一
昼過ぎからの雨は止み、雲間からオレンジの光が射していた。
ぬかるんだ土の上を子供が駆けていく。そんな姿を横目に見ながら、私は蓮子と大学の帰り道を歩いていた。まだ十六時半過ぎとはいえ、二月のこの時期では時刻は夕方、陽もだいぶ傾きつつある。
「子供は風の子、寒いのに元気よねえ」
マフラーを巻いた首もとを竦めながら、蓮子はコートのポケットに手を突っ込んで、はふぅ、と白い息を吐き出す。吐き出しているのが煙草の煙なら、寒空の下で張り込みをしているハードボイルドな私立探偵に見えなくもない。
とはいえ隣にいるのが、ダッフルコートにミトンの手袋な私では、ハードボイルドも何もあったものではなかった。自分でも子供っぽいとは思うが、両親が送ってくれたものなので使わないわけにもいかない。自分でおしゃれな冬用コートを買うような資金的余裕は結局この冬は生まれないままだった。本代を最優先に生活費をやりくりしているのだから、むべなるかな。
「寒いからじゃない? 身体は動かせば暖まるっていうのを、ちゃんと解ってるのよ」
「はぁ、年寄りにはもうそんな元気はありませんわ」
まだ十代の身空で何を言うのか。蓮子は相変わらず、こういうところが妙に男性的だ。まあ蓮子の場合、自分が女性であることを意識した言動自体が珍しいけれども。この相棒には、自分の性別なんてものは世界の不思議に比べれば些末なものでしかないのかもしれない。
「じゃあ、年寄りな私たちはコーヒーで暖まる?」
「いいわね。《月時計》行こっか」
蓮子の言葉に頷き、お財布の中身を思い浮かべた。まあ、コーヒー一杯分ぐらいならどうとでもなる。……などと考えていると、またコーヒー代がかさんで生活費を圧迫し始めるのだけども。
「それとも、安上がりにそこで缶コーヒーでも買っていく? ホットの」
私の懸念を見透かしたかのように、蓮子が言った。
自動販売機に並ぶカラフルな缶と、赤い「ホット」の表示。月時計のコーヒーと、自動販売機の値段の格差について一瞬真剣に考えてしまうけれど、首を振ってそれを振り払った。
「寒空の下で安いコーヒーよりは、暖かい空気と音楽の中でマスターの美味しいコーヒーの方がいいわ」
ちょっとお高価いけど。
「あらメリー、缶コーヒーもわりと捨てたものじゃないわよ? 缶コーヒーの構造的欠陥だった金気臭さを避ける技術が各メーカーに浸透して以来、なかなかどうして、侮れない味わいの缶コーヒーもいくつかあったりして」
「相変わらず、カフェイン中毒ねえ」
「淑女の嗜みですわ」
蓮子のコーヒー消費量が《嗜み》なら、私の活字中毒も《嗜み》の部類である。まあこの相棒の場合、神経の図太さに比例して胃も頑健なようだけれど。コーヒーの飲み過ぎで荒れるような繊細な胃腸ではないらしい。しかし、
「カフェインを接種しすぎると、バストが小さくなるって俗説があった気がするけど、あれって本当だったのね」
「む。さらっと失礼なこと言ってくれるわね、メリー」
「あら、自分の胸囲を指摘されて《失礼》と認識するような繊細さが蓮子にあったとは、意外でしたわ。……いひゃいいひゃい」
皮手袋の両手で頬をつねられた。花も恥じらう乙女の顔になんてことをしてくれるのか。私が口を尖らせると、蓮子は白くため息を吐き出して、帽子を目深に被り直す。
「そりゃま、一応ここは怒っておかないと」
「一応なの?」
「セックスアピールの価値なんて、結局見せる対象の価値観次第だしね」
さらりとそんなことを口にした相棒に、私は眉を寄せた。
「……どういう意味?」
「おっと、月時計の看板みっけ。寒いしさっさと入りましょ」
私の問いかけなど無かったかのように、蓮子は私の手袋を掴む。ミトンの厚い布地越しに触れる蓮子の手は不確かで、私は白い息を吐きながらその手の温もりを確かめるように握り返した。
二
「いらっしゃいませー。あ、いつもどうも」
ドアを開くと、いつも通り赤井さんの明るい声が出迎える。珍しく店内には普段のジャズやピアノ曲ではなく、カーペンターズが流れていた。私でも知っているメロディ。「雨の日と月曜日は」だ。既に雨は上がっているけれど、カレンの没後百年が経過した今も、その歌声は日本を含め世界中で親しまれている。
店内には私たち以外にお客さんの姿は無かった。カウンターの奥、腰を下ろしていたマスターが立ち上がり、こちらに微笑んで一礼する。手に文庫本を持っているのが見えた。暇な時間に何か読んでいたらしい。
「おふたりとも、雨に降られませんでした?」
「いえ、もう止んでました。寒いですけどね」
珍しくマスター、皆月さんの方から声をかけてきた。せっかくなので、カウンターに並んで腰を下ろす。普段はテーブル席だけど、他にお客さんもいないことだし、たまにはいいだろう。
「コート、お預かりしますね」
赤井さんが私たちのコートを受け取って、店の入口にあるハンガーに掛けてくれた。そこまでしてくれなくても、と一瞬思ったが、赤井さんも仕事がなくて退屈なのかもしれない。ありがたくサービスされることにする。
「ご注文は、いつものでよろしいですか?」
「ええ、メリーは?」
「はい、いつもので」
「かしこまりました。暖まっていってくださいね」
優しく微笑んで、皆月さんは一礼。《いつもの》で通じるあたり、すっかり私たちも常連である。
「雨、何時頃止みました?」
と、赤井さんがそんなことを尋ねてきた。「三時半ぐらいじゃなかった?」と蓮子が答え、「そうね」と私は頷く。四限は期末試験で、静かな教室に外の雨の音が響いていた。雨が止んだのは試験の途中だったはずだ。
でもどうして雨のことを、と疑問に思い、それからふと私は店内を見渡した。――そういえば、《月時計》には窓がない。雑居ビルの一角に居を構えるこの店、外から見たとき本来窓があるべき箇所はちょうどカウンターの後ろになっていて、ブラインドと棚で塞がれているのだ。これでは確かに、雨が止んだかどうかは店の中からは確認しようがない。
そこまで考えて、はて、と私はもう一度首を傾げる。雨が降り始めたのは昼過ぎで、二時間ぐらい盛大に降り続けてぴたっと止んだ。この店の中で、《雨が降り始めた》ことをマスターや赤井さんはどうやって知ったのだろう。いや、単に何かの用で外に出たのかもしれないが。
「そうですか。なら、あのお客さんが出ていかれたときには止んでたんですね」
ほっと息をつく赤井さん。私は目をしばたたかせて、それから店の入口にあるものに気がついて、ああ、と納得した。
傘立てに傘がひとつ、ぽつんと残されていたのだ。どこにでもありそうな、布製の紺色の傘。
私と蓮子は傘を持ってきていない。かといってお客さん用だろう傘立てを、皆月さんや赤井さんが使うとも思えない。だとするとあの紺色の傘は、誰かの忘れ物なのだ。
「ああ、あの傘、忘れ物なんですね」
蓮子もそれに気がついたか、そう頷く。
「三時過ぎにいらしたお客さんが忘れていったんです」
皆月さんが目を細めて、そう答えた。
「いらした時にはひどい降り方だったみたいで。三時半過ぎには帰られたんですけど、その前に止んでいたなら不幸中の幸いでしょうか。……本当は、早めに気付いて取りにいらしてくださるといいんですが」
飲食店に忘れやすいものの順位をつければ、おそらく傘が一位で間違いないだろう。よくあることとはいえ、持ち主に忘れられて傘立てに取り残された傘の姿は、どこか物寂しげだった。
「どうぞ」
ほどなく、私たちの前に湯気をたてるカップが差し出された。
芳醇な香りと苦みを口に含んで、私は蓮子と並んで、至福の息を吐く。
「やっぱり、寒い日はマスターのコーヒーですね」
「光栄ですわ。おかわり、サービスいたしますよ」
「お、ラッキー」
店内のBGMは「トップ・オブ・ザ・ワールド」から「シング」に変わっていた。普段の落ち着いた雰囲気の《月時計》にはあまり似合わない、明るいメロディ。けれど、二月の冷たい空気そのものを暖めるようなコーヒーの熱には、今は釣り合っているような気がした。
「それじゃあ、ごちそうさまでした」
「いつもありがとうございます」
「ありがとうございましたー」
一時間ほどくつろいで、流れていたカーペンターズが一周したところで席を立った。おかわりサービス分はありがたく、コーヒー一杯分の値段を払う。皆月さんと赤井さんに見送られて店を出ようとしたところで、ふと忘れ物の傘がまた目に入った。
「雨、また降り出してないかしら?」
「さっきの風向きと雲の位置考えれば、大丈夫だと思うわよ」
いつも通り、私には見えないところまでよく見ている相棒である。
雑居ビルを出ると、陽はもう沈みきって、空には星が浮かんでいた。雨の気配はもうどこにもなく、晴れ渡った夜空が頭上に広がる。私はほう、と白い息を吐き出した。
「十七時五十分十二秒。メリー、これからどうする?」
「さすがに、明日締切のレポートがあるから帰りますわ」
互いの家で遊惰な時間を過ごすことに惹かれる気持ちはあるが、今は学期末。幸い進級に不安のある立場ではないが、かといって未完成のレポートを放置して遊び呆ける度胸は無い。
「りょーかい。ま、仕方ないわね」
「明日のレポートで、私はほとんど終わりだけど。蓮子はどうだっけ?」
「んー、試験があとふたつ。ま、この蓮子さんの頭脳にかかればどうってことないけどね」
私もさらりとそんなことを言えるようになってみたいものだが、理学部では有名人らしい蓮子と違って、私は凡百の文学部生。四千字のレポートひとつにうんうん唸る身の上である。
「それより、春休みをメリーとどう過ごすかの方が重大な問題だわ」
不意に振り返って、蓮子は私の手を掴んだ。ミトンの手袋を包み込む蓮子の手。
「ねえメリー、春休みはどこに行く? 京都近辺は色々見たし、もう少し探索の範囲を広げてみない? 奈良とか、大阪とか、神戸とか。伊勢もいいわね。あるいはもっと遠出して、出雲とか瀬戸内とか――」
猫のような笑みを浮かべてまくしたてる相棒に、私は苦笑する。
二ヶ月近い大学の春休み、私だって蓮子と《秘封倶楽部》の活動で駆け回ることに異論は無い。無いのだけれども――。
「……どこでもいいけど、あんまり遠いと、旅費が心もとないわ」
「幸福な未来を語るときに、そういう現実的発言で水を差さないでよ」
盛大にため息を漏らしてみせる相棒の姿こそ、私の幸福そのものなのだけれど。
そういうことは、わざわざ口にする必要は無いのだった。……今のところは。
三
翌日は、朝からからりとした冬の晴天だった。
昼過ぎ、完成したレポートを送信し終えて、私は椅子を軋ませて大きく息をつく。
今期の課題は、これで終了だ。試験やレポートの結果待ちではあるが、よほどのことが無い限り進級は問題ない。二年からの所属研究室の希望も提出してあるし、あとは四月まで気ままな春休みライフに突入である。
となれば、もう少し気分が浮き立ってもいいようなものだが――。
「……はふ」
部屋の隅に鎮座坐している、九尾のキツネのぬいぐるみを抱いて、私はベッドに倒れ込んだ。全て終わったはずなのだが、何か忘れているような気がしてならない。こういうとき、幼なじみの記憶力が羨ましくなる。阿希なら、「何か忘れているはずだけどそれが何なのか思い出せない」なんてことは絶対に無いのだろう。
「なんだっけ、ねえ」
目の前にあるキツネの鼻先を突きながら、誰に尋ねるでもなく呟く。
もちろん、ぬいぐるみが答えてくれるはずもないのだけれども。
しかし、開放感に浸るべき春休みの突入に、こんなもやもやとしているのも損な気分だ。私は起きあがってモバイルを手に取り、――そこで思い出した。
「あ……クラスの飲み会……」
そうだ、その返事を先送りにしていたのだ。
届いていたメールを確かめる。返事の期限は何の因果か、今日になっていた。
大学の基礎クラスなんて形だけのものにせよ、それもまた縁であるということは別に否定はしない。実際、私の数少ない友人である西園寺さんも、同じクラスという接点が無ければ今のように親しくすることも無かっただろう。
ただ――だからといって、やはり今でもクラスメイトの大半が「よく知らない誰か」であることには変わりはなく。そんな集団の飲み会に私が出向いたところで、場を気まずくさせるだけではないか、と思う。というか私が気まずい。せめて去年の学祭で、もう少しクラスメイトと交流を図っていれば良かったのだろうが、三日間のうち二日を風邪で潰しシフトに穴を開けてしまった身ではどうしようもなかった。おかげで打ち上げも結局参加せずである。
学祭の打ち上げ同様、断ってしまえばいいのだ、と心の中では思う。
ただ――同時に、それでいいのか、ともやはり思うのだ。
相棒なら、こんなことで悩みはしないだろう。あの顔も人脈も知識も無駄に広い相棒なら、どんな場に誘われても、誰に話しかけられても、如才なく受け答え、適当に場を盛り上げて、上手くやるのだろう。
そういう世渡り上手、人付き合いの巧みである相棒と、そうでない自分。
単純なコンプレックスの話ではない、と思う。「友達百人できるかな」とは言うけれど、実際に友人が百人もいたら人付き合いのストレスは並大抵のものではないだろう。狭いコミュニティの中でも個人の好悪はあり、そういう中でバランスをとって自分の立ち位置を確保することにエネルギーを使うぐらいだったら、ひとりでゆっくり本でも読んでいたい。人付き合いというのは範囲が広くなるほど煩わしいものだ。
そうは思うけれど、やはり自分は他人から隔絶され過ぎているとも思う。大学に入ってもうすぐ丸一年。貴重なモラトリアム、薔薇色であるべき青春の真っ直中にありながら、この一年で果たして何人友人らしい友人を作ったかといえば――。
「……蓮子の、ばか」
ぎゅっとキツネを抱きしめて、私はため息のように吐き出す。
結局はそこに行き着くのだ。宇佐見蓮子という相棒の存在に。
彼女と《秘封倶楽部》として、益体もない会話を交わし、真夜中の待ちあわせをして、オカルトスポットを連れ回され、世界の小さな謎を探って回る――そんな時間が、今の私には日常になってしまって、それを心地よいと思っている自分がいる。
蓮子がいて、私がいる。《秘封倶楽部》はふたりでひとり、と蓮子は言った。
ふたりだけの秘密のサークル。ふたりだけの心地よい時間。
――結局のところ、それが全てなのだ。
蓮子といる時間と、本を読んでいる時間と――それさえあれば、他に何もいらない。
そう思っている自分がいるから、これ以上自分から世界を広げる気にはならないのだ。
私が黙っていても、蓮子は勝手に私を連れ回してあちこちに首を突っ込んで、勝手に知り合いを増やしていく。その場に私も居合わせるから、私も知り合いが増えていく。
それだけで充分だと、私はそう思っている。
「……はあ」
そんな考えを誰かに話せば、また典型的な頭でっかちと笑われるのかもしれない。
何もせずに勝手に自分の頭の中だけで結論を出してしまっているだけなのかもしれない。
メールの文面を見やる。クラスの飲み会。この一年間の打ち上げ。みんなで楽しく――。
みんな、は要らない。
蓮子が、そこには居ないから――私の居場所は、そこではないのだ。
「ねえ、蓮子」
目の前のキツネのつぶらな瞳に、蓮子のあの変な目を重ね合わせてみる。
本物の蓮子も、このぐらい愛敬というか、かわいげがあればいいのに。
「私――」
何を、問いかけようとしたのだろう。
目の前のキツネに蓮子の姿を仮託して、私は何を口にしようとしたのだろう?
口の中で空回った言葉は形を為さず、ただ吐息になってこぼれていくばかりで、
――唐突に、携帯電話が軽快なメロディで着信を告げた。
私はびくりと身を竦めて、それからため息とともに携帯電話を手に取る。
液晶を見ると、浮かんでいた名前はこの携帯への着信としては馴染みの無い名前だった。
《西園寺さん》――彼女が何の用だろう?
「……もしもし」
『あ、ハーンさん? こんにちは。今、お電話しても大丈夫だったかしら』
「ええ、まあ。……レポートも終わったところなので」
『あら、奇遇。私もちょうど終わったところなのよ~』
電話の向こうで、西園寺侑子さんは鈴を鳴らすように笑った。
『そういうわけで、ハーンさん、今お暇?』
「……まあ、それなりには」
『それなら、これからお茶でもいかがかしら』
西園寺さんの言葉に、私は小さく唸る。――どうしてまた、急に私のところへ?
「お茶って、どちらでですか」
まさか急に西園寺家のお茶会に呼ばれるとかだったらたまらない。そんな名家のお茶会に行くようなよそ行きの服も礼儀もこちらは持ち合わせていないのだ。
『そう、それでハーンさんに電話したのよ~』
「え?」
『ほら、前に教えてもらったあのお店。ええと――《月時計》。あそこでいかが?』
「……はあ。それなら、構いませんけれど」
『あらあら、ありがとう~。それなら、二時に大学の全学棟前で待ちあわせでいいかしら?』
「解りました」
通話が終わる。携帯の液晶を見下ろしつつ、私は息を吐いてキツネの腹に顔を埋めた。
西園寺さんとふたりでお茶? どういう風の吹き回しだろう。いや、彼女のことだから紺野さんも一緒なのかもしれない。さて、だとすればこちらも――。
メモリから蓮子の番号を呼び出し、着信を入れる。しかし、返ってきたのは『電源が入っていません』という無機質なメッセージだった。蓮子が携帯の電源を切っている? 眉を寄せ、それからその理由に思い至ってため息をつく。――そうか、試験か。
続けて阿希の番号を探したけれど、私は結局ため息とともに携帯を仕舞う。
阿希にこんなことで助けを求めたら、鼻で笑われて呆れ混じりに断られるのがオチだ。
いったいどうして西園寺さんが私を呼び出したのか解らないが、どうやらこの難題、私ひとりで立ち向かわなければならないらしい。
時計を見る。午後一時過ぎ。大学までは歩いて二十分だから、まあ軽く準備して出ればちょうどいいぐらいの時間だろう。そう思って立ち上がり、それからモバイルに目をやって、飲み会の通知メールに対して『返信』のボタンを押した。
四
雨もあってか冷え込んでいた昨日に比べると、今日はいくぶん暖かい。
紺野さんが一緒だろう、という私の予想に反して、西園寺さんはひとりで現れた。
「お待たせ、ハーンさん」
時間通りにやって来た彼女の姿に、私はぺこりと一礼。
試験期間で人の少ない大学構内でも、彼女の姿はやはり何か目立つ。根本的にまとっている雰囲気がどこか他の学生とは違うせいなのかもしれないけれども。
「こんにちは。……紺野さんは?」
「陽子はレポート。今頃部屋でうんうん唸ってるはずよ~」
そう苦笑して、「だから、退屈だったのよ~」と西園寺さんは続けた。
――なるほど、始まったばかりの春休みを相方不在で持て余していた、という意味では、私も彼女も一緒だったらしい。少し、西園寺さんに親近感が沸く。
「ハーンさんこそ、宇佐見さんは?」
「蓮子は試験のはずです」
「あらあら、それなら私たちは春休み先取り組なのね」
楽しげに笑って、西園寺さんは「それじゃあ行きましょう」と私の返事も待たずに歩き出す。私は慌てて横に並んだ。彼女もやっぱりマイペースな人である。
「でも、ハーンさんが付き合ってくれて助かったわ~」
「……何がですか?」
「だって、ひとりで喫茶店って何か入りづらいじゃない~」
そういうものだろうか。私にはどうにもよく解らない感覚である。まあ、私も《月時計》に行くのはいつも蓮子と一緒で、ひとりで行ったことは確か無いけれど。
「この前ハーンさんに紹介してもらったとき、飲んだコーヒーが美味しかったから、また行きたいと思ってたの。いい機会だと思ったんだけど、陽子が無理って言うから困っちゃって」
「それで、私ですか」
「ご迷惑だったかしら?」
「……いえ、私も暇人でしたから」
私の答えに、何が面白いのか西園寺さんはまた鈴を鳴らすように笑った。
「でも、あとでちゃんと宇佐見さんには弁解しておかないといけないわね~」
「え?」
「別に、ハーンさんを取っちゃうつもりは無いわよって」
目をしばたたかせた私の表情に、西園寺さんは何か含み笑いとともに目を細めた。
そんなわけで、二日続けての《月時計》である。
正直、お財布の中身は色々と不安だったのだが――そんな私の懸念を知ってか知らずか、店先のボードに書かれたメニューを覗きこんだ西園寺さんは、「ハーンさんのおすすめは?」なんて脳天気に訊ねてくれる。
この古臭い雑居ビルと、お嬢様である西園寺さんとはどう見ても釣り合わないなあ、なんてことを思いながら階段を上り、二階にある店のドアを開けた。からん、とドアベルの音。
「いらっしゃいませー。……あら?」
テーブルを吹いていた赤井さんが顔を上げ、私の姿に明るい声をあげて――次の瞬間、私の隣にあるのが普段の人物ではないことに気付いたか、目を丸くした。
「ええと、おふたりですか? では、こちらへ」
赤井さんに促されて、テーブル席につく。いつもの席なのに、そこで向き合う顔が蓮子ではなく西園寺さんなことに、改めて違和感を覚えて、私は軽く椅子を鳴らして座り直した。
「珍しいですね。今日は待ち合わせではないんですか?」
お冷やを運んできた赤井さんがそんなことを尋ねてくる。私が曖昧に笑うと、向かいの西園寺さんが「今日のデート相手は私ですの」と優雅に微笑んだ。
「ご注文は?」
「私は、いつもので」
「それなら私も、ハーンさんと同じものを。あ、ケーキセットがいいわ」
「ガトーショコラとチーズケーキとございますが」
「チーズケーキで~」
「はい、かしこまりました!」
下がっていく赤井さんを見送って、「元気のいい店員さんね~」と西園寺さんは笑った。まあ、皆月さんが無口な分、赤井さんが明るく接客するのは見慣れた《月時計》の光景である。
それから、西園寺さんととりとめのない話をした。大学の講義のことや、最近読んだ本のこと。西園寺さんはここのところ、怪奇小説がお気に入りらしい。少し前に『独白するユニバーサル横メルカトル』だの『殺戮にいたる病』だのを貸し借りした影響だろうか、とふと考える。
「そうそう、それでね」
運ばれてきたチーズケーキを美味しそうに頬張りながら、ふと思い出したように西園寺さんは口を開く。
「ハーンさんに、ちょっと聞いてほしいお話があるの」
「……私に?」
私は目をしばたたかせた。西園寺さんからの『聞いてほしい話』。何だろう、と考えて、思い至ったのはクラスの飲み会のことだった。けれどあれはもう――。
「推理小説好きなハーンさんなら、こういうお話も興味深いかと思って」
「どんなお話ですか?」
クラスの件ではないのか。心の中だけでほっと息を吐きつつ、私は問い返す。
西園寺さんはどこかいたずらっぽく微笑んで、子供がとっておきの秘密を打ち明けるようなささやき声で、言葉を続けた。
「からかさお化け、ってハーンさんはご存じ?」
五
京極夏彦はそれなりに好きな作家だが、かといって妖怪の類に詳しいかと言われればまた別問題だ。三津田信三は読んだことがないし、とどうでもいいことを連想する。
京極堂シリーズにからかさお化けの登場する話はあったっけ? 推理小説好きに対して、からかさお化けなんて単語をぶつけてくる意味は、そのぐらいしか思いつかないのだが――。
「からかさお化けって、あれですよね? 足の生えて、舌を出して、人を驚かせる妖怪の」
「そうそう」
「それが、どうしたんですか?」
「不思議な話なのよ~」
西園寺さんは困ったように眉を寄せて、ゆっくりした調子で話し始めた。
「陽子が最近忙しくて構ってくれないから、ちょっと驚かせてあげようと思って。ほら、あの子、怖い話とかお化けとか、そういうのに滅法弱いから。
昨日、お昼過ぎから急にひどい雨になったじゃない? 陽子が大学に試験を受けに行ってたから、気になって電話してみたの。傘、持ってる? って。そしたら持ってないって言うから、持っていってあげることにしたの」
「傘を?」
「からかさお化けを」
西園寺さんは楽しげに笑った。
「傘にね、ちょっとしたイタズラをしたの。家にあった古い紺色の傘に、目と口を描いて、赤い布で長い舌を作ってくっつけたの。閉じてるときは舌はちゃんと隠れるようにね~」
なんというか、それはまたご苦労様というか、何とも子供じみたイタズラである。西園寺さんってそういうことをする人だっけ、と私が目を細めると、「ああ、別にその場で急いで作ったわけじゃないのよ~」と西園寺さんは首を振った。
「昔、同じイタズラをしたことがあったの。そのときの傘が捨てられずに残ってたから、それを持ち出したのよ~」
「昔って、いつの話ですかそれ?」
「小学生のときだったかしら~。開いてみたら、ほら、傘って留め具を押して開くじゃない? あの留め具を親指で押して開くと、ちょうど目の前に舌がぶら下がってくる位置に仕掛けてあって、子供の頃の私もいろいろ考えて作ってたのね~、ってちょっと懐かしくなったわ」
何ともまあ、物持ちのいいことである。
「それで、その傘を持って大学まで行ったの。昨日のお昼過ぎ。大学で陽子にあの傘を渡したら、それはもう見事に引っかかってね~。べろん、って目の前に垂れ下がった舌に悲鳴をあげた陽子の顔、ハーンさんにも見せたかったわ~。いつも澄ましてるのに、恐がりなところは小学生の頃からぜんぜん変わってないの」
「はぁ。……怒られなかったんですか、それ」
「怒られたわ~。『こんな傘、さして歩けないじゃない』って陽子がむくれるから、私の傘で相合傘して帰ったの」
仲良しで結構なことだが、それのどこが不思議な話なのか。私が眉を寄せると、「不思議なのはここからよ~」と西園寺さんは苦笑した。
「そのからかさお化けがね、途中で消えちゃったの」
「……消えた?」
「駅ビルの本屋さん、あるじゃない? 陽子が欲しい本があるって言うから、あそこに立ち寄ったの。それで、中にある喫茶店でお茶してたのね」
その書店なら、私もよく利用する店だ。駅ビルのワンフロアを占めるその書店には、店の本を読みながらコーヒーの飲める喫茶店が併設されている。
「そこの傘置き場に、私の傘と、陽子の持っていたからかさお化けを置いておいたの。そうしたら――店を出るときには、からかさお化けの方だけが無くなってたのよ~」
「はあ」
「本当に足が生えて、どこかに飛んでいっちゃったのかしら、って陽子と首を傾げてね~」
心底不思議そうに西園寺さんは首をひねる。私は眉を寄せた。
「……ええと、そのからかさお化けは、閉じた状態の見た目は普通の傘なんですか?」
「そうよ~。古びてるけど、普通の紺色の傘」
「それなら、誰かが間違えて持っていったか、盗まれたかしただけなんじゃないですか?」
傘が消えた、となれば第一に疑うべきはその二択だろう。ありふれた傘なら誰かが間違えたり、あるいはあの日は急な大雨だったから、傘を持っていない誰かが盗んでいったと考える方が自然だろう。少なくとも、傘に足が生えて飛んでいったと考えるのはいささか突飛な発想に過ぎると思うのだが。
「でも、傘立てにあれと間違えるような同じような傘は無かったのよ~。それに、あの本屋さんの中から外のお天気は見えないし、駅ビルの中では傘も売ってるわ。やむを得ず傘を盗むような状況じゃないし、盗むならあの古びた傘より、他の傘だと思うわ。私のとか」
なるほど、西園寺さんの反論は一理ある。傘泥棒がいるとしても、わざわざ書店の中の喫茶店なんて場所で傘を盗む必然性が無い。取り違えの可能性も無いとすれば、いったい何故、古びたからかさお化けは消えたのか?
物事にはすべて因果がある。小さな謎に直面したとき、相棒がよく口にすることだ。誰かがその傘を持っていったとすれば、その人にはその傘を持っていかなければならない理由があった、ということになる。
「それで、どうしたんですか?」
「席の方に忘れたのかと思ったんだけど、陽子は『あんなのもういいから』って言って、結局そのまま店を出ちゃったわ~。からかさお化けは、行方不明のまま」
どこに消えちゃったのかしらね~、と西園寺さんは首を傾げる。私は鼻を鳴らして、相談する相手を間違えている、と心の中だけで思った。そういう話なら、蓮子に相談すべきだ。あの相棒ならきっと、たちどころに消えたからかさお化けの行方も言い当ててしまうに違いない。
「からかさお化け、ですか」
不意に横から声。振り向くと、皆月さんがそこにいた。「お水、お注ぎしますね」とグラスに水を注ぎつつ、「実は――」と皆月さんは目を細めて、言った。
「そのからかさお化けが、ここに来ていたんです」
私と西園寺さんは、思わず顔を見合わせた。
六
「昨日いらっしゃったとき、傘の忘れ物があったのを、覚えてらっしゃいますか?」
皆月さんの言葉に、私は頷く。そうだ、昨日は店に入ったときに赤井さんに雨のことを訊かれて、それで忘れ物の傘の話になった。
私は店の入り口を見やる。晴れている今日も傘立ては置かれていたが、そこには昨日あった紺色の傘の姿は無かった。――紺色?
「じゃあ、あの傘が?」
「ええ、柄に名前が書いてないか確かめようと開いて、驚きましたよ。べろんと舌がぶら下がってきたので」
皆月さんはそう苦笑する。皆月さんの驚いた顔ってどんな顔だろうか、と想像してみようとしたが、うまくイメージできなかった。赤井さんなら容易に想像できるのだけども。
「あらあら、間違いなくそれだわ~」
「そうなのですか……困りましたね」
皆月さんは首を傾げる。そういえば、「来ていた」と過去形で皆月さんは言った。ということは――今はもう、からかさお化けはここには居ないのか。
「今日の昼前、昨日その傘を忘れていったお客さんがいらっしゃいまして」
「返してしまったんですか?」
「ええ、その方が自分のものだと仰いましたから。まさか他の方のものだとは思わず……申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げる皆月さんに、「いえ、それは仕方ありませんから~」と西園寺さんが首を振る。
「その時点で、その人を疑う理由はそちらにありませんもの」
「いえ、本当に申し訳ありません」
もう一度頭を下げる皆月さん。私は「その人の名前とか連絡先とかは解らないんですか?」と尋ねてみたが、皆月さんは首を横に振った。まあ、それは仕方ないか。あくまでその人は通りすがりのお客さんに過ぎないのだから、個人情報を皆月さんが把握している方がおかしい。
「どんな人でした?」
「おふたりと同年代の女性でしたね。今日はひどく恐縮した様子でいらっしゃいまして、こちらがあの傘を渡すと何度も頭を下げて帰られました」
眉を寄せる。なんだかますます奇妙な話になってきた。
「ええと、マスター。昨日、そのお客さんが来たのって三時過ぎでしたっけ」
「はい、三時……確か、十五分頃でした」
「西園寺さん、紺野さんとあの書店の喫茶店にいたのは?」
「三時前ぐらいね~。駅ビルを出たのは三時半過ぎぐらいだったかしら? そのときにはもう、雨は止んでたわ」
雨が止んだのは三時半頃だ。そして、駅ビルからこの《月時計》までは徒歩十分弱だろうか。となると、
「その、ここにからかさお化けを忘れていった人――Kさん、としましょうか。Kさんは、三時頃に駅ビルの喫茶店で、からかさお化けを他の傘と取り違えるか、盗むかした。そして雨の中、からかさお化けをさして《月時計》までやってきた、ということですよね。三時十五分頃なら、まだ雨は降っていたはずですから」
「そうね~。でも、あの傘がからかさお化けだっていうことは、開けばすぐに解るわ。取り違えたなら、その時点で間違いに気付いて喫茶店に戻ってくるんじゃないかしら」
「取り違えに気付いたけど戻る余裕が無かった……わけででもない、ですよね。そんなに急いで行く先が《月時計》っていうのも――マスター、Kさんはここで誰かと待ち合わせとかしていました?」
「いえ、ずっとおひとりでしたね。少し、そわそわしていた様子はありましたが」
皆月さんの答えに、私は唸る。
「西園寺さん、その傘は閉じてしまえば普通の紺色の傘なんですよね」
「ええ、そうよ~」
「それなら、どうしてもそのからかさお化けが欲しかった……というわけでもないですよね。紺野さんは大学から駅ビルまでずっとからかさお化けは閉じたまま歩いてたんですよね?」
「だって、恥ずかしくてさせないって言うんだもの」
それについては私も紺野さんに同意したかった。さすがにからかさお化けをさして町中を歩きたいとは思わない。それが普通の感覚だろうが、Kさんはしかし、そのからかさお化けをさして駅ビルから《月時計》までの十分弱を歩いてきた上、忘れていったそれを今日になってちゃんと取りに来ている。
まさか、小学生の頃に西園寺さんがいたずらで作ったからかさお化けがこの世に二本あった、という可能性はさすがに排除していいだろう。一応西園寺さんに確認してみたが、やはり西園寺さんの作ったからかさお化けはこの世に一本きりらしい。
Kさんはいったい、何を考えてからかさお化けをさしたまま《月時計》にやって来たのだろう。盗んだ傘をここに放置していったのならまだ解らなくはないが、ちゃんと回収していったというのも――。
と、ポケットの中で携帯電話が震えた。液晶を見ると、蓮子の名前。西園寺さんと皆月さんに断りを入れて、私は席を立った。他にお客さんの姿も無いとはいえ、静かな店内での通話は私も避けたい。
店の外に出て、通話ボタンを押す。『あ、メリー?』と相棒の脳天気な声がすぐに聞こえてきて、私は思わずため息をもらした。
「はいはい、私メリー」
『親愛なる相棒に向かって、いきなりため息は無いんじゃない?』
携帯の向こうに、頬を膨らませた相棒の顔が浮かんで、私は小さく苦笑した。
「試験は終わったの?」
『そりゃもうパーフェクトに』
「成績優秀で羨ましいわ」
『で、メリー、今どこ?』
「月時計」
『あら、昨日の今日で? 珍しい』
「西園寺さんとデートですわ」
一瞬、電話の向こうで相棒が言葉を詰まらせた、ような気がした。私の気のせいかもしれないけれど。
『モテモテねえメリーってば』
「おかげさまで」
『じゃあ、そのデートの邪魔しに行くわね』
なんだそれは。私は電話の向こうの蓮子に肩を竦める。
「わざわざ当人に断りを入れるお邪魔虫ってどうなの?」
『宇佐見家は常に正々堂々が家訓ですわ。どうせ妬くならヤキモチも堂々と』
思わず、ひとつしゃっくりが漏れる。……ヤキモチ?
「蓮子?」
『月時計ね。十分で行くから待っててよ?』
「あ、ちょっと――」
通話が切れる。沈黙した携帯電話を見下ろして、私は大きくため息をついた。
本当、いつものことだけれど、私を変な言葉で振り回さないで欲しい。蓮子の言葉のどこまでが本当で、どこまでが冗談なのか、その境界は私の目でも見透かせないのだから。
七
いつも通り、蓮子は申告より二分二十秒ほど遅れて姿を現した。
こういうときまできっちり遅れてくるのは、逆に律儀な気すらしてくる。本人は相変わらず、五分以内は誤差の範囲、と飄々としたものだが。
「からかさお化け泥棒?」
テーブル席に椅子を引いて、ホットコーヒーを頼んだ相棒は、案の定というかその話に食いついた。これまでの経緯を、私がかいつまんで話す。
駅ビルの喫茶店から消え、《月時計》に姿を現したからかさお化け。
再び消えたお化けは、今はどこを彷徨っているのだろうか。
「駅ビルの本屋の喫茶店っていうと、西園寺さん。座っていたのはソファー席ですか?」
「ええ、そうよ~。壁沿いの席。私がソファー側に座ったわ」
その喫茶店のことは、私もすぐに思い出せる。壁沿いにソファー型の椅子が設置されて、そこにふたり掛けのテーブルが並んでいるのだ。
「そのとき、近くの席に誰かいました?」
「近くの席? お客さんは他にもいたけど、そこまでよく覚えてないわ~」
ふむ、と蓮子はひとつ唸った。やっぱり、蓮子には世界の仕組みが見えているらしい。
「そのからかさお化けって、開くと舌が飛び出してくる作りなんですよね」
「そうよ~。こうやって開くと、目の前にべろん、って」
と、西園寺さんは傘を頭上に広げる動作をしてみせる。
「でもからかさお化けって本来、閉じた傘の恰好してるものじゃないです?」
「小学生の頃作ったものなんだから、細かいことは気にしないで~。陽子を驚かすためだけに作ったものなんだし」
蓮子のツッコミに、西園寺さんは困ったように笑った。そういえば、からかさお化け自体も人を驚かすだけの妖怪だったか。有名な割に危険度の低い妖怪だったはずだ。
今の私は驚かされてはいないが、小さな謎に頭を捻らせてはいる。
からかさお化けの仕業とすれば、まあ無害な妖怪らしい微笑ましさではあるが。
「とすると――さて、これは現場に行く必要があるかしらね?」
「現場?」
「最初に傘が消えた現場よ。駅ビルの書店の喫茶店。――犯人は現場に戻るものだしね」
私は、西園寺さんと顔を見合わせた。
「犯人って――Kさんが?」
「いやいや、この場合の犯人は……んー、からかさお化けそのものかしら?」
そんなことを言って、蓮子はカウンターに居た皆月さんを呼ぶ。
「はい」
「あ、マスター。一応、お伝えしておこうと思いまして」
「え?」
「たぶん、ここのお客さんに傘泥棒はいませんから、ご安心を」
その瞬間、皆月さんの、キツネにつままれたような表情なんて珍しいものを見てしまった。
そんなわけで、三十分後。
私と蓮子、そして西園寺さんの三人は、駅ビルの書店にやって来ていた。
新刊の平台に並ぶ表紙に目を惹かれるが、今の目的は本を買うことではない。思わず足を止めてしまうけれど、蓮子に呼ばれて私は名残惜しさを覚えつつ平台を離れる。
喫茶店は店内の奥の一角を仕切って営業している。レジに持っていく前の本を持ち込んで、コーヒーを飲みながら読めるのが売りだ。確かに、客側としても立ち読みで棚の前を塞がれるよりはよっぽどいい。
「蓮子。何がどうなってるのかそろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
「それは、事実を確かめたらね」
ちっちっ、と指を振って、相棒は喫茶店のレジへ歩み寄った。店員さんがこちらを振り向いて、「いらっしゃいませ、三名様ですか?」と声を上げる。
「いえ、すみません。――こちらに昨日、紺色の傘の忘れ物はありませんでしたか?」
蓮子の言葉に、店員さんは何故かきょとんと目をしばたたかせた。
少しお待ちを、と店員さんは、近くにいた別の店員さんと何事か言葉を交わし、それから一度店の奥に引っ込んで、すぐに戻ってきた。
その手には、古びた紺色の傘が握られている。
「……もしかして、こちらでしょうか?」
「西園寺さん、これじゃありません?」
蓮子が、西園寺さんを振り返る。前に歩み出た西園寺さんは、受け取った傘をまさぐって、ほう、と息を吐いた。
「確かに、これだわ~」
「え、じゃあその傘が――」
「私の作ったからかさお化けよ、間違いないわ~」
と、西園寺さんはその場で傘を頭上に掲げて、開いて見せた。
――べろん、と私の目の前に、赤い舌がぶらさがる。紺色の布地に描かれた大きな一つ目と、縫い止められた赤い布の舌。なるほど、これは確かにからかさお化けだ。
しかし、《月時計》から消えたからかさお化けが、どうしてここに帰ってきているのだ?
「店員さん、この傘はひょっとして、今日傘を探しに来た人が置いていったものですか?」
「え? ……は、はい、その通りです、けど」
「その人の探していた傘は見つかりました?」
「……いいえ」
蓮子の言葉に、店員さんは呆気に取られた様子で返事をする。
なるほど、と蓮子はその言葉に頷いて、からかさお化けを閉じた西園寺さんを振り返った。
「西園寺さん。紺野陽子さんをここに呼んでもらえます?」
「陽子を?」
「たぶん、紺野さんの持っている傘を探している人がいるはずなので」
帽子を目深に被り直して笑った相棒の言葉に、その場の全員が顔を見合わせた。
八
「要するに、単純な取り違えなのよ」
紺野さんの到着を待つ間、喫茶店の中でまたコーヒーを飲みながら、相棒はそう言った。
「消える理由のないものが消えたとすれば、前提が間違っているのよ。傘には消える理由があった。そして傘が消えるとすれば、第一に疑うべきは取り違えだわ」
「でも、傘立てにこのお化けと間違えそうな傘は他に無かったわよ~?」
「だからこそ、ですよ。似た傘が傘立てに無かったからこそ間違えた、とすれば」
西園寺さんの反論に、相棒はそう答える。私は西園寺さんと何度目か、顔を見合わせた。
相棒は一袋百円のクッキーを囓りつつ、小さく苦笑する。
「傘立てに傘を置くのは義務じゃないわ。テーブルまで傘を持っていく人だっているでしょう。そっちの方が盗まれたり間違えたりし辛いでしょうからね。そして、そのからかさお化けは、閉じてしまえばありふれた紺色の傘。――他に似たような傘を、テーブルまで持っていっていた人がいたとすれば」
――ああ、そうか、そういうことか。
「テーブルに傘を忘れたけれど、傘立てに同じ紺色の傘があったから間違えたのね?」
「そういうことでしょ」
なるほど、それなら納得がいく。紺野さんが傘立てに置いておいたからかさお化けは、そのために消えたのか。
「――でも、これがからかさお化けなのは、さっきみたいに開けばすぐ解るじゃない。それなら、駅ビルを出た時点で取り違えたことに気付いて、戻ってくるんじゃないの?」
私は言い返す。そう、問題はそこなのだ。
Kさんが傘を取り違えたのだとしても、なぜからかさお化けをさしたまま《月時計》までやって来たのか。まさか取り違えに気付かなかったわけでもあるまいに――。
「そりゃ、《月時計》のあたりまで気付かなかったんじゃない?」
私の思考に反して、あっさり蓮子はそう言い放った。
「……え?」
「気付かないことだって有り得るわ。そのからかさお化けの構造的にね」
西園寺さんの座る椅子に立てかけられた、からかさお化けを指差し、蓮子は肩を竦めた。
「要するにそれ、傘を頭上に向けて開くと畳まれていた舌が垂れ下がってくる構造でしょ?」
「ええ、そうよ~」
「だとすれば、こう」
と、蓮子は席を立ち、からかさお化けを手にとって、――下向きに、傘を構えた。
「傘を下向きに開けば、垂れ下がる舌は見えないわ。下の方になるからね。で、開いた傘をひょいっと勢いよく持ち上げれば――舌は後ろにまくれ上がって、視界から消える」
この場で試すわけにはいかないけど、と蓮子は苦笑して、傘を西園寺さんに返した。
私と西園寺さんは、ただ呆れとも感嘆ともつかない息を吐くしかない。
「……Kさんは、その状態のまま取り違えに気付かず、雨の中を歩いていたっていうの?」
「そして、《月時計》のあたりでようやく気付いて、慌てて雑居ビルに駆け込んだのよ、きっとね。別の人の傘を間違って持ってきてしまった、返しに行くにしてもこんなからかさお化けをさしたまま、駅ビルまで戻るのは恥ずかしい――だから、《月時計》で時間を潰していたんじゃない? 雨が止むまで、ね」
「でも、それならどうして《月時計》にからかさお化けを置いていくの?」
「それは本当に忘れていったんでしょ。Kさんは相当ドジな人っぽいし」
まるでそのKさんを知っているかのように、蓮子は言う。
私は訝しんで目を細める。――何か、おかしい。
と、そうしているうちに西園寺さんが何かに気付いたか手を挙げた。その視線の先を見やると、紺色の傘を手にした紺野さんが喫茶店の入口に佇んでいた。
「で、そのKさんのドジに紺野さんが絡んだことで、二重の取り違えが成立したのよ」
「……二重の?」
紺野さんが私たちの席にやって来て、ひどく恥ずかしそうに会釈した。私たちも当たり障りのない挨拶を返す。西園寺さんがからかさお化けを差し出すと、紺野さんはひどく恐縮した様子で、自分の手にした紺色の傘を見下ろした。
「ええと……ゆっこ、その、ごめんなさい」
「ふふ、陽子ったら。気にしなくていいのよ」
幼なじみ同士は既に通じ合っているらしく、申し訳なさそうに顔を伏せた紺野さんに、西園寺さんは優しく微笑んでいた。私ひとりだけが蚊帳の外ではないか、これだと。
「だからね。昨日、西園寺さんと別れたあとで、紺野さんはここに戻ってきたのよ。ひょっとしたら傘立てじゃなく、自分が座席に方に忘れたのかもしれない、と思ったんでしょ。そして店員さんに聞いたの。『席に紺色の傘の忘れ物はありませんでしたか?』って」
「……それで店員さんが差し出したのが、Kさんの忘れた普通の傘だったってこと?」
「そういうこと」
小声でのやりとりで、ようやく私も状況の全てを理解した。
まとめるとこういうことになる。昨日の三時頃、この店には同じような紺色の傘を持った紺野さん・西園寺さんと、Kさんがいた。Kさんはテーブルに、紺野さんは傘立てに傘を置いていたが、Kさんはテーブルに傘を忘れ、傘立ての紺野さんの傘を持っていってしまった。
傘立ての傘が無いことに気付いた紺野さんは、一度店を出たあと戻ってきて、Kさんの忘れていった傘を受け取った。からかさお化けは、閉じてしまえば普通の紺色の傘だから、受け取ったとき紺野さんは、まさかそれがからかさお化けでないとは気付かなかったのだ。そして、その時には雨は止んでいたし、外でからかさお化けを広げるのは恥ずかしかったから、間違えたことに気付かないまま帰ってしまった。
一方、傘を間違えたまま《月時計》までやって来てしまったKさんは、忘れていった自分の傘を取り戻そうと《月時計》からこの店に戻ってきたのだろう。けれど、Kさんの傘は既に紺野さんが持ち帰ってしまったあとで、しかもKさんはからかさお化けの方も《月時計》に忘れてしまっていた。
そして今日の午前中、Kさんは《月時計》のからかさお化けを回収して、この店にまた戻ってきたのだ。自分の傘を取り違えた誰かが、間違いに気付いて返しに来ていないかと期待して。けれど紺野さんはまだ傘を戻しに来ておらず、仕方ないのでKさんはからかさお化けだけを店員さんに預けていったのだろう。
かくして、二重の取り違えにより、ふたつの傘は遠回りしてまたこの場所に戻ってきた。
あとは紺野さんの取り違えた傘を、Kさんが取りに来れば完璧なのだが――。
「お、来た来た」
と、今度は蓮子の声。見ると、また入口で、ボブカットの女性が何事か店員さんと話している。蓮子が手を挙げると、その女性はこちらに駆け寄ってきて――紺野さんの手にした紺色の傘に、その目を輝かせた。
「あーっ、あちきの傘!」
呆気にとられる紺野さんの手から、紺色の傘を取り上げて、その人――Kさんは幸せそうに頬ずりする。
「すみませんすみません、本当ありがとうございます!」
そして、こちらの返事も待たずにぺこぺこと頭を下げるKさん。
まあ、私の周りではいつものこととはいえ、やはりマイペースな人のようだった。
「あちき、笠原たからと申します。昨日はそちらの傘、その素敵なからかさお化けを勝手に連れていってしまいまして、申し訳ありませんでした~」
「……す、素敵、ですか?」
「はい、とっても! あちき、自分の傘がからかさお化けになったのかと感動してしまいました! でも、よく見たらあちきのではないと気付きまして~」
西園寺さんが噴き出すように笑い、紺野さんはぽかんとKさん――笠原さんを見つめる。
「あちきの傘もからかさお化けになりませんかねぇ~」
自分の紺色の傘を撫でながら、愛おしげに笠原さんは言った。
――変な人だ。というか、このキャラ作ってない、この人?
笠原さんの姿にそんなことを思ったけれど、さすがに失礼なので口には出さないでおいた。
九
他の面々と別れた帰り道は、相変わらず傘の不要な好天だった。
空の青さのわりに冷たい風に身を竦めながら、私は隣を歩く蓮子に目をやる。
「ところで、蓮子」
「うん?」
「――あの笠原さんって、蓮子の知り合いよね?」
その言葉に、蓮子は「バレたか」と肩を竦めた。
「いくらなんでもタイミングが良すぎたもの。メールか何かで呼んだんでしょう?」
「今日、彼女と同じ試験受けてたのよ。それでからかさお化けの話を聞かされてたから、びっくりしたわよ。《月時計》でもその話してるなんて、ね」
解ってしまえば、拍子抜けするほど単純な話なのは、どこも一緒なのだ。
蓮子が世の中の仕組みを全て見通しているのも、あるいはその人脈の無駄な広さが寄与するところは大きいのかもしれない。もちろん、それはそれで蓮子の能力だけれども。
「相変わらず、蓮子の知り合いはマイペースな人ばっかりねえ」
「そりゃ、何しろ親愛なる相棒が最もマイペースなんだから仕方ないじゃない?」
「……その言葉、そっくりそのまま蓮子に返すわ」
全く、益体もない言葉の応酬。それもまた、私たちの日常のカタチだ。
私は息を吐く。風はまだ冷たく、これから春休みといっても、まだ春はもう少し先だ。
春休みが終われば、私たちも大学二年生。終わってみれば、色んなことがあった大学一年目もあっという間に過去に変わっていく。
この相棒と出会ってしまったこの一年、私は何を得て、何を失っただろう。
いや、考えても詮無いことだ。
私がいるのは、宇佐見蓮子と出会って、《秘封倶楽部》を結成した現在なのだから。
時間が不可逆である以上、何を得て何を失ったとしても、今は今でしかないのだ。
そして、これから先も、今から地続きの、蓮子と過ごす未来にしかなり得ない。
――それが、今の私、マエリベリー・ハーンの世界だ。
「ね、蓮子」
「ん?」
「……何でもない」
首を振り、こっそり私はモバイルを取り出して、送信していなかったメールを送信した。
クラスの飲み会への、不参加の返事。
クラスメイトには悪いけれど、やっぱり私の居場所はそこではない。
「蓮子、春休み、どこに行く? 旅費が心もとないから、あんまり遠くは遠慮したいけど」
モバイルを仕舞って、私は蓮子に笑いかけた。
蓮子は一度目をしばたたかせて、それから帽子を被り直すと、にっと猫のような笑みを浮かべた。
「どこでも楽しいわよ。メリーと一緒ならね」
そう、この相棒の隣が、私の居場所。
《秘封倶楽部》は、ふたりでひとつのオカルトサークルなのだから。
春休みも、これから先も、この相棒と過ごしていくのが、私の大学生活なのだ。
それを幸せだと思えることが、今はただ嬉しかった。
オリキャラの中でも西園寺さんが好きな自分にはなんの問題もなかった
7ヶ月ぶりでも読めて良かったです
もうメリーと蓮子が出会ってから1年近くになるのかと思うと感慨深いなあ
ところで式はいつ挙げるんですkry
小傘が出てきたのは一瞬なのにすっげーインパクトがあった!
実際に見たら『作ってる感』が伝わってくるんだろうか? 読んでるだけだとただの傘愛好家(行き過ぎだが)だコレw
素敵なシリーズをありがとうございます
プリバ三姉妹の時のラストのほうでメリーが窓から虹を見るシーンがあったのだがよ、、
ちなみにそそわ投稿分は時系列順に投稿してるわけではないので、
本作はそそわ投稿分の中では割と前の方の話になります。
具体的に言うと「ヒマワリの咲かない季節」の少し前ぐらい。
>>25
あー、そこ同人誌に収録するときに書き直したところですわ。
そっち準拠で書いてたのでそそわ版と食い違ってしまいましたね。すみません。
このシリーズの雰囲気が大好きです!
そして笠原たからの少しの出番の中での凄まじいキャラインパクトに思わず笑ってしまったw
うみょんげも楽しみだけどこっちも楽しみだー。
と言うわけでよろしくお願いします!
いやはや、何とも素晴らしいお話でした。