梅雨の合い間のある晴れた午後。
この時期は雨音に山彦を邪魔される日が多い。久しぶりに幻想郷を青空が覆ったこんな日は、響子の頭のネジが必ず何本か抜け落ちる。
「ぎゃ~て~♪ 目がまわる~♪ お助け~♪」
背の高い木々に囲まれた静かな山中の広場に、響子の楽しげな声が響く。山を覆う緑の天蓋に、ここだけぽっかりと穴が開き、青空が流れ込んでいる。
響子は体幹を軸に高速回転して、流れていく木々の眺めを楽しんでいた。とくに意味は無い。なんとなくテンションが上がったのだ。遠心力によって獣耳は竹とんぼの羽のように水平に持ち上がり、そのうち響子を空に浮き上がらせてしまいそうだった。実際、このまま空を飛んでみたいなと思い始めており、響子が謎のUFO、あるいはガメラと化すのも時間の問題だったのだが――
「お取り込み中悪いけど、あんたが山彦さんかしら。……ていうか何してんの」
ふいに誰かが響子に声をかけ、それは阻止された。
「おっとっと?」
回転を止めて、余韻にふらつきながら声のした方を振り向く。少し離れた木の陰に、一人の女が立っていた。相手を見て最初に思ったのは、眠りを妨げられた悪霊が騒ぎ声に文句をつけにきたのかな、ということ。そのくらいに女の雰囲気はおどろおどろしかった。けれどよくよく見ると綺麗な顔立ちをしている。身長は響子より頭一つ分ほど高いか。
ともあれ、響子は元気に挨拶をした。人の縁は挨拶から始まると、聖から学んだ。
「はい! 山彦の幽谷響子です。こんにちはー!」
「はいはいこんにちわ。馬鹿でかい声ね。妬ましい。あー、私は――」
彼女は少し面倒くさそうに、自己紹介をしてくれた。
山彦伝心サービスのお客さんだった。
「――水橋パルスィさん。わぁ、橋姫の妖怪さんですか!」
響子は黄色い声をあげ、瞳を輝かせた。
一人遊びを見られた気恥ずかしさも、パルスィの素性を知ると吹き飛んでいた。
パルスィは怪訝な顔をする。ただでさえ不機嫌そうだった暗い表情が、さらにかげった。
「だったら何よ?」
「私、命蓮寺というところで時々世間のお勉強をしてるんですけど、橋姫の事についても教わりました!」
「……ふん、そうかい」
パルスィは暗い笑みを浮べ、
「数多の人間を妬み殺してきた下賎な妖怪、とでも教わったか」
いやしく口の端を吊り上げた。それは、人を殺めた者が自らの行いを誇るような、聞くものを脅かす声だ。
響子は、
「とんでもない!」
と、激しく首を横にふった。
「恋と嫉妬に狂った人間のなれの果て、女達の怨念を象徴する妖怪――そう聞きました」
そして、白馬の王子様に思いをはせる乙女のように、うっとりと顔をとろけさせる。
「素敵ですよねぇ」
「あぁ? 何がよ?」
「恋に焦がれて自分の心まで燃やしてしまう。私もそんな経験してみたいなぁ」
「……何言ってんのあんた」
パルスィの目つきは、阿呆を見るそれに変っていた。
山彦伝心サービスを始めてからというもの響子はいろんな人達の想いに触れた。響子はそれらに影響されて、絶賛恋に恋する乙女中だなのだ。そんな響子にとって、橋姫は、自己の感情の全てを恋に捧げた尊敬すべき妖怪。その橋姫が今、目の前にいるのだ。響子は、アイドルに握手をもとめるファンのごとく、すすす、とパルスィに歩み寄った。
「あ、あのう、昔のお話とか、聞かせてもらえませんか」
「はぁ?」
「恋のお話を聞きたいんです! 最近のお話でも」
「意味がわからない……妬ましいほど能天気なやつね」
世間知らずなお姫様を蔑む路傍の未亡人のようなパルスィ。
響子は急上昇したテンションのままグイグイと迫っていく。
「他にも色々と聞きたいです! 初恋はいつだったんですか! 初キッスとかは!? 私まだなんですけど遅いのかなぁ……。あっ、失恋した時の気持ちってどんなですか! あれっ、良く見るとパルスィさんってかわった耳の形してますね! 妖精みたい! 触ってもいいですか!?」
が、耐えかねてパルスィがきれた。
「ああうざい!」
パルスィは響子の両の獣耳をむんずと掴むと、力を込めて引っ張りはじめた。響子の頭皮がYの字に伸ばされる。
「ひぎぃ!? ぎゃーてー!!」
耳の付け根に襲いくる激痛。響子はつま先立ちになりながら大口を開けて喉チンコを震わせた。だがそんな悲鳴をあげているのに、パルスィは容赦してくれない。
「あんただって妙ちくりんな耳してるでしょうが!」
「へ、変じゃないです! 痛い痛い、やめてぇ!」
「どうなってんのよこれ耳四つあんの? おらっ、顎の付け根を見せてみなさい」
「やだー! そんなとこ見ちゃだめぇー!」
響子は悲鳴をあげて逃げ回り、あたりの山々に卑猥な叫び声が山彦した――。
何はともあれ、憧れの橋姫が今日のお客さんである。
「こほん、では改めまして……パルスィさんはどんな山彦をご希望?」
手近な場所にお尻をおろし、仕切りなおしのヒアリング。響子は倒木に、パルスィは切り株に、それぞれ向かい合って座る。耳の付け根がまだジンジンしていたが、まぁ、お互い水に流すことにした。でないとパルスィが帰ってしまいそうだ。
パルスィはうんざりした表情で自分の太ももに片肘を突いている。
「なんか私もうやる気が失せたんだけど」
「そ、そんな、せっかく地上にきたんですし……」
大事なお客さんでもあるし、何より憧れの女性である。もっと一緒にいたい。余計な事は二度と言いませんと約束して、響子はなんとかパルスィを留めたのだった。
「ったく……。評判になってる新しい山彦サービスがあったでしょう。あれ、何と言ったかしら」
「『チャージドすぐにヤッホー』ですか?」
「そうそう。私もそれをやりたいの」
『チャージドすぐにヤッホー』――
それはちょっと前に始めた新しい山彦のことだ。お客さんが叫んだ言葉を響子が即時復唱するというもので――響子の音に対する反射神経を限界まで行使するため、ほとんど同時発声といってよい――、いわば音声拡張器の役目を果たす。それによりお客さんはまるで自分が山彦になったかのような体験をすることができるのだ。もともとは、大きな声を出せないお年寄り向けにと聖の発案で考えられたサービスだったのだが、実際にやってみるとお年寄り以外にも大好評。喉から声を張り上げる動作や、山々に轟く自分の声を聞くという体験は、とても爽快でストレス解消に効果抜群――その評判は口コミでじょじょに広がり、冥界の庭師や永遠亭の宇宙兎など、ストレスを抱えた現代幻想郷人に多くのリピーターを生み出すことになった。
「地底にも評判が伝わってきたわ。私も知り合いから聞いてね。まぁ地下深くじゃさすがにあんたの山彦は聞こえてこなかったけど」
「いつもは地底に声が伝わらないようにしてますからね。地上の人たちの山彦をイチイチ聞かされては、地底の人も迷惑でしょうし」
「ん?」
と、パルスィが怪訝な顔をした。
「ということは、やろうと思えば地底にまで声を届けられるの?」
よほど気がかりになるのか、パルスィは身を乗り出して響子の確認をする。
響子は誇らしげに頷いた。
「えっへん、もちろんできますよ。私の妖気を媒体にして音を運びます。ご希望でしたら地底までパルスィさんの山彦を――」
が、響子の自慢げな解説を、パルスィは厳しい口調で遮る。
「ダメよ。地底には聞こえないようにして。そうでないと私は山彦をしない。知り合いに聞かれずに叫べると思ったから、わざわざ地上に来たんだから」
響子は特に驚きもせず了解した。パルスィの反応はそれほど意外ではない。
「わかりましたー。まぁ皆さん、ストレス解消の山彦をするときは、人に聞かれたくない不満や文句を口にしますから。たいてい狭い範囲にのみ響かせるんですよ。けど私が音響フィールドを作って山彦のタイミングや音をしっかりコントロールしますから、お客さんにとっては幻想郷中に自分の声が轟いた様に聞こえます」
「ふぅん。器用なのね」
「えへへ」
「けど、あんたにだけはどうしても全部聞かれてしまうのよね。大丈夫かしら。後で誰かに言いふらされたり」
パルスィは疑り深そうに目を細めて、響子を凝視する。
「心配ないですよ。私に対する天狗の取材は命蓮寺によって禁止されてますし、私も皆さんの事情には触れませんし、誰にも言いません。山彦をさせてもらえればそれで満足なので。えへへー」
パルスィはまだ少し疑っているようだったが、一応は納得したのだろう。乗り出していた姿勢を元に戻して、目つきをいくらか柔らかくした。
「ふん。ほんと、あんたは悩みが無さそうで妬ましいわね」
小馬鹿にしたように言われて、響子はプーっと頬を膨らませた。
「そんなぁ悩みならありますよぅ」
「へえ。言ってみなさいよ」
「恋とか……もっとしてみたいです……えへへ」
ちょっぴり頬をピンクにそめて、俯きながら、モジモジ。
パルスィはうんざりした様子で言い捨てた。
「あっそ。頑張って」
心底どうでもよさそうだった。
「さっさとやりましょ。早く地底に帰りたいし」
というパルスィにせかされて、山頂に移動する。本当はもっとパルスィと色々お喋りをしていたかったのだが、機嫌をそこねられては元もこもない。
山頂のこじんまりとした原っぱでは、暖かい日差しと涼しい山風が二人を歓迎した。
響子が住んでいる山彦山は辺りで一番高い山だ。頂上からはかなり遠くまで幻想郷を展望すことができる。大気の条件さえよければ、妖怪の山にそびえ立つオンバシラを視認する事だってできるのだ。そんな所に立って大声を叫べば、誰だって気持がよいだろう。
「私はただ叫ぶだけでいいのね?」
「そうですよー」
眩しい太陽には背を向けて、二人ならんで空を向く。形のはっきりした雲が、気のつくたびに少しずつ居場所を変えていく。陽の眩しさに顔をしかめていたパルスィだが、果てなく続く緑の山と青い空の眺めには、いくらか心を穏やかにしたようだった。
「ねぇ響子、私の山彦を聞いても笑うんじゃないわよ」
「それはもちろん」
「もし笑ったら、今度こそ毛むくじゃらなその耳を引きちぎってやるからね」
「ぎゃ、ぎゃーてぇ~……」
響子は思わず耳を押さえた。ちょっと及び腰になりながら、けれど、きっぱりと言った。
「私はどんな山彦だって笑ったりしませんよ。その人の声と気持ちを、山彦にするだけです」
「まぁ、頼んだわよ」
「はい!」
響子はすぅーっと息を吸い込む。緑色に香る山の空気が、肺一杯に満ちていく。そして、いつもなら丹田にのみ溜める妖気を、今回は霊脈を通して体中に充実させていく。『チャージドすぐにヤッホー』は普通の山彦とは違った妖力練成を必要とする。耳で捕らえた音波を即座に増幅、復唱する必要があるため、頭で言葉を理解している暇はない。だから、己の体に音声自動復唱プログラムを仕込むのだ。響子は自分が何を叫んだのか、叫び終えた後にようやく理解する。
体中に妖力が満ち、獣耳がざわざわと逆立った。
「いいですよ、パルスィさん叫んで!」
「よ、よし」
パルスィは身構えると、二度三度、深く深呼吸をした。
そして――
――いつもつっけんどんな態度でごめんね! 本当は私も勇儀の事がが好きなのよ!だって私じゃあんたを殺せない! 何度も妬み殺してやろうとしたのに、あんたは今でもぴんぴんしてる。誰よりも妬ましいのに殺せないなんて、どうしろっていうのよ。好きになるしかないじゃない! 勇儀の馬鹿ー!
雷鳴にも劣らないその大声は眼下に広がる木々を揺らしながら、物凄い速さで広がっていった。木の葉が揺れる黒い波は山の裾野に達するころには消えていた。けれど見えない波はこの広い空を駆け抜け、ほどなくして辺りの山から山彦が返ってくる。
――パルスィにはそんな風に感じられたろう。実際には、声が届いたのは二人の周囲十数メートルほどの範囲だけ。音波は響子によって正しく制御された。
響子は山彦の心地よい余韻に浸りつつ、横目でチラリとパルスィの様子を伺った。
「ふぅ……!」
パルスィは満足げに溜め息をはいた。そして、訪れてからはじめて表情を明るくした。
「シャクだけど、たしかにすごくすっきりするわ! 叫ぶことがこんなに気持ちいいなんて」
「よろこんでもらえて嬉しいです。……それと、あのう……」
「ん?」
「山彦、すごくよかったです。気持ちが篭ってました……やっぱりパルスィさんは恋に生きてるんですね。素敵です」
言ったとたん、案の定パルスィに睨まれる。
「そんなに耳を引きちぎられたいのかしら」
「ぎゃー! なんでそうなるんですか! 笑ってませんよう! 私はただ、パルスィさんみたいになりたいなって思っただけで!」
響子は両腕を上げて耳を隠した。パルスィは両手をワキワキさせて響子を脅かすけれど、しばらくすると手を下ろして、代わりにちょっとあきれたふうに苦笑いをする。
「橋姫にあこがれるようじゃ、あんたの人生お先真っ暗よ」
ついさっきまでパルスィには排他的な雰囲気があったけれど、山彦がそれを取り払ってくれたのだろうか。今は少しだけ気を許してくれているように思える。そうしてチラリと覗いたパルスィの心は、どこか寂しげな感じがした。
「そんなことありませんよ! でも、いいんですか?」
「ん?」
「パルスィさんの山彦、勇儀さんていう方にちゃんと届けたほうがいいんじゃないでしょうか……ここで叫ぶということは、気持ちを伝えてないんですよね」
他人の事情にそこまで口を挟むのは、山彦としては不適切な行為だ。けれど、言わずにはいられなかった。
「あんたの夢を壊して悪いけどね、おちびちゃん」
パルスィはかがんで、目線の高さを同じにして語りかける。馬鹿にしたふうではなく、むしろ口調は優しい。
「私は恋をしたくて人を好きになるんじゃないの。人を恨みたくて恋をするのよ。だから私が人を好きになると必ず相手が不幸になる。まぁ普通は私にとってもそれが快感なんだけど」
「……?」
パルスィの言っていることが良く理解できなくて、響子は眉を寄せて首をかしげる。響子のそんな様子が可笑しいのか、パルスィはクスクスと笑って、獣耳をなでてくれた。これ以上は何も言うつもりはないらしい。
響子は頭を捻る。
パルスィの好いた相手が不幸になるというのなら、パルスィが勇儀に告白しない理由は――?
「もしかして、勇儀さんを不幸にしたくないってことですか?」
口にしたあとで、その意味に驚く。もしその通りなのだとしたら、なんていじらしい理由だろう。
パルスィはYESともNOとも言わず、ただ、あさってのほうこうを向いて小さく肩をすくめさせるだけだった。
「パルスィさん……」
パルスィは勇儀のために自分本来のあり方に逆らおうとしているのだろうか。響子が誰かのために山彦をやめるようなものだ。
何食わぬ顔で遠くを眺めるパルスィの姿が、不思議なほど響子の胸をうった。
響子は感極まって、パルスィの横腹に抱きついた。
「パルスィさん!」
「ちょ、何よいきなり?」
響子は瞳を潤ませながら、パルスィの顔を見上げる。
「やっぱりパルスィさんって素敵な女性です!」
「またそれか」
「パルスィさんの事、お姉ちゃん、って呼んでもいいですか!」
「はぁ? お、お姉ちゃん?」
「パルスィさんは、やっぱり私の尊敬する憧れの人ですもん」
「……勝手にすりゃいいけどさ。変な奴」
獣耳にパルスィの手が触れた。引っ張られるのかと思って、響子の体が強張る。けれど違った。パルスィは指先に獣耳毛を巻きつけるように、くりくりといじる。かと思うと今度は指先を使って器用に耳を二つ折りにし、撫でるような揉むような。優しい手つき。おなかをなでられる猫のように、響子は目を細める。
青空の照らす山頂の草原。もし今この場所を通りすがる者があれば、無言でよりそう二人の姿は、姉に甘える妹と、その妹をあやす姉のように、見えたのかもしれない。
お互いの匂いを覚えたころ、パルスィは静かに語ってくれた。
「私はねぇ相手を呪い殺すために恋をするの。どうあがいたって相手を不幸にしちゃうのよねぇ。あ、言っとくけど、私は別にそれを嫌だとか思ってないからね? 私は橋姫だからね。それが私の生きがいさ。……でも、私の力じゃ殺せない相手に出会って……勇儀に出会って……もしかして、この人なら私の全部を受け止めてくれるかもって、考えなかったわけじゃない。ところがどっこい、いざそういう相手に出会ったら、私はそいつを好きになるのが恐くなっちまった。妬むのが恐くなっちゃった。相手を不幸にしたくないなんて、人間みたいでホント笑えるだろ? ま、橋姫としての幸せをむさぼってきた私が、都合よく人間みたいな幸せを得られるわけがない。そういうもんなんだろ。お天道様が許さないんだろうねぇ。世の中上手い具合にできてるよ――」
パルスィがなぜそれを聞かせてくれたのか、それは分からない。諦めとも達観ともとれる笑みを浮べていた。けれどその心の底では、かつて人間だったころの感情が息を吹き返して、パルスィを苦しめているように思える。妖怪になってなおかなわぬ恋に――いや、橋姫になってしまった瞬間に運命付けられた、未来永劫続く悲恋に、嘆き悲しんでいるような……そんな気がするのだ。
別れの挨拶は短かった。
パルスィは照れていたのだろうか。そうに違いないと響子は思う。ふいに始まった優しい愛撫と自戒のあと、パルスィは突然正気に戻って、わざとらしい咳払いをしながら、
「じゃあ帰るわ」
と告げた。
響子は耳に残ったパルスィの指の感触にいくらか意識をぽわわんとさせながら、
「また来てね。お姉ちゃん」
「そのうちまた来るかもね。叫ぶのは気持ちよかったし」
「次はもっとお喋りしたい」
「気が向いたらね」
そっけない口調ではあったが、NOとは言わなかった。
「じゃ」
おざなりに手をふって、パルスィは飛び立った。
そそくさと帰ろうとするその態度は、心の距離が急に近づいてしまったことへの戸惑いなのかもしれない。そう考えると、この味気ない別れにも、甘い風味が生まれるのだ。
響子がさよならを言うと、パルスィは振り返らずにもう一度だけ手をふってくれた。
パルスィは木々の背に沿って山を下って行く。響子はパルスィの姿が緑の間に完全に溶け込んでしまうまで、目を離さなかった。残念ながら、最後まで振り返ってはくれなかった。
「いっちゃった」
急に訪れる静けさが寂しい。大気の低い唸り声を遠くに聞く。
「……さてと」
響子は振り返った。
山頂の北側は開けていて見晴らしがよいが、南側には麓まで続く森が薄暗い口をあけている。
そこへ、響子は呼びかけた。
「お姉ちゃんは帰りましたよ」
わずかに間を空けて、名を呼んだ。
「――勇儀さん、ちゃんと聞いてましたか、」
響子にとって、今やその名前にはかなり特別な意味がある。
じゃず、と土を踏み鳴らし、木の影から現れた体躯の良い女は、誰がみたって星熊勇儀である。額から突き出た、天を射抜かんばかりの立派な角。そして腰まで流れ落ちる長い金髪。
そして、顎から滴り落ちるよだれ―― ……よだれ?
「ちょ! なんて顔してるんですか!」
「うふ、うふふ、パルスィ、私のパルスィ、愛い奴……」
口の端から落ちる涎を拭きもせず、勇儀はぶつぶつと呟く。目つきも尋常ではない。瞳は
大きく見開かれ、血走っている。異常者のそれだ。体は妙に力がみなぎっているようで、からくり人形みたいにいびつな歩き方で響子の方に近づいてくる。その姿にはもはや怪力乱神の誉れは無い。怪力馬鹿がただ乱心しているだけだ。
どことなくシリアスな気持ちになっていた響子だが、勇儀の顔を見てそれがいっぺんに吹き飛んでしまった。
……が、勇儀がそうなってしまう気持ちも、分からなくはないのだ。とは言え勇儀のあまりの醜態には、やはり嫌味の一つもいってやりたくなる。
「盗み聞きしてたかいがありましたね。おめでとうございます」
皮肉がきいたらしく、
「む……」
と、勇儀が顔をしかめた。盗み聞き、という不名誉な言葉に、かすかに残っていた鬼の誇りが反応したらしい。
ついでに人型妖怪として誇りも思い出したのか、獣みたいに前傾していた姿勢をしゃんと戻し、服の袖で涎をぬぐった。
「ジュルル……まぁ、たしかに盗み聞き以外の何ものでもないが。覚悟を決めたとはいえ、こんな真似をするのはやはり気分が悪い」
「さっきの顔はとてもそうは見えませんでしたけど」
「はっはっは。あまりに嬉しくてねぇ。ようやくパルスィの気持ちが分かった」
「感謝してくださいよね。私、お姉ちゃんにたくさん嘘を言っちゃった……」
「響子には一生の借りができたな。絶対に忘れないぞ」
「私のことはいいんです。それよりお姉ちゃんのことを幸せにしてあげてくださいよ。気持ちが分かったなら、もうビクビクしないでくださいよねっ」
「ビクビクとはきつい言い方だねぇ」
勇儀は響子の隣に並び、晴れ晴れとした表情ではるかな展望に目を向けた。
視線につられて響子も空と大地の彼方に目をやる。青空に浮かぶ雲のゆったりとした姿を眺めていると、時間の流れが容易に遡っていく――
「――やぁお前さんが山彦かい? 思ってたよりもちんまいねぇ」
勇儀とはじめて出会ったのは、梅雨の始まる少し前のことであった。パルスィと同じく、チャージドすぐにヤッホーを求めてやってきた。
「惚れた女がいる。パルスィという名前なんだが、なかなか扱いの難しい相手だ。私なんかにはちょっと理解できないくらい繊細な気質をもっている。だがその繊細さが愛しいんだ。どんなに味の深い酒も、あいつの心の深さには敵わないだろう。しかし、難しい心の機微がどうも分からない自分は、笑って彼女の側にいることしかできない。まぁ私は側にいるだけでときめくんだけどな。なははは。けど、それで彼女が振り向いてくれるのかなぁ。そりゃ何度も、私のことをどう思っているかと聞いたさ。でもはっきりと答えてはくれないんだ。私にゃそぶりから察するなんて器用なことはできないし、まいったよ。好きなら好き、嫌いなら嫌いと、はっきりそういってくれりゃあいいのにね」
そのような悶々とした想いを日々溜め込んでいるらしかった。角をもつ真なる鬼にしては、それこそ随分繊細な悩みだと思ったものだ。それを言うと、勇儀は鬼らしく豪快に笑った。
「私が繊細と評されるなんてねぇ。まあ確かにこんな悩みは鬼らしくはないね。惚れた相手にゃ攻めるのみ……本来はたったそれだけの事のはずなんだが、パルスィはどうもそれだけじゃあだめらしい。だから攻めあぐねてるんだ。正面から攻めるしか私にゃできんのだが、とてつもなく守りが固いんだよねぇ。何を考えているのかもよく分からない。私の事をどう思っているのやら。やれやれ、私がさとり妖怪なら、きちんと彼女の心を理解して、何を望んでいるか理解してやれるんだが」
勇儀は自分の抱える不満の何もかもを隠す事なく話した。そういう類の話しのわりに勇儀は実に楽しそうに聞かせる。あけすけで明るい、勇儀の気性なのだろう。飾るところがなく、極自然体で、にもかかわらず自信に満ち溢れ――パルスィのことを言う時だけは、僅かにそれがかげるのだが。
勇儀も他の客と同じように山彦を気に入って、何度も響子の元へやってきた。内容はいつも、自分のふがいなさに対する鬱憤。
こんな素敵な人の想いを拒むなんて、いったいどんな人なんだろう?
響子はパルスィという妖怪を、ちょっと憎らしく思ったりもした。素敵な恋を無碍にするやつにはバチがあたるぞ、と。
そんな勇儀が、ある日暗い顔をしてやってきた。
「響子。私は鬼の誇りを穢す覚悟を決めたぞ……」
聞けば、パルスィに山彦サービスを仕向けたという。といっても大した事をしたわけではない。山彦サービスの評判を話すと、パルスィは興味を持ったらしい。勇儀はパルスィが地上に出ないかどうか四六時中監視する――あきれた話だが――という。もしパルスィが地上にでたら、後をつけて、山彦を盗み聞く。
「私に関することを叫んでくれるかもしれない。もし私に関係ない内容だったら、私は何も聞かなかったことにしてすぐに忘れよう」
最初響子は反対した。
「お客さんを裏切るようなことはできません! 山彦サービスは信用でなりたってるんですから……」
裏切り、という言葉は、勇儀の道義心をチクチクと刺したようだ。勇儀は顔をしかめて、一旦は思い直しそうな素振りさえ見せた。だが結局は、ダメだった。
「お願いだよ響子。私はとてもまいってるんだ。考えたくないけど、もしパルスィが本当に私を嫌っているなら、私はパルスィに嫌がらせをしていることになる。そんなな事を考えてしまって、最近では会いに行くのもためらってしまうんだ。考えてみると、最初のころはよく、もう来るなと追い返されたし、妬ましいといって腹を包丁でさされたころもある。ほらこいつがその時の傷だよ。すごいだろう。筋肉で止めてやったけどね。……話がそれた……でも少し前からは、私がたずねて行ってもパルスィは嫌な顔はしなくなったんだよ。それどころか世間話に付き合ってくれる。私を好いてくれていると思いたいんだが……チクショウ、また頭がもやもやしてきた。頭が変になりそうだ。なぁ、私はパルスィの気持ちがどうしても知りたいんだ! お願いだ力を貸してくれ!」
響子は悩んだ。山彦伝心サービスの主としてはそんなことは許されない。けれど一妖怪としては、協力してあげたい。勇儀の想いがどれだけ真剣で誠実かは、良く理解していた。
最終的に響子は、自分自身に屁理屈をこねた。
「わかりました。山彦伝心サービスは、声と心を届けるサービスです。勇儀さんにパルスィさんの心を届けます――」
――今それを振り返ってみると、響子はあまりの白々しさに身悶えするのであった。結果的にはまぁその屁理屈通りになったのだが……。満たされた顔で呑気に景色を眺めている勇儀を見ると、つい、気持ちが捻くれてしまう。素敵な恋がしたいとのたまっていた自分は、パルスィからはこんな風に見えていたのかな、となんだか恥ずかしい気分になった。
「勇儀さん。くれぐれも今回の事は秘密ですよ。私がこんなことをしたと皆に知れたら、もう誰も山彦をお願いしにきてくれなくなっちゃいます」
「うん。誰にも言わないと誓う。響子には本当に感謝している」
勇儀は響子に深々と頭を下げた。二人には二倍近い身長差がある。響子には大きな柱が倒れてきた様にさえ感じられた。
「ところで山彦一つを頼みたいんだが」
「山彦ですか?」
「そうだ。私の声を幻想郷中に届けてくれ。地底世界にもだ」
「地底世界にもですか。何を言うんですか?」
「パルスィのことさ」
「え……そんなことしたら盗み聞きしてたのがパルスィさんにバレちゃいますよ」
「かまわんよ。どの道、うち明ける気だったしな」
「さっき誰にも言わないって約束したじゃないですか」
「パルスィは違う。あいつは当事者だ。隠してはおけない」
「……だったらパルスィさんが帰っちゃう前にさっさと顔を出せばよかったのに」
「さっきは頭が沸騰してたからな。あの時にでていってたら、多分その場でパルスィを押し倒してたろう」
響子はその意味を正確に理解し、頬を染めた。興奮して獣耳がパタつく。
「ま、まぁいいですけど。でも、黙ってたほうが良いと思うけどなぁ……」
事実を知って怒り狂うパルスィの姿が、容易に想像できた。恐ろしくて鼓動が早くなった。
「どうあれ私は不実を働いた。その報いはうけなきゃならないよ。私は喜んでパルスィに折檻されよう」
その表情は、雲ひとつ無い空のように晴れやかで、そして揺るぎない。響子が何を言ったところで、聞いてくれそうにはなかった。
「どうなっても知りませんからね。じゃあいきますよ」
「おうっ――」
――やいパルスィ! お前さん本当にこの私を不幸にできると思ってるのかい? 舐めるんじゃないよ! お前さんにどれだけ妬まれようが嫉妬されようが呪われようが、そんなことでこの星熊勇儀様を不幸にできるものか! だから好きなだけ私を妬め! そして不幸にできるもんならやってみな! パルスィが私の側にいて私を思ってくれる幸せ、それを覆すほどの不幸があるのなら、私に見せてみな! 一生かかっても待っててやるから!
それと幻想郷の連中よく聞け! 今日から水橋パルスィの嫉妬心は、この星熊勇儀が全てもらった! お前らには一片だってやらんからな! はーはっは! くやしいか嫉妬しな!
自信に満ち溢れたその声は、今度こそ見せ掛けでもなんでもなく幻想郷中に響いていった。地面を通り越して地底世界へ、そして地底に向かう途中であろうパルスィにも。
「あーあ、言っちゃったぁ」
「女々しいぞ響子。何をそんなに気にしてる」
「パルスィお姉ちゃん、きっと私にも怒るもん。裏切りものーって、今度こそ私の耳なくなっちゃうかも……」
響子とて共犯には違いないのだ。パルスィの激怒した形相を思い浮かべて、耳の付け根が疼いた。
「心配するな。私はパルスィに殴られるが、響子のことは守るよ。手は出させない」
「それこそよけいお姉ちゃんに嫉妬されそうだなぁ。何でそいつを庇うの!……って」
「そうか?」
「勇儀さんはわかってないみたいだけど、お姉ちゃんは、勇儀さんが誰かと仲良くしてると、その仲良くしてる相手に嫉妬しちゃうの。だから、勇儀さんのお友達にも迷惑かけてしまうかもしれないって……そういう事も気にしてるんだと思うよ」
「む……そうなのか」
やっぱり分かってなかったのか、と響子は飽きれた。
「それはおもしろくないな。パルスィの嫉妬は全部私が受けると決めたんだ。他の奴にはやりたくない……よし、こうしよう」
勇儀は自分の閃きに喜んで、パンと手のひらを叩いた。
「旧都の奥深くに、今は忘れられた地底空間がある。地底がまだ荒れていたころ、私ら鬼がネグラにしていた場所だ。しばらくそこでパルスィと二人で暮らそう」
「ええ……?」
「互いの気持ちはもう通じた。なら、しばらく二人きりの時間を持ってそれを深めたいしなぁ」
「……」
響子は赤面した。
響子の想像する恋は、それこそオテテ繋いでだとか、初めてのキスがゴニョゴニョだとか、そういったレベルだ。勇儀の話は、ちょっと、響子には早すぎる。
響子が言葉を失って俯いていると、勇儀がふと何かに気づいて、山の裾野に目をやった。
「お、パルスィだ」
「え!」
言われて視線を追うと、たしかにパルスィらしき人影が、山の木すれすれ飛びながら裾野を上昇してくる。姉の様子はどうだろう、と響子は目を凝らした。そして、
「……ぎゃ~て~……」
遠めにその顔を確認して、響子の顔が引きつった。
「おー……ありゃあ怒ってるなぁ……」
全てを観念した者の口に宿る気楽な口調で、勇儀が言った。
パルスィの顔はそれこそ鬼のようだ。顔から首まで真っ赤に染まり、ここからでも瞳が激しく緑色に発光しているのが分かる。
「殴られるだけで済むかな」
ぼそり、と勇儀が言った。
響子は勇儀の腰の後ろに隠れる。
「ちゃ、ちゃんと私を守ってくださいよ!?」
「大丈夫だって。まかせときな」
勇儀の腰にしがみ付いて、背中を見上げる。改めて見ると、なんとも雄大で頼もしい背中だ。この人ならきっとお姉ちゃんを幸せにしてくれる――そう感じられる。
「でも、今回の事でパルスィさん、勇儀さんを少し嫌いになったりしてないかなぁ」
恐怖と不安に駆られた心が、今更言っても仕方ない事を口にさせる。
だが勇儀は揺るがない。
「そうだとしても、また好きになってもらうさ」
もう自分は何も言う必要はないのだろう、と響子に思わせてくれる声だ。あとはもう、勇儀とパルスィの問題なのだ――勇儀がちゃんとパルスィから響子を守ってくれている限り。
「……私は自分の問題に専念しよ」
響子はそう呟いて、勇儀の大きなお尻に肩を寄せながら、己の獣耳を手のひらでキュッと押さえた。
ふかふかで柔らかくて手触りの良いこの獣耳。長年連れ添った愛しいこの耳を、何としても怒り狂った姉の魔手から死守しなければならない――
パルスィお姉ちゃん…良い!
最後勇儀はどうなったんだろうw死んでないといいけど。
響子ちゃんかわいいよ響子ちゃん
誤字報告をば。
>>勇儀はパルスィに深々と頭を下げた。
ちょっと勇儀さん目の前に般若がいますよ。
響子ちゃんかわいいよ響子ちゃん。おねえちゃん呼び最高。
>パルスィの反応はそれほど以外ではない
→意外ではない
面白かったですが、誤字に気をつけて下さい
ここまで質が落ちず2828がとまりません。
響子ちゃんの愛にあふれた作品でパルスィと響子ちゃんの掛け合い最高です。
パルスィお姉ちゃん とてもありです。
いったい何をしたんだパルスィ…
今後は角を収めて、末永くお幸せになっていただきたいものです。
あ、あと響子ちゃんのモフ耳もフォーエバーの方向で!
響子かわいいよ響子。
KASAさんのヤッホーシリーズは盤石なものとなってきましたね。
次回作も愉しみに待っております。