「どんぶらこっこどんぶらこっこ……ね」
そう言って、乗客はアンニュイなため息を吐いた。
彼岸花が咲き乱れる三途の畔を横目で見ながら今日も小町は櫂をこぐ。
本日も天気は曇天也。
「悩んでますねぇ」
小町は、振り返って尋ねてみた。
「そうねぇ」
そう言って、幽々子は膝の上に頬杖をついて、底の見えない水面を覗き込む。
「この三途の河みたいなのかもね。底が見えないのはわたしの悩みにも通じるところがあるわぁ」
小町にとって本来なら、一日の仕事が終わり、どこかで一杯ひっかけている筈の時間だったが、今日に限ってはこの珍しい客を映姫の場所まで届けるという残業を仰せつかっていた。
「白玉楼の主様にも、悩みってあるんですねぇ」
しかし乗客が誰であろうと、小町の軽口は相変わらずなのであった。
そのまま、舟の上は無言となり、時折ちゃぷりちゃぷりと舳先が水を掻き分ける音を響かすだけだった。
「お客さん」
唐突に小町が言った。
「そろそろ到着ですよ。あれが四季映姫様の法廷だ」
幽々子は、目の前に現れた豪奢な建造物を見て、少し困ったような表情をした。
「あ、何か隠しても映姫様にはすぐバレちゃいますからね。って、お客さんはもう知ってるか」
カラカラと小町は笑って櫂を持つ腕に力を込めた。
「さて。それでは四季映姫様の法廷へ、ごあんな~い」
妖夢がミスティアの屋台に来たのは、夕方になったばかりの時間だった。
「あれ!? もう来たの!」
ミスティアは目を丸くして、上空の妖夢に声をかけた。
妖夢はふわりと地面に降りると、少し照れくさそうに、
「お仕事が、早く終わったので……」
と言いながら、両手の指を絡めたまま、ミスティアの視線から逃げるように視線を逸らした。
「そっかぁ。でもお店、まだこのとおり」
ミスティアはまだ展開していない屋台を妖夢に見せる。
「もうちょっと、時間かかるかも」
えへへ、と照れ笑い。
「じゃあ、じゃあ! 私も手伝います。お店」
「え! いいの!?」
「勿論です! そのために来たんですから」
妖夢は拳をぐっと握ってやる気をアピール。
「あはは。なんか悪いねぇ」
「いえいえ! やりたくて来てるんですから」
「じゃ、やろっか」
「はい」
頷きあって、妖夢とミスティアは開店準備に取り掛かった。
屋台を展開してミスティアが獲ってきた八目鰻を捌いたりおでんの仕込みをしたりと二人はせわしなく動き回った。
そんなこんなで、しばらくすると準備ができる。
「ありがとう妖夢」
割烹着の帯を締めながらミスティアが笑う。
「いえいえ! 時間があったから……ただ、それだけです」
「でも何かお礼しなくちゃねぇ」
「そんな!」
両手を振って慌てる妖夢だったが、ミスティアは構わず「何がいいかなぁ」と考え始めてしまう。
「あ、じゃあ、あの」
「ん? なに?」
「あの……歌を。ミスティアの歌を聴かせてください」
「え、それでいいの?」
「それがいいです!」ずい、とミスティアに近づく妖夢。
「う、うん!」
妖夢の迫力に押されて、一歩下がってしまったミスティアだったが、気を取り直し「あ、あ、」と喉の調子を整える。
「なんでもいい?」
「なんでもいいです」
「じゃあ」と言ってミスティアは歌い始める。
それは、永夜の異変で初めて聴いた歌だった。
ミスティア・ローレライという妖怪を知った時の歌だ。
――妖夢は覚えている。
次に会ったのが、幻想郷に様々な花が咲く異変だ。それがはっきりとミスティアを認識した時だった。
あれ以来、ミスティアの歌が好きになり、頻繁に彼女の屋台に足を運ぶようになった妖夢であった。
気分がのれば営業中にも歌い始めるので、妖夢はどんどん早い時間に来るようになった。
そしてついに今日は開店前から来てしまうという有様である。
そして、ミスティアの歌が終わった。
「す、すごいです!」
妖夢は歌の余韻に浸ったまま、頬を紅潮させ拍手を送った。
「えへへ。ありがとう」
気恥ずかしそうにしながらもまんざらではない様子でミスティアは微笑んだ。
「さ、お店お店!」
ぱたぱたと屋台に戻り、そこからミスティアは妖夢に声をかける。
「いらっしゃい。お客さん」
そして夜も更け――
――明け方。
最後まで残っていた客もふわふわと飛んで帰ってしまい、屋台はまた妖夢とミスティアだけになってしまう。
「今日はそろそろ店じまいにしようかね」
「そうですね。手伝いますよ」
「そこまではいいよ」
やんわりと断わるミスティア。
さすがに一晩中飲んだり騒いだりしていたせいか妖夢にも若干疲労が見えたからだ。
「いえ、でもここまでいたからには」
「いいっていいって」
しかし引き下がらない妖夢にミスティアは「じゃあ」と提案した。
「明日もお店作る時に手伝ってほしいなってのはどうかな。妖夢の包丁捌き上手かったから」
「それでしたら……じゃあぜひ」
「うん!」
「あのミスティア……?」
「ん? なに?」
妖夢は、視線をそわそわと落ち着きなく移動させながら、言葉を紡いだ。
「その、差しさわりなければ、明日だけじゃなく……これから毎日来てもいいです、か?」
「え」
きょとんとするミスティア。
「いや、あ、あ、の差しさわりなければ、でいいんです。その、ついでにまた歌を聴かせてくれれば嬉しいなぁ、なんて」
「そんなんでいいんなら、喜んで!」
「はい!」
地を蹴ってふわりと飛んでいく妖夢。
夜の気配が和らいでいくその空に、ミスティアは妖夢の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「さて、と」
ミスティアは振り返って片づけをしようとして――
「あれ」
屋台のそばに誰か立っている。
「あのぅ、もう店じまいなんで……」
「お客じゃないから安心して」
つ、と顔を上げる幽々子。
「っ……!?」
その所作だけで、ミスティアは本能的に目の前にいる人物の危険性を感じ取った。
幽々子とミスティアは永夜の異変の時に会っているのだが、夜雀の記憶には既にその姿は無い。けれども、本能的に体が目の前の存在との共存を拒んでいた。
「妖夢がいつもお世話になってるわね」
幽々子はそう言って、微笑んだ。
ミスティアは、動くこともできずに、ただ頷くだけだった。
「でもね……冥界の者が顕界に入り浸っているのは、あまり良くないことなのよね」
幽々子はミスティアの目の前に立つと、そっと彼女の頭を撫でた。
「妖夢もそれは分かっているわ。でも。それでも、あなたの歌を聴きに来る」
幽々子の手は、顔が青ざめるほど冷たく、そして優しかった。
「きっとあの子はわたしが止めればここへは来なくなるわ。でもそんなことはしたくないの。わたしも妖夢のことが大事で、きっと必要だから」
ふわ、ふわ、と蝶が飛んでいく。
「だからね、こうすればいいのかなって思ったの」
見れば。
二人の周りには、淡く輝く無数の蝶が舞っていた。
「あ……」
ミスティアは悟った。
これは何なのか。
「あたし……」
その言葉が発音されるよりも早く。
「――ごめんね」
幽々子の声と共に、視界を埋め尽くす無数の死蝶が二人を包んだ。
――冥界。
あれから幾日も経った。
桜が満開に咲き、今日も宴会の準備に大忙しだ。
できるならもう一人庭師が欲しい。
そんな弱音を吐いてしまいそうなくらい、やることがたくさんあった。
「あ……」
そんな折に酒瓶を見ると、ミスティアがやっていたあの屋台を思い出すのだ。
あの日、ミスティアと別れたのが最後だった。その後にミスティアの屋台を見た者はいないと聞く。
「またあの歌が聴きたいな」
そう呟きながら、妖夢はまだ誰もいない宴会場に酒瓶を運ぶ。
「あれ」
だが、そこにはもう先客がいた。
はらはらと儚く散る桜の下に小さな影。
彼女は胸に手を当て、「ら、ら」と喉を震わすのだった。
――ある日、小町は映姫に尋ねた。
「映姫さまー」
「なんです小町?」
「この前白玉楼の御嬢さんが来てましたけど、何をお願いされたんですか?」
映姫は眉をひそめて、ため息を一つ吐いた。
「冥界に留めていてほしい魂がひとつある、と。それだけです」
「あぁ、それで」
それだけ言って、小町はこの話をやめた。
答えはもう出ていたからだ。
昨日、白玉楼で開かれた宴会でも、優しく微笑む幽々子が言っていた。
「『白玉楼が少し賑やかになったのよ』か……」
小町は、嬉しそうに歌うミスティアと、同じくらい輝いた表情で歌を聴く妖夢の姿を思い出すのであった。
(終)
そう言って、乗客はアンニュイなため息を吐いた。
彼岸花が咲き乱れる三途の畔を横目で見ながら今日も小町は櫂をこぐ。
本日も天気は曇天也。
「悩んでますねぇ」
小町は、振り返って尋ねてみた。
「そうねぇ」
そう言って、幽々子は膝の上に頬杖をついて、底の見えない水面を覗き込む。
「この三途の河みたいなのかもね。底が見えないのはわたしの悩みにも通じるところがあるわぁ」
小町にとって本来なら、一日の仕事が終わり、どこかで一杯ひっかけている筈の時間だったが、今日に限ってはこの珍しい客を映姫の場所まで届けるという残業を仰せつかっていた。
「白玉楼の主様にも、悩みってあるんですねぇ」
しかし乗客が誰であろうと、小町の軽口は相変わらずなのであった。
そのまま、舟の上は無言となり、時折ちゃぷりちゃぷりと舳先が水を掻き分ける音を響かすだけだった。
「お客さん」
唐突に小町が言った。
「そろそろ到着ですよ。あれが四季映姫様の法廷だ」
幽々子は、目の前に現れた豪奢な建造物を見て、少し困ったような表情をした。
「あ、何か隠しても映姫様にはすぐバレちゃいますからね。って、お客さんはもう知ってるか」
カラカラと小町は笑って櫂を持つ腕に力を込めた。
「さて。それでは四季映姫様の法廷へ、ごあんな~い」
妖夢がミスティアの屋台に来たのは、夕方になったばかりの時間だった。
「あれ!? もう来たの!」
ミスティアは目を丸くして、上空の妖夢に声をかけた。
妖夢はふわりと地面に降りると、少し照れくさそうに、
「お仕事が、早く終わったので……」
と言いながら、両手の指を絡めたまま、ミスティアの視線から逃げるように視線を逸らした。
「そっかぁ。でもお店、まだこのとおり」
ミスティアはまだ展開していない屋台を妖夢に見せる。
「もうちょっと、時間かかるかも」
えへへ、と照れ笑い。
「じゃあ、じゃあ! 私も手伝います。お店」
「え! いいの!?」
「勿論です! そのために来たんですから」
妖夢は拳をぐっと握ってやる気をアピール。
「あはは。なんか悪いねぇ」
「いえいえ! やりたくて来てるんですから」
「じゃ、やろっか」
「はい」
頷きあって、妖夢とミスティアは開店準備に取り掛かった。
屋台を展開してミスティアが獲ってきた八目鰻を捌いたりおでんの仕込みをしたりと二人はせわしなく動き回った。
そんなこんなで、しばらくすると準備ができる。
「ありがとう妖夢」
割烹着の帯を締めながらミスティアが笑う。
「いえいえ! 時間があったから……ただ、それだけです」
「でも何かお礼しなくちゃねぇ」
「そんな!」
両手を振って慌てる妖夢だったが、ミスティアは構わず「何がいいかなぁ」と考え始めてしまう。
「あ、じゃあ、あの」
「ん? なに?」
「あの……歌を。ミスティアの歌を聴かせてください」
「え、それでいいの?」
「それがいいです!」ずい、とミスティアに近づく妖夢。
「う、うん!」
妖夢の迫力に押されて、一歩下がってしまったミスティアだったが、気を取り直し「あ、あ、」と喉の調子を整える。
「なんでもいい?」
「なんでもいいです」
「じゃあ」と言ってミスティアは歌い始める。
それは、永夜の異変で初めて聴いた歌だった。
ミスティア・ローレライという妖怪を知った時の歌だ。
――妖夢は覚えている。
次に会ったのが、幻想郷に様々な花が咲く異変だ。それがはっきりとミスティアを認識した時だった。
あれ以来、ミスティアの歌が好きになり、頻繁に彼女の屋台に足を運ぶようになった妖夢であった。
気分がのれば営業中にも歌い始めるので、妖夢はどんどん早い時間に来るようになった。
そしてついに今日は開店前から来てしまうという有様である。
そして、ミスティアの歌が終わった。
「す、すごいです!」
妖夢は歌の余韻に浸ったまま、頬を紅潮させ拍手を送った。
「えへへ。ありがとう」
気恥ずかしそうにしながらもまんざらではない様子でミスティアは微笑んだ。
「さ、お店お店!」
ぱたぱたと屋台に戻り、そこからミスティアは妖夢に声をかける。
「いらっしゃい。お客さん」
そして夜も更け――
――明け方。
最後まで残っていた客もふわふわと飛んで帰ってしまい、屋台はまた妖夢とミスティアだけになってしまう。
「今日はそろそろ店じまいにしようかね」
「そうですね。手伝いますよ」
「そこまではいいよ」
やんわりと断わるミスティア。
さすがに一晩中飲んだり騒いだりしていたせいか妖夢にも若干疲労が見えたからだ。
「いえ、でもここまでいたからには」
「いいっていいって」
しかし引き下がらない妖夢にミスティアは「じゃあ」と提案した。
「明日もお店作る時に手伝ってほしいなってのはどうかな。妖夢の包丁捌き上手かったから」
「それでしたら……じゃあぜひ」
「うん!」
「あのミスティア……?」
「ん? なに?」
妖夢は、視線をそわそわと落ち着きなく移動させながら、言葉を紡いだ。
「その、差しさわりなければ、明日だけじゃなく……これから毎日来てもいいです、か?」
「え」
きょとんとするミスティア。
「いや、あ、あ、の差しさわりなければ、でいいんです。その、ついでにまた歌を聴かせてくれれば嬉しいなぁ、なんて」
「そんなんでいいんなら、喜んで!」
「はい!」
地を蹴ってふわりと飛んでいく妖夢。
夜の気配が和らいでいくその空に、ミスティアは妖夢の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「さて、と」
ミスティアは振り返って片づけをしようとして――
「あれ」
屋台のそばに誰か立っている。
「あのぅ、もう店じまいなんで……」
「お客じゃないから安心して」
つ、と顔を上げる幽々子。
「っ……!?」
その所作だけで、ミスティアは本能的に目の前にいる人物の危険性を感じ取った。
幽々子とミスティアは永夜の異変の時に会っているのだが、夜雀の記憶には既にその姿は無い。けれども、本能的に体が目の前の存在との共存を拒んでいた。
「妖夢がいつもお世話になってるわね」
幽々子はそう言って、微笑んだ。
ミスティアは、動くこともできずに、ただ頷くだけだった。
「でもね……冥界の者が顕界に入り浸っているのは、あまり良くないことなのよね」
幽々子はミスティアの目の前に立つと、そっと彼女の頭を撫でた。
「妖夢もそれは分かっているわ。でも。それでも、あなたの歌を聴きに来る」
幽々子の手は、顔が青ざめるほど冷たく、そして優しかった。
「きっとあの子はわたしが止めればここへは来なくなるわ。でもそんなことはしたくないの。わたしも妖夢のことが大事で、きっと必要だから」
ふわ、ふわ、と蝶が飛んでいく。
「だからね、こうすればいいのかなって思ったの」
見れば。
二人の周りには、淡く輝く無数の蝶が舞っていた。
「あ……」
ミスティアは悟った。
これは何なのか。
「あたし……」
その言葉が発音されるよりも早く。
「――ごめんね」
幽々子の声と共に、視界を埋め尽くす無数の死蝶が二人を包んだ。
――冥界。
あれから幾日も経った。
桜が満開に咲き、今日も宴会の準備に大忙しだ。
できるならもう一人庭師が欲しい。
そんな弱音を吐いてしまいそうなくらい、やることがたくさんあった。
「あ……」
そんな折に酒瓶を見ると、ミスティアがやっていたあの屋台を思い出すのだ。
あの日、ミスティアと別れたのが最後だった。その後にミスティアの屋台を見た者はいないと聞く。
「またあの歌が聴きたいな」
そう呟きながら、妖夢はまだ誰もいない宴会場に酒瓶を運ぶ。
「あれ」
だが、そこにはもう先客がいた。
はらはらと儚く散る桜の下に小さな影。
彼女は胸に手を当て、「ら、ら」と喉を震わすのだった。
――ある日、小町は映姫に尋ねた。
「映姫さまー」
「なんです小町?」
「この前白玉楼の御嬢さんが来てましたけど、何をお願いされたんですか?」
映姫は眉をひそめて、ため息を一つ吐いた。
「冥界に留めていてほしい魂がひとつある、と。それだけです」
「あぁ、それで」
それだけ言って、小町はこの話をやめた。
答えはもう出ていたからだ。
昨日、白玉楼で開かれた宴会でも、優しく微笑む幽々子が言っていた。
「『白玉楼が少し賑やかになったのよ』か……」
小町は、嬉しそうに歌うミスティアと、同じくらい輝いた表情で歌を聴く妖夢の姿を思い出すのであった。
(終)
良かったです
っていうか幽々様が大好きだぜ