こんな時には、ただ焦ったってしょうがない
ゆっくり考えるんだよ
足で出ようとせず、頭で出ようとするんだ
迷路というものの性質をよく考えてみるんだ
江戸川乱歩――『孤島の鬼』
「御姐さん、手を貸して下さいな。鬼の御姐さん」
血塗れの少女が云った。
「燐、何があったんだ。此処で一体何が在ったんだ」
「御姐さん、お願いします。助けて下さいな」
「ま、待っていろ。今ヤマメを呼んで来てやる、あいつなら何とかしてくれる筈だ、それまで待っているんだ」
すぐにでも駆け出そうとする私の背中に声が掛かる。
「良いんですよう。鬼の御姐さん一人居れば、事足りるのですから。あたい達を助けて下さいよう」
行かないで下さいようと、その声に私は振り返らざるを得ない。
存外、その言葉に張りがあった事、そして彼女があたい達と云った事、その二つが逸る気持に違和感を植え付けたからだ。
「どう云う事なんだ、燐」
そう云いながらも、私は彼女の身体を観察する。
「助けて欲しいのでございますよう」
「お前は平気なのか、怪我は」
「あたい?あたいは平気の平左でございます」
と、云ったきり何が可笑しいのか、息を殺して笑い始めた。
確かに。赤い血に染まってはいるが、どうやら彼女の流したものでは無さそうである。
「燐、その血はどうしたのだ、お前のじゃないと云うのなら誰のものなのだ。お前を濡らしているその血は」
私は問い詰めるが、
「血?はて、誰のでございましょう。いえいえ、あたいは血に濡れているのでございましょうか」
と、問い掛けられる始末。
「そうだ、お前は血に染まっているぞ。だから私に助けを求めたのだろう」
「それは、違いますよう」
「違う?何が違うと云うのか」
「あたいを」
――あたいを切り裂いて下さいなと、燐は告げた。
「な、何を馬鹿な事を。お前は助けてくれと云っておいて、身を裂いてくれだと、道理の通らぬ事を抜かすな」
私は怒気を込めて云い放つ。
怒りを込めてしまったのは、この得体の知らぬ動揺を隠す為である。
「アハハハ、怒らないで下さいよう、鬼の御姐さん」
あたい怖いですよう、アハハハと、無邪気に笑うのみ。
「燐、ちゃんと云ってくれ、そうすれば私はお前を助けられる。助けたいんだ。それにお前はさっき私達と、そう云ったな、誰が――」
他に誰が居るんだ、とその声は、気紛れに下から吹く灼熱に掻き消された。
「誰が?」
「そう、燐、お前と誰を助ければ良いのだ私は。空かさとりか?」
「それは、違いますよう」
と、また同じ応え。
何だか厭な予感がした。
「おい、燐。空はどうしたんだ、何処に居る。さとりは?あいつらは何処へ行っているのだ?ええおい、答えるんだ、燐」
アハハハと、またも笑うのみ。
けれど、今回は違うと思った。
なんて――、なんて悲しい顔で笑うのだ。
「燐ッ」
その言葉に、燐は不承不承といった態度で指差した。
此処は地霊殿。旧灼熱地獄跡の上に建てられた、旧地獄の中心。
開かれた天窓から、昏い輝きを帯びた炎が、蜿蜒と畝っている。
その向こうに、二つの塊が在った。
時折舞い上がる灼熱によって、その存在が影になり、此処からでは気付かなかったのだ。
「あ、あれは何だ――」
何度か問うのだが、返ってくるのは頷きばかり、本当は知っているのだろうと、理解しろと、そう云う意志のみである。
「空と、さとりなのか、あれが」
そう云うと、哀しそうな顔だった筈なのに、何故か嬉しそうな顔。
やっと通じたと、眼が語っている。
「何であんな事に。あれじゃあもう、助かりようもないではないか」
「ええ、本当に」
空は、血やら吐瀉物やら体液やら臓物やらに彩られながらも、空と云われれば解る程度に元型は留めていた。
けれど、さとりと思われる塊は、もう徹底的に塊であった。
小さな子供が戯れで作った泥団子を、これまた気紛れで潰したかの様な。
かろうじて塊の傍に転がる、見開かれた第三の眼によって、さとりと知れる程度である。
「何で、何でお前はそんなに平然としていられるのだ。お前の友と主じゃないか!私に一体誰を助けろと云うのだ!」
キョトンとした間抜けにも見える表情で私を見返すと、急に破顔して、また笑いだしたのだから、もう堪らない。
「鬼の御姐さん、視えないのでございますか」
そう云いながら、自らの腹部を優しく撫でる。
燐の腹が、異常な程に膨れていた。
血に濡れた異様な風貌と、助けを請う言葉に気持ちが先行してしまい、この事にも気付けなかったのだ。
おそらく意識の片隅には在ったであろうが、其処にまでまだ、意識が向かっていなかったのだ
「何だ、それは何なのだ、その腹は、おい燐ッ」
また、キョトンとして、今度は鈍くニヤァリと、
「赤ン坊でございます、御分かりになりませんですか、私は妊娠しているのでございますよう」
「――妊娠、だって?」
「そう、このお腹に居るのは、愛おしい、あたいの赤ちゃんでございますよう」
何処までも優しい声で、腹を擦り続ける。
「何で、こんな事に、何があったと云うんだ、答えてくれ、燐」
私はもう、懇願の体である。
状況を理解出来ていない事に変わりはないのだが、目の前の見知った顔が母であると云う事実だけで、強気に出るのが阻まれたのだ。
「仕方が、なかったのでございます」
ポツリポツリと燐は語り始めた。それは私にと云うよりは、己と、己の腹に宿した生命に語る様では在ったけれど。
燐と空は、主であるさとりと、こいしの一向に改善、進展しない関係にやきもきしていたと云う事らしい。
彼女達の気持ちなど、当人達のものであるのだから、他人が、例え従者であっても口を出すべきでは無いと思うのだが、燐と空は、そうは考えなかった。
二人は、容貌の幼さ通り、無邪気で純真で、そして真摯であった。
少しばかり、燐の方が知恵に長けていたのが不幸だったのであろうか。
自分の本来持っている能力は、人妖皆から忌まれるモノだと、姉を見て知っていたこいしは自らの意志で心を閉ざした。
そして、それを理解したさとりもまた、妹に対してだけは心を閉ざした。
自らの業に向き合う気がないのなら好きにすれば良い、その変わり私も手を差し延べないと、これは歪な姉妹関係である。
であるけれど、矢張り意見を挟めるものでも無い。
いくら歪んで見えようとも、当人達の間で、問題が無ければ、それで良いのだ。
少なくとも私には、それ程さとりとこいしの関係が危険な段階にまで達している様には見えなかった。
放任主義だって、それは一つの想いの形象である。
それが、燐と空には理解出来なかったのだ。ふらふらと無意識にまかせて、好き勝手にさせていると、こんな姉妹関係は間違っていると、その様にしか理解出来なかったのだ。
燐と空は本当の姉妹ではなかったけれど、姉妹の様に、或いは姉妹以上に仲が良かったのは私も知っている。
だから二人がそう考えたとしても、それ程無理は無いのかも知れない。
何事も、己の尺度でしか測れないのだから。少なくとも彼女達にとっては、それが全てであったようだ。
そして、さとり、こいしの関係は何処で間違ってしまったのだろう、如何して間違ってしまったのだろうと、その答えを生まれた時に見出したのだそうだ。
自分達で真剣に考えた結果なのか、本ででも仕入れた知識か、それとも誰かに吹き込まれたのか、いずれにしろ、燐にも、空にも、本にも、その誰かも悪意が在ったとは思えない。
とにかく、覚と云う妖怪として生まれてしまった事が、そもそもの間違いなのだと、そう考えたそうだ。
話を聞く限りでは、考えていたと云うよりは、思い込んでいたと云った方が正確であろう。いや、今でもまだそう思い込んでいる。
だから、当然、彼女達はこう考える。
生まれたのが間違いならば、生まれ直せば良いと、思考は飛躍した。
さとりと、こいしが再び産まれるのには妊娠される必要があった。誰かが彼女達を妊娠しなければならないのだ。
これは少し、特殊な事情である。唯、妊娠すれば良いと云う話では無い、さとりと、こいしと云う、既に存在しているモノを懐妊しなければならないのだ。
これはもう、世界の理に反する事象である。
ある特定の生命を宿し直すなど、出来る訳が無いのだ。
だが、彼女達はそれを可能だと考え、実行したのだ。
唯、単純に考えただけである。腹に宿せば良いのだと、それが妊娠の本質であると。
そして、そこらから外に出す事が出来れば、それが出産だと、そう定義付けたのだ。
だから――。
「食べたのか?」
燐はゆっくりと、頷いた。
「何て事を、お前は何て事をしたんだ、燐」
「だって、仕方がないじゃあございませんか、そうでしょう」
理解されるのが当然のように思っていたのだろうか、不服そうな顔である。
「これが正しい孕み方でないのは、いくら私だって解っておりますよう。だから、柔軟な発想が必要なんです。一体どうすれば腹に宿す事が出来るのか、食べるしかないでしょう、それに」
――御姐さんだって、鬼なんですから人間の一人や二人食べた事があるでしょうに、と云った。
「そんな理屈で食いはしないよ」
「アハハハ、そうでしたねえ、食べるのは嘘を吐いた人間だけ、でしたかねえ」
また、ひとしきり笑うと、ねえ鬼の御姐さん、あたいは嘘を吐いているでしょうかねえ、と私の眼をはたと見据えて問うた。
厭な汗が背中を流れていく、燐の言葉に嘘は無い、私にはそれが理解出来てしまうのだ。
「間違っているよ、お前は」
「ええ、思い違いをしていたのでしょう、あたいは」
また、哀しそうな顔。
万華鏡の様にコロコロと自在に変わる。
「解っているのなら何故」
「あたいは腹に宿しさえすれば、あとは勝手に産まれて来るのだと、そう考えておりました」
「そんな訳――」
ええ、無いのでしょうと、私の言葉を奪う。
「お空にも悪い事をしてしまいました。あの子もあの子なりに思う所が在ったのでしょう、本当にこの方法で大丈夫なのかと、しつこいくらい訊いてきたものです。あたいは平気だと、そう云い聞かせました。生まれ変わる為にはまず、死んでもらわなければならない、生きていては腹に宿す事は出来ないのだからと」
「それで、殺したのか、さとりを」
「ええ」
と、自信に溢れた声である。
「でもね、殺したと云われるのは心外ですよう。何も亡き者にしようと云うのじゃございません、そう云う訳では無いのです。何故なら、その後すぐに産まれて来るのですから、再び生まれて来るのが前提なのですから、これは殺したとは云わないでしょう」
「唯の、屁理屈じゃないか」
屁でも理屈ですよう、と燐は応える。
「そんな訳で一時的に死んでもらったのでございます。一瞬でしたから、さとり様も思考を読む暇も無かったでしょうね。まあ読まれた所で別に困る事はありゃあしませんがね。愛が、あたいとお空の愛が視えるだけでございましょう」
旧地獄に勝ち誇ったかの様な笑い声が響き渡る。
「だから、さとり様も感謝している筈です、私にも、食べたお空にもねえ」
「空が、食べたのか、さとりの事を」
微笑みを残したまま、大きく頷く。
「あの子、始めは厭がったんですけれど、さっきと同じ様に説得して、食べて宿さなければさとり様は産まれて来る事は出来ないんだと、このままでは唯、殺したと云う事になってしまうぞと。いえいえ、脅した訳ではございません、大義を諭しただけですよう」
「大義だって」
「そうです、これは従者たる者の神聖な使命でございましょう」
狂っていると、その言葉が何故か云いだせない。
渇いた喉に張り付いて、出る時には既に出涸らしの如き無様な音になるだけである。
「そう云えば食べましたよ、あの子は。そもそも鴉は雑食でございますからね、例え屍肉であろうと、そりゃあ食べますよ。あくまでも心情的に食べ難いと云うだけの事でありますから、それさえ取り除いてやればねえ」
「それで、上手く行く訳が無い」
「ですから、間違ってしまったのだと云っているではございませんか。その後の事を考えていなかったのです、殺してはいけませんでした」
「そうだ、殺して、殺して如何なる」
「殺してから、食べたのが失敗だったのです」
何故だか、燐との会話が決定的に噛み合っていないような気がした。
「何を云っているのだ、お前は」
「あたいはねえ、地霊殿に来る前、地上で火車として生きていたんですけどねえ」
話が飛んだ。
「おい、燐」
まあ、聞いて下さいなと、舐める様な目付きで云う。
「火車ってえのは死体を集めるのが仕事でございます。今じゃあそんな間抜けな真似はしませんけどねえ、昔は良く見つかって追い払われたものです。箒なんかで、こうバシバシっとねえ。死体の回りをね、あたいが近づけ無いように、屏風や蚊帳なんかで囲うんですよ、そうすると手も足も出せなくなったものです」
「それが、なんだと云うんだ」
「何でそんなに、あたいを死体に近付けたくないのか理解に苦しんだ訳です。でもあれは、空っぽだからだったんですねえ」
「空っぽだって、何が――」
死体がですようと、眼を引き絞り応えた。
「肉から魂が抜けているからなのでございます。だからあたいの引き攣れている怨霊やら厭物などが、空っぽの肉体に宿って悪さをする事を恐れていたんですよう。人間達はそれを死人起こしと呼んで忌むべきモノとした。まあ、あたいだって火車ですからねえ、指を咥えて見ている訳にもいきませんから、あれやこれやと知恵を絞って死体に近づいたんでございます。そうすると人間達も負けていないもので、宿っても動けないように死体の足を縛ったり、予め切り落としたり、棺桶をわざと狭くして窮屈にしたり、挙げ句の果てに燃やす様になったりして、そうなればあたいは動きようがございませんからね、流れ流れて、地霊殿に来たと云う訳です」
ええと、話が少しずれましたねえ、重要なのはと、燐は続ける。
「死ぬと魂は肉から抜けると云う事でございます」
と、ふよふよ漂う怨霊を一匹捕まえる。
「これも、元を質せば肉から抜けたモノなんでございますよう。見慣れているのに、あたいの思考は其処にまで辿り付けなかった。駄目ですねえ、近すぎると云うのは、当たり前すぎて、眼に入らないのでございます。入ったとして、意識の表層には表れないのですよう」
捕まえていた怨霊を、放すと、またふよふよ漂って行った。
「だから、さとり様を殺してから食べたのでは、それは肉を食べたにすぎないのです。其処に魂は宿ってはおりません。生まれ変わるには魂こそが必要だったのです。新しく産まれ直す為には魂を宿したまま、食べなければならなかったのですよう。生きたままでなければ、だからあれは失敗だったのです」
私はもう、その言葉に息を一つ吸うのがやっとである。
「けれど、今でこそ、そう云えるのですけどね、あの時はそんな考え浮かびもしませんでしたよう。お空がさとり様を食べたのは良いが、その後どうやって出産するのか、それを考えていなかったのです。さて、どうすれば良かったのでしょうか。このままではお空の中で消化されてしまいます、そうなれば最早、排泄物。さとり様はおろか塵にも等しい。でしたら吐けば良いのでしょうか。いけません、それでは振り出しに戻るだけ、戻っている暇などありゃあしません。残された方法はあの子の腹を裂いて、さとり様を取り出す」
「帝王切開――、か」
「そうです、それしか方法は無いと思いましたよう。でも流石に友の腹を裂くと云うのは抵抗があるってもんです。でも、あたいがそんな事を云う訳にもいきません、いざとなれば今度はこのあたいがお空を孕んでやれば良いんだと、そうすれば生まれ変われると、そう納得しました。それをお空に伝えると、微笑んで頷いてくれましたよう」
「――もう良い、燐、止めてくれ」
「あの子は何処までも、さとり様の事を思って、あたいの事を信頼してくれてたのでしょうねえ」
「お前は今、自分がどれだけ残酷な事を云っているのか解っているのか!其処まで空の気持ちを汲んでおいて、何でそんな事が」
「残酷?残酷ですって?」
よりにもよって残酷ですって、そんな訳ありませんよう、アハハハ、と私を馬鹿にする様に云った。
「あたいは彼女達の残してくれた教訓を生かした!それの何処が残酷だと云うのか!その教訓を生かして、こいし様を生きたまま食べる事に成功したのだ。さとり様とお空もきっと満足していることでしょう。こうしてあたいが無事こいし様を宿せた事に」
「燐、お前の腹に宿っているのは、――こいしなのか」
そうですよう、何を今更と、眼で応えた。
「こいし様はあまりに不幸な境遇でございました。けれど、もうその不幸を味わう事もないのです。誰とも絆を結べなかった、こいし様は今生まれ変わり、このあたいと母と子として、縁を結び直すのです。それだけをさとり様とお空も望んでいる事でしょう」
「生きたまま食べるなんて、一体どうやって」
「それは、聞かぬが華と云うものでございましょう」
得意気な顔でえへらえへらと笑った。
「そんな莫迦な事あるものか」
私はむきになって云い返す。
「御姐さんが何と云おうと成功したのです。ほら、中で動いているでしょう、確かに宿っているのでございます。あたいの腹に、こいし様の生命が、あたいの中で新しく、こいし様は生まれ変わるのでございますよう」
ほらあ、御触りになって下さいようと、手を取って、その腹へと導く。
燐の皮膚の下で、何かが私に触れた。
「そんな莫迦な事あるものか」
二度目のその台詞は、酷く弱弱しかった。
「アハハハ、御姐さんも、これでようやく解ってくれましたかねえ。ああ、そんなに動いては駄目ですよう、こいし様。嬉しいのかい、母の心が解って嬉しいのかい、アハハハ」
「う、生まれるのだな」
愛おしそうに腹を撫でながら、眼を合わさず、頭だけコクリと頷いた。
「少し、羨ましいと思ったのではありませんか、鬼の御姐さん。これは本当に生まれ変われるのではと、もし生まれ変われるのなら、私もと、そうは思いませんでしたか?」
「そ、そんな訳」
「同じですよ、御姐さんの眼と、御姐さんの瞳に映った、あたいの眼がねえ」
ぐいっと覗きこむ込む様に云う。
その言葉に、鼓動が速くなるのが解った。
「で、出鱈目を云うな――」
「本当は地底なんかに来たくはなかったんでございましょう、鬼の御姐さん。卑怯な人間に騙し討ちされて、その怨みの炎が燻っているのでございましょう?その怨みを身に宿し続ける為に、決して忘れない為に、この旧灼熱地獄跡に居るのでございましょう?違いますかねえ」
「違う!嘘も、卑怯な人間も嫌いだ!だけど、それを怨むなどと、引き摺る様な、未練たらしい真似を鬼はしない。酒と共に呑みこんで、パアっと吐き出してそれで終いさ」
「そうですか、まあ別に良いのでございますがねえ」
「何処で、一体何処で、こんな莫迦げた事を思い付いたんだ!」
私は、心に芽生えた得体の知れぬ感情を振り払う様に、強い調子で問い詰めた。
「はて、何処でしたでしょうか」
「惚けるんじゃない」
「いえいえ、本当に思い出せないのでございますよう」
私はそれでも、執拗に問い詰める。
まるで燐を責めるかの様に。
「あれは確か、そう山へ行ったのです、妖怪の山へ。もうお空に勝手に変な細工をしないで下さいと、直談判しに二人で行ったのです」
「其処で仕入れて来たのか、そのどうしようもなく莫迦げた話しを」
そうだったと思いますようと、いくらか不安げな表情で云う。
「なんでも、死者の魂は山へ行くと考えられているそうです、そして山の中で死者の魂が浄化され、神となって子孫を見守る。これを葉山信仰と云うのだそうですよう」
「その信仰がどうしたと云うのだ」
「また、遠野物語と云う物にも老人や赤ン坊を山へと追いやる風習があると記されているそうです。追いやられた人達は、日中は里に戻って農作をして、夕方になると蓮台野と呼ばれる場所に帰るそうです。これをそれぞれ墓立ち、墓上がりと呼ぶそうです。つまり蓮台野に居る時は死人なのでございます。解りますか御姐さん、この場合、蓮台野と云うのは子宮としての役割を持っているのですよ。棄てられた老人や赤ン坊が山から帰って来ると云うのは生まれ変わって来ると云う事を指しているのです。蓮台野は子宮として、死者が生者に変わる装置として機能しているのですよう。これも葉山信仰の一種でございましょう」
「その話から、発想を得たのか、お前は」
「何も珍しい事ではありませんでしょう。その蓮台野と呼ばれる場所が特別な訳じゃあございません。子宮とは母なる物。生命を宿す神聖な場所。そしてあらゆる世界にとって絶対に必要な物」
御解り頂けるでしょうと、媚びるような声音で云う。
「遠い昔、ギリシアでは迷宮が、子宮として機能していました。何度も同じ道を繰り返しては中心部に向かう、それは死であり、そこから再び戻る事は生を意味した。つまり原初に還ると云う事であり、新たな生を巡る事にもなるのでございます。密教の曼陀羅も、カバラのセフィロートの樹と呼ばれる概念も皆同じ。全ては子宮を装置として具現化する為の方法に過ぎないのですよう。その世界の価値観、倫理に沿った形をしているだけで、指し示すものは同じ事。子宮に宿った生命が流れ出る過程を説明したものに他ならないのです。この過程を逆に辿れば、死によって心が純化され、また生まれ変わる事が出来るのでございます」
熱っぽく語る、燐の言葉が、私には理解出来なかった。
出来ないから、当然意味をなさない。
訳の解らぬ音が聞こえるだけである。
調律の違ったオルゴォルの様な声。
不協ではるが、音として一応は認識出来ると、それだけである。
けれど、燐の中ではきちんと、筋道が立っているのだろう。
狂人には狂人の理論が在る事もまた理解出来る。
だから、その理解出来ないのと、理解出来る事二つの間で、私の思いは揺れているから気持ちが悪いのだ。
「御姐さん、難しく考える事はございませんよう。これは胎内回帰や転生を疑似体験する為の装置。本来秘されるべき子宮を外に出そうと云う概念なのです。出して人の手でそれをなそうと云う試みなのです」
「解らない、解らないよ、燐」
「そして、それは、この地霊殿も同じでございます。此処は迷える罪人の魂を、灼熱の炎で浄化し、再利用する為の装置なのです。地霊殿は子宮、幻想郷の子宮なのでございますよう」
他の意見は聞かないと、そう告げたも同じである。
「破綻しているよ。概念を思考の中で弄んでいるだけだ、上手く行く訳が無い」
「此処は、その子宮の更に中心。此処程生まれ変わるのに相応しい場所はございませんでしょう。ほら見て下さいよう、あの立派なステンドグラス、異国の教会のようでございましょう」
そう云って燐は見上げた。つられて私も首を動かす。
柔和な微笑みを湛えた女性が、私達を見下ろしていた。
「彼女はキリスト教の聖母、マリアと云うそうです。私もなんで地霊殿に、キリストの聖母なんぞを置いているのかと疑問でございましたが、此処が子宮だと考えれば、何の間違いもありません。彼女はなんと、相手も持たずにキリストを懐妊したと云うではありませんか。処女懐妊ですよう、それはつまり肉体的な妊娠を指すのでは無く、概念の妊娠を指すのです。ですから、相手など居なくとも一向に構わない。そしてだからこそ、地霊殿に飾られ、この子宮を彩り、見守っているのです。まったく、さとり様も洒落な事をなさる」
見上げたまま、燐は何かを呟いている。その姿はまるで祈りを捧げる宗教者である。それはマリアにであったか、それともさとりにであったか。
「ですからねえ、鬼の御姐さん。御姐さんが何と云おうと、地霊殿は子宮でございますし、あたいのこの腹には、こいし様が宿っているのです。宿って新たな生を息吹いているのですよう。だから産みます、産まれます」
その、狂信的な燐の瞳を見るのが厭で、私は力任せにステンドグラスを砕いた。
無残に飛び散ったマリアが地面に叩きつけられ、鋭い悲鳴を上げる。
「あ、あ――」
「燐、正気に戻ってくれ!お前はさとりと、こいしを慕って、空と仲良くいつも一緒な燐だろう!地霊殿で誰よりも気が効いて、皆を取りまとめて、優しかったお前じゃないか、燐!」
私のその声に、ふるふると頭を振って応える。
「ああ、違う、違うのでございます。本当は、あたいはこんな事」
――違うのです、したくなかったのでございますと、そう云うと、はらはらと涙を零し始めた。
「本当は羨ましかったのかも知れません、さとり様とこいし様が。喧嘩をする程仲が良いとは云いますけども、本当に仲良くなりますと喧嘩などはしないものなのです。もう隣りに居るのが当たり前で、それはそれで心地良い事なんでしょうが、意識しないと空気の様に味気無いものなんですよう」
そう云うと、憚る事無く泣きじゃくる。
「あたいとお空の関係はそれでした。だからあの子が変な能力を手に入れた時も、すぐに気付けなかったし、止められなかった。だから歪ながらも意識しあう、さとり様とこいし様の、あの姉妹関係が羨ましかったのでございます。壊してやりたかったのです!」
私は、どうしてやれば良いのか解らなかったので、抱き締めた。
血も、その腹に宿ったこいしも、等しく。
「違う」
燐はそう云うと、スルスルと私の腕を擦り抜けた。
「――どうした、燐」
「山へは二人で行ったのです、あたいとお空と二人で。だから違う、妖怪の山で聞いたと云うのならお空も一緒に聞いた筈でございます。離れた時などありませんでした、だからあたいが妖怪の山で聞いたと云うのなら、一緒に居た筈です。でも、あたいは何度も説明したのです、あの子に!いくらあの子がパアだからと云って、そこまで物忘れが酷くない事をあたいは知っているのです!」
「じゃ、じゃあ何処で――」
「済まない事をしたと、妖怪の山でそう頭を下げてくだすったのです。だからあたい達も納得して、じゃあ地霊殿に帰ろうと、手を繋いだのです。でも、そう、途中で別れたのです。お空を先に帰したのですよう。ああ、――橋が」
「橋が、橋が如何したのだ、燐!」
「見知らぬ橋が出来ていたのです。だから、それを調べようと、そうしたら声が、頭の中に声が、ああ!」
「燐!、大丈夫か、燐ッ!」
「う、産まれます、産まれますよう、愛おしいこの子が、こいし様が産まれますよう!」
そう云うと、燐の腹がぱっくりと開き、何かがその中から、どちゃりと落ちた。
「愛おしい、愛おしいですよう――」
と云うなり後ろによろよろと後ずさると、仰向けに倒れた。
二、三度ぴくぴくと痙攣すると、そのまま動かなくなった。
「ほら、駄目だったじゃないか」
私は骸に話し掛ける。
せめて、その腕に抱かせてやろうと、産まれ落ちたそれに近付いた。
こちらも、こいしとは似ても似つかぬ塊である。
さとりだったモノと同じく、第三の眼の存在でかろうじて、こいしと解る。
こちらの眼はさとりのとは違い、開いてはいなかったけれど。
その決して開く筈の無い、閉じたままの瞳が、ゆっくりと開いた。
眼が合う。
その綺麗な緑色に、何故か私は狂おしい程の嫉妬を覚えた。
ゆっくり考えるんだよ
足で出ようとせず、頭で出ようとするんだ
迷路というものの性質をよく考えてみるんだ
江戸川乱歩――『孤島の鬼』
「御姐さん、手を貸して下さいな。鬼の御姐さん」
血塗れの少女が云った。
「燐、何があったんだ。此処で一体何が在ったんだ」
「御姐さん、お願いします。助けて下さいな」
「ま、待っていろ。今ヤマメを呼んで来てやる、あいつなら何とかしてくれる筈だ、それまで待っているんだ」
すぐにでも駆け出そうとする私の背中に声が掛かる。
「良いんですよう。鬼の御姐さん一人居れば、事足りるのですから。あたい達を助けて下さいよう」
行かないで下さいようと、その声に私は振り返らざるを得ない。
存外、その言葉に張りがあった事、そして彼女があたい達と云った事、その二つが逸る気持に違和感を植え付けたからだ。
「どう云う事なんだ、燐」
そう云いながらも、私は彼女の身体を観察する。
「助けて欲しいのでございますよう」
「お前は平気なのか、怪我は」
「あたい?あたいは平気の平左でございます」
と、云ったきり何が可笑しいのか、息を殺して笑い始めた。
確かに。赤い血に染まってはいるが、どうやら彼女の流したものでは無さそうである。
「燐、その血はどうしたのだ、お前のじゃないと云うのなら誰のものなのだ。お前を濡らしているその血は」
私は問い詰めるが、
「血?はて、誰のでございましょう。いえいえ、あたいは血に濡れているのでございましょうか」
と、問い掛けられる始末。
「そうだ、お前は血に染まっているぞ。だから私に助けを求めたのだろう」
「それは、違いますよう」
「違う?何が違うと云うのか」
「あたいを」
――あたいを切り裂いて下さいなと、燐は告げた。
「な、何を馬鹿な事を。お前は助けてくれと云っておいて、身を裂いてくれだと、道理の通らぬ事を抜かすな」
私は怒気を込めて云い放つ。
怒りを込めてしまったのは、この得体の知らぬ動揺を隠す為である。
「アハハハ、怒らないで下さいよう、鬼の御姐さん」
あたい怖いですよう、アハハハと、無邪気に笑うのみ。
「燐、ちゃんと云ってくれ、そうすれば私はお前を助けられる。助けたいんだ。それにお前はさっき私達と、そう云ったな、誰が――」
他に誰が居るんだ、とその声は、気紛れに下から吹く灼熱に掻き消された。
「誰が?」
「そう、燐、お前と誰を助ければ良いのだ私は。空かさとりか?」
「それは、違いますよう」
と、また同じ応え。
何だか厭な予感がした。
「おい、燐。空はどうしたんだ、何処に居る。さとりは?あいつらは何処へ行っているのだ?ええおい、答えるんだ、燐」
アハハハと、またも笑うのみ。
けれど、今回は違うと思った。
なんて――、なんて悲しい顔で笑うのだ。
「燐ッ」
その言葉に、燐は不承不承といった態度で指差した。
此処は地霊殿。旧灼熱地獄跡の上に建てられた、旧地獄の中心。
開かれた天窓から、昏い輝きを帯びた炎が、蜿蜒と畝っている。
その向こうに、二つの塊が在った。
時折舞い上がる灼熱によって、その存在が影になり、此処からでは気付かなかったのだ。
「あ、あれは何だ――」
何度か問うのだが、返ってくるのは頷きばかり、本当は知っているのだろうと、理解しろと、そう云う意志のみである。
「空と、さとりなのか、あれが」
そう云うと、哀しそうな顔だった筈なのに、何故か嬉しそうな顔。
やっと通じたと、眼が語っている。
「何であんな事に。あれじゃあもう、助かりようもないではないか」
「ええ、本当に」
空は、血やら吐瀉物やら体液やら臓物やらに彩られながらも、空と云われれば解る程度に元型は留めていた。
けれど、さとりと思われる塊は、もう徹底的に塊であった。
小さな子供が戯れで作った泥団子を、これまた気紛れで潰したかの様な。
かろうじて塊の傍に転がる、見開かれた第三の眼によって、さとりと知れる程度である。
「何で、何でお前はそんなに平然としていられるのだ。お前の友と主じゃないか!私に一体誰を助けろと云うのだ!」
キョトンとした間抜けにも見える表情で私を見返すと、急に破顔して、また笑いだしたのだから、もう堪らない。
「鬼の御姐さん、視えないのでございますか」
そう云いながら、自らの腹部を優しく撫でる。
燐の腹が、異常な程に膨れていた。
血に濡れた異様な風貌と、助けを請う言葉に気持ちが先行してしまい、この事にも気付けなかったのだ。
おそらく意識の片隅には在ったであろうが、其処にまでまだ、意識が向かっていなかったのだ
「何だ、それは何なのだ、その腹は、おい燐ッ」
また、キョトンとして、今度は鈍くニヤァリと、
「赤ン坊でございます、御分かりになりませんですか、私は妊娠しているのでございますよう」
「――妊娠、だって?」
「そう、このお腹に居るのは、愛おしい、あたいの赤ちゃんでございますよう」
何処までも優しい声で、腹を擦り続ける。
「何で、こんな事に、何があったと云うんだ、答えてくれ、燐」
私はもう、懇願の体である。
状況を理解出来ていない事に変わりはないのだが、目の前の見知った顔が母であると云う事実だけで、強気に出るのが阻まれたのだ。
「仕方が、なかったのでございます」
ポツリポツリと燐は語り始めた。それは私にと云うよりは、己と、己の腹に宿した生命に語る様では在ったけれど。
燐と空は、主であるさとりと、こいしの一向に改善、進展しない関係にやきもきしていたと云う事らしい。
彼女達の気持ちなど、当人達のものであるのだから、他人が、例え従者であっても口を出すべきでは無いと思うのだが、燐と空は、そうは考えなかった。
二人は、容貌の幼さ通り、無邪気で純真で、そして真摯であった。
少しばかり、燐の方が知恵に長けていたのが不幸だったのであろうか。
自分の本来持っている能力は、人妖皆から忌まれるモノだと、姉を見て知っていたこいしは自らの意志で心を閉ざした。
そして、それを理解したさとりもまた、妹に対してだけは心を閉ざした。
自らの業に向き合う気がないのなら好きにすれば良い、その変わり私も手を差し延べないと、これは歪な姉妹関係である。
であるけれど、矢張り意見を挟めるものでも無い。
いくら歪んで見えようとも、当人達の間で、問題が無ければ、それで良いのだ。
少なくとも私には、それ程さとりとこいしの関係が危険な段階にまで達している様には見えなかった。
放任主義だって、それは一つの想いの形象である。
それが、燐と空には理解出来なかったのだ。ふらふらと無意識にまかせて、好き勝手にさせていると、こんな姉妹関係は間違っていると、その様にしか理解出来なかったのだ。
燐と空は本当の姉妹ではなかったけれど、姉妹の様に、或いは姉妹以上に仲が良かったのは私も知っている。
だから二人がそう考えたとしても、それ程無理は無いのかも知れない。
何事も、己の尺度でしか測れないのだから。少なくとも彼女達にとっては、それが全てであったようだ。
そして、さとり、こいしの関係は何処で間違ってしまったのだろう、如何して間違ってしまったのだろうと、その答えを生まれた時に見出したのだそうだ。
自分達で真剣に考えた結果なのか、本ででも仕入れた知識か、それとも誰かに吹き込まれたのか、いずれにしろ、燐にも、空にも、本にも、その誰かも悪意が在ったとは思えない。
とにかく、覚と云う妖怪として生まれてしまった事が、そもそもの間違いなのだと、そう考えたそうだ。
話を聞く限りでは、考えていたと云うよりは、思い込んでいたと云った方が正確であろう。いや、今でもまだそう思い込んでいる。
だから、当然、彼女達はこう考える。
生まれたのが間違いならば、生まれ直せば良いと、思考は飛躍した。
さとりと、こいしが再び産まれるのには妊娠される必要があった。誰かが彼女達を妊娠しなければならないのだ。
これは少し、特殊な事情である。唯、妊娠すれば良いと云う話では無い、さとりと、こいしと云う、既に存在しているモノを懐妊しなければならないのだ。
これはもう、世界の理に反する事象である。
ある特定の生命を宿し直すなど、出来る訳が無いのだ。
だが、彼女達はそれを可能だと考え、実行したのだ。
唯、単純に考えただけである。腹に宿せば良いのだと、それが妊娠の本質であると。
そして、そこらから外に出す事が出来れば、それが出産だと、そう定義付けたのだ。
だから――。
「食べたのか?」
燐はゆっくりと、頷いた。
「何て事を、お前は何て事をしたんだ、燐」
「だって、仕方がないじゃあございませんか、そうでしょう」
理解されるのが当然のように思っていたのだろうか、不服そうな顔である。
「これが正しい孕み方でないのは、いくら私だって解っておりますよう。だから、柔軟な発想が必要なんです。一体どうすれば腹に宿す事が出来るのか、食べるしかないでしょう、それに」
――御姐さんだって、鬼なんですから人間の一人や二人食べた事があるでしょうに、と云った。
「そんな理屈で食いはしないよ」
「アハハハ、そうでしたねえ、食べるのは嘘を吐いた人間だけ、でしたかねえ」
また、ひとしきり笑うと、ねえ鬼の御姐さん、あたいは嘘を吐いているでしょうかねえ、と私の眼をはたと見据えて問うた。
厭な汗が背中を流れていく、燐の言葉に嘘は無い、私にはそれが理解出来てしまうのだ。
「間違っているよ、お前は」
「ええ、思い違いをしていたのでしょう、あたいは」
また、哀しそうな顔。
万華鏡の様にコロコロと自在に変わる。
「解っているのなら何故」
「あたいは腹に宿しさえすれば、あとは勝手に産まれて来るのだと、そう考えておりました」
「そんな訳――」
ええ、無いのでしょうと、私の言葉を奪う。
「お空にも悪い事をしてしまいました。あの子もあの子なりに思う所が在ったのでしょう、本当にこの方法で大丈夫なのかと、しつこいくらい訊いてきたものです。あたいは平気だと、そう云い聞かせました。生まれ変わる為にはまず、死んでもらわなければならない、生きていては腹に宿す事は出来ないのだからと」
「それで、殺したのか、さとりを」
「ええ」
と、自信に溢れた声である。
「でもね、殺したと云われるのは心外ですよう。何も亡き者にしようと云うのじゃございません、そう云う訳では無いのです。何故なら、その後すぐに産まれて来るのですから、再び生まれて来るのが前提なのですから、これは殺したとは云わないでしょう」
「唯の、屁理屈じゃないか」
屁でも理屈ですよう、と燐は応える。
「そんな訳で一時的に死んでもらったのでございます。一瞬でしたから、さとり様も思考を読む暇も無かったでしょうね。まあ読まれた所で別に困る事はありゃあしませんがね。愛が、あたいとお空の愛が視えるだけでございましょう」
旧地獄に勝ち誇ったかの様な笑い声が響き渡る。
「だから、さとり様も感謝している筈です、私にも、食べたお空にもねえ」
「空が、食べたのか、さとりの事を」
微笑みを残したまま、大きく頷く。
「あの子、始めは厭がったんですけれど、さっきと同じ様に説得して、食べて宿さなければさとり様は産まれて来る事は出来ないんだと、このままでは唯、殺したと云う事になってしまうぞと。いえいえ、脅した訳ではございません、大義を諭しただけですよう」
「大義だって」
「そうです、これは従者たる者の神聖な使命でございましょう」
狂っていると、その言葉が何故か云いだせない。
渇いた喉に張り付いて、出る時には既に出涸らしの如き無様な音になるだけである。
「そう云えば食べましたよ、あの子は。そもそも鴉は雑食でございますからね、例え屍肉であろうと、そりゃあ食べますよ。あくまでも心情的に食べ難いと云うだけの事でありますから、それさえ取り除いてやればねえ」
「それで、上手く行く訳が無い」
「ですから、間違ってしまったのだと云っているではございませんか。その後の事を考えていなかったのです、殺してはいけませんでした」
「そうだ、殺して、殺して如何なる」
「殺してから、食べたのが失敗だったのです」
何故だか、燐との会話が決定的に噛み合っていないような気がした。
「何を云っているのだ、お前は」
「あたいはねえ、地霊殿に来る前、地上で火車として生きていたんですけどねえ」
話が飛んだ。
「おい、燐」
まあ、聞いて下さいなと、舐める様な目付きで云う。
「火車ってえのは死体を集めるのが仕事でございます。今じゃあそんな間抜けな真似はしませんけどねえ、昔は良く見つかって追い払われたものです。箒なんかで、こうバシバシっとねえ。死体の回りをね、あたいが近づけ無いように、屏風や蚊帳なんかで囲うんですよ、そうすると手も足も出せなくなったものです」
「それが、なんだと云うんだ」
「何でそんなに、あたいを死体に近付けたくないのか理解に苦しんだ訳です。でもあれは、空っぽだからだったんですねえ」
「空っぽだって、何が――」
死体がですようと、眼を引き絞り応えた。
「肉から魂が抜けているからなのでございます。だからあたいの引き攣れている怨霊やら厭物などが、空っぽの肉体に宿って悪さをする事を恐れていたんですよう。人間達はそれを死人起こしと呼んで忌むべきモノとした。まあ、あたいだって火車ですからねえ、指を咥えて見ている訳にもいきませんから、あれやこれやと知恵を絞って死体に近づいたんでございます。そうすると人間達も負けていないもので、宿っても動けないように死体の足を縛ったり、予め切り落としたり、棺桶をわざと狭くして窮屈にしたり、挙げ句の果てに燃やす様になったりして、そうなればあたいは動きようがございませんからね、流れ流れて、地霊殿に来たと云う訳です」
ええと、話が少しずれましたねえ、重要なのはと、燐は続ける。
「死ぬと魂は肉から抜けると云う事でございます」
と、ふよふよ漂う怨霊を一匹捕まえる。
「これも、元を質せば肉から抜けたモノなんでございますよう。見慣れているのに、あたいの思考は其処にまで辿り付けなかった。駄目ですねえ、近すぎると云うのは、当たり前すぎて、眼に入らないのでございます。入ったとして、意識の表層には表れないのですよう」
捕まえていた怨霊を、放すと、またふよふよ漂って行った。
「だから、さとり様を殺してから食べたのでは、それは肉を食べたにすぎないのです。其処に魂は宿ってはおりません。生まれ変わるには魂こそが必要だったのです。新しく産まれ直す為には魂を宿したまま、食べなければならなかったのですよう。生きたままでなければ、だからあれは失敗だったのです」
私はもう、その言葉に息を一つ吸うのがやっとである。
「けれど、今でこそ、そう云えるのですけどね、あの時はそんな考え浮かびもしませんでしたよう。お空がさとり様を食べたのは良いが、その後どうやって出産するのか、それを考えていなかったのです。さて、どうすれば良かったのでしょうか。このままではお空の中で消化されてしまいます、そうなれば最早、排泄物。さとり様はおろか塵にも等しい。でしたら吐けば良いのでしょうか。いけません、それでは振り出しに戻るだけ、戻っている暇などありゃあしません。残された方法はあの子の腹を裂いて、さとり様を取り出す」
「帝王切開――、か」
「そうです、それしか方法は無いと思いましたよう。でも流石に友の腹を裂くと云うのは抵抗があるってもんです。でも、あたいがそんな事を云う訳にもいきません、いざとなれば今度はこのあたいがお空を孕んでやれば良いんだと、そうすれば生まれ変われると、そう納得しました。それをお空に伝えると、微笑んで頷いてくれましたよう」
「――もう良い、燐、止めてくれ」
「あの子は何処までも、さとり様の事を思って、あたいの事を信頼してくれてたのでしょうねえ」
「お前は今、自分がどれだけ残酷な事を云っているのか解っているのか!其処まで空の気持ちを汲んでおいて、何でそんな事が」
「残酷?残酷ですって?」
よりにもよって残酷ですって、そんな訳ありませんよう、アハハハ、と私を馬鹿にする様に云った。
「あたいは彼女達の残してくれた教訓を生かした!それの何処が残酷だと云うのか!その教訓を生かして、こいし様を生きたまま食べる事に成功したのだ。さとり様とお空もきっと満足していることでしょう。こうしてあたいが無事こいし様を宿せた事に」
「燐、お前の腹に宿っているのは、――こいしなのか」
そうですよう、何を今更と、眼で応えた。
「こいし様はあまりに不幸な境遇でございました。けれど、もうその不幸を味わう事もないのです。誰とも絆を結べなかった、こいし様は今生まれ変わり、このあたいと母と子として、縁を結び直すのです。それだけをさとり様とお空も望んでいる事でしょう」
「生きたまま食べるなんて、一体どうやって」
「それは、聞かぬが華と云うものでございましょう」
得意気な顔でえへらえへらと笑った。
「そんな莫迦な事あるものか」
私はむきになって云い返す。
「御姐さんが何と云おうと成功したのです。ほら、中で動いているでしょう、確かに宿っているのでございます。あたいの腹に、こいし様の生命が、あたいの中で新しく、こいし様は生まれ変わるのでございますよう」
ほらあ、御触りになって下さいようと、手を取って、その腹へと導く。
燐の皮膚の下で、何かが私に触れた。
「そんな莫迦な事あるものか」
二度目のその台詞は、酷く弱弱しかった。
「アハハハ、御姐さんも、これでようやく解ってくれましたかねえ。ああ、そんなに動いては駄目ですよう、こいし様。嬉しいのかい、母の心が解って嬉しいのかい、アハハハ」
「う、生まれるのだな」
愛おしそうに腹を撫でながら、眼を合わさず、頭だけコクリと頷いた。
「少し、羨ましいと思ったのではありませんか、鬼の御姐さん。これは本当に生まれ変われるのではと、もし生まれ変われるのなら、私もと、そうは思いませんでしたか?」
「そ、そんな訳」
「同じですよ、御姐さんの眼と、御姐さんの瞳に映った、あたいの眼がねえ」
ぐいっと覗きこむ込む様に云う。
その言葉に、鼓動が速くなるのが解った。
「で、出鱈目を云うな――」
「本当は地底なんかに来たくはなかったんでございましょう、鬼の御姐さん。卑怯な人間に騙し討ちされて、その怨みの炎が燻っているのでございましょう?その怨みを身に宿し続ける為に、決して忘れない為に、この旧灼熱地獄跡に居るのでございましょう?違いますかねえ」
「違う!嘘も、卑怯な人間も嫌いだ!だけど、それを怨むなどと、引き摺る様な、未練たらしい真似を鬼はしない。酒と共に呑みこんで、パアっと吐き出してそれで終いさ」
「そうですか、まあ別に良いのでございますがねえ」
「何処で、一体何処で、こんな莫迦げた事を思い付いたんだ!」
私は、心に芽生えた得体の知れぬ感情を振り払う様に、強い調子で問い詰めた。
「はて、何処でしたでしょうか」
「惚けるんじゃない」
「いえいえ、本当に思い出せないのでございますよう」
私はそれでも、執拗に問い詰める。
まるで燐を責めるかの様に。
「あれは確か、そう山へ行ったのです、妖怪の山へ。もうお空に勝手に変な細工をしないで下さいと、直談判しに二人で行ったのです」
「其処で仕入れて来たのか、そのどうしようもなく莫迦げた話しを」
そうだったと思いますようと、いくらか不安げな表情で云う。
「なんでも、死者の魂は山へ行くと考えられているそうです、そして山の中で死者の魂が浄化され、神となって子孫を見守る。これを葉山信仰と云うのだそうですよう」
「その信仰がどうしたと云うのだ」
「また、遠野物語と云う物にも老人や赤ン坊を山へと追いやる風習があると記されているそうです。追いやられた人達は、日中は里に戻って農作をして、夕方になると蓮台野と呼ばれる場所に帰るそうです。これをそれぞれ墓立ち、墓上がりと呼ぶそうです。つまり蓮台野に居る時は死人なのでございます。解りますか御姐さん、この場合、蓮台野と云うのは子宮としての役割を持っているのですよ。棄てられた老人や赤ン坊が山から帰って来ると云うのは生まれ変わって来ると云う事を指しているのです。蓮台野は子宮として、死者が生者に変わる装置として機能しているのですよう。これも葉山信仰の一種でございましょう」
「その話から、発想を得たのか、お前は」
「何も珍しい事ではありませんでしょう。その蓮台野と呼ばれる場所が特別な訳じゃあございません。子宮とは母なる物。生命を宿す神聖な場所。そしてあらゆる世界にとって絶対に必要な物」
御解り頂けるでしょうと、媚びるような声音で云う。
「遠い昔、ギリシアでは迷宮が、子宮として機能していました。何度も同じ道を繰り返しては中心部に向かう、それは死であり、そこから再び戻る事は生を意味した。つまり原初に還ると云う事であり、新たな生を巡る事にもなるのでございます。密教の曼陀羅も、カバラのセフィロートの樹と呼ばれる概念も皆同じ。全ては子宮を装置として具現化する為の方法に過ぎないのですよう。その世界の価値観、倫理に沿った形をしているだけで、指し示すものは同じ事。子宮に宿った生命が流れ出る過程を説明したものに他ならないのです。この過程を逆に辿れば、死によって心が純化され、また生まれ変わる事が出来るのでございます」
熱っぽく語る、燐の言葉が、私には理解出来なかった。
出来ないから、当然意味をなさない。
訳の解らぬ音が聞こえるだけである。
調律の違ったオルゴォルの様な声。
不協ではるが、音として一応は認識出来ると、それだけである。
けれど、燐の中ではきちんと、筋道が立っているのだろう。
狂人には狂人の理論が在る事もまた理解出来る。
だから、その理解出来ないのと、理解出来る事二つの間で、私の思いは揺れているから気持ちが悪いのだ。
「御姐さん、難しく考える事はございませんよう。これは胎内回帰や転生を疑似体験する為の装置。本来秘されるべき子宮を外に出そうと云う概念なのです。出して人の手でそれをなそうと云う試みなのです」
「解らない、解らないよ、燐」
「そして、それは、この地霊殿も同じでございます。此処は迷える罪人の魂を、灼熱の炎で浄化し、再利用する為の装置なのです。地霊殿は子宮、幻想郷の子宮なのでございますよう」
他の意見は聞かないと、そう告げたも同じである。
「破綻しているよ。概念を思考の中で弄んでいるだけだ、上手く行く訳が無い」
「此処は、その子宮の更に中心。此処程生まれ変わるのに相応しい場所はございませんでしょう。ほら見て下さいよう、あの立派なステンドグラス、異国の教会のようでございましょう」
そう云って燐は見上げた。つられて私も首を動かす。
柔和な微笑みを湛えた女性が、私達を見下ろしていた。
「彼女はキリスト教の聖母、マリアと云うそうです。私もなんで地霊殿に、キリストの聖母なんぞを置いているのかと疑問でございましたが、此処が子宮だと考えれば、何の間違いもありません。彼女はなんと、相手も持たずにキリストを懐妊したと云うではありませんか。処女懐妊ですよう、それはつまり肉体的な妊娠を指すのでは無く、概念の妊娠を指すのです。ですから、相手など居なくとも一向に構わない。そしてだからこそ、地霊殿に飾られ、この子宮を彩り、見守っているのです。まったく、さとり様も洒落な事をなさる」
見上げたまま、燐は何かを呟いている。その姿はまるで祈りを捧げる宗教者である。それはマリアにであったか、それともさとりにであったか。
「ですからねえ、鬼の御姐さん。御姐さんが何と云おうと、地霊殿は子宮でございますし、あたいのこの腹には、こいし様が宿っているのです。宿って新たな生を息吹いているのですよう。だから産みます、産まれます」
その、狂信的な燐の瞳を見るのが厭で、私は力任せにステンドグラスを砕いた。
無残に飛び散ったマリアが地面に叩きつけられ、鋭い悲鳴を上げる。
「あ、あ――」
「燐、正気に戻ってくれ!お前はさとりと、こいしを慕って、空と仲良くいつも一緒な燐だろう!地霊殿で誰よりも気が効いて、皆を取りまとめて、優しかったお前じゃないか、燐!」
私のその声に、ふるふると頭を振って応える。
「ああ、違う、違うのでございます。本当は、あたいはこんな事」
――違うのです、したくなかったのでございますと、そう云うと、はらはらと涙を零し始めた。
「本当は羨ましかったのかも知れません、さとり様とこいし様が。喧嘩をする程仲が良いとは云いますけども、本当に仲良くなりますと喧嘩などはしないものなのです。もう隣りに居るのが当たり前で、それはそれで心地良い事なんでしょうが、意識しないと空気の様に味気無いものなんですよう」
そう云うと、憚る事無く泣きじゃくる。
「あたいとお空の関係はそれでした。だからあの子が変な能力を手に入れた時も、すぐに気付けなかったし、止められなかった。だから歪ながらも意識しあう、さとり様とこいし様の、あの姉妹関係が羨ましかったのでございます。壊してやりたかったのです!」
私は、どうしてやれば良いのか解らなかったので、抱き締めた。
血も、その腹に宿ったこいしも、等しく。
「違う」
燐はそう云うと、スルスルと私の腕を擦り抜けた。
「――どうした、燐」
「山へは二人で行ったのです、あたいとお空と二人で。だから違う、妖怪の山で聞いたと云うのならお空も一緒に聞いた筈でございます。離れた時などありませんでした、だからあたいが妖怪の山で聞いたと云うのなら、一緒に居た筈です。でも、あたいは何度も説明したのです、あの子に!いくらあの子がパアだからと云って、そこまで物忘れが酷くない事をあたいは知っているのです!」
「じゃ、じゃあ何処で――」
「済まない事をしたと、妖怪の山でそう頭を下げてくだすったのです。だからあたい達も納得して、じゃあ地霊殿に帰ろうと、手を繋いだのです。でも、そう、途中で別れたのです。お空を先に帰したのですよう。ああ、――橋が」
「橋が、橋が如何したのだ、燐!」
「見知らぬ橋が出来ていたのです。だから、それを調べようと、そうしたら声が、頭の中に声が、ああ!」
「燐!、大丈夫か、燐ッ!」
「う、産まれます、産まれますよう、愛おしいこの子が、こいし様が産まれますよう!」
そう云うと、燐の腹がぱっくりと開き、何かがその中から、どちゃりと落ちた。
「愛おしい、愛おしいですよう――」
と云うなり後ろによろよろと後ずさると、仰向けに倒れた。
二、三度ぴくぴくと痙攣すると、そのまま動かなくなった。
「ほら、駄目だったじゃないか」
私は骸に話し掛ける。
せめて、その腕に抱かせてやろうと、産まれ落ちたそれに近付いた。
こちらも、こいしとは似ても似つかぬ塊である。
さとりだったモノと同じく、第三の眼の存在でかろうじて、こいしと解る。
こちらの眼はさとりのとは違い、開いてはいなかったけれど。
その決して開く筈の無い、閉じたままの瞳が、ゆっくりと開いた。
眼が合う。
その綺麗な緑色に、何故か私は狂おしい程の嫉妬を覚えた。
今までの作品は違和感のほうが鼻につく感じだったが、これは純粋に面白いと思った。
それにしてもパルさん……。
にしてもスーパー黒幕おパルさん……。
こういう話を書こうとすると無駄に強調したくなるものですけど
読めてよかったです
程良い狂気で楽しめました
個人的にも好きなので100点