ここ白玉楼の庭師である魂魄妖夢は、夢を見ていた。
夢を見ていたのだけれど、目が覚めてしまった今となってはうすぼんやりとした雰囲気しか残らない。
まだまだ周囲はまっくらで、いつも朝早くに起きなくてはならない妖夢にでさえ、いくらなんでも早すぎる時間だった。
月の光は障子越しに妖夢の寝室をほのかに照らし、それを彩る星屑はまだまだ朝はこないと妖夢に瞬きかけていた。
けれど、そんな星屑たちの訴えとは反対に、妖夢の眠気はどこかへと遊びにいってしまった。
「どうしよう……今起きたって仕様がないのに……」
ちょっと困った様子で呟く妖夢に何か気の利いたことを言うでもなく、月は妖夢を照らし、星屑は無邪気に瞬いている。
でも、そんなほのかな灯りに無邪気な瞬きを感じていると寝直すのももったいなくなってしまって妖夢は布団を抜け出すことにした。
布団をめくり、上半身を起こすと空気はひやりと妖夢包みこんでまたどこかへ行ってしまう。
少しずつ溢れ出る泉のように、妖夢の心に何かわくわくした好奇心のようなものが満ちてきた。
それは徐々に妖夢の胸を満たすと、そこでようやく妖夢の足を廊下に向けさせる。
特に当てなんてなかった。どこにいこうかはもう考えていたけれど。
だから、なんでも知っているようなあの人に気取られないように、なにも考えていない風を装いつつ、廊下をぼんやりと歩く。
中庭に色づく木々花々は先代から受け継いで、それからずっと妖夢が手入れをしてきた。
妖夢のこれまでの人生はすべて白玉楼と、その主と共にあった。
だから、これからの人生もずっとそうだろうし、そうなるって思っていればそうなるのだろう。
「そうに決まってるもの」
それを妖夢が望む限り、それは誰にも変えようがない。だから、妖夢はそう望むことにする。
長い長い廊下を音も立てずに歩いていくと妖夢のお目当ての部屋が近づいてきた。
もし起きていたら、なんて言い訳すればいいんだろう。
もし眠っていたら、どんな顔をすればいいんだろう。
あとふすまを三つ通りすぎたらそこが白玉楼の主、西行寺幽々子の寝室。
妖夢はなにか寝込みを狙っているかのような自分の気持ちに苦笑する。
偶然と、幽々子の寝室のふすまは少しだけ開いていた。
「幽々子さまは……」
妖夢はおそるおそるといった様子で幽々子の部屋を覗き込んだ。
ちょっとだけ掛け布団がめくれていて、ちょっとだけ頭が枕からずり落ちている主がそこにいる。
妖夢はふふっ、と微笑んでどうしようかと考えてみる。
少しくらいなら大丈夫かしら、それとも……。
でも、布団をかけ直すことくらいなら従者の勤め。
だったら臆病になったってしょうがないじゃない。
そうやって逡巡しているうちに、体はスーッと引き寄せられるように幽々子のもとへ向かっていった。
顔はあちら側を向いていたから妖夢には幽々子の表情は見て取れない。
でも、普段はあんまり見ないようなうなじや足のうらが妖夢の目に入ってきた。
なぜだかちょっと頬を赤らめた妖夢はすり足で幽々子のもとへ近づいていく。
「風邪、ひいちゃいますよ……」
妖夢は聞こえるか聞こえないかというくらいの声でぽつり、と囁きながら幽々子の足元の布団を直す。
布団が動いたことでいつもの幽々子の立ち居振る舞いがごとく、ふわり、とせっけんの香りが宙を舞った。
その香りは妖夢の鼻こうをくすぐって、そうして妖夢の心をくすぐった。
布団のわきに正坐してみると幽々子がもっと近くになった。
さっきからお酌をする時に酒瓶が奏でるようなとくっ、とくっ、という心臓の音ばかりが耳に付く。
なんだか手には汗をかいて、それでちょっと腕も震える。
そこで幽々子が少し寝返りを打ったものだから妖夢はびっくりして顔をそらしてしまう。
まともに目を見ていたらきっと幽々子さまは妖夢の心を見通していたから。
おそるおそる妖夢が幽々子の方を向き直ると、そこにはやっぱり変わらず寝息を立てる主の姿があった。
ふぅ、と胸をなでおろして、今一度幽々子を眺めてみる。
さっきと違って顔は天井を向いているからその麗容な顔立ちがはっきりと見られる。
閉ざされた瞳はそれでも得も言わぬ存在感があって、妖夢はそんな幽々子の顔を見ているだけで何か悪いことをしているような気になってしまう。
触れたら溶けてしまいそうな雪を思わせる程のその白い幽々子の肌は、かといって冷ややかじゃなく、
ふっくらと柔らかそうな様子にはなんだか亡霊だっていうことが嘘みたいなほどの温かみがあった。
それを眺める妖夢はだんだん、だんだんとぼんやりしてきた。
多分眠くなってきたということもあるかも知れないが、それ以上に目の前の状況にどこか心を奪われてしまったからなのかも知れない。
兎に角、こんなところで寝直ってしまったらどうしようもないので妖夢は部屋を後にすることにした。
ちょっとなごり惜しそうに幽々子の顔を眺めてから妖夢は立ち上がろうとする。
すると、
「きゃ~! 幽霊よ! 枕元に幽霊がいるわ、と思ったら妖夢じゃない。そんなところで何をしているの?」
急に幽々子が声を上げたものだから妖夢はびくっとして固まってしまった。
「ゆゆゆっ幽々子さま……起きてたんですか……」
「だってなにか禍々しい気配を感じたんだもの」
「そんな……別に寝込みをおそったりはしませんよ」
「あら? 残念。夜這いかと思って期待しちゃったわ」
「ちょ、ちょっと幽々子さまっ!」
妖夢は顔をまっかにして声をあげる。
よっぽど恥ずかしいのかその後はじっと俯いてしまった。
「もう~、冗談にきまってるじゃない。うふふ」
幽々子は可笑しそうにそんな妖夢をまじまじと眺めている。
見ているこっちにまで心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。
幽々子は、こんな風にすぐに慌てるところとかが可愛いのよね、と思って更にからかおうかと口を開こうとしたが、やっぱりそれはやめることにした。
このまま妖夢の様子を見ていようかと思ったけれど、妖夢は下を向いたままだしこのままじゃ埒が開かない。
どうしたものかと思い、幽々子は妖夢の脇から中庭を見やってからふぅ、とため息をついた。
中庭の池泉にはとても静かな水面だけがあり、まっくらな夜がそんな静けさと相まって、まさにこの世のものとは思えない幽玄な空気を醸し出している。
その風景を見て何か思いついたのか幽々子はポン、と手を打って妖夢に呼びかける。
「ねぇ、妖夢。眠れないのなら私の噺でも聞いていきなさいな」
「話、ですか?」
「そう。噺、よ」
妖夢はようやく顔をあげて幽々子の方を見据え直している。
幽々子はそれを確認してから、また中庭に目をやるとそのまま話出した。
「――そうね、それはとある九月のことかしら。とある御仁が、それはそれはやつれて痩せこけてしまった人間を置いてどこかへ行ってしまった。
その人間はそれを信じたくはなかったのよ。だから騙されてた、ってことも隠していた。
それに、そうしていればきっと季節が過ぎるのと同じ様にそんな出来事もしおれて、枯れていくはずだったから」
妖夢はいつもと違う雰囲気の幽々子に気圧されてしまったのと何を言っているのか分からないのとで頭がごちゃごちゃになってしまった。
でも、その目は真剣で主の発する言葉を一言一句逃さぬようにと熱がこもっていた。
それをちらりと見て幽々子は表情を崩して囁きかける。
「そんなに真面目に聞かなくったっていいのに、妖夢ったら~」
「いえ、そんなことはないですよ。こんな時間に起こしてしまったのですし」
「そんなことを気にしていたの? それじゃ、続けるわね」
そんなのほほんとした雰囲気も一瞬でどこかへいき、幽々子はまたさきほどの様に遠くを、まっくらな夜空を眺めながら話はじめる。
「そのままずっと、ずっとそこで涙を流していたものだから人間は気が付いたら月の照らす悲しくて孤独な水溜りの中にいたわ。
そうね……まるで月が映った湖の、その名残の様な水溜りに。死ぬでもなくずっとそうしていたからかしら? そんな儚くて、悲しい場所で囁き声が聞こえるの。
お前がやってきたことはすべて間違っていたのか、って。それはあるいはその人間の心の声だったのかもしれないわね。
自分もそうやって嘆くだけ嘆いてそのまま逝ってしまうようなやつと一緒なのか、
もう一時だけでも御仁に会えるなら何でも捧げてしまうようなやつと一緒なのか、っていう」
妖夢は幽々子が一休みとばかりにこちらを向いたのを見計らって口を開く。
なにかを探るように、耳に入った言葉を咀嚼するように。
「なんだか、悲しいですね。……でも、なにか肝心のところが抜けているというか……」
「そうかしら? 妖夢がそう思うのならそうなのかもしれないわね」
幽々子は事も無げに言ってから妖夢がまた先を促す様な仕草をしたのでそのまま話を続けることにした。
「人間は御仁のことを思い出していたわ。その顔が絵画に描かれるようなまっしろの肌だったこと、そのことについてほとんど話を交わさなかったこと。
今となってはもう、どうでもよかったけれどね。そして長いこと経ってしまったとある秋。
秋の空気はケープのようにその人間をつつんでいくの。いいえ、違うわね。それはその人間にとっての聖骸布も同じだったかもしれない。
幽かに視界に映る流れ星を見て思う、ここを立ち去る時だと。
――逝き際、その人間には御仁が明るい光の中で悲しげに眠っている様子が見えた気がしたのだけれど
…………けれども、それでも秋の夜と静かな水だけは、とても暗かった……」
幽々子はそうしめると、改めてまっくらな秋の夜空と池泉の水面を眺める。
妖夢もそれにつられて視線を外にやった。妖夢の目に映るそれは幽々子の目に映るそれと同じなんだろうか。
話の余韻だけが二人の辺りを包んでいる。それは少し悲しげに、それでも悲壮な重苦しさではなしに優しく二人を包む。
「さ、妖夢。この話には続きがあるみたいなんだけれど、あなたに分かるかしら?」
「え? 続きですか……そうですね……でも、その前にちょっといいですか?」
「……? えぇ。いいわよ」
妖夢には抽象的すぎて掴みどころのない話のように思えて、その理由を考えていた。
御仁? 人間? 少なくとも妖夢の当たり知るところではない。
この話の御仁とは人間ではないのだろうか? それなら何となく話が分かる。
では、人外の者と、人間との悲恋物語なのだろうか?
いや、でも幽々子さまは話の中で御仁と人間との関係にも性別にも一切触れなかった。
なのに、妖夢はさも当然かのように悲恋の話であると決めつけていた。
うーんうーんと悩んでから妖夢は口を開く。
「そうですね……私はこの話の続きよりも前の話が気になります」
「まぁ…………贅沢ね~。妖夢ったら。せっかく、続きがあるって言ってあげてるのに」
「やっぱり気になってしまうんですもの。それにそれがわからなくちゃ、続きだって分からないかもしれないですし、思いつかないです」
「妖夢、あなたはやっぱり半人前ねぇ。それはあなたが自由に想像してごらんなさい。私が言ってしまってはつまらないわ。そして、あなたの思う続きを話してごらんなさいな」
「むむむ……わかりました」
妖夢は目を伏せて考える。幽々子はそんな様子をあくびをしながら微笑ましく見守る。
妖夢は妖夢でもうすっかり眠気も覚めてしまって、そしてすっかり考え込んでしまった。
幽々子はちょっとだけ暇になって幾度となく眺めてきた中庭に視線を送ることにした。
特に変わったことなんてなかった。
春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の景色がある。
丁度、今は秋の景色に色づいている。
桜の木や松の木に隠れてしまって見落としがちだけれど、ツワブキの黄色い花は黒い闇の中でもはっきりと見て取れる。
もちろん、そのちょこっとした佇まいも可愛らしいのだけれど、明日は妖夢に言って天ぷらにでもしてもらおうかしら? それとも佃煮にしましょうか。
そんなことを考えながら幽々子は今一度妖夢を見やる。
丁度そこで妖夢も幽々子に向きなおった。
「どう? 妖夢」
「そうですね……あくまで私の意見ですよ? 死んだのならば、その人間はきっと閻魔さまに裁きを受けることになります。
でも、きっと長い苦悩の日々や流した涙を認めて地獄に落とされることはないでしょう。
それで長い長い悲しみの日々を通してもなお、その人間が御仁にもう一度会いたい、って願ったならそれはきっと叶います。
そうじゃなきゃ、あんまりじゃないですか。そして、私の予想ですが御仁は人間じゃありません。
ひょっとしたら幽霊だったかもしれない。でも、それってやっぱりもうどうでもいいことなんです。
きっと、ずっと見守ってくれていたまっくらな夜と静かな水面がそういう未練を流しちゃったんです。それが幸せかは分かりませんが」
「……あら、妖夢ならもっと堅苦しいことを言うと思ってたのに残念ね~。妖夢ったら案外と悲恋物語とか好きなのね」
「べ、別にそういう訳じゃ……」
ちょっとそういうことを言われただけですぐに顔を赤くしてしまう妖夢が幽々子にはとても愉快だった。
「そ、そんなことよりも、本当はどうなるんですか? それとこの話以前の出来事は……」
「さぁ? どうなのかしらね~」
「へ?」
幽々子の答えがあまりにも予想外で妖夢は拍子抜けしてしまった。
妖夢はあるいはこの話が幽々子自身のことを言っていたのかと勘繰っていただけにはぐらかされるというよりも全くなにも考えていなかったような様子にがっくりとしてしまう。
「冗談よ。ちゃんと続きはあるでしょう。ね? だってたった今出来上がったじゃない」
「……? どういうことですか?」
「もう……妖夢。あなたって本当に半人前なのね」
いつもに増して幽々子の言っていることが分からなくって少し焦ってしまう。
でも幽々子は努めて落ち着いて、そして本当に幸せそうな笑顔で言葉を紡ぐ。
しかし、その言葉はいつものように朗らかでもどこかに鋭利さを湛えていた。
「まずこの噺以前のことかしら? 妖夢、あなたはこの噺の以前の出来事を知る必要はないわよ」
「……なんでですか?」
「えぇ……そうね。たとえ話にするならこんな感じでしょう。妖夢、あなたはあなたが生まれる以前の私のことを事細かに知る必要がある?
それともそれを知らなくては妖夢自身と私の未来を保証できないのかしら?」
そう言い切って幽々子は不気味に微笑みかける。
妖夢はこんな毒々しい笑みを、幽々子のそんな表情を見たことがなかったものだから蛇に睨まれた蛙さながらの様子だった。
でも、幽々子の言葉と表情は決して棘がなかったとはいえないが、それでも険悪な印象はない。
静謐に覆われそうになったところで妖夢が堰を切ったように口を開いた。
「そんな……そんなことはないです! だって、私は幽々子さまに仕えることがつとめですし、いえ。そんなことより、幽々子さまのこと…………好きですから、ずっと一緒にいたいですから……」
妖夢があまりにも明け透けに言うものだからさすがの幽々子も目を丸くして驚いてしまう。毒気もすっかり抜けさせられてしまった。
だから、すぐにいつも妖夢が眺めていた柔らかい表情に戻って言葉を返す。
「もう~、ふふふ。そんな悲しそうな顔はやめなさいな。可愛らしい顔をもっと私に見せてちょうだい。たとえ話よ? たとえ話。ね?」
すぐに言葉を真に受けてしまう妖夢の生真面目さが幽々子は大好きだった。
からかい飽きない。いつだって可愛らしく反応してくれる。
「え、えぇ……ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃいました。それでは、続きはどうなるんですか……?」
妖夢が恐る恐る聞いてくる。幽々子はそんな妖夢が堪らなく可愛くって、布団からもじもじと出ていくと妖夢の頭を抱きしめて、そうして今度こそ本当に優しく、妖夢の耳元で囁いた。
「だって妖夢。この噺は今私が即席で考えた噺なのよ? だから、妖夢。今のあなたの答えが私の答え。
――ね? 妖夢。私の未来はあなたに任せたんだもの。妖夢と共にある未来なんだから、続きだって私一人で考えられないわ。そうでしょう?」
「幽々子さま……」
妖夢は幽々子の胸元で少し恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに目を伏せる。
幽々子は幽々子でそんな妖夢の頭を優しく撫でるとそっと妖夢の顔を上げさせる。
整った顔立ちからはまだまだ幼さが滲み出ているけれど、まっくらな夜暗が相まってとても艶麗に見える。
じっと閉じられた瞳は何かの期待からか、ちょっとだけ震えていた。
すっと鼻筋の通った様子は幽々子を少しドキリとさせたし、そのちいさな可愛らしい唇のピンクは鮮やかに幽々子の網膜まで届いた。
そうね、ちょっとだけ。ちょっとだけいたずらしちゃおうかしら。
幽々子は妖夢の顎に手をやって妖夢の口元を突き出させる。
そうしてさっきから幽々子の網膜から離れようとしないその可愛らしいピンク色に、ゆっくり、ゆっくりと自分の唇を………………。
――二人を見守る秋の夜と静かな水は、とても暗かったけれど、それはどこか暖かかった。
-fin-
夢を見ていたのだけれど、目が覚めてしまった今となってはうすぼんやりとした雰囲気しか残らない。
まだまだ周囲はまっくらで、いつも朝早くに起きなくてはならない妖夢にでさえ、いくらなんでも早すぎる時間だった。
月の光は障子越しに妖夢の寝室をほのかに照らし、それを彩る星屑はまだまだ朝はこないと妖夢に瞬きかけていた。
けれど、そんな星屑たちの訴えとは反対に、妖夢の眠気はどこかへと遊びにいってしまった。
「どうしよう……今起きたって仕様がないのに……」
ちょっと困った様子で呟く妖夢に何か気の利いたことを言うでもなく、月は妖夢を照らし、星屑は無邪気に瞬いている。
でも、そんなほのかな灯りに無邪気な瞬きを感じていると寝直すのももったいなくなってしまって妖夢は布団を抜け出すことにした。
布団をめくり、上半身を起こすと空気はひやりと妖夢包みこんでまたどこかへ行ってしまう。
少しずつ溢れ出る泉のように、妖夢の心に何かわくわくした好奇心のようなものが満ちてきた。
それは徐々に妖夢の胸を満たすと、そこでようやく妖夢の足を廊下に向けさせる。
特に当てなんてなかった。どこにいこうかはもう考えていたけれど。
だから、なんでも知っているようなあの人に気取られないように、なにも考えていない風を装いつつ、廊下をぼんやりと歩く。
中庭に色づく木々花々は先代から受け継いで、それからずっと妖夢が手入れをしてきた。
妖夢のこれまでの人生はすべて白玉楼と、その主と共にあった。
だから、これからの人生もずっとそうだろうし、そうなるって思っていればそうなるのだろう。
「そうに決まってるもの」
それを妖夢が望む限り、それは誰にも変えようがない。だから、妖夢はそう望むことにする。
長い長い廊下を音も立てずに歩いていくと妖夢のお目当ての部屋が近づいてきた。
もし起きていたら、なんて言い訳すればいいんだろう。
もし眠っていたら、どんな顔をすればいいんだろう。
あとふすまを三つ通りすぎたらそこが白玉楼の主、西行寺幽々子の寝室。
妖夢はなにか寝込みを狙っているかのような自分の気持ちに苦笑する。
偶然と、幽々子の寝室のふすまは少しだけ開いていた。
「幽々子さまは……」
妖夢はおそるおそるといった様子で幽々子の部屋を覗き込んだ。
ちょっとだけ掛け布団がめくれていて、ちょっとだけ頭が枕からずり落ちている主がそこにいる。
妖夢はふふっ、と微笑んでどうしようかと考えてみる。
少しくらいなら大丈夫かしら、それとも……。
でも、布団をかけ直すことくらいなら従者の勤め。
だったら臆病になったってしょうがないじゃない。
そうやって逡巡しているうちに、体はスーッと引き寄せられるように幽々子のもとへ向かっていった。
顔はあちら側を向いていたから妖夢には幽々子の表情は見て取れない。
でも、普段はあんまり見ないようなうなじや足のうらが妖夢の目に入ってきた。
なぜだかちょっと頬を赤らめた妖夢はすり足で幽々子のもとへ近づいていく。
「風邪、ひいちゃいますよ……」
妖夢は聞こえるか聞こえないかというくらいの声でぽつり、と囁きながら幽々子の足元の布団を直す。
布団が動いたことでいつもの幽々子の立ち居振る舞いがごとく、ふわり、とせっけんの香りが宙を舞った。
その香りは妖夢の鼻こうをくすぐって、そうして妖夢の心をくすぐった。
布団のわきに正坐してみると幽々子がもっと近くになった。
さっきからお酌をする時に酒瓶が奏でるようなとくっ、とくっ、という心臓の音ばかりが耳に付く。
なんだか手には汗をかいて、それでちょっと腕も震える。
そこで幽々子が少し寝返りを打ったものだから妖夢はびっくりして顔をそらしてしまう。
まともに目を見ていたらきっと幽々子さまは妖夢の心を見通していたから。
おそるおそる妖夢が幽々子の方を向き直ると、そこにはやっぱり変わらず寝息を立てる主の姿があった。
ふぅ、と胸をなでおろして、今一度幽々子を眺めてみる。
さっきと違って顔は天井を向いているからその麗容な顔立ちがはっきりと見られる。
閉ざされた瞳はそれでも得も言わぬ存在感があって、妖夢はそんな幽々子の顔を見ているだけで何か悪いことをしているような気になってしまう。
触れたら溶けてしまいそうな雪を思わせる程のその白い幽々子の肌は、かといって冷ややかじゃなく、
ふっくらと柔らかそうな様子にはなんだか亡霊だっていうことが嘘みたいなほどの温かみがあった。
それを眺める妖夢はだんだん、だんだんとぼんやりしてきた。
多分眠くなってきたということもあるかも知れないが、それ以上に目の前の状況にどこか心を奪われてしまったからなのかも知れない。
兎に角、こんなところで寝直ってしまったらどうしようもないので妖夢は部屋を後にすることにした。
ちょっとなごり惜しそうに幽々子の顔を眺めてから妖夢は立ち上がろうとする。
すると、
「きゃ~! 幽霊よ! 枕元に幽霊がいるわ、と思ったら妖夢じゃない。そんなところで何をしているの?」
急に幽々子が声を上げたものだから妖夢はびくっとして固まってしまった。
「ゆゆゆっ幽々子さま……起きてたんですか……」
「だってなにか禍々しい気配を感じたんだもの」
「そんな……別に寝込みをおそったりはしませんよ」
「あら? 残念。夜這いかと思って期待しちゃったわ」
「ちょ、ちょっと幽々子さまっ!」
妖夢は顔をまっかにして声をあげる。
よっぽど恥ずかしいのかその後はじっと俯いてしまった。
「もう~、冗談にきまってるじゃない。うふふ」
幽々子は可笑しそうにそんな妖夢をまじまじと眺めている。
見ているこっちにまで心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。
幽々子は、こんな風にすぐに慌てるところとかが可愛いのよね、と思って更にからかおうかと口を開こうとしたが、やっぱりそれはやめることにした。
このまま妖夢の様子を見ていようかと思ったけれど、妖夢は下を向いたままだしこのままじゃ埒が開かない。
どうしたものかと思い、幽々子は妖夢の脇から中庭を見やってからふぅ、とため息をついた。
中庭の池泉にはとても静かな水面だけがあり、まっくらな夜がそんな静けさと相まって、まさにこの世のものとは思えない幽玄な空気を醸し出している。
その風景を見て何か思いついたのか幽々子はポン、と手を打って妖夢に呼びかける。
「ねぇ、妖夢。眠れないのなら私の噺でも聞いていきなさいな」
「話、ですか?」
「そう。噺、よ」
妖夢はようやく顔をあげて幽々子の方を見据え直している。
幽々子はそれを確認してから、また中庭に目をやるとそのまま話出した。
「――そうね、それはとある九月のことかしら。とある御仁が、それはそれはやつれて痩せこけてしまった人間を置いてどこかへ行ってしまった。
その人間はそれを信じたくはなかったのよ。だから騙されてた、ってことも隠していた。
それに、そうしていればきっと季節が過ぎるのと同じ様にそんな出来事もしおれて、枯れていくはずだったから」
妖夢はいつもと違う雰囲気の幽々子に気圧されてしまったのと何を言っているのか分からないのとで頭がごちゃごちゃになってしまった。
でも、その目は真剣で主の発する言葉を一言一句逃さぬようにと熱がこもっていた。
それをちらりと見て幽々子は表情を崩して囁きかける。
「そんなに真面目に聞かなくったっていいのに、妖夢ったら~」
「いえ、そんなことはないですよ。こんな時間に起こしてしまったのですし」
「そんなことを気にしていたの? それじゃ、続けるわね」
そんなのほほんとした雰囲気も一瞬でどこかへいき、幽々子はまたさきほどの様に遠くを、まっくらな夜空を眺めながら話はじめる。
「そのままずっと、ずっとそこで涙を流していたものだから人間は気が付いたら月の照らす悲しくて孤独な水溜りの中にいたわ。
そうね……まるで月が映った湖の、その名残の様な水溜りに。死ぬでもなくずっとそうしていたからかしら? そんな儚くて、悲しい場所で囁き声が聞こえるの。
お前がやってきたことはすべて間違っていたのか、って。それはあるいはその人間の心の声だったのかもしれないわね。
自分もそうやって嘆くだけ嘆いてそのまま逝ってしまうようなやつと一緒なのか、
もう一時だけでも御仁に会えるなら何でも捧げてしまうようなやつと一緒なのか、っていう」
妖夢は幽々子が一休みとばかりにこちらを向いたのを見計らって口を開く。
なにかを探るように、耳に入った言葉を咀嚼するように。
「なんだか、悲しいですね。……でも、なにか肝心のところが抜けているというか……」
「そうかしら? 妖夢がそう思うのならそうなのかもしれないわね」
幽々子は事も無げに言ってから妖夢がまた先を促す様な仕草をしたのでそのまま話を続けることにした。
「人間は御仁のことを思い出していたわ。その顔が絵画に描かれるようなまっしろの肌だったこと、そのことについてほとんど話を交わさなかったこと。
今となってはもう、どうでもよかったけれどね。そして長いこと経ってしまったとある秋。
秋の空気はケープのようにその人間をつつんでいくの。いいえ、違うわね。それはその人間にとっての聖骸布も同じだったかもしれない。
幽かに視界に映る流れ星を見て思う、ここを立ち去る時だと。
――逝き際、その人間には御仁が明るい光の中で悲しげに眠っている様子が見えた気がしたのだけれど
…………けれども、それでも秋の夜と静かな水だけは、とても暗かった……」
幽々子はそうしめると、改めてまっくらな秋の夜空と池泉の水面を眺める。
妖夢もそれにつられて視線を外にやった。妖夢の目に映るそれは幽々子の目に映るそれと同じなんだろうか。
話の余韻だけが二人の辺りを包んでいる。それは少し悲しげに、それでも悲壮な重苦しさではなしに優しく二人を包む。
「さ、妖夢。この話には続きがあるみたいなんだけれど、あなたに分かるかしら?」
「え? 続きですか……そうですね……でも、その前にちょっといいですか?」
「……? えぇ。いいわよ」
妖夢には抽象的すぎて掴みどころのない話のように思えて、その理由を考えていた。
御仁? 人間? 少なくとも妖夢の当たり知るところではない。
この話の御仁とは人間ではないのだろうか? それなら何となく話が分かる。
では、人外の者と、人間との悲恋物語なのだろうか?
いや、でも幽々子さまは話の中で御仁と人間との関係にも性別にも一切触れなかった。
なのに、妖夢はさも当然かのように悲恋の話であると決めつけていた。
うーんうーんと悩んでから妖夢は口を開く。
「そうですね……私はこの話の続きよりも前の話が気になります」
「まぁ…………贅沢ね~。妖夢ったら。せっかく、続きがあるって言ってあげてるのに」
「やっぱり気になってしまうんですもの。それにそれがわからなくちゃ、続きだって分からないかもしれないですし、思いつかないです」
「妖夢、あなたはやっぱり半人前ねぇ。それはあなたが自由に想像してごらんなさい。私が言ってしまってはつまらないわ。そして、あなたの思う続きを話してごらんなさいな」
「むむむ……わかりました」
妖夢は目を伏せて考える。幽々子はそんな様子をあくびをしながら微笑ましく見守る。
妖夢は妖夢でもうすっかり眠気も覚めてしまって、そしてすっかり考え込んでしまった。
幽々子はちょっとだけ暇になって幾度となく眺めてきた中庭に視線を送ることにした。
特に変わったことなんてなかった。
春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の景色がある。
丁度、今は秋の景色に色づいている。
桜の木や松の木に隠れてしまって見落としがちだけれど、ツワブキの黄色い花は黒い闇の中でもはっきりと見て取れる。
もちろん、そのちょこっとした佇まいも可愛らしいのだけれど、明日は妖夢に言って天ぷらにでもしてもらおうかしら? それとも佃煮にしましょうか。
そんなことを考えながら幽々子は今一度妖夢を見やる。
丁度そこで妖夢も幽々子に向きなおった。
「どう? 妖夢」
「そうですね……あくまで私の意見ですよ? 死んだのならば、その人間はきっと閻魔さまに裁きを受けることになります。
でも、きっと長い苦悩の日々や流した涙を認めて地獄に落とされることはないでしょう。
それで長い長い悲しみの日々を通してもなお、その人間が御仁にもう一度会いたい、って願ったならそれはきっと叶います。
そうじゃなきゃ、あんまりじゃないですか。そして、私の予想ですが御仁は人間じゃありません。
ひょっとしたら幽霊だったかもしれない。でも、それってやっぱりもうどうでもいいことなんです。
きっと、ずっと見守ってくれていたまっくらな夜と静かな水面がそういう未練を流しちゃったんです。それが幸せかは分かりませんが」
「……あら、妖夢ならもっと堅苦しいことを言うと思ってたのに残念ね~。妖夢ったら案外と悲恋物語とか好きなのね」
「べ、別にそういう訳じゃ……」
ちょっとそういうことを言われただけですぐに顔を赤くしてしまう妖夢が幽々子にはとても愉快だった。
「そ、そんなことよりも、本当はどうなるんですか? それとこの話以前の出来事は……」
「さぁ? どうなのかしらね~」
「へ?」
幽々子の答えがあまりにも予想外で妖夢は拍子抜けしてしまった。
妖夢はあるいはこの話が幽々子自身のことを言っていたのかと勘繰っていただけにはぐらかされるというよりも全くなにも考えていなかったような様子にがっくりとしてしまう。
「冗談よ。ちゃんと続きはあるでしょう。ね? だってたった今出来上がったじゃない」
「……? どういうことですか?」
「もう……妖夢。あなたって本当に半人前なのね」
いつもに増して幽々子の言っていることが分からなくって少し焦ってしまう。
でも幽々子は努めて落ち着いて、そして本当に幸せそうな笑顔で言葉を紡ぐ。
しかし、その言葉はいつものように朗らかでもどこかに鋭利さを湛えていた。
「まずこの噺以前のことかしら? 妖夢、あなたはこの噺の以前の出来事を知る必要はないわよ」
「……なんでですか?」
「えぇ……そうね。たとえ話にするならこんな感じでしょう。妖夢、あなたはあなたが生まれる以前の私のことを事細かに知る必要がある?
それともそれを知らなくては妖夢自身と私の未来を保証できないのかしら?」
そう言い切って幽々子は不気味に微笑みかける。
妖夢はこんな毒々しい笑みを、幽々子のそんな表情を見たことがなかったものだから蛇に睨まれた蛙さながらの様子だった。
でも、幽々子の言葉と表情は決して棘がなかったとはいえないが、それでも険悪な印象はない。
静謐に覆われそうになったところで妖夢が堰を切ったように口を開いた。
「そんな……そんなことはないです! だって、私は幽々子さまに仕えることがつとめですし、いえ。そんなことより、幽々子さまのこと…………好きですから、ずっと一緒にいたいですから……」
妖夢があまりにも明け透けに言うものだからさすがの幽々子も目を丸くして驚いてしまう。毒気もすっかり抜けさせられてしまった。
だから、すぐにいつも妖夢が眺めていた柔らかい表情に戻って言葉を返す。
「もう~、ふふふ。そんな悲しそうな顔はやめなさいな。可愛らしい顔をもっと私に見せてちょうだい。たとえ話よ? たとえ話。ね?」
すぐに言葉を真に受けてしまう妖夢の生真面目さが幽々子は大好きだった。
からかい飽きない。いつだって可愛らしく反応してくれる。
「え、えぇ……ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃいました。それでは、続きはどうなるんですか……?」
妖夢が恐る恐る聞いてくる。幽々子はそんな妖夢が堪らなく可愛くって、布団からもじもじと出ていくと妖夢の頭を抱きしめて、そうして今度こそ本当に優しく、妖夢の耳元で囁いた。
「だって妖夢。この噺は今私が即席で考えた噺なのよ? だから、妖夢。今のあなたの答えが私の答え。
――ね? 妖夢。私の未来はあなたに任せたんだもの。妖夢と共にある未来なんだから、続きだって私一人で考えられないわ。そうでしょう?」
「幽々子さま……」
妖夢は幽々子の胸元で少し恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに目を伏せる。
幽々子は幽々子でそんな妖夢の頭を優しく撫でるとそっと妖夢の顔を上げさせる。
整った顔立ちからはまだまだ幼さが滲み出ているけれど、まっくらな夜暗が相まってとても艶麗に見える。
じっと閉じられた瞳は何かの期待からか、ちょっとだけ震えていた。
すっと鼻筋の通った様子は幽々子を少しドキリとさせたし、そのちいさな可愛らしい唇のピンクは鮮やかに幽々子の網膜まで届いた。
そうね、ちょっとだけ。ちょっとだけいたずらしちゃおうかしら。
幽々子は妖夢の顎に手をやって妖夢の口元を突き出させる。
そうしてさっきから幽々子の網膜から離れようとしないその可愛らしいピンク色に、ゆっくり、ゆっくりと自分の唇を………………。
――二人を見守る秋の夜と静かな水は、とても暗かったけれど、それはどこか暖かかった。
-fin-
感じられるような話でした。
夜更けの穏やかな空気のもと、二人で話をする様は妙に似合っていました。
最後の幽々子様の悪戯もどうなったのか気になるところですけど。
面白いお話でした。