こんな筈じゃなかった。これではもう、取り返しがつかない。
こいしの小さな体は、血にまみれている。癒えぬことのない傷が、刻まれている。
(全部、あたいのせいだ)
お燐の目に涙が浮かぶ。まさか自分の行動が、このような結末をもたらすとは思わなかった。いっそここから消えてしまいたかった。
「大丈夫。怒ってないよ。これで皆、幸せになれるんだもの」
こいしは、お燐に笑いかけた。二度と元に戻れない体で、聖母のように微笑んで。
「私も、お姉ちゃんも、お燐も、皆が少しずつ損をして、少しずつ得をする、最高の終わり方なんだよ? これでいいんだよ?」
* * *
ただでさえ人気の少ない地底の中でも、一層寂しげな一角。そこでぽつんと建つ洋館に、お燐達は住んでいる。
館はどこを見渡しても、掃除が行き届いていた。よく磨かれたステンドグラスの光が、鮮やかに床を照らしつけている。
屋敷中が、おめかしをした少女みたいだった。想い人と待ち合わせでもしているかのように、健気にも綺麗であり続けている。待ち人など、来ないとも気付かずに。
さとりはここで、どんな時も悲しげに目を伏せていた。無理も無い。唯一の妹は心を閉ざし、無意識の中にいる。会話もままならない。その上、他の妖怪達はさとりを恐れ、近付こうともしないのだから。慕ってくるのは動物のみだ。
動物が相手では、一緒にお菓子を作るとか、服の貸し借りとか、同じ曲を歌うとか、そういったごく普通の女の子同士の遊びなんて、とても出来ない。
誰か、人型の友達を作ってみては? とお燐は心で問うてみた。
「友達……? いらないわね」
さとりの顔は青ざめている。
「そ、そそそそんなものいなくても昼食をトイレで済ますくらいだし、なんの不都合も無いのよ。年賀状の来ないお正月は返事を書かなくて良いので快適だわ」
なんて言いながら、さとりは全身をガタガタ震わせていた。
ああ、めっちゃ友達欲しいんだろうな、人型の遊び相手作るべきだな、とお燐は悟ってしまった。
その日から、お燐の特訓は始まった。お燐自身が人の姿になる計画なのだ。長年生きた化け猫なら、大体は変身できるのでおそらく成功する筈だ。
まず少女に変身しようと決めてからは、イメージ修行だ。最初は実際の少女を一日中いじくっていた。とにかく四六時中だ。目をつぶって触感を確認したり何百枚何千枚と少女を写生したり、ずーっとただながめてみたりなめてみたり、音を立てたり嗅いでみたり、少女で遊ぶ以外は何もしなかった。無論、その少女とはさとりなので、ほぼご褒美である。しばらくしたら毎晩少女の夢を見るようになって、お燐の体は見事、愛くるしい女の子の姿に変身していたのだ。
さっそく新しい自分を、愛しの主に披露するお燐だった。
「にゃーん! さとり様!」
「誰!?」
「あたいです。お燐です、けど」
さとりは下を向いて、黙ってしまった。無類の動物好きだから、ひょっとしたら人型のペットなんていらなかったのかな、とお燐は不安になった。
「でかした!」
しかし直後にさとりが、小躍りを始めたため安堵した。無事出産を終えた妻を迎える、夫のようなノリだった。
「ふ……ふふふ……女の子……女の子の形をしたペット……ふふ、くふふふふふ……」
何故さとりが地上を追放されてしまったのか、分かりかけてきたお燐である。
「……お燐……はぁはぁ……ふう……まずは、三つ編みにしましょうね……ふうふう……全てはそれからよ……」
「でも、その前に何か着た方がよくないですか? あたい、人化したばかりで服の持ち合わせが」
「服? 貴方、服を着るつもりでいたの」
「着せないつもりだったんですか」
「分かったわ。お燐一人が裸じゃ恥ずかしいものね。これからは私も裸で過ごすことにするわ」
何故、二人とも着衣して過ごすという発想に至ってくれないのだろう。
「あの、あたいやっぱ猫の姿に戻ります……」
さとりは平伏し、露出の少ないゴスロリ衣装を持ってきてくれた。
「何でもするから猫に戻るな猫に戻るな猫に戻るな猫に戻るな」
「わかりました! わかりましたってば!」
んもう。こんな方だったっけ。お燐は不思議がりながら袖を通した。今の自分の容姿が、対面した相手の理性を高確率で破壊してしまうレベルの美少女だとは、自覚していないらしい。つまり、一度も可愛いと言われたことが無いせいで、天狗にならない綺麗な女の子という、極上の馳走な訳で。さとりでなくとも狂っちゃいそうな、コクとまろやかさがある。市販のルーでは出せない味わいだ。
「なんだか落ち着きません。毛の無い肌に、布が擦れるって変な感じ」
言って、お燐はくるりとターンをした。背中も含めた、全身を見せるためだ。初めて身に纏う衣装。さとりの感想が欲しい。
「あー。もうお燐だけ居ればいいや。他のペット全員捨ててくるわ」
どこまで本気なのか分からないが、最高評価なのは間違いないようだ。「いや、しかし……他にも女の子に変身できるペットが出てくるかも……待つか……」などと理解に苦しむ言動をしながらも、さとりは上機嫌だった。
「ところで貴方、猫の姿には戻れるの?」
「できますよー」
どろん、と音を立ててお燐は黒猫に変化する。
「もっかい人型になってみて」
「にゃーん」
どろん。すると再び、さとりの与えたワンピースに身を包んだ少女が現れる。
「服が……消えないだと……!?」
猫状態では服など着ていないのに、そこからまた人になると着衣している。なんとも謎である。
イメージの力で変身しているので、お燐自身が「あたいの外見はこうである」と一度認識した姿に、変わるのかもしれない。
「確かに不思議ですねえ。いや、それにしてもさとり様は聡明であられる。人化に伴う衣服出現のメカニズムを解き明かすべく、さっそくあたいを猫形態に戻させるとは。あたいてっきり、裸が見たいから一度人化を解かせたのかと思いましたが、検証のためだったんですねぇ。その探究心には感心するばかりです」
「へ? ……ああ、うん。そう。そうなのよ。さっぱりちっとも全く裸のお燐が見たかったわけではないのよね。い、いやー、神秘的だなー。服ごと変身できるんだもんなー」
さとりの全身が小刻みに痙攣しているのにも気付かず、無邪気に微笑むお燐だった。
「あたい、人化してよかったんですよね」
「? 当然よ」
「本当ですよね?」
「ええ。……何か気になるの?」
「いえ、何でもないです」
喜んでいるのは、確かなのだけど。何故だろう。さとりの目が一瞬、憂いを帯びているように見えたのは。
お燐は、深く考えないようにした。そういうのは、ペットの本分から外れている。
あたいはただ、黙ってさとり様に可愛がられてればいいんだ。お燐は自分の中でそう結論を出して、さとりの肩に身を委ねた。
後はされるがまま、だ。
「好きにしちゃって、大丈夫です」
「え?」
「ですから、いつもみたいに。好きに扱ってください」
確かに普段、猫の姿をしているお燐を、さとりは自由に愛でている。くすぐったり、撫でたり、猫じゃらしで誘惑したり。猫好きな飼い主ならするであろう行為は、一通りやっている。
けど。今のお燐は、女の子の姿をしているわけで。
「ノーパンしゃぶしゃぶも問題ないと……!?」
「それがさとり様の望みなんですか」
一体どこまでの邪悪さを抱えているのか。己が主の嗜好に疑問を抱きつつも、お燐は下着に手をかけた。はいてないの、好きなんですよね? 熱の篭った声で尋ねてみたが、返事は来ない。
「さとり様?」
「あかんもう死んでもええわ」
「誰ですか貴方」
もしかして、さとり様によく似たオリキャラなんだろうか。疑念が沸いてきたお燐である。
「待って。待って。いきなり宝くじが当選したら、誰だってテンパるでしょう。今そんな感じなのよ」
あたいはさとり様に拾われて以来、毎日が宝くじの一等賞みたいなもんなんだけどなー、とお燐は考える。当然さとりにはそのモノローグが読み取られており、もう気分は古明地維新である。これからは近代化された百合が待っているのだ。
お燐と、富国強兵したい。お燐の全身を植民地にしたい。さとりはそんな妄言を繰り返しながら、お燐に手を伸ばした。
お燐は全てを受け入れるつもりでいた。お燐の二等国な場所を、文明開化して貰いたかった。
ぎゅっと目を瞑り、来たるべき産業革命な感触にお燐は備えた。しかし、さとりの手は予想とかけ離れた部位へと伸びていく。
(あれ?)
えーと?
なんでそんなとこ触ってるんだろう?
さとりはせっせと、お燐の髪を弄っている。どうやら三つ編みにしているようだ。
「髪なんて、後でいいじゃないですかあ」
「よくない。大事。凄く大事」
ぶー、と口を尖らせるお燐だったが、鬼気迫るさとりの様子に、ただならぬものを感じた。
「もしかして、三つ編みに何かあるんですか?」
「……ないわ」
あるんだ。
その態度は、あるに決まってる。お燐は分かってしまった。多分、単なる好みだとかじゃなくて、もっと深刻な理由なのではないだろうか。事実、三つ編みになったお燐を見つめるさとりは、今にも泣き出してしまいそうだったから。
(絶対変だ)
さとりは、お燐を抱きしめると、「この姿になってくれて、本当にありがとう」と言った。そして、それ以上のことはしなかった。
何かある。
確実にある。
それも、根深い問題がある。
教えてください、私は力になれますか? 心で話しかけたけれど、さとりは無反応だった。まるで他人の考えなんか読めない、人間みたいに無視を決め込んでいる。
よほど話したくない出来事なのだろうか。
(こいし様に関係あるのかな)
なんとなく、そう思った。
* * *
「まあ可愛い女の子ね。女の子は皆可愛いわ。だって若い女の子を可愛いと感じるように、私達の心が作られているのだもの。か弱く生殖力に優れた個体を保護するための本能・システム・プログラムなのよ。そう、気が付けばいつの間にかインストールされてるの。それってインプラント? 医療事故だわ……」
こいしは人化したお燐を見るなり、相変わらずの意味不明な感想を漏らした。常に微笑を浮かべていて、その表情からは何も読み取れない。
我々が意識の世界を生きているのに、一人無意識の世界で暮らしているのだから、きっと永遠に分かり合える日など来ないのだろう。
(駄目だ。こいし様に聞いたところで、ヒントなんか貰えなさそう)
お燐はこいしとのコミュニケーションを諦めて、身を翻す。もう特に用は無い、と見切りをつけたのだ。その時だった。
「貴方も三つ編みなのね」
今、こいしは確かに言った。「貴方も」と。それが何を意味するのか検討もつかないが、さとりの不審な態度と関連性があるような気がした。
「貴方は私よ」
そう言ったかと思うと、こいしはもう気配を消していた。何処かへ遊びに行ってしまったようだ。
くるくると、自分の三つ編みに結ったおさげを指で弄びながら、お燐は首を傾げた。
どちらかというと、この件は悪い予感がする。
妖怪としての勘も、女の子としての勘も、知らないほうがいいのでは、と警告している。だけど、気になるものは気になるのだ。
どうにかして、さとりから直接聞き出せれば良いのだが。途方に暮れるお燐である。
(悩んだって仕方ない。どうせさとり様には、頭の中を読まれちゃうんだし)
お燐が深刻に考え込んでいると知ったら、きっとさとりは近い内に自分から話してくれるだろう。
そうに決まってる。
開き直って、お燐はさとりの元へ向かった。
そもそも今日は、お呼ばれしてるし。
昨日はいきなり人化したので、さとりの方も準備が出来ていなかった。だから、本日正式に必要なものを支給してくれるそうだ。
必要なものってなんだろう。可愛い下着とか、髪飾りとかかな、それとも化粧品かな。心を弾ませながら、お燐は廊下を歩き続ける。
結構、地霊殿は広いのだけど、考え事をしていたせいか、あっという間にさとりの部屋の前に到着した。
でも、いきなり入るのはマナー違反。手鏡を出して、髪を整えて。一番綺麗な自分を見せられるようにして。
それから、まずは失礼の無いようにノックをしなきゃ。と、軽く手を握った瞬間、
「はあ。小町ったら私のことを愛するあまり、仕事が手につかないわ馬鹿高いプレゼント寄こすわで、駄目駄目の駄目おさげだわ。赤い艶やかな髪でモデル体型で私に夢中って本当にいけない子ね」
「ギギギ……自虐風自慢ウザ過ぎ死にそう……しかし案ずることなかれ、今の私にはお燐がいる……! お燐も赤い艶やかな髪でスタイルは良い……! しかも猫耳ですからね!」
「わろすわろす。そんな都合のいい美少女が突然ホイホイ沸いてくるなら、誰だってお姉様よ」
ドアの向こうからしょうもない会話が聞こえて来るんですが。
のろけ大好き貧乳閻魔と、舌戦してるように感じるのですが。
お燐にはこの扉を開けるのが躊躇われた。
「うちのお燐なんて、見たら髪の毛抜けるぐらい美形だもんねー! 一度抜けて生え変わった頭髪が、全部癖っ毛になるくらい美形ですからねー!」
「なん……だと……まさか、古明地姉妹が天パな理由は……」
やばい、うちの父ちゃんパイロット並みの無茶苦茶な自慢してる……!
部屋に入るハードル、どんだけ上げれば気が済むんだ。もう自室に帰ろうかとも思うお燐だったが、「んでその美少女様のお燐はいつ来るの?」と映姫が煽ってるのを耳にしてしまったため、引くわけにはいかない。
主の名誉がかかっている。
あたいがやるしかない。
意を決し、ドアノブに手をかける。
「は、初めましてー。先日人型になれた、火焔猫燐と申しまーす」
中に入るなり、そろりそろりと、さとりの席へ近付く。心なしか、可愛い顔など作ってみたり。結局は飼い主想いの猫なのである。
「む? 確かに猫耳で赤い髪ね。顔も、まあまあだけど……小町と比べれば月とムーン程には差があるような」
「それは同じ天体です。同格と認めてますよね?」
「でも、でも……胸囲は小町の方が……だが、この猫娘の方が若くて小柄……これは……」
だらだらと汗を流す映姫。今のところ、一行たりとも閻魔らしい権威有る台詞を吐いていない。大丈夫なのだろうか。
「さ、こっちよ。座りなさい」
さとりはぽんぽんと自分の膝を叩いて、合図する。お燐は体に染みついた動作で、その上に乗った。なんともけしからん座り方だった。
「そ、それくらい別に、小町だって数万円渡せばやってくれるし」
金銭のやり取りが発生している時点で、映姫の敗北は濃厚である。
「お燐、言いなさい。貴方は私の何?」
「んと、あたいは、さとり様のペットです」
ペットぉ!? と映姫はすっとんきょうな声を上げた。
「あらあらお燐。貴方、はしたなくてよ? ブラはどうしたの? 着けてないの?」
もにもにとお燐の胸を持ち上げながら、さとりは囁く。
「だ、だって昨日、さとり様がくれなかったから……だから、それを受け取りにこの部屋へ来たんじゃないですか……」
「うふふふふ。ふうふう。……はあ……はあ……どんな柄がいいか、二人で選んで決めましょうねぇ……」
「あ、はい。さとり様と、一緒に決めます……さとり様が好きなもので大丈夫ですよ?」
有罪! 有罪! 有罪! 映姫はもう、その単語しか叫ばない奇妙な生き物になっている。そして奇怪なテンションのまま、逃げるように部屋を出て行った。「小町だって十万は払えば同じことしてくれるもん!」捨て台詞はそんなお粗末なものだった。
後には、お燐とさとりだけが残された。
「騒がしい人でしたね。いつも泣きじゃくりながら帰るんですか?」
「まさか。今日は特別。貴方が泣かせたのよ」
悪い子ね、とさとりはお燐の頬をつついた。
(話し相手は普通にいるんだな)
単に仕事のやり取りを事務的に行うだけかと思っていたが、意外にさとりと映姫にはフレンドリーな雰囲気があった。悪友的な匂いさえ感じる。
「いえ、あんなの友でも何でも無いわ。敵よ。天敵よ」
毎度毎度、小町さんから幾ら貢がれたかしつこく自慢しおってに。とさとりは歯軋りをした。
こりゃ友達できねーわなー、と呆れるお燐である。
「大体、閻魔様は年上だし。年長の友人なんていらないわ」
「年下が好きなんですか?」
「そりゃ、年下じゃなければいも……」
いも。そこまで言いかけて、さとりはしまった、とばかりに口を押さえた。
「いも?」
「失言よ。気にしないで」
むー。たまらずジト目で睨むお燐である。しかしその顔をすると、美少女増し増し120%なので、さとりは大いに喜んだ。
「隠し事はよくないと思います」
「知らない方がよいこともあるわ」
「あたい達はさとり様に頭の中を覗かれ放題なのに、さとり様だけはプライバシーを持ちたがるんですか?」
「別に私のプライバシーを蹂躙してもいいのよ、物理的にね。特に風呂場はガンガン覗いていいわ。必ず人化した状態で、覗きにくるのよ。いいわね?」
「茶化さないでください!」
いや、今のはジョークでなく本気だったのだけど、とさとりは呟いた。が、お燐の射抜くような眼差しに気圧されたのか、うすら笑いが消えた。
「妹よ」
「え?」
「さっき言いかけた言葉。妹」
いも、まで出かかって止めたというわけか。
では、さとりが友人に求めている条件とは。
「年下の友達じゃないと、妹の代わりにならないでしょう」
なるほど。お燐は合点がいった。さとりは今でも、在りし日のこいしの幻影を、追い続けているのだ。どこかに、心を開いていた頃のこいしの代役が務まるような、若い友人はいないかと。
「あたいじゃ駄目ですか?」
「……貴方が?」
「あたい、一応さとり様より年下ですよ」
お燐は、さとりの目をじっと見つめて言った。心の底から主の力になりたいと、視線で告げる。
「……妹の、代わりなのよ? あくまで代わり、よ? そんな不憫な役割、大事なペットにさせたくないわ」
「あたい、さとり様になら何されてもいいです」
さとりの腕に絡みつきながら、お燐は言う。よく考えてみたら、ノーブラな胸でむぎゅっと二の腕を挟む形になってしまったが、事故である。おっぱいの事故は良い事故である。
「さとり様?」
「おりんりんランドのパスポートとはこの感触だったのね」
「意味がよく」
「分かったわ」
さとりは大きく息を吸い込んでから、力の篭った声でまくし立てる。
「貴方は今日から、私の妹よ」
「はい! 頑張りまっす! 突撃します!」
「妹である以上、貴方には私をお姉様と呼ぶ義務があるわ」
「にゃ?」
あくまでこれは、こいしの代役、なりきりであって。そのこいしがさとりを呼ぶ時は、「お姉ちゃん」であって。
なんか、微妙に違うような。さとりの個人的趣味が、反映されている気がしてならない。
「こいし様って昔は、そんな風にさとり様を呼んでたんですか?」
「ええ。私のことをお姉様と呼び慕い、家の中では下着姿で過ごしていたし、毎晩私の布団の中に潜り込んで来たわ。本当本当。お燐にもぜひその行動パターンを模倣して頂きたい」
ふんすふんすと鼻息を荒くするさとりに、「絶対嘘だ」以外の感想が沸いてこないお燐だったけれど、そのえろいシチュはお燐も歓迎するところだったので、特に追及しなかった。
「じゃあ、えっと。さ、さとり……お姉様」
「よく言えました。偉いわ」
お燐の髪を手櫛で梳かしながら、さとりは賞賛し続ける。「いい子ね」「綺麗よ」と。
(な、なんかえっちだ)
さとりの細い指がうなじに当たる度、お燐はぞくぞくとしたものを感じた。
顎の下にも手が回ってきて、肌に体温を染み込ませるかのように、ゆっくりとなぞられる。そこは、猫が気持ちいいと感じるスポットだった。
にゃ、あー……ん。あくまで猫の鳴き声であって、女の子が変な気分になった時の声じゃないんだからね、な声が漏れてしまう。
さとりの指遣いは巧妙だった。なんせ、思考が読めるのだから。お燐が触って欲しいと思ったところは、必ず撫でてくれる。こんな素晴らしい能力を持った主に仕えている限り、不幸な結末など迎えないだろうとお燐は思う。
心が読めれば、何だって出来る。約束された、ハッピーエンド。きっとあたいは、命の終わるその時まで、幸せでいられるのだ。そうですよね、さとり様? お燐は頭の中で話しかけたが、返事は来なかった。
「何でもは、出来ないわ」
私に出来るのは、可愛らしいペットを見つけることだけ。そう言いながら、さとりはお燐の胸に手を乗せた。「もちろん、貴方が一番可愛いペットよ。……いえ、妹だったわね」くすりと笑って、さとりは手のひらを動かした。いやらしい手つきではなくて、何かを確かめるような動作だった。
「結構おっきい方なんじゃない?」
「ふぇ? ……そうなんですか?」
「私のお下がりじゃ合わないわね。新しいブラを、今度買ってあげるわ」
さとりはそれ以上、お燐の胸元を愛でてはくれなかった。実際、そこまでやったら姉妹ではなくなってしまう。恋人同士だ。
(あたいはあくまで、さとり様の妹なんだから)
贅沢言っちゃいけない。
でも、さとり様が望むなら、いやらしいこともしちゃって構わないですよ。お燐は上目使いで言ってみた。
「よっしゃあああああー!」
「さとり様!?」
なんだか雰囲気が変わったような。戦に大勝した足軽みたいなテンションだったような。
お燐は(何も聞こえなかったぞ今)と記憶を捏造して、さとりの膝に頭を乗せた。膝枕の姿勢だ。猫の本能なのか、この体勢で甘えるのが一番しっくりくる。
さとりも心得たもので、「この姿勢だと太股にお燐の胸が当たって興奮する。二十時間はこのままでいい」と言ってくれた。
「いや一時間ぐらいでやめますよ。さとり様の足が潰れちゃいますって」
「お燐の胸で潰されるのならば本望……やってやる、やってやるぞ私は」
「私のおっぱいも潰れちゃいますってば!」
「それは大変だ。一時間で切り上げましょう」
さとりは言う。「私はもっと足を鍛える。貴方は胸を鍛えなさい。これで次に膝枕する時は、二十時間ずっとおっぱい当てっぱなしでも耐えられる体になるわ」、と。
そういう問題じゃない、というかそこまで鍛えてしまったら女の子ではなくなる、と答えてお燐は目を瞑る。
穏やかな時間が流れていた。
ずっとこうしていたいと、お燐は願った。
事実、そんな日々が、一ヶ月、二ヶ月と続いてくれた。
三ヶ月目も、続く筈だと信じていた。
信じていたのに。
* * *
こいし様って、昔はどんな方だったんですか? なんとなく、お燐は聞いてみた。
「そうね。とても明るくて、お喋りが好きで、周りによく気を使う子だったわ」
ん、それって――?
そこまで考えたところで、さとりの手がうにうにとお燐の腋をくすぐってきたから、たまらない。
お燐も負けじと、さとりに同じ攻撃をしようと構えると、
「無抵抗!?」
バンザイのポーズかつ、恍惚の笑みでお燐を迎え入れるさとりがそこにいた。
「さあくすぐりなさい! 卑怯にも姉の弱点を突いてなぶりまくるがいいわ! じっくり丁寧にくすぐるがいいわ! 語尾に『にゃん』をつけながら実行するとなおよし!」
逆に怖くて触れない。
これは参ったと、降参するお燐である。
「また勝ってしまったのね。ふふ。姉より優れた妹などいない……思い知るがいいわ」
多分、今のさとりを見て優れていると評価する者は、壊れている。
「あの、話は変わりますけど、さとり様……じゃなかった、さとりお姉様……あの、あたい……」
「なあに?」
もじもじと、お燐は顔を赤らめて何かを訴えようとしている。自分の口からはとても言えないから、察して欲しいな、といった様子。
「発情期が来たのね!?」
「いえ、来週、あたい達が姉妹になってから、ちょうど三ヶ月になります」
あー、そっちねー。私もその可能性を疑ってたわー。とキョドりながらさとりは強がっている。興奮すると、相手の思考を読むのも忘れる駄目妖怪なのだ。
「それで、あの、できたら二人で、お食事とか……」
「いいわ。私も予定を空けておきましょう」
やった、さとり様大好き。何時にも増して、ごろにゃんとお燐は抱きついた。もうこんなじゃれあいも、すっかり板についている。
「髪型は当然、三つ編みにして行きますね」
「……そう」
結局、今でも理由は教えてくれないが、さとりがその髪型をお気に入りなのは十分に把握済み。お燐としても二人の記念日は、サービスしてあげたかった。
今日はたまたま違うヘアスタイルだけど、なんなら今から三つ編みにでも。
と、お燐が髪に手を伸ばした、その瞬間だった。
中庭の方から、ペット達がけたたましく騒ぐ声が聞こえた。
「喧嘩ですかね?」
「いいえ、そういう雰囲気じゃないわ。思念が聞こえてくる。むしろ、喜んでいるようね。後は、とてつもない驚き」
なんだろう。
何かおめでたいことなんか有ったっけ。
誰かの誕生日だったけ。
お燐の胸がざわつく。この騒ぎで、来週の記念日が潰れなければいいな、と。
「……嘘でしょ」
「さとり様?」
「嘘、嘘よ」
「あの、どうかしたんですか」
「だって、こんな」
さとりは両手で口を押さえて、信じられないといった様子で瞬きを繰り返している。その瞳は、僅かに潤んでいた。
「こいし、貴方」
こいし?
今、確かにそう言った。
こいし様が何かしたんだろうか?
お燐は質問を投げかけようとしたが、すぐにその必要性はなくなった。
他ならぬ、こいし自身が顔を見せに来たのだから。
「ごめんね、お姉ちゃん」
こいしは、部屋に入るなり、さとりの目を見て言った。続けて、「今まで心配かけたよね。私、もう大丈夫だよ」と。まっすぐ正面を見据えて、言葉を重ねる。その眼光は力強く、明確な意思を、意識を感じさせた。三つ目の瞳は、見開かれている。髪は、三つ編みにまとめらていた。さとりが好む髪型だった。来週、お燐がしていく筈だった髪形と、同じものだった。
「こいし!」
さとりはお燐などいないかのように、脇目も振らずに妹へ抱きついた。「治ったのね、元に戻ったのね」子供のようにしゃくり上げながら、何度も確認している。
「うん。やっとだよ。これでお姉ちゃんと同じだよ」
上手く状況が掴めない。呆然とするお燐だった。治った? 一体何が?
「眼。私の、三番目の眼。治ったの」
こいしは、お燐の心を読んだのだろう。諭すように言った。その口調は穏やかで、あどけない容姿にそぐわない落ち着きがあった。誰もが恋してしまうような、美しい声だった。お燐に恋していた者さえも、虜にしてしまいそうなほどに。
その日から、お燐の日常は一変した。
ほんの少し前まで、美しい、少女の姿に変化したお燐とすれ違えば、道行く者は皆振り向いた。地霊殿中の動物や、たまに訪れる閻魔様や、そしてさとりも、お燐に夢中だった。
それが、今では全ての注目をこいしが集めている。心を開いた覚り妖怪の少女。よく笑い、よく話す。その能力を用いて、相手が言って欲しい言葉を紡ぎだす。元々可憐な容貌の持ち主であったから、あっという間に人気者になった。
お燐は、まさに流行の終わった、古い服や曲のように、隅に追いやられた。もう、どんなに着飾っても、誰も振り向いてはくれなかった。
三つ編みにしたら、さとり様はあたいを見るかな。
お燐はそう祈りながら髪を編んでみたけれど、さとりはずっと、こいしの部屋に入り浸りだった。
(今日は来なかったけど、明日はあたいの部屋に来るよね)
自分に言い聞かせて、お燐はまた待ちぼうけの時間に戻る。そして、一日、また一日と、日付は変わっていく。
来るかな来るかな。
今日はさとり様、来てくれるかな。
もし来たら、何をお話してくれるんだろう。やっぱりこいし様絡みの話題かな。お燐はぱたぱたと尻尾を振って待ち続けたが、さとりはやっぱり、姿を見せなかった。
(久々の、心を開いたこいし様だもんね)
有る意味、本当の妹との、感動の再会みたいなものだし。さとりがそちらに夢中なのも仕方ない。
お燐はそうやって自分を納得させたつもりだったけれど、ついに約束の記念日に――さとりが現れなかったので――人化できるようになって以来、初めて泣いた。
声は、押し殺した。誰にも聞かせたくなかった。地霊殿中が眼の治ったこいしを祝う空気で満ちているのに、水を差したくなかった。どんなに辛くても、気を回せるのがお燐だった。
どんなに辛くても、気を回せる。明るくて、お喋り。それがお燐。それが自分。あれ? それって。
『こいし様って、昔はどんな方だったんですか?』
『そうね。とても明るくて、お喋りが好きで、周りによく気を使う子だったわ』
お燐はもう気付いていた。
心を開いたこいしが、お燐とよく似ていることに。
さとりが、ずっとお燐にこいしの面影を見ていたことに。
(何がこいし様の代わりに妹になる、だ。馬鹿馬鹿しい。さとり様は初めからそのつもりだったんだ)
現に、少女の姿になったお燐を見て、まずさとりは何をしたか。お燐の髪を、三つ編みにしようしたではないか。
三つ編みは、今のこいしの髪型。無意識にいた頃と違って、毎日きちんと結ってくる。それは酷くこいしに似合っていて、そして、「昔はよくこうしてた」と本人が言っている。
さとりは、心を開いていた頃の、かつての最愛の妹の髪型を、お燐に押し付けたのだ。妹の幻影を被せるために。
(そんなのってないよ)
自分から、進んで、尽くしたくて、こいしの代理を演じるのは、まだ耐えられた。あたいが、さとり様に尽くしてるんだって。どこか自己陶酔があった。己の意思が存在した。
さとりは、それを渋々了承しているのだと思い込んでいた。
本当はこんな酷いことしたくないの。貴方はかけがえのない、代わりの効かない存在。だけど、貴方がくれるなら、私、その好意を貰うわね? こいしの代役、お願いね? そんな風に思ってくれていると、信じていた。
でも現実は違う。
ひょっとしたら、さとりに上手い具合に誘導されて、それで妹を演じていたんじゃないかとすら思えてくる。
どこまでがあたいの意思だったんだろう。
どこまで仕組まれていたんだろう。
もしかしたら、最初からこいし様の紛い物をさせるために、あたいを拾ったんだろうか。
お燐の中で、疑心暗鬼が膨らんでいった。自分でも分かる、汚くて悲しい思考だった。さとりや、こいしには聞かせたくなかった。
お燐は、屋敷を出ることにした。これ以上自分の中で、さとりを憎む部分が大きくなる前に。さとりを好いている部分より、大きくなる前に。
* * *
(また、家なしかあ)
旧都の地面は冷たい。毛皮のある、猫の姿に戻れば少しは暖かいかもしれないけれど、それをやってしまうと本当にただの獣に堕ちてしまう気がした。
今でもまだ、女の子でありたかった。さとりが褒めてくれた姿を捨てた時、全ての絆が失われるように思えた。
(絆?)
まだそれを求めているの?
お燐自身も、よく分からない。
誰かに答えを出して貰いたかった。自分自身ですら解読できなくなってしまった、ぐちゃぐちゃな胸中を覗き込んで、探し出して欲しい。あたいの本心を。
そして、そんなことができるのはさとりその人で。今一番、会いたくない顔だった。
「ここにいたんだ」
来た。
その、会いたくない顔の持ち主。
さとりだ。
期待と憤怒の交ざった瞳で、お燐は声のする方に振り返る。
「え?」
「ごめんね。……私でごめんなさい」
そこにいたのは、こいしだった。三つ編みの、誰にでも愛される少女。
「私、自分が心を開いたらこうなるって、貴方の立場に気付いてあげられなかった。ごめんね。私からも、お姉ちゃんに言ってあげるから」
「どうしてこいし様が、あたいを探し回してるんですか。大好きな姉にちょっかいをかける、泥棒猫ですよあたいは」
「探してなんかないよ。何もしなくても、分かるの」
「偶然あたいを見つけたとでも? 馬鹿馬鹿しい」
「……聞こえちゃうの。だから、嫌でも貴方の居場所が分かるのよ」
「聞こえる?」
「私、お姉ちゃんよりずっと力が強いから。貴方がどこにいても、声が聞こえるの。地霊殿の、ううん、この旧都にいる皆の声が、どこにいても聞こえる」
それが何を意味しているのか、お燐は瞬時には理解できなかった。
「私……私の眼は、お姉ちゃんよりも遥かに遠くの思念が、視えちゃうんだ。多分、お燐がこの地下にいる限り、全部、筒抜けなの。ごめん」
悪い冗談だと思った。そのような強力な能力では、世界中の思考が聞こえるのではないだろうか? しかし、自ら潰したくなるような力とは、それほど強大なのかもしれない。
「じゃあ……じゃあ、私……こいし様がいる限り、ずっと、頭の中を読まれ続けると? どこへ逃げても?」
「ごめんね。本当にごめんなさい。いいの、私は慣れてるから」
「私が、貴方をどれほど憎んで、どれほどさとり様を慕っていて、この数日間どれほど苦しんだかも、全部知っていると?」
「好きで視てる訳じゃないの。そういう種族なの。分かるでしょ? お姉ちゃんとずっといた貴方なら」
「嫌……」
「お燐?」
「嫌!」
お燐は駆け出した。
世界のどこにも逃げ場がないというのに、それでも身体は距離を求めていた。
さとりは、その姿が見えなくなるくらいに離れれば、心は視えなくなる。だから、お燐が地霊殿を離れて住むというなら……醜い嫉妬も悲哀も、知られずに済むだろう。お燐は、そうするつもりでいた。
だが、こいしが生きている限り、お燐はその辛苦に満ちた思念を読まれ続けるのだという。恋敵に。ずっと。全てを。
耐えられないと思った。
死んでしまおうと思った。
どうしてあたいは、こうなっちゃたんだろう? ただ、さとり様を喜ばせたくて、その一心でこの姿になったのに。
息を切らして、お燐はへたり込んだ。猫に戻れば、もっと遠くへ走れたかもしれないが、それすら思いつかなかった。混乱していた。
真っ白になった頭は、何ひとつ考えられない。呼ばれれば、ふらり、と反応してしまうぐらいに、空っぽになっている。
「お燐」
求めていた声だった。
ずっと恋焦がれた音色だった。
「さとり、様……」
こいしと一緒に走り寄ってくるのは、ずっと想ってきた主。古明地さとり。
「私が全部悪いのよ」
来て。と、さとりは手を伸ばした。お燐がずっと、欲しかったもの。この指で再び撫でて欲しいと、何度も何度も夢想した手。それなのに、お燐ではない女の子を撫で続けた手。
「可哀想なことをしたわ」
さとりは言う。可哀想だと。お燐は可哀想なのだと。
しかし、お燐としては、絶対に同情だけはして欲しくなかった。
誰かに可哀想と思われたら、その瞬間から本当に可哀想な存在になってしまう気がした。
ましてや、自分を捨てた本人から頂く、おこぼれの慈悲など受け取るわけにはいかない。
最後の強がりだった。今やその誇りだけが、お燐を支えている。
あたいは、惨めな捨てられた猫なんかじゃない。
泣き腫らした両目で睨み返した。
「そう」
そんなに貴方を追い込んでしまったのね、とさとりは言った。震えた、今にも泣きそうな声だった。
「ごめんなさい……私、お燐なら、なんだって耐えてくれると思っていた。貴方は気が利くから、賢い子だからって」
ぱたぱたと、足元に水滴が落ちる。さとりの双眸から零れ落ちたそれは、路面に黒い染みを作った。
「最近、貴方の顔を見ないから……ずっと、心を視る機会が無かったから……貴方がこんなになってたなんて、知らなかった。知らなかったの」
さとりは俯いて、それから頭を下げた。ごめんなさい。ごめんなさい。何度も謝った。
お燐は心のどこかで、もっと苦しめばいいと嗜虐的な感情が沸いていた。けれども、さとりが悲しむ姿なんて見たくないと、深く憐憫の情を抱いているのも確かだった。
綺麗なお燐と汚いお燐、どちらも本心で、溢れ出るのを抑え切れなかった。止めたくても止まらなかった。
あたいを見ないで/もっとあたいを見て
あたいの心を覗かないで/あたいの怒りを思い知れ
こいし様ごめんなさい/こいし様なんかいなくなればいい
あたいが悪いんです/あたいは悪くない
いっそ殺してください/いっそ殺してください
恥ずかしくてこんな自分が嫌いでさとり様もこいし様も大嫌いで大好きで。
お燐は膝をついて、その場に崩れ落ちた。とても誰かに見せられる顔ではなかったから、隠したくて、蹲った。
もう見放してくれないか、と心で伝える。
さとりは何も語らない。語ってくれない。
こいしは……わずかにえずく音が聞こえる。こいしは、泣いているようだった。「ごめんね、お燐」あんなにも汚い本音を聞かされて、それでもお燐のために涙を流しているようだ。
本当だ。心を開いたこいし様はいい子だ。あたいが敵う筈ないや。お燐の中で、投げやりな部分がどんどん大きくなっていった。
「私、初めはお燐に、こいしの影を重ねていたわ。事実よ。だけど、姉妹の真似事をしている内に、貴方も大切な存在になっていったの。今はもう、お燐はお燐だって。お燐だからこそ、好きなのよ。信じて」
お姉ちゃんは、嘘を言って無いよ、とこいしが補足した。心を読める妹が言うのだから、きっとこれがさとりの本心なのだろう。
完全な、相互理解というやつだ。
そうやって二人で、欠落の無い意思疎通をやってるといい。そこに読心の術を持たない、自分が入る余地は無い。ほうら、やっぱりあたいはいらない子じゃないか。
お燐はもう、半ば以上諦めていた。
元の関係に戻るのを。
再びさとりに愛されるのを。
あの館に戻るのを。
ここまで歪んでしまった心情を、どうやって抑えればいい? 隠し場所すらないのに。
「大丈夫だよ」
こいしは言う。
「全部、戻せるよ」
何かを決意したような顔で、淡々と言う。
「こいし……?」
貴方まさか――さとりが言いかけるのと同時に、それは行われた。
こいしは、自分の三つ目の眼を、握り潰している。黒ずみ、ひしゃぎ、血が噴き出るのも構わずに。
「何をやっているの!」
「これで、元通り。私は前の、無意識の世界に帰るだけ。お燐は、これで心を読まれない場所を、確保できるよ。安心して、嫌なことがあったらどこか遠くで気分転換すればいい。それで、すっきりしたら、お姉ちゃんの前では可愛いペットでいられるよ? だから、館に帰ろう?」
こいし! さとりは叫び続ける。
「平気。案外、無意識って楽しいんだよ。皆、普通に話しかけてくれるし、悩み事なんて無いし。ね? 私はまた、痛みのないところへ行くの。もう眼は治らないと思うけど、仕方ないね。お姉ちゃんは、また妹がおかしくなっちゃうけど、でも、お燐がいなくなるような事態は、避けられるよ。お燐は……ただ罪の意識に耐えるだけ。それで、地霊殿に帰れる。またお姉ちゃんの、一番のお気に入りになれる。まともじゃなくなった私より、ずっと貴方の方が魅力的よ。自信を持って」
「違う。あたい、こんなつもりじゃなかった。こんな筈じゃなかった」
「大丈夫。怒ってないよ。これで皆、幸せになれるんだもの」
私も、お姉ちゃんも、お燐も、皆が少しずつ損をして、少しずつ得をする、最高の終わり方なんだよ? これでいいんだよ?
こいしはその言葉を最後に、気配と感情の幾つかを失った。甘く、救われず、それでいて優しい、無意識の世界へと舞い戻った。
こいしはもう、三つ編みをしていない。伸びるがままに任せた髪を、奔放に垂らして遊びまわっている。身なりに気を配るような繊細さは、喪失している。
さとりは、今日もペットに餌をやる。大切な大切なお燐の、頭を撫でながら。
お燐は、ただただペットとして、可愛がられて過ごしている。
何もかもが元通りでありながら、何かが致命的に以前と違う関係を、ずっと。永遠に、続けていく。
さとり様もこいしちゃんもお燐を愛してるのね お燐ちゃんは幸せ者だな
しかし、ひょっとしたらこいしはお燐のことを格別な感情を抱いていたのかも
ハッピーエンドも頼む。
楽しみです
それにしても、さとり様とお燐の睦まじさといったら・・・
あんたホンマもんの神作家や。
これは良作。
そうでなければあまりに救いがない話です。
にゃんにゃんなんてなかった……
なんとなくこのお燐なら間欠泉異変のあの対応も納得できる気がする。
神作家さんはどこへ向かっていらっしゃるのでしょう?
SSというくくりの中の、一作品の中にギャグとシリアスを織り交ぜるなんて、
そうそうできることではないでしょう
この下りにやられた。
と思ったら後半の怒濤の切なさ。そして刻まれる致命的な傷痕。
これは心が痛い。
……何で私は今こんなに悲しい気持ちなんでしょうね。
久しぶりですよ、そそわでここまで心を揺さぶられたのは。