Coolier - 新生・東方創想話

暗黒射精症候群 前編

2023/05/06 15:03:10
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1 夏風にまねかれて

燦々と降りそそぐ真夏の陽ざしを照り返し鳶川の流れは真っ白に輝いていた。休日ということもあり鳶川のほとりは人でごった返している。しきりに汗をぬぐいながらジョギングしている細身の中年男、一心不乱にトランペットを吹く学生、ちっちゃな子犬とともに散歩を楽しむ主婦、華やかな浴衣に身を包み、かしましい中国語でおしゃべりをしている若い女性の観光客たち。そこには十人十色の人々が集まりそれぞれ夏の空気を味わっている。そんな中とりわけ目を引く奇警な二人組がいた。なぜこの二人がそれだけ人々の目を引きつけたか理由は単純だった。どこか浮世ばなれした、この世のものとは思えぬほどの妖しい美を感じさせる娘たちだったから。
 ひとりは、上背の高い金髪の女性である。鼻筋のよく通った、造形の一つ一つがくっきりとした印象の中性的な顔立ちの持ち主であり、口元には優雅で不敵な微笑を浮かべている。長い金髪をたばねることなく風になびかせており、上着の白いブラウスのボタンを第二ボタンまで開けていた。そこから見えるくっきりと浮き出た鎖骨の出っ張りと、それが皮膚の表面に作り出す微妙な陰影がえもいえぬ色気のようなものを醸し出している。腰から下には丈の長いオリーブグリーンのスカートを履いており、そのゆったりした裾が夏風に吹かれはためく度骨格のしっかりしたしなやかな両脚がちらちらとのぞいた。
 もうひとりも同じく金髪だったが背丈は低く、あどけなさを残した少女の容貌をしていた。血の気の失せた、命の熱を感じさせない蒼白の肌の持ち主である。その皮膚には一点の瑕疵もなく純度の高い氷晶のような冷たいツヤを帯びている。滑らかなウェーブのかかった金色の髪を、ハイビスカスを模した紅色の髪飾りを用いサイドテールに縛っており、上着の真っ白なキャミソールは極端に丈が短く、なめらかにくびれた腰が大胆にもあらわとなっている。また形のいいヘソには銀のピアスが嵌められておりボトムスはデニム地のホットパンツ。そこからスラリと伸びる脚の片方にはコルセットピアスと真紅のリボンによる華美な装飾が施されており、リボンの鮮やかな紅と少女の透き通るような白い肌とが鮮鋭な対比を為していた。
 こんな二人が、鳶川のほとりの長閑な風景の中に混じっている。盛んに茂った街路樹の濃緑の葉むらと、真っ白な陽ざしとが織りなす木漏れ日のまだらの中を歩いている。人々の目を引きつけるのも当たり前のことだった。
「ねえ隠岐奈、私たちはどこへ向かっているの?」
 額に浮かぶ汗の粒をぬぐいながら、少女の方、フランドール・スカーレットが声を発した。
「いい加減暑いし、喉も渇いたわ。日本は元々高温多湿な土地柄と聞いていたけど……この町は特に蒸し暑いわね」
「まあ、そうだなあ。町の四方を眺めてみるがいいフランドール。青々とした山並みに囲まれているだろう? ここはいわゆる盆地でなあ、夏は暑く冬は寒い気候なんだ」
 隠岐奈はそう言うと、肩に提げていたハンドバッグから水の入ったペットボトルを一本取り出しフランに渡した。フランはそれを受け取るとキャップを開き水分補給をした。水を飲もうと顔をのけぞらせたことにより、フランの少女らしい白くあえかな首筋が剥きだしとなる。水を飲み下すたび喉の表面がかすかに波打つ。隠岐奈はそれを傍目で盗み見ていた。そして少女の微細な喉の動きにあるなまめかしい生命感を見出し愉快げに口元を緩めた。フランはそれに気づいておらず、水を飲み終えると「ふう」と短く吐息をつきペットボトルを隠岐奈へと返した。
「さて、と、最初の質問に答えようか。私たちが向かっている場所はとある老人の終の棲みかだ。といっても、築四十年を超えたボロアパートの一室だがな」
「アパート……。その老人っていうのは、何者なの?」
「オマエの姉の仇敵さ」
 隠岐奈がいたずらっぽくそう答える。フランはその意味がいまひとつわからなかったようでキョトンとしていた。
「え? どういうこと?」
「安心しろ。すでに和解済みだ。その老人の名は桜木、今の時代では珍しい、外の世界出身の妖怪退治屋だ。あの吸血鬼異変の際、小心者の紫の奴が加勢として幻想郷に招いたことがある。ただそれだけだ」
 隠岐奈は屈託のない微笑を崩すことなく答えた。フランはなんとなくからかわれているような気分になって、これ以上の問いかけはしないことに決めた。賢者というヤツはどいつもこいつもどうしようもないほど胡散臭くて、政治家同様人を煙にまく達人のようである。問いかけたところで望む答えが返ってこないというのなら、そんな行為に意味はない。
(同じ人の上に立場にあっても、隠岐奈とお姉さまとは大違いよねえ)
 不意に、大風が河原に吹き渡って砂塵を巻き上げた。木々の葉と葉とがこすれ合う、さわさわというおだやかなこだまが波のように広がっていった。その響きに背中を向けるようにしてふたりは石段を上がり、住宅街の方面を目指し川辺を後にした。

 外の世界の妖怪退治屋とはいったいどんな人物なのか、フランは豊かに想像を膨らませながら歩いた。けれどもその期待はすぐさま裏切られた。隠岐奈はある集合住宅の前で足をとめると「ここが桜木の住処だ」と言った。
「……なんだか、可もなく不可もなくという感じね」
平凡そのものの建物だった。いささか年季の入った鉄筋製の二階建て。個性など何一つない外見をしており、日本のどんな町でも地域でも似たような建物を見つけることができそうだった。
「まあ、妖怪退治屋といっても高齢でな、とっくに引退済みさ。今は孫といっしょにささやかな年金暮らしをしているよ」
 ふたりはそのまま敷地に入っていき、104号室のインターホンを押した。しばらくするとドアの向こう、廊下をドタドタ踏む音が聞こえてきたかと思うと一人の老人が姿を見せた。
「これはこれは、よくぞいらっしゃいました隠岐奈様」
 フランはその老人を一目見て少しがっかりした。老人の風貌は非常に地味でみすぼらしかった。いったいどんな人物なのだろうと、頭の中で想像を膨らませていたのだがとんだ期待外れだ。頭頂部はすっかり禿げあがりカサカサした質感でちぢれた白髪が後頭部にわずかに残るのみ。日に灼けた肌は梅干しみたいに赤みがかった褐色をしており鼻はぺちゃんと潰れていて鼻翼だけがやたらと広い。そのすぐ脇には大きなほくろがひとつ浮かんでおり口元にはこわごわした灰色のヒゲが盛んに生い茂っている。背は低く体は痩せこけあちこち骨が浮き出ていた。それに妖力もほとんど感じられない。同じ人間でも霊夢や魔理沙、幻想郷の猛者たちとは到底比べ物にならない。もしかすると昔はすごかったのかもしれないが、もはや見る影もない。
「あら、今日はずいぶん可愛らしいお嬢さんを連れているんですねえ。新しい童子の方ですか?」
 老人が聞き取りづらいダミ声、それもまくしたてるような早口で尋ねた。その声音に隠岐奈に対する媚びの気配、必要以上のへりくだりが感じられたのもフランからすると悪印象だった。
 隠岐奈はそれとは対照的に、実に悠然としたたたずまいで問いかけに答えた。
「いやいや、アイツらはまだ現役だよ。この娘はフランドール・スカーレット。紅魔館の当主の妹だ」
「あのレミリアさんの! いやあ、驚いた。噂には聞いていましたが、まさかこんな可愛らしいお嬢さんとは」
「しかし実力は姉に匹敵するほどだ。それより桜木、玄関で立ち話もなんだし中に入れてくれないか?」
「ああ、すいません。どうも昔から気が利かないタチでして。さあさあ、中にお入りください。むさくるしいところですが、ごゆっくりしていってください」
 言葉にたがわず本当にむさくるしいところだった。ただでさえ狭い廊下なのにあちこちに段ボールの箱などが積まれており、体を斜めにしないと通行することさえままならなかった。まるでナンのように大きくぶ厚い裸の足で、ひたひたと音を立てて床を歩く桜木に先導され二人はリビングに入った。そこのテーブルにはひとりの少年が座っており、シャーペンを片手に黙々と勉強をしていた。少年は二人の姿を認めると視線を上げ、いぶかしげな表情で訪問者の顔をじろりとうかがった。
「おい! 鉄男! お前もほら、お二人に自己紹介しろ! 幻想郷の賢者の摩多羅隠岐奈さんと、そのお連れのフランドールちゃんだ」
 鉄男と呼ばれたその少年は言葉の意味がよくわかっていないようだ。不思議そうに目をパチクリさせていた。
「……幻想郷? 賢者? じいさん、僕にはそういうのよくわからないよ。ええと……もしかして妖怪の方々?」
 老人の皺くちゃの顔がたちまち赤く膨れた。かれはしきりにツバをまきちらしながら鉄男少年のことを早口で叱りつけた。
「なんて失礼なことを言うんだ!! いいか鉄男、耳の穴かっぽじってよく聞け! 隠岐奈様は妖怪ではなく神様だぞ! とっても偉くてすごいお方なんだ!! ……いや、はや、すいませんね隠岐奈様……どうも世間知らずな孫でして……天狗のカゲマみたいなヤツなんですよ……」
「安心しろ桜木。私はこの程度の非礼は気にしないよ。それよりとっとと本題に入るぞ。こう見えても割合忙しい身なんだ」
「……忙しいっていうけど、昨日二童子と一日中セッ……」
「今は黙っていてくれフランドール。さあ始めるぞ桜木」
 隠岐奈と桜木はテーブルを囲んであれこれ話しはじめた。(鉄男少年は隣の部屋へと追われた)。どうやら外の世界の妖怪退治屋事情について話しているようだ。引退済みとはいえ桜木老人は中々の事情通のようで、隠岐奈のさまざまな質問について毎度詳細な答えを返していた。隠岐奈はその話によく耳をかたむけ内容を逐一メモに取っている。ちなみにフランはその間完全に放置されていた。彼女は所在なさげに床の上のクッションに腰を下ろし、ぼんやりと部屋の風景を眺め、二人の話を聞いていたのだが次第にそれにも飽きてきた。
「ねえ隠岐奈」
「退屈なのはわかるが、もう少し待ってくれフラン。そうだ桜木、この部屋に本棚はあるか? この娘は活字が好きでな、用いるスペルカードにも小説に由来する名前を与えるほどだ」
「ほう……賢いんですなあ。あっちの和室の方に本棚があります。大したものはありませんが、よければどうぞ」
 フランは老人が指さす方へと向かった。和室へとつづくふすまを開け中へと入った。
「あら」
 そこでは例の少年、鉄男が勉強のつづきをしていた。リビングを追い出された彼は折り畳み式の小さなテーブルを出して、その上にワークとノートを広げていたのである。
「……集中、できないなあ」
 鉄男は一瞬だけおもてを上げチラリとフランの顔を見ると、ポツリとそうつぶやいた。そしてまたすぐに視線をもとに戻し、シャーペンを持つ左手を動かしはじめた。
「邪魔はしないわ。ただ暇つぶしに、本を読みたいだけなのよ」
「……どうして皆こう、邪魔をするかな。僕は誰の邪魔もしてないのに。放っておいてくれれば、それで済む話なのに……」
 鉄男はぶつくさいいながらも一応は本棚の方を指さしてくれた。
(変わった人ね)
 フランは心のうちでそう呟きながら、鉄男の指示に従って本棚の方へと向かった。本棚はこぢんまりとしたものであちこちに隙間があり、どの段でも本は斜めになって壁にもたれかかっていた。フランはその中から梶井基次郎の文庫本を取り出し、窓辺に置かれていた座布団を枕にして寝転がり黙々とそれを読みはじめた。
 部屋には冷房がよく効いていた。隠岐奈から術をかけてもらったとはいえ、慣れぬ陽ざしのもと長時間歩いたこともありフランの身体には疲労が溜まってていた。エアコンの涼しい風が疲労により凝り固まった体に染み入っていくのはえもいえぬ心地よさである。フランは睡魔に抗うことができずしばらくすると本を床の上に置き、まぶたを閉ざして眠りに落ちてしまった。
「……寝てる」
 それからしばらく経った後のこと、フランがおだやかな寝息を立てていることに気づいた鉄男はシャーペンを手放し彼女の方へと視線をやった。ウェーブのかかった金髪が、すりガラス越しに差し込む真昼の陽ざしを集め華やかに輝いている。病的なほどに白い、なだらかな丸みを帯びた腹が呼吸のたびゆったりと膨らんでは、へこんでいく。鮮紅色のリボンに飾られたスラリと長い白い脚が、悩ましげな寝息とともにうごめき、こすり合わされる。
 鉄男は呆けたような顔をして、その光景をじっと眺めつづけていた。
(おれの部屋に、女の子がいる。バケモノみたいに綺麗な女の子が寝息を立てている……)
 苦しいほどの胸の高鳴り。火照り出す全身の血。安逸の感覚が遠い。現実感が薄い。反復する日常という退屈な避妊具がズタズタに切り裂かれ、危険を孕んだ剥きだしの真実が表面に露出せんとしている……
(遠い昔にも、こんなものを見たような気がする。身も心も蕩けてしまいそうな烈しい昂揚に、肉体を炙られたことがあった気がする。汗のにおいがする。世界が汗のにおいに、夏に満ちていく……アア、オレハコノムスメガホシイ。サカイメナクトケアッテミタイ…………)
 鉄男の視界に一瞬奇妙なものが映った。フランの後背、普段は眼に見えぬ精霊のようなものが最初からそこに存在していたような唐突さで出現し、開眼した。長い睫毛に飾られたまなこを見開き鉄男の方をまっすぐ射すくめた。かと思うと消えていた。そんなものはもうどこにもいなかった。

 「なあ桜木、今頃オマエの孫は勃起してるんじゃないか?」
「へえっ!?」
 話の最中、隠岐奈が突然突拍子もないことを言い出したものだから、桜木老人は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「フランは箱入り娘だからなあ。あんな恰好で若い男と同じ部屋でふたりっきり。どんなことが起きるかなんて想像もつかないぞ」
「イヤ、イヤ、鉄男はそんな恥知らずな真似はしませんよ! たしかにアイツは偏屈なヤツですが、人に迷惑をかけるな、後ろ指を指されるような行いはするな、それだけはちゃんと教えてきたつもりです!」
 桜木老人もこれには怒りを抱いたようだった。口角から泡を噴き噛みつかんばかりの勢いで隠岐奈に食ってかかった。隠岐奈は涼しげな微笑を保ったまま抗弁をした。
「ああ、すまないすまない。そんなに怒るな。ただの冗談だ。どうも近頃の日本人は貞操観念が強くなっているようだな。性におおらかな昔がなつかしいよ」
「そうですかねえ……私なんかからすると、最近の方がずっと乱れている気がしますがねえ」
 すると隠岐奈は唐突に、一首の歌を鷹揚な調子で詠みはじめた。
「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 往き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に 我(わ)も交はらむ 我が妻に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな」
「あの、すいません。私、英語はちょっと……。学校も小学校までしか通ってませんし……」
「全く、最近の若いのは万葉も知らないのか? これは奈良時代の和歌集、「万葉集」の巻九に収められている歌だ。お前でもわかるようざっくばらんに訳してやると――今日は乱交パーティーだぜ。オレは人妻とヤるから他のヤツもオレの妻に言い寄れ。カミサマだって昔から許してくれてるんだし、今日だけはやりたい放題やろうぜ!――こんなところだな」
「へえ……昔の人も今とあまり変わりませんねえ。風流も何もあったもんじゃないなあ」
「あの歌集には俗っぽい歌も数多く収められており、詠んでいると当時の人々の素朴な心情や生活がよく伝わってくるぞ。この歌は「筑波」の地名からわかるように東国の風習を詠んだ歌だ。嬥歌(かがい)というのも注によると当時の東国の俗語らしい。朝廷という中心の立場から詠まれた歌だけでなく、東国という周縁の、それも内容も明らかに下世話な歌にも理解が示されていたわけだ。古き良き日本の素朴でおおらかな気風が感じられて大変よろしいじゃないか」
「へえ、へえ……いやあ、昔の人ってのはお盛んだったんですねえ。いや、でもそりゃあ流石に昔すぎますって。奈良時代の人間っていうのはあれでしょ? 石器だとか銅鐸だとかを使っていて、あと、古墳とかを建てていたんでしょ? そんなのわかりませんよ」
「……お前は孫に歴史についての基礎知識を教えてもらうべきかもしれないな。もう高校生なんだろ?」
「ええ、今年で十七才ですよ。中々勉強のできる奴みたいで、この前面談に行ったら担任の先生が褒めてくれましたよ。鉄男君は優秀な子ですよって。なんでですかねえ、俺その「優秀」って言葉を聞いた時なんだか涙が出そうになっちゃったんですよ。齢を取るとどうも、昔のいろんなことがなつかしくなる。そういえば俺がガキの頃は、誰も俺を優秀だなんて褒めてくれなかった。でもアイツは違う。そう思っただけでね、なんだか泣けてきたんですよ」
「わからなくもないよ、桜木。あの少年のことが大事なんだろう? だからあの少年が褒められるのが自分のことのようにうれしいんだろう?」
「ええ……ホントにもう、この世でたった一人の、家族ですからねえ。妖怪退治なんてロクでもない仕事でしたよ。この年まで生きてこられたこと自体奇跡みてえなもんです。でもねえ、やっぱり悪いものから逃れ切ることはできなかったわけだ。不幸ばかり起きました。怨みばかり残りました。そのせいなんでしょうかねえ、オレの息子夫婦は鉄男を残してどこかに消えちまった。悪いものに連れ去られて、二度と会えなくなっちまった……」
 桜木老人は、湧き上がってくる感情をうまく押しとどめることができなかったようだ。その顔は血が昇ってすっかり真っ赤になっており眼元は涙でうるんでいる。それでも老人は語りつづけた。
「今でもねえ、写真を見ます。鉄男が生まれた時の写真です。俺の義理の娘、サトちゃんが産まれたてのアイツを抱きしめている。その脇に息子が、真一が立っていてうれしそうにニコニコ笑っている。古い写真でしてね、画質があんまりよくないし画面もぼんやり薄暗い。皆の表情だってはっきりしていない。すごくあいまいな笑顔なんです。でもそれが不思議と……綺麗なんですねえ。胸をつかれる思いがするんです。そしてだからこそ後悔が募る。あんな世界に入るべきじゃなかった。血と呪いと狂気の世界にひと時でも憧れたオレがバカだった。あんなことに時間を使いさえしなければ、俺は、俺たちはもっと……」
 隠岐奈はしずかに相槌を打ちながら話に聞き入っていた。老人は更に言葉をつづけた。
「オレはねえ、不幸な人生を生きた男ですよ。だからこそ鉄男にはねえ、普通の幸せを掴んで欲しい。もうそれ以外何もいりません。鉄男が大学を卒業して、就職して結婚して、ひ孫が生まれるのさえ見届けたらねえ、妖怪に殺されたっていい。散々憎み、怨み、殺し合ってきたアイツらに、髪の毛の一本も残さずに食い殺されたっていい……。最近ね、眠れぬ夜がやってくるたびね、そんなことばっかり考えてる自分がいるんですよ……」

 それからしばらくして隠岐奈と桜木老人は話し合いを終えた。隠岐奈はまだ眠っていたフランを起こすと能力を用い家へと帰った。
「あら、お帰りなさいお師匠様。それにフランちゃん」
 隠岐奈とフラン、それに二童子を合わせた四人は現在、外の世界のマンションの一室を借りそこで生活を営んでいる。隠岐奈が帰ってきた時舞と里乃は台所で料理をしていた。主人と、その友人と同居しているにもかかわらずこの二人は相変わらずバカップル丸出しであり、この時も色だけ違うおそろいのエプロンを二人して身につけていた。
 その日の夕食はパエリアとアクアパッツアだった。フランはそれを見て数日前、二童子が隠岐奈にパエリア鍋を買ってくれるよう熱心にねだっていたことを思い出した。舞は皿に盛った食事をテーブルに並べている最中、フランに対し「久々の洋風料理で、故郷のことを思いだしたりしない?」などと尋ねかけてきた。フランは微妙な顔をせざるを得なかった。たしかにヨーロッパ出身なのは間違いないがフランの場合スペインやイタリアとは大して縁がないからである。
 とはいえ人が作ったものにケチをつけるほどフランは落ちぶれてなかったし、そもそも料理はちゃんと美味しかった。疲労がたまっていたこともあり、フランはそれらの熱々で栄養豊富な料理を黙々と食べつづけた。
 食事の際中、隠岐奈がたずねかけてきた。
「そういえばお前はあの部屋で、鉄男少年といっしょに何をしていたんだ?」
「私は本を読んでいただけよ。あの人も数学の問題を解くばかりで、私たちの間にほとんど会話はかわされなかったわ」
「そうか。つまらないなあ。それで、本は何を読んだんだ?」
「梶井基次郎という夭折した作家の作品集だったわ。一番印象に残ったのは「桜の樹の下には」というとても短い一作ね――桜の樹の下には屍体が埋まっている――これが最初の一行なのよ。桜と屍、一見何も関係がないように思えるけれどなんとなくしっくり感じられるというか……面白い組み合わせだと思ったわ」
「だって、実際に埋まっているからなあ」
 流石のフランもこれには目を丸くした。
「えっ? 埋まってるの? 単なる表現ではなくて?」
「死体を埋めるなら、大抵は土の下だろう? 土葬ではもちろんそうだし火葬でも骨や遺灰は土の下に埋める。まあ鳥葬のような変わり種もあることにはあるが、基本的にはそうだ。死の秘密はいつだって地下に秘匿されている」
「死の秘密とはいったい何なの?」
「それを言うことはできない。何故ならそれは神の秘密でもあるからだ。フラン、墓石でも卒塔婆でもいい、墓標について思考を巡らせてみるがいい。なぜあれらが垂直の構造を持つかわかるか? そこにどのようなものが象徴されているか理解できるか?」
「垂直……よくわからないけれど、樹木もそうなの? ひとつの墓標なの?」
「ふむ……まあ、悪くはない答えだ。日本において桜というのは特別な樹とされる。はかなさの象徴とされる。結局のところ、人間の存在は生と死という二つの極を行き来しつづけるもののようだ。振り子のようにふたつの極を行き来しながらその存在を保ちつづける」
「だから、正体をとらえにくい」
「その通り。だからこうやって対話をする。そしてかたわらに、アイツらのようにイチャつくことしか能がないやつらがいたりする」
 フランは隠岐奈にうながされ二童子の方を見た。すでに料理を食べ終えた彼女らは早くもイチャイチャしはじめており、ベタベタ互いに触れあいながら甘ったるいささやきを交わしあっていた。
「この世界は、不思議ね」
「ああ、そうだ。だから私のようなものが、神が必要になる。引き裂かれたものをたばね、ない合わせる存在がな……」
 桜と屍体の小説の話だったはずなのに、いつの間にか話題が神にたどりついていた。隠岐奈との対話にはいつもこういうところがあるとフランは感じ、微苦笑を浮かべた。フランは料理を食べ終えると近くの古本屋まで歩いていき、隠岐奈から与えられていたおこづかいで梶井基次郎の本を買った。そして部屋に戻るやいなや「桜の樹の下には」を再読した。もう一度読んでみるとその掌編はどこか退屈な気がした。饒舌な語り口である。若くみずみずしい感性の産物であろう、うつくしい叙景と叙情の言葉に満ちている。とりわけ桜と屍体のイメージはやはり鮮明だ。けれどもフランは先ほど隠岐奈が自分に対し示唆を行ったもの、墓標といえるようなものをそこに発見しえなかった。
フランは自身の想像の世界に、春の空気の中、命の萌しの季節の中残酷なほどうつくしく咲き誇る桜の木と、その下に埋まった屍のイメージを組み立ててみた。そしてフランはその時、生と死という二つの極の背後に広がるはてしない空無の力に気づいた。それは限りがなく、つねに無愛想な沈黙を保ち灼けた土のにおいを漂わせ、黒い煤によりうっすらと汚れている。この空無のことを想うとフランの心は透明な氷晶のように澄み渡っていった。空無はことによると、自然そのものだった。神そのものだった。けれどフランはそれを完全に理解しえたわけではない。自分をとらえた啓示の更に奥へと自分の身を投げ出そうとすると、何故かティーカップ片手にくつろぐ姉の姿や紅魔館の真紅の外壁のことが思い出された。それがどうしてか無性になつかしかった。
(私って、今、どこにいるんだっけ?)
 自答は行わなかった。きっとあまり意味のない行為だったから。

 その日の晩、桜木老人の家でのできことである。和室に敷かれた布団の上に横たわっていた鉄男は唐突に起き上がり、洋室の方で眠っている祖父を起こさないよう、足音を立てることなくトイレの方へと歩いていった。
 鉄男はパジャマのズボンと下着をずり下すと便座の上に座った。かれの性器は全身の血を集め傲岸不遜に凝り固まり、その表面には野太い筋が走っている。それは蒸し暑い空気の中味のように濃い生臭いにおいを醸している。試しに握ってみるとしなやかで強靭な弾力がてのひらへと伝わってきた。かれは充血し雄々しく屹立するペニスによって自身の若さを実感した。まだ十七才の自身の肉体に満ち満ちている奔流のような精力を何か誇らしいもののように感じた。
 鉄男は目を閉じた。そうして意識を集中させ、闇の中にあの少女の像を描こうとしていた。あのフランドールという名の、うつくしい吸血鬼の娘の姿を……。
 ――ふしだら女め。男の欲情をそそる悪魔め……
 鉄男は強い力を込め熱心に性器をしごいた。ホットパンツに覆われた窮屈そうな尻肉の膨らみ、銀のピアスが冷たい光沢を放つヘソとなめらかな腰の曲線、太腿やふくらはぎにみっちりと白い肉が詰まった、引き締まったのびやかな両脚とそれを飾り強調する真紅のコルセットピアス……。フランドールの肉体の断片が闇の中花弁のように鮮やかに舞い散っては官能と欲動の焔を激しく煽り立てる。満ち潮のように高まりゆく快楽の水位、精神と本能の燃え上がるような猛々しい昂揚。闇を切り裂きながら白い光がひらめきはじめる。尿道をマグマのようにドロドロした熱い精液がこみあげてきて、噴き出す。快楽の太陽が輝き、弾け、眼前の視界が白一色に眩む。 
 ――アア、ア、アア……
 搾り出すような快楽の呻きとともにかれは射精した。熱く粘っこい精液が勢いよく噴き出してのひらへと絡みついてくる。かれの魂は充実していた。快楽は翼だった。それはかれをわずかな時間に過ぎないとしても天上の至福へと引き上げてくれる。
 それは素晴らしい快楽であり、興奮だった。しかしその分熱が冷めていくのもやけに早かった。かれはその後トイレを出て洗面台で手を洗った。ぬるくてカルキ臭い水道水を手にかけている最中、かれは自分の中の快楽の潮がゆっくりと引いていくのを実感していた。
 その後もかれはあの快楽がどうしても名残惜しくて、布団の上に転がりながら闇の中に妄想の絵図を描いた。その妄想の世界の中かれは絶対的な陵虐者だった。あの吸血鬼の少女は憐憫を誘う無力な被害者であり、涙声でかれに許しを乞うていた。しかし陵虐者は手を緩めることはなく、魔女裁判の異端審問官のように苛烈な苦痛を少女に与えつづける。少女は泣き叫ぶ。その柔肌をやむことのない鞭の一撃によって幾度となく引き裂かれ、白い肉体を鮮血に濡らす。陵虐者はその血の紅さに惹きつけられる。かれはますますバケモノめいてくる。正常な人間からかけ離れていく。暴力と鮮血が人間を異形へと変えてしまう。陵虐者は蛇のように長い舌を少女へと伸ばす。それはみだりがわしいほど濃い桃色の、ブヨブヨした肉厚の器官である。陵虐者は舌を自在に動かし少女の皮膚にこびりついた血を丹念に舐めこそげとっていく。少女にはもはや抵抗する気力もない。たださめざめと涙を流しながら奇怪な拷問を受け入れるだけだ。自身の肉体を放棄している少女の様を見てかれの欲望はますます燃え上がる。陵虐者の性器は完全に勃起しきっておりそれはもはやウワバミのように野太い。かれはそれを、少女のまだ毛も生えてない、淡い薄桃色に色づいた性器へと強引にねじこもうとする。少女の肉体を内側から引き裂き更に多量の血を全身に浴びようとする……
 ――その時、かれは怪物になりたかった。誰もが目を背けずにはいられないような、異形の顔が欲しかった。けれどかれがそのような顔を手に入れることができるのは、もしくはそう錯覚できるのは自涜に専念している時だけのようだ。肉体の内奥を荒々しい音を立て素早く流れゆく精力の奔流を感じている時だけだ。
 ――ジイサンハオレニダイガクヘイケトイウ。ダケド、オレハムシロヨウカイニナッテミタイ。ジイサンミタイニヨウカイヲトラエ、イタブリ、サツリクシ、ソノイキチデジブンノカラダヲマッカニソメアゲテミタイ……
 祖父の前では口が裂けたっていえないようなこと。それでもかれにとっては虚飾や遠慮を取り払った真実の欲望なのだった。そしてこんな欲望に魂を委ねてしまえるのは現状夜だけだ。朝が訪れ空に日が昇れば、あの白い陽ざしを全身に浴びてしまえば、欲望は心という複雑な器官に内臓されたいくつかの小部屋の中さっさと引っ込んでしまうのである。
 そういう風にして人間は生きている。生活している。鉄男は町に思いを馳せた。今この時もこの広大な宵闇の中、形なくおぞましい、それでいてたまらないほど魅力的なくさぐさの欲望がきっと鎌首をもたげつつあるのだ……。彼にとって夜とはそういう時間だった。世界の周縁に息をひそめる魔性の力と出会える時……。


2 摩多羅隠岐奈/八雲紫

 その世界の空は深みのある菫色一色だった。そして空の色は大体それ一色だった。この世界には太陽がない。空には月しか浮かんでいない。
 虹色の月暈に飾られながら、ほの白い微光を放つ大きな満月は目玉を有している。最初は閉ざされているけれども、時間の経過とともに少しずつ開かれていき最後には見開かれる。一個の巨大な眼球と化し空と地を睥睨する。しかしながら、その後月のまぶたは時間の経過とともにゆっくりと閉ざされていく。それが延々と繰り返される。この奇妙な目玉の月だけが空の支配者であり、太陽なんて暑苦しくうっとうしい目の上のたん瘤は最初から存在しなかった。
 その世界は「夢の世界」と呼ばれており、あたり一面実用に耐えうるかあやしい、ひょろりと長いオモチャみたいな建物がそびえ立っている。それらの建物のひとつ、とある一室にはその時、夢の世界の支配者ドレミー・スイートがいた。
「ふむ、半目。そろそろ休憩にしましょうか、こいしちゃん」
 窓辺に立ち空に浮かぶ月を眺めていたドレミーは、後方へ振り向きそういった。
「あら、もうそんな時間なの? 今日のおやつは何かなあ? 何かなあ?」
 答えたのは閉じた恋の瞳――古明地こいしだった。自身の目を閉ざしているためだろうか、こいしは現人格と夢人格が最初から統合されておりなおかつふたつの世界を自在に行き来できたのである。この縁もあり憑依異変で面識ができて以来というものドレミーとこいしはしばしば会って他愛もない世間話をしたり、夢魂を用いた奇天烈な遊戯をするようになっていたのである。変わり種同士のためだろうか、二人は中々気が合ったのだ。
 その日のおやつはバームクーヘンと砂糖をたっぷり入れた紅茶だった。忙中閑あり、夢の世界の支配者としてのせわしない日々の中の、ささやかなやすらぎのひと時。しかしながらその日は不幸極まることに最悪の闖入者がいた。
 その顔を見ただけでドレミーは飲んでいた紅茶を噴き出してしまった。「わあ、お行儀が悪ーい」とこいしがつぶやく。しかし、まあ、仕方がなかった。その闖入者はドレミーにとって最悪のストレス源だった。
「あなたは出禁のはずですよ、摩多羅隠岐奈!」
 ドレミーが吠える。箱型をした広い部屋の隅、天井の電球の明かりも届ききらない薄暗いところ、豪奢な山吹色の狩衣に身を包んだひとりの女が立っている。その口元に浮かんでいるのは腹立たしいほど余裕たっぷりの傲然とした笑みだ。幻想郷の賢者、摩多羅隠岐奈である。
「恥知らずの常識知らずめ……現と夢の境界のことなど歯牙にもかけず、こちらの領域へ土足で踏み入りシッチャカメッチャカにかき回す! 出禁ですよ出禁! さあとっとと失せなさい!!」
「……ドレミーさんがこんなに怒ってるのはじめて見たかも。ねえ、そこのお姉さん、早く出ていった方がいいと思うよ。きっとお塩をまかれちゃうよ」
 馬耳東風だった。隠岐奈は顔色ひとつ変えることなく答えをよこした。それは実に単純明快でなおかつ傲慢なものだった。
「いやいや、所用をこなすまでは出ていくつもりはないさ。ドレミー・スイート、私はお前に会いに来たわけではない。それよりもそこのサトリ、ソイツに用があって来たんだ」
 隠岐奈はそう言って古明地こいしをまっすぐ指さした。ご指名を受けたこいしは、キョトンとした表情を浮かべた。
「あら、私? もしかして、プロポーズ? だったらお断りだなあ。あなた全然家事をしてくれなさそうだもん」
「……結婚は結婚でも、誘拐婚だな。単刀直入に言ってやろう。古明地こいし、私はお前を捕縛し、力づくで私のものにするつもりだ」
「あはっ」
 こいしは腹を抱えて笑い出した。
「あははははっ! もう、愉快な人だなあ。でもあなたなんかに捕まりはしないよ。私は誰にも縛られるつもりはないもん」
「とのことですよ、摩多羅隠岐奈さん。とっとと去っていったらどうです。破れた恋にご執心な人間は見苦しいものですよ」
 ドレミーもこいしに便乗し嫌味たっぷりに隠岐奈を嘲けった。しかし隠岐奈は素知らぬ顔で言った。
「ならば仕方ないさ。先に宣言しておくぞ――お前たちふたりには、少々非道いことをさせてもらおう」
 傲岸不遜な宣戦布告。これに対しドレミーとこいしがどのような返答を寄越したか――言うまでもない。
「「やってみろ!!」」
 真っ先に臨戦態勢に入ったのはドレミーだった。彼女の周囲にはたちまち、不定形のピンク色の物体が集まっていった。夢の支配者である彼女の力の源、夢魂。それらはあっという間に泡のように膨れ上がれ、張り詰めかと思うと、破裂して四つの塊にわかれていった。塊は芋虫のようにうにょうにょと蠢きながら新しい形態を取ろうとしはじめた。
「Delirium Tremens」
 夢魂は、ショッキングピンクの体表を持つ象の姿に変化した。象たちはどれも丸々と肥え太っており、二本の足で立ちリズミカルに体を揺らしていた。象たちは眼を持っていない。その眼窩はがらんどうであり空疎な暗黒が詰まっているだけだ。そういったただ純粋な切れ目としての眼しか持たないピンクの象たちが、道化のそれのような得体の知れない深みのある笑みを浮かべ、古いテープを再生するようなノイズまみれの聞き苦しい笑い声をあたりに撒き散らしている。
「デリリウム・トレメンス――「振戦譫妄」、そして「ピンク・エレファント」――いささか悪意が強すぎないかね?」
「いい薬になるんじゃないですか? バカは死ななきゃ治らないって言葉知ってます?」
 ドレミーはニヤニヤと笑いながらそう言った。途端に象たちが、蛇のように体をのたうたせている細長い鼻を一斉に掴んだ。たちまちその鼻の先端が花のように開いた。ムチムチした尻を左右に振りながら象たちは深々と息を吸い、一斉に鼻を吹いた。高らかなラッパの音が鼻から響いて部屋の中で幾重にもこだまする。それがオープニングだった。
「おや」
 次の瞬間――隠岐奈の右頬がこそげとられた。隠岐奈は地に落ちた肉片と、それとつながっている、まだかろうじて形を保っている右耳へと眼を留めた。顔から離れた耳というのはどうにも不自然でグロテスクな感じがするもので隠岐奈は思わず顔をしかめた。
「なるほどなあ、本気で私を始末する気か」
 その通りだった。四匹の象たちは休むことなく高らかに鼻を吹き鳴らしつづけた。その度に見えざる音速の弾が放たれる。隠岐奈は巧みに飛行し攻撃を回避したが、彼女の敵はドレミーひとりではない。
「ダメだよー。こういう時によそ見なんて、危ないんだよー」
 何の気配も前ぶれもなく、古明地こいしがその背後に現れていた。隠岐奈はすぐさま振り向いたがもう遅い。こいしが空中でひらりとその体を一回転させる。ブーツの硬い靴先で隠岐奈の顎を鋭く蹴り上げる。隠岐奈は弾き飛ばされ壁へと打ちつけられた。
「ぐっ……」
「まだまだ終わらないもんね。もっともっと苦しんでもらうからね。あなたが最初に仕掛けてきたんだから、恨みっこはなしだよ」
 こいしは軽やかに跳躍し隠岐奈へと跳びかかった。両者の間で肉弾戦が繰り広げられる。優勢なのは圧倒的にこいしだ。彼女の攻防は天衣無縫でありひとつの動きと次の動きとの間にまるで脈絡がない。にもかかわらずその動作は流水のように滑らかであり一切の無駄が、余計なこわばりやぎこちない緊張がない。真の達人のみ到達しうる無我の境地に彼女はすでにたどり着いているのだ。隠岐奈は攻撃を読むことも防ぐこともかなわず、拳や膝、頭突きの一撃に晒されつづけた。流石にたまらなかったのだろう、隠岐奈は自身の背後に後戸を出現させそこから退避した。彼女は部屋の壁際まで下がるとすぐさま反撃に移った。
「秘儀「七星の剣」」
 剣のように鋭い七本の閃光が放たれる。青白く輝く剣の切っ先は正確に敵をとらえていた。こいしとドレミーは素早く回避したが、四匹の象はその肉体を両断され甲高い断末魔を上げながらバラバラになっていった。そう、バラバラだった。
 空中に散らばった無数のピンク色の肉片がもぞもぞと蠢き粘土のように形を変えた。それと同時にその桃色の体表に毒々しいほど色味の濃い真っ黄色の斑点がボツボツと浮かんでいく。肉片は新たな形態を得た――象の頭とプクプク膨らんだ丸っこい胴体に、尾びれや背びれを生やしている奇怪な桃色のフグである。
フグはただちにヒレを使って空気をはじき素早く宙を泳ぎ、隠岐奈の方へと突進していった。隠岐奈は反撃に移ろうとしたがその途端フグたちが周囲の空気を勢いよく吸い込んだ。かれらはたちまち膨張していった。隠岐奈の視界はあっという間にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる象たちの顔でいっぱいになってしまった。次の瞬間膨らみすぎた泡のようにフグたちが一斉に破裂する。爆音と同時に桃色の爆風が吹き荒れ波のように隠岐奈の体をさらう。高熱の風が隠岐奈へと吹きつけその皮膚を灼き焦がす。耳をつんざくような鋭い悲鳴が部屋に轟いた。もはや立つ気力さえなく、隠岐奈は崩れ落ち力なく床に横たわった。
「なんだか、あっけなかったね。惨めで無様で少しだけ可愛らしいわあ」
「まだまだ、まだですよこいしさん。害虫は徹底的にやっつけて、根絶やしにしてやらないと」
 ドレミーは愉快そうにそう言うと、指を鳴らし空中にフワフワ漂う夢魂たちへと合図を送った。夢魂たちは再び結集しはじめ、今度は象の頭と四つの車輪を持つスポーツカーへと変形した。そしてまるで手品のように、ドレミーの手にはいつのまにか白と黒のフラッグが握られている。ドレミーがサッとフラッグを上げるのを合図に象たちは一斉にスタートを切った。かれらは身を震わせ「アハアハアハッ!」と無邪気な歓声を上げ、甲高いエンジン音を轟かせながら敵にトドメを刺すべく一直線に突っ込んでいく。その騒々しさと来たらまるで、世界の終わりでもやってくるかのようだった。
 闇があった。
(……えっ?)
 気づけば隠岐奈は消え去っていた。代わりにそこには一点の闇が生まれている。
 音もなく、闇が広がっていく。アメーバのように四方八方へと腕を伸ばし、周囲の空間を吞み込み塗りつぶしていく。ピンクの象たちも例外ではない。かれらは慌てて逃げ去ろうとしたが、もはやブレーキが利かなかった。闇の触手がその桃色の肌に触れた途端、テープの停止のようにかれらの一切の動きは死んだ。そのまま闇は大口を開け象たちを一匹一匹噛み、吞みくだしていった。
 何が起きているのか、こいしにはよくわからない。彼女はぼんやりと突っ立ちただそれを眺めるばかりだ。キレイだな、こういう闇の中を最近はくぐってなかったな、お姉ちゃんに会って話をしてみたいな。背後でドレミーが怒鳴り声を発しているにもかかわらず、何故かそんなことを考えてしまう。上手く体を操作することができない。
 そのままこいしの肉体は闇に呑まれてしまった。生温かな闇の口腔が自身を呑んだ時、非常に奥深い隠微な快感が、心の底でかすかにくゆるのをこいしは感じた。けれどもその感覚はすぐに消え失せ代わりにぽっかりと開いた穴のような空虚な凪が彼女の心に訪れた。
そこは一点の光彩も存在しえない真なる闇の世界だった。時折牙のように鋭い、水晶の刃が生え伸びている以外には何も発見できない。この牙をもった暗闇の中をあてどなく歩いていると、時折、どこからともなく音が聞こえてくる。さかりのついた雌猫のおどろおどろしい苦悶の鳴き声、休み時間の教室のけたたましい俗っぽさのざわめき、貝殻を耳に押し当てた際聞こえる幻の波音、この世のあらゆる音が脈絡なくごちゃまぜになり、闇の中で絡み合いながら響き渡っている。
こいしは自分を空っぽにして、その音に耳を澄ませた。もはやこいしは音そのものだったし、そうであるかのような歩調で歩いた。その途中こいしは、眼前の闇が風に煽られた煙のようにおぼつかなく揺らぐのを見た。右腕に灼けた鉄を押し当てられたような尖鋭な痛みが走る。
「あ」
 肘から先がなくなっている。何かがこいしの腕を切断したのだ。切り離された腕は血のあられをまき散らしながら地面に落ち、重く柔らかな物が地に叩きつけられる鈍い音があたりに響いた。
 生ぬるい脂汗がうなじに噴き出してくる。不愉快極まりないぬるぬるした感触。魂そのものを歪曲させてしまうほどの、ドス黒い嫌悪と恐怖がこいしの心を真っ黒に塗りつぶす。こいしは動けなかった。全身が石鹸みたいな質感で凝り固まってしまっている。本来のしなやかさとなめらかさで肉体を操作することができない。それでもこいしは再び歩き始めようとした。ここから遠ざかろうとした。けれども手遅れだった。荒々しく尖鋭な一撃が彼女の腹部を抉った。
「う、あ……」
 細い、実に細く鋭い物が腹の皮を破り内部へと侵入してくる。それは、生き物のように生温かな体熱を有しており表面はやすりのようにザラザラとした質感だ。ネコの舌みたいだとこいしは感じた。ネコの舌の杭は実に緩慢に、内臓を破り、抉り、数々の器官を破壊しながらこいしの体の奥の奥へと潜り込んでいく。その度に鋭い痛みが閃光のように体の内側を駆け巡り、焼き尽くす。その痛苦と破壊はあまりにも凄絶なもので存在そのものを石臼で念入りに挽かれているかのようだった。自分の存在が徐々に徐々にあの単純な白い粉末へ変わっていくことへのうすら寒い戦慄……
 いつのまにやら闇の中にひとつの眼が浮かんでいた。イデア的といっていいほど完全無欠の弧を有した、楕円形の隻眼だ。眼は、日蝕の際にしか見ることのできない漆黒の陽のような絶望的な冷たさでこいしを見つめている。
 闇の中で――どこからともなく――しゃがれた老人の声が響いた。
「咲ケ」
 その声とともに何者かがこいしの顔にてのひらをかざす。それでこいしは終わった。終わりはしばしばはじまりへの鍵だ。冥闇の中では、存在はあまりにもたやすく悠久のたなごころへと触れることができるようである。

 闇が膨れていくのを堰き止めることはおそらく不可能、そう判断したドレミーはただちに策を講じた。彼女は人差し指の腹をさっと舌で舐め両のまなじりに素早く唾を塗った。
 古典的な術ではあったが効き目はあった。真昼の陽ざしの中にいるように周囲を見渡すことができた。しかしながらそこにあるのはもう夢の世界ではない。ティーカップもテーブルも建物も月もなくただただカラッポの空間が果てしなく広がっているだけだ。
「無茶苦茶をしますねえ、隠岐奈さん」
 ドレミーは隠岐奈に呼び掛けてみたが、声が帰ってくることはない。ドレミーはすでに気づいていた。摩多羅隠岐奈は神格の集合体だが、その中でも最大の力の源は「秘」であること。決して正体を見極めることは不可能であること。その神秘性そのものが隠岐奈の本質でありその強大な力の神髄であること。
(ああ、そうです。悪夢といっしょ。わからないから怖い。理屈で割り切れないから怖い。でも、その恐怖の仕組み、神性の仕組みさえわかっていれば対処の仕様はあるはず……。何かとっかかりさえ見つかれば……)
 そう思っていた矢先のことだ。頭の内部で細く脆い筋が、プツンとちぎれる音がした。途端に見えていたはずの視界がもう一度闇に溶けた。
(えっ)
 眼窩の中で、眼球が小刻みに揺れるのを感じる。もぞもぞとした動きで、眼球が眼窩から這い出してくる。
(眼を……くりぬかれた?)
 それでドレミーは理解した。先ほどの音は視神経のちぎれる音だ。眼を失ったドレミーの肉体はそのまま闇に呑まれ溶け消えていった。それでも意識は残る。どうやら現在ドレミーの意識はふたつの眼球に宿っているらしい。そして当然のように視覚以外のすべての知覚が失われてしまっている。
 ちぎれた視神経の切れ端をゆらゆら漂わせながらふたつの眼球は垂直に下降しはじめた。この闇の中を潜行した先に何があるのか、想像することさえ恐ろしかった。そこには決して見てはいけないもの、触れてはいけないものが待ち受けている。ただそれだけはわかった。
 けれども落下の最中、思いがけぬものをドレミーは見た。古明地こいし、というよりかつてこいしだったもの――ダイヤモンドのようにキラキラ輝く硬質の皮膚を持った裸体の少女が、上体をのけぞらせた姿勢のままで空中で静止し、凍てついている。そしてその顔からは汚緑色の樹皮を持つ一本の樹木が生え伸びている。真っ黒な野太い根がこいしの顔面の肉を裂き、幹はうねうねとくねり四方に枝を伸ばしている。その梢には嫌悪を誘うほどにびっちりと隙間なく灰白色の微細な花が咲き乱れている。四枚の扇形の花弁とかすれた黄色のめしべを持ったちっぽけで味気ない花だ。それが大量の銀色の花粉を周囲にまき散らしておりおかげであたりは吹雪の中のように白っぽくかすんでいた。
 ドレミーにはもう何が何だかよくわからなかった。もうすべてが面倒くさかった。とっとと死んでしまった方がまだマシに思えた。
 
 めざめたドレミーが真っ先に見たものは、はしっこがちょっとだけかじられているバームクーヘンとティーカップだった。
「……私は何を?」
 夢うつつの気分でドレミーはあたりを見回した。すると古明地こいしがテーブルに突っ伏して鼻提灯を膨らませているのが見えた。その半開きの口元からはよだれがしたたっておりテーブルの上にささやかな水たまりを作っている。
「ええと、おやつの時間の最中につい、居眠りをしてしまったのでしょうか……」
 何かイヤな夢を見ていたのはおぼえているけれど、モザイクでもかけられているように何もかもがぼやけていてうまく思い出せない。夢の中の体験というヤツはどうしても記憶に残りづらい。目覚めた途端風に吹きちぎられる雲のような浮薄さで把握の手をすり抜け、どこか遠くへ消えていってしまう。
「まあ、とにかく、おやつの時間のつづきをしましようか」
 プンと漂う甘い香りを嗅いでいるうちに、そんな言葉がひとりでに口をついて出た。ドレミーはティーカップの中身をひとすすりし、びっくりしてついついむせ返ってしまった。ほとんど黒に近い茶色のシミのまだらがテーブルクロスの上にできた。カップの中にはどうしてか紅茶ではなく、ブラックコーヒーが入っていたのである。
「あ、あれえ……おかしいですねえ……」
ドレミーは困惑しきっていた。何もかもが不自然で不気味で、できの悪い映画の世界にでも閉じ込められてしまったかのようだった。彼女は紅茶党であり普段はコーヒーを飲むことなど滅多にないのである。
 しかもそのコーヒーはやたらと酸味の効いた、クセの強い風味をしていたのである。

 「ぶち殺すわよこのクソガキ。ほんとうにアンタは、いつも、無茶苦茶なことばかりする……」
 八雲紫はドスの効いた声で隠岐奈に言った。けれど隠岐奈は悪びれることもなく手にもったキセルから深々と煙を吸い込んだ。隠岐奈が口元からキセルを離し、ふぅーと大儀そうに菫色の煙を吐く。たちまち部屋の中いっぱいに毒々しいほど濃厚な甘いにおいが充満していった。
 ふたりは現在隠岐奈が住んでいるマンションの一室にいた。隠岐奈がリビングで作業をしていると突然紫が訪ねてきたのだ。冒頭の一言からもわかるように、紫は最初っから隠岐奈に対しガチギレしていた。
「いったい何が不満だというんだ紫? そんなに怒ると小じわが増えるぞ?」
「やかましいわ! アンタ夢の世界に無断で侵入した挙句、片手の指じゃ数え切れないほど禁術を使ったでしょう!? バレないとでも思ったの!?」
「私は二百年ほど前、片手に指が十四本ある妖怪を作り出したことがあったな。あまり人間から恐怖を集めることができず、あっさり忘れ去られてしまったが……」
「それでもまだ足りないでしょうが! っていうかアンタ、どうしてあんな真似したのよ!? いったい目的は何なの!?」
「たまには真の姿を使いたかったからかな。私たちの本質は生命というより「現象」に近い。お前の場合は「境」で私の場合は「秘」、それが人間のフリをしているだけだ。けれども奇妙なことに、あまり長く人間の真似事をしていると私たちは本当に人間になってしまう。だから定期的に本性を思い出さなくてはならない。この時の私たちを倒すことはほぼ不可能だ。可能性があるとすれば妖怪より学を窮めた神学者や哲学者、天賦の才を持つ詩人あたりだろうか? それでも間違いなく命がけの大仕事になるが……」
「はい、そのあたりでやめ。アンタねえ、今更私にそんなごまかし効かないわよ? そっちはついでで本命は別でしょ?」
「ああ、その通りだ。やはりお前は私の良き理解者のようだ」
「理解者……アンタの理解者ねえ……」
「……何故侮辱されたような表情をしてるんだ紫」
「はあ、アンタはとことん面倒くさいヤツね。とにかくそれはたしかだわ。で、本当の理由は何?」
「実を言うと先日悪夢を見てな、散々脅かされ目覚めた時には寝床が寝汗でぐっしょりだった。だから腹いせにドレミーを襲いに行ったんだ。いやあ、ひどい夢だったよ。全身に刺青の入ったクジラが地面から浮かびあがって、そのまま空へと垂直に昇っていってキラリと光るんだ。インターホンが鳴ったから玄関に出たらビデオリサーチのおばさんがいて、でもその両腕は地面へと垂直に下されたスキー板で、鼻孔の片っぽからどんより曇ったニューヨークがぶら下がっていて、自由の女神が金粉のかかったソフトクリームを舐めている……私はそのおばさんによってウォール街の有価証券のすべてと「kiss my ass」させられて、女なんてのは皆こんなもんで男たちはいつもつまみ食いしたがる。オリエンタリズムの暴力と対抗するために私はノートン一世を習合せねばならず、ミシンとこうもり傘の離縁状をビリビリに引き裂いて、お日様は高すぎるからコストカットで金閣寺を空に浮かべたら可燃ゴミで、アイルランド娘たちの真っ白な乳房はふかふかした黒土のようだったから私はそこに小麦を蒔こうとする……」
「やめなさい! 途中からただの連想ゲームになってるでしょそれ!」
「夢なんてそんなものさ。無意識の世界を手探りしたシュルレアリストたちが好んで用いた手法は、ダブルイメージだ」
「ダリってダレだ?……じゃなくてえ、このアンダルシアの犬が!……じゃなくてえ、危ない危ない……私もちょっと混ざりかけてたわ。ああもう、いい加減核心に入るわよ。私たちはいつだって終わりに向かっているし、それには抗い切れぬものなの。あんまりダラダラしてると世界が濁るの」
「いいだろう。その呆けた頭で核心とやらに一歩進んでみるがいい」
「あなたの動機ってのは桜木家にかかわること、そうでしょう?」
 隠岐奈の表情が一瞬固まった。隠岐奈はテーブルに置かれっぱなしになっていた、里乃が化粧の時に使う手鏡をチラリとのぞいた。そこには自分が思っていた以上に動揺の気配が色濃い自分自身の顔が映っている。隠岐奈は苦々しい気分を味わい鏡から視線をそらした。
「ううむ、まあたしかに私はヤツらのことが気になっている。三代前の博麗の巫女はあの血筋とつながりがあるしな。注目する価値はあるだろう」
「そこそこ遠縁じゃなかったかしら? それに巫女は血統で選ばれるわけではない。あなたが桜木家に注目する理由とはならない」
「うむ、それもそうだ」
 もう今度は、鏡を見る気にもなれなかった。
(いけないな……段々自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきたぞ。二童子は何をしてたっけ? ……学校に通っているな。アイツらをこちらの世界に連れてきた際、唯一要求されたのは学校生活を送らせろということだった。今日はたしか、料理部の皆で涼しくおいしいソバサラダを作ると言っていた……。フランは……本を買うため近所の書店に出かけている。読書好きの破壊神というのもヘンテコな組み合わせだ……いやいや、私は何を考えている? まるで壊れた蛇口じゃないか? バレたら何が困る? 私の企みは破綻してしまうかもしれないぞ。まあ企みといっても取るに足らぬもので、成功しようと失敗しようと何かが大きく変わるわけでもないが……それでも失敗は許されん。それは私の神としての沽券にかかわる。これは矜持の問題なのだ……)
 隠岐奈はその時、手に持っていたキセルのことを思い出しとりあえずもう一度煙を吸おうとした。けれども止められた。いつのまにか空間に細い裂け目が生まれ、そこから飛び出た白い細腕が自分の手首を掴んでいる。実にひんやりとした掌だ。ロンググローブ越しだというのに人間らしい体温というものがまるで感じられない。実に紫らしい、隠岐奈はそう思いつつ溜め息をついた。
「なあ紫、人の運命をもてあそぶというのはそれほど悪いことなのだろうか? 思うに人間という存在は、実は翻弄されたがっているんじゃないか? かれらは苦難という形で神の寵愛を受けることに最大の幸福を見出す、そう思われることが私にはしばしばある」
「ええ、そうね。でもそれだって場合によると思うわ。あなたが人間を玩具として扱う言い訳にはならない」
 隠岐奈は、どうしてあの時鏡など見たのだろうと思った。そもそもどうして里乃は使った鏡をしまうことなく置きっぱなしにしていたのだろう。あんな位置にたまたま鏡が置かれてさえいなければ、何もかもが上手くいっていたような気がするのに……。今頃自分は紫とキスをしていたかもしれない。あの白く冷たく肌理こまやかな柔肌へと、そっと指を這わせていたかもしれないというのに……
 甘い煙を吸い損ねたせいだろう。隠岐奈はお口がひどくさびしかった。けれど紫はまだ手を放してくれない。それが狂おしいほどもどかしいのだ。いつのまにか隠岐奈は、なんだか泣き出しそうな気分になってしまっていた。でもそれと同時に、ほんのちょっとしたはずみで何もかもバカバカしくなり、気が狂ったように笑いだしてしまいそうでもあった。

 「ただいま」
 そう言ってフランがドアを開けた際、彼女は玄関に見慣れない女物の靴が置かれているのに気づいた。
(来客かしら?)
 フランは訝しみながらもリビングへと向かった。そこで彼女は不思議なものを見た。紫色のドレスをまとった、美しい金髪の女性が隠岐奈を膝枕しているのだ。隠岐奈はその頭を膝の上に落ち着かせ、すっかり安心しきっておだやかな寝息を立てていた。女性は眼を細め隠岐奈のことを優しく見守りながら、乱れた隠岐奈の髪をそっと手櫛で整えている。
「……あら、お帰りなさい」
 女性が面を上げ、やわらかな微笑を投げかけながらフランにそう言った。それでフランはその女性が八雲紫だと気づいた。
(ええと、たしか、隠岐奈と同じ賢者……でも膝枕って……そんなに親しかったのね)
 フランはしばらく沈黙していた。言うべき言葉が上手く見つからなかったのだ。そんなフランを見て紫は自分の方から声をかけた。
「本を買ってきたのね」
「ええ、まあね。それより……」
「ああ、私がどうしてここにいるのか、そういうことでしょう? 同じ賢者として、用事があってここを訪れたのよ。しばらく話しあったんだけど、恥ずかしいことに喧嘩になっちゃって……でも、もう大丈夫。見ての通り仲直りしたわ。隠岐奈も疲れて眠っちゃった」
「……そう」
フランは紫との会話にあまり乗り気ではなかった。というより話すべき言葉が思い浮かばなかった。紫の意図がどこにあるのかがいまひとつわからない。
「ねえ、フランちゃん、早速の機会だから、お菓子でも食べながらおしゃべりでもしない? そんなに気を張り詰めなくてもいいわ。ただの世間話よ」
「はあ……。まあ、いいけどね。暇人だし。ちょっと待ってて、冷蔵庫に舞と里乃が作ってくれたトライフルが残ってるの」
「お気遣いどうも。でも、大丈夫よ」
 紫の指がさっと空間を横切る。たちまちそこに裂け目が生まれ中からティーカップやティーポット、ケーキ、スコーン、サンドイッチなど一通りそろったスタンドなどなど、アフタヌーンティーをするための茶器が飛び出してきて、テーブルの上にズラリと並べられた。
「わあ」
 フランは思わず子どもっぽいくらい無邪気な歓声を上げてしまった。それにつられるようにして紫もまた屈託のない微笑を浮かべた。

 「それにしても……天狗が知ったらすぐ記事にするでしょうねえ。吸血鬼と秘神が外の世界で同棲生活を営んでいるだなんて」
「隠岐奈は、自分は天狗に強いと言っていたわ。自分は彼奴らの頭上を空のように覆い尽くす分厚い蓋なんだってさ」
「彼女らしい傲然とした比喩ねえ。それであなたは隠岐奈についてどう思っているの?」
 紫はそう言うとソーサーごとカップを持ち上げ、おとがいを優雅にかたむけお茶を啜った。
「そうねえ……」
 フランは、紫の膝の上から下ろされ、部屋の隅の方で毛布にくるまっている隠岐奈の方に視線をやった。自分ではさりげない動作だったつもりだが紫は流石に目ざとかった。
「大丈夫よ。隠岐奈はまだ寝てるわ。狸寝入りではないはずよ」
「……アイツ、寝たフリとかそういうの得意なのよ。すぐにそうやって人の裏をかいて、こちらを脅かしに来るの」
「わかるわあ。昔からそういうところがあるの。私たち、アイツへの悪口を肴に酒を呑むなら中々盛り上がれそうね」
「まあでも、嫌いではないわ。ここでの暮らしも中々居心地がいいの」
「……それは、どうして?」
「どうして? ……言われてみると上手く言葉で説明できないわ。ただ、なんとなくかしら。隠岐奈は定期的に面白いものを見せてくれるし、舞と里乃の料理の腕は中々悪くないの。そんなところかしら」
「まあ、そうよね。日常の心地よさにいちいち理由なんて求める方がおかしいわ。幸福とは何か、不幸とは何かってあれこれ考えるだなんて、それ自体不満足の証よ。人間が一点の瑕疵もない輝かしい黄金の時を生きていた時代、きっとこの世には幸福という言葉も不幸という言葉も存在しなかったはずだわ」
「エデンの園にいた時代、ということかしら」
「そうね。でも知っての通り、幸せというのは脆く崩れやすいものなのね。きっと悪い蛇にそそのかされなくても、アダムとイブの幸せな日々が長つづきすることはなかったと思う」
「私たちの日々も、そうなのかしら」
「さあ、どうかしら。人間と吸血鬼じゃ何もかも違うからねえ。ただ、ひとつ言っておくけれど、あなたはいずれ幻想郷に、お姉さんのもとに帰ってくることになると思うわ」
「それは……どうして?」
「隠岐奈は気まぐれだからねえ、いずれきっとあなたに飽きるわ。邪魔者と思うようになる。そしてお姉さんのもとへと……」
「それは、あなたが隠岐奈に以前飽きられたことがあるから?」
 しばらくの間ふたりは押し黙った。静寂の中、右翼の街宣車の暑苦しいほど威勢のよい音楽が窓の外から響いてきた。フランは額ににじむ汗を拳の甲でぬぐった。熱い紅茶を飲んだせいだろうか、冷房の効いた部屋の中だというのに体がやけに火照っていた。
(どうして私は、あんなことを口走ってしまったのかしら……)
 紫は微笑を崩していない。底の知れない微笑だ。真夜中の海のように黒々とした千尋の深みの笑み。そんな微笑を浮かべつつ沈黙を保つことで、紫はフランをしつけようとしているかのようだ。対話の通路を一方的に断つことで、フランの心の中でフラン自身が発した言葉の反響がはじまるよう仕向ける。実際フランはこの時実に気まずい思いを味わい、萎縮しきっていた。
「あなたは、隠岐奈に飽きられるのが怖いの?」
 紫が尋ねてくる。
「ええ、そうね。きっとそうなんだわ」
 フランは力なくうなずきながら、そう答えた。
「あなたにうながされて、気づいたわ。最初は暇つぶし程度の軽い気持ちでここに来たのに、いつのまにかすごく怖くなっているんだわ。でも、ちゃんとお姉様のことだって恋しくなるのよ? 一昨日だって一度館に帰り晩餐をいっしょに食べたの。どんな土産話をしてもお姉様は楽しそうに耳をかたむけてくれたのよ……」
 フランは自分の語りの調子が、次第に嘆きのそれに近くなっていることに気づいた。フランはそれを恥じた。このうさん臭い八雲紫の前であっさりと自分の内面の脆く繊細な部分を露呈させてしまう、自分の弱さが口惜しかった。
「大丈夫よフランちゃん、誰だって先のことへの不安はあるものなの。それはきっと私や隠岐奈だってそうなのよ。この世界って本当は、ほんとうにビックリしてしまうくらい敵だらけだもの。でもそれだとあまりに辛すぎるから、心が寂しいから、世界が自分たちのために在るかのよう錯覚してるだけなのね」
「そう……なのかしら」
「ええ。でも、きっと大丈夫よ。人間も妖怪も神も生きてさえいれば、いろんな可能性を持ちつづけられるの。変わりつづけることができるの。あなたももっともっと外に出て見なさいよ。いろんなものと交わってみなさいよ。不安に対する最良の薬はね、ただ生き生きと生きつづけることよ。それだけでいいの」
 柔らかくフランに微笑みかける紫の姿はとても素敵だった。大人びた魅力にあふれ、フランが姉にしばしば見出すのと同じ自然な気品の風が吹いていた。フランはむしろ、こんな綺麗な人の膝を自由に使っていた隠岐奈の方をうらやましく感じさえした。
 フランはいつのまにか自分が、紫に甘えたい気分になっていることに気づいた。どうも隠岐奈より紫の方が実はより高位の存在のようである。隠岐奈が太陽みたいに雄々しく屹立する一本の杭だとすると、紫は月光のような優美さであらゆるものを柔らかくくるんでしまう。彼女はまるで世界そのもののように広々とした袋であり優しい調和と救済をもたらすもの――フランはその時そう感じていた。
ドレミーさんの技の元ネタはディズニー映画「ダンボ」の「pink elephants on parade」のシーンです。
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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100夏後冬前削除
打ちのめされるような凄まじい熱量がありました。
3.90竹者削除
よかったです
4.90めそふ削除
とんでもない熱量の籠った極限に気持ち悪い文章ながらも、キャラクターの情緒的な部分を引き出すのが恐ろしく上手くて絶望しました。俺はもうどうしていいかわからない。
5.100名前が無い程度の能力削除
凄まじい熱量に感服しました。隠岐奈のどこまで行っても底が見えない危険さと、そこに巻き込まれるようにして生活のあるフラン、そして対比的な母性の象徴たる紫、徹底的に描かれた文章に引き込まれるように読み進めました。素晴らしかったです。