Coolier - 新生・東方創想話

誰が慧音の脳みそをこねくりまわしたのか

2012/04/10 19:07:34
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 童謡が聞こえてくる。

 子供たちが高い声で和やかに童謡をうたっている。声にみちびかれるように白いボール
が跳ねていき、大勢の足音がとりかこむ。童謡の歌詞がまたふりだしにもどる。

 慧音はハッと心のつかまれる思いがして、寺子屋の玄関戸を開いた。前に広がる通りに
は子供たちが、つまり寺子屋の生徒たちがいて、童謡をそれぞれが勝手な調子でうたいな
がらボール遊びに興じていた。自分たちに夢中でみちいく人には目もくれない。そのはし
ゃぎように彼らを微笑ませたり苛立たせたりしていた。

 慧音はさきほどの直感をたしかめようと、生徒たちの人数をかぞえた。むずかしい顔で、
戸前に立ってせわしくなく首をうごかす姿はけったいなものだった。

 生徒の一人、男の子がたちどまって集団からはなれると、慧音のほうへやってきた。

「どうしたの」

「ぴったりだったな」

「なにが?」

「お前たちの数だよ」

 生徒たちをかぞえ終えた慧音はそう答えて、ひそかに胸をなでおろした。そう答えられ
た生徒は釈然としない様子で集団へもどっていった。生徒がそうしてくれるのは慧音には
都合がよかった。なぜ生徒の人数をかぞえたのかと問われれば、慧音は答えられなかった
だろう。ふいの出来事で、自分にも理由が分からなかった。愛想笑いを浮かべて「お前た
ちが心配になったんだよ」といえば済む話ではあるが。

 ふとした不安はすぐに忘れた。慧音は開きぱなしになっていた玄関戸を閉めると生徒た
ちを見守ることにした。この休み時間はもうすぐ終わり、そうすれば生徒たちがこちらへ
走ってくるだろう。せっかく外に出てきたので、そのときを待つつもりでいた。

 淡々と流れる童謡がもう一度はじめからうたわれる。慧音が耳にする中では三度目だ。
この童謡は慧音が教えたものではない。里の人間、というより幻想郷に住む者なら誰彼と
もなく伝わり伝えられ、知らずしらずに口ずさめるようになるものだ。

 童謡が終わりにさしかかったところで、生徒たちはぽつぽつと慧音のそばにやってくる。
最後までボールを捕まえていた男の子が四人いたが、みんなが離れてしまったのでしぶし
ぶという風にやってきた。今日はみんなが素直だったので慧音にとってうれしい限りだっ
た。

 慧音と生徒たちは午後の授業をするために寺子屋へ入っていく。玄関で揃って慌ただし
く靴を履き替えていたとき、慧音の袖を、つい今しがた慧音に話しかけていた男の子がひ
っぱった。慧音は振り返って、泣き出しそうに見えなくもない微妙な表情の彼を見下ろす。

「どうした」

「妹紅は?」

 それは意表をつかれる言葉だった。

「もこう?」

「妹紅もいれようよ」

「何にいれたいんだ。ちょっと話してほしいな」

 すると他の生徒が加わってきた。

「おれたちの人数でしょ」

「え、にんずう?」

 慧音は目をしばたたかせて、他に何があるんだといわんばかりな顔の彼を見つめた。返
答に困っていると、それまで黙っていた生徒までもが妹紅をいれたい、いれろと言い始め
たので、ますます返答できなくなる。

 袖をひっぱっていた男の子が口をひらいた。

「人数って慧音が話してたやつだよ。ぼくがみんなにいったんだ。なんかかぞえてるって」

「ああ、なるほど……で、妹紅というのは」

「だからさ、妹紅も人数にいれようよ。みんなそういってるし」

 なぜ? と聞こうとした慧音は、みんなが余りにやかましかったので言い出す言葉を変
えなければならなかった。

「そうだな。とりあえず教室にいってから話すか。ここじゃせまい」

 みんなは慧音の言葉にしたがった。教室まで行く途中、生徒たちは二三人にわかれて妹
紅のことを話しあっていた。慧音は耳をそばだてて、友人の名前があがってきた理由を知
ろうとした。

 そういえば、と記憶をよみがえらせる。

 少し以前には藤原妹紅と生徒たちの一部がいっしょに遊んでいたことがあった。みんな
で集まり里の外へと逃げ出していた。逃げ出していくというのも、主に保護者がそれを認
めていなかったからだ。相手構わず弾幕ごっこを挑んでくるどうしようもない奴に出くわ
したら大変だし、自然が牙を剥くとも限らないし、そもそも藤原妹紅がついていくのが納
得できなかった。このような理由から、生徒たちの里外での冒険は不評だった。慧音もこ
れについては保護者からよく文句をいわれたが黙認していた。妹紅を信じていたのだ。

 生徒たちが自主的に止めることはないと思われていた。ところが、いつからか徐々に冒
険の回数が減っていき、しまいにバッタリ途絶えてしまった。生徒がいうには、妹紅が遊
んでくれなくなったそうだ。

 慧音が抱いたのは、そんなものだろうという感想だ。妹紅という奴は不老不死で何千年
も世をさまよっている。新しいことにすぐ食いつく半面でとても飽きっぽい。それが今回
も発揮されたに過ぎない。信じていると上述したが、あれは妹紅が子供たちを傷つけるよ
うな愚かな行いはしないだろうという意味だ。生徒に見切りをつけることはないとは、た
だの一度も考えなかった。

 慧音が生徒の話をくわしく聞いてみると、まさにその出来事に関することだった。妹紅
は繰り返し遊んでいた仲なのだから、慧音のかぞえる人数に加えてほしいという頼みだ。
実際に妹紅と遊びにいった経験がある者は多くないが、どの生徒も妹紅とは面識があった
ので、みんなが口をそろえた。

 慧音にしてみれば、そのいかにも純粋な願い事をけとばす理由はなかった。生徒の中で
反対している者はいない。また、個人的にも歓迎だった。つまり、あまり冷やかしてもら
いたくはない慧音のちょっと特殊な感情が、妹紅を仲間はずれにしなくてもよかろうと働
いたわけだ。それは出席簿の最下の欄外に“藤原妹紅”という名をやわらかい文字で記させ
もした。

 妹紅も受け入れてやろうといったところ、生徒たちは大騒ぎをした。午後の授業の大半
は彼らをしずめることに費やされた。

 こういう子供心にふりまわされるのは安いし、慣れている。慧音はとくに近頃はそれを
実感するようになっていた。というのも、今の彼女はある気味わるい疑念にふりまわされ
ていたからだ。常に、そう常に。たとえば通りでボールを追いかけながら童謡をうたう生
徒たちを目で追っていた間も。

 授業中も例外ではない。やっと静かになってくれた生徒たちを見回した慧音は、いかに
も快活に仕事をしはじめたが、笑顔のうらでは邪魔でじゃまで仕方ない疑念とたたかって
いた。授業がすべておわり放課後を迎えてからは、生徒たちの目もなくなったことだし、
ようやくやきもきした気持ちを顔に浮かべられるようになる。

 そんな疑念は常に慧音にまつわりついていた。





 何かがおかしい。

 漠然としてつかみどころのない疑念を、かれこれ一年と三ヶ月前から慧音は胸に抱いて
いた。

 疑念とはそこに書いた通り“何かがおかしい”だ。慧音にはうまく説明することができな
かった。いったい何がどうおかしいのか分からなかったし、そのおかしいと感じる何かで
さえ見当つかなかったからだ。おかしいのは自分なのだろうか、それとも他の誰かや物な
のだろうか、いっこうに分からない。

 このあらゆる部分で不明瞭な疑念をもう少し具体的に表すとしたらこうだ。世界は全て
歯車で形作られていて、その歯車のうちどれか一つがきしんでいるか、完全に抜け落ちて
しまっている。慧音にはそこまでは分かっていた。では肝心の歯車が抜け落ちている箇所
と、抜け落ちた歯車はどれかと尋ねられると、どもるしかないという状況だった。

「何がおかしいんだ」

 と、自慢の書斎で机に頬杖をつきながら慧音はつぶやく。一年三ヶ月前からこの些細な
つぶやきは日々の習慣と化していた。

 答えてくれる者はいない。

 慧音の机の前には棚が幾段も突き出ており、和書や西洋書がどっさりと天井まで並んで
いるが、ここに満足いく答えはなかった。書斎の奥にある倉庫を覗いてみると、識者なら
涎を垂らさずにはいられない古い書物が眠っているが、そこも慧音を喜ばせてくれなかっ
た。

 慧音はため息をついて、とっくに調べつくした本棚をざっと眺める。背表紙は見なれて
いる。中身も読みなれている。慧音のため息を止めるものはそこにない。

 これも習慣と化していた。このとき合図もせず書斎に入れば、憂いた姿の慧音を拝めら
れる。絵になりそうな、実際に寺子屋の生徒の一人が稚拙ながら絵に描いた過去もある、
なんとも儚い魅惑の女がそこにいる。

 厄介な疑念につきまとわれているせいで書斎の慧音は恐ろしく静かだった。書斎の外で
はまだ明るい顔をふりまいているが、ふとすれば難しげな表情になり黙考に落ちた。人に
尋ねることはできなかったが、ごく親しい者へは言葉をあやふやにして問いかけることも
あった。答えには期待していなかったので、そういう意味ではかならず期待通りの答えが
返ってきた。

 いつまでも書斎にこもっているワケにはいかないので移動する。慧音は衣裳部屋ともい
うべき部屋にはいった。左の壁際にはタンスが二竿、右の壁際には鏡台や姿見が置いてあ
る。なんとも贅沢にみえるが、空いている部屋をソレ専用につかっているだけだ。ここは
埃っぽいので、慧音は用事以外で近寄ろうとはしなかった。

 寺子屋教師として着ているいつもの服のうえに、壁にかけてあったコートを羽織る。姿
見でちょっと様子をみたあと、衣裳部屋を出た。

 どこにいようと、慧音の頭の中に巣くっている疑念は離れない。もちろんこれは快いこ
とではない。いちいち難しい顔になっていては印象に響くし、授業中なんかにそうなって
は生徒に誤解をあたえてしまう。作り笑いをうかべる数が増えているのも気に食わなかっ
た。例えどんな理由があったとしても、偽物の表情で過ごすことは気持ちよくない。

 早急に解決しなければならない問題だった。そう決意してからもう一年三ヶ月が経って
いた。解決の糸口はどこを探しても見つかる気配がない。しまいには、コレは解決できる
のだろうかと諦めさえ抱くようになった。実は何かがおかしいという疑念をもっているの
が自然なことであり、死んで焼かれるまでついてくる存在なのかもしれないと。

 そうした逃げ口でさえ塞ぐかのように、疑念は慧音をしめつけ続けていた。





 慧音はごくありふれた半人半獣だ。知識はそれなりに高く、力はまあまあで、社交性は
他の妖怪よりは優れていた。自分に特筆するべきところはないと自分自身で評価していた
ので、稗田家の幻想郷縁起にのせてもらったときは嬉しかった。天狗の新聞にのせられた
ときは嬉しくなかった。彼女は歴史を食うか創るかできる能力も備えているが、目に見え
て派手とはいえず面倒な性質でもあるため、言いふらさないようにしていた。もっとも、
幻想郷で彼女の能力を知らない人は多くなかった。

 歴史を創る。幻想郷に散らばるありとあらゆる知識や事情をあつめて編纂する能力なの
だが、慧音はこれを私的には殆どつかわない。使いどころがないというのがもっとも大き
な理由だ。だが最近になって私的につかわれる機会があった。

 慧音はここしばらく満月の夜を待ちかねていた。目的の日までこんなにソワソワして我
慢するのは久しぶりだった。満月になれば申し分のない獣化ができて、歴史を創る程度の
能力を余すところなく振るえる。そうすれば、心に取りついているあの疑念を解決できる
かもしれなかった。

 慧音は住処を出て人目につかない空高くまでのぼる。普段の彼女は青白い髪をしている
が、今は薄く緑がかった髪になっている。牛のような二本の角も生えている。コートは冷
たい風のふく大空へむかうために羽織ったものだ。それでも初春の夜空は肌を粟立たせた。

 何かがおかしい。このおかしな疑念をどうしても払わなければいけないと決意した慧音
は、満月の夜にそれを実行しようというのだ。こんな単純なことに気づくのに一年以上も
かかったのが悔やまれるが、そうとなれば早く済ませてしまえばいい。

 自分の能力で幻想郷中の知識を得れば、何がどうおかしいのかなんて簡単に片付くはず
だ。どうして今までそこに至らなかったのか!

 ずっと悩まされていたものからようやく解放されようとしている。慧音の頬は自然とゆ
るんでいた。

 慧音は目を閉じて意識を集中させた。ほかの者には決して感じとれないであろう、体の
奥深いところをおもてに引きだす。本人にとってはほんの些細なコツだが、説明をしても
誰にも分かってはもらえないだろう。引きだされたものは能力となって活動し、色々な知
識を慧音にむかって運んでくる。

 どこそこの家で誰かが倒れたというものから、妖精同士の口づけから、小さな雑木林の
腐葉土の上でマイマイがマイマイカブリに捕食されたという事実まで、漏れなく伝わって
くる。並の意識では知識の量に耐えきれず押しつぶされてしまうが、慧音の意識はこれを
あつかえるよう強靭になっているため心配いらない。十数分もすると知識は集め終わる。
さほど広くない幻想郷だからこそ短時間で済む。これは時と場所によっては何年も費やす
かもしれない作業だ。

 慧音はまだ整理されていない大量の知識をざっと眺めてみたが、求めるものがそこにな
いと分かると肩を落とした。だが諦めてはいない。知識はどれも断片的でまとまりがない
状態だから目当てのものと分からないだけで、紐付けをすれば姿を見せるかもしれない。
非常に手間のかかる作業だが、おだやかでない気持ちをおだやかにするためなら安いもの
だ。

 どうせいつもやっていることだ。慧音はそう自分を納得させると、はるか眼下の青い地
面に降りていった。知識の整理はさすがに空中ではできない。

 慧音の住処は里で唯一の寺子屋が正にそれだと捉えられがちで、合っているといえなく
もないが正解ではない。寺子屋は慧音が土地ごと手に入れた屋敷の一部を改造したもので、
いわば寺子屋つきの屋敷ということになる。独り身の慧音には部屋数が釣り合っていない
が、誰も何もいってこないので構いやしなかった。

 慧音は屋敷にもどると裏口から中へ入った。玄関は寺子屋用と決めているので、私的な
用事のときは裏口から出入りしている。まっすぐ書斎にいくと机にむかった。

 机の端には蓋のない色あせた行李があり、そこには大量の紙が用意されている。手元を
照らすランプに火をつけ、筆入れの空きビンから一本のペンを抜きとり、行李から一枚の
紙を取り出した。頭の中にどっしりと蓄えられている知識を吐き出しにかかる。

 これは幻想郷の著作家にとってまったく幸運な話だが、紙が急速に普及しだしたことで
手軽な執筆が可能となると、炭を用いた筆よりも鉛筆や万年筆のほうがはるかに重要視さ
れるようになった。懐に余裕があってモダン趣向な者はタイプライターを持つ。一筆の手
間が少なくなるという恩恵を、慧音も甘んじて受けていた。今はペンをもっているが、近
いうちにタイプライターを手に入れるつもりだ。

 慧音の記憶にとどまっている幻想郷のあらゆる出来事は、丁寧だがやや角ばった字で紙
面に写されていく。装飾がなく当たりさわりのない若干古風な文章で淡々と列挙されてい
く知識たちは、瞬く間に一枚の紙を埋め尽くす。二枚目の紙も、三枚目も。このようにし
て幻想郷の歴史は創られていき形として残る。地味で、時間のかかる作業だった。

 夜は過ぎていく。行李の紙が減っていき、べつの行李の紙が増えていく。時が刻まれて
いる証拠だった。紙の減りようは慧音に残り仕事量を知らせ、疑念の元を追いつめている
感触もあたえていた。

 日の出とともに慧音の作業はおわる。目当てのものにはたどり着けなかったが、作業自
体はいつもに比べて順調だったので彼女を気持ちよくさせた。この頃には慧音の獣化は解
かれている。

 書斎を出て、体を洗い朝食をとったあと、寺子屋を開くための準備をはじめる。教材を
揃えて前日のうちに用意していた授業内容を見直したり、教室の掃除をしたり。そうこう
しているとあっという間に生徒たちの集まる時刻が近づいてくる。

 ずっと机にかかりぱなしだったので、慧音は腰と腕に違和感があった。デタラメな動き
をして紛らわした。

 忙しければ疑念は心に表れなかった。考える暇がないというのは、場合によっては素晴
らしいことだと、慧音が一年三ヶ月の末に学んだことだ。

 慧音は登校する生徒たちをその目でみるために玄関前に出る。差しこんでくる眩しい朝
日を避けるために近くの木の下に立つ。徹夜明けであることを匂わせないほど顔も体もし
っかりしている。歴史の編纂をする時期はいつもこうなので、とっくになれていた。だい
たい一日や二日寝ないくらいでは彼女の調子は崩れない。しかし、生徒を待ちかまえてい
る間のドキドキする気持ちにはいつまでたってもなれなかった。

 通りを横切るおじいさんと挨拶を交わしたりもしながら時間をつぶしていると、やがて
子供たちがぞろぞろ姿をみせる。全校生徒は三十人ほどで、登校時はみんな揃ってやって
くる。はつらつとした子もいればあくびをしている子もいる。口ぐちに挨拶をなげかけて
くるので、慧音は何度もおはようといった。このうちに生徒たちをざっと眺めて様子を確
認する。誰が来ていて誰が来ていないのかも見分けておく。今日はみんないた。

 玄関から寺子屋へ入っていく生徒たちは微笑ましい。押し合いへしあいで喧嘩になるこ
ともあるので注意はしておかないといけないが、それにしても可愛いものだ。

 慧音はにこやかに生徒を迎えていたが、ふいに顔を曇らせた。朝はずっと潜んでいたは
ずの、お呼びでない例の疑念が唐突に顔をのぞかせた。

 ああ、またか。

 そうやって落ちこむのは何回目になるだろうか。慧音はいったい幾度となく平穏な心を
かき乱されたか。だが、今日のこれは今までと少し違っていた。

 慧音はハッキリと、生徒の集団に対して“何かがおかしい”と感じていた。生徒にむかっ
てこんな感情を抱くとは思わなかったので不快だった。しかし奇妙だ。玄関に集まってい
る生徒から漠然としたおかしさを感じているものの、やはり具体的に話すことはできなか
った。生徒そのものか、生徒のどれか一人か、生徒の持ち物か、生徒の服か。

 慧音は自分でも気づかぬうちに腕を組み、睨んでいるような表情で生徒たちを見つめて
いる。悩みごとにぶつかると、本人が意識している以上にいかつい態度が表れるのは、よ
い癖とはいえない。彼女の頭は生徒の何がどんな風におかしいのかを目下検索中で、生徒
の一部が怪訝な目をむけていても気付かずにいる。

 そのかいがあった、といってよいのかは分からないが、慧音の視線はある一点に注がれ
ることとなる。生徒のなかでいちばん背が低いとある女生徒の、中途半端な長さに揃う髪
の毛を後ろでまとめる、赤いボンボン。

 なぜだか無性に興味を惹かれた。おかしいと感じていたのはボンボンだったのだろうか
と疑わずにはおれないほどに。

 女生徒の頭で揺れて、持ち主の愛くるしさをたかめており、ややしなびている。つけな
れている。なんの変哲もないはずだが慧音をとらえて離さない。理由は分からないが見て
はいけないものを見ているような気がしてきた。

 ボンボンをつけた子が玄関へ消え、慧音の視界には他の生徒がおさまった。その女の子
は振り返って声をかけてきた。

「慧音どうしたの? 気分わるいの?」彼女の声と顔が慧音を我に帰す。

「いや、だいじょうぶ。早く入れ」

 実際のところ慧音の気分は最悪といってよい。まるで誰かに糸をひかれて、生徒からボ
ンボンまでの道を一気に駆け足させられたようだった。そういう操られている感じを慧音
は、いやほとんどの者は好かないだろう。まだ例の疑念が頭から離れてくれないことも手
伝っていた。





 赤いボンボンは幻想郷のどこで手に入るのか。里でボンボンやかんざしなどの小物を売
っている店はせいぜい四つくらいだ。里の外だと香霖堂にいけば見かけられる。危険を承
知で無縁塚に足を運べば拾うこともできる。他にも場所はあるようだが慧音は赴いたこと
がない。

 慧音は赤いボンボンが気になって仕方がなかった。もちろん、もうひとつの迷惑このう
えない疑念は健在だが、今は赤いボンボンが特に関心を惹いていた。寺子屋での授業中や
休憩中にも、ボンボンをつけた生徒を観察し続けた。生徒を困らせないよう気づかせない
よう、極めてさりげなくそれを成し遂げていたのはさすが慧音といったところか。

 ボンボンを身につけている生徒は三人いて、赤いボンボンはそのうち一人だ。慧音はこ
の数字になんらかの意味を見出そうとした。しかし過去にそうやって動いてみて徒労を味
わった経験がある。なにもかも疑念のせいで、疑念は人を振り回すのが大好きだと教わっ
た。人数についてはそれとなく心にとどめる程度にしておいた。

 まずは赤いボンボンを調べる。慧音はそう決めた。明確な指針がでてきてくれたことに、
実はかなり喜びが沸いた。何度もしつこいが一年と三ヶ月の間はまさに暗中模索だったた
め、些細なものでも大きく感じられた。

 寺子屋での授業がおわったあと、赤い夕陽の差しこむ教室で、他の生徒もいるなか、慧
音は赤いボンボンの女生徒をつかまえた。

「ちょっといいか」

「どうしたの」

 慧音が呼びとめると女生徒は嬉しそうに言葉を返してきた。きっとこの子は慧音に呼び
とめられた経験がなかったのだろう。お菓子をもらう前のような笑顔をしている。慧音は
よくもわるくも先生として認識されていないから、生徒もこういう顔になる。

「頭につけているそれ、赤いボンボン、いいな」

「これ? いいでしょう。慧音もつける?」

「いや……うん、そうだな。私もつけてみたいな」

「はい」

 女生徒が髪を結うボンボンをほどいて慧音に手渡す。

 慧音のちょっとした発想だった。自分が身につけてみれば閃きがあるかもしれないと考
えた。

 いつもの帽子をぬいで教卓におく。自分の頭をなでつけたあと長い髪を適当にしぼり、
できた髪の束に赤いボンボンを通そうとした。生徒からの目が気恥かしく感じるくらいに
は手間取って、ようやく形の悪いポニーテールを作ることができた。二重に巻いたゴムの
部分に髪をたくさん巻きこみ、慧音から見て左側に偏っていた。

 あちこちからクスクスと笑い声が聞こえてくる。ボンボンをくれた女生徒も遠慮なく笑
う。

「おかしいか」

「うん。慧音おかしいよ。へたくそ!」

「これはどこで買ったんだ」

「うんとねえ、あそこ、ええっと、駄菓子屋さんの二つとなり」

 駄菓子屋と聞いた慧音の頭には少なくとも三店舗が浮かびあがってきたが、その二つと
なりまでは想像が至らない。

「いってみれば分かるよ」

 女生徒はそういった。きっと首をかしげる慧音を案じてのことだろう。

 慧音は感謝しながらボンボンを女生徒に返す。自分はポニーテールを作るのが下手だっ
たと自覚する以外に収穫は得られなかった。

 女生徒が教室から出ていった。慧音は他の生徒にも帰宅をうながして、教室をからにし
た。勉強を教えてくれとせがむ生徒もいなかったので彼女はずいぶん助かっていた。なに
せ歴史の編纂中だったし、厄介な問題はずうずうしくも自己主張をくりかえしている。こ
れでは教えられるものも教えられない。時間も足りない。

 教卓に置いていた帽子をかぶって、まだ生徒が残っていないかと寺子屋を見回りにかか
る。屋敷まで入りこんでいるときもあるから、見回りはどうしても必要だ。個人的な部分
をみられるのは慧音といえど我慢ならない。

 これを終えたら休憩をはさんで編纂にもどろう。そういう予定をたてながら屋敷の廊下
を渡っていた。ボンボンの売っている店を調べて回るのは数日先になりそうだった。表情
はうかなかった。

 いくつかの使っていない部屋を見回ったあと、息をつきながら廊下の窓のそばによって
かかった。磨りガラスのはまる窓は西日を受けて橙色に燃え盛っており、慧音の顔に深い
影をつくった。慧音は空気の入れ替えをしたくなり、錆びかけの鍵に手をかけた。

 唐突に、藤原妹紅の姿が視界をおおう。

 居場所は光のないしずかなところで、ごちゃごちゃしているという印象はするものの、
景色はぼやけていて読み取れない。妹紅が暗い表情でなにかを喋っている。口が動いてい
るようだったが、どんな動きをしているのかはさっぱり分からず、そこから漏れているで
あろう声も聞こえてこない。なにより慧音のほうを向いていなかった。ただハッキリとあ
る方向に目が合っているらしい。そこには慧音と妹紅の他に誰かいるようだが、景色と同
じで見当がつかない。妹紅は誰と喋っているのか。妹紅とその相手は立っているのか座っ
ているのか。それさえ不明だ。

 やがてその光景は霧のように晴れていった。慧音は窓の縁を指が痛くなるほど握りしめ
てまわりに目をくばる。ここが屋敷だと確認できてからようやく指の力をゆるめ、さっき
の記憶だか幻だかを思い返す。

 おかしな光景だった。これが記憶だとしたら、こんな経験はした覚えがないと脳が訴え
かけてきている。幻だとしたら、なぜこんなものを見なければならないのだろう。慧音が
妹紅を胸に描くことはしょっちゅうあるが、今のような寂しげな姿はその限りではない。
慧音の中にいる妹紅は笑っているか、仏頂面かのどちらかだ。

 慧音は窓際でぼうっと答えを探し続けた。日が落ちて廊下がすっかり暗くなった頃によ
うやく自分を取り戻して、いまだにちらつく妹紅の姿を振り払いながらその場をはなれた。

 休憩をとったほうがいい。

 あと、念のために眠ろう。

 まもなく至った結論だ。

 残念ながら、慧音は体を休めることには大いに成功したが、頭を休めることには完全に
失敗してしまった。得体の知れぬ悩ましい感覚や身に覚えがない奇妙な記憶が一度に降り
かかってきている状態を、ひとまず放っておく、という選択肢にゆだねられる性格ではな
かった。このあと彼女はいくらかの家事をこなしていったが、その間も頭は目まぐるしく
回転していた。

 一日のおわり、寝室にやってきた慧音は明かりを消し、あらかじめ敷いておいた布団に
寝転がると毛布をかぶった。敷布団のひんやりとした感触が足先にじくじく伝わってきて、
当分は温かくならないという感じを与えた。両足をこすり合わせながら冴えに冴えた目を
暗闇でぐりぐり動かした。天井のシミを見つめて、人や顔に見立てた。恐怖が芽生えてく
れればいいのに、と願ったのだ。だが意識はすすんでほしくない方向にすすんでいく。

 観念して思索にふけることにした。

 複数の疑念ができてしまったので、これらを整理して、あらゆるものに結び付けてみよ
うとした。興味深いキーワードが揃ったいまなら、どこか、結びつく事柄があるかもしれ
ない。そう信じた。慧音の頭中を言葉とイメージの嵐が吹き荒れる。赤いボンボンにくっ
つこうとしたり、妹紅にひっつこうとしたり、およそ関わりのないものが踊り出てきたり
する。無常にも夜は過ぎていった。

 慧音をもっとも困惑させた部分を紹介しよう。

 妹紅だ。

 夕日に染まる窓を開けようとしたとき彼女は呼び出された。しかしそこに表れた彼女は
記憶にはない。これはあまり喜ばしくない事態だ。なぜなら慧音はつい前の晩に幻想郷の
歴史をすべてたくわえたばかりではないか。幻想郷で起きたあらゆる出来事を一時的にと
はいえ知っている状態になった。妹紅の件だって知っていないと変ではないか。自分の体
験した出来事だけは見逃すなんて、そんな器用な(不器用な)能力ではない。

 幻覚や妄想のたぐいが急に顔を出した? ありうる。ない、と言い切るほうが危険だ。
窓が関係しているのかもしれない。夕日が関係しているのかもしれない。赤いボンボンも
そうかもしれない。そんなことより、眠れなかった。

 眠れない! 新たな悩みの種が慧音をおそっていた。

 もやのかかった重たい頭が気に入らなかった。しつこく寝返りをうつが睡眠にはつなが
らなかった。寝るのは困難を極めていると悟り、仕方なく床を離れるしかなくなっていた。

 たしか前日の朝にはこう考えていたはずだ。考える暇がないというのは、場合によって
は素晴らしいこと。その教訓を慧音はしみじみと痛感し、すっかり忘れていた歴史の編纂
に手をつけることにした。

 書斎に入って、机の上の紙をひたすら突く素敵な作業。歴史のことだけに頭をつかい、
編纂だけに意識を振るう。慧音の握るペンがカリカリと鳴き声をあげはじめる。

 集中できなかった。

 立ち上がった慧音は勢いにまかせてペンを投げようとふりかぶったが、その力む腕をす
ぐさまおろす。さすがにそこまで苛だってはいなかった。ペンを空きビンにさして書斎を
出ると台所によった。封のきられていない赤茶色の細長い酒ビンとグラスを持ち出すと、
書斎に戻らず居間によった。

 草木も眠る丑三つ時さえはるか彼方に過ぎ去った深夜のこと、慧音はとうとう酒を飲ん
でしまった。明日寺子屋は休みだ、という日以外では控えるようにしていたのだが、すで
に何年も守られていたのだが、とうとう解禁してしまう。いつだったか、香霖堂に訪れた
ときに一目ぼれして購入した小ぶりなシノワズリ柄のグラスに、なみなみと注がれた幻想
郷産の地酒。里の人が作り売っている夜のお供。甘かった。喉がしめった。ため息がこぼ
れた。ゆっくりと後悔が押し寄せてきた。ついでに疑念の数々が脳内で踊りつづけていた。

 卓によろよろとくずおれた慧音は酔いにまかせて頭をからにしようと試みたが、あいも
かわらず混沌としている。このまま酒におぼれて堕落してしまいそうな予感がした。大げ
さすぎるが、今はそのくらい明るくなれなかった。

 グラスの面に踊る花模様に視線をはわせていたとき、ピンとくるものがあった。





・通知
 本日の寺子屋は臨時で休止とさせていただきます。急な通知で申し訳ありません。御用
 の方は用意されている用紙へ記して掲示板に貼っておいてください。

・生徒たちへ
 今日が提出予定の宿題は明日を提出とします。しっかり勉強してきちんと提出できるよ
 うにしておきましょう。


 読みやすさを考慮したごく丁寧な字が紙の上半分を埋めている。この紙は寺子屋の玄関
そばにある掲示板に張り付けられており、すぐ横には“重要!”とだけ走り書きされた紙も
ある。無駄遣いのようでいて、そうではない。この掲示板にはその他さまざまな、およそ
寺子屋の行事とは関連しないものも掲示されているため、確実に伝えたいことがある場合
はこうするしかない。“博麗神社の賽銭箱をのぞきにいこう”といたずらを予告した掲示の
ほうが目立っては困るからだ。

 寺子屋の玄関扉には灰色の錠前がかかっており、ここにも寺子屋が休止である旨を記し
た紙が貼りつけられている。裏口や窓の数々も閉まりきっている。きちんと閉めておかな
いと生徒がそこから侵入してくることがある。慧音は朝のうちに外出していた。

 二日明けを迎えたうえにアルコールの混ざった慧音の頭は、一見まともに働いてくれそ
うにない。だが呑んだ酒は人間産の地酒に過ぎず、これでつぶれるようでは世間的に妖怪
として生きていけないだろう。つまりピンピンしていた。比較的マトモだった彼女は、疑
念が解決しないことには業務に支障がでると考え、明け方頃には寺子屋を休止させて外出
する準備をととのえた。

 いつもとちがう控えめな服に着替え、普段と異なる丸い帽子を被り、駄菓子屋を探すこ
とになった。慧音らしからぬ姿をしているのには理由があった。一言でいうなら人目を避
けるためだ。先生が寺子屋の授業をやめて駄菓子屋巡りに勤しんでいるなどと知られたら
どうなることか。特に、生徒の親には絶対に秘密にしておきたい。といっても、どうせす
ぐに片付くだろうと高をくくっていた。不幸なことにその目測は誤っていた。

 駄菓子屋は里にせいぜい三店舗くらいだろうと記憶していたが、朝も間もないうちから
六つも見つけてしまっていた。そのうち四つは駄菓子屋も兼ねる別の店といった具合だっ
たが、それにしても多いではないか。さて、女生徒はなんといっていたっけ? 駄菓子屋
の特徴は? 駄菓子屋という言葉のほかに慧音は何も教えてもらっていない。

「ロクな計画もせずにうごくから大変な目にあうんだぞ」とは、慧音が過去に妹紅におく
った言葉だ。それが彼女にはフラッシュバックしていた。なぜなのか考えたくもなかった。

 しゃにむに、一つ目の駄菓子屋によってみる。左右それぞれ二つ横の建物を眺めてみた
が、店ではなく民家が建っていた。女生徒の言葉を疑っているというワケでもないのだが、
念のため三つ横や対面も眺めてみた。それらしい店はない。

「おはようさん」

「お、おはようございます」

 だしぬけに通りがけの男が挨拶をしてきたので、慧音は面食らう。せっかく箪笥をひっ
くり返して服を選んだのに、正体がばれているのではないかと恐れた。だが男は挨拶をし
たっきりぷらぷらと歩いていく。普段なら敬語で、なおかつ「慧音さん」とか「上白沢さ
ん」とか付け足されるものだ。大丈夫なのかもしれない。

 挨拶をうけた反動は慧音の警戒心を知らずしらずのうちに尖らせた。これはよくない。
上白沢慧音によく似た人物が挙動不審になりながら駄菓子屋を見てまわっているのは、教
育者としてよろしくないといったお声をいただくに充分だった。

 そろそろ生徒たちが学校に到着して、寺子屋の通知を読むなり喜びを顕にしている頃だ。
さっそく遊びにいこうとする生徒と出会う確率は高い。悠長にしていられなかった慧音は
つぎの駄菓子屋に急いだ。

 二つ目の駄菓子屋によってみると、左は空き地で右にはやぐらが建っていた。ここでな
いのは一目瞭然だ。三つ目はすぐ近くにあり、古道具屋を営むついでに菓子も売っている
という具合をしている。店の前にまで品物とそれの置かれたテーブルが飛び出ている。幼
い子がこの眺めをみて駄菓子屋と呼ぶかどうか、実に怪しかった。

 次の店にいこうとして体をねじった慧音は、慌てて古道具屋に向き直る。

 数人の生徒がこちらへ走ってやってきたのが一目で分かった。慧音は古道具屋の店先に
展示されていた駒が不ぞろいの将棋盤を、珍しげに物色する客を演じなければならなかっ
た。生徒の甲高い声が通り過ぎていくまで“桂馬がありません”という注意書きを穴があく
ほど見つめ続けた。

 間もなくすると生徒は立ち去った。慧音はホッとしながら彼らの後ろ姿を見つめて、い
いようのない不安に駆られた。はしゃいでいる彼らに何かが足りないような気がしたのだ。
例によって説明はできそうにない。表情がくもった。生徒に対して“足りない”と考える自
分があさましかったからだ。

 慧音の心労は少なくはなかったが、これは四つ目の店へ訪れたところ、多少はやわらぐ
運びとなった。その店の前に立って左側へ首をまげてみると、二つ横の店がなんと着物屋
だったのだ。古着や洋服も扱っていて、正面はさっぱりした雰囲気で子供でも入りやすそ
うだ。女生徒がここでボンボンを手に入れたのだとしても違和感がない。

 さっそくお邪魔する慧音。店内を流し目に見てまわる。着物が壁からいくつもぶら下げ
られているコーナーに来たとき、かわいい着物を見つけて立ち止まる。妹紅には薄桃色で
もちょうどいいという感触を得たが、しっかり確かめる前に立ち去った。

 間もなく装飾品のコーナーへさしかかったが、探すまでもなく髪飾りの並ぶ棚を発見し
た。ボンボンもそこにあり、数種類の色と柄にわけられていた。赤色もあった。手ごろな
値段で、買ってみるのもわるくなさそうだった。

 慧音は赤いボンボンを手にとると、広げたり曲げたりしてみる。そうしていると何とな
くこみあげてくる感情があった。かわいい髪飾りには、間違いなく慧音の胸中を刺激する
何かが潜んでいた。だがこれをどうすればいいのかは未知だ。買えばいいのだろうか。買
って身につければ頭にかかる雲が晴れるのだろうか。

 また暗礁にのりあげるのを恐がる慧音は、とにかく何でもやってみようという意気込み
をこめて、赤いボンボンをカウンターへ持っていった。

「ああ、上白沢さん。ごきげんよろしゅう」

 店員の正面に立った途端にそういわれたが、慧音は臆さない。

「これをくれ」

 小銭を渡すと、お釣りが返される。店員の流れるような手際のあとに、慧音はちょっと
尋ねたくなった。

「これを買った者はどれだけいるんだ」

「さあ、ハッキリとは覚えてませんねえ」

「○○ちゃん(女生徒のこと)はここで買ったらしいな」

「ああ、○○ちゃん。思い出しましたよ。あの子だけですかね。赤より黄色のほうが人気
あってねえ。ああでも、売った覚えがないのに赤が減っていたことはありましたよ」

「ほお。ひょっとして盗まれたのか」

「いやですよ。そんなことはありませんって。そりゃ念のために勘定を数えなおしました
けどね、減った分ちゃんとお金がありましたから」

「数えなおしたのか。大変だったろうな」

「大変に決まってるじゃないですか。けど、こんなのよくあることですよ」

「そうか。……ついでにあっちのピンクの着物もくれ。寸法かえられるか」

「はいはい」

 話らしい話といえばこのくらいだった。

 本当はここで大きなヒントが得られると期待していた慧音だが、財布が軽くなったに過
ぎなかった。店の景観に注意を引かれることもなく、品ぞろえはいたって平凡で、人がよ
さそうな女性が店員で。

 慧音は購入したものを手提げ袋におさめると店を出て、通りを早足でこそこそ歩いてい
った。あんがい、他の店にもよってみればいいのかもしれない。そんな発想はあったもの
の気分にはならなかった。次にいくべき場所があった。そのために市場へよって、彼女に
は間に合っているはずのありったけの食料品や日用品を買いあさった。

 こうして世話を焼いてやらないとミイラになってしまうのではないかと彼女を心配させ
る人がいる。実際には杞憂もいいところで、その人はその人なりに勝手気ままに過ごして
いる。

 妹紅のことだ。

 慧音が妹紅のところに行こうと決めたのは、昨日の幻が原因には違いない。あれについ
て本人に尋ねないことには、ワケが分からないあまりウズウズして仕方がない。さらに、
ここ数日は顔をみせていなかったし、せっかく寺子屋を休止にもしたのだし、訪れておき
たかったのだ。だから慧音が練っている来訪のいいわけは「たまたま寺子屋が休みになっ
て!」とか「偶然にもいとまを得る機会があって!」とかいうものだった。

 大量の買い物袋をかかげた慧音は最大限に忍びながら里を出た。慧音らしからぬ速度で
空を飛んでいき、瞬く間に迷いの竹林の近くへたどりついてみせた。

 竹林の入り口付近には年季のはいった小さな建物がある。あるといっても発見するのは
難しい。雑木林のど真ん中の土地を借り、あらゆる木々と名無し草に囲まれ徹底的に秘匿
されているからだ。運良く見つけられたとしても、齢を重ねた風貌のモノ凄さに尻ごみし
てしまうこともある。廃屋だと勘違いしてしまうこともある。そのようにして近づきもし
ない場合がある。しかし、この場所をあえて求める人間ならば、ここに藤原妹紅ありと、
そうでなくても噂の不死人ありと知っているはずで、引き返す理由はまずなかった。

 慧音はそこに降り立つと、まっすぐ定めた方向へ歩いていく。木々をかき分けていけば
間もなく年代物の民家が現れる。慣れてはいたが、民家を見つけられたことに安堵をする。

 さっそく母屋にむかって声をあげた。

「妹紅、いますか」

 返事がくるのを待たずに玄関戸を引いてお邪魔した。中はひっそりとして空気が冷たく、
ひと気を感じさせなかった。

 奥の居間まで進んでみると、人の形をして衣服をまとう物体が畳みの上にころがってい
た。ギョッとする慧音。

「だいじょうぶか!」

 買い物袋を投げ出してさっと駆け寄る彼女はすばやかった。仰向けになっていた妹紅を
激しくゆすぶりだす。

「おいっ、どうした! 生きているのか? 死んでいるのか? 生き返るのか?」

 からだを右に左に揺り動かされていた妹紅の顔は、無表情だったところ口がへの字に曲
がり、ついで眉が八の字に曲がる。目を開いたときはいかにも迷惑そうな顔を作り終えて
いた。慧音はまだ腕をどけない。

「生きていたのなら返事をしろ!」

「私が死ぬわけないでしょ。休んでいただけよ」

「寝ていたんじゃなかったのか。布団もしかずに、風邪をひくぞ。風邪をひきたかったのか」

「風邪なんてひかないわよ」

 妹紅が上半身をあげる。彼女のしっかりした瞳に射抜かれた慧音はつぎの言葉をうしな
った。彼女の瞳からなんとも言い難い寂しげなものを感じとった。実際に妹紅の様子には
普通とは程遠いものがあった。乱れて扇形にふくらむ髪のせいか、感情のこもっていない
表情のせいか。

「たまにしたくなるのよ。頭を無にして横になるの。こうやってなにもせずに過ごす。そ
うするといろんなものが消えていく。自分のこととかお姫様のこととか、すべて消えてい
く。絡みつく世の中のしがらみから解放されていく。そんな気がする。長くてね、三日も
続いたことがあるのよ。すごいでしょ。まあ、それ以上は空腹に耐えられなかったんだけ
ど。私には断食は無理ね。あ、これは断食じゃないからね」

 まるで昨日食べた夕飯の献立を語ってでもいるかのように、飄々とした口ぶりだった。
なのに、いや、だからこそ、慧音には憐憫として聞こえた。

 妹紅がバツのわるそうにしていたので、慧音はそれまでの気持ちをひっこめた。そそく
さ立ち上がり、買い物袋からころがり出た品々を拾いあつめることにした。妹紅が半目で
それを追いかけていたが、やがて手伝いに加わった。

 バツのわるいのは慧音も同じだった。なんといったって、ただ横になっているだけの人
間を捕まえて生死を尋ねてしまったのだし、勢いに任せて言葉づかいを乱してしまった。
妹紅に対しては敬語でないと居心地がわるい。理由はこれと決まっているわけではなかっ
た。慧音本人がいうに、年の差がそうさせているという。

「また服を買って、私にはいらないっていってるのに」

 会話がはじまったとき、慧音はちょっと気を引き締める。

「長生きするから服に気をつかっても仕方がないってことでしょう? そうはいきません。
近頃は人前に出る機会だって増えてきたのに」

「あ、みかん」

 妹紅は買い物袋からネットに包まれた六つのみかんを見つけだすと、そんな声をあげた。
部屋の隅にどけられていたちゃぶ台を引っ張りだしてそこに落ち着いてしまった。皮をむ
きはじめ、柑橘類の香りを漂わせはじめる。ところで彼女はどのくらい横になっていたの
だろう。時間によっては手を洗ってもらいたいものだがと、慧音をすこし心配させる。

 慧音は片付けをしながら妹紅の横顔を見つめる。みかんに下鼓をうつ、端正な顔立ちが
そこにある。鼻先から目がしらにかけて追いかけていると、お呼びでない感情が慧音の心
に表れてきた。

 そう、まただ。あの忌々しい疑念はこんなところにも出しゃばってくる。同時に、妹紅
の花咲く笑顔を塗りつぶして、哀れみのこもる顔が見えてくる。薄暗い部屋だと、言いた
くはないがよく似合っていた。

 慧音の記憶がよみがえる。もやもやとした湿っぽい暗がりの中、明るくない表情の妹紅
がなにごとか呟いている。どこかに腰をおろしているような気がする。目の前にいる彼女
みたいにあぐらをかいているのかは分からなかったが、とにかく立っていないことは間違
いなかった。この部屋こそが、まさに幻と同じ場所なのかという推測が頭をかすめた。が、
みかんをつまむ妹紅がこちらへ顔をむけたとき推測が崩れおちる。

 ここではない。妹紅はこちらへは振り向かない。そんな不思議なものを見ているような
顔でもなかった。

「どうしたの。みかん食べちゃだめだった?」

 違う。もっとこう自分を責めているような言葉を口にしていた。決して軽くない話を聞
いていたというか、聞かされていたというか。判然としない。

「慧音?」

 慧音は正気にもどった。

 妹紅が奇異な目をむけていた。自分がさっきまで想像の世界へ飛んでいたことに申し訳
ない気持ちになりつつも、探究心が抑えきれなくなった。

「ちょっとお尋ねしますが」

「うん」

「過去にこの部屋で、妹紅はなにかを話してくれましたか? その、なんというか、大事
な話を」

「……どういうこと?」

「誰かに大事な話をしていた。私じゃなかったような。いや……私だったかも……」

「要領を得ないわね。もっとちゃんと教えてちょうだい」

「ああ、いや、いいです。もういいです。変な質問でした。すみません」

 慧音はもっと的確な言葉で尋ねようとしたが、やめておいた。いまの自分は明らかに混
乱しており、マトモに尋ねることができない。できたとしても、マトモな答えがもらえた
としても、処理しきれないだろう。

 この短時間で二人はギクシャクとしてしまった。妹紅のみかんを頬張る手がとまり、こ
ちらへジッと視線を注ぐのが慧音には耐えがたかった。なんとか取り繕おうとする。

「そうだ。今日どうして私がここに来たのか、分かります?」

「いや。どうして来たの」

「偶然にもいとまを得る機会があって!」

「まあ、そんなところだろうな」

 つぎの言葉がでない。この会話は失敗だった。

 妹紅はものもいわずに再びみかんを食べはじめる。慧音の手元にもみかんがあれば多少
は幸せだっただろう。そのかわり市場で買った品物がころがっている。まだ集めきれてい
なかった。慧音は片付けを再開する。

 日用品と衣服は買い物袋の外にあっても構わないが、食料品は少し困る。食料品だけを
買い物袋に集めて台所へ置いておくことにした。すると慧音は手持ち無沙汰になってしま
ったので、ついつい何かやろうかと聞かずにおれなくなった。掃除ぐらいしかないという
声を聞いて、壁にたてかけてあった箒を迷わずつかんだ。

 今に限ったことではないが、慧音の思考回路はすっかりユニークなものに変貌していて、
手あたりしだい疑念の発端ではないかと疑うようになっていた。例えば今は掃除のための
箒を疑っている。実はおかしかったものは箒かもしれないと仮定し、手に馴染みづらいか
らおかしいのだという解に至った。なぜ手に馴染みづらいのかというと、妹紅のものだか
らだ。

「はあ」

「どうしたの」

「色々とあるんですよ」

 慧音はため息をつく。最近はため息の回数が多くていやになってきていた。この一年ち
ょっとで吐き出されたため息の量は、それまでの数百年間に吐き出されたそれを凌駕して
いるのではないだろうか。まさかため息の量に真実が隠されているのでは! そんなわけ
がないと、慧音はため息をつく。

 小さな箒でぞんざいに掃いてまわっていた掃除も止めてしまった。部屋の空気は和やか
とはいかないまでも会話を交わせる程度には落ち着いていたので、慧音はさっそく妹紅の
そばに腰をおろし、ともに黄色い果物を味わうことにした。慧音にしてみれば、このくら
い近づけないとココに来た心地がしなかった。

「ちょっとお尋ねしますが」

「またか」

「どこかで会話したことはありませんでしたか? 暗い場所で、あまり気持ちよくない話
を」

「暗い場所ねえ。夜ってこと?」

 慧音は口ごもる。夜なのかどうかでさえ分からなかった。どうにか新しい手掛かりを絞
りだそうとする。

「そうだ、ごちゃごちゃしているんですよ。ごちゃごちゃしていて、広かったような」

「ならこの家ではなさそうね」

「いやあどうだったか……この家かもしれません」

「何なのよ。じゃあどこなの」

 妹紅はみかんの二つ目を食べ終えたところだった。体はすっかり慧音のほうに向けられ
て、険しい顔つきだった。

「私も思い出そうとしてはいるんですが、さっぱりなんです」

「そう。なら場所はもういいから。どんな会話だったのか教えてちょうだい。それで思い
だせるかも」

 やはり答えない。慧音には答えられないのだ。どんな会話か知りたいのは慧音のほうだ
し、そんな会話が本当に交わされたのかでさえ怪しいというのに。

 口ごもっていると場の空気はますます険悪になっていく。慧音はふきげんな妹紅を見た
くなかった。話題を変えなければいけない。そこで、苦し紛れにあるものへ行きついた。

 みかんに濡れた指先を服で拭き取ったあと、懐に入れておいたものを取り出した。

「これを見たことはありますか」

 ちゃぶ台の上、みかんの皮が積まれている横に赤いボンボンをおく。そのとき、妹紅の
顔にほんの一瞬だが変化がおきた。そういう反応を求めていた慧音なのだから見逃すはず
がなく、興奮気味に尋ねた。

「見たことあるんですか」

「いや。ない」

「ない……んですか?」

「うん。ない。あ、待てよ。○○ちゃんがつけているヤツだ」

「ほ、ほかには」

「ほかにっていわれても、知らないわね」

 妹紅はさらに不機嫌になってしまう。ムスッとした表情、つっけんどんな態度。慧音は
懲りずに繰り返し尋ねてみたがしつこいと一蹴される。これがいけなかった。





 上白沢慧音が怒る瞬間をごぞんじだろうか。

 たびたび生徒を叱りつけたり、あるいは強烈な頭突きを見舞っている姿が見られるが、
これは職業ゆえに発生する一種の基本業務であり彼女の本心ではない。彼女が芯から怒り
を放つときは、あまり知られていないのだ。ではどういう場面で怒るのか。慧音の沸点は
どちらかというと高いところにあるものの、結局のところ時と場合によった。誰だってそ
うだろう。沸点はひとところには決して留まらない。半獣なりに長い人生を謳歌して、す
ったもんだを経験し、堪忍袋も自然とのびてはいるようだが、だからといって下手に接す
るのは危険だ。さっきも記したとおり、沸点がびっくりするほど低くなっているときもあ
るからだ。

 あえていえば、それは今このときだった。

 妹紅から邪険にあつかわれたことをもって慧音は怒りをむかえたが、それは否定を重ね
る相手に対抗心が膨れあがる形となってたちまち表にでた。この早変わりは相手どころか、
自分にさえ予想できなかったことだろう。

「知らないなんて。どう見たって何か知っているような態度をしていますよ」

 実は外面のうえでは、慧音はいうほどの急変をみせていなかった。ほんのすこし声色が
ちがってはいたが。

「知らないものは知らないわよ。しつこい。いくら慧音でも困るわね」

「しつこいのは誰のせいですか。妹紅が隠し事を教えてくれさえすれば何とかなるんです
から。たったそれだけなんですから」

「だからしつこいっていうのよ!」

「そんな大声ださなくても!」

 見物だったところは以下まで。

 あとは大抵の口喧嘩にありがちの支離滅裂な言い合いとなった。二人で二人の揚げ足を
とりあい、関係ないかつての古い火種にまで引火させ、ののしり合いをさんざんやり、し
まいには耐えかねた慧音が民家を飛び出していった。

 慧音は民家をさも憎々しそうに見据えたあと林を離れる。しばらくは煮えたぎった感情
が冷めやらなかったものの、皮肉なことにその間は雑念の割りこむ余地がなくなり、例の
疑念に悩まされることもなかった。

 カッカしながら里の屋敷にもどった慧音は、つい癖がはたらき真っ先に書斎へむかった。
何をするのかといえば、机に両手をのせてカッカとしていた。妹紅に対する幻滅が胸にふ
くらみ、勢いのあまり口から罵声をほとばしらせることもあった。空きビンに偶然目がい
ったときには、妹紅からもらった未使用の鉛筆に目線が吸いこまれた。妹紅の化身とでも
いうように睨みつけた。

 しばらくして熱の引いた慧音は、水をのみにとぼとぼと台所へいく。後悔の念にさいな
まれながら喉をうるおすと、再び書斎にこもってしまう。椅子にだらりと体を預けて何度
目か分からぬため息をついた。そういえば、と気がついて懐に手をいれてみると、財布し
か指に触れるものがない。ボンボンは妹紅の家に忘れてきたようだ。

 妹紅が髪飾りを知っていたから怒りでごまかしたのか、本当に知らなかったから怒らず
におれなかったのか、判断できない。恐らく知らなかったのだろうと考えることにする。
そのほうが穏やかになれた。

 気を紛らわすためにアレで髪を結っている妹紅を想像してみた。悪くない。見た目は幼
いかもしれないが、なんといったって色が妹紅にぴったりだ。加えて薄桃色の着物で着飾
れば、幼さを強調してはいるがよさそうだ。髪をざっくりまとめるためのリボンは、邪魔
だからとろう。リボンのかわりにボンボンをつけた妹紅は、わるくない、というよりもほ
とんど変わりがない。これでは意味がないので、ちがう髪型にしてみるという方向で想像
してみた。

 慧音はポニーテールがいいかツインテールがいいかで悩んでいると、もっと別の理由で
悩まなければならなくなった。もはや説明の必要もないアレだ。夢から引きずり出された
ようだった。

 はるかなる思案の旅へおもむきかけるも、慧音は何とか踏みとどまる。

 彼女の理性は一年三ヶ月中に何度もある推論に達していた。こんな疑念に構っている暇
はないのだからこれは“どうしようもないもの”と捉えて放っておくのがいい。これはきっ
と自分ではない誰かなら解決できるのだろう。偶然にも解決できない自分の頭に舞いこん
でしまったに過ぎない。運が悪かったのだ。蓄音器をエジソンではない機械オンチの誰か
が思いついてしまったようなものだ。諦めるしかない。

 今、ふたたびそんな諦観が巡ってきている。そのまま維持できればいいのだが、慧音に
は自信がなかった。

 袋小路におちいっているのを自覚した。今日も眠れないのかもしれないと怯えていると
ころだったが、運よくその懸念は外れることになる。

 慧音は書斎で虚ろになっていたが、玄関から聞こえる音に気を取り戻した。玄関戸をせ
わしく叩くピシャピシャ音に引き寄せられて玄関までむかった。玄関戸の磨りガラスには
人影がうつりこんでいて、背の高い人だった。鍵をあけて戸を引く。

「はいはい、何のごよう――」

 訪問者に驚かされる。磨りガラスにうつっていたのが一人だったものだから、てっきり
それだけかと決めつけていたが違った。戸の前には長身の男がおり(これがガラスにうつ
っていた)その後ろをみると数人の男がひかえているではないか。いずれも歓迎しづらい
表情をしている。

「な、なにごとですか」と慧音は言いつつ、男たちの顔ぶれからおおよその事情をのみこ
んた。彼らは里の自警団の一部だ。夜になると里回りを巡回しており、出歩いていると注
意をうけることもある。慧音のもとに彼らが訪れるということは、人間の手で処理できな
い問題が出たときだ。そういわれると妖怪の襲来などを思い起こすかもしれないが、例え
ばミスティアや小傘くらいなら、人間でも簡単に追っ払える。原因は妖怪にはちがいない
のだが……問題は大抵もっと別のややこしさを含んでいた。

 先頭にいた長身の男が口をひらく。

「さすが上白沢さんだ。俺らがやってきて数秒たらず、もう外行きの恰好に着替えていら
あ。準備万端ですな」

 慧音は苦笑いで対応する。妹紅と喧嘩別れをしてから着替えてなかっただけだ。その姿
のおかげで男たちに勝手な理解をされたので、引っこまないわけにはいかなくなる。慧音
としては気分でなかったにせよ、仕方がないので靴を履いて男とともに薄暗い通りへ出た。

「もう夜になってたのか」

「そうですなあ」

 慧音と自警団をあわせて五人くらいか。自警団の面々はそれぞれ提灯をもっていたが、
道の左右の灯篭や建物から漏れる光もあった。夜とはいえ明るかった。自警団の歩く方向
へ慧音もつられて歩く。その合間に事情を聞いた。

「さて、誰がやってきたんですか」

「さあねえ。暗くてまるで見えなかったよ。ただ酒くさくてね。肩つかまれて、こかされ
そうになったし、こりゃあ危ないと」

「まるで見えなかった? なにか歌はきこえましたか」

「うんにゃ。けど暗くてみえなかったな」

 慧音の頭中にはミスティアが浮かんでいたが、ルーミアに書きかわった。

「よろしい。相手は酒をのんでいるかもしれないそうですね。あとは私に任せなさい」

「そうこなくっちゃ。あっちの林のあたりですよ」

 男がそう言いながら手の提灯を渡してきたので、慧音は応答もできないうちに受け取る。
男はその途端にくるりと反対方向へむく。自警団はたちまち逆へ歩きだしていき、慧音を
一人ぼっちにさせる。警備を交代させて酒場にいこうという話が流れてくる中、慧音はあ
きれながら“あっちの”林へ向かうことになった。

 このふいに舞いこんできた出来事は慧音にとって素晴らしい作用をもたらした。つきま
とっていた疑念はどこかへ消え去っており、彼女を悩ませているのはこれから起こるであ
ろう事態のことに尽きた。

 人間の手にはおえず、慧音という人外の力を借りねばならない妖怪に関する問題。それ
は酔っ払いである。

 酔っ払いはタチが悪い。これは自明の理だ。人間でさえそうなのだから、妖怪や妖精が
酔っぱらえばどうなるだろうか? ひどいものだ。

 幻想郷に住まう者の大半はスペルカードルールによって決闘を行い、憎いあいつを叩き
のめしたり、先輩の敵を討ったりしている。相手を倒しはすれど殺すにはいたらない。こ
のルールはできるだけ守られている。だがアルコールによって本能を解放してしまった者
はその限りではない。もともと強力な妖怪がそうなってしまうと、さすがに人間では太刀
打ちできなくなる。酔っ払いを止めるつもりがうっかり食われてしまうなんて、誰だって
味わいたくはないだろう。里ではときおりこの問題が起き、そのたびに慧音が出動せねば
ならなかった。こういう問題もあってか、里ではスサノオノミコトを再評価しようという
機運が高まっているとかいないとか。

 慧音は里を出る。といっても里と外とを隔てている、大人の身長くらいの垣を越えたに
過ぎないが。垣の前に広がる林へ足を踏み入れた。提灯からこぼれる淡い光が周囲の木々
をおぼろげに照らしだす。慧音の目は人よりすぐれているので光がなくても構わないが、
あっても悪くはない。なんだかんだで光があると安心できる。

 相手は酒くさいという話らしいので鼻をきかせてみると、たしかにうっすらと喉恋しく
なる匂いが漂っている。これも人並み以上の嗅覚のおかげだ。匂いのする方向を嗅ぎとろ
うとしながら歩を進めていく。

 前方に開けた場所があった。そこは木が生えておらず地面もハッキリしていない。崖に
なっているということもありうるので、慧音は用心して提灯をつきだしてみる。何もない。
一寸先は闇で、臭いはさらに強くなっていた。酒の臭いだけでなく、妖怪特有の臭いもし
ている。

「もし。そこに誰かいるのか」

「……おおー」

「いま唸ったのは誰だ。ルーミアか」

「……うおー」

 慧音がうめき声ともつかない返答を耳にした途端に目の前の草木が消えていき、という
より、漆黒がにじりよってきて、たじろぐ暇もないうちにのまれてしまった。目をつむる。
感触はない。試しに目を開いてみると真っ暗で、本当に開いているのか分からなくなった。

「ルーミアなのか?」

 返答はこなかった。かわりに何かが近づいてくる感じがした。ドスンと慧音の胸に当た
るものがあったが、それは衣擦れの音がして人肌の温もりをもち、信じられないくらい酒
気をおびていた。腕らしきものが背中に回ってくる。抱きすくめられた。

「だれだお前は!」といきなり耳元で叫ばれて、慧音は顔をそむける。

「お前こそだれだ」

「人に名前を名乗らせる前に、まずは――」

「はいはい。私は上白沢という者だが、お前は」

「かみ、しらさわ? お前など知らん。かえれ」

 名前を聞くでもない。暗闇に視界の奪われた状態からいって、相手がルーミアである
ことは疑いようがなかった。

 慧音は暗澹たる気持ちになる。この呂律が回っていない酩酊しきった妖怪がとても自立
できそうにないと判断されたので、自分の屋敷まで運ばねばならなくなったからだ。危険
なまま外でウロウロとされてはもっての外なので、監視のきく場所に閉じこめておかない
といけない。屋敷の中で暴れ回られたとしても追い出すことはできない。それも仕事の一
部だからどうしようもない。

「ルーミア。いいかよく聞くんだ。この闇を今すぐ消してくれ」

「はあん?」

「闇を消してくれたらよいことがあるぞ。よいことのために消してくれ」

「いいことなら向こうであったよお。ごはん食べたんだよお」

「それはよかったな。だがもっとよいことがあるんだ。だからとりあえず闇をさ、なんと
かしてくれ。それで私についてこい」

「死体をねえ、食べたの」

 背筋が冷たくなる慧音。だが、すぐに考えなおす。少なくとも里から被害者は出ていな
いという直感があった。つい二日前に幻想郷中の歴史を集めたばかりではないか。最近誰
かが行方不明になったという話はなかったし、なによりその日以降も人間たちは無事だっ
た。

 彼女が食べたのはきっと動物の死体だろう。慧音はひとまずそう願った。

「そうか死体か。だが死体ばかり食っているのはぞっとしないな。私がもっと素晴らしい
ものを食わせてやるよ」

「本当にい?」

「もちろん。だからこの闇を取り払ってくれ。それだけで素晴らしいものを食わせてやる
から」

 食べ物で釣るとルーミアはすなおに従ってくれた。闇がひいていくと、周囲の景色が元
通りになり、慧音の胸元や手元、ルーミアの本体も現れた。服がくたびれているのはすぐ
に見て取れたが、慧音はそんな観察も早々に、やっかいな娘を肩へ担いで歩きだす。

 夢見心地のルーミアを担いで里へもどった慧音はそそくさと屋敷にもどり、寝室にいく
と、押し入れに長らく押しこまれていた来客用の布団を敷いてやる。そこにルーミアを寝
かした。ルーミアは横になりながら、支離滅裂な言葉をぽつぽつと呟く。慧音は相槌をう
つ。質問をあたえられなかった。

 しかし、その間に相手を観察することはできた。上着の襟もとに赤い汚れがべっとりと
付着しているのを見ると、死体を食ったというのは本当らしい。当然だが口元も赤い。こ
の調子なら両手も清潔とは言い難いだろう。布団に入れる前に体をふいてやるべきだった
ようだ。慧音は自分を見下ろしてみる。ルーミアに触られた箇所はあんのじょう血が染み
ついていた。

 やがてルーミアが眠りについた。慧音はそれを見届けると寝室からそっと抜け出した。
服を着替えて、体をかるく流し、歴史の編纂作業をした。作業は明日の朝まで続けられた
が、それというのも予期せぬ来客のおかげに違いない。慧音は悩ましいものから逃げ出せ
ていた。

 ここから更に慧音がやることを紹介しよう。朝に編纂を終えた慧音は、新たに通知を記
した紙を掲示板と玄関戸に貼り付け、昨日から貼られていた学校休止のお知らせを取り除
いた。新たな紙には、本日も学校休止である旨が記されていた。取り換える必要はなさそ
うなものだが、几帳面な慧音がそこに気づくことはない。風呂を沸かしておき、朝食を二
人分は用意する。替えの服を取り出しておき、部屋の片づけもおこなった。客をもてなす
ための準備を隙なく完了させた。

 慧音は一息いれたあと、白湯をくんだ湯のみとおしぼりをお盆にのせて寝室へむかう。
ルーミアはまだ寝息をたてていた。口元の血は乾いてぱさつき、服は皺だらけ、髪はくし
ゃくしゃにあばれていた。

 なんと幸せそうな表情だろうか。慧音はうっとりと見守りながらおしぼりで口をぬぐっ
てやった。倒れた生徒を看てあげた経験を振り返らずにはおれなかった。特にルーミアの
幼い顔がそうさせる。

 間もなくしてルーミアは目を覚ましたが、第一声は唸り声だった。顔をしかめながら瞼
を開いた。

「起きたな。よし、ほら白湯だ」

「だれだお前は」

「誰でもいいだろ。さあ」

 うながされたルーミアが上半身をあげる。汚れて黒ずむ片手に慧音が湯のみをもたせて
やると、初めて見たとでもいわんばかりにしげしげと見つめた。そしてやっと飲む気にな
ってくれた。水を飲み干したあと、

「だれだお前は」

「上白沢だ。そして、ここは私の住まいだ」

「かみしら、さわ? どっかで聞いたことあるなあ」

「どこだろうな。さあ起きてくれ。起きられるか? 体を洗ってもらいたいんでな」

 一騒ぎあるだろうと身構えていた慧音の予想に反して、ルーミアは極めてしおらしかっ
た。普段の彼女はこうはいかないし、昨日だって死体を食ったなどと口にしていたくらい
なのに。なぜなのかというと、二日酔いに襲われているからだと間もなく分かった。ルー
ミアに頭痛を訴えられた慧音だがこれといって手を打たなかった。好都合だったのだ。慧
音はあっという間に彼女を風呂にいれ着替えをさせてやると、朝食の席につかせた。ルー
ミアは食卓を見るとかすかに目を輝かせたが何も喋らない。

「食事、食べられるか」

 慧音の記憶によれば、二日酔いに打ちのめされた人間が、その日一日食欲をどこかに捨
さっていくのはよくあることだった。

「うん。たべたい」

「無理しなくていいんだぞ」

「お腹すいているから」

 二人で黙々と皿を片づけていった。

 心にずいぶん余裕のできていた慧音は、最近ではなかなか見せなかった笑顔を、ニタニ
タという具合に浮かべていた。本人は意識していなかったが。

 朝食を終えたところで、慧音はある話を切り出した。

「ルーミア。昨日なにをやっていたのか話してもらいたい。思い出せるか?」

「昨日ねえ。あんまり覚えてないのよ。でもところどころ覚えているから安心してね」

「そうでないと困るんだけどな」

「昨日はねえ、夕方くらいに湖のところで友達と宴会をしたのよ。友達ってわかる? お
酒は何をのんだっけ、覚えてないわね。瓶のヤツをいっぱいのんだのよ……とりあえず、
こんなところかな」

「それで、どうなったんだ」

「おしまいなのだ」

「待て、そんなはずがない。そのあとがあるだろう。宴会をしてどこに向かったんだ。湖
っていうのは、紅魔館前の湖でよさそうだな。で、そこからどこに向かったんだ。夜中に
は里の近所にいたことを考えるとだな、遠くにはいっていないはずだ」

「うーん」

 ルーミアは体を左右にかたむけた。考え事をしているつもりだろうか。だが天井を見上
げている顔はまるで考えている様子ではなく、慧音をがっかりさせる。

「仕方ない。じゃあ何を食べたか思い出せるか? 死体を食ったんだろう。どんな死体を
食ったのか教えてほしいな。動物か、鳥か、人間か。死体の状態なんかも教えてくれると
嬉しいな。死後間もなかったのか、腐っていたのか」

「したい」

 ルーミアのぽかんとした態度を見て、いわゆる嫌な予感というやつが、慧音の中に駆け
抜けた。

「したいってなんの話?」

「なんだと! あっ、大声だしてすまない。いや、死体だよ。死んだ身体だ」

「それがどうかしたの」

「食べたんだよな。昨日そう話していたよな」

「上白沢が寝ぼけてたんじゃないの。そんなのいった覚えないよ」

 慧音は再びこみあげてきた叫びをぐっと飲みこむ。このやり取りが冗談である可能性も
捨て切れないではないか。まだ怒るには早い。ルーミアの双眸を見つめて腹の底を探りだ
そうとした。ルーミアはにこにこと笑顔で飾っていた。しばらく見つめ合ったのち、慧音
は諦めの吐息をもらす。

 さて、慧音がルーミアを置いておく理由はほとんどなくなった。ルーミアは二日酔いこ
そあれどもう正気にもどっている。聞きたかった話は聞けずじまい。着ていた服は洗濯し
て返してやらねばならないが、それだけのことだ。屋敷から出してやるとしたら今日の夕
方になるだろう。短い二人暮らしだった。

 昼前。ルーミアがまだ見慣れない部屋の様子に興味津々であるうちに、慧音は余所行き
の恰好に着替えた。買い物に出かけるつもりだった。

 慧音は部屋のすみっこをじっと見つめるルーミアにむかっていった。

「ちょっと出かけなくちゃならんが、お前は外に出るなよ。昼までに帰ってくる。飯は食
わせてやるから待っていろ。できれば何も触らないように」

 ルーミアが顔も合わさずにうなづく。彼女が熱心に見つめているほうには、日用品の詰
まった行李が置いてあり、特別なものは一つもない。

「どうしたんだ?」

 ルーミアは答えない。慧音は不審がってそのあたりを注視してみたが、やはり何も感じ
られなかった。なおさら不審が増す。ルーミアのようなごく平均的な妖怪がこのような行
動をとる場合は、単なる気まぐれかもしれないが、そうでない場合はそこに見えざる力が
働いているはずだ。慧音も人間ではない手前、そうした第六感以上の力を感じ取れないは
ずはないが、ルーミアが注目しているモノの正体は分からなかった。

 こういうとき、どう対処すればいいか。おおかたルーミアの気まぐれといってよいかも
しれないが、その胸中を探るくらいなら見えざるものを探ったほうが手間は少ない。慧音
は部屋のすみっこへ近づいてみた。

 そこの柱や壁は他と同様、生活に晒され続けて変色し不規則な染みと傷がついていた。
壁にそって置かれた行李は蓋がなく大きめで、置き場所に困っていた様々な日用品を満載
している。ルーミアが起きる前に片付けをしておいた痕跡がありありと残っており、ごち
ゃごちゃと汚い。慧音にとってこれをじっくり見られるのは、日々の生活を覗き見されて
いるようなもので、恥ずかしいものだった。

 慧音は行李から生え出すものを適当に取り上げてルーミアへ見せてみた。まずは団扇。
反応なし。つぎは歯の欠けた櫛。反応なし。表紙のない本。読みかけのまま放置されてい
た本だ。まだ続きへの興味をうしなっていたかったので脇によけておいた。やはりルーミ
アの気まぐれだったかと落胆しながら中身を漁り、最後に行李をどかしてみた。

 慧音はゆくりないものを見つけてしまう。ルーミアのことも忘れて愕然とした。行李を
どけてみたところ、埃をかぶった奇妙なものが現れる。つい昨日、慧音が手にしていたも
のと瓜二つの、赤いボンボンだった。

「これ!」と慧音はボンボンをつかみあげてルーミアを睨みつけた。ルーミアといえば眉
をよせて慧音の声真似をした「これ! って、なにそれ?」

 慧音は混乱させられる。なぜルーミアが注意を惹きつけられていた先にこれが落ちてい
たのだろうか。埃にまみれて黒くなっている具合からして、少なくとも昨日今日で用意さ
れたものではない。慧音が買ったものではないし、ルーミアがいたずらで仕込んだもので
もないことは明白だ。ところが冷静でいられなくなった慧音はまずルーミアを疑った。

「このボンボンを知っているか」

「そんな汚いのなんて知らないわよ。子供っぽいし」

「嘘はついてないだろうな」

「顔が怖いよ」

 もういちどボンボンをじっくり見つめ直す。色形こそあの店で売られていたものと変わ
らないが、ずっと放置されて褪せた感じは克明だった。以前からここに落ちていたと見て
間違いなさそうだが、慧音はこれを知らなかった。歴史を集めたときでさえ知らなかった。
そんなことはあってはならないはずだ。

 赤いボンボンに出くわしてしまったら、妹紅に関するあの不可解な幻も、全ての根源ら
しき例の疑念も、ずるずると這い上がってくるのを止められなかった。抑えきれない、真
実が欲しくてほしくてたまらない欲求は、たちまち慧音の胸に狂おしく渦を巻きはじめる。

 慧音の表情は数日前のそれにそっくり戻ってしまった。皺のよった難しげな表情のまま、
焦りをなんとか沈めながら再びルーミアに話かけた。

「どうしてこれがあると分かったんだ」

「さあ、なんとなく。そこが気になっただけよ。いけなかった? 顔が怖いわよ。変だよ
ね。たまにこういう経験があるのよ。妙に気になる場所があって、そこを見てみたら変な
モノが落ちてたりするってこと」

「……そうか」

 決定的な情報が得られないと知ると、慧音は会話を打ち切ってこの部屋から出ることに
した。

「ご飯は? 食べさせてくれるんだよね」

 部屋を出る前にルーミアからそういわれる。

 慧音は廊下を渡りながら、ボンボンの出所を引き出そうとしていたが、実りはなかった。
歴史を創る程度の能力に任せれば“いつ、どこで、どのように入手したか”分かるはずなの
にこれには通用しない。慧音の力を妨げるものがある。そんな技をもった存在は少なくな
い。強大な妖怪なら苦労もせずにやってみせるだろう。だがする必要はあるのか? 例え
ば八雲紫だとして、こんな小銭で買えてしまう赤いボンボンに、どうしてそんなことを?
誰かに邪魔されているということは、まずありえない。

 慧音には分からないことだらけだった。

 分かっているのは“何かがおかしい”という不明瞭な疑念。

 その疑念には赤いボンボンが関わっている。

 藤原妹紅も関わっており、経験したはずのない記憶となって現れる。

 参照のできない歴史がある。

 間もなくすると慧音は屋敷を出た。買い物に出たのではなく、妹紅のところへ向かった。





 妹紅が何らかの秘密をにぎっていることは分かっていた。赤いボンボンを見せたとき、
妹紅の態度の変わりようは印象深い。追及してみれば口論へと発展した。自分に遠慮がな
かったせいだと反省していた慧音だが、ボンボンを見つけたことで考えを改めた。妹紅が
疑念に対する答えを持っているかどうかはともかく、少なくともボンボンについては語る
何かを持っているはずだと睨む。

 昨日のように林へ降り立ち、ひっそりと佇む民家へやってきた慧音。

「妹紅、入りますよ」

 いったそばから戸を引いてしまう。ひんやりとした空気が出迎えた。ひと気がしない。
妹紅はまた布団もしかずに眠っているのかもしれない。

 居間には誰もいなかった。中央にあるちゃぶ台の上に、慧音が買ってやった薄桃色の着
物があった。乱雑に折りたたまれているそれを見てあきれる。別の部屋や台所、厠を覗い
ていく。一通り探してみたが人っ子一人いなかった。住人は留守にしているようだ。

 妹紅の外出先に詳しくなかった慧音は困り果ててしまう。竹林でたけのこを探していた
とか、川辺で釣りをしていたとかいう噂を耳にしたことはあるものの、広大な竹林のどこ
にいけばいいやら、たくさんある川のどれを目指せばいいやら。里を出歩いていたともい
われているが、また引き返す労力が惜しい。

 探しにいって疲労をためるくらいなら、待ち構えておいたほうがよいではないか。

 居間にもどった慧音は腰をおろして壁を眺めはじめた。地味でおもしろみのない土壁は
すみっこが剥げている。その下には剥げた破片がこぼれ落ちている。興味を煽りたてられ
るものはない。けれど眺めていた。

 慧音はいまの自分を想像して小さな笑い声をもらした。わけもなく壁をぼうっと眺める
自分の姿が、ルーミアによく似ていたからだ。現在、彼女の額のうらは静かだった。少し
ばかり鬱陶しいものが蠢いてはいるが大したことはない。自嘲の笑みをして、すべてを馬
鹿馬鹿しく感じていた。

“何かがおかしい”という原因も定かでない疑念に急かされて、いったりきたり。歯がゆく
なったり、驚いたり。こんな風にうんざりするのも数えきれないが、今度のは心の底から
うんざりさせられていた。が、これも何度目だろうか。うんざりするという一種の極致を
迎えたのは、初めてではなかった。心では決別したつもりでも、何日かするとムクムクと
疑念は育ってきていたではないか。

 とにもかくにも慧音のうんざりは本物だった。学校を休止させてしまったことを悔いる。
下らないことで授業を滞らせているのを内省する。妹紅にも謝りたくなった。

 自分が赤いボンボンに執着するようになったのは偶然なのだろうと考えた。妹紅の幻影
をみたのも同じ理由だと考えた。顧みてみれば、一年と三ヶ月のあいだに袖を引かれたも
のを慧音はすべて疑っていた。何かにつけて答えへの足掛かりへしようとした。いずれも
徒労におわっている。

 慧音は一段とふかいため息をつくと、気を紛らわすためにちゃぶ台の着物に手をのばし
た。だらしない妹紅にかわって畳み直してやろうとしたのだ。着物をとって広げると、内
側に紛れていた紙が慧音の膝元にひらひら落ちてきた。すかさず拾って、おもてに書かれ
た文章を読んだ。


 これを見たのなら、東の大きな祠へ。


 達筆で、いたく簡潔。

 妹紅が置き手紙をするなんて、慧音にとって珍しいことだ。私の悩み事と関係があるの
かしら。などと頭によぎったがほんの刹那に過ぎない。

 慧音は民家をあとにし、手紙に書いてあった場所へ向かってみた。なによりもまず謝罪
という二文字にうごかされて。

 民家を越えて東にいくと竹林は途切れ、あとはずっと森が続く。森の中には古びた建物
や人工物がちらほらと見受けられ、大きな祠もその一つだった。大きな祠といっても、人
の目にみて大きく感じられる祠は数多く点在しているが、その中でも特に人々からよく知
られているものを指す。もちろん慧音もどの祠かは分かっている。

 目的の場所まで一直線に飛んでいき、そのあたり上空に近づいたら高度を落としていく。
森へ分け入るときは、服が枝にひっかからないよう慎重に。枝葉をくぐり抜けた先に目的
の祠があった。元々そこにあった、大人の二倍ある巨大な一枚岩の横っ面をくりぬいて、
祠はその内側に組み立てられていた。岩も祠もまとめて苔むしており、素材に使われてい
る木の一部は崩れていた。人の管轄をはるか昔に外れ、今はただ名無しの妖精や神霊の住
処と成り果てているばかり。

 慧音は妹紅を祠の前方に見つけるとにわかに接近した。そこにあった倒木に尻をつけて
いる妹紅の表情は、こんな辺鄙な場所に呼び出してきた張本人の割にかるい。昼食を一緒
に食べよう、などと言い出しても不思議ではなかった。無論そうなった場合、慧音はトサ
カにきていたことだろうが。

 妹紅の口がひらく。

「ここがどこだか分かる?」

 思いがけない質問をされた慧音はやや戸惑いながら答える。

「祠です。はい。……もしかして、祠の名前を聞いているんでしょうか。さすがに調べな
いと難しいですね」

「そうか。じゃあココにきたことはないんでしょ」

「あるにはありますが、目的をもって来たことはないですね。何が言いたいんですか」

 あからさまに裏のある言葉をうけて平気でいられる者はいない。慧音は妹紅がなにを話
すつもりでいるのか探ろうとした。つぎの言葉を慎重に待った。

「ここで人を殺したことがある」

 慧音は妹紅の言葉を聞いたとき、口をぽかんとひらいて二の句が継げなくなった。妹紅
は居心地わるそうにあらぬ方向へ顔をそむけている。

 人を殺した? 慧音は心の中でくりかえす。それがどういう意味をもっているか知らな
いはずはないが、妹紅の口から出てきたことの衝撃が何より大きい。里の人々の顔が第一
に胸を突き、それは間もなくして喋りはじめた慧音に激しく影響をあたえていた。

「人を殺したんですか?」

「そうね」

「里の人間、じゃないですよね」

「里の人間だったわよ。女の子でね、寺子屋の生徒」

 驚きにみちていた慧音の顔が苦々しいものへと変わっていく。里の人々はみんな知り合
いと変わりなく、生徒にいたっては、安っぽい言い方だが我が子と同じだ。慧音は彼らを
妖怪から守る役目をおっているので殺されたと聞いて落ちつけるはずがない。しかも、そ
の犯人が顔なじみの者だったとしたらなおさら。

「いつのことですか」

 尋ねずにはおれない。

 再びもっと力をこめていった。

「いつの、ことですか」

「いつだと思う?」

「ふざけないでください。大事なことなんです! いいですか、私は……ハア……」

 私は里に対する“とある処理”を行わなければならず、それは楽なものではない。妹紅に
も処理を。いや、偽りなくいえば庇わなければならない。これら自分がすべきことを想像
したために、慧音は言葉をうしなって嘆息した。

「いつ人を殺したのか教えてください」

「いちねん」

「……え」

「一年三ヶ月前」

「……」

「詳しく話してあげる」





 一年三ヶ月前のことになる。

 妹紅は人間の里を離れ、迷いの竹林より東にある大きな祠の前にいた。日はとうに没し
ており、周囲は闇に染まっていた。風はなく虫の鳴き声はひとつもせず、肌寒かった。

 慧音が腕を組み巨木のそばに立ちながら、眉をくねらせて妹紅を見つめていた。妹紅は
倒木に腰をおろして慧音とはまったく違う方向へ寂しげな顔をむけていた。

 妹紅の正面には醜いものがあった。全体が黒焦げており、ところどころに入った亀裂か
ら赤い部分が覗いていた。放たれている異様な臭いは闇に溶けこんでもなお凄まじい。元
がなんなのかは分からないが、人間のような形をしていて、小さかった。

 妹紅はこれの説明を慧音にしなければならなかった。しろと命じられたわけではないが、
しなければ慧音が怒りだすのは明白だった。心地がよくないというのもあった。ながい沈
黙がつづいていたが、いつかは喋りださなければならず、妹紅はありもしないタイミング
を狙っていた。だが沈黙が引くことはなかった。

「やっちゃった」

 焦れた妹紅はとうとう口をひらいた。

「久しぶりにやっちゃった」

 できるだけ張り切った声を保ち、体は黒焦げにむけつづけていた。慧音に話しているつ
もりながら、黒焦げに対して弁解をしている気持ちになっていた。

「悪気はなかったのよ。私はけっこう辛抱したんだ。むこうがぜんぜん引き下がらなかっ
ただけよ。逃げればよかったわ。対抗してやろうって気になったのがいけなかったのね。
こんなの久しぶりよ。幻想郷ではたぶん初めて」

 妹紅は人を殺した。里の住人の一人で寺子屋に通っていた女生徒を殺した。慧音もよく
知っている人物のはずだが、焼け焦げた体ではもはや判別はつかなかったことだろう。

 事件は正確にいうと前日に起きた。夕方、里へきていた妹紅は子供たちと一緒に、大人
には秘密のうちに敷地外へ出かけていった。妹紅の何にも縛られていないような様子と、
説教くさくないところに目をつけた子供たちが発端の遊びだ。何ヶ月も前からたびたび行
われていた。子供たちは基本的に里外の遠くへ出ることは禁じられている。だが抜け出し
たい。そうはいっても抜け出したあとにどうすればいいか分からない。案内だか護衛だか、
とにかくそういう役目を担ってくれる誰かがほしかった。そこで白羽の矢が妹紅に立った。
他愛ない話だ。妹紅は子供たちに頼まれた(命令された)とき、からかってやるつもりで
引き受けた。これで彼らに交流がはじまったといえる。回数をかさねるごとに妹紅は打ち
とけ、子供たちも彼女をより信頼するようになった。

 夕方にいつもの子供たちが集まりいつもの場所に待っていた妹紅と合流すると、人目を
忍び夕暮れのなかへ飛び出していく。そのときの彼らに別段おかしなところはなかった。
少なくとも妹紅はいつも通りだと感じていた。とりわけ仲の良かった少女とも会話がはず
んでいた。

 だが違った。

 きっかけが何で、どういう風に転び、どこに落ちこんだのか。これは妹紅と黒焦げにな
ってしまった少女にしか分からなかった。唯一の証人であり当人でもある妹紅は細かいと
ころまでは話したくなかった。ほかの子供たちはというと、妹紅と少女を残して先に帰っ
ていった。彼らのひそかな冒険を見抜いていた慧音が、子供が足りていないことに気付い
たのは早かったのだろう。恐らく帰宅済みの彼らを問い詰めもしたのだろう。妹紅の気が
冷めやらぬうちに、慧音は現場までやってきていた。

 事件は黄昏時がおわる頃におきたのだった。

 黒焦げを見つめていると、どうしても妹紅の視界に入ってくるものがあった。左半分だ
け燃え尽きてしまった頭部の、残る右半分。長く垂れ下がった髪毛は縮れて焦げて、異様
な乱れ方をみせた。黒ずんでいて細部は分からなかったが、毛髪とは材質の違うものが引
っかかっていた。

 妹紅は片手に握っていた赤いボンボンに目をおとして、これが持ち主の髪を一束にまと
めて支えていたときの姿を思い描いた。

 ようやく慧音と向き合う決心をつけると、そちらの方に体をひねって目を合わせた。慧
音のかたく縛られた口は到底うごきだしそうになく、ここにいる間は永久にそうなのでは
ないかという気さえしていた。

「仲良くしてたのに。なんでだろうね。ねえ、なんでだと思う?」

 妹紅は慧音にうながした。なんでもいいから喋ってほしかった。

 慧音がおだやかな調子で喋りはじめた。

「なんででしょうね。そういうこともあるんでしょう。きっと、魔が差したんですよ。八
十年かそこらの命の人間でさえ、生涯では多くのあやまちを犯します。何百年も生きてい
る貴方だ、こういうときだってあります。これは避けられなかったのでしょう」

「人間でさえ、か」

 かつて妹紅にも人間であるときがあった。首を断てばすぐに死ぬという脆いときだ。そ
の人間だった期間はほんの十数年で終わりを告げてしまった。人間なんてとっくにやめた
つもりで“人に非ず”といわれて当然の行いは数えるとキリがない。いまさら餓鬼を殺した
くらいで何を動じるものがあろうかという身構えがあった。実際にはそうはいかないもの
で、決して大きくないものの無視もできない罪悪感にさいなまれた。道徳観というより、
慧音や、人間という知り合いを裏切ってしまったことへの気持ちだった。

「そういえばさ、慧音も元人間だったっけ。こう実際にやっちゃうとなると、ダメね。わ
かる? 女の子をやっちゃうのはクルわ。たぶん、鼻たれ小僧だったらこんなに苦しくな
かったかも……いや、それもダメかな。うん、だめかな。慧音の生徒だしね。子供はダメ
ね。辛いわ。大人なら……フフフフ。ああ、笑ってごめん」

 笑っていられるような状況ではなかったが、妹紅はそうせずにいられなくなった。どう
せ殺すなら殺してスカッとするヤツがよかった。殺人リストを作っていると、おかしくな
ってきたのだ。

「これからどうする? 私、里にいって謝ったりしないといけないのかしら。石とか投げ
られそうね。あいつらそんなに野蛮じゃないか。昔は平気でそんなことされたんだけどね」

 妹紅は立ちあがって慧音にちかづいた。内心では慧音が激するのを期待していた。怒気
をむけてもらえれば、もう少しだけ悔やむことができた。

 慧音がさっきよりは強い口調で喋りだした。

「これからは何もありません。心配いりませんよ。私がなんとかしましょう。死体は埋め
ておいて、この子の存在をなかったことにして。里の人間は誰も気づきません。何もなく
なるんですからね。それが私の能力ですから」

 妹紅には意外な返答だった。おもわず聞き返してしまう。

「なかったことにするの?」

「ええ。強い妖怪には効果ありませんけど、人間なら大丈夫」

「そんなことして、慧音は平気なの」

「しょっちゅうやってるんですよ。気づきませんでした? 都合の悪い事実は隠蔽してい
ます。昔からずっと繰り返していますよ。里の人たちが本当に不安になってしまうような
歴史は、できるだけなかったことに。……あ、そのボンボンを渡してください」

 妹紅が手をさしだすと、慧音はさっさと赤いボンボンを取り上げて懐に入れてしまった。

「じゃあ、ここにいてください。スコップをとってきます」

 慧音が背中をむけて飛び立とうとしたので、妹紅は慌てて声をかけた。

「待って! 変な言い方だけど、人が死ぬのって当たり前のことでしょう。その、殺され
るのも殺しちゃうのも、ね? こういうのって自然なことでしょう。そんなことまで隠し
ているの?」

「妹紅って、近頃やっと里の人との交流が増えてきているでしょ。竹林の案内をしてあげ
るようになったし、里に出向くようになったし。それなのに白い目で見られるようになる
のは嫌でしょ。妹紅は――」

 慧音はそこでためらい、笑顔をより明るくさせた。

「妹紅は特別ですよ。分かりましたか。分かったら、もうなにも聞かないでください」

 ものを教えていた大事な生徒で、同じ里に住まう知り合いでもある子の亡きがらが横た
わっている前でありながら、慧音は辛い顔をみせない。妹紅には、無理をしてそんな顔で
いるようにみえた。本当の笑顔かもしれなかった。どちらにしても確認することができな
かった。笑顔になれる理由も笑顔を作らなければならない理由も分かっていたからだ。慧
音のふくざつな心境をおもうと、妹紅もふくざつな心境になった。

 慧音の背中がとおざかっていった。

 妹紅は黒焦げを見つめて、不死人のようにむくりと立ち上がってくることを望んだ。





 重たい沈黙がながれる。

 いつの間にか立ち上がっていた妹紅はうつむいて、足元の草を靴先でいじっていた。慧
音は妹紅の様子を目にとめながら、彼女が語ってくれたことを自分なりに整理しようとし
た。それはなかなかうまくいかない。

 聞くかぎり、恐ろしい話であることは間違いなかった。またいかにもありえそうな話で
もあった。妹紅という人間を越えた立場の者が殺人を犯すのは珍しいことではない。慧音
がなにより信じられなかったのは、自分が話に関わっていたということだ。妹紅の話した
事件の事柄には、自分自身がハッキリと自らの意思で関わっていたそうではないか。その
ような記憶は一切もっていない。妄想もしなければ、夢に見たことさえない。

 妹紅には冗談をいっている節もなかった。実際、話のなかには慧音にもそうと分かる真
実が含まれていた。たしかに一部の子供たちが妹紅を連れて遊びにいっていたのをよく覚
えている。黙認していた。一年ほど前のある日から妹紅が消極的になりだしたのも真実だ。
子供たちが愚痴ていたのを盗み聞いたこともある。だが、他にはなにもない。妹紅が消極
的になりだしたのは単に飽きたからだと思っていたし、子供たちに変化はないときている。
赤いボンボンをつけた長髪の女生徒なんて、短髪の娘なら知っているが、そんな女生徒は
いないはずだ。

 どう切り返せばよいかと悩んでいるうち、慧音はあることに気がついた。ついさっきま
で倒木に座っていた妹紅の姿はまだ目に焼き付いていて、それに既視感を覚えた。まさか、
一年三ヶ月前とはいわないが、つい最近どこかで見たと記憶が主張してくるのだ。

 慧音は視線をおそるおそる倒木にうつして、小暗いそのながめに集中した。するとそう
するのを待っていたかのように、慧音をうちのめす景色が再現されていく。いつか夕暮れ
の屋敷の廊下で窓によりそったとき表れた、記憶のどれにも結びつかなかった奇妙な幻。
どこだか分からないがココと同じように光の足りない場所で、妹紅が明快とはいえない顔
と口調で何かを語っていた。ぼんやりとしたどこかに座っていて、慧音ではない誰かに口
をひらいていた。幻だったものが前方にある場所とかさなりあってくる。凄まじい衝撃が
じわじわと慧音に広がっていった。

 足がふるえてくる。この場に座ってしまいたくなったが、こらえる。それより妹紅に伝
えなければならなかった。彼女のほうに首をまげる。

「私は……」

「うん、なに?」

「私は妹紅の話をおぼえているかもしれません」

「そうだと思っていたのよ」

「え、あ……どういうこと?」

 慧音はそう聞き返したものの。すぐに、そうでなければ話を打ち明けるはずがないだろ
うと察した。聞き返されたことに対して妹紅が心よくなさそうに眉をひそめている。その
理由はわからなかった。

「それを聞くんだ」

「聞いちゃいけませんでしたか」

「まあね。だって本当は慧音が言い出したことだから。慧音から話題を掘り返すことはな
いから、私にもそうしろって。けど、その様子だと忘れているみたいね」

「はい。私は、忘れているみたいですね。なぜだか知りませんけど。よければそのことも
教えてください」

 妹紅は慧音のお願いを受け入れてくれた。腕を組みかえたりしながら、ずいぶん間をお
いて喋りだした。

「慧音は女の子が死んだことを歴史から消した。おもに里の人間を狙いにしたみたいね。
一部の妖精や妖怪もそこに含まれたわ。で、この中にはね、慧音自身も入っていたのよ」

「そ、それは? それは本当ですか」

「さあね。私は歴史が消える前の慧音から聞いただけなの。そういう特殊なことをするか
ら、話を掘り返すなって。そうする理由は、慧音まで事件を覚えていると表面に出ちゃう
かもしれないから、だそうよ」

「理由って、それだけですか」

「私が聞いたのはそれだけ」

 理由にしてはよわい。慧音は真っ先にそう感じた。自分自身さえ歴史隠蔽に巻きこむと
いう大胆な行動にしては理由がよわすぎる。事件の発覚を恐れたという理由だけでは、少
なくとも今の慧音ではそうしない。誰がこの立場に立とうが、そんなことは、身も蓋もな
くいってしまえば自分の記憶を消すなんてことは、並大抵ではないと分かる。

 もっと別のつよい理由はないだろうか。

 頭をめぐらして、もしやというものに行きついたとき、慧音は妹紅と見つめ合っていた
目をそらさなければならなかった。理由としては当てはまりそうで、不用意に口にはでき
ない、今といわずいつの慧音に限らず心にひめておきたいこと。

 離れていきそうになる平常心をどうにか引きとめながら、慧音はまた妹紅と見つめ合う。
できれば胸中をさとられたくなかったが、もしそうなってもいいようにと勇気をもちなが
ら。さいわい、妹紅に込み入った質問をされることはなかった。

「理由は分かったわね」

「はい。おかげさまで。じゃあその、どうして――そうだと思っていたのよ――といった
んですか。なんで、何をきっかけにして」

「あんまり話したくないわね。いうけどさ。慧音が赤いボンボンを見せてきたのがきっか
けよ。あれがなかったら、こんなところに呼び出してない」

「……申し訳ありません」

「謝ることじゃないわ。赤いボンボンを見せられたときは嫌な冗談かと思ったけど。どう
してなの? 慧音はぜんぶ忘れたんじゃなかったの。ボンボンだけを覚えていたの?」

「分かりません」

 これは事実だった。慧音にはそういう微妙なところは分からない。知る術がない。記憶
をどうにかした理由が大雑把に読みとれたところで、仔細には知りようがない。ある意味
では一年三ヶ月前の慧音と今の慧音は別人だ。事件には触れぬよう仕向けておきながら、
なぜ妹紅の幻と赤いボンボンが浮きあがってきたのか。深い意図があったのだろうか。消
し忘れたのだろうか。単なる未来の自分へのいたずらだろうか。

「分かりません」

 もう一度、念を押すようにいった。

 この頃には慧音はだいぶん冷静になっていた。心臓はまだいやな感じに脈打っているも
のの、数分前よりもずっと楽になっていた。

「ねえ妹紅。なぜこの話をするつもりになったんですか」

「ええっとね。慧音が赤いボンボンを見せてきたから、よく分からないけどあのことを思
い出していると感じてね。それにしては様子が違っていたし、もしかして完全に思い出し
ているワケではないのかしらと気づいたの。慧音は博識で、勉強がじょうずでしょ? だ
から放っておいてもいずれ答えに辿りつくだろうし。だったら、早く教えたほうが厄介事
も少ないでしょ。慧音って探偵みたいに鼻をならしてあちこち出歩きそうだもの」

「ああ。それは、まあ……」

 慧音は探偵気味だった昨日までの自分が恥ずかしくなった。

「友だちの親切心よ」

「そうですか。ありがとうございました」

 会話は途切れる。

 そのとき、木々のかすむ頭上で鳥が羽音を立てて飛び去っていった。ふいをつかれた二
人はびくりと肩を震わせて森を見上げる。鳥はもういない。妹紅はこれを機にとばかりそ
こらを歩きはじめて、小枝を踏みつけ鳴らしながらこういった。

「実はね、あの子が見つからないの」

「見つからない?」

「うん。見つからない。祠の近くに埋めたのは確実なんだけど、どこだったか。……そう
だ。あとで質問されそうだから先にいっておくけど、慧音をこの場所に呼んだ理由はそれ
なのよ」

 妹紅が祠のうらを覗きこんだあと、倒木をまたぎ越えてそこにいこうとした。慧音は話
を聞くために慌ててついていく。

 祠を通りすぎるとき、ふと祠に祭られている御殿へ目をやった。木戸は朽ちて開きぱな
しになっており、奥に収められた緑まみれの地蔵様は外へ晒されている。彼は目撃者の一
人だろうかというちょっとした想像が、慧音の頭をかすめる。

 祠の裏手にきても風景は森のままだ。ただ慧音は祠の背中をはじめて見ることになった。
あいにくその出会いを楽しむ余裕はなかったが。

 妹紅の言葉がつづく。

「これといった理由でもないんだけどね、慧音をここに連れてくれば記憶が完全にもどる
んじゃないかと」

「なるほど。そういうワケでしたか。だから最初に――ここがどこだか分かるかしら――
といったんですね。けっきょく何も思い出せませんでしたが」

「ええ、表情をみてると分かったわ。もう一つ理由があるんだけど、まあいうほど大事で
もないわ。この話を慧音とするからには、ここじゃないといけないかなって」

 慧音は言葉を返さなかった。

 二人は会話をつづけている間も埋め跡を探した。祠の裏手は手つかずらしかったので先
にいくことにした。慧音には、妹紅が埋めた場所を忘れてしまったかのように見えていた
が、じきにそうではないと気づく。忘れたのではない、端から知らないのだ。会話をふり
かえってみると、スコップを取りに帰ったのは自分だったはずだ。確信する。恐らく実際
に埋めたのも自分だろうと見当つけ、念のために尋ねてみた。

「もしかしてその子を埋めたのって、私ですか」

「うん、うん」

 話半分で足元を見てまわっている妹紅は応答がいい加減だった。埋め跡をさがす冒険に
夢中になっている子供っぽさ、慧音はそこは好きになれない。

 二人は裏手をあきらめると祠の東側へむかった。さっきからどれも妹紅の気まぐれで、
およそ目当てにたどりつけそうにはなかった。ところが東へむかっていくと間もなくして
二人の足が止まる。その場の地面をみてみると、腐葉土が掻き乱されており、そこに湿っ
た土がかぶさり、穴ぼこができているという有り様だった。埋め跡というより、つい最近
になって掘り返したようだった。二人の目当てとはズレているが、無視するわけにはいか
ない。

 慧音は妹紅と顔を見合わせる。

「どう思いますか」

「なんか埋まってたのね」

 慧音が見ている前で、妹紅は袖をまくると穴ぼこに屈みこんで両手を差し入れた。穴は
肘を隠すくらいの深さをしており、四方から木の根が突き出ている。道具をつかって掘ら
れていない。生臭い臭いをたっぷりと発している。妹紅は土をすくいとったりしていたが、
間もなく土の中から白いものを取り出した。骨のようだ。

 二人でその場所をもっと調べたが、目ぼしいものはその骨しかなかった。骨は小さく奇
妙に曲がりくねった形をしている。正体は分からない。慧音のわずかな記憶によると、人
間の骨格のどこかがこんな形だったはずだが、定かではない。臭いを嗅いでみるとほんの
り人の香りもするが、断言するには至らなかった。

 誰とも知れぬ亡きがらの欠片は妹紅がもとの穴にもどした。土をかけてやると、二人は
そこから離れる。慧音は、茶色くぱさついた両手を気にする妹紅に話しかけた。

「あの骨はなんなのでしょうね」

「あの子の骨だったとしたらイヤね。そんなことはないと思いたいけど」

「荒らされたあとのようでしたものね。死体が埋まっていたのは間違いないようです」

「帰るか」

 慧音が言葉をさえぎられたことに腹を立てながら横をむいたとき、そこには誰もいなか
った。木々がやかましく鳴り響いて影がちらつく。木の葉がひらひらと舞い落ちて、彼女
の服にひっかかる。

 慧音には生徒の声がきこえていた。生徒の声が、妹紅を人数に入れてほしいとせがんで
きていた。今の彼女ならば、入れないほうがいい、と答えることができた。





 慧音は妹紅から告げられたあの話を信じきっているワケではない。未体験のものを信じ
ることでさえ難しいというのに、未体験だったものが実は体験済みだったのだといわれれ
ば、余計に信じ難いのは誰だってそうだ。だがいくつかの実情が語りかけてくるのは”それ
は自分が感じている以上に真実なのかもしれない”という結論だ。もっともその実情もあや
ふやで、信じきるには頼りないのだが。

 なぜ赤いボンボンに固執していたのか。どうやらかつて赤いボンボンを愛用していた女
生徒がいたらしい。妹紅の幻はなんだったのか。どうやら妹紅があの祠の場所で話してく
れた様子を覚えていたらしい。そうした記憶の断片たちが慧音を惑わしていたというのだ。

 友人から告白される前まで頭に寄生していたあの“何かがおかしい”という疑念は、今は
一つも感じられない。慧音はおおむね満足していた。疑念に対する答えとして、妹紅の話
はいちおう筋が通っていたからだ。もちろん、実のところまったく筋違いかもしれないが、
今はこれでよかった。

 何かがおかしいと尋ねられたとする。

 何が、どんな風に、おかしいのか?

 それは自分の記憶が、失われていたから、おかしかったのだ。

 これでいい。慧音の頭の中を疑問符がとびまわることはなくなっていた。

 慧音は屋敷へもどった。中に入ってみるとルーミアが居間でふてくされていた。しまっ
たという顔になる。買い物に出るのだといっておきながら、財布さえ持たずに出ていった。
加えて昼には帰ってくるともいったのに、とっくに昼を過ぎて空はやや橙みがかっている
ではないか。

 かるい軽蔑がこもるルーミアの目が手ぶらの慧音を捉えたとき、さらに軽蔑の度合いが
ました。口がうごいて皮肉を漏らす。

「買い物はどうだったの」

「申し訳ない。急用があったんだ。……外には出ていないよな」

 ちゃぶ台に上半身を投げ出していたルーミアは体を持ち上げると、今度は畳みのうえに
ねころがった。

「そんな暇なかったわよ。上白沢が出ていって、すぐ寝ることにしたんだ。こんな風にね」

「そうか。ならいい。うん、良い子だ」

「私、お昼たべてないんだ。もうすぐ夕方なのに」

「申し訳ない。夕飯は絶対に食べさせてやろう。本当に申し訳ない。で、言いづらいんだ
が、そうなると今から買い物にいってこないといけないな。我慢してくれ、な?」

「つぎに上白沢が帰ってくるのはいつかしら。深夜? 私、もう一日お泊りできる?」

 慧音はルーミアの言葉を笑ってごまかす。買い物袋をもち、書斎に財布を取りにいき、
準備を済ますとすぐさま屋敷を出ようとしたが、足が止まった。

 今さらながらルーミアが食らったという死体の話に疑問を感じた。妹紅と、顔も覚えて
いないあの子の埋葬場所を探しているときに発見した、ごく最近掘り返されたとおぼしき
穴。もしや掘ったのはルーミアが? 部屋に隠れていた赤いボンボンを彼女が発見したこ
とも興味深い。慧音は尋ねずにはいられなくなって居間へ引き返す。

「ルーミア。朝に私が死体を食ったかと質問したのを覚えているか」

「ああそれねえ、思い出したよ。たしかに食べたかも」

「本当か。ならどこで食べたか覚えているか。場所は、例えば東の祠のちかくとか」

「へえ、東に祠になんてあったんだ。今度いってみよう」

「ところで、地面を掘ったりはしたか」

「さーどうだったかなー」

「考えてみたんだが、ある人間を食べたとするだろ。そうしたらその人間の遺品などが見
分けられるようになるってこと、あるだろうか」

「なんの話?」

 質問はそこで終わった。

 妹紅の話を信じるならば、あの子は一年三ヶ月前に埋められたのだから、死体の状態は
そうとう悪化していたはずだ。ルーミアが劣悪な死体をわざわざ掘り返してまで口にする
だろうか。仮に、食べたとしたらどうだろう。酩酊しきって意識のうすれた彼女ならあり
うる。実は徹底的に古くなった死体や骨が大好きなのかもしれない。そういうものを好ん
で食べる妖怪はいて、世間では悪食と呼んでいる。さて、ルーミアは?

 居間を出た慧音はその足を裏口へむけていたが、急に心が変わって教室へ変更した。教
卓の出席簿をひらいて、欄外に記されていた藤原妹紅という名前のうえに、備え付けのペ
ンで二本の横線をひいた。彼女の名は、ここに記されていてよい存在ではない。ふたたび
体をひるがえすと、今度はたしかに裏口へむかった。

 居間にいたルーミアの奏でる鼻歌が廊下に流れてきている。ものがなしくちょっと不気
味な調べが、切れぎれに。慧音にとって耳慣れている音が聞こえる。生徒たちがよく歌っ
ている童謡と旋律がまさにおなじだった。生徒たちのに比べると、こちらの音はすこし早
く、お世辞にも上手とはいえない。さっさと買い物にいけと急かされているようだったの
で、慧音は足早に廊下をわたった。

 いなくなった子も、この童謡をうたっていたのだろうか。

 慧音が裏口の戸をひらいたとき、雲の間を縫って出るつよい西日に目がくらんだ。
さて。
 以前の作品で感想欄にて三人称が下手なのではという指摘をいただきました。というワ
ケでもないのですが、再び三人称に挑戦したのが本作です。これでハッキリ分かったこと
は一つ。その指摘をしてくださった方の目に間違いはなかった、ということです。他にも
たくさんネガティブな言いたいことがあるのですが、今回はやめておきましょう。

 ところで慧音の妹紅に対する口調。公式作品の中でも敬語なのかそうでないのかがわか
れているようで、どちらを優先すればいいのか悩ましい。今回は思い切って敬語を喋らせ
るようにしてみましたが、正直なところしっくりきてません。しかし、敬語をつかう慧音
も悪くはないんですよ。

 行の並びを均一にしようと試みましたが、ちょっとうまくいっていませんね。
今野
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コメント



0.540簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
冗長なのは苦手だという三人称だからでしょうか。
話自体は惹かれました。こうして最後まで読んでしまいましたから。
3.80奇声を発する程度の能力削除
とても引き込まれるお話で素晴らしかったです
6.90名前が無い程度の能力削除
私好みの作品でした。なかなか真実にたどり着けない慧音に、リアリティがあって良かったと思います。
9.100名前が無い程度の能力削除
読みにっくいよ!
でも面白かったです。さらっとした感じでダークが出てきますね。外だったらこれ一本で数十年分の葛藤と因縁が出る事でしょう。
でも大した事無く・・・少なくともさっと生活に戻れる点ではやはりこいつら人外。
10.100名前が無い程度の能力削除
人でなしたちの人でなしさがとても良いなぁ。
11.80名前が無い程度の能力削除
胸糞わるい女ですね
14.80名前が無い程度の能力削除
モヤモヤしたけーね、やっちゃった妹紅、眠そうなルーミア、
晴れたモヤモヤにこれっぽっちもカタルシスがないグズグズさ・・・
霞がかったような陰鬱な空気が田舎を覆っている感じがかなり好みです
三人称と一人称をふらつく中途半端な感じも空気感に貢献してるような気がします、嫌味でもなんでもなく
15.100名前が無い程度の能力削除
ちらっと「ミスティック・リバー」を思い出しました。
敬語な慧音はありかな。
あと、
>「やっちゃった」
から先あたりの妹紅の台詞を、なぜだか何回も読み返してしまいました。
17.100名前が無い程度の能力削除
物語全体に漂う退廃的でミステリアスな雰囲気が最高でした。
18.100名前が無い程度の能力削除
omosuree
慧音がやっちまって妹紅が騙してるのかと妄想した