人を騙すって事はつまり、相手の心に入り込むってことさ。
一度入り込んでしまえばあとは簡単。自分の好きなように相手を操ってしまえば良いのさ。
じゃあどうやって、相手の心に入り込むのか。それには大きく分けて二つの方法がある。
一つ目、心に入り込む穴を自分で作ってしまう。
二つ目、元からある相手の心の穴に入り込む。
今日はプロの兎詐欺、因幡てゐ様が誰にでもできる騙し方を伝授してやるウサ。
耳かっぽじってよーく聞くと良いウサ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Case1
「どうですか、あれから体の調子は?」
「調子はすこぶる良いね。 いやぁ、鈴仙ちゃんのおかげだよ!」
「私はお師匠様に言われた通りにやっているだけですから。……と、ついでに置き薬の補充しておきますね。」
人里の民家。
ブレザーの上に白衣を纏い前髪には鼈甲の髪留め、紅玉の如き澄んだ瞳を薄く色の着いた眼鏡で覆った少女は、患者と思しき家の主人の包帯を手なれた手つきで整えて行く。
その背格好は一見すれば何処にでもいる少女。
だがその幻想的なまでに完成された美と頭の上に伸びる二つの大きな耳は、彼女が陽のあたる世界の者では無い事を物語っている。
鈴仙と呼ばれたこの妖怪兎は、以前に永遠亭で治療を受けた患者の経過診断で里を訪れている。
師匠である八意永琳が開く診療所。
鈴仙はその助手として日々薬師としての修業を積んでいる。
その活動の一環として、定期的に人里に出向き、こうして訪問サービスを行っているのだ。
「あれと、それと、これっと……。あれ、葛根湯がもう殆どないですね。やっぱりこの間流行った風邪ですか?」
「えぇ、娘が少し体調を崩してしまって。でもお陰さまですぐに良くなったよ」
「大事に至らなくて何よりです。でも気を付けてくださいね。葛根湯はあくまで気休めですから。悪くなる前になるべく早くお医者さんにかかって下さい」
「そうしたいのは山々何だけどねぇ。あの竹林を病人連れて抜けるのは骨だよ。焼鳥屋さんも普段どこに居るか分からないし……」
「うーん。確かに竹林には妖怪も多いですからね。自警団の人を毎回呼ぶのも大変ですし。……あ、でも―― 」
「そん時はさ。入口に居る適当な兎に声かけてよ! そしたら私が永遠亭まで連れてってあげるからさ。安くしとくよ!」
その時、鈴仙の膝の上にちょこんと座っていたもう一人の妖怪兎が元気よく家の主人に声をかける。
雪のように透き通った白い肌に、肌とは対照的な艶々とした少し癖のある髪の毛。
そして、硝子のびいだまのように真ん丸で大きな瞳。
"見た目は"愛らしい童女程であるこの少女の名は因幡てゐと言う。
その頭の上にあるへたりと垂れた耳が、彼女もまた妖怪兎である事を知らせていた。
「ちょっ…… てゐ! あんた、またあこぎな商売始めてんじゃないわよ!」
「えー。いーじゃん。世の中みんな "ぎぶあんどていく" だよ。"誰も損しない"し。
ねぇ、ねぇ、賢そうなお兄さんだったら分かってくれるよね?」
そう言って鈴仙の膝の上にちょこんとのった兎は、患者の中年の男を上目づかいでじっと見つめながら、艶っぽい声をあげる。
「も、もぅ! あんたは、少し黙ってなさい! ほんとすみません。連絡があったら使いの兎は寄こすんで、こいつに無駄にお金払うなんてしなくて良いですよ」
「まぁ、こっちとしても安全に竹林を通れる手段が増えるのは良い事だからね。で、お代は何を御所望だい?お嬢さん」
「んーとね。あたし水飴が良いなぁ」
「ははは。それじゃ、次お世話になる時の為に準備しておくとしよう」
「こいつの言う事なんて真に受けちゃ駄目ですよ! とんでもない詐欺兎なんですから……」
「あっ心外だなー。あたし、約束はちゃんと守るよ――」
途中まで紡がれた言葉は脇下に延ばされた腕によって中断される。
鈴仙に抱え上げられると、強制的に背後へと追い払われてしまった。
背後からケチだとか、薄幸女だとかの罵倒する声が背後から響いたが、それら一切合財を聞き流しつつ鈴仙は手際よく籠の中に薬品を詰めていく。
余談ではあるが、外界からの物資に多くを頼る幻想郷において水飴はそれなりに高価な物である。
「それでは、お薬の方も補充しておきましたので、私はこの辺で失礼させて頂きます。何か困った事があればいつでも永遠亭にお越しください」
「おう。いつもありがとうね。またよろしくお願いするよ」
訪問業務も終わり家を辞そうとする鈴仙だったが、てゐが傍に居ない事に気づく。
背後を振り返れば、案の定主人の傍に付きまとい営業活動の真っ最中だった。
「ねーねー。おにいさーん。水飴の事、他の皆に――」
「……」
家の主人の袖の裾を摘み、甘い声を出しているてゐ。
その襟を無言で掴むと、そのまま引きずるようにして鈴仙はてゐを玄関の外へ連れ出した。
人里の中央通り。
中心へ向かう道沿いには、多くの商店が立ち並び多くの人で賑わっている。
患者の訪問を終えた二人はぶらぶらと当てもなく商店を見回っていた。
四半刻程もぶらついた時、とある露店の店先にて、てゐが吸い寄せられるようにふらふらと歩いて行ってしまった。その後に着いて鈴仙もその露店に向かう。
「てーゐー? どしたの? てーゐー?」
「はぁあぁ~~……」
その露店は絵画を扱う店のようだった。簡易の屋台の壁に大きな板を立て掛け、所狭しと絵画が貼り付けられている。
てゐはその店頭に座り込み、食い入るように一枚の絵画を見つめていた。鈴仙はてゐに話しかけるが、溜息をつくばかりでまるで話にならない。
「はぁぁ~。おおくにぬしさまぁ……なんと神々しい……」
「おおくに……ぬし? 錦絵?」
その露店で売られていたのは錦絵。
人里の絵師が大衆向けに演劇や、歴史上の人物、有名な人妖の姿を描いた絵画の一種だ。
てゐが先ほどから見つめているのは人里の中でも人気上昇中のシリーズ『日本神話(完全版)』の大国主である。
そこには、若々しさの中に力強さを併せ持った美男が描かれていた。
「決めた。私これ買う。鈴仙お金貸して」
「やだ」
「なんでよ!」
「だって絵でしょ? そんなのにお金出すなんて勿体なくない? それに買うんだったら自分のお金で買えば良いじゃないの」
「それは……。今月はちょっとお金が無いのよ! ね~ぇ~少しだけだからぁ~。お、ね、が、い?」
鈴仙に正面から抱きつき、涙で潤んだ瞳でまっすぐ見つめ上げる。対処に困った鈴仙が座り込んできた時を見計らい、その耳をはむりと甘噛して、甘い声を囁く。
「えぇい、うっとおしい! くっつくな!」
並みの男 であればひとたまりもなく無く落ちるであろう、てゐの必殺の仕事であったが、同性。
ましてや長い付き合いの鈴仙には逆効果にしかならなかった。
にべもなく振り払われてしまう。だがそれで諦めるつもりもまた有りえる筈が無かった。
もしもその瞬間。鈴仙が"それ"に気づいていれば、もしくは違う結果を辿ったのかもしれない。だが鈴仙は見逃した。見逃してしまった。
服の裾を払いながら、立ち上がる瞬間。てゐがその姿からはとても想像できないほどに悪い笑みを浮かべていた事に。
てゐはわざと、鈴仙に聞こえる程度の声で"独り言"を呟く。
「もぅ、鈴仙は浪漫が無いんだから。芸術が理解できないなんて、師匠に呆れられたって知らないよ?」
その言葉に鈴仙の耳がぴくり、と動く。
てゐはそれを見逃しはしなかった。
更にてゐは"独り言"を続けた。
「あ~あ、お師匠様、がっかりするだろうなぁ。まさか、自分の手塩にかけて育てている弟子が芸術の一つも理解できないような俗物だなんて……」
「ちょ……ちょっと、てゐ。それってどういう事よ」
その大きな耳が不幸にも捉えてしまった情報を問い質す為、鈴仙はてゐに詰め寄っていった。
「どうしたの鈴仙。そんなに慌てちゃってさ?」
引っ掛かった。
心の中でガッツポーズを決めるてゐだったが、そんな様子はおくびにも出さず、努めて知らぬ風を装っててゐは返事をする。
「お師匠様に呆れられるってどういう事よ?!」
「どうも、こうも、言葉の通りの意味よ。お師匠様って意外と風流人なんだよね~。最近は鈴仙の指導ばっかりであんまり手を付けてないけど、昔は手慰みに水墨画とかも良く書いていたのよ?」
「嘘だ……。あの効率至上主義者のお師匠様が、五分の作業遅延で五時間はお説教タイムのお師匠様が……。」
「本当に優秀な人は、オンオフの切り替えもしっかりしているのよ」
「嘘だ……。格好いいでしょ? なんて言いながら、"鹿威し" を "獅子の顔付きのセントリーガン"に改造してドヤ顔しているお師匠様が芸術の心得がある分けないじゃない……」
半ば独り言のように淡々と言葉を吐き出す鈴仙。
それは当然の反応ともいえた。鈴仙が知っている永琳とは、薬学の師匠としての永琳だけなのだ。
時折見せる狂科学者としての姿を除けば、書や絵画を嗜む姿を思い浮かべる事は困難を極めるだろう。
「あんた、今のお師匠様に私が告げ口したらえらい事になるわよ……。流石に可哀想だから言わないけどさ。まぁ、確かに機械に関してはセンスがぶっ飛んでる所もあるけど、それ以外は普通なのよ。例えば永遠亭の襖に竹取物語のお話が描かれているじゃない?」
「うん、確かに描かれてる。最初に見たときはびっくりしたなぁ、地平線の向こうまで続く襖全部にお話の絵が描かれてるんだもん。走りながら横目で見ると動いて見えるし……」
「あれ、お師匠様の手書きなのよ?」
「うそ?!」
「本当よ。鈴仙の来るずっと前に暇だからって、墨と筆だけであれ描いちゃったのよ」
「あの、お師匠様が……。意外……」
「他にもね、大広間の掛け軸とか、玄関の衝立とかもお師匠様の作だね。まぁ、あの姫様の教育係だったらしいし当たり前と言えば当たり前じゃない?」
輝夜は、永琳と違い文化人だ。
雅な遊びに通じ芸術を嗜む。盆栽ばかりを愛でている普段の姿を見ていると忘れそうになるが、それが輝夜の本来の姿なのである。
その輝夜の教育係が芸術に通じていない筈が無い。
それは一見実に筋の通ったロジックで、故に鈴仙もそれに納得してしまった。
「確かに言われてみればそうかも……。でもどうしよう、てゐ。
私、生まれてからずっと軍属だったからそれ以外の事なんて何にも知らないよ……」
弱気そうに耳をしゅんと垂れさせる鈴仙。
そんな様子を見たてゐは、一瞬にやりと口元を歪ませる。
そして、慰めるような優しい声で鈴仙の耳元に囁いた。
「大丈夫だよ。ちょっとセンスの良い絵画の一つでも持ってれば、お師匠様だって鈴仙に対する見方を変えてくれるはずだよ」
「ほ、ほんとに?」
「ほんとほんと。私が錦絵を集め始めた時なんてお師匠様嬉しそうだったなぁ~。アレでお師匠様も寂しがりなんだよ? 同じ趣味の人が欲しいんだろうな~」
ちらり、と横目で鈴仙を見る。そして囁く。
思い浮かべて見ろ、と。
自分が選んだ絵画を見た永琳が感激する未来像を。
永琳から優しくされ、待遇が改善される未来像を。
その眼が虚空を見つめだした事を確認し更に言葉を紡いでいく。
「そういえば、お師匠様この前言ってたな~。鈴仙最近凄い頑張ってるから何か褒めてあげたいな~なんて」
「ほ、褒められ……る?」
わなわなと震える唇から漏れ出る呟きをてゐは聞き逃しはしない。
そこから今が勝負の仕掛けどころと判断。
そしててゐはとどめの一言。
必殺の殺し文句を切った。
「当然も当然。"絶対に"、褒めてもらえるよ! "私の時だってそうだった"んだもん!」
あの永琳から褒められる。
それは鈴仙にとってこの"数十年間"の悲願。正式に弟子入りをしてから"渇望し続けた"その響き。
その言葉と同時、
鈴仙の目が爛と輝く。
てゐの口元がにやりと歪む。
「わ、わたし買うよ。私も錦絵集める!」
「そぅこなくっちゃぁ! でも、何買ったら良いか分かる?」
「ううん。分かんない。てゐ。教えてくれる?」
「もちろんウサ! 私たち友達ウサ!」
投了。目標達成。後は兎詐欺の成すがまま。
それからてゐの指導の下、露店を回り有名所の絵師の水墨画、錦絵を見て回り、鈴仙は幾枚かの水墨画と筆を購入した。
ついでに大国主の錦絵も。
購入した水墨画には、富士の山を背景に鷹の絵が描かれた一般的な内容であるものの、その巧みな筆遣いとそこから描かれる力強い画風は素人目で見ても特筆すべきものがあり芸術性の高さが窺える物だった。
買い物に満足した二人は、永遠亭へと帰っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まったくもって鈴仙は騙しやすいウサ。
お師匠様が芸術に興味があるのも本当だし、仲間を欲しがってるのも本当だけど、それと、褒められるか関係無いウサ
精々お金を無駄にして手に入れた水墨画をお師匠様に見せて長い長いお話につき合わされると良いウサ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後永遠亭。
「おっしょーさま! 課題のレポート出来上がりました!」
「あら、今回はずいぶんと早かったわね。でも中身が伴わないと意味はないのよ」
「勿論中身だって一切手は抜いてないですよ!」
何時になくハイテンションな鈴仙は、レポートの後ろに水墨画を忍ばせたファイルを永琳に渡す。
さり気ないアピールをする為にこの数日間考え抜いた鈴仙渾身の秘策である。
鈴仙からファイルを受け取った永琳は、レポートを取り出し中身に目を通して行く。
「確かに手抜きはしていないみたいね。ちゃんと見たら後で返すわ。お疲れ様……と、」
永琳の目線がレポートの裏にしまわれていた紙に移される。
鈴仙は心の中で全力ガッツポーズを決めた。
「あら、あなた水墨画に興味があったのね。全然そんな感じには見えなかったけど」
「最近てゐに進められて買ってみたんですよ! これが意外と奥深くって…… 今少し嵌まってしまいそうなんですよ」
ほぼ予想通りの永琳の反応に、鈴仙の胸中ではファンファーレが鳴り響く。いける。これはいける、と。
お小遣いアップに、お師匠様の好感度急上昇間違い無し、と鈴仙は確信していた。
そして、永琳が口を開くと同時、 自然と胸の鼓動が加速していく事を感じ取る。
「へぇ、意外ねぇ。まぁ、勉学の方を疎かにしないようにね。それじゃ」
「は~い。分かりました! 是非師匠のコレクションも……って。え?!」
鈴仙の返事を待たずして永琳は帰る。
後にはがっくりと地面に膝をつき、項垂れる鈴仙だけが残されていた。
それから更に数日後。永遠亭。
その日も永遠亭はいつもと変わらない。
相も変わらず鈴仙は、鞄やファイルの端から絵画をチラチラと覗かせている。
そして、それを見た永琳もいつもと同じように特に大きなリアクションも無く淡々と受け流していた。
いつもと変わらない、永遠亭の日常。
その日もいつもと変わらない。
"ここ最近のいつもと変わらず"鈴仙と永琳は仲良く姫様の盆栽をスケッチしていた。
Case2
「やっぱM92はカッコ良いなぁ…… あぁっ、でもウィンチェスターの古臭さも捨てがたい……」
日付は休日、時は昼下がり。
鈴仙はぽかぽかとした春の陽気が降り注ぐ永遠亭の縁側で、うつ伏せになって百科事典を眺めながら、実に"数週間ぶりの休日"を謳歌していた。
ぺらり、ぺらりとページを捲りながら、小鳥の囀りを子守唄にまどろみに落ちようとしていた時、突如聞きなれた声が鼓膜を振動させる。
「れっいせーん! ちょっと外に散歩に行かない?」
声の主は二の言も無く鈴仙の背中に跨ると楽しそうにケラケラと笑いながら、ゆさりゆさりと体を揺さぶってきた。
鈴仙はうっとおしそうに背の上の兎を手で払いのけると、のそりと上体を起こし縁側に腰かける。
「散歩? どこ行くの?」
「んーとね。山の渓流とかはどう?」
妖怪の山にある九天の滝。
その幅は山の岩壁一面を覆うほどに広く、その流れは雲海を突き抜けるほどに雄大。
その滝壺から程なく下った地点。
山の天狗の縄張りとの境界線上にその渓流は位置する。
「んー……。最近診療所に缶詰だったし、偶には運動も良いかな。よっし、行こっか!」
鈴仙は上機嫌だった。滝の流れの影響で夏でもひんやりとした空気の流れるそこは、体を動かせばすぐに汗ばみそうな陽気の今訪れればさぞかし気持の良い事だろう。
沢の脇で爽やかな風を肌に感じながら、夕日が大地を赤く照らすまで釣りに興じる自らの姿を思い浮かべる。"久々の休日"を謳歌するにはこれ以上ない事だと鈴仙は元気よく頷いた。
「やった! さっすが鈴仙! それじゃ、"鈴仙の分も"取ってくるね!」
「へ、何を?」
その時鈴仙は初めて、てゐの姿を視界に収める。
瞬間。後悔。後に憂鬱。
ニコニコと笑う因幡の背には"大きな大きな籠"が背負われていた。
「……採集ね。」
「そ。採集。」
「私急用が、」
「今、患者さんとか居ないよね?」
「私急患が、」
「今日診療所お休みだよね?」
「私急病が、」
「さっき、運動してみたいとか言ってたよね?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「私の休日返せ?!」
「私も休日だったんだよぉ!?」
鈴仙の平穏はこの瞬間に崩壊した。
それから更に一悶着あった物の、半ば引きずられる形で鈴仙は永遠亭から連れ出された。
話を聞けば調剤に必要な薬草の在庫が底を尽いたそうで、永琳が急遽採集をてゐに依頼したのだと言う。
「――で、だったらあんた一人で行ってくれば良いんじゃないの?」
「えー。だって鈴仙、散歩行きたいってさっき言ったじゃーん?」
妖怪の山、山麓。
大きな籠を背負った二人の兎は、穏やかな流れを湛える小川沿いに森の中を進んでいた。
ぶつぶつと不平を漏らし、陰鬱な空気を纏う鈴仙とは対照的に、樹木の隙間から差し込む光は水面に反射し世界を緑色に煌めかせていた。
「散歩には違いないかもしんないけどさ――」
「――だったら、楽しまなきゃ損ってもんよ。遊びながら採集しちゃおうよ!」
言の葉も言い終わらぬ内に、てゐは沢の中に時折頭を覗かせる岩に飛び乗るとひょこり、ひょこりと先へ行ってしまう。
その姿はまるで年相応の童女のようで、眺める鈴仙も思わず顔が綻んでしまった。
少し進んだ先、大きな岩が流れの前に立ちはだかり、流れを二つに分け小さな滝を作っていた。てゐはその巨大な岩の上で突如立ち止り足元を覗き込む。
「鈴仙! 山葵が群生してるよ。涼みついでに取っちゃおうよ」
流れ落ちる水と、沢底の境界。流れの速くなったそこには、身を寄せ合うようにして天然の山葵が青い葉を繁らせていた。
「あら、ほんと。しかもかなりの上物ね」
てゐの背後にすたり、と軽やかに岩に着地する音が聞こえる。鈴仙はてゐの隣にしゃがみ込むと、そのすらりと伸びる指をそっと山葵の葉に添わせその色を確かめた。
「じゃ、ちゃっちゃと採集しちゃおうか。四株も取れれば十分よ」
「ほいさっさ~」
半ば脱ぎ捨てるような形で靴を岩の上に放り出し、ぴょんと一跳ねすると、勢いよくざぶりと沢に飛び込む。
空中に舞った水飛沫が金剛石のように光を四方八方反射し緑の世界を白く染め上げた。
「ちょっと、てゐ。こっちにも水掛るって!」
勢いよく飛び込んだてゐを横目に。靴を揃え、岩に腰かけながら靴下を脱ぐ。
白い靴下の下から現れたのは白磁の如き艶を湛えたすらり長く伸びる足だった。
靴の中へと丸めた靴下を詰め込んだ鈴仙は、さふりと足の先を水に付けると、ゆっくりと歩き始めた。
「なるべく状態の良い物を四つね。無駄にたくさん採る事は無いわ」
「みたとこ、どれ採っても問題は無さそうよ。適当で大丈夫さ」
足元に群生する山葵をみやると、確かに何れも十分に張りを持ち、力強く大地に根をおろしている。
鈴仙は目についた物から手際よく採集すると背に入れた籠の中にそれを放り込んだ。
だが、次の山葵を採集するため再び屈みこんだ鈴仙の背後。
てゐはその背にそっと忍びより、手で椀を作って水をすくい上げるとばしゃりと思い切り水を浴びせかけた。
「ぴゃっ?!」
「そんなの置いといて、遊ぼうよー。鈴仙」
「あんたね、まずは採集でしょうが――って、ちょっと! やめなさい!」
鈴仙の言葉も聞かず、次々と水を浴びせかける。
手で体を覆い必死で抵抗するが、絶え間なく降り注ぐ弾幕の如き水の嵐に瞬く間に濡れ兎となってしまった。
一度濡れてしまえば後は野となれ山となれ。
開き直った鈴仙は一転攻勢に回る。
その小さな小さな弾幕ごっこはお互いずぶ濡れになるまでの間続き、静かな山林に暫し姦しい声が響き渡った。
「ふぁぁぁ~良い天気。このまま寝てたらすぐに乾いちゃいそうだね~」
「そうだねぇ」
大きな岩の上、天日干しされる魚のように二人の兎が寝っ転がりお天道様の光を受けていた。
さんさんと降り注ぐ春の陽気は、ずぶ濡れになった二人の体をみるみる内に乾かしていく。
軽い疲労感に温な日差しが加わり、二人は意識がまどろみの中に沈んでいく事を感じていた。
そして二人は仲良く昼寝を、
「――ってそんな事してたら流石に日が暮れちゃうわよ?! ほら早く出発するわよ」
「もー何よ。鈴仙ったらせっかちなんだから。大丈夫だって~」
何が大丈夫なのよ。
そんな苦言を聞き流しながらてゐは、生乾きの服や髪もそのままに緩慢な動作で身を起こした。
二人は脱いだ靴を履きなおすとその岩の上を後にする。
籠を背負いなおし山葵の群生地を去る二人の背後、小さな七色の橋梁が滝と滝壺を繋いでいた。
「ちょっと、あそこの見てよ!」
大きな岩から暫く歩いた地点。
てゐは鈴仙のブレザーの裾を摘みながら何かを指さす。
その指の先に有るのは巨大な崖だった。
その切り立った崖は岩肌が露出し、その崖の上部には完全に周囲から孤立した"大きな棚地"のような物が存在していた。
そしてその崖の中腹、てゐの指さす先にある小さな岩の上にその薬草は群生していた。
「うっわー。ほんとだ。あんなの良く見つけたわねー」
「れーせーん。あれ採って帰ろうよ」にやりと、てゐは小さく口元を歪めた。
「う~ん。あそこまで登るのは無理……じゃないけど、ずいぶん骨じゃない?」
「でも、あの薬草も今ちょうど切らしている奴だし、この辺で他に生えている所探すほうが大変だよ?」
目前の崖はほぼ垂直にそびえ立っているが、"飛んで近づく事は不可能"だ。
天狗の領域で妖力を使う行動は控えなければならない。
だが、所々に張り出す石を足場にすれば登る事は不可能ではない。
加えて、中腹辺りで群生している薬草はそれなりに希少な物であり、今から他の群生地を探すのは現実的ではない。
――そう"鈴仙"は判断するだろう。だから、
「まぁ、そういえばそうなのかな? じゃぁ、てゐ一緒に――」
「――さっすが鈴仙! じゃ、私下で荷物見といてあげるから気にせず採ってきてよ!」
「へ?」
呆気にとられている鈴仙が正気に戻るまでの僅かな間。
その間にてゐは、鈴仙の背後にまわり籠と一緒に持っていた手荷物を回収すると、さっさと群生地の真下の地点まで走っていってしまった。
正気に戻った鈴仙は状況を把握するが既に遅い。
早くおいでよ。そんな声を遠くに聞きながら、少しだけ身軽になった体で鈴仙は崖へと足を踏み出した。
「岩壁登攀なんて何年ぶりかな。月でやった訓練よりは随分楽だけど、思ったよりきついや」
鈴仙は意外にも堅実な動きで岩壁をよじ登っていく。
的確に二手三手先の足場を見据えて手を伸ばすその姿に危なげな要素は見いだせず、順調に目的地へと足を進めていた。
「あ、鈴仙って意外と……」
「その先言ったら後でダイレクトに揺さぶるからね」
その姿を真下から眺めていたてゐは、その目線の先にある意外なほどに"アレ" な "ソレ"を見て率直な感想を漏らす。
殆ど呟くような小さな声ではあったが、風に乗って兎の大きな耳に捉えられてしまった呟きは、鈴仙に羞恥と怒りを与えてしまった。
「……因みに何を?」
「脳みそ」
怒気を孕んだ声と瞳に射抜かれた兎は、恐る恐る言葉の意味を聞き返す。
鈴仙の言葉と共に僅かに鈍く煌めいた瞳は、てゐにこの上ないほどの恐怖感を覚えさせた。
そこからは時折、下方をちらりちらりと警戒するものの大きな障害がある訳でもなく問題無く群生地に到着する事ができた。
岩に手を掛け、身を乗り出した鈴仙はその光景に暫し眼を丸くする。
「うわぁ……」
それは花の絨毯。
それは所狭しとその身を主張する黄色い花弁。
崖の中腹。切り立った崖に飛び出す大きな岩によって構成される小さな平地は弟切草の一種の花に埋め尽くされていた。
その太陽を象徴するが如き黄色は、周囲の灰色により引き立てられ更に輝きを増し、輝きを増した黄色は周囲一面に広がる緑の大海嘯に彩りを与えていた。
森を駆け抜ける爽やかな風が鼻孔に運ぶ花の香りを全身で受け止めようと鈴仙は思わずその場で寝っ転がった。
「てーゐー。凄い良い眺めだよー。あんたも来てみなさいよー」
「いや、そこは一人用さ。私の分まで楽しんどいてよ」
ごろり、ごろりと転がって、ひとしきり草と香りの感触を楽しむ。
そしてぺたりとその場に座り込むと、弟切草の一種を摘み取り籠へと詰めていった。
それはまるで、花摘みをしている名家の娘の如き優雅さで。
そんな空気に身を酔わせた鈴仙は時折花の香りに鼻孔を擽らせながら採集を行っていた。
だが、崖の下。
草の束が二、三も出来上がったであろう頃合い。
採集の終わりのタイミングを狙い、てゐは次の"お願い"に移る。
「ねー。れーせーん。実はお願いしたい事があるんだけどー」
「んー。なぁに?」
「実はそのすぐ上にさ、色んな薬草が群生している場所があるんだ。そのまま登って採って来てくれない?」
鈴仙はぺたりとお尻を付けた姿勢のまま上を見上げる。
そこには自分が今登って来たのと同じ程度の高さが立ちはだかっており、崖の上には木が生い茂っていない事から、平地が広がっているらしい事が見て取れた。
周囲を見やれば、そこは崖の間に取り残されるように存在する大きな棚地。
普段採集業務に向かう事の多いてゐの言う事なのだから、間違いは無いのだろう。
「多分さ、そこに行けば今日集めなきゃいけない薬草は全部集まると思うんだ。お願いだから行ってくれないかな?」
「それは、良いけどさ~、てゐも手伝ってよー」
「残念だけど、私じゃそこまで登れない。随分前の探索でその場所は見つけてはいたんだけど、私ら普通の妖怪兎じゃ体が小さすぎて登れないのさ」
確かに中腹より上の崖は、前半よりも遥かにとっかかりとなる足場が少なく容易には登れそうになかった。どちらかと言えば長身の部類に入る自分であればともかく、童女程度のサイズしかないてゐではまず手足が届かないだろう。
――そう"鈴仙は"考える。だから、答えは決まっている。
「仕方ないなぁ。分かったよ。そこで暫く待ってて」
「ありがとう! 鈴仙、だいすきっ!」
「はいはい。私はだいっきらいですよ」
努めて平坦に。
心の内を悟られぬように鈴仙は話す。
そして、てゐは大きく歪んだ口元を覆い隠すように笑みを浮かべる。
自らの居る岩の上部。
目前に張り出した小さな突起に足を掛け、のそりと体を持ち上げる。
掴まる部分など無いに等しい。
僅かな岩と岩の間の亀裂を頼りに、それ程強くない握力を振り絞って体を崖の上に留める。
そして、また次に足を掛ける場所を探す。
慎重に。前半の崖よりも遥かに慎重に。鈴仙はその足を上に出していく。
その慎重に登っていく兎の後ろ姿が小さくなっていく事を確認し、地上の因幡は頭上の兎にすら聞こえない小さな声でクスクスと笑い始めた。
「ふっふー。鈴仙ってば相変わらず騙しやすくて助かるわー」
ひとしきり笑った後、てゐは懐をごそごそと探ると一枚の紙と筆を取り出し書置きを残す。
その紙を手近な石に挟むと、荷物を回収し元来た道を引き返して行った。
崖下でそのような事が起こっているとも知らず、鈴仙は目前の難関に全力を注いでいた。
思うように足を進める事が出来ない。油断すれば体が引きはがされそうになる。
「途中まで登っちゃったから、あと半分くらいって思っちゃったんだろうね~」
それは、想像をはるかに超えるほどの厳しさ。
それは、先ほどの岩場から見た時には気づかなかった、苔の存在。そして、足場の位置の悪さ。
滑りやすい足場と、無理な体勢を強いる足場に鈴仙の体力は急速に奪われていった。
「あそこから半分は、前半とは比べ物にならない程の”労力”が必要だって言うのに」
どうして、こんな所に登ろうなどと思ってしまったのか。そう考える自分が居ないわけではない。
だが、それでもここまで来てしまったのだ。今さら後戻りなどしたら”師匠に合わせる顔”が無い。
その一心で爪が割れる事すら気にせずに、体を上へ上へと引っ張り上げる。
「そもそも、あんな所まで登らなくてもさ。妖怪の山を離れれば飛べるんだから幾らでも探しようはあっただろうに」
どれ程の時間格闘していたのだろうか。
腕も、脚も、食いしばった顎にも、全身に遍く乳酸が蓄積し脳が運動を拒否し始めた頃。
後、残り腕一本分。その距離に棚地の縁が見えた。
「それに……あそこには、薬草が群生している。確かにその通りなんだけどさ、何も私は――」
最後の一手。限界の近い腕を伸ばし、棚地の縁についに指先が届く。
残りの力。その全てを指先に集中し体をゆっくりと持ち上げていく。
みしり、指が、手首が、腕が、ありとあらゆる関節が悲鳴を上げる。
あと一歩だから、もう一歩だから。明日の筋肉痛くらい我慢する。だからもう少しだけ頑張れ。そう自分に言い聞かせ、残りの力を全て使い体を持ち上げる。
「――何もさ、”群生しているのが一種”とは言ってないのにね」
棚地にその身を引き上げた鈴仙は、目を丸くして茫然と立ち尽くす。
目前に広がっていたのは一面の草原。
陽の良く当たる平地には、青々しい葉を付けた薬草が。
陽の当らない崖の縁には、深い緑を湛えた蘇鉄が。
それは古今東西あらゆる薬草が集っているのではないかと思える程の薬草の宝庫だった。
数年に一度手に入れば幸運と呼ばれる程の希少種があたりまえのように群生している。
恐らくここには、妖怪はおろか野生動物すら立ち入った事が無いのだろう。
その地面は何者にも踏み荒らされた形跡は無く、柔らかく草食動物の餌食になり易い新芽ですらどれ一つ欠けずにそこには存在していた。
「え、……うそ。希少種 がこんなに…」
やっと口を吐いて出たのは、そんな驚きの言葉だった。
暫し茫然。そして、心臓の早鐘。その胸の高鳴りは、これまでの物とは異なっていた。玉兎としてでは無い。永遠亭に住む兎としてでも無い。八意永琳の弟子、”薬剤師見習いとしての知的好奇心”が胸の奥から湧き上がってくる事を感じていた。
「私は良く知らないけど、何やら珍しいのも混じっているらしいし? どれだけ採集に掛るんだろうね~」
「凄い……これだけあれば、当分調剤には困らない、新薬の開発も進む……」
半ば茫然とした状態のまま、薬草を必要量採集していく。
時間の感覚などすぐに失ってしまった。
そんなのは目前にある、この貴重な試料に比べれば些細な事でしかない。
だから、自分は一心不乱にこの薬草を採集する。
されど、傷つけぬように、採りつくさないように大切に大切に採集する。
日が暮れるまでに少しでも多くの薬草たちを師匠の元まで届けて見せる。
「まぁ、鈴仙の事だから、籠にうんさか薬草摘んで帰ってくるだろうし? お師匠様に連絡位はしておいてあげても良いかな」
どれ程の時が経ったのかわからない。
だが、気づけば日は傾き西の空には夕陽が沈もうとする時刻になっていた。
眼に差し込む一条の紅光と、一杯になった籠に鈴仙はふと我を取り戻す。
このままでは夜になってしまう。早く帰らなければと考えた鈴仙は、ずっと地面を見続けていた顔を上げ、そのまま立ち上がり大きく伸びをする。
そして、
急な重力の変化に耐えられず、暫く目の前が白になった。
真っ白な世界の中、一日の終わりを告げる湿り気を帯びたどこか寂しい風が頬を撫でる。
何も無い世界に一人取り残されたような拠り所の無さが心を襲う。
だが感傷に浸る暇も無く視界は元に戻り始める。
目前にはこの世界全てが広がっていた。
大海の如き広がりを見せる森林、森の向こう側に悠然とそびえ立つ人里の建築物。幻想郷の境界線上に並ぶ山脈。上空にうすぼんやりと見える幽界への門。そして、その奥に沈んでいく最も偉大な光球。
人の支配の終わり。妖の支配する世界への緩衝帯。
世界が誰ものでも無くなる、泡沫の如き時間帯。
誰の物でもないのなら、それは世界を最初に見つけた誰かの物だ。
夕日が地平の向こうに沈むまでの間、鈴仙はその世界を一人観測し続ける。
「あいつ一体何時まで、採集するつもりかな…… 夜遅くになって師匠に怒られても私は知らないんだからね」
先に帰宅したてゐは縁側で何をする訳でも無く、ぼぅと空を見上げる。
空にうすぼんやりと浮かんだ、まぁるい月。夜になってもいないのに、ひとりぼっちでぼんやり浮かぶ月は、まるで”アイツ”みたいで。気にもしてないはずなのに。ついつい考えてしまう。
陽が完全に沈む直前になり、ふと我に返った鈴仙はくすりと小さな笑みを漏らす。
それは、沈んでいく陽が、悪戯をして逃げ去っていく”アイツ”を連想させたからかもしれないし、そうでないかもしれない。
それでも、何だか”こんな気持ちにさせてくれた”あいつに何か言ってやりたくて。
頭で考えるまでも無く、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「ほんと……素直じゃないんだから。あの性悪兎は」
「まったく……あいつは、単純ばかなんだから」
荷物を纏め地上に着くころには、もう完全に夜の帳がおりていた。
だが、そこに見慣れた姿は居ない。荷物すらそこには存在せず、代わりに石に挟まれた一枚のメモ用紙だけが風にたなびいていた。
『先に帰るbyてゐ』
鈴仙はぐしゃりと手紙を握りつぶす。
「あ……、んのぉ……、性悪兎がぁー!!」
森の中に空しく響くその声に、大樹の枝で休む烏だけがアホウと答えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜。永遠亭。
「ただいま戻りました……」
永遠亭に着くころにはとっぷりと夜が暮れ、疲労感が全身を包んでいた。薬草で一杯になった籠を降ろしつつ、鈴仙は誰もいない玄関で帰宅の言葉を呟く。
今すぐにでも休みたい衝動に駆られるが、採集業務がこれで終わった訳ではない。まだ、仕分けと保存用の処理を行う必要がある。
重い体を引きずって鈴仙は診療所の隣の調剤室へと向かった。
「失礼します……」
今日は休日である。普段でも夕方には業務を終える調剤室に誰もいる筈は無かった。だからそこには真っ黒な空間が広がっているはずだった。
そして鈴仙はがらり、と部屋の引き戸を開く。
「あら、遅かったのね? おかえりなさい」
既に明りのともった室内。眼鏡を掛けた永琳が机に向かい書を広げていた。永琳はその訪問者に気づくとゆったりとした動作で顔を上げた。
「え、お師匠様? どうしたんですか? こんな時間に」
「てゐから、話は聞いているわよ。 随分と収穫があったそうじゃない」
「えぇ、はい、まぁ……」
そう言って鈴仙は籠を永琳に手渡す。
中身を床の上に広げ収穫を確認すると、永琳は一瞬目を丸くし後に優しい声で鈴仙に話しかけた。
「上出来ね。仕分けは私がやっとくから今日はゆっくり休みなさい」
「え? いえいえ、そんな事をお師匠様にやらせるなんて……」
「私でも扱いが難しい物が幾つか混じっているからね。あなたにはまだ早いわ」
そう言われては引き下がるより他に道は無い。素直にその言葉を受け取り、鈴仙は部屋を辞することにした。軽く礼をし永琳に背を向け扉に向かう。
しかし扉に手を掛けた時、背後からふいに声が掛けられる。
「あぁ、後……明日は代休ね」
「へ?」
「今日の代わりよ。休めるときに休んでおきなさい」
「え……それは、」
「優曇華」
「は……、はい?」
「ありがとう。あなたは今日、"良い仕事をした"。おやすみなさい」
「……――?! お、やすみなさい……」
鈴仙は扉を静かに後ろ手で閉める。
月明かりで照らされた、板張りの廊下に水の跡がじわりと広がっていった。
一度入り込んでしまえばあとは簡単。自分の好きなように相手を操ってしまえば良いのさ。
じゃあどうやって、相手の心に入り込むのか。それには大きく分けて二つの方法がある。
一つ目、心に入り込む穴を自分で作ってしまう。
二つ目、元からある相手の心の穴に入り込む。
今日はプロの兎詐欺、因幡てゐ様が誰にでもできる騙し方を伝授してやるウサ。
耳かっぽじってよーく聞くと良いウサ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Case1
「どうですか、あれから体の調子は?」
「調子はすこぶる良いね。 いやぁ、鈴仙ちゃんのおかげだよ!」
「私はお師匠様に言われた通りにやっているだけですから。……と、ついでに置き薬の補充しておきますね。」
人里の民家。
ブレザーの上に白衣を纏い前髪には鼈甲の髪留め、紅玉の如き澄んだ瞳を薄く色の着いた眼鏡で覆った少女は、患者と思しき家の主人の包帯を手なれた手つきで整えて行く。
その背格好は一見すれば何処にでもいる少女。
だがその幻想的なまでに完成された美と頭の上に伸びる二つの大きな耳は、彼女が陽のあたる世界の者では無い事を物語っている。
鈴仙と呼ばれたこの妖怪兎は、以前に永遠亭で治療を受けた患者の経過診断で里を訪れている。
師匠である八意永琳が開く診療所。
鈴仙はその助手として日々薬師としての修業を積んでいる。
その活動の一環として、定期的に人里に出向き、こうして訪問サービスを行っているのだ。
「あれと、それと、これっと……。あれ、葛根湯がもう殆どないですね。やっぱりこの間流行った風邪ですか?」
「えぇ、娘が少し体調を崩してしまって。でもお陰さまですぐに良くなったよ」
「大事に至らなくて何よりです。でも気を付けてくださいね。葛根湯はあくまで気休めですから。悪くなる前になるべく早くお医者さんにかかって下さい」
「そうしたいのは山々何だけどねぇ。あの竹林を病人連れて抜けるのは骨だよ。焼鳥屋さんも普段どこに居るか分からないし……」
「うーん。確かに竹林には妖怪も多いですからね。自警団の人を毎回呼ぶのも大変ですし。……あ、でも―― 」
「そん時はさ。入口に居る適当な兎に声かけてよ! そしたら私が永遠亭まで連れてってあげるからさ。安くしとくよ!」
その時、鈴仙の膝の上にちょこんと座っていたもう一人の妖怪兎が元気よく家の主人に声をかける。
雪のように透き通った白い肌に、肌とは対照的な艶々とした少し癖のある髪の毛。
そして、硝子のびいだまのように真ん丸で大きな瞳。
"見た目は"愛らしい童女程であるこの少女の名は因幡てゐと言う。
その頭の上にあるへたりと垂れた耳が、彼女もまた妖怪兎である事を知らせていた。
「ちょっ…… てゐ! あんた、またあこぎな商売始めてんじゃないわよ!」
「えー。いーじゃん。世の中みんな "ぎぶあんどていく" だよ。"誰も損しない"し。
ねぇ、ねぇ、賢そうなお兄さんだったら分かってくれるよね?」
そう言って鈴仙の膝の上にちょこんとのった兎は、患者の中年の男を上目づかいでじっと見つめながら、艶っぽい声をあげる。
「も、もぅ! あんたは、少し黙ってなさい! ほんとすみません。連絡があったら使いの兎は寄こすんで、こいつに無駄にお金払うなんてしなくて良いですよ」
「まぁ、こっちとしても安全に竹林を通れる手段が増えるのは良い事だからね。で、お代は何を御所望だい?お嬢さん」
「んーとね。あたし水飴が良いなぁ」
「ははは。それじゃ、次お世話になる時の為に準備しておくとしよう」
「こいつの言う事なんて真に受けちゃ駄目ですよ! とんでもない詐欺兎なんですから……」
「あっ心外だなー。あたし、約束はちゃんと守るよ――」
途中まで紡がれた言葉は脇下に延ばされた腕によって中断される。
鈴仙に抱え上げられると、強制的に背後へと追い払われてしまった。
背後からケチだとか、薄幸女だとかの罵倒する声が背後から響いたが、それら一切合財を聞き流しつつ鈴仙は手際よく籠の中に薬品を詰めていく。
余談ではあるが、外界からの物資に多くを頼る幻想郷において水飴はそれなりに高価な物である。
「それでは、お薬の方も補充しておきましたので、私はこの辺で失礼させて頂きます。何か困った事があればいつでも永遠亭にお越しください」
「おう。いつもありがとうね。またよろしくお願いするよ」
訪問業務も終わり家を辞そうとする鈴仙だったが、てゐが傍に居ない事に気づく。
背後を振り返れば、案の定主人の傍に付きまとい営業活動の真っ最中だった。
「ねーねー。おにいさーん。水飴の事、他の皆に――」
「……」
家の主人の袖の裾を摘み、甘い声を出しているてゐ。
その襟を無言で掴むと、そのまま引きずるようにして鈴仙はてゐを玄関の外へ連れ出した。
人里の中央通り。
中心へ向かう道沿いには、多くの商店が立ち並び多くの人で賑わっている。
患者の訪問を終えた二人はぶらぶらと当てもなく商店を見回っていた。
四半刻程もぶらついた時、とある露店の店先にて、てゐが吸い寄せられるようにふらふらと歩いて行ってしまった。その後に着いて鈴仙もその露店に向かう。
「てーゐー? どしたの? てーゐー?」
「はぁあぁ~~……」
その露店は絵画を扱う店のようだった。簡易の屋台の壁に大きな板を立て掛け、所狭しと絵画が貼り付けられている。
てゐはその店頭に座り込み、食い入るように一枚の絵画を見つめていた。鈴仙はてゐに話しかけるが、溜息をつくばかりでまるで話にならない。
「はぁぁ~。おおくにぬしさまぁ……なんと神々しい……」
「おおくに……ぬし? 錦絵?」
その露店で売られていたのは錦絵。
人里の絵師が大衆向けに演劇や、歴史上の人物、有名な人妖の姿を描いた絵画の一種だ。
てゐが先ほどから見つめているのは人里の中でも人気上昇中のシリーズ『日本神話(完全版)』の大国主である。
そこには、若々しさの中に力強さを併せ持った美男が描かれていた。
「決めた。私これ買う。鈴仙お金貸して」
「やだ」
「なんでよ!」
「だって絵でしょ? そんなのにお金出すなんて勿体なくない? それに買うんだったら自分のお金で買えば良いじゃないの」
「それは……。今月はちょっとお金が無いのよ! ね~ぇ~少しだけだからぁ~。お、ね、が、い?」
鈴仙に正面から抱きつき、涙で潤んだ瞳でまっすぐ見つめ上げる。対処に困った鈴仙が座り込んできた時を見計らい、その耳をはむりと甘噛して、甘い声を囁く。
「えぇい、うっとおしい! くっつくな!」
並みの
ましてや長い付き合いの鈴仙には逆効果にしかならなかった。
にべもなく振り払われてしまう。だがそれで諦めるつもりもまた有りえる筈が無かった。
もしもその瞬間。鈴仙が"それ"に気づいていれば、もしくは違う結果を辿ったのかもしれない。だが鈴仙は見逃した。見逃してしまった。
服の裾を払いながら、立ち上がる瞬間。てゐがその姿からはとても想像できないほどに悪い笑みを浮かべていた事に。
てゐはわざと、鈴仙に聞こえる程度の声で"独り言"を呟く。
「もぅ、鈴仙は浪漫が無いんだから。芸術が理解できないなんて、師匠に呆れられたって知らないよ?」
その言葉に鈴仙の耳がぴくり、と動く。
てゐはそれを見逃しはしなかった。
更にてゐは"独り言"を続けた。
「あ~あ、お師匠様、がっかりするだろうなぁ。まさか、自分の手塩にかけて育てている弟子が芸術の一つも理解できないような俗物だなんて……」
「ちょ……ちょっと、てゐ。それってどういう事よ」
その大きな耳が不幸にも捉えてしまった情報を問い質す為、鈴仙はてゐに詰め寄っていった。
「どうしたの鈴仙。そんなに慌てちゃってさ?」
引っ掛かった。
心の中でガッツポーズを決めるてゐだったが、そんな様子はおくびにも出さず、努めて知らぬ風を装っててゐは返事をする。
「お師匠様に呆れられるってどういう事よ?!」
「どうも、こうも、言葉の通りの意味よ。お師匠様って意外と風流人なんだよね~。最近は鈴仙の指導ばっかりであんまり手を付けてないけど、昔は手慰みに水墨画とかも良く書いていたのよ?」
「嘘だ……。あの効率至上主義者のお師匠様が、五分の作業遅延で五時間はお説教タイムのお師匠様が……。」
「本当に優秀な人は、オンオフの切り替えもしっかりしているのよ」
「嘘だ……。格好いいでしょ? なんて言いながら、"鹿威し" を "獅子の顔付きのセントリーガン"に改造してドヤ顔しているお師匠様が芸術の心得がある分けないじゃない……」
半ば独り言のように淡々と言葉を吐き出す鈴仙。
それは当然の反応ともいえた。鈴仙が知っている永琳とは、薬学の師匠としての永琳だけなのだ。
時折見せる狂科学者としての姿を除けば、書や絵画を嗜む姿を思い浮かべる事は困難を極めるだろう。
「あんた、今のお師匠様に私が告げ口したらえらい事になるわよ……。流石に可哀想だから言わないけどさ。まぁ、確かに機械に関してはセンスがぶっ飛んでる所もあるけど、それ以外は普通なのよ。例えば永遠亭の襖に竹取物語のお話が描かれているじゃない?」
「うん、確かに描かれてる。最初に見たときはびっくりしたなぁ、地平線の向こうまで続く襖全部にお話の絵が描かれてるんだもん。走りながら横目で見ると動いて見えるし……」
「あれ、お師匠様の手書きなのよ?」
「うそ?!」
「本当よ。鈴仙の来るずっと前に暇だからって、墨と筆だけであれ描いちゃったのよ」
「あの、お師匠様が……。意外……」
「他にもね、大広間の掛け軸とか、玄関の衝立とかもお師匠様の作だね。まぁ、あの姫様の教育係だったらしいし当たり前と言えば当たり前じゃない?」
輝夜は、永琳と違い文化人だ。
雅な遊びに通じ芸術を嗜む。盆栽ばかりを愛でている普段の姿を見ていると忘れそうになるが、それが輝夜の本来の姿なのである。
その輝夜の教育係が芸術に通じていない筈が無い。
それは一見実に筋の通ったロジックで、故に鈴仙もそれに納得してしまった。
「確かに言われてみればそうかも……。でもどうしよう、てゐ。
私、生まれてからずっと軍属だったからそれ以外の事なんて何にも知らないよ……」
弱気そうに耳をしゅんと垂れさせる鈴仙。
そんな様子を見たてゐは、一瞬にやりと口元を歪ませる。
そして、慰めるような優しい声で鈴仙の耳元に囁いた。
「大丈夫だよ。ちょっとセンスの良い絵画の一つでも持ってれば、お師匠様だって鈴仙に対する見方を変えてくれるはずだよ」
「ほ、ほんとに?」
「ほんとほんと。私が錦絵を集め始めた時なんてお師匠様嬉しそうだったなぁ~。アレでお師匠様も寂しがりなんだよ? 同じ趣味の人が欲しいんだろうな~」
ちらり、と横目で鈴仙を見る。そして囁く。
思い浮かべて見ろ、と。
自分が選んだ絵画を見た永琳が感激する未来像を。
永琳から優しくされ、待遇が改善される未来像を。
その眼が虚空を見つめだした事を確認し更に言葉を紡いでいく。
「そういえば、お師匠様この前言ってたな~。鈴仙最近凄い頑張ってるから何か褒めてあげたいな~なんて」
「ほ、褒められ……る?」
わなわなと震える唇から漏れ出る呟きをてゐは聞き逃しはしない。
そこから今が勝負の仕掛けどころと判断。
そしててゐはとどめの一言。
必殺の殺し文句を切った。
「当然も当然。"絶対に"、褒めてもらえるよ! "私の時だってそうだった"んだもん!」
あの永琳から褒められる。
それは鈴仙にとってこの"数十年間"の悲願。正式に弟子入りをしてから"渇望し続けた"その響き。
その言葉と同時、
鈴仙の目が爛と輝く。
てゐの口元がにやりと歪む。
「わ、わたし買うよ。私も錦絵集める!」
「そぅこなくっちゃぁ! でも、何買ったら良いか分かる?」
「ううん。分かんない。てゐ。教えてくれる?」
「もちろんウサ! 私たち友達ウサ!」
投了。目標達成。後は兎詐欺の成すがまま。
それからてゐの指導の下、露店を回り有名所の絵師の水墨画、錦絵を見て回り、鈴仙は幾枚かの水墨画と筆を購入した。
ついでに大国主の錦絵も。
購入した水墨画には、富士の山を背景に鷹の絵が描かれた一般的な内容であるものの、その巧みな筆遣いとそこから描かれる力強い画風は素人目で見ても特筆すべきものがあり芸術性の高さが窺える物だった。
買い物に満足した二人は、永遠亭へと帰っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まったくもって鈴仙は騙しやすいウサ。
お師匠様が芸術に興味があるのも本当だし、仲間を欲しがってるのも本当だけど、それと、褒められるか関係無いウサ
精々お金を無駄にして手に入れた水墨画をお師匠様に見せて長い長いお話につき合わされると良いウサ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後永遠亭。
「おっしょーさま! 課題のレポート出来上がりました!」
「あら、今回はずいぶんと早かったわね。でも中身が伴わないと意味はないのよ」
「勿論中身だって一切手は抜いてないですよ!」
何時になくハイテンションな鈴仙は、レポートの後ろに水墨画を忍ばせたファイルを永琳に渡す。
さり気ないアピールをする為にこの数日間考え抜いた鈴仙渾身の秘策である。
鈴仙からファイルを受け取った永琳は、レポートを取り出し中身に目を通して行く。
「確かに手抜きはしていないみたいね。ちゃんと見たら後で返すわ。お疲れ様……と、」
永琳の目線がレポートの裏にしまわれていた紙に移される。
鈴仙は心の中で全力ガッツポーズを決めた。
「あら、あなた水墨画に興味があったのね。全然そんな感じには見えなかったけど」
「最近てゐに進められて買ってみたんですよ! これが意外と奥深くって…… 今少し嵌まってしまいそうなんですよ」
ほぼ予想通りの永琳の反応に、鈴仙の胸中ではファンファーレが鳴り響く。いける。これはいける、と。
お小遣いアップに、お師匠様の好感度急上昇間違い無し、と鈴仙は確信していた。
そして、永琳が口を開くと同時、 自然と胸の鼓動が加速していく事を感じ取る。
「へぇ、意外ねぇ。まぁ、勉学の方を疎かにしないようにね。それじゃ」
「は~い。分かりました! 是非師匠のコレクションも……って。え?!」
鈴仙の返事を待たずして永琳は帰る。
後にはがっくりと地面に膝をつき、項垂れる鈴仙だけが残されていた。
それから更に数日後。永遠亭。
その日も永遠亭はいつもと変わらない。
相も変わらず鈴仙は、鞄やファイルの端から絵画をチラチラと覗かせている。
そして、それを見た永琳もいつもと同じように特に大きなリアクションも無く淡々と受け流していた。
いつもと変わらない、永遠亭の日常。
その日もいつもと変わらない。
"ここ最近のいつもと変わらず"鈴仙と永琳は仲良く姫様の盆栽をスケッチしていた。
Case2
「やっぱM92はカッコ良いなぁ…… あぁっ、でもウィンチェスターの古臭さも捨てがたい……」
日付は休日、時は昼下がり。
鈴仙はぽかぽかとした春の陽気が降り注ぐ永遠亭の縁側で、うつ伏せになって百科事典を眺めながら、実に"数週間ぶりの休日"を謳歌していた。
ぺらり、ぺらりとページを捲りながら、小鳥の囀りを子守唄にまどろみに落ちようとしていた時、突如聞きなれた声が鼓膜を振動させる。
「れっいせーん! ちょっと外に散歩に行かない?」
声の主は二の言も無く鈴仙の背中に跨ると楽しそうにケラケラと笑いながら、ゆさりゆさりと体を揺さぶってきた。
鈴仙はうっとおしそうに背の上の兎を手で払いのけると、のそりと上体を起こし縁側に腰かける。
「散歩? どこ行くの?」
「んーとね。山の渓流とかはどう?」
妖怪の山にある九天の滝。
その幅は山の岩壁一面を覆うほどに広く、その流れは雲海を突き抜けるほどに雄大。
その滝壺から程なく下った地点。
山の天狗の縄張りとの境界線上にその渓流は位置する。
「んー……。最近診療所に缶詰だったし、偶には運動も良いかな。よっし、行こっか!」
鈴仙は上機嫌だった。滝の流れの影響で夏でもひんやりとした空気の流れるそこは、体を動かせばすぐに汗ばみそうな陽気の今訪れればさぞかし気持の良い事だろう。
沢の脇で爽やかな風を肌に感じながら、夕日が大地を赤く照らすまで釣りに興じる自らの姿を思い浮かべる。"久々の休日"を謳歌するにはこれ以上ない事だと鈴仙は元気よく頷いた。
「やった! さっすが鈴仙! それじゃ、"鈴仙の分も"取ってくるね!」
「へ、何を?」
その時鈴仙は初めて、てゐの姿を視界に収める。
瞬間。後悔。後に憂鬱。
ニコニコと笑う因幡の背には"大きな大きな籠"が背負われていた。
「……採集ね。」
「そ。採集。」
「私急用が、」
「今、患者さんとか居ないよね?」
「私急患が、」
「今日診療所お休みだよね?」
「私急病が、」
「さっき、運動してみたいとか言ってたよね?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「私の休日返せ?!」
「私も休日だったんだよぉ!?」
鈴仙の平穏はこの瞬間に崩壊した。
それから更に一悶着あった物の、半ば引きずられる形で鈴仙は永遠亭から連れ出された。
話を聞けば調剤に必要な薬草の在庫が底を尽いたそうで、永琳が急遽採集をてゐに依頼したのだと言う。
「――で、だったらあんた一人で行ってくれば良いんじゃないの?」
「えー。だって鈴仙、散歩行きたいってさっき言ったじゃーん?」
妖怪の山、山麓。
大きな籠を背負った二人の兎は、穏やかな流れを湛える小川沿いに森の中を進んでいた。
ぶつぶつと不平を漏らし、陰鬱な空気を纏う鈴仙とは対照的に、樹木の隙間から差し込む光は水面に反射し世界を緑色に煌めかせていた。
「散歩には違いないかもしんないけどさ――」
「――だったら、楽しまなきゃ損ってもんよ。遊びながら採集しちゃおうよ!」
言の葉も言い終わらぬ内に、てゐは沢の中に時折頭を覗かせる岩に飛び乗るとひょこり、ひょこりと先へ行ってしまう。
その姿はまるで年相応の童女のようで、眺める鈴仙も思わず顔が綻んでしまった。
少し進んだ先、大きな岩が流れの前に立ちはだかり、流れを二つに分け小さな滝を作っていた。てゐはその巨大な岩の上で突如立ち止り足元を覗き込む。
「鈴仙! 山葵が群生してるよ。涼みついでに取っちゃおうよ」
流れ落ちる水と、沢底の境界。流れの速くなったそこには、身を寄せ合うようにして天然の山葵が青い葉を繁らせていた。
「あら、ほんと。しかもかなりの上物ね」
てゐの背後にすたり、と軽やかに岩に着地する音が聞こえる。鈴仙はてゐの隣にしゃがみ込むと、そのすらりと伸びる指をそっと山葵の葉に添わせその色を確かめた。
「じゃ、ちゃっちゃと採集しちゃおうか。四株も取れれば十分よ」
「ほいさっさ~」
半ば脱ぎ捨てるような形で靴を岩の上に放り出し、ぴょんと一跳ねすると、勢いよくざぶりと沢に飛び込む。
空中に舞った水飛沫が金剛石のように光を四方八方反射し緑の世界を白く染め上げた。
「ちょっと、てゐ。こっちにも水掛るって!」
勢いよく飛び込んだてゐを横目に。靴を揃え、岩に腰かけながら靴下を脱ぐ。
白い靴下の下から現れたのは白磁の如き艶を湛えたすらり長く伸びる足だった。
靴の中へと丸めた靴下を詰め込んだ鈴仙は、さふりと足の先を水に付けると、ゆっくりと歩き始めた。
「なるべく状態の良い物を四つね。無駄にたくさん採る事は無いわ」
「みたとこ、どれ採っても問題は無さそうよ。適当で大丈夫さ」
足元に群生する山葵をみやると、確かに何れも十分に張りを持ち、力強く大地に根をおろしている。
鈴仙は目についた物から手際よく採集すると背に入れた籠の中にそれを放り込んだ。
だが、次の山葵を採集するため再び屈みこんだ鈴仙の背後。
てゐはその背にそっと忍びより、手で椀を作って水をすくい上げるとばしゃりと思い切り水を浴びせかけた。
「ぴゃっ?!」
「そんなの置いといて、遊ぼうよー。鈴仙」
「あんたね、まずは採集でしょうが――って、ちょっと! やめなさい!」
鈴仙の言葉も聞かず、次々と水を浴びせかける。
手で体を覆い必死で抵抗するが、絶え間なく降り注ぐ弾幕の如き水の嵐に瞬く間に濡れ兎となってしまった。
一度濡れてしまえば後は野となれ山となれ。
開き直った鈴仙は一転攻勢に回る。
その小さな小さな弾幕ごっこはお互いずぶ濡れになるまでの間続き、静かな山林に暫し姦しい声が響き渡った。
「ふぁぁぁ~良い天気。このまま寝てたらすぐに乾いちゃいそうだね~」
「そうだねぇ」
大きな岩の上、天日干しされる魚のように二人の兎が寝っ転がりお天道様の光を受けていた。
さんさんと降り注ぐ春の陽気は、ずぶ濡れになった二人の体をみるみる内に乾かしていく。
軽い疲労感に温な日差しが加わり、二人は意識がまどろみの中に沈んでいく事を感じていた。
そして二人は仲良く昼寝を、
「――ってそんな事してたら流石に日が暮れちゃうわよ?! ほら早く出発するわよ」
「もー何よ。鈴仙ったらせっかちなんだから。大丈夫だって~」
何が大丈夫なのよ。
そんな苦言を聞き流しながらてゐは、生乾きの服や髪もそのままに緩慢な動作で身を起こした。
二人は脱いだ靴を履きなおすとその岩の上を後にする。
籠を背負いなおし山葵の群生地を去る二人の背後、小さな七色の橋梁が滝と滝壺を繋いでいた。
「ちょっと、あそこの見てよ!」
大きな岩から暫く歩いた地点。
てゐは鈴仙のブレザーの裾を摘みながら何かを指さす。
その指の先に有るのは巨大な崖だった。
その切り立った崖は岩肌が露出し、その崖の上部には完全に周囲から孤立した"大きな棚地"のような物が存在していた。
そしてその崖の中腹、てゐの指さす先にある小さな岩の上にその薬草は群生していた。
「うっわー。ほんとだ。あんなの良く見つけたわねー」
「れーせーん。あれ採って帰ろうよ」にやりと、てゐは小さく口元を歪めた。
「う~ん。あそこまで登るのは無理……じゃないけど、ずいぶん骨じゃない?」
「でも、あの薬草も今ちょうど切らしている奴だし、この辺で他に生えている所探すほうが大変だよ?」
目前の崖はほぼ垂直にそびえ立っているが、"飛んで近づく事は不可能"だ。
天狗の領域で妖力を使う行動は控えなければならない。
だが、所々に張り出す石を足場にすれば登る事は不可能ではない。
加えて、中腹辺りで群生している薬草はそれなりに希少な物であり、今から他の群生地を探すのは現実的ではない。
――そう"鈴仙"は判断するだろう。だから、
「まぁ、そういえばそうなのかな? じゃぁ、てゐ一緒に――」
「――さっすが鈴仙! じゃ、私下で荷物見といてあげるから気にせず採ってきてよ!」
「へ?」
呆気にとられている鈴仙が正気に戻るまでの僅かな間。
その間にてゐは、鈴仙の背後にまわり籠と一緒に持っていた手荷物を回収すると、さっさと群生地の真下の地点まで走っていってしまった。
正気に戻った鈴仙は状況を把握するが既に遅い。
早くおいでよ。そんな声を遠くに聞きながら、少しだけ身軽になった体で鈴仙は崖へと足を踏み出した。
「岩壁登攀なんて何年ぶりかな。月でやった訓練よりは随分楽だけど、思ったよりきついや」
鈴仙は意外にも堅実な動きで岩壁をよじ登っていく。
的確に二手三手先の足場を見据えて手を伸ばすその姿に危なげな要素は見いだせず、順調に目的地へと足を進めていた。
「あ、鈴仙って意外と……」
「その先言ったら後でダイレクトに揺さぶるからね」
その姿を真下から眺めていたてゐは、その目線の先にある意外なほどに"アレ" な "ソレ"を見て率直な感想を漏らす。
殆ど呟くような小さな声ではあったが、風に乗って兎の大きな耳に捉えられてしまった呟きは、鈴仙に羞恥と怒りを与えてしまった。
「……因みに何を?」
「脳みそ」
怒気を孕んだ声と瞳に射抜かれた兎は、恐る恐る言葉の意味を聞き返す。
鈴仙の言葉と共に僅かに鈍く煌めいた瞳は、てゐにこの上ないほどの恐怖感を覚えさせた。
そこからは時折、下方をちらりちらりと警戒するものの大きな障害がある訳でもなく問題無く群生地に到着する事ができた。
岩に手を掛け、身を乗り出した鈴仙はその光景に暫し眼を丸くする。
「うわぁ……」
それは花の絨毯。
それは所狭しとその身を主張する黄色い花弁。
崖の中腹。切り立った崖に飛び出す大きな岩によって構成される小さな平地は弟切草の一種の花に埋め尽くされていた。
その太陽を象徴するが如き黄色は、周囲の灰色により引き立てられ更に輝きを増し、輝きを増した黄色は周囲一面に広がる緑の大海嘯に彩りを与えていた。
森を駆け抜ける爽やかな風が鼻孔に運ぶ花の香りを全身で受け止めようと鈴仙は思わずその場で寝っ転がった。
「てーゐー。凄い良い眺めだよー。あんたも来てみなさいよー」
「いや、そこは一人用さ。私の分まで楽しんどいてよ」
ごろり、ごろりと転がって、ひとしきり草と香りの感触を楽しむ。
そしてぺたりとその場に座り込むと、弟切草の一種を摘み取り籠へと詰めていった。
それはまるで、花摘みをしている名家の娘の如き優雅さで。
そんな空気に身を酔わせた鈴仙は時折花の香りに鼻孔を擽らせながら採集を行っていた。
だが、崖の下。
草の束が二、三も出来上がったであろう頃合い。
採集の終わりのタイミングを狙い、てゐは次の"お願い"に移る。
「ねー。れーせーん。実はお願いしたい事があるんだけどー」
「んー。なぁに?」
「実はそのすぐ上にさ、色んな薬草が群生している場所があるんだ。そのまま登って採って来てくれない?」
鈴仙はぺたりとお尻を付けた姿勢のまま上を見上げる。
そこには自分が今登って来たのと同じ程度の高さが立ちはだかっており、崖の上には木が生い茂っていない事から、平地が広がっているらしい事が見て取れた。
周囲を見やれば、そこは崖の間に取り残されるように存在する大きな棚地。
普段採集業務に向かう事の多いてゐの言う事なのだから、間違いは無いのだろう。
「多分さ、そこに行けば今日集めなきゃいけない薬草は全部集まると思うんだ。お願いだから行ってくれないかな?」
「それは、良いけどさ~、てゐも手伝ってよー」
「残念だけど、私じゃそこまで登れない。随分前の探索でその場所は見つけてはいたんだけど、私ら普通の妖怪兎じゃ体が小さすぎて登れないのさ」
確かに中腹より上の崖は、前半よりも遥かにとっかかりとなる足場が少なく容易には登れそうになかった。どちらかと言えば長身の部類に入る自分であればともかく、童女程度のサイズしかないてゐではまず手足が届かないだろう。
――そう"鈴仙は"考える。だから、答えは決まっている。
「仕方ないなぁ。分かったよ。そこで暫く待ってて」
「ありがとう! 鈴仙、だいすきっ!」
「はいはい。私はだいっきらいですよ」
努めて平坦に。
心の内を悟られぬように鈴仙は話す。
そして、てゐは大きく歪んだ口元を覆い隠すように笑みを浮かべる。
自らの居る岩の上部。
目前に張り出した小さな突起に足を掛け、のそりと体を持ち上げる。
掴まる部分など無いに等しい。
僅かな岩と岩の間の亀裂を頼りに、それ程強くない握力を振り絞って体を崖の上に留める。
そして、また次に足を掛ける場所を探す。
慎重に。前半の崖よりも遥かに慎重に。鈴仙はその足を上に出していく。
その慎重に登っていく兎の後ろ姿が小さくなっていく事を確認し、地上の因幡は頭上の兎にすら聞こえない小さな声でクスクスと笑い始めた。
「ふっふー。鈴仙ってば相変わらず騙しやすくて助かるわー」
ひとしきり笑った後、てゐは懐をごそごそと探ると一枚の紙と筆を取り出し書置きを残す。
その紙を手近な石に挟むと、荷物を回収し元来た道を引き返して行った。
崖下でそのような事が起こっているとも知らず、鈴仙は目前の難関に全力を注いでいた。
思うように足を進める事が出来ない。油断すれば体が引きはがされそうになる。
「途中まで登っちゃったから、あと半分くらいって思っちゃったんだろうね~」
それは、想像をはるかに超えるほどの厳しさ。
それは、先ほどの岩場から見た時には気づかなかった、苔の存在。そして、足場の位置の悪さ。
滑りやすい足場と、無理な体勢を強いる足場に鈴仙の体力は急速に奪われていった。
「あそこから半分は、前半とは比べ物にならない程の”労力”が必要だって言うのに」
どうして、こんな所に登ろうなどと思ってしまったのか。そう考える自分が居ないわけではない。
だが、それでもここまで来てしまったのだ。今さら後戻りなどしたら”師匠に合わせる顔”が無い。
その一心で爪が割れる事すら気にせずに、体を上へ上へと引っ張り上げる。
「そもそも、あんな所まで登らなくてもさ。妖怪の山を離れれば飛べるんだから幾らでも探しようはあっただろうに」
どれ程の時間格闘していたのだろうか。
腕も、脚も、食いしばった顎にも、全身に遍く乳酸が蓄積し脳が運動を拒否し始めた頃。
後、残り腕一本分。その距離に棚地の縁が見えた。
「それに……あそこには、薬草が群生している。確かにその通りなんだけどさ、何も私は――」
最後の一手。限界の近い腕を伸ばし、棚地の縁についに指先が届く。
残りの力。その全てを指先に集中し体をゆっくりと持ち上げていく。
みしり、指が、手首が、腕が、ありとあらゆる関節が悲鳴を上げる。
あと一歩だから、もう一歩だから。明日の筋肉痛くらい我慢する。だからもう少しだけ頑張れ。そう自分に言い聞かせ、残りの力を全て使い体を持ち上げる。
「――何もさ、”群生しているのが一種”とは言ってないのにね」
棚地にその身を引き上げた鈴仙は、目を丸くして茫然と立ち尽くす。
目前に広がっていたのは一面の草原。
陽の良く当たる平地には、青々しい葉を付けた薬草が。
陽の当らない崖の縁には、深い緑を湛えた蘇鉄が。
それは古今東西あらゆる薬草が集っているのではないかと思える程の薬草の宝庫だった。
数年に一度手に入れば幸運と呼ばれる程の希少種があたりまえのように群生している。
恐らくここには、妖怪はおろか野生動物すら立ち入った事が無いのだろう。
その地面は何者にも踏み荒らされた形跡は無く、柔らかく草食動物の餌食になり易い新芽ですらどれ一つ欠けずにそこには存在していた。
「え、……うそ。
やっと口を吐いて出たのは、そんな驚きの言葉だった。
暫し茫然。そして、心臓の早鐘。その胸の高鳴りは、これまでの物とは異なっていた。玉兎としてでは無い。永遠亭に住む兎としてでも無い。八意永琳の弟子、”薬剤師見習いとしての知的好奇心”が胸の奥から湧き上がってくる事を感じていた。
「私は良く知らないけど、何やら珍しいのも混じっているらしいし? どれだけ採集に掛るんだろうね~」
「凄い……これだけあれば、当分調剤には困らない、新薬の開発も進む……」
半ば茫然とした状態のまま、薬草を必要量採集していく。
時間の感覚などすぐに失ってしまった。
そんなのは目前にある、この貴重な試料に比べれば些細な事でしかない。
だから、自分は一心不乱にこの薬草を採集する。
されど、傷つけぬように、採りつくさないように大切に大切に採集する。
日が暮れるまでに少しでも多くの薬草たちを師匠の元まで届けて見せる。
「まぁ、鈴仙の事だから、籠にうんさか薬草摘んで帰ってくるだろうし? お師匠様に連絡位はしておいてあげても良いかな」
どれ程の時が経ったのかわからない。
だが、気づけば日は傾き西の空には夕陽が沈もうとする時刻になっていた。
眼に差し込む一条の紅光と、一杯になった籠に鈴仙はふと我を取り戻す。
このままでは夜になってしまう。早く帰らなければと考えた鈴仙は、ずっと地面を見続けていた顔を上げ、そのまま立ち上がり大きく伸びをする。
そして、
急な重力の変化に耐えられず、暫く目の前が白になった。
真っ白な世界の中、一日の終わりを告げる湿り気を帯びたどこか寂しい風が頬を撫でる。
何も無い世界に一人取り残されたような拠り所の無さが心を襲う。
だが感傷に浸る暇も無く視界は元に戻り始める。
目前にはこの世界全てが広がっていた。
大海の如き広がりを見せる森林、森の向こう側に悠然とそびえ立つ人里の建築物。幻想郷の境界線上に並ぶ山脈。上空にうすぼんやりと見える幽界への門。そして、その奥に沈んでいく最も偉大な光球。
人の支配の終わり。妖の支配する世界への緩衝帯。
世界が誰ものでも無くなる、泡沫の如き時間帯。
誰の物でもないのなら、それは世界を最初に見つけた誰かの物だ。
夕日が地平の向こうに沈むまでの間、鈴仙はその世界を一人観測し続ける。
「あいつ一体何時まで、採集するつもりかな…… 夜遅くになって師匠に怒られても私は知らないんだからね」
先に帰宅したてゐは縁側で何をする訳でも無く、ぼぅと空を見上げる。
空にうすぼんやりと浮かんだ、まぁるい月。夜になってもいないのに、ひとりぼっちでぼんやり浮かぶ月は、まるで”アイツ”みたいで。気にもしてないはずなのに。ついつい考えてしまう。
陽が完全に沈む直前になり、ふと我に返った鈴仙はくすりと小さな笑みを漏らす。
それは、沈んでいく陽が、悪戯をして逃げ去っていく”アイツ”を連想させたからかもしれないし、そうでないかもしれない。
それでも、何だか”こんな気持ちにさせてくれた”あいつに何か言ってやりたくて。
頭で考えるまでも無く、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「ほんと……素直じゃないんだから。あの性悪兎は」
「まったく……あいつは、単純ばかなんだから」
荷物を纏め地上に着くころには、もう完全に夜の帳がおりていた。
だが、そこに見慣れた姿は居ない。荷物すらそこには存在せず、代わりに石に挟まれた一枚のメモ用紙だけが風にたなびいていた。
『先に帰るbyてゐ』
鈴仙はぐしゃりと手紙を握りつぶす。
「あ……、んのぉ……、性悪兎がぁー!!」
森の中に空しく響くその声に、大樹の枝で休む烏だけがアホウと答えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜。永遠亭。
「ただいま戻りました……」
永遠亭に着くころにはとっぷりと夜が暮れ、疲労感が全身を包んでいた。薬草で一杯になった籠を降ろしつつ、鈴仙は誰もいない玄関で帰宅の言葉を呟く。
今すぐにでも休みたい衝動に駆られるが、採集業務がこれで終わった訳ではない。まだ、仕分けと保存用の処理を行う必要がある。
重い体を引きずって鈴仙は診療所の隣の調剤室へと向かった。
「失礼します……」
今日は休日である。普段でも夕方には業務を終える調剤室に誰もいる筈は無かった。だからそこには真っ黒な空間が広がっているはずだった。
そして鈴仙はがらり、と部屋の引き戸を開く。
「あら、遅かったのね? おかえりなさい」
既に明りのともった室内。眼鏡を掛けた永琳が机に向かい書を広げていた。永琳はその訪問者に気づくとゆったりとした動作で顔を上げた。
「え、お師匠様? どうしたんですか? こんな時間に」
「てゐから、話は聞いているわよ。 随分と収穫があったそうじゃない」
「えぇ、はい、まぁ……」
そう言って鈴仙は籠を永琳に手渡す。
中身を床の上に広げ収穫を確認すると、永琳は一瞬目を丸くし後に優しい声で鈴仙に話しかけた。
「上出来ね。仕分けは私がやっとくから今日はゆっくり休みなさい」
「え? いえいえ、そんな事をお師匠様にやらせるなんて……」
「私でも扱いが難しい物が幾つか混じっているからね。あなたにはまだ早いわ」
そう言われては引き下がるより他に道は無い。素直にその言葉を受け取り、鈴仙は部屋を辞することにした。軽く礼をし永琳に背を向け扉に向かう。
しかし扉に手を掛けた時、背後からふいに声が掛けられる。
「あぁ、後……明日は代休ね」
「へ?」
「今日の代わりよ。休めるときに休んでおきなさい」
「え……それは、」
「優曇華」
「は……、はい?」
「ありがとう。あなたは今日、"良い仕事をした"。おやすみなさい」
「……――?! お、やすみなさい……」
鈴仙は扉を静かに後ろ手で閉める。
月明かりで照らされた、板張りの廊下に水の跡がじわりと広がっていった。
身も蓋もない、或いは無粋とも言える突込みではあると自分でも思うのですが、どうしても気になったので。
『せっかくの運動なんだから、今日は飛ばないで行くウサ』(その方が鈴仙とじゃれ合える)
『天狗達に見つかると面倒だから、山では歩いて探すウサ』(飛べば監視の目にとまり易い)
みたいに、なんでもいいので飛ぶことが制限されても納得出来る前置きが欲しかったかな、と。
作品の感想いきます。
作者様はてゐ推し? いやわかる、何だかんだあっても最後には対象を幸運にしてあげるてゐは確かに可愛い。
わかるんだけども、やっぱ俺は鈴仙と永琳先生に目がいっちゃうなぁ。
Case1ラスト >"ここ最近のいつもと変わらず"鈴仙と永琳は仲良く姫様の盆栽をスケッチしていた
クーデレか? クーデレなのか、絵心永琳? 鈴仙ちゃんはそこんとこ理解しているのか?
Case2ラスト >「ありがとう。あなたは今日、"良い仕事をした"。おやすみなさい」
クーデレだろ? なあクーデレなんだよな、真心永琳? 良かったね、鈴仙ちゃん。
みたいな感じ。お人好しでちょびっと薄倖な鈴仙は幸せになるべきなのだ。
執筆お疲れ様でした。既に次の作品を手掛けておられるようなので、そちらについても頑張って、と言わせて下さい。
飛ばない理由に関して加筆しました。
これは完全にご指摘の後者の方でして脳内設定から文章に起こし忘れです。
てゐ推しはその通りなのですが、私の中でてゐの魅力は表に出ない事だと思っています。
あくまでも裏方に徹し、健気に(本人はそう思っていなくても)誰かの為に働き続ける可愛さを出したいなと。
その結果、一押しがあんま目立たなくなっては本末転倒なのですけれどね……。
次に同じテーマで書くなら"意図せず表舞台に出てしまった"部分を書いてみたいと思います。
てゐの表に出ない活躍が良かった。
前作から引き続き、面白かったです。
いやはやどこからそういった知識を仕入れてくるのか・・・
ありがとうございます。
>>10様
ありがとうございます。
捻くれ娘って可愛いよな。でこのSSは構成されています。
>>14様
ありがとうございます。雰囲気を感じ取ってもらえれば幸いです。
>>15様
引き続きお読みいただきありがとうございます。
割と真剣に感動しました。
>>16様
小難しい単語を出して、知った顔をするのは詐欺師の常套手段です。気を付けてください!
書いてる奴は唯のアンサイクロペディア信者です。
最後のてゐの言葉は良い感じに響くなあ。