Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪は見下さない

2023/11/03 19:46:56
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 確かに私は太陽を知らずに育ったが、熱意まで知らないわけではなかった。

 都は常に薄暗く、中途半端に生ぬるい。

 私が生まれ育った地の底は、誰もが下を向いて生きる世界であった。

 ここの住人達は誰もが大なり小なり人生を誤魔化して生きていた。
 伴侶を失い死に場所を求める者、失敗の責任から逃げた者、いわれなき差別から身を隠した者。
 各々事情は異なれど、心に秘める言葉はひとつ。

 『なんで自分がこんな目に』。

 原因を外に求めても意味がないことを頭ではわかっていても、世界を呪いながら愚痴を吐くことを止められない。
 そんな彼らにとってほとんど唯一とも言える救いは、大して味もしない安酒か、時折どこかから出回るいけない葉っぱかのどちらかであった。
 本当に、それだけであった。

 ここでは誰も争わない。
 生活に必要なものは働かなくても地上から分けてもらうことができたため、物を奪い合う必要も無ければ、職を取り合って右往左往することもない。
 たまにあるのは酔っぱらい同士のケチな喧嘩くらいなもので、命をかけたような争いはまったくと言っていいほど存在しなかった。
 つまるところ、私の故郷には緊張感が無かったのだ。

 地上からの物資、ほとんどいない外敵、競争の無い社会。
 科せられたルールはただ1つ『そこから出てくるな』。
 これは、妖怪が堕落するには十分な環境であった。

 恥ずかしながらこの私も、のちに悪霊と呼ばれ地底を震撼させることになるこの天邪鬼をもってしても、これが異常であるとは見抜けていなかった。
 たとえ宿無しのプーであろうとも、何不自由なく生きていくことができるのは当然のことだと思っていたのだ。
 今にして思えば自己嫌悪で死にたくなるほど致命的な誤解であるが、その中で生まれ、その中で育った私にはそれに気付くことができなかったのだ。

 そんなどうしようもなく愚かな私の目を覚まさせてくれたのは、ひとつの噂話であった。

 それは地上からの供給が無くなってしまうという内容のもので、話の最後は地底が1年も経たずに干からびるだろうという予言で結ばれていた。
 ただし、それを聞いたのが場末の居酒屋のカウンターで、話していたのがぐでんぐでんに酔っぱらった土蜘蛛のねーちゃんであったことから、噂話を聞いたと言うよりは酒の席でのホラ話を小耳に挟んだと言った方が正鵠だと思われる。
 事実、地上からの供給が断たれたり減ったりすることはなく、その後も地底はいつも通りの怠惰な日常を送ることができたし、きっと当の土蜘蛛すらもそんな話はすぐに忘れてしまったことだろう。

 だが、私は気付いてしまった。
 与えられた物資を両手に抱えながら、供給が無くならずに安心している自分に。
 地上からの慈悲が永遠に続くなどと、すでに信じていなかった自分に。

 物資供給が永遠とは限らない。
 この命綱はいつ切れるかわからないものだった。
 食料自給率などという言葉を知らない当時の私にでも、供給が無くなったが最後、全てが瓦解するであろうことは予想できていた。
 私が当たり前だと思っていたことは当たり前でもなんでもなく、私が安全だと思っていたものは安全でもなんでもなかった。
 それどころか何の保証も無い話であった。
 私が住んでいたのは、薄氷の上だったのだ。

 街道の真ん中でうずくまる私を心配し、誰かが手を差し伸べてくれた。
 だがその時の私にはその手が堪らなく汚いものに見え、跳ね除けるようにしてその手を拒絶してしまった。
 そして私は物資をそこらにばら撒いたまま、財布1つ持たずにその場を後にした。

 『その場』とはこの場合つまり、地底そのもののことであった。





 何合かの打ち合いの末、ついにその剛腕が私の胴体を捉えた。
 振り下ろすように放たれた拳をまともにくらい、私の身体は地面にバウンドして若竹の根元へと無様に叩きつけられる。
 歪む視界が赤く滲み、ハングアップした平衡感覚が仕事を放棄する中、私は精一杯の抵抗として身体を可能なだけ小さく丸めるのだった。

 対する相手は私のウエストくらいありそうな腕を誇示するように日光にかざし、更なる攻撃を加えるためにのしのしと近付いてくる。
 震えながら事の成り行きを見守る狼女と、ゲラゲラ下品な笑い声を上げるドワーフみたいなチビ妖怪。
 私はギャラリーたちに見守られながら、かろうじて上体を起こした。

 しかし喧嘩相手の鬼、それも大柄な中堅階級の、それこそ無縁塚にでも住んでいそうなパワーの持ち主は私が起きるのを待ってはくれなかった。
 立ち上がりかけた私の頭に大きな拳が降ってくる。
 弾幕だとか妖術だとか、そういった小賢しいものとは縁遠い純粋な妖怪の暴力。
 鬼のそれをまともに浴びて、私は再び地面へと叩きつけられた。

 すぐ横で押し殺したような悲鳴が上がると共に、下品な笑い声も一層大きくなる。
 しかしそんな声など耳に入らないのか、鬼は雄たけびのような声をあげると倒れ伏す私の頭を力いっぱい踏みつけてきた。
 何度も何度も、地面にクレーターができるほどにドズンドズンと四股を踏んでくる。
 その怒りに任せたような過剰なまでの加虐に、その場に響いていたドワーフの下品な笑いが止まった。

 そのドワーフが何事かを叫ぶように声をあげるが、地団太を踏む鬼の耳には届いていないようだ。
 苛立ちそのものをぶつけて来るかのようなストンピングに、私はいい加減気を失いそうになった。

「も、もうやめてよ! もういいでしょう!?」

 くわんくわんと反響する耳鳴りの狭間に女性の声が響く。
 あまりに凄惨な光景に堪りかねた狼女が、その大柄な鬼の胴体へとしがみ付いたようだった。
 鬼はハエでも追い払うかのようにそいつを弾き飛ばすが、狼女の方も再び立ち上がり鬼へと向かって行く。

「死んじゃう! 死んじゃうよぉ!!」

 鼻血を垂らしながら金切声をあげる狼女。
 自らの腰に縋り付く邪魔者に鬼が心底鬱陶しそうな視線を向けるが、続けて飛んできたドワーフの怒号もあり、しぶしぶといった様子で私から離れていった。
 鼻息を荒くしながらドスドス歩いて行く鬼と、その肩に乗って鬼の暴走を咎めるドワーフがだんだんと小さくなっていく。
 あとに残されたのは泣きじゃくる狼女と、地面に半分埋まったこの天邪鬼だけであった。

 体中が痛い。

「よぉ、大丈夫だったかお前」
「あ、あなたの方が! 大丈夫じゃ、あなたが! だ、だいじょぶないじゃない!」
「落ち着けよぉ」

 私の肩をガコンガコン揺すりながら狼女が泣きわめく。
 綺麗な髪をした美人さんなのであったが、泣き腫らして赤くなった目がそれを台無しにしてしまっている。
 鎖骨が折れているため揺すられると非常に痛いのだが、今それを言ってこの女が止まるとは思えなかったので無駄な事はしなかった。

「う、うえええええぇぇぇん……」
「なんでお前が泣いてんだよぉ」
「だ、だって、あなた何がしたかったのよ!!」
「何ってお前、抵抗したかったんだよ」

 暦の上ではもう季節は変わったというのに、外に出ればまだ肌寒く、雨が降れば凍えそうになるようなそんな時期。
 今日も広いベッドから日の出と共に起きだした私は、隙間風の酷い寝室の窓を開け放ったのだった。

 空を見ればそこには数日ぶりの青空が広がっており、通りかかった春告精が私の目覚めを祝福してくれている。
 そんな妖精に手を振り返し、冷たく澄んだ空気を肺に満たした私は、ふと朝日からの天啓を受けたのである。

 そうだ。
 タケノコを採りに行こう。

「うええええぇぇぇん……!」
「泣くなよぉ、いたたたたた」

 ここ数日の雨の影響もあってか、小振りで形のいい良質なタケノコがいくつかと、いい具合に脂の乗ったウサギが1羽手に入った。
 山からの雪解け水が流れる付近の小川でさっそく獲った獲物をさばいていると、背後から強烈な爆発音がしたので、私はまためんどうなことになったなぁ、とか そういや昼飯も食っていないなぁとか色々な思いを巡らせつつも振り返ることにしたのである。

 それが悲劇の始まりであった。

「ひっく、そんなになるまで戦わなくたっていいじゃない……」
「やられっぱなしでいい訳ねぇんだよ。反撃しないとまたやられるぞ」
「大人しく金品を差し出すのも自衛の一環よ」
「永遠にか? こんなこと1度や2度じゃねーんだろぉ?」
「……うー」
「やり返さないからやられ続けるんだ。いじめっこはやり返す奴をいじめない」
「で、でも」

 その爆発音というのは先ほどの鬼による威嚇射撃の音であり、竹林に生える竹のいくつかが根元から爆ぜる音であった。
 それは誰に向けての威嚇だったのかと言えば、この狼女に向けての物であり、何のための威嚇だったかと言えば、肩がぶつかったことに対する治療費の請求を円滑にするための物であった。
 早い話がカツアゲであった。

 天邪鬼七つ技術のその1である隠遁術を駆使してその一部始終を見守っていた私であったが、どうも狼女の方に抵抗の意思は無いらしく、大人しく財布を渡そうとしている様子。
 その瞳に映るのは諦念の心だけであり、そこに下剋上の炎は欠片として見ることができなかった。

 つまらない。
 そんなんじゃつまらない。

 そこで、ここはと思って私が直々に手本を見せてやることにしたのだ。
 絶対に絶対に絶対に、無抵抗であってはならない。
 弱者こそ、弱きこそ、持たぬ者こそ、最後の牙を失ってはならないのだから。

「だからって、『こんなやられ役のモブにビビッてどーする』なんて言ったらそうなるわよ!」
「軽率だったかもなぁ」

 つまりそういうことであった。
 颯爽と登場して寒い事してんじゃねーよと挑発したまではよかったが、結果はこの通りだった。

「こんなに傷だらけになってまで」
「お前もいい大人だろ? 大人は泣き寝入りしないんだよ」

 狼女の頭を撫でながら私は立ち上がる。
 大丈夫大丈夫、このくらいの怪我なんて怪我の内にも入らないさ。
 私、丈夫だし。

「無理よ。言いたいことわからなくはないけど、無理なのよ」
「……ふぅん」
「私だって悔しいわよ、嫌よこんなの。でも無理なのよ」
「だったら」
「無理よ、勝てっこないのよ」

 地面にぺたんと座りながらめそめそと泣き始めるこの狼女は、無理だ駄目だと繰り返すばかりで根本的な解決を図ろうとはしない。
 つまりこいつは戦いもせず、逃げることもせず、ただ従って事なきを得ることを是とすると言うのだ。
 頭ではわかっていても、という奴だろう。

「話になんねーからもういいや。じゃあな」
「あ、ちょっと、怪我」
「こんくらい平気だ」
「……家に寄ってってよ。手当てするから」
「いらん」
「見えないかもしれないけど背中酷い怪我よ」
「いらねーって」
「意地張ってないでさ!」

 語気荒く、私の服の裾を掴んでくる狼女。
 恐怖が薄らいだせいで余裕が出てきたのだろうか。
 何を苛立っているのか知らないが、連中への憤りを私に向けられても困る。
 しかし手本を見せるべく割って入ったまでは良かったが、肝心のこいつがこれでは骨折り損のようだった。

「根性無しからの施しなんて願い下げだっつってんだよ」
「な、なによ! 勝手に突っ込んできたのはそっちでしょ! 私別になにも頼んじゃいないわよ!」
「私だって治療なんて頼んでない」
「……もういい!!」

 そう言って狼女は立ち上げると、私から目を逸らし振り向きもせずに行ってしまった。

 カツアゲに遭ったら大人しく金品を渡すのが常套手段と化している今日この頃。
 結局のところ、弱き民が下を向いて生きるのは、地下も地上も変わらないのであった。

 途中、身を挺してあの鬼を止めようとしてくれたのは良かったけれど、根本的な意味での抵抗の意思を持たせることはできなかった。
 場所が変わっても、人が変わっても、そうそう結果が変わるわけでもないのであったとさ。

 あーあ。
 嫌われた。





 さばき終えたウサギとタケノコをタオルでくるんで風呂敷に包み、私は荷を担ぎながら家路についていた。
 まだまだ肌寒い毎日が続いてはいるものの、今日のような快晴であれば上着なしでも外を歩ける。
 誰しもが無意識に活動的になるようなポカポカとした陽気にいざなわれ、私の心は女の子からラブレターをもらった青少年のようにうわついていた。

 あー、それにしてもいい天気だ。

 さっきまでの陰鬱な空気を消し飛ばすかのような綺麗な空は、今日も私をその懐に迎え入れてくれている。
 初めて地上に這い出てから幾星霜。
 7年くらい前に1回戻り、小人に連れられて舞い戻ってきたのが去年のことだ。
 それらもすべて私の夢のため。

 すべての弱者に闘争を。
 下剋上計画は、今もなお進行中であった。

 歩くうちに痛みを思い出してきた擦り傷を背負い、雨の残り香が色濃く漂う湿った道を往く。
 ヒリヒリと存在を主張する傷に破れた服の隙間を通り抜ける風が触れるたび、私は先ほどの失態を思い出して気分を沈めるのである。
 もうちょっとうまく立ち回れたんじゃなかろうか。もう少し私が善戦してみせれば、あの狼女の感想も変わってきたのではなかろうか。
 まあ、私が本気出せばあんな小鬼ぶっ飛ばすのは訳ないんだが、それだとただのヒーローにしかなれないしなぁ。
 いやほんと、やろうと思えば楽勝だったんだけどなぁ。

 こういう不意に気が沈んだ時は何か夢中になれるものに没頭するか、焼肉でも食べるか、昼寝でもするに限る。
 あるいはいい男を逆ナンしつつ最終的に捨てるとか、そういった心への栄養が必要だ。

 そんな事を考えながらブラブラ歩いていると、いい具合に羽を休められそうなステージが目に入った。
 ちょっとした庭くらいの広さを誇る巨大な切り株。
 人の頭くらいの高さで水平にぶった切られているその不思議な切り株は、時折誰かが上に乗って楽器の演奏に勤しんでいるところを目にすることもある。
 一体全体誰がどうやってこんな巨木を一刀両断したのかは知らなかったが、少なくとも私が最初にここに来た時には、すでにこの木は切り株であった。

 上に立ってみれば一段高い所から周囲を一望でき、確かにここで音楽のリサイタルでもやったら絵になりそうだということがわかった。
 地面に比べればいくらか水はけがいいのだろう、尻を着けるのに躊躇う必要がないことを確認し、私はゴロリと切り株の上で横になった。
 邪魔者のいない美しい空を眺めながら目をつぶれば、無邪気な空想と共にまぶたの毛細血管が透けて見えてくる。
 両手を組んで枕にし、暖かな光を全身に受けながら、私の意識はまどろみの中へと沈んでいった。
 擦りむいた背中が染みはするが、あったかくて気持ちがいい。

「ヘイ! そこのサイケデリックなお嬢ちゃん! ちょっとどいてくんな!」

 冬と春の入り混じった清々しい空気がふぅと動けば、木々は息をのむようにざわめき始め、小鳥は祝福するかのように囀り合う。
 きめ細やかに朗らかな情景の中に夢想するのは、小鳥に混じって一緒にお歌を歌う針妙丸の姿であった。
 想像の中の姫は穢れも知らぬ清らかな笑顔を振りまきながら、そして時たま小鳥につつかれながら、五感のすべてでこの季節の変わり目を堪能している。
 その姿を寝転がりながら見上げる私は、さながら溶岩に沈みゆくクッパのような心境であった。
 彼は灼熱の湯船に身を焦がしながらも、この後訪れる姫の笑顔を誰よりも鮮明に思い描いているのだ。

「ちょっとー、聞いてるー? ここ使いたいからどいてくださいー」

 異変の最中にヒマだからと言ってテレビゲームにうつつを抜かしていた私と姫の事はさておき、私は改めて空想上の針妙丸に意識を集中し直そうと思う。
 しかし姫の無邪気な姿を思い描いて自給自足するのも悪くはないのだが、いい加減本物に会いに行きたいところだ。
 博麗神社に軟禁されてぼちぼちひと月が経とうとしている、そろそろ小槌の回収期も終わるはずだし、全部終わったらまた2人で暮らそう。
 そう、今度はあんなクソ住みづらいファンキーな城ではない、新しく手に入れたあの素晴らしき我が家でまた蜜月の時を……。

「起きてよ!」
「ふぉぐ!!」

 洗練されたかかと落としを鳩尾に喰らい、思わず美少女にあるまじき品の無い声をあげてしまった。
 体重の乗った蹴りがもう狙い澄ましたかのように怪我に突き刺さったものだから、空想上の針妙丸もあっけなく消し飛んで意識が現実へと戻されてしまう。
 どこのどいつだ、至福の時間を邪魔しやがって。

「起ーきーてー、学校遅れちゃうよ?」
「私にお前みたいな幼馴染はいねぇよ」

 デカい琴を小脇に抱えてこちらを覗きこんでくる小娘が、腹を押さえてうずくまる私をさらに踏みつけてくる。
 何かにつけて人に踏まれやすい性分の私ではあるのだが、一日に2度も踏まれるのは久しぶりであった。
 なにすんだこのガキ。

「ちょっと、使わないならどいてちょうだいよ」
「はぁ?」
「き・り・か・ぶぅ! どいてちょうだいよ! 演奏するのよ! ふふん!」
「……やだ」

 イラつくほどテンションの高いこの小娘は、太陽を背負いながら鼻を鳴らして体重をかけてくる。
 見るからに頭の軽そうな顔だったが、寝てる妖怪を踏みつけにするばかりか、さらにグリグリと捻じりを入れて来るところを見る限り本気で残念なオツムをしていそうだった。
 顔立ちそのものは悪くないだけに残念でならない。

「寝てるだけじゃないの! おうちで寝なさいよ!」
「……ここはなんだ? 音楽専用のステージかぁ? 切り株で昼寝なんて実に真っ当な使い道で」
「キーック!」
「オゴッ」

 鳩尾の次はあごであった。
 理屈の通じないガキに切り株からけり落とされ、私は土の味を全身で噛みしめる羽目にあう。
 いい度胸だこの野郎、妖怪相手にそういうことしちゃうとどうなるのか教育してやろう。
 やられっぱなしも嫌いじゃないが、ちょいとばかし意地悪したい気分なのだ。

「上等だぁ」
「な、なによ! あんたが悪いんでしょ! どかないんでしょ!」
「2度も蹴られるほどじゃないけどなぁ!」

 切り株に飛び乗り、言うが早いか小娘に向かって飛びかかる。
 蹴りの威力からして、おそらく幽霊か付喪神の類だろう。
 あるいはめちゃくちゃ弱い妖怪か。

 どちらにしたところでこのレジスタンスを相手にしようなどと1000年早い。
 まっすぐ近付いて普通に足を払っただけで、小娘は受け身も取れずに倒れ込んでしまった。
 そのままうつ伏せにさせて上に乗る。

「ギャー! 離せー! 変態ー!」
「エビ固め」
「あぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
「からの膝十字」
「いぎぎぎぎぎぎぎ」
「そしてフィニッシュは零式防衛術『棺』」
「うぎゅぎっ」

 裸締めをまともに喰らい、パンパンとお嫁に行けない形相で手を叩いてくる小娘。
 このまま垂れ流しにしてやろうかとも思ったが、そこまですることもないと思い直して放してやることにした。
 そこまでしちまったら、気分よく昼寝ができなっちまう。

「挑戦者ここでタップ! 決着でーす。カンカンカンカンカン」
「ゲッホ! グェッホ! ウェッホ!」
「これに懲りたら寝てる妖怪を蹴るな」
「う、うぐぎぎぎぎ」
「ほれほれとっとと帰りな」
「クソが! 未来のアイドルになんてことすんのよ!」
「現在は無職かバイトだろ」
「なぜそれを知っている!? さてはストーカーね! やだちょっとファンなら健全に活動してよ!」
「……」

 小娘が懲りることもなく吠えたてる。
 ハムスターが牙をむいたところで人は恐怖しないということがわからないのだろう。

「なによそんな哀れなものを見るような目は!」
「……ここを使いたいなら私を倒すんだな」
「なっ、き、貴様そこまでして私の邪魔したいか! 私のアイドル道を阻むつもりか!」
「それは空手道、的な?」
「いいもん! 姉さん連れて来るし! 姉さん超強いし! 片手で天狗とか倒すし!」
「そりゃすげぇな」

 どうやらこの小娘には鬼の四天王クラスの姉がいるらしい、そんなものを呼ばれる前に御退散願おうじゃないか。

「戦うのが嫌なら帰んな」
「いーやー!」
「あー、別に実戦じゃなくてもいいさ。アレはどうだ弾幕ごっこ」
「……うーん、あれかー」

 せっかく私の方から提案してやったというのに、小娘は気が進まない様子だった。
 まあ、政府主導で始まったはいいが、実際の所やってる奴めったにいないしな。
 本当に、真面目にやるようなもんじゃない。ちょっとした余興、ゲームの一環だ。
 あるいはこれは、たまには運動しろという管理者からのメッセージだったのかもしれない。
 私は結構好きなんだがな。

「じゃあ将棋はどうだ」
「将棋?」
「自信ないならいいや。私は寝る」
「……うーん、よし! いいだろう、それで勝負よ!」
「よろしい」

 切り株から飛び降り、根元に落としたままだった風呂敷から将棋盤を取り出した。
 最近買い換えた新品で、高いものじゃないが職人が手彫りした彫埋駒だ。
 手触りもいい。

「何それ、持ち歩いてるの?」
「座りな」
「あ、どうも」

 将棋盤を切り株に置き、ハンカチを広げて反対側に敷いてやる。
 私も風呂敷に正座し、駒を並べ始めた。
 誰かと指すの久しぶりだ、何日ぶりだろう。
 お相手は残念ながら強敵には見えないが、それでも内心うきうきしてしまう。
 さあ指そう、早く指そう。

「……随分楽しそうだけど、あんた強いの?」
「ハンデやるよ」
「あ、うん」

 並べ終わった駒の中から、自陣の角と飛車を取り除く。
 まずはこのくらいで小手調べだ、まあ楽勝だろうが。

「「おねがいします」」

 抱えていたデカい琴を脇に寄せ、小娘が私の前で正座する。
 さぁさ、お手並み拝見といこうか。

「……」
「……」

 確かに久しぶりの対局でテンションが上がってしまったことは認めよう。
 禁欲4日目くらいの中学生のようながっつき方をしてしまったのも大人気ない。
 時間があるときに考えていた定石を試してみたいという心もあった。

 ただそれを差っ引いても、やり過ぎちゃった。
 やり過ぎというか、10分だった。
 30手くらいだった、てへ。

「ハイ勝ち」
「あいいいいいいい!? ま、まだ逃げられる!!」
「あと2手で詰ますぞ」
「こ、こんなところで終わるかぁー!!」

 ズタズタに引き裂かれた布陣から何とかして王だけでも逃がそうと、小娘が無い知恵を絞って奮闘している。
 何をどうやったところでもう無理なのだが、最後まであきらめずに頭を使って苦しむがいい。
 その顔が私の栄養となるのだ。

「ここだぁ―――っ!!」
「いや逃げられてねぇよ」
「馬鹿な……、破れると言うのか、この私が……っ」
「そんな大したこともなかっただろぉ」
「もっかい! もっかい!」
「……何度やっても一緒さ」

 私は今日も転がりますと騒ぐ小娘に今度は香車と桂も落としてやる。
 寂しい布陣だが、さっきの1局が本気だったとしたらまだこれでも余裕はあるだろう。
 存分に攻め込んでくるがいい。

「こ、こんどこそ」
「……」

 当初の目的を忘れて目の前のことに夢中になる若人の瞳を見ていると、失った青春時代を思い出して悲しくなる。
 あの地底で、まだ私が純真だったころ、こんな風に何かに夢中になった事があっただろうか。
 それを思い出すとちょっと悲しくなる。
 まあいい、今は充実してる。

「ちょっと! どっち向いてんのよ!」
「……お前、名前は?」
「ふふん! 知ってる? そういうのはね、まず」
「鬼人正邪だ」
「自分から名乗らなきゃいけないのよ!!」

 ふんぞり返る小娘。
 台詞の途中で差し込んだ私の名乗りは耳に入っていなかったようだ。

「鬼人正邪だ」
「そう! 変な名前ね、まあいいわ、私は九十九八橋、アイドルよ!!」
「八橋?」

 八橋っていえば、京都のお菓子にそんなのがあると聞いたことがある。
 食べたことはないが。
 それよりも私には、九十九という苗字と八橋の隣に置いてある琴が気になった。
 なんだっけな、どっかで聞いたことがあるんだが。

「なんかあんたの名前聞いたことある気がするわ」
「……奇遇だな、私もどっかで聞いたんだよな」

 んー? と2人で首をひねったが、お互いに思い出せなかったようなのでそれ以上気にしないことにした。
 マジでなんだっけ。

「まあいいか」
「そうね」

 それはともかく将棋に集中しよう。
 ハンデをくれてやる以上、手加減をする必要はない。
 こんな囲いも戦型も知らないような奴なんて、王と歩だけで蹴散らせる。
 私は気合を入れ直し、銀を斜め前へと進めた。

 そして20分後。

「ムッキ―――!!」
「実際にむっきーって言う奴初めて見たぞ」
「反則よ! 反則を使ってるに決まってるわ!!」
「二歩も打ち歩詰めもしてねーよ」

 さっきよりは粘られたものの、やはり結果は変わらない。
 弱い、弱すぎる。
 この子弱い。

「さあ帰れ」
「もっかい! もっかい!」
「しょうがないにゃあ」

 しょうがないので今度は金と銀を落とす。
 私の軍勢は王1人と、歩兵が9人だけだ。

「い、いくらなんでもこれなら」
「これで負けたら恥ずかしいぞー?」
「煽るんじゃあないわ!」

 1度、軽く伸びをする。
 愛する日光を思う存分堪能し、新鮮な空気を身体に取り込む。
 脳に酸素が行き渡っていくような、そんな錯覚に身を委ねた。
 さすがにこれじゃあ、気合入れんとな。

「さあ、私に勝ってみろ」
「上等よ! 勝ったらここどいてもらうからね」
「なんだ、忘れてなかったか」
「当たり前でしょ! これもアイドルへの試練! 打ち砕いてみせるわ!!」
「やれるもんならやってみろよぉ」

 比較対象がしょぼすぎてわからないかもしれないが、実は私の将棋の腕前は折り紙つきだ。
 大抵の奴だったら瞬殺だし、強いと言われる奴にだって2枚落ちで勝てる。
 ずば抜けて強いとか言われる奴にでも苦戦する程度だ。
 私の友人の1人、江戸から明治を越えて大正にかけて、100年間連続で幻想郷の将棋3タイトルを総ナメにし続けてついに大会から出禁を喰らった最強の猛者を除けば、ほとんど負けなしの実力だ。

 しかしまあ、いくらなんでも10枚落ちではそうそう勝てないし、指導とかハンデとか言うよりも、ほとんど冗談の領域だった。
 だからそう、すごい久しぶりだった。

「これで勝ったの久しぶりだぞ」
「うきいいぃぃ!!」
「しかもなんだこの投了図、酷すぎる」
「うっきいいぃぃぃぃぃっ!!」

 さっきまで散々ボコッたことだし、私はもうここらで負けてやってもいいと思ったのだ。
 格上を退けて目的を達するという幻想郷では滅多に得られない経験を、この小娘にくれてやってもいいと思ったのだ。
 この成功体験を糧に、アイドル道とやらを邁進してくれるなら何よりだと。
 そう思ってたんだが。

「猿かよ」
「ば、馬鹿じゃない! 馬鹿じゃないぞー!!」
「はいはい」

 バナナ不足が原因で負けた訳ではない事を必死にアピールしてくる未来の琴系アイドルであったが、盤面は酷いありさまであった。
 というかもう、10枚落ちから全駒とか生まれて初めてであった、可能なんだなこんなこと。
 貴重な経験をさせてもらった。
 大会から出禁を喰らった例の友人に自慢しようかとも思ったが、弱い者いじめをするなと怒られるかもしれない。

「こ、こんな、こんな屈辱は初めてだ……」
「はいはい負けたんだからどっかいけ。私は寝る」
「くっそ、あんた、将棋得意なのね!? じ、自分に有利な勝負を取りつけやがったのね!?」
「それでもお前は了承した。将棋盤を持ち歩いている時点で察しろ。いくらなんでも10枚落ちで負けておいてそれはない」
「うぎぎぎぎぎぎ」
「そしてなにより」
「……なによ!!」
「アイドルは負け惜しみを言わない」
「……」

 半泣きになりながら唇を噛みしめる様は見ていて苛めたくなってくるが、これ以上猿のような鳴き声を上げられてもうるさくて眠れない。
 もしかしたらこの悲鳴は姉に危機を知らせて呼び出すための救難信号なのかもしれないし、ここは早めに引くことに決めた。

「じゃあな。うるさくて寝れねーよ」
「……うぅ、待ちなさいよ」
「あ?」

 盤を片付け、切り株から飛び降りたところで猿から待ったがかかる。
 どけと言ったり待てと言ったり忙しい奴だ。
 初志を貫けない所は減点だな、やっぱアイドルとか無理だろ。

「一曲聞いて行きなさいよ」
「なんで勝ったのに罰ゲーム受けなきゃなんねーんだよ」
「うっきー!! もう! あんたがどれだけのモンを妨害したのか教えてやるって言ってんのよ!!」
「ほぉう?」

 猿の演奏になんて何の興味も無かったが、その挑発のしかたは面白いと思った。
 根拠のない自信。
 これもまた、ガキの特権であった。

「聞かせてもらおうじゃん」
「ふふん、いっくわよー」

 脇に置いてあった琴を持ち上げ、『身体の中に』ずぶずぶと沈める。
 代わりにスカートの柄から光り輝く絃のようなものが幾本も現れ、布地から切り離されたかと思うとそれだけ独立して宙に浮きだした。
 この魔法というにはあまりにニッチで一芸特化な感じからして、こいつはやっぱり付喪神なのだろう。
 おそらく琴の付喪神、百器徒然袋にも登場する正統派の付喪神だ。

 待てよ?
 琴古主といえば失われた琴の流派、筑紫流を知る唯一の存在としてあまりにも有名だが、まさかこの猿も、いやこのお方もそれを知ると言うのだろうか。

 無論私も聞いたことは無い。
 まさか現存しないはずの幻の流派を聞くことができるのだろうか。
 大会から出禁を喰らった例の友人だってさすがに聞いたことは無いに違いない。
 信じられなかった、まさか、本当に?

 伝承者がいなくなり絶滅した伝説の流派。
 その価値を考えれば、これはもう下らない冗談で練習を邪魔したことを謝らなければならない程である。
 果たして盲人の創造せし琴の音色とはいかなるものなのか、興味は尽きなかった。
 これはきっと期待できる。

「ヘイカモン!」
「……」

 そうして猿の汚い鳴き声と共に始まった演奏は、それを聞いたことが無い私でも筑紫流ではない事が2小節目あたりのところでわかった。
 筑紫流は地味すぎて消え去ったと言われる流派であり、まかり間違ってもこんなギターみたいにギャンギャン鳴らすようなものではないはずだ。
 そして私が知る限り琴の演奏にボーカルはない。いや、百歩譲って琴の新しい演奏の形として弾き語りを取り入れたと言うのなら納得できない事もない。
 歌詞が時折、思い出したかのように英語になるのも現代の需要を取り入れた結果だと思うことにしよう。

 だからと言って開幕ヘイカモンはねーだろ。
 ギターでやれと言われたらこの猿はどう反論するのだろうか。
 せめてもっとこう、バラードとか、しっとりした感じにしなかったことには他人に説明できるほどの理由があるのだろうか。

「しぇけなべいべー!」
「……」

 聞いているうちに私は悲しくなってきた。
 筑紫流が聞けると勝手に期待して、勝手に手に汗握って、その結果がこれである。
 酷い。酷過ぎる。
 何が酷いって落差が酷い。
 聞いていて苦痛な程だぞ。

 なんだかんだで演奏は結構上手かもしれない、さすがは付喪神といったところか。
 だがはっきり言って歌の方はお世辞にもうまいとは思えなかった。
 控えめに言ってジャイアンくらいだった。

「ジャカジャン!!」
「……」

 口でジャカジャンと言いながら猿の演奏が終わりを告げる。
 駄目とは言わないが、ぜひ絃でやって欲しかった。

「どうよ!」
「……」
「……どうよ!」
「筑紫流じゃないのか」
「なにそれ?」
「……琴の付喪神だよな」
「そうよ、ねえどうだった? 素敵でしょ?」
「琴古主って知ってる?」
「私の先祖がどうしたってのよ、ねえねえそれより私の演奏!」
「君ならアイドルになれるよきっと」
「でしょー!! ほらほら謝んなさいよ! あんたに邪魔されたせいで私の演奏が世に出るのがちょっとだけ遅くなったじゃない! これは文化的な損失よ!」

 上機嫌な猿を尻目に、私はその場を後にすることにした。
 アイドルでもなんでも好きに目指してくれ、挫折して倒れたら廃品として引き取ってやる。
 そんでバザーかなんかで売りに出して、再び市場に戻してやるから安心してガンバレ。
 4000円くらいでいいかな。

「あーやーまーんーなーさーいーよー!」
「離してくれよぉ、練習があんだろぉ?」

 胸ぐらをがっこんがっこん揺すってくる付喪神。
 遠慮の無いその暴力に、私は少しだけ同情してしまった。

 付喪神が妖怪に掴みかかる。
 よっぽど気心知れた間柄ならともかく、初対面でこれはいただけない。
 私が善良で模範的な妖怪だったからいいものを。
 妖怪にひっぱたかれたら首の骨折れるってわかってるのかコイツは。

「離しな」

 さっきの狼女にされたように、付喪神は私の胸ぐらを掴んで押したり引いたり揺さぶってくる。
 そして付喪神が私を引いたタイミングに合わせて、重心を後ろに傾けた。
 弾みで外れた手をさらに払い落し、すでにまとめてあった荷物を担ぎ上げる。

「じゃあな。私は忙しいんだ」
「ふんだ、昼寝してたくせに」
「……」
「だっふんだ」
「……」

 ふて腐れたように練習を再開しようとする付喪神を見て、ふと、試してみたくなった。
 コイツを仲間に引き入れられないだろうか。

 どうせ無駄だろうとも思いながらも、このポジティブさや行動力、妖怪相手でも物怖じしない性格は悪くない。
 アイドルになりたいという強い目的意識もある。
 果たして下剋上に興味はおありだろうか。

 失敗しても別にいいし、やるだけやってみよう。

「ところでさぁ、アイドルになるために練習してんだろぉ?」
「そうよ! あんたが邪魔しなけりゃね! 将棋とかやってる場合じゃないのよ! 知ってる? 時間って有限なのよ?」
「まあアイドルになるのに将棋は関係ないとは思うな」
「次は負けないわよ! せめて、フルじゃなくても! 王様と歩だけの奴には勝つからね!」

 平手をフルって言う奴初めて見た。
 いやまあ、それはいいんだけど。

 そんな事より勧誘勧誘。
 針妙丸曰く勧誘というより布教に近いなにからしいが、ここはひとつ気張って行こうじゃないか。
 成功したら万々歳。
 失敗してもそれはそれで。

「ところで、演奏の練習以外にはどんなことしてるんだ?」
「え? そうね、練習場所の確保とか」
「ほうほうなるほど」

 ウィンクしながら言ってきやがった。
 あてつけかよ。

「他には?」
「え? 他に?」

 虚を突かれたように小娘が黙る。
 何か言いたそうに口を半開きにしながら、全然関係ない方向へ目を泳がせている。
 教えてあげない。ではなく答えられないのだと言うことは誰の目にも明らかであった。

「いや、練習や練習場所の確保は確かに必要だと思うんだよ」
「……うん、そうね」
「それで、アイドルになるためには他にどんなことが必要なんだ?」
「……んーっと」

 この様子からして、碌な計画も立てずにとりあえず手を付けていたって感じだろう。
 やみくもな練習など逆効果。
 まずゴールを決めてから必要なもんをリスト化して1つずつ潰してかないと、何かを成し遂げるなんてとてもとても。
 その辺わかってんのか。

「わからないのか? 嘘だろぉ?」
「い、いや」
「え? まさか練習だけしてればいつかステージに立てんのか?」
「いや、な、なんでそんなこと聞くのよ!」

「あ? ああ、私もアイドル目指すことにしたんだ」
「はあ? あんたが!?」
「おかしいか」
「いや、あんた楽器は?」
「これから手に入れる」
「……ちょっと、冗談でしょ?」

 呆れ半分逆ギレ半分の付喪神。
 まだまだ足りないようだな。

「そりゃお前は付喪神だから生まれた時から琴持ってたのかもしんないけどな、普通は目指し始めた瞬間は手ブラなんだよ」
「そ、そう? そうかー……?」
「ある日出会ったプロ志望のアーティストに触発されて自分もその道を目指し始める、その時はまだ何も知らないし、何も持ってない、別におかしい所は無いだろ?」
「そうね、それはそうね。付喪神じゃないもんね」
「そういう訳で私はアイドルを目指す。問題あるか?」
「いや、問題は……、無いけども。そりゃ目指すだけなら」

 首をかしげで訝しむ付喪神であったが、腑に落ちない様子であった。
 そりゃまあ反論されても困るが、納得されても困る。
 丁度いいくらいであった。

「で、だ。アイドルを目指すにあたって必要なものを先輩に聞こうと思ってな」
「うぐ」
「『何が必要なんだ?』」
「うぎぎぎ、そこに帰ってくるのね……」

 私は返事を待たず、切り株の端に腰を下ろした。
 質問してる相手に背を向け、無礼を承知で大あくび。

「どこ見てんのよ、こっち向きなさいよあんた。知ってる? それって失礼な事なのよ?」
「長くかかりそうだったからな」
「ウゴグググ」

 私の隣に腰かけながら、付喪神は頭を抱え始めた。
 悩め悩め。
 苦しめ苦しめ。

 いつからアイドルを目指し始めたのかは知らないが、今までサボっていた報いだ。
 さあ、私に勝ってみろ。

「ま、まだ」
「あん?」
「まだ、調べ中よ」
「調べ中ぅ?」

 チラリと横を見れば、引きつった笑みを気合で維持している馬鹿の姿があった。
 下手くそな口笛を吹くことも忘れない。よいリアクションである。
 随分苦しい言い訳であったが、まあいいか。

「じゃあなんで調べもの中断して練習してたんだよ」
「れ、練習も必要だからよ」
「何が必要なのか全容を把握するより先にか? 見切り発車って言うんだぞそれ、見切り発車でうまく行くのは天才だけだぞ」
「……そ、そうよ、そう」
「ん?」

「か、き、休憩よ休憩。調査調査で疲れちゃったのよ。気分転換と練習を兼ねて演奏よ。そうよ、そうなのよ」
「ふーん?」

 これでどうだと言わんばかりに付喪神が胸を張る。
 ふむ。
 アイドルになるためには演奏の練習と、練習場所の確保が必要。
 他に必要なものは現在調査中。
 ただ調べものに疲れたから休憩がてら楽器の練習。

「筋は通ってるな」
「で、でしょ!?」

 最初にそれがスラスラ出て来ない時点で嘘なのは確定的だが、それを指摘するのはさすがに大人気ないし、意味も無い。
 今は黙ってその勝ち誇った顔を眺めることにした。

「で、どんな調査してるんだ?」
「……え?」
「さっきまでやってたんだろ? 何してたんだ?」
「な、なんでそんなこと教えなきゃいけないのよ」
「ケチなこと言うなよせんぱーい。どうやって始めたらいいのか先人に聞くのは基本だろぉ?」
「先輩って言うんじゃないわ!」

 あーとか、うーとかうめき声をあげる付喪神。
 次のセリフがなかなか出て来ないようであったが、それでも泳ぐ瞳を睨み続ける私に焦らされたのか、無理やりひねり出したような回答をこちらに返してきた。

「え、えーっと、本とか」
「あ、字ぃ読めるんだすげージャン」
「え、あ、いや、うん。まあ、簡単な奴なら。ほら、王とか歩とか読めるよ!」
「おう、そうだったな」

 そう言われてみればそうだった。
 どうやら本当に簡単なものなら読めるようだった。なんて言うと思ったかこの野郎。

「じゃあこれは?」
「ん? んー、なんだろうねー、ルーン文字かな?」
「日本語だから」
「歴史的仮名遣いはちょっと」
「現代文だから」

 てへ、なんて言いながら自分の頭をコツンと叩く。
 風呂敷から取り出した漫画を見せてみても、そのタイトルすら読めないようであった。
 文字が読めるのではなく、『将棋の駒』を知っているだけだったか。

「ちなみに何て読むのこれ。全部漢字だよね」
「進撃の巨人。真ん中はひらがなだ」
「きっと野球の漫画ね」
「人食いの怪物に挑む人類の話さ。割りとグロイ」
「へー、あんたも人食い? 私食べちゃやーよ?」
「琴はちょっと消化できねーな」
「よかった」

 そんな事より。

「で? どうやって調べてたんだ?」
「え? あ、あー、いや、その」
「どうやったらアイドルに成れるんだ?」
「うぐ、いや、その、き、企業秘密です」
「あっそ」
「……うん」

 秘密だと言うなら仕方ない。
 無理に聞くのも無粋というものだ。
 その回答がほとんど投了に近いということくらい、向こうもわかっているだろう。
 わかってないならそれまでだ、そんな程度のオツムじゃこの世間を渡っていくなんてとてもとても。

 私は今度こそ切り株から飛び降りた。
 そして風呂敷を担ぎながら、見上げるように付喪神を眺める。
 相手もスカートの位置を気にしながらも、私の方を見ていた。
 なんとなく神妙で、どことなく怯えたようなそんな表情だったが、ギリギリのところで目は逸らしていなかった。

「私は帰る、お前は今からどうする?」
「……」
「どーした、まだ休憩か?」
「あー」

 降参。とでも言うように、付喪神は両手を上げてヒラヒラさせる。
 そことなく、憑き物が取れたような表情だった。
 これで練習を始めるとか言い出したらグーで殴ろう。

「調査を再開するわ。何が必要なのかのね、調べなきゃだもんね」
「そうかい」
「ほらあんたもどっかい来なさいよ、しっしっ」
「へいへい」

 それだけ答えて、私は歩き出した。
 犬でも追い払うように手を振る付喪神は、もう私の顔なんか見たくもないといった風に舌を出していた。

 せっかくなのでそのまま私は人里の方へを足を向ける。
 近くまで来たついでだ、適当に買い物でもして行くことにしよう。

 今日があの小娘にとっての転機になることを願う。
 果たして未来のアイドルは下剋上に興味はおありだろうか。

 このまま進めば、順当に進めば。
 絶対に、何かしらの壁にぶつかる。
 それは才能か、環境か、外敵か。
 理不尽に正面衝突した時こそ、そいつの下剋上は試される。

 種は撒いた。あとは育つか、腐るかだ
 あいつは必要なことをし始めるだろうか。
 何が必要なのか調べ、先人に話を聞き、理にかなった練習を行い、根拠のある行動をとるだろうか。

 それは楽しみなのだが、しかしまあ。
 また嫌われた。





 人里にて捕らぬ狸の皮算用を暗算してみる。
 さっきの付喪神がいずれぶち当たるであろうトラブルを、不屈の精神で乗り越えていくところを妄想しながら川沿いの大通りを歩く。
 私の妄想の中の彼女は現時点での本人とは比較にならない程たくましく、活動的で、そしてタフだった。
 練習を欠かさず、人を集め、宣伝広告ストリートライブ、地道な活動を何年も続け、どんな問題も知恵と工夫で解決し、いずれは大舞台へ。

 撒いた種が芽吹き、育ち、実を付け、熟していく。
 想像しただけで涎が出てきやがる。

「いけね」

 夢見心地のままフラフラと歩いていたら、いつの間にか通りの端にまで来てしまっていた。
 大きな河川の分流点。川向こうには戦乙女を象った彫像と、見知った影が1つ見える。

 空を飛んでここら一帯を上から見れば、この分流点を境に3つの集落が身を寄せ合っていることがわかるだろう。
 この3つを合わせて1つ。幻想郷最大の人里、東の里であった。

 目と鼻の先で櫂(かい)をこぐ川渡しを横目に、妖怪である私は悠々と空を行かせてもらう。
 お椀の船に箸の櫂、京へはるばる昇りゆく。
 そんな歌を頭の中で奏でながら反対岸へ。

 目次録を開くまでもなくみんな知ってる有名人、海を割ったという例の偉人を意識でもしたのか、刀を地面に突き刺して眼前を見据える女性が分流点を睨むように佇んでいる。
 石でできた彼女は、目の前できれいに二分される川を覗きながらコケまみれの身体を風に晒していた。
 その彫刻のすぐ後ろ、無数の人名が羅列された巨大な慰霊碑の足元で、古い友人が花束を抱えている。
 例の出禁を喰らった将棋の友人とは別の人だった。
 どっちが美人かと聞かれたら迷うところだが。

 そいつは両手を合わせて弔辞を捧げ、慰霊碑の前で跪くようにひざを折っている。
 その姿はまるで十字架の前に跪く信徒のようにも見えた。

「終戦記念日は先月だろぉ」
「……」

 私がかけた言葉を意にも介さず、そいつはただ目を伏して黙とうを続ける。
 吸血鬼異変没者慰霊碑と掘られたその石碑の前で、懺悔でもするかのように祈り続けていた。

「……その日は、人が多すぎるもの」
「それもそうか」
「それに」

 妖怪がどの面下げて遺族に会えるのか。
 そう言って友人は、風見幽香は立ち上がった。

「久しぶりね正邪。何年ぶりかしら」
「6年か7年くらいだな。春雪異変以来のはずだ」
「死んだと思ってたわ。私だけじゃなく、いろんな人がね」
「心配したか? この私を?」
「ミスティア泣いてたわよ。遭難したと思ったし」
「マジで?」
「リグルがブチ切れてたわよ」
「やっべ金借りてたんだった」

 懐かしい名前が次々出てきてどことない寂しさを覚えるが、私自身が一応は逃亡中の身であることを考えたらおいそれと会いに行くこともできないだろう。
 懸賞金3000万ベリーと書かれた冗談のような手配書がばら撒かれたその日から、つるむ妖怪は選ばなければならなくなってしまっていた。
 札付き上等の悪党か、良いも悪いもわからないようなガキか、コイツみたいに指名手配なんて気にも留めないやつか。

「新聞読んだわ。異変起こしたんだって? 気付かなかったけど」
「まあ、お前は気付かねぇだろうな」
「うちの子が反抗期になったかと思ったわ」
「ふーん?」

 打出の小槌のパワーがあったとはいえ、もともと強大な連中には特段影響も無かったのだろう。
 コイツ自身が厭世家というのもあるだろうが。
 それにしたって終わってから気付かれるというのも悔しいものだ。

「どう? 下剋上は順調?」
「今のところは計画通りだ。数日中に動きもある」
「そう、あんまり無理しない事ね」
「そりゃ無理だ」
「それもそうだったわね」

 クスクスと笑うこの妖怪は、私の下剋上の意味を知る数少ない友人の1人だ。
 地底から這い出て間もない頃、それこそ退屈なる策士や悪魔みたいな害虫、それに天使の如き針妙丸にもまだ出会っていない頃。
 私はコイツと接敵した。

 理由は何だったか、よく覚えてないが、たぶん畑の作物や土を無断で調査し始めたからだと思う。
 サンプルと称してひまわりを引っこ抜いたり、サンプルと称して肥料を強奪したり、サンプルと称して干し柿をパクって食べたり。
 連日そんな事してたら怒られた。

 幽香が有名な大妖怪だなんて知りもしなかった当時、全身から煙を吹きながら地上妖怪の偏差値の高さを味わった私は、このレベルの妖怪が地上にはゴロゴロいるのだと思って割と本気で計画のとん挫を覚悟した。
 地上から逃れてきた地底妖怪どもを根性無しと罵っていた私だったが、これは確かに勝てねーよと納得しかけていた。
 まあ、実際は幽香みたいな天狗級妖怪の住みかは概ね山に集中していて、辺境に好んで住んでいる変わり者はいくらもいないということを後から知ったのだが。

「うち寄ってく? お茶くらいだすわよ?」
「いただきたいね。最近見つけた面白い話もあるんだ」
「こっちにも会って欲しい子がいるのよ」
「ぉお? 男かぁ?」
「ばか、違うわよ」

 私が疑問に思ったのは、なぜ幽香がしばらく私を泳がせたのかということだった。
 花畑の調査をしていた期間はおおよそ1か月にも及んでいた、誰かに管理されていることは明らかだったし、こっちが向こうを見かけたこともあった。
 逆に向こうも略奪行為を働く私を早い段階で見つけてはいただろう。
 こんだけの力があるんなら、見敵必滅で私なんか地平線の彼方にまですっ飛ばせたはずだった。

 なんでなのかと思ったが、後から聞いたら怖かったからだと答えてくれた。
 人のものを平気で奪って行く存在が怖かったと。
 そんな馬鹿なと驚いた私だったが、しばらく行動を共にしてすぐ納得した。
 こいつはたとえ妖精相手でも当たり前のようにビビる。
 強いとか弱いとかの理性的な判断よりも先に、見るものすべてを恐れて逃げ出すウサギのようなメンタルの持ち主であった。

 強くて臆病、君子危うきに近寄らず。それが1000年を生きる大妖怪、風見幽香の処世術なのだと知った。
 長生きの秘訣は調子に乗らない事だそうだ。

 その折に話した下剋上計画。すべての弱者に狂乱を促すこの計画に、幽香は賛同してくれた。
 わかる、と。
 自分もそうだから、と。

 そう言ってくれた。

「変わんねーなぁ」
「ペンキ塗り直したのよ?」
「そうなんかぁ、じゃあ私の記憶があいまいなだけか」

 里から離れてしばらく歩く。
 軽く近況を報告しながらの散歩は、天気も相まってそう悪くは無かった。

「あ、ゆーかお帰りー」
「たーだいま」
「ぉお?」

 花畑に囲まれた一軒家。
 赤い屋根の可愛らしいおうちに招待され、板チョコレートみたいなファンシーなドアを開ければ、何ということでしょう、お人形さんのような可愛らしいお人形さんが出迎えてくれたではありませんか。

「ゆーか、その人だれ?」
「この人はね、私のお友達よ」
「ゆーか友達いたんだ」
「……ねぇメディスン。私はね、そうは見えないかもしれないけど友達割とたくさんいるのよ?」

 匠の粋な計らいに軽い感動を覚えた私だったが、身体の端々から漏れ出す瘴気を感じ取って思わず身構えた。
 いや瘴気かと思ったがもっと違う、具体的な、なんだろこれ。

「紹介するわ正邪、娘のメディスンよ」
「はじめま娘ぇ!? 生んだのかお前!」
「え、いや違うけど」
「こうのとりが運んできたのか!?」
「そんな訳ないじゃないの」
「キャベツ畑に生えてたのか!?」
「そうよ」
「そーなの!?」

 なんだよ、教えてくれたら名付け親になってやったというのに。
 男ならエレン、女ならアルミンだな。
 そんな事を幽香に言ったら、エレンという名前の女の子を知っていると言われた。
 世界って広い。

「お姉ちゃんはだれ?」
「ん? ああ、はじめまして、鬼人正邪だ。職業は商品先物取引会社の社長」

 何言ってるのよあんた。という幽香の呆れ顔は見なかったことにし、私はお人形さんの目線に合わせるためにひざを折った。

「レジスタンスさ」
「レジタス?」
「抵抗者さ」
「ふーん?」

 よくわかって無さそうに小首をかしげる姿に癒されつつ、居間へと案内してもらった。
 別に間取りくらい覚えているが、かわいい子に案内されたかったのだ。

 トテトテと愛らしい足音を響かせながら、幼子が私の手を引いて進んで行く。
 ふと後ろを振り向けば、そこには範馬勇次郎みたいなキモイにやけ面を見せる幽香がいた。
 指摘しようかどうしようか迷ったが、結局見なかったことにした。

 花柄のテーブルクロスに同じく花柄のカーテン、ドライフラワーの飾りに、壁にかかったゴッホのひまわり。昔私が描いた贋作だ。
 そして幽香が信仰している秋神を祀る神棚。
 通されたリビングは私が最後に見た時とそう変わっていなかったが、画期的な違いを1点述べるとするならば、可愛らしい娘さんが椅子を引いてくれたことだ。
 うんしょうんしょと自分より背の高い椅子を引きずって私が座れるようにしてくれた。

「どーぞっ」
「……どうも」

 ヤバいこれ破壊力抜群だ。
 幽香の趣味なのか、素晴らしい教育だった。

「お茶淹れて来るねー」
「悪いね」
「ありがとねメディスン」

 パタパタとキッチンの方へ走って行く幼子を見送り、私と範馬勇次郎はテーブルへと着いた。
 もろもろ花尽くしの部屋の中でとろけるような笑みを浮かべる幽香が、愛娘の愛嬌にとうとう耐え切れなくなったのかパタリとテーブルへと突っ伏した。
 その姿は変態を通り越して犯罪者的だった。

「いい趣味してんなお前」
「きゃーわいいでしょー?」
「……きゃーわいいな」

 幽香が突っ伏したままペシペシとテーブルを叩く。
 本人が幸せそうなので何も言いはしないが、傍から見てアホな親ばかにしか見えなかった。
 だが私は知っている、往々にしてこのような隙だらけな奴の方が男にモテるのだ。

 世の男どもは切れ者の美人とアホな美人なら後者を求める。
 なぜなら男は馬鹿だから自分のキャパを越える女が怖いのだ。
 そのため賢い女は馬鹿な振りをして男を騙してあげる必要があるのだが、レジスタンスとして統率を取らねばならない私にそれは許されない。
 だから私がモテないのはどう考えても周りが悪いし、針妙丸がモテるのは当然なのだ。

 あまりにも圧倒的すぎて同じブロックの対局者の士気が下がるため、タイトル戦をトーナメント方式からポイント制の総当たり戦に変更させた例の将棋の友人に恋人がいない事からも、これは明らかだった。

「充実した毎日を送ってそうだな」
「幸せよ」
「そうか」

 腕を枕にしながら幽香が答える。
 この果報者め。
 コイツみたいに人に向かって堂々と『幸せだ』なんて言える奴が、幻想郷に何人いることか。
 別に羨ましくなんてないしー。

「あ、そうだ正邪、見て見て」
「あん?」

 そう言って幽香はふいに立ち上がると、神棚に飾ってあった本を取りだした。
 なぜそこに本があるのかは気になっていたが、もしかしたら幽香が信仰する神が書いた物なのかもしれなかった。
 確か秋神の、姉の方。
 豊穣神じゃない方の神だったはず。

「見てこれ、静葉様がお書きになった自伝よ。初版で買っちゃったわ」
「なんで5冊もあるんだよ」
「読書用、保管用、携帯用、布教用、予備よ」
「布教用が言葉の意味そのままなのな」
「そうよ」

 はいこれ布教用。と言って渡してきた本の表紙では、小柄な少女が髪をかき上げながら伏し目がちに左下を見つめていた。
 その愁いを帯びた瞳には見る者を落ち着かせるような光が宿っているのかもしれないが、私には効かなかった。
 タイトルは『出しゃばらない生き方』。そして著者には秋静葉とある。

「静葉様はね、私達みたいな日々を静かに暮らしたい人たちに希望を与えてくださるのよ」
「何度も聞いたよ」
「この間サイン会やってたのよ。全然並んでなかったから全部サインしてもらっちゃったわ」
「ホントに人気なのかこの人は」

 ペラリと裏表紙をめくって著者紹介を見てみる。

 秋静葉。
 種族、神。
 八百万の一柱で、専攻は『紅葉』『終焉』『静寂』。
 産んだり作ったりというよりは、死なせたり壊したりすることへの決断を担当している。
 間引きや落葉など、老化や病気等で弱った個体を土に還し、集団の健全化を図ることを専門としていて、妹の豊穣神と組めば理想的な畑や農地を容易に管理することができる。
 キャッチフレーズは『眠れぬ強者に安眠を』。

「こんな物騒な奴だったのか」
「物騒なのは実行する妖怪よ。この方は指示するだけ」
「……あー、神だもんな」

 たぶんこのキャッチフレーズの『安眠』ってのは永眠のことなんだろうなと思いながら、再び表紙を眺めてみた。
 物悲しい表情に見えた著者の写真であったが、実はこの視線の先には死体が転がっているんじゃないかと邪推してしまう。

「というか殺戮とかじゃないわよ。あくまで終焉とか救いとか、打ち上げ花火じゃなくて線香花火みたいな方だったわ」
「まあ病気になった葉をちぎることをジェノサイドとは言わないわな」
「でしょ? 疲れ切った人にタオル投げるのも仕事のうちなんだって。それで観念して苦痛から解放される人も多いみたいよ」
「死神に極めて近い何かだな」
「無駄に長生きしても辛いだけだし。こういう神も必要なのよ、若い子には無用の存在だろうけどね」

 だから人気ねーんだよ。
 生に飽いてるけど踏ん切りがつかず、生焼けのまま死ねずにのたうつヘビみたいな奴からしか信仰ないんだろうな。
 そういう輩に希望を与えてくれる。

 この場合の希望というのは筋弛緩剤かそれに近いものなのか、あるいは鎮静剤か、それこそ葉巻か何かか。
 妹が豊穣神らしいし、さぞかし良質な葉っぱが作れるだろう。
 ケシなり大麻なりが規制されてからまだ20年も経ってないし、たしか製造や持ち込みが禁止されただけで所持はできたはずだ。
 相性よさそうだし、在庫とか抱えてるのかもな。

「ねえ正邪、整体って知ってる?」
「え? ああうん、ざっくりとなら」
「静葉様すごい得意なのよ? 資格も持ってるの」
「そうなのか? というか何の話だ?」
「不安を解消するツボとかがあるらしくって、そこを押すと疲れも不安も取れるのよ」
「……壺を買わされたって話?」
「マッサージの話よ」

 思いの外健全だったようだが、まあたぶん、薬と並行してやってるとかそういうことだろう。
 絶対そうだ、そうに違いない。

「あと疲れてるときに頼めば抱きしめてくれるわよ。癒されるわ」
「邪な奴が沸きそうだな」
「そういう人は蹴られるわ」
「喜んじゃうんじゃねーの?」
「人間の頭がい骨くらいならハイキックでかち割れるらしいわよ」
「妖怪かよ」

 どうやらこの神様は弱小妖怪の上の方くらいの暴力の持ち主らしい。
 サービス精神旺盛な神様のようだったが、いい脚しているようだった。

「愚痴聞いてくれるし、秘密も守ってくれるし」
「甘やかし上手なのかね」
「信者が少ないから時間もとってもらいやすいし」
「切実だな」

 信者が神のことになると途端に饒舌になるのは世の常だが、幽香もその例に漏れないらしい。
 聞いてもいない事をペラペラとしゃべり出すのはいいが、押し付けがましいのはよくないな。
 しかしまあ、ちょっと興味もわいてきた。
 せっかく著書があるんだし、ためしに読んでみようじゃないか。

 終焉を司る死神が、強者を眠りに誘っている。
 それは安眠であり、時に永眠であり。
 休息と解放の専門家が、静かに生きる方法を綴った1冊の本。
 そこに在るのは生き方か、あるいは楽な逝き方か。
 確かめるには、読むしかなかった。

「……」


『出しゃばらないと言う生き方』。
 著 秋静葉。

 はじめに
 まずはみなさま、この本を手に取っていただき誠にありがとうございます。
 この本は私、出しゃばらないことに定評のある神、秋静葉が、海千山千の怪物たちが跋扈するこの幻想郷でいかにして1000年を越える安寧を保ちえたのかという、真に野心に溢れない方法論を書き記したものでございます。
 何を隠そうこの出しゃばらないことに定評のある私は、幻想郷が幻想郷になる前、すなわち偉大なる管理者八雲様がこの地に降臨あそばされるそのはるか前からこの地に住まう神であり、また、幻想郷発足当初から微力ながらもそのご活躍に協力のほどを許される栄誉に預かってまいりました。
 『妖怪の楽園』というコンセプトを幼き八雲様より啓蒙された私は、すぐさま自分たち神に居場所がなくなることを予見し、この妖怪の楽園の中でいかにして安全地帯を確保するか、穿った言い方をすれば戦火に巻き込まれない例外的な立場になるにはどうしたらいいかをひたすら模索して参りました。

 この本では、その方法論などの具体的な行動から、生き方考え方といったある種哲学的な要素も含めて、怪物蠢く幻想郷の中においてもさらに激戦区と言われる妖怪の山で安定した基盤を作る方法を紹介していきたいと思います。

 僭越ながら、この本で紹介するやり方は多くのものが神としての立場での方法論となります。
 この本を手に取っていただいた方はあるいは妖怪の方かもしれませんが、その思想や考え方そのものは皆様方にも応用の効くものと信じています。

 それではこの本の内容が、皆様の安眠に役立つことを祈りながらまずはその思想、考え方からご紹介していきたいと思います。


 第一章
 出しゃばらないという考え方

1.野心を捨て、手の届く範囲で満足すること

 みなさまは何不自由ない快適な生活をしたいとお考えでしょうか。
 恥じる必要はありません。そう願うことを当然のことですし、私も叶うことならそうしたいのはやまやまです。

 ですがそれを達成し、また維持することは並大抵のことではございません。
 野心を捨て、そこそこで満足するためには、ある種の諦めが肝心となります。
 諦める。と聞くと悪い事のように感じる方もいらっしゃるかと思いますが、際限のない欲望を自制し、無理のない範囲の楽しみを享受しながら生きていくことこそが、出しゃばらない生き方への第一歩となります。


「飽きた」
「あれ? もう?」

 つっまんねーよ、これ。
 ざっけんなよ、これ。

 何が手の届く範囲の満足だよ。幽香は私にこれを読ませてどうする気だったんだよ。
 いや私じゃなくても、例えばあの琴の付喪神にこれを読ませたらどうなるか。
 きっとそのままの勢いで古本屋に持っていって、その代金で琴の楽譜を買うだろう。

 こんなの活力ある若者が読むような本じゃないな。
 人生で大した成果も残せなかった雑魚が、自己正当化するための本だ。
 野心溢れる天邪鬼には合わねーよ。

「幽香」
「ん?」
「生きることは苦痛か?」
「……メディスンに会うまではだいぶ辛かったわ」
「そっか」
「その本にも書いてあるけどね、救われたいと思ったら生き物を育てるのが効果的なのよ」
「犬とか猫とかの話じゃねーの?」
「それもあるけど、成長を見守って慈しむのが大事なのよ。そしていつか別れるときは遠慮なく悲しんでいいの」
「へぇ、まあ娘でも一緒か。可愛いもん見て癒されろってか」
「平たく言うとそういうことよ」

 その娘さんが歩いて行った方を見てみると、カチャカチャと食器の擦れるような音が聞こえて来る。
 お茶を淹れてくれるらしいが、何茶だろうな。
 楽しみだ。

「ところであの子、最近生まれたのか?」
「ええ、10年も経ってないと思うけど」
「そっか、ならいいんだ」
「そう? ところでそっちはどう? 面白い人見つけた?」
「何人か、な」
「噂の小人さんとか? かわいい?」
「それはまあ、ひと勝負しながらだ」
「……いいわよ」

 風呂敷から将棋盤を取り出し、テーブルの上へと乗せる。
 頭を起こした幽香の前で、駒を盤の上へとこぼした。

「あー、すごい久しぶり。勝てる気しないわ」
「ハンデは?」
「4枚でお願い」
「はいよ」

 飛車、角、香を盤から取り除き、寂しい布陣で開戦の火ぶたを切る。
 幽香とやんのも久しぶりだった。腕は鈍ってないだろうなぁ。
 まあいい、確かめりゃわかる。
 さあ行くぞ。初手、6二銀。

「……」
「来な」

 角開けからの突っ切りを狙ってくる幽香を牽制しつつ、ワザと定石から外れた手を指して幽香が混乱する姿を味わう。
 『こんなはずじゃないのに』みたいなツラで眉をひそめるその姿、プライスレス。

「そう言えば幽香、さっき言ってた小人の話だけどさー」
「後にして」
「ヘイヘイ」
「……時間制限は無いわよね」
「ゆっくり考えな」

 1手1手おっかなびっくり指してくる幽香の攻撃を、鉄の防御で噛み砕く。
 こいつは代表的な定石ならいくつか知っているし、こと攻撃に関してなら13手以上の詰めを平然とかけてくる奴だ。
 どこぞの猿とは違うのだよ猿とは。
 ただし、ちょっとでも定石から外れると途端に気弱になって手が緩む。
 駒得至上主義こそ卒業してはいるものの、まだまだ定石の意味まで深く理解してはいないのだろう。
 野球で言うなら打率4.0くらいある大スラッガーの癖に、守備となったら凡フライでもエラーする感じだ。

「ゆーかをいじめるな」
「ああん?」

 カチャン、と紅茶の入ったカップをテーブルに置きながら、娘さんが憤慨した様子で頬を膨らましていた。
 メディスンとか言ったか。
 怒った姿も可愛らしいが、針妙丸ほどじゃないな。

「いーじめーるなー!」
「あのー、ちょっとお母さん。娘さんがー」
「後にして」
「……いいかいメディスン。幽香はこう見えていじめられて喜ぶ変態なんだ」
「逆だよ! 私知ってるもん!!」
「……」

 なんだろう、他人の子供に大人の階段を上って欲しくないと願うのはエゴなのだろうか。
 それでもこんな年端もいかない子供に間違った性の知識を与えるのは社会正義に反するはずだ。
 いいぞ幽香もっとやれ。

「幽香は今勝負の最中なんだよ」
「これ?」
「そうそれ、私と戦ってる最中なのさ」
「負けてるの?」
「それはもう」

 不思議そうに盤を眺めるメディスンを見て、ふと妙なことに気が付いた。
 詳しくは知らないが、付喪神は生まれる前に塵塚怪王とかいう付喪神の王から教養を賜るらしい。
 頭の中に辞書が入っているようなもので、それのおかげで生まれてすぐに活動することができるのだそうだ。
 さっきの琴の付喪神だって文字は読めなくても『将棋』を知っていた。
 定石は全然だったが、大まかなルールや駒の動かし方に迷う様子は無かったし、それこそ辞書に載っている程度の知識はあったのだろう。
 その程度の知識しかないくせに妙に自信満々だったのはご愛嬌だが、知識だけあって経験の乏しい若い付喪神なら無理のない話なのかもしれない。

 それを踏まえて、なんでこの子は将棋を知らない。
 言動があまりにも幼すぎるし、もしかして厳密な意味での付喪神ではないのだろうか。
 身体の側を漂う不透明なガスも、付喪神っぽくないと言ったら付喪神っぽくないし。
 自動人形とかその類なのだろうか。

 わからん。
 分解して調べてみたい。

「王手よ」
「言わなくていいよ」
「……うげっ」

 放ってきた勝負手を逆手にとって詰めろをかけた。
 大丈夫、ちゃんと受ければまだ粘れる。

「が、がんばれゆーか! 負けるなゆーか!」
「後にして」
「ぁ、ご、ごめんなさい……」
「え? あ、ご、ごめんねメディスン。おかげで勝てそうよ!」
「……」
「あ、ありがとうメディスン。応援よろしくね!」
「……うん!」

 おちゃらけた感じに幽香が上半身だけで不思議な踊りを見せる。
 辛うじて我が子の笑顔を守ることには成功したものの、盤上の玉はそう簡単には行きそうもなかった。
 粘りはしたがその勢力は風前の灯だ。王様からしたらそろそろ出しゃばらない生き方でも考えなければならない頃合いだろう。

「……」

 頭を抱えながら盤を見つめる幽香だが、チラチラと娘さんに目を配っているところを見る限り、なんとかしていいところを見せたいのかもしれない。
 それでもいい加減諦めたのか、とうとう全国出場を逃した高校球児のように投了を宣言した。

「ありませんっ……」
「それは囲碁だ」

「ゆーか負けたの?」
「……負けちゃったわ」

 メディスンがよじ登るように幽香のヒザの上に座る。
 落っこちないように幽香の服をしっかりと握るその指先に、思わず心が躍った。
 表情にこそ出さないが、私の中に僅かに残っていた他者を慈しむ心がくすぐられてしょうがない。
 枕草子を執筆中の清少納言もきっとこんな心境だったに違いなかった。

「私が相手よ!」
「……将棋は難しいぞー?」
「ゆーか、これどうやってやるの?」
「んー? これはねー?」

 仇討をしてくれると言う我が子の髪を撫でつけながら、幽香が簡単に駒の動かし方をレクチャーする。
 わかりやすい説明ではあったが、この幼子がそれを理解できるだろうか。
 まあいい。

「よっし、勝負よ!」
「ハンデは?」
「あげないわ!!」
「……そうかい」

 反射的に顔を逸らした幽香が、口元を押さえてプルプル震えだす。
 この子は自分の真後ろで母親に笑われていることを知ったらきっとショックを受けるだろう。
 しかし永遠に気付かない秘密は無いのと同義である。
 この子のためにも私は努めて無表情を装うことにした。

「平手っつーんなら先攻を決めるぞ」
「……さーいしょーはグー!」
「いやじゃんけんじゃない」

 これで決める。と言って歩を3枚手渡した。
 これを投げて表の方が多ければ振った人が先行だ。

「へぇー」
「……」

 それにしても。
 球体関節の小さなおててで駒を握りしめるその愛らしさといったらない。
 国宝級の絵面に幽香が耐え切れず、天井を仰いで夜神月みたいな笑みを浮かべるほどだった。
 『こいつぁたまんねーぜ』といった具合のにやけ面が隠しきれていない。

 私もこんな娘が欲しいとは思うものの、その前に夫を探さないといけないということに気づく。
 そして美人ではあるものの知能犯的なキャラが定着してしまっているクールビューティ天邪鬼な私には、男どもはビビッて近付いてこないのだ。
 仕方ないので娘は諦め、針妙丸で我慢することにした。
 早く会いに行きてーな。

「えいっ」
「お、3枚共か」

 見事全部表を出したメディスンだったが、喜んでいたのも束の間、どれを動かしたらいいかわからず1手目から苦戦していた。
 教えてやれよ幽香、ニヤニヤしてないでさ。

「天使よ……、この子は天使……っ」
「かもなぁ」
「これだっ」

 鼻血でも吹かんばかりに興奮している幽香をよそに、メディスンはいきなり王様を真正面に前進させてくる。
 うんまあ、いいさ、好きにやれば。

「……次はー、これー」
「おお、そう来るか」
「ふっふーん」

 誰が相手だろうと盤上で容赦をする気はない私ではあるが、さすがにこれをボコボコにするのは気が引けた。
 意味もなく人を傷付けるなんて3流の天邪鬼がすること。
 1流のすることには意味が無ければならないのだ。

 自立心を、反抗心を、奮い立つことを、促すようにやらなければならないのだ。
 嫌われてなんぼの天邪鬼。
 さあ私に逆らえ、私に抗え、私に抵抗しろ。

「ほらよ、王手飛車取り」
「んんんんんんんんー??」
「頑張ってメディスン」

 桂馬の恐ろしさを身を以って実感しているお子さんに、幽香はご機嫌な様子でエールを飛ばす。
 頭を抱える姿が幽香そっくりなのは血筋だろうか。
 きっとそうだ。

「うー、来ないでー」
「でも追っちゃうんだよなー」
「来ないでー」

 端の方へと追いやられた王様は、結局味方の駒に退路を塞がれて敢え無く御用となった。
 まあ、最初はそんなもんだ。
 それどころか駒の動かし方を間違えなかっただけ上等な部類だろう。

 それに。
 どんなにピンチに陥っても、コイツは1度たりとも幽香に助けを求めなかった。
 最後まで自力で私に勝つ気だった。
 私と平手で戦い、途中で投げたりもせず、どこから見ても対等な勝負であった。
 その辺はまあ、評価しておいてやろう。

「敵討ちはまた今度だな」
「頑張ったわねメディスン。もうちょっとだったわ」
「……ぅー」

 まだ逃げるところが無いか探している愛娘に、幽香が優しく声をかける。
 それでやっと自分が負けたことを理解したのか、メディスンはポロポロと大粒の涙を零しだしてしまった。
 幽香が親ばかを発揮してモンスターペアレント化したらどうしようとか考えるより先に、涙まで流すとは面白い人形だと思ってしまうのは職業病だろう。
 レジスタンスたる者、世の不思議には敏感でなければ。

 それよりも、私も『フォロー』をしなければ。
 泣かせて終わりじゃしょうがない。
 再戦を望ませないと意味がないのだ。

「途中何度か危なかった、センスはあったな」
「そうねー、惜しかったわよメディスン。次はきっと勝てるわ」
「……もうやんないもん」
「いいよ別に、幽香いじめるだけだし」
「……ぅー」
「お前がもっと頑張れれば幽香を守ってやれるのになぁ。まぁ、諦めな、どうせお前じゃ無理だ」
「……」

 メディスンがテーブルの下で震えるほどに拳を握りしめる。
 隠してるつもりだろうが丸わかりだ。
 歯を剥きながら私を睨みつけてくるその瞳には、いつぞやの針妙丸のような下剋上の炎が確かに宿っていた。

「え? 私またやられちゃうのー?」
「弱いのが悪いのさ。まぁたボッコボコにしてやらぁ」
「いやぁー、メディスン助けてー」

「……」

 三文芝居を繰り広げながら、私は駒を片付け始める。
 幼子の瞳に宿った小さな炎。
 その弱々しい種火がいつか大火となって私に向けられることを願う。
 種はまいた。あとは育つか、腐るかだ
 身近に育成のプロもいることだし、期待しておこう。

「……ぶっとばしてやる」
「いつでも来な」
「こらこら喧嘩しないの。それより正邪」
「あん?」
「教えてよ。その小人さんのこと」
「おお、忘れてた」

 対局しながら話そうと思ってたんだが、幽香があんまりにも集中してるから話す暇がなかった。
 何の事だかわからなっていなさそうなメディスンを置き去りにしないように気を付けながら、私は同志の事を聞かせることにした。

「メディスンがもうちょっと年取ったような奴だな、中身は」
「へー、かわいい?」
「かわいいぞー、お人形さんみたいだぞー」
「うひゃー、会ってみたいわ」
「ゆーか、私も人形!」
「そうだったわね」

 メディスンがビスクドールなら針妙丸は着せ替え人形だな。
 人形よりも人形らしいその姿を幽香が見たら、かろうじて鳴りを潜めたはずのロリコンが再発するだろう。
 不治の病だ。

「まだまだガキだが、私の理解者だ」
「下剋上の事も?」
「当然」
「……そう」

 アホ面を晒す娘を抱えながら、幽香の瞳が熱を帯びてくる。
 弱者に闘争を、世界に狂乱を。
 管理者へのメッセンジャーを買って出てくれた心優しき相棒を、いつかこいつにも会わせてやりたいと思う。
 きっとすぐ打ち解けるだろう。

「ゆーか、下剋上ってなぁに?」
「うーん、説明難しいわね。あ、そこに詳しい人がいるわよ」
「これこれ」

 水を向けてくる幽香に促され、とりあえず説明をすることにした。
 しかしこんな子供でもわかるように説明するのは難しそうだ。
 どう言ったものか。

「下剋上ってのはな、いじめをなくすための戦いだ」
「いじめ?」
「メディスンは自分より強い奴にいじめられたことあるか?」
「……めっちゃあるよ」

 そうか、めっちゃあるのか。
 何のことかと思ったが、幽香が口パクで何かを伝えようとしているのが見えた。
 天邪鬼七つ技術その2、読唇術。
 その男を惑わす魅惑の唇の動きを読んでみれば、どうやら『博麗の巫女』と伝えたいらしいことがわかった。
 今代の博麗。
 下の名前なんだっけな。

「そいつに復讐してやりたいと思うか?」
「……んー、別にー」
「そうか、優しい子だな」
「でも次来たらぶっ飛ばすよ」
「おお、いいね。さすがは幽香の娘だなぁ、それこそが下剋上さ」

 親を殺されただとか、そういうとんでもない事情があるならともかく。
 そうでもないのに済んだ話を蒸し返して報復するのことを私は推奨しない。
 だが、泣き寝入りはもっと推奨しない。
 いかに強い相手だろうと、自分の名誉を守るためには戦わなければならないのだ。

「あいつ何もしてないのにぶってきた」
「酷い奴がいたもんだな」
「そうよ! 今度会ったら顔をドロドロに溶かしてやるんだから!」
「加減してやろうな?」
「いやー」

 プイッと横を向くメディスンに風見家の血筋を感じつつ、すっかり冷めきっていたお茶をいただくことにした。
 たぶんなんかのハーブティーだろう、冷めてはいたが飲みやすかった。

「まああれだ、そういう時に怖がってないで勇気出して戦おうぜってのが下剋上だ」
「ふーん」

 なんとなくは伝わったであろう感じであったが、まだまだ核心にまでは触れていない。
 というかこの子にそれを理解させる自信が無かった。
 今はまだこんな認識で十分だ。
 君が大人になったら、またな。

「今度は負けないもん」
「そっか、その時までに修行とかしておかないとな」
「してるよー」
「お、マジで?」

 思わず幽香の方を見る。
 ニコニコ笑いながら頷いているところを見るに、子供らしい強がりとかではなく本当にやっているらしかった。
 えらいもんだ。

「毒ガスいっぱい出せるようになったもん。ねー、ゆーか?」
「そうよね、メディスンすごいわ♪」
「えへへー」

「……」

 どくがす?

「ちょっとお母さん。娘さんが非行に走ってますよ?」
「……この子はちょっと出自が特殊なのよ」
「そうなん?」
「さっき畑に生えてたって言ったでしょ? あれ半分は本当なのよ」
「……毒草の畑か?」
「鈴蘭よ」

 鈴蘭か、確かにあれには強めの毒性があったはず。
 鈴蘭畑に放置されていた人形が付喪神として目覚めたか、ただやはり通常とは環境や手順が異なったのか、厳密な意味での付喪神とは異なる不完全なものが出来上がったのだろうか。
 だとしたらかなり珍しいケースだ。
 あるいは毒の方が本体で人形はあくまで憑代とか。
 興味深いな。

「正邪」
「……うん」
「この子には夢があるの」
「ほぉう?」

 そいつはまた、愉快な話だ。
 不法投棄された人形に宿りし毒の化身。
 保護者に守られ安寧に身を委ねる幼き瞳が、一体何を見据えていると言うのか。
 ますます興味がわいてきた。

「ゆーかー、言っちゃダーメ」
「あらら、ごめんなさいね」

 両手でバッテンを作るロリに頬を緩ませる幽香であったが、目の奥までは笑っていなかった。
 それどころかメディスンの手を降ろさせ、私の方へと体を向けさせた。

「でも話してあげてメディスン。きっと、あなたに必要な事だから」
「なにがー?」
「すぐにわかるわ。それが鬼人正邪という妖怪に出会ってしまった人たちの末路よ」
「まつろ?」
「教えてあげて」
「んー」

 何やら大げさなことを言ってくる幽香だったが、それはあれか、私に気合入れろよと言いたいのか。
 しょうがねえな、既知のよしみだ。

「んーとねー、特別だからね?」
「ああ、ありがとうよ」
「ふふん。あのね、私は人形を解放するの!」

 無邪気に笑うメディスンは、話しているうちに楽しくなってきたのかどんどん饒舌になっていった。
 世の人形はみんな人間に操られてばかり。
 それだけならいざ知らず好き勝手遊ばれて飽きたらポイっと捨てられてしまう。
 そんなの許せない。
 だから全ての人形を解放し、人形が自由を謳歌する世界を創る。
 その為ならば……。

「人間なんて滅ぼしてやるんだから!」
「……」

 幽香よ。
 こんな危険思想の幼子、どこから見つけてきたんだ。
 下剋上精神にあふれてんぞ。

「どうよ」
「……」

 ふふんと鼻を鳴らして腰に手をやるその姿が誰かに似てると思ったが、自慢の演奏を披露した後の琴の付喪神だった。
 チラリと幽香の方を見てみれば、70億もの人間を毒殺すると宣言する我が子にデレデレしているだけであった。
 親ばかここに極まれりだ。
 もしかして私にこれを止めろとでも言いたいのだろうか。
 だとしたらとんでもない、私は応援しかしないぞ。

 さしあたって、まずは様子見でジャブ。

「メディスンさ、人間を滅ぼすってどうやるつもりなんだよ」
「簡単よ!」

 そんな事もわかんないの? とでも言いたげにメディスンが私を指差してくる。
 秘策でもあるのだろうか。

「世界丸ごと毒で覆えばいいのよ!」
「……そっか」
「そしたら全滅よ、私達は空飛べるから安全だもん」
「あー」

 飛行機の存在を知らないメディスンであったが、曲がりなりにも身の安全を考えている所はさすが幽香の娘。
 自分は安全圏から他人だけ攻撃する気らしい。

 人間も空を飛ぶ道具を持っていることを言おうとしてやめた。
 まあ飛行船だろうが気球だろうが燃料は有限だからいつかは降りざるを得ない。
 そこから崩すのは難しいだろう。

 だったら。

「その毒はどうやって用意するんだ?」
「私が撒くのよ」
「そんなに用意できるのか? 結構量あるぞ?」
「平気よ! 飛距離だって伸びてるんだから!」
「飛距離?」

 何のことかわからず幽香に目を向けると、幽香はちょっと待っててと言ってメディスンを膝から降ろして隣の部屋に行ってしまった。
 しばらく待っていると、スケッチブックとクレヨンを持った幽香が戻ってくる。
 何だそりゃ。

「これこれ!」
「なにこれ」
「飛距離よ!」

 そのスケッチブックの最初のほうには朝顔の観察日記と思しき記録が見られ、途中からはデフォルメされたメディスンの絵と、ドーム状に塗りつぶされた紫色の空間が描かれていた。
 幽香が描いたのか、一点透視図法を正確に用いたそのイラストはクレヨンのくせにそこそこ見やすかった。
 そのイラストにあった記号と、次のページに書いてある表を見る限り、どうやらこれは毒ガスの飛距離、というか射程範囲の成長記録のようであった。
 なんてものを作ってんだ。

 メディスンの要領を得ない説明を聞き流しながら、やたらファンシーで物騒なスケッチブックをめくり続ける。
 これによると、どうやら全力で半径5メートルほどの範囲に毒を撒くことができるらしかった。

「5メートルって、これじゃ足りなくないか?」
「ちゃんと見るの! それは最初の方!」
「おお?」

 言われた通りよく見てみたら、記録した日付までちゃんと書いてあった。
 日付どころか天気や気温、湿度まで記録されており、ちょっとした実験記録みたいになっている。
 どうやら幽香にとっては殺人兵器の開発記録も、朝顔の観察日記も同じことのようだった。

「それは前の時のだもん。今はもっとできるもん」
「本当だ」

 最新の記録では、記録は5メートル60センチ。
 3年間の修行で60センチほど射程を延ばしたらしい。
 それが見て取れた。

 だがよく見ると、最後に記録した数字よりも、そのひと月前の記録の方が良い数字を出せている。
 時期的に見てたぶんこれ小槌の影響だろう。
 はからずしてどの程度のブーストがかかっていたのかがわかってしまった。

「がんばったじゃん。すごいぞメディスン」
「うん! ゆーかも手伝ってくれたんだよ」
「そっかー、良かったな」
「うん!」

 元気に返事をするメディスンであったが、私はこれからこの子の顔を絶望に染めなければならない。
 慰霊碑のところで幽香がこの子に会って欲しいと言ったのも、これを望んでの事だろう。
 そしてまた私は嫌われるんだ。
 覚悟はいいか? 私はできてる。

「これで世界中を覆うつもりなのか?」
「そうよ! この調子ならすぐよ!」
「そっかー、高さは?」
「何の?」
「毒ガスの高さ、地上何メートルまで覆うんだ?」
「……」
「……メディスン?」
「……10メートル!」
「そっか」

 どうやら今決めたらしかったが、まあいい。
 うん、材料はそろった。

「これ書いていい?」
「うん? いいよー」
「あんがと」

 スケッチブックとクレヨンを借り、一番減っていなかったピンク色の物を手に取る。
 そしてスケッチブックの真新しいページを開いて、カリカリと数字を書き始めた。

「えーと、記録を始めた段階で半径5メートル、高さ4メートル60センチのドーム状で、現在が半径、あー全部メートルでいいか」
「うん? うんそうだよ」
「球冠の体積だから4/5πrh^2だろ? だーかーらー、約266立方メートルか、そんで、現在がー」
「……何書いてるの、これ」
「336立方メートルか、差分は72立方メートルか、大したもんだな」
「う、うん? うん?」
「んで目標値が地球の表面に10メートルの厚さだろ? 地球が半径6371キロメートルだからー」

 誤差の範囲みたいな高さ差分を取りつつ、地球全土を覆うのに必要になる毒ガスの量を算出する。
 当然ながら、本当にこの方法で人類を絶滅させられるかなんてわからないし、海まで覆う必要があるかどうかも、10メートルで足りるかどうかもわからない。
 いっそ土壌や海洋を狙って汚染して一次産業を破壊する方が良いかもしれないんじゃないかとも思うが、それだって憶測だ。
 何の根拠も、データも無い。
 ならばそんなことを主張したって水掛け論だ、意味がない。
 だが、せっかくこうやってデータまで集めてくれたんだ。
 ここからやるのが礼儀ってもんだろ。

 地球の半径を少なめに見積もって約6300000メートルとして、半径6300010メートルの球体の体積から半径6300000メートルの球体の体積を引けばいい。
 身の上心配あるあるある。
 4/3πr^3なので、もうめんどくせーから円周率は3でいいや、4/3の分母と相殺できるしちょうどいい、ゆとり仕様だ。
 差は少なくなる方向にずれるはずだから問題あるまい。
 端数は度外視していいとして……、えーっと。

「4760兆立方メートルだな」
「……え?」
「このまま修行を続けて、年間72立法メートル毒ガスが増えれば、地球を覆い尽くすのに、えーっと、72で割れば」
「うん」
「ピッタリじゃないが、だいたい66くらいか」
「66年かかるってこと?」
「いや? 違うな」

 不安そうな顔で私とスケッチブックを交互に見やるメディスンだったが、そこに書いてあるピンク色の計算式は、この子には魔方陣か何かにしか見えないだろう。
 幽香ですら半分も理解できないであろうこの数式には、『地球規模で毒殺とかできるわけねーだろ馬鹿が』と書いてあった。

「66兆年だ、まあ、気長にやりな」
「ちょう、ってなに?」
「万と億の次だ、9999億に、1億足すと1兆になる」
「……ろくじゅうろくちょう年」
「がんばれ」

 天体の寿命どころか宇宙が余裕で終焉を迎えそうなほどの年月がかかるが、なあに、継続は力なり、諦めずに続ければきっと夢は叶うさ。
 あくまでこれは体積だけで、どうやって均一に広げるかとかも考えなければならないが、そんなのはまず量のメドが立ってからでいいだろう。
 それでも無間地獄の刑期と比べれば大したことは無い、向こうは349京年だ、一万分の一以下だな。

 実際の所これは1度に地球を覆えるほどに成長するのにかかる時間なのであって、5割の力でも北極と南極で2回ガスを使えばいけるのかもな。
 気付いて指摘してきたらまた考えよう、移動手段どうすんのとか。
 それでも33兆年かかるぞとか。

「こ、これ間違ってないの?」
「そう思うんなら自分で計算してみな」
「わかんないもん」
「幽香がいんだろ」
「ゆーかぁ」
「え? 私?」

 半泣きで見上げてくる我が子に見つめられ、幽香が困ったように頬を掻く。
 幽香も理系ではあるが分野が違う。
 生物とか化学とかそっち系は詳しいんだけどな。

「今度図書館にでも連れてってもらえよ、体積の求め方くらいすぐ見つかるぞ」
「……うん」
「幽香も式はともかくやろうとしてることはわかんだろ」
「まあ、なんとなくはね」

 涙目のメディスン越しに、幽香がスケッチブックを覗き込む。
 こいつなら頭もいいし、参考書の1冊でもあれば確認できるだろ。

「そういう訳だから、頑張りな? 66兆年」
「……できるもん」
「誰もできないなんて言ってねーよ。応援してるぜ? 66兆年」
「ゆーかぁ」
「泣くなよガキんちょが。たぶんあと50億年くらいしたらこの星は太陽に飲み込まれてるだろうけどー。その時人類がどうなってるか知らんけどー」
「ゆーか、ゆーか、こんなにかかんないもんね」
「滅んでるか外宇宙に進出してるかどっちかだろうな。毒ガス届かねえか? まあ、気にするな」

 がんばれ。
 と、突き放すように吐き捨てた。

 言われていることの半分もわかっていないメディスンであったが、馬鹿にされていることはわかったらしい。
 怒ってるような悔やんでるような、恥じているような?
 いろんな感情がブレンドされた敵意の視線が向けられる。
 あどけなさの残る双眸から放たれる意思が、私を貫いていた。

 おお、睨め睨め、嫌え嫌え。
 お前は今、夢を馬鹿にされたんだ。
 だからお前は怒っていい。
 さぁ、私に勝ってみろ。

「できそうにねぇか?」
「できるもん!!」
「ならいい、もしダメそうだと思ったら計画を立て直すんだな。違う方法を考えろ」
「……ぅー」
「生きてる間に終わる奴をな」
「う、うるしゃー!!」
「おっと」

 投げ付けられたカップをキャッチし、あふれ出た紅茶が床に零れる前にカップで受け止める。
 天邪鬼七つ技術その3、落下中の液体をコップでキャッチ術。
 ひと滴も中身を溢すことなく、テーブルにカップを置いた。

「おしまいか?」
「……っ」

 本格的に泣き出しそうなメディスンであったが、風見家の血筋がそれを許さなかったらしい。
 身体から黒色のガスを、おそらく鈴蘭の毒を吹き出しながら私に牙を剥いてきた。

「おお? 逆ギレか小娘」
「できるもん! そんなにかかんないもん!!」
「根拠は?」
「うるさい!」

 放ってきた毒ガスを身をひるがえして避け、座っていた椅子を盾にしてやり過ごす。
 室内に急速に充満していく毒に侵されぬよう、開け放たれていた窓から外に身を躍らせた。

 だいぶ危険なマネをしているにもかかわらず、幽香は我が子の暴走を止めようともしない。
 ただ、嫌に真剣な顔で私の目を覗きこんでくるのが気になった。

「正邪……」
「……?」

 名前を呼んだきり、幽香は黙ってしまう。
 ていうか礼くらい言え。
 まあいい、潮時だ。

「あばよとっつぁん!」
「にどとくるな!!」

 幽香の表情は気になったが、あまりのんびりしていると毒ガスに汚染されてしまう。
 主に幽香が。
 まああいつ強いから少しぐらいなら大丈夫だろうが、一緒に住んでるんだったら慢性的にじわじわ喰らってるかもしれない。
 その辺を考えたらやはり逃げの一択だ。

 有効射程5メートル60センチ。そんなんじゃ私にゃ届かねえ。
 背後から聞こえて来る叫び声をBGMに、私はすたこらさっさと花畑を後にした。

 また嫌われた。
 あんなかわいい子に。





 未来ある幼子を弄んで泣かした翌日、いつものように朝日と共に起きだした私は太陽に向かって全裸での五体投地をもって感謝の意を示していたが、今日は特段何の啓示も受けられなかった。

 朝食を済ませても結局何のインスピレーションも浮かばなかったため、今は雌伏の時なのだと思って家で大人しくしていることにした。
 私の住むこの家はもともと魔法使いが住んでいた家で、あちこち破損している上に天井のでかい穴が修繕中であるものの、雨風しのげて工房まで付いているかなり良質な物件だ。
 どうやら前の持ち主は退治屋らしいのだが、気にすることはあるまい。
 私が彼女にしてやれることは無いに等しいが、せめてその研究成果を無駄にすることなく最大限に利用してやろうと思う。
 それが魔法使い流、もとい妖術使い流の手向けという物だ。

 住居を転々とする宿命を背負った私ではあるのだが、この2LDKにはもう永住するぐらいの気でいる。
 今まで住んでいたどの家よりも住みやすいし、魔法の森内部にあるため妖術の研究をするのにも非常に向いている。
 土壌や瘴気の具合が地底に似ていることもあり、家庭菜園も捗るというおまけ付きだ。

 少なくとも逆さ城とは住みやすさが天と地の差だ、なんといっても向こうは天と地が逆さなのだ。
 内装まで逆にする必要がどこにあるの言うのだろう。
 クソの如く住みづらいあのラピュタ。
 姿勢制御システムを書き換えて正しい位置に戻してやろうかと何度思ったかわからないが、これも異変としてのシンボルだと自分と針妙丸に言い聞かせて我慢して住んでいたものだ。

「……バルス」

 滅びの呪文を呟きながら、読み終わった本をパタリと閉じる。
 もう何度読んだかわからないほどボロボロになった兵法三十六計の現代語訳を棚へとしまい、しおり代わりにしていた写真に目を落とした。
 写真の中では私と、大きめのサイズに変身した針妙丸が逆さ城をバックに並んで立っている。

 射命丸とか言う最速の天狗に撮ってもらったもので、奴は他の誰よりも早く逆さ城にやってきて取材だけして速攻で帰っていきやがった。
 好都合と言えば好都合だったので協力はしたが、正直怖かったので取材は針妙丸に全部対応してもらったのだった。
 だってなんかタダものじゃなさそうだったんだもん。
 針妙丸としか話させなかったのに、帰り際に『十分わかりましたので』とか言ってくるんだもん。
 なにを見透かされたかわかったもんじゃない。

「……」

 写真の中で希望に満ちた笑顔を見せる針妙丸を眺めながら、ソファへと腰を下ろす。
 このソファは粗大ごみの日に捨てられていた物を拾ってきたものだ。
 バネがヘタレて座りにくいが、修理したのでまだまだ使える。
 物は大事に限界まで使うべき。

 そして針妙丸。
 私の仲間。
 私の同志。
 私の相棒。

「会いたいなぁ」

 思わずこぼれた独り言を打ち消すように頭を振る。
 あいつは今安全な所にいるはずだ。
 待遇としては『軟禁』らしいが、博麗神社で八雲の監視下に置かれている以上はそこらでサバイバルするよりよほど安全なはずだ。

 でもなあ、違うよなぁ針妙丸。
 お前は、安全や安心を蹴り飛ばしてまで自由を求めたんだもんなぁ。
 あんな神社、お前には狭すぎるよなぁ。

 今すぐ助けに行きたかった。
 あいつを解放するまでがシナリオに含まれている。
 異変の前、『奪還しに行っても問題ない場所、許されるのなら博麗神社に収容してほしい』と管理者に伝えるよう針妙丸には打ち合わせていた。
 そして八雲はその通りにしてくれた。
 異変は終わり、反逆は終わらず、火種は残り、狂乱が続く。
 それが私の望みであり、私達の望みだ。
 寛大なる管理者はそれを許してくれたのだから、応えなければ嘘というものだ。

 『死んじゃったら遺影にしようね』なんて言ってはしゃいでいた写真をケースにしまい、本棚の隅へと差し込んだ。
 本当なら、今すぐすっ飛んで行って解放してやりたい。
 巫女なんて私にかかれば一発だ。
 お前のためならどうとでもしてやる。

 でもそれも、もう少し。
 もう少しだけ待っててくれ針妙丸。
 全てが過不足なく丸く収まるためには、もう少し時間が必要なんだ。

 あいつも私も待つのは苦手だ。
 このままではむしろ私の方が耐えられないかもしれない。
 それくらい、もう会いたくて会いたくて仕方がなかった。

「……出掛けるか」

 家にいてもしょうがない。
 私は風呂敷を担ぎ、陽の光の下へと歩き出すことにした。
 今日も快晴だ。





「お前何堂々と買い食いとかしてんだよ指名手配犯」
「……」
「おーい、聞いてるー? 言ってる意味わかる?」
「……あ、橙か」
「元気ないぞー! そんなんだから私なんかに背後を取られて致命傷を負わされるんだいやっふー!」
「なんでお前そんなテンション高いの?」
「おいおいどうした世情に疎いよレジスタンス。今日が何の日か知らないの?」

 魔法の森から徒歩30分、今日は草原の近くにあるちょっとした集落に足を運んでいた。
 私が昔住んでいたことがあるところで、妖怪の中でも野生動物を卒業し『食べ物は捕るものではなく買うものである』という認識が定着している連中が多く住まう地域だった。
 バラック小屋を平屋と言い張るその反骨精神は大変に好ましいのだが、山に住んでるようなエリート妖怪様どもと比べるといくぶんランクは落ちるような、そんな小振りな集落だった。

「今日は特に祝日でも記念日でもなかったはずだが」
「かぁー、これだからレジスタンスは! 無知って怖いねー!」
「酒入ってるだろお前」

 あったりまえじゃんと串カツを頬張りながら紙カップのビールを見せつけてくる酔っぱらいは、何を隠そう管理者八雲一家の下っ端その人であった。
 普段ならもうちょっと理知的な言動ができる奴のはずなのだが、誕生日か何かなのか昼っから往来で酒盛りをしているらしかった。

 ここは集落の中でも買い食いのできる商店がいくつも立ち並ぶ区域だ。
 自治体が設置したベンチに座って、近くを流れる小川のせせらぎを聞きながら道往く人を眺められるという趣味のいいスポットでもある。
 この人間顔負けの文明が私には堪らなかった。
 私らだってまだまだ負けてない。

「今日は公務員にボーナスが出る日なのだ!」
「あとは噴水が欲しい所だよな」
「しかも明日休みなのだ!」
「明後日は?」
「仕事だようっせーな!」

 逆切れした橙にゲシゲシと踏まれた。
 いてーだろ何すんだ。

 ムカついたので突き付けてくる串にかぶりついてやった。
 愚かな猫又の声量が3倍に膨れ上がったが、他人のふりをしながらモグモグと見せつけるように咀嚼してやった。
 ていうかこの串カツ思いの外うまい。
 牛串とは贅沢な野郎だ。

「貴様食べ物の恨みは恐ろしいぞ」
「蹴られた恨みも恐ろしいぞ?」
「あ?」
「お?」

 視線で火花を散らす我々であったが、あいにく止めてくれる人がいない。
 しょうがないので私が買った今川焼を1つくれてやることで手打ちとなった。
 針妙丸ー、助けに来てくれー。

「法分堂か」
「なんで無地の包み見ただけでわかるんだよ」
「栗餡ある?」
「買ってねーよ」
「なーんだ」

 文句を言いながらも、橙はクリームの詰まった焼き物を頬張りだす。
 栗餡が御所望だったらしいが、誰が渡すかアホンダラ。
 これだけちょっと高いんだぞ、こいつも知ってるんだろうけど。

「グルメな野郎だ」
「給料のほぼすべてを食費に使ってるからね、エンゲル係数50%超えてる」
「外食ばっかりか? 野菜も食えよ?」
「耳が痛いね」

 4つもあるからなおさらね、なんて言いながら橙は今川焼の包みを握りつぶす。
 そして勢いよく五指を開いたと思ったら、手品のようにゴミが燃え上がり、消し炭ひとつ残さず虚空へと掻き消えてしまった。

「かーっちょいー」
「でしょ?」

 呪文もなしにこれとは、さすがは八雲。不要な物はいつでも排除できるということらしい。
 痕跡ひとつ、残す気は無いらしい。

「……」

 ガタリ。と橙がベンチの背もたれに体重を預ける。
 両肘を背もたれに乗せて天を仰ぐその姿からは、どことなく大物の風格が漂っている。
 これで手にビールを持っていなければなおいいのだが、どうやらすでに勤務時間外らしいのでそこまで求めるのも酷という物だ。
 半分睨むように私を見つめてくる橙に気にしない風を装いつつ、私は新たな今川焼を取り出した。
 栗の奴じゃない、抹茶の奴だ。
 コイツならガワを見ただけで中身を当てかねん。

「それで、その後どうよ。順調か??」

 主語のない質問。
 今川焼を齧りながら、私は橙に投げつけた。

「……順調、順調だよ」
「ほぉう?」

 紙カップを傾けながら、橙が言いにくそうにつぶやいた。
 口では順調と言いながら、あまり順調とは思えなかった。

「漫画でさー」
「ああ?」
「バトル漫画でよくあるじゃん。敵の強さがわかるのも強さのうちだってやつ」
「ああ、あるな」
「ちょうどそんな気分。新しい知識を得れば得るほど、新しい技術を得れば得るほど」
「……」
「差が理解できちゃう」

 とある人物を超えること。
 私の下剋上計画を教えるのと引き換えに教えてもらった猫又の野心。
 誰を何で超えたいのかも聞いたのだが、恥ずかしがって教えてくれなかった。
 こっちは全体の概要から細かい計画まで全部教えてやったのに、向こうはそれだけしか話してくれない。

 だがもちろんそれを卑怯だと罵るような私ではない、ただ静かに淡々と煽りまくった。
 説明できるほどまとまってないのか? って。
 具体案が無くて話す内容がそもそもないのか? って。

 ブチブチ言い訳してて面白かった。
 面白かったので発言をメモに取って読み返してやったら嫌われた。

「そうだおい、ちょっと見ててよ」
「何よ」
「……理解、分解、再構築」
「まるで神にでも祈っているようじゃないか」

 酒の入ったカップを置き、パン、と乾いた音を立てて橙が両手を合わせる。
 人体錬成かシャボンランチャーでもかましてくれんのかと思ったが、開いたその手のひらに収まっていた物はそのどちらでもなかった。
 亀裂。
 両の手のひらによって定義された境界が、手から離れて空間に亀裂を入れていた。

「おお! スキマ空間とかいうやつじゃん! すげぇ!」
「ま、まだまだ」
「2か所同時!? なにこれ繋がってんの?」
「ほれほれトンネルー」
「おおー! とうとう教えてもらったのか」
「いや、盗んだ」
「ヒュー」

 だいだい色した空間越しに橙と目を合わせると、勝ち誇ったような笑みを放ってきた。
 芸術的なまでに殴りたくなるようなツラだ。

「やるじゃねえかよ」
「ふふん、そっちは順調? 下剋上」

 パチンと音を立ててスキマを閉じ、橙は紙カップを傾ける。
 ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールをあおるその姿に、反射的にカップの底を押さえつけてしまった。
 隙だらけなのが悪い。

「まあ、ぼちぼち順調だな」
「ごぶぼぉ!」
「今は待ちだ。もう少しなんだ」
「ゴボッ、ゴゴッ!」

 陸で溺れる愚かな猫又は、何を思ったかビールを飲み干す方向で事態の解決を図ろうとしだした。
 しょうがないので頃合いを見て脇腹をつついて反応を見る。むせにむせる橙の姿は親が見たら泣くほどに不細工であったことを記録しておく。
 猫の醜態、プライスレス。

「ああそっか。あと2、3日ってとこかな?」
「たふんひょんなもんだ」

 顔面に派手な引っ掻き傷を負った私をゴミでも見るような目で見ながら、橙が空になったカップが握りつぶす。
 次はお前がこうなる番だとでも言いたげに、またも顕現された炎によってカップは灰となった。
 酒が入った状態で妖術を使う危険性を知らない訳ではないだろうが、コンディションに影響を受けるような技じゃ持っていても意味がないという腹だろうか。
 あるいは入ったボーナスに浮かれているかだ。

「ここんとこ小槌の影響で暴走した連中の所を回っている」
「……」
「予想していた以上の成果だった」
「……ふーん」

 幻想郷のあちこちで巻き起こった狂乱。
 派手な異変の裏側で起きた本命の勝負手。
 逆らうことを知らない弱小妖怪達に、『やむを得ない事情』をプレゼントしてやった。
 史実には残らないほど小さな同時多発下剋上は、確かに格上の妖怪たちを牽制した。
 ある者は誰彼かまわず襲い掛かり、ある者は親に反抗し、ある者はカツアゲを跳ね除けて大立ち回りをしたそうな。

「おまけに当人の責任じゃない」
「大変だったんだぞ新聞読めないお馬鹿さんたちにそれ説明して回るの」
「ありがとうございます」
「ふふん」

 普段格下をいじめてまわっている不良共も、獲物の予想外の抵抗に驚いたことだろう。
 だからって逆ギレされても困るので、ちゃんと全部私のせいってことにしてもらっていた。

 あとは簡単だ。
 体験版の下剋上を味わった連中に、『やってみてどうだった?』って聞くだけだ。
 『思ってたより簡単だった』がほとんどの奴の感想だった。
 切っ掛けがありさえすれば誰だってできるもんだ。

 ならば次は自力でやってみるといい。
 そしたらもう、そいつは二度と泣き寝入りをしなくなるだろう。
 案ずるより産むが安し。
 誰かに逆らうってのは、想像するよりずっとローリスクなのだから。

「妖怪ってのは不思議なもんだ。下向くのを止めると今度は上を見始める」
「欲が出て来るんだよね、私もそうだった。安全欲求が満たされたら次は社会欲求なのだよ」
「ああ、欲求階層を階段みたいに登って行くところを間近で見れた。興味深かったよ」
「いいなそれ私もちょっと見てみたい」
「悪趣味な奴め」

 お前に言われたくねーよと頭をひっぱたいてくる橙にムカついたが、新聞を読めないお馬鹿さんたちに諸々説明してくれていたらしいので許してやることにした。

「そんでまた嫌われまくってるんでしょ」
「私嫌われるようなことしてないのになぁ」
「そうだね、ほんとそう」

 そして今度はそいつらを挑発して回った。
 狼女にしたような安い挑発じゃない、格式高い挑発だ。
 昨日付喪神にしたように、メディスンにしたように。

 社会欲求を満たして承認欲求へ、あるいは飛び級で自己実現の欲求へ。
 誰にも強制されていない自分だけの望みを燃料に、一個の人格が天を見上げて羽を広げる。
 その煌びやかな瞳に映る淡い幻影はそれはそれは美しいものだったが、残念ながらどいつもこいつもそれに肉付けする方法を知ろうともしない。
 想うだけなら簡単だ。ただ寝る前に布団なのかで妄想にふけっていればいい。

 だがそうじゃない。
 叶えなきゃ。

 そうだろ? と、延々説いて回った。
 どうやってやる気だとか、準備は何が必要なんだとか、期間は何年かかる予測なんだとか。
 その根拠は何だとかを、ひたすら尋ねまくった。

 その結果がこれだ。
 あらゆる人から嫌われた。

「何年前だったか、私も最初はお前を嫌ったもんだよ」
「ひでぇ野郎だ」
「でももう平気だよ」
「……」

 わしゃわしゃと頭を撫でつけてくる橙に良いようにさせながら、私は袋から新たな今川焼を取り出した。
 白餡の奴だ。

「今はもう、全然平気」
「そっか」

 私の目を臆することなく見つめてくるその瞳には、猫らしい細くなった瞳孔が写っていた。
 全然平気と言われるのもそれはそれで寂しい気もするが、そもそも私はなにも恐れられるようなことはしていない。
 だからまあ、仕方ないのだろう。

「そらぁ、ちゃんと言動が一致してる奴からしたら、私なんていてもいなくても一緒だしなぁ」
「きはははは、負ける気がしないね」
「はいはいよかったな」

 私の髪を乱れさせるその手がますます勢いを増して来るが、私が無視して今川焼を齧っているうちにふとその手が止まった。
 手は止めたくせに離そうとはしない橙を不思議に思っていると、何やら真顔で今川焼の袋を眺め始めた。
 何だ、やらねーぞ。

「法分堂の大判焼きのうち、持ち帰りできるのは5種」
「……あ」

 やべ。

「見かけた時には小倉食べてたよね。さっきクリームもらって、そのあと抹茶と白餡、そのうえであと1つ袋に入ってる音がする」
「小倉2つ買ったんだよ」
「せいや」

 パン、と神にでも祈るように橙が手を合わせる。
 危機を感じた私は慌ててその場から離れようとしたが、国家錬金術師の方が速かった。

 橙が明後日の方向、それこそ何もない空間に手を突っ込むと、同時に私の持っている紙袋の中からガサガサという何かを探る音が聞こえてきた。
 とっさにその袋ごと中身を掴む。
 その感触からして、明らかに誰かの手であった。
 中で潰れないか心配している余裕はない、うかうかしてたら捕られてしまう。

「離せこのやろうこれは私のだ!」
「なーんだ、さっき栗餡買ってないとか言ってたのは嘘かよ。傷ついちゃったなー」
「ざけんなタコ! なんつー洞察力だ! さっきクリームやっただろ!」
「栗餡がよかったのー」
「お前自分で買えよボーナス出たんだろ!?」

 君のような勘のいいガキは嫌いだよ。
 探偵顔負けの無駄な推理力を披露してくるこのメス猫の魔の手から、なんとかしておやつを守らねば。
 この状態でなんとか中身だけ救出できないものかと格闘するが、掴み方が悪かったのかまず橙が手を離さないとどうにもならなそうだった。
 もう引き抜くタイミングのギリギリを捉えていたようだ。

「……わかったわかった取んないから離してよ」
「本当だな」
「ホントホント、ちょとからかいたかっただけだよ」
「本当だな?」
「本当だってばしつこいよ」
「お前これで嘘だったら割と真面目にお前のこと嫌いになるぞ」
「はいはい、早く離すの」

 袋を破いて取り出せないかとも思ったが、橙に握り込まれていたらどうしようもないし、埒が明かないので仕方なく手を離すことにした。
 お前ホント返せよ? たった1つの栗餡なんだ。

「ガブ」
「持っていかれた!」
「やっぱこれが一番おいしいね」
「私は楽しみは最後にとって置くタイプなんだよ!」
「半分食べる?」
「ぶっ飛ばされてーのかてめーは!!」

 私のコンビネーションブローを軽々と捌きながら、今川焼を咥えたドラ猫が往来を飛び跳ねる。
 堪らず立ち上がって追いかけようとしたが、1瞬の内に致命的なほどに距離を取られていた。
 意味わかんねえ速度で空中を飛び跳ね、さらばだ明智君と捨て台詞を残して橙はそのまま彼方へと飛んで行ってしまう。
 跳躍力もこちらの死角を捉え続ける精度も、信じがたいほど高い水準だった。
 だいぶ余力を残してそうな感じなのに、この私をもってしても動きを捉えられないほどだ。
 ビール溢して胸元びしょびしょのくせに。

「なぜこんなところで本気を出すんだあいつは」

 残された私は窃盗の被害届を出そうかどうしようか迷いながら、再びベンチへと腰を下ろした。
 もう、酔っぱらいに絡まれたと思って諦めることにしよう。

 今日は別に誰かに嫌われはしなかったが、むしろ私が嫌いになった。





 青天の空は今日も暖かな日差しを惜しげもなく私に恵んでくれており、付近を流れる小川はさらさらとした涼しげな空気を私に届けてくれる。
 5つの今川焼の内2つ、全体の実に40%を八雲に徴税され、私は放心状態のままベンチに体重を預けていた。
 私、あいつ、嫌い。

「……」

 ふと思い立ち、空になった紙袋を広げてみた。
 案外橙が中に何かメモとか入れてたりしないだろうかと思ったのだが、特段変わったところは見受けられない。
 あの野郎はただ食い意地が張っていただけだった。

「アホらし」

 ゴミをクシャクシャに丸め、近くにあったくずカゴへスリーポイントシュート。
 見事に得点を決めた。
 天邪鬼七つ技術その4、丸めたゴミをくずカゴにシュート術。
 今日も技のキレは鈍っていないようだ。

 そうだ。ゴミで思い出したが、昨日の付喪神はどうなっただろうか。
 ちゃんと調べものしてるだろうか、しっかり計画を立てているだろうか。
 どんなに稚拙だっていい、ゴールまで決めてから始めるんだ。
 設計図なしじゃあ、日曜大工ひとつまともにできはしないのだから。

 案外近くに居ないかなー、なんて周りを見回してみる。
 しかしそう都合よく行くはずもなく、目に映るのはそこらを走り回ってる躾のなってないガキと、買い食い中のカップルばっかりであった。
 知ってる顔もちらほらいたが、そいつらは私と目が合うと軒並み引き攣ったような顔を浮かべてそそくさと逃げ出してしまう。

 そいつらの大半が私の異変で暴走した弱小階級のやつらで、その後に私が直々に挑発して回った連中であった。
 せっかく応援したのに、せっかく賛同したのに、せっかく種をまいたのに、結局行動に移さないで腐り落ちた連中であった。
 なんだよ、橙や幽香みたいにちゃんとやればいいだけなのに。
 みんなして私を嫌うんだから。

「……」

 ここにいてもしょうがない。
 昨日の切り株の所にでも行ってみることにしよう。

 さすがにあの付喪神はいないだろうが、というかいるようじゃ困るが、他に似たような境遇の妖怪がいるかもしれない。
 そしたらまた、同じように応援してやろう。
 うまくいけば行き当たりばったりをやめて、ちゃんと準備をするようになるかもしれない。
 さらにうまくいけば、下剋上にも開眼するかもしれない。

 どんなにしっかり下調べしたって、どんなに十全に準備をしたって、実際に活動しようとしたらほぼ確実に何かしらの壁にぶつかる。
 橙だって業務上格上とぶつかる機会も多いだろう、幽香だって外敵はそういないだろうが、花の病気が流行って花畑が閉鎖の憂き目にあったこともある。
 針妙丸だって出征する時には一族から止められまくったし、挑戦者の敵はいつだって部外者だとかほざいていた奴もいた。

 別に相手が意思を持った誰かだとは限らない。
 時にそれは風土だったり、世間だったり、制度だったり。
 たとえ相手が誰であろうと、たとえ相手が何であろうと、引くことを知らずに立ち向かう。
 それこそが、私が自信を持ってお勧めする下剋上の精神であった。

「お前を嫁に……、もらう前に……、言っておきたい……、事がある……っ」
「……」

 昨日赴いた巨大な切り株。
 その縁に腰かけ、流しのストリートミュージシャンの如く弾き語りでさだまさしの関白宣言を歌うのは、昨日種をまいたはずの琴の付喪神であった。
 なんでだよ。
 なんでまだこんなところで油を売ってるんだよ。

 情報収集からアイドルに成るまでのサクセスストーリーを1日で組み立てられるわけないだろうが。
 なのになんでまた同じことを繰り返してるんだ。
 言われたことが理解できなかったのか、それとも信じてもらえなかったのか。

 そうか、お前もそうなのか。
 クソ下らない腐った下種なのか。
 やるべきこともやらないで結果も出せず、愚痴だけ垂れてる凡夫に成り下がるのか。

「忘れてーくれるなー、俺の愛する女はー、あーいーするー女はー、生涯お前、たーだひぃーとりぃー……」
「……」

 そもそも一体全体まずどうやってその外の世界の曲を知ったのかは知らない、どうでもいい。

 ギターと琴では音の出し方も全く違うだろうに、楽譜もなしで完璧にコードを再現するそのセンス。
 目の前に私がいることにも気付かず、夢中になって演奏に没頭するその集中力。
 弾き語りという両手と口で異なる作業を同時に行う、言うは易く行うは難しな高等技術を難なくこなすその並列思考。

 せっかくのその才能が、無駄になっていく。
 様々な事情に翻弄され、そこにすらたどり着かずに散っていった奴が何人いると思っている。
 そんな行き当たりばったりじゃあ、地底の連中と同レベルじゃないか。

 肥料だ。
 肥料が必要だ。

 集中しろ天邪鬼。
 この才能あふれる愚か者に、今一度挑発を。
 ここで枯らせてたまるものか。

「よう」
「……あ! あんたは昨日の変態妖怪! ちょっと、隣の席ってあんたなの!?」
「お前みたいな転校生は知らねえ」
「よく今ので的確にツッコミ入れられたわね。やるじゃない!」
「むしろお前はなんでそんな漫画の王道テンプレ知ってんだよ」
「塵塚怪王様から教わったわ。知ってる? 怪王様」
「聞いたことくらいならな」

「ふーん? っていうかよく見たらその顔どうしたの? すんげー怪我してるよ」
「ちょっといろいろあってな」
「……そう? 喧嘩はダメよ?」

 演奏を終えて余韻に浸る付喪神に、パチパチと拍手をしながら声をかけた。
 私が勝手に想像していた人物像とはだいぶ離れていそうな塵塚怪王はさておき、私はすぐにでも本題に入りたかった。
 言うべき台詞は決まっている。

「それで、その後どうよ。順調か??」
「……」

 少しでも悔しがるような、そんなリアクションを期待して。

「うーん、なんかねー。やっぱ難しいわー」
「そうか、どう難しかった?」
「そうねー」

 付喪神は琴を脇に退けると、切り株の上で足を組む。
 生足を見せつけるような扇情的な仕草だったが、本人は自然体でやっているようだった。
 所作だけはもう1流のアイドルか。

「とりあえずもう隠す気ないけど文字読めないのよ」
「ああ、気にするな。たいていの奴は数字と自分の名前しか読めない」
「でしょ? だから図書館の人に聞いてそれっぽい本探してもらったのよ」
「……え? 探したのか?」
「そうよー、そんで弁々姉さんに読んでもらおうと思ったんだけど……」

 一応、あれから調べ物はしたらしい。
 誰かの伝記とか、アーティストの自伝みたいなものだったら、きっと参考になるだろう。
 まさかその日のうちに動くとは思わなかったが、私が幽香の家で天使を泣かせている間にこいつはすでに行動を始めていたってことか。
 あれ? なんだ、やってるんじゃないか。

「姉さんも読めねえでやんの」
「そっか」
「しょーが無いからそっからはもう足よ足、足使って人に聞きまくるしかなかったわ。見てよこの美脚を、カチンコチンよ」

 言われて見てみれば、美脚かどうかはともかく、確かにだいぶ筋肉が固くなってしまっているようだった。
 履いているサンダルも大分汚れており、付着している土の種類が多岐にわたっていることから、かなり広範囲にまで足を延ばしたのであろうことが伺えた。
 さすがに、どれがどこの土なのかまではわからなかったが。

「いつまで見てんのよエッチ」
「……」
「まあいいわ、あんたが言ってたみたいに先人に聞こうと思って探したのよ、鳥獣伎楽を。知ってる? 鳥獣伎楽って」
「知ってる。見つかったか?」
「ぜーんぜん。もうマジでどこにいるのよ、山かしら。あんまり瘴気濃いとこには行きたくないし、お肌に悪いし」
「……」
「でもね! 鳥獣伎楽ってファンクラブみたいなのがあるのよ。知ってた?」
「いや、それは知らなかった」
「あるのよファンクラブが。やっぱすごいわねー、私のファンクラブができたらあんたを1番にしてあげるわ」
「……非公式のファンクラブだったら、中身に関してたぶんお前本人は干渉できないだろ」
「私がお願いしたら許してくれるわよ。なんせ私のファンなんだし」
「そうかもな」

 付喪神は私から目を逸らさない。
 その輝く瞳を逸らさないでいてくれる。
 逸らす理由など、1つも無いようだった。

「だからさ、そのファンクラブの人に聞いたのよ。あの人たちの居場所を」
「なんつってたんだ?」
「そしたらなに勘違いしたのか現実と願望がどうだとか上から目線で説教してきやがって、なんなのよあの狼男!!」

 話しているうちに嫌なことでも思い出したのか、付喪神が切り株に拳を打ち付ける。
 手ぇ、怪我しないようにな。

「私はファンじゃない、アイドルの卵だって言っても信じないし。ほんと思い込みで話進めんじゃないわよ!」
「信じてもらえないってつらいよなぁ」
「そうなのよね、あんたもわかる? やっぱねー、男って馬鹿よね。話にならないわ」
「ああまったくだな。男ってのはバカばっかりだ」
「でしょー? そんなこと話してたらそいつ奥さんに耳ひっぱられてどっかに連れてかれちゃうし、ざまあないわ」
「……そんで? その後どうしたんだ?」
「その後? その狼男がこの紙落してってさー、たぶんこれライブのチラシよね」
「見してみ」

 そのチラシを読んでみると、確かに鳥獣伎楽のライブの開催を宣伝するチラシであった。
 日付は3日後、この切り株で日没から行うらしかった。

「なんかねー、ホントは2週間くらい前にライブやるはずだったんだけど、プロデューサーの都合で伸びたんだって」
「そうなん?」
「狼男が言ってたわ。そこに写ってるのこの切り株よね、前にもここでやってたし」
「そうだな、たぶんここだろう」
「だからここで待てったら下見に来るかなって。ほらそこの看板にも同じ写真が写ってるし、そうじゃなくても誰かしらこれ読める人来ないかなーってさ、あんた読める?」
「ああ、3日後の日没にここでライブやるとさ」
「あ、やっぱり? さんきゅー助かったわ。待ってればきっと会えるわよね、聞きたいこと今のうちにまとめておかなきゃ」
「……」

 言われて横を覗いてみれば、切り株の脇にチラシと同じ内容の看板が出ていた。
 言われるまで気づかないとは不覚だった。昨日の段階ではたぶん無かったはずだ。

「そっか、お前ちゃんとやることやってんだな。偉いよ」
「……正直ね、昨日は何偉そうなこと言ってんだこの妖怪野郎とか思ってたんだけどさ。あ、怒っちゃやーよ」
「おう」
「いざ調べもの始めてみたら私って知らないことだらけだったってわかってさ、こんなんでデビューとかできる訳ないじゃん」
「でも今は違う」
「そう! なんか目が覚めた気分よ。知ってる? 楽譜ってのはね、目の前のオンプ1つを追いかけてたんじゃダメなのよ」
「……そうなのか?」
「そうよ、まず通しで曲全部を把握しないといけないの。弾き始めるのはそれからなのよね、そういうことでしょ?」
「……」
「ねえちょっと」
「……」

 なんだよ、馬鹿なりにちゃんとやることやってんじゃねえか。
 何が肥料だ、必要ねえじゃねえかそんなもの。
 こいつはちゃんと、こいつなりの哲学を以って物事にあたってたじゃないか。
 それを私は、勝手に決めつけて。
 恥を知れ。

「……あんたどうしたのよ」
「なんでもねぇよ」
「そ、そう?」
「何聞くんだよ」
「え?」
「連中に会ったら何聞くんだ?」
「う、うーんとね」

 付喪神に問いながら、私はポケットから手帳を取り出した。
 お前が読めないんなら私が読んでやるし、お前が書けないんなら私が書いてやるさ。

「まずはそーね、上達のコツとか」
「ああ」
「あとはそーねー」

 さらさらとよどみなく出てくるその質問の洪水を決して取りこぼさぬよう、私は手帳にペンを走らせる。
 天邪鬼七つ技術その5、速記術。
 私がその気になれば、しゃべるより早く文字を書くことも可能なのだ。

 いくつもいくつもあふれ出てくる疑問の山、的確そうな質問から意味不明なものまで、玉石混交の弾丸をマガジンのようにリスト化してやった。
 これだけあれば、きっと的を射ることができるだろう。

「まあ、そんなとこね」
「わかった」
「後は何かあるかなー」
「……」

 速記で書いた手帳のバインダーを外し、札束みたいになっているメモの束を渡した、
 これにはきっと、同じ枚数の万札よりも価値があるはずだ。

「……きったない字ね。私じゃなくても読めないわよ」
「速記って言うんだ覚えておけ」
「速記? これが? へー」

 どうやら辞書的な意味での速記は知っているらしい。
 さすがは付喪神、紙の上の知識だけは豊富だ。

「どっちにしても読めないんだけど」
「心配すんな。ミスティアが読める」
「え? 知り合いなの?」
「まあな」

 付喪神の隣に腰かけながら、手帳をポケットにしまう。
 物欲しそうな目でこちらを見つめる付喪神からは、カモがネギ背負っているのを見つけた狩人のような光が放たれていた。
 うまいこと私をそそのかしてミスティアに紹介してもらおうという腹だろう。
 いいなぁ、好きだよその貪欲っぷり。

「そ、そういえばさ」
「あん?」
「そっちはどうなのよ。あんたもアイドル目指すんでしょ?」
「え? あ、ああ。諦めた」
「諦めたんかい!」

 往年の漫才師の如くクラシックなツッコミを入れられたが、私としてもそんな設定すっかり忘れていた。
 そういやそんなこと言ってたな、私。
 というかまさか本気にしたのかこいつ。

「なんか思ったより大変そうだし、めんどくなった」
「あ、あんたねぇ。そんな根性でアイドル目指すとか軽々しく言うんじゃないわよ!」
「そんな根性じゃ無理か?」
「当たり前でしょ!」
「でもお前は違う」
「とっ、当然よ。私は違うわ」
「ならいいんだ」
「……?」

 無い胸を張る付喪神だったが、その視線が一気に訝しげなものへと変わる。
 ミスティアとのパイプが本当かどうか疑っているのかもしれない。
 その疑いはもっともだが、ワンテンポ遅いと思った。

「ねえあんた。アイドルはともかく、他に何かやってるんでしょうね」
「ん? 何が?」
「他人にあんだけ偉そうに説教垂れといて、自分は口だけとは言わせないわよ?」
「ああ、そっちか」

 なんだ、ミスティアの方じゃなかったか。
 まあいいさ、そろそろ正体を明かす時だ。

「もちろんあるとも」
「ほほう?」
「人生を賭けてでも叶えたい夢ってやつがな」
「聞かせてもらいましょーか? 漫画家? 学校の先生?」
「そうだな、私の夢は……」

 腕を組んで上から目線で聞いてくる付喪神に、私は努めてなんでもない風に答えた。
 気取らず、構えず、真正直に。
 私の望みは漢字3文字で表せる。

「下剋上」

 その言葉を聞いた瞬間、付喪神から表情が消えた。
 この幻想郷で将来の夢を聞かれてこう答える人物はたったの2人。
 そしてそのうち1人は、軟禁中だ。

「あ、あんた、まさかあんた。名前なんだったっけ?」
「鬼人正邪」
「……うっわ」

 猫の人が言ってたテロリストだー、と琴を抱えて逃走の態勢に入る付喪神であったが、私はあえて何もしなかった。
 テロリストじゃなくてレジスタンスだ、とも言わなかった。
 彼女の反応は、いたって正常なものだったからだ。

 あと橙の仕事は確かだったようだ。
 さすがは八雲、頼りになる。

「……本物?」
「偽物に見えるかぁ?」
「指名手配犯がなんでそんな悠長にしてるのよ」
「誰も本気で追ってこないからさ」
「そ、そう? 私仲間だと思われてない?」
「誰に?」
「だ、誰かによ。とんだスキャンダルよ、アイドル生命の危機よ、テロリストとつるんでるとか言われたらー」

 なってもいないアイドル生命を気にする付喪神。
 大丈夫だよその指名手配だってほぼ冗談だし。
 八雲様の小粋な管理者ジョークだし。
 あ、そうか文字読めないから懸賞金3000万ベリーっていうネタがわからないのか。
 いやまて、あの手配書には私の顔が写っていたはずだ、未来の海賊王みたいな歯切れのいい笑顔ではないが、ぱっと見て私とわかる物だったと思う。
 実物を見てもわからないものなのだろうか。
 それとも記憶力が無いのか。

「ああ、お父さんお母さん姉さん雷鼓の姉御に塵塚怪王様、そして全国の琴メーカーの皆様、八橋は屈しません。テロの片棒など担ぐくらいならこの憑代を叩き割って見せまする」
「いやそこまでも覚悟を見せられても」
「私はテロには屈しないわよ!」
「人をなんだと思ってんだぁ?」
「あのね? 悪いことしたらそれだけで信用を失うの。今まで積み上げてきたものがパーなの。だからやっちゃいけないって言われるのよ」
「あ、はい」

 下剋上の方ならともかく、レジスタンスは現在募集していない。
 何が無くとも針妙丸奪還が先だし、正直今それどころじゃないし。

「あんたもね、早く自首して更生しなさいよ。いなかのおっかさんも泣いてるわよ?」
「考えとくよ」
「ふふん」

 鼻を鳴らす付喪神に呆れつつ、私は改めてため息を付いた。
 ……いや? あれ?
 なんだ、今なんか、コイツ変なこと言わなかったか?

「おい、お前今なんて言った?」
「え? そ、そこでキレちゃう? 私別に間違ったこと言ってないわよ」
「そこじゃねえもっと前だ。お父さんお母さんのラインナップに誰がいた」
「え? えーっと、なんて言ったかしら、お父さん、お母さん、姉さん、雷鼓さん、塵塚……」
「いやちょっと待て!!」

 飛び上がるように驚く付喪神に詰め寄るように、その肩を掴んでこちらを向かせた。
 取って食われる前の人間のような表情を向けられるが、今はそれどころじゃない。
 確認しなければならない事がある。

「ライコさん、って堀川雷鼓か」
「あ、やっぱ有名なんだね雷鼓の姉御。でもテロリストと通じるような人じゃないわよ」
「……お前もしかして、私の異変で生まれた付喪神か?」

 堀川雷鼓。
 幻想郷で最も異質な付喪神。
 生後3日で自身の現状に気付き、1週間と経たず解決策を見出し、管理者と話を付けて外の世界へのチケットを手に入れ、不完全な憑代を捨てて新たな魔力の供給元を模索するという何の保証も無い博打に生身で挑み、見事それを成し遂げて幻想郷へ凱旋したという。
 会ったことこそないのだが、その経歴は異常の一言。
 私の異変が生んだ奇跡の産物だ。

 そして堀川雷鼓の最も特徴的な点は、自らが行ったその技法を他の付喪神にも喜んで分け与えるそのメンタルであった。
 知識ばかりで経験の乏しい身の程知らずの耳年増。
 それが付喪神というものハズなのだが、そいつからはもうそこらの妖怪すら凌駕する傑物の気配が感じられた。
 会ったことこそ、ないけども。

 そして、そんな堀川雷鼓が両親や姉、ひいては塵塚怪王と同列に扱われているということは、相応に世話になったということだろう。

「えっと、あなたの異変ってあれよね、弱小妖怪が暴走したり、半成りの付喪神がぽこぽこ生まれた奴」
「そうだ、それ……、『ぽこぽこ生まれた』?」
「それよ、私も姐さんもそれくらいに生まれたし、結構数いたわよ」
「そうなのか? 全然見かけなくて探してたんだ」
「増えた分減ったからね、自然って怖いわ」

 ずっと気になっていた。
 気になって気になって仕方がなかった。
 もしそいつが予想通りの奴なら、もし、私の予想通りに憤っていたら。
 そんな博打は犯せないとか、成功する保証はないんだろとか、数多の付喪神に拒絶され続けていたら。

 もしそうなら、私の仲間に誘いたい。
 私の種まきノウハウをくれてやりたい。
 そう思っていた。

 『その気にさせる』。
 この技術なら、私は幻想郷トップクラスだ。

「どこにいる」
「し、知らないわ」
「……? 口止めされてんのか?」
「何のことやら」
「……」

 私の中の堀川雷鼓像に、用心深いという項目が追加された。
 ますます気になる。

「わかった、いいや」
「……そ、そう? ホントに知らないのよ? 後つけちゃやーよ?」
「しないよ。ところでさ」
「な、なによ」
「お前も堀川雷鼓に生き残る術を聞いたのか?」
「……あー、えーっとね」

 付喪神が私から目を逸らす。
 今はただ、自分の察しの良さが恨めしかった。

「やってねえのか」
「……まあ、その、ね?」
「そうか、いいこと教えてやる」

 私は付喪神のあごを掴み、無理割り目を合わさせた。
 抵抗してくるが、そんな細腕じゃ妖怪の力にかなう訳がない。

 私たちの異変、小槌の力をばら撒いて弱小妖怪の力と格の水増しを図った。
 同時に、私も予想していなかった更なる副産物として、不十分な状態での付喪神が発生してしまっていた。

 本来だったら100年近くかけて瘴気を蓄えていくところを、小槌の魔力が急速に充填されてしまったのだ。
 そのせいで、70年程度の物体ですら付喪神として顕現されてしまっている。
 言うならば付喪神の未熟児。
 さらに悪いことに、小槌の魔力が回収期にある今、無理やり貸し付けていた魔力が各地で差し押さえられてしまっている。

 これがただの妖怪なら元通り大人しくなるだけで済むのだが、付喪神はそうはいかない。
 それこそ堀川雷鼓のように何らかの形で必要分の魔力を蓄えられなければ、ガス欠を起こして消えてしまうことだろう。

「タイムリミットはあと3日だ」
「……」
「それですべての魔力は回収しつくされる」
「……」
「こんなところで油売ってないで、先にそっちを何とかするんだ」
「……」

 なんだよ、せっかく生まれて来たってのに、せっかくこの私に出会えたというのに。
 このまま消えるなんて許さねぇぞ。
 せっかく生まれた芽を、枯らしてなるものか。

 それなのに。

「簡単に言わないでよ」

 驚くほど冷たい口調で付喪神が私を押しのける。
 その口調で、私は状況を悟った。

 そうか堀川雷鼓。
 お前、失敗したのか。

「これはね、この琴はね、私そのものなの。妖怪さんにはわからないかもしれないけどさ」
「……死んじまうぞ」
「これさ、ここ見てよ」

 そう言って付喪神は、自分そのものだと言い切った琴を持ち上げた。
 ひっくり返されたその琴の裏側には、かすれたような文字で昭和二十年製造と書かれている。
 東京大空襲と原爆投下のまさにその年、世界大戦真っ只中の日本でこの琴は作られたらしかった。

「70年くらい前らしいのよ、そう書いてあるんでしょ?」
「……そうだな」
「だからさ、あと30年くらいしたら、また生まれるかなって」
「……前例は?」
「あるわけないでしょ」
「それは『お前』なのか?」
「聞かないでよ」

 命か、アイデンティティか。
 もし私がそれを迫られたら、迷わず後者を取るだろう。

「どうする気だ」
「どうもこうもないでしょ。消える前に1回くらいライブとかやりたかったんだけど、贅沢は言えないわ」
「姉は? お前のお姉ちゃんとやらはどうしてる」
「さぁ、家で震えてるんじゃない? 雷鼓さんに会ってからずっとそうだし」
「そっちの方が正常だ。なんでお前は震えていない」
「……なんでだろうね。震えてるお姉ちゃん見てこんな風になるのはやだなって思ってさ、どうせだから短い生を謳歌したいなーって」
「それでアイドルか」

 妙に、生き急いだ奴だとは思っていた。
 寝てる妖怪蹴っ飛ばしたり、私に会ったその日のうちに行動を起こしたり。
 そういうことだったのか。
 お前、後がなかったのか。

「何で言ってくんなかったんだよ」
「……言ったらどうだったってのよ」
「なんだってしてやったよ!」
「あんたが気にすることじゃないわよ。舐めないでちょうだい」
「……、そうだな」

「そもそも生まれないはずだったのに、ちょっとの間だけでも楽しめたわ」
「どうすりゃいい。魔力さえありゃいいのか? 妖力でもいいか?」
「あー、なんか雷鼓さんが言うにはなんでもいいから供給『され続ける』必要があるんだって、一旦満たしちゃえばいいような気もするのにね、変よね」
「……なんで生まれたての付喪神がそんなことまで知っている。そんな短期間で自力でたどり着けるものなのか? もしくは稀に見る天才なのか?」
「天才? 天才って感じじゃなかったわ、理知的ではあったけど、才女って感じ」
「そうか」

 つまり誰かに入れ知恵されたか。
 いや、そんな事はいい、後回しだ。
 今はコイツを何とかしなければ。
 どうしたらいい。供給し続ける、私がやるか?

 コイツの持ち主として、全面的に世話をする。
 そこまでの責任をこの私が負えるのか。
 金の心配はないが、活動の邪魔にならないだろうか。
 いやだめだ、コイツがレジスタンスの片棒を担ぐことはない。
 さっき、そう言ってたじゃないか。

「何考えてるか知らないけど、気にしなくていいのよ?」
「諦めるには早すぎるだろぉ」
「いいってば、最後の日に派手に演奏するからさ。あんたが聞きに来てくれれば私は満足よ、このライブは見れなさそうなのが残念だけど」

 そう言って付喪神はライブのチラシを取り出した。
 チラシの中でポーズを決めるミスティアと誰かの笑顔が、やたら厭味ったらしく見えた。
 駄目なのか。
 手段さえあれば、それでいいってわけでもない。
 誰かに頼んで引き取ってもらうにしたって、まず本人をその気にさせないと。

 そう思っていた矢先、付喪神が弾かれたように顔を上げた。
 そして何度もチラシを確認するように視線を行ったり来たりさせ、その瞳を輝かせている。

 何かと思って私もそちらを見てみれば、そこには私の友人がいた。
 私の知らない子供と一緒に、竹林の歌姫が目を丸くしていた。

「ようミスティア、久しぶり」
「正邪……」
「それで、その後どうよ。順調か??」
「……生きてたんだな。本当に」
「おうよ、私があんな吹雪程度で死ぬもんか」
「リグルブチ切れてたぞ」
「……らしいな」

「え!? あんた本当に知り合いだったの!? 相手アイドルよ!?」
【ミ、ミスティア! あの人反逆者の人だよね! ホントに知り合いだったの!?】

 驚き叫ぶ付喪神と、独特の反響音を響かせるケモノミミの妖怪の声が同時に聞こえてきた。
 後者が割とうるさい。
 あれが相棒の山彦か。

「ミスティアとはまあ知りあいっつーか、ダチ?」
「よせやい、誰がお前なんぞと」
「連れないこと言うなよ。ああそうだミスティア、せっかくの感動の再開だし、お前とのエピソードや別れ際のアレコレの回想シーンとか入れたいところなんだけどさ」
「とうとうシミュレーション仮説に目覚めたのかよ。昔からそんな兆候あったけどいい機会だから教えてやる。ここは現実だ、漫画の世界じゃない」
「誰が安心院さんだ」
「誰だそりゃ」

 安心院さんを知らねーのかよこの未熟者め。
 まあいい。

「悪ぃミスティア、でも今本当にそれどころじゃない」
「あ?」
「1人の付喪神の生命の危機なんだ」

 チラリとミスティアが私の隣の人物へと視線を向ける。
 緊張した様子の付喪神は切り株から飛び降りると、ミスティアたちの方に深々と頭を下げた。

「あの、お、お初にお目にかかります」
「こちらこそお初にお目にかかります。手前は魔法の森の夜雀ミスティア・ローレライと申します。ケチな商売と興行との二足のわらじで日銭を稼ぐ若輩者でございますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
「おっひょ!? あ、あの、あの、私は九十九八橋と申します。え、えーっと、な、何聞こうとしてたんだっけ」
「……正邪よ」
「あん?」
「この子はあれか、お前の異変で生まれたっていうやつか?」

 さっすが、聡い奴め。
 やはりミスティア、癒し系だ。

「そうだ」
「そんで打出の小槌の魔力が回収期にあるとかで、寿命が迫ってる?」
「さすが、話が早い」
「……」

 ミスティアは横にいた相方らしき山彦妖怪を付喪神の、八橋の前に押し出す。
 その相方は自分も挨拶するよう促されたのだと思ったのか、たどたどしい様子で自己紹介を始めた。
 幽谷響子とか名乗ったその妖怪と八橋がお互いに狼狽しまくりながら要領を得ない会話をする姿を、私とミスティアは1歩下がったところから眺めていた。

 私が渡したメモを見ながら、それでも読めずに困り果てながら、八橋がなにやら不躾に質問しまくるが、それに答える響子ちゃんも回答が回答になっていないような、質問の趣旨を理解していない事ばかり言っていた。
 とりあえず頭の出来はわかった。
 よくミスティアはコイツとつるめるな。

「で? 助けたいってーの?」
「そうだ」

 頭が痛くなるような質疑応答を繰り返すアホ共を尻目に、私とミスティアの間では言葉数少なく状況の整理と次への布石が着々と進んでいる。
 コイツは頭がいいし、顔も広い。
 橙の次くらいに優秀な奴だ。
 何もしてくれないなら何もしてくれないだろうし、なんとかしてくれるならなんとかしてくれるだろう。

「お前は自分のしでかしたことの尻拭いもできねーっての?」
「そうだ」
「見捨てる方がまだ潔いんじゃない?」
「かもな」
「でも」

 嫌いじゃない、とため息を付きながら知った風な事を言ってくるミスティア睨みつけながらも、心の中で感謝しておくことにした。
 なんで言葉にしないかって?
 言わなくても伝わるからさ。

「八橋、だったっけ」
「うえ? あ、はい!」
「あと3日だって?」
「……はい」

 足りねーだろそんなんじゃ、とミスティアは言った。
 何を当たり前な事をと私は思ったが、八橋の反応は想像以上に大きかった。
 私では入り込めない音楽家の世界。
 その心の琴線に触れられるのは、きっと同業者だけなのだろう。

「表現したい気分があんだろ? 轟かせたい音色があんだろ?」
「はい」
「すべてを塗りつぶすような至高の曲で、誰も彼もを夢中にさせたいんだろ?」
「……でも」
「相手は世界だ。3日じゃ足りねーぞ」
「……」

 そう、ミスティアは尋ねた。
 八橋の沈黙は、肯定と取っていいのだろうか。

 3日で死ぬのは構わない。
 でも、3日しか音楽ができないのは許せない。
 私にはわからないが、きっとそのような感じなのだろう。

「堀川雷鼓に会った」
「姉御に?」
「付喪神がこの回収期を越えるには、付喪神の器として十分な物体に乗り換えるしかないとさ」
「……私も聞いた、聞きました」
「時間にして99年、九十九の時を経た古物か、あるいは『妖怪やそれに類するものの愛用品か』だとさ。同系統の道具ならさらに好ましいと」

 詳しい理屈は私にもわからないが、自然に任せて熟成されたか、妖怪の道具であるか。
 たぶん妖力や魔力の供給源の問題だろうとなんとなくあたりをつけた。
 自然の瘴気か、持ち主の妖力か。
 どちらでもいいから、付喪神を維持できるだけの燃料が必要なのだろう、たぶん。

「でも、私は琴なの、『これ』なの。『これ』じゃないのは私じゃなくって。うまく言えないけど、他のものには、その」
「その琴は作られてどんくらい経つんだ?」
「えっと、70年くらい……?」

 八橋が私の方を覗き込む。
 しょうがねえな。

「昭和20年製造だと」
「……終戦の年か。あらゆる道具は望まれて産まれてくる。いいじゃん、終戦直後の絶望の中で誰かが願ったんだろ? これで人を楽しませたいって」
「そ、そうなのかな」

 照れたように頭を掻く八橋だったが、ミスティアの方は真剣そのものだった。
 さて、こっからどうする気だろうか。

 ここまではただの前提条件だ、むしろここからが本番。
 いかにして付喪神を説得せしめるのか。
 いかにして付喪神に憑代を捨てさせるのか。

 期待に胸を膨らませた私が見守る中、ミスティアがすべての前提を覆すような発言をした。

「なら、30年契約だ」
「うん?」

 意味がわからず困惑している八橋をよそに、ミスティアは肩から下げていたケースを降ろした。
 形状からして中身のわかるような、くたびれたギターケース。
 出てくるのは当然、ミスティアがライブで使うエレキギターだった。

「うちに来なよ」

 その大事な商売道具を八橋の前に突き出しながら、ミスティアは微笑んだ。
 うちに来い。
 面倒は見る、と。

「……あの、気持ちは嬉しいんだけど」
「ずっととは言わねーよ。その琴がお前を宿すのに十分になったら戻っていい、そいつはそれまで後生大事に持ってろ」
「戻るって、……できるの? そんな事」
「できたらラッキーくらいに考えときな」

 一度離れてからまた戻る。
 憑代が若いのなら、待てばいい。
 その間は、他の物で代用する。

 そんなこと誰も、それこそ堀川雷子すらも考え付かなかっただろう。
 目を丸くする八橋は、ごくりと生唾を飲みこみながらその差し出されたギターとミスティアの顔とを交互に見ていた。

 琴とギター。
 同じ弦楽器ではあるものの、『楽器』という括りの中ではそう近いものでもないように感じる。
 しかし、さっきの弾き語りのように八橋本人にギター寄りに趣向があるのか、行けそうな感じもする。
 試してみる価値はありそうだが。

「な、なんでそこまでしてくれるの? この子大事なんじゃないの?」
「大事に決まってんだろ、何度絃を交換したかわかんねえ」
「あ、相棒とかそういうやつ?」
「相棒は包丁だ」
「……そっか」

 私は!? みたいな顔で響子ちゃんがチラチラ横目でアピールしていたが、空気を読んだのかそれを声に出すことはなかった。
 それでもだいぶ不安そうな様子を隠しきれない響子ちゃんを尻目に、ミスティアはなおも続ける。

「人手が足りないんだ。うちの店で働いてほしい」
「店? なんの店かしら」
「居酒屋だよ。屋台のな」
「う、お料理とか、したことないです」
「テーブルが拭ければ十分だ」
「そ、それくらいなら」

「このギターを憑代にしていいし、妖力だか魔力だかも私のを持ってっていい」
「……本当に?」
「だがこれはあくまで私の物だ。そうなったらもう野良じゃない、勝手は許さねーぞ」
「そ、そんな……、じゃあ練習とかは」
「鳥獣伎楽名義じゃダメだが、私が使わないときは人型になって琴の練習もしていいし、できるんだったらライブでもなんでも好きにやっていい」

 悪魔を相手にする羽目になるけどな。とミスティアが小声で付け足した。
 誰のことを言っているのかは知らないが、この部分はたぶん私にしか聞こえてないだろう。

「ちょ、ちょっとまって……、ちょっとまってよ」

 一度に考えることが増えすぎて頭を抱える八橋。
 憑代と職を一度に手にできるチャンスが降って湧いた幸運を、受け止められずにいるのかもしれない。
 すでに交渉成立を前提として話を進め、そうなった後のイメージを植え付けて説得するという今日から使える営業テクニックを露骨に使っているミスティアだが、生まれたばかりの付喪神には効果てきめんだ。

「条件があるんなら今ここで聞いてやる。でも明日からは無しだ」
「え、えっと、えっとね?」
「……」
「その、あ、姉さん!」
「なんだ?」
「違う呼んだんじゃない、ないです。私、姉がいて、その、もう1本ギター持ってないですか?」
「……いや、持ってんのはこれだけだ。お姉さんはどこにいるんだ? そいつも憑代探してんの?」
「えーっと、姉さんは、雷鼓さんに話聞いてからずっと塞ぎ込んでて、たぶん家でまだ震えてます」
「そっか、じゃあそいつはそれまでだな」
「そんな」
「当然だろう? 危機が迫ってんのに祈ってるだけの奴に用はないな。お前みたいに苦境に呑まれずにできることを探す奴こそ私には必要だ」

 ほれ、と言ってミスティアは八橋にギターを手渡した。
 そのまま響子ちゃんと一緒に切り株に乗り、私と八橋を見下ろすような位置に腰を据えた。
 物理的に高い位置にいる方が、優位に立てると踏んだのだろうか。

「来なよ付喪神。これ以上の条件はどんだけ探したって3日じゃ出て来ねーぞ」
「……」

 エレキギターを握りしめ、八橋は黙とうでもするように目を伏せた。
 何かをブツブツとつぶやいているその小さな体が、終いには震えだす。

 そして、覚悟を決めたように顔をあげ、ミスティアの目を真正面から見つめ返した。

「条件があります」
「……言ってみ?」
「姉さんの素体探しに協力してください」
「結果の保証はできないな」
「姉さんは、ホントは結構明るくって、お馬鹿だけど、元気な人なんです」

 たぶんそれお姉ちゃんに聞いたらお前のことをそう言うだろうな。
 とはもちろん言わない。

「……それで?」
「私は、そんな姉さんが塞ぎ込んでるのが見てられなくて、飛び出してきただけなんです。雷鼓さんにだって会わなきゃよかったって思ってるくらいで」
「……」
「だから、なんとかしてあげたいんです。お願いします! それが叶うのなら、この付喪神は生涯あなたの道具となりましょう」
「わかったそれでいい」

 即決即断で条件を飲むミスティアは、八橋の大げさな台詞にも眉ひとつ動かさなかった。
 やっぱミスティアはいいな、癒される。
 話が早いって、それだけで素晴らしい。

「タイムリミットはライブが始まるまでだ。それまでお前の姉の説得と憑代探しに協力する。ただし結果は保証しないぞ」
「あ、ありがとうございます! 不束者ですがよろしくお願いします!」
「お姉さんの名前は?」
「はい! 名前は九十九弁々、琵琶の付喪神です」
「琵琶か、あったっけな」

 それこそギターでもいいんじゃなかろうか。
 琴よりは近いだろう。

「あ、ねぇミスティア」
「ん? いたのか響子」
「ずっと隣にいたよ!」
「そうか、これからもいてくれ」
「う、うん、そうだね……」
「で? なによ」
「あ、うん、ミスティアが変なこと言うから」
「それで何よ」
「うん、えーっとね、聖が三味線持ってる、たぶん」
「……」

 さっきまで表情ひとつ変えなかったミスティアが露骨に嫌な顔をした。
 何故そこで無駄に期待を持たせることを言うんだこの山彦は。
 あれか、自分が無能じゃないとをアピールしたいのか。自分の知性がまがい物じゃないと言い張りたいのか。
 ミスティアからしたら八橋を完全に手中に収めたいんだから、姉にはむしろ消えてもらった方が得だってことがわからないのかこいつは。
 どうせ他に寄り処もないんだろうし、自分だけに帰属させたいと願う夜雀の意思が見えないのか。

「まあ、後にしようか。まずはちゃんとこっちが成功しないと話にならないしな」
「そ、そうだね」
「じゃあ、やってみるわね」

 八橋はそう言うと、琴をそこらに立てかけて手を離した。
 妖怪の私にはどうやるつもりなのかわからなかったが、当の本人は憑代の乗り換え方がわかるらしい。
 幽体離脱でもするのだろうかと思っていたら、八橋の身体が徐々に透明になり始めた。

「おお」

 思わず声が出てしまったが、それも無理は無かったと思う。
 八橋が徐々に薄くなっていくと共に、琴に宿っていた魔力が引きずり出されていくのだ。
 こんなのは初めて見る。
 生命の神秘という奴だった。

「あ、ミ、ミスティアさん!」
「うん?」
「やっばい忘れてた。条件1個追加で!」
「は? なんだ今更」
「ぜ、絶対必要なんです!」
「……なによ」
「なんというか、ライブとかで演奏する時に……」
「?」

「外国のロックスターみたいに、楽器ぶっ壊すパフォーマンスを私でしないでください!」

「……いやまあ、わかったよ」

 やる訳ねーだろとでも言いたげなミスティアだったが、確かに死活問題だった。
 かき消えていく八橋が、赤黒い瘴気の塊となってギターへまとわりつく。
 あとは馴染むかどうかってところなのだろうが、それに私が手を出せる訳もなく。
 ただ、八橋の手から離れたギターが、地面に落ちるのを見ているしかなかった。
 いきなり壊れるぞ。

「……ふぅ」

 ひと仕事終えたミスティアが切り株から飛び降り、自らのエレキギターを拾い上げる。
 壊れていないか確認しながら、それを大事そうに抱えた。

「とんだ圧迫面接だったじゃねーか」
「お前が惜しむほどなんだろ? 間違いはあんめぇよ」
「そりゃどうも」

 ごめん、大した奴じゃないかも。

「さすがに今は弾けないかな。響子、適当に練習してよう」
「う、うん。えーっと、その人は結局……」
「これ? 店の店員にでもするさ。とりあえず皿洗いからだな、接客できそうだしそっちもやってもらうさ、タダで」
「タダ働きなんだ……。ってそっちじゃなくてさ、こっちの人は結局どういう……?」
「ん?」

 響子ちゃんが私の方を警戒するように覗き込む。
 ミスティアにしがみ付きながら、危険な動物でも見るかのようなツラでプルプル震えていた。
 殴りたくなるツラをしてるな。

「響子。こいつは鬼人正邪、悪い奴だ」
「ミスティアが悪い人って呼ぶ人は本格的に取り返しがつかない人だよね」
「そうだ」

 そうだじゃねーよ、失礼な奴らだな。

「ギターは今使えねーし、1局どうだ正邪。持ち歩いてんだろ?」
「1曲歌ってくれんのかい?」
「やなこった。お前に聞かせてどうすんのさ」

 切り株の上でどっかりとあぐらをかく現役アイドルの堂々たる姿は、やはり八橋とは違うようだ。
 図太さも、貫録も。
 そして将棋の腕も。

「あれ? 新調した?」
「最近な」
「裸王で頼む」
「馬鹿こけ」
「じゃあ大駒だけ落してくれ」
「あいよ」

 風呂敷から取りだした駒を2人で並べ、私の陣営から飛車と角を取り除いた。
 自陣が綺麗に2列に並んでいるように見えたが、柱を失って天井が落ちてくるようにも見える。
 さあミスティアは強いし、頑張らないと。

 うんと背中を伸ばし、肺の空気を入れ替える。
 よろしくお願いします。と互いに声をかけ、私は銀を斜めに上げた。





 竹林の歌姫ミスティア・ローレライとは、幽香の次くらいに長い付き合いだ。

 美少女と美女の間くらいの外見に、この世の物とは思えない程に美しい歌声を持つ夜雀だが、そんな外面に騙されてはいけない。
 その中身はまごう事なき人食い妖怪。
 凶暴で、容赦が無く、貪欲で、それでいて知性に溢れた才人であった。
 飲食店経営とアイドル業を兼業するそのスタイルからして、すでに常人の域から外れた存在だということがわかるだろう。

 腕力が弱すぎるがゆえに弱小妖怪の階級に甘んじてはいるものの、これでもう少しパワーがあれば中堅どころ相手にのし上げれるだけの実力はきっと持っているはずだ。

 幽香にのされてひっくり返っている私を幽香の家で手当てしてくれたのもコイツだし、地上での常識や制度を教えてくれたのもコイツだ。
 その後、一緒に職を探してくれたのもコイツだし、効率的な皿洗いのやりかたを教えてくれたのもコイツだ。

 そんなミスティアとどういった形で離ればなれになったかというと、7年前に起きた1つの異変が原因であった。
 春雪異変と後に名づけられたその異変は、異変とは名ばかりの大災害であった。

 5月になっても春が来ない。
 それは、幻想郷の生きとし生けるものすべてにとっての絶望であった。

 田畑は枯れ、川は凍り、碌な暖房器具もない所の家畜はほぼ全滅し、飢えと寒さで飢饉みたいな状態にまで陥った。
 異変に直接関与していた管理者たちもそこまでの被害は想定外だったらしく、山の連中にはある程度の対策が講じられたようだったのだが、私達弱小階級はなんだかんだ理由を付けて後回しにされてしまった。
 冬眠したまま、永遠に目を覚まさなくなった者もいたという。
 当時の下宿先の家主が中心となって行っていた地域住民総出での自主的な救護活動もあってか、私たちは何とか凍死しなくて済んでいた。
 吸血鬼の館から灯油ストーブをかっぱらってこれなかったらどうなっていた事か。

 そんないつ終わるとも知れない雪の監獄の中で、私だけが気付いた。
 地底はどうなっているのかと。
 あわよくば避難できないかとも考え、救助活動をすっぽかして単身で山のふもとにまで歩いて行ったのだが、そこに在ったのは雪の壁だった。

 それを見た刹那、頭が蒸発したかのような錯覚に陥ったことを未だに覚えている。
 そして次の瞬間には妖力の砲弾を雪に向かって撃ち込んでいた。
 ガトリング砲のような弾幕を張りながら、後付けのように頭が直感を言葉に翻訳してくれた。
 酸欠、空気穴、すべての洞窟が同様だったら。
 あいつらに、あの無学な逃亡者どもに酸素などという概念があるものか。

 山を巡って何か所かの穴を雪から解放し、自らも慌てて中へと飛び込んでみたが、中ではいつも通りの生ぬるい風が吹いているだけだった。
 別段、旧都の住人達に体調不良を訴える者もいなさそうで、外の異変に気付いてすらいない様子だった。

 それもそのはず、そもそも地底には普段から空気の循環システムが整備されており、その時も八雲が用意したスキマ空間を通じて外との循環を維持していたらしかった。
 しかし私の心配は完全に杞憂ではあったが、それも決して無駄ではなかった。

 地底への大穴を解放し続ける私を、覗き見ていた人物がいたからだ。

 世界を物理的にひっくり返せるほどの力を持ったその大妖怪。
 今でこそ会ったら気軽に挨拶できるほどの関係になっている例の将棋の友人その人であるが、本来ならば視界に入ることも許されないほど格上の方だ。

 そして自分で言うのも恥ずかしいが私はその方に勇気と行動を認められ、ついでに何か知らんが気に入られ、なし崩し的にいろいろと教養を賜ることとなった。将棋とか。
 そしてその教養の中には小人族が受けている処遇についての歴史も含まれていて、地上の異変の事が完全に頭からすっ飛んでいた私はそのまま地下で下剋上計画を練り始めることとなったのであった。

 つまり地上にいたミスティアたちからしたら、私は雪に紛れて遭難したようにしか見えなかったということだった。
 連絡ひとつ寄越さなかったのはさすがにまずかったかな、と今更にして思う。
 マジごめん。
 リグルがブチ切れてたらしいし私今度こそ殺されるかもしれない。
 ウソップみたいな謝り方したら許してくれるだろうか。

 そして地底を掻き乱し、狂乱の準備を整え、旧都にある『鬼の世界』とかいう名前の商店街に住んでいた少名一族に接触し、針妙丸に惚れ、ドッキリのように地上へと舞い戻ったのだった。
 7年越しの、計画を携えて。

 そんな背景もあり、完全に死んだことになっていた私のことなどすっかり忘れて自分の人生を謳歌していたこの薄情者が、今私と盤を挟み、『詰めろ逃れの詰めろ』を掛けられて頭を抱えている夜雀なのであった。
 まだ逃げる場所はあるにはあるが、対応を間違えれば即死である。

「それで、その後どうよ。順調か??」
「うっせー黙ってろ!」
「……響子ちゃんだっけ、お前も旅亭経営目指してんのか?」
「え、あー、まあその、私はそっちじゃなくてアーティストの方を……」
「やめろ正邪。響子に手を出すな」
「おめーはその銀張る場所探してろ」
「ちょっと待ってろ切り抜けっから」
「おう響子ちゃん。私に勝ってみろ」
「やめろっつってんだろ!」

 歯を食いしばって頭を掻き毟るミスティアだったが、私の王は完全に自陣の端っこに引きこもっており、1手2手でどうこうできる状態ではない。
 今ミスティアが念じるように手に持っているその銀将を適切な位置に張りさえすればまだ息を吹き返す可能性はあるのだが、それをすると攻めるための駒が足りなくなる。
 その辺を考慮して何とか他に方法がないか模索しているのだろうが、はっきり言って時間の無駄だった。
 無理だから。張るしかないから。

「そう言えば八橋もアイドルになるって息巻いてたな、流行ってるのか?」
「あ? ああたぶんな、っていうか流行ってくれないと困る、というか流行ってるうちに稼ぐ」
「お前は立派だよミスティア。ぶれず曲がらず寄り道せず、目的以外のすべてが手段だ」
「なんだいきなり、お前もそうだろ」
「まぁな」

 確かに私はそうだが、そうじゃない奴の方が多くて困っているのだ。
 世の中そんなやつばっかりだったら、私の下剋上もすぐに終わるんだがなぁ。

 結局10分近くも悩み続けた夜雀であったが、とうとういい手を思いつかなかったのか、攻め駒が無くなるのを承知で虎の子の銀を防御に回した。
 その判断は正しいと思うが、張る場所が間違っていた。

「そこじゃないんだなぁ」
「……あ」

 ノータイムで放った次なる1手にミスティアが硬直する。
 こっから先は読み切った、最長でもここから10手で詰ます。
 王手でこそないが絶対に逃げられない状態、必至であった。
 ここから逆転するにはこの手番からの連続王手で私を詰ますしかないが、私の王は依然としてちょっと欠けた囲いに引きこもり、周囲の味方と談笑している。
 何をどうやってもここから詰ますことはできない状況であった。

 おしまいだ。

「……」
「……響子ちゃんさー」
「え? は、はい」
「アイドルってどうやったらなれんの?」

 あるいはさっきそこの琴だかギターだかがすでに聞いたかもしれない。
 でも私は聞いてないし、聞いてみたかった。
 手を出すなとか言われていたが、こんくらい聞いたっていいだろう。

 スターダムにのし上がった喜劇のヒロイン。
 スポットライトをその身に浴びて、あどけなさの残るその妖怪は何を思うのか。
 そんなに興味はないが、聞いてみたかった。

「……わ、わかんない」
「そうかい」
「ごめんなさい。私もいつの間にかこうなってて、気付いた時にはステージにいたって言うか」
「そっか」

 気付いた時には高みにいた、か。
 なるほど、らしい回答だった。
 可能性としては2つに1つ。
 苦を苦とも思わず適当に進むだけでゴールへとたどりつく天才か、ミスティアにすべてを丸投げして後ろをついて来ただけの凡夫か。

 どっちだろうな。
 どっちでもいいか。
 どちらにしたところで、学ぶところがあるとは思えないのは同じなのだから。

「負けました」
「ん、ありがとうございました」
「あーあ、ミスティア負けちゃったんだ」
「くっそ強えぇんだよこいつ」
「お前も結構強いと思うぞミスティア。幽香じゃ勝てないだろうなぁ」
「あいつは弱えぇだろむしろ」
「まぁ、そうかもなぁ」

 酷い言い草だった。
 負けて気が立ってるのかも知れんな。

 あーあ、と天を仰ぐミスティアの視線が、続けてそのままギターへと移る。
 今だ赤黒い妖力が水あめのようにまとわりつくそのギターの中では、かつて琴であった付喪神が自分の意識を慣らそうと四苦八苦している所だろう。

 そんな生命の神秘を目の当たりにしているうちに、私の頭の中で、パチリと火花のようなものが散った。
 そして何かと思うより先に、不意に私は自らの目的を思い出した。

「なあミスティア、全然話変わるけどさ」
「あん?」
「お前、博麗の巫女の今後の予定知ってたりしない?」
「……は?」

 何アホなこと言ってんだコイツ、と言わんばかりに眉を潜ませるミスティアだあったが、その気持ちは痛いほどわかる。
 だがミスティアはこう見えても情報には聡いし、もっと聡い奴とも交流がある。
 もしかしたら知っているかもしれないと思ったんだ。

 しかしまさか、願ってもない答えが返ってくるとは思わなかった。

「ほれ、これだ」
「なんだよぉ」

 ミスティアがポケットから引きずり出したのは、先ほど八橋が手にしていた鳥獣伎楽のライブのチラシ。
 そういえば八橋のチラシはどこ行ったと思ったら、切り株のふもとで風に揺られて、ヒラヒラと頼りなくヒラついていた。
 というかこれがなんだ。
 ライブに博麗が来るのか?

「今度のライブに博麗も来るってさ」
「パートは?」
「いや演奏するわけねぇだろ」
「聞きに来るのか、確実に?」
「おう、確実にだ」

 なんで断言できるんだ。
 誘ったからって必ず来るわけでもあるまいし、何か物で釣ったのか。
 あるいはVIPと一緒に来ることになってるとか。

 その辺か。

「というか確実になった。今ここで」
「意味がわからん」
「たまには自分で考えな。人にばっかり頭使わせてないで」
「ふーむ」

 たぶん将棋で負けた腹いせだろう、ミスティアが無茶を言ってくる。
 大抵こういうのは直感でピンと来なければ考えたって出て来ないものだと決まっている。
 まあいい、八橋を助けてくれたことだし、少しくらいは付き合ってやるか。

 それにしても今ここで決まった?
 何だそりゃ。

 ここで今何が起きたと言うんだ。
 八橋が関係あるのか。
 いやまさか。そんな影響を与える人物なら、ミスティアが余計な手出しをするとは考え辛い。

 いや待てよ、確実になったとは言っているが、本当にそうだろうか。
 『確実ではないかもしれない』ではなく、本当に『ここで決まったのか』って方向でだ。
 今決まったと言うよりは、今明らかになったとかではないだろうか。

 ミスティアから見て、八橋以外で今起きたことと言えば、私との再会だろう。
 私が生きていることに何か関係があるのか。
 いやいや違う、今、って言うのはそこじゃない。もっとピンポイント。
 私が博麗の巫女の予定を知りたがっているという情報、これが追加されたことによってミスティアの中で何かが繋がったのだ。
 そう考えよう。

 そして件の巫女はライブに来ると言う。
 3日後のライブ、そう3日後だ。
 八橋が聞いた話じゃ本来2週間前に行われるはずだったというミスティアたちのライブ。

 3日後、付喪神たちのタイムリミット。
 逆に言うなら、小槌の魔力回収が満了するタイミング。
 『針妙丸を奪還しに行く条件が揃う日』。

 ズバリその日に、巫女がいない。
 最短で、助けに行ける。

「……誰かが、私に協力してくれている」
「……」
「お前が、コイツの仕事なら確実だと思うほどの人材が、博麗の巫女を連れ出してくれる」
「……そういうこった」
「誰だよそれ」
「言えない。そういう約束だ」

 真っ先に頭の中に浮かんだ蛍の名を口にしてみたが、ミスティアは首を振るだけだ。
 んな訳ねーだろとでも言いたげだった。

「そういう訳だ。博麗は3日後に家を空ける。空き巣が来ることも知らずにな」
「……」
「……? 正邪?」
「なんか、悪いなぁ。私が知らないところで、協力してくれる人がいてさぁ」
「チャンスは1度とは言わねーだろーが、お姫様のためにも1発で決めろよ」
「……おう、まかしときな」

 私の返事にミスティアは満足そうに微笑み、チラリと背後を振り返った。
 そして八橋が奮闘している最中であろうギターを引き寄せ、ベルトを肩にかけてポロロンポロロンと弾き始めた。
 今触って大丈夫なのかそれ。

「リクエストは?」
「いや、それ今取り込み中だろ」
「平気だろ? だいぶ収まってきたし」
「……そっか」

 ミスティアのギターに反応したのか、看板のできをチェックしていたらしい響子ちゃんが子犬のように走ってくる。
 相当にヒマだったらしい。
 これこそ邪魔して悪かったという所だ。

「さだまさしで頼む」
「エレキだぞこれ」
「好きなんだよ」
「……償いか北の国からなら」

 チョイスが渋すぎる。

「それか『爪爪爪』なら」

 それはさだまさしだっただろうか。

「関白宣言で頼む」
「……関白失脚の方なら全部歌えるんだがな」
「なぜそうもピンポイントに」

「響子、お前関白宣言知ってる?」
「え? 全然わかんない」
「だよなー」

 『ねー』、『なー』、と仲良さげに頷きあう2人であったが、ミスティアが奥さんに頭の上がらない冴えない夫の独白をギターの音色に乗せて歌いだすと、相方はその隣にちょこんと腰かけて嬉しそうにケモノミミをパタパタと揺らすのであった。

 よく見るとかわいいなこの子。
 針妙丸ともメディスンとも違う、なんだろうこれ、この無防備感。
 いかにも温室育ちっぽい穢れなき可愛らしさは、幻想郷ではなかなかいないタイプだ。
 その辺がアイドルとして受けているのかもしれなかった。

「……」

 歌い終わったミスティアに響子と2人で拍手、小さな演奏会はこれで終幕した。
 きっとここからはプロとしての練習が始まるだろう。
 邪魔は許されない。

 八橋を頼むぞミスティア。
 大した奴じゃないけども、その子は頑張り屋さんだ。
 役には立たないかもだけど、音を上げることは無いだろう。

 30年契約。
 上手くいくかはわかりはしないが、成功することを祈るしかない。
 頑張れよ八橋。

 そして今日は珍しく、誰にも嫌われなかった。





「ああ、会いたいなぁ」

 夜も更けきり、妖怪の時間が始まった。
 朝だろうが昼だろうが幻想郷の主役は妖怪であるはずなのだが、夜は特にそのタガが外れ気味になる。
 夏でも冬でも、晴れでも雨でも、満月でも新月でも。
 夜は妖怪の時間。
 暴れてもいい時間なのだ。

 だからこそ、奪う側。
 強力な、少なくとも縄張りしている範囲において強いとされる妖怪は、張り切って周囲を練り歩く。
 彼らは歓喜する。
 その爪で、牙で、力で、腹を満たし、渇きを癒し、欲望を晴らす。
 そして奪われる側。
 力無く、戦うすべを持たない弱小妖怪、幽霊、付喪神、妖精、そして人間。
 彼らは震える。
 自らの住処で、隠れ家で、安全を願いながら震えて過ごし、ただ朝が来るのをじぃっと待ち続けることになる。

 早く朝になってくれと震える幽霊、という外の世界の人間が見たら首をかしげるような光景でも、ここではこれが日常だ。

 そして私は、そのどちらでもなかった。
 平和な地下での習慣が抜けずに痛い目を見たこともたくさんあったが、順応自体は早かったと思う。
 にもかかわらず、私の夜は静かなものだ。
 襲いもせず、襲われもせず、昼間活動するために学習と準備を始める。
 ありったけの知識と技術で結界その他隠蔽システムを構築し、安全地帯で自らの能力の底上げを図るのだ。
 この家はもともとどこぞの魔法使いが住んでいた家、二度と戻ってこない主の帰りを待っていたシステムを改造したら、レジスタンスの拠点として十分活用できる水準となった。
 ミサイルと思しき現代兵器がそこらへんに放置されていたことには驚いたが。
 使い魔と思しきツチノコが住んでいた事にも驚いたが。

 私に魔法や妖術についての一切を教えてくれた師匠とも呼べる例の将棋の友人にとっても、与えた技術を存分に使って更なる術式を開発していく弟子の姿は気分のいいものであることを願っている。
 生来睡眠時間の短い私にしてみれば、限られた時間を有効に活用するために必要な事であった。
 深夜2時に寝て5時に起きる。
 それが私だ。

 そのはずなのだが、今日はなんとなく寝つきが悪かった。

「……4時か」

 ベッドに寝そべり壁にかかった時計を見上げれば、もう就寝どころか起きる時間が迫っていることが見て取れた。
 早く寝ないといけないのに、眠れなかった。
 らしくもない不規則な有様に、思わず独り言も漏れる。

 埒が明かずにイライラしだし、ベッドから起きでて窓際へと歩み寄った。
 裸足のままペタペタと歩き、修繕中の壁と天井に挟まれながら、半分しか開かない窓から空を見上げる。
 綺麗な星空が幻想郷を照らし、今日もどこかで暴れているであろう強者たちを祝福していた。
 空の方では誰かが競うように翼を広げてかけっこに興じ、遠くの方では遠近法を無視したような巨大な影が、のっそりのっそりと歩いている。
 日の出にはまだ遠い。

 私はただ、気持ちばかりが焦っていた。
 早くしてくれ、待ちきれない。
 あと2日。
 あと2日がこんなにも遠い。

 幻想郷に紳士はいない。
 いるのは血に飢えた強者と、生に飢えた弱者だけだ。
 幻想郷に暴力反対を唱える者はいない。
 どれだけ反対したところで誰もやめてくれないからだ。
 負けた方が悪い。
 弱肉強食を食物連鎖とダイレクトに実感できるこの素敵な楽園。
 たった1人の例外を除き、何人たりともこの土俵からは降りられない。

 そのたった1人だって、八雲の後ろ盾があるからこそ、その安全を保障されている。
 手を出すな。
 死なせるな。
 巫女に逆らうな。

 数十年がかりで健気に浸透させたという不文律を頼りに、細い細い、蜘蛛の糸よりか細い命綱にその生活を委ねている。
 そんなか弱い存在でも、決して無力ではなかった。
 いっそ本気で無力ならどんなによかったかと思うが、今代の博麗はあれでなかなか頑張り屋さんと聞いている。

 あの異変。私たちの異変。
 未だ名づけられてもらっていない反逆の異変、私は2人の人間と勝負の場に立った。
 当然それは命名決闘法を用いた負けるためのゲーム。
 実戦には程遠いお遊びだとしても、得るものはあった。

 本職の退治屋らしい黒衣の魔法使いが殺意に満ちていたのはともかく、巫女さんの方も思っていた以上に戦い慣れしていて驚いたものだ。
 そりゃ本人の耐久力こそ人間並みだろうが、視野も広いし軌道も読むし、ひとつひとつを丁寧に攻略していく危なげのなさがあった。
 ただ視界反転はやり過ぎたと反省している。
 まあそれも天邪鬼っぽさの演出だったと思って欲しいものだ。

 そんな楽園の素敵な巫女さんではあったが、妖怪側からしたら厄介極まりない存在である。
 好戦的、小癪、意地っ張り、弱い、脆い、傷付けてはいけない。と対処に困る属性で固められた存在であるため、妖怪の間でもある種アンタッチャブルな扱いを受けていた。
 巫女なのだから当然だが、その力の源は神に通じる巫女の力、俗に巫力や霊力と呼ばれる種類のものだ。
 瘴気を払い、穢れを浄化する神の力。
 コイツがまた厄介なのだ。
 大した火力がある訳でもないが、あの力にぶつかると妖怪の力はかき消されてしまうのだ。
 妖怪同士、妖力同士がぶつかれば双方が爆発するような衝撃が生まれるが、巫力にぶつかると双方が消えて無くなる。
 だからなんだと言われればそれまでなのだが、このかき消されると言う奇妙な感覚に惑わされ、十分なパフォーマンスを発揮できずに翻弄される妖怪も少なくない。

 サウスポーの有利。
 こっちは慣れない感覚に苦しむと言うのに、向こうにとってはそれが当たり前だ。
 巫女と戦う妖怪は、アウェーでの戦いを強いられる。
 巫女VS巫女だとどうなるのか見てみたい気もするが。

 しかし、博麗の巫女というシステムを管理している八雲からしたら、むしろそれくらいの対策は必須なのかもしれない。
 巫女に逆らうなという管理者からのお達しを理解できる妖怪だったら、とりあえずは近づかなければいいし、適当にあしらうこともできるだろう。
 だけども、すべての妖怪がそうという訳ではない。
 そういった事情を理解できない、橙の言葉を借りるなら『言葉の通じないお馬鹿さんたち』は食べてもいいもんだと思って襲ってくることもあるだろう。
 そういうのは自力で排除する必要があるため、ある程度の戦闘能力というか、対応力は必要なのだと私は予想している。

 ただその力のさじ加減というか、保有している暴力が微妙に過剰な気がするのは私だけなのだろうか。
 ホントに微妙なのだが、というかそんな細かく調整できるわけもないのかもしれないが、微妙に、本当に微妙に強いのだ、あの巫女は。
 いやまあ倒そうと思えば倒せるが、傷つけずに倒せとか、器に入った酒を零さずに戦えとか、そういったハンデ戦を強いられた時に勢い余ってやっちまったら大変だ。
 下手すりゃ管理者に粛清されてしまう。

 そのくせ妙に好戦的な気があるらしく、酔った勢いで妖怪に絡む姿がたびたび目撃されている。
 最高にめんどくさい人間であった。

 まあ本人からしたら物心も付くか付かないかの内に無理やり巫女に仕立て上げられ、本人の意向も無視してみょうちくりんな人生を強要されているわけだ。
 できれば恨まれ、できなきゃ怒られの酷い待遇の中で、妖怪の都合で人類の希望を演じているのだ。
 あの子だって被害者なのだから、あんまりめんどくさいとか言わないであげよう。

 そんな訳で、博麗の巫女とは幻想郷の中でも特殊でめんどくさい立場の奴であり、その巫女が住まう神社も大結界に関係する設備として八雲の管理下にあるため基本的に誰も近づかない。

 神社としてそれでいいのかはともかく、針妙丸が囚われているのはそんな場所だ。
 我ながら絶妙な采配だったと思う。

「……会いたいなぁ」

 呟くと同時に、ふと、目に光が入って来た。
 朝焼けのオレンジがじわじわと東の果てを照らし出し、夜が、妖怪の時間が終わりを告げたことを幻想郷に知らせている。
 その光が森の瘴気と空気中の水分に反射してダイヤモンドダストのように煌めいているところを眼下に収めながら、私はそのままただじっと、お日様がじりじりと上って来るところを眺めていた。
 信じられない程綺麗な光景を味わいながら、一歩間違えば私は一生太陽に出会うことなく人生を過ごしていたのかと思ってぞっとする。

 自宅では基本的に全裸で過ごす私であるが、特に日の出の瞬間はたとえ真冬でも必ず全部脱ぐ。
 朝日を全身で浴びて1日の始まりを祝うのは、地上に出てから欠かさず行う習慣であった。

 にもかかわらず、ここ最近は妙に肩がさびしい。
 いつもそこに乗っかっている小さな姫は後2日経たないと会えないのであった。

「……朝シャンしよ」

 もうこうなってしまっては今更寝ても寝付けまい。
 意味もなく徹夜をしてしまった私は、寂しさを誤魔化すために風呂のスイッチを入れた。
 スイッチ1つで自動的に薪と空気をボイラーに放り込んでくれる便利な風呂につかりながら、私は湯船に全身を沈めるのであった。

 風呂上がりに牛乳を嗜みながら、私はバッテリー式のドライヤーで髪を乾かしながらリビングへと向かった。
 バスタオル姿でうろつく私に『その状態の正邪ちゃんって室内では比較的厚着だよね』と言ってくれる針妙丸の声色をした幻聴を聞きながら、1階のリビングで何をするでもなくくつろぎ始める。

 そしてドライヤーを置き、ソファに座ったまま本棚から目をつぶって適当な本を引き抜き、表紙をペラリとめくった。
 前に無縁塚かどこかで拾ったロミオとジュリエットの訳本をパラパラめくっていけば、人間にとって家柄問題というのがどれほど深刻な問題なのか、そして杜撰な報告連絡相談がどれほどの悲劇を生むのかを改めて実感できる。
 こいつらに比べれば、間違いなく自分たちが行ったことが原因で引き裂かれている自分たちはどれほど幸福なのだろう。
 あとはお姫様が早まって自決してなきゃいいが、まあ博麗もいるし、たぶん平気だろう。
 あるいは助けに行った私が、針妙丸が死んだと勘違いしなければ万事問題あるまい。
 おおロミオ、どうして私はレジスタンスなの?
 生まれつきさ。

 斜め読みしていた本を閉じ、2人掛けのソファに横になった。
 風呂で体を温めれば眠れるかとも思ったが、全然その気配はない。
 かと言って活動できるほど起きているかと言われれば、はいそうですとも答え難い。
 目の奥にわだかまる疲労をチクチクと感じながら、私はずっとまぶた越しに天井を見据えていた。

 思い出すのは幽香の家にいた毒人形。
 あいつ今頃どうしているだろうか。
 あの数式が正しいかどうか調べているだろうか。
 幽香に手伝ってもらいながらでもいい、私を打ち倒すための行動を始めているだろうか。
 あいつの家から近い西の里にも、幽香がよく行く東の里にも、学術書を扱った図書館があることは知っている。
 その中には数学に関する物もあったはずだし、おっかなびっくりでも調べさえすれば、『私が間違っていることに気付けるだろう』。

 あの数式。
 年間の毒の放出量の増加分で必要量を割って、達成までの期間を算出したが、実は計算式が間違っている。
 いくら私でも球分、ドーム状の物体の体積の求め方なんて知らない。
 あの部分はデタラメなのだ。
 でも球の体積はあってるはずだ、身の上心配あるあるある。
 常識の範疇ではないだろうが、知っている人は知っているだろう。

 調べりゃわかる。
 調べなきゃ絶対わからない。
 かかって来いよ人形、私を倒すために本を開け。
 それだって下剋上だ。

 まあ調べたところで、『非現実的な時間が必要』という点は変わらないだろうがな。
 ならば他の方法が必要だ。
 目的が人類の絶滅だと言うのなら、違うアプローチを考えろ。
 相手は手ごわいぞ?
 何と言っても世界最強の種族、世界の表舞台を悠々と闊歩し、あまりに圧倒的すぎて個体の性能が衰えているくらいだ。
 倒そうとしたらそれなりの策が必要となるだろう。

 だからまずは前哨戦、私が相手だ。
 私に覆させるような計画じゃあ、現実に実行するなんてとてもとても。
 でも心配するな、チャンスはいくらでもあるし、回数制限もない。
 本で調べて人に聞いて、悪かったところを修正して。
 万全に論拠を固めて非の打ちどころのないものを持ってきたその時は、ちゃんと倒されてやるから。

「……」

 捕らぬ狸の皮算用。
 都合のいい妄想に身を委ねながらも、未だ眠りは降りてこない。
 睡眠欲がまるで満たされない傍らで、なんだか引っ張られるように腹も空いてきた。
 もういっそ炭水化物を腹いっぱいに詰め込めば眠くもなるだろうか。

 そうと決まれば台所に行って米を研いで来ればいいのだが、なんだか起き上がるのも億劫だ。
 私はこんな自堕落なグズグズ野郎ではなかったはずだと思うのだが、今日はなんだか身体に力が入らない。
 それこそ風邪でも引いたのかしらと額に手をやってみても、特に熱いとも冷たいとも感じない。
 力無く天井を見つめる自分の中で、今の自分が精神のバランスを欠いていることを他人事のように感じている自分がいた。

「……ぅ」

 窓から入って来た光にまぶたを焼かれ、私は思わず腕をかざして日光を遮った。
 目をこすりながら起き上がり、窓の外に目を向ければもう太陽は結構な高さにまで登っていた。
 時計を見れば朝の8時。
 風呂に入ってから結構時間が経っていたらしい。

 しかし寝たいのに眠くない。
 空腹なのに食欲がない。
 困ったもんだ。

 カーテンを隙間なくしっかりと閉め、再びソファへと横になる。
 やることがない事に変わりは無い。
 数日程度なら食事と睡眠をとらなくても活動可能な私ではあるが、ただ待つと言うのだけは苦手だ。
 心のエネルギーが逃げていっちまう。

 やることがないならそれこそ下剋上の啓もうにでも行けばいいと思うのだが、心が動かない日もあるのだ。
 例えば、針妙丸がいない日とか。
 悪循環であった。

 さっき寝てた時と比べて微妙に位置のずれた天井を見ながら次に思い出したのは八橋のことだ。
 昨日は結局ミスティア達と別れるまで奴がギターから出てくることは無かった。
 ミスティアと指してる間も、『関白失脚』を弾いている間も、その後響子ちゃんと1局指した間も、八橋は赤黒い霧となったままギターにまとわりついているだけであった。

 もしかしたら私が想像していたより時間がかかるのだろうか。
 それこそ3日もかかるようだったらどうにもならない、姉を助けるどころではなく自分も間に合わなくなっては元も子もないだろう。
 今のうちに私が琵琶でも三味線でも探しておいてやろうかしらと1瞬考えたが、完全に余計なお世話だと思ってやめておくことにした。
 私は八橋とミスティアだったらミスティアの味方だし、ミスティアは八橋の姉なんて消えて無くなってくれた方が都合がいいだろう。
 拠り所は自分だけでいいと、そう考えているはずだ。

 それよりもあいつは昔から人を頼ったり雇ったりするのを嫌がるタイプだったのに、一体どういう心境の変化なのだろうか。
 私が地下で小人といちゃついている間に、我らのアイドルは本物のアイドルになってしまっていたが、そんな事が些細に思えるくらいあいつの変化は顕著だった。
 なんでも1人でやりたい、自分でやるのが確実だ。
 そういうタイプだったはず。

 それが、付喪神とはいえ人を従えようだなんて随分成長したものだ。
 みんなそうやって変わっていてしまうのか。
 寂しいような嬉しいような、そして自分もそうなのだろうか。
 7年前にあいつらと別れてから、私は少しでも成長したのだろうか。

「……」

 私はゴロリと体勢を変えた。
 仰向けから横向きに。
 ソファのへこみ具合のせいで、身体がくの字に折れ曲がる。
 どう考えても身体に悪そうだったので、すぐまた仰向けに戻してしまった。
 背中がすれて、ちょっと痛い。

 ああ、こんな目に遭うなら幽香のところで例の神様の本でも借りてくればよかった。
 百科事典だって一晩で読破する私にしてみても、アレはいい睡眠薬になりそうだ。

 ふとまた時計を見上げてみれば、時刻は8時と5分を指していた。
 まじかよ5分しか経ってないのか。
 退屈すぎて時間が長く感じるという相対性理論の要の部分を実感しつつ、このままではさすがによくないと私はやっとの思いで重い腰を上げた。

 出掛けよう。
 少しでも誰かと話をしよう。
 それが私の生きる道だ。





 髪を梳かし、身支度を整え、将棋盤を風呂敷にくるみ、家のセキュリティを起動し、私は玄関の扉を開けた。
 そして外を見てすぐ閉じた。

 ふと横を見れば、玄関先でうつむく私が姿見に写っているのが伺える。
 出鼻を挫かれたような気分を味わいながら、私は傘立てから矢印模様の洋傘を取り出した。

 雨だった。
 もうやだ帰りたい。

「……」

 家にいながらにして家に帰りたいと願う鉛色をした心境を飲みこみ、私は再び玄関の扉を開く。
 ザアザアとまでは言わないが、しとしとといった程度の雨脚であった。
 昨日は束の間の快晴だったようだ。

 魔法の森に充満する半透明な瘴気たちも雨に打たれて地に落とされ、いつものモヤついた霧のようにはなっていない。
 パラパラと無遠慮に傘を穿つ雨の中を歩き出し、サンダル越しの素足が汚れるのも気に留めずに道なき道を歩きだした。
 この森も少しくらい道とか舗装したいところではあるのだが、そこはそれ、地域住民の都合や環境保護の観点から総合的に判断してほしいもんだ。

 周囲に乱立する森の木々を貫いて、恵みの雨が私に降り注ぐ。
 その中をパチャパチャと歩いてはいるのだが、さて、どこへ行こうか。
 相変わらず眠気は去っていないし、腹も減っている。
 運動すれば眠れるだろうか、しかしこんな雨の中で運動だなんて、さすがに風邪でも引いちまう。
 健康増進には程遠いな。

 しばらくして森を抜け、草原へと出た。
 晴れていれば青々とした草たちが絨毯のように蔓延っている場所なのだが、今日の所はただただ足元を冷たく濡らしてくる障害物にしか思えない。
 それでも空を見上げれば、ブラック寄りのグレーな雲とはいえ、そこそこ以上に広々とした空が広がっている。
 幾分気持ちが楽になった私は、昨日行った集落と人里とどちらに行こうか悩んだ挙句、今日の所は山のふもとにある人里の方へ向かってみることにした。
 特に理由もないなんとなくで、あるいは将棋場にでも行ってみようかという単純な動機であった。

 しとしと降っていた雨がぽつぽつ程度に割引きされるころ、私は里の商店街を歩いていた。
 ちらほら見える雲の切れ間に安堵を覚えつつ、森より遥かに歩きやすい道を歩いていると、自治体が配置している情報掲示板にミスティア達のポスターが貼ってあることに気が付いた。
 おいおい、ここは人里だぞ。
 こんなところにまで根を張るとは、いやはや奴らも大したものだ。
 相当に徹底的に、宣伝に力を入れていると見える。

 その貪欲さを垣間見てちょっと元気が出てきた私は、さっきよりもやや足取り軽く歩を進めることができた。

 そうしてたどり着いたのは行きつけの将棋場。
 古めかしい民家の1階部分をくりぬいたような雑な作りの店である。
 人妖入り乱れで盤上の暴力を競わせるこの店は、入場料200円と割安ながら客層のレベルが人里最高峰という強豪が集う場所であった。
 私の一番のお気に入りの店だ。

 何がいいって雰囲気がいい。
 他の将棋場に私が行くと、人間どもはこぞってジロジロと私の肢体を舐めるように眺めて来ることが多い。
 それ自体はまあ、客層がほとんど男である以上仕方がない事なのかもしれないが、だからといって私との対局を渋って嫌な顔して去っていくのもどうかと思う。
 負けるのが怖いのだろう、愚かな人間どもめ。

 だがこの店ではそれがない。
 ここの客は対局者が誰であるかなんて気にも留めない。
 連中にとって興味があるのは、敵の王をいかにして詰ますかだけだ。
 相手が妖怪だろうが神だろうが、平気で首を獲りに来る連中だ。
 そういった点も、とても気に入っていた。

 しかしながら、そんなアルカディアのような場所であったが、唯一と言っていい欠点があった。
 それは何かというと。
 今日が定休日であることだった。

「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……」

 思わず将棋場の入り口に縋り付いてひざを突きそうになるが、砕けそうな足腰に精一杯の力を込めて踏みとどまる。
 落ち着け、濡れたらシミになる。
 なんでだ、定休日はまだ先だったはずだろう。
 まさか曜日が変わったのか。

 テンションダダ下がりでその場を後にし、人生に挫けそうになりながらもフラフラ歩き出す。
 なんでこうタイミング悪いかな。
 眠いし腹減ったしついてないし、雨だし誰にも会えないし針妙丸助けに行けないし焦らしプレイだし。
 もう嫌だ。
 周りを見渡しても通行人はほとんどいない。
 あーもう敵でも味方でもいいから誰かに会いたい。

 どうすっか、もう山にでも遊びに行こうか。
 そんで白狼どもを捕まえて下剋上精神を延々説いて回ろうか。
 そうだ、それがいい。
 奴らは『守矢神社に参拝に行く』と言うと、案内と称して不審なマネをしないかどうか監視し続けてくれるらしい。
 それを逆手にとって心行くまで論を交わすのだ。
 虐げられし山の強者が現状を甘んじるその理由と、真の勇気とはいかなるものかということを。

 そしてなぜ、山の住人を傷つける連中を放置しているのか問い詰めるのだ。
 こうしている間にも、そいつらのせいで山の同胞が傷つき、富を奪われ、尊厳を傷つけられ、苦しい苦しいと嘆いていると言うのになぜ放置するのかと。
 一体全体何のことだ、どこの誰がそんな事をしているのだとその白狼は聞いてくるだろう、そうしたらしめたものだ。
 そしたら私はこう言ってやるのだ、大天狗と鴉天狗だ、と。
 奴らが君たちを傷つけていると、愛すべき山の民である君たち自身を徹底的に迫害しているのであると。

 妖怪の山で誰かが誰かを迫害するなら、加害者が誰であろうと君たちは戦うのだろう? 誇りをかけて戦うのだろう?
 ならば逆説、『被害者が誰であろうと』君たちは戦うんじゃないのかい?
 親兄弟が世代を超えて踏みにじられていると言うのに、ああ、あいつらならいじめられても別にいいや、放っておこうと君たちは言うのか? と。

 レッツレジスタンス。
 弱者に闘争を、世界に狂乱を。。
 ヒエラルキーをひっくり返しに行こうじゃないか。

 例えば君、君の知らない、面識のない白狼天狗が立ち上がったらどうする。
 こんな待遇は不当だ。断固として抗議し、改善要求が承諾されない場合はデモやストライキを以って諸君らの英断を乞うであろう。
 そう言って立ち上がったら君はどうする? 余計なことすんじゃねーよそいつを詰るか? 鴉どもの偏向された報道で悪者に仕立てあげられたその情報を鵜呑みにして傍観決め込むか?
 そいつ本人に手伝ってくれって言われたら? その手を振り払うのか?
 ならば例えば、お前がその最初の1人になってもいいんだぜ?
 失敗したっていいじゃないか、巨悪に立ち向かって死んだと、現状を打破するために戦って死んだと自慢できるじゃないか。
 歴史に名前くらい、残っちゃうぞぉ?

 あぁ、言ってみてぇ……。
 これぜってー楽しいことになるだろこれ。

 パラリパラリと雨脚が弱くなっていくにつれ、雲間から差し込む光が強くなて行くにつれ、私の妄想はいくらでも加速して行く。
 次の下剋上は白狼天狗を巻き込もうと決意を新たにした私は、その具体的な手順と必要な規模を算出するのが楽しすぎて背後に迫っていた人物に気が付かなかった。
 まったくこれは不覚としか言いようがない事であったが。
 その人物に後ろから、たぶんドロップキックでも喰らったんだと思う。

「ぅあちょー!!」
「おうっ!?」

 そんな頓狂な声と共に背中に衝撃を喰らい、私はすっ転ぶように地面へ激突する。
 私と風呂敷はまるで狙ったかのように水たまりへとダイブし、口内に広がる泥水の味に舌鼓を打つハメになった。
 取り返しがつかぬほどに容赦なく私を汚す雨水が、下着までぐしょぐしょにするのに数秒もかからなかった。
 染み込んできやがる。
 ひでぶって言う余裕すらなかった。

「ここで会ったが100年目よ!」
「……」

 倒れたまま動かない私を微塵も心配することなく、そいつは私の尻を踏みつけると、グリグリと靴底に付いた泥を拭ってきやがった。
 この声、かかっている体重、妖力の過多。
 相手が誰なのかを推測しながら、私の中の思考回路が徒然なるままな妄想を止め、単一の目的のために動き出すのを感じていた。
 私の頭の中には、蹴られた事への怒りやびしょ濡れになった事への不快感に混じって、誰かに認識されているという歓喜が確かにあった。
 人は1人では生きてはいけない。
 俄然、やる気。

「お使いかぁ? えらいなぁ」
「わっとと、急に立たないでよっ」

 腕立て伏せの勢いで身体を跳ね起こし、眉を吊り上げて私を睨むその小柄な人形へと向き直った。
 小振りな黄色いビニール傘に、同色の長靴、反対の手には編んで作ったと思われる大き目の手提げ袋。
 そんな愛らしさの化身のような鈴蘭の精だったが、ざっと周囲を見回してみてもどうやら幽香はいない。
 本当に1人でお使いのようだった。

 さしあたって私は世間話でもするようにメディスンに近付いた。
 大胆にそれでいてさりげなく、泥と雨水でグショグショになった衣服を見せつけるように。
 お前のせいでこうなったんだと気付かせるように。

「なんか用かぁ?」
「……あ」

 私の上着とスカートを見てやっちゃったと思ったのか、メディスンが私から半歩距離を取った。
 こういう時は、こっちからはそのことに触れない方がダメージが大きいのだ。
 私はよく知っている。

「なんか用かって聞いてんだよぉ」
「ご、ごめんなさい」
「なにが?」
「え?」
「何について謝ってんの?」
「……」

 謝るんなら何について謝るのかを言わねばならない。
 常識だ。
 ちなみにこの後、同じ間違いを繰り返さないための是正措置や仲間内への水平展開も言わせようと思っている。
 嫌がらせではないぞ? ただちょっと相手が私だったことが運の尽きなだけだ。
 そう思って返事を待っていたのだが、どうも先方は言葉ではなく態度で示すことにしたようであった。

「うー」

 メディスンは何を思ったかトコトコと近寄ってくると、私のスカートに手を伸ばした。
 そのままペロンとめくるものだから何しやがんだコイツと言いかけたのだが、どうやら私の下着が見たいわけではないらしい。
 汚いものでもつまむように指先でめくっていた私のスカートを、メディスンは雑巾でも絞るようにギュウと捻じり始める。
 ボタボタと滴り落ちる泥水がひと通り出尽くすまでメディスンは力を緩めず、その小さな手で溜まっていた液体を搾り取っていった。

「……」
「ぅー」

 涙目になりながら私のスカートを絞る毒人形、どうしよう、そう来るとは思わなかった。
 格上だと認識している相手ならどれだけいじめても構わない。と私は例の将棋の友人に教わってはいたが、この構図はもはや完全に私の大嫌いなアレに見えてしまうだろう。
 私が心から忌避し、この世から根絶してやろうとすら思っている構図、まさにそのものである。

「もういい離せ」
「うー、あ、あんたねぇ」
「弱い者いじめみたいじゃねぇか」

 スカートに続けて上着を絞ろうとするメディスンを払いのけ、今度は私の方が半歩ほど距離を取るハメになった。
 よしてくれ、鳥肌が立っちまう。

「間違ってたんだもん」
「あん?」

 蚊の鳴くような声でメディスンが何事かを呟く。
 よく聞こえなかったが、とりあえず言い訳がましいニュアンスだけは伝わった。

 人を蹴りつけておいて言い訳とは何事だと言おうとも思ったが、それも思いとどまる。
 子供のしつけは地域社会全体ですべきだが、私はそこに組み込まれてないのだから。

「けーさん間違ってたもん」
「けーさん……? え? 計算? 調べたのか?」

 うっそだろおい。
 八橋といいコイツといい昨日の今日でそんなにサクサク動けるもんなのか、私みたいに訓練を受けてるわけでもあるまいし。
 近頃の若いもんは元気があってよろしいが、まさかコイツも先が短いとかじゃないだろうな。

「ゆーかと一緒に調べたもん」
「そ、そうか。どこが違ってた?」

 服の袖で目元をぬぐいながら、メディスンが言い訳するようにぶつぶつとつぶやいた。
 いいよもう怒ってないから、ドロップキックは大目に見てやるから。

「お椀の方のたいせきはあれじゃないもん」
「……そうか、お椀の方ってのはお前から出てくる毒ガスの方の体積のことだな?」
「うん、忘れちゃったけど、ちがったもん」
「そうか、そりゃ悪かったな」

 ひざを折り、目線をメディスンに合わせる。
 1日で調べるなんて本当に信じられなかったが、幽香が上手いこと促したのかもしれない。
 あるいは私よりよっぽど扇動技術に優れてるのかもしれないと思いつつも、性格からしてそんな訳ないだろうとも思う。
 きっと娘だったからこそ、どう言ったらやる気を出すのか熟知していたのだろう。
 花畑の支配人は、案外いい母親のようだった。

「あと3倍だもん」
「……3倍? 何がだ?」

 何の事だかわからず続きを待ってみるが、メディスンは自分の頭の中にある事をうまく言葉にできないのか、あーとかうーとか言いながら下を向いてしまう。
 まさか界王拳じゃあるまいな。

「3倍だもん」
「そっか、何が3倍なんだ?」
「んーとね、3年かかったの」
「何にだ」
「飛距離を伸ばすのに3年かかったから、70メートル増やすのに3倍かかるの」
「……あ」

 あ。
 そう言えばそうだった。

 70メートルってのはたぶん70立方メートルのことだろう。
 以前と現在の毒ガス散布の体積の差だ。

 どんな計算だったか記憶はしてないが、たぶん3はかけてなかったと思う。
 言われてみれば1年で計算してたかもしれない。
 やばい、気付かなかった、単純ミスだ。
 やっべー、やっちまったかっこ悪ぃ。

 ……いや待てよ。

「そっか、私が間違ってたか」
「……うん。間違ってたもん」
「そっか、それで、結局何年かかるんだ?」
「う、うるしゃい!!」

 ぐずっていたはずのメディスンが急に大きな声を出す。
 勢い余って口の端から毒霧が漏れ出したのはご愛嬌だ。

 それにしてもたしか66兆年とかそんくらいだったはず。
 球分の体積を間違えてたのでなんとも言えないが、ざっとそのまま3倍とかそんなだろうか。
 遠のいてんじゃねーか。

「180兆年くらいか?」
「うーるーさーいー!」

 ポカポカと頭を殴りつけてくる幼子をそのままにさせながら、自然にやめるまで待つことにする。
 完全に素で間違えた。
 不覚だった。
 コイツもよく気付いたもんだ。

「よく1日で調べたもんだな、偉いぞ」
「んー? 1日じゃないよ?」
「え? ああ、そっか」

 昨日と今日で2日か。
 どっちにしろ行動が早いのは良いことだ。
 というかまずちゃんと動き始める所がまずえらい。
 大半の奴は口だけやるやる言っておきながら全くやろうとしないし、何でやらないのって聞くと逆切れするやつもいるくらいなのに。
 将来有望な子だ。
 幽香にたっぷり愛してもらえ。

「うん」
「そんで、どうすんだよ。180兆年かけるのか?」
「……んー、わ、わかんない」
「そうか、できそうだったら別にそれでもいいんだ。だが、ダメそうだったら他の方法考えな、せめて1000年くらいでできそうな案をさ」
「そーする」

 実際問題。
 似たようなことに取り組んでいるお方もいる。
 人類殲滅、神様撲滅、妖怪の妖怪による妖怪のための世界を作る。
 この世を妖怪の物に。
 その為に日夜努力し続けている人物を。

「ねぇ、私、お使いの途中だから、行かないと」
「ん? ああ、いってらっしゃい」
「あんたも来る?」
「いや? 着替えに帰る」
「あ……、ご、ごめんなさい」
「だからもういいっつの」

 まあ我らが管理者の話は置いておくとして。
 お使いの途中だったらしいメディスンと別れ、私は着替えるために家に戻ることにした。
 出てきてこけて帰るだけになってしまったが、メディスンに下剋上の芽がうっすらとでも見えたのでよしとする。
 服の汚れとは裏腹に気分の晴れた私は、矢印模様の洋傘をくるくると回しながら里を後にした。
 割とルンルン気分であった。

 しばらく歩いていると視界が急に明るくなったように感じられ、何だと思って空を見上げてみたら太陽が雲の間からかなりはっきりと姿を現しているのが見えた。
 ためしに傘から手を出してみても手が濡れない。
 歩いているうちに雨が上がっていたようだった。
 いいね、いい天気だ。

 いい天気だと気分がいい。
 お日様を見ると元気が出てくる。
 そんな妖怪らしからぬ朗らかな感想も、私なのだからしょうがない。
 私は地底生まれの天邪鬼。穏やかな生活を送りながら、激しい危機感によって目覚めたスーパー鬼人なのである。

 雲の切れ間から直射日光を浴び、洋傘を丸めたところで景色が斜めになった。
 空が歪み、地平線が傾き、地面が迫って来る。

「……?」

 側頭部をしたたかに打ちつけながら、風呂敷から飛び出た将棋の駒が、辺りへ零れていくのを呆然と見ていた。
 もしかしたら私は突如として地面に倒れ伏したのかもしれなかった。
 なんだ? 日射病か?

 何が起きたのかわからず立ち上がろうとしてみるが、身体に力が入らず半身すら起こせる気がしない。
 誰かから攻撃を受けているのかと首から上だけで辺りを見回してみるが、周囲には無人の草原が広がっているだけで、鳥と小動物以外の影は見受けられない。

 攻撃が病気か、それこそ風邪でも引いたのかと無理やり身体を起こそうと腹筋に力を入れると、同時にグゥという漫画チックな腹の音が私の中から聞こえてきた。

「……お、おいおい」

 不調の正体が単なるエネルギー切れであったことに安堵しつつも、数日間なら飲まず食わずで活動できる私がなぜ倒れなければならないのかと、理不尽な怒りに駆られる。
 それ以前にギリギリになるまで気づかないとか、私の身体はどうなってしまったと言うのだ。
 なんだかとんでもない悪影響がこの身に起きているような気がして、我が事ながら他人事のように感じている自分がいた。

 忘れてた。
 腹減ってたんだった。
 というか眠れないから散歩しに来たんだった。
 完全に忘れていた。
 それもこれもメディスンのせいだ。
 というか針妙丸がいないせいだ。

 もういいやこのまま泥の中で寝てしまえ。
 いくらか休めば体力も回復するだろう。
 服は、もういいだろう。諦めよう。洗って落ちるような汚れ方じゃないかもしれないが、最悪買い換えてしまえ。
 そう思えば気が楽だった、どうせバザーで買った安物だ。

 そうと決まれば話は早い。
 身体も現金な物で、休めると思うと力が出るらしい。
 起きようとしたら上体すら起こせなかったクセに、ゴロリと仰向けに寝転がるのには何の抵抗も無かった。

 ああ、気持ちいいな。

 背中と後頭部に雨水の冷たさを感じながら、私は太陽が真上に上った空を見上げた。
 四肢を投げ出し、草むらの上で大の字に寝転がり、時間を忘れて風の音に耳を傾ける。
 何とも贅沢でロマンチックな時間の使い方であった。
 トンビかなにかが円を描いて飛びまわるのを眺めながら、私はゆっくりと目を閉じた。

 なんだかようやく眠れそうだ。
 何故だかすごく、久しぶりな気がした。





 クツクツという何かが煮えるような音と共に、暖かな空気が香るように私の元に漂ってきた。
 その香りはとても優しく、柔らかく、人を安心させるような懐かしさを湛えた心地の良いものであった。
 思わず現状に気を許してしまいそうになった私であったが、そこはレジスタンス、ここで寝たふりをしながら周囲への観察を試みるのが私だ。
 ここはさっきまで私が寝ていた草むらではない、それどころか屋外でさえない。
 ペラペラな布団に包まれながら、私は民家の一室にいるようだった。
 拉致られた、というよりは介抱されたのだろう。
 服も下着ごと着替えさせられていたし、今着ている服がだいぶサイズの大きいものであることからも、どこぞのおせっかいが私を拾って自宅まで連れ帰ってのであろうことは明らかであった。
 というか違ったらヤバい、他の可能性にろくなのが残っていない。

「私が起きたぞー!」

 ひとまず危険はないと判断し、布団を跳ね上げて台所があるであろう方向、つまり良い香りが漂ってくる方向に向かって叫ぶ。
 声がかなりガラガラしていたが、喉でも痛めたのだろうか。
 うがいしてこよう。

「あ、起きた?」
「うがいしたい」
「なによその余裕、あんた倒れてたのよ……?」
「割と慣れたシチュエーションなんだよ」
「どういう人生よ」

 部屋の障子戸を開け、ひょっこりと顔を出したのはいつぞやの狼女であった。
 大柄な鬼にカツアゲされ、抵抗することなく降伏しようとしていたあいつだ。
 私は人の顔は忘れない方だし、たぶん間違いないだろう。

「お邪魔してます」
「いやうん、私が連れてきたんだけども」
「ふーん」

 洗面所の場所を教えてもらい、手洗いうがいをしながらついでに顔も洗う。
 そうすると歯磨きもしたくなってくるが、人生には我慢も必要だ。

 私の体重でですらキィキィと音の鳴る廊下を歩いていると、ふと近くの窓から外の景色が目に入った。
 窓から窺えたのは密度が高すぎて先が見えなくなるほどの竹林であった、そんな地形は幻想郷に1か所しかない。
 昨日と今日で景色が変わる、一見さんお断りの竹の樹海。
 迷いの竹林であった。

「……」

 さらにその竹林の竹と思われる竹竿に、私の服が吊るされている。
 西日を浴びながら乾くのを待つ私の服は、あの狼女が洗濯してくれたんだろうが、泥の汚れが模様のように染みついていた。
 彼女の技量をもってしてもやっぱり無理だったか。
 どんな腕前だかは知らないが。

「ご飯食べてく?」
「いいんか? ありがたくいただこう」
「じゃがよ」
「……ん?」

 さっきまで寝ていた部屋まで戻り布団を押入れに片付けていると、例によって狼女が障子戸の隙間から顔を覗かせる。
 前回と寸分たがわぬ位置と角度であることから察するに、よくああやってここにいる人に話しかけているのかもしれなかった。
 歯ブラシも3本あったし、独り暮らしじゃないんだろうな。

「肉の無い肉じゃがよ」
「ヘルシーだな」

 昔、金が無くてろくに食えなかった時代、ご飯に福神漬けを乗せてル―無しカレーと洒落込んでいたことが私にもあった。
 それどころか夕飯が玉ねぎ一個とかだったこともあるし、1杯200円のラーメンをリグルと金出しあって半分こしてメンマを取り合ったこともある。
 せめてチャーシューを取り合いたかったが、そもそも入ってないのでそれ以前の問題であった。
 そのころに比べればはるかに贅沢である。
 一汁一菜、じゃがと味噌汁にたくあんまで付いているのだから、おかずとしては十分すぎた。

「うん、うまい」
「く、苦労してるのねあんた」
「今はもうチャーシューメンの大盛りに餃子を付けられるくらいにはなったさ」
「……へー」

 そろそろ表替えが必要になりそうな畳に、煎餅みたいになってる座布団を敷く。
 そして木製のちゃぶ台を挟むように2人で座り、いただきますと声をそろえた。

 このおせっかい狼女、今泉影狼と名乗った彼女は、その鋭そうな名前とは裏腹に争いを好まない大人しい性格の妖怪であった。
 ある意味妖怪の風上にも置けない人格ではあるが、そこはそれ個人の自由という物だ。
 そのせいでいかなる不利益を被っても、自己責任ではあるが。
 大人しい方が不利、というのも不思議なものではある。

「大人しいからじゃなくて弱いからだと思うわ」
「弱くても好戦的なのはいじめられないぞぉ」
「でも怪我は絶えないんでしょ」
「まあな。山椒は小粒でもピリリと辛いってやつさ」
「痛いのは苦手なのよ」

それを上手いこと挑発してその気にさせるのがレジスタンスなのだけどな。

「それで、今度は誰と喧嘩したのよ。あんな泥まみれで転がっててさ」
「ちょっと人形みたいな幼女にドロップキック喰らってな」
「……言いたくないんならいいわ」
「本当だよぉ」

ジャガイモを箸で崩しながら、影狼が呆れたようにため息を付く。
本当なのに。
なあ八橋、信じてもらえないって辛いよな。

「叩いても踏んでも起きないし、もしかして野垂れ死にするとこだった?」
「金髪幼女にドロップキックを喰らってな」
「ははーん。さては図星ね」
「……どうしたもんか」

「この間の借りよ、ゆっくりしていくといいわ」
「律儀なことで」
「弱小階級は助け合いが基本なのよ、あんたも困ってる人見たら助けてやんなさい、お金ないなら違う方法でもいいからさ」
「別に貧乏でもないが」
「はいはい強がんないの」

 どうやらこの子は物事を決めつけてかかるタイプらしい。
 肉の無い肉じゃがの汁をご飯にかけながら、私はふと気が付いた。
 というか気付くのが遅かった。

「なぁ影狼、お前ここに1人で住んでんの?」
「んーん?」

 まあ茶碗も複数個あったし部屋も広めだし、家族で住んで入るんだろうけど。
 他の人はどうした。
 というか家族に無断で私を拾っていいのだろうか。
 部屋の内装からして貧しいわけでもないのだろうが、決して裕福って訳でもなさそうなのに。
 1LDKの一軒家を持っている時点で勝ち組かもしれんが。

「ママはお友達と食事行ってる。パパも似たようなもん」
「娘ほっぽって?」
「まぁね、今日は特別。お休みだし」
「ふーん」

 ほらこれ見てよ。と影狼が箸をカチカチと鳴らす。
 器用な所は見て取れたが、行儀が悪いことも同時にわかった。

「うち、竹の加工品作ってるの。箸とか水筒とか」
「……ほぉー」
「パパもママも中堅妖怪だし。かなり安定しているのよ」
「へぇー」
「ふふん」

 自慢げに語る影狼であったが、実際のところ自慢できることだ。
 カツアゲに遭ったら財布渡して逃げろと教わっているみたいだし、大事にされているみたいだった。
 でも竹の加工品ってなにがあるんだろうな。竹細工とか今度調べてみるか。

 よく部屋の中を見回してみると、部屋の中にも竹製と思しき置物がちらほらと見える。
 特に目を引いた鳳凰を象ったような鳥の置物は、竹であることを感じさせないような見事な出来栄えであった。
 実用品だけでなく、芸術品や工芸品方面にも手を伸ばしているのだろうか。
 いい腕してそうであった。

「……なぁ、あれも竹でできてんの?」
「あー、あれ? パパがファンなのよ」

 だがその鳳凰の隣に置かれたビスクドールと思しき人形は、和風な室内においてかなりの異彩を放っていた。
 鳥は鳥でもこちらは雀であり、もっと言えば夜雀であり、さらに言うなら我らがアイドルミスティアであった。
 いつの間にか本物のアイドルになっていたことはご愛嬌としても、フィギュア化までされているとは知らなかった。

「ママはみっともないからやめてって言ってるんだけどね」
「そうなのか」
「それで危ない目とかにも遭ってるっていうのに」
「家計とか圧迫するほどなのか?」
「ううん、お小遣いの範囲でやってるって供述してた」
「じゃあ許してやんなよ。パパにだって行動自由の原則がある」
「まぁね。でもいい大人がアイドルのライブで騒ぐのも恥ずかしくない?」
「知られて恥ずかしいことを生涯1度もしたことが無いんなら、そう言えばいいんじゃん?」
「……うぬぬ。そりゃ私だって白馬の王子様を夢見て遠吠えしたり、熱に浮かされて暴れ回ったこともあるけど」
「最近か?」
「最近だけども」

 ゴメンそれたぶん私のせいだ。

「でも今はしてないもん」
「平和的にストレス発散してるんだから好ましい部類だろ」
「ストレスねえ、パパも大変なのかな」
「一家の大黒柱なんだ。妻にも娘にも見せない苦しみくらいあるんだろ。それがわからない程子供でもあんめぃ」
「まーぁね」

 ご飯をかっ込みながら影狼が言葉を飲み込んだ。
 対する私もたくあんを一切れいただいて齧る。
 うむ、ちょっと甘みが強いがいい味だ。

「でもアイドルってねー。もうちょっと他人様に見られてもはずかしくない奴でストレス発散できないかなー」
「……イケメンで優しくて稼ぎが良くて、家族思いでたまの休日は家族サービスに余念がなくて、趣味はウケのいいものばかりで娘の要望はなんでも聞いてくれる」
「……いやー」
「そんな父親が理想か?」
「さすがにそこまでは言わないわよ」
「その通り。重要なのは理想的かどうかじゃない。許容できるかどうかだ」
「……」
「パパは理想的じゃない、ママだって理想的じゃない、娘はどうだ完璧か?」
「むぅー、そうだけどさ」
「別に犯罪でもなんでもないんだ。パパの楽しみを奪ってやるなよ」

 会ったこともない今泉パパを弁護しながら味噌汁を飲み干す。
 あー、うまかった。
 料理上手だなこの子、きっといいお嫁さんになるだろう。

「今日もライブ聞きに行くんだって言って昼から出掛けちゃってるし」
「……っ、え?」
「なんかファンクラブ総出で設営とかまでやらされてるらしいし。タダ働きみたいだし酷い話よね」
「え? 今日? ライブ?」
「そうよー、ママも呆れて遊び行っちゃうし」

「え? あ? あれ? 鳥獣伎楽だよな。明後日じゃないのか?」
「そんな名前だったわね、よく知らないけど」
「……私は何日寝てた?」
「は? 3時間くらいよ? そんな漫画じゃないんだから貧血で何日も寝込むわけないでしょうよ」
「……」

 ど、どういうことだ?
 八橋に会ってチラシ見たのは昨日だろ?
 そん時3日後って。

「……」
「ど、どしたのあんた、脂汗かいてるわよ?」

 私が原っぱで倒れてから影狼に見つけてもらうまでに数日経った?
 それこそまさかだ。

「……」

 メディスン。
 やっぱり1日で調べられるものじゃなかった。
 あの時点ですでに?
 てことはなんだ。私は眠れないまま、ボーっとしながら、数日間家の中で過ごしてたのか?
 からっからの快晴だったのにいきなり本格的な雨が降ってたし変だなとは思ってたが。

 ああそうか、数日くらいなら不眠不休の飲まず食わずで活動できる私が倒れたのは、数日間不眠不休で飲まず食わずだったからか。

 やっばいだろこれ。
 私の頭どうなっちゃってるんだ。
 とうとういかれやがったか。
 もうちょっと耐えてくれ私の頭。
 せめて針妙丸を奪還するまででいいから。

「ちょっとごめんよ」
「え? だ、大丈夫なの?」

 影狼の脇を抜けて玄関へ進み、生乾きの靴を履いて外へ出る。
 そのまま空へと飛びあがり、竹林の間を縫って上へと飛び出た。

 無い。
 昨日(?)までうっすらと幻想郷を覆っていた打出の小槌の魔力が、消えて無くなっている。
 魔力の回収期が終わっていた。

「ねぇちょっと。どうしたのよ」
「……悪ぃ影狼。急用ができた」
「え? あんたもライブ行くの?」
「いや、危うく大事な約束すっぽかすところだった」
「……そう」

 改めて影狼に礼を言い、生乾きだった服に着替える。
 そのまま着ていっていいと影狼は言ってくれたが、時間的にまだ猶予はある。
 一旦帰って着替える時間くらいはあると説明した。
 それにいくつか、取りに行きたい道具もある。

「そう、気を付けてね。あんた死に急ぎなんだから」
「誤解だ、私は生き急いでんだよ」

 これまた生乾きの風呂敷を背負い、じゃあなと手を振って別れを告げる。
 少し、急いだ方が良いかもしれない。

「ねえ、あんた」
「ん? 忘れ物でもあったか?」
「名前聞き忘れてたわ。あんたどこの誰よ」
「あれ?」

 そうだった。
 完全に名乗った気でいたよ。

 いいだろう教えてやろう。
 我こそは幻想郷に巣食う悪霊。
 弱者に自分を救わせるレジスタンス。

「鬼人正邪だ」
「うっそ、あんたが……あの異変の……?」

 目を丸くする影狼に背を向け、私は走り出す。
 そうだ、私がその異変のそれだ。
 弱者に抵抗を強要する、幻想郷の『ひっくり返す者』。
 針妙丸の待ち人だ。

 待ってろ姫様、今行くぞ。





 幻想郷の東の果てには何がある。
 時と状況に応じて神社全体が外を向いていたり内を向いていたりと180度回転する不思議な神社、博麗神社がある。
 今は幻想郷の内側を向いているその鳥居の上に立ち、神にでもなった気分で羽を休ませる。
 遠くを見ればおよそ数キロ先、東の里のごく近く、先日八橋と出会った切り株あたりに薄ぼんやりとした明かりがともっていることが見て取れた。
 この距離であれだけの光が見えるってことは、向こうは相当な光量なのだろうと推測する。

 八橋、どうなっただろうか。
 無事に乗り換えはできただろうか。
 姉も新しい憑代は見つかっただろうか。

「……」

 考えていてもしょうがない。
 向こうは向こうに任せるのが筋だ。
 私は自分の頬を打ち、やるべきことに専念することにした。

 私は手のひらの中で妖力を練る。
 そして親指と人差し指で輪を作り、OKサインのように顔の前に掲げた。
 石鹸水でシャボン玉でも作るかのように、輪の中に薄い妖力の膜を張る。

 天邪鬼七つ技術その6、望遠術。
 同様の術を両手で行い、望遠鏡でも覗くように2つの術式を通して遥か遠くを見通す。
 真っ先に目に入るのはミスティアと響子。
 数キロ先でギターを鳴らす夜雀と、マイクに向かって牙を剥く山彦の妖怪がステージの中心に陣取っていた。

 そのステージも丁寧な装飾がなされ、あの切り株だとは思えないほどにしっかりと『ステージ』となっていた。
 とてもじゃないが、あそこで昼寝はできないだろう。

 そんな2人から少し離れたところ、所狭しと並んだ妖怪達の分布が、絶妙に手薄になっているところを見つけた。
 それもそのはず、その中心にいるのは厄介極まりない素敵な巫女さんであったからだ。

 そんでもってそう、その隣にいたのは。

「……もう足向けて寝れねーなぁこりゃ」

 その博麗の横でまずそうに焼きそばを啜っているのは誰であろう八雲の末席、橙であった。
 ミスティアが確実な仕事をすると評価する人物。
 なるほど確かにこいつなら間違いない。
 パワーでもスピードでも妖力でもない、対応力を、決断力を買われて八雲に加入した奴なのだから。
 真にやると決めたのなら、誰が止めようが完遂するだろう。

 その橙と、不意に目が合った気がした。

 ニンマリとほほ笑みながら橙がこちらに向けて口をパクパクとさせてくる。
 天邪鬼七つ技術その2、読唇術。

「……」

 『まかせろ』だそうだった。
 OK、そっちはまかせた。

 それとそうだ、今川焼窃盗の被害届は取り下げておこう。
 覚えてたらな。

 あとはこっちだ。
 私は鳥居に足を掛け、上下さかさまにぶら下がる。
 眼前に写るのは、天と地が逆さになった博麗神社。
 博麗の巫女が不在にもかかわらず、明かりが灯っていた。
 色合いからして電気じゃなさそうだ、たぶん行燈かなにかだろう。

 針妙丸のために点けていってくれたのか、あるいは針妙丸が勝手に点けたのか。
 それとも、他に誰かいるのか。

「……」

 見た感じ、動くような影は捕えられない。
 電話でもあれば留守を確かめられるんだが、管理者による技術制限とかいう奴のせいで幻想郷の文明はいまだに江戸時代と大差がないのであった。
 この辺の技術も早く解禁してくれればいいのに。

 仕方がないのでそのまま突撃。
 有り体に言うとめんどくさくなった。

 神社の柱に仕掛けられていた結界用の護符をはがし、床下に描かれていた警報用と思しき術式をニッパーで断線させる。
 ついでに屋根にあった信号送信用のアンテナをペンチでへし折り、玄関のドアを工具で外して侵入した。
 こんな程度なのかよ不用心だな。
 これならうちの方がよっぽど厳重だぞ。

「針妙丸ー、いるかー?」

 初めて入る博麗神社。
 玄関で靴を脱ぎ、板張りの廊下を歩いて行く。
 明かりの点いていた部屋の障子を開け、やたら生活感の漂う空間に足を踏み入れた。

 明かりはやはり行燈だったようで、ちゃぶ台の飲みかけの酒や食べかけの肴が、暖かな光に照らされていた。
 部屋そのものが割と広めな上、物が少ないためか余計にスペースがあるように感じられる。
 普段はここで宴会とかするのだろうか。

「ぐごー、ぐごー」
「……」

 そのちゃぶ台の上、乱雑に転がっている空のとっくりに埋もれるように、宝石箱のような鳥かごのような、可愛らしい小さな箱から誰かのいびきが聞こえてきた。
 小槌を括りつけられたその小振りな家の中を窓からのぞけば、人形のような小人がひっくり返って寝ているのが見えた。

 私の同志、私の相棒、私の姫君。
 手のひらサイズの共犯者、少名針妙丸であった。

「……せーいじゃちゃん」
「え?」

 ううんと寝返りを打ちながら、針妙丸が私の名前を口にする。
 夢の中でまで私と共に下剋上に励んでいるらしかった。
 何て健気な奴だ。私、感激。

「正邪ちゃん、どーん」

 そして寝たまま何かを踏みつけるように姫様がミニチュアのベッドを蹴りつける。
 この傍若無人な寝相は間違いない、私の針妙丸だ。

「針妙丸……、針妙丸!」
「ぐごーがー」

 こちらの気も知らずに涎を垂らす針妙丸に、私は大声で呼びかけた。
 ああもう、会いたかったぞ待ちわびたぞ!

「迎えに来たぞ!」
「んう? だーれ?」
「私だ! お前の同志だ! メロスはここにいる!」
「あと5分」
「うるせぇ! 行こう!!」

 王者の貫録なのか寝ぼけているのか、目元をこすりこすり針妙丸が起き上がる。
 そして小さな窓越しにその御尊顔と目が合った。
 私だぞ針妙丸、私が迎えに来たぞ。

「……」
「よぉ、久しぶり」
「……」
「針妙丸?」
「せ」

 寝ぼけ眼だった針妙丸の瞳が、はっとしたように切り替わった。
 それはまるで、枕元にプレゼントを見つけたクリスマスの子供の様であった。

「正邪ちゃん!!!」
「おおう。私ですとも、姫」
「うおおおおお!! 正邪ちゃん正邪ちゃん正邪ちゃん待ってたんだぞ正邪ちゃん! 長かったぞいつまでも待ってたんだぞうっひょおおおおお!!」

 両手両足で窓枠に飛び付き、針妙丸がガッコンガッコンと家全体を揺らしだす。
 変わんねぇなあこいつ。
 いつもの針妙丸だ。

「会いたかったぞーーー!!」
「私もです」
「うおおおおおおおお!!」

 テンションが高まり過ぎて自分を制御できないのか、針妙丸が狭い部屋の中をドタドタと走り回ってはあちこちぶつけて転げまわっている。
 狭かろう。
 そんな部屋じゃ、お前には狭すぎるだろう。

「正邪ちゃん正邪ちゃん!」
「なんですか姫」
「上に小槌が付いてるよ!」
「ええ、見えてますよ」
「回収期もたぶん終わった!」
「そのようですね」

 紐で括り付けられていた小槌を外し、手にとって見せる。
 見た目に反してそこそこの重量感のあるこの小槌。触れればわかる、中にはち切れんばかりのエネルギーが詰まっていることが感じられた。
 これこそが打出の小槌の本来の状態。
 鬼の妖力をその身にため込み、ガソリン代わりに使い倒す。
 実に冒涜的に素敵な道具であった。

「正邪ちゃん正邪ちゃん!」
「なんですか姫」
「うまくいった!?」
「……順調ですよ。みんな下剋上精神の、その片鱗を見せています」
「マジで!? いやっふーー!!」

 またも窓枠に張り付く針妙丸に癒されながら、小槌を一旦ちゃぶ台に置いた。
 今はこんな物より、針妙丸奪還の方が先決だ。

「さぁ、これでレジスタンスが全員揃ったぞ針妙丸」
「もう無敵だね!」
「そうとも! さぁ下剋上を続けよう! やることはいくらでもあるぞ!」
「いいよ! やってやるぜ! もうずっと退屈でしょうがなかったんだよ! だから正邪!」
「おう針妙丸!」

 希望に満ち溢れる私たちを誰も止める事は出来ない。
 1人でも最強な私たちは、2人揃えば無敵となるのだ。

 明日から忙しくなる。
 くすぶってる連中はいくらでもいる。
 まだやってる様だったらミスティアのライブに行ってもいい。
 それで博麗をからかってくるのも楽しそうだ。

 だから針妙丸、さぁ早く。

「「カギ開けてよ」」

 2人で見つめあったまま、お互いに何を言っているのかわからずしばらく身体が停止した。
 そして。

「「うん?」」

 と、息ぴったりに頭に疑問符を浮かべる私達は、これまた同じタイミングで針妙丸ハウスの入り口のドアを凝視する。
 私は外側から、針妙丸は内側から。
 オモチャみたいな扉に手を伸ばしてガチャガチャと動かしてみるが、やはり鍵がかかっているような感触しか帰ってこない。
 ドアノブ付近を触ってみても、稼働するようなところは見つからなかった。

「正邪、開かない?」
「……ちょっと待ってろ」

 私は風呂敷を開き、自作のルーペを取り出した。
 ルーペと言ってもレンズは無い、枠と柄だけのマジックアイテム。
 天邪鬼七つ技術その6、望遠術の応用編。
 レンズの代わりに妖力をルーペの輪っかに流し込み、倍率を固定する。
 身体を寝かせてぶれないように固定し、手元のつまみをクリクリと回して輪の大きさを調整、倍率を上げていく。

「……」

 調整自在な妖力の凸レンズにさらなる力を込める。
 妖力の存在を視覚情報として写してくれる瘴気版のサーモグラフィでドアを覗いてみると、そこに確かに回路状に根を這わす妖力の流れが見てとれた。
 鍵だ、鍵がかかっている。

「ざっけんなよ」
「……正邪?」

 あの巫女、鍵を掛けやがった。
 針妙丸をこんな狭い所に閉じ込めやがった。
 こんな狭い所に、こんな小さな所に……っ。

「ざっけんなよ人間風情が!!」
「うわぁあ!! やめて! 正邪ちゃんやめて!! 酔う! 吐く!」
「オラァ!!」

 小屋を振るって針妙丸を端に寄せ、反対側を拳骨で思い切りぶっ叩く。
 何度も何度も、ちゃぶ台を砕いて小屋を畳に叩きつけてもなお、やめることはなかった。
 しかし、妖力を込めた本気のコブシだったにもかかわらず、壁にも屋根にもヒビ1つ入らない。
 信じがたいほどに頑丈に作られているようだった。
 火事にでもなったらどうするつもりだったんだ。

「……ちっ」
「う、うええぇぇ。舌噛んだー」
「……」
「正邪ちゃんやるなら先に……、って血が出てるよ正邪! うへぇ痛そう……」

 右手から上ってくる痛みを他人事のように感じながら、私は打出の小槌に手を伸ばした。
 こんな小屋、コイツの力で吹き飛ばしてやる。

「針妙丸! 小槌を起動しろ! 少量なら使ってもすぐにまた回収できる」
「ダメだよ正邪、この脱出劇に小槌は使わない」
「なんでだよ!」
「それじゃ面白くないでしょ!」
「んなこと言ってる場合かよ!」
「場合だよ! なんで私がこんなところに閉じ込められて大人しくしてたと思ってるんだよ!」
「……っ」
「異変からの一連の流れは全てがゲームだ! 小槌も逆さ城も弾幕ごっこも! 『だから私は処分されないんだ』! 最後までフェアにやらなきゃケチがつく! 小槌は使うな! 命令だよ!!」
「……」

 くっそ、だめだ。
 こうなった針妙丸はテコでも動かない。

 確かにこいつの言う通り、針妙丸本人と回収期を終えた小槌とを、小槌を使わずに奪還する。
 証拠もなく、音沙汰も知れず、黒幕はその姿をくらまし捜索不能となる。
 針妙丸の脱走を以って、今日で全てが未解決として確定する。

 これが最も後腐れなく無駄のない結末だ。
 『明日も微妙に回収します』じゃあ、画竜点睛を欠く上に、蛇足まで付いているように感じられる。
 パーフェクトとは言えないだろう。

「返事はどうした従僕!」
「……わかりましたよ。なんとかします」
「うん、頼んだ」

 開いたら起こして。
 そう言って針妙丸はベッドの上を乱雑に片付けると、その上でまたぐーすかと寝息を立て始めた。
 さすがは私の姫君だ。
 ロックが過ぎる。

「……うっし」

 私はうんと背筋を伸ばし、改めて気合を入れ直す。
 そうだ、これは私の仕事だ。
 異変の責を問われて軟禁中の針妙丸を、相棒の私が奪還する。
 異変は終わり、レジスタンスは終わらない。
 これが私たちのシナリオだ。
 私が開けなきゃいけないんだ。

 針妙丸のおかげで心のエンジンが全開となった私は、ルーペに望遠術を張り直し、改めて小屋を観察した。
 一か所だけではなく、すべての面をあらゆる角度で。
 中の針妙丸を起こさないよう気を付けながら全体を持ち上げ、裏側まで確認する。
 続いて風呂敷から羊皮紙と特殊な加工をして針金状にした水銀を取り出して畳の上に敷き、さらにその上に小屋をそっと載せる。
 常温でも固体として存在する魔法の水銀。マジックアイテムを作ったり調べたりするには必須の高級品だ。
 この特殊な水銀のケーブルに羊皮紙を繋ぎ、小屋の各部と接続すれば、小屋の周囲にあふれ出ていた魔力に反応してある規則性を持った模様を描き出す。

 天邪鬼七つ技術その7、解析術。
 マジックアイテムなんて一皮むけば電子基板とやってることは一緒だ。
 ルーペと羊皮紙で中の回路を暴き出せば、開錠くらい。

「あ、それ見たことある」
「……起こしちゃいましたか?」
「小槌を調べてたやつでしょ」
「よく覚えてますね、偉いですよ」
「えへへへ」

 針妙丸が窓からこちらを覗いてくる。
 私が揺らすもんだから眠れなかったのか、それとも退屈で起きてきちゃったか。

「針妙丸、その窓から出れないか?」
「ん? これちょっとしか開かないよ」
「マジで火事にでもなったらどうする気だったんだ」
「この部屋ごと飛んで逃げるよ」
「……その手があったか」

 窓から腕を出しながらピコピコと振って見せる針妙丸。
 その手に指を近付けて握手してみるが、そんな事では扉は開かない。
 どうする、箱ごと持っていっちまうか。
 博麗が帰ってくるまでまだいくらかの余裕はあるだろうけども、時間制限があることに変わりはない。
 とりあえず今のまま持っていき、時間をかけて解除するってのもありに思える。
 窓はちょっとでも開くらしいし、空気や食料はそこから何とかできるだろう。

「ダメだよ正邪、ここで開けて」
「……ですよねぇ」
「部屋ごと無くなったら『開けられなかった』ってことだもん。閉じ込められたままだと思って心配かけちゃうよ」
「なんとかします」

 やっぱそうだよな、脱走なんだから、もぬけの殻じゃないとらしくないよな。
 しかしどうする。
 羊皮紙のおかげでなんとなく回路は見えるけども、どこをどうしたら鍵が開くかまではまだわかっていない。
 このまま続行するか、他の方法を考えるか。

「わかる? 正邪」
「ええ、魔法か妖術で鍵がかけられています。おそらくこの小屋付属の術式で、この小屋自体がマジックアイテムなんでしょう」
「ちなみにこっちからは全然開かないよ」
「そうですか」

 と、そういえば。

「なぁ、いつもこれ開ける時ってどうしてるんだ?」
「いつも? いつもは鍵なんてかけてないよ。今日だけ特別かかってた」
「……そうなのか? なんで今日に限って」

 私が来ると思ったのだろうか。
 橙の言動に不自然な所でもあったのか、いずれにせよ勘の鋭いことだ。

「だからこの鍵を開けるところを見たことないの」
「わかりました。十分です」

 何が十分かというと、ルーペ越しの魔力の流れに規則性を見つけたということだ。
 こんなもの、私にかかればじっぷんだ。

「針妙丸」
「ん? なぁに?」
「好きな数字4つ言ってみろ」
「……んー、4つも無いなー」

 小さなドアの近くにあった、さらに小さな呼び鈴。
 この呼び鈴はイミテーションじゃない、内部の回路に接続された、れっきとしたスイッチであった。
 それも別に、音が鳴るとかそんなんではなく。

「パスワード入力」

 このスイッチを押してみると、アスタリスクと数字が並んだ画面がAR技術よろしく立体映像のように空中に表示された。
 アスタリスクの数は4つ、並んだマス目に行儀よく詰まっている。
 その下には数字のボタン、0から9までが1つずつ。
 さらにその下にはご丁寧に『実行』と『取消』のボタンまである。
 入力しろ、とインターフェースがそう言っているようだった。
 なにこの近未来感、素敵。

「4桁の数字のパスワードが必要だ。わかるか?」
「……んー? そんなものは全然心当たりないかも」
「そっか」

 さてどうしたものかと頭を抱える。
 4桁の数字。
 まさか部屋の中にメモを残してあるとは思えない。
 あるいは博麗本人がメモくらい持っているかもしれないが、今ここに無ければ意味がない。
 どうしたものか、ノーヒントでどう解除する。

「あ、でも正邪ちゃんあいつなら知ってるかも」
「あいつって誰です?」
「あれ? 見なかった? そこでお酒飲んでたのに」
「……は?」

 改めてちゃぶ台の方を向いてみる。
 さっき私が小屋ごと殴った為に派手に壊れているが、一部になぜか年輪のように歯形が付いてはいるものの、一応原型くらいは留めている。
 そしてその周りに散乱しているのは、空になったとっくりと肴の乗った皿。
 まさか、他に誰かいるのか。

「博麗が飲んでたんじゃないのか」
「ううん? 博麗はなんか猫さんと一緒に遊びに行っちゃったよ」

 じゃあ誰だ。調べた限りじゃ博麗の巫女は独り暮らしのはずだ。
 昼間は退治屋が入り浸ってたりすることもあるらしいが、誰かと同居しているなんてことは無かったはずだ。

「あーっれー? れいむー、帰ってたーのかー? ほひょひょひょひょひょ」
「……」

 そしてゲロ臭いにおいを振りまきながら現れたのは、とても小柄な、それでいて不釣り合いなほどの大きな二本角を持った鬼であった。
 最強種族。
 山の旧支配者。
 そんな触れ込みからは程遠いような外見の小鬼が、そんな言葉では到底足りなそうな妖力を振りまいていた。

「あん? だーっれだいお前さんは」
「この鍵の番号知ってるか?」
「ああん? 聞ぃてんのはこっちじゃんかよー」
「……なんだ知らないのか」
「なんだおめぇ、空き巣かー? いーい度胸してんじゃないかお前さん」

 何が面白いのか、酔っぱらった鬼が腹を抱えて笑いだす。
 ふざけたツラだ、気持ち悪ぃ。
 それよりこっちだ。こっちをなんとかしないと。

「おいおいおいーっす。聞いてんのかよお前さん」
「……お友達ならならあんたを探してどっかに行っちまったよ」
「へあ? なんのこと?」
「知り合いじゃねぇのか? そこのちゃぶ台ぶん殴ってのすのす歩いて行っちまったぞ。ついさっきだ」
「……いんや? 知らね」
「そっか、追いかけなくていいのか?」
「いいよ別に。誰だか知らないが戻ってくんだろーに」

 そう言ってその鬼はちゃぶ台を片付け、散らかっていたとっくりを拾い上げる。
 そして手に持ったとっくりを軽く振って中身を確かめると、2、3本をまとめて逆さにひっくり返した。

「で? お前は誰だい?」
「……」

 チョロチョロとこぼれてくる酒を頭から浴びて、せっかく着替えてきた服がまたも水気を吸ってしまう。
 今日はよく水に濡れる日だ。

「つめてぇな」
「思ってたより残ってたね」
「……口に入るもんを粗末にする奴とは口をきくなってママに教わってんだよ」
「そろそろ親離れの時期さね」
「心配しなくても空き巣じゃねえから」
「正邪に何すんだ!!」

 言うが早いか針妙丸。
 自分が入っている小屋ごと浮かび上がると、小窓から針を突き出して鬼へと突進していく。
 しかしながら酔ってはいても鬼は鬼、胃袋の中からならともかく正面からでは到底太刀打ちできない。
 蚊でもつまむかのように2本の指で針先を捉えられ、針妙丸の突進は止まってしまった。

「離せよ鬼風情が!」
「おーおー、相変わらず態度だけはいっちょ前だねえ、お前さん」
「私の従者に手ぇ出して生きて帰れると思うなよチビ―――!!」
「……チビって言われた」

 慰めを乞うような視線を私の方を向けながら、鬼が針妙丸をポイっと投げ捨てる。
 チビにチビと言われてショックだったご様子だ。

「しーんみょうまるー。4桁の数字に心当りないか?」
「今そんな事どうでもいいでしょ!? コイツの胃袋をハチの巣にしてやるのが先じゃい!」
「あーもう」
「心臓を捧げよおおお!!」

 内側から小屋を持ち上げながら、姫様は懲りずにまた鬼へとつっかかっていく。
 微妙にフェイントを加えた軌道ではあったものの、鬼を捉えるにはあまりに遅すぎた。
 またも針先を摘ままれ、クルクルと振り回されてしまう。

「は、離せ離せ! 跪け! 命乞いをしろ!」
「命乞いしなきゃいけないのはお前さんの方だろうに」
「次は耳だぁ!!」
「どこの次だい」

 瓢箪から酒を直飲みしている鬼の余裕の態度を見るに、おそらくこの鬼、鬼の中でもさらにランクの高い名のある人物かもしれない。
 片手で天狗とか倒せるのかもな。
 まあ有名だろうがなんだろうが鬼は鬼だ。人の邪魔しかしないのが奴らだ。
 軟禁中にも散々からかわれたのだろう。針妙丸が反発するのも頷ける。

「ほーれ」
「うぉあああああああああっ!!」

 鬼と小人が先程と同じことを繰り返す。
 しかしよく見ると、針妙丸の小屋の入り口付近に表示されている入力待ち状態のコンソールに、数字が2つほど入ってしまっていた。
 遊ばれている間にどこかが触れてしまったのか。

「で、お前さんは誰よ」
「……」

 三度同じことを繰り返す針妙丸を片手で可愛がりながら、鬼が低い位置から私の顔を見上げてくる。
 私が誰かだと?
 知ってろよそのくらい。

「鬼人正邪だ」
「あー、紫が言ってたテロリストか」
「テロリストじゃねえ、レジスタンスだ」
「何言ってんだい、どっちも一緒だろう?」
「辞書を引け」
「あっそ」

 つまらなそうに針妙丸を振りかぶり、私の方へと投げ渡してくる。
 断末魔の如き絶叫を上げながら飛んでくる針妙丸を受け止め、窓から中を覗いてみた。

「大丈夫か針妙丸」
「……空が、空が落ちる」
「ダメか」

 グシャグシャになった室内でひっくり返りながら、お姫様が目を回していた。
 かわいそうだが好都合だ、こっちに集中できる。

「……」
「で? そのテロリストが何の用だい?」

 余裕たっぷりにニタニタ笑い始めるその不快な顔を眺め、気分を害しながらも床に腰を下ろす。
 小鬼は瓢箪からまたも度数の強そうな酒を飲み始めたが、私への視線は逸らしそうもなかった。

「お前にゃぁ関係ない話だ。引っ込んでなぁ」
「そうはいかないね、私はこの神社の留守を預かってるんだ」
「留守? 博麗はいないのか」
「ん? ああ、お祭りに行ってるよ」
「……」

 ん?
 なんで橙はコイツも連れて行かなかったんだ?
 邪魔になることはわかりきってただろうに。

「お前も連れてってもらえばよかったじゃないか」
「うるせーやい。その小人の面倒見てろって呼び出されたんだよ」
「それで来ちゃうんだ」
「ダチの頼みならさ」

 肩をすくめる小鬼だったが、話の流れからして橙は神社にまで迎えに来たわけではないような気がする。
 博麗に1人で来るように言って待ち合わせたはいいものの、その博麗が針妙丸のために人を置いて行くとは思わなかったのだろう。
 つまんないミスだが強くは言えないな。
 まさか鬼を顎で使うとは御釈迦様だって思うまい。

「その子も連れてけばいいのにって思ったんだけどね。なんか軟禁中なんだって? なんだか穏やかじゃないと言うかなんというか」
「そっか」
「それで、その留守を狙って空き巣が来ないか見てたのさ」
「……」

 とっくりと肴の皿が散乱した室内を見る限りだいぶ熱心に空き巣対策に励んでいたようであったが、私にとってそれはどうでもいいことであった。
 私は空き巣でもなければテロリストでもない。
 私は幻想郷の抵抗者。
 今日は仲間の奪還に来たのだ。

「その巫女は、針妙丸を閉じ込めた」
「悪いことしたんだろ? そんくらいしょうがないさ」
「この小さなカゴにだ! これじゃあ監禁だろうが!」
「……なんだって?」

 瓢箪を傾けるのを止め、鬼が驚いたような声を上げる。
 やっぱ知らなかったか。
 近付いてきてガチャガチャと小さな扉をいじり始める小鬼に、小屋の中の針妙丸が反応した。

「何? 開いたの?」
「いえ、4桁の番号がわからず」
「8901とかは?」
「なんですそれ」
「は、く、れ、い」
「……やってみましょうか」

 丁度8と9が入力されていた画面に、0と1を追加で入力する。
 偶然と言うかなんというか、100分の1の確率をこうもあっさり飛び越えるとはさすがは針妙丸だ。

 最後の1を入力すると、画面の右下にあった『実行』と『取消』のボタンがピコピコと点滅しだした。
 初見でも勘で操作できるとはなかなかよい作りだ。

「んじゃ実行」

 そんな軽い気持ちで不用意に実行したのが悪かった。
 小屋を抱えたままポチっとボタンを押した瞬間、私の両手に激痛が走った。

「いってぇ!!」
「あぎゃん!!」

 バチィと音が鳴るほどの強さで小屋から衝撃が迸る。
 電流にも似たエネルギーが、小屋の内外を問わずに触れるものすべてを攻撃したようだった。

「痛ててて」
「うー、正邪ちゃん大丈夫?」
「私は大丈夫ですよ姫。そちらこそ」
「全身打撲だぜ」
「それは鬼のせいです」

 つーかトラップかよ。
 なんて悪質な小屋だ。こんな危険なものに姫を閉じ込めやがって。
 誤作動起こしたらどうするんだ。

「おいおい。なんだい今のは」
「あー? なんでもねぇよ引っ込んでな」
「いやなんでもないじゃないよ。バチっつったぞバチって」

 うざい小鬼を適当にあしらい、改めて画面を見てみると元のアスタリスク4つが表示された未入力状態に戻っていた。

 どうやらパスワードを間違えるとペナルティがあるらしい。
 コイツはますます面白くない。
 全然面白くないぞ、全然だ。

 それにしてもまったく、こんなもので私たちが躊躇うとでも思ったのか、これを作った奴は。
 アホ臭い。

「従僕」
「なんです姫」
「当たるまでやれ」
「……御意に」

 ほれみろ。
 うちの姫はこれだもの。

 とりあえず片っ端から、単純な番号を試す。
 博麗が覚えやすそうなものを。

 『0000』から『9999』のゾロ目10通り。
 『0123』、『1234』……
 語呂合わせで『4649』、『5963』、『4989』……

 実行ボタンを押すたびに、針妙丸の居る小屋がバッチンバッチンと音を立てる。
 同時に聞こえて来る住人の悲鳴から耳を塞ぎ、私は次の可能性を探った。
 連番でも単純な語呂合わせでもなさそうだ。

 だとしたら、なんだ?
 どこかにヒントでもあるのか?

 時間も限られている。
 私は頭を持ち上げ、ざっとで良いから家探ししてみようと立ち上がろうとして、首根っこを持ち上げられるような感覚に襲われた。

「何やってんだよお前!!」
「……あ?」
「さっきっから見てりゃあ……、コイツが苦しんでんのが見えないのかよお前には!」

 無理やり立たせた私の胸ぐらを掴みあげ、小鬼が意味不明な事をギャンギャンと吠えてくる。
 んー、邪魔だ。
 こういう時はこうするに限る。

「もうちょっと待ってなよ霊夢帰ってくるからさぁ! な?」
「そうだな」

 掴みあげてくる両手に私は自らの手を添え、思い切り握りしめた。
 しかし悲しいかな天邪鬼の握力では本物の鬼相手には力不足が過ぎるというもの、この私の手でも握れるほどのか細い腕とはいえ、握りつぶそうと思ったら少なくとも100倍くらいのパワーが必要だろう。
 でもまあ、糸一本分程度の抵抗とはいえ。
 それでもちょっとくらいは対応が遅れてくれるだろう。

「正邪に何すんだ!!」

 もう何度目の突撃か。
 窓から外の様子を確認した針妙丸が、針の剣を片手に小鬼に迫る。
 身をよじって避けようとした鬼の手を取り、足を払い、クルッとひっくり返す。
 いくら力が強くたって物理的に非常識な体重をしてるわけじゃない、ダメージは与えられなくとも体勢を崩すことは私にも可能なのだ。
 あとはそう、私の姫がやってくれる。

「いたたたた! こ、こらやめろ! 私はお前を助けようと……」
「嘘つけ! 邪魔してるじゃないか!」
「お、鬼は嘘つかないんだよ! なんだよお前、怪我するぞ!」
「いいんだよそれくらい!」

 体勢が崩れたのをいいことにぶすぶすと遠慮なく針を突き立てる針妙丸だったが、小鬼に頭突きされて敢え無く弾き飛ばされた。
 そしてそのままフラフラと力尽きたように畳に着陸し、うんともすんとも言わなくなる。

「大丈夫か針妙丸」
「……くそ、力が……入らねェ」
「やっぱダメージあるみたいだな」
「全然平気」

 窓から顔を覗かせて元気をアピールする姫様だったが、その表情からは明らかに憔悴したような様子が見て取れた。
 小屋のシステムがバッテリー切れ起こすまで間違え続けるというやり方も考えていたが、これでは難しいかもしれない。

 マズイかもなぁ。
 どうしたもんかなぁ。
 猶予は後どんくらいかなぁ。

「おい」
「あ?」

 振り向けば、頬に赤い痕をつけた小鬼が私の方を睨んでいた。
 なんだよ、やったのは私じゃないぞ。キレるんなら相手を間違えるなよ。

「何がしたいんだよお前ら」
「……」
「霊夢ならそのうち帰って来るって言ってるだろ。開け方くらい知ってるさ」
「……」

 相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
 私は小鬼を無視して針妙丸の小屋のそばに座り込んだ。
 家探ししてるヒマはなさそうだ。
 何か、ヒントは無いだろうか。

「おい、お前さん聞いてんのか」
「うるっさいんだよ鬼ー! 正邪ちゃんのじゃますんなー!」
「チビすけ。無理して今出る必要ないだろ? 厠なら連れてってやるから」
「霊夢が帰ってからじゃ遅いでしょー? 脱走するんだからー!」
「なに? 脱走?」

 あ、言いやがったなこの野郎。
 せっかく適当に濁してたのに。
 まあいっか。
 鬼の相手は姫に任せて、私はパスワードに集中だ。

「そうよ! だから霊夢が帰ってくる前に開けなきゃいけないの! 正邪ちゃん早く!」
「はぁ? やめときなよ脱走なんて。また霊夢に追いかけられたいのかい」
「そんな訳ないじゃん、馬鹿じゃないの? 鬼じゃないの?」
「いや鬼だけどさ」

 4桁、4桁の数字。
 あるいは3桁、2桁もあり得るのか?
 いや4桁とも入力しないと『実行』ボタン光んないし。
 最初に0を入力すればいいか……?
 なんだ。
 4桁。

「もしかしてまだ懲りてないのかい? あんだけの目に遭って」
「え? 管理者にはデコピンされただけだよ?」
「……甘いなあ、紫は」
「あー! 呼び捨てにしてるー。いけないんだー!」
「個人的に友達だからいいんだよ。何だお前テロリストのくせに」
「テロリストじゃないもんレジスタンスだもん! ……お前ってホント物覚え悪いよな」
「最後のひと言だけ真顔になんないでおくれ」

 傷付くから……。
 と悲しい声をあげる鬼はともかく。
 気が散る。
 いかん集中集中。

「とにかくさぁ、もうやめなよ下剋上ごっこはさ」
「だからその『ごっこ』は今日終わるんだよ。明日からが本番だ。ごっこじゃない、本物の下剋上が始まるんだ!」
「……それを私が放っておくとでも?」
「もう! ほっといてよ!」
「そうはいかないね。いいかい? 幻想郷はお前さんが思っているよりずっと繊細なバランスで成り立っているんだ」
「お前だって全容把握してるわけじゃないでしょ!!」
「いや、まあ、うん」

 4桁。
 駄目だ思い付かん。
 もう総当たりで試すか?
 たかが1万通り、一回10秒としても27時間。
 駄目じゃん。

「そにかくそれをごちゃまぜにするなんて言ったらみんなが迷惑するんだよ。だから怒られる」
「お前はそのバランスをぶっ壊して山に居座ったくせに君臨すれども統治しなかったクソ害悪だろ!!」
「あー、うん。それは否定できん」
「ほら見なさい! お前に人の事が言えるもんか! ……言うならせめて過去の行いを悔いてから言えよ」
「だからちょくちょく真顔で言うんじゃないよ。身の程を弁えろってことだよ。確かに私ら強者はワガママさ、お前らの苦しみなんて正直想像できん」
「喧嘩売ってんのかチビ!!」
「ぶっちゃけると見てすらいない。みんないっしょくたに魑魅魍魎って認識なのさ。きつい言い方かもしれないけどいちいち個別に判別すらしてないよ」
「……貴様!」

「だが縄張りを荒らされたら別だ。その瞬間そいつは『その他』じゃなくて『外敵』に変わる。ぶん殴ってでも排除する」
「……はー?」
「身の丈に合った幸せを探しな。悪戯でいじめられることもあるのかもしれないけど、声を上げればそれどころじゃなくなる」
「……そんなことないもん」
「出る杭は打た」
「殺すぞ」
「最後まで言わせなよ。出る杭は打たれるもんだ。たぶんこの言葉が死ぬほど嫌いなんだろうけども。理不尽だと思うの当たり前だが弱いんだからしょうがない。睨まれない様に生きろ、その中で楽しく生きろ、それが幻想郷での生き方さ」

「断る」

 思わず口から出た言葉に、鬼と小人が振り返る。
 パスワードの類推に忙しい今、針妙丸に任せるべきだったのだが、それでもこらえきれなかった。
 利くな、知ったような口を。

 出る杭を打つ奴は例外なくクズだ。
 クズの都合など知らん。
 クズからの評価などいらん。
 出ない杭など、埋もれたままだ。

 出しゃばらない生き方など弱者には必要ない。
 世間知らずな鬼の意見に耳を傾ける価値はない。
 挑戦者の敵は、いつだって部外者なのだから。

「断るってお前さんさあ。わかってない訳じゃないよね、この子はともかく」
「……」
「こんな純粋な子を騙くらかして、また他人様に迷惑かけようってのかい?」

「騙してねーもん!」
「はいはいお前さんは黙ってな。騙されて利用されて傷ついてさ。残念ながら世の中いい奴ばかりじゃないんだ。利用するためならいくらでも優しくする奴もいる」
「正邪は違うもん!」
「信じたい気持ちもわかるけどね。コイツはお前をここから引きずり出して利用するためなら、いくらでもお前を傷つけようってんだ」
「私がやれって命じたんだよ!」

 ……。

 それだ。
 それだそれだそれだ。

 なんかおかしいと思ってたんだ。
 そんな訳ないと思ってたんだ。

 そうだよ、こんなのおかしいじゃないか。

「……なんだい?」
「正邪ちゃん?」

 気が付くと私は立ち上がり、小鬼の両肩を掴んでいた。
 そして困惑の表情を見せる小鬼に、心から賞賛の言葉を送る。
 コイツのおかげで気が付いた。

「お前は天才だ」
「……は?」
「絶対違う」

 そんな全否定しないでよと非難の声をあげる鬼を無視し、私はパスワードの入力画面に向き直った。

 普段はかけられないという鍵。
 マスに入ったアスタリスク。
 0~9までの数字。
 実行と取消のボタン。
 小屋の上に普通の紐で括り付けられていた、簡単に外せた小槌。
 パスワードを間違えると流れる電流。

 おかしい。
 おかしいだろ。

 なんで電流が流れるんだ。
 なんで『内部の人物が傷つく』仕様なんだ。

 私にならいい、誤入力した人物を攻撃するんならわかる。
 あるいはクリプテックスやコンピュータのパスよろしく、『奪われるくらいなら中の機密を破壊する』という思想もわかる。
 だがこれは何だ。
 入力を間違えると中の人物が傷つく。
 これが博麗にとって何の意味がある。

 というか、パスワード入力そのもののインターフェースはともかく、電流周りのシステムは明らかにこの小屋用の一点物だろう。
 わざわざ作ったのだ、こういう風に。

 博麗がこんな悪質な事をするか?
 いやしない。
 そんなマネをするような奴を、鬼は決してダチとは言わないだろう。

 誰が作った。
 どういう状況を想定した。
 小槌だけ拾って逃げるとは思わなかったのか。
 小人なしじゃ起動できないと踏んだのか。
 他の小人を使うとは思わなかったのか。

 普段は鍵をかけない。
 何故今日はかけた。
 留守にするからか? そんな訳ない、今までだって留守にすることくらいあっただろう。

 今日は何の日だ。
 ミスティア達のライブの日か?
 八橋たちのタイムリミットか?
 メディスンが記録を伸ばした日か?

 どれも違う、今日は小槌の魔力回収が満了する日だ。
 つまりこれは今日この日に、針妙丸を解放しようとする人物に向けての物。
 針妙丸が傷つくことを『ペナルティ』だと感じる者。
 そして、打ち出の小槌よりも少名針妙丸に価値を見出す者。

 このパスワードは、私個人に向けての出題だ。

 真にこれが私だけに向けての物だとしたら。
 どうする。
 何を『答え』にする。
 本当にランダムな数字にする訳ない。
 それでは意味がない。
 問題は解けなければ価値がない。
 結局解けずに答えを聞いた後、どうしてそれに気付かなかったんだと自分を責めたくなるものこそが良問だ。

 ならこれは解ける。
 私になら、私だからこそ。

「……針妙丸」
「うん?」
「これを作った奴は……」

 私はアスタリスクが4つ表示された、何も入力していない状態の画面に手を伸ばした。
 押すべきボタンは0~9のどれでもない。
 そして実行ですらない。
 そもそもこの『実行』ボタンは、何を実行するボタンなのか。

「とんでもない天邪鬼だ」

 光ってもいない『取消』ボタンであった。





「う、うおおおおお!! 正邪ちゃーーーん!!!!」
「針妙丸ぅーーー!!!」

 熱い抱擁と言うかむしろ体当たりを交わす我々レジスタンス。
 この胸の中でもぞもぞとうごめく感覚、久しぶりだ。

「正邪ちゃん正邪ちゃん正邪ちゃん! うおおおおおおお!!!」
「あー、姫。くすぐったいです」
「うおおおおおおおお!! 会いたかったぞーーー!!」
「……私は別に」
「嘘つけぇ!!」

 カチャリと軽い音を立てて鍵が開いたかと思ったらこれだ。
 まったく、困った奴め。

「正邪ちゃん私を殴れ! 私はただ1度だけ疑った! 正邪ちゃんが来ないんじゃないかって!」
「なんですと!?」

 ベしっと茶碗ごと頭をひっぱたき、今度はお前の番だぜと瞳を輝かせる姫に習い、私も続きのセリフを言うことにした。

「針妙丸、私を殴れ。私もただ1度だけ諦めかけた。1人で逃げ出してしまおうかと……」
「よっしゃおらぁ!!」

 どごんと鳩尾にもろに拳を喰らい、私は衝撃の威力とはぶつかる面積に反比例するんだということを思い知った。
 痛てえよだいぶ。

「うおおおおお!! ゴメン正邪ちゃん本当は5回疑ったーーー!!」
「えー?」
「ごめんなさい本当にごめんなさい。日に5回も疑ってごめんなさい」
「あー、いいですよもう……って『日に』? 1日に付き5回!?」
「うえーん、だってー」

 この野郎疑いすぎだ。
 いいだろう、やり返してやる。

「正邪ー」
「申し訳ありません姫、私も嘘をつきました」
「え?」
「ホントは1度も諦めてません」
「うぎゃあああ! ごめーん!!」

 この小さな体のどこにこんなエネルギーが詰まっているのか不思議に思うほどの声量で針妙丸が泣き叫ぶ。
 本当に、こんな神社じゃコイツには狭すぎるな。

「ふえーん」
「おおよしよし」
「正邪ちゃーん」
「はいはいなんです姫」
「げこくじょー」
「……そうですね」

 鳴き声かよ。
 いや、それはともかく。

 ふとなんか静かだと思い部屋の中を見回してみると、さっきまで無意味に邪魔してくれていた天才小鬼の姿が消えていた。
 どこ行った?
 いや別に用はないけども。

「針妙丸、さっきの鬼どこ行った?」
「……んー? 正邪ちゃんがブツブツ言ってるときに出てった」
「出てった? このタイミングで?」
「走って」
「走って……?」

 何だろう、急用でも思い出したか。
 ……博麗を迎えに行ったか。

「博麗が見えたのかもしれない。急いで脱出するぞ」
「うん!」
「荷物どうすっか。まとめてあるか?」
「小槌だけでいいよ。服くらい後で作っちゃうもん」
「わかった。脱出を優先しよう」

 そこらに放っておいた打出の小槌を掴みあげ、部屋の障子戸を開け放つ。
 ちゃぶ台がやや軽く僅かに差しさわりの無い範囲で破損していることを除けば、脱獄っぽく見えない事もないかもしれない。
 掃除は博麗に頼むとしよう、針妙丸も世話になった事だしな。
 恩も仇も、仇で返そうじゃないか。

「さあ凱旋だよ正邪ちゃん! 地平線の彼方まで逃げるのだ!!」
「ええ、どこまでも行きましょう」
「あはははははは!」
「ああもう」

 玄関から外に飛び出していく針妙丸を追い、私も慌てて駆け出した。
 すっかり晴れきった夜空には満天の星空が輝いており、その中でもひと際目立つお月様が、太陽光を反射して私たちの門出を祝福している。
 だがそんな月よりも、遠くに見えるライブの光源よりも、他の何より輝いている存在がいた。

「うっひょー! 外だー!!」
「危ないですよ姫」
「いやっふーーー!! あはははははははは!!」
「……もう」

 月をバックに笑顔を振りまく姫君が、片側の触覚を切られたコバエのようにでたらめに辺りを飛び回る。
 今までよほど窮屈だったのだろう。
 小屋も、神社も、幻想郷も。
 この子にはあまりに狭すぎる。

 針妙丸の後に続いて私も空を飛びながら、それとなく辺りを見回してみる。
 これで博麗と鉢合わせでもしたら目も当てられない。
 何としてもこちらが先に発見し、遭遇を回避しなければならなかった。

 くるくるギュンギュンと飛び回る針妙丸を見失わないように注意しつつ、四方八方全方位に注意を払う。
 索敵用の妖術とかあったら便利なんだが、未収得だ。
 ここ数日時間があったんだから開発しておけばよかったと歯噛みする。

「……あれ?」

 そんな折、ふと視界に見覚えのある服が映った。

 それが誰で、なぜクヌギの木に寄りかかるように倒れていて、なぜ血に濡れていて、なぜこの暗い中でも血だとわかるくらいの出血量なのか。
 その疑問の答えを私の脳髄が弾きだすと同時に、私は地面に向かって全速力で駆け出していた。

「針妙丸! こっちだ!!」
「ふえ!? なに?」

 地面にぶつかるように着地をし、大急ぎで倒れていた人物に駆け寄る。

 今泉影狼。
 なぜお前がここに……。

「おい! しっかりしろ!!」
「……」

 ぐったりとしたその狼女は、私の呼びかけに応えることも無く沈黙を保つ。
 肩をゆすっても頬を叩いても反応がない。

「え? 誰それ」
「知り合いだ」

 首筋に指を当て、脈があることを確認する。
 弱々しいが呼吸もある。

「なんじゃこりゃ」

 しかし怪我の様子は酷かった。
 出血は腹部からのようだったが、腹部というか、左腕と左脇腹あたりがべっこりとひしゃげていた。
 折れ潰れた腕を胴体から引きはがし、押しつぶされたように波打った腹部の『肉』を押さえつけ、とにもかくにも出血を止める。
 仮に人間だったら即死するような損傷であったが、妖怪だったらまあ大丈夫な範囲だ。
 両親ともに中堅階級らしいし、特に脆弱な体質とかでもないだろう。

 風呂敷を広げて中身をそこらに放り捨て、生地を引き裂いて胴体ごと傷口を押さえる。
 出血の勢いはかろうじて弱まった。
 この風呂敷マジックアイテムなんだが、まあ影響はないだろう、素材は布だし。
 だがそれより。

「針妙丸下がってろ」
「へ?」

 言うよりも早く妖力を全力で解放、私の意思に呼応するように瘴気の渦が辺りに巻き起こる。
 その勢いに巻き込まれた針妙丸が苦しそうにもがいていたが、結局私から離れようとはしなかった。
 下がってろって言ってんのに。

 物理的な怪我よりも身体が冷たい。
 状況から考えて、影狼はここで誰かと一戦交えたのだろう。
 よくよく周りを見てみれば、戦闘痕と思しき破壊の跡があちこちに刻まれていた。

 ならばその対戦相手は誰か。
 もしかしてだが、博麗の巫女だったかもしれない。

 サウスポーの有利。
 巫女の巫力は妖力を打ち消す。

 この身体の冷たさが出血によるものならいい、まだいい。
 これが博麗の攻撃による被害だったら、そっちの方が遥かにまずい。

 急速に充満していく天邪鬼の妖力。
 辺り一面視界が変色するほどの妖力に晒されて、影狼の口が微かに動いた。

「……ぅ」
「しっかりしろ! 私だ!」
「……あー、脱走、できたんだ」
「……っ」

 私の肩に乗り、心配そうにのぞきこんでいる針妙丸を見つめて影狼が言う。
 なんでそれを知っている。
 ……いや、後回しだ。

 私は影狼の口元に手をかざし、そこに妖力を集中する。
 呼吸と共に外部から力を吸収させるという力技だったが、たしか僅かにでも応急処置的な効果はあったはずだ。

「ゆっくり呼吸しろ。傷は浅いぞ」
「博麗……、強いわー……」

 うつろな目をしながら影狼がつぶやく。
 回復しつつあるようだったが、やはり相手は博麗だったようだ。

「博麗だけだったか? 他には誰かいたか?」
「ううん。博麗1人だけ……」
「そっか」
「うん。加減……、できなかったわー」
「……やっちゃったか?」
「いいのを、もろに1発……、入れちゃった……。どうしよ」

 博麗の巫女を相手にするときに、もっとも気を付けなければいけない事。
 それは妖力を打ち消す力でも、射撃や回避の能力でもない。
 殺してはいけないという制約だ。

 もっと言うなら怪我すらさせないことが望ましい。
 欲を言うなら無傷のまま向こうに勝たせろ。

 それが幻想郷の不文律だ。
 巫女に逆らうな。
 博麗の巫女は、妖怪を倒す。
 その幻想を、私たちは命がけで守らなければならない。

「ヤバいなーって、思ってたの……。そしたらいきなり、ぶっ飛ばされて」
「……鬼か? 二本角の小鬼がこっちに来たはずなんだ」
「見る暇も……、無かったよー」

 あの野郎不意打ちしたのか。
 博麗と戦闘中の影狼に、全神経を集中させて戦っている影狼に。
 後ろから不意打ちをかましやがったのか。

 横なぎに一閃。
 おそらく殴ったのではなく『払った』、あるいは『突き飛ばした』。
 向こうさんの感覚としてはそんな所だろう。
 それだけで影狼の身体は歪み、木に叩きつけられた。

 ふざけんなよあの小鬼。
 嫁入り前の身体に何しやがんだ。

「でも……、止められた」
「……」
「うまく……いったんでしょ……、脱走」
「……そうだな」

 チラリと針妙丸の方を見る。
 何分稼いでくれたのかはわからなかったが、コイツがいなかったら神社で博麗と鉢合わせしていたかもしれない。
 ただ気になるのはさっき遠くに見えたライブの光、未だにミスティア達のライブが終わっていない事。
 途中で抜け出したのか、橙を置いて。

「借りは、……返したよ……」
「……とっくに返してもらっただろ?」

 弱々しく微笑む影狼に、私は疑問で応えた。
 私はコイツに貸しなんてない。
 仮にあったとしても、昼間に返してもらったばかりだろう。

「ううん……、それじゃなくて、さ」
「ん? 他になんかあったか?」

 コイツと会ったのはカツアゲされそうになっていた時が最初のはずだし、その次に会ったのは今日の事だ。
 そう思っていたし、事実そうだった。
 でも、影狼が言っているのは、私に会う前の話だった。

「この前の異変、……楽しかったよ」
「……え?」

 その言葉に私は目を丸くした。
 私はここのところずっと文句ばっかり言われてきたのだ。

 弱小階級の妖怪達。
 妖怪のくせにろくに戦えない雑魚どもに下剋上を、逆らうことを体験させた。
 下剋上の精神に目覚めた者も少なからずいたが、傍迷惑な事をしやがってと追われることも少なくなかった。
 面と向かって楽しかったと言われたのは、初めてだった。

 私の中で天邪鬼の本能が疼くのを、必死に押さえつける。
 まったく、嫌われて何ぼの私だぞ。
 よしてくれ、そんな言葉は。

「いいもんだよね、……刃向うってのも」
「そうか」
「ねえ天邪鬼」
「正邪だ。鬼人正邪」

 ぐっ、と。
 影狼に服の袖を掴まれる。
 血色の悪い顔のままであやしく微笑む影狼の瞳に、私は下剋上の萌芽を見た。

「私はまだ、暴れ足りない」

 そう言って影狼は、私の目を覗き込んだ。
 この娘はもう、私から目を逸らさない。

「なら好きにしろ。お前の望むままに」
「うん。……そう……する」

 弱小妖怪の意地。
 噛むことを覚えたこの狼女は、もう二度と泣き寝入りをしないだろう。
 降りかかってくる理不尽に対し、抵抗(レジスト)を以って応えるだろう。

 電池が切れたおもちゃのように影狼が私の腕にもたれかかる。
 月夜に生まれた新たなレジスタンスは、そのまま意識を失った。





 やはりというかなんというか、影狼の怪我自体は致命傷と呼べるような物ではなく、妖力の欠乏の方が問題としては大きかったようだった。
 それでも私の応急処置が功を奏したようで、特にこれといった後遺症もなく快復が見込めるらしい。
 入院中の影狼にお見舞いとして自慢の盆栽をくれてやり、非常識を責めるより先にその枝振りに思わず感嘆の声を漏らしたお父上にも挨拶しておいた。
 今泉パパ、話せばなかなか愉快な奴じゃないか。

 博麗の方も一命は取り留めたようで、聞いた話では入院すら必要ない程度らしい。
 もちろん影狼とは違う病院だったが。

 いいのを一発入れちゃったということだったが、どうも爪とか弾丸とかではなくて蹴りだったそうだ。
 アバラが2本ほど折れた程度だと。
 確かこの程度だったら人間でも治るはずだし、管理者からはゲンコツを喰らっただけで許されたそうなのでどちらにしても大事には至らずに済んだようだった。

「めでたくも無ければ終わってもいねぇ」

 そのお見舞いの帰り道、私はふもとの里へと足を運んでいた。
 妖怪の山のすぐ近く、人間はもちろんそうではない者までもが多数行き交う交流の里。
 西日に照らされてオレンジ色に染まっていくこの里では、妖怪が道の真ん中を歩いていても誰も咎めることは無い。

 本日は金曜日、そしてもう少しで行きつけの総菜屋が半額セールを始める時間。
 針妙丸の嫌いなピーマン系の惣菜でも帰りに買っていこうかと考えながら、私は大通りを闊歩していた。

 そのピーマン嫌いの姫君も病院で別れてから、1人でどこかへ飛んで行ってしまった。
 今日も下剋上の同調者を集めるべく、どこかで見ず知らずのいじめられっ子とスクラムでも組んでいるのだろう。
 針妙丸は私のように『自分を倒させる』などという捻くれたやりかたはしない。
 ただいじめられっ子と一緒になって泣き喚いて、共に戦う方法を考えるのだ。

 安全に戦わせる私と、共に危険を背負う針妙丸。
 どっちのやり方が効率いいのかはまだ議論が尽くされていないが、それぞれに向いているやり方があるってことは確かだ。
 私には私の、針妙丸には針妙丸の。
 そして影狼には、影狼のやり方が。

 まだ暴れたりないと言ってレジスタンスに目覚めた影狼だったが、事情を聴いた針妙丸に開口一番『偉そうなことは自立してから言えよ』と真顔で諭され、退院しだい親元を離れるのだと息巻いていた。
 自分の食い扶持も稼げない奴に一人前の思想を口にする権利はない、と影狼も理解を示していたあたり、賢い子だと思う。
 まあ、その辺は針妙丸も相当苦労してたし、言いたくなる気持ちもわかるけど。

「良いこと教えてやろう」
「ふぇ?」
「この店な? あと1時間くらいすると惣菜が半額になるんだ」
「……え? ホント?」

 妄想にふけりながらブラブラ歩いているうちに、件の総菜屋へとたどり着いた。
 ハーフプライスラべリングタイムに向けて残っている惣菜を確認していたところ、見知った顔があったのでつい話しかけちゃった。
 てへ。

「またお使いかぁ? えらいな」
「うん、ゆーかが今日は私が好きなの買っていいって」
「ほー、なら半額で買ってったらきっと幽香も喜ぶぞー」
「そ、そうかな……。ふふふへへへへ」

 母親に褒められる未来を信じる無垢なメディスンであったが、たぶん1時間も帰るのが遅れたら怒られるだろう。
 惣菜の残り具合からしても、半額になる時間まで持つかどうかは五分五分といったところ。
 そして何より、もし奇跡的に残っていたとしても、半額になる『直前』に私が買占めるんだけどな。

 チラチラと惣菜の残りを気にしながら半額になるのを待っている飢えた狼ども、そいつらの目の前ですべての希望を奪ってみせる。
 私の数少ない楽しみの1つだ。
 もちろん、店員に無理やり半額にさせるなんてこともしない、そのまま買って帰る。
 全くの合法、非の打ちどころもなく一切の非が無い。
 指をくわえて腹を鳴らす獣の姿、プライスレス。

「ところでメディスン」
「んー?」
「それで、その後どうよ。順調か??」
「……うー」

 主語のない質問。
 それでもこの人形には心当たりがある様で、スカートの裾を掴みながら俯いて何やらブツブツとつぶやきだしてしまった。
 答えになってねーぞ? お?

「どうしたぁ? また『うるしゃー』か?」
「……まだ決まってないもん」
「いつ決まるんだ?」
「うー、わかんないもん!」

 半泣きになりながら大声を上げるメディスン。
 開き直るだけでは何もできはしないということを、早いこと悟って欲しい所だ。
 まあいいや、まだまだ先は長いんだ。
 幽香と一緒にいろいろ試してみるといい。

「いつになることやら」
「できるもん!」
「どうやって?」
「できるもん!」
「何を根拠に」
「できるもん!」

 間違っても地下には落ちるなよ?
 この先何度躓いたって、死ななきゃ再挑戦できるものなんだから。

「じゃあな」
「あっち行け!」
「次会ったらまた聞くからなぁ」
「うるしゃー!!」
「はいはい」

 店内で騒ぐなよと言い残し、私は一旦店を後にすることにした。
 もう1時間ほどしたらまた来よう。
 そして天使のようなお人形さんに、現実が非常であることを教えてあげよう。
 惣菜残ってるといいな、目の前で奪われたらどんな顔するかな。

 楽しみであった。

「いーい天気だ」

 状況が理解できずに困惑するメディスンの顔を妄想しながら、私は大通りのさらに奥まで歩を進める。
 この先にこの間は閉まっていた将棋場がある訳だが、臨時休業とかではない限り今日は開いているはずだ。

 そこによく来るとある常連に用事があるのだが、大体決まった曜日に来る方なのでたぶんいるだろう。
 別に急ぎの用でもないし、いなきゃいないで普通に誰かと指してこようと思っている。
 やっぱり幻想郷にも電話とか欲しいよな。

 そんな感じで割と気楽に歩いていたら、進行方向にまたも見知った顔を見つけた。
 今日は知り合いによく会う日だ。
 つまりいい日だ。

 私に向かってブンブン手を振っているそいつは、満面の笑みのままダッシュで私に近付いてくる。
 なんかの都市伝説っぽくって不気味だが、ここで安易に手を振りかえしてはいけない。
 これで手を振り返しておいて、実は自分宛てじゃなかったことが過去に何度あったかわからない。

 だからそう、こういう時はつとめて無関係を装い、確実に自分に向けた物だと確信するまで待つことが大切なのだ。
 今気付いたぞ、って感じにだ。

「わっほーい!」
「おおっとぉ」

 しかしまさか飛び付いて来るとは思わなかった。
 本当にこいつは1度として私の予想通りにならないな。

「あっはっはー! 久しぶりー! うひょー!!」
「おうおう、なんだ八橋か」
「私復活ぅー!!」

 力いっぱい抱き着いてくる付喪神を振り払って背中から地面に叩きつけると、呼吸困難に陥った八橋が途切れ途切れに抗議の声を上げてきた。
 背中を強く打ちつけた事への恨み言のような気もしたが、よく聞こえないので無視することにした。

「よお、響子ちゃんだっけ? その後どうよ。順調か??」
「ふえ? いや、あの、ええまあ一応」

 半歩後ずさりしながら響子ちゃんが毛を逆立てる。
 かーわいいなーこの子、さすがはミスティアの連れ。いじめ甲斐がありそうだ。
 もし本当にいじめられっ子なら、コイツも下剋上に目覚めさせてやろう。

「げっほ、げっほ……。うぎぎぎぎ」
「あ、いたのお前」
「わっほおおおおおぉぉぃい!!」
「おうよ」

 勢いをつけて殴りかかってくる八橋の足を払い、後頭部を押し込んでそのままの勢いで地面に飛び込ませる。
 受け身という物を辞書でしか知らないこのアホは、顔から思い切り地球へとダイブ、プルプル震えて動かなくなる。
 うーん、もろい。付喪神脆いぞ。

「おああああ! いってー! 未来のアイドルの顔になにすんのよ!!」
「うまくいったんだな。憑代の乗り換え」
「ここでいきなり話戻すんじゃないわ! パンチ!」
「よかったよかった」

 ひゅんひゅん飛んでくる拳を躱し、最後にわざと額で受ける。
 痛そうに手を押さえて顔をしかめる八橋、プライスレス。
 そんな鍛えもしてないコブシじゃぁ、妖怪の頭は壊せねぇよぉ。

「あんた、変わっちゃったね……」
「初めて会ってから半月も経ってねーだろぉ」
「へへっ、そのツッコミのキレ。間違いなくあんたね!」
「その反応しづらいボケも、間違いなくお前だ」
「ふふん」

 偉そうに鼻を鳴らす八橋だったが、向こうの方はちょっと雰囲気変わったかも知れない。
 ちょっと攻撃的になったと言うか、言葉遣いというか。
 持ち主に影響されたか?

「見てのとぉーり! エレキギターとして復活した八橋ちゃんだよ! 生まれ変わったこの美貌を見よ!」
「擦り傷が酷いな」
「誰のせいよ!」

 ギュイーン、とギターを鳴らして憤慨する八橋だが、その怒った姿はなんとなくミスティアに似ているような気がした。
 といっても、私の知っているミスティアは7年前のミスティアだが。
 まだちょっとしか話せてないし。

「ご主人様は優しいか?」
「優しいけど目が怖いです」
「そうか、まあいい奴だぞあいつは。昔から私らのお姉ちゃんポジションだったし、面倒見もいい」
「あ、うんうん、そうそう、ぐふふふ……」
「?」

 気持ち悪い笑みを浮かべる八橋だったが、ここで1つ予想を立てよう。
 コイツのお姉さん、何の付喪神だか忘れたが何かの付喪神の説得に失敗したのだろう。
 そして悲しみのあまり八橋は記憶を封じ、幼児退行を起こしてしまったのだ。
 そうに違いない。

「えーっとねー。姉さんのことなんだけどねー」
「お悔やみ申し上げます」
「成功したから! 姉さんもうまくいったから!!」
「マージーで?」
「マージ―よ!」

 いまいち信用ならなかったため、すぐそばで手持無沙汰にしていた響子ちゃんの方にも聞いてみる。
 たぶんコイツもミスティアの子分だろ?
 話に入れないと黙っちゃうところはまだまだ躾が足りないと見たが。

「そうなのか? 響子ちゃん」
「え? あーうん、そうです。一応」
「何よ一応って、響子様だって見たでしょ? 姉さん元気だったじゃない」
「う、うん」

 一応?
 あ、なんかヤバい地雷踏んだか?
 発狂してるとか意識が曖昧な状態とか、笑えない感じか?

「……聖が三味線を貸してくれて、お姉さんもそれに乗り換えて成功してます。普通に元気です」
「聖って誰だ」
「えーっと、寺の、命蓮寺って言う寺の住職です。ただその、私も知らなかったんですけど」

 歯切れの悪い響子ちゃんだが、八橋の方も眉をひそめている。
 何を言い渋っているのかわからないと言った感じだ。

「お姉さん、弁々さんって言うんですけど、八橋より早く乗り換えてたんです」
「は?」
「あの、あなたと会ってミスティアがギターを貸した時『すでに乗り換え中の状態だったそうで』」
「……」
「『塞ぎ込んでいる弁々さんを見つけて勧誘して説得して憑代用意して乗り換えをさせる』という手順を八橋より、いえ、『あなたやミスティアより先に』実行していたみたいなんです」
「……それは」

 別に、おかしいことか?
 そんな言う程、大げさな事か?
 弁々? とやらに偶然先に会ってただけじゃなくて?

「偶然じゃないのか?」
「いいえ」

 それだけ言うと、響子ちゃんは両腕で自分を掻き抱き、自分で自分にしがみ付くようなポーズをとる。
 大したことなさそうな妖怪だと思っていたが、ほんのちょっとだけ目に炎が宿っているようにも見えた。
 なんだ? 何を見た?

「1人や2人じゃないんです」
「……は?」
「命蓮寺の持つ調度品に、買い戻した調度品に、妖怪の持つ道具たちに、『あなたの異変で生まれた付喪神を片っ端から乗り移らせています』」
「……」
「『孤児の保護・保育、および低所得者層への住居提供と職業斡旋』という名目で」
「……マージーで?」
「マジです。いるんです。相性のいい奴が、タヌキが、変化のスペシャリストが」
「そいつの名前は?」
「二ツ岩マミゾウ」
「……憶えとくよ」

 この間の異変。
 私の、私達の異変。

 大仰なスペルカード戦の裏で起こった本命の勝負手。
 力無き妖怪に暴走を。
 その更なる副作用、付喪神の未熟児たち。

 八橋曰く、いっぱい生まれた。
 だが私はほとんど見ることが無かった。
 というか実際に会ったのは八橋だけだ。

 増えた分減った? いや違う、『ぶんどられた』んだ。
 私が会うはずだった可能性たちを。
 機を見るに敏。
 随分フットワークの軽いバケモノがいるようだ。

「……会ってみてぇ」
「え?」
「なあ響子ちゃん。その聖とかマミゾウってのはどんな奴だ?」
「……ひと言じゃちょっと、うーん」
「わかった質問のしかたを変えよう、ミスティアにそいつらはどんな奴だ? って聞いたら『悪い奴だ』って答えるか?」
「そう答えると思います」
「そっかそっか、ありがとう」

 十分だ。それだけわかれば。

「え? なんで? いい人そうだったじゃないの」
「見た目だけだよ」
「そうなの? でもみんなを助けてくれてたじゃん」
「寺の利益のためだよ」
「別にいいじゃん」
「……うーん」

 不思議そうに首をかしげる八橋だったが、顔の擦り傷のせいであんまりかわいくない。
 これでよく未来のアイドルなどとうそぶけるものだ。
 それに比べて響子ちゃんの仕草はどうだ、このどう言ったら伝わるんだろうと言わんばかりの困り顔、実にわかりやすい。
 この表現能力は一夕一朝では身に付くまい。
 案外、舞台経験とかあるんじゃなかろうか。

「まあいいや。それも今度だな」
「……えーとミスティアのお友達のレジスタンスさん」
「鬼人正邪だ」
「鬼人正邪さん。すいませんが私たち買い出しの最中なんでこの辺で」
「お? ああそうか引き止めて悪かったよ」

「次こそ抱きしめてあげるからね!」
「男にしてやれよ」
「スキャンダルは勘弁よ!」
「……あっそ」
「じゃあね!」
「ん」

 じゃあなと手を振り、2人を送り出す。
 半額の惣菜を狙うのだと息巻く山彦妖怪たちと別れ、私は先を急ぐことにした。
 何やら面白そうな人の情報もいただいちゃったし、次はお寺さんと遊ぶことにしようか。
 まあ、針妙丸と相談だな。あるいは影狼のお披露目にもちょうどいいかもしれない。

「……んん?」

 八橋たちと別れ、大通りを歩くことさらに数分。
 そろそろ将棋場が見えてくるころだと思っていたのだが、前方から強烈な妖力が放たれているのを感じて足を止めた。
 同時に聞こえて来るのはガヤガヤとした人々の声と、体の不調を訴える誰かの悲鳴。

「……」

 妖力。妖怪の力。それもちょっとやそっとではない。
 尋常じゃないほどの強烈なエネルギーが、私の進む方向から漂ってきている。
 おかげで付近にいる人間たちが息苦しそうに咳き込み、遠くの方ではすでに避難が完了しているらしく、立ち入り禁止の札が立てられていた。
 なんじゃこりゃ。

 天邪鬼七つ技術その1、隠遁術。
 里の自警団と思しき青年たちが警戒の色を露わにしている横を気付かれないようにすり抜け、妖怪警報と書かれた立札を無視して先へと進んで行く。

 怒号のように飛び交っていた地元自警団諸氏の業務連絡が聞こえなくなる頃、ゴーストタウンと化した人里の中を私だけが動いていた。
 うーん、改めて見てもとんでもない力だ。
 強大な妖怪はただそこにいるだけで災害だ。なんてよく言われることだったが、どちらかというとそれは『そう言われるくらいになりたい』という我々の願望が少なくない割合を占めていることも併せておかなければならないだろう。
 それこそまさにこんな感じに、ただ妖力を解放するだけで辺りから人間が消えるくらいに。
 それどころか弱めの妖怪さえも逃げ出すくらいに。

 そういえば響子ちゃんたちは違う方から来たのかなと思いながら歩いていると、目的地である将棋場が見えてきた。

「わお」

 定休日だったとはいえつい先日訪れたはずの将棋場だったが、思わず声が出るほどにその雰囲気が様変わりしている。
 別に改装工事がなされていたわけではないのだが、この建物全体からほとんど不透明なくらいの妖力が炎のように迸っていた。
 ともすれば『家』の妖怪? 的な雰囲気もあるが、実際の所おそらく中にいる人物の力が建物の外にまで漏れ出しているだけだろう。
 それにしてもなんだこの色。妖力ってこんな中が見えなくなるほどに色濃くできるものなんだな。

 私が全力で妖力を解放しても、こんな反対側が見えなくなる程透明度は低くない。
 というかもう、天狗級妖怪だってここまでのはそうそういないだろう。

 天狗をも上回る存在。
 幻想郷に数人とも言われるトップランカーの1人が、この中にいるのだろうことは火を見るより明らかであった。

 この将棋場、1階部分の壁には床屋みたいに窓が数枚連なっており、中のカーテンが開いていれば外から様子がうかがえるようになっているのだが、今日の所はカーテンとかそういう状態ではないため、中の様子が全く分からない。
 針妙丸を連れて来なくてよかった。
 ホントに、あいつがいたら妖力にあてられて目を回してるだろう。

「……よ、よーし。行くぞー」

 私は自らを鼓舞し、意を決して将棋場へと近づいた。
 それはよかったのだが、まるで私を牽制するかのように目の前で窓ガラスの1枚が音を立てて砕け散り、中にいた何者かが飛び出してきた。

 ガラス片を振り撒きながら飛び出してきたのは、見覚えのある小柄な女であった。
 とび出してきたままの勢いで地面を転がる姿を見る限り、自分の意思で脱出したとかではなく、中にいる誰かにすっ飛ばされた感じだろう。
 そして地面に倒れてぐったりしているそいつは、私の記憶が正しければ南の里の大富豪、稗田阿求のはずであった。

 幻想郷の歴史と妖怪の情報をつぶさに記録した書物の書き手。
 幽鬼の如く立ち上がるその少女は、その外見とは裏腹に幻想郷の成り立ちや根幹にまで関係する人里サイドの古強者であった。
 騒動の解決のためにわざわざ南の里からやってきたのだろうか。

 そして稗田阿求はこの妖力の充満する空間をものともせず、中にいるであろう人物に怯みもせず、その小さな体をいっぱいに膨らませる。
 そして思い切り空気を吸い込んだ稗田がその口から放ったのは、あらん限りの罵声であった。

 聞いたこともないとような単語を駆使した妙に格式高いウィットに富んだその罵倒は、聞く者を不快にする前にむしろ感心させてしまうほどであったが、この辺に育ちの良さが出ているのかと思うと教育って大事だなという感想しか出てこない。

「そんなんだからモテないんだ! くたばれブス!!」
「……」

 と思っていたのだが、最後の最後に低俗な台詞を吐きながら中指を立てる姿を見るに、教育にもやはり限界という物があるらしいことを私は痛感した。

 稗田阿求は私に気付くこともなく、憤慨した様子でのしのしと歩いて行ってしまう。
 頭をガリガリと掻き毟る仕草に狂気じみた不吉さを覚えるが、今はちょっと構っている暇はなさそうなので置いておくことにした。

 さて、と気を取り直して視線を起こせば、今度はさっき稗田阿求が飛び出してきた右隣の窓が叩き割られた。
 中から飛び出してきたのはこれまた小柄な女の子であった。
 まあそれは見た目だけの話で、中身はかなり優秀な奴だったりするのだが。

「大丈夫か橙」
「……あ? あー、なんだお前か。稗田は? 帰った?」
「うん」

 地面に突っ伏していた橙は、思い切り頭を振って勢いをつけ、反動を利用して起き上がる。
 その拍子、だらりと下がった両腕が、肩を支点に振り子のようにぶらりと揺れた。

「折れてんのか?」
「……気にすんなよ」
「足に包帯巻いてることもか?」
「ファッションだよ」
「眼帯もか?」
「流行ってるんでね」
「ネコミミがちぎれてることもか?」
「いまどき流行らないんでね」
「尻尾が……」
「しつこいぞ」

 片目で私を睨む橙だったが、その身体に負っている傷は甚大だった。
 妖怪とは言え休息が、いや入院が必要でもおかしくない。
 影狼が負った怪我なんてこれに比べればかすり傷に思えてしまう。

「ねえ正邪、私が出てきたのどっちの窓?」
「……向かって左側だ」
「そう」

 つまらなそうに窓を眺めながら、橙は割れている2枚の窓のさらに左側に寄って立つ。
 順番ならば次はここだとでも言いたげであった。
 相変わらず中の様子は妖力が濃すぎて伺い知れないが、腰を落として両腕を広げるこの橙にだったら何が来ても対応できるだろう。
 ただまあ、そこには何も来ないだろうけど。

 そして予想に反し、もっともこれは橙の予想だが、立て続けに割られた窓ガラスの『右側』の窓を突き破って、またも誰かが飛び出してきた。
 細かなガラス片をまき散らしながら宙を踊るその人物を、私は両手を広げて受け止める。
 チクチクとガラスが身体に刺さったが、なに、橙に比べれば大したことは無い。

「あら、ナイスキャッチです」

 私の腕の中で他人事のようにつぶやくこの女は、会ったことのない人物であった。
 これまた小柄な、それこそ橙や稗田と変わらない程の体躯に、サラサラの金髪。
 その金髪に隠れるように、イチョウのような金色の瞳が私を写し返している。
 そしてこの触れているだけで力が抜けていくような感覚が、この人物が神かそれに近い存在であることを示していた。

「あー、静葉さん。無事ですか?」
「ええ、もちろん無事ですとも。こちらの心優しく反射神経に優れたお方に助けていただきました。スパイダーマンの妖怪でしょうか」

 あまりにも聞いたことの無い妖怪だ。

「……正邪お前嘘ついたろ」
「天邪鬼を信じるのが悪い」
「……ふん」

 鼻を鳴らしてそっぽを向く橙だったが、その仕草だけで状況を察したのか、腕の中の人物が微笑ましいものでも見たかのような笑みを浮かべる。
 やめろキモイ。

「お優しい方なのですわね」
「やめろキモイ」

 ひょいと軽快に地面に降り立ち、そいつは勢いに任せてその場でくるりと1回転。
 紅葉のようなデザインのスカートを摘まみあげると、ペコリと頭を下げて見せた。

「どうもお初にお目にかかります。ご存じの通り、出しゃばらないことに定評のある神、秋静葉です。専攻は落葉樹全般の代謝制御およびマクロ視点での生物の終焉調整でございます」
「……鬼人正邪だ」
「鬼人様。何でしょう聞き覚えがありますね、さぞかし名のある方なのでしょう」

 思い出した。
 どっかで見たと思ったら、幽香が信仰してる神様じゃねえか。
 出しゃばらないことに定評があるらしいが、どうせ出しゃばりなんだろう。

「ああ、思い出しました。何年か前に地底であのお方に稽古を付けてもらっていた方ですね? もうご卒業なされたので?」
「おいおい、そっちが来るかよ」
「まあ、わたくし見てましたもの。大変そうだなーと、無論出しゃばらないことに定評のあるこのわたくしですので、遠巻きに見ているだけで干渉する気など毛頭ありませんでしたので」

「おい橙。この人は誰だ、何者だ」
「あんま失礼すんなよ。その人それでもVIPだから」
「誰にとってだ」
「……紫様の師匠なんだって。執政とか管理とかの」
「うっそだろおい」
「私も聞いただけなんだけどさ」

 まあ、考えてみれば管理者だって初めは素人だったわけで、その技術のすべてが我流であるとは限らないだろう。
 それ系統の神様からやり方を学んでいた時期があったとしても、それ自体はおかしい話でもないのかもしれない。
 八百万の神様ってのは専門知識と実践経験の塊だ。
 それらに裏打ちされたブレる事なき決断力は、為政者にとって学ぶところも多かったことだろう。

 紅葉を、『葉の老化現象』を司る神様。
 新陳代謝を決定するのが本業ならば、それは妖怪にとって非常に相性のいい神様なのではないだろうか。
 古くなったものを壊したり殺したりするのは、妖怪の土俵だ。
 そしてどれを壊せばいいのかを決めるのは、やっぱり神様の土俵なのだから。

「お記憶の通りでございますわ橙様」
「あ、うん。はい」

 歯切れの悪い橙。上司の師だというならもっと最敬礼でもよさそうなものだ。
 本当にどういう立場なんだこの人。

「しかしながら困りました。人と神と妖と、誰が臨んでも蹴散らされてしまいましたわ」
「静葉さんは挑発してただけでしょうよ」
「これはもう人にして人にあらず、妖にして妖にあらず、何物にも属さぬレジスタンスの出番でございますわ」
「おい橙。コイツも人の話聞かない系か」
「うん」

「という訳で、中のお方が大層ご機嫌斜めなのでございます」
「2割くらい静葉さんのせいだからね?」
「何言ったんだよこの人」
「負けるたびにすねるだけで反省しないから成長しないのだこの指示待ちが。と訓戒を与えた途端に橙様がぶん投げられましたわ」

 静葉とやらがまるで悪びれる様子もなく言ってのける。
 それが本当なら傍若無人が過ぎるというものだ。この私だってそこまではしないぞ。

「きっと生理ですわ」
「……そうか」

 両手をポンと合わせ、きっとそうに違いないとばかりに静葉が微笑む。
 いい大人がなぜここまで無邪気に笑えるのだろうか。

 何を言ったらいいかわからず曖昧な返事しかできなかった私だが、橙の方はおかしかったらしくすぐ後ろでケラケラ笑い始めた。

「きはははは! しょっちゅうこんな迷惑振りまかれちゃ堪んないよ!」
「では橙様は何だと思いますか?」
「どうせただの更年期障害か何かで……ぎぃやああああああああ!!」
「……あれま」

 『更年期しょ』くらいの段階で将棋場の中の気配が膨れ上がったと思ったら、橙たちが飛び出してきた窓を窓枠ごと突き破って金色の何かが飛び出してきた。
 それはヘビのように長く、うねり、目にもとまらぬ速さで橙を上半身をバクリと咥えると、そのまま店の中へと引っ込んで行ってしまった。
 人の胴より太いヘビが消えていった方を恐る恐る覗いてみると、不透明な妖気の先で橙が何とか動く下半身だけで暴れているところが見えた。
 しかし怪我してたとはいえあの橙が反応できないとは。

「ところで鬼人様」
「あ? ああ、何だよ」
「わたくしはこの辺で失礼いたします。いずれ再びお会いしましよう」
「え?」

 私は思わず橙が引き摺り込まれて行った方を見る。
 放っとくんだ、あれ。
 放っておけるんだ。

「……」

 少し考え、探りを入れてみることにした。
 普段いろいろな意味で神様に縁のない人生を送っている私であるが、いくらなんでも知り合い見捨てて帰ろうとする奴は始めて見る。
 神様ってのは人気商売だし、私の知っている神はみんな縁とか交友関係とか大事にする奴らばかりだ。
 だからなんだろうな、ちょっと気になってしまった。

「それでは」
「なああんた」
「静葉です」
「あんたの本読んだよ」
「まあ、お買い上げありがとうございます。ちなみにどの著書ですの?」
「『出しゃばらない生き方』だったかな」
「そうですね。まあそれ1冊しか出していないので当然ですが」
「クソつまんなかったぞ。時間の無駄だった」
「……」

 ワザと厭味ったらしく言ってみたが、当の静葉は特に気にした風もなく、そうですか。と言うだけであった。
 なんですって。とも言わないし、残念です。とも言わない。
 神様は自分の著書を貶されても眉ひとつ動かさなかった。
 その様は懐が深いというよりも私からの評価に興味が無いように思え、ますます訳がわからなくなる。

「あんたそれでいいのかよ」
「わたくし行動で示すタイプですので、上っ面だけの雑魚神どもと同じにしないでくださいな。それでは」
「……そ、そうか」

 スカートを摘まみあげ改めて一礼すると、静葉は振り返りもせず去っていく。
 幽香の信仰する終焉の神は、時代に逆行するロックな神であった。
 幻想郷には面白い奴が多すぎる。
 どうしよう、好きになっちゃったかも。


「……行くか」

 落ち着いて考えてみれば、ここで静葉と一緒に私も帰るのも悪くない選択肢のように思えてくるが、そういう訳にもいかない。
 この先にいる人物に、私は用があるのだ。
 ついでに橙も可能なら助けておいてやろう。
 あいつに貸しを作っておくと何かといいことがあるからな。
 せっかくわざわざこの妖力の圧力の中を進んできたのだ、土壇場でビビッて尻尾巻くようじゃレジスタンスは務まらない。
 私は意を決し、化け物じみた妖力の渦巻く将棋場の中へ足を踏み入れた。

 もちろん窓からではなく入口から。





 陸帝、海皇、空君。
 いかにも老人が考えたようなセンスの無い称号だが、腐ってもタイトル戦。
 眩く輝く王冠を賭けた盤上の争いは、毎年のことながら熾烈を極めた至高の物だ。
 私も毎年棋譜集を取り寄せて購読しているのだが、内容と言えば私などでは及びもつかない程に洗練された強者共が、死力を尽くして戦う様が目の前に浮かんでくるほどのものである。

 そんな妖怪の山将棋3タイトルを総なめにし続けて100年。
 タイトル戦の本選に出場する8名のうちの7名、それが3タイトルで100年分。
 つまり、この妖怪は本戦だけでのべ2100名もの兵たちを延々薙ぎ払い続けてきたということだ。

 予選、本選含めて黒星ゼロ。
 ついたあだ名が『最強』。

 それはもうあだ名じゃねーだろとツッコミを入れたくなる気持ちもわかるが、そうとしか言いようがないという悲痛な叫びも理解できる。
 誰にも負けず、すべてに勝つ。
 そんな妖怪が今、私の前で寝そべっていた。

 将棋場に敷かれた畳の上、だらしなく着崩した男物の甚平をそのままに、長大な尻尾の1つに口を生やして橙をくわえ、まるで獣のように不機嫌そうな寝息を立てている。

 最強の妖獣。
 狐高の従者。
 管理者の側近。
 混沌よりも這い寄る九尾。
 幻想郷のデウス・エクス・マキナ。

 彼女の名は八雲藍。
 幻想郷に2人しかいない八雲性の1人であり、私の師匠である。
 人も神も妖も、この方の前では等しく無力だ。

「藍様」
「……」
「……藍様、起きてください。私です」
「んあ? ああ、その声は正邪か」

 藍様は気だるげな表情のまま、緩慢な動きでゆっくりと起き上がる。
 そしてはだける胸元を隠そうともせず、未だに暴れる橙に悪びれもせず、何もかもを気にも留めずに大きなあくびを噛み殺した。

「まずい」
「……はい?」

 ペッ、と音がしたかと思ったら、勢いよく振るわれた尻尾から橙が吐き出された。
 畳にバウンドして壁にぶち当たる猫又に向かって、さらにペッペッ、と尻尾が唾を吐く。
 最初見た時はヘビかと思ったのだが、よく見るとそのふさふさの尾に浮かんでいる口はヘビというよりは犬のような、いやキツネの口ような形状をしている。
 それが九つ、巨大な尻尾が自らの式を嘲り嗤うかのようにニタニタとした笑みを浮かべていた。
 怖いとカッコいいが7対3くらいだった。

「久しぶりだな正邪」
「お久しぶりです藍様。おかげさまで下剋上は順調です」
「そっか、そりゃよかったな」
「はい」
「あれ? 確か最後に会ったの去年とかだよな。久しぶりでいいんだっけ? 感覚がわかんないな、『ついこの間』って何年くらいの事指すんだ?」
「……1年も経っていれば『久しぶり』でいいと思います。『ついこの間』は精々数か月かと」
「そっか、まあいいか。久しぶり」
「……はい、お久しぶりです」

 どうでもよさげに藍様はかしげていた首を元に戻す。
 橙が言うには、紫様が近くに居る時の藍様はもっと理知的というか清楚な感じらしい。
 そのせいで指示待ち野郎とか言われていじける場面もあるそうだが、私としては藍様と言ったらこっちのイメージだ。
 怠惰で、凶暴で、大きくて、気分屋で、すぐ脱ぎたがる。
 そして何より。

「どれ、腕は鈍ってないだろうな」
「……もちろんです」

 悪夢のように、将棋が強い。

 いつの間にか、寸分のずれも無く綺麗に並べられた将棋盤と駒が藍様と私の間にあった。
 ただし、藍様側の陣営は六枚落ち、飛車と角と香車と桂馬がいない状態である。

「……」

 私は黙って盤の前で座を正し、膨れ上がっていく妖狐の気配に呑まれぬよう、盤面に集中した。

「「お願いします」」

 さしもの『最強』八雲藍とは言え、金銀と歩だけでは攻め手にかける、はずだ。
 六枚落ちの大ハンデとその上での指導対局ともなれば、下手側が攻め上手側が受けに徹するのが常であり、今回も概ねそのような展開になりそうであった。
 逆に言うならば、下手側の私としては急戦を警戒する必要があまりなく、十分な時間をかけて攻撃用の布陣を敷くことができる。
 自分の駒を大胆に右側に寄せ、鉄砲の弾倉のように駒を装填していく。
 先ほどから暇そうに王将を前後に動かして余裕をこいてる藍様に失礼のなきよう、全身全霊を以って狙いをつけていった。

 あと数手で準備が整うと思っていた矢先、ごそりと部屋の隅で何かが動く気配がした。
 上半身をベトベトにさせたそいつはプルプルと犬のように頭を振って付着していた唾液をそこらへ散らし、私たちを、というか藍様を睨みつけた。
 そしてだらりと下げられた両腕を邪魔そうにしながら、私たちのそばにまで歩み寄ってくる。

 盤を蹴飛ばしやしないかとちょっと焦ったが、もちろん橙がそんな事をするはずもなく、管理者の末席は私たちのすぐ横にちょこんと正座するとおとなしく盤上を覗き始めた。
 橙だって当然のように将棋はわかる。
 というか恐らくだが、論理的思考や先読みの力を養うために藍様から直々に教わったりしたのだろう。
 練度の差に目をつぶれば、指し方もそっくりだ。

 そんな橙がボソッと、口の中にだけ声を響かせるように小さく、本当に小さくつぶやいた。

「……やっちまえ」

 私の瞳を覗きこみながら、橙が期待を込めた眼差しを向けてくる。
 耳はちぎれ、片目は潰れ、両腕は折られ、歩き方からしてたぶん腹部も痛めている。
 だが問題は、そのほとんどに治療の跡がすでにあるということだ。

 それはつまり、怪我をしたのは少なくとも今じゃないということ。
 ならそれはいつで、誰で、なぜなのか。
 仮にも八雲の一端を相手に、誰にならここまでのことができるのか。
 立場的にも、保有する暴力的にも。

「……」

 ちらり、と対局相手を覗き見る。
 盤面に集中する金色の双眸が、おそらくもうここからどう詰ますかまでを計算しているのが見えた。

 上等だ。
 かたきは取ってやる。
 そう、視線だけで橙に返事をした。

「すぅー、はぁー」

 そして私は脳に酸素を叩きこみ、敵陣でふんぞり返っている王将に向けて引き金を引いた。
 飛車角銀桂に歩と香車を織り交ぜた弾丸が、パチリパチリと音を立てながら敵陣を食い荒らしていく。
 盤上の暴力。
 私は藍様にガトリング砲の如き波状攻撃を叩きこみ、その囲いを容赦なく破壊していった。

 将棋はいい。
 手合割の、しかも六枚落ちという大ハンデ戦とはいえ、現実では視界に収めることすら許されないような大妖怪とサシで渡り合える。
 無数の選択肢の中から最強の手を探し、敵がどう動くか読みながら早め早めに逃げ道を塞ぐ。
 思考回路が焼き切れるまで、ニューロンが悲鳴をあげるまで。
 極限までに集中した脳に体中のブドウ糖をくれてやれば、リミッターの外れた感覚器が盤外の情報を意識から消してくれる。
 きっと私は今、背中を刺されたって気付かないだろう。

 バチリ。と大きめに音を立て、私の桂馬が跳んだ。
 定石から外れたその動きに、今までノータイムで指していた藍様の手が止まる。
 本当に1秒もかけずに指し続けていたリズムが、初めて狂った。

 パチリ。とそれでも数秒の思考で結論を出した藍様が、自陣の銀を下げて成らせたばかりの桂馬を払う。
 私はその隙に、その銀が封じていた隙間を縫い、王将の目の前に角を叩きこんだ。
 私が創造した対藍様用の新手、六枚落ちを想定した一撃必殺の手だ。
 角から馬へと成ったこの駒で、藍様の囲いに風穴を開けた。
 このまま、ぶち殺す。

 そのまま数分間、藍様は動かなかった。
 ただじっと盤面を覗き込み、スーハーと浅い呼吸を繰り返すだけである。
 静寂に包まれる将棋場、聞こえて来るのは3人分の呼吸音だけであり、見える範囲で動くものは藍様の胸が呼吸に応じて僅かに上下している動きだけであった。

 その呼吸の間隔が、だんだんと早くなっていく。
 スーハースーハーと過呼吸気味に、藍様の息が荒くなる。
 しばらく息苦しそうにしていた藍様だったが、不意にその呼吸が落ち着きだした。
 気が付けばあたりを覆っていたどす黒い妖力が鳴りを潜め、いつもの、自然体な藍様へと戻っていた。
 まあ自然体とは言っても、このお方の場合、素で凶悪な性格をしているのだけども。
 そして。

「邪魔だ」

 というつぶやきと共に、王将が目の前の馬を蹴り飛ばした。
 当然ながら想定していた動きだったため、予定していた攻めを続けてぶつけるのだが、やはりそれらすべてがノータイムでしのがれてしまう。
 藍様は元からあった金銀に取った駒を足し合わせ、私が用意していた戦略全てを受け止めていく。
 王将ののど元にまで迫るような攻勢だったにもかかわらず、最後の1歩がどうしても押し込めない。
 気が付けば私の残弾は底をつき、私には申し訳程度の囲いと使っていなかった幾ばくかの駒だけが残されていた。

 攻めるための駒が無い。
 私の砲撃は、完全にしのぎ切られていた。

「……」
「馬までだ」
「……負けました」
「よし」

 藍様の持ち駒には私からぶんどった武器弾薬があふれ、私の陣営にはそれらを受けきるほどの戦力が無い。
 このまま続けても無駄だ。
 完敗であった。

「惜しかったね正邪」
「いや惜しくはないぞ」
「惜しくねーから」
「……はいすいません」

 適当な事を言う橙は置いておくとして、せっかくなので機嫌は直してくれたらしい藍様に感想戦を願う。
 ミスティアあたりには絶対見られたくないほどにズタボロにされた投了図であったが、これでもがんばったのだ。
 結果は出なかったが。

「なあ正邪よ」
「はい?」

 あの手はよかっただの他は全然だのとご指導をいただいている最中に、藍様がふと世間話のようにつぶやいた。

「対局の最中にさ、物とか持ち込んじゃダメだよな」
「……飲み物程度なら。それともカンペとかの話ですか?」
「さっきさー、紅魔館の連中が来てたんだよ」
「え?」

 紅魔館?
 あの紅き吸血鬼がここに?

「スパコン持ち出しやがったあの魔女野郎」
「それは……」
「ダメだよなー」

 私が答えに詰まっていると、横から橙がにゅーっと顔を出してきた。
 そして言わなくていいことを嬉々として言う。

「え、藍様負けちゃったんですか? 『最強』なのに? なーんだ、見たかったなー」
「……」
「あーあ、まあしょうがないですよね、パソコン相手なら。あ、藍様も似たようなもんでしたね、ぷぷぷ、でもしょうがないですよ。専用のソフトウェアが相手じゃ、ねえ『最強』」
「死ね」
「ヘーイ!」

 全く予備動作を見せずに放たれたクナイだったのに、橙はそれを難なくかわして見せた。
 というか私が見てた限り藍様がクナイを取り出すよりも、橙が避け始める方が早かったくらいだ。
 軽く驚く藍様を尻目にぴょんぴょんと将棋場の内を飛び跳ねると、橙は破壊された窓から屋外へと踊り出る。
 反射神経というよりは阿吽の呼吸といった具合の回避であった。

「それでは橙はこのあたりで失礼をば」

 だいだい色に輝く片目を細めながら、八雲の末席が姿を消す。
 何だったんだあいつは。とこぼす藍様だったが、たぶんやられっぱなしでいるのが嫌だっただけだろう。
 それが橙の悪い所で最高な所だ。

「……まあいい、場所を変えるか」
「あ、はい。どこにしましょう?」
「くふふふ、いい店を知っているんだ。お前にも教えてやる」

 着崩していた甚平をパパッと直し、知ってるかもしれんがなとつぶやきながら藍様が立ち上がる。
 だいぶ機嫌も直ったようでひと安心だが、着る物はあれ1枚で寒くないのだろうか。
 今日は草履で来ていたようで、これで桶でも持っていようものなら、銭湯帰りのような印象を受けるだろう。

 それにしても藍様、立ち上がるとわかるがやはり大きい。
 背もそうだが、あの誇示するかのように揺らめかす9つの尾も、抑えていても抑えきれない妖力も、それらを総じた存在感も。
 途方もない力の塊を、この形に無理やり凝縮したかのような存在の重量感。そんな神々しささえ感じるような方だ。
 その隣をこともあろうに天邪鬼ごときが歩くなどと、さすがの私も劣等感を覚えずにはいられない。

「ほれ行くぞ。そろそろ開く時刻だ」
「今行きます」

 当たり前のように手を差し出され、やや気恥ずかしさを覚えながらもその手を掴む。
 その手もやはり私より大きく、このままぶら下がって体重をかけてもびくともしないであろうことが容易に予想できるほど力強い。
 柔らかくもきめ細やかな手に引かれるように、私は将棋場を後にする。
 これでも数年の付き合いがあるのだが、こんな風に手をつないで歩くのは初めてであった。

 遠い西の空がだいだい色に染まり始めるような時刻。
 しばしのお別れとなる愛しき太陽に背を向けながら、ひと気のない里の大通りを2人で進む。
 目的地は聞いていなかったが、橙に教わったと言っていたのできっといい店なのだろう。
 あいつはああ見えてなかなかの食通だ。妖怪の山やそこらの集落を始め、人里の店にまで精通している。
 今の所、橙に『おすすめ』だと言われて外れたことは無い。
 現にこの前かじり取った牛串もうまかったし、エンゲル係数が50%を超えているらしいし。
 橙に教えてもらった。と語る口調からしても、この藍様ですら一定以上の信頼を寄せていると見て間違いはなさそうだった。

 しばらく里内を歩いていると、様子を見に来たらしい里の自警団に鉢合わせた。
 各々竹やりや木の盾などを装備し、思い付く限りの武装を整えた可愛らしい連中が道を塞いでいた。
 さて面倒になったぞ、と私は思う。
 私だけなら隠遁術ですり抜ければいいのだが、極度に目立つ藍様がいてはそれもできまい。
 ならばここは露払いとして私が奴らを蹴散らしてもいいのだが、いくらなんでも八雲の目の前で里内での暴行はまずいだろう。
 だとしたら飛んで越えればいいのだが、人間相手に道を譲るのもうまくない。

 どうしたものかと思って苦し紛れに歩くペースを落としてみるのだが、藍様の方が特に気にした風もなく私の手を引いてずんずんと無遠慮に進んで行くため、その勢いに引っ張られてしまう。

「え、ちょ」

 どうするつもりなのだと顔を見上げてみるが、藍様は御尊顔に笑みを湛えたまま前だけを見据えていた。
 まるで人間など眼中にもないと言わんばかりだ。
 混乱する私を慮ってか、私の手を握る力が少しだけ強まる。
 心配するな、と言っているようだった。

 事実、その瞬間に心配は消えた。
 向こうの方から消えてくれた。

 よく考えたら当たり前のことだが、この妖怪は八雲藍だ。最強の妖獣だ。
 なにを今更といったところだが、誰がこの方の歩みを止めようなどと思うものか。
 寄せ集めの人間など、その姿を見ただけで畏れて竦み、逃げ去るように道を開けるのだ。

「……うぉーすげー」
「くふふ」

 自警団の連中は私の見ている前で二手に分かれると、左右の家屋の軒先に我先にと張り付きだした。
 できうる限り距離を取ろうとするその姿は、まるで藍様から強い斥力でも働いているかのようにも見える。
 道を譲る人間どもに悔しがっているような顔は無い。
 『見てはいけないモノを見た』。
 皆一様にうつむき、目を逸らし、見ていて心配になる程に顔を青ざめさせている。
 さすが、さすがの大妖怪。
 こうなのか。藍様ほどの化物は人里ですらこういう扱いを受けるのか。

 素晴らしい。
 これだよ、これなんだよ。
 人間なんて蹴散らすまでもない、向こうの方が逃げ惑うのだ。
 これぞ妖怪、こうでなくては……!

 興奮気味に見上げる私に笑みを返し、藍様は黙って歩を進める。
 虎の威を借る狐じゃないが、これが藍様の見る世界なのかと思うと変な笑いが込み上げてきた。
 私は力いっぱい目をつぶり、かろうじて無表情を保つ。
 いかんいかん。平常心平常心。

 なかなかに歩くのが早い藍様であったが、目的地に着くころには日が完全に沈み切り、空から暖色系の色合いが消えていってしまうところであった。
 煌めき始めた星々や夜空のヌシのように鎮座する月、そして我々妖怪の存在を拒むかのように人里に列をなす電灯。
 それらの光源に照らされ、より一層怪しく輝く金色の妖怪に導かれながら、私はその洋風のバーへと足を踏み入れた。





 ふもとの里の中でもやや山に近い立地にあったその店に、カランカランとベルの音が響く。
 ロウソクを模したような電燈によって薄暗く演出された店内には、西洋のセンス、特にあるの種の木材で統一されたような椅子やテーブルがいくつか用意されていた。
 月明かりを鈍色のカーテンで遮り、人口の明かりによってのみ照らされている店内であったが、その電燈ひとつひとつには大した明るさが無かった。
 にもかかわらず特に光が足りないと言うようなことも無く、その小さな電燈の位置、そして数によって歩行するのに十分な光量は確保されていた。
 藍様はかるく店内を見回して他に客がいない事を確認すると、木目の美しい見るからに高級そうなカウンターへと足を運ぶ。
 私も慌てて後を追い、いつの間にか変化術で尻尾を消していた藍様のために椅子を引いた。
 目線だけで礼を言う藍様の隣に私も腰かけるが、このいかにも高級といった雰囲気が私には合わなかった。
 店全体から漂ってくるのは下らない成金趣味の、金がかかればかかるほど素晴らしいのだと言わんばかりのアホらしい趣味ではない。
 高品質、という単語そのものを具現化したような、そんな恐ろしい雰囲気だった。

 ああ恐ろしい。
 嘘とまがい物に溢れる天邪鬼の世界に、こんなステキな物はあってはならない。
 所詮私も虚勢とはったりで生きながらえてきた張りぼての小物。
 矛盾なき本物の前では、天邪鬼など容易く打ち砕かれるのだ。

 カウンター越しにグラスを磨く壮年の男性が、チラリと藍様の方を横目で覗く。
 キッチリとしたオールバックに、いい生地を使っていそうな濃いえんじ色の制服。
 その店長と思しき男性は、幾本も並べられた洋酒の瓶を背景にご自慢のアゴ髭をひと撫ですると、カウンターの横から席の方へとやってきた。
 はて注文でも取りに来たのかと思った私だったが、その男性は入口の方へ迷わず歩いて行ったかと思うと、表の看板の明かりをふっと消してしまう。
 扉にかかる『OPEN』を示す小さな看板も裏返され、扉の上部に位置していた小さな窓も、他の窓と同色のカーテンで静かに塞いだ。

 何も言わずに貸切となった店内に戻ってきたその男性は、再びカウンターの中に舞い戻ると私と藍様に向けて改めて一礼をした。

「いらっしゃいませ」
「いつもの。……2人分な」
「かしこまりました」
「……」

 私も行きつけの蕎麦屋やミスティアの店で『いつもの』とかやったことはあるが、こういう店でそういうことをそういう人にやられると、そんな冗談がひどく虚しく思えてくる。
 そんな私がここにいることが途方もなく場違いな気がしてならず、藍様の言う『いつもの』とやらがやってくるまでただただ居心地の悪い空気に耐えることしかできなかった。

 というか橙よ、どこかで傷を癒しているであろう我が姉弟子よ。
 お前ってこういう店来るんだな。
 やっぱ管理者ってすげーんだな。

「……藍様」
「ん?」
「先にお返ししておきます」

 人里が妖力であふれていたり、稗田阿求がガラスを割って飛び出して来たり、橙がボロボロだったり、秋静葉が信じがたいほどにマイペースだったりと立て続けに面白いことが起きたためにすっかり忘れていたが。
 私はもともと藍様に用があってこの里にやってきたのだ。

 『これ』を、返しに来たのだ。

「なんだ、もういいのか」
「はい。同じ手を二度も使えませんので」
「代わりに他のを貸せってか? どーしようかなー?」
「……」

 そう言って私は補修した風呂敷から打出の小槌を取り出し、カウンターの上へと置いて藍様の方へ押しやった。

「まあいいか、役には立ったか?」
「ええ、はい。とても助かりました、それが無ければこの計画も20年はかかっていたでしょう」
「くふふ、そうか。まあ、そんなに待ちたくなかったしな」

 小槌を受け取った藍様はスプーンでも握るかのような気軽さで取っ手を掴むと、自分の目の前に掲げてみせた。
 はち切れんばかりの妖力をため込んだ鬼の秘宝が、自らの放つ光に照らされキラキラと輝いている姿がよく見える。
 その小槌を、藍様はまるでおもちゃでも扱うかのようにクルクルと回して遊んでいた。

 藍様にとっては万華鏡ほどの価値しかないその小槌であるが、私がそれでどれほど助かったか、どれほどに下剋上計画を前倒しできたかは想像に難くない。
 弱者に闘争を、世界に狂乱を。
 ぶっちゃけた話、藍様にとっては退屈しのぎに過ぎなかったのかもしれないが。
 それでも、お礼は言わねばなるまい。

「ありがとうございました」
「ふむ、いいってことよ」

 スキマ空間へと小槌を乱雑に放り込み、藍様は頬杖を突きながら私の目を覗き込んできた。
 新しいおもちゃにどれくらいの力を込めたら壊れるのかを確かめるような、そんな幼い子供めいた残酷な好奇心に満ちた目で射すくめられ、私の背には軽く戦慄が走る。
 なぁに、もう少しは大丈夫さ。
 なんたって私は、地底の悪霊とまで呼ばれた妖怪なのだから。

「……藍様」
「ん?」
「次は、……白狼天狗を扇動しようと思っています」
「おおやってみろ。あいつら筋金入りの馬鹿だから難しいぞ?」
「馬鹿なんですか?」
「ああ馬鹿だ。馬鹿だから自分が受けた教育が真実だと思っている。馬鹿だから『山のために耐えろ』なんて支配者に都合のいい綺麗事を押し付けられてありがたがっている」
「……なるほど」

 まあ支配者って私らだけどな。と藍様は笑う。

 逆らうことを知らない牙無き狼。
 奴隷の扱いに納得する馬鹿どもを相手に、私は下剋上の炎を燃え移らせることはできるだろうか。

「さーて、次は何を貸してやろうか。紫様の傘とかパクってこようかな」
「怒られますよ」
「なんだ、知らないのか?」
「なんです?」
「紫様はな、怒った顔も可愛いんだぞ」
「……知りませんでした」
「そうかそうか」

 ここにはいない自らの主の顔を思い出してか、藍様の表情が喜悦に満ちる。
 藍様を知る妖怪の1人としてよく思うのだが、いったい八雲紫様とはどういう方なのだ。
 正直幻想郷の設立や管理以外に逸話などをいっさい聞かないのだが、一体全体何をどうしたら、この空前絶後の九尾を手下になどできるのだ。
 船長の度量が伺えるとかそういう奴か。

「まあその話は後だ、まずは食べよう」
「え? ああ、はい」

 藍様に促されてカウンターの奥を覗き込むと、先ほどの男性がトレーを持って歩いて来るところが伺えた。
 トレーにはいくつかの料理が乗っているように思えたが、なんだろう、どこかで嗅いだことがあるような、優しい香りが漂ってくる。
 もちろん非常に食欲をそそる香りではあるのだが、なんというか場にそぐわない、和風な香りであった。

「……煮物?」
「うん」

 いや、うんじゃねーよと思わずツッコミを入れそうになるが、そこをぐっとこらえてカウンターに料理が並べられるのを待つ。
 そもそも藍様のセリフが『飲もう』じゃなくて『食べよう』だった時点で気付くべきだったが、もしかして藍様は食事に来たのだろうか、この洋風のバーに。

「裏メニューってやつですか」
「いや、表メニューだ、ほれ」

 渡されたメニュー表を見てみると、そこには見たこともないような名前の洋酒と、しょっちゅう目にする名前の料理が名を連ねていた。
 というかなんだ、煮物ばっかりだった。

「なんすかこの店」
「煮物のおいしい洋風バーと言えば、幻想郷ではここを指すんだ」
「まるで外の世界ではそれが一般的みたいな言い方ですね」
「知る人ぞ知る名店だぞ」
「そうですか」

 聞いたこともねーよそんなもん。
 なんかもう、さっきまで本物だなんだと内心騒いでいた自分が馬鹿らしくなってきた。
 藍様はいつもの、とかいっていたが、いつも何を注文していたというのだ。飯か、飯なのか。
 カウンター越しに飲み物を用意しているこのマスターも、なにしれっと澄ました顔をしているんだ。

「くふふふ、これこれ」
「……」

 藍様は嬉しそうであったが、期待させておいて結局ネタ的な店なのかと思うと私はちょっと気落ちしてしまう。
 筑紫流が聞けると思っていたのに『ヘイカモン!』と言われたような気分であった。
 残念ではあったが、私を本当に高い店になど連れて行ってくれると期待したことが間違いだったのだ。
 まあ小槌も返せたし、目的は十分に果たせたのだ。
 色物としては面白い店だと思うし、いい所を教えてもらったのだと思っておこう。

 そう思いながら、私はまるで期待することもなく目の前のモツ煮に箸を付ける。
 そんな私の舌に、衝撃が走った。

「―――うんっめええええぇぇええ!!」
「……ブフッ、くふふふふはははは」
「え? は!? なにこれうめぇ!! 信じらんねぇ!!」
「くふふ、これこれ騒ぐな正邪」

 くふくふと意地悪そうに笑う藍様も、自らの小鉢によそわれた煮物に手を付け始めた。
 モグモグと楽しそうに咀嚼するその姿からは、その筑前煮もまた今しがたのモツ煮に引けを取らないほどの一品であることが伺える。
 私も慌てて同じものを口にすると、その途端にホクホクとした人参の食感が口内を埋め尽くしてきた。
 その残り香が消えるのも待たず、私は続けてタケノコ、しいたけ、ゴボウなどを次々と頬張っていく。

 信じがたいほどに香ばしいその筑前煮からは僅かな雑味も感じられず、なぜこれを和風の旅亭で出さないのかなどという野暮なツッコミを吹き飛ばすほどの衝撃を私に与えた。
 これぞ極地。
 至高にして究極。
 打ち出の小槌にうまいものを食べたいと願ったらこれが出て来るに違いない。
 その証拠にほら、私の前に並べられていたいくつかの料理、最初にいただいたモツ煮、筑前煮、さらにブリかなにかの甘煮の皿はあっという間に消えて無くなり、藍様の皿に手を出そうとしてひっぱたかれている私がいる。

 橙のオススメ。
 その食通ぶりに一抹の陰りもなし。
 やっぱり管理者ってスゲー。
 そしてこの人間もスゲー。

「うまいだろ」
「最高です」
「だろ? 橙もいい店知ってるよなー。やっぱあいつ使えるわー」
「何者なんですかここの店長は」
「くふふふ、彼こそは人類の到達点だ。あ、マスター次の皿お願い」

 うやうやしく一礼する煮物の神がまたカウンターの奥へと引っ込み、場には私と藍様だけが残される。
 魚の甘煮を箸で崩す藍様とは対称に、私はもう早く次のを持って来て欲しいと願うばかりであった。
 藍様をして人類の到達点と言わしめるとは、私だったら思わず恐縮してしまう所だ。
 しかしながら出てくる料理はその名に恥じない極上の一品。
 妖怪はあまりにうまいものを食べると、他のことを考えられなくなるのだと初めて知った。

「退屈だったんだ」

 私が藍様の皿をチラチラ見ながら世界平和とは食の充実から始まるのだと確信していたところ、不意に藍様がため息を付いた。

「私ってほら天才じゃん?」
「……はい」
「超強いじゃん」
「はい」
「その上モテまくるし」
「え?」
「だからなできない事ってあんまりないんだよ」
「恋人いたんですか?」
「それなのに、この幻想郷では本気を出すことが許されない」
「恋人いたんですか?」

 無言でぶっ叩かれて頭蓋骨を陥没させかける私に、藍様は続ける。
 強者の苦痛を、強者の悩みを。
 贅沢すぎてムカついてくるが、頭の痛みと共に我慢した。

「幻想郷は狭い。みんなが本気になったら簡単に壊れてしまう」
「……はい」
「だから力のある妖怪はみんな退屈してるんだ。それもちょっとやそっとじゃない。数十年、数百年をだ」
「……」
「力を持て余しているくせに、領土を広げようとか、外の世界に侵攻しようとか、そういった決断に踏み切れる奴もいない」
「決断力」
「そう。我々には、もちろん私にも、ものを決める力が無い」

 何かを決断し、実行する力。
 特に逆境において顕著に表れるその力を、人は決断力と呼ぶ。
 夕飯を何にするか決められない者はいないが、身近なところで言えば、たとえば転職だとか、プロポーズだとか。
 『失敗したらどうしよう』という心を捻じ伏せる力、こうだと思ったことに本当に挑戦してしまう力。

 身近でない所で言えば、たとえば野心家が新たな組織を設立したり、今藍様が言ったような政治的な決断を断行したり。
 周囲からの批判をクビリ殺す程の心の強さ、1歩踏み出す勇気、断固として続ける狂気。そういったものを、私たちは基本的に持たない。

 妖怪も、そして多くの人間も。
 誰かに決めてほしい、責任を取りたくない。
 人と違う行動をするより、黙って従って損する方が楽だ。
 そういう奴のなんと多いことか。

 逆に神様連中は、そういうのが大得意だ。
 だから大昔、神話の時代。
 神がすべてを決め、人間がその通りに作り、妖怪が過不足なく壊す、そんな幸福な時代があった。
 などといったおとぎ話が幻想郷にも根強く残っていたりもする。

 もちろんそれは傾向、得意不得意の話で、妖怪にも人間にも普通に為政者はいるし、ちゃんとものを決めてその通りに行動している。
 現にカウンターの奥でクツクツと何かを煮込んでいるあのマスターだって、この店を始めるのに相当な決断をしたことだろう。

「だから持て余す。退屈でしょうがない」
「……」
「自分が衰えていくかもしれないという恐怖だ。お前にはわかるまい」
「そうですね。私はまだまだ発展途上なので」
「私は子供のころ、部屋の中で大の字に寝転がるのが好きだった。自分はこんなに大きいんだと淡い誇りに酔ったりもした」
「……」
「だが今はどうだ。そんなことをしたら手足が壁にぶつかってしまう。もう身体を丸めて寝るほかない。この世界は狭すぎる」
「それで、退屈しのぎにと」
「ああそうだ。退屈は妖怪を殺す。だから命がけで退屈しのぎをしている」

 そう言って藍様は私の頭を撫でつける。
 その優しげな手つきからして、今の所はご満足いただけているようだと理解した。

「紫様、天魔様、あとはあの忌々しい吸血鬼、橙にもまあない事はない、そしてお前だ」
「……」
「他にいないとは言わないが、そこそこ以上ともなると数も限られる」
「はい」
「期待してるぞ」
「……ありがとうございます」

 額同士をコツンと触れ合せ、藍様が聖母のように優しく微笑む。
 幻想郷のトップランカーたちと比べられても正直困るのだが、それでも私は虚勢を張る。
 私こそは地底の悪霊。
 地底の治安を崩壊させた混沌の申し子。

 地底へ送られた物資に火をつけ、配給所を襲撃し、塩や米を独占し、偽造した通貨でインフレを起こさせ、空気の循環システムを乗っ取って気温を氷点下にした。
 闇市を発足し、独占した物資を売り付け、賄賂をはびこらせ、チームを何個も作ってぶつけ合った。

 争わせた。
 徹底的に争わせた。
 地底に狂乱を、弱者に闘争を。
 塵芥どもに輝きを。

 我こそは悪霊。
 私にできないことは、私にできないことだけだ。
 だからそう、私は私の決断力を以って、この恐ろしき妖獣の頂点である八雲藍様に、質問を投げかけてみようと思う。
 これでまた機嫌損なったらどうしようかと思う心を押さえつけ、私は努めて冷静に口を開いた。

「博麗を呼び付けたのはあなたですね?」
「……む?」

 コトリ、と目の前に置かれた追加の注文、牛肉とゴボウを使ったしぐれ煮、大根と油揚げのうま煮、そしてメインディッシュとみえる豚の角煮。
 それらに手を伸ばす藍様を横目に見ながら、私もしぐれ煮へ箸を伸ばす。

「それと、影狼をけしかけたのも」
「……ふぅむ」

 牛肉とゴボウの量が1対1になるように調整しながらまとめて掴みあげ、一息に口の中へと放り込む。
 感動的なまでに味の染みた牛肉と、しっかりとした食感が残るゴボウとが口内で手を取り合う。
 先にどちらかを煮始めてから残りを追加するのか、素人の私にも食材に応じて火を通す時間を変えているであろうことがわかった。

「タイミングが、良すぎます」
「何の事だかわからないな。いやお前が小人を連れ去った事は知っているが」

 名残惜しさを感じながらもそれらを飲みこみ、続けてうま煮へと箸を伸ばす。
 4分の1にカットされた厚切りの大根に刻まれた油揚げとネギを乗せ、そのまま口へと運んだ。
 たんと煮汁を吸っていた油揚げが舌の上でそのうまみを解放し、それと同時にじっくりと煮込んだ大根特有のしゃくしゃくとした食感が大胆に主張されてくる。
 頬がとろけそうになるほどの快楽に舌を楽しませながら、私は角煮の皿を近付けた。

「橙があそこまで抵抗するのは、本気で沽券に関わる時だけです」
「……」
「あいつが本気でキレるのは、主を侮辱された時と、自分の予定を狂わされた時だけ」
「……私よりあいつに詳しいんじゃないか?」

 奇しくもさっき藍様が言っていた通り、橙にだって類稀なる決断力がある。
 自分の判断に一定以上の、それこそ過剰なほどの自信と信頼を持って行動の指針にしている。

 それを邪魔される。
 それすなわち、並べているドミノを横から蹴飛ばす行為に他ならず、妖怪の尊厳を傷つける行為に相違なかった。

 例えその相手が、自らの主であったとしても。
 あいつは構うことなく毛を逆立て、爪を立てるだろう。

「橙は博麗を連れ出してくれました」
「そうだったか?」
「でも、神社に戻ってきたのは博麗だけでした」

 影狼は言っていた。
 博麗だけだったと。
 相手は1人だったと。

「藍様、お答えください」
「……」
「博麗をけしかけたのはあなたですか?」
「……ふむ」

 ガブリ、と遠慮仮借なく角煮へかぶりつく藍様。
 その様子からは苛立ちや不機嫌さは感じられない。
 かと言って感心している風でもなく、ただ黙々と咀嚼を続けるだけであった。

「少し違うな」
「……少し、とは?」
「私は様子を見に行ったのだ」
「様子……」

 だってな……、と藍様は意地悪そうに笑みを作る。
 牙をむき出しにして笑うその表情は、技を披露する奇術師のそれであった。

「博麗神社の障壁が、軒並み解呪されたんだもの」
「……っ!」

 その『回答』に、私は思わず言葉を失った。
 しまった。
 ああ、なんてことだ。

「あの日、私の術式にアラームが鳴ってな? 何かと思ったら博麗神社に張ってあるセキュリティが突破されたと表示されている」
「……」

 そこから先を聞く必要は無かった。
 藍様が言葉を紡ぐより先に、私の頭脳が出てくる答えを弾きだしていた。

「何事かと思って見に行ったんだよ。博麗の無事を、博麗本人の無事を確認しにな」
「……ああ」
「そしたら何やら祭りに遊びに行っていた様子でな、橙もそばにいたことだしひとまず安心したのだよ。いや、さすがは我が式、神社の異変に独力で気付き、私より先に巫女のフォローに回るとはなかなか腕を上げたじゃないかと褒めてやったのだ」
「……」
「そしたらどうだ、博麗が飛び出していくじゃないか。くふふふ、あの慌てっぷりと言ったらなかったぞ。『針妙丸が神社にいるの!』ってな。いや素晴らしい。仲良きことは美しきかな。種族を超えた友情に私は強く胸を打たれたよ」

 博麗の声色を模してか、藍様は臨場感たっぷりに悲鳴をあげてみせる。
 私と言えば、口内の残る煮物の残り香がすっかり消え失せてしまうような心地のまま、ただただ奥歯を噛みしめているだけだった。

 しくじった。
 注意が、考えが足りなかった。
 気付けたはずだろうそんな事。
 そのせいで、私が注意を怠ったせいで、橙が。

「そしたらなんかさぁ、あいついきなり蹴って来たんだよ」
「……でしょうね」
「いやはやまったく。せっかく人が褒めてやった矢先に何をするといったところだ。反抗期か? いや、あいつはいつだって反抗的だ」
「それで、あんな目に遭わせた」
「最初はしつけのつもりだったんだが、あいつ引かなくてなぁ。ついつい」
「……」

 ポタリポタリと目の前の豚の角煮が塩辛くなっていく。
 指先が白むほどに握り込まれた拳が、カウンターの下で振りかざす先を探していた。

 しくじった。
 しくじったしくじったしくじった……。
 すまん、橙。
 本当に……。

「まあ、そんな所だ」
「……影狼は」
「だれだっけ。ああ、狼女か。あいつには別に大したことはしてないぞ。ただちょっと世間話をな」
「世間話?」
「最近新聞を騒がせているレジスタンスが何を企んでいるかとか、今日が小槌の魔力が回収しつくされる日だとか、博麗がその間神社にいたら大変だとか、もしかしたらお祭りにでも行っているんじゃあないか、とかな」
「そのせいで影狼は死に掛けた」
「別にいいだろそんなこと」

 瞬間的に、私の頭の中で影狼の顔がフラッシュバックする。
 血の気の引いた顔で私の腕にもたれかかる彼女は、力尽きるその最後の瞬間まで笑顔を絶やさなかった。
 あれぞ下剋上。
 決断力の萌芽。

 影狼は、たとえそれが入れ知恵であっても、自分で考え、自分で行動した。
 その結果に、彼女は満足しているのだろうか。

「行動には責任が伴う」
「……はい」
「それに気付かず馬鹿をやり、後になってなぜ自分が責められるのか理解できない馬鹿も多い」

 吐き捨てるようにつぶやく藍様には心当たりでもあるのだろうか、誤魔化すように皿に乗った大根と油揚げを頬張る。
 私もそれに習い、僅かに塩味の増した角煮に箸をつけた。
 持ち上げられたその豚肉は見ただけでわかるほどにプルプルと柔らかく、大いにその食感を私に期待させる。
 さてその実際の感触はといえば、私の拙い想像を容易く飛び越えていくほどの柔らかさを携えており、前歯で2つに噛み割ったそれを両の奥歯で均等に噛み潰せば、甘辛さの染みた赤身と甘みを内包した脂身が舌の上で奇跡のように爆ぜ混ざった。
 その幸福感は私の脳から影狼のことを取り去りかけるほどであったが、現実へと立ち戻ってきた私に、藍様は続きの言葉を投げかけた。

「だがあの娘は違ったようだ」
「……はい」
「ならばいい。自分で選んだ行動の末にどうなろうがあの娘の責任だ」
「……そう、ですね」
「刃向え、抗え、牙を剥け。その果てに死ぬなら仕方がない。お前がいつも言っている事だ。お前が他人にやれと言っている事だ」
「……」
「そしてあの狼女はそれに乗った。その魂までもを賭場に放り込んだ。それが重要だ、それだけが重要だ」

 ニタニタと薄気味の悪い笑みを浮かべながら、藍様は新しいおもちゃでどう遊ぼうかを考えている。
 なあ橙。私もやりそうだ、やってしまいそうだ。
 私たちにならともかく、いや私たちですらこうだ。このザマなのだ。
 なのに藍様はあの目覚めたばかりの狼にもう目を付けている。
 冗談ではない。耐えられるわけがない。
 藍様から放たれる『出題』は、毎度毎度ギリギリの線をついてくる物ばかりなのだ。

 もしその毒牙を影狼にかけようというのなら、私が代わって相手をすることも視野に入れなければならない。
 どうせそれすらも計算された絶妙に危険なものを叩きこんでくるに違いない。

「ああ、楽しみだな……。若人が頑張る姿はいつも私を満たしてくれる」
「……そうですか」

 わかった。よくわかったとも。
 やはり藍様だったのだ。
 余計な事をしてくださったのも、いたずらに影狼を危険な目に遭わせたのも。
 そのせいであの狼は、博麗に加えて鬼までもを相手にする羽目になった。

 そして。
 そしてなにより……。

「あのパスワードは……」
「簡単だっただろ?」

 まるで悪びれる様子もなく、藍様は油揚げの乗ったうま煮の皿を平らげながら、しぐれ煮の皿へと手を伸ばした。
 そのすぐ横で膨れ上がる殺意と妖力を気にも留めず、ただニタニタと、底意地の悪い笑みを隠そうともせずにいた。
 お前のせいで。
 お前の下らない稚気のせいで。

「私の姫が……!」
「くふふふ、お前もか」

 子犬に甘噛みされる飼い主がそうするように、藍様は微笑ましいものでも見るかのような笑みを向けてくる。

 天邪鬼七つ技術その8、ガトリング術。

 数日前には自らの式に向けたのであろうその笑顔に向かって、私はあらん限りの砲撃を放った。

「おらぁ!!」
「まったく、近頃の若いもんは」

 里内で使用することなど決して許されないような、ガトリング砲の如き強大な妖力の弾丸。
 店ごと吹き飛ばすつもりで放ち続けた私の砲撃は、そのこと如くが『かじり取られる』。
 たった2本の尻尾で私のすべてを防ぎきる藍様を見ながら、私は改めて力の差を思い知る。
 しかしそんな事は眼中になかった。
 私の姫を、針妙丸を傷つけられたのだ。
 死を以って償え八雲藍。

「くふ、くふふふ……」

 それだけで窓ガラスが割れそうなほどの爆音が店内に響き渡る。
 渾身の力で管理者に挑む私に、残りの7本の尻尾がゆったりと牙を剥いた。
 ダラダラと涎を垂らすその尻尾たちにはあちこちに大小無数の口腔がへばり付き、ガチガチと歯を鳴らしながら獲物へと狙いを定めている。
 橙の上半身を丸のみにしていた時とは違う、見る者の正気を容易くへし折るまごう事なき幻想の異形。

 1本1本が独立した意思を持つように揺らめくその尻尾が、そのくせ寸分の狂いもない正確さで私に襲い掛かってくる。
 いつぞやに翻弄された橙の動きよりも格段に速いその攻撃を、私は避けることも防ぐこともできなかった。

 意識が飛ぶ直前に見た藍様の顔は、子供が他人の失敗を嘲るような、そんな無邪気な笑顔であった。
 本当にこの人は、よく笑うお方であった。

 お前なんか大嫌いだ。





 何合かの打ち合いの末、ついにその剛腕が私の胴体を捉えた。

 振り下ろすように放たれた拳を腹部にくらい、私は無様に地面へと叩きつけられる。
 私は血と胃液を汚らしくまき散らしながら地面を滑り、痛みのあまり痙攣する身体を丸めるのが精一杯だった。

 対する鬼は、憤慨したように地面を踏み鳴らし、自らの憤りを全身で表現している。

「いきなり何すんだよてめぇ」
「おまえ、犯人!」

 煮物のおいしい洋風バーの窓を突き破るように放り捨てられてから、私は人里を離れとぼとぼと帰宅しているところだった。
 メディスンや八橋たちが見ている前で惣菜を買占め、『普通そういうことする?』と真顔で聞いてくる八橋や娘を探して走り回っていた幽香に怒られながらも、針妙丸の待つ我が家へ帰ろうとしていたのだ。

 そこにコイツがやってきた。
 先日、影狼をカツアゲしていた中堅階級の鬼だ。

「ぁあ?」
「みんな! 暴れた! おまえ犯人!! 猫に聞いた! あいつ可愛い!!」
「あー、そうだな。私が犯人だ」
「おれ! 噛まれた! 弱い奴に! 噛まれた!」
「そりゃカツアゲするのが悪い」
「ウガアアアアアァァ!!」

 1人で来たらしいそいつは、ゴツンゴツンとコブシ同士をぶつけ合い、私を弾糾するかのように威嚇してくる。
 軽くあたりを見回してみるが、どうやら今日は止めてくれる奴はいなさそうだった。

「いやぁ、そりゃ悪かったな」
「フンガアアア!!」

 未だ名付けられていないあの異変。
 私の、私たちの異変。

「それに、おまえ! うそつき!!」
「は? 私ほどの正直者なんていないぞ」
「うそつき! おまえ、わざと負けた!!」
「……そりゃ弾幕ごっこってのはそういうもんだ」

 派手な異変の裏で起こった本命の勝負手。
 弱者に闘争を、世界に狂乱を。

「違う! このまえ!」
「……あ、あー、あの時かぁ。まあちょっと思うところがあってなぁ」
「おれ、わざと負ける! キライ!! 鬼だから!」
「そうかぁ? 私は結構好きだぞぉ?」

 大人しい妖怪たちが暴れて燃えた。
 今でも一部はくすぶっている。

 付喪神たちが生まれて萌えた。
 奴らも何やら企て中だ。

 あの異変、私も針妙丸も『正しく負ける』ことができた。
 戦後処理としての人質の奪還も成功、ほぼ無傷だ。

「勝負! 勝負!」
「あー、実は私。今、かなり機嫌悪いんだよなぁ」
「上等!!」

 あの日ばら撒いた反逆の種は、芽吹き、育ち、他を蹴散らしながら瞳を輝かせている。
 今日よりも明日。
 私が撒いた種はやがて、私の未来となって現れるだろう。

 人間の目的は生まれた本人が、本人自身のためにつくったものでなければならない。
 そう夏目漱石も言っている。
 妖怪だってまた然りだ。

「まったく。本物の鬼が天邪鬼相手になぁ、大人げない」
「おれ、88歳。まだ、子供」
「……米寿か、めでたいな」

 進め進め、尽き果てるまで。
 あらゆる壁を突き崩しながら。

 負けるたびに反省し、転ぶたびに考え直し。
 へし折れる度に、その切れ味を増していけ。

「なんだそれ」
「お祝いの年のことだ」
「どうでもいい!!」
「……そうかい」

 やられたら、絶対にやり返さなければならない。
 不遇に対し、決してこうべを垂れてはならない。

「おまえ、なんさい」
「おいおい」

 刃向え、抗え、牙を剥け。
 反逆だけが自分を守る術だと知れ。

 奮い立ったがさあ吉日、下剋上を続けよう。
 何があっても下なんか見ない、お天道様を見上げて生きる。

「女性に歳なんて聞くもんじゃねぇよ、小僧」

 だからほら、名も知らぬ鬼よ。発展途上の身の程知らずよ。
 ガトリング砲の如き砲撃に晒され、無様に転がる未熟者よ。
 今日の敗北を、存分に糧とするがいい。

 いつだっていい。何度だっていい。私を倒しに来るがいい。
 私に勝ってみろ。経験値にしてみせろ。PDCAサイクルに砕けぬ物はない!

 さあ! 弱者が存分に戦える楽園を築くのだ!!



あとがき
28度目ましてこんにちは。

……酸素無くても平気なんだってね。

それではまた。
南条
https://twitter.com/nanjo_4164
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コメント



0.140簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100東ノ目削除
途中までは色々な弱者寄り幻想少女が正邪に絡む群像劇かなと思いながら読んでましたが、走れメロスが始まったあたりで一気に乱雑だったキャラ配置が収束していく感じがしてここまで考えて構成を……となりました。あと洒落が効いたセリフ回し・地の文の表現は書き手としてパクらせてと思いました。「捕らぬ狸の皮算用を暗算してみる」とか
3.100名前が無い程度の能力削除
立ち位置と信念を持ち、発破をかける役目を全うする正邪がとても良かったです。謙虚に己を顧みるある意味では俯瞰の視点で幻想郷を捉えている正邪でしたが、作中で語られる停滞した幻想郷に諦念を抱きながらも、やるべきことをこつこつと積み重ねようとする姿勢に感動さえ覚えました。口では革命を謳いながら横のつながりも増えて、くすぶったまま仲良くやっているようにも見えますが、まあどこまでも天邪鬼に準ずるしかないのでしょうね。面白かったです。ありがとうございました。
4.100夏後冬前削除
面白い要素しかなくてこの長さなのにすんなり読み終えてしまったのでやはりすげーという気持ちです。いやー面白いもんを見た。
7.90名前が無い程度の能力削除
作者さんが構築した独特の世界観に引きずられるようにして読み終えました。
いろいろと滅茶苦茶な正邪ですが、結局一人はしんどい、というところは一貫しているのが微笑ましいです。
8.100名前が無い程度の能力削除
上手く言語化できないですけど、とても面白かったです!