※本作は書き手の独自解釈、独自設定が含まれております。
秋の、とある日のことである。
「こんな部屋、あったかしら」
メイド長の十六夜咲夜が紅魔館で知らない場所等ないはずである。例えメイド長でなくとも、幼き頃からここで過ごしている自分に、そのような場所があるはずはなかった。が、目の前にある扉は間違いなく咲夜が初めて見るものであった。
見た目は特に変わったところはない。年代を感じさせる木製のドアは紅魔館にはありふれたものだ。ただし、気になる点がない訳でもない。
それは位置である。場所は紅魔館の右棟、一階奥。偶然か、はたまた必然か。そこは咲夜が敬愛するお嬢様、レミリア・スカーレットの寝室の真下である。
「そういえばここだったかしら。何かしら違和感があったのは――」
時間を操る能力を持って紅魔館の空間を広げているのは咲夜自身であった。が、この場所だけは自らの思う通りにコントロール出来ずにいた。その理由は上階に居るお嬢様の力の影響かと思っていたのだが……
「どちらかと言えばここが中心なのかしら」
意識してみて分かる。限定的に能力を発揮しようとしても、この場所はそれを拒否する。
己が能力であれば、この場所で無限の距離を作ることもできるはずなのに。
いずれにしても不思議な話である。そして、不思議なことをそのままにしておけるほど咲夜は退屈な人間ではない。
「鬼が出るか蛇が出るか」
「出るのは鬼ね」
ドアノブに触れるか触れないかの瞬間に扉が開いて見知った館の住人が出てくる。
「妹様は鬼ではありませんわ。鬼はもっと酒臭いですもの」
現れたフランドールにそう答えてみるも、彼女は笑いもせず、咲夜を小さく一瞥した。
「この場所に何の用?」
「用というほどのものではありませんが。ただ、館の管理を負うメイド長として気になっただけですわ。どういう訳かこの部屋のことは知らなかったものですから。どうして気付かなかったのでしょうか」
「知る必要がないからでしょ」
突き放すような言い方に、咲夜は心の中で嘆息する。他の紅魔館の住人と咲夜の関係は悪くないのだが、フランドールだけは咲夜のことを良く思っていないようだ。咲夜が傍に立つと、決まって不快そうな表情を浮かべる。
「好奇心は猫を殺すらしいよ。あまり余計なことはしない方がいいわ」
「あら。私は紅魔館の狗ですわ」
「パチュリーは猫を期待しているみたいだけどね」
バタンと扉を閉じるフランドール。
「しかし妹様、こんな時間に出歩かれているだなんて珍しいですね」
時間は昼を少しばかり過ぎたところ。天気は快晴。
吸血鬼であるフランドールの活動にはそぐわない時間にそぐわない条件。
「ここに何かあるのですか?」
「別に。ただの時間潰しで寄っただけ。どうせ屋敷は出られないんだし、夜になってもあいつが居るだけ。時間なんて関係ないし」
返ってきた言葉は咲夜の疑問に答えるものではなく、咲夜の疑問を避けるもの。ふむ、何を隠したいのだろうか。
「咲夜は手癖が悪いからはっきり言っておくよ。ここには入らないで」
言外に入れば殺すと告げて去っていくフランドールの背中を見送りながら、咲夜は考える。
「うーん」
未だ好奇心は失せていないが、されど咲夜は紅魔館の狗である。猫の如く行動し、主人の妹の怒りを買うようなことをする気にもなれない。
「ならば、出来る範囲で動いてみましょう」
フランドールが出てきた際、部屋の奥に見覚えのある花が見えた。
白く、主張しすぎないが、そこにあるのが自然な感じの花。あの花と、それを育てている人に、咲夜は見覚えがあった。
庭に出て目当ての人物を見つけた咲夜だが、その人物が楽しそうに会話している姿に眉をしかめる。いや、門番の仕事上来客の対応は自然なことなのだが、相手が問題だった。
「美鈴、何をしているの。泥棒相手に」
「ああ、咲夜さん。今日の彼女はお客様らしいですよ」
にこやかなその表情は、泥棒が相手でも変わらないでしょうに。咲夜は呆れながら美鈴が話していた黒白魔法使いを見る。
「お客様?」
「おう。図書館に用事があるのはこいつだからな。私はただの付添だぜ」
見れば黒白魔法使いの隣には紅白巫女。
「珍しいわね。貴女が図書館目当てで訪れるだなんて」
「まあね。最近妖怪退治の報酬を頂いたんだけど、それが現物で大量の野菜だったのよ。で、早く処理したいんだけどレパートリーが少ないとさすがに飽きてきてね」
つまるところ、新しい料理レシピ目当てということか。
「魔理沙も容姿に反して和食派だから、私とだぶっているのよね。だから、洋食レシピで面白いものはないかと思って。あ、咲夜が教えてくれるなら図書館に行くまでもないのか」
「残念ながら説明は苦手なのよね。ちゃんとしたのが知りたいのなら図書館へどうぞ。盗みさえしなければ大歓迎よ。どこぞの黒白みたいなことさえしなければ」
「誰の話だろうな。私は死ぬまで借りているだけだから違うだろうし」
堂々とそんな風に嘯ける魔理沙の度胸に感心すれば良いのか、呆れれば良いのか。
「どちらにしてもパチュリー様に迷惑はかけないでよね」
「おう、いつも通り迷惑掛けないぜ。じゃあな」
「分からないことがあったらあんたにも聞くから宜しく」
そう言って白の混じった黒と紅は意気揚々と図書館へと向かう。
「相変わらずねえ。貴女がもう少し痛い目にでも合わせてくれればあの黒白も反省するのかしら」
「今さら無理じゃないですか」
「そうかもしれないけど、門番の心構えとしてそれはどうなのよ」
「まあ、その通りですね。でも、咲夜さんも人のことは言えないんじゃないですか?」
問われて視線を逸らす。何だかんだで咲夜も魔理沙を匿ってしまったりなどしているから、確かに人のことは言えないのだ。
「まあ、その話は置いといて」
「置いとくのですか」
咲夜は庭にある一つの花壇を指さす。そこにあるのは咲夜が先の部屋の中で垣間見た白い花が植えられているのだが、一部で黒い土が見えている。
「あそこ、ちょっと前までは全部花があったわよね」
「ええ、先日屋敷のお花を交換した際に使用しました。この紅魔館の紅を際立たせる、美しい花だと思いませんか」
「まあ、悪い花ではないわね」
「でしょう」
誇らしげに胸を張る美鈴。確かに美鈴の花の育て方は中々のものである。もはや庭師が本業で門番が副業でも何の問題もないかも知れない。
「ここまでするのは大変だったんですよ。ここの気候が合わず中々上手に育たなくて。花の大妖怪に頭を下げて色々教えて頂いたり、豊穣の神にも色々と助けて貰いました。実はですね、秋の七草の一つでして――」
「まあ、そこらへんはどうでもいいわ」
「どうでもいいんですか?」
悲しそうな表情を美鈴が向けるが、咲夜はそれに頷く。美鈴の苦労話を聞く為にここまで来た訳ではない。まあ、美鈴に地面にのの字を書かせる為でもないのだが。
「もう。その話は又の機会に聞いてあげるから。ちょっと知りたいことがあるから教えてほしいのだけど、花の交換は全て美鈴がしたんだっけ」
「ええ。妖精達は切花が上手ではないですし、生け方も中々独創的なので私がしましたよ」
「じゃあさ、一階の、丁度お嬢様の寝室の下の部屋も交換したのは美鈴な訳ね」
「ええ、あそこの部屋も……って、ええ!?」
「なるほどね」
ビンゴだった。咲夜の質問につい口を滑らせてしまった美鈴はしまったという顔をしている。
つまり美鈴は知っているのだ。あの部屋が存在していることと、その存在を咲夜が知らされていないことを。
「で、美鈴。あの部屋は何なの」
「うう……」
口ごもる美鈴。そんなに答え難いものなのだろうかと疑問に思う。
「メイド長命令だとしても答えられない?」
「私個人としては答えたいのですが、お嬢様に口止めされているので。申し訳ないです」
苦しそうに告げる美鈴に、これ以上答えを引き出すのは無理だなと理解する。
「お嬢様さえお許し頂けたのなら、私の口からも説明できるのですが」
「そう。ならいいわ、直接お嬢様に聞いてみるから。貴女も仕事をしっかりしなさいよ」
すみませんと告げる美鈴の声を背に受け、咲夜は足を館へと向ける。
しかし、不思議な話だ。フランドールの地下の自室に入ることすらも許可されているメイド長の咲夜が、この紅魔館で立ち入ることを許されない場所があるというのは。
しかも、そこは別にフランドールの部屋のように人を避けるような地下でもなく、誰でも足を延ばせそうな一階。
自分だけが知らない紅魔館。
不思議だなと咲夜は思う。うん、それ以外の感情はない。
「おお、我が友よ。化け物の時間でもないのにこの私を目覚めさせるとはどういうつもりか」
日が沈んでもいないのに、自分を起こした友へと不満の声を掛ける。が、友であるパチュリーは冷たい目でこちらを見つめ返してくる。
「またつまらない物語にでも感化されたかしら? そんなセリフじゃカリスマは戻りそうにないわよ」
「うん、そんな気はしてた。これは随分と爺臭いなあと思っていたよ」
「っていうか、日常生活でそんな仰々しい会話はしたくないわ」
「まったくだ。パチェの趣味は悪い」
レミリアは枕元に置いたままの昨日読んだ小説本をパチュリーに返す。
「私が貸したんじゃなくて貴女が勝手に持ち出したんでしょうに。まったく、黒白のネズミにも苦労させられているのに、紅色の羽が生えたネズミまでもが本を盗む」
「私は当主なのだから良いだろうが」
「あら、そうだったわね。地下の図書館の主は、貴女が地上の主人であることを忘れていたわ」
随分とひどい言われようだ。
「籠りっきりで呆けたんじゃないか? 偶には図書館以外にも出てはどうだ」
「だから出てきてるじゃない」
「おおそうだ。どうした我が友よ」
「爺臭い。呆け老人が如く」
ピチピチお肌に対してひどい言いようだ。レミリアとしてはただ会話を楽しんでいるだけなのに。
「残念ながら無駄な会話の為に起こしたわけではないわ」
「だろうな。何かあったか?」
「メイド長の咲夜があの部屋に気づいてしまったそうよ」
「ふうん」
ベッドから下りると、部屋に居た小悪魔が水の入ったグラスを手渡してくれる。起き抜けの乾いた苦い口には有り難い。
「驚かないのね」
「まあ、予想はしていたからね」
こくりと口を水で潤す。頭が回りだした。脳みそがないことを指摘してはいけない。
「で、どういう経緯で? あそこはパチェが魔法で見えなくしていたんじゃないのか?」
「妹様が部屋から出た瞬間を見つかったって言っていたわ。今さら隠しても仕方がないから解呪はしている。とはいえこのまま部屋に立ち入れられても困るから、鍵はかけおくようにだけ言っておいたけど」
「なんだその無意味な処置は。あいつならナイフでこじ開けたりするぞ」
「そうよねえ。そういうところは猫なのに、図書館のネズミには興味を持たないんだから困ったものだわ。誰の教育の賜物かしら」
「美鈴だろ」
今の咲夜を拾ってきたのは美鈴であり、そして育てたのも美鈴だ。ならば、全責任は美鈴である。
「まあ、状況はそんなとこ。妹様がメイド長に知られてしまったと泣いて相談するから足を運んだのだったけど、不要だったかしら」
「なんでフランの相談相手がパチェなのかと色々言いたいが……」
「それは常日頃の接し方の結果でしょ」
「ぐっ。まあ、取りあえず有難うと言っておこう。私はどうでも良くても、当人に確認ぐらいは取っておいた方が良いだろう。では、行ってくる」
そう言って、レミリアは部屋から姿を消した。
「寝間着姿のままで。まったく、レミィも仕方がないわね」
呟いた言葉に、小悪魔も小さく苦笑し、同意した。
時計がカチリと音を立てる。
時計の針が指すのは七時。日は既に沈んでいる。
「あら、時間だわ」
夕食の片づけの途中にも関わらず、主人であるレミリアの起床時間となってしまった。普段の咲夜であれば、当に作業は完了しているはずなのだが、今日は少しばかり他に気を回し過ぎて作業が遅れてしまった。
「あなた達、後はお願いね」
はいと頷く妖精達。まあ、この仕事は彼女達の本業だから任せても問題ないだろう。悪戯好きで集中力がないのは困りものだが、それでも幼き頃は彼女達の世話になっていたのだ。
台所を出て、二階にある主人の寝室へと向かう。
「失礼します、お嬢様」
「うん、おはよう。咲夜」
普段であればベッドの上で熟睡しているはずのレミリアが、今日に限っては既に起床し、椅子に腰を下ろしていた。
「珍しいですわね。もう起きていらっしゃるだなんて」
「まあな。たまの早起きも良いものだ」
既に着替えも終えており、そこに居るのは寝ぼけ眼な幼子ではなく、吸血鬼のお嬢様。心なしか服の着付けもいつもよりしっかりしている為、よりカリスマ溢れているように見える。
「では、すぐにでも紅茶を――」
「いいよ。そんなことよりも聞きたいことがあるんじゃないか?」
レミリアの言葉に、咲夜の心臓が一度、ドクリと跳ねた。
「聞きたいこととは」
「この下の部屋のことさ。見たんだろ」
床を指してニヤリと笑うレミリアに、観念する。
「さすがはお嬢様。全てをご存じなのですね」
「そうさ。私は全てを知っているのさ」
椅子から下りて、レミリアは笑う。
「これは運命。お前は知らなきゃならないんだろう。望んだのがお前なのかは分からないけどね」
「どういうことですか?」
レミリアは部屋を出る。
「行けば分かるさ」
扉はそこに変わらずあった。昨日まで存在してなかったことが嘘のように、今もあり続けていた。
「さて、覚悟は良いか。咲夜」
「覚悟がいるものなのですか?」
重苦しい扉でなければ、地下深くにある訳でもなく、地上高くにある訳でもない。ごく平凡な部屋に足を踏み入れるだけだと考えていただけに、そこまで深刻なものとの思いはなかった。
あったのはほんの僅かな……
「確かに覚悟を持つものではないか。そうだな、気楽に行こう」
ノックをし、部屋に立ち入るレミリア。
「失礼するよ」
「もう、相手の返事も待たずに入ってはノックの意味がないじゃないですか」
「いいんだよ。ここの主人は――」
「私だから、でしょ。もう何度目なのかしらね。このやり取りは」
軽い調子でレミリアと会話する声が部屋の奥から聞こえる。
声は女性のもの。聞いたことのない声。けど、聞き覚えのあるような声。
「さっき説明した通り、連れてきたよ」
レミリアは楽しげにそう言って、部屋の入口で立ち止まる咲夜を見る。
「どうした、お前も早く入ってこい」
「え、しかし」
咲夜の頭はこれ以上なく混乱している。この部屋に誰かが居る? 紅魔館のメイド長である自分が知らない誰かが。レミリアが親しく話せる誰かが。
「お嬢様、説明も無しに連れてきたのですか?」
「説明はお前がしろ。これだって全てお前の我儘なんだから」
「それはそうですが。しかし、人見知りに育ってしまいましたか」
「そんなはずはないんだがな。元気に外で弾幕ごっこもしているよ」
「弾幕ごっこ――懐かしい言葉ですね」
「私は今でも現役だぞ。おい、どうした。今さら臆病風にでも吹かれたか」
しびれを切らしたのだろう、レミリアは入口で足を止めている咲夜の手を強引に引く。
「あっ」
吸血鬼の力に引かれ、部屋の奥に連れ込まれる。そこで、レミリアが言葉を交わしていた女性と目が合う。
それは年老いた女性だった。ベッドの上で体を起こし、老眼鏡を掛けた皺だらけの顔で柔らかな笑みを咲夜に向ける。
「初めまして、咲夜」
「貴女は……」
白の混じった銀色の髪。柔らかいながらも、どこか冷たい印象を与える瞳に既視感を覚える。
何だ。誰に似ている。この年老いた女性は、一体誰に。
「分かっているじゃないか。こいつは先の咲夜だよ」
「え?」
どういう意味だ。だって、咲夜は自分で、でもこの人も咲夜って――
混乱する頭のまま、咲夜は時間を止めた。
「もう。やっぱり混乱させるだけじゃないですか。だから私は静かに暮らしたかったのに」
「それじゃつまらんだろ」
かつての咲夜は溜息を付く。相変わらず身勝手な主人だ、自分がメイド長の頃と何も変わらないと。
「で、お前から見て今のメイド長はどう?」
「そうですねえ。瀟洒で完全には程遠いです。あんな程度で心を乱しては。異変で時々姿を見せるドッペルゲンガーを前にしたら逃げ出しちゃうんじゃないかしら」
「違いない」
愉快そうに笑うレミリア。今度捕まえてけしかけてやろうかなどと、ひどいことを口にする。
「でも、羨ましくもありますわ。あのように心を乱せるだなんて。かつての私はそういう人間らしい心が死んでいましたから」
今の咲夜と同じ年頃、今やお婆ちゃんの彼女は作られた吸血鬼ハンターとして生きていた。感情など持たずに、ただ与えられた仕事をしていただけ。
それが変われたのは、レミリアによって心を奪われたから。奪われる心がまだあったのだと知ったから。
「しかし、メイド長だったお前も結構お茶目だったぞ」
「それを教えてくれたのはお嬢様ですよ。お嬢様に仕えるようになって、初めて色んなことを知ったのです。吸血鬼をからかう楽しさとか」
「余計なことをしてしまったな」
互いに笑いあう。ああ、年老いた身でこんなにも楽しく話せるだなんて。
「「老いることも悪くない」」
重なる言葉に、再度大きく笑う。
「お前があいつの立場だったらどうしただろうな」
「きっと、私だったらこんな老婆など殺していたでしょうね。私は紅魔館で初めて自己を得ました。それなのに、自己を否定しかねない同一の存在など邪魔なだけですから」
「怖い怖い」
「臆病だったのですよ。私はあの子以上に。でも、あの子はそんなことはしなかった。優しい妖怪達に優しく育てられました。優しい幻想郷で、優しい紅魔館で」
頬を皺くちゃな手で触れられると、レミリアは小さく目を細める。
「屈辱の極みだな。優しい妖怪だなんて」
「ごめんなさい。でも、どう褒めたら良いのか分からないんですもの」
「ふん。死ぬまでまだ時間があるんだ。それまでにもっと良い言葉を考えておけ」
「はい。そうします」
少し惜しいが、レミリアの頬から手を放す。名残惜しそうな表情が少しばかり後ろ髪を引く。
「行くのか? たぶん、お節介な世話役が既に行ってると思うが」
レミリアがそう言いながら見るのは、先日替えられたばかりの花瓶の花。
「でしょうね。でも、行きますよ。私も、少しは人生の先輩として助言を――」
そう言ってベッドから降り、立ち上がる。と、足ががくりと落ちる。
「おいおい、大丈夫か」
が、それがそのまま崩れることはない。レミリアが、小さな身で咲夜の崩れた身体を支えている。
「うーん、役得役得」
「何を言ってるんだ、馬鹿」
柔らかなレミリアの体を堪能していると、罵られた。
「もう。残り少ない命なのですから、少し位楽しませてくださいよ」
「お前は何のために立ち上がったんだ」
「ああ、そうでした。お嬢様と抱き合う為」
「骨と皮だけの老婆に抱きしめられる趣味はない」
グサリと突き刺さる言葉。
「あー、もうあの娘ほっとこうかな。私はこんな老いた姿なのに、あの娘はピチピチ」
「おい、言っていることが滅茶苦茶だ。瀟洒はどこ行った」
「瀟洒は老いると慈愛に変わるのですわ。お嬢様を抱きしめる、これこそ慈愛」
「そんな話初めて聞いたよ。っていうか、あいつへの慈愛はどうした」
「あら大変。お嬢様が素晴らしすぎて抜けてしまいましたわ」
ぬけぬけとそんなことを口にする老婆に、レミリアはげんなりとした様子。
「漫才は終わりかしら」
聞こえた声の先を追えば、そこには紅魔館が誇る頼りにならない知識人の姿。
「あら、パチュリー様まで来て下さるだなんて。今日は千客万来ですわね」
「毎日一度は顔を合わせているでしょうに」
「私に会うよりまめだな、パチェ」
今日以前にレミリアがパチュリー顔を合わせたのは確か三日前である。ついでに言えば、この部屋で彼女の診察をしている時に偶然出くわしただけ。それがなければ一週間は顔を合わせてないかもしれない。
「何かあると妹様や美鈴が騒ぐから仕方がないのよ」
むきゅむきゅと自分の意思ではないんだからと、マイペース魔女は不満そうに言う。
「ま、それはいいわ。貴女、これから外にでる気でしょ? なら、この杖を持って行くといいわ」
それは大きな銀色の宝石が目を奪う杖。
「貴女の質に似た魔力が込められているわ。この杖の力を借りれば、今でも空を飛べるはずよ。その足じゃ歩くのは難しそうだからね。あと、現メイド長の追尾機能も搭載済み。念の為、弱い妖怪の弾幕程度なら数時間は攻撃を弾けるバリア機能も付けといたわ」
「至れり尽くせりで有り難いですわ。お嬢様に連れて行ってもらうのも有りかと悩んでいましたけれど」
「おい」
「まあ、それはさすがに宜しくないでしょう。彼女には二人きりで直接話さないと駄目なこともあるでしょうから」
そう言って老いた彼女はパチュリーから杖を受け取る。
「ありがとうございます。久しぶりに空を飛んできますわ」
「あ、待て。外は冷えるからこれを着て行け」
「お嬢様もありがとうございます」
レミリアから受け取ったストールを巻き、老婆が杖を片手に窓から空に舞う。いや、杖にぶら下がり、引っ張られるようにフラフラと空を舞う。
「おい、落ちないか、あれ」
「重力も制御しているから落ちることはないはずよ。腕力はほとんどいらないし」
「そうか。しかし、あの飛び方は中々シュールだな」
「箒にすれば良かったかしらね。もう少しまともに見えたかも」
「どっちもどっちな気がするぞ。小娘ならともかく、老人ではなあ」
いずれにしても後の祭りである。
気付けば咲夜は真っ赤に咲き乱れる彼岸花の中にいた。
何故こんな場所にいるのだろうと不思議に思ったが、直ぐに自分が逃げ出してここに来たことを思い出した。
そう、あの年老いた女性の姿を見て、確かに咲夜は逃げ出したのだった。手にある懐中時計で時を止め、敬愛するお嬢様から、大好きな紅魔館から。
逃げ出した理由は考えるまでもなく分かった。
あの年老いた女性は咲夜だと、レミリアは言った。正しくは先の咲夜と。
なら自分はなんだろうか。彼女が先の咲夜なら、自分は後の咲夜である。つまり――
「私は彼女の代わり」
呟いて、涙が出た。
何故だろう。ただ呟いただけなのに、その一言で自分が全否定されたような気がする。いや、違う。これは気のせいではなく、事実なのだろう。だから、これ程までに落ち込むのだ。
レミリアが呼ぶ咲夜という名は、年老いた彼女に向けて語られるときこそ、より優しく温かった。フランドールは普段自分を避けて自分の部屋に来ることなどないのに、年老いた彼女の部屋へは足を運んでいた。
同じ咲夜でも、吸血鬼の姉妹はあの年老いた咲夜の方を好いている。いや、彼女達だけではない。古くからいる紅魔館の住人はみんな、自分ではない咲夜を好いているのだろう。
当然だ。紅魔館にとっての咲夜は、年老いた彼女こそ本物。自分は、彼女の贋物に過ぎないのだ。
「そんなこと、ありませんよ」
そっと、背中から自分の体が抱かれる。その声は、咲夜が一番最初に聞いた声。初めて自分に向けられたときと同じ声。
「美鈴……」
「貴女は紅魔館に必要な人ですよ、咲夜さん」
「馬鹿言わないでよ。その名は……」
「確かに、その名の人はもう一人います。でも、確かに貴女のものですよ、咲夜。少なくとも、今、私にとっては貴女だけ」
ぎゅっと体を抱かれながら、自分が否定されたと思っていた『咲夜』の名を美鈴は呼ぶ。本心から、ここにいる一人の少女を咲夜と呼んでくれる。
「馬鹿……」
口にできたのはそれだけだった。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、嗚咽も止まらない。
美鈴は、そんな咲夜の頭を何も語らずに撫でてくれた。
「落ち着きましたか?」
「ええ。恥ずかしいところを見せたわね」
言葉通りに色々と恥ずかしいことになった顔をハンカチで拭い終え、咲夜は美鈴の隣に腰掛ける。
「今さらですよ。咲夜さんの恥ずかしいところなんて数えきれないくらい見てきましたから。例えば――」
「言わなくていいわよ。これ以上私に恥ずかしい思いはさせないで頂戴」
「そうですね。今日の咲夜さんは弱っていますから、これぐらいで許してあげましょう」
美鈴にこんなことを言われてしまうなんて、本当に恥ずかしい。でも、美鈴だからこそ居心地は悪くない。やられっぱなしなのは面白くないのだが。
「はい、これ。温まりますよ」
美鈴はお気に入りの水筒からお茶を注いだカップを咲夜に手渡した。
「ありがと」
一口運び、ほっと息をつく。
「それにしても、どうしてここに私がいるって分かったの?」
「咲夜さんが逃げ出すなら、ここだろうなと思っていました。覚えていませんか?」
咲き乱れる彼岸花。遠くに見える紫色の桜に、朽ちた外の世界の道具。
「ここ、無縁塚だったんだ」
「ええ、私達の出会った場所です」
「そうね」
昔、彼女は外の住人だった。
その頃は番号で呼ばれ、何かの実験動物のように管理されていた。薬品の匂いしかしない部屋に閉じ込められ、決まった食事を与えられ、決まった行動を強いられていた。機械のような生活。
でも、そんな機械のような生活は突如終わった。六歳になるかならないかの頃、使い物にならないなという声と共に、彼女は白衣を着た人間にゴミと共にゴミのように捨てられ、そして忘れ去られた。
だからこそ、今、咲夜は幻想郷に居る。
「覚えていますか、初めて出会った日のこと」
「覚えているわよ。ちょうどこんな時だったわね」
捨てられたゴミとともに、無縁塚へ幻想入りした日。しかし、何もしらない彼女は命じられないと動くことも出来なかった。当然だ。生きるということを知らなかったのだから。
傍らには先客の白骨。きっと自分もそんな風に朽ちていくんだろうなと咲き乱れる彼岸花の中でぼんやり横になり、初めて見る星空をぼんやりと眺めていた。
けど、そんな星空を遮るように何かが立っていた。それが美鈴だった。
「良かったのでしょうね。美鈴に見つけられて」
「私は見つけただけですよ。ここに来るように指示したのはお嬢様でしたから」
「それでも、よ」
壊れ物を扱うように、美鈴は要らなくなった少女を抱き上げるとぎゅっと抱きしめてくれた。あれが初めて他人の温かさに触れた瞬間だったと思う。初めて他人に感情を向けられた瞬間だったと思う。たぶん初めて心が温かくなった瞬間だったと思う。
「そのせいで、美鈴のせいで紅魔館の住人になってしまったのよね」
「えっと……すみません」
「なんで謝るのよ。私は紅魔館の生活が好きだわ」
カリスマ溢れる当主のレミリアは、咲夜に住む場所を与えてくれた。
偏屈な魔女のパチュリーは、様々な知識を与えてくれた。
暢気な門番の美鈴は、幻想郷での生き方を教えてくれた。
無邪気な当主妹のフランドールは、色々と遊んでくれた。
もっとも、フランドールは咲夜の名前を名乗るようになった途端に避けられるようになってしまったが。
それでも、紅魔館の住人は何もしらない、働くこともできない幼子の咲夜を嫌な顔一つ受け入れてくれて、そして色々なものを与えてくれたのだ。
そして、今咲夜はそのご恩に報いるために紅魔館で働いているのだ。
「そう、私は紅魔館の生活が大好き。みんなが大好き」
「そうですね。みんなも咲夜さんのことが大好きですよ。だから、私は少し怒っています」
美鈴は言葉とは裏腹に優しい表情を咲夜に向ける。
「咲夜さんは咲夜さんですよ。みんな、妖精達も咲夜さん個人を好いているんです。決して代わりだなんて言わないでください」
「うん。ごめん」
そう言うと、美鈴は良くできましたと咲夜の頭を撫でる。
「もう。子供扱いしないでよ」
「子供ですよ。何年経とうとも咲夜さんは子供です」
「メイド長よ。私」
その言葉に美鈴は苦笑する。
「そうでした。じゃあ帰りましょうか」
「ええ」
頷き、美鈴と共に空を掛けようとした瞬間――
「こらこら、私のことは放置?」
杖にぶら下がってこちらを見つめる不審な老婆と目が合った。
「何をしてるんですか?」
「パチュリー様に借りた杖で空を飛んだのだけど、これ、高度が下がらないのよ。紅魔館の知識人は相変わらずどこか抜けているわねえ」
「いえ、そういうことではなくて。何でここに来たんですか?」
「いや、そちらの若いお嬢さんが色々ショックを受けているだろうから、私もフォローしようかと思って」
でも、と老いた咲夜は咲夜を見る。
「いい表情をしている。美鈴が上手くフォローしたから理解出来たみたいね。貴女は私ではないこと。私は貴女ではないこと」
「ええ。今まではすみませんでした」
「今まで? 私はこれから再び隠居しようかと思っていたんだけど。部屋がばれちゃったから人里にでも逃避しようかなって」
「あら、それは許しませんわ。貴女がいなくなっては紅魔館の皆が悲しみます。美鈴だって貴女のことが大好きみたいだし」
ねえと咲夜が視線を送ると、美鈴は焦った姿を見せる。
「どうしてそこで私に振るんですか」
「美鈴って今の私と年老いた彼女、どっちの方が好きなのかしらって気になって。実際どうなの」
「えっと――私は、どっちも好きですよ」
がっくりと肩を落とす。わざわざ逃げ出した自分を追ってくれたのに、評価は老いた咲夜と同じなのか
「相変わらずね、美鈴は。ま、らしいといえばらしいんだけど」
老いた咲夜は二人のそんなやり取りに小さく笑う。
「そんなことより咲夜さん、早く紅魔館にもどりましょう。あちらの咲夜さんは私が連れて帰りますから」
これ以上余計な標的にはなりたくないと、慌てて空を飛ぶ美鈴。けど、近づく美鈴は年老いた咲夜は拒否する。
「美鈴のエスコートは嫌よ。門番にエスコートの仕事なんて似合わないじゃない」
「えっと……」
「私は、現メイド長にエスコートしてもらいたいわ」
チラチラと背後を振り返る美鈴に先導され、紅魔館へと戻る。
「どうしてそんなに気になるのかしら」
「ふふ、分かっていないのね」
手を引いている老いた咲夜が小さく笑う。
「彼女が気にしているのは貴女よ。昔から心配性なのよね」
それはどう受け取れば良いのだろうか。美鈴は自分を頼りないと思っていることか。
「実際貴女は若いんだし、まだまだ頼りないのでしょうね」
「一応、メイド長なんですけどね」
「私からしたらまだまだ不完全。いつもお嬢様の着付けで皺が出来てしまうし」
ひょっとして、今日レミリアの着付けをしたのは――
「ええ、私よ。普段はお節介になるから控えているけど、今日は寝間着姿で部屋に来られてしまってね。はしたないから私がお世話したわ」
想像通りか。通りでいつもよりしっかりとドレスを着こなしていた訳だ。
「もっとも、お嬢様はそのような細かいことはあまり気にされないのだけれど」
「やはり私はまだまだですか」
「まだまだね。けど、私がメイド長だったのは貴女よりも三年程後のことだったのだけど」
「そうなんですか」
「ええ。でも、それは言い訳にはならないけど」
「はい」
メイド長という役割を与えられている以上、年齢を理由に仕事の質が悪いことが許されたりはしないのだから。
「ねえ、貴女は、私と自分がどんな関係か知りたいと思わない?」
白髪交じりの髪を撫でながら、自分と良く似た瞳で見つめられる。
同じように幻想入りし、同じような姿の存在。たぶん似たような力を持っている存在。
名前以外でも共通点は多いと思う。
気にならないかと問われれば、気にはなるが……
「関係ないですから。知っても、知らなくても私が紅魔館に仕えることに変わりはありませんから」
そう。彼女の存在が何であろうとも、咲夜の仕事に変わりはない。
「そうね。でも、私の世話をしないという選択肢はある。貴女、本当に私が紅魔館に居続けて良いと思っているのかしら」
「どういう意味ですか?」
「貴女は常にかつての私と比較されることになるわ。今までは比較されてもその比較対象を知らないから、実感せずに済んだのでしょうけれど、これからはそうはいかない」
「いいことじゃないですか」
軽い調子で答えると、彼女は意外そうな表情を浮かべた。
「私が未熟なのは理解しました。今日逃げ出したことも含めて。けど、これからは貴女がそれを教えてくれるのでしょ」
それは有り難いことだ。何を努力すれば良いのかを、教えてくれる人が居る。
「私はまだまだ未熟です。それに、紅魔館で過ごした時間も短い。だから、お嬢様達が私よりも貴女を大切にされるのも分かります。正直面白くはないんですけど。でも、いつまでもこのままいるつもりはありませんよ」
ニヤリと笑って、宣言する。
「いつか、貴女を超えるメイド長となってみせますよ。仕事でも、受ける愛情でも」
その言葉に、老いた咲夜は小さく噴出した。
「強いわね。そんなにも強いだなんて想像だにしなかったわ」
「歳をとると弱くなるのですかね。心配し過ぎですよ」
「あら、出会ったとたん逃げ出した貴女を見たら、心配しても仕方ないのではないかしら?」
ぐっ、それを言われると困るのだが。
「でも、直ぐに復活できるのも若さの強みよね」
「そ、そうです。若いと直ぐに復活するのですから、そこまで心配しないでください」
「ああ、なんか若い若いと口にされると色々と複雑よねえ」
老いた咲夜は意地悪そうに言う。
「いいわ、貴女をこれからは私も指導してあげる。ビシビシとメイド長として相応しいように」
「なんか私怨が混じっていません」
「私怨とメイド長への指導は関連しませんよ」
そういう割には、なんだか静かな黒い迫力を感じるのだが。
「もっとも、私の指導は厳しいわよ。貴女には是非とも完全で瀟洒な従者になってもらいますから」
楽しみ楽しみと笑う老婆に恐怖を覚えるも、僅かながら気分が高揚する。
完全で瀟洒な従者――なんて良い響きだろう。
三年後、年老いた彼女は紅魔館でその命を終えた。
紅魔館に存在するもう一人の人間として皆に見守られ、幸せそうに死を迎えた。
見送った人には、当然、完全で瀟洒な従者の姿もあった。
回避タグとか今のままで十分では?
後書きで匂わせている程度なので確信は持てないのですが、現咲夜さんのクローン母体が先代咲夜さんなのかな?
外の世界の実験施設のような存在がいたく気になりますね。
個人的には先代咲夜さんの存在がひた隠しにされていた理由が少し不明瞭に感じました。
現咲夜さんが拾われてきた当時に会わせなかったのは精神的ショックを考慮してのことなのかも知れませんが、
先代がチビ咲夜にメイド教育を施す方が自然な気がしまして。それ以上の悪影響があるならば納得できるのですけど。
もう一つ好き勝手を言わせて頂けるなら、これほど様々な方向にドラマチックな展開が可能な筋立てなのに
ちょっとラストがこじんまりしているかなぁ、と。ほのぼのは大好きなんですけどね。
まだ二作品を読ませて頂いただけにも係わらずの無礼な物言い。
それだけ作者様にかける私の期待値が高い証として御容赦下さい。暑苦しいかも知れませんが。
現咲夜と老咲夜が似ているのも、やはり偶然ではない気がするのだけど、
関係性が明示されていないおかげで、色々と想像できて楽しいです。
途中、咲夜が『気をやり過ぎて』とありましたが、気を回す、のほうがしっくりくるような……
細かすぎる指摘、及び変な想像をしてしまった僕を許してもらえれば幸いですw