「それが無いと、本当に何も見えないの?」
森の中にぽつんと建つ一軒の道具屋『香霖堂』には、一人の店主と客の姿があった。
そのうち、客の方の少女―――十六夜咲夜が言及したのは、店主である森近霖之助の眼鏡について。
霖之助は、自分の眼鏡に触れながら口を開いた。
「見えないこともないが……目つきは悪くなる」
冗談っぽく、しかし笑顔の一つも浮かべず、そんなことを言う霖之助。
「ふぅん、目つきの悪い貴方も悪くないと思いますわ」
「―――何を言ってるんだ、君は」
「私、ずっとその眼鏡というものに興味を持っていましてね?」
「………おい、本当に何をする気だ。 いくら客でもわがままには限度が……」
ふっと、音がしたような気がして。
それきり霖之助の視界はぼやけた。
「なっ……!」
「ふむふむ、ここを耳に掛けてと」
焦点の合わない目で咲夜の方を見ると、彼女が眼鏡を掛けている姿が、ぼんやりと見えた。
「どう? 似合います?」
「………生憎、目が悪くてね。 眼鏡を返してくれれば見えるんだが」
霖之助の眼鏡を(勝手に)掛け、感想を訊く咲夜。
霖之助は、皮肉をたっぷり込めて言葉を返した。
「あらあら、それは男冥利に尽きませんわね」
「君は何と言うか、実に性質が悪い」
「悪女は悪ではなく、女なんですわ」
意味が解らない、と溜息を吐く霖之助。
まぁ流石に帰るときには返してくれるだろう、と諦め、読みかけの本に手を伸ばした。恐らく全く読めないであろうが。
「―――む……ここか、いや………」
「あら、立体視ですか?」
「四次元世界の君にはわからないさ」
本を近づけたり離したりしていた霖之助を、横から覗き込む咲夜。
霖之助は、買い物をしに来たんじゃないのか、と思いつつも口には出さなかった。
咲夜が店に来るだけ来て、買い物をせずに帰ることなど、最近は珍しくもない。
それでも他の自称客に比べて時々買い物をしていくだけ、霖之助にとってはマシだった。
「う~ん、逆に見辛いですねぇ」
「そりゃあ、目の良い人間が着けるものではないからね」
咲夜は霖之助の肩に顎を乗せるようにして(ただし、実際には乗せない)、霖之助の本を覗き込む。
霖之助と咲夜の顔同士の間には、一寸ほどの距離しかなかった。
(―――全くこのメイドは、『こういうこと』を自覚してやってるのかそうでないのか……そこが読めないから性質が悪い)
霖之助は、自分が未だに男であったことを再確認して、冷静を装いながら咲夜の頭を引き離す。
「買い物をするのか、それとも僕にちょっかいをかけたいだけなのか……それとも君は、眼鏡に対する純粋な興味だけでここに来たのかい?」
「後者、とだけお返ししますわ」
「―――どっちのだよ」
とりあえず、買い物をする為に来たわけでは、ないらしい。
「とにかく、買い物をしない以上は客じゃない。 眼鏡を返して帰ってくれ。 読みたい本があるんだ」
「では僭越ながら、私が読んでさしあげますわ」
「………ふざけているのか?
「さて、どの辺りからお読みさしあげればよろしいでしょうか」
眼鏡を外し、霖之助から本を取り上げる咲夜。
「―――外すくらいなら、返してくれ」
「『春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際―――』」
霖之助の言葉になど一切耳を貸さず、朗読を始める咲夜。
素直じゃない人間だ、と心の中で呟いて。
そっと目を閉じて、咲夜の声に耳を傾けた。
~ 閑話休題 ~
「のう、獣耳小娘や」
「あなただって獣耳じゃないですか」
「そんなことはどうだっていい。 儂が訊きたいのはな」
「どうだってよくないですー!」
「……儂が訊きたいのはな、なんでおぬしが儂の眼鏡をつけておるかじゃ」
マミゾウは、目を細めて、睨むように目の前の少女を見た。
「な、なんですか~! こ、怖くなんかないんですからね! 南無三!!」
「こんなときに頼られては、仏も困ろうよ……それに、儂は睨んどらん。 おぬしが儂の眼鏡を持っているせいで、よく見えんのじゃ」
眼鏡をかけた少女、幽谷響子はそれきり黙ってしまった。
やれ困った、と溜息を吐き肩を竦める、眼鏡をかけているはずの少女(?)は二ツ岩マミゾウ。
「それは玩具じゃない。 すぐ壊れるし、子供が持っていて面白いものでもないぞ」
悪戯をした子供の母親―――或いは祖母のように、マミゾウは響子を優しく諭した。
対して響子は、ぐぬぬと息を漏らすだけで眼鏡を外そうとはしなかった。
「ほら、いいから返せ。 目が悪くなるぞ?」
「い~や~で~す~」
眼鏡のつるを抑え、マミゾウに返すまいとする響子。
その強情な態度に、マミゾウはもう一度溜息を吐いた。
「ふぅ………仕方ないのぅ。 ここは根性比べじゃ」
「根性比べ?」
「うむ。 おぬしが返すか、儂が諦めるか。 しばらく付き合ってやろう」
マミゾウは白い歯を見せ、含み笑いをした。
響子は、マミゾウのそんな表情をしばらく見つめ、ぷいと横を向いた。
「し、仕方ないですね。 じゃあ私も付き合ってあげます」
目をマミゾウに合わせぬまま、響子はそう言った。
マミゾウは、決してこちらを向こうとしない響子の横顔をじっと見つめた。
「―――なんですか」
その視線に気付いたらしい響子が、顔を横に向けたまま言った。
「いやぁ、獣耳は赤くならぬのじゃな、と」
「な、ななななにを言ってるんですか!」
一層顔を真っ赤にした響子が、マミゾウに詰め寄る。
それを見てマミゾウは、にぃっと笑った。
「一番勝負、儂の勝ち。 じゃの」
一瞬、響子はポカンとして。
それからマミゾウの胸をポカポカ殴り始めた。
「ずるい! ずるいですっ!」
「年の功、かのう」
「うぅ~……もう一回! もう一回です!」
マミゾウは響子の翡翠色の髪を撫で、そうじゃのう、と笑った。
うららかな陽射しに、眼鏡のことなど最早どうでもよくなって。
この我侭で悪戯っ子な甘えん坊と、しばらく遊ぶのも悪くないかなと。
マミゾウは思った。
「―――なにをしている」
「おはようございますわ、お寝坊店主。 勿論、客の特権として商品を物色させていただいております」
「客、というのは、店主が寝ている間に店に忍び込む人間を言うんだったかな」
むくりと、店主と呼ばれた男―――森近霖之助は、突っ伏していた机から身体を起こし、目をこすった。
それから、覚束ない様子で机の上を手探る。
「あぁ、失敬。 またお借りしました」
「………あのなぁ」
「商品を勝手に持っていかないのが客の条件なら、まさに私は客ですわ。 勝手に取ったのは商品ではありませんもの」
全く悪びれた様子もなく、勝手に忍び込んでいたらしい少女―――十六夜咲夜は言った。
「僕の眼鏡を返してくれ。 それが無いとあまり―――いや何も見えない」
「あら、では私から眼鏡を奪い返すこともできませんね」
咲夜は霖之助にわざと近づいて、霖之助が手を眼鏡に伸ばす。
しかし咲夜は、その手を優雅にひらりとかわした。
そして、愉しげに笑う。
「あらあら、私はそちらではありませんわ」
口元を隠し、瀟洒に笑う咲夜。 その笑顔は、少女らしい無邪気なものだった。
惜しむらくは、その愛らしい笑顔が、霖之助の目には映らないことだった。
霖之助は、諦めたように一つ溜息をついた。
「眼鏡を返すのは、商品を見て満足してからでいい。 君はお得意様だからね、それくらいは―――」
「お会計のときも、眼鏡なしで?」
「………さすがにそれは」
「だめですわ。 もう言質はとりましたもの。 あたふたする貴方が見られそうですね」
咲夜はにっこりと笑って、スカートの端を軽く摘まみ、くるりと霖之助に背を向けた。
度々眼鏡を弄りながら、愉快そうに店内を見回る咲夜。
霖之助はぼんやりとしたその姿を、目を細めて追って。 そして、目を閉じた。
「ちゅっ」
がばり、と霖之助は身を起こした。
真っ先に目に入ったのは、咲夜らしき人影。
何か声を掛けようと思ったが、ことん、と一つ音がしてすぐ、その人影はいなくなってしまった。
「―――なんだったんだ、今のは」
生温かく生々しい、柔らかな感触が、霖之助の頬にまだ残っていた。
疑問を頭に浮かべながら立ち上がると、机の上に眼鏡が置いてあるのに気付いた。
「どうやらちゃんと置いていったようだ……買い物はしなかったけど」
霖之助は眼鏡を装着しながら、寝癖がついていないかと売り物の鏡を覗いた。
「………なるほど、ね」
思わず、独り言を呟きながら笑みを浮かべる霖之助。
そっと、自分の頬を愛しげに撫でた。
「全く、素直じゃない人間だな」
霖之助は肩を竦めつつ、しかし嬉しそうに笑い。 そしてもう一度見つめた。
鏡に映る、『こちらは御代です』と書かれた頬と。
素直じゃない人間からの『御代』であるらしい、お洒落なデザインの眼鏡を。
もし違うようでしたら大変失礼しました
作品はおもしろかったです。
なんなら閑話休題といわず本編として書いてもいいのよ?