うと、少女のほうが女性からさっと離れて後ろに下がった。
すでに意識が混濁していた僕は、出血と寒さによってここで力尽きた。意識が遠のき、僕は気絶した。
体が激しく揺れていることに気づいて、僕は目をさました。またもや雪の中に倒れた僕は、誰かに体を激しく揺すられていた。
先ほどの帽子の女性がそばで膝立ちになっていて、仰向けに倒れている僕を見下ろしていた。僕が目を覚ましたことに気付いた女性は、よかったと安堵の声をもらした。その一言は、僕の気持ちを少しだけ落ちつかせた。
女性はワンピースの胸のところに巻いていた赤いリボンを手に取り、僕の右腕の付け根あたりに強く巻き付けた。やはり先ほど少女から助けてくれたのはこの女性だったようだ。僕を襲った少女はどこに行ったのだろう?
まだ意識が朦朧とはしていたが、僕は何とか声を絞るようにしてお礼を述べ、救急車を呼ぶようにお願いした。しかし女性は何だか困ったような、要領を得ない表情をしている。なぜだろう、携帯が手元にないのだろうか。
仕方なく僕はポケットを探り、スマートフォンを取り出した。しかしまずいことに、ここは圏外だった。そうか、それでこの女性は困っていたのか。だが、それではどうすればいい? こんなところに公衆電話があるとは思えない。僕はもうほとんどパニックになった。どうやって病院まで行けばいいのだろう? そもそもまず、ここはどこだ?
疑問が次々と湧き出るにつれ、逆にだんだん意識が鮮明になってきた。僕が右腕を投げ出していたところの雪が円を描くように赤く染まっていることに、この時初めて気づいた。その濁った赤黒い色が僕の体から出た血であるかと思うと、改めてぞっとした。
そんな僕を尻目に、女性はやはり外から来た人間だな、と呟いた。外から来た人間は必ずその金属の板(僕のスマートフォンをさして女性はそう言った)を凝視して不安な顔をしているからすぐに分かる、と女性は僕に言った。「外」とは何のことだ?
私は医者ではないがそれぐらいの傷なら薬で治せる。私の家に来るといい。女性は僕にそう告げた。思わぬ提案に僕はひどく驚いたし、渡りに船のような申し出だった。しかし僕は首を縦には振れなかった。そこまでお世話になってしまうのは気が引けるし、第一こんな夜に見知らぬ女性の家にお邪魔するのは非常識だ。それに正直言って、この女性が本当に信頼できるかどうか、いまいち分からない。しかし女性は僕の断りを聞かず、いいからついてきなさいと一人で歩き始めた。こんな森の中で一人にされたらそれこそお手上げなので、結局僕は不安と心細さに負け、立ちあがって女性の後をついていくことにした。腕時計を見ると、ちょうど夜の10時だった。
雪が降りしきる森の中を革靴で歩くのは困難だった。相変わらず腕の痛みと熱はあったが、応急処置のおかげか出血はほとんど止まり、だいぶ楽になっていた。
こんなに血で汚れてしまっては、もうこのコートとスーツはダメだろう。就職活動のために買った安物なので惜しくはないが、余計な出費は痛かった。女性はこちらを振り返ることなくスタスタと前を歩いているので、ここはどこなのか、あなたは誰なのか、先ほどの出来事は夢か現実なのか、それらの疑問をぶつけるタイミングが見いだせなかった。
ただでさえ視界が暗いのに、靴に雪がへばりついて歩きづらいことこの上ない。この女性はどうして何事もないかのようにずんずん前へ進めるのだろう。それに、半袖のワンピース姿で寒くないのだろうか。頭にかぶっている変な帽子は何だろう。
そんな疑問をいだきながら女性の後ろを歩いていると、女性は振り返ってそういえば腹は減っていないかと僕に尋ね、ポケットから干し芋を二つ出して僕にくれた。あまりに唐突なので驚いたが、ふざけているようには見えなかった。変わった人だなと、初めてはっきり思った。全く腹など減っていなかったが、とにかく今はいいなりとなって左手で受け取った。一つはコートのポケットの中にしまい、もう一つのほうにかじりついた。干し芋の甘みが、自分は今夢を見ているのではないということを教えてくれた。
どれぐらい歩いたのだろう。やがて、人工的な明かり見えてきた。やっと人の住む町についたとほっとしたのも束の間、僕はまた途方にくれることになってしまった。足を踏み入れると、そこには時代劇で見たような古い町並みが広がっていたからだ。
歴史の教科書に載っているような木造建築ばかりが建っていて、高い建物がないため町全体が平べったく見えた。どこを見ても鉄筋コンクリートでできた建物はなく、全ての家は木と石でできていた。明治時代を扱った大河ドラマで、ちょうどこういう町並みが出てきた気がする。狐にでも化かされているのかと、僕は呆気にとられてぽかんと立ちつくすだけだった。駅にいた時よりも、雪は強くなっていた。
女性の住まいは、一階建てのやや小さめの家だった。竹の垣根が家を囲っていて、屋根は茅葺きだった。玄関は土間になっていて、畳の居間には黒い漆塗りのちゃぶ台があり、その横には木製のタンスと藍色の火鉢があった。本棚には巻物がきれいに整理されて積まれており、壁に目をやると昔話のおじいさんが着るような蓑笠がかかっていた。台所を見ると土作りの大きなかまどと七輪があり、木でできた桶には水がはってあった。
要するに家の中までまるっきりの時代劇だった。タイムスリップでもしたのだろうかと、いよいよ疑いたくもなった。
僕はちゃぶ台に座らされ、コートとスーツを脱いだ。腕をしばっていたリボンは女性に返した。血のシミがついていて、非常に申し訳なかった。女性はそのシミを見ても嫌な顔一つせず、僕のワイシャツをめくった。傷口は意外と小さいが、普段血を見慣れていない僕は傷を直視できなかった。
女性は怪我の手当てに慣れているようだった。たんすから薬草と思われる植物を取り出して乳鉢ですりつぶし、慣れた手つきで僕の傷口に塗ってくれた。身近にいる人がよく怪我でもするのだろうか。
手を動かしている間、女性は僕に色んな事を話してくれた。上白沢慧音という名前や、教師をしていることもこの時教えてもらった。助けてもらった人が教師であることを知り嬉しくなった僕は、つい自分も教師を目指していることを言ってしまった。僕はすぐに後悔したが慧音さんは「ほぅ」と驚いた声を出し、ずっと堅かった表情が一瞬だけ柔らかくなった。
だが、問題はその先だった。曰く、ここは「幻想郷」と呼ぶ世界であること。人間だけでなく、妖怪や妖精などの異形が住む世界であること。さきほど僕を襲った羽根の少女も妖怪であり、僕のような余所者が襲われる事件がたまにあるということ。そして残念なことに、僕が元の世界に帰れるかどうかは分からない、とのこと。
包帯が巻かれ、傷の治療が終わった。ワイシャツを元に戻しながら、さてと僕は考えた。腕時計を見ると、すでに夜の一時を回っていた。
慧音さん(そう呼んで構わないと彼女は言った)は嘘をついているようには見えなかったが、こんな話を素直に信じろいうのは無茶な相談である。たしかに僕に襲いかかった羽根の少女は、空でも飛んでいるかのような動きをしていた。あの時私の目が全く見えなくなっていたのは、少女の妖怪としての能力によるものだとも慧音さんは述べた。
私も妖怪の一種であると慧音さんが真顔で言い放った時は、さすがに頭がくらくらした。僕が知る妖怪というのは目玉の親父とかぬりかべとか、そういう類いのものだ。
しかし彼女の話しぶりは真剣そのものであり、からかっているようには見えなかった。あまりにも彼女の口調が真面目なので、僕はこれからどうやって帰ればいいのかという、今最も切実である問題が頭から吹き飛んでいた。
だから慧音さんの唐突な誘いに僕はひどく面くらった。この里に宿などないし君は怪我人だ。今日はこのままこの家に泊まりなさいと。
当然僕は固辞したが、彼女は僕の言うことを聞かなかった。ここまで世話になっておいて、なおかつ初対面の女性の家に泊まれるほど、僕は度胸のある人間ではない。しかし彼女は非常に頑固な性格らしく、この大雪のなか怪我人を外にほっぽり出せるかと、言って聞かなかった。このままだと椅子にでも縛られかねないぐらいの勢いだった。
まずいことに、携帯の電池が切れていた。私は「電話」とやらを持っていないし、この家には「こんせんと」なるものもない。僕の家族に連絡しようとしても、彼女はその一点張りだった。
押し問答の末、とにかく体を洗って頭を整理して来なさいと言ってタオルと浴衣を手渡され、結局僕は折れた。
実際、僕は疲れ切っていた。巻き込まれることに。傷つけられることに。
その浴衣は自分が昔着ていたものであり、女物なので申し訳ない。すまなそうに彼女はそう言葉を添えた。今さらそんなことを気にかけるほどの気力はなかった。もう何でもいいからとにかく今日は休んで、どうすればいいか明日また考えよう。そう考えながら脱衣所に向かった。
包帯を濡らさないように気をつけて湯を頭にかぶりながら、何故慧音さんはここまで僕に優しくしてくれるのだろうと思った。怪我人とは言え、見ず知らずの男にここまで親切にする理由など一つもないはずだ。彼女は自らを教師と名乗り、村の学校で勉強を教えていると言っていた。
であるならば、彼女の度をすぎているまでの親切は教師という職から来るものなのだろうか。僕は大きく顔を上げ、湯気がふわりとのぼっていく天井をぼぅっと眺めた。果たして僕は彼女のようになれるだろうか。
浴衣のサイズはちょうどよかった。僕は背が低いほうだし、彼女は女性としてはかなり背が高い。広げてみるとこの浴衣は濃い紫色に控えめな白いストライプという落ち着いた色調であり、男が着ても問題ないんじゃないかと、服装に興味のない僕などは思ってしまう。
だが今になってやっと気づいたのだが、浴衣の帯もしっかりとした女性用だった。温泉旅館の女将みたいな太い帯なので、さすがにこれを身につけるのは恥ずかしいと、僕はネクタイを腰にぐるりと一周まきつけて即席の帯とすることにした。
浴場から戻ると、彼女は縁側に一人で腰をおろしていた。彼女もすでに浴衣に着替えていた。正座の姿勢から足を少し崩したような格好で、上半身を庭のほうへ軽くねじって外を眺めていた。彼女の浴衣は生地が真っ白で、ごくうすいピンク色の桜が控えめに描かれていた。
彼女の顔は陶磁器の地肌のように色白だった。彼女の横顔と雪に覆われた庭との間の境界がぼやけて混じっていくような、二つの白が曖昧に重なり合いすぅっと一つになっていくような、そんな錯覚を覚えた。
居間のちゃぶ台が片づけられていて、かわりに布団が一つ敷いてあった。たぶん僕のためのものだろう。
明日は晴れるだろうかと、雪を眺めながら彼女は呟くように言った。僕は天気よりも彼女がまだ頭にのせている帽子のほうが気になって仕方がなかった。
やわらかい布団の中で、僕は昔の夢を見た。小学一年生の秋、学芸会でかぐや姫の劇が行われた日のことだ。体育館のステージの脇にある控室で、僕は運動服の上から浴衣を着るという衣装で出番を待っていた。
僕はかぐや姫に求婚する貴公子の一人という役で、その貴公子は踊りが好きという設定だった。かぐや姫にそんな登場人物はいないはずだが、それは担任の先生の脚色だった。劇を盛り上げるため先生は脚本に色々なアレンジを加え、踊りの振り付けすら自分で考案した。まだ先生になったばかりの新米で、主役のかぐや姫の衣装を自ら作り上げてしまうような熱意あふれる女性教師だった。
控室からステージを覗くと、かぐや姫が成長して大人になるところまで劇が進んでいた。そろそろ僕の出番のはずだ。「美しいかぐや姫、僕と結婚してください」とセリフを言い、そしてかぐや姫役の女の子と二人で踊り、「たとえ結婚できなくても、あなたと踊れて楽しかったです」と最後にセリフを言って舞台袖に退場する。それが僕の役だった。
求婚を断られても楽しく踊りを舞って去るという陽気な役どころだが、かぐや姫から何を言われて求婚を断られるかは忘れてしまった。
かぐや姫、お前さんに会いたいという王子様がいるそうだよ、おばあさん役の女の子がそう言った。ついに僕の出番だ。先生は不安を残す僕の背中を軽く押し、大丈夫よ、いってらっしゃいと励ましてくれた。そうだ、僕は今日のためにたくさん特訓したんだ。大丈夫だ、できる。僕は自分にそう言い聞かせた。
僕は大股で歩いてステージに登場した。背景が描かれたボール紙から絵の具の匂いがする。図工の時間にクラス全員で描いた絵だ。ステージ上を照らすスポットライトの光が熱かった。客席が逆光となり、参観者の顔が影になって見えなかった。どこかに僕の両親も来ているはずだが。
おじいさんとおばあさんがかぐや姫から少し離れ、僕のために道を開ける。僕は一直線にかぐや姫に近づいた。保護者の視線が一斉に僕に向けられるような空気を感じ取り、鼓動が否応なく激しくなった。高揚と緊張、勇気と恐怖。
僕の精神は、まるでおもちゃがでたらめに放り込まれたおもちゃ箱のように感情がごちゃ混ぜになった。
かぐや姫は鮮やかな桃色の着物を身にまとい、膝まで届く長い黒髪のかつらをかぶっていた。そうだ、僕はセリフを言うんだ。僕のセリフは確か……
僕は血の気が引いた。胸をつららで刺され、心臓ごと凍りついたかのようだった。こともあろうに、僕は言うべきセリフを忘れてしまったのだ。「美しいかぐや姫」までは覚えているが、そこから先がどうしても思い出せなかった。バカな!舞台に上がるまではちゃんと覚えていたのに。何回も何回も練習して、頭に叩きこんだはずなのに。苦し紛れに、僕はなんとか「美しいかぐや姫」とだけセリフをのべた。だが、それで時間を稼いでも次のセリフが出てこない。
今にして思えば、当時ぼくは「結婚」なるものが理解できずどういうものか分からなかったため、言葉としてでなく「ケッコン」という音としてセリフを暗記していたのだろう。緊張と不安で、その音が脳から抜け落ちてしまったのだ。
どうすることもできず、僕はただ立ちつくしてしまった。次のセリフをしゃべらないまま固まっている僕を見て、かぐや姫の表情はしだいに曇っていった。不審そうに僕の顔を覗き、困ったような顔をした。その視線を浴びて、僕は顔がかっと赤くなるのを感じた。客席のほうからも、しだいにかすかなざわめきが聞こえてきた。鳥肌が立ってくるのを感じる。
何とかしなければ。何かしなければ。追いつめられた僕は、気づけば「僕と踊ってください」と大声で叫んでいた。
かぐや姫は困った顔つきになり、どうすればいいか分からないといった目つきで控室にいる先生の方を見た。焦燥や羞恥に支配されて僕はパニックとなり、気が動転してとっさにかぐや姫の手をとった。僕はかぐや姫と二人で踊ることになっていたので、せめて踊りをすることで劇を通常の流れに引き戻し、そこから劇を続けようと思ったのだ。
だがダメだった。僕が手を触れた瞬間かぐや姫は怯えた表情を浮かべ、反射的に自分の手を引っ込めてしまった。そのため僕はかぐや姫の手を握ることができずに手を空振ってしまい、踊ろうとして一歩下がり体の重心を大きく後ろに傾けていた僕は支えを失ってそのまま倒れてしまった。
後頭部に衝撃が走り、ドシンと鈍い音が耳に飛び込んだ。衣装が半袖だったため、右肘がすりむけて赤い血が滲んでいた。仰向けに倒れた僕の目に黄色く光るステージライトが飛び込んでくる。そのスポットライトがあまりにまぶしく、僕はとうとう泣きだしてしまった。
客席がとたんに大きくざわめいた。先ほどとは違い、今度は話し声の内容まで聞こえてきた。
一体どこの子かしら。かわいそうに。怪我してないかしら。
耐えかねて僕は声まで出して大きく泣いた。
すると先生が控室からステージに飛び出し、僕を起こしてくれた。そのまま僕を控室まで連れて行き、先生は他の生徒たちにこのまま劇を続けるように指示した。
僕の次にかぐや姫に求婚をする貴公子の役を演じる男の子が、宝石を模したビー玉をたくさんつけた木の枝を持ってステージに出ていった。劇は何事もなかったかのように再開された。
控室の一番奥で、先生は僕のすり傷の手当てをしてくれた。それでも僕の涙は止まらず、椅子に座る先生の膝にしがみついて無言で泣きじゃくった。先生は僕の頭を軽くなでて、ただ一言大丈夫だからと言った。落ち着きを取り戻した僕はいつしか寝てしまい、結局劇が終わるまで僕と先生はずっとそのままだった。
時が流れても、その日のことは一度も忘れなかった。いつの日からか、僕は先生みたいな教師になりたいと考えるようになっていた。泣いている僕をしっかり抱きとめ、助けてくれた優しさ。無償の慈しみ。それらの印象が僕の胸に強烈に刻まれ、僕も大人になったらそんな優しさで子どもを助けたいと、決意したのだった。
そうだ、思いだした。慧音さんはこの先生と似ているんだ。顔つきや雰囲気がそっくりだ。あの日の夢を見たのも、それが原因かもしれない。
次の日も雪だった。あまり寝付けなかったため、六時には自然に目が覚めた。だがすでに慧音さんは起きていた。
縁側に目をやると、真新しい雪が庭につもって光っていた。台所に目をやると、窓から飛び込んできた雪の輝きが割烹着姿で立っている彼女を照らしていた。
彼女は朝食を作っているところだった。トントントンとリズミカルに包丁を動かしてホウレン草を刻む音は、なんだか無性に懐かしかった。
彼女に頼まれて、僕は新聞を取ってくるために外に出た。あくびをすると、雪の湿気をおびた冷たい空気が僕の口に入ってきた。郵便ポストを覗くと裏表2ページの一枚綴りの新聞があった。
「文々。新聞」という名前を、僕は聞いたこともなかった。地域限定のローカル新聞だろうか?記事に目を通すと、隅に注意書きが書かれていた。「今日は満月のため妖怪たちが興奮しやすく、気が荒くなると予想される。人間は本日の夕方以降は不要不急の外出を控え、妖怪との接触を避けた方が無難である」と。
僕はため息をついた。雪の寒さで息は大きな白い煙になり、体から出ていった。やれやれだ。「妖怪に注意」などと書かれた新聞なんて聞いたこともない。
ちゃぶ台に座って朝食を取っている時、寺子屋に行くから留守にする、と慧音さんは僕に言った。
てらこや? 僕は一瞬何のことか分からなかった。寺小屋!? あの江戸時代にあった、読み書きなどを子どもに教えていた施設のことだろうか。僕がそう聞くと、たぶん君が考えているのと同じものだろうと彼女は答えた。
私は寺子屋に行って授業をしないといけないから昼下がりまで出かける。君はこれからどうするか考える時間が必要だろうし、しばらくこの家にいてもかまわない。私が留守のあいだ外に出ても構わないが、くれぐれも人里から離れないように。森で妖怪に襲われても、そこまで私は責任をもてない。彼女の話を要約彼するとこうだった。
ふぅ、と僕は軽く息をついて居間の隅に置かれている僕のカバンに目を向けた。就職活動のために買った黒の合成ビニールのカバンで、かすかに僕の血のりがついていた。
スマートフォンは既に電池が切れている。テレビもパソコンもラジオもなく、唯一の情報源がファンタジーじみた新聞だけというこの状況で、僕はどうすれば自分の家に帰れるのだろう? 駅はどこですかと尋ねたところでまともな返答など返ってこないだろうと、それぐらいのことはもう僕にも分かっていた。では僕はどうすればいいのだろう?
朝食の片付けを手伝いながら、僕は思案にくれていた。
迷った末、僕は彼女のいうところの寺子屋に行こうと決めた。どうせ何もできないのなら、本当に寺子屋が存在するかどうかこの目で確かめてみたい。ここが「幻想郷」とかいう隔離された別世界であるという彼女の言葉が偽りであるか否か、判断をつける手がかりにしようと思った。
そのうえでこれからどうするべきか考えよう。今日は面接がない日だし、大学に一日行かないぐらい大したことじゃない。今は時間をかけてでも、この現実離れした状況を整理して把握する必要がある。
出かける準備をしている彼女に寺子屋が見たいと告げると、さすがに彼女も予想外の言葉にかなり驚いたようだった。彼女は青いドレスの上に蓑笠のみのをまとっていて、例の青い帽子の上から笠をかぶっていた。
その妙な格好のせいで僕はなんだかコントでも見ているような気分になった。東京の街中でこんな格好をした女性が歩いていたら、正気を疑われるか、テレビの撮影か何かだと思われるだろう。
彼女はそういえば君は教師志望だったなと呟き、今度は妙に納得したような表情を浮かべた。意外と表情が豊かな人なんだなと、そう思った。
彼女は押し入れからもう一つ蓑笠を取り出し、その浴衣だけじゃ寒いだろうからこれも着るといいと言って僕に手渡した。僕は昨日着ていたスーツに着替えるつもりだったのだが、彼女はここでも頑固だった。
あの服装じゃ街中で目立って仕方がないし、しかも破れている上に君の血で汚れているじゃないか。そう彼女に言われた。こういう時に彼女は絶対折れないということは昨日でよく分かったので、僕は黙って言うとおりにした。もうどうにでもなれ。
支度をすませた彼女の手には、唐草模様の風呂敷包みがあった。教科書が入っているのだろうか? 彼女は玄関で二つの傘を手に取った。傘はビニール製のものではなく、紙と竹で作られた古風な和傘だった。今さら僕はもうそれぐらいで驚かなかった。ここにきてビニール傘が出てきたほうがよほど驚く。どうやら僕は慣れつつあるようだ。
僕は彼女から一つ傘を貸してもらい、彼女の後ろについて門を出た。靴だけはさすがに昨日から履いている革靴にした。道には自動車が一台も走っておらず、誰もが徒歩で移動していた。通行人は誰もが僕たちと同じように蓑笠を身につけており、こちらはさすがに驚いた。
僕はみのにまとわりつく雪を払いながら、もし本当に寺子屋があったら、もし一生ここから帰れなかったとしたら、などと考えた。両親は今頃どうしているだろうか。
歩いている途中、和傘をさした少女が僕たちとすれちがい、慧音さんと軽く挨拶を交わした。紫色の長い髪を肩にたらし、ブレザーにミニスカートという現代風な服装をしていた。だがそれ以上に驚いたのは、彼女の頭部から兎の耳のようなものが出ていたことだ。カチューシャかヘアバンドのようには見えない。
勘弁してほしかった。僕はせめてもの抵抗として、そんな服で寒くないのかとウサ耳少女を心の中で心配してやることにした。
少女と別れると、慧音さんはふと空を見上げた。低空を覆う分厚い雪雲を見ているようだった。僕も彼女の視線を追うと、天狗みたいな高下駄を履いている少女が僕の視界を横切って雪空を飛んでいた。
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「……しかし、それでは子どもに想像力がつかないのではないですか? まずは子どもの自主性にまかせて学習意欲を自然に高めてから…」
「いや、想像力には土台となる前提知識が必要になる。やはり最初は一定レベルの知識をつけさせるべきだ。そのために…」
時計の針が午後五時を回ったが、僕と慧音さんはまだ教室にいた。すでに日はかなり傾いていた。
慧音さんはここまで長居するつもりはなかったらしいが、彼女も僕も時間の経過を忘れて喋り続けていた。昼食の時に二人の会話がふとしたきっかけで教育論の話題になったからだ。
彼女はこの二日間でよく分かったように頑固だし、僕は僕で教育者を目指して生きてきたのだから教育論については譲れない思想を持っていた。話していくうちに二人の間で共通する考えと、逆に相容れない理論があることが分かった。
一つの会話が別の会話を生みだし、そこで出た意見はまた別の意見とぶつかりあうのだった。こんなに他人と長く熱い議論を交わしたのは生まれて初めてだった。しかしこの口論は決して不愉快ではなかった。
それどころか、カラオケで好きな歌を思いっきり歌った後に残るような、心地よい疲労感に僕はつつまれた。こんなに気持ちのいい議論があることを、僕は初めて知った。
慧音さんがトイレのために一旦席を外した。さっきからどうも寒いと思っていたが、火鉢の炭がつきてしまったようだ。僕は湯呑みの中で完全に冷たくなったお茶を飲みほし、窓を見た。それにしてもと、僕はしみじみ考えた。僕はここで何をしているのだろうと。
言うまでもなく僕がやるべき事とは両親の待つ家に帰ることであり、そのための手段を探すことだ。そもそもここがどこかなのさえ未だにはっきりと分からない。寺子屋などというものが本当に存在するかどうか見てやろうと思って、僕は彼女に連れられてここまで来た。
そうしたらあった。本当にあってしまったのだ、寺子屋が。学校と言うには非常に狭いこの木造の建物で、彼女は本当に授業をしていた。最初は建物を見るだけのつもりだったが、彼女に手を引かれぐいぐいと教室の中に連れ込まれ、気がつけば僕は授業を見学することになってしまった。授業を受ける生徒たちは全員和服だった。男の子は皆丸刈りで、女の子は全員おかっぱだった。
なるほどたしかに江戸から明治にかけての寺子屋の光景とはこんなものだったのかもしれないと、そう思わせる説得力があった。僕をだますためによってたかって芝居をしているのだろうかとも考えたが、それにしてはあまりにも全てが大がかりすぎる。ここまで大がかりなドッキリを僕にしかける意味が分からない。やはり騙されているようには思えなかった。
ふと気が付くと、雪はいつの間にかやんでいた。教室はあいかわらず静寂に包まれていた。
この土地は時間がゆったり進むなと、僕は思った。この土地、とりあえず「幻想郷」と呼んでおくが、僕は「幻想郷」に来てからの二日間、常に時間の流れの遅さを感じていた。
昨日の夜慧音さんの家に泊まった時もそうだったが、「幻想郷」はとにかく余分な音がしないのだ。テレビの音も、車の騒音も、CDから流れる音楽も。僕は今まで、音に満ちた生活を送っていたようだ。あまりにたくさんの音に囲まれると、人はせっかちになってしまうのかもしれない。
「幻想郷」を包みこむ凛とした沈黙が心地よいせいか、もしかしたら僕は本当に現実から離れた異世界に来てしまったのかもしれないと、そんな気持ちになってきた。
ただ一つ確実に言えることは、僕は全然焦っておらず、妙に落ち着いているということだった。
包帯の上から右腕の傷口を軽くさすっていると、廊下から足音が聞こえてきた。慧音さんが戻ってきたようだ。
…いや、それだけじゃない。話し声が聞こえる。女性二人分の話し声だ。一つは慧音さんのものだが、もう一つは初めて聞く声だった。
「…しかし驚いたよ。慧音ったらこの時間になっても家にいないもんだから、もしかしたらと思ってここに来たら案の定だ」
「すまない、つい彼との議論に夢中になってしまってな。こんな時間になっているとは気付かなかった」
「別に謝らなくてもいいけど…ていうか、彼って?」
そこまで会話が聞こえたところで、教室の扉が開かれた。ドアに手をかけている慧音さんの後ろに、白い長髪の少女の姿が見えた。その少女は白いシャツを着て、サスペンダーがついた赤いもんぺみたいなズボンを穿いていた。
その少女は藤原妹紅という名前らしい。慧音さんと昔からの知り合いのようだ。慧音さんがそう藤原さんを紹介している間、藤原さんは僕のことをじっと見ていた。鋭さを感じる、ややつり上がった目だ。
何だこの胡散臭い男は? 何で慧音の古い浴衣を着ているんだ? たぶん、その視線の意味はそんなところだろう。
今度は僕を紹介する番となった。慧音さんは僕の名前を藤原さんに告げ、説明を続けた。
彼は昨日この幻想郷に迷いこんだばかりの外来人で、夜雀に襲われているところをパトロール中にたまたま発見した。彼は自分がどういう状況に置かれているかまだ分かっておらず、放ってもおけないので私が保護した。これからどうするかを彼が決めるまで一時的に私の家で世話しようかと思うのだが、いいだろうか? そんな内容の説明だった。
「好きにすればいいだろう。私に許可をとる必要なんてないさ」
ぶっきらぼうに藤原さんがそう告げた。そこで会話が途切れたので僕はとりあえず頭を下げ、よろしくお願いしますと言った。彼女は相変わらず胡散臭そうに僕の顔を眺めていた。どうもあまり好意をもたれていないようだ。
ぎこちない自己紹介が終わると、藤原さんが切り出した。
「なぁ慧音、もうすぐ夜だし、はやく家に戻ったほうがいいんじゃないか? ちょうど雪も止んだし、今日は私も付き合うからさ」
「ああ、ありがとう。月に一度だけの仕事だからな。今帰る準備をするから、ちょっとだけ待ってくれ」
慧音さんが机の上に乗っていた二人分の弁当箱を片づけた。そういえば弁当箱を何時間も机の上に出しっぱなしにしていた。
僕には状況がよく飲み込めなかった。会話から察するに、慧音さんはこれから何か仕事をするために急いで家に帰らないといけないらしい。もうすぐ夜だというのに、家で何の仕事をするのだろう?
「すいません、話に夢中になって慧音さんのお時間を奪ってしまったようで。これから何の仕事をされるんですか?」
藤原さんが僕のほうを振り返った。
「なんだ、慧音から聞いてなかったのか? 慧音はな、これから歴史を作りに行くのさ。私はそれの付き添いだ」
「歴史?」
何かの比喩だろうか?
「満月の夜になると、慧音は幻想郷のあらゆる歴史を知ることができるのさ。それが慧音の能力。そしてその知識を歴史書に纏めるんだ。幻想郷の正しい歴史を残すためにな」
うん? 何を言っているのか、まるで理解できなかった。あらゆる歴史を知る? それが能力?
藤原さんは顎に手を当て、僕の顔と慧音さんの顔を交互に見た。何か考えているようだった。
「なあ慧音、この人は今日もお前の家に泊まるんだろう?」視線を慧音さんに向けたまま、藤原さんは尋ねた。
「え? ああ、そのつもりだが…」
「ならいい機会だ。私に聞くよりも実際にその目で見たほうが分かりやすいだろう。……それにあんた、はっきり言って慧音が妖怪だってことまだ信じてないだろう?」
会ったばかりの人にいきなり胸中を見透かされ、僕はついドキリとしてしまった。
「慧音が変身する姿を見ればきっと納得するさ。構わないよな、慧音?」しゃべっている間、彼女は長い髪の毛を右手で軽くいじっていた。
変身? 僕はきっと間の抜けた、ぽかんとした表情を浮かべているのだろう。藤原さんはこちらを見ながら、無邪気ないたずらっ子のような表情をかすかに顔にのぞかせている。慧音さんもこの提案は意外だったらしく、やや驚いたように答えた。
「ああ、そうだな、彼さえよければ。あまり人に見せるものではないが」
どうやら僕は、これから慧音さんの仕事現場に立ち会うことになったらしい。僕はここまできたら見るもの全て見てやろうという気分だった。考えるのはそれからでも遅くないだろう。
何しろ目の前の女性が妖怪である証明を見せてやるというのだ。そんな面白そうなものはぜひとも見ておかなければ。どうもこの「幻想郷」という土地は、僕を呑気にさせるようだ。
だが、「あらゆる歴史を知る」とはいかなる仕事なのだろう? 「教師として授業をする」ならイメージも湧きやすいが、こちらは抽象的すぎて想像もつかなかった。満月の夜に変身するものといえば、僕は狼男ぐらいしか知らなかった。
「校庭裏の森を通っていこう。そっちのほうが近道だし、万が一妖怪が襲ってきても妹紅がいるならまず安心だ」
朝と同じように蓑笠のスタイルになった彼女がそう言い、藤原さんが短く「ああ」とだけ言葉を返した。僕も蓑笠を身につけ、忘れないように和傘を手に取った。もうこのスタイルにあまり抵抗はなかった。
僕たち三人は寺子屋を出て、校庭に隣接する森の中に入った。雪雲はまだ空にくすぶるように残っていた。
森の中は人が一人通れるぐらいのけもの道があり、慧音さん、藤原さん、僕の順番で並んでその狭い道を歩いた。地面には雪がこんもり積もっている。革靴で雪道を歩くのも何だか慣れてしまった。
「…あいつ、なんか嬉しそうだな」
僕より少しだけ前を歩いていた藤原さんは、前を向いたまま独り言のようにそう呟いた。
「え?」
「慧音はさ、満月の夜になると毎回気が立っているんだ。満月は月に一回しか来ないからな、一晩で一ヶ月分の歴史を作らないといけないわけだ」
ふむ、と僕は話に耳を傾ける。慧音さんはやや離れた前方を歩いているため、僕たちの会話は聞こえないようだ。
「だからどうしても満月の夜は忙しくなる。朝まで一睡もできない徹夜の作業だ。さっき聞いたんだが慧音は昨日もあまり寝てないんだろう?」
僕は気まずくなった。それは僕が原因だからだ。今さらではあるが、僕は慧音さんにとんでもない迷惑をかけているようだった。
「なのに、あいつは妙に楽しそうだ。満月の夜に上機嫌な慧音を見るのは久しぶりだな」
そう言って彼女は振り返って僕の目を見た。だがそれは一瞬のことで、藤原さんはすぐ前を向きなおした。ほんとうに一瞬だったので、彼女の紅い瞳からは感情が読み取れなかった。僕は何だか試されているような気分だった。
「なぁ。ところでお前たち、今日の夕飯は何がいい? なるべく時間をかけずに作れるものだといいんだが」
前を歩いていた慧音さんが振り向いて僕たちにしゃべりかけた。声はいくらか弾んでいる。こうして見ると、たしかにどことなく嬉しそうだった。
家に戻ると、僕たちは三人で協力して夕飯を作った。僕は人参とじゃがいもと玉ねぎを切る役目を仰せつかった。「幻想郷」にもカレーがあるのは少し意外だった。慧音さんは隠し味と言ってカレーに味噌を入れていた。僕はさっぱり料理をしない人間なので、それが普通のことなのか「幻想郷」に特有の習慣なのか分からなかった。
夕食を食べ終えた僕たちはお茶で一息ついた。
慧音さんと藤原さんは、最近「幻想郷」の人間たちの間でにわかに厭世観が蔓延しつつあるということ、乱れた人心を掌握しようと宗教家たちが信仰集めに駆け回っていることを話していた。よく分からないが何だか物騒な話だなあと、僕はぼんやり二人の会話を聞いていた。
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いよいよ慧音さんが仕事を始める時が来た。
僕たち三人は勝手口から外に出て、家の裏庭にいた。ここで仕事を始めるらしい。もうすっかり夜になっていた。裏庭はテニスコートぐらいの広さだろうか。一方が家の壁に面していて、他の三方はぐるりと垣根が植えられていて、そのすぐ外側を竹林が囲んでいた。
裏庭の真ん中には、木で組まれた小さいやぐらのようなものがあった。夏のお祭りで盆踊りをする時に、中央で太鼓をたたくアレだ。高さは一メートルぐらいしかなく、舞台の広さは三畳ぐらいだ。屋根はない。まわりは雪景色なのに、なぜかこの舞台の上だけはちっとも雪が積もっていなかった。
ここで慧音さんは「変身」し、「あらゆる歴史を知る」というわけか。
外は寒かったが、それよりも好奇心がまさっていた。慧音さんは緑色のワンピースに着替えていて、あの奇妙な帽子はかぶっていなかった。両手には小さい鈴が房状にぶらさがった棒が握られていた。
慧音さんはやぐらに据えられた階段を上り、舞台の上に立った。家の壁の近くには長椅子が一つ置いてあり、僕と藤原さんは雪を払ってその上に座った。月光が慧音さんにふりそそぎ、舞台ごと彼女を青白く照らしていた。
ん? 月光? 顔を上げると、さっきまで空を低くおおっていた雪雲がすっかり消えていることに気付いた。空をさえぎるものはなく、きれいに見渡すことができた。晴れた空を見るのは「幻想郷」に来てから初めてだった。
空には信じられないような数の星があふれんばかりに輝いていた。東京のちっぽけな星空しか知らない僕には、これが夜空であるとは信じられなかった。赤や青、オレンジや白など、様々な色を伴った星が闇の中で燃えていた。真珠やルビーやサファイヤといった宝石がそれ自体で光をまとって闇の中で輝いているような、そんな眺めだった。天の川がその宝石の群れを貫いていた。
満月は竹林のすぐ上で大きく光っていた。満月がこんなに明るいということを僕は知らなかった。
およそ夢のようなこの星空を見ていると、「幻想郷」なるこの土地は現実世界から隔離された異世界であるという話を、そのまま信じてしまいそうになった。むさぼるように空を見つめていたため、僕はしばらくの間二人のことを忘れてしまった。
なぁ、と隣に座る藤原さんに呼びかけられて、僕はようやく目線を星空から引き剥がした。藤原さんはまっすぐ僕の顔を見ている。
「やっぱりあんた、外から来た人間なんだな。外来人は夢中になって夜空を見上げるから不思議なもんだよ。まぁ、みんなすぐに飽きるんだが」
藤原さんがしみじみとした声でそう呟くと、しゃん、と鈴が鳴る音がした。
舞台の方に目を向けると慧音さんは両手を高く上にあげ、頭上にいる誰かから何か大切なものを受け取るような、そんなポーズをとっていた。彼女の視線の先には月があった。
もう一度、夜の闇に凛とした鈴の音が鳴り響いた。白い雪は鈴の音を静かに吸い取り、その冴えた音をあたり一面にやさしく木霊させるかのように地面に横たわっている。彼女は右手をおろしながら、その場でくるりと一回転した。踊りを踊っているようだと、僕は思った。
彼女の顔にはいかなる表情もなく、使命を帯びたかのような荘厳さがあった。その粛然たる顔つきは神々しくすらあり、まるで舞台の上の聖の世界と僕たちがいる俗の世界を分けるかのようだった。
「彼女は何をしているのでしょう?」
僕は藤原さんに小声で尋ねた。
「神降ろしさ」
藤原さんは舞台を見たまま答えた。慧音さんは左右の手を逆にして今度は反対方向に回った。
「神降ろし?」
「慧音は今自分の身を清めているところなんだ。身を清めることで、神から幻想郷の歴史の言葉を預かることができる。そうやって慧音は歴史を知ることができるわけだ」
藤原さんの説明はいまいち理解できなかったが、舞台を包む厳かな空気を前にすると、有無を言わせぬ不思議な説得力があった。
舞台の上で慧音さんは踊り続けた。踊りと言っても左右交互に回り続けるだけの単純な踊りだが、その一つ一つの動作が優美であり、気品があった。一定周期で鳴り続ける鈴の音は、深海を潜る潜水艦のソナーのようだった。夜の蒼い闇のなかでリサージュ曲線を描いて舞う黄金色の鈴は、蛍のようだった。
「あんたはさ、劇を見るのは好きかい?」
隣から唐突に質問がとんできた。僕はぼうっと舞台の上の踊りに見入っていたため、自分が話しかけられていることに一瞬気付かなかった。
「え? 劇ですか?」
「ああ、歌舞伎でも悲劇でもミュージカルでも何でもいいが、そういうのはよく見るかい?」
質問の意図がよく分からず、いいえ、あまりないと思いますと、あいまいに答えるしかなかった。
「劇には当然脚本があるよな。ここで登場人物Aがこうしゃべるとか、ここでBとCが歌を歌うとか、ここでDが躍るとかさ」
慧音さんはなおも腕を振り回しながら左右に回り続けている。その旋回運動は少しずつ速くなっているようだ。
「私は劇を見るのが好きでさ。この前慧音の寺小屋の子どもたちが児童劇をやってたから、見に行ったのさ」
話を聞いている僕の頬を静かな風がそろりとなでて、裏庭を通り抜けた。
「すると劇の最中にまずいことが起こったんだ」
「まずいこと?」
僕は藤原さんの顔に目を向けた。彼女の瞳は澄み切っていて曇りがなく、目と目があった瞬間、僕は腹の底までも全て見通されているかのように思えた。
「出演者の子どもが一人、セリフを忘れちまったのさ。後で慧音から聞いたんだが、その子はずっと風邪で休んでいてロクに劇の練習に参加できなかったらしい」
「で、本番のステージの上でセリフを忘れてしまった、と」
私は話を聞きながら、あの優しい先生の顔を思い出していた。あの先生は今もどこかで教師をしているのだろうか。
「あんたならさ、そういう時どうする?」
「え?」
「もしあんたがその子どもだったとしたらさ、あんたはステージの上で何をする?」
僕は背中を丸めて膝の上に両肘をのせ、口の前で両手を組んだ。あの日のかぐや姫の顔、ボール紙に描かれた背景の絵、観客席の薄暗さ。スポットライトのまぶしさ。そういったものが一瞬のうちに想起され、僕の頭の中を駆け抜けた。
同時に、就職活動の日々が脳裏に浮かびあがった。机をはさんで面接官と向き合って座る僕の姿。不採用をつげるお祈りメール。履歴書を何回も書き損じ、破り捨てた。クリスマスの電光イルミネーションで飾られた街並みを一人で通り抜ける、黒いスーツ姿の僕。
ふさわしい振る舞いのできぬ者。舞台の上で適切な役を演じることができずに、立ちつくしている者。シナリオについていけず、ステージの上でまごついている者。浮いていて、異質な存在。場違い。ボタンをかけ違えたまま服を着ているかのような違和感。
だが。僕は叫びたい衝動にかられた。「シナリオ」とは何だ?
「踊らなければならない」
がむしゃらに、でたらめに。自分の体内に宿るリズムにあわせて。タン、タン、タンとステップを踏みながら。
「踊る?」
藤原さんが聞き返すようにして呟いた。舞台から鈴の音が響いてくる周期が短くなってきた。
僕も慧音さんがいるステージを見上げたが、思わず手をかざして目を閉じてしまった。舞台の上がにわかに光に包まれ、まばゆく輝きだしたからだ。あまりのまぶしさに体がのけぞり、あやうく長椅子から体が滑り落ちそうになった。
慧音さんは光の柱のただ中で踊り続けていた。まるで劇場全てのスポットライトをその身に受けて一心不乱に舞うダンサーのようだった。地面や竹林を覆う夜の雪がその輝きをいっそう引き立てた。
スカートのようにふわりと舞う彼女の青白い長髪は、光を反射して明るくきらきらと輝き、煌めきの粒を庭じゅうにまき散らしていた。しゃん、しゃんと澄んだ音を鳴らし続ける鈴は、その丸いフォルム一面で光線を反射し、電球のように光っていた。舞台の上では何もかもが白く黄金色にぴかぴかと輝いていたため、僕は舞台を包む光と彼女の白い顔面との境界線を見つけることができなかった。彼女は光と一体化しているかのようだった。この光の正体は何かなんて、既にどうでもよかった。
「他の人たちが演技を続ける中でも、あんたは踊るのかい?」
藤原さんが、確かめるように僕に尋ねてきた。声のトーンは穏やかだったが、彼女の目は冷徹さに満ちていた。面接官のような眼だった。
「踊らなければならないんだ。誰も見てくれなかったとしても」
藤原さんの右頬が舞台の光で黄色く染まっている。一瞬の静寂の間があった。やがて彼女の口元が重く開き、念を押すように僕に問いかけた。
「もしその劇が嫌で嫌で仕方がなく、もうステージから降りてしまいたいと思ったとしても?」
穏やかだった彼女の声のトーンが、急に鋭さを増した。ほとんど裁判官のような鋭利さを伴った言葉だった。僕の一言一句を逃さぬような真剣な顔つきだった。
僕はそうだ、と答える。
「ステージの上で何が起こるか、誰にも分からないのだから。落ちていくコインの裏表が、誰にも予想できないように」
最後はもうほとんど絞り出すような声で、僕はひとり言のように呟いた。呼吸があらくなる。僕の口からでる白い息は、舞台から漏れ出た光線を浴びながら空気中に霧消していった。
あふれんばかりの光輝にようやく目が慣れて、僕は視線を舞台に戻した。慧音さんは光などまるで気にする様子を見せず、ただただ無心の顔つきで舞っている。
回転の速度が上がって踊りは激しくなる一方なのに表情があまりにも静穏なため、まるで精巧に作られた日本人形が踊っているかのようだった。なるほど確かに神様が舞い降りてきそうだと思える、崇高さを感じさせる相貌だった。
視線を彼女の顔から頭上へと移した時、僕は震撼した。驚天動地だった。彼女の頭上に、一対の角のようなものが見えたからだ。
見間違えではない。牛のような湾曲した長い角が二本、たしかに彼女の頭から生えている。左の角には赤いリボンが可愛らしく巻きつけられている。
妖怪…? 僕は茫然と慧音さんを見つめるしかなかった。彼女は未だに光の中で踊り続けている。ひたすら無表情に、ただ左右交互に回っている。とり憑かれたように激しく舞い続ける彼女を見つめるうちに、しだいに陶酔感が僕を襲ってきた。
煌めく星空と、まばゆく輝く舞台。雪の白い静寂が、でたらめなぐらいに明るいそれらを受け止めている。凛然たる鈴の音色は、まるで僕を天国へ連れていってくれる神様の声のように、清浄たる響きだった。
彼女の踊りは全くもって魅惑そのものだった。せわしく動き回る彼女の黒いまつ毛の長さに心を奪われ、目元の端麗さにうちひがれた。忙しく乱れ回る髪の下でうなじがうっすら金色に輝き、それを見た僕は心から理性が消えていった。彼女の踊りは単調な動きに見えるがその一挙一動全てに全神経を注いでいるかのようであり、鈴がついた棒を握る指の一本一本までが緊張と歓楽ではちきれんばかりにみなぎっているようだった。
彼女の切れ長の目にはほおずきみたいに真っ赤な瞳が妖しいぐらいにしっとり光っていた。その瞳を見つめていると、僕はしだいに精神が不明瞭に霞んでいくような感覚になった。まるで自我と無意識を隔てる壁が崩壊するようだった。僕は放心し、ただただ彼女の踊りをうっとりと眺めていた。
僕は恍惚となりながら、今なら幻想郷の存在を信じていいとはっきり思った。
そうだ、ここは妖怪がたしかに存在する世界なんだ。今なら分かる。こんなものを見せられてしまっては信じるほかない。
これほどの高揚感が得られるのだ、もう彼女が妖怪だろうが構わない。もっと見たい。そうだ、ずっとこの世界に住んでしまえばいいのではないか。
彼女の下について寺子屋運営の手伝いでもして、雑用でも何でもやろう。そしていつかは自分もあの教室で教鞭をふるう。そんな人生もありではないのか。そうやって夢をかなえるのも一つの人生ではないか。
そうだ、それだ。現実が僕を必要としないのならば、社会が僕を受け入れないのなら、いっそのこと幻想の世界に生きてるのもいいかもしれない。慧音さんに土下座してでもあの寺子屋で働けばいいんじゃないか。
そうか、ここはきっと見捨てられた者の楽園なんだ…
朦朧とした頭でこのような思いがつのっていった。僕は幻惑した頭のなかで勝手なユートピアを築いていった。
ふと、僕は強烈な眠気に襲われた。目の前の光景が蜃気楼のようにぼやけてきて、どんどん遠のいていくようだった。隣に座っている藤原さんが僕に何か話しているが、何を言っているのか聞こえなかった。心地よい恍惚感に包まれながら、僕は瞼をとじた。瞼をとじた暗闇の中で一つの目玉が僕をギョロリと見つめたような気がした。僕はそのまま意識を失った。
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目を覚ますと、僕はベンチに座っていた。僕の手には冷めきった缶コーヒーがあった。
僕はあわてて立ち上がり、まわりを見渡した。ここは駅のホームに設置されたベンチだった。僕は黒いスーツに黒のコートという、就活生の服装をしていた。右腕のところが深くやぶけていて、肌が見えていた。しかし腕には一切傷がなかった。
腕時計を見ると、十二月二十四日の午後九時すぎだった。
ホームに電車が到着した。銀色のボディに緑色のラインをつけた電車がホームに滑りこんで、スーツ姿のサラリーマンたちを吐きだした。ここは品川駅だと乗客に告げるアナウンスが駅のホームに木霊した。
つまりここは僕が電車を待っていて気を失った場所だ。僕は幻想郷から戻ってきたのだろうか?
それとも……それとももし、あの世界での体験が全て僕の夢で、ただの妄想だったとしたら…。だが、丸一日寝ていてずっと夢を見ていたなんていうことが有り得るのだろうか?
間もなくドアが閉まりますというアナウンスが聞こえて、ハッとした僕はカバンを抱えて光を求める娥のように電車に飛び乗った。動き出した電車の中でポケットを探ると、中から干し芋が一つ出てきた。
一つ言えることは、僕は慧音さんに帽子のことを聞くチャンスを失ってしまったということだ。
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二月の下旬、僕は一つの会社から内定をもらった。小学生向けの教科書を作って出版する、小さな会社だ。
雪が強く降りしきる午後二時ごろ、新橋駅の牛丼屋で遅い昼食を食べていた時に採用の知らせを受けた。携帯電話で受け答えをしている時、店員が興味ありげにこちらを盗み見していた。内定を承諾して電話を切った後、僕は食べかけの牛丼を一気にかきこんで平らげ、店の外に出た。
外ではコートを着たサラリーマンたちが忙しそうに街中を行き交っていた。片手で傘をさしながら携帯電話を持ち、器用にしゃべっているサラリーマンもいる。たぶん営業回りの人達だろう。
気持ちを落ち着かせるために僕は深呼吸をした。強く吐き出した息は、白かった。傘もささずに、僕は大股で駅に向かって歩き出した。
今夜は満月だ。だがこの雪は一晩中やまないだろう。
椅子に座る生徒達の頭を通り越して、その澄んだ声は教室の後ろに一人で立っている僕に届く。僕は浴衣に革靴という奇妙な姿で授業を参観している。
「…であるからして、古代日本では託宣の儀式において巫女が踊りを踊ったと伝えられており…」
話を続ける彼女を見ながら、それにしても不思議な帽子をかぶっているものだと、つくづく思った。青を基調とした丈の長いワンピースは彼女の淡い色の髪とよく合っているし、また聖職者として清廉な印象を受けた。
だがあの帽子の奇妙な形は何だ? この「幻想郷」とかいう世界では教師はあの帽子をかぶらないといけない決まりでもあるのだろうかと、冗談めいたことを考える。この「幻想郷」に迷い込んでから今日で二日目だが、帽子のことは未だに彼女に聞けずにいた。
彼女はしゃべるのを区切るとその場で体をくるりと回し、手に取ったチョークで黒板に何か書き始める。漢字はやや角ばっているが、ひらがなは丸っこい字だ。青の混ざった白っぽい髪が背中でかすかに揺れている。
古代日本における神託の儀式では巫女が一心不乱に踊りをささげ、興奮からしだいに一種のトランス状態に落ちいる。そこで自らの身に神を舞いおろし神がかり、巫女は神のご神託を下す。そんな内容だ。
彼女は板書を終えると満足した表情でまた生徒たちと僕に向き直り、再び古代祭祀の話を続けるのだった。
うしろからでは生徒たちの表情はうかがえないが、彼らの心中を察することは容易い。二十を超える生徒のうち、半数ほどが顔を下に向け、大粒の稲穂のように頭を垂らしているからだ。
他にも鉛筆を手のひらでくるくる回す生徒や、雪の降る景色を見ながら頬杖をついている生徒などもいる。要するに、真剣に授業に集中しているものは一人もいない。
無理もない。つまらないからだ。上白沢慧音、と昨日名乗ったこの女性の授業は、率直に言って退屈そのものだった。彼女の講義をする声は抑揚がなく、トーンに変化がないため耳を素通りしてしまう。僕の大学で「死にかけ」というあだ名がついた白髪の教授がいるが、その七十代の老人よりも睡眠効果が高い授業だろう。
話の内容は筋が通っていて論理的だが、あまりにも難解だ。大学生の僕でもやっとついていけるぐらいなのに、今この教室にいる生徒は小学校の低学年から高学年ぐらいの児童だ。理解できるはずがない。
また一つ、小さい坊主頭が静かに机にくっついた。彼もまた、授業についていけず脱落してしまったようだ。これで寝ている生徒は13人に増えた。
最初は生徒たちから物珍しそうに見られていた僕も、彼らの意識を繋ぎとめるのには役にたたなかったようだ。
ある日突然知らない男が授業の見学をするなど不思議であるし、生徒たちは最初好奇心と懐疑の目で僕のほうを盗み見していた。しかし、それも最初の30分で終わった。残念ながら僕は何の面白みもない、ただの地味な男なのだ。二十二歳のつまらない男など、子どもの興味をそそるには力不足のようだ。
仕方なしに、僕は窓の外の雪を眺めた。しとしとと降りしきる雪を見ながら、僕はまだ迷っていた。慧音さんが昨日の夜話してくれたこと、つまりここは「幻想郷」という妖怪の住む世界である、という言葉を信じるべきかどうかを。じっと思考の波に漂いながら、そういえば昨日からまだ一度も雪がやんでいないなと、ふと気づいた。
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街の遠くのほうから、大きな鐘の音が聞こえた。慧音さんが後で教えてくれたのだが、正午を告げる鐘らしい。その音を合図に慧音さんは授業を切り上げ、生徒たちは机の上に広げた書物をカバンに仕舞った。
「雪が積もっているから帰り道は十分気をつけるように。分かっていると思うが、余計な寄り道をしたり買い食いをするんじゃないぞ。以上だ」
慧音さんがそう告げると、生徒たちは起立して先生に礼をし、思い思いにグループに分かれて教室を出て行った。彼らが手を振って教室を去る時、僕は初めて慧音さんが笑うところを見た。
それにしても、まだ正午なのにもう学校は終わりなのだろうか。生徒達が全員教室から出て行った後、僕は教卓に近づいて彼女に聞いてみた。
「たしかに私としては教える時間が足りないとは思う。でも、働かないといけないからな」
「え? 誰がですか?」
「あの子たちがだよ。帰って昼食をすませたら、家の手伝いや赤ん坊の世話をするんだ」
「でも、あの子たちはあんなに小さいんですよ? 5,6歳ぐらいに見える子どももいましたが…」
「ここでは子どもも貴重な労働力だからな。それに、あの子たちはまだ余裕のある家の子どもなんだ。貧しい農家だと、寺子屋に子どもを通わせる余裕もないんだ。そういう子は、朝から晩まで毎日労働をしなければならない」
学校に通わず毎日畑で鍬をふりまわす幼年者の生活をイメージしようとしてみたが、できなかった。成人しても学生でいる僕には、どこか遠く離れた世界の話としか聞こえなった。いや実際、慧音さんの言葉を信じるなら、ここは遠く離れた世界らしいのだが。
僕の沈黙を静かな抗議と捉えたのか、彼女は言葉を続けた。
「そういうものだよ、ここは。君の世界ではどうなっているか分からないが、この里の人間は小さい子どもから老人まで、みんな社会のためによく働いている」
慧音さんが言った最後の言葉が、僕の胸にじわりとのしかかった。あんなに小さい子どもが世のために働き、人の役にたっている。そう考えると、焦燥の念がふつふつと沸いてくる。
「さぁて、食事にしようか。大したものは作れなかったが、君の分も用意してきた。二人分の弁当なんて普段作らないものだから、あわてて詰め込んだんだ」
そう言いながら彼女は、二つの弁当箱を包んだ風呂敷を教卓の上に広げた。彼女が大したものを作れなかった理由を僕は知っている。昨日の夜、ロクに眠る時間がなかったからだ。僕のせいで。
教卓に二つの椅子を引き寄せ、僕たちは並んで座った。彼女から差し出されたお弁当箱のふたを開けると、彼女は謙遜を言っていたに違いないと、そう確信した。肉料理はなかったが、野菜のおひたしやらフナの甘露煮やらひじきの煮物やらが所狭しと並んでいて、とても片手間で作れるようなものではなかったからだ。
僕は丁重にお礼を述べ、彼女と食事をとることにした。せまい教室だが、二人しかいないと急に広くなったように感じられた。外からは既に子ども達の声が聞こえなくなっており、雪だけが音もなく舞っていた。雪特有の静寂があたりを包む。パチパチと鳴る火鉢の炭は、かえって静寂を強調した。
「それにしても今朝は驚いたよ。私の授業を見学したいって、急に言い出すんだから」
授業の時とは全く異なるリラックスした声で、彼女はそう言った。もっとも僕は寺子屋を見せてくれとは言ったが、授業を見学したいとまで言った覚えはない。彼女は思いこみが激しいのかもしれない。
「すいません、ご迷惑でしたでしょうか?」
「いやいやとんでもない。いささか、いつもより緊張したがね」
彼女はそう言うと、少しからかうような笑みを浮かべた。今のはあくまで冗談だと、表情で語っているようだった。間近で彼女の顔を見ると、そのまつげの長さに自然と目がいった。石炭ストーブが近くで焚かれているせいか、彼女の頬は昨日の夜よりもいくらか赤みを帯びている気がした。その赤みは、彼女の顔にやや童顔の印象を与えている。
僕は彼女が作った里芋の煮ころがしを口に運びながら、昨日から今にかけて起こった出来事を頭の中で整理することにした。今自分が何故ここにいて、自分が何をしているのか、結局のところ僕にも分からないからだ。
窓を見ると、雪はやや小粒になり勢いも弱くなっていた。夜には止むかもしれない。
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ついていないな。
缶コーヒーを買う時に自動販売機の下に落としてしまった百円コインを思い出しながら、僕は一人でそうぼやいた。
僕は黒いコートを着込んで品川駅ホームのベンチに座り、電車を待っていた。十二月二十三日、東京にしては珍しいほどよく雪が降る夜だった。今年はホワイトクリスマスになりそうねと、ベンチの前を横切る女性が嬉しそうに携帯電話でしゃべっていた。
僕は帰り道にコンビニで傘を買わなかったことを後悔した。おかげでコートが雪に濡れ、冷たく湿っている。面接を受けた会社から駅まで、僕は傘もささずに雪空の下を歩いた。
今日の採用面接もたぶんダメだろう。何十社も落ち続ければ、僕でもそれぐらいの空気は読めるようになる。カイロがわりに手で転がしていた缶コーヒーは、とうに冷たくなっていた。
教員採用試験に失敗して数カ月。民間企業に目標を切り替え就職活動をしてきたが、それでも教師になりたいという気持ちを消すことはできなかった。世間にはそんな宙ぶらりんな男を受け入れる余裕のある会社はない。気がつけば、僕にはもう卒業まで三カ月しか残っていなかった。
このまま民間企業を受け続けるべきか、あるいは思い切って留年し、来年にもう一度教員試験を受けるか。だが、どちらにしても自分が勝利をつかみとる姿がイメージできなかった。僕は負けることに慣れ過ぎた。
明日は大学に行って、今日の面接の結果を就職課に報告することになっている。だが、それで一体何がどうなるんだ? 最近はもはや、就職課の職員さんすらも敵のように見えてきた。かと言って親が待つ家に帰るのも苦痛であり、誰が敵で誰が味方なのかもう分からなった。
それにしても、電車が遅い。あと5分で到着するというアナウンスがあったはずだが、もうだいぶ待っている気がする。疲れがどっと出て、このままだと眠ってしまいそうだ。瞼が重い。
あれ、さっきから妙に静かだな。帰宅ラッシュは過ぎたとは言え、まだ深夜と呼ぶような時間でもないのに人の気配がしない。顔を上げようとした時、僕は視界がぐらりと歪んでいくような眩暈を覚えた。
線路を挟んだ向かいのホームに表示されているダンス教室の広告の絵がぐにゃりと曲がった。その色彩が互いに混じり合って、最後は一つの黒い色に溶けて消えていくような、奇妙な感覚が起こった。ああダメだ、眠くてたまらない。瞼が落ちる時、視界の隅で一つの目玉が見開き、僕を見たような気がした。
どこからか流れる歌声で、僕は意識を取り戻した。それは歌声というにはあまりにもキンキンとする女性の金切り声であり、悲鳴のようにも聞こえた。どうやら疲れて寝てしまっていたらしい。
奇妙なことに、自分の体が仰向けに横になっていることに気付いた。背中に冷たい雪の感触がする。おかしい、自分は駅のベンチに座って眠っていたはずなのだが。
上半身を起こし、あたりを見渡そうとして首を左右にひねった。そこで一つ、おかしなことに気がついた。目を開けているのにあたりが真っ暗で、何も見えないのだ。自動車のトランクの中に閉じ込められたら、これぐらいの完全な闇になるのだろうか。視神経の全てが一瞬にして切断されたような、そんな黒い光景だった。
たまらず目をこすっていると、遠くにあった歌声が急激に近くなるのを感じた。姿を見ることはできないが、その歌い主はやや高い上空から急速に降下し、こちらに接近しているようだった。
歌い主はそのまま高速で僕に近づき、僕の右腕と接触するぐらいに地面すれすれを通り過ぎて、後方のはるか上空までまた飛び上がったようだ。自由自在に空を飛んでいるとしか思えないような動きだった。
僕を通り過ぎる時、台風を思わせるような激しい風が舞った。風があまりに強いせいで、僕は起こしていた上半身をまた地面の雪にうちつけてしまった。
風がやむと同時に、今度は右腕が急に熱くなるのを感じた。沸騰したやかんの底を腕に押しつけられたような、そんな熱だった。とっさに左手で右腕をおさえると、コートが破れているのが分かった。それだけでなく、ぬめりとした液体の触感があった。
僕はそこで初めて、歌い主に刃物で斬りつけられたのだと気づいた。痛覚もようやく自分の役目を思い出したかのように、急に激しく僕の右腕をかけめぐった。あまりの激痛に、雪の上で僕はでたらめに身をくねらせ、もがくばかりだった。
過呼吸のように息が荒くなり、口の中が乾いて血のような味になる。かつて高校の授業でハーフマラソンを走っている途中で貧血になり倒れてしまったことがあったが、その時の口の中もちょうどこんな味だった。鼓動があまりに激しいため、心臓の音が耳にまとわりついて離れなかった。
そんな僕を嘲笑うかのように、歌声がまた猛烈な速さで僕に向かって空から駆け下りてきた。今度は心臓を一突きされるかもしれない。それも見えない相手に。死の本能的恐怖に心が支配され、僕は逃げることもできなかった。元々何も見えないのに、無意識のうちに僕は目をつむった。
しかし、何も起こらなかった。女性の歌声は消えていた。何事かと思いおそるおそる目をあけると、僕は視力が回復していることに気がついた。どうやら僕はどこかの森の中にいるようだった。静かな雪が夜の森に降り積もっていた。ここはどこだ?
雪のまぶしさに耐えながら目の焦点をあわせると、僕のそばに二人の女性がいた。
一人は髪が桜色で背が低く、見間違えでなければ背中に鳥のような羽根が生えていた。手を見ると、毒々しい紫色の爪が矢じりのように鋭く伸びていた。
もう一人の女性は青いワンピースのドレスを着た背の高い女性で、頭に家みたいな形の帽子をのせていた。こちらの女性は少女から僕をかばうような位置に立っており、少女の両腕を強く掴んでいた。
この状況から推測するに、僕を襲ったのは爪が長い少女で、帽子の女性は僕を助けてくれたのだろうか? どうしてあの小さい少女は僕に襲いかかったのだろう? それに、少女の背中にある羽根みたいな物は何だ? 僕は仰向けに倒れたまま、朦朧とした目で二人を眺めていた。二人は取っ組み合いの状態のまま何か言い合いをしたかと思うと、少女のほうが女性からさっと離れて後ろに下がった。
すでに意識が混濁していた僕は、出血と寒さによってここで力尽きた。意識が遠のき、僕は気絶した。
体が激しく揺れていることに気づいて、僕は目をさました。またもや雪の中に倒れた僕は、誰かに体を激しく揺すられていた。
先ほどの帽子の女性がそばで膝立ちになっていて、仰向けに倒れている僕を見下ろしていた。僕が目を覚ましたことに気付いた女性は、よかったと安堵の声をもらした。その一言は、僕の気持ちを少しだけ落ちつかせた。
女性はワンピースの胸のところに巻いていた赤いリボンを手に取り、僕の右腕の付け根あたりに強く巻き付けた。やはり先ほど少女から助けてくれたのはこの女性だったようだ。僕を襲った少女はどこに行ったのだろう?
まだ意識が朦朧とはしていたが、僕は何とか声を絞るようにしてお礼を述べ、救急車を呼ぶようにお願いした。しかし女性は何だか困ったような、要領を得ない表情をしている。なぜだろう、携帯が手元にないのだろうか。
仕方なく僕はポケットを探り、スマートフォンを取り出した。しかしまずいことに、ここは圏外だった。そうか、それでこの女性は困っていたのか。だが、それではどうすればいい? こんなところに公衆電話があるとは思えない。僕はもうほとんどパニックになった。どうやって病院まで行けばいいのだろう? そもそもまず、ここはどこだ?
疑問が次々と湧き出るにつれ、逆にだんだん意識が鮮明になってきた。僕が右腕を投げ出していたところの雪が円を描くように赤く染まっていることに、この時初めて気づいた。その濁った赤黒い色が僕の体から出た血であるかと思うと、改めてぞっとした。
そんな僕を尻目に、女性はやはり外から来た人間だな、と呟いた。外から来た人間は必ずその金属の板(僕のスマートフォンをさして女性はそう言った)を凝視して不安な顔をしているからすぐに分かる、と女性は僕に言った。「外」とは何のことだ?
私は医者ではないがそれぐらいの傷なら薬で治せる。私の家に来るといい。女性は僕にそう告げた。思わぬ提案に僕はひどく驚いたし、渡りに船のような申し出だった。しかし僕は首を縦には振れなかった。そこまでお世話になってしまうのは気が引けるし、第一こんな夜に見知らぬ女性の家にお邪魔するのは非常識だ。それに正直言って、この女性が本当に信頼できるかどうか、いまいち分からない。しかし女性は僕の断りを聞かず、いいからついてきなさいと一人で歩き始めた。こんな森の中で一人にされたらそれこそお手上げなので、結局僕は不安と心細さに負け、立ちあがって女性の後をついていくことにした。腕時計を見ると、ちょうど夜の10時だった。
雪が降りしきる森の中を革靴で歩くのは困難だった。相変わらず腕の痛みと熱はあったが、応急処置のおかげか出血はほとんど止まり、だいぶ楽になっていた。
こんなに血で汚れてしまっては、もうこのコートとスーツはダメだろう。就職活動のために買った安物なので惜しくはないが、余計な出費は痛かった。女性はこちらを振り返ることなくスタスタと前を歩いているので、ここはどこなのか、あなたは誰なのか、先ほどの出来事は夢か現実なのか、それらの疑問をぶつけるタイミングが見いだせなかった。
ただでさえ視界が暗いのに、靴に雪がへばりついて歩きづらいことこの上ない。この女性はどうして何事もないかのようにずんずん前へ進めるのだろう。それに、半袖のワンピース姿で寒くないのだろうか。頭にかぶっている変な帽子は何だろう。
そんな疑問をいだきながら女性の後ろを歩いていると、女性は振り返ってそういえば腹は減っていないかと僕に尋ね、ポケットから干し芋を二つ出して僕にくれた。あまりに唐突なので驚いたが、ふざけているようには見えなかった。変わった人だなと、初めてはっきり思った。全く腹など減っていなかったが、とにかく今はいいなりとなって左手で受け取った。一つはコートのポケットの中にしまい、もう一つのほうにかじりついた。干し芋の甘みが、自分は今夢を見ているのではないということを教えてくれた。
どれぐらい歩いたのだろう。やがて、人工的な明かり見えてきた。やっと人の住む町についたとほっとしたのも束の間、僕はまた途方にくれることになってしまった。足を踏み入れると、そこには時代劇で見たような古い町並みが広がっていたからだ。
歴史の教科書に載っているような木造建築ばかりが建っていて、高い建物がないため町全体が平べったく見えた。どこを見ても鉄筋コンクリートでできた建物はなく、全ての家は木と石でできていた。明治時代を扱った大河ドラマで、ちょうどこういう町並みが出てきた気がする。狐にでも化かされているのかと、僕は呆気にとられてぽかんと立ちつくすだけだった。駅にいた時よりも、雪は強くなっていた。
女性の住まいは、一階建てのやや小さめの家だった。竹の垣根が家を囲っていて、屋根は茅葺きだった。玄関は土間になっていて、畳の居間には黒い漆塗りのちゃぶ台があり、その横には木製のタンスと藍色の火鉢があった。本棚には巻物がきれいに整理されて積まれており、壁に目をやると昔話のおじいさんが着るような蓑笠がかかっていた。台所を見ると土作りの大きなかまどと七輪があり、木でできた桶には水がはってあった。
要するに家の中までまるっきりの時代劇だった。タイムスリップでもしたのだろうかと、いよいよ疑いたくもなった。
僕はちゃぶ台に座らされ、コートとスーツを脱いだ。腕をしばっていたリボンは女性に返した。血のシミがついていて、非常に申し訳なかった。女性はそのシミを見ても嫌な顔一つせず、僕のワイシャツをめくった。傷口は意外と小さいが、普段血を見慣れていない僕は傷を直視できなかった。
女性は怪我の手当てに慣れているようだった。たんすから薬草と思われる植物を取り出して乳鉢ですりつぶし、慣れた手つきで僕の傷口に塗ってくれた。身近にいる人がよく怪我でもするのだろうか。
手を動かしている間、女性は僕に色んな事を話してくれた。上白沢慧音という名前や、教師をしていることもこの時教えてもらった。助けてもらった人が教師であることを知り嬉しくなった僕は、つい自分も教師を目指していることを言ってしまった。僕はすぐに後悔したが慧音さんは「ほぅ」と驚いた声を出し、ずっと堅かった表情が一瞬だけ柔らかくなった。
だが、問題はその先だった。曰く、ここは「幻想郷」と呼ぶ世界であること。人間だけでなく、妖怪や妖精などの異形が住む世界であること。さきほど僕を襲った羽根の少女も妖怪であり、僕のような余所者が襲われる事件がたまにあるということ。そして残念なことに、僕が元の世界に帰れるかどうかは分からない、とのこと。
包帯が巻かれ、傷の治療が終わった。ワイシャツを元に戻しながら、さてと僕は考えた。腕時計を見ると、すでに夜の一時を回っていた。
慧音さん(そう呼んで構わないと彼女は言った)は嘘をついているようには見えなかったが、こんな話を素直に信じろいうのは無茶な相談である。たしかに僕に襲いかかった羽根の少女は、空でも飛んでいるかのような動きをしていた。あの時私の目が全く見えなくなっていたのは、少女の妖怪としての能力によるものだとも慧音さんは述べた。
私も妖怪の一種であると慧音さんが真顔で言い放った時は、さすがに頭がくらくらした。僕が知る妖怪というのは目玉の親父とかぬりかべとか、そういう類いのものだ。
しかし彼女の話しぶりは真剣そのものであり、からかっているようには見えなかった。あまりにも彼女の口調が真面目なので、僕はこれからどうやって帰ればいいのかという、今最も切実である問題が頭から吹き飛んでいた。
だから慧音さんの唐突な誘いに僕はひどく面くらった。この里に宿などないし君は怪我人だ。今日はこのままこの家に泊まりなさいと。
当然僕は固辞したが、彼女は僕の言うことを聞かなかった。ここまで世話になっておいて、なおかつ初対面の女性の家に泊まれるほど、僕は度胸のある人間ではない。しかし彼女は非常に頑固な性格らしく、この大雪のなか怪我人を外にほっぽり出せるかと、言って聞かなかった。このままだと椅子にでも縛られかねないぐらいの勢いだった。
まずいことに、携帯の電池が切れていた。私は「電話」とやらを持っていないし、この家には「こんせんと」なるものもない。僕の家族に連絡しようとしても、彼女はその一点張りだった。
押し問答の末、とにかく体を洗って頭を整理して来なさいと言ってタオルと浴衣を手渡され、結局僕は折れた。
実際、僕は疲れ切っていた。巻き込まれることに。傷つけられることに。
その浴衣は自分が昔着ていたものであり、女物なので申し訳ない。すまなそうに彼女はそう言葉を添えた。今さらそんなことを気にかけるほどの気力はなかった。もう何でもいいからとにかく今日は休んで、どうすればいいか明日また考えよう。そう考えながら脱衣所に向かった。
包帯を濡らさないように気をつけて湯を頭にかぶりながら、何故慧音さんはここまで僕に優しくしてくれるのだろうと思った。怪我人とは言え、見ず知らずの男にここまで親切にする理由など一つもないはずだ。彼女は自らを教師と名乗り、村の学校で勉強を教えていると言っていた。
であるならば、彼女の度をすぎているまでの親切は教師という職から来るものなのだろうか。僕は大きく顔を上げ、湯気がふわりとのぼっていく天井をぼぅっと眺めた。果たして僕は彼女のようになれるだろうか。
浴衣のサイズはちょうどよかった。僕は背が低いほうだし、彼女は女性としてはかなり背が高い。広げてみるとこの浴衣は濃い紫色に控えめな白いストライプという落ち着いた色調であり、男が着ても問題ないんじゃないかと、服装に興味のない僕などは思ってしまう。
だが今になってやっと気づいたのだが、浴衣の帯もしっかりとした女性用だった。温泉旅館の女将みたいな太い帯なので、さすがにこれを身につけるのは恥ずかしいと、僕はネクタイを腰にぐるりと一周まきつけて即席の帯とすることにした。
浴場から戻ると、彼女は縁側に一人で腰をおろしていた。彼女もすでに浴衣に着替えていた。正座の姿勢から足を少し崩したような格好で、上半身を庭のほうへ軽くねじって外を眺めていた。彼女の浴衣は生地が真っ白で、ごくうすいピンク色の桜が控えめに描かれていた。
彼女の顔は陶磁器の地肌のように色白だった。彼女の横顔と雪に覆われた庭との間の境界がぼやけて混じっていくような、二つの白が曖昧に重なり合いすぅっと一つになっていくような、そんな錯覚を覚えた。
居間のちゃぶ台が片づけられていて、かわりに布団が一つ敷いてあった。たぶん僕のためのものだろう。
明日は晴れるだろうかと、雪を眺めながら彼女は呟くように言った。僕は天気よりも彼女がまだ頭にのせている帽子のほうが気になって仕方がなかった。
やわらかい布団の中で、僕は昔の夢を見た。小学一年生の秋、学芸会でかぐや姫の劇が行われた日のことだ。体育館のステージの脇にある控室で、僕は運動服の上から浴衣を着るという衣装で出番を待っていた。
僕はかぐや姫に求婚する貴公子の一人という役で、その貴公子は踊りが好きという設定だった。かぐや姫にそんな登場人物はいないはずだが、それは担任の先生の脚色だった。劇を盛り上げるため先生は脚本に色々なアレンジを加え、踊りの振り付けすら自分で考案した。まだ先生になったばかりの新米で、主役のかぐや姫の衣装を自ら作り上げてしまうような熱意あふれる女性教師だった。
控室からステージを覗くと、かぐや姫が成長して大人になるところまで劇が進んでいた。そろそろ僕の出番のはずだ。「美しいかぐや姫、僕と結婚してください」とセリフを言い、そしてかぐや姫役の女の子と二人で踊り、「たとえ結婚できなくても、あなたと踊れて楽しかったです」と最後にセリフを言って舞台袖に退場する。それが僕の役だった。
求婚を断られても楽しく踊りを舞って去るという陽気な役どころだが、かぐや姫から何を言われて求婚を断られるかは忘れてしまった。
かぐや姫、お前さんに会いたいという王子様がいるそうだよ、おばあさん役の女の子がそう言った。ついに僕の出番だ。先生は不安を残す僕の背中を軽く押し、大丈夫よ、いってらっしゃいと励ましてくれた。そうだ、僕は今日のためにたくさん特訓したんだ。大丈夫だ、できる。僕は自分にそう言い聞かせた。
僕は大股で歩いてステージに登場した。背景が描かれたボール紙から絵の具の匂いがする。図工の時間にクラス全員で描いた絵だ。ステージ上を照らすスポットライトの光が熱かった。客席が逆光となり、参観者の顔が影になって見えなかった。どこかに僕の両親も来ているはずだが。
おじいさんとおばあさんがかぐや姫から少し離れ、僕のために道を開ける。僕は一直線にかぐや姫に近づいた。保護者の視線が一斉に僕に向けられるような空気を感じ取り、鼓動が否応なく激しくなった。高揚と緊張、勇気と恐怖。
僕の精神は、まるでおもちゃがでたらめに放り込まれたおもちゃ箱のように感情がごちゃ混ぜになった。
かぐや姫は鮮やかな桃色の着物を身にまとい、膝まで届く長い黒髪のかつらをかぶっていた。そうだ、僕はセリフを言うんだ。僕のセリフは確か……
僕は血の気が引いた。胸をつららで刺され、心臓ごと凍りついたかのようだった。こともあろうに、僕は言うべきセリフを忘れてしまったのだ。「美しいかぐや姫」までは覚えているが、そこから先がどうしても思い出せなかった。バカな!舞台に上がるまではちゃんと覚えていたのに。何回も何回も練習して、頭に叩きこんだはずなのに。苦し紛れに、僕はなんとか「美しいかぐや姫」とだけセリフをのべた。だが、それで時間を稼いでも次のセリフが出てこない。
今にして思えば、当時ぼくは「結婚」なるものが理解できずどういうものか分からなかったため、言葉としてでなく「ケッコン」という音としてセリフを暗記していたのだろう。緊張と不安で、その音が脳から抜け落ちてしまったのだ。
どうすることもできず、僕はただ立ちつくしてしまった。次のセリフをしゃべらないまま固まっている僕を見て、かぐや姫の表情はしだいに曇っていった。不審そうに僕の顔を覗き、困ったような顔をした。その視線を浴びて、僕は顔がかっと赤くなるのを感じた。客席のほうからも、しだいにかすかなざわめきが聞こえてきた。鳥肌が立ってくるのを感じる。
何とかしなければ。何かしなければ。追いつめられた僕は、気づけば「僕と踊ってください」と大声で叫んでいた。
かぐや姫は困った顔つきになり、どうすればいいか分からないといった目つきで控室にいる先生の方を見た。焦燥や羞恥に支配されて僕はパニックとなり、気が動転してとっさにかぐや姫の手をとった。僕はかぐや姫と二人で踊ることになっていたので、せめて踊りをすることで劇を通常の流れに引き戻し、そこから劇を続けようと思ったのだ。
だがダメだった。僕が手を触れた瞬間かぐや姫は怯えた表情を浮かべ、反射的に自分の手を引っ込めてしまった。そのため僕はかぐや姫の手を握ることができずに手を空振ってしまい、踊ろうとして一歩下がり体の重心を大きく後ろに傾けていた僕は支えを失ってそのまま倒れてしまった。
後頭部に衝撃が走り、ドシンと鈍い音が耳に飛び込んだ。衣装が半袖だったため、右肘がすりむけて赤い血が滲んでいた。仰向けに倒れた僕の目に黄色く光るステージライトが飛び込んでくる。そのスポットライトがあまりにまぶしく、僕はとうとう泣きだしてしまった。
客席がとたんに大きくざわめいた。先ほどとは違い、今度は話し声の内容まで聞こえてきた。
一体どこの子かしら。かわいそうに。怪我してないかしら。
耐えかねて僕は声まで出して大きく泣いた。
すると先生が控室からステージに飛び出し、僕を起こしてくれた。そのまま僕を控室まで連れて行き、先生は他の生徒たちにこのまま劇を続けるように指示した。
僕の次にかぐや姫に求婚をする貴公子の役を演じる男の子が、宝石を模したビー玉をたくさんつけた木の枝を持ってステージに出ていった。劇は何事もなかったかのように再開された。
控室の一番奥で、先生は僕のすり傷の手当てをしてくれた。それでも僕の涙は止まらず、椅子に座る先生の膝にしがみついて無言で泣きじゃくった。先生は僕の頭を軽くなでて、ただ一言大丈夫だからと言った。落ち着きを取り戻した僕はいつしか寝てしまい、結局劇が終わるまで僕と先生はずっとそのままだった。
時が流れても、その日のことは一度も忘れなかった。いつの日からか、僕は先生みたいな教師になりたいと考えるようになっていた。泣いている僕をしっかり抱きとめ、助けてくれた優しさ。無償の慈しみ。それらの印象が僕の胸に強烈に刻まれ、僕も大人になったらそんな優しさで子どもを助けたいと、決意したのだった。
そうだ、思いだした。慧音さんはこの先生と似ているんだ。顔つきや雰囲気がそっくりだ。あの日の夢を見たのも、それが原因かもしれない。
次の日も雪だった。あまり寝付けなかったため、六時には自然に目が覚めた。だがすでに慧音さんは起きていた。
縁側に目をやると、真新しい雪が庭につもって光っていた。台所に目をやると、窓から飛び込んできた雪の輝きが割烹着姿で立っている彼女を照らしていた。
彼女は朝食を作っているところだった。トントントンとリズミカルに包丁を動かしてホウレン草を刻む音は、なんだか無性に懐かしかった。
彼女に頼まれて、僕は新聞を取ってくるために外に出た。あくびをすると、雪の湿気をおびた冷たい空気が僕の口に入ってきた。郵便ポストを覗くと裏表2ページの一枚綴りの新聞があった。
「文々。新聞」という名前を、僕は聞いたこともなかった。地域限定のローカル新聞だろうか?記事に目を通すと、隅に注意書きが書かれていた。「今日は満月のため妖怪たちが興奮しやすく、気が荒くなると予想される。人間は本日の夕方以降は不要不急の外出を控え、妖怪との接触を避けた方が無難である」と。
僕はため息をついた。雪の寒さで息は大きな白い煙になり、体から出ていった。やれやれだ。「妖怪に注意」などと書かれた新聞なんて聞いたこともない。
ちゃぶ台に座って朝食を取っている時、寺子屋に行くから留守にする、と慧音さんは僕に言った。
てらこや? 僕は一瞬何のことか分からなかった。寺小屋!? あの江戸時代にあった、読み書きなどを子どもに教えていた施設のことだろうか。僕がそう聞くと、たぶん君が考えているのと同じものだろうと彼女は答えた。
私は寺子屋に行って授業をしないといけないから昼下がりまで出かける。君はこれからどうするか考える時間が必要だろうし、しばらくこの家にいてもかまわない。私が留守のあいだ外に出ても構わないが、くれぐれも人里から離れないように。森で妖怪に襲われても、そこまで私は責任をもてない。彼女の話を要約彼するとこうだった。
ふぅ、と僕は軽く息をついて居間の隅に置かれている僕のカバンに目を向けた。就職活動のために買った黒の合成ビニールのカバンで、かすかに僕の血のりがついていた。
スマートフォンは既に電池が切れている。テレビもパソコンもラジオもなく、唯一の情報源がファンタジーじみた新聞だけというこの状況で、僕はどうすれば自分の家に帰れるのだろう? 駅はどこですかと尋ねたところでまともな返答など返ってこないだろうと、それぐらいのことはもう僕にも分かっていた。では僕はどうすればいいのだろう?
朝食の片付けを手伝いながら、僕は思案にくれていた。
迷った末、僕は彼女のいうところの寺子屋に行こうと決めた。どうせ何もできないのなら、本当に寺子屋が存在するかどうかこの目で確かめてみたい。ここが「幻想郷」とかいう隔離された別世界であるという彼女の言葉が偽りであるか否か、判断をつける手がかりにしようと思った。
そのうえでこれからどうするべきか考えよう。今日は面接がない日だし、大学に一日行かないぐらい大したことじゃない。今は時間をかけてでも、この現実離れした状況を整理して把握する必要がある。
出かける準備をしている彼女に寺子屋が見たいと告げると、さすがに彼女も予想外の言葉にかなり驚いたようだった。彼女は青いドレスの上に蓑笠のみのをまとっていて、例の青い帽子の上から笠をかぶっていた。
その妙な格好のせいで僕はなんだかコントでも見ているような気分になった。東京の街中でこんな格好をした女性が歩いていたら、正気を疑われるか、テレビの撮影か何かだと思われるだろう。
彼女はそういえば君は教師志望だったなと呟き、今度は妙に納得したような表情を浮かべた。意外と表情が豊かな人なんだなと、そう思った。
彼女は押し入れからもう一つ蓑笠を取り出し、その浴衣だけじゃ寒いだろうからこれも着るといいと言って僕に手渡した。僕は昨日着ていたスーツに着替えるつもりだったのだが、彼女はここでも頑固だった。
あの服装じゃ街中で目立って仕方がないし、しかも破れている上に君の血で汚れているじゃないか。そう彼女に言われた。こういう時に彼女は絶対折れないということは昨日でよく分かったので、僕は黙って言うとおりにした。もうどうにでもなれ。
支度をすませた彼女の手には、唐草模様の風呂敷包みがあった。教科書が入っているのだろうか? 彼女は玄関で二つの傘を手に取った。傘はビニール製のものではなく、紙と竹で作られた古風な和傘だった。今さら僕はもうそれぐらいで驚かなかった。ここにきてビニール傘が出てきたほうがよほど驚く。どうやら僕は慣れつつあるようだ。
僕は彼女から一つ傘を貸してもらい、彼女の後ろについて門を出た。靴だけはさすがに昨日から履いている革靴にした。道には自動車が一台も走っておらず、誰もが徒歩で移動していた。通行人は誰もが僕たちと同じように蓑笠を身につけており、こちらはさすがに驚いた。
僕はみのにまとわりつく雪を払いながら、もし本当に寺子屋があったら、もし一生ここから帰れなかったとしたら、などと考えた。両親は今頃どうしているだろうか。
歩いている途中、和傘をさした少女が僕たちとすれちがい、慧音さんと軽く挨拶を交わした。紫色の長い髪を肩にたらし、ブレザーにミニスカートという現代風な服装をしていた。だがそれ以上に驚いたのは、彼女の頭部から兎の耳のようなものが出ていたことだ。カチューシャかヘアバンドのようには見えない。
勘弁してほしかった。僕はせめてもの抵抗として、そんな服で寒くないのかとウサ耳少女を心の中で心配してやることにした。
少女と別れると、慧音さんはふと空を見上げた。低空を覆う分厚い雪雲を見ているようだった。僕も彼女の視線を追うと、天狗みたいな高下駄を履いている少女が僕の視界を横切って雪空を飛んでいた。
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「……しかし、それでは子どもに想像力がつかないのではないですか? まずは子どもの自主性にまかせて学習意欲を自然に高めてから…」
「いや、想像力には土台となる前提知識が必要になる。やはり最初は一定レベルの知識をつけさせるべきだ。そのために…」
時計の針が午後五時を回ったが、僕と慧音さんはまだ教室にいた。すでに日はかなり傾いていた。
慧音さんはここまで長居するつもりはなかったらしいが、彼女も僕も時間の経過を忘れて喋り続けていた。昼食の時に二人の会話がふとしたきっかけで教育論の話題になったからだ。
彼女はこの二日間でよく分かったように頑固だし、僕は僕で教育者を目指して生きてきたのだから教育論については譲れない思想を持っていた。話していくうちに二人の間で共通する考えと、逆に相容れない理論があることが分かった。
一つの会話が別の会話を生みだし、そこで出た意見はまた別の意見とぶつかりあうのだった。こんなに他人と長く熱い議論を交わしたのは生まれて初めてだった。しかしこの口論は決して不愉快ではなかった。
それどころか、カラオケで好きな歌を思いっきり歌った後に残るような、心地よい疲労感に僕はつつまれた。こんなに気持ちのいい議論があることを、僕は初めて知った。
慧音さんがトイレのために一旦席を外した。さっきからどうも寒いと思っていたが、火鉢の炭がつきてしまったようだ。僕は湯呑みの中で完全に冷たくなったお茶を飲みほし、窓を見た。それにしてもと、僕はしみじみ考えた。僕はここで何をしているのだろうと。
言うまでもなく僕がやるべき事とは両親の待つ家に帰ることであり、そのための手段を探すことだ。そもそもここがどこかなのさえ未だにはっきりと分からない。寺子屋などというものが本当に存在するかどうか見てやろうと思って、僕は彼女に連れられてここまで来た。
そうしたらあった。本当にあってしまったのだ、寺子屋が。学校と言うには非常に狭いこの木造の建物で、彼女は本当に授業をしていた。最初は建物を見るだけのつもりだったが、彼女に手を引かれぐいぐいと教室の中に連れ込まれ、気がつけば僕は授業を見学することになってしまった。授業を受ける生徒たちは全員和服だった。男の子は皆丸刈りで、女の子は全員おかっぱだった。
なるほどたしかに江戸から明治にかけての寺子屋の光景とはこんなものだったのかもしれないと、そう思わせる説得力があった。僕をだますためによってたかって芝居をしているのだろうかとも考えたが、それにしてはあまりにも全てが大がかりすぎる。ここまで大がかりなドッキリを僕にしかける意味が分からない。やはり騙されているようには思えなかった。
ふと気が付くと、雪はいつの間にかやんでいた。教室はあいかわらず静寂に包まれていた。
この土地は時間がゆったり進むなと、僕は思った。この土地、とりあえず「幻想郷」と呼んでおくが、僕は「幻想郷」に来てからの二日間、常に時間の流れの遅さを感じていた。
昨日の夜慧音さんの家に泊まった時もそうだったが、「幻想郷」はとにかく余分な音がしないのだ。テレビの音も、車の騒音も、CDから流れる音楽も。僕は今まで、音に満ちた生活を送っていたようだ。あまりにたくさんの音に囲まれると、人はせっかちになってしまうのかもしれない。
「幻想郷」を包みこむ凛とした沈黙が心地よいせいか、もしかしたら僕は本当に現実から離れた異世界に来てしまったのかもしれないと、そんな気持ちになってきた。
ただ一つ確実に言えることは、僕は全然焦っておらず、妙に落ち着いているということだった。
包帯の上から右腕の傷口を軽くさすっていると、廊下から足音が聞こえてきた。慧音さんが戻ってきたようだ。
…いや、それだけじゃない。話し声が聞こえる。女性二人分の話し声だ。一つは慧音さんのものだが、もう一つは初めて聞く声だった。
「…しかし驚いたよ。慧音ったらこの時間になっても家にいないもんだから、もしかしたらと思ってここに来たら案の定だ」
「すまない、つい彼との議論に夢中になってしまってな。こんな時間になっているとは気付かなかった」
「別に謝らなくてもいいけど…ていうか、彼って?」
そこまで会話が聞こえたところで、教室の扉が開かれた。ドアに手をかけている慧音さんの後ろに、白い長髪の少女の姿が見えた。その少女は白いシャツを着て、サスペンダーがついた赤いもんぺみたいなズボンを穿いていた。
その少女は藤原妹紅という名前らしい。慧音さんと昔からの知り合いのようだ。慧音さんがそう藤原さんを紹介している間、藤原さんは僕のことをじっと見ていた。鋭さを感じる、ややつり上がった目だ。
何だこの胡散臭い男は? 何で慧音の古い浴衣を着ているんだ? たぶん、その視線の意味はそんなところだろう。
今度は僕を紹介する番となった。慧音さんは僕の名前を藤原さんに告げ、説明を続けた。
彼は昨日この幻想郷に迷いこんだばかりの外来人で、夜雀に襲われているところをパトロール中にたまたま発見した。彼は自分がどういう状況に置かれているかまだ分かっておらず、放ってもおけないので私が保護した。これからどうするかを彼が決めるまで一時的に私の家で世話しようかと思うのだが、いいだろうか? そんな内容の説明だった。
「好きにすればいいだろう。私に許可をとる必要なんてないさ」
ぶっきらぼうに藤原さんがそう告げた。そこで会話が途切れたので僕はとりあえず頭を下げ、よろしくお願いしますと言った。彼女は相変わらず胡散臭そうに僕の顔を眺めていた。どうもあまり好意をもたれていないようだ。
ぎこちない自己紹介が終わると、藤原さんが切り出した。
「なぁ慧音、もうすぐ夜だし、はやく家に戻ったほうがいいんじゃないか? ちょうど雪も止んだし、今日は私も付き合うからさ」
「ああ、ありがとう。月に一度だけの仕事だからな。今帰る準備をするから、ちょっとだけ待ってくれ」
慧音さんが机の上に乗っていた二人分の弁当箱を片づけた。そういえば弁当箱を何時間も机の上に出しっぱなしにしていた。
僕には状況がよく飲み込めなかった。会話から察するに、慧音さんはこれから何か仕事をするために急いで家に帰らないといけないらしい。もうすぐ夜だというのに、家で何の仕事をするのだろう?
「すいません、話に夢中になって慧音さんのお時間を奪ってしまったようで。これから何の仕事をされるんですか?」
藤原さんが僕のほうを振り返った。
「なんだ、慧音から聞いてなかったのか? 慧音はな、これから歴史を作りに行くのさ。私はそれの付き添いだ」
「歴史?」
何かの比喩だろうか?
「満月の夜になると、慧音は幻想郷のあらゆる歴史を知ることができるのさ。それが慧音の能力。そしてその知識を歴史書に纏めるんだ。幻想郷の正しい歴史を残すためにな」
うん? 何を言っているのか、まるで理解できなかった。あらゆる歴史を知る? それが能力?
藤原さんは顎に手を当て、僕の顔と慧音さんの顔を交互に見た。何か考えているようだった。
「なあ慧音、この人は今日もお前の家に泊まるんだろう?」視線を慧音さんに向けたまま、藤原さんは尋ねた。
「え? ああ、そのつもりだが…」
「ならいい機会だ。私に聞くよりも実際にその目で見たほうが分かりやすいだろう。……それにあんた、はっきり言って慧音が妖怪だってことまだ信じてないだろう?」
会ったばかりの人にいきなり胸中を見透かされ、僕はついドキリとしてしまった。
「慧音が変身する姿を見ればきっと納得するさ。構わないよな、慧音?」しゃべっている間、彼女は長い髪の毛を右手で軽くいじっていた。
変身? 僕はきっと間の抜けた、ぽかんとした表情を浮かべているのだろう。藤原さんはこちらを見ながら、無邪気ないたずらっ子のような表情をかすかに顔にのぞかせている。慧音さんもこの提案は意外だったらしく、やや驚いたように答えた。
「ああ、そうだな、彼さえよければ。あまり人に見せるものではないが」
どうやら僕は、これから慧音さんの仕事現場に立ち会うことになったらしい。僕はここまできたら見るもの全て見てやろうという気分だった。考えるのはそれからでも遅くないだろう。
何しろ目の前の女性が妖怪である証明を見せてやるというのだ。そんな面白そうなものはぜひとも見ておかなければ。どうもこの「幻想郷」という土地は、僕を呑気にさせるようだ。
だが、「あらゆる歴史を知る」とはいかなる仕事なのだろう? 「教師として授業をする」ならイメージも湧きやすいが、こちらは抽象的すぎて想像もつかなかった。満月の夜に変身するものといえば、僕は狼男ぐらいしか知らなかった。
「校庭裏の森を通っていこう。そっちのほうが近道だし、万が一妖怪が襲ってきても妹紅がいるならまず安心だ」
朝と同じように蓑笠のスタイルになった彼女がそう言い、藤原さんが短く「ああ」とだけ言葉を返した。僕も蓑笠を身につけ、忘れないように和傘を手に取った。もうこのスタイルにあまり抵抗はなかった。
僕たち三人は寺子屋を出て、校庭に隣接する森の中に入った。雪雲はまだ空にくすぶるように残っていた。
森の中は人が一人通れるぐらいのけもの道があり、慧音さん、藤原さん、僕の順番で並んでその狭い道を歩いた。地面には雪がこんもり積もっている。革靴で雪道を歩くのも何だか慣れてしまった。
「…あいつ、なんか嬉しそうだな」
僕より少しだけ前を歩いていた藤原さんは、前を向いたまま独り言のようにそう呟いた。
「え?」
「慧音はさ、満月の夜になると毎回気が立っているんだ。満月は月に一回しか来ないからな、一晩で一ヶ月分の歴史を作らないといけないわけだ」
ふむ、と僕は話に耳を傾ける。慧音さんはやや離れた前方を歩いているため、僕たちの会話は聞こえないようだ。
「だからどうしても満月の夜は忙しくなる。朝まで一睡もできない徹夜の作業だ。さっき聞いたんだが慧音は昨日もあまり寝てないんだろう?」
僕は気まずくなった。それは僕が原因だからだ。今さらではあるが、僕は慧音さんにとんでもない迷惑をかけているようだった。
「なのに、あいつは妙に楽しそうだ。満月の夜に上機嫌な慧音を見るのは久しぶりだな」
そう言って彼女は振り返って僕の目を見た。だがそれは一瞬のことで、藤原さんはすぐ前を向きなおした。ほんとうに一瞬だったので、彼女の紅い瞳からは感情が読み取れなかった。僕は何だか試されているような気分だった。
「なぁ。ところでお前たち、今日の夕飯は何がいい? なるべく時間をかけずに作れるものだといいんだが」
前を歩いていた慧音さんが振り向いて僕たちにしゃべりかけた。声はいくらか弾んでいる。こうして見ると、たしかにどことなく嬉しそうだった。
家に戻ると、僕たちは三人で協力して夕飯を作った。僕は人参とじゃがいもと玉ねぎを切る役目を仰せつかった。「幻想郷」にもカレーがあるのは少し意外だった。慧音さんは隠し味と言ってカレーに味噌を入れていた。僕はさっぱり料理をしない人間なので、それが普通のことなのか「幻想郷」に特有の習慣なのか分からなかった。
夕食を食べ終えた僕たちはお茶で一息ついた。
慧音さんと藤原さんは、最近「幻想郷」の人間たちの間でにわかに厭世観が蔓延しつつあるということ、乱れた人心を掌握しようと宗教家たちが信仰集めに駆け回っていることを話していた。よく分からないが何だか物騒な話だなあと、僕はぼんやり二人の会話を聞いていた。
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いよいよ慧音さんが仕事を始める時が来た。
僕たち三人は勝手口から外に出て、家の裏庭にいた。ここで仕事を始めるらしい。もうすっかり夜になっていた。裏庭はテニスコートぐらいの広さだろうか。一方が家の壁に面していて、他の三方はぐるりと垣根が植えられていて、そのすぐ外側を竹林が囲んでいた。
裏庭の真ん中には、木で組まれた小さいやぐらのようなものがあった。夏のお祭りで盆踊りをする時に、中央で太鼓をたたくアレだ。高さは一メートルぐらいしかなく、舞台の広さは三畳ぐらいだ。屋根はない。まわりは雪景色なのに、なぜかこの舞台の上だけはちっとも雪が積もっていなかった。
ここで慧音さんは「変身」し、「あらゆる歴史を知る」というわけか。
外は寒かったが、それよりも好奇心がまさっていた。慧音さんは緑色のワンピースに着替えていて、あの奇妙な帽子はかぶっていなかった。両手には小さい鈴が房状にぶらさがった棒が握られていた。
慧音さんはやぐらに据えられた階段を上り、舞台の上に立った。家の壁の近くには長椅子が一つ置いてあり、僕と藤原さんは雪を払ってその上に座った。月光が慧音さんにふりそそぎ、舞台ごと彼女を青白く照らしていた。
ん? 月光? 顔を上げると、さっきまで空を低くおおっていた雪雲がすっかり消えていることに気付いた。空をさえぎるものはなく、きれいに見渡すことができた。晴れた空を見るのは「幻想郷」に来てから初めてだった。
空には信じられないような数の星があふれんばかりに輝いていた。東京のちっぽけな星空しか知らない僕には、これが夜空であるとは信じられなかった。赤や青、オレンジや白など、様々な色を伴った星が闇の中で燃えていた。真珠やルビーやサファイヤといった宝石がそれ自体で光をまとって闇の中で輝いているような、そんな眺めだった。天の川がその宝石の群れを貫いていた。
満月は竹林のすぐ上で大きく光っていた。満月がこんなに明るいということを僕は知らなかった。
およそ夢のようなこの星空を見ていると、「幻想郷」なるこの土地は現実世界から隔離された異世界であるという話を、そのまま信じてしまいそうになった。むさぼるように空を見つめていたため、僕はしばらくの間二人のことを忘れてしまった。
なぁ、と隣に座る藤原さんに呼びかけられて、僕はようやく目線を星空から引き剥がした。藤原さんはまっすぐ僕の顔を見ている。
「やっぱりあんた、外から来た人間なんだな。外来人は夢中になって夜空を見上げるから不思議なもんだよ。まぁ、みんなすぐに飽きるんだが」
藤原さんがしみじみとした声でそう呟くと、しゃん、と鈴が鳴る音がした。
舞台の方に目を向けると慧音さんは両手を高く上にあげ、頭上にいる誰かから何か大切なものを受け取るような、そんなポーズをとっていた。彼女の視線の先には月があった。
もう一度、夜の闇に凛とした鈴の音が鳴り響いた。白い雪は鈴の音を静かに吸い取り、その冴えた音をあたり一面にやさしく木霊させるかのように地面に横たわっている。彼女は右手をおろしながら、その場でくるりと一回転した。踊りを踊っているようだと、僕は思った。
彼女の顔にはいかなる表情もなく、使命を帯びたかのような荘厳さがあった。その粛然たる顔つきは神々しくすらあり、まるで舞台の上の聖の世界と僕たちがいる俗の世界を分けるかのようだった。
「彼女は何をしているのでしょう?」
僕は藤原さんに小声で尋ねた。
「神降ろしさ」
藤原さんは舞台を見たまま答えた。慧音さんは左右の手を逆にして今度は反対方向に回った。
「神降ろし?」
「慧音は今自分の身を清めているところなんだ。身を清めることで、神から幻想郷の歴史の言葉を預かることができる。そうやって慧音は歴史を知ることができるわけだ」
藤原さんの説明はいまいち理解できなかったが、舞台を包む厳かな空気を前にすると、有無を言わせぬ不思議な説得力があった。
舞台の上で慧音さんは踊り続けた。踊りと言っても左右交互に回り続けるだけの単純な踊りだが、その一つ一つの動作が優美であり、気品があった。一定周期で鳴り続ける鈴の音は、深海を潜る潜水艦のソナーのようだった。夜の蒼い闇のなかでリサージュ曲線を描いて舞う黄金色の鈴は、蛍のようだった。
「あんたはさ、劇を見るのは好きかい?」
隣から唐突に質問がとんできた。僕はぼうっと舞台の上の踊りに見入っていたため、自分が話しかけられていることに一瞬気付かなかった。
「え? 劇ですか?」
「ああ、歌舞伎でも悲劇でもミュージカルでも何でもいいが、そういうのはよく見るかい?」
質問の意図がよく分からず、いいえ、あまりないと思いますと、あいまいに答えるしかなかった。
「劇には当然脚本があるよな。ここで登場人物Aがこうしゃべるとか、ここでBとCが歌を歌うとか、ここでDが躍るとかさ」
慧音さんはなおも腕を振り回しながら左右に回り続けている。その旋回運動は少しずつ速くなっているようだ。
「私は劇を見るのが好きでさ。この前慧音の寺小屋の子どもたちが児童劇をやってたから、見に行ったのさ」
話を聞いている僕の頬を静かな風がそろりとなでて、裏庭を通り抜けた。
「すると劇の最中にまずいことが起こったんだ」
「まずいこと?」
僕は藤原さんの顔に目を向けた。彼女の瞳は澄み切っていて曇りがなく、目と目があった瞬間、僕は腹の底までも全て見通されているかのように思えた。
「出演者の子どもが一人、セリフを忘れちまったのさ。後で慧音から聞いたんだが、その子はずっと風邪で休んでいてロクに劇の練習に参加できなかったらしい」
「で、本番のステージの上でセリフを忘れてしまった、と」
私は話を聞きながら、あの優しい先生の顔を思い出していた。あの先生は今もどこかで教師をしているのだろうか。
「あんたならさ、そういう時どうする?」
「え?」
「もしあんたがその子どもだったとしたらさ、あんたはステージの上で何をする?」
僕は背中を丸めて膝の上に両肘をのせ、口の前で両手を組んだ。あの日のかぐや姫の顔、ボール紙に描かれた背景の絵、観客席の薄暗さ。スポットライトのまぶしさ。そういったものが一瞬のうちに想起され、僕の頭の中を駆け抜けた。
同時に、就職活動の日々が脳裏に浮かびあがった。机をはさんで面接官と向き合って座る僕の姿。不採用をつげるお祈りメール。履歴書を何回も書き損じ、破り捨てた。クリスマスの電光イルミネーションで飾られた街並みを一人で通り抜ける、黒いスーツ姿の僕。
ふさわしい振る舞いのできぬ者。舞台の上で適切な役を演じることができずに、立ちつくしている者。シナリオについていけず、ステージの上でまごついている者。浮いていて、異質な存在。場違い。ボタンをかけ違えたまま服を着ているかのような違和感。
だが。僕は叫びたい衝動にかられた。「シナリオ」とは何だ?
「踊らなければならない」
がむしゃらに、でたらめに。自分の体内に宿るリズムにあわせて。タン、タン、タンとステップを踏みながら。
「踊る?」
藤原さんが聞き返すようにして呟いた。舞台から鈴の音が響いてくる周期が短くなってきた。
僕も慧音さんがいるステージを見上げたが、思わず手をかざして目を閉じてしまった。舞台の上がにわかに光に包まれ、まばゆく輝きだしたからだ。あまりのまぶしさに体がのけぞり、あやうく長椅子から体が滑り落ちそうになった。
慧音さんは光の柱のただ中で踊り続けていた。まるで劇場全てのスポットライトをその身に受けて一心不乱に舞うダンサーのようだった。地面や竹林を覆う夜の雪がその輝きをいっそう引き立てた。
スカートのようにふわりと舞う彼女の青白い長髪は、光を反射して明るくきらきらと輝き、煌めきの粒を庭じゅうにまき散らしていた。しゃん、しゃんと澄んだ音を鳴らし続ける鈴は、その丸いフォルム一面で光線を反射し、電球のように光っていた。舞台の上では何もかもが白く黄金色にぴかぴかと輝いていたため、僕は舞台を包む光と彼女の白い顔面との境界線を見つけることができなかった。彼女は光と一体化しているかのようだった。この光の正体は何かなんて、既にどうでもよかった。
「他の人たちが演技を続ける中でも、あんたは踊るのかい?」
藤原さんが、確かめるように僕に尋ねてきた。声のトーンは穏やかだったが、彼女の目は冷徹さに満ちていた。面接官のような眼だった。
「踊らなければならないんだ。誰も見てくれなかったとしても」
藤原さんの右頬が舞台の光で黄色く染まっている。一瞬の静寂の間があった。やがて彼女の口元が重く開き、念を押すように僕に問いかけた。
「もしその劇が嫌で嫌で仕方がなく、もうステージから降りてしまいたいと思ったとしても?」
穏やかだった彼女の声のトーンが、急に鋭さを増した。ほとんど裁判官のような鋭利さを伴った言葉だった。僕の一言一句を逃さぬような真剣な顔つきだった。
僕はそうだ、と答える。
「ステージの上で何が起こるか、誰にも分からないのだから。落ちていくコインの裏表が、誰にも予想できないように」
最後はもうほとんど絞り出すような声で、僕はひとり言のように呟いた。呼吸があらくなる。僕の口からでる白い息は、舞台から漏れ出た光線を浴びながら空気中に霧消していった。
あふれんばかりの光輝にようやく目が慣れて、僕は視線を舞台に戻した。慧音さんは光などまるで気にする様子を見せず、ただただ無心の顔つきで舞っている。
回転の速度が上がって踊りは激しくなる一方なのに表情があまりにも静穏なため、まるで精巧に作られた日本人形が踊っているかのようだった。なるほど確かに神様が舞い降りてきそうだと思える、崇高さを感じさせる相貌だった。
視線を彼女の顔から頭上へと移した時、僕は震撼した。驚天動地だった。彼女の頭上に、一対の角のようなものが見えたからだ。
見間違えではない。牛のような湾曲した長い角が二本、たしかに彼女の頭から生えている。左の角には赤いリボンが可愛らしく巻きつけられている。
妖怪…? 僕は茫然と慧音さんを見つめるしかなかった。彼女は未だに光の中で踊り続けている。ひたすら無表情に、ただ左右交互に回っている。とり憑かれたように激しく舞い続ける彼女を見つめるうちに、しだいに陶酔感が僕を襲ってきた。
煌めく星空と、まばゆく輝く舞台。雪の白い静寂が、でたらめなぐらいに明るいそれらを受け止めている。凛然たる鈴の音色は、まるで僕を天国へ連れていってくれる神様の声のように、清浄たる響きだった。
彼女の踊りは全くもって魅惑そのものだった。せわしく動き回る彼女の黒いまつ毛の長さに心を奪われ、目元の端麗さにうちひがれた。忙しく乱れ回る髪の下でうなじがうっすら金色に輝き、それを見た僕は心から理性が消えていった。彼女の踊りは単調な動きに見えるがその一挙一動全てに全神経を注いでいるかのようであり、鈴がついた棒を握る指の一本一本までが緊張と歓楽ではちきれんばかりにみなぎっているようだった。
彼女の切れ長の目にはほおずきみたいに真っ赤な瞳が妖しいぐらいにしっとり光っていた。その瞳を見つめていると、僕はしだいに精神が不明瞭に霞んでいくような感覚になった。まるで自我と無意識を隔てる壁が崩壊するようだった。僕は放心し、ただただ彼女の踊りをうっとりと眺めていた。
僕は恍惚となりながら、今なら幻想郷の存在を信じていいとはっきり思った。
そうだ、ここは妖怪がたしかに存在する世界なんだ。今なら分かる。こんなものを見せられてしまっては信じるほかない。
これほどの高揚感が得られるのだ、もう彼女が妖怪だろうが構わない。もっと見たい。そうだ、ずっとこの世界に住んでしまえばいいのではないか。
彼女の下について寺子屋運営の手伝いでもして、雑用でも何でもやろう。そしていつかは自分もあの教室で教鞭をふるう。そんな人生もありではないのか。そうやって夢をかなえるのも一つの人生ではないか。
そうだ、それだ。現実が僕を必要としないのならば、社会が僕を受け入れないのなら、いっそのこと幻想の世界に生きてるのもいいかもしれない。慧音さんに土下座してでもあの寺子屋で働けばいいんじゃないか。
そうか、ここはきっと見捨てられた者の楽園なんだ…
朦朧とした頭でこのような思いがつのっていった。僕は幻惑した頭のなかで勝手なユートピアを築いていった。
ふと、僕は強烈な眠気に襲われた。目の前の光景が蜃気楼のようにぼやけてきて、どんどん遠のいていくようだった。隣に座っている藤原さんが僕に何か話しているが、何を言っているのか聞こえなかった。心地よい恍惚感に包まれながら、僕は瞼をとじた。瞼をとじた暗闇の中で一つの目玉が僕をギョロリと見つめたような気がした。僕はそのまま意識を失った。
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目を覚ますと、僕はベンチに座っていた。僕の手には冷めきった缶コーヒーがあった。
僕はあわてて立ち上がり、まわりを見渡した。ここは駅のホームに設置されたベンチだった。僕は黒いスーツに黒のコートという、就活生の服装をしていた。右腕のところが深くやぶけていて、肌が見えていた。しかし腕には一切傷がなかった。
腕時計を見ると、十二月二十四日の午後九時すぎだった。
ホームに電車が到着した。銀色のボディに緑色のラインをつけた電車がホームに滑りこんで、スーツ姿のサラリーマンたちを吐きだした。ここは品川駅だと乗客に告げるアナウンスが駅のホームに木霊した。
つまりここは僕が電車を待っていて気を失った場所だ。僕は幻想郷から戻ってきたのだろうか?
それとも……それとももし、あの世界での体験が全て僕の夢で、ただの妄想だったとしたら…。だが、丸一日寝ていてずっと夢を見ていたなんていうことが有り得るのだろうか?
間もなくドアが閉まりますというアナウンスが聞こえて、ハッとした僕はカバンを抱えて光を求める娥のように電車に飛び乗った。動き出した電車の中でポケットを探ると、中から干し芋が一つ出てきた。
一つ言えることは、僕は慧音さんに帽子のことを聞くチャンスを失ってしまったということだ。
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二月の下旬、僕は一つの会社から内定をもらった。小学生向けの教科書を作って出版する、小さな会社だ。
雪が強く降りしきる午後二時ごろ、新橋駅の牛丼屋で遅い昼食を食べていた時に採用の知らせを受けた。携帯電話で受け答えをしている時、店員が興味ありげにこちらを盗み見していた。内定を承諾して電話を切った後、僕は食べかけの牛丼を一気にかきこんで平らげ、店の外に出た。
外ではコートを着たサラリーマンたちが忙しそうに街中を行き交っていた。片手で傘をさしながら携帯電話を持ち、器用にしゃべっているサラリーマンもいる。たぶん営業回りの人達だろう。
気持ちを落ち着かせるために僕は深呼吸をした。強く吐き出した息は、白かった。傘もささずに、僕は大股で駅に向かって歩き出した。
今夜は満月だ。だがこの雪は一晩中やまないだろう。
紫がなぜ彼を招き、そして放り出したのかは……わかるわけねーな、胡散臭い人だし(作劇上の都合と言うのは無しで)
ただ、彼が少年時代の出来事を割とポジティブに捉えていたのは予想外でした
「踊らなければならない」と言う台詞が出てくるとは思いませんでした
状況がどんなに劣勢であろうと生きているのだし、その先何が起こるのかはわからないのだから、進み続けるしか無い、と彼なりに答えを出したという事でいいんですかね
キャラクターも強烈な個性とかはないけど、良い感じの味がある
これからどんな作品を書いてくれるか楽しみな作者さんだ
後書きの会話はあんまりいらなかったような気もするけど…
でも落ち着いた語り口とか話の収束のさせ方とか、とても良かった
起承転結上手く纏まっており、読み応えがありました。