「幻想郷歴第118季の夏。突如発生した妖霧により里が覆われ、生活空間としての機能が麻痺するという出来事が起こった。これを解決したのが博麗の巫女と、森の魔女であり、この事件は後に紅霧異変と呼ばれた――」
黒板の前に立った教師は、大きく『紅霧異変』と書いた。
「ここテストに出すから、必ず憶えるように」
白墨で黒板をトントンと叩きながら、彼女はじろりと寺子屋に集まった子供達を睨みつける。
普段なら真面目に聞いている子供までが、上の空だ。どうも暑すぎて、授業に身が入らないようなのだ。これは困った。夏だから暑いのは仕方ないが――。
しかし、暑いのは彼女も同じだった。流れ出る額の汗をそっとハンカチで拭う。しかし、教師である自分が、暑い、などと軟弱な言葉を吐くわけにはいかない。少なくとも彼女はそう思った。
一分の隙も無い凛とした佇まいに、よく響く声。教え子を見守る両の眼は時に厳しく、時に優しい。子供の模範たる教師足るべく、鉄の意志で己を律し、その徹底した自分への厳しさがそのまま外見にまで表れてしまったかのような人物。それが今の彼女だった。
焼け石に水だろうな、と思いつつも教室の窓を全開にし、無理やり授業続行。
「紅霧異変の折、初めてスペルカードルールが正式に採用され、以降、人と妖怪が同じ土俵で戦う事が出来るようになった。これは幻想郷の歴史上でも非常に重要な分岐点だ。人と妖怪の新しい関係を築いた、という点では。ただ、戦う、というと語弊があるな。スペルカードルールによる弾幕合戦は、戦いというよりも遊びだ。さて、ここで多少話を逸れるが、面白い事に、歴史を紐解くと、『遊び』という言葉の語源は神事にあり――」
いつも通りに授業内容を放り出して、横道に逸れて蘊蓄を垂れ流し始める。
「先生!その異変を解決した魔女って、霧雨さんとこの娘さんだって本当ですか!?」
と、ここで気の利いた生徒が質問攻撃。我らが愛すべき教師は、キョトンとした顔で蘊蓄を披露するのを中断。暫しの沈黙の後、深い笑みを浮かべる。
「よく知っているな。霧雨魔理沙。そうだ。皆もよく知っている道具店の娘だった」
おお、とどよめきが起きる。身近な存在が、歴史に名を残しているという事に驚きつつも、親近感を覚えているという風。その純粋な反応に、歴史教師は満足を覚える。
「歴史とは常に現在と地続きなんだ。現在から遊離した過去は存在しない。皆もお父さんやお母さんに聞いてみると良い。この里に中だって幾つも、歴史的に重要な場所や物がある。そうだな――それを今日の宿題にしようか。これまで習った幻想郷の歴史に出て来た場所や物を調べて来ること。分かったかい?」
異口同音に頷く生徒たち。
タイミングよくボーンボーンと柱時計が鳴った。それが授業の終わりの合図。
彼女は柱時計が鳴るのを待ってから、今日の授業はここまでだ、と厳かに告げる。
「今日は授業の延長は無しだ。悪いが、今日は先生の御客が来るんだ。皆、寄り道しないで帰るように」
「お客さんって彼氏なんでしょう?」
きゃっきゃと囃し立てる子供。彼女は満更でもないように苦笑する。
「違うよ。友人だ。私の古い友達なんだ」
そうして、彼女は生徒達を送り出してから、静かになった家の中で友を待つ。茶と菓子を用意して。若干、緊張しているのが分かる。成程、確かにこれでは恋人を待っているみたいだ。
それにしても暑い。うだるような暑さ。どれ外で打ち水でもしてみようか、とバケツに水を汲んで玄関を出た所で、道の向こうからこちらへと歩いて来る友人を見つけた。
陽炎の立つ狭い小道を、友人がその特徴的な銀髪を揺らしながら歩いて来る。
彼女はバケツを手にしたまま、空いた方の手で、頭に被った『まるで銀閣寺みたい』と陰で言われるそれを無意識にかぶり直した。
お互いの顔が見える地点までやって来る。
「やあ妹紅」
「やあ慧音」
いつも通りに片手を上げて、ラフに挨拶。
「暑いね」
「ああ、暑い。だが、こうして陽の光をたっぷりと浴びるのも偶には良い」
「お互い様にね。こうも連日暑いと、外に出るのも億劫で家に籠りっぱなしだよ」
慧音と妹紅はそんな何でもない会話を交わしながら、家に上がる。
書斎に行き、用意していた茶と菓子を手に近況を報告しあう。
「最近、輝夜との仲はどうなんだい?」
少し舌が解れた所で、慧音は率直に、恐らくは妹紅が一番苦労しているであろう部分を聞いた。
妹紅は、ああ、とか、うう、とか若干言葉を濁した後、まぁまぁかな、と言った。
「前みたいに顔合わせれば喧嘩なんてのは無くなったと思う。お互いに成長したんじゃないかな」
「丸くなったんだろう。妹紅も、輝夜も」
「大人になったのかな?体の方は昔と少しも変わらないのに」
「心は見えないから分かり難いが、体と同じように大きくなるものさ。妹紅の方は、そうだな、昔とは比べ物にならないくらい安定していると私は思うよ。正直、初めて会った頃は手負いの野良猫みたいな感じだった」
「あはは――あの頃の事はあまり触れて欲しくはない――かな。ああ、でもアイツもそんなこと言ってたっけな。今の貴方は牙の抜かれた狼の様!昔のあのギラギラした貴方は何処へ行ったの!?とかさ。余りに五月蠅いから、私が、何時までも子供みたいな事言うの止めようよ、って諭したら急にしゅんとしちゃってさ、言い過ぎたかなって思ったら、急に家に泊めてくれとか言いだして、好きにしたらって言ったら、そのまま自分で布団敷いて、一泊して帰って行った。何なんだろうね。あれは」
「相手をして欲しかったんだろう、たぶん。妹紅が以前より心に余裕が出来た分、大人びた行動をとる事が出来るようになった。だから、置いて行かれた様な気持になったんだろう」
「別に、大人になろうとした訳じゃないんだけどね。気付いたら、こうなってただけで――」
二人は暫く言葉を失い、それぞれ自分の考えに没頭した。そんな沈黙さえ心地良い。そういう二人だった。
やがて、慧音は急に立ち上がると、無造作に本棚を漁り始め、一冊の本を選び出すと広げて読み始めた。妹紅が笑う。
「慧音は本当にその本好きだね」
「妖怪の本だからな。私の中の白沢の血が騒ぐのさ」
江戸時代の画師が書いたという妖怪本を眺めながら、慧音は愛おしそうに目を細める。
「その本、持ってったら?」
妹紅の言葉に、しかし、慧音は首を横に振った。
「要らないよ。全部頭に入ってる。思い出そうとすれば、何時でも出来るんだ。それに、これはもう君のものだ。妹紅に持っておいて欲しいんだ」
妹紅は神妙な顔で頷き、ああそうだ、と言った。
「暑すぎて、子供達が授業に集中できないのよ。どうしたら良いと思う、慧音先生?」
「それは私も毎年悩んでた事さ。どうするかな――ふむ」
慧音は箪笥の引出しを開けて、小さな箱を取り出した。開けると、中には和紙に包まれた青いビードロで出来た風鈴が入っている。
「そんなとこに、そんなのがあったんだ」
「私も忘れていた。今、思い出した」
慧音と妹紅は教室に使っている部屋に行くと、そこの窓に風鈴をぶら下げた。
緩く吹く、夏風に揺られて風鈴がちりんと鳴る。
「――こんなんで本当に子供達が授業に集中できるわけ?」
「涼しい音色だ。昔の人はこれで涼を取っていた。気持ちの問題さ」
と、慧音は自信満々で言い切った。妹紅はそれ訝しく見詰める。
「あの子達にそういう情緒が分ればいいけどねー」
書斎に帰り、他愛も無い話の続きをする。
あの子はどうした。アイツは今何をやっている。そんな話。
夕方になる頃、慧音が重い腰を上げた。
「そろそろ帰らないと閻魔様に叱られる」
「もうこんな時間?早いね」
妹紅は慧音を玄関まで見送りに出る。
「ねぇ慧音。こんな関係いつまでも続けられると思う?」
「こんな関係って?」
「年に一回、慧音が会いに来てくれる事」
さぁて、と慧音は首を傾げる。
「前に一度、天界にでも行くかと言われた事があったが断った。あんな所は行っても退屈だからな。それならまだ是非曲直庁で書記でもやらせて欲しいと頼んだら、あっさりと許可された」
「それって凄くない?」
「生前の徳というものだろう」
と、慧音は冗談とも本気ともつかぬ笑みを見せた。妹紅も釣られて笑う。
「それじゃあまた暫くお別れだ、妹紅先生」
「先生?止めてよ。前なんて里の御婆ちゃんに、亡くなった慧音先生の授業を思い出して懐かしい、なんて言われてさ。そりゃそうだよね。私はただ慧音の真似をしてるだけなんだし。でも仕方ないかなとは思うよ。だって、私の知ってる先生は慧音だけなんだから」
「いいんだよ、それで。私だって最初っから教師だった訳じゃない。成り行きでそうなっただけだ。今思うとだが――。ま、兎に角、里の子供達の未来はお前に掛ってる。頑張ってくれ」
「プレッシャー掛けないでよね」
と、妹紅は頭に被った帽子――生徒達の間で『銀閣寺』とか陰で呼ばれているそれをちょっと被り直す。
「達者でな、妹紅」
慧音は来た時と同じように、長い銀髪を揺らしながら、確りとした足取りで歩き去っていく。
狭い路地には、近所の誰かが打ち水でもしたのだろう。夕方の熱気に曝されて、微かに蒸していた。地面の香りがする。
「ねぇ、慧音」
妹紅は友人の背中に声を掛けた。
「私いま、毎日が楽しいよ」
慧音は路地を曲がる直前、振り返って、手を軽く振った。
妹紅もそれに倣う。
「バイバイ、慧音。また来年」
冒頭を読み直して「なるほど」と掌をポンと打ちました。
一年に一回死者と会えるなんて、とても素敵な幻想郷ですね。
良いお話をありがとうございました。
日常的な妹紅と慧音のやり取りが切ない。いいなあ、こういうの。
妹紅の今と昔の心の変化や授業をする姿、慧音と別れるときの会話など面白いお話でした。
なんというミスリード、見事に引っかかった
…ん、てことは魔理沙は親父より早く逝ってしまった?
orz
だったのにあとがきの第三次大戦がWWW
最初から読み返して納得。上手いなぁ…。
何はともあれ映姫様のおかげですねw
まったりのほほんとしたなかにちょっと切なさが混じった良い話でした。
ミスリードお美事。二人が会うところで「あれ?ひょっとして…」と気付きました。
亡くなっても年に一度とはいえ再会できる、それは嬉しいことだと思うのです。
時期はずれますが、まるで織姫と彦星のようで二人の強い繋がりを感じます。
さっと読めてしまう短さながら、ほのぼの感が堪りませんね。ご馳走様でした。