○どうにかなる日々
竜宮の使いをやってきて、およそ実益になることなど何一つしていないことを断言しておこう。
異性との健全な交際、肉体の精進、精練された精神を作るなど、社会的有為の人材になるための布石を数々ことごとくはずし、テキトーに酒を飲み。テキトーに雲海を散歩し。
これまたテキトーに天人様に対して頭を下げるふりをして中指を突き立てる。このようなしなくてもよいことばかり打ち込んできたのはなにゆえか。
責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
私とて、誕生以来こんな有様だったわけではない。
生後間もない頃の私は純粋無垢の権化であり、天人たちも私の神々しさには羨んだという。
邪念のかけらもないその笑顔は天界から幻想郷の山野を愛の光で満たしたといわれる。
それが今はどうであろう。鏡を見ればどこにでもいそうな女である。
なにゆえおまえはそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるおまえの総決算とでも言うのか。
今の私の仕事といえば、雲海をふよふよ散歩しては地上に出向いてみたりドリルを回してみたりドリルしてみたりドリルを回転させてみたり。
人はいくらでも変わることができる。そんなバカな話があるか。
三つ子の魂百までというのに、当年とって××××(検閲されました)いまさら己の人格を変貌させようなどというのは言語道断。
無駄に高く育った己の塔は、少しの衝撃でポッキリ折れてそのままオジャンになること請け合いである。
私はいまここにある己をひきずって、生涯をまっとうせねばならぬ。その事実に目を瞑ってはならぬ。
私は断固として、目を瞑らぬ所存である。
でも、いささか、見るに堪えない。
永江衣玖の居住空間というのはこれっぽっち。四畳半である。なぜ四畳半であるかといえば、これがとにかく都合が良いのだ。
物を探せば半歩歩けば手に入る。掃除だってひっくり返せばすぐに済む。余り物を置けないというこの部屋のレゾンデートルの根本に関する問題を除けば。
私はこの四畳半におおむね満足していた。そもそも誰かを呼ぶことも余りなく、恋人を連れ込むというイベントも存在しない。十分過ぎる生活環境である。
と、なれば、女の一人暮らしなど安いつまみに発泡酒で陶酔できるというものだ。
天界は実にいけない。いくら桃源郷といえども、桃ばかりしかないというのは如何なものか。
人生の幸せというものの3割以上を占めていると思われる食事において、その選択肢が異常なまでに狭められているというのは横暴が過ぎる。
その点、顕界には安い酒がある。肉がある。魚もある。これを天国と言わずとしてなんとやら、だ。
屋台で塩を舐め舐め、ぷんと薫る日本酒を流し込むのは私の一番の楽しみで。
ピンク色の髪の毛の妖怪が売っていたおでんをはふはふ頬張りつつこの四畳半に戻るときには至悦を感じざるをえない。
このように自堕落で華麗なる生活をしていた私にとって、四畳半とは最上の城であり、敬愛すべき相棒であり、一生ここで生活しても良いとまで思うほどの空間であった。
四畳半至上主義。四畳だけに至上と口走る私に、知人たちは羨望のまなざしを向けた。
艶やかな長い髪を腰元まで垂らした某天人少女も、私の四畳半への愛情に感化され「すごいよ衣玖! 四畳半ってそんなにすごいだなんて私知らなかった!」と大きな瞳をうるうるとさせていたものだ。
そして万年床の枕元には飲みかけのお酒。温くなって酸化してたって全然まったく気にしていない。
ごろっと転がりつつ天井眺めてくたくたになった何度読んだかわからない本を読みつつうとうとする至福。
女として終わっている気がしないでもないが、もはや女でも男でもどっちでも。
どちらでもカモンというわけではなくて、私は四畳半主義者であるからして、そのような連れ合いを持つ必要性を感じないのだ。
そんな気骨を世間というものはときに冷たくあしらうのだ。仕事着だけは毎日布団の下に敷いてカッチリキッチリ。それも五着を着回して定期的に新しく仕立てている。
外に出るときぐらいはキャリアウーマンであることを誇りつつ、四畳半ではこれ以上なく自堕落で。孤高の戦士が一息の休息をつけるのがこの四畳半。
四畳半の不必要なほどに愛情を注ぎ、また四畳半のスペースをこれ以上なく有効に使用するために思索をするのが仕事中の楽しみ。
これほどまでに四畳半至上主義の私が、引越しを決意した。
その経緯を今から語ろうと思うのだ。
まっこと恥ずかしいことに、登場人物はほぼ、私のみである。
四畳半を捨てよ、幻想郷へ出よう! こう言ったのも、私である。
天界から突き落とすことができれば胸がすっとするだろう。それほどまでに悪趣味だったのは、たぶん、八雲紫である。
私が夜雀の屋台へと足繁く通うようになってから、よく顔を合わせるようになった妖怪が八雲紫であった。
この八雲紫という妖怪はまっことに魂の毛一本から腐れており、話しているだけで私の清廉潔白な魂がちょっとずつ汚染されていくことを感じる。
しかし他人と深く関わるのを潔しとしない、孤高の四畳半信者である私に屋台などという独女空間で話かけてくるのも、この八雲紫以外にいないのも事実なのである。
「むっつりスケベ」
「スケベなどと」
「恋人もいない、友達もロクにいない、でも仕事はマジメで酒浸りのジャージ女。一体女としてどう過ごしていくつもりなの?」
「私には四畳半の生活空間を保つことが至上の幸せですよ。そして安酒を煽って串を食べて、貴方みたいに裏でウロチョロするよりもずっと健全」
八雲紫はニヤニヤした。
「そういえばおとつい。貴女の家に行ったわ」
「私いなかったでしょう。その日はたまたま人里に出来たバーで一晩飲み明かしていましたから」
「残念。せっかくだから簀巻きの男を紹介しようと思ったのに」
「男はいらない。簀巻きならば尚更にいらない。そも、あなたの紹介の人物で真っ当な性質の人物がいるわけがない」
「不貞腐れないでよ。衣玖」
「永江さん」
「衣玖ったら。そうだ、貴女にお裾分け」
「なにかしら? これ」
「スルメイカと、カスティーラ」
「イカ? ああ。外の世界からまたかっぱらってきたの」
「お酒に合うのよ。店主、一枚焼いて」
「それにしても貴方が私に物をくれるだなんて珍しい。いつも従者の狐がどうたらこうたらとかいう愚痴しか私によこさないくせに」
「あら衣玖ったらもう。わたくしの深遠なる悩みのかけらも理解してくださらないのね? 同じ女同士、腹を割って話しているつもりなのにゆかりん悲しいわ」
「何をおっしゃりますか貴方は。ときにこのスルメイカの匂いは実にお酒に合いそうで」
「イカ臭いと申しますか」
「そういえば先日貴方から押し付けられた官能小説にはそのような描写がありましたが、あいにくと理解の及ばぬ範囲ゆえ」
「そんな様相だからあなたは行き遅れる」
「貴方は歳だけでなく耳まで年増になったのですか。助平な話題を振るなんて女性としてあるまじきはしたなさですよ」
「助平だとわかる貴女も十二分に助平では。店主なんて首を傾げているというのに」
「だから貴方から押し付けられた官能小説で知ったと私は言っているのに」
八雲紫とはこのような人物である。ちゃらんぽらんと曖昧な会話ではぐらかしつつ、スルメの足を噛み千切ろうと四苦八苦している女である。しかしこの女が幻想郷の管理者と嘯いており、他にも幅広くプライベートを漁っているのも周知の事実。その精力を世のため人のために役立てることができればと誰もが考えるのであるが、彼女は「世のため人のため」を考えると途端に手足の関節が動かなくなると言う。最悪である。
「どうやって育ったらそのような性悪になるのですか」
「師匠の賜物です。わたくしの師匠」
「なにの師匠なのですか。というよりも師匠がいるだなんて初耳ですが」
「一言ではとても。なんせ深遠なるわたくしよりもはるか深遠なお方でありますから。名前を出すのさえおこがましい」
八雲紫は実に大きなあくびをした。これだけで女性失格であるが、憎たらしいことにあくびをしても絵になる容姿であるからして性質が悪いのだ。
「そうそう、師匠が以前退屈だと言って博麗神社を地震で倒壊させて」
「待て待て。その師匠というのはどう聞いても比那名居天子その人なのですが」
「あら、それでは間欠泉を沸かせて神社に温泉を」
「それは地霊殿」
「幻想郷を紅い霧が覆うことが」
「もういいですもういいです。貴方が私との会話を全力で放棄していることだけは伝わりましたから」
「それにしても、衣玖の家は狭いのね」
「ええ、四畳半」
「掃除しなきゃだめよ?」
「中入ったんですか。不法侵入じゃないですか」
「そりゃ隙間を抜けて直接顔を覗きにいこうとね。でも留守だったっていうわけ。それに、この幻想郷にはそれを取り締まる法なんてないわ」
「プライバシーの侵害です」
「プライバシー。四畳半で寝転がってわ食っちゃ寝してお酒あおってイカ炙って」
「イカは今日貰うんです」
「これからの話をしているのよ。イカ炙って食べちゃうんでしょ? それでお酒ごくごく飲んでうぃー幸せーっていって万年床で寝るんでしょうが」
「とてつもなく幸せで建設的な生活でしょう」
「まさか」
「少なくとも、冬になると冬眠する貴方に言われたくはない台詞ではありますね。自由な時間を私の楽しいように考えられる限り最高にだらけて過ごしているだけなのですから」
「仕事が要職ともなると、睡眠時間もそれ相応に必要になるのよ。おわかり?」
しれっと言うあたり、八雲紫は性質が悪い。私の心まで邪悪に染まってしまいそうだ。
「とりあえず私は一人で飲みたいんです。店主さんがくれたスルメイカの味も貴方がいるとわからなくなる」
「ええ帰りますとも帰りますとも。今夜は幽々子のところで宴会があるのです」
飄々と笑いながら隙間に消えていく姿を見送りつつ、私は出会った頃を思い出していた。
あの頃の私は無駄な希望に溢れていたように思える。無駄は無駄。外に垂れ流ししすぎて全て流れてしまっているぐらいには無駄。
八雲紫と出会ったのもそんな折で、天界をふらふらしていた私に道を聞いてきたのでそれに応じた。
たったそれだけの仲だったはずなのだが、顕界に降りると行く先々で彼女の姿を見かけた。どうも行動範囲が被っているらしい。
残り一瓶の酒瓶を取り合ったり、味噌を舐めたり煎餅をバリバリ食べながら道を歩いていたら向こうから同じように歩いてきたり。
味噌を舐めたりかけそばを啜っていたら隣で天麩羅そばを食っていたり。良い櫛はないものかと探していると、手に取られた物がやたらと眩しく見えたり味噌を舐めたり。
味噌を舐めたり隠れて味噌を舐めたり、会食のときに醤油を取るふりをして味噌を舐めたりと色々だ。
これも何かの縁と、私たちはどちらともなく互いを友人として意識するようになったのだが、先ほどのやりとりのように大抵が当意即妙の嫌味対決である。
いい年した女同士でこのような気持ち悪いやり取りをするのにも随分慣れてしまった。いつまでも少女では居られぬのだ。
花よちょうちょよ桃よなどとまるで草食動物のようなことをしているよりか、串焼き食って酒かっくらって豪快に腹をボリボリしながら万年床で寝るほうが女らしい。
そう考えるようになってから随分とときが過ぎた。いまや少女という生物と私の間には決して越えることが出来ぬ壁が存在している。
これは進化だ。もう、戻ることのできぬ進化なのだ。他人はこれを退化と呼ぶかもしれないが、紛れもなくこれは進化なのだ。
あのとき八雲紫を友として認めずに、銀髪を垂らした半獣や、紅いクセ毛の死神、立派な角を二本生やした小鬼を友にしていれば、また違った展望も開けたやもしれぬ。
そう私が大真面目に語ると「それはない。少なくとも貴女は今の生活を楽しむ素地が既に出来上がっていて、薔薇色のアフター5などを楽しむ類ではないのです」と鼻で笑われた。私はそれに対して大層憤慨したものだが、憤慨したところで今の生活が大きく変わるわけでもあるまい。
しかし溢れんばかりにあったはずの希望はどこへ落っことしてしまったのやら流れだしてしまったのやら。
さて、八雲紫についての私の見識を少々語るとしよう。
八雲紫とは幻想郷の管理者であると嘯くのだが、それは少々信じがたい。
というのも彼女はふらふらと遊んでいることばかりで、していることといったら悪戯と悪ふざけばかり。
他人の為という言葉が親の仇よりも嫌いで、滑らかな口元も手元も、人の為となれば金剛石よりも硬直なさる。
しかし彼女は底が知れぬ。文字通り風よりも早く仕事を片付けていく超がつくほどに優秀な式神を従え、幻想郷の実力者たちの殆ど全てに顔がきく。
およそ、八雲紫がこの幻想郷で出来ぬことなど殆どないし、彼女に大っぴらに逆らえる者も、逆らおうとする者も居なかった。
これが強権を振りかざす独裁者でなく、単なる色ボケしたスケベババアであったことが、彼女を管理者に置いた幻想郷にとっての唯一の幸運であろう。
しかし基本的に絡まれるとめんどくさい類の人種であることには変わらず、嫌いではないがめんどくさいと評する者ばかり。
それでもまぁ、腐れ縁でダラダラと私たちは週一以上のペースで飲んでたりするのだった。
で、だ。
二日酔いの体をぐったり起こすと、私は一匹のリュウグウノツカイになっていた、というのは私の頭の中で繰り広げられた妄想である。
なんせ体に力を込めるのがめんどくさいのだ。打ち上げられた深海魚の如く私は時計を眺めた。
休日に起きるには少々早い時間だった。枕元に置いてある水を口に含み、からからの喉を潤す。
普通の休日である。
何か劇的な変態や変化があればわかりやすいのだが、あいにくと私は相変わらず永江衣玖その人であり、出し汁をたっぷりと吸い込んだであろう万年床にも四畳半にもなんら変わったところはなかった。
しかし静かである。勿論冬であるからして、虫の音の一つが聞こえてくる道理もない。
雪がしんしんと降っていたとしてもそれは音が鳴らない。風があればギコギコとけたたましくこの家は軋むであろうが、その風の音すらまったく聞こえない。
もぞもぞと体を起こし、もう一度枕元にあった水を口に含み、ぐっと体を伸ばしてバキバキと鳴ってはいけぬ音を鳴らした。おうふ。
しかし静かである。
私は布団の横に無造作に投げ捨ててあった半纏を装着して体育座りをした。体が暖まり動けると確信してからでなければ、珈琲の一つも淹れられぬ体なのだ。
枕元には食いかけのスルメが色っぽい体勢で肢体を晒している。実に色っぽいのだが、朝から食べるようなものでもない。
頭がフレッシュになった頃に酒と一緒にいただくとしよう。
「その前に、ちょっと外の様子でも伺うとしましょうか」
独り言は独りで居るときに呟くのだから独り言なのである。私は一人得心しつつドアを開けた。
そこは四畳半だった。
「は?」
私は振り返った。
そこには混沌とした四畳半が在る。ところが開け放たれたドアの先にも同じように四畳半がある。写真でキッチリカッチリ細部まで再現しましたというぐらいにそっくりである。
ははぁなんと悪趣味なのだろうか。きっと夜の間に誰かが同じような建物をくっつけたのだ。なにが目的でそれをしたのかはさっぱりわからないけれど、きっとそうなのだろう。
私はドアを閉じて開けて、また閉じて開けて。その風景が変わらぬことに絶望した。
観念してそこへ足を踏み込んでみると、そこは紛れもなく私の部屋であった。
万年床。安っぽい酒の入った瓶。枕元の水。寝転がっているスルメイカ。どこで買ったのかよく覚えていないデカいタペストリー。埃を少し被っているクローゼットに火の落ちている七輪。
本を読むときに使うしなびた机と椅子に、雑多な書物の詰まった書棚。ついでに下着類が部屋の隅に固まっていた。最悪に生活感が溢れている。
元々目が醒めた部屋も私の部屋に違いない。私は錯乱しかけの脳をどうにか正常に戻すため、滅多に吸わない葉巻に火を点けた。むせた。
そもそも「かっこいいシチリアマフィアごっこ」をしようと八雲紫が持ってきた葉巻である。なぜ今精神を落ち着かせるために無駄なことをした。
冷静、いつもキリっとしててカッコイイ。そんなイメージを作るために長年フィーバーしてきたというのに、それが一撃で崩されるとは思わなかった。
いやしかし、まだドアで出ただけである。この部屋には窓だってあると、カーテンを開け、曇りガラスを開けると、そこにはまた同じように四畳半が広がっていた。
ご丁寧にスルメも食べかけであった。
窓枠を踏み越えて細部を確認しても、そこは紛れもなく私の部屋だった。
もとの四畳半に戻った。吸えない葉巻を口に銜えた。
およそ八十日間に及ぶ私の四畳半世界探検は、かくして始まったのである。
これからの冒険は、基本的にほぼ同一の四畳半の中で行われる。したがって、その冒険について語る前に、私の四畳半について明確なイメージをもっていただきたい。
まず北側に、金属で出来た遮音性に優れたドアがある。蹴っても殴っても壊れやしない丈夫な作りで、ドリルをぶち当ててようやく吹き飛ぶぐらいの強度である。
ドアから入った脇には四畳半に似つかわしくないバスルームと洗面台。一応女であるからして、そこはきっちりと片付けている。普段の私と仕事モードの私を切り替える境界線はつまりはここだ。熱いシャワーを浴びて鏡の前に立てば、外見も含めて別人である。化粧って怖い。
バスルームの隣にはお手洗い。そしてコンロが一つしかない申し訳程度の流し台も、使った形跡がほとんどないのを覗けば綺麗に整理整頓されている。
ここらへんは割りと几帳面なのだ。私は。
「男子厨房に入らず」という言葉があるが、私はこの時代男女差別の撤廃を声を高くしたい。つまり「女子も厨房に入らず」を私は実践しているのだ。
さて、部屋に入って北側は押入れになっている。そこには華やかさの欠片もない実用品の類である衣類、読み飽きた本、夏用の薄い布団、猥褻図書館が設置されている。
東側の壁は、大半が本棚であり、本棚の脇に箒とちりとりが厳かに設置されている。どちらもたまに活躍する程度である。
南側の壁は窓があり、その手前には本を読むときに用いられる机がおいてある。机の上には読みかけの本が無造作に散らかっている。適当に開いて適当に放るのだ。
そして机と本棚の狭間には、脱ぎ捨てられた衣類やよくわからない物が投げ込まれている。仕事着以外の服は適当に洗濯し、適当に着ては適当に投げ捨てるもの。
この空間を世捨て人ワールドと私は読んでおり、彼らは身を寄せ合って暖を取っているという脳内設定が出来上がっている。
中央には万年床。西側にはお酒を貯蔵した暗所が設置されており、これが四畳半の全てである。
さてとまぁ、この度の犯人というのは明らかに八雲紫であろうことは先にも記したとおりである。
邪悪の権化である彼女はどうせ、面白半分で私の部屋を弄繰り回したのだ。そうでなければ四畳半が連綿と繋がるDNAの螺旋のようになるわけがない。実に破廉恥だ。
くそったれめ。
どうせどこかでニヤニヤ笑っていて、気が済めば開放するのだろうと私はどこかたかを括っていた。
食料はこの部屋にはスルメイカと酒と普段アテにしているアーモンドにチーズ。漁れば干物の一枚ぐらいはでてくるかもしれない。
いずれにせよ、この部屋にある食料は酒と直結したものしか置いていない。自炊? そのような邪悪な思想に支配されたものは犬に食わせてしまうがいい。
女だからと料理が作れると思ったら大間違いだ。私は爛々と燃え盛る炎と恋人ではあるが、繊細な料理とかいうものとは縁が遠い。
誰かが作ったものに舌鼓を打つのが、永江衣玖としての嗜みであることは疑う余地はないだろう。文句ありますか。ないですよね。
「行き遅れの紫オババ」
私が呟いても、いつまで経っても隙間は出てこない。
なんということだ。普段ならば紫ババアといえば無駄な地獄耳を働かせて飛びつく血気盛んなあの女が、面白がって監視しているであろう私の問いかけに応じないとは。
これは由々しき事態である。八雲紫に文句が言えぬと鬱々と過ごす者はこの幻想郷のおよそ九割を占める。まともに歯向かえるのは博麗の巫女ぐらいだろう。
このような状況で、公然と悪口が言える。これが知れてしまえば幻想郷の秩序は著しく乱れるに違いない。
早く私をここから出したほうが身の為だと思うのだけど? うん? そこまで考えて虚しくなって布団で泣いた。
最悪の事態だ。八雲紫がさっさと出てきて話をつければこの話はさっさと終わるはずなのに、どうして彼女は呼んでもでてこないのだろう。
呼びかけているのがラブリーでチャーミングでセクシィなこの永江衣玖であるというのに。全くあの女の思考回路ははかり切れぬ。
私が彼女の立場であれば、呼ばれた刹那には傅いているはず。それぐらいの人間力の差がついているはずなのに、なぜ彼女はそれを認めぬのだろうか。
スルメを噛み千切る。口の中にスルメのスメルが広がる。これはスルメとスメルと掛け合わせた高等なギャグであるが、抱腹絶倒する八雲紫はいつまで経っても現れぬ。
おーい八雲どんよーい。
もしかしてこの季節、冬眠ですかー。
まぁ私はアイドルゆえに、風呂に入らなくっても平気なはず。嘘。無理。助けて。
「きっとどこかに私の新天地があるに違いない。四畳半王に、私はなる!」
居てもたっても居られなくなった。どうせ寝てても動いてても結果が変わらないというのなら、少しぐらい運動したほうがいいのかもしれない。
そっちのが、気も紛れるというものだ。
■四条行脚一週の旅 その1
読者の方々には少しばかしお時間を。八雲紫でございます。
唐突にわたくしめが物語に割り込むには些か勇気が要るのでございますが、竜宮の使いときたらやったらめったらと堅苦しく、それでいてお酒と爛れた生活習慣について語るものですから。友人をしているわたくしめの品性までもが疑われてしまうのも癪ですので。
彼女にも可愛らしいところがあるのですよと、わたくしめの口から語らせていただきたいのです。どうか少しばかしお時間をば。
さて、と。
皆様方は人里のとくにお酒を出すお店などについての知識をばおありでしょうか?
幻想郷のたかが人里といえども、これが夜にもなれば大層な盛り上がりでありまして、私どものようなド腐れ妖怪を受け入れるためにぴーひゃらぴー。
美味しくお酒を頂くのがわたくしどもの密やかなる楽しみなのです。
読者の方々にとっては、おまえらはいつでも飲んでいるじゃないか。今更密やかに飲む必要などどこにあるのかと仰る方もいらっしゃるかと思います。
しかしわたくしどものような女性にとっては、殿方を前にして飲むお酒と、しめやかに女性同士で飲むお酒。また宴席でいただくお酒には純然たる違いが存在しているのですよ。
いつだかのことでしたが、まだ寒さも身を刺すほどにはなっていない頃のような気がします。
わたくしと衣玖との二人で、その日は偽電気ブランなるものを頂こうと右往左往としていたときのことであります。
電気ブランなるものは、幻想郷でも嗜むことのできる飲み物なのですが、その製法は人里でもとびっきり大きな酒屋が秘密裏に製造していたのです。
その不可思議な色や味から、それはそれは人気のある飲み物でありますが、わたくしめはそれよりも不思議な飲み物があると聞いたのです。
偽電気ブラン。
電気ブランなるものでも十分不可思議な飲み物なのですが、偽電気ブランともなれば、それは大っぴらには作れない幻の酒らしいのです。
そも、電気ブランの製法は門外不出。それを真似して、独自に出来上がったお酒の味は、オリジナルのそれとは大きく違い、それでいて格別だとか。
きっと煉瓦造りの小さな工場の一室、白衣を着た科学者然とした方々が、門外不出、決して関係者以外が覗くことができない魔法の手法に従って作っているに違いないものなのです。
ああぜひとも飲んでみたい。喉を潤してみたいとわたくしたちが思うのも至極当然でありましょう。
慎重に、キリキリと僅か弄られた電圧が偽電気ブランの味を決めるに違いないのです。トクトクとフラスコを満たしていくであろう琥珀色の液体。
神秘的な芳しい香りが鼻を抜けていくのを想像するだけで、好奇心が胸いっぱいに膨らんで弾けそうになるのです。
ぱちん、と弾けてしまいたいほどに。
「さあ行きましょうよ衣玖。偽電気ブランがわたくしたちの来訪を心待ちにしているに違いないですわ」
「うんざりとした顔で」
「いいえきっところころほっこりとした表情で待っているに違いないのです。なんせ、わたくしたちはこんなにも偽電気ブランを愛しているのですから」
「私は面白いお酒があると貴方に誘われただけでありまして、偽電気ブランなるものに偏愛を注ぐ所以などどこにもないのでありますがね」
「そういうことを言うから、宴席にも殿方にも余り誘われないのでありますよ。ときにシンパシーを注ぐのも女としての務めでしょう」
「きゃっ!」
「うふふ、こやつめういやつじゃのう」
「おだいかんさまぁ、どうかどうかお許しを!」
「ふえへへへ」
と、私たちがいつも通りにお代官様と遊女ゴッコをして遊んでいるうちに、くたびれた屋台がゆるゆると前を進んでいるではありませんか。
やぁラーメンかおでんか串焼きかとわたくしどもが屋台の店主へと声をかけると、なんと移動式のバーを開いているということでした。
「もしや偽電気ブランというものを置いているのではないのですか」
とわたくしが胸を高まらせて聞いてみると、髭を撫でつつ店主は首を横に振りました。
わたくしがガッカリして肩を落とすと、店主は言うのです。「偽電気ブランは京都で飲める」と。
はて、外の世界の飲み物の噂が如何にして幻想郷に広がったのか。わたくしめもまずその名前をどこで聞いたのかと悩んでみても思い当たるところがないのです。
それもそのはず。その御仁は外の世界から人里に居付いた酒蔵の人らしく、外での珍しい酒の話として喋った覚えがあるというのです。
私も「京都の街中にて一度だけ飲んだことがある」と髭を撫でつつ、懐かしげに語る様。
わたくしはがっくりと肩を落としてしまいました。幻想郷でも偽電気ブランなるものを頂けると思い、今日衣玖を誘ってぶらついたのに。
諦めて他の何かを頂きましょうか、と私が衣玖に向きかえると、彼女は腕組なんぞをして。
「そしたら京都に行きましょう。私も興味が沸きましたゆえ」
とのたまうのです。彼女は変なところで頑固ものなのです。
●永江衣玖の四畳半一周 その1
私である。
永江衣玖である。
四畳半王になると言い、果敢に躍り出ようとした私であったが、やはりここは体力の温存をせねばならぬとはじまりの部屋へと舞い戻った。
私はこの部屋を暫定的に「我の偉大なる一歩の始まる部屋」と命名し、貰ったカステラなるものを頬張っていた。甘くて美味しい。
しかし喉が渇くと蛇口を捻ると、ざばざばと冷たいのが出てきた。ナイス。
これで珈琲でも紅茶でも何でも淹れて、カステラを齧れば、外に出られぬことなど些事に思えてきたから不思議であった。
なんかもういいんじゃないか。私はこの四畳半で生きていく運命なのではないだろうか。指を舐める。カステラの破片はなんでこう美味いのか。
腹もくちくなると眠気がやってきたわけで、しかしそのまま寝るにもしょうもない気がした。
そもそも、部屋が四畳半で数珠繋ぎになったからなんだというのだ。
ぐったりと過ごしていて文句を言われないのならば何も問題はない。というよりも合法的に仕事も休めるのではないか。
八雲紫の悪戯で、と言えば誰も文句を言うものはあるまい。私は被害者であって、咎められる立場ではないのだ。
なんせ窓から出てもドアから出てもそこは同じ四畳半なのだから、よって私は布団にもぐった。
鼻先をスルメの足がくすぐり、くしゃみが出た。へぶし。
ティッシュで鼻をかみ、それをゴミ箱へと投げ込むと、ふと部屋の隅の洗濯物が気になった。
私はそれを、隣の四畳半へと投げ込んだ。
画期的である。
見たくないもの、要らないものはお隣様へ。
私の四畳半は今日、華麗に生まれ変わるのだ。
なぜか汗ばむほどにソイヤソイヤと投げ込んでいるうちに、恐ろしいことに気づいた。
シャワーが、使えない。
■四条行脚一周の旅 その2
さて、わたくしたちが京都へ行くといっても、このままの格好というわけにはいきません。
そこでわたくしは一計を案じて、それを衣玖へと伝えました。京都の女学生の格好を見習えば、とくに困ることもないでしょうと。
まぁ少しばかり? 衣玖が大学生の女の子の格好をするのは無理があるのではないかと、読者の方々は思うでしょうけども。
黒を基調にシックにまとめてグロスを引けば、シャンと背筋の伸びた美しい――まぁわたくしと比べるのは酷なのですけども。
そういった女性になるのです。衣玖もまんざらではなさそうで、けれども口では「仕事着以外の服なんて、適当でいいのに」ですって。
とかいって頬が緩んで、鏡から目線が外れていないってのはちょっとどうかと思うのと、口にわざわざ出すほどわたくしは無粋ではないのですけど。
そしてまぁ、私は紫のドレスに白い帽子を被って。傘はいつも通りに左手に閉じたままお供させていくのです。
わざわざ様相を書いて、想像させてしまうのも酷でしょう? なんせわたくしの美しさは……。ああそうそう、偽電気ブラン。
八雲紫の美しさを語れだなんて、人の寿命ではあまりにも時間が足りなすぎるとは思いませんかと。
と、わたくしたちは夜の四条の町へと降り立ったのでありました。
「人がたくさん。すごい、あれは? あれは?」
「衣玖。はしたない真似はよして。一緒に居るわたくしが恥ずかしいですわ。それよりも単語でぶつ切りで話すのをよしてほしいわ」
「だって、ほら、ピカピカ」
「貴女だって電気を発するでしょう。エレキテルは外の世界ではもう、珍しいものではないのです」
四条の橋を渡る最中、わたくしたちは河原で遊ぶ数人の男女を見て指を銜えました。
二人ともが同じ行為を無意識にしていたのですけども、それを二人ともが無視を。
わたくしたちは通り過ぎるまでそこから目線を外せずにいましたが、まずは先斗町を行こうと、横道へとすぐに逸れたのでした。
ここの通りはお洒落なバーやらお食事どころやら――いかがわしいお店も視界に入らないこともないのですけど。
巨乳専科やら、世の中の殿方は慎み深いおちちの魅力をよもや知らないのでしょうか。
わたくしはこの胸にたわわに実ったものよりも、霊夢のように女性的な慎みを満面に押し込んだようなおちちのほうが好みなのですけども。
隣でキョロキョロと辺りを見回す衣玖の胸も、それはそれは大きなおちちが揺れておりましたとも。
時折わたくしたちの表情を覗く若い人たちも居ましたが、それよりも偽電気ブランなるものを探して歩くほうが大事でした。
けれども、バー「月面歩行」なるお店すらも抜けて歩いていっても、そのような不可思議なお酒を置く煉瓦作りのお店は見当たらないのです。
「ねぇ紫。外の世界というのはこんなにも素敵な場所だったの? 黙っていたなんて酷いわ」
「そうね。素敵な場所だからこそ、私たちはこれを忘れて過ごそうとしているのよ。だって、享受してしまえば有難味を失うもの」
「またそうやってはぐらかす」
「はぐらかしたわけではないわ。きっとここを歩く人たち――例えばあすこで座っているお兄さんだって、幻想郷に来たら夢のようだって言うはずよ」
「そんなものかしら。幻想郷にはピカピカ照らす電灯も、それで照らされる川もそれを彩る素敵な細工もないのに」
「衣玖。空をご覧なさいよ。ここには幻想郷を照らす星々も、月の明かりさえも届かない。ここでは下ばかりを見て、空を見ることを忘れるの」
「そんなものかしら」
「そんなものなのよ。お互いに、無いものをほしがっているの。だから幻想郷は、なるべくはこの世界が失ったものを輝かせるようにしているわ」
「にしても、お目当ての偽電気ブランは見つからないときた。手分けする?」
「衣玖。貴女の目はもう、偽電気ブランなんてどうでもいいからこの町を歩いてみたいって映っているわ。そんな貴女を一人っきりで歩かせてなるものですか。
わたくしは一応、本来外に連れ出してはいけないところを捻じ曲げて貴女をここに連れてきているのですから、そこらへんは弁えてほしいのですわ」
「あらまぁそれは失礼。でも素晴らしい場所だと思うのはホント」
そういって衣玖は、川べりにあった石のそれへと腰掛けるのです。そして彼女は少女の如くわたくしめへと笑いかけるのでありまして。
「意外と捨てたもんじゃないと思うのですよ。私は。天界に住んでいると言えば聞こえはいいのですが、私はリュウグウノツカイ、貴人ではありませんから。
私自身、お酒を飲んで鬱憤を晴らさねばならぬ。そのような人間臭い部分へと堪らなく共感を感じるのです。
だから、お酒の匂いがプンプン漂ってくる、こんな町並みに人が溢れているのを見ると、胸の奥がぽかぽかと暖かくなるのですよ」
ころころと笑う彼女を見ていると、あれほど胸の中をいっぱいにしていた偽電気ブランへの気持ちも少しばかり、薄れてしまいました。
どこか適当に見繕って、そこでお酒を飲みたいと、喉がカラカラに渇いて要求しはじめます。
安っぽい味の、赤玉ポートワインなんかをトクトクとグラスに注いで、喉を潤わせたならどんなに気持ちがいいことでしょう。
「紫、そこのお店なんて小洒落てて素敵。偽電気ブランはまた今度にしましょうよ。」
わたくしの表情を察したのでしょう。悪戯っぽい笑みを浮かべた衣玖は、私の手をぐいぐいと引いて――それにさしたる抵抗も見せず。
わたくしたちは一軒のバーへと入りました。静謐とした空気のそこは、嗜む人たちも大きな声など出さずに、静かにお酒を楽しんでいるようでした。
嬉しくなって、カクテルをちょちょいと頼むと、果実からぐしゅりと染み出た果汁とお酒が交じり合った素敵な色の液体が差し出されました。
一口頂くと、脳天を突き抜けそうでそのまま頭のところで留まる、ほっこりとした味わいが舌から喉から胃から湧き上がってくるのです。
ああ美味しい。隣を見ると衣玖も実に美味そうにお酒を飲んでいました。
見ているだけでも美しい色のそれは、口に入れて喉を通すとおなかの中で妖精が跳ね回っているかの如く自己主張するのです。
これだからお酒はやめられない。
妖怪も人間も、お酒の魅力には抗えないものですから。
●永江衣玖の四畳半一周 その2
安っぽい酒と、貰ったスルメイカを齧っているうちに、私の四畳半生活も二日目になっていた。といっても、寝て起きたというだけで、正確な日時はわからないのだけど。
しかしこのスルメイカというものは実に酒と合った。もちろん焼きたてが一番美味いのだろうけど、ものぐさに布団から頭だけを出し、噛み千切ってくちゃくちゃ咀嚼してる分にもなかなか乙である。
酸化し始めた酒も、これはこれでまろやかで嫌いではないのだけども。スルメイカのおかげでスルスルと喉を通っていき、昼頃には一升瓶が空になっていた。
もとより半分程度しか入っていなかったとはいえ、結構ご機嫌なペースである。
代わりの酒を暗所から取り出そうかとも思ったが、それはそれで、これはこれ。飲みたい気持ちを抑えて、布団でぐだぐだしていることを選び取った私。
この栄光は、ものぐさを極めしものにしかわからないだろう。私もなんとなく気分が良いから言っているだけで、何がすごいのかはさっぱりわからない。
そうしているうちに昼寝をしていた私は、酷い頭痛とともに目が覚めた。やはり安酒はいけない。変な酔い方をする上に、残ってしまう。
重たい身体を引きずって、だーと水を口に含む。うがいする。水を飲む。このサイクルを繰り返して、だーっと大の字で布団に転がりこんで。
うだうだと寝っ転がる。下着とか換えなきゃ、まずいんじゃなかろうかとか、そんな気もする。
気がするだけで、寝っ転がる。実にごろごろファンタジアであった。
しかし、まぁ、いつになったらこの四畳半から解放されるのだろう。
四畳半フリークの異名を持つ私であるが、さすがに一人遊びで延々と過ごすというのも些か退屈なのである。
そも、四畳半は生活をするのには最高の空間であることに何の疑念を挟む余地もないのだが、ここで延々と過ごすことは四畳半の想定する用途ではないのであって。
そう考えているうちに、私の中で沸々と怒りが燃え滾ってきた。その前に服を取り替える。脱いだ服は隣の四畳半へと放り投げた。
「四畳半でしか生活できない。その幻想をこのドリルで打ち抜いてやる!」
気を取り直して私は、ジャージ姿で電磁ドリルを壁に打ち込んだ。思ったよりもずっと脆い壁はがらがらと崩れて、また同じような四畳半が表れる。
こうしていけば、壁を壊せば居住空間は徐々に広がるのではないだろうかと思っての行動だったが、それは些か短絡的だったと言わざるをえなかった。
壁を崩せば、それを形作っていたものが塵として積み重なるのは至極当然。集めるのも一苦労であり、それを捨てるのをどこにするのかといえば、また違う四畳半だろう。
「なんということ……。早くも豪邸に住む計画が頓挫してしまうだなんて……」
あとお風呂に入りたい。
しかし、このアパートには風呂がない。
なんせ天人は汗をかかないのだ。いつもフローラルな桃の香りが漂ってる彼らには、湯に浸かることは娯楽以外の何物でもなく。
住む場所にも常に設置されているとは限らない。
だから竜宮の使いの大半は、銭湯で身体を流すことになるのだ。
湯から上がり、湯気漂うままで腰に手を当て、ぐっと飲み干す珈琲牛乳。
これほど美味いものはこの世に存在しないと、想像しているだけで喉が渇いてきたし、身体も痒くなってきた気がする。
幸いにして、薬缶で湯を沸かすことはできそうだ。
流し台に湯を溜め、身体を洗おうかとも考えたが、一人暮らしの流しはそこまで大きくはない。
仕様が無いので、タオルにお湯を含ませて身体を拭くことにした。
「あーなんで私は、こんなにさもしいことをしているのだろう。おでんが食べたいなぁ。熱燗飲みながら、がんもどきとか大根とかに舌鼓打つの。もう最高」
二の腕の辺りを拭き、定期的に絞ってまた湯を含ませる。床が水浸しになっても部屋を移ればいいだけであるから、そこは柔軟に対応することにした。
無駄に立派に育った胸元や太股を拭いていても、もう少し小柄なほうが可愛い物が多いとため息を吐く材料が増えるだけである。
どうせうちには、自宅で過ごすときのためのジャージにスウェットになぜかバスローブ。あとは仕事着ぐらいしかないもんだから。
女らしさなんぞどこかへ捨ててしまった。そりゃたまには、永江さんって美人ですよね、綺麗ですよね。だなんて言われることはあるが。
しかしその大半は同性である。その羨望の眼差しの下にある肉欲の炎はなんだ。私はノーマルだ。至ってノーマルだ。
身長が高くて男性が周りにいる気配がないからといって、すぐにそういう対象にされるのは如何なものか。
ラブレターやチョコレイトを頂いたところで、ただひたすら対応に困るだけなのに。
頭にタオル巻いてジャージで帰ってくところをみて幻滅しました。さようなら。だなんて言われても、私に何の罪があるというのだ。
確かに部屋の惨状を省みると、黒髪長髪の貞淑な乙女が天井を突き破り、部屋の片付けに執心して夜のお供までしてくれる素敵イベントを期待したくなったりはする。
それは生きとし生けるものに刻み込まれたサガなのだからしょうがない。
しかし現実の黒髪の貞淑な乙女と来たら、腋を見せびらかしながら妖怪を追う立派な狩人である。
確かに整った顔立ちや巫女さんという特殊な容貌は、我々の心を癒すものであるが、なんというか、違う。
求めているのはちょこんと部屋の隅で正座し、こちらの様子を伺う小動物のような少女なのである。
決して、家の中をひっくり返し、落ちていた金銭を自分のものであると主張するような魔物の類ではないのだ。
これ以上小言を言うと、この四畳半をぶち破って当人が突入してくるかもしれない。
それはそれで助かるのであるが、彼女にぶちのめされると結構どころか相当痛い。
魔方陣を描いて巫女を召還するのは、ある意味この亜空間からの脱出に一番近い答えなのかもしれないが、私は思考を放棄しつつわき腹を拭った。
少し、たるんだような気がした。
■四条行脚一周の旅 その3
というわけで、わたくしたちはお酒を気分良く飲んでお店をあとにしたのです。
というのも、一応わたくしは幻想郷の守り手としての役目がありますゆえに、ふらふらと外の世界に遊びに来ているというのは本来許されざることなのです。
一度は三条まで抜けた私たちは四条へと引き返そうとしたのですが、これがどうにも人が多いのです。
ここが幻想郷であればこの時間帯には人は寝所へ潜り込むのですが、外の世界の夜は幻想郷のそれとは勝手が違いますゆえ。
人の流れは途切れることを知りません。
それも、親から貰った黒髪をわざわざ茶色に染めた、不健康な顔色の女の子たち。
焦燥感にでも駆られているのか、やや早歩きの壮年の男性。
幻想郷であれば立派な大人として扱われるであろう子たちが、画一された既製服に身を包みこの時間にも歩いていたりするわけで。
憂慮もするのですが、人々の波の一つ一つに慮る余裕などあるものでしょうか?
「京極通りから四条のほうへと抜けましょう」
京極通りにはわたくしめもお忍びで歩いたりもするのですが、これがまたいたいけな修学旅行生を虐めるために毎日のように閉店セールをしていたり半額セールをしているのです。
数年前にも、進学を機に京都に住み始めた、とある心優しく純朴で小説を愛する少年もこれの被害に会い。
一時期は京都人に対してお茶漬けを被せたいほどの衝動に駆られたとか。
その少年も今は立派な京都人。知り合いを案内するときはそういったお店にわざと入るように薦めるとか。
そんな商人根性溢れる通りにも、最近では店先にボ○ロだとか東○のプライス品を置くようになり、時代の変節を切々と感じていたりするんだとか。
「私には地理がわからないので、任せるほかにはないのですけどね」
「ちなみにここからもう一本向こうが、寺町通りですよ。ブティックの横にお寺が並んでいたり、面白いでしょう?」
「まぁ、幻想郷では見かけない光景ではありますけどね」
はて、衣玖の相槌がやけに軽いと思いましたら、どうも彼女、明石焼きが食べたいようでした。
京極通りの手前にあるビニールの敷居。そこにはぶっきらぼうな文字で八個、四百円と書かれています。
歩く速度も異様に落ちて、何度も何度もそちらのほうを伺っておりましたから。
「衣玖、食べたいんでしょう?」
「私は、タコなんていうものがどんなのかわからないし」
「はふはふ頬張ってるカップルに夢中じゃないの」
「それは、その、美味しそうだなとは思うけれど」
「カップルのどっちが?」
「明石焼きとかいうものが」
「でもタコは知らなくて、カップルの味は知っている。夢中になるのなら自然、カップルのほうじゃない?」
「絡みつくな、恥ずかしい。というかカップルの味なんぞ私は知らない。明石焼きなんてもの、幻想郷では見たことがない食べ物なんですから、食べてみたい」
「そだ、居酒屋いこっか居酒屋。安くて、大衆的で、海の幸を出してくれるお店」
「明石焼き……」
「も、食べましょう。座れるのよ、ここ」
指を咥える推定女子大生の破壊力はなかなかどうして、グッと! グッとわたくしの心を捕らえたのでした。
幻想郷の守り手とか、早く帰らなきゃまずいとかいうのっぴきならぬ理由も、なんとかなるでしょう。きっと。
テーブルで待っていると、ほどなくして目的の物がお出汁と供に運ばれてきました。
この店ではソースも置かれており、どちらの食べ方でも許されるのです。
ぽちゃんとお出汁に浸けて、ふよふよになったところを口に運ぶと、染み込んだお出汁が溢れてきて、熱いけれどこれがまた美味しいのです。
火傷しないように気をつけつつ、二つ目はソースを塗って頂きます。お箸で摘んで半分齧ると、タコも一緒に口に転がり込んできました。
口から白い息を吐きながら、冷ましつつ嚥下してもう半分も口の中へ。
衣玖は箸で解体して、タコを物珍しそうに眺め、なにやら覚悟を決めた眼差しで口に放り込むと、満足げにお出汁へと衣部分を放り込みました。
ご飯はやはり、誰かと一緒に食べると美味しさも増すのだと、わたくしはそう思うのです。
藍と、そしてときおり橙も交えて。またはでかけて、博麗神社などでご飯をいただくとき、人数は増えれば増えるほど、幸せな気持ちも膨らむのです。
無論、美味しいと思って、楽しい雰囲気の中であることが条件ではありますが。
殺伐とした空気でいただくご飯は、どんなに良い素材でどのように良い調理であっても、それは残念な味になるのですから。
明石焼きを美味しく戴いたあとで、わたくしたちは当初の目的通りに、京極通りを抜けることにしました。
煌びやかなブティックが次々と閉店を掲げ、町の装いも夜のそれへと変わっていきます。
ぎらぎらと光るファストフードのお店やコンビニエンスストアが町の雰囲気に似つかわしくないかと言えば、不思議とこれが喧騒に馴染むのです。
けれども、人の目が少し気になります。一軒目、お酒を戴いた先斗町通りよりもこちらは若い人たちが多いのですが、時折じろじろと私たちの容貌を眺めていくのです。
どうして目立ってしまうのかと、衣玖に視線を投げかけますと、なんと彼女は全身から黒いオーラを放っているのです。
ああまた彼女の悪い病気が出ました。フレッシュなカップルを前にして覚醒したのでしょう。
ブツブツと何事かを呟く彼女の裾を引いても、足は動いていても目線はこっちに向きません。
「衣玖」
「若さ、若さっていいよなぁちくしょう」
「純朴そうな美少年があなたに熱視線」
「え、どこ!?」
「獲物を狩る眼を見て逃げて行っちゃいました。残念、草食系だったのね」
「居ないくせに、そんなの居なかったくせに! 騙したなァ! 純朴な少女の夢を踏みにじったのね!」
「純朴ー? 少女ー? どこにいるのかしら」
それは京都の怪奇やもしれません。
京極通りを抜けて右折すると、百貨店が目の前に。
物珍しげに遠めに観覧する衣玖の手を引いて、ツカツカと地下鉄の駅があるほうへと。
京阪の駅とは全く逆の方向に、近鉄の駅があって、その途中に目的のお店が。
目的とご大層に言っても、地下のお店はどこにでもあるチェーン店の一つで、平日の夜ではそれなりの盛況程度なのです。
お刺身やお寿司、それに加えて唐揚げなどの居酒屋メニューを出すこのお店で、衣玖とわたくしは少し浮いているようにも見えました。
というのもこの店のお客の大半は、いわゆるスーツ姿の男性が多くて、わたくしたちのような年代の(大学生ぐらいの容姿。断固)女性の姿は少ないのです。
衣玖は居心地悪そうにしていたので、店選びをしくじったかとも思いましたが、刺身をアテにちびちびと安酒を戴くのでしたら、周りのことも然程。
お酒だけが飲みたければバーに行くほうが無難ですし、万が一出会いを求めるにしても、こういった大衆的なお店はそぐわないでしょう。
けれどそういった懸念も、刺身の盛り合わせが運ばれてくるころには回復していました。
「この紅色の切り身は?」
「サーモンよ、サーモン。大方ノルウェイだとかカナダだとかから輸入しているんでしょうけどね」
「ふぅむ。それで、これを醤油に漬けて山葵をつけて?」
「そのまま食べるの。川魚はなかなか、刺身にできないものね。馴染みがなくても仕方がないわ」
「獣肉とはまた違った味わいで、これがまたこの、味わいも深みも薄い清酒に合うのね」
「そうねぇ。でもサーモンは川をのぼるわけだから、幻想郷でも養殖できるかしら? 今度河童に打診しておきましょう」
「河童だの幻想郷だの、そういったことを大っぴらに話しても?」
「大丈夫よ。フィルターをかけているから、私たち以外にはとっぴんぱらりのぷぅ、な会話にしか聞こえていないわ」
「隙間というのは便利なもの」
「常識と非常識の境界をちょっと弄ればこんなものよ? 常識以外の言葉は耳を抜けていくの」
「この魚は?」
「ヒラメよ。海の底でべたーって、茶色でこんなのっぺりしてる魚。でも美味しいのよ。高級魚だし」
「ふぅん、確かに美味しいけれども。幻想郷では食べる機会がなさそうで」
「もういっそのこと、海も巻き込もうかしら? 塩も魚も簡単に手に入るようになるわけ」
「でも幻想郷は山間部。海を作るには、少し問題があるんじゃ」
「細かいことは、気にしちゃダメよ。それは衣玖の悪い癖だわ」
「そんなものかいね」
「そんなものよ。この世界、変わらないものなんてないんだから」
「私はいまの幻想郷が気に入っているけど」
「あら、だったらもっと良い方向に変えていけるように努力しなきゃ」
「私は何もせんよ。というか、竜宮の使い如きがどうして妖怪の賢者と酒飲み友達にならにゃあかんのか」
「衣玖、ひょっとして酔ってる?」
「うんまぁ、少し」
頬を紅潮させている衣玖は、少しばかしぼーっとした様子で、それでも淡々とコップを傾けておりました。
その様を眺めているのも心の保養に繋がるのですが、酔い潰れでもしたらあの四畳半の万年床に放り投げることに。
楽しく酔っているようなので、それはそれでとても嬉しいことなのですが、わたくしとしては、少しばかり飲み足りないのでありました。
●永江衣玖の四畳半一周 その3
二十日目。私は何もすることがないので、腹筋をすることにした。
はじめは適当にしていれば、紫が「ごめーん」と隙間から出てくるだとか、ドアが開いて誰かが迎えに来てくれるものだと信じていた。
しかし一週間を過ぎて、十日が過ぎた頃から、いよいよ暇になってきた。
幸い食べ物にも飲み物、着るものにも困ることはなかったけれど、何よりも私は娯楽に飢えていたのだ。
部屋にある本も全て一度は目を通したもので、酒を飲むにも一人で飲んでいるだけでは虚しくなってくるだけ。
食事をしようにも、大方のメニューを試してしまい、完全に停滞しているという有様であった。
そこで私が思いついた娯楽とは、なんとなく筋トレをしてみようということだった。
鈍った体は、はじめはその崇高な娯楽を拒否してみせた。固まった体は体を折り曲げることに対してストライキをお越し、節々はちょっとした動きで軋みをあげる。
百回程度の腹筋運動で一日を悶え苦しむことで過ごすことになり、しかし暇を紛らわせるには筋トレはとても効率的であった。
同時期に私がハマった暇つぶしは、謎のポエムをしたためることであった。内容は主に、紫の悪口である。
紫の頭から突如キノコが生え、そのまま風にのって大気圏を突破し、ルララ宇宙の風にのったときには自作の癖に酷い感動を覚えたが、飽きた。
次にハマった暇つぶしは、なんとなくそれぞれ四畳半に散らばっている服を集め、解体しては縫い合わせ、巨大な一枚の服を作ろうと試みることであった。
我ながらこれは面白い試みで、体の大きさを自由自在に変えられる鬼の服の仕組みについて考えだすほどに無意味な時間を過ごせた。
全身鏡に向かい、一日ポーズを決めようとあれやこれやと試すのも楽しいと思えば楽しかったし、やけっぱちになって放火をしてみたけれど、何も状況は変わらなかった。
要するに、私は暇なのだ。猛烈に暇だった。
自己流の悟りを開くべく、無駄に断食をしようとしたこともあったが、一日経たずに怠惰と飽食の日々に戻った。
限られた食材で創作料理に打ち込もうとしたら、悲しみを生むだけの結果に涙を禁じえなかったこともあった。
「これも全部紫のせいだ。あんのババア。大親友たる私が困っているのを見て楽しいか! そんなに楽しいのか!」
風呂にも都合二十日入っていないことになる。
毎日体を拭くようにはしているのだが、できれば大きな風呂に行って体を思う存分に伸ばしたい。
紅魔館とか、あそこは広そうだからきっと風呂も広いに違いない。今度行ってみよう。断られたら腹いせに雷を落とそう。
きっとあそこの当主は「雷だぎゃおー、さくやのおへそもたべちゃうぞー」とか言ってキャットファイトに勤しむ。いや、これは勝手なイメージに過ぎないのであるが。
こうして十日ほど、顔見知りの雷に驚くシチュエーションをはじめにした、逞しい妄想で暇を潰してみた。
存分に暇は潰れたが、まともな目で見れない気がすると気づき、妄想で形作られたイメージを放棄すべく座禅を組み、また十日が潰れた。
しかし、嘆かわしいことに紫は一向に現れる様子がない。
「やれやれ、私が隔離されているというのはそれだけで世界の損失だというのに、それがわからないの……」
悪態をついても出てこない。
「おお神よ! なぜあなたは私にこのような試練を与えるのです!」
許しを乞うても出てこない。
「俺だよ俺! 実は四畳半に閉じ込められちゃってさ!」
そろそろ寂しくて死にそうになってきた。
「はぁぁぁん、おにぃちゃぁん、あたしぃ、四畳半から出たぁいのぉ」
吐血した。
「あはあはつんぱおかんくかんくのんたありみれ!! あはあはつんぱおかんくかんくのんたありみれ!!」
仕様がないので腹筋をしてみた。
いつになくおなか周りが引き締まっている気がする。
ジャンプスクワットをしているうちに、太股の辺りが以前よりも太くなったような予感がした。
ムチムチじゃないの、と鼻で笑われたトラウマが蘇ってきた。別にムチムチでもいいじゃないか。
世は貧相な胸や細っこい足をやたらと偏重する風潮にあるけれども、おちちはたぷんたぷんのほうが触り心地だっていいはず。
自慢じゃないが、自分の胸を湯船に浮かべて紫の胸に追突させ「タイタニック!」と言いながら沈没させるのは貧しいおちちにはできないはずだ。
まぁ小鬼は「見て見て一点集中ミッシングパワー!」とか言いつつたわわに実らせたりもするけれど、私から言わせればそのようなものは邪道だ。
そーいそーい。
ジャンプスクワットをするたんびに、胸がばちこんばちこんと揺れる。
試しにブラジャーをせずにやってみたら、すんごい上下運動をする。
ちょっと面白かったので、パンツ一枚でジャンプスクワットをしてみた。
ものすごい勢いで揺れる。顔に当たる。ばちこんばちこん。
私の頭がヘンになる前に、外に出してほしい。
■四条一周行脚の旅 その最後
ありていにいえば、わたくしたちは今追われているのでした。
飲み足りない分は幻想郷で。そろそろ戻りましょうかと京阪四条の駅へと向かった際のことでありました。
少し風に当たりたいと鴨川に降りたわたくしたちの目の前に、彼女らは現れました。
ブロンドの髪を流し、おどけた表情で河辺をフラフラしている、白人の少女と、黒曜石みたいな瞳をキラキラ輝かせている、モノトーンで固めた少女。
わたくしは、彼女らを知っていました。そして、会ってはならない存在であることもまた、よく理解しておりました。
へべれけの衣玖が居なければすぐにでも身を翻していたのですが、そのときの衣玖はわたくしの事情を慮る様子など見えなかったのです。
「だから、メリー。ここは四条だけど四条じゃなくない?」
「そうね蓮子。よく似たどこか。もしかしたら時代がズレているのかも」
周囲に不審に思われぬよう、小声で話しているようでしたが、耳を澄ませばその会話はわたくしの耳へは入るのです。
なるべくならば、このまま、何事もなく過ぎていけばいいのですけどと考えていると、鴨川の水面が突如割れ、何かが猛スピードで抜けていきました。
「ひゃぁっ!」
衣玖が水を被り、素っ頓狂が声をあげます。
河辺に座っていたカップルの方々も、何があったと声をあげておりますが、わたくしも含め何が起こったかを上手く把握することは叶わないようでした。
「見た? メリー。あれは間違いなく天狗よ」
「よく見えなかったけど、蓮子が言うのならばそうじゃないの?」
「だとしたら、秘封倶楽部の出番ね!」
「それよりも、元の四条に戻れるようにって考えるほうが先じゃないの?」
「もうメリーったら……」
わたくしは天狗やその子らたちに気を払うのに夢中になっていて、衣玖のことがすっぽり頭の中から抜け落ちていたのでした。
「ゆかりぃ、幻想郷に戻ろうよぉ。あたしもう寝るぅ」
そう言って、衣玖はメリーへと抱きついていたのでした。
急いで衣玖を引っぺがした私は、事情を教えてほしいと追いすがってくる彼女らを巻くのに一生懸命でした。
四条大橋からまたも街へと駆けていき、長渕剛を歌うおじさん弾き語りのおじさんの横を通り過ぎ、閉店の決まった阪急百貨店の十字路を右に折れる。
そのまま金髪のお兄様のお誘いをやんわりと断りながら、カラオケ館と目が眩むような明るい店内をさらに抜け、黒塗りの店内へと飛び込みました。
エレベーターが幸い一階に止まっておりましたゆえ、それを六階へと上げつつわたくしたちは階段を降りました。
うら若き女性たちがプリクラの機械の前で大勢、現像されたシールを切っておりましたが、わたくしたちはそこを抜け、一つの台のカーテンに隠れつつ外の様子を伺いました。
それでもきっと彼女らは、わたくしたちのあとを追ってくるという焦燥感と、鬼ごっこをしているかのような奇妙な楽しさに夢中になっているのです。
「どこかしら、さっきの人たちは」
メリーがキョロキョロと辺りを見渡しているのに気づかれぬように後ろを抜けて、エレベーターのボタンを押しつつまた物陰へ。
このビルのどこかに、片割れの女の子もきっと居るはずなのだけど、どうにか彼女らを巻きつつここから抜けることができれば――
出口は一階の正面と、裏口の二つ。片方が地下に降りているということは、階段かエレベーターか、もしくは出口の辺りで張っている可能性が高い。
上から出ようにも出られるわけがない、きっと人間の考えではそう行き着くと踏むでしょう。
といっても、隙間を使えば、どの階からも抜けることができますから。
「結界の解けが、ここはやたらに多いのね。不思議な場所だわ」
彼女らを巻かないうちに隙間を使えば、メリーも巻き込んでしまうかもしれない。その恐れが、わたくしへと踏ん切りをさせないのです。
わたくしは、彼女らを知っていました。今日の衣玖の格好も、わたくしの格好も彼女らをモチーフにしているのですから。
彼女らはわたくしを知りません。けれども望もうと、望まなくともわたくしと出会ってしまうことは、それは決められたことなのでした。
それがたまたま、この四条という街であったということであり、今日を無事に終えたとしても、またどこかで巡り合うのでしょう。
気づけば、ぬらりひょんが高校生ぐらいの女の子のスカートをめくっておりました。色気のない白い布地を見てつまらなそうにスカートを元に戻してどこかへと。
京都とは、天狗が空を飛び、河童は露店をしている。魔法使いはタロットを引き、騒霊の類が路上で楽器をかき鳴らす。幽霊がビルとビルの間ですすり泣く。
妖獣が人の波をするすると抜けては、人を威嚇する。亡霊たちは死んでいることにも気づかずに、やぁやぁ我こそはと声を張り上げる。
妖怪たちは大学生たちの飲み会に勝手に混ざり、カンパーイと声をあげては酒瓶を空っぽにする。
京都は夜が降りてくる時間ともなれば、怪奇は日常の中に内包され、それを疑問に思うものも一人ぽっちもいないのです。
秘封倶楽部の二人は、そういったことにはなかなか気づかぬようですが。
「ゆかりぃー、帰ろうー」
「はいはい、もうすぐだから」
階層表示が6に点いたり1に点いたり、かと思えば4に点き。
そのようなことを繰り返してエレベーターが開くと、中から見慣れた顔が出てまいりました。
「帰るわよ、紫」
「ええ、帰りましょう。私たちの故郷へ」
エレベーターへと入ると、そのままそれが、隔絶された幻想郷への入り口となるのです。
●永江衣玖の四畳半一周 その最後
私の四畳半生活も、ついに八十日目となった。もう書くことも、少なくなってしまった。
裸スクワットなんぞ三日坊主で終わってしまったし、得られたものといえば、やたら健康的な肉体とシェイプアップされたボディぐらいであった。
これはこれで、手に入って嬉しいものではあるのだけど、八十日間かけて手に入れたかったものであるかといえば、全くそうは思わない。
「腹筋を捨てよ、外へ出よう!」
理由もなく血迷った私は、普段着に着替えてドアを開けた。
すると、そこは四畳半などではなく、八十日ぶりの外であった。
「ははぁ。なるほど。ようやく紫の目が覚めたと見える」
私はそう嘯くと、部屋の窓を開け放った。そこは慣れ親しんだ四畳半などではなく、八十日前は慣れ親しんだみすぼらしい外の景色であった。
「ははぁ……」
得心するにはまだ材料が少なすぎたが、とにかく紫をとっちめるほかにはないだろう。
どうせ、あの妖怪の仕業なのだ。きっとそうなのだ。確定なのだ。
違うとシラを切っても彼女のせいにする。
邪知暴虐なる悪の僕、八雲紫は理由なく私に八十日間の筋トレの時間を与え、鍛え上げた体から放たれるドリルに貫かれることを望んでいるに違いないと理解した。
「全くうい奴よのう」
どうやら八十日間の間に独り言がやたらと増えてしまったらしい。これはまずい。
幻想郷に居るであろう、永江衣玖ファンの期待を思いっきりに裏切ってしまうことになりかねない。
私は清純であり清楚であり、たぶん合気道だとかの達人で、暴漢を三回転させて地面に突っ込ませることぐらいは容易くこなせる格闘スキルの持ち主であることは間違いない。
そのような私の趣味が独り言であるとするならば、これはやはり幻想郷の大きな損失になりかねないのだ。
全部妄想であるが。
「寂しかったぞおおおおおおおおおおおおおおおいー!! 紫やあああああああああああああい、でてこおおおおおおおおおおおおおおーい!!」
まぁとどのつまり、八十日間も会ってないわけで、だ。
寂しいのである。遊びたいのである。
思いっきり叫んだその足で、私は博麗神社へと向かった。
冬眠から醒めた紫は、大抵そこに居るからである。
○どうにかなる日々
私の予想通り、八雲紫はそこに居た。私の姿を見ると、ひらひらと手を振って挨拶をしてくる。
私はそれに対して、ひらひらと手を振る。博麗霊夢にも手を振る。
博麗霊夢はいつも通りの仏頂面をしながら私に向かって手を振ってきたが、スルメを見てからはそればかりを見つめていた。
熱視線で美味しく焼けそうだった。
「あら衣玖じゃないお久しぶり。なんでそんなにたくさんのスルメがあるの?」
「四畳半でたくさん拾ってきたのよ」
「あら?」
「八十日ほど、四畳半を旅していたものでね、おかげで私の体の大半はカステラとかスルメとかで出来てるわよ。ホント」
「そうなの。厄介ごとに巻き込まれたのね。霊夢、七輪出してくれる? スルメ焼きましょう、美味しいのよこれ」
「うん、前に紫がくれたから知ってるわ。食べましょう。お酒も一緒に出してくるから」
「ならば私も」
霊夢は席を立った。
紫は隙間を開いて、一升瓶を取り出した。外の世界で買ったお酒をコレクションしては、暗所にしまっているんだとか。
気が向けばなんでも飲めるくせに、夜雀のとこや博麗神社だとかで、わざわざ安酒を飲むこの女はどうにも救いがたい胡散臭さがあるのだ。
「紫、四畳半のことだけど」
「四条? ああ、あそこは愉快だったわね。もう一度貴女と行きたいわ」
「別に愉快ではなかったけれど」
「そうかしら? 海産物に舌鼓打ってたじゃない」
「スルメは確かに、美味しかったけれども」
「なぁに衣玖ったら、スルメが気に入ったの? 今度また持っていってあげましょうか?」
「当分はいらない。四畳半を彷徨っているうちにたくさん集めてしまったから」
「ふぅん。よくわからないけど外の世界にでも迷いこんだの? ほら、格好があの蓮子って子に似ていたじゃない。そのせいで」
「話が噛み合っていない。だから私は」
「はいはい、スルメ食べてお酒飲んでテキトーでいいでしょ、テキトー」
確かに博麗霊夢の言葉には一理も二理もあった。
せっかくスルメがあって、良い酒もあって、飲む相手も居るのである。
それをわざわざぶち壊す必要もあるまい。というよりもそんな野暮なことで、八十日ぶりの外出を潰したくはないのだ。
「ええじゃないか」
私はポツリと呟いた。
「ええじゃないか」
紫がニヤリとしてそれに続いた。
「ええじゃないか」
黒白の魔女がそう言いながら境内へと降りたった。
「ええじゃないか」
霧が集まったと思ったら、小鬼が巫女の膝の上へと着地した。
「ええじゃないかええじゃないか」
今度は日傘を差した吸血鬼と、その従者が階段から現れた。
「ええじゃないかええじゃないか」
黒白を追うように現れた人形遣いが、呆れた顔でそれに続いて言った。
そのあとは凄まじいものだった。
ええじゃないかええじゃないかと言うたんびに、どこからか人が現れる。
即興で始まった騒霊の演奏に、思い思いの歌を合わせる参加者と、何をしてもええじゃないかええじゃないかと囃し立てる声。
天人と死神が肩を組んで桃を齧り、片手で錨をぶん回しながら、杯を傾ける鬼。錨に捕まってきゃっほーと声を上げているのは、地獄烏である。
ジト目のピンク髪同士は何か感じるものがあるのか睨み合い、地下から出てきた妹同士は波長が合うのは意気投合して抱き合っている。
稗田の九代目は向日葵妖怪に肩車され、烏天狗はローアングル狙いで永遠亭の妖怪兎に蹴られている。
突発的に始まった宴会の中で、家主である博麗霊夢はぼんやりと空を眺めていた。
その表情から感情を読み取ることは困難だったが、きっと楽しんでいるだろう。隣に寄り添っている紫は、スルメを齧りながら湯のみを傾けていた。
空にはいつのまにか、満月が照っていた。
人里の守護者に角が生え、竹林の焼き鳥屋が酔っ払ってそれを掴んで喜んでいる。
永遠亭の姫君は命蓮寺の僧侶と何事かを話しこみ、閻魔は氷精を説教していた。
私は四畳半を引っ越そうと思う。四畳半は物を探せば半歩歩けば手に入る。
掃除だってひっくり返せばすぐに済む。余り物を置けないというこの部屋のレゾンデートルの根本に関する問題を除けば最高であった。
しかし八十日間も閉じ込められていると、拒否反応が出てしまったのだ。今度は六畳一間、あるいは庵を結んで住むのもありかもしれない。
ええじゃないか、ええじゃないかと騒ぐ人々を見ていると忘れそうになるが、私はいつか、八雲紫を天界からパイルドライバーしようと思う。
たぶん犯人は彼女である。たとえ犯人でなかったとしても、ごめんと言えば許される仲であると、私は思っているのだった。
「どうにかなる日々、終わり」
私はスルメを噛み千切り、飲み込んだ。
ええじゃないか、おっぱいだもの。
>なぜ今精神を落ち着かせるために無駄なことをした。
ここでふいたww負けたよ畜生www
文章のテンポがとても素敵でした。あと、京都行きたい。
だけど一つだけ……「四畳半神話体系」じゃなくて「四畳半神話大系」ですよー
一刻も早く直してきます! すみませんでした!
実力のある作者様であることは読んでわかりましたので、少々辛辣に書かせていただきました。ご容赦。
>>21さま
実は根幹に現代入りを置かなければならない作品のプロットがありまして(一年以上暖めているもので、近いうちに取り掛かる予定)
そこにマジック・リアリズムの手法を取り入れたかったのです。ご指摘の通り、考察不足だったと思います。
精進いたしますー。
何だか上っ面だけの別物のように感じました。
しかし同時に、森見さんの文章のキャラ置き換え版(コピペ風)にも思えてしまって少し残念。
なので、楽しめたんだけど、ちょっとだけ減点を。
面白かった^^
あの文体は果たして二次創作に向くものかと最初は思ってたんですが、
意外と違和感ないですねぇ。
全体的なテンポの良さはさすがだと思います。ええじゃないかええじゃないか!
阪急閉まっちゃうけど、四條はいい街です。
在住者のためか、情景が容易に浮かべられて楽しかった。
あの界隈の川端沿いならゆかりんや衣玖さんが歩いてても気付かないんだろうなぁ……
ただまあ、このような手法は元ネタを知っている向きには「デッドコピー」(失礼)とされ、知らない向きにはよく解らんと評される様な類なのかもしれませんが。
やや辛辣になったこと、ご容赦ください。今後、マジック・リアリズムの手法を取り入れた作品を用意されているとのことですので、素晴らしい作品をものされることを期待しております。
巨乳専科エクシードwwwwwあそこは通るたびに吹いてしまうwwwww
バー「月面歩行」は先日飲んできました。一杯200円でチャージが420円とかいう、なかなか学生向け価格でして。
エクシードも一度ぐらいは社会経験で行ってみたいです。
もちろんこれを習作として手を抜いた、言い訳はせず、一森見ファンのお遊びとしてみてもらえると幸いなのです。
この役回りを衣玖さんにやらせたのがミスマッチのようで不思議とはまった感じ。
上でも、楽しく読ませていただきました。
何と言うか、もっとこの二人の酒を飲みながら
だらだらとする会話を見たいとなと。
偽電気ブランは、レモンハートのマスター辺りを
訊ねるのが良いのかも知れません。
この二妖の選択は秘封倶楽部からかぁ……似てますねw
アダルティな衣玖さん良かったです。
まー森見作品は最近読んだので何かアラが気になったりはしてしまうんですが、
既に他のヒトが書いてるのと同じ感じなので省略。
楽しませていただきました。
作者の体験談っぽいものがまた笑える。
若干加齢しゅ(スキマ
外ではキッチリ家ではグッタリな衣玖さんは人間らしくてとっても好感が持てました
森見さんやオメージュ先は未読だと十分楽しめた。
個人的には電気ブランの下りが大好き。
思わず買っちゃったよww