Coolier - 新生・東方創想話

オー、ベイビー、ベイビー

2017/05/14 06:55:03
最終更新
サイズ
45.68KB
ページ数
1
閲覧数
2200
評価数
14/32
POINT
2240
Rate
13.73

分類タグ

 草木も眠る丑三つ時、藤原妹紅は絶望していた。
 ボサボサに乱れた頭を抱え、眼前に敷かれた短冊を涙目に睨む。蓬莱人の必死を賭して浮かべ浮かべと念ずるも、何一つ面白味の在る文面が思い寄らない。
 ただ五七五七七の三十一文字を埋めるだけで良いのに、如何せん、それが叶わぬのだ。
「どうしよう」
 震え声、兎小屋に住む仇敵には決して聞かせられぬ窮に窮した弱音が口から漏れる。何も、何も、浮かばない。無い知恵を絞りたくて、物理的に頭を絞りたくなる。
 そんな無意味な衝動に焦燥する、冬の未明。朝が来るまで後三時間。

 そもそもは一週間前、妹紅にとって何より大切な存在である上白沢慧音がこのしがない茅屋へと訪れたことに端を発する。
 元より妹紅と慧音の仲であるのに、その突然の来訪を礼儀正しく謝罪する、いかにも彼女らしい言辞と共に差し出されたのは、これまた彼女らしい丁重な経木包装で、その突板の手土産を開けてみると、中身は赤々とした新鮮な雉肉だった。慧音曰く、生徒の保護者の狩人から進物を頂いたものの、一羽分の胸腿肉ともなれば独りで食するには及ばず、そこで妹紅の顔が浮かび、お福分けに訪れたそうな。
 殆んど無職で日がな一日を無生産に過ごしている妹紅にとって、雉肉たるは滅多にお目にかかれぬ豪勢な食材である。雀の小躍りよろしく歓び浮かれて舞い上がり、妹紅は早速それを炙ることにした。
 竹製の火棚から吊り下がる鉄条の自在鉤に雉肉を引っ掛け、地炉の薪雑把に火を熾す。幾条かの白煙が捻りを伴って伸び上がり、その各々が揺らめぐ炎を従えて雉肉を囲い包んだ。後は火煙の自然な計らいに任せ、焼き上がりを待つばかり。妹紅は、その囲炉裏を挟み、子供っぽく跳ね降りるようにして慧音と向かい合わせに腰を下ろした。そのまま他愛の無い閑談に興を咲かせつつ、やがて肉に得られた焦げ目を合図として鳥骨を裂き、焼け具合を確認して各々の皿に取り分けた。さっぱりしたキール、脂身の濃いサイ、何より香ばしいドラムスティック。肉汁滴るそれら炙り肉を、妹紅は頂きますの挨拶もそこそこに口に運ぶ――慧音がその件について切り出したのは、その真っ只中のことだった。
「時に、妹紅さん、少しお聞きしたいのですが」
「んえ?」鳥すねに唇を預けたムグムグの言語にて、妹紅が品性の欠片もなく応ずる。
「いえ、簡単な質問なのですが、妹紅さんは和歌を嗜まれたことが在りましょうか」
 妹紅は、その問いを飲み込む仕草として無邪気を装い、眼を二三ほど瞬かせて見せた。
 和歌、別名・大和歌とも呼ばれる、妹紅が生きた時代に確立された定型詩の一種だ。
 その巧拙によって、その者の教養や恋愛的魅力を測っていた時代も在った。和歌ができなければ才覚のない無能者としてレッテルを張られてしまうのだ。
 いかに粗雑な妹紅とて詠んだこと無いはずもない。鳥すねの骨を皿に戻し、相槌を打つ。
「まあね、どうして?」
「それは、その、長命なる妹紅さんであれば和歌の一つや二つくらい詠んだことが在るかな、と」
 そう言って、慧音はその栗色の瞳を上目に遣い、妹紅を見た。
 躊躇いがちな、どこか訊ねることを面映ゆく思っているが如き逡巡を慧音の表情に見た妹紅は、これは藤原妹紅という女の身の丈を測っているに違いないと早々に合点した。
 なので大いに見栄を張ることにした。妹紅は慧音に格好良く見られたかったのだ。
「もちろんだよ。お父様に教わったしね。末は都一番の風流人と褒められたものだよ」
 そう妹紅は口にしてみたものの、これは偽りに等しい大法螺である。藤原不比等の詩想は和歌より漢詩が殆どであり、また生憎と、文芸を手解いてくれるほど親しい仲でも無かったのだ。
「真ですか」それでも慧音は眼を丸くさせた。「なら、大丈夫でしょうか……」
「あと、有名な歌人は大体友達だしね。求愛の歌を私に送って来た酔狂人も居たんだよ」
 哀しきかな、これも嘘。当時の妹紅は山猫もかくやといった風体で、歌人の友達はもちろん和歌なんて送ってくれる男性もいなかった。痩せっぽっちで器量の整わぬ末娘として灰被りの雑用ばかりさせられていた。
 けれど慧音にはそんな事実を語りたくはない――妹紅は善悪定かならぬ自意識のまま、そう思念した。
 それを慧音に知られてしまうのは何だか気恥ずかしく情けない気持ちになってしまうし、藤原の娘としてお姫様扱いされていたと、慧音には嘘でもそう思われていたい。
 それに、そうやって口先の嘘ばかりでこれまで生きてきた。それで問題なかったのだ。
「それは凄い」と、案の定、実直者な慧音は信じてくれた。「例えばどのような御仁が?」
「例えば?」今度は妹紅が眼を丸くした。
 さて、自分を大きく見せることばかり考えて歌人など考えていなかった。
 どうしたものか。嘘を吐く際、例示という方向に話頭を持ってかれるのは鬼門だ。どんどんボロが出てしまう。
 妹紅は少しだけ考える素振りを見せて、応えた。
「……ないしょ」と、唇に指を立てる。
「おや、どうしてですか」
「秘密主義のミステリアスな女なんだ、私は。でもきっと慧音にはいつか話したげる」
「それはそれは、楽しみに待つことにしましょう」と口では言いつつ、表情はどこか残念そうに慧音は引き下がった。
 その様子に、妹紅は多少ばかり罪悪感を覚えた。しかし本当のことを話すのはもっと嫌だったので仕方がないと胸裏に強いて納得した。
 話を戻すのですが、と、そう言って慧音は事情を説明し始めた。
「実は、来週の授業には父兄参観を予定しておりまして、各々が和歌を持ち寄って学ぶ句会めいた授業を考えているんです」
「ん?」あれれ、と妹紅は顔色を少しだけ悪くした。
「保護者の方々にも一首詠んで頂くのですが、特別ゲストが在ったほうが良いかとも思いまして。妹紅さんといえば名族藤原家の御令嬢です。そんな妹紅さんにも参加して頂ければ、より華やかな授業にできると考えたのです」
「ふうん」と、何気なくを装いつつ少しだけ背筋に脂汗を流す。
 まずかったかな、と後ろめたい感情が胸に去来する。一流の風流人などとハードルを上げず、それなりに褒められていたとか、その程度で誤魔化しておけば良かっただろうか。
 だがその反面、一週間という猶予が在ることに、妹紅は若干の楽観を覚えた。一週間の期間を丸々と詩作に用いれば、殆ど凡才である妹紅でも、傑作の一つくらいは作れるのではなかろうか、と。
 今更になって嘘だとも言えない。妹紅は向こう見ずにも承諾することにした。
「良いよ、なんたって慧音の頼みだもの」
「左様ですか、これはありがたい」慧音は眼を細めて笑った。「皆も喜びますよ、妹紅さん」

 ――と、ここまで。これが七日前の出来事だ。
 かくして冒頭に戻るわけであるが、経過の詳細をごたごた述べる必要もなかろう。前半は怠けて、後半は焦燥しつつも立ち行かず、今宵に至る。
 あんまり安請け合いした一週間前の自分を憂い、いっそ頭から噛み付いてやりたいくらいの後悔が擡げ、豊かな詩情を込めるべき思考の土台が荒み、詩作はサッパリ進まない。
「もうダメだ。作れないよう」妹紅は鼻を啜りながら喉を引く付かせてしゃくりあげた。
 慧音はきっとガッカリするだろう。もしかしたら積み重ねた嘘もバレて、ケーベツされてしまうかも知れない。あんなに優しい慧音に嫌われるなんて想像しただけで身体が震える。
 どうにか適当でも何でも体裁だけは拵えねばならない。眼を皿にして紙面を睨む。
 だがすぐに難渋する。たった三十一文字なのに、最初の五文字すら浮かばない。挙句、普段使わない頭の使いかたをしたものだから、とうとう頭が人体自然発火現象(オーバーヒート)を起こした。
「もう嫌だあっ」
 およそ破滅的な悲鳴、耳孔と鼻孔から薬缶さながらの蒸気が噴き出す。どこかコミカルな情景であるが妹紅にとっては血潮の沸騰である。その蒸気は紅く、感情は更に紅い。
「全部ぶっ壊してやる、全部ぶっ壊してやる」
 癇癪に任せて机を蹴り倒し、短冊を破く。歯噛みの口から紡ぎ出される雑言は良識が徹底的に破壊し尽くされた言葉で、頭に本物の煙を燻らせながら妹紅はワアワア叫んだ。
 しかしその喚き声は間もなくして色彩を転じた。散らかった己れの狼藉した残骸に、我に返った目頭が熱を帯び、今度はワアワア泣き叫ぶ。惨めさと無力感と、またやってしまったとの後悔だ。暴力的な衝動は決して状況を好転させ得ない。そんな常識くらい、妹紅とて、重々に弁えている。それでも暴れてしまうのは克己や自制など大切な理性を一過性に見失ってしまう妹紅自身の童蒙さと短絡性、一言にすればカッとしやすい性分がためだ。妹紅には、富士山での蛮行を筆頭として、そういうプリミティブな醜悪さを露呈させてしまった経験が幾度も在る。そうしてその後、苦悶必至の悔恨を数え切れぬほど得て来た。その与太者たる自覚をさえ妹紅は持ち備えている。だからこそ涙が止まらない。長い歳月を積み重ねた者にとって自らの心の貧しさを認識した時ほど悔しいことはない。妹紅も同じだ。ただ少しばかり老者と違い、妹紅の嘆く様子には恥じらいが無くて随分と子供じみていたが。
 一頻り涙して頬は冷え込み、その肌寒さに尚も泣き喚こうとした、その時だ。妹紅の宿りの扉が叩かれた。
 涙眼でそちらを見る。応答も待たず開かれた扉の、その向こうには、狼女が立っていた。
「こんばんは」と、角灯片手に会釈する。
「……あ?」
 妹紅はそいつを知っていた。確か竹林に棲まう、今泉影狼というルー・ガルーだ。
「何だよう、お前。何しに来たんだ」
「子供の泣声が聞こえた気がしたの」
 影狼は角灯の火を吹き消しつつ、戸横に置いた。
「知らないかしら。夜に泣く子供の家には狼が現れるものなのよ」と、この御時世にはどこか錯誤して聞こえる伝承を、影狼は胸を張って告げた。「中世からの決まりごとなの」
「……ああ、そう」頬の涙跡を隠さんと、顔を俯きがちに問う。「来て、何するつもりだ」
「そんなの決まってるじゃない。狼が来るわよって皆が言うのは『子供を泣き止ませるため』なんだから、私は最後に残った日本狼として、ちゃんと狼風にあやしたげるの。泣いちゃダメよって。泣き止まないと食べちゃうわよって」
 そう言いつつ、影狼は部屋を見渡している。泣いている、そのはずの、子供を探しているのだろう。そのスラリと通った長い鼻をヒクヒクさせているのは涙の芳香でも追ってのことか。
 やがて宿りに妹紅しか居ないことに気付いた彼女は、腰を屈めて相手の顔を覗き込むような姿勢を取り、そこで漸く泣声の主に気付いた様子で眼を丸くした。
「んまあ、泣いてたのは貴女?」
「煩いな、出てけよ」
 八つ当たりの色をなして、妹紅は周囲に散乱していた千切れ紙を投げつけた。
「なあに、これ」ヒラリと舞う、その内の一片を手に取り、眺める。「短冊じゃないの、綺麗な紙ね」
「慧音がくれたんだ」妹紅は小さく言った。「でも破っちゃったんだ」
「あらま、センセと喧嘩したの?」動く犬耳、逆立つ尻尾、その眼は更に真丸として。
「違う!」と、妹紅は咄嗟に否定して、結局すぐに哀しくなった。「まだ、違う……」
 喧嘩や諍いなど、あの心優しい慧音に誰が仕掛けるものか。妹紅は彼女の柔和な笑顔をこそ望み、その表情を歪ませるつもりなど毛頭なかったのだ。
 だがこのままでは『叱る』という行為に付する不穏な口元を慧音に強いることになる。慧音は誰かを叱る際には努めて怖い顔をして見せて、そのくせ酷く辛そうに唇を引き攣らせる。見る者が哀しくなる、怒りの歪みを呈するのだ。
 動悸がする。その唇と、眼と、あと数時間もすれば、妹紅は見合わねばならない。
「何だか大変そうだけれど」と、影狼が問うてくる。「相談が在るなら聞くわよ?」
「……別に」妹紅はプイと顔を背けた。「誰かに話して楽しいことじゃないし」
「そうね、その気持ちは分からないでもないけど、辛いことを解決して気分を楽にするための相談じゃないの」影狼は世情に長けた口上を告げた。半分狼のくせに。「それに、誰かに事情を話すことが思わぬ解決になることって結構在るわよ」
 そうまで言われて、妹紅は渋々と思念した。影狼に事情を打ち明けるべきか、否か。
 困窮の原因を提示することは、つまり恥を晒すことである。この場合、仮に影狼に相談したならば、一週間の時間的余裕が在りながらも和歌の詩路を見出だせぬ妹紅の才覚の無さを彼女に知らしめることとなるだろう。
 だが――そこまで考えてハタと気付く。それに一体何の問題が在ろう、と。
 妹紅にとって影狼など取るに足らない存在である。かくも卑賤な獣ごときがこの件で妹紅をどのように評価しようと、論おうと、いちいち気にするだけ損ではないか。
 もしも影狼が増長し、妹紅を不愉快なほど露骨に蔑むようであれば、その時は相応の仕置を、例えば『その艶めいた引火しやすそうな毛をアフロにして』やれば済むことだ。
 妹紅はそれができる。何ならアフロにする以上の懲罰も可能なのだ。
「良いさ、話すよ」妹紅は傲慢に告げた。「だけど莫迦にしたらアフロにするぞ」
「あらまあ、怖いわ」そう口では言いつつ、どこか戯れがちに影狼は微笑した。「アフロ、怖いわ」
 かくして妹紅は影狼に詳しい事情を話した。慧音に頼まれ和歌を作らねばならず、約束の期限は明日であり、されど未だ尚も完成に至らない、と言葉少なに情報を掻い摘んで。
「なら作れば良いじゃない」と、いかにも当然のことを影狼は提案した。
「簡単に言うなあ。詞藻を得るのは大変なんだぞ。何もないところから創り出すんだから」
「そうかもね。けど何もないから何もないって、それじゃ何もないままになっちゃうわ」影狼は唱うように告げた。「だから一緒に創りましょうよ、貴女がそう望むならだけど」
 予期せぬ正論と、その誘いに、妹紅は唇を尖らせた。影狼の言葉に多少ばかり利いたふうな生意気さを覚えたのだ。尤も、言葉自体に瑕瑾はない。なので黙って頷いてやった。
「まずはお題を決めましょうね。これは、そう、きっと誰もが好きなものが良いわ」
「莫迦を言うな、狼女。これは私の和歌だぞ」ここぞとばかりに語気荒く食って掛かる。「私が好きなものを詠むべきだ。皆が『美しい』だとか『輝くような』だとか、そういう持て囃されてるものは碌なもんじゃないんだ。経験からして」
「ふうん。なら誰もが好きなものだけど、貴女が一番好きって自慢できるくらいのものが良いわね。詩路は共感を生んでこそ、その感動を伝えることができるものだもの」
 一番好き、と影狼に言われ、妹紅は記憶を巡らせた。干し柿やら焼鳥やら好物が幾つか浮かんでくるが、これらを胸張って自慢できるかは怪しいところだ。少なくとも詩にしたいほど好きではない。
 慧音にだって『食いしんぼ妹紅さん』などと、きっと笑われてしまうだろう。
 ――と、その思路の流れに慧音の優しい顔が浮かんだ。
「慧音……」と、呟く。イメージの中の慧音は優しく笑い返してくれた。
「あら、センセを詠むの?」影狼は口元を朗らかに綻ばせて、その眼を三つ瞬きさせた。
「だって慧音のことなら、私、一番好きって自信あるよ」
「素敵ね。そう来なくっちゃ」
 影狼は犬耳をヒクヒクとさせながら次の段階に話を進めた。
「じゃあ次はね、その人について思い浮かぶことを五つくらい挙げてみるの」
「慧音のこと? 特徴とか、そういうのか?」
「頭の中に浮かぶ言葉で良いのよ。素直な感情を曝け出してみて」
 妹紅は中空を眺め、頭を一頻り巡らせた。結果、出てきたのが次の一言である。
「おっぱい」
「……ええ?」影狼の犬っぽい鼻が白んだ。
「おっぱいだよ。だって、そうじゃん。慧音って」妹紅は不貞腐れて告げた。「初対面の人が慧音を見たら、百人が百人、おっぱいに関連したことを最初に思うだろ」
「でもそれを和歌にするのは……ううん、まあ、まだ一つめだものね。次、行きましょう」
 箒でも払うように手と尻尾を振り、影狼は次を促した。
「えっと、優しいとかどうだろ」
「悪くないわね。次、三つめ」
「真面目。生真面目なくらい真面目。それと……色白だよね、結構」
「その調子、その調子。それで最後は?」
 工程の順調さに上機嫌となる影狼を前に、妹紅は思案の体裁を取らんとして腕を組み、眼を閉じた。そうして空想に慧音を見て、その抱擁を想い耽った。
 柔らかくて良い匂いがして、いつまでもそうしていたいくらいの時間であるのに、すぐに眠くなって過ぎ去って行ってしまう。ゆったりした慧音の愛情。
 妹紅がせがめば、慧音は厭わず抱きしめてくれるのだ。……尤も、これは特別というほどのものではなく、結局のところ妹紅が子供扱いされている証明で、寺子屋の洟垂れどもが同じことを望まば慧音は同じ抱擁を与えるに違いない。
 ともあれ、それだ。開設して間もないあの寺子屋が、まるで昔から在ったもののように里人に受け入れられているのも、きっと慧音の寛容な天稟に拠るものだろう。即ち――
「母性、かなあ」思念に熱中するあまり、思わず思い付きをそのまま口に出してしまう。途端に恥ずかしくなり、妹紅は赤面して顔を背けた。
「あら……」ところが影狼は軽く息を飲んで、心から感嘆するようにして告げた。「凄く良いじゃないの。最初の『おっぱい』には、そういうちゃんとした理由が在ったのね」
 果して、そうだろうか。妹紅は影狼の解釈に疑念を持ったが、彼女を見たところ随分と感じ入っている様子だったので、結局それを訂正することはしなかった。
 それに妹紅自身、影狼が好意的にそう解釈してくれて嬉しかったのだ。
「その『母性』を詠むのに『おっぱい』を使うのなら、まあまあ許容範囲かしら」
「……題材は慧音、テーマは母性」つまり彼女の、その崇高さを詠えば良いということ。
「ほうら、ね。何だかできそうになってきたでしょう」
 影狼が得意そうに胸を張る。お役に立てたかしらと言わんばかりの表情はお道化ながらも自慢げで、ふさふさの尻尾は喜色を隠さず揺れている。
 なるほど、この進展は彼女の手柄に違いない。妹紅独りでは和歌のテーマすら定まらず、あやふやな詩路を模索するばかりだったのだから。
 しかしそれを素直に認められない。自分の無能さの裏返しのような気がして憚られる。そういう愚にも付かぬ下らない性分なのだ、この、生きた歳月ばかり長い蓬莱人は。
 その気持ちを誤魔化すように、妹紅は口を窄めて息を吐いた。
「やってみるよ……もう時間も殆どないけど何とか作ってみる」
「やる気になってくれたみたいね」影狼は安堵に眼を細めた。「ああ、良かった。これで泣く子はもういないのね」
 一仕事を終えたとばかりに揚々と、影狼は安らいだアクビをしてみせた。夜遅くの時間であるものの満足げなその表情は彼女が自らに課す狼女としての責務を巧く果たせたことによるのだろう。
 かたや妹紅は邪悪にほくそ笑んだ。良かった、先程のが自己満足のためだったならば、わざわざ感謝を口にしてやる必要も在るまい。まま有耶無耶にしてやろう、と。
 そう身勝手に思念して、せっかくの謝意を封殺し、結局そのまま不遜に徹する。ただこの狼女の世故の才に通ずる特性が知れた以上、その利用価値を認め、今後は多少ばかり彼女に御用を向けるべきかも知れないと、それだけを思った。
 蹴飛ばした机を元に戻す。短冊も幾らか無事のを拾い集め、妹紅は筆を取った。
 冬の夜明けは早い、朝が来るまで後一時間。



 その日の寺子屋の盛況ぶりに最も安堵したのは誰に他ならぬ上白沢慧音であろう。
 そもそも彼女が参観授業を催したのは保護者の方々に寺子屋への理解を深めてもらうためであった。こと教育現場に立つ難しさは、子供を相手として保育するばかりでなく、その背後に居る親御への配慮も忘れてはならぬことに在る。
 親は子をいつだって心配している。この事実は教育者として何か思念すべき際に前提とせねばならぬ事柄だ。子供らを預かる者にとって、子供らの就学が如何に行われているか彼らに知らしめるのは最も大切な責任といえるだろう。
 ただ無論、参観授業を計画しただけで良いはずもなく、ことはそれほど単純には行かない。何せ、みんな働いているのだ。夫婦の共働きも少なからぬ幻想郷において、単なる授業を父兄参観と銘打っただけでは参加する者は極僅かであろう。
 そう予測した故に趣向を凝らし、慧音は句会を模した和歌の授業を企画した。
 人里に住む人々は殊更に『人間的』であることを望み、風流を好む者が多いとの通説である。だからこそそれを今回の父兄参観の出席率増加に繋げんとしたわけだ。
 するとなかなか効果があった模様で、ほぼほぼ全員から出席の内諾・履行を得ることができた。
 慧音は教壇に立ち、皆の持ち寄った和歌を読み上げながら黒板にそれを書き記していた。皆なかなか真面目に作ってきてくれており、授業の雰囲気は穏やかな熱意に満たされている。授業は成功の範疇に在るといえるだろう。
 だが、この成功の陰で、慧音の胸には晴れぬ暗がりが在った。確かに今日と知らせておいたはずなのに、妹紅が和歌を提出してくれなかったのだ。
 それどころか、ここ一週間ばかり顔を合わせていない。真面目に取り組んでくれているのだろうから邪魔したら悪いと、そう考えれば妹紅の宿りを訪れるのも躊躇われ、結局はズルズルと月日が経ち、期日へと至ってしまった。
 それでも慧音は『先に寺子屋で待ってくれているのかも』だとか『授業が始まるまでには来てくれるはず』などと、希望的観測を捨てずにいたのだが、どうやら授業はこのまま終わってしまいそうだ。
 残念だな、とそう思う気持ちが無いはずもない。子供達にもゲストの存在を仄めかしていたが、妹紅の和歌を誰より楽しみにしていたのは、きっと慧音自身だったから。
 それに、妹紅がこの参観授業に参加してくれれば、妹紅は子供達やその親と僅かなりとも接点を持つこととなる。だから誘った。妹紅のように、やもすれば孤独に陥りがちな蓬莱人には人との関わりが最も重要なはずだ。
 それがこのような形となってしまったのは、彼女と自分の不安定な関係に楽観性を持ち過ぎたのかも知れない――そんな自嘲の苦笑を漏らしつつ、慧音はチョークを書き鳴らした。
 授業は中程まで進んだ。総ての和歌が黒板に書き記され、いよいよ品評会の体裁を取り始めたその時、教室の扉がガラリと開かれた。駆け込んできたのは白髪の少女、妹紅だ。
「慧音――せんせい」と、肩を上下させて荒く息づきながら、彼女は慧音を見た。
「やあ、やあ、妹紅さん」思わず震え上がりそうな喜びを堪えつつ、慧音は微笑んだ。
「ん……」満座の注目を浴びている。それに恥じらってか頬を上気させ、それでも妹紅は慧音の元へ歩み寄った。「これ」
 蚊の鳴くような声で差し出されたそれは、見紛うはずもない、慧音の渡した短冊だった。
 俯きがちな、どこか和歌を提出することを面映ゆく思っているが如き逡巡を、妹紅の表情に見た慧音は、これは余程に苦労して書かれたに違いないと早々に合点した。
「あの……遅れてごめんなさい」
「いいえ、いいえ、構いませんよ妹紅さん。ちゃんと忘れずに来て下さったんですから」
 心からそう告げると、妹紅は憂う顔を蕾の開くようにさせて笑った。
「良かった」と、その表情はまるで子供のようで。「遅刻したから叱られちゃうかもって、本当は不安だったんだ」
「おやおや」慧音は苦笑した。「私に叱られることなどを不安に思いますか、妹紅さんは」
「そりゃあね。そりゃあ、慧音先生に叱られるのは怖いさ。同じだよ、皆と」ちらり、と。妹紅は生徒らを見やり、呼びかけるようにして告げた。「皆と、同じだものね」恥ずかしそうに、されど淡く主張するように。
 年上で、どちらかといえば美人さんの、あまり面識がない少女に語りかけられた子供らは始めこそキョトンとしていたが、すぐにその分かりやすい提示を理解し、磊落と笑った。
 突如の闖入者への警戒心を僅かにも和らげようとした、妹紅なりの配慮なのだろう。
 そのまま慧音は皆に妹紅を紹介した。保護者も含め、彼らからの反応は決して悪くない。
 そもそも妹紅は迷いの竹林に通じた案内役として人里の者達と繋がりを持っており、天才薬師の元へ赴く病者やその家族らに危険が無いよう先導してやっている。
 その恩恵を受けた者は、きっとこの中にも幾人か居るだろう。彼らの好意的な視線を受け、そのコミュニティに溶け込ませてもらう、その下地はとうに在ったのだ。
 この授業への参加が双方の架け橋というか親和の切掛になれたのであれば、これ以上のことはない。慧音は眼を細め、掌中の短冊を指先で慈しみ撫でた。
「では早速、妹紅さんの和歌を読んでみましょう」
 慧音は勿体ぶって居住まいを正し、漸く短冊に視線を落とした。
「あかねさす、君の――」と、そこまで読んだは良いが、続く単語に戦慄する。読もうとする言葉の流れを咄嗟に呑み込み、喉を鳴らす。両眼を瞬かせて尚もその文面を疑う。
 短冊には次のような和歌が書かれていた。

【あかねさす 君のおっぱい でっけーね 糸や藁かの しま日待(ひまち)なし】
(訳 仄かに赤らんだ慧音の胸は何と大きいのだろう。糸や藁で乳をしまう襠(衣服の布幅の不足を補う布)も覚束ないそれは、いと柔らかそうな(海原に突き出たような)島のようで、こちらは朝まで辛抱できやしない)

 肩が、胸が、ぶるりと震える。猥歌ではないか、これは。
 素頓狂というか、悪ふざけというか、筆舌に尽くしがたいこの和歌に対し、如何に教壇では駘蕩を心がけている慧音とても、如何な表情をすべきか分からなかった。そもそも妹紅が何を考えているのか欠片なりと理解できない。一体、何だというのだ。ついさっきの優しいお姉さん然とした生徒達との対話は何だったのだ。この和歌とて、幾らか技倆が凝らされていようことは分かるが、子供らの前でかくも色めいた和歌を提示するつもりだったのか。参観授業という、その日に。
「君の、君の――」慧音は殆ど周章しつつ思念した。
「慧音?」妹紅が小首を捻っている。
「君の、君の――瞳に、映る、身に」即興である。とかく場を整えねばならぬ。「千幾百の、ほだをぞおもふ」
「え?」妹紅が眼を円らにする。だがそれに構ってはいられない。
 慧音は子供らと保護者らを見回した。
「皆さん、幻想郷縁起を読まれるなどして既にご存知の方も多いでしょうが、これなる藤原妹紅さんは蓬莱人として長い星霜を過ごされてきました。この和歌はその歳月を詠んだ歌で在りましょう。では、この『ほだ』の意味とは?」
 誰に問うでもなく口早に告げると、慧音は黒板に向き直り、手に持ったチョークで『榾』という単語を書き記した。
「榾は『冬の季語』で竈や炉に用いる焚木のことですね。これを修辞する千幾百とは、榾それ自体の本数ではなく、榾を用いた冬の数を表現しており、つまり長い歳月を生きたことを描写しているのです」
 次いで、その隣に『絆される』という言葉を書く。指先に妙な力が入り、書先がぶれてしまいそうになるが、塗り絵でも弄ぶようにチョークの筆数を増やして誤魔化す。
「それと同時に、『ほだ』には絆という意味が付随しています。長い年月を過ごした妹紅さんには数限りない、それこそ千幾百では済まないくらいの、様々な絆が在ったことでしょう。その大切な想い出が秘められています」
「掛詞ですね、先生」一人の少女が挙手してハキハキと発言した。「それらを掛け合わせてみると、妹紅さんが私達にその生い立ちを打ち明けてくれているような奥ゆかしいメッセージを受け取ることができます」
「そうですね、その解釈に心から同意します」慧音は平静ふうに微笑み頷いた。「それとこの和歌にはもう一つ技法が用いられていますね。それを分かる人はいますか?」
「はい!」発言した少女の、その隣りに座る少年が元気よく手を上げて答えた。「『あかねさす』は『君』の枕詞です」
 慧音は頷いてみせた。必死に、その場から逃げ出したい衝動を堪えながら。
「大変良く勉強していますね。枕詞は日本古来のトポスであり、和歌を深く嗜む上では枢要となる、謂わば定石と云えるでしょう。では他にはどのようなものが在るのでしょうか。保護者の方々の和歌を参考として皆で枕詞を探し――」
「先生」と、保護者の一人が手を挙げた。先の少女の父親である。「質問が在ります」
「何でしょうか」ドギマギしつつ、早く話頭を別の和歌に移したいその一心で促した。
「この『あかねさす君の瞳』という一節の『君』とは誰のことでしょうか」
 その何気なくも揶揄めかした、質問者も応えを薄々と勘付いているだろうその質問は、慧音の忘失一歩手前な精神を恥じらいの極みにまで追い詰めた。
 君とは複数に向けてではなく一個に用いる単語である。なのでこの和歌は『我々』というよりも『貴女一人』に向けてのものでは在りませんか、と。彼は暗黙裡にそう言っているのだ。
 その指摘に、元が自分の乳房を詠った猥歌であることを知る慧音は必要以上に動揺した。まるで短冊の本当の中身まで、いみじくも、見透かされてしまったような気持ちになった。
 血潮という血潮が総て脳天に達したかのような、頬の血化粧たるその紅潮に、理性は無秩序となり混迷して周囲がくるくる回っている感覚に陥った。
「眼が赤くなる御仁ってのは限られているでしょう。私が察するに、この和歌は特定の者への恋歌として見てこそ真価が――先生?」どこか軽口めかした質問のその語尾が、それこそ茜さしてしまった慧音の表情に困惑して萎んだ。
 この和歌をとにかく隠さねばならぬ、と。慧音は辛うじて思い至ることができた。
 この和歌が公表された場合、所詮、慧音は猥歌のモデルとして一時の恥を得るに過ぎない。だがその一方で詠み手たる妹紅はどうなるか。時や場所を弁えず色欲を詠う尾籠なる痴人として皆にレッテルを貼られてしまうのではなかろうか。
 妹紅の立場を護らねばならない気持ちが慧音に羞恥のそれ以上の切迫感を与えた。故に咄嗟に、これは殆ど錯乱の作法であるが、公衆の面前にも関わらず短冊を口に『隠して』しまったのだ。
 もしゃり、もしゃ、もしゃ、と。その恥ずかしい短冊を口に運ぶ。
 薄らと眼に涙すら溜めながら短冊を咀嚼する女教師の姿に人々は何を想っただろうか。
「わあ! 先生が短冊食べた! 先生が短冊を食べたぞ!」
「慧音先生、実は山羊だった説」
「お父さん、酷いじゃないの!」
「いや、俺はただ祝福する方向に持っていこうと……」
 慧音の混乱が伝染したものか、教室は大混乱となった。
 しかし周囲が混乱してくると、却って当事者としては意識が戻ってくるもので、慧音は間もなく我に返った。そうして授業の最中に巻き起こった大騒ぎを呆然と眺め、軽く歯を食い縛った。
 自分の教師としての未熟さを省みる。このまま放置してしまえば、もはや収集が付かなくなるだろう。そう決断するや否や、慧音は黒板をバンと叩いた。衆目を集めるためだ。
 その叩いた場所が『絆される』と書かれた場所であったことは何らかの因縁が在ってのことか知れぬが、ともあれ人々は教師の奏でた消魂しいアピールに眼を向けた。
「授業を続けましょう」いかにも何もなかったとばかりに慧音は微笑んだ。
 ぴたり、と喧騒が止んだ。人々の態度が先程までよりも何気なく鹿爪らしくなるが、もはや慧音がそれを和らげることはない。授業だ。ひたむきに授業を行わねば。
 かくして参観授業は差し障り無くスムーズに進み、無事に終わった。

 妹紅は、逃げた。



 ひとまずの盛況裡に授業参観を終えた、その晩のこと。慧音は宿りにて独坐していた。
 小窓からは月明かり、その黄金色した光筋を眺め辿れば、遥か上空には陰りなき望月が現れていた。絶対的な、その神性に遍満した顔貌は、得も言われぬ芳香を彷彿とさせる。運ぶ夜風は南東だった。それはミルクセーキに類似した甘い匂いで、ずっと距離が離れているはずの満月の匂いとしては幻嗅じみていたが、それでも実際何より如実である。何せ、それは慧音自身がとうに渾然となって放っている香りであったから――。月に一度の満月光は慧音の自我を恍惚とさせ、彼女は既にその身を白澤に変化させていた。その姿となったからには、本来ならば急ぎ歴史書の編纂作業に向き合わねばならぬのだが、この夜の慧音はすぐさま仕事に入るでもなく、物憂さに浸る所作で、座卓に肘を乗せたまま沈思に耽っていた。
 絶対的な編纂への情熱が今宵ばかりは紙魚に食われたような気分だった。拭おうにも拭い去れぬ蟠りが累積し、こと不明瞭な感情が目先に在ろう小康を徹底的に阻害する。
 千々に乱れた心には寺子屋の姿が浮かび、個々の子供らの顔が浮かび、また一際大きく妹紅の後姿が浮かんだ。……この『後姿』というのはつまり、彼女がどんな表情をしているのか、この期に及んですら見えてこなかったのである。
 そもそも。その夜が満月だったことは、慧音にとって、如何なる意味を持っていたか。
 原由は寺子屋の現状に所以する。寺子屋システムは表面上こそ支障の無いように見えるものの、社会的立場は決して盤石なものではない。何せ人里には反妖怪主義者が居る。慧音が寺子屋を創設する、その動機となった者達だ。
 この閉鎖された幻想郷という世界で、彼らは意固地なまでに『人間的』であることを渇望し、そのくせ歴史文化の源流を探るでもなく、却って人間たる本性をすら超越しようとする。彼らは、当世の幻想郷に生を受けた人間は皆、妖怪を迷信とさせぬための怖れを『提供する者』でしかないとして、その人生に憤懣を持っているのだ。実際には決してそれだけの存在ではなく、慧音はそれをどうしても彼らに知って貰いたいのだが、妖怪に不信の在る彼らは半妖たる白澤をも忌避している。彼らにとって、慧音は人間牧場の一管理者であり、寺子屋は憎悪すべき洗脳施設でしかないのだろう。だから如何な矮小な醜聞とて、いったん彼らの耳に入れば、それを材料に明日からでも寺子屋の排斥運動が開始されるに違いない。
 幸い、今は人間達の間でも慧音の寺子屋活動を支持してくれる者が多く、その世論との兼ね合いも在ってか息を潜めているが、マイノリティー故の鬱屈に、却って極端な行動を取らぬとも限らない。それも、慧音を狙ってくれるのならまだ良心的なのだ。妖怪と融和する者達として寺子屋に通う子供らをターゲットとした、それこそ外界のチボクを模した襲撃が起これば、それは慧音がその命で幾度とも贖おうと足りぬ悲劇となる。
 これは思想の問題だ。相手を無理に捕まえて喝破しても意味が無く、長期的に慧音の理念を浸透させていく必要がある。そのためには波風を立てぬ駘蕩な、口悪しく言えば事なかれな、敵を作らぬ活動を続けて行くほかない。
 だからこそ満月の日に大切な参観授業を計画した。仮に参観授業が失敗してしまったならば、それが後々に瑕瑾として残らぬよう『隠す』ことができるように。
 なるたけ失敗したくはない。それが慧音の心情であり、寺子屋の実情だ。
 だが、あの授業が失敗として扱うべき内容であったのか否か。それが分からない。
 喧騒が在ったのは事実だ。臭いものには蓋と考えれば『食べて』しまうことこそ無難かも知れない。つまりあの授業を食べてしまい、慧音が即興に詠んだあの和歌こそ妹紅が持ち寄ったものとして歴史を『創って』しまえば良い。
 単に食べただけならば歴史は空白(無何有)となるだけで、授業出席者の知覚を惑わすだけに過ぎぬ。だが代わりの歴史を創ってその空白に嵌め込んだならば、人々はその改竄が事実であったかのように錯覚することになる。
 例えば仮に妹紅が『子供らと仲良くやれた』という今日の物語を捏造し、歴史として創ってやれば、明日から妹紅と子供らは慧音の筋書相応に振る舞うことになるだろう。
 この無何有化および世界再生の一連が白澤の奥義『無何有浄化』だ。使用上の注意は数限り無く、用途を誤れば幻想郷が破綻しうる。断固とした規程の下で行わねばならない。
 果して今回の場合は使用適応に則っているのか、よくよく熟慮が必要だろう。これから訪ねて来る、そのはずの御仁を待ち、真意を質したその上で食うか食わずか決めようか。
 若菜色したモコモコな尻尾を上下にパタ付かせながら、慧音は彼女の顔を思い浮かべて幽愁の溜息を吐いた――その時だ。宿りの扉がノックされた。
「どうぞ入って下さい」と、慧音はそう言って、末尾に付け加えた。「叱りませんから」
 その呼びかけへの僅かな逡巡、そうしてドタバタと慌てふためく雑音。慧音は相手を半ば確信したが、カラリと開かれた引戸の向こうに立っていたのは妹紅ではなかった。
「夜分にどうもこんばんは、センセ」
「……こ、これは、こんばんは」意図せぬ来客に、またその姿に、慧音は眼を丸くした。
 竹林の狼女だった。慧音と同じく半獣の区分に入る妖怪で、子供好きという点において多少なり面識が在る。かといって突然の来訪を受けるほどの仲でもないのだが、それより慧音を驚かせたのは、そのヘアースタイルに付いてだった。
 彼女はチリチリのアフロになっていた。その犬耳が辛うじて確認できる程度のジャンボ・ボンバーヘアだ。しかも妙に焦げ臭いような、煙すら消えきっておらぬような。
「どうなさったのですか」なるたけ失礼がないように問う。「えっと、その大胆な髪型は」
「色々と在ったもんで。こんなんされちゃって」そう言いながら、影狼はここまで持って来たらしい背後のローズ・ピアノを振り返りながら問うた。「ここコンセントって?」
「いえ……申し訳ないのですが、ここは電気が通っておらぬ建物でして」
「ああ、大丈夫よ。バッテリー使うわね」
 じゃあそっち持って、と掛声して、影狼がローズ・ピアノの端を持って構内に入れる。
 その反対の端を持っているのは、黒スカーフを深々と口元まで巻いて白と赤のワンピースドレスを身に纏った少女だった。影狼の普段着と同じ服だ。その白髪の中に犬耳が揺れているが、どうやらヘアバンドに飾り耳が付いたものらしい。
「……何をなさっているのですか、妹紅さん」
 そう呼びかける。すると妹紅?はビクリとしてキョロキョロと辺りを見回した。
「他人のふりなどするものでは在りませんよ。ここには私と貴女と影狼さんしかいません」
「あ、あっしのことなら」と、彼女は告げる。わざとらしく声は些か低めだ。「妹紅さんじゃないでがんす。あっしは影狼の妹の今泉モコ狼でがんす。宜しくお願いするでがんす」
「ちなみにアフロの私は今泉カギー・プレストンでがんす」と、影狼も悪ノリしている。
 これまた持ち寄ったらしいバッテリーにコンセントを繋げ、影狼はキーボードの電源を入れた。そのまま右手で鍵盤に触れると得も言われぬ電子音の調べが響く。
 上機嫌に彼女は手首をクイクイとさせ、妹紅に合図する。妹紅は手拍子を始めた。
「ええと、何を?」一切の説明なく構成され行く状況に、慧音は間の抜けた声を出した。
 アップテンポな導入、BPMにして二百五の軽快かつ親しみの在るムジークと、影狼のノリノリな「ワオン!」とのシャウトが混ざり合う。やがて彼女は独唱を始めた。
 歌詞は英語。慧音とて外来の曲に詳しいわけでもないが、これは確かアフロをトレードマークとした歌手の楽曲であったような……と、耳をつんざく喧しさに、慌てて我に返る。防音などと立派な機能がこの宿りに在るはずもない。
「ちょ、ちょっと待って下さい」リズム、音色、積み重なったミュージックの勃興に、慧音は慌てふためいた。「今は真夜中です。近所迷惑になりますよ!」
 アフロを振り乱しながら、影狼は渾身の喉を奮っている。その様子はもはやジャズ・シンガー、黒人霊歌を跳躍させたその音楽は今やブラック・オパール。指先の鮮やかなタッチと相俟って、真夜中の閑静な人里がまるでコンサート会場だ。
 全く何のつもりか。慧音は困惑して妹紅を見るも、彼女もまた諧調なハンドクラップでセッションに参加している。汗だくに、その白い長髪を振るわせて、彼女の意識は殆んど虚ろだ。到底、慧音の質問に応えてくれそうな雰囲気ではない。
「とにかく静かにして下さい。何を意図してかは分かりませんが夜中に騒がれるのは困りますよ」
 それでも歌は止まらない。キーボードはメロディを奏で、マイクロホンを無用とする狼の矜持そのものな轟然たる吠声が、いみじくも総てを吹き飛ばす精気となり、ほどなくして慧音の小さな宿りを破裂させてしまいかねぬほどのエナジーを構成し、その挙句には爆発的なリズムを通じて数秒ごとに弾けていた。而してプレストンの魂は聴覚上の偶像として象られ、膨らんでは圧し、膨らんでは穿ち、膨らんでは放たれ、膨らんでは総てを包み込もうとした。
 だがそんなことは家主にとって関係がない。ちいとも分かってくれない影狼と妹紅に、慧音は段々と腹が立ってきて、遂には厳然と言った。
「静かにして下さい。私は今、二度言いましたよ。三度目は在りませんよ」
 慧音の断固とした最終宣告に、妹紅の手拍子がぎこちなく緩まった。こちらにチラと恭順めかした視線をくれる。これには慧音も、ちょっとだけ、頷きを返してやった。
 その一方で、ルー・ガルーときたら止めるつもりなど毛頭ないようだ。それどころか音量は弥増す一方で、そろそろ近所の誰かが様子を窺いに来てもおかしくはない。
 すわ、仕置せねばなるまい。そう断ずるや、獰猛で好戦的な白澤の血が拍動した。
 慧音は唇を引き攣らせつつ跳躍し、影狼に中空からの頭突きを見舞った。前額部を相手の側頭に叩き込み、抉るようにして相手の犬耳を潰す。ワオン、と奇声を上げながら影狼は立ち眩んだ。膝から崩れる、その俯き加減の後頭に掌底打ちの追撃、また流れるような側頭へのパントキック、肉の爆ぜるが如き打音。狼女は白澤の重量な連撃を食らい、受身を取る余裕すら失ったらしく、そのまま三和土に頭から弾んで沈んだ。もうピクリとも動かないが、きっと改悛したに違いない。
 慧音は次いで妹紅を見る。妹紅は髪の毛を逆立てて逃げようとした。
「妹紅さん!」慧音の根の強い呼び声。妹紅の足が竦んで止まった。「こちらへ」
 慧音は愛用の座卓へと歩み戻り、そこに正座すると、その傍らに座布団を敷き、そこをポンポンと叩いた。お座りなさいの合図だ。
「でも、でも、だって、さっき叱らないって――」
「お話が在ります」妹紅の怯えきった口上に被せて、慧音は断じた。「聞いて頂けますね」
 妹紅は肩を落として悄然と、もはや観念してか口周りを隠していた黒スカーフを脱いで大人しく座布団に座った。露わになった可憐な唇は真一文字にギュッと結ばれている。
「妹紅さん、今宵の私は少しだけ怒ってます。どうしてか分かりますか」
「夜中に騒いだから?」鼻をすする、妹紅。半ば、べそをかいている。
「それも在ります。在りますが、それよりも先に、私に話すべきことは在りませんか」
 自分の犯した失敗に気付いておらぬはずもなく、妹紅は堰を切ったように釈明を始めた。
「違うの。違うの。私じゃないんだ。悪いのは全部そこの狼だよ。そいつが『慧音先生を歌に詠むなら、あの自慢のおっぱいでしょ。きっと慧音先生も喜ぶわ』って唆すから、私……悪い狼に騙されて……」
 妹紅はその眼に涙を浮かべながら告げた。
「さっきの歌もそうだよ。今日のことであいつを責めたら『怒ってるなら機嫌を取りましょう、歌とかで』とか印度映画みたいなこと言い出してさ。でも自信在りげだったから、つい――ごめんなさい、慧音」ホロリと、その頬に涙が溢れる。
 清きに輝く謝罪の涙に、怒りは萎み愛おしさが勝り、慧音は眉尻を下げて首を振った。邪が無いというか人を疑うことを知らぬというか、彼女は何と騙されやすいのだろう!
「それでもです。それでも妹紅さんに責任は在るのです。そうもおかしな戯言に騙されてしまうなど迂闊では在りませんか。仮にあの場にて、私が何を躊躇うこともなく、あの和歌を読んでいたらどうなったと思いますか」
「恥かいてた。私、皆の前で」鼻声に、妹紅が告げる。「ありがと、慧音」
「一時の恥だけで済めばまだしも良いのです」慧音は嘆息しつつ告げる。「殆どの生徒らとは初対面だというのに、妹紅さんは皆に誤った印象を植え付けてしまうところだったのですよ。反省せねばなりません」
 悄然と、妹紅は項垂れた。前髪に眼元が隠れ、白い歯に潰された薄桃色の下唇は痛々しくも憐れだった。
 慧音は説諭の態度を解いた。そうして『それ』を聞くか聞くまいか多少の逡巡を挟み、それでもいずれは明白にせねばならぬことと思念し、日中の和歌の真意を問うた。
「とにかくです。ならば、あの艶めいた和歌は妹紅さんの創作で間違いないのでしょう? どうしてあのような、その、赤裸々な和歌を?」
「どうしてって言われても……」妹紅は身を小さく縮こまらせつつ応えた。「あれは私の心情をそのまま詠ったものだよ。柔らかくて、私は、慧音が一番好きなんだ」
 一番好き、との妹紅の言葉に、慧音は頬を淡く紅潮させた。ウブな聖職者を気取っているわけでもないが、涙混じりの真に迫る声にそう言われると妙に頬が火照ってしまう。
 そんな慧音を尻目に、妹紅は懸命な訴えを続けた。
「慧音の柔らかさを感じてる時、私は何も怖くなくなるんだよ。自分の運命とか、過去の罪とか、そういう逃れようのない狂気から開放されるんだ」
「妹紅さん……」
「慧音に会う前まで、私は殆ど抜け殻だった。でも今は違う。今は少しづずだけどマシになろうと頑張ってる。慧音の、その胸の中で、私は『本当の意味で』生まれ変われたんだ」
 胸の中、という単語が妙に力強く聞こえた気がした。それを裏打ちするように、つと顔を上げた妹紅の、ふわり逸れた前髪から覗いた両眼には覚悟の色相が輝いていた。
 さながら山猫の如く、妹紅が慧音に飛びかかる。その予感をこそ慧音は察していたが、彼女が自身の懐に滑り込むのを制することができなかった。多少なりと慧音がここで抗えば妹紅への拒絶として受け取られてしまいかねない。
 まるで枕にでもなったつもりで、慧音は妹紅の抱擁を受け容れた。
 妹紅は慧音の前でのみ随分と甘えっ子な本性を示す。これまでも無邪気な抱擁を彼女が慧音にせがむことは多々在った。今の『これ』はその延長線上を辿る暴走とも見做すことができようか知らん。
「慧音、お願い。許してくれなんて言わないから、どうか、私を拒絶しないで」
「まずは落ち着きましょう」早鐘の如く鳴る胸の鼓動に煽られつつ、慧音は平静を装い告げた。「今宵は満月です。毛深き私は汗臭くありませんか」
「どうでもいいよ、そんなの!」殆ど叫ぶように妹紅が言った。「慧音の匂いだもの!」
 自らの乳房に突っ伏す妹紅の背があまりに震えているものだから慧音は手を回して優しく撫ぜてやった。するとその震えは次第に収まって行き、安らかな弛緩が残った。
 妹紅が乳房に頬擦りする。普段ならば微笑ましく受容できようその行為に今宵ばかりはどこか心ざわめかせる淫靡な想起が在る。この蓬莱人の、かくも人懐っこい暴走などは、とうに慣れっこだったはずなのに。
「やっぱり慧音は柔らかいね。それに凄く良い匂いなんだ。凄くだよ。すごおく」
 妹紅が至福げに呟いた。憑き物の落ちた声音、つい先程までの恐慌が嘘のように。
 無造作に投げ出されたその身体は無防備で、よく見れば肩口まで覆うはずの着物がしどけなくも肌蹴ていた。狼女より借りた服は妹紅の適正なサイズよりも随分と大きかったらしい。その両肩は白く儚げで、また嫋やかな曲線の集合体だ。
 背を撫でている手を少しずらせば、そのぶかぶかなワンピースは青くも美しきその肩線に従い、はしたなくも脱げ落ちて、ここに素裸の少女が現れることだろう。
 まさか、これが、誘惑とでもいうのだろうか。慧音は妹紅の汗ばんだ体臭に扇情の欠片を嗅いだ。彼女がそれを望むのであれば慧音には是非もない。ましてやどうして拒絶などするものか! 慧音とて妹紅が『一番好き』なのだ。
 正気と劣情の狭間、慧音は乳房に忍び入る妹紅の安息の息吹に別の色彩を見ていた。
 ――ところが。妹紅の次の台詞が慧音の認識を大いに正すこととなった。
「すぐに眠くなっちゃうもの。歌にも書いたけど朝まで我慢できないよ」
「……え?」
 何気ないその妹紅の言葉に、慧音は唖然とした。一瞬、妹紅の言葉が何事を意味するか、頭を整理するのに時間がかかった。認識の齟齬、妹紅の意図と慧音の読解の乖離。
 元々、慧音があれを猥歌と認識したのは『おっぱい』という単語に尾籠を見たというよりも、その後の『日待ちせず』という一節に解釈の重きを置いたためであった。
 日待ちとは正式名称を庚申待と呼ばれる風習であり、庚申の日に神仏を祀って一徹をなす、謂わば昔ながらの年中行事だ。元々は遊興の意味も在ったとされる。
 慧音はその『日待ちせず』を『夜を通して神々に祈ることなどできない。それくらい切迫した情念を催させるのだ、貴女の胸は』と認識した。――冷静に顧みれば発想の飛躍だ。
 妹紅の先程の発言を鑑みると、実際には日待ちという単語を単純に『徹夜』という意味で用いた、つまり『貴女の胸は柔らかくて眠気を誘う。とうてい朝まで起きていることなどできない』という意味合いだったらしい。
 心地悪い脂汗が背筋を流れる。何の事はない。先程まで妹紅の肢体に見られた色鮮やかな欲情は慧音の情念を映した鏡であり、即ち、一番の助平者は自分だったのだ。
 寝息。慧音が胸元を覗き込むと、妹紅は既に寝入っていた。無垢に、安らかに。
 かくも純情な少女と痴態に興じようとしていたのだ。純な慕情を肉欲と勘違いして。
 全身の血潮が凍てつき、興奮の体温を奪う。慧音は自己嫌悪への沈鬱を紛らわせるよう、彼女を弥強く胸に抱いた。かなり力任せな懐抱だったが彼女は心地良さげな寝言を口遊み、覚醒の素振りさえ見せなかった。
 天使の午睡とはかくやとばかりの情景を乳房に負いつつ、その薄皮一枚隔てた胸下には露呈した醜悪な穢れが脈打つ。純真と汚穢の板挟に慧音は懊悩し、良心か偽善かも知れぬ涙に眼を潤ませ、とうとうその白澤の口を捻り開いた。
 決意ではなく失意がためだ。精神の荒廃がまま、その虚ろ気な意識の中で、雌牛の啼泣の如く開いたその口は世界を吸い込み、幻想郷を仔細構わず貪婪に咀嚼しようとした。空気が捩れ、次元が歪み行く。破滅は何の音をたてることもせず、ひたすらしじまを広げていくばかりだ。豊穣たる幻想郷の広大な世界は矮小な女教師の狭量な自我の崩壊に巻き込まれ、混沌は倏忽にして儚くも真白な無何有へ否応なく帰結する――。
 クシュン、と。そこで一際大きく、崩落への筋道に横槍を入れるくさめが響き渡った。
「――ああ、冷えるわねえ。満月の夜は毛皮で暖かいけど、今当節、土間に転げたままでいるのは辛いわ」と、声高なその独言は白澤の耳を爪弾かんとしてか。やがて直接な呼びかけに至った。「ね、センセ。その子は眠ったかしら」
「ッ……」咄嗟に、我に返りて口を強く閉じる。慧音はそちらに顔を向けた。
 見れば、アフロの狼女がけろっとした顔でその場に立ち上がるところだった。
「どうにか仲直りできたみたいね」影狼は体に付いた三和土の砂埃を払いながら告げた。「ああ、良かった。これで今度こそ泣く子はもういないのね」
 唖然とする慧音を尻目に、影狼はローズ・ピアノおよびバッテリーを淡々と片付け始めた。何事も無かったかのように電源コードをリールに巻き付けている。
 慧音は暫らくボンヤリしていたが、やがてぶるりと後追いの寒気に襲われた。ただ一時の激情がために、とりかえしの付かぬ災厄の幕を上げようとしていた、その自覚だ。
 先程の慧音は前後不覚のまま世界に手を加えてしまうところだった。もしもあのまま、この狼女の『待った』に等しいくさめが無ければ、どこまでか知れず、悪ければ幻想郷全土を無何有化してしまうところだった。
 影狼はその意味で慧音の恩狼であろう。何気ない顔をしているが、あのタイミングだ、彼女は起きていたに決まっている。そうして愚かしい雌牛の身勝手な暴走を止めたのだ。
 だが、と慧音は訝しむ。大本はこの狼女が悪いのではないか。彼女が妹紅に妙な詩路を示したがために、慧音はまさしく厄日とするに相応しい一日を過ごすこととなったのだ。
「……妹紅さんが」と、慧音は多少の義憤を込めて切り出した。「大変お世話になったようで」
「私は一族に伝わる『存在意義』を果たしただけよ」影狼はちらと眼を向け、その大きな口を微笑させた。「子供らのためになるのなら時に狼は悪者にならなければならないの」
「……意図は知りかねますが、とかく純粋な少女をからかうのは止めて頂きたい」
「泣き止んだのでしょう」影狼は悪びれずに告げる。「子供の安らかな寝顔に勝る幸福は無いわ。ルー・ガルーは誰よりもそれを知っているのよ」
 その飄々として尚も堂々とした態度に、慧音は困惑した。
 妹紅は彼女こそ自分を誑した悪い狼であると訴えていた。真偽はどうあれ、それに言及されたならば否認だの狼狽だの相応の反応を見せて然るべきではないか。
 なのに彼女は落ち着き払っており、そのくせ悪徳じみた開き直りの言い訳を一切口にしなかった。さながら慧音の叱責など歯牙にもかけぬと言わんばかりに。
「誰にどう思われようと、どう利用されようと構わない。孤独には慣れているの」視線を降ろして作業に戻り、影狼は言い聞かせるように断言した。「総ては子供達を泣き止ませるためだもの」
 なるほど確信犯というわけだ。大人しいと伝聞される今泉影狼の知られざる側面に、慧音はもはや追求の言葉を失った。
 確かに、彼女は自分自身の信念を全うしているのだ。さもなくばこうまで公然としては居られまい。或いはその姿勢はたった一匹残された日本狼としての矜持やも知れぬ。
「それより、ね、センセ。私としては、どう転んでも素敵だったと思うのよ。貴女達は相思相愛なんだもの」
「それは――その、止して下さい」恥ずかしさがぶり返し、慧音は小さく身を縮こまらせて首を振った。「後生です。何も、何も仰られないで」
「あらそう……まあ、センセが今日のことを失敗と思ったのなら今後は気をつけなくちゃね。誰かさんは言ったものよ。『人は過ちを繰り返す』って。ご用心、ご用心、その歴史を輪廻させないように」
 影狼はバッテリーを懐に納め、ローズ・ピアノを括り紐にて背負い、軽く会釈した。
「ではね、センセ。他のおうちが助けを必要としているわ」そうとだけ言って、影狼は行くべきところへ向かって出発した。狼のフサフサな尻尾を上機嫌に振りながら。
 残された慧音は眉を潜め、思念した。彼女は今わざわざ『歴史』に引っ掛けて去り台詞を残した。ならば『知識と歴史の半獣』たる白澤慧音に何か作意が在ったに違いない。
 この世界で幾度となく哀しみが繰り返されるのは、大抵の場合、その失敗を糧とせず等閑にしたためだ。それを踏まえて考察するに、これは彼女なりの白澤への忠告だろう。
 今日の恥を隠すな、いずれまた繰り返してしまうぞ、と。
 安逸に食べることは、その意に依らずして、周囲の者達に失敗を忘れさせる。その隠した事実は安堵を生み、本来の反省すら隠れてしまう。遂には慧音自身が歴史を見失い、いつしか同じ失態を繰り返してしまうかも知れぬ。
 元より白澤の無何有浄化は万能ならず、それは一手のミスで世界を崩壊に導く。諸刃の剣と心得ねばならない。――分かっていたはずだったのに、そんなことは。
 かくも厳格に考えてみれば今日の授業での混乱くらいで使うなど乱暴なのだ。寺子屋の存続と結びつけて体裁をこそ整えていたが、その実、慧音が恥をかいただけなのだから。
 畢竟、慧音の不徳という事実に収束するだろう、今日の惨憺たる全ての出来事は。
 ともあれまさかその心弱さを指摘されてしまうとは。
 あの狼女は余程と俗世の生臭さを把握している。蓋し、歴史を深甚と身に刻んで来たのだろう。そうして稠密なる教訓を、もしくは忘れ得ぬ悲劇を得たのだろう。
 だからこそ彼女は今尚も生き永らえているのだ。
 影狼が帰属していた日本狼はもう外界では絶滅してしまったと云われる。忌まわしき歴史を抱え込んで誰よりも『啼いて』いるのは、もしや、彼女なのやも知れない。
 安らいだ寝息に眠る妹紅を抱きしめつつ、慧音は先程のコンサートを想起してみた。
 騒々しくは在ったものの決して悪くはない歌だった。絶滅せし種族の虚無な伝統から、それでも晴れやかな充実を得ようとする、日本狼の健気な号哭が聞けた気がした。
 狼狂の声は高らかに。ワオン、と。
『歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時のわたしにもわかっていました。でも気にしませんでした。これは母親と赤ちゃんの歌です』

 母の日ですね。この世の全ての母親と、この世の全てのおっぱいに、深い感謝を捧げましょう。
 ガタガタな文章でしたが最後まで読んで下さって本当にありがとうございました。

 (引用元)
 カズオ・イシグロ 『Never Let Me Go』 アルフレッド.A.クノップ社 2005 翻訳:土屋政雄 『わたしを離さないで』 早川書房 2006

 (2017/05/21 追記)
 多くの閲覧、評価をして頂き、誠にありがとうございます。
 皆さんのお言葉は私にとって何より励みとなりまして、本当に助けて頂いております。
 あと白鐸を白澤に直しました。勘違いしてました、申し訳ありません。
-----------------------------------------------------------------------
 以下はコメントへの返信となります。長いです、申し訳ない。
>>1
 ありがとうございます。許容範囲であったということでしょうか。そう言って頂けて心底ホッとしました。
 藤原妹紅という蓬莱人を如何に解釈するか、如何に表現するか、それもきっと二次創作の醍醐味でありましょう。コメント、ありがとうございました。
>>2
 ありがとうございます。そうまで褒めて頂いて、まったく恐縮でございます。
 この愉快なルー・ガルーが何をどこまで深慮していたかについてですが、その全てをここで明示するのは極めて無粋かと存じます。
 本当はここに、一つだけ裏話的なことを述べたかったたのですが、諸事情により改めなければならなかったので消しました。本当にごめんなさい。
 とにかく私は歌っている影狼を描写したかったのですが、どうもそれが巧く行かなかったというか、行き過ぎてしまったというか、日々これ教訓というやつなのでしょう。
 ともあれ趣意なんて、どう認識して頂いても大丈夫です。今回もコメント、ありがとうございました。
>>3
 ありがとうございます。ガタガタな文章な私ですが、オチだけは端的にかつ余韻が残るよう心がけております。
 それを褒めて頂けるならば、それこそ作者冥利でございます。コメント、ありがとうございました。
>>4
 ありがとうございます。母の日という記念日は社会人になると忘れてしまいがちですよね。
 何度でも感謝を捧げましょう。すべての母親とおっぱいに、そうして読んで下さった貴方に。コメント、ありがとうございました。
>>5
 ありがとうございます。いつも励みにさせて頂いています。
 私も貴方を見習って色んな作品にコメントを残すようにしているのですが、やはり貴方に比べるとまだまだです。
 これからも創想話の作品になるたけコメントしていきたいと思います。今回もコメント、ありがとうございました。
>>7
 ありがとうございます。ああいう掛詞は思いつくと面白いですよね。思いつくまでが結構大変なものですが。
 ただあまり技法に凝りすぎると、独り善がりが過ぎて、鼻に付くのが和歌というものなのですが、今回は喜んで頂けたようで良かったです。コメント、ありがとうございました。
>>8
 ありがとうございます。貴方の仰る通りで、影狼のエピローグ的な台詞のように見せかけて、本当は『わたしを離さないで』からの引用となっています。
 人里の人々を『恐れ』の『提供者』に見立てたわけですが、実際の幻想郷ではどうなんでしょうね。もっと酷い立場だったりして。そうでないと良いのですがねえ。コメント、ありがとうございました。
>>9
 ありがとうございます。慧音の寺子屋は幻想郷の人々にとって一体どれほどの価値を持つのでしょうね。
 この作品を書くにあたって色々と考えたのですが、慧音は相当に善良だと思います。コメント、ありがとうございました。
>>12
 ありがとうございます。愉快で楽しいルー・ガルーを目指しました。
 実際に書いてみると動かしやすくって、私も影狼が好きになりました。コメント、ありがとうございました。
 (2017/05/27 追記)
 一部を改めさせて頂きました。申し訳ありませんでした。
>>22 (2017/6/21 追記)
 ありがとうございます。ご指摘についてですが、影狼が起き上がった場面から末尾までの一連は、確かに小走りな文章になっていたかも知れません。
 自分としては『慧音の納得』と『影狼への考察』の両方を挙げてマトメとしたかったのですが、それにしても、もう少しジックリと書くべきでした。
 今後の教訓とさせて頂きます。コメント、ありがとうございました。
>>23 (2018/3/23 追記)
 ありがとうございます。母性を書くなら慧音という単純な考えからの作品でした。
 ユーモラスや優しさを感じて頂けたなら、きっとこちらの意図に共感して頂けたものと思います。コメント、ありがとうございました。
>>24
 ありがとうございます。恐らく、妹紅は謝らないでしょう。きっとうやむやにしてしまいます。
 でも私はそれが妹紅という少女の可愛げであると思いますし、影狼にはそれを楽しめる強さが在ると思っています。コメント、ありがとうございました。
>>25
 ありがとうございます。カール=ハインツ・マレは『昔話に登場する狼とは父親の代理人である』という指摘をしています。狼は元より子供に愛されたいのだ、という主張ですね。
 その裏付けに、狼は母親の子守唄にも駆り出されています。これもまた、いわゆる『お父さんに叱ってもらいますよ』というのとそっくりですね。
 つまり白状しますと、私は影狼に父性を示させたつもりだったんですよ。いやあ、見事に失敗してますね。コメント、ありがとうございました。
>>27
 ありがとうございます。たぶん私が最初に見た妹紅と慧音についての二次創作も、この二人の掛け合いによるものだったと記憶しています。
 きっと私が貴方に言うべきなのは、次の一言でしょう。もこけねは、良いぞ! そうしてコメント、ありがとうございました。
火男
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.900簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
妹紅のキャラクター性に少し違和感があったけど面白かったです
2.100智弘削除
妹紅に対してはその背景から老成した人物という印象を抱いていましたので、作中に見られる彼女の稚気に富んだ思考や振る舞いには、意想外な一面を目撃した気にさせられます。
以前拝読いたしました、『小鳥よ、独歩せよ』では、同様に描かれた妹紅にいくらか奇抜な演出だと感じるところがありましたが、今作では些細な見栄から始まる滑稽な趨勢に合致していて、その個性に間然するところがありません。子供の安らかな寝顔の守護者たる影狼とのとぼけた掛け合いも、微笑ましく思えます。
妹紅の和歌に勘違いしてしまった慧音の、その後に続く突き抜けた生真面目な対応もたいへんに愉快でした。特に影狼には容赦のない腕力的改悛を促しておきながら、叱られてべそをかく妹紅にはあっさりと愛おしさを膨らませる慧音の姿は、読んでいてどうにも可笑しさがこみ上がりました。
ラストで、明確な目的はあっても手段は割とその場の勢いに任せているような影狼に対して、やたらと感に入るどこまでも実直な慧音というちぐはぐな構図も、作中のユーモラスを締めくくるにふさわしいものでした。
……それともあのお気楽ルー・ガルーは、実のところ推察通りの深慮を巡らせていたのでしょうかね。
3.100名前が無い程度の能力削除
うわあそうか母の日か
うまく落ちてるしすごいなあ
4.100名前が無い程度の能力削除
母の日でしたね。すべてのおっぱいに感謝を。
5.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
7.80名前が無い程度の能力削除
いと柔らかいは草
8.100名前が無い程度の能力削除
お見事な出来栄えでした。
後書きは『わたしを離さないで』でしょうか。違ったらごめんなさい。
9.100名前が無い程度の能力削除
8コメの人のコメントで、何だか理解できた気がします
寺子屋にヘールシャム的な意味合いを持たせていたのでしょうか
良かったです
12.100名前が無い程度の能力削除
影狼のキャラが良かったです
22.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。ただ強いて言うなら後半の描写が足りない気がしました。
別にFallout4のパロディとか入れなくていいから、もっと影狼との会話を深くして、慧音の結論というか、その内面描写を充足させて欲しかったです。
23.100名前が無い程度の能力削除
とてもユーモラス。それでいて、そこはかとなく優しい。良い雰囲気です。
難ありな性格である妹紅を優しく包むような慧音と影狼からは仄々とした母性が伝わってきました。
面白かったです、ありがとうございました。
24.100名前が無い程度の能力削除
すばらしく好きです
しようのない妹紅がすごく愛しいです 影狼ちゃんにはちゃんとお謝りなさいよ?
25.100名前が無い程度の能力削除
>>「そんなの決まってるじゃない。狼が来るわよって皆が言うのは『子供を泣き止ませるため』なんだから、私は最後に残った日本狼として、ちゃんと狼風にあやしたげるの。泣いちゃダメよって。泣き止まないと食べちゃうわよって」
この一節、すばらしい解釈だと思います。
脱帽と言うか納得と言うか、本当に影狼がそうであったら良いのにと思うくらいでした。
27.100名前が無い程度の能力削除
もこけねって、良いよね!