Coolier - 新生・東方創想話

ニンニクヤサイアブラカラメ

2026/02/12 22:06:52
最終更新
サイズ
16.48KB
ページ数
1
閲覧数
138
評価数
5/6
POINT
540
Rate
16.14

分類タグ

 午後22時。
 レポート提出を終えた直後の脳は、もはや私のものではなかった。網膜に焼き付いた論理記号がチカチカと残像を残し、文字を追う力はとっくに尽きている。
 量子力学の課題レポート。シュレーディンガー方程式の導出過程を、A4用紙十枚にわたって説明するという、悪夢のような課題だった。途中で何度も手が止まり、参考文献を読み返し、それでも理解できずに呻いた。提出期限ギリギリまで粘って、ようやく完成させたそれを、大学のポータルサイトにアップロードした瞬間、私の思考回路は完全に停止した。
 
 なのに、胃袋だけが妙に元気で、さっきから「何か食べろ」と激しく主張していた。
 気づけば、夕飯を食べていなかった。いや、昼飯も怪しい。朝はコーヒーだけだった気がする。つまり、私の体は丸一日、ほぼ何も食べていない状態だった。
「……お腹空いた。それも、取り返しのつかないくらい」
 口に出した瞬間、隣を歩いていたメリーが、まるでその一言を待っていたかのように頷いた。
「じゃあ、行こっか」
「え、どこに?」
「いいところ」
 メリーの「いいところ」は、だいたい普通じゃない。

 大学からの帰り道、いつもなら駅へ向かう道を、メリーは逆方向へ歩き始めた。
「ちょっと、駅あっちだけど」
「知ってる」
「じゃあなんで……」
「美味しいものは、だいたい駅と反対側にあるの」
 意味が分からない。でも、メリーのこういう時は、大抵何か確信めいたものを持っている。
 
 商店街を抜けて、さらに細い路地に入る。街灯が少なくなり、足元が暗くなっていく。本来なら不安を感じる道だけれど、メリーが先を歩いているから、不思議と怖くない。
「ねえ、本当にこっちで合ってる?」
「うん。もうすぐ」
 やがて、再開発から取り残されたような一角に出た。古いビルの谷間に挟まれた、細い路地。平成の匂いがする。
 
 連れてこられたのは、そんな路地裏に貼りついた一軒の店だった。
 黄色い看板だけがやけに明るく光っていて、扉の隙間から漏れてくる脂とニンニクの匂い。それは匂いというより、もはや物質として空気中を漂っているような、濃密な存在感があった。深夜だというのに、店の前には四、五人の男たちが、黙って順番を待っている。
 誰も喋らない。ただ、じっと扉を見つめている。まるで何かの儀式の順番を待っているような、独特の空気感。
「……こんな時間に?」
「こんな時間だから、だよ」
 メリーは慣れた様子で列の最後尾につく。私もその隣に並んだ。
 
 待っている間、先客たちの様子を観察した。
 サラリーマン風の男性。作業着を着た労働者。大学生らしき若者。年齢も職業もバラバラだけれど、共通しているのは、全員が無言で、そして何かに憑かれたような表情をしていることだった。
 五分ほどで、私たちの番が来た。
 
 暖簾をくぐった瞬間、空気が変わった。
 湯気と濃い匂いとなにか"覚悟"を要求される感じ。
 店内は思ったより狭い。カウンター席が十席ほど。壁には手書きの注意書きが何枚も貼られていて、「食べ残し厳禁」「撮影禁止」「会話は小声で」といった文字が目に入る。
 厨房では、白い湯気を上げる寸胴が三つ並んでいて、店主らしき男性が黙々と麺を茹でていた。その奥には、もやしとキャベツが山のように積まれたバットが見える。野菜だけで、軽くスーパーの野菜売り場一角分はありそうだ。
 
 やたらと存在感のある券売機を前に、私は一歩引いた。
 ラーメン屋の券売機にしてはボタンの数が少ない。「小」「並」「大」「特大」というサイズだけが並んでいる。
「……え、どれ選べばいいの?」
「小で」
 小という言葉が、この店でどこまで信用できるのかは分からない。
 とりあえず言われるがままに食券を買い、店員に手渡す。
 
 カウンター席の端に並んで座ると、先客たちが黙々と丼に向き合っている姿が見えた。誰も喋らない。ただ、箸を動かす音と、麺をすする音だけが響いている。
 その光景は、どこか異様だった。まるで、各々が自分だけの戦場で、目の前の敵と対峙しているような。
 
 私の左隣には、三十代くらいのサラリーマンが座っていた。彼の丼を横目で見ると、野菜の山が富士山のようにそびえ立っている。その頂上から、彼は黙々と箸を進めている。額に汗を浮かべながら、でも表情は真剣そのものだ。
 右隣のメリーは、水を一口飲んでから、厨房の様子を静かに眺めている。
「ねえ、メリー」
「なに?」
「ここ、本当に大丈夫なの? なんか、みんな必死すぎない?」
「大丈夫よ。ただ、それぞれが真剣なだけ」
「真剣って……ラーメンだよ?」
「ラーメンだからこそ、よ」
 
 目の前では寸胴がぐつぐつと音を立てていた。鍋から立ち上る湯気は白く濁っていて、見ているだけで喉が渇く。店主が麺を茹でる手つきは、正確で、無駄がない。まるで何千回、何万回と繰り返してきた動作のように、流れるように美しい。
 麺を湯切りする音。スープが注がれる音。スープに麺が泳がされる音。野菜が盛られる音。
 すべてがリズミカルで、まるで音楽のようだった。
 
 五分ほど待っただろうか。静かな店内で先客が一人、丼を空にして出て行った。入れ替わるように、また一人入ってくる。深夜のラーメン屋は、そうやって静かに回り続けている。
 やがて、店主がこちらを一瞥した。
「ニンニク入れますか?」
 メリーが即答する。
「ニンニクヤサイアブラカラメ」
「ハイ」
「――ちょっと待って」
 思わず声が出た。
「会話が成立してないのに話が進んでるんだけど!? 今の、何の呪文!?」
「トッピングのカスタマイズを聞かれてるの」
 メリーは平然と説明してから、まるで聖母のような慈愛に満ちた表情で私を見た。それから店員に向き直る。
「すみません、この子、初めてなので。ヤサイ少な目で」
「ハイ」
 納得していないのに、すべてが決まっていく。
 この店、何か特別な交渉術を要求してくる。
 
 待っている間、私は周囲を観察し続けた。
 左隣のサラリーマンは、ついに野菜の山を制覇して、麺にたどり着いたようだった。彼の表情が、ほんの少しだけ緩む。まるで、長い登山の末にようやく頂上にたどり着いたような、達成感に満ちた顔。
 右側では、メリーが静かに水を飲んでいる。その横顔は、いつもより少しだけ真剣に見える。
「メリー、ここ、よく来るの?」
「たまに」
「たまにって、どれくらい?」
「月に一回くらい」
「それ、たまにじゃなくて定期的って言うんだよ」
 メリーは小さく笑った。
「まあ、そうね。でも、来るたびに新鮮なの。同じ丼でも、その日の体調とか、気分とか、時間帯とかで、全然違う味に感じるから」
「……それ、境界を見てるの?」
「さあ。でも、確かにここには境界があると思う」
「境界?」
「日常と非日常の。理性と本能の。健康と不健康の」
 メリーは厨房の方を見た。
「深夜に、こんな重いものを食べに来る人たちは、みんな何かの境界を越えてきてるのよ。そして、この一杯を食べ終わったら、また日常に戻っていく」
 
 その時、店主が動いた。
 二つの丼が、私たちの前に置かれる。
 運ばれてきた丼を見て、私は言葉を失った。
 もやしとキャベツの山。その下に、ラーメンが埋まっている……らしい。これで少な目? メリーの前に置かれた野菜の山と見比べると確かに少な目だけれど、それでも野菜炒め定食一人前のそれと同じだ。
「……これ、ラーメンだよね?」
「うん。ちゃんと麺は下にあるから」
 メリーは慣れた手つきで箸を突っ込み、山をひっくり返した。野菜と麺が入れ替わる。
「いまの、なに?」
「天地返し。下に沈んだ麺を先に食べやすくするの。伸びる前に麺を確保するのが大事」
 見様見真似で私も挑戦してみたが上手くいかない。箸が野菜の中に埋もれて、麺まで届かない。
「……無理」
「慣れれば出来るようになるわよ」
 メリーは既に麺をすすり始めている。
 
 意を決して、まずスープを一口すする。
 ――殴られた。
 脂の重さと、塩味の強さと、ニンニクの暴力性が、一直線に脳に突き刺さってくる。美味しい。でも、これは間違いなく"健康の敵"の味だ。
 舌の上で、味覚が混乱している。しょっぱい。濃い。重い。でも、不思議と不快じゃない。むしろ、体が求めている何かがここにある気がする。
 
 続いて麺。
 太くて、もちもちしていて、噛むたびに弾力がある。歯にしっかり応えるのに、ただ硬いわけじゃなく、きちんとスープを抱え込んでくる。この濃いスープに負けないための麺なんだと、一口で分かる。
 麺を噛むたびに、小麦の香りが鼻に抜けていく。そして、絡みついたスープの味が、じわじわと染み出してくる。
 
 野菜は、もやしとキャベツ。
 シャキシャキした食感が、さっきまでの暴力的な味を一瞬だけ中和してくれる。でも、スープに絡めた途端、ちゃんと"完成"する。このスープが濃いのは、麺と野菜という大軍をまとめあげるためなんだ。
 もやしは程よい歯ごたえを残していて、キャベツは甘みがある。どちらも、このスープの中で自己主張しすぎず、でも存在感はしっかりある。
 
 極めつけはチャーシューだった。
 味は少し濃いめなのに、脂はとろとろで、身は箸を入れただけでほろりと崩れる。正直、これをご飯に乗せたらそれだけで勝ち確定だと思う。でも、あえてこの"完成された丼"に加えることで、攻撃力を最大限に引き出している。
 一切れ口に入れると、肉の旨味が口の中いっぱいに広がる。そして、その脂がスープと混ざり合って、さらに濃厚になっていく。
 
「見える……私にも見えるよ、メリー……」
「なにが?」
「この丼の中に完成されたパーティーが……! 最強の勇者(麺)に、それを支える魔法使い(スープ)。さらに攻撃力を底上げする戦士(チャーシュー)と、バランス重視の僧侶(野菜)。そして全てを狂わせる賢者(ニンニク)!」
「その例えなら貴女は魔王で、完全に討伐されるわね」
 メリーは淡々と麺をすすりながら言った。
「でも、悪くない例えだと思うわ。確かに、これは完成されたパーティーよ。そして、このパーティーは協力して、私たちという魔王を攻略しようとしてる」
 
 額に汗が滲んできた。
 最初は「しょっぱい」と思っていたスープが、不思議なことに、だんだん心地よく感じ始めている。体が求めているのかもしれない。この塩分を。この脂を。このニンニクを。
 次に何を口に運ぶか、迷う。
 麺か。野菜か。チャーシューか。それともスープをもう一口か。
 どれを選んでも正解で、どれを選んでも危険な気がする。この丼は、そういう魔性を持っている。
 
 丼の三分の一ほどを食べ進めた頃、変化が訪れた。
 最初は暴力的に感じていたスープが、少しずつ馴染んできている。舌が慣れてきたのか、それとも体が受け入れ始めたのか。塩味も、脂も、ニンニクも、今では「ちょうどいい」と感じ始めている。
 これが、常連たちの言う「クセになる」ということなのかもしれない。
 
 しばらく格闘を続けていると、メリーが小声で言った。
「玉、食べる?」
「……えっ? ギョク?」
「生卵。溶いて絡めると美味しいわよ」
 メリーは店員に向かって手を上げた。
「玉、二つ」
「ハイ」
 小皿に割られた生卵が運ばれてきた。メリーが箸で素早く溶く。黄身と白身が混ざり合って、濃厚な黄色になる。
「麺でも野菜でも、これに絡めて食べてみて」
 言われるがまま、麺を卵にくぐらせて口に運ぶ。
 ――世界が変わった。
 さっきまでの暴力的な塩味が、卵のまろやかさに包まれて、急に優しくなる。すき焼きを食べている時の、あの至福感に近い。同じ丼なのに、まったく別の料理になっている。
 チャーシューを卵に絡めると、さらに感動した。とろける脂と卵黄が混ざり合って、もはや犯罪的な美味しさになっている。
 野菜も、卵に絡めると不思議と甘みが増す。
 
 味変に感動する。
 一つの丼で、こんなに違う味わいを楽しめるなんて。

 けれど……。
 丼の半分を過ぎた頃、体が限界を訴え始めた。
 胃袋が重い。塩分で喉が渇く。額の汗が止まらない。汗ばんだ背中にシャツが引っ付く。
「もう、無理」
 丼の半分ほどを残して、私は箸を置いた。完全敗北である。
「じゃあ、もらうね」
 メリーは何でもないように、私の丼を自分の前に引き寄せた。そして、さっきと同じ穏やかな表情で、また麺をすすり始める。
 この華奢な体のどこに入っていくのだろう。恐怖すら感じる。
 
 メリーは、私の残した分を、まるで自分の一杯目のような速度で食べ進めていく。
 途中で水を一口飲むだけで、箸を止めることはない。野菜も、麺も、チャーシューも、すべてが同じリズムで口に運ばれていく。
 そして、ついに二杯目も完食した。
「ごちそうさま」
 メリーは満足げに息をついて、水を飲み干した。
「……メリー、貴女、本当に人間?」
「多分ね」
 その「多分」が、妙にリアルで怖い。
 
 丼をカウンターに乗せ、自席を備え付けのダスターで拭き上げて店を出る。
 夜風がやけに冷たくて、肌に張り付いた脂の気配を少しだけ洗い流してくれた。でも、服や髪に染み付いた匂いは、簡単には取れそうにない。
 
 駅へ向かう道すがら、メリーが言った。
「どうだった?」
「……すごかった。色んな意味で」
「また来る?」
「……分からない。でも、忘れられない味だとは思う」
 メリーは微笑んだ。
「それでいいのよ。境界を越える体験って、だいたいそういうものだから」
 
 途中のコンビニで、私は烏龍茶を二本買った。一本はその場で飲み干し、もう一本は持ち帰り用。
 メリーは何も買わない。
「喉、渇かないの?」
「渇くけど、まだ余韻を楽しんでるから」
 その余裕が、まるで別次元の生き物のようだった。
 
「ねえ、メリー」
「なに?」
「こういう"体に悪い夜"ってさ……なんか、記憶に残らない?」
 少しだけ考えてから、メリーは頷いた。
「うん。境界に触れた夜って、だいたい忘れにくいからね」
「境界に触れた、か……」
 私はコンビニで買った烏龍茶をもう一口飲んで、ようやく魔王から人間に戻った気がした。勇者に討伐された魔王ではあったけど。
 
 駅のホームで、勇者を返り討ちにした魔王と別れる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。おやすみ、蓮子」
 電車に乗り込むと、車内の蛍光灯が妙に眩しく感じた。
 窓に映る自分の顔を見ると、頬が少し赤く、額には汗の跡が残っている。
 
 明日、胃もたれという名の報いが来るのは確定している。
 けれど、この脂ぎった夜の記憶だけは、どんな記録媒体よりも確かな手触りを持って、私の脳に刻まれていくんだろう。
 
 電車が動き出す。
 窓の外に流れていく夜景を見ながら、私は思った。
 あの店は、確かに境界だった。
 日常と非日常の。理性と本能の。健康と不健康の。
 そして、私とメリーは、今夜その境界を越えてきた。
 
 スマホの画面を見ると、午前0時を回っていた。
 窓から見えた夜空で時刻を確認すると、正確には0時12分34秒。
 日付が変わって、もう明日になっている。
 でも、体に残る重さと、鼻に残る匂いは、確かに"今日"のものだ。


 翌朝。
 カーテンの隙間から差し込む光が、私の意識を引きずり出した。
「……うぷっ」
 目を開けた瞬間、気づいた。
 部屋が、臭い。
 
 昨日までそこにあったはずの、ラベンダーの芳香剤や古書の匂いはどこかへ消えていた。代わりに部屋を支配しているのは、重たい脂の匂いと、一夜明けて凶暴性を増したニンニクの残り香。服にも、髪にも、肌にも、あの店の匂いが染みついている。
 枕に顔を埋めると、そこにも同じ匂いがする。
 満腹から来る眠気に負けてそのままベッドに倒れ込んだ事を死ぬ程後悔した。
 
「最悪だ……」
 喉がカラカラに乾いている。昨夜飲んだ烏龍茶では、全く足りなかった。
 重い体を引きずって起き上がると、鏡に映った自分の顔を見て、さらに絶望した。
 そこには、塩分で顔がパンパンに膨れた、見知らぬ女子大生が立っていた。
 目の下には、くっきりとしたクマ。頬は赤く腫れぼったい。髪は脂でべたついている。
「……これ、本当に私?」
 信じたくないけれど、鏡の中の女子大生は確かに私だった。
 
 シャワーを浴びることにした。
 熱いお湯で、髪を、肌を、念入りに洗う。シャンプーを二度使い、ボディソープも普段の倍の量を使う。
 でも、完全には落ちない。
 特に髪。何度洗っても、ほのかに脂とニンニクの匂いが残っている。
 
「もう、嫌」
 シャワーを浴びながら、昨夜の記憶が蘇ってくる。
 あの暴力的なスープ。もちもちの麺。とろけるチャーシュー。そして、卵に絡めた時の至福。
 美味しかった。
 間違いなく美味しかった。
 でも、代償が大きすぎる。
 
 シャワーから上がって、再び鏡を見る。
 少しはマシになったけれど、まだ顔の腫れは引いていない。
 そして、匂いも完全には消えていない。
 
 その時、スマホが震えた。メリーからのメッセージだ。
『おはよう。今日はニンニクパワーの影響か朝から調子が良いの。蓮子はどう?』
 添えられた写真には、信じられないほど爽やかな笑顔で、テラス席のコーヒーを嗜むメリーの姿があった。
 髪はサラサラで、肌はつやつや。まるで昨夜、あんな暴力的なラーメンを二杯も食べた人間には見えない。
 
「……あいつ、本当に人間なの?」
 私は震える手で、返信を打ち込む。
『こちらは全滅。現在、体が鉛のように重い。……あと、部屋があの店の分店みたいになってる。もう二度と行かないからね。絶対よ』
 送信ボタンを押して、私は力尽きたようにベッドへ倒れ込んだ。
 
 すぐに返信が来る。
『そう言いながら、また来たくなると思うわよ』
『絶対ない』
『じゃあ、三ヶ月後に賭ける?』
『……卑怯』
 
 胃袋の奥底で、まだ昨夜の麺が微かに暴れているのを感じる。
 重い。苦しい。でも、不思議と不快じゃない。
 これが、あの店の魔力なのかもしれない。
 
 ベッドに横たわりながら、私は考えた。
 今日は午後から授業がある。量子力学の演習。
 この状態で、シュレーディンガー方程式と向き合えるだろうか。
 
 答えは、多分ノーだ。
 
 でも、行かなきゃいけない。
 重い体を引きずってでも、大学に行かなきゃいけない。
 
 午後1時。
 なんとか身支度を整えて、大学へ向かう。
 電車の中で、向かいの席に座った女性が、少し顔をしかめた気がした。
 匂い、まだ残ってる……?
 
 大学に着くと、メリーが待っていた。
 相変わらず爽やかな笑顔で。
「おはよう、蓮子」
「……おはよう」
 私の顔を見て、メリーは少し笑った。
「顔、腫れてるわね」
「……言わないで」
「でも、いい経験だったでしょ?」
「……否定はしない」
 
 授業中、私は何度も睡魔に襲われた。
 教授の声が遠くに聞こえる。黒板に書かれた数式が、霞んで見える。
 でも、不思議なことに、頭は妙にクリアだった。
 昨夜のニンニクが、まだ効いているのかもしれない。
 
 授業が終わって、メリーと図書館へ向かう。
 途中、メリーが言った。
「ねえ、蓮子」
「なに?」
「昨日の店、また行きたいって思ってるでしょ?」
「……思ってない」
「嘘」
「……三ヶ月後なら、考えてもいい」
 メリーは満足げに微笑んだ。
「じゃあ、三ヶ月後ね。約束よ」
 
 ……けれど。
 不思議なことに、あんなにひどい目に遭ったというのに、舌の記憶だけが、あの暴力的なスープと、卵に絡めた麺の優しさを、かすかに求めて疼いているのだ。
「……一ヶ月後……いや、三ヶ月後なら……また、行ってもいいかも……」
 そう呟いた自分の声が、やっぱりニンニク臭くて悶絶するしかなかった。
 
 そして、夜。スマホの画面に、メリーからの新しいメッセージが届く。
『ちなみに、あの店は毎月15日が記念日で、トッピング全部無料なの。来月の15日、予定空けておいてね』
 
 ……三ヶ月も待てないかもしれない。
 そう思った自分に、私は深く絶望した。
 
 境界を越えた夜の記憶は、こうして私の中に深く刻まれていく。
 脂とニンニクの匂いとともに。
 そして、次の境界への誘惑とともに。
『酉河つくね』なんて焼き鳥意識した名前を名乗っているくせにラーメン二郎、G系ラーメン、インスパイア系が大好きです。
本家もよく行きますが、豚仙人、豚山、郎朗郎とかも大好きです。
行ったことない人はぜひ行ってみてください。
そして、店員さんに『ニンニク入れますか?』と聞かれたら、この作品のタイトルを唱えてみてください。飛ぶぞ。
酉河つくね
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
たまに食べたいですよねほんと
3.100夏後冬前削除
最初は二度と行かないってなるんですよね。ちょうど大学生くらいの時にね。で、次の日あたりにはそわそわしていくんですよね。そのうち毎週行くようになるから覚悟しとけ。
4.100南条削除
面白かったです
カロリーの暴力、油分の洪水、炭水化物の大群、それらが一気に襲い掛かってくるようなパワーを感じました

ヤサイチョイカラで
6.100東ノ目削除
他作品で怪異について記述してるのと同じテンションで二郎を描写しているのがシュールで面白かったです