霧が肌にまとわりつくようで暑さを増している。
夏の霧とはこんなにも鬱陶しいものだったのか。
今日は風が凪いでおり、昼からの霧がまだ晴れない。
だがそれも薄れ、遮られていたカンテラの灯りは道を照らし始めた。
月の無い夜。仮に月があったとしてもその光は足元まで届くのだろうか。
昼から残った僅かな霧でさえ方向を見失わせるほど。霧が晴れても鳥の声すら聞こえない。
耳に届くのは歩みに合わせて揺れるカンテラの軋む音。否――どこからか、美しい歌声が聞こえる。
ぱしゃり。
いつの間にか片足が水面に没していた。危ういところだ、あと数歩も進めば腰まで沈んでいた。幸いショートブーツを履いていたので靴の中まで水は入っていない。溜息をつきながら足を水から引き抜いた。
再びぱしゃりと――今度は私が立てたわけではない水音が聞こえた。
「また来てくれたのね、赤蛮奇」
声のする方にカンテラを向けた。
カンテラの薄明かりに人影が……異形の影が照らし出される。
水面から突き出た、さほど大きくもない岩の上に人魚の姿があった。
私とは対照的な青い髪の少女。ただ、その髪もカンテラの灯りに照らされ濁った色になっている。
「こんな新月の晩じゃなく綺麗な満月の夜に会いたかったわ」
くすくすと妖艶に笑うのは態度に見合わぬ少女の顔。
顔だけ見れば警戒心など抱くはずもない華奢な印象を受けるのに、纏う空気がそれを裏切っている。
これで無害だ無力だと囁かれているというのだから噂は本当に当てにならないものだ。
二・三言葉を交わせばとてもそんな穏やかな妖怪ではないと知れるだろうに。
「あら無視? 寂しいじゃない。勝手に話しかけ続けちゃうんだから」
「やめてよ」
まったく、鬱陶しい。こんなのに絡まれるなんて想定外だ。
初めて会った時からそうだ。一方的に自己紹介してきて、延々私のことを訊いてきて。
あまりにしつこいものだから憶えてしまった――霧の湖に棲む人魚、わかさぎ姫。
まさか待ち構えていたのだろうか。私の目的は人魚に会うことなんかじゃないのに。
「んん? 何を持ってるの? 釣竿? ふふ、ようやく私を釣ってくれる気になったのかしら?」
「馬鹿も休み休み言いなさい」
私はただ釣りに来ただけだというのに。
大体魚のくせに釣り人を煽るな。
「あら、今日はマントは羽織ってるだけ? 前は閉じないの? 暑い? 暑かったりする?」
「五月蠅いな。魚からハエに転職したのかアンタは」
「魚が無言だなんて陸のひとが勝手に思い込んでいるだけよ。魚は歌うものなのだから」
珍妙な物言いに一瞬だけ会話を続けたくなってしまう。
単なる世迷言だ。魚が歌うなんて聞いたこともない。いや、こいつが歌っているのは知ってるけど。
ああもう、暑さで頭が茹だっているのかもしれない。魚と人魚は違うことくらいわかっていた筈だ。
人と妖怪くらいかけ離れている別種。同列に語れるものではないだろうに。
「今日も話に乗ってくれないのねぇ」
黙っていたら臍を曲げたのか、人魚はぼやき始めた。
「せっかくのお客様がかまってくれないなんてあんまりだわ」
あんたに会いに来たわけじゃない――そんな言葉を飲み込む。
構えば調子に乗られるだけだ。うっかり名前を教えてしまった後のはしゃぎようを思い出すと頭が痛くなる。
妖怪だ魚だよりも以前の問題として私とこいつはそりが合わない。少なくとも、私はわかさぎ姫という人魚が苦手だった。
「ああ退屈。船が惑う大風も、船が乗り上げる暗礁も、船が砕ける大岩も足りてない。この湖には誰も船を出しやしない。退屈で退屈で気が狂いそう」
しかし、そりが合わずとも聞き逃せないものはあった。
「……随分と物騒なことを言う。大人しい妖怪だと聞いていたのだけど」
具体的にはわからないが何かがヤバいとは思っていることを隠して口を開く。
釘を刺しておかねば……釣りの最中に溺れさせられでもしたら堪らない。
「そうね、泳いだり、歌ったり。そんなことばかりして生きてるわ」
話しかけられたことを喜ぶように彼女は言葉を返す。
あまりの邪気の無さに疑念が晴れかけたが、自制する。
「その割には船を沈めたがってるようだけど」
「ああ、あれはとっても楽しいのだもの。船の割れる音、誰かの悲鳴、水底に引きずり込まれるように沈む姿……話に聞くお芝居ってあんな感じなのかしら。この世は舞台、己は役者、人生とは演劇なのだ。だっけ? 私なら水面は舞台、船は役者、沈みゆくその姿は演劇なのだ。かしらね?」
「そんな邪悪な芝居、役人に止められるわよ」
「そうなの? やくにんとやらは無粋なのねぇ」
笑みの質を変えぬまま、人魚は言う。
「沈めちゃおうかしら」
何の凄味も無いその笑顔に、逆に背筋に冷たいものが走る。
「――だから、この湖に船を出すような奴がいないんでしょうよ」
「残念。水の上に来てくれないとね……陸を沈めることは流石に出来ないから」
「出来ればやると?」
「さあどうかしら。やった方が妖怪らしい?」
問い掛けるその顔は朗らかな笑みの色。倫理も善悪さえも介在しない単色の微笑。
――私は妖怪だ。人が悪と断ずる存在で、誰かを害するという点ではこの人魚と変わらない。私にこいつを糾弾する資格など無い程に同類だ。しかし、違う。私とこいつは、違ういきものだ。この女は、この人魚は、陸を沈めるなんてことを「妖怪らしいか」なんて基準で判断した。悪を楽しんでるわけじゃない。悪を悪と知り、割り切ってるわけでもない。いったいどれだけの命が奪われるかわからないそんな真似を、悪だなんて欠片も思っていないのだ。
価値観が違いすぎる。見ているものが違いすぎる。赤蛮奇とわかさぎ姫の世界は決定的に、水と空気程に違っていた。
「――ふん」
私には、なんの関係も無い。
近寄るべきでないと確認しただけのことだ。
「おしゃべりはお終い。とっととどっかに行きな」
蓮っ葉な口調で人魚を突き放し、岩に腰かけ釣りの支度をする。
ここらは浅瀬が狭く、いきなり深くなる……目当ての魚も来るかもしれない。
釣りをするにはいい場所なのだ。人魚如きを避けて場を変えるなんてもったいない。
だのに、当の人魚はにこにこと笑うだけで去る気配など微塵も見せなかった。
「鬱陶しい。話し相手が欲しいなら他の釣り人でも探しなよ」
「あなたが私の名前を呼んでくれたらそうしてあげる」
……? いきなり何を言い出すんだ。
「名前だって? そんなの忘れたわ」
「あら、私はあなたの名前を憶えているのに?」
まさか嘘を見破られたわけではなかろうが食い下がられる。
「あ、ヒント出す? ヒント。えっと、うーん……まず姫ってついてね?」
……鬱陶しい。本気で鬱陶しい。
邪険にあしらわれてることすら気づいてないのかこの魚は。
「それで、えー、漢字で書くとー」
「わかさぎ姫」
「え?」
「ほらこれで満足でしょ。どっか行って」
こういう無視も効かない手合いは苦手だ。天敵と言ってもいい。
本人が飽きるまで纏わりついてくる……こちらとしては終わりが見えず消耗するばかり。
溜息をつきながら餌を付けた針を投げ込む。水音。ちゃんと狙い通りにいっただろうか。こう暗くては確認も出来ない。置いたカンテラの位置を調節して、糸の先が見えるように――しようとしていたら、ばしゃんと大きな水音。
糸は引いていない。なんとなしに水面から突き出た岩に目を向けたら、そこには誰もいなくなっていた。
カンテラを持ち音のした方へ向ける。そこには、広がり消えかけた波紋だけが残されていた。
……素直に帰った? まあ、ありがたいが――正直、拍子抜けだ。あと小一時間は絡まれると覚悟していたのに。
ま、いなくなってくれたのならそれに越したことはない。あとはゆっくりと針に獲物がかかるのを、
「っ!?」
ぐんととんでもない引きに緩んでいた気が張り詰める。
こんな引き経験が無い。どれだけの力が、大きさがあれば出来るというのか。
まさか――本当に、出るなんて。しかも私が釣れ、あ?
「うふふ。これが本当の「ひっかかった」かしら?」
糸の先で、人魚が顔だけ出して笑っていた。
ぱしゃりと右手が出てくる。その小指に、針を引っ掛けていた。
無言でその辺にあった石をぶん投げる。
「うわっ! ご、ごめんなさい! ここまで怒るとは思わなかったの!」
こいっつは……! ほんっとうに……! ムカっつく魚だなぁ……!
本当に釣り上げて焼いて食ってやろうかっ! ああ!?
「あわわ、ものすごい形相なのに怒鳴りつけてこないのが怖い~」
へらへらしてんな今度は狙うぞ!?
「……失せろって言ったわよね」
「え? 約束を守るなんて言ってないわよ?」
石を投げ込んだ。
「ごめんなさい!」
ああもう意地とか釣り場とかどうでもいいわ。
場所変える。よそで釣る。こいつがいないとこならどこでもいい。
まだ針を引っ掛けているのかぐいぐい引っ張られるが無視を決め込む。
そのうち糸の方が切れるだろ。
「待って待って。だって気になったの、何を釣るのかって」
なにを、だって?
「この湖に釣れる魚なんていないって知ってるでしょ?」
「別に……噂の五尋の巨大魚でも釣れないかと思っただけ」
「ああ、新月の晩にだけ現れるって噂の――私は見たことないけどね?」
「あんたの証言なんか信用できない。五尋もあれば当分食うに困らないでしょうし」
「食う、ねえ?」
声から、おどけた調子が抜けていた。
同時に糸も引かれなくなった。まるで、私が歩みを止めると確信していたかのように。
振り返る。少女の笑みは、現れた時のように淫靡さを含ませていた。
「妖怪のあなたが?」
首を傾げる動作一つもいやらしい。
「教えてくれないから何の妖怪かは知らないけれど、魚を食べるタイプには見えないわねぇ」
ふん、正解だ。魚なんてどれだけ食べても主食に遠く及ばない。
だがそれがどうした。おまえに何の関係がある。食事なんて、プライベートな問題でしかない。
「暇潰し、とでも言えば満足?」
「ひつまぶし、の方が好きかしら」
睨みつける。人魚は、それをさらりと受け流した。
「いやいや茶化してるんじゃないのよ、本質的には逸れてないの。好みの問題、食事の問題だもの」
だから、そんなのはプライベートな話だ。おまえ如きに指図されるいわれはない。
好き勝手言うのもいい加減にしろ。私とおまえは――
「だって、あなたは私の同類でしょう?」
ぴん、と釣竿の糸が、引かれた。
「爪もない牙もない。魂を喰らう妖怪なのでしょう?」
招き寄せるように、人魚は小指に絡んだ針と糸を引く。
「ねえ赤蛮奇。あなたの主食はなんだった? 魚じゃないのは確かよね? そうでしょ? あなたは怪異。あなたは妖怪。生まれついてのナイトウォーカー。あなたが喰らうは恐怖に澱んだ人の心」
なのに、と人魚は笑みを深める。
「不思議よねぇ。「人里から来る妖怪」の赤蛮奇?」
一際強く、糸が引かれた。
「恐怖を喰らう妖怪が獲物の近くに棲んでどうするの?」
魚のくせに――地理も把握しているのか。
私が人間の里に住んでいる、里に住む妖怪であること。別に、隠していたわけじゃない。言わなかっただけだ。だから知られようと構うことじゃないけど、何故か……下手を打った、気がした。こいつに知られてしまったのは、失敗だったと脳裏に過ぎる。
ざわざわと、暑さの中に寒気が紛れ込んでくる錯覚。
「……近けりゃその分食いやすいでしょうよ」
「嘘が下手ね赤蛮奇。近くにいては狩りがし難くなるだけじゃない。兎の巣に棲みつく狐なんていやしないわ」
そんな私とは正反対に人魚の笑みはどんどん深まる。
「襲い難い食べ難い、これじゃ餓える一方だわ」
悲しげな口調とは裏腹に、笑みは輝きを増していく。
「あらあらあなたもしかして、ひどく遠まわしな――死にたがり?」
目さえ輝かせて、わかさぎ姫は私の自殺願望を歓迎した。
――――世迷言だ。私にそんな願望は無い。こいつの勘違い。それだって、どうでもいい。自殺者を喜ぶなんていう感性の歪みだって私には関係のないことだ。この人魚は所詮行きずりの他人。深く関わる必要も無ければ過ちを正す義務も無い。
ああ、こいつと話していると変な気分になる。悪酔いに似た酩酊感。
付き合っていられない。もう一度、突き放す。
「人を襲わずに生きてる妖怪に言われたくないわ」
「襲ってない? うんまあ、殺しはしないわね。主観の問題だと思うけど」
……主観?
「私はあなたみたいな愚かな釣り人を誘惑できればそれでおなかいっぱいですもの。私の歌に惑わされて気づいた時には腰まで水に浸かってた――びっくりした人間の心はとぉっても美味しいわ」
あれだけ物騒なことを言っていた割には、随分と平和的な「お食事」だ。
素直に信じられないが、言葉通りなら妖精の悪戯よりも害が無い。
「ふん、哀れな犠牲者を沈めるのがあんたの食事ってわけ?」
「半分当たりで半分外れ」
あてつけ半分で告げた言葉に返されたのは、歌うような嘲り。
「沈めるまでもなく食事は十分。溺れなくとも人は恐れる。言ったでしょう? びっくりした人間の心は美味しいって。もしも私が誰かを沈めるのならば、それは食事なんかよりもとっても素敵なことのため」
「素敵……? とてもそうは思えないわ」
「好みの違いね。知ってるかしら赤蛮奇? 宝物は――水底に沈んでいるべきなのよ」
「話が通じない――これだから水妖の類は嫌いなんだ」
「情熱的、と言って欲しいわ」
全身が重い。
「え――」
いつの間にか、私の身体は胸まで水に浸かっていた。
振り返る――カンテラが遠く、その横に肩にかけていたマントが落ちていた。釣竿も、手放した記憶も無いのに転がっていて――私は、何をされたんだ。私は何故……急に深くなると知っているのに、意識もせずに水の中に入ったのか。
凍るような水の冷たさが全身を蝕んでいく。陸の暑さを忘れてしまう。はたして今日は何日だったのか。四季はどれだったのかさえわからない。冷たく重い水に四肢の動きは奪われそれよりも早く思考が凍りつき呼吸さえも必死に思い出さねば出来なくなってしまいそう。
「せっかく触れ合えるのに私を見てくれないの? 赤蛮奇」
誰の声だったか。誰の名を呼んでいるのか。
青い髪が目の端で揺れる。私の赤い髪に絡むようだ。
まだ全身が浸かっているわけではないのに酷く息苦しい。
指一本碌に動かせないまま、プライドの高さだけで水の誘惑を振り払う。
「な――にを、した――」
「すごいわ、まだ喋れるのね赤蛮奇。ここまで抵抗できたのなんて、鬼くらいなのに」
っく、よく言う。幾度も――私の名を呼んで、正気を失わぬように誘導しておきながら。
「力も妖力も鬼に遠く及ばないあなたが……ふふ、本当にすごいわ赤蛮奇」
褒め殺し? 何が狙いなのだ、この女。
私を溺れさせたいのか、ギリギリの線で抵抗する様を愉しみたいのか。
ああ、獲物を嬲る嗜虐性というのなら、この女によく似合う。大人しそうな顔をして、纏う空気は悪女のそれなのだから。
水に関わる妖怪は皆そうだ。簡単に命を奪える識能を持つくせに猫もかくやと獲物を嬲る。
だから――水妖は嫌いなんだ。
どいつもこいつも、シャレにならない。
「なに、を――ぁ――し、た――ぁ」
声を絞り出す。
ただ一言を告げるのに己の肉を削ぐに等しい苦痛。
だがその苦痛が無ければ簡単に意識を手放してしまう。
手放してはならない。確証はないが一たび意識を失えば戻れなくなる確信がある。
だけど、抗えば抗うほどに増す、頭の中を直接削る正体不明の痛みに心が折れそうだ。
茨の海でもがき己にしがみ付きながら――たましいを捨て去り忘却の海に沈むことに恋い焦がれる。
脳髄が痺れて、考えることさえ、痛みに、変わる。
「ふ――ふふ」
熱っぽい含み笑いが聞こえる。
これは、人魚の、わか――さぎ姫の、声。
にん、ぎょ。みずうみの、にんぎょ。
「すごい。ゾクゾクして止まらない。ここまで私に囚われながら抗うひとなんて初めて」
突き放し、たいのに、腕が、指先まで、動かない。
「敬意を表して教えてあげる。言ったでしょう? 私は、歌で惑わし船を沈めたって。同じことよ。あなたは私の歌に囚われた」
う――た? そんなの、聞いて、ない。
最初に、かすかに聞いた、覚えがあるだけ。
あれからこい、つは、歌ってなんか、いなか、った。
「歌で惑わせれるのなら、声でも惑わせれると思わない?」
頬に、冷たい、濡れた指が触れた。
声? 声。会話。一方的な、語りかけ。
あの鬱陶しさは、煩わしさだけ、でなく、術の、気持ち悪さ、だった?
頬を撫でられ、冷たい指、が、鼻や、口に滑って、いく。
「もうひとつ教えてあげるわ赤蛮奇。私が溺れさせ沈めて水底に誘うのは――好きになったひとだけなの」
す、き?
「初めて見た時から思ってた」
閉じてしまいそうな細い視界に、艶やかに笑う、人魚姫の顔、
「燃えるような赤い髪。濡れたらどんな輝きを見せてくれるのかしら。水中に没してもその炎は消えないのかしら」
月の無い夜。遠くなったカンテラに照らし出される、少女のかんばせ。
「水の中でも消えない炎……水底でこそ輝く宝物」
髪を梳かれる。は――ぁ、息が――おも、くる、しい。
「あなたの赤い髪を水底に沈めたら――どんなに綺麗なんでしょう」
首に、人魚の指が触れた。
「あ、ら?」
感触が薄い。触れられる実感が薄い。
「なに、これ。包帯……? 首に怪我をしているの? 赤蛮奇」
冷たい嫋やかな指が、包帯を解き始める――
「――――ああ、忘れてた」
ぐらりと、視界が、世界が、揺れた。
「えっ」
私の首は、水に囚われた体から、『落ちた』。
驚きの声は遠く、近く。
零に等しい停滞から加速する感覚は稲妻よりも疾く。
人とは違う、妖怪の魂から剥落した驚愕の感情に喰らいつく。
「な、え――抜け、首?」
気づいたところでもう遅い。削れた中身は今喰って補った。
次は。
古い古い。
忘れられた喰い方だ。
一瞬で視界は女の顔で埋め尽くされる。
口腔に広がる鉄の味。
悲鳴が耳に届くまであと数秒。
劈く叫声は――こんな時まで美しかった。
「ぁ――あ、あ、あ、あ、あ、せき、ばんき――あな、た――」
噛まれた首を押さえ、後ずさるわかさぎ姫。その隙に解放された体を動かし水から上がる。
「人間にも忘れられたことだけど――轆轤首は人を喰うのよ」
口に残っていた首の皮を吐き出す。
人魚の肉は不老長寿の薬とも万毒の長とも言われると聞いた。とても試しで喰えるものじゃない。
まったく、その肉といいあの歌といいとんでもない奴だ。己の首を飛ばせることすら忘れかけてしまうだなんて。
「今のは警告。次はその首を喰い千切る」
体の動きがまだ鈍い。首が抜けたままとはいえ遅すぎる。
聞いた者を惑わし水の中へと誘う魔性の歌声……その影響が抜けきっていないようだ。
悟られるな。本調子でないと知られれば体の方を狙い打たれかねない。
さっさと首を繋ぎ直したいところだが、体の不調が顔に出てしまっては元も子もない……
「あ、あ――あ、あ、あ、あ、ぁ」
わかさぎ姫は、ずっと意味の無い声を漏らし続けている。
なんらかの予備動作なのか、延々と続く呻き声。
それとも――ほんの少し首の皮を噛み切った程度で、怯えきってるのだろうか?
馬鹿な、気を抜くな。あれだけのことをしてきた相手を甘く見るなど阿呆でもやらぬ。
今度は警戒しているのであれが幻惑の術ではないことだけはわかるが……油断はできない。
私は、殺されかかったのだから。
「あ、ひ、あ、ふ、ふ、ふ、ふふ、あは」
呼吸が変わる。
髪は振り乱され見開かれた眼はどこを見ているのかも判然としない。
しかし、私を沈めようとしていた時と同じく、明確な一つの意思が――牙を剥いていた。
「――素敵」
全身が泡立つ。
これが殺気ならまだよかった。覚悟も出来ていた。
「素敵。なんて――素敵なの。言い表す言葉が――見つからない」
だけど、これは、混じりけ無しの、正真正銘の、好意。
ああそうだ。こいつは、私を殺そうとしておきながら、ただの一度も殺意を見せなかった。
「暗闇を舞う赤い髪が、本当に炎のようで――こんなにも、美しいなんて」
純粋な好意で、私を溺れさせようとしたのだ。
「欲しい――あなたの首が欲しくてたまらない。陽の光の下で、水底に沈むあなたの首を抱き締めたい」
人魚は、もう己の傷さえ無視していた。
血を流しながら、私に両の手を伸ばしていた。
「――あなたの生首を――ぎやまんの金魚鉢に沈めて愛でていたい」
もう水から上がったというのに、体ごと、首ごと沈んでいく幻覚を視た。
あの腕に抱かれることが――怖気が走るほどに魅力的だと、錯覚した。
「……ふざけるな!」
絞り出した声は震えていた。
体が勝手に彼女の元へ行ってしまいそうで、強引に首を繋ぎ直す。
――まだ、指先の感覚が無かった。
カンテラとマントだけ引っ手繰って走り出す。釣竿を惜しいと思う暇もない。
このまま話し続けたら、私は、どうなってしまうのか。
必死に駆ける背に、それでも美しい声が届く。
「また来てね、赤蛮奇」
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな――そう唱え続けなければ、足が止まってしまいそうだった。
どれだけ走ったのか。
いつの間にかカンテラの灯は消えていて、私は真っ暗な闇の中にいる。
虫の声さえない闇夜。聞こえるのは軋むカンテラと、私自身の荒れた呼吸。
「……ふざけるな」
口から漏れ出た声に強さなど欠片も無く、ただただ弱さだけが滲み出ている。
喉が渇いた。足が棒のようだ。そうだ、疲れているから弱音に聞こえるのだ。
私は後悔なんてしていない。あの湖に戻りたいだなんて考えていない。
ああ、なんなんだ私は。どうして――次の満月はいつだったかなんて考えている。
逃げ切ったのに。ここがどこだか知らないが、あいつが現れることなんてないのに。
なんで、瞼を閉じればあの白魚のような手が浮かび、耳をふさげばあの美声が聞こえてくるのだ。
「……っ」
かぶりを振る。首が取れかねないほどに強く。
愚かな考えを頭から追い出すように。
――馬鹿馬鹿しい。
私が、既に――あいつに溺れているだなんて。
ふらふらと歩き出す。方向さえ見失わせる闇夜を進む。
疲れている。早く家で休みたい。泥のように眠ればいい。
もう目を閉じているのか開いているのかすらわからない。
そんな闇の中に光が見えた気がした。
カンテラとも陽の光とも違う淡い色の。
ああこんなもの疲れた頭が見せる幻覚だ。
私は水底に沈んでいて
輝く水面から誰かが手を差し伸べる
それは深い深い青の髪の――――
面白かったです。今だからこそ妄想広がる事ってありますよね
深海のような薄暗い雰囲気がたまらないですね!これはイイ
ばんきっきのクールになりきれないでも斜には構える姿勢が好き
この二人が円満になるのか、すごいこの後が気になります。
インスマウスを覆う影みたいな
妖艶なわかさぎ姫かわいいです!
このあと赤蛮奇はまた湖へ赴いてしまうのでしょうね…
最初に「美しい歌声」って言っておきながら、この赤蛮奇さん中々にツンデレであるなぁと思っていたらなるほどそういう……。
ちょっとホラーで妖艶なお話で、作中の赤蛮奇さん宜しく、いつの間にか勝手に手がどんどん画面をスクロールしていって、あれよあれよと云う間に読み終わっていました。
人畜無害なイメージがあるわかさぎ姫をここまで妖怪らしく書けるとは!
赤蛮奇も単にやられっぱなしではなくやり返し、
しかしさらに向こうがその上を行くこの感じ。
人の数だけ東方がある、そんなSSでした。
赤と青、ひねた感じと素直な感じ、人里の中にいる妖怪と、純粋な妖怪…対比的な二人が好きです。力はないけど妖怪、人里で普段暮らしていても妖怪。
惹かれ合い方もベタ惚れわかさぎ姫といやいやばんきちゃんで対比的ですね。はてさてどうなるわかばんき。