<その名を冠するということ 前編>
幻想郷――
そこは結界に覆われた、この世ならざるものの楽園。
常識と非常識に囚われない、とある世界の特異点。
そんな言葉だけを並べれば、なんだか物騒な血で血を洗うような化け物たちの世界とも思ってしまうかもしれないが……
「……すーっ ……すーっ」
その物騒な世界と思われがちな、あるお屋敷の前。
安らかな声音を響かせる女性が一人。
緑色の大きくスリットの開いた服と、腰まで届く赤茶色の髪を穏やかな風で揺らし、暖かな春の日差しの中で幸せそうに目を細めている。
……まあ、寝ているのだから細めていて当然といえば当然なのだろうが。
彼女の仕事柄こうやって居眠りをするのはあるまじき行為。
しかし、こうも堂々とやられると逆に清々しくなってくるのは何故だろう。
ときおりむにゃむにゃと不思議な言葉を発し、口元をほころばせ……
背中を煉瓦造りの壁にくっつけて、コクンコクンっと不定期に頭を上下させていた。そうやって何度か頭を振っているうちに、大きくバランスを崩し前方に倒れこもうとしてしまい、本能的に背筋に力を込め逆の方向へと体を反らした。
しかし、思い出してほしい。
大きく頭を持ち上げた彼女の後ろに。何があるか。
ガンッ
案の定、痛々しい重い音がその穏やかな空気の中に響き、あまりの衝撃で身動きの取れないでいる女性が棒立ち。そうやって壁に体を預けたまま数分が経過した頃、やっとその痛みを寝ぼけた体が理解して……
「――――――――!!」
声にならない悲鳴を上げながら、女性は地面の上に這いつくばってごろごろと横回転を始めた。服や髪が汚れることなど気にせず、というか気にする余裕などなく、ただ痛みを少しでも紛らわせようとジタバタ手足を動かしつづけて……
「あら、今日も元気ね、美鈴」
急に頭の上から降ってきた言葉に、その動きを止める。
半身の状態で寝転がったまま、声の主を探ろうとおそるおそる視線を上げていくと、屋敷のものに支給されるメイド服が目に飛び込んできて、そのさらに上には銀髪の女性の笑顔があった。
その笑顔はとても愛らしく、美鈴と呼ばれた女性を心配するように覗き込んでいる。と、彼女たちの関係を知らないものならそう受け取るかもしれないが……
「さ、ささささささささ、しゃくやしゃ……さ、さくやさん。こ、こんにちは」
「ふふ、どうしてそんなに慌てているの?
もしかして、また居眠りでもしていたのかしら?」
笑顔の奥に潜む何か。
そのどす黒い何かに怯え、美鈴は小さな悲鳴を上げながら慌てて起き上がる。そしてレンガ造りの門まですばやく移動しようとするが、慌てたせいで足がもつれてしまい。前傾姿勢のまま吸い込まれるようにして……
門の扉、鉄の部分に額を強打。
「ふぁ、ふぁぉぉぉぉぉぉ……」
ぺたんっと座り込み、奇声を上げながら必死で額を擦る。その目にはうっすらと涙が浮かんでおりその衝撃を物語っているようだった。目の前でこんな悲劇が起きれば、銀髪の咲夜と呼ばれた女性も同情をするのが当然。
ふぅっと少しだけ息を吐いてから。額を赤くする美鈴に優しく手を差し出す。それはまるでドジな妹を思う姉のようにも見える。
「ほら、しょうがないわね。
立ったまま昼寝なんてしているから、いざというときに頭が働かないのよ」
「う~、すみません。どうしてもこの日差しを浴びると……
自然と瞼が下り…………あっ……」
そこまで言いかけて、美鈴はやっと気付いた。
この優しい言葉、優しい態度そのものが、『誘導尋問』という罠だったのだと。距離を取ろうにも前傾姿勢、中腰で相手に右手を差し出している今のバランスの悪い状況では、逃れることは不可能。
「…………え、え~っと、ち、チガウンデスヨ?」
「何が違うというのかを明確に説明して御覧なさい?」
綺麗に罠にかかった美鈴は、せわしなく視線を動かし何か良いアイディアはないかと、思考を巡らせ……
「え、えーっとですね。さきほど地面の上で寝転がっていたのはですね。
そ、そう! あの黒白の魔法使いが門を突破しようとしたんですよ。ですから私はこう身を挺してですね、ばっばばばっって弾幕を放ち! 後頭部に痛手を負いながらも撃退したわけです! いやー、久しぶりにいい仕事ができましたよ~。
あはっ、あははははっ」
きっと咲夜は自分がどうやって倒れたか見ていない。
そう思った美鈴は捕まれていない方の左手で身振りをしながら、事実を捏造。ただ最後の乾いた笑い声を聞いただけでも、彼女が何かを隠しているというのは明白である。
しかし長年付き合っているはずの咲夜は、うんうんっと深く頷いた。
「なるほど、そうだったの。初めて知ったわ」
「で、でしょう。たまには私も役に立つんですから!」
「その門の壁が黒白の魔法使いだったなんて」
「……何言ってるんですか? 壁が人間の訳が……あぁ……」
咲夜が何を言っているのか最初は理解できなかった。
しかし、自分が最初に言った言葉。
『黒白の魔法使いから後頭部に痛手を負った』という言葉と、嘘偽りのない真実である『居眠りしていて壁に後頭部をぶつけた』というものを足し合わせると……
壁 = 黒白の魔法使い という式が成り立つわけだ。
それを彼女が導き出せるということは、つまり……
「え~っと、咲夜さん。つかぬ事をお伺いしますが……
いつ頃から私のことを見ていたのかなぁ~っと」
「……聞きたい?」
「……正直聞かなくてもわかるような気がするんですけど、一応確認のために」
「そう…… いい心がけ、ね!」
そうつぶやきながら、咲夜は一瞬だけ目を見開き……
自分以外の時間を停止させる。
穏やかになびいていたはずの草も、飛び立とうとしていた鳥も。
まるで絵の中に閉じ込められてしまったかのように固まった世界。
そんな彼女の世界の中で、咲夜は美鈴から手を離し……
空間に何本ものナイフを固定してから……
時を動かす。
「え、ええ、えええええええ!!
いつもよりおおおいいいいいいいぃぃぃ!!」
妙な断末魔を背中で聞きながら、肩まで流れる自分の髪を掻き上げ仕事は終わったと言うようにスタスタと紅魔館へと向かっていく。
「最初からずっと、あなたを見ていた。
なんて言うと、恋する乙女のようで素敵だとは思わない?」
十数本近いナイフが突き刺ささりぐったりと地面に横になったまま目を回している美鈴。そんな彼女に向かって意地悪に問い掛け、少女のような微笑を浮かべたのだった。
「そう、また居眠りねぇ。
門番ってやっぱり疲れるのかしら」
幼い姿をした館の主、吸血鬼レミリア・スカーレットは切り分けられた赤いケーキを口に運びながら素っ気なく感想を述べる。すると後ろで控えていた咲夜は肩を落としながらその声に応えた。
「……お嬢様、そんなことを言われては、また美鈴が調子に乗りますわ」
「これ以上調子に乗ったらどんな行動を取るかも見てみたい」
「……そんなことを言ってると、門のところに布団を運びかねないわよ。
ねぇ、こぁ」
「はぁ、さすがにそれはないと思うのですが……」
主であるパチュリーに紅茶を注いでいた小悪魔は、複雑な笑みを浮かべながらやんわりと自分の意見を述べる。
そんな他愛のない会話が飛び交う紅魔館の一室。そこではいつもどおり昼下がりのティータイムが催されていた。ただ、夜型の生活のレミリアにとってはこの時間が朝食の時間帯。テーブルについてお茶だけを楽しむパチュリーとは違い、レミリアの前にはある材料が混ざったケーキと紅茶が並べられていた。そのケーキを一口フォークで運ぶたび、蝙蝠のような羽が小さく揺れるのが実に愛らしい。
これでいて、本人はいつも威厳ある態度を取っているつもりなのだから、周囲としては困ったものなのだ。
「レミィ、お食事中悪いのだけれど、妹様はどうしたの?
今日は一緒に食べるといっていたはずじゃない?」
「退屈だから妖精メイドと『遊んでから』来るそうよ。
我が妹ながらずいぶんと元気に育ってくれて」
「あれを元気の一言で済ませるのだから、感心するわよ、本当に」
その言葉を言い終えた後、残りの紅茶を口の中に流し込むと、ネグリジェのような普段着を翻しフヨフヨと空中を漂いながら席を離れる。彼女のことだからいつものように図書館に戻るつもりなのだろう。
「パチェ、まだ半刻も経っていないのだから、もう少しゆっくりすればどう?
余裕のない生活はその知識を鈍らせるよ」
「あら。知識というのは使わなければ錆びていく刀と同様。手入れを怠るとすぐ役に立たなくなってしまう。レミィも当主の自覚があるのなら、帝王学でも学んではいかが?」
「笑わせる。帝王などという民衆に祭り上げられただけの愚者の冠など、この私には必要ないものよ。このスカーレットデビルにはね!」
目を細め、紅い瞳を妖しく輝かせる。
テーブルの上に頬杖を付きながら、パチュリーを見つめるその瞳。吸血鬼独特の魔眼には、確かに恐ろしさを感じさせると同時に、見つめたものを惹きつける何かがある。それは昔餌となる人間を瞳で魅了するための能力だったとも言われているが……
「スカーレットデビル、ねぇ」
レミリアの二つ名の中の一つ。
その名を聞けば、何も知らないものならその恐ろしさから名づけられたものと思いがちだが実は……
血を吸って眷属を作りたくても、小食のレミリアはどうしても作ることができず、いつも血を余して服を真っ赤に染めてしまうことから名づけられた。ちょっぴり恥ずかしい名前なのである。
ただ、本人はその響きを気に入ってそう名乗るのだから、事情を知っているパチュリーは呆れるしかない。
「あ、そうそう、言い忘れていたけれど。
咲夜。あなた本当に美鈴にオシオキしたのよね、今日も」
「ええ、間違いありませんわ。
連日の居眠りでしたので今日は、少々気持ち増量させていただきました」
「嫌なサービスね、まったく」
そんな咲夜の答えを聞きたパチュリーは、何か納得いかないように眉を潜めレミリアの後ろに立つ彼女に向かって右の手の平を向ける。
「ちょっとだけ、あなたのナイフを見せてもらえる?」
「……ナイフ、ですか?」
時折、パチュリーは気になったことがあると周囲を驚かせるほど行動力を示すことがある。今も何か気になることがあってナイフを見たいといっているのだろう。しかし対妖怪用に作られた銀のナイフをパチュリーに持たせて危なくはないかと、思案していると。ケーキを食べ終えて満足顔のレミリアが咲夜の腕を羽で突付く。
「それくらいいいじゃない。それにもしナイフが一本や二本なくなったところで、私のメイドは揺らぐものなのかしら?」
「……わかりました。お嬢様がそうおっしゃるなら」
「わかればよろしい。ほら、こぁ、取りにいらっしゃい」
すると、呼ばれた小悪魔が体を強張らせ、パチュリーとレミリアの顔色を伺い始めた。おそらく、あのナイフの対魔の能力を本能で感じ取り拒否しているのだろう。その反応を見たパチュリーは満足そうに微笑み、小悪魔を呼び寄せる。
「なるほど、その反応で十分よ。こぁ。
でも、それならやっぱり、あの子が予想以上に頑丈といったところなのかしら?」
「ああ、美鈴のことね。その頑丈さに目をつけて私が招きいれたのだから当然よ。
あの子、咲夜のナイフを何十本刺しても、数時間後にはけろっとした顔で花壇に水をやっているのだから」
その反省がないように見える態度のせいで、段々咲夜のオシオキがエスカレートしていくのだが、どうやら美鈴本人はまったく気にしていないらしい。事実、今日、オシオキを受けてダウンしたのが14時くらいで、パチュリーがお茶会に参加する前に一度庭を眺めに出た15時にはすっかり元気を取り戻した美鈴が、また門を背に居眠りをしていた。
たくましいにもほどがある……
その元気を少しでも分けて欲しいものだと、正直パチュリーは思ったりもする。
「もしかしたら咲夜のナイフの特性が劣化しているのかもしれないと思ったのだけれど、気のせいね。美鈴が死んだら少し研究させてもらおうかしら」
「ははは、パチュリー様、真顔でおっしゃられると怖いんですが……」
パチュリーが通れるように入り口のドアを開け、主が部屋を出て行くのを確認してから、小悪魔は深々と頭を下げて部屋を後にした。残された館の主と、そのメイドはしばらくその名残を目で追っていたが……
チンッ
レミリアが空のティーカップを鳴らすと、一瞬のうちに新しいお茶がカップの中に注がれた。
「こんなときにまで能力を使わなくてもいいのよ?」
「いえ、お嬢様を一秒でも待たせるのは私のポリシーに反しますので」
「そう言ってくれるとうれしいわ」
吸血鬼にとっての朝のティータイム。
それを優雅に楽しみながら、レミリアは口元にカップを当てて……
「……ところで、咲夜? 今日は何を?」
「ヨモギとふきのとうを隠し味にしてみましたわ」
「……全然苦味が隠れてないよ?」
「健康にはいいのです」
「あ、でもあんまり美味しくもないし……」
「お飲みください」
「できれば何も入れないものを……」
「お飲みください」
「…………わかったわよ。
今度美鈴に、果物でも植えさせようかしら……」
紅茶に何でも入れたがる咲夜の悪い癖。
そんないつもどおりの一日が始まった……
……そう、いつもどおりの。
前編ということでこの点数で。
続きでどんなことがあるのか楽しみにしています。
めーりんかわいいよめーりん。