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第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第五章 夢で君と出会うなら
第六章 確かな自分を得たいなら
「ねえ、ねえ」
誰かに呼ばれている。
誰だろう。
聞いた事の無い声。けれど聞いた事のある気がする声。
何処か暖かく、懐かしい心地のする声が呼んでいる。
誰だろう。
あの声は誰だろう。
辺りは真っ白だ。靄がかかった様に。
ここは何処だろう。
「大丈夫?」
分からない。頭がぼんやりとしている。
「大丈夫? 自分の名前は分かる?」
名前?
自分の名前?
「蓮子」
ふと思い浮かんだ言葉が口を衝いた。それがどういう意味なのか初めの内は分からなかった。次第にそれが自分の名前だという実感が湧いてくる。
「私の名前は蓮子」
「蓮子、大丈夫?」
心配そうな声が聞こえてくる。
親しみを感じる。
いつも聞いていた声。
あれは誰だろう。
誰の声だろう。
「蓮子」
「メリー?」
ふと思い浮かんだ言葉が口を衝いた。
その言葉の意味は分からない。けれど何処か聞いた事のある言葉。
すると声が答えを返してきた。
「違うよ。お母さんだってば」
「お母さん?」
途端にぼんやりとした視界が一気に広がった。
そこは自室だった。
いつも暮らしている寮の部屋。
貰い物がそこかしこに飾られている。
「蓮子?」
目の前にお母さんが立っていた。
ぼんやりとしていて顔は良く見えない。黒く短い髪の毛。濃紺のブラウスに真っ白なスカート。ベージュのパンプスを履いている。その隣に男性が立っている。
「お父さん?」
「大丈夫か、蓮子」
お父さんが心配そうに尋ねてきた。こちらも顔がぼやけていて良く分からない。黒いスーツ姿で手にビデオカメラを持っている。それをこちらに向けている。
「大丈夫か? 何があったんだ?」
何があったのだろうか。
良く分からない。
聞かれた以上は何かがあったのだろうと思った。
考えていく内に、視界に赤がよぎった。赤いマントだ。
「教授」
「教授?」
「メリーと教授とちゆりさんと」
「教授っていうのはどんな人?」
「岡崎教授は頭が良くて優しくて色色教えてくれて助けてくれて。私もあんな大人の女性になりたいなって思ってて」
「そう褒めないでよ。照れくさいから」
目の前にいつの間にか教授が立っていた。不敵な笑みを浮かべている。両親よりも余程はっきりとしていた。
「大丈夫? 大丈夫な筈無いわよね。あんな事があったんだもの。何があったのか思い出せる? どうして列車が壊れていたの?」
列車?
ふと真空チューブの中で車両が大破している画像が映った。
「突然爆発して」
「どうして爆発したの?」
「分かりません。ただ教授に助けてもらって」
「そうね。私が助けてあげて、その後は?」
「メリーが溺れて」
そうだ、メリーが。
「メリー!」
起き上がろうとすると、突然体を押さえつけられた。
「大丈夫。私は無事よ」
メリーが居た。メリーが微笑みを浮かべながら私の体を押さえつけている。教授と同じ位メリーの姿がはっきりとしている。金色の髪の毛が私の鼻をくすぐってくる。
「メリー?」
問い尋ねると答えが返ってくる。
「そうよ。私は無事。だから落ち着いて」
メリー、良かった。
安堵して体の力を抜くとメリーが言った。
「そう。落ち着いて。何があったのか思い出して」
「月のUFOが来て、それで攫われて」
「大丈夫よ。UFOは行ってしまったから。さあ、次は過去を思い出しましょう」
「UFOが」
「大丈夫。UFOはもう居なくなったから」
「メリーは大丈夫だった?」
「ええ。怖いUFOは行ってしまったわ。あんな怖い思いは懲り懲りね。さあ、そんな事は忘れて」
ふと違和感を覚えた。
あのメリーが不思議に対して懲り懲り等と言うだろうか。
本当にメリーだろうか。
そう疑問に思って、メリーをもう一度見ると、化け物がそこに居た。
金色の髪にのっぺりとした卵の様な顔、頭には兎の耳がついていて、体は奇妙に捻くれている。
私は慌てて起き上がった。
「メリーじゃない! あんたは何だ!」
「落ち着いて。一度横に」
「メリーじゃない!」
思わず拳を握って、目の前の何かを殴りつけていた。
凄まじい音が辺りをつんざいて、一気に現実感が戻ってきた。気がつくと、青緑色の壁に囲まれた部屋に居て、白いベッドの上で身を起こしていた。自分の周りを機材が囲んでいて、その内の一つが倒れている。
何処だろう。
手がじんじんと熱を持った痛みを訴えてくる。
ああ、そう言えば、私、アブダクションされたんだっけ。
そう考えた時、突然甘い匂いが鼻腔にこびりついて、段段と頭が重くなっていった。
「ねえ」
誰かに呼ばれている。
誰だろう。
いつもいつも聞いていた気のする声。
見ると、目の前には金色の髪をした私と同じ位の年頃の女の子。
メリーだ。
メリーが私の事を覗きこんでいる。
ああ、これは夢なんだなと、何となく思った。あるいはずっと昔の記憶を追体験している。
「ねえ、あなたも寂しいの?」
そうだと答えようとしたが、言葉が上手く出ない。
「私もね、凄く寂しいの。誰も友達が居なくて」
メリーの寂しげな声に胸が締め付けられそうになる。そうだ、メリーは小さい頃いつも寂しい寂しいと言っていた。
私はそれを勇気づけてあげたくて。
でも私の声はメリーに届かない。
いつだってメリーはここから逃げ出したいと呟いて。
私はその傍に居る事しか出来なかった。
蓮子が目を覚ますと、視界一杯にちゆりの顔が映った。
驚きに固まっていると、ちゆりの表情が笑顔に変わる。
「あ、おはよう!」
「おはようございます、ちゆりさん」
重たく鈍った思考に顔を顰めながら起き上がる。布団の上に寝ていた。辺りを見回すと畳が敷かれていて、三方が御簾で囲まれている。
「ここは」
御簾の隙間から見える空は暗い。真っ暗で夜の様だ。それでも辺りが明るいのは何処かに光源があるからだろうかと、蓮子は御簾で囲まれているのに尚明るい部屋を見回したが、光源らしき物は見当たらなかった。
「ここは月?」
蓮子が呟くと、ちゆりが吹き出した。蓮子が笑われた事にむっとしてちゆりを凝視すると、ちゆりの笑いが大きくなった。
「流石だよ。起きてすぐにそこまで頭が回るなんて大した物だぜ」
「月なんですか?」
「だろうね。地球でこの光景は中中見られないよ」
そう言いながら、ちゆりが御簾を上げると、その向こうに月の景色が広がった。それは想像していた様な寂寥の光景ではなく、坩堝の中身の様な歪な光景だった。星一つ見えない真っ暗な空、蓮子達が居るのは寝殿造りの見本の様な建物で、その中庭と思しき空間には池が張られている。資料でしか見た事の無い平安時代の日本を思わせる。けれど全てが平安時代かと言うとそうではなく、池の上に架かった橋には兎の耳にセーラー服姿の人間とアオザイを着た兎が歩いている。その上、中庭の向こうの建屋の檜皮葺の屋根の向こうには数百年前のオスマン様式宮殿、遥か向こうには百年以上前に流行った無機質な高層ビル、文化のとっ散らかった光景が目眩を呼ぶ。
「多国籍というか無国籍というか、無節操に取り込んでいるみたいだぜ。月に地上の国境や文化の境なんて関係ないのだろうな」
「本当に月なんですか?」
「人類の一と半世紀ぶりの月面着陸だぜ。もっと喜んだらどうだ?」
まるで実感が湧かない。
蓮子が不思議な思いで目の前の光景を眺めていると、池を渡っていた二人がこちらに気がついた。そうして慌てた様子で顔を突き合わせて何事か話し合い、一人が御殿の外へ、もう一人がこちらへ向かってくる。
見つかった。
蓮子が隣のちゆりを見ると、ちゆりは飄飄とした顔で駆け寄ってくる兎を待っている。大丈夫だろうかと駆け寄ってくる兎に目を戻すと、既に目の前に立ちはだかっていた。
速い。
驚愕する蓮子の前で、兎は恭しく一礼する。
「目が覚めた様ですね。良かった。みんな心配していたんです」
何やら丁重な態度だった。
「宇佐見蓮子様」
兎が蓮子の事を見つめてくる。
名前を呼ばれた事が不思議で蓮子は問い尋ねた。
「どうして私の名前を?」
「私達玉兎は波長で相手の思考を読む事が出来ますから。ご存知無いのですか?」
知っている訳が無い。
そもそも波長って何だ。
「それじゃあ、私の考えている事が全部分かっているって事?」
「いいえ、玉兎同士でないとほとんど。ただ人であっても相手の喜怒哀楽位なら分かります。名前だって人を表す表表紙ですから分かるんですよ。王族の方方の名前は難しくて読めませんけど」
そう得意気に言った。それは便利な能力だ。あの夜の森で兎達が名前を読んだのもそういう事だったのかと納得する。
ところが急に兎が肩を落とした。
「でも通信機とか催眠機とか、どんどん便利になって私達の能力ってあんまり役に立たなくなってきたんですけど」
どうやら地球のそこかしこで見られる技術発達にあらゆるものが追い払われる悲劇は、月でも同じ、しかも人だけでなく兎の身にも降りかかっているらしい。
隣で小さな笑い声を漏らしたちゆりが面白がる様に聞いた。
「って事は、UFOの中で私達の記憶を引き出そうとしてたのも、本当ならあんた達玉兎の仕事だった訳?」
兎がちゆりを睨みつける。
「そうだよ! 昔から記憶の垣間見と改竄は私達の仕事だったんだ! それがあんな」
そこで兎は言葉を切り鼻で笑う。
「まあ、あの機械も今回失敗したみたいだけど。あんたの記憶は引き出せないし、蓮子様の記憶は見つからなかったし」
「そう簡単に記憶をのぞかせる訳が無いんだぜ」
胸を張るちゆりを睨んだ兎は気を取り直した様に手を叩き、一歩身を引いた。
「それでは宇佐見蓮子様、北白河ちゆり、我等が月の使者のリーダー、綿月依姫様の下へお連れいたします」
ついてくる様促しながら兎が歩き出した。蓮子とちゆりもそれに続く。
蓮子は歩きながらほっと安堵した。どうなるかと思ったけれど、向こうから敵意は感じない。むしろ丁重に扱われている。殺されたり、拷問されたりといった雰囲気は無い。
ただちゆりとの扱いに差がある事が気になった。この人何かしでかしたのだろうかと、蓮子は隣を歩くちゆりを見上げる。ちゆりは視線に気がついて首を横に振ってから、前を歩く兎に声を掛けた。
「なあ、蓮子ちゃんと私の扱いが随分違うみたいだけど」
「当たり前だ。どうして地球の穢れた人間が敬愛すべき月人様と同じ扱いを受けられると思っているんだよ」
「月人?」
「ふん、無知蒙昧だな」
そう言って兎が話を拒絶する様に歩く速度を速めた。地球の人間となど話もしたくないと言った様子だ。
蓮子は考える。
月人とはきっと月に住まう人間の事だろう。
月人でなければ何段階も下の扱いをするらしい。
ではちゆりと比較して上の扱いを受けている自分は一体何なんだ。
国も文化も歴史もごたごたに混ぜ込んだ様な町並みを進み、比較的現代の日本に近い純和風の家に連れて行かれた。門前には二人の門番が立ち、蓮子へ一礼してから、ちゆりを見て顔を顰める。
良く手入れのされた庭を通り、土間で履物を脱ぎ、鶯張りの廊下を楽しんで、通されたのはこじんまりとした居間だった。中央に卓袱台があり、そこに座った女性が単衣姿で蜜柑を食べながら本を呼んでいる。
女性は蓮子達が入ってきた事に気がついて顔をあげた。そして顔を真赤にすると、凄い勢いで立ち上がって歩み寄ってくる。
「依姫様、お連れいたしました」
案内役の兎の言葉に答えもせずに無言のまま歩み寄ってきた女性は懐からハリセンを取り出し、案内役の兎の頭に思いっきり叩きつけた。ぱしりと良い音が鳴った。
「何で何も言わずに連れてきた!」
「え? でも今ちゃんと連れてきたって今言ったじゃないですか」
「そうじゃなくて! 事前に……もう良い! ケツを出せぇ!」
「な、何でですか?」
兎が涙混じりの声を出しながら、蓮子達から離れてお尻を女性に向ける。依姫はその尻に向けて体を捩り、思いっきりハリセンを叩きつけた。すぱんと良い音して、兎はお尻を押させて飛び跳ねる。
「とにかくちょっと待ってろ! 分かったか、玉兎ぉ!」
「はいぃ」
兎が慌てた様子で蓮子達を部屋の外へ促し、外へ出ると襖が閉まる。
しばらくして兎が襖の向こうを覗き、立ち尽くす蓮子とちゆりに向かって頷いてみせた。
「それでは、我等が月の使者のリーダー、綿月依姫様がお待ちです。どうぞ」
大丈夫か、私達。
蓮子がさっきの一連の流れに身の危険を感じていると襖が開いた。広広とした座敷で、奥に洋服に着替えた依姫が座り、両側に二人ずつ兎が並んでいる。
促されて座った蓮子とちゆりに向けて依姫は笑顔を向けてきた。
「遥遥良くぞ参られました。私の名は綿月依姫、月の守護と地球の監視を任されております」
さっき兎のケツをぶっ叩いてた姿など微塵も感じさせない挨拶に蓮子が面食らっていると、隣のちゆりが先に口を開いた。
「私は北白河ちゆり、こちらは宇佐見蓮子。で、周りくどい話はよして、誘拐の目的を教えてもらいたいね」
「はっきりと言えば、あなたとは関係の無い事です。これはあくまで月人の問題。巻き込んでしまった事は申し訳なく思います」
依姫の淡々とした言い方にちゆりが噛み付く。
「謝っている様な態度には見えないぜ」
「一時とは言え月の都に来られたのですから、詫びとしてはそれで十分でしょう。それよりそもそもの目的が大事なのですから。ねえ、蓮子さん」
視線を向けられて蓮子は身を竦ませる。
月の目的。
それが何なのかは分からない。
けれどさっきの兎の言葉や今の依姫の言葉から想像がついた。
自分の出自。
自分が何者なのか。
恐らく依姫は言うだろう。あなたは月人だと。月で生まれた人なのだと。そう言うであろう事が容易に想像出来た。
耳鳴りがして、世界の遠近が狂った様な錯覚がやって来た。
呼吸が段段速くなるのを感じながら、依姫を見るとその表情が訝しむ様に歪んでいた。けれどその表情はすぐに消えて、また笑顔に戻った。
「まずはあなたのお母さんについて教えてもらいたいんですけれど」
「私のお母さん?」
「ええ、そうです。かぐや姫のお話は知っていますね?」
「はい」
「最後はご存じですか?」
「かぐや姫が月の使者に連れられて月へ帰って」
「残念ながらそれは間違っています。本当は月へ帰ってなど居ないのです。私達を欺いて地球の何処かへ逃れた」
「そうなんですか」
どうにも実感が湧かない。あくまでお話の中での話で、本当の事だとしてもあまりにも昔の事だ。そんな昔の話が自分にどう関わってくるのか。蓮子は気が気でなく、スカートをきつく握りしめる。
「それを探し出すのが、私達の任務の一つ。そしてある女性の家系は代代地上へ赴いては輝夜様を探していた。当然その女性も輝夜様を探してしばしば地球へ降りていた」
ある女性?
それが私とどう関係する。
「ところが彼女は突然姿を消した。三年前、地球で消息を立ってしまったの」
「どうして?」
「分かりません。月の使者として地球へ降り立つ者の中には地球で消息を断つものが極偶に居る。私達にとって地球という穢れに満ちた牢獄に降り立つ事はそれだけ危険で、だからこそそれだけ誇りある仕事なのです。かぐや姫に出てくる月の使者、その内の一人であった彼女の曽お祖母様は輝夜様を奪還できなかった責任を感じて地球へ再度捜索しに行きましたが、羽衣を失い月へと戻れなくなり、その後の消息は知れません」
そこで言葉を切った依姫は傍から一冊の本を拾い上げ蓮子へ表紙を向ける。薄い冊子のそれはどうやら子供向けの絵本の様で、表紙にはかぐやひめという文字と竹林が書かれている。ただどうしてか肝心のかぐや姫が書かれていない。
「これは消えた彼女の家にあった絵本。彼女の子供の為に取り寄せた地球の絵本。これだけを残して彼女とその子供は地球へと消えてしまったのです。単に羽衣を失っただとかそういう類ではない。もっと別の理由で。先程も申し上げた通り、その理由を私達は知りませんが」
依姫の視線が蓮子を射抜く。
ようやく話が分かってきた蓮子は唾を飲み込んだ。
つまりその彼女の子供というのが。
蓮子は背中に冷や汗をかいているのを感じた。
今までずっと自分は地球の人間だと思っていた。
その人生が全て嘘かもしれないのだ。
どんどんと現実感が喪失していく。
文字通り世界がひっくり返った様な気がした。
依姫が強く息を吐き出し、緊張していた蓮子の体が跳ねる。
「彼女は家族思いの優しい女性でした。どんな時でも笑顔で周囲の場を和ませた。彼女の子供は才能があった。人付き合いは苦手の様でしたが、飲み込みが早く、私の姉と同じ特別の才能を身につけた」
依姫が絵本を強く握りしめる。
「二人は親子である事を差し引いても似通っていてまるで姉妹の様でした」
依姫の声が震えている。
「優しげな眼差しに、朗らかな笑顔」
蓮子もまた泣きそうになった。
母親の事を思い出そうとしても思い出せない。
ただ依姫に握り締められた絵本を見ていると懐かしさを感じる。
やっぱり私は月の。
「ウェーブ掛かった金髪に」
ん?
金髪?
自分の髪色を思い出す。
黒のストレートだ。
じゃあ、それ私じゃなくない?
「あの小さかった女の子が今やこんなに」
依姫が立ち上がる。
「……って全然違うじゃねえかぁ!」
絵本が地面に叩きつけられた。
「ええええ!」
蓮子が驚いてのけぞると、依姫が一足飛びに近づいてきた。そうして蓮子の目を覗き込み、匂いを嗅ぐ様に鼻をすすってから、振り返って兎を呼ぶ。
「おい、玉兎共ぉ!」
依姫の叫びに、左右の兎が背筋を伸ばす。
「はいぃ」
「この子の何処が月人だぁ!」
「で、で、で、でも! 穢れが全然感じられないし。それに宇佐見とうさ耳って似ていて」
「穢れは無いけど、月人じゃねえだろ! ああ? 月人とその他の区別もつかねえのか? 何年玉兎やってんだぁ!」
「でも」
「でももへちまくれもねえ! もう良い! てめえ等全員ケツを出せ!」
「ひいぃ」
悲鳴を上げながら兎達が一列に揃って依姫にお尻を向けた。
依姫は懐からハリセンを取り出すと、その尻に向かって思いっきり身をひねる。
すぱんすぱんと小気味の良い音を立てながら並ぶ尻がハリセンで叩かれ、叩かれた兎達が大袈裟に呻いてその場を転がり出す。呻きながら転がる四人の兎を背に依姫は清清しい笑顔を蓮子達に向けた。
「あなた達への沙汰は追って出します。牢獄へ連れて行きなさい」
「え?」
訳の分からぬまま蓮子は手を引かれて部屋の外へ連れ出される。そうして襖が閉まり、全く頭の追いつかないまま、兎に手を引かれて蓮子は外へと連れだされた。
「ええええ?」
門を出た蓮子が振り返って今出た家を見上げた。
「どういう事?」
「蓮子ちゃんを勘違いで連れて来ちゃったって事でしょ」
「勘違い? UFOに誘拐されて月まで連れて来られたのが全部勘違いだって言うんですか!」
「多分」
「ありえないでしょそんな事!」
蓮子が怒鳴ると傍の兎が悲鳴を上げた。
「だってさっきの話を聞いて、私月人かもしれないと思って、今までの人生が全部嘘みたいに思えて、本当に胸が苦しくなる位に心が張り裂けそうだったのに、それが全部勘違いだったなんて!」
「いや、それは自分で考えれば分かるじゃん。自分の生まれが何処か位。両親の顔とか覚えてないの? UFOの中で両親のイメージが尋問してきたでしょ?」
「でもあんな雰囲気で言われたら、もしかしてって思っても仕方ないじゃないですか! それが勘違いで、しかも謝罪も何もなくほっぽりだしくさって! ふざけてんのかぁ!」
叫ぶだけ叫んで発散した蓮子は大きく息を吐いて黙りこむ。兎が恐る恐るといった様子で蓮子達を案内し始める。
それに連れられて歩きながら、蓮子はのどかな月の風景に目を向ける。相変わらず空は暗く町並みはごった煮なものの、辺りは明るく風がそよいでいて道端を蓮子より幾つか年下の子供達が無邪気に騒ぎながら走っている。どれだけ遠い地の異文化の中であっても、子供達の無邪気さは変わらない。いや、今の日本の子供よりも余程無邪気に笑っている。
「心配して損した」
のどかな光景に思わず蓮子が呟くと、ちゆりが笑った。
「お、心得ているね」
何を心得ているのか分からないが、とにかく月の脅威は杞憂だった。誘拐されたのもくだらない理由だった。辺りを見ても、月が地球をどうこうしようとしている様には見えない。
そう考えると、今度は地球の月侵略の理不尽さが浮き上がって見える。
「ちゆりさん」
「ん?」
「本当に地球は月を侵略しようとしているんですか?」
「一部の人はそう考えているかもね。そもそも大多数の人は月に人が居るなんて思ってないから侵略だなんて思っていないぜ。なんで急に?」
「だって、月はこんなに平和なのに。岡崎教授の話によると、人間は月を奪い取ろうとしいて、しかもその脅しに四次元ポジトロン爆弾を使おうだなんて」
ちゆりが不思議そうな顔で蓮子を見つめる。蓮子にはその表情の意味が掴めない。
「何か変な事言いました」
「うん。誰が月を奪おうとしているんだ?」
「誰って、あの何か宇宙開発振興財団、でしたっけ? 後はアメリカとか」
「本当に?」
「それは……分かりませんけど、教授が」
「ああ、分かった。蓮子ちゃんは影響されやすいんだ」
何だか馬鹿にしている様な物言いに、蓮子がむっとする。
「そんな事は」
「あるよ。教授の話を聞いただけで月を侵略するなんていう話を信じちゃって、ほんの少し町並みを見ただけで月が平和だと思い込んで、さっきだってその場の雰囲気に飲まれて自分が地球産じゃないと不安に思っていたんだろう。影響を受けまくっているじゃないか」
その通りなので何も言い返せない。
「そもそも今悩むところのは、まず私達へ処置がどうなるかだと思うけど。最悪処刑という事もあり得るし。さっきのふざけたやり取りで油断しちゃった?」
蓮子が呆けていると、ちゆりが溜息を吐く。
「純粋なんだなぁ」
蓮子は思わず口を抑えた。
何故だか涙が出てきた。
「ええ、ちょっと! 泣く? 何で!」
ちゆりが慌て出す。
理由は分からない。
蓮子はしばらく考えて、もしかしたら自分は自分に期待し過ぎていたのかもしれないと結論づけた。メリーという特殊な能力を持った友達の危機、森の中で見た月のUFOとの邂逅や思いがけない月面着陸を果たし、大有名人である岡崎と一緒に行動して、自分が物語の主人公の様に特別な存在だと思い込んでいたのかもしれない。だからちゆりの失望する様な態度に悲しくなったんじゃないかと。
ただそれだけでこんなに悲しくなるのは納得出来無い。
何か酷い寂しさを感じる。
言い知れない悲しみが沸き上がってくる。
そう言えばメリーが居ない。
メリーは何処だ。
メリーと一緒に居なくちゃいけないのに。
ずっと傍に居なくちゃいけないのに。
気が付くと地面にしゃがみこんで泣いていた。
自分の感情が制御出来ない。
涙が次から次へと流れ出てくる。
メリーに会いたい。
「メリー」
うずくまって泣いていると、ちゆりがしゃがんで覗きこんできた。
「おーい、ホームシックか?」
分からない。自分の感情が。どうして泣いているのかまるで分からない。
「しょうがないなぁ」
そう言って、ちゆりが背を向けてきた。
「ほら、もう少しだからおぶさって。家にも後でちゃんと連れ帰ってあげるから」
おずおずと蓮子がちゆりの背に抱きつくと、ちゆりが立ち上がって歩き出した。ちゆりの背で泣きながら、蓮子は迷惑をかけている事が申し訳なくて益益涙が出てくる。
今自分達は月に捕らえられている。ちゆりと二人で協力して無事に地球へ帰らないといけないのに。それなのにこんな風に泣いて心配を掛けて。
情けない。
情けないと思うと益益涙が溢れてくる。
「ごめんなさい、ちゆりさん」
「良いよ。色色あって疲れているんだろう。ほら着いた。私達の牢獄に」
顔をあげると、最初に居た御殿だった。とても牢獄には見えない。
兎に案内されて、一番初めに目を覚ました部屋へと運ばれる。蓮子は敷かれていた布団に寝かされて、掛け布団を優しく掛けられた。兎達は沙汰を待つよう言い残して去っていき、後にはちゆりと二人で残される。
蓮子はしばらく鼻をすすってしゃくりあげていたが、落ち着いてくると小さく呟いた。
「ご迷惑をおかけして」
「だから良いって。それより今後の事だ。まず脱出手段については私が何とかするよ」
ちゆりがあっさりと言った。
「え? どうするんですか?」
「ICBMを作ってそれで飛ぶ」
「あ、そうか。あの海で使った」
「いや、元元持ってたのは取られちゃったぜ。っていうか、持ってたものは全部取られた」
「じゃあ、やっぱり無理なんじゃ」
「私を舐めるなよ。学士の卒論は無人島でのICBMの作り方だぜ」
ちゆりがおどけた様子で胸を張ったので、蓮子は泣いていた事を忘れて笑いながら訝しんだ。
「うええ。出来るんですかそんなの」
「材料さえあればね。あの時は半年位掛かったかな? でもここなら一日あれば作れるよ。月は重力が小さいし。でも宇宙空間での空気と、大気圏での熱、後は着地の問題をどうすれば良いか。ちょっと時間がかかるかもなぁ。まあ考えておくよ」
何だか一番問題となりそうな部分があっさりと解決した。
蓮子がちゆりを頼もしい思いで見つめていると、ちゆりが恥ずかしそうに頬を掻いた。
「まあそれはそれとして、次に私達に下される沙汰だけど、追放の可能性が大きい。少なくとも殺される事は無いぜ」
「どうしてですか?」
「月の住民は穢れを嫌うらしいんだ。穢れが何なのかは、月の住民が持つ概念で良く分からなかったけど、とにかく生き物を殺したりするのが禁止されているらしいぜ。だから殺される事は無い。その上、穢れを持つ地球の生物を好まないから、月に置いておくというのも可能性が低い。きっと月の記憶を消して追放だと思うぜ」
「じゃあ、脱出する手段も考えなくて良いんじゃ」
「駄目。ちゃんと月の事を覚えておかないと。それにあくまで追放は予想。そうじゃなかった時に備えて手段は幾つも持っておかないと。もしも本当に処刑だったら、逃げながらでも何とか作って。そうするとせめてここで機関部くらいは作っておきたいなぁ」
ちゆりがそう言いながら腰を上げる。
「あ、私も手伝います」
蓮子も起き上がろうとしてそれをちゆりに押しとどめられた。
「今は寝ておくんだぜ。少ししたら騒がしくなるかもしれない」
「でも」
「起きたら蓮子ちゃんにやって欲しい事がある」
「私に?」
「月の住民から出来る限り情報を取って欲しいんだぜ。私はICBM作りに専念するから。出来るよね?」
蓮子が頷くとちゆりが笑って立ち上がる。
「聞き込みをするならちゃんと頭が働いていないと。だから一回寝て頭をすっきりさせておいて」
ちゆりの言葉に思いやりを感じて、蓮子はまた涙が出そうになった。目を瞑りながら、やっぱり疲れているのかもしれないと考える。
「それじゃあ、私は行くぜ」
「はい、私もしっかり寝ておきます」
「あ、最後に」
どうしたんだろうちゆりを見ると、ちゆりは人差し指を立てながら柔らかな笑みを浮かべていた。
「何でも信じちゃう、蓮子ちゃんに一つ。教授は四次元ポジトロン爆弾を親の仇の様に嫌っていただろう?」
「はい。だからそれで起こる悲劇を止めたくて。月面侵攻も四次元ポジトロン爆弾が脅しの道具に使われるかもしれないから。絶対に使わせない様に」
「少なくとも教授は四次元ポジトロン爆弾が使われる事に何の感慨も持っていない筈だよ。現に教授は四次元ポジトロン爆弾を常に携帯しているんだから」
「え? どういう事ですか?」
「大枠で言えば各各にはそれぞれの目標があるって事かな。信じる事は美徳だけれど、信じ過ぎるのも考えてものって事。まあ、後は自分で考えよう。次に教授に会う時までの宿題だぜ」
ちゆりは言うだけ言って、「じゃ」と言ってその場を去っていった。
訳が分からなかった。頭痛がする。入ってくる情報、入ってくる情報、全てが理解出来なくて。頭の中がとっ散らかっている。目を瞑ると周囲がぐるぐると回っている様な感覚があった。
急速に思考が鈍っていくのが分かる。
闇がどんどんと深まっていった。
目を覚ますと辺りが暗かった。
夜。
月に居る事を思い出し、月にも夜があるのかと蓮子は何だか感慨深い思いになった。
夜でも物の輪郭が分かる程度の仄かな明かりがある。それを頼りに御簾を抜けて外に出ると、夜だから外も薄暗い。空は満天に星が散っていた。地球で見たどの星空よりも迫力がある。一つ悲しいのは月が見えない事だけだ。それが何だか寂しかった。星を見て自分の位置をさぐるが、地球上で無い事しか分からない。時も正確には分からない。連れ去られたから一日二日経っている事だけは分かる。
薄暗い中庭を見渡してみたが誰の姿も見えない。夜だから当然か。月の情報を得る約束をしていたのに。そういえば沙汰はどうだったのだろう。
あれこれ考えていると、耳が小さな話し声を捉えた。
月の住民だろうか。
簀子を渡って建物の裏へ回る様に歩いて突き当りまで行くと、ちゆりが庭の端に居るのが見えた。しゃがみ込んで誰かと話している。
「いえ、思ったよりもずっと綺麗ですよ」
誰と話しているんだろう。
「はは、じゃあ、教授も早くこちらに来れば良いのに」
岡崎教授?
「ああ、大丈夫。結局私達は幽閉って事に。存外月も甘いんだぜ。易易とスパイを容認するなんて」
スパイ? 結局処置は幽閉に決まったのだろうか。
「勿論、蓮子ちゃんも大丈夫。何でも信じちゃうみたいだったから、こちらに疑いを持つ様に言っておいた。あんなに純真だと逆に扱いづらいから」
思わず蓮子は顔を赤らめる。何だか酷い事を言われている。
「承知しました。大丈夫ですって。ちゃんと実験は進めますから。純粋な子供を利用するのは心苦しいけどなぁ」
利用? 誰を?
「いやいや、本当に。で、メリーちゃんの方は?」
メリー? そっちにメリーが?
蓮子は飛び出そうになったが自制した。今出てはまずい気がする。
「へえ。それは面白い。そんな事が。実験の修正が必要ですか?」
メリーに何があったの?
「はいはい、畏まりました。蓮子ちゃんもかわいそうですね。このままじゃ二人には悲劇しか待っていないんじゃないですか?」
私がかわいそう? 悲劇って何?
ちゆりさんと岡崎教授は何を話しているの?
不穏な会話に蓮子の胸がざわめきだす。その場を飛び出して、ちゆりを問い詰めようとする自分を抑えつけ必死で息を殺していると、二人の会話が終わったのか、ちゆりが立ち上がってこちらへ向かってきた。
いけない。
見つかったら大変な目に会う気がして蓮子は音を忍ばせて来た道を戻る。けれどちゆりの砂利を踏みしめる足音はどんどん近付いて来て、間に合わないと感じた蓮子は、すぐ傍の部屋に忍び込んだ。
御簾の裏に隠れて息を殺していると、ちゆりが砂利を踏みしめる音が近付いて来て、すぐ近くを通り、また離れていった。
良かった。行ったみたい。
足音が聞こえなくなるまで待ってから息を吐いて立ち上がり、何も解決していない事に気がついた。このままちゆりが部屋に戻れば、蓮子が居ない事に気が付く。それだけなら良いけれど、もしもさっきの会話を聞かれていたという疑念を持たれたら。
急いで帰らないと。
いや、そもそも戻っていいものか。
さっきの会話を聞くに、ちゆりと教授は蓮子とメリーに対して何か企みを抱いている。しかもその結果には悲劇しか待っていないと言っていた。下手に一緒に居たら酷い目にあうかもしれない。
どうしようと悩んでいると、突然背後から呼び掛けられた。
「ちょっとこんな夜中に誰よ」
人が居た?
驚いて振り返り、蓮子はそこに居るものを見て、
「ぎゅええ!」
変な声が出た。
部屋の中に巨大な男の顔があった。毛を全部剃った巨大な男の顔、首は無く、代わりに巨大な百足の体が伸びている。あの森の中の御殿で見た化け物だった。
蓮子がその異様に震えていると化け物が眠そうな声をだす。
「うるさい。夜中なんだから静かにしてよ」
「え?」
喋れるの?
意外な程理性的な反応に蓮子の恐怖が一気に消えた。
「で? 誰? 玉兎? 要件は?」
化け物が巨大な顔を近づけてくる。
やっぱり怖い。
蓮子が後ずさって御簾にもたれながら答える。
「私は地球の人間です。用は、すみません、特に無いです。すぐ出ていきますんで勘弁して下さい」
「え? 地球の人間? 嘘! 本当に?」
更に顔が近付いて来て、蓮子が泣きそうになりながら答える。
「本当です! すみません!」
「何で謝ってんの?」
「え? だって」
「いや、実は私も地球に居たんだよね。っていうか、こんななりだけど元人間なんだよね」
「え? 人間?」
「そう。まあ、話すと長いんだけどさぁ。呪いって奴? 森の中にある廃墟に化け物が住んでるの。まあ、私なんだけど。化け物に食われたら化け物の姿になんの。で戻る為には次に来た人間を食い殺さなくちゃいけない。逆に食い殺せばその人間と入れ替わって自分は元に戻れるの。そういう怪談があって。まあ実際行ってみたらマジで化け物が居て、食われたらこんな姿になっちゃった」
あははと化け物が愉快そうに笑った。
蓮子は思わず自分の体を見回した。食べられて呪いにかかるなんていうなら自分もこの前食べられたのではないか。
「結局三年位誰も来なくてさ。この前ついに来たと思ったら、何か黒っぽい影で」
それってもしかして。
「あれは何か幽霊かなんかなのかな?」
それ私ですとは言えなかった。
「化け物怖えと思って追い払おうと齧ってみたけど歯ごたえなかったし。何だったんだろうあれ」
あんたも化け物だろうと思ったけど、言えなかった。
ふと化け物の口の中を見て気がつく。
「あの、口の中に、そのなんていうか、血まみれの服の切れ端がありますけど、その持ち主とは入れ替われなかったんですか?」
食べようとしたけれど逃げられたのだろうか。
「え? マジで? ああ、何色の服?」
「ええっと血で良く分からないですけど、ベージュかな?」
「ああ、じゃあそれ私の服だ。食われた時のが残ってるんだね。っていうか、他の人の服はありえないよ。誰も来なかったし、誰かを食べたくもないし」
「え? 戻りたくないんですか?」
齧られたけど。
「だって嫌じゃん。自分が助かる為に誰かを食べるなんて」
良い人だ。何だか外見と言葉が一致していない。いや、元元は人間で、姿だけ化け物に変わったのだろうか当然だけれど。
「で、そっちは何で月に来たの? あ、そう言えば、月面ツアーやるって言ってたよね。それ?」
どうやら化け物の情報は三年前で止まっている様だ。
「いえ、UFOに誘拐されて」
「何それ、面白ーい」
いや、当人は面白くもなんともない。
「私と同じじゃん。何、一人で誘拐されたの?」
「いえ、もう一人」
「へえ。どうすんの? 戻れそうなの?」
「ええ、そのもう一人がロケットを作ってくれるって」
本当は大陸間弾道ミサイルだけど。
「おお、良かったじゃん」
何だか他人事な反応だった。
「あの、あなたも帰れると思いますよ」
「え?」
化け物が呆けた様に口を開いて、納得した様に頷いた。
「ああ、成程。そうだねぇ。確かに。でも私は良いや」
「どうして!」
「だって、こんな姿だし。地球に戻ったってさ、家族にも友達にも会えないじゃん。誰かを食べ殺して戻るっていうのも、嫌だし。三年間廃墟で考えて、自殺も出来なかったから、このままの姿でひっそりと居ようって思ってたの。そしたら月の人達が月に連れてきてくれて、ここだったら玉兎達が怖がらずに話し掛けてくれる。だからこっちの方が気楽だし、帰るつもりは無いの」
「そうですか」
「うん。誘ってくれてありがとね」
「いえ」
「っていうかさ、本当にロケットなんて作れるの? もしかして許可とかもらってるの? 誘拐されたのに帰っていいですよって?」
「そのもう一人が凄くロケットを作るのが上手いんです」
「何それ! ありえない!」
あははと化け物が笑う。
本当に何だんだろうそれと蓮子も笑う。
「でも本当なんです。北白河ちゆりさんって言って、あの岡崎教授の助手をしていて」
そう言って岡崎の名前が通じない事に気がついた。教授が一般に有名になったのは、ついこの間ポール・ディラック賞を受賞したからだ。三年前には物理を専攻している人でないと知らない筈だ。
情報の格差を煩わしく思って、どうやってちゆりの凄さを説明すれば良いのか迷っていると、化け物が急に真剣な口調で問いかけてきた。
「北白河ちゆりってあの?」
「どの?」
「あのテロリスト?」
「テロリスト? いや、違います。別の人です」
「いや、絶対そう。岡崎夢美と北白河ちゆりでしょ? 三、四年前に並行世界に行ったってので話題になって、その後何かの会議の会場を四次元なんとか爆弾でふっ飛ばそうとしたってので有名になった、あの」
何それ、知らない。
「いや、何ですかそれ。そんなの聞いた事」
「覚えてないの? 昔凄い話題になったじゃん」
そうだったろうか。幾ら考えてみてもそんな記憶は出てこない。
「間違いないよ! 嘘だと思うなら地球に戻ってから調べてみれば良いじゃん! 絶対出てくるから! 国外追放とか、国家反逆罪で死刑だとか、そんな話がばんばん出てたの覚えてるよ!」
思い出せない。覚えていない。
けれど化け物が嘘を言っているとも思えない。
化け物が勘違いしている?
かもしれない。
けれどそうじゃないかもしれない。
もしも本当に二人がテロリストで危険人物だとしたら。
さっきのちゆりが岡崎としていた会話を思い出す。
利用すると言っていた。
悲劇しか待っていないと言っていた。
善人がそんな事を言うだろうか。
あの二人は本当に信用出来るのか。
もしかしたら自分はとんでもない人間にメリーの事を頼み、そして渦中に巻き込まれているんじゃないだろうか。
駄目だ。
信用出来ない。
誤った。
メリーの病気を治すのに誰かを頼ったのは間違いだった。
そうだ。どうして他の誰かにメリーを任せようだなんて。
メリーを病院へ連れ回した時に散散思った事じゃないか。
誰も信用出来ない。
ここからは私一人で動かないと。
「何のお話をしているの?」
突然背後から女性の声が聞こえて、蓮子は驚いて振り返る。
振り返ると目の前に笑顔があった。
暗がりの所為かその優しげな笑顔が酷く恐ろしいものに思えた。
続き
第七章 道に明かりが無いのなら
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第五章 夢で君と出会うなら
第六章 確かな自分を得たいなら
「ねえ、ねえ」
誰かに呼ばれている。
誰だろう。
聞いた事の無い声。けれど聞いた事のある気がする声。
何処か暖かく、懐かしい心地のする声が呼んでいる。
誰だろう。
あの声は誰だろう。
辺りは真っ白だ。靄がかかった様に。
ここは何処だろう。
「大丈夫?」
分からない。頭がぼんやりとしている。
「大丈夫? 自分の名前は分かる?」
名前?
自分の名前?
「蓮子」
ふと思い浮かんだ言葉が口を衝いた。それがどういう意味なのか初めの内は分からなかった。次第にそれが自分の名前だという実感が湧いてくる。
「私の名前は蓮子」
「蓮子、大丈夫?」
心配そうな声が聞こえてくる。
親しみを感じる。
いつも聞いていた声。
あれは誰だろう。
誰の声だろう。
「蓮子」
「メリー?」
ふと思い浮かんだ言葉が口を衝いた。
その言葉の意味は分からない。けれど何処か聞いた事のある言葉。
すると声が答えを返してきた。
「違うよ。お母さんだってば」
「お母さん?」
途端にぼんやりとした視界が一気に広がった。
そこは自室だった。
いつも暮らしている寮の部屋。
貰い物がそこかしこに飾られている。
「蓮子?」
目の前にお母さんが立っていた。
ぼんやりとしていて顔は良く見えない。黒く短い髪の毛。濃紺のブラウスに真っ白なスカート。ベージュのパンプスを履いている。その隣に男性が立っている。
「お父さん?」
「大丈夫か、蓮子」
お父さんが心配そうに尋ねてきた。こちらも顔がぼやけていて良く分からない。黒いスーツ姿で手にビデオカメラを持っている。それをこちらに向けている。
「大丈夫か? 何があったんだ?」
何があったのだろうか。
良く分からない。
聞かれた以上は何かがあったのだろうと思った。
考えていく内に、視界に赤がよぎった。赤いマントだ。
「教授」
「教授?」
「メリーと教授とちゆりさんと」
「教授っていうのはどんな人?」
「岡崎教授は頭が良くて優しくて色色教えてくれて助けてくれて。私もあんな大人の女性になりたいなって思ってて」
「そう褒めないでよ。照れくさいから」
目の前にいつの間にか教授が立っていた。不敵な笑みを浮かべている。両親よりも余程はっきりとしていた。
「大丈夫? 大丈夫な筈無いわよね。あんな事があったんだもの。何があったのか思い出せる? どうして列車が壊れていたの?」
列車?
ふと真空チューブの中で車両が大破している画像が映った。
「突然爆発して」
「どうして爆発したの?」
「分かりません。ただ教授に助けてもらって」
「そうね。私が助けてあげて、その後は?」
「メリーが溺れて」
そうだ、メリーが。
「メリー!」
起き上がろうとすると、突然体を押さえつけられた。
「大丈夫。私は無事よ」
メリーが居た。メリーが微笑みを浮かべながら私の体を押さえつけている。教授と同じ位メリーの姿がはっきりとしている。金色の髪の毛が私の鼻をくすぐってくる。
「メリー?」
問い尋ねると答えが返ってくる。
「そうよ。私は無事。だから落ち着いて」
メリー、良かった。
安堵して体の力を抜くとメリーが言った。
「そう。落ち着いて。何があったのか思い出して」
「月のUFOが来て、それで攫われて」
「大丈夫よ。UFOは行ってしまったから。さあ、次は過去を思い出しましょう」
「UFOが」
「大丈夫。UFOはもう居なくなったから」
「メリーは大丈夫だった?」
「ええ。怖いUFOは行ってしまったわ。あんな怖い思いは懲り懲りね。さあ、そんな事は忘れて」
ふと違和感を覚えた。
あのメリーが不思議に対して懲り懲り等と言うだろうか。
本当にメリーだろうか。
そう疑問に思って、メリーをもう一度見ると、化け物がそこに居た。
金色の髪にのっぺりとした卵の様な顔、頭には兎の耳がついていて、体は奇妙に捻くれている。
私は慌てて起き上がった。
「メリーじゃない! あんたは何だ!」
「落ち着いて。一度横に」
「メリーじゃない!」
思わず拳を握って、目の前の何かを殴りつけていた。
凄まじい音が辺りをつんざいて、一気に現実感が戻ってきた。気がつくと、青緑色の壁に囲まれた部屋に居て、白いベッドの上で身を起こしていた。自分の周りを機材が囲んでいて、その内の一つが倒れている。
何処だろう。
手がじんじんと熱を持った痛みを訴えてくる。
ああ、そう言えば、私、アブダクションされたんだっけ。
そう考えた時、突然甘い匂いが鼻腔にこびりついて、段段と頭が重くなっていった。
「ねえ」
誰かに呼ばれている。
誰だろう。
いつもいつも聞いていた気のする声。
見ると、目の前には金色の髪をした私と同じ位の年頃の女の子。
メリーだ。
メリーが私の事を覗きこんでいる。
ああ、これは夢なんだなと、何となく思った。あるいはずっと昔の記憶を追体験している。
「ねえ、あなたも寂しいの?」
そうだと答えようとしたが、言葉が上手く出ない。
「私もね、凄く寂しいの。誰も友達が居なくて」
メリーの寂しげな声に胸が締め付けられそうになる。そうだ、メリーは小さい頃いつも寂しい寂しいと言っていた。
私はそれを勇気づけてあげたくて。
でも私の声はメリーに届かない。
いつだってメリーはここから逃げ出したいと呟いて。
私はその傍に居る事しか出来なかった。
蓮子が目を覚ますと、視界一杯にちゆりの顔が映った。
驚きに固まっていると、ちゆりの表情が笑顔に変わる。
「あ、おはよう!」
「おはようございます、ちゆりさん」
重たく鈍った思考に顔を顰めながら起き上がる。布団の上に寝ていた。辺りを見回すと畳が敷かれていて、三方が御簾で囲まれている。
「ここは」
御簾の隙間から見える空は暗い。真っ暗で夜の様だ。それでも辺りが明るいのは何処かに光源があるからだろうかと、蓮子は御簾で囲まれているのに尚明るい部屋を見回したが、光源らしき物は見当たらなかった。
「ここは月?」
蓮子が呟くと、ちゆりが吹き出した。蓮子が笑われた事にむっとしてちゆりを凝視すると、ちゆりの笑いが大きくなった。
「流石だよ。起きてすぐにそこまで頭が回るなんて大した物だぜ」
「月なんですか?」
「だろうね。地球でこの光景は中中見られないよ」
そう言いながら、ちゆりが御簾を上げると、その向こうに月の景色が広がった。それは想像していた様な寂寥の光景ではなく、坩堝の中身の様な歪な光景だった。星一つ見えない真っ暗な空、蓮子達が居るのは寝殿造りの見本の様な建物で、その中庭と思しき空間には池が張られている。資料でしか見た事の無い平安時代の日本を思わせる。けれど全てが平安時代かと言うとそうではなく、池の上に架かった橋には兎の耳にセーラー服姿の人間とアオザイを着た兎が歩いている。その上、中庭の向こうの建屋の檜皮葺の屋根の向こうには数百年前のオスマン様式宮殿、遥か向こうには百年以上前に流行った無機質な高層ビル、文化のとっ散らかった光景が目眩を呼ぶ。
「多国籍というか無国籍というか、無節操に取り込んでいるみたいだぜ。月に地上の国境や文化の境なんて関係ないのだろうな」
「本当に月なんですか?」
「人類の一と半世紀ぶりの月面着陸だぜ。もっと喜んだらどうだ?」
まるで実感が湧かない。
蓮子が不思議な思いで目の前の光景を眺めていると、池を渡っていた二人がこちらに気がついた。そうして慌てた様子で顔を突き合わせて何事か話し合い、一人が御殿の外へ、もう一人がこちらへ向かってくる。
見つかった。
蓮子が隣のちゆりを見ると、ちゆりは飄飄とした顔で駆け寄ってくる兎を待っている。大丈夫だろうかと駆け寄ってくる兎に目を戻すと、既に目の前に立ちはだかっていた。
速い。
驚愕する蓮子の前で、兎は恭しく一礼する。
「目が覚めた様ですね。良かった。みんな心配していたんです」
何やら丁重な態度だった。
「宇佐見蓮子様」
兎が蓮子の事を見つめてくる。
名前を呼ばれた事が不思議で蓮子は問い尋ねた。
「どうして私の名前を?」
「私達玉兎は波長で相手の思考を読む事が出来ますから。ご存知無いのですか?」
知っている訳が無い。
そもそも波長って何だ。
「それじゃあ、私の考えている事が全部分かっているって事?」
「いいえ、玉兎同士でないとほとんど。ただ人であっても相手の喜怒哀楽位なら分かります。名前だって人を表す表表紙ですから分かるんですよ。王族の方方の名前は難しくて読めませんけど」
そう得意気に言った。それは便利な能力だ。あの夜の森で兎達が名前を読んだのもそういう事だったのかと納得する。
ところが急に兎が肩を落とした。
「でも通信機とか催眠機とか、どんどん便利になって私達の能力ってあんまり役に立たなくなってきたんですけど」
どうやら地球のそこかしこで見られる技術発達にあらゆるものが追い払われる悲劇は、月でも同じ、しかも人だけでなく兎の身にも降りかかっているらしい。
隣で小さな笑い声を漏らしたちゆりが面白がる様に聞いた。
「って事は、UFOの中で私達の記憶を引き出そうとしてたのも、本当ならあんた達玉兎の仕事だった訳?」
兎がちゆりを睨みつける。
「そうだよ! 昔から記憶の垣間見と改竄は私達の仕事だったんだ! それがあんな」
そこで兎は言葉を切り鼻で笑う。
「まあ、あの機械も今回失敗したみたいだけど。あんたの記憶は引き出せないし、蓮子様の記憶は見つからなかったし」
「そう簡単に記憶をのぞかせる訳が無いんだぜ」
胸を張るちゆりを睨んだ兎は気を取り直した様に手を叩き、一歩身を引いた。
「それでは宇佐見蓮子様、北白河ちゆり、我等が月の使者のリーダー、綿月依姫様の下へお連れいたします」
ついてくる様促しながら兎が歩き出した。蓮子とちゆりもそれに続く。
蓮子は歩きながらほっと安堵した。どうなるかと思ったけれど、向こうから敵意は感じない。むしろ丁重に扱われている。殺されたり、拷問されたりといった雰囲気は無い。
ただちゆりとの扱いに差がある事が気になった。この人何かしでかしたのだろうかと、蓮子は隣を歩くちゆりを見上げる。ちゆりは視線に気がついて首を横に振ってから、前を歩く兎に声を掛けた。
「なあ、蓮子ちゃんと私の扱いが随分違うみたいだけど」
「当たり前だ。どうして地球の穢れた人間が敬愛すべき月人様と同じ扱いを受けられると思っているんだよ」
「月人?」
「ふん、無知蒙昧だな」
そう言って兎が話を拒絶する様に歩く速度を速めた。地球の人間となど話もしたくないと言った様子だ。
蓮子は考える。
月人とはきっと月に住まう人間の事だろう。
月人でなければ何段階も下の扱いをするらしい。
ではちゆりと比較して上の扱いを受けている自分は一体何なんだ。
国も文化も歴史もごたごたに混ぜ込んだ様な町並みを進み、比較的現代の日本に近い純和風の家に連れて行かれた。門前には二人の門番が立ち、蓮子へ一礼してから、ちゆりを見て顔を顰める。
良く手入れのされた庭を通り、土間で履物を脱ぎ、鶯張りの廊下を楽しんで、通されたのはこじんまりとした居間だった。中央に卓袱台があり、そこに座った女性が単衣姿で蜜柑を食べながら本を呼んでいる。
女性は蓮子達が入ってきた事に気がついて顔をあげた。そして顔を真赤にすると、凄い勢いで立ち上がって歩み寄ってくる。
「依姫様、お連れいたしました」
案内役の兎の言葉に答えもせずに無言のまま歩み寄ってきた女性は懐からハリセンを取り出し、案内役の兎の頭に思いっきり叩きつけた。ぱしりと良い音が鳴った。
「何で何も言わずに連れてきた!」
「え? でも今ちゃんと連れてきたって今言ったじゃないですか」
「そうじゃなくて! 事前に……もう良い! ケツを出せぇ!」
「な、何でですか?」
兎が涙混じりの声を出しながら、蓮子達から離れてお尻を女性に向ける。依姫はその尻に向けて体を捩り、思いっきりハリセンを叩きつけた。すぱんと良い音して、兎はお尻を押させて飛び跳ねる。
「とにかくちょっと待ってろ! 分かったか、玉兎ぉ!」
「はいぃ」
兎が慌てた様子で蓮子達を部屋の外へ促し、外へ出ると襖が閉まる。
しばらくして兎が襖の向こうを覗き、立ち尽くす蓮子とちゆりに向かって頷いてみせた。
「それでは、我等が月の使者のリーダー、綿月依姫様がお待ちです。どうぞ」
大丈夫か、私達。
蓮子がさっきの一連の流れに身の危険を感じていると襖が開いた。広広とした座敷で、奥に洋服に着替えた依姫が座り、両側に二人ずつ兎が並んでいる。
促されて座った蓮子とちゆりに向けて依姫は笑顔を向けてきた。
「遥遥良くぞ参られました。私の名は綿月依姫、月の守護と地球の監視を任されております」
さっき兎のケツをぶっ叩いてた姿など微塵も感じさせない挨拶に蓮子が面食らっていると、隣のちゆりが先に口を開いた。
「私は北白河ちゆり、こちらは宇佐見蓮子。で、周りくどい話はよして、誘拐の目的を教えてもらいたいね」
「はっきりと言えば、あなたとは関係の無い事です。これはあくまで月人の問題。巻き込んでしまった事は申し訳なく思います」
依姫の淡々とした言い方にちゆりが噛み付く。
「謝っている様な態度には見えないぜ」
「一時とは言え月の都に来られたのですから、詫びとしてはそれで十分でしょう。それよりそもそもの目的が大事なのですから。ねえ、蓮子さん」
視線を向けられて蓮子は身を竦ませる。
月の目的。
それが何なのかは分からない。
けれどさっきの兎の言葉や今の依姫の言葉から想像がついた。
自分の出自。
自分が何者なのか。
恐らく依姫は言うだろう。あなたは月人だと。月で生まれた人なのだと。そう言うであろう事が容易に想像出来た。
耳鳴りがして、世界の遠近が狂った様な錯覚がやって来た。
呼吸が段段速くなるのを感じながら、依姫を見るとその表情が訝しむ様に歪んでいた。けれどその表情はすぐに消えて、また笑顔に戻った。
「まずはあなたのお母さんについて教えてもらいたいんですけれど」
「私のお母さん?」
「ええ、そうです。かぐや姫のお話は知っていますね?」
「はい」
「最後はご存じですか?」
「かぐや姫が月の使者に連れられて月へ帰って」
「残念ながらそれは間違っています。本当は月へ帰ってなど居ないのです。私達を欺いて地球の何処かへ逃れた」
「そうなんですか」
どうにも実感が湧かない。あくまでお話の中での話で、本当の事だとしてもあまりにも昔の事だ。そんな昔の話が自分にどう関わってくるのか。蓮子は気が気でなく、スカートをきつく握りしめる。
「それを探し出すのが、私達の任務の一つ。そしてある女性の家系は代代地上へ赴いては輝夜様を探していた。当然その女性も輝夜様を探してしばしば地球へ降りていた」
ある女性?
それが私とどう関係する。
「ところが彼女は突然姿を消した。三年前、地球で消息を立ってしまったの」
「どうして?」
「分かりません。月の使者として地球へ降り立つ者の中には地球で消息を断つものが極偶に居る。私達にとって地球という穢れに満ちた牢獄に降り立つ事はそれだけ危険で、だからこそそれだけ誇りある仕事なのです。かぐや姫に出てくる月の使者、その内の一人であった彼女の曽お祖母様は輝夜様を奪還できなかった責任を感じて地球へ再度捜索しに行きましたが、羽衣を失い月へと戻れなくなり、その後の消息は知れません」
そこで言葉を切った依姫は傍から一冊の本を拾い上げ蓮子へ表紙を向ける。薄い冊子のそれはどうやら子供向けの絵本の様で、表紙にはかぐやひめという文字と竹林が書かれている。ただどうしてか肝心のかぐや姫が書かれていない。
「これは消えた彼女の家にあった絵本。彼女の子供の為に取り寄せた地球の絵本。これだけを残して彼女とその子供は地球へと消えてしまったのです。単に羽衣を失っただとかそういう類ではない。もっと別の理由で。先程も申し上げた通り、その理由を私達は知りませんが」
依姫の視線が蓮子を射抜く。
ようやく話が分かってきた蓮子は唾を飲み込んだ。
つまりその彼女の子供というのが。
蓮子は背中に冷や汗をかいているのを感じた。
今までずっと自分は地球の人間だと思っていた。
その人生が全て嘘かもしれないのだ。
どんどんと現実感が喪失していく。
文字通り世界がひっくり返った様な気がした。
依姫が強く息を吐き出し、緊張していた蓮子の体が跳ねる。
「彼女は家族思いの優しい女性でした。どんな時でも笑顔で周囲の場を和ませた。彼女の子供は才能があった。人付き合いは苦手の様でしたが、飲み込みが早く、私の姉と同じ特別の才能を身につけた」
依姫が絵本を強く握りしめる。
「二人は親子である事を差し引いても似通っていてまるで姉妹の様でした」
依姫の声が震えている。
「優しげな眼差しに、朗らかな笑顔」
蓮子もまた泣きそうになった。
母親の事を思い出そうとしても思い出せない。
ただ依姫に握り締められた絵本を見ていると懐かしさを感じる。
やっぱり私は月の。
「ウェーブ掛かった金髪に」
ん?
金髪?
自分の髪色を思い出す。
黒のストレートだ。
じゃあ、それ私じゃなくない?
「あの小さかった女の子が今やこんなに」
依姫が立ち上がる。
「……って全然違うじゃねえかぁ!」
絵本が地面に叩きつけられた。
「ええええ!」
蓮子が驚いてのけぞると、依姫が一足飛びに近づいてきた。そうして蓮子の目を覗き込み、匂いを嗅ぐ様に鼻をすすってから、振り返って兎を呼ぶ。
「おい、玉兎共ぉ!」
依姫の叫びに、左右の兎が背筋を伸ばす。
「はいぃ」
「この子の何処が月人だぁ!」
「で、で、で、でも! 穢れが全然感じられないし。それに宇佐見とうさ耳って似ていて」
「穢れは無いけど、月人じゃねえだろ! ああ? 月人とその他の区別もつかねえのか? 何年玉兎やってんだぁ!」
「でも」
「でももへちまくれもねえ! もう良い! てめえ等全員ケツを出せ!」
「ひいぃ」
悲鳴を上げながら兎達が一列に揃って依姫にお尻を向けた。
依姫は懐からハリセンを取り出すと、その尻に向かって思いっきり身をひねる。
すぱんすぱんと小気味の良い音を立てながら並ぶ尻がハリセンで叩かれ、叩かれた兎達が大袈裟に呻いてその場を転がり出す。呻きながら転がる四人の兎を背に依姫は清清しい笑顔を蓮子達に向けた。
「あなた達への沙汰は追って出します。牢獄へ連れて行きなさい」
「え?」
訳の分からぬまま蓮子は手を引かれて部屋の外へ連れ出される。そうして襖が閉まり、全く頭の追いつかないまま、兎に手を引かれて蓮子は外へと連れだされた。
「ええええ?」
門を出た蓮子が振り返って今出た家を見上げた。
「どういう事?」
「蓮子ちゃんを勘違いで連れて来ちゃったって事でしょ」
「勘違い? UFOに誘拐されて月まで連れて来られたのが全部勘違いだって言うんですか!」
「多分」
「ありえないでしょそんな事!」
蓮子が怒鳴ると傍の兎が悲鳴を上げた。
「だってさっきの話を聞いて、私月人かもしれないと思って、今までの人生が全部嘘みたいに思えて、本当に胸が苦しくなる位に心が張り裂けそうだったのに、それが全部勘違いだったなんて!」
「いや、それは自分で考えれば分かるじゃん。自分の生まれが何処か位。両親の顔とか覚えてないの? UFOの中で両親のイメージが尋問してきたでしょ?」
「でもあんな雰囲気で言われたら、もしかしてって思っても仕方ないじゃないですか! それが勘違いで、しかも謝罪も何もなくほっぽりだしくさって! ふざけてんのかぁ!」
叫ぶだけ叫んで発散した蓮子は大きく息を吐いて黙りこむ。兎が恐る恐るといった様子で蓮子達を案内し始める。
それに連れられて歩きながら、蓮子はのどかな月の風景に目を向ける。相変わらず空は暗く町並みはごった煮なものの、辺りは明るく風がそよいでいて道端を蓮子より幾つか年下の子供達が無邪気に騒ぎながら走っている。どれだけ遠い地の異文化の中であっても、子供達の無邪気さは変わらない。いや、今の日本の子供よりも余程無邪気に笑っている。
「心配して損した」
のどかな光景に思わず蓮子が呟くと、ちゆりが笑った。
「お、心得ているね」
何を心得ているのか分からないが、とにかく月の脅威は杞憂だった。誘拐されたのもくだらない理由だった。辺りを見ても、月が地球をどうこうしようとしている様には見えない。
そう考えると、今度は地球の月侵略の理不尽さが浮き上がって見える。
「ちゆりさん」
「ん?」
「本当に地球は月を侵略しようとしているんですか?」
「一部の人はそう考えているかもね。そもそも大多数の人は月に人が居るなんて思ってないから侵略だなんて思っていないぜ。なんで急に?」
「だって、月はこんなに平和なのに。岡崎教授の話によると、人間は月を奪い取ろうとしいて、しかもその脅しに四次元ポジトロン爆弾を使おうだなんて」
ちゆりが不思議そうな顔で蓮子を見つめる。蓮子にはその表情の意味が掴めない。
「何か変な事言いました」
「うん。誰が月を奪おうとしているんだ?」
「誰って、あの何か宇宙開発振興財団、でしたっけ? 後はアメリカとか」
「本当に?」
「それは……分かりませんけど、教授が」
「ああ、分かった。蓮子ちゃんは影響されやすいんだ」
何だか馬鹿にしている様な物言いに、蓮子がむっとする。
「そんな事は」
「あるよ。教授の話を聞いただけで月を侵略するなんていう話を信じちゃって、ほんの少し町並みを見ただけで月が平和だと思い込んで、さっきだってその場の雰囲気に飲まれて自分が地球産じゃないと不安に思っていたんだろう。影響を受けまくっているじゃないか」
その通りなので何も言い返せない。
「そもそも今悩むところのは、まず私達へ処置がどうなるかだと思うけど。最悪処刑という事もあり得るし。さっきのふざけたやり取りで油断しちゃった?」
蓮子が呆けていると、ちゆりが溜息を吐く。
「純粋なんだなぁ」
蓮子は思わず口を抑えた。
何故だか涙が出てきた。
「ええ、ちょっと! 泣く? 何で!」
ちゆりが慌て出す。
理由は分からない。
蓮子はしばらく考えて、もしかしたら自分は自分に期待し過ぎていたのかもしれないと結論づけた。メリーという特殊な能力を持った友達の危機、森の中で見た月のUFOとの邂逅や思いがけない月面着陸を果たし、大有名人である岡崎と一緒に行動して、自分が物語の主人公の様に特別な存在だと思い込んでいたのかもしれない。だからちゆりの失望する様な態度に悲しくなったんじゃないかと。
ただそれだけでこんなに悲しくなるのは納得出来無い。
何か酷い寂しさを感じる。
言い知れない悲しみが沸き上がってくる。
そう言えばメリーが居ない。
メリーは何処だ。
メリーと一緒に居なくちゃいけないのに。
ずっと傍に居なくちゃいけないのに。
気が付くと地面にしゃがみこんで泣いていた。
自分の感情が制御出来ない。
涙が次から次へと流れ出てくる。
メリーに会いたい。
「メリー」
うずくまって泣いていると、ちゆりがしゃがんで覗きこんできた。
「おーい、ホームシックか?」
分からない。自分の感情が。どうして泣いているのかまるで分からない。
「しょうがないなぁ」
そう言って、ちゆりが背を向けてきた。
「ほら、もう少しだからおぶさって。家にも後でちゃんと連れ帰ってあげるから」
おずおずと蓮子がちゆりの背に抱きつくと、ちゆりが立ち上がって歩き出した。ちゆりの背で泣きながら、蓮子は迷惑をかけている事が申し訳なくて益益涙が出てくる。
今自分達は月に捕らえられている。ちゆりと二人で協力して無事に地球へ帰らないといけないのに。それなのにこんな風に泣いて心配を掛けて。
情けない。
情けないと思うと益益涙が溢れてくる。
「ごめんなさい、ちゆりさん」
「良いよ。色色あって疲れているんだろう。ほら着いた。私達の牢獄に」
顔をあげると、最初に居た御殿だった。とても牢獄には見えない。
兎に案内されて、一番初めに目を覚ました部屋へと運ばれる。蓮子は敷かれていた布団に寝かされて、掛け布団を優しく掛けられた。兎達は沙汰を待つよう言い残して去っていき、後にはちゆりと二人で残される。
蓮子はしばらく鼻をすすってしゃくりあげていたが、落ち着いてくると小さく呟いた。
「ご迷惑をおかけして」
「だから良いって。それより今後の事だ。まず脱出手段については私が何とかするよ」
ちゆりがあっさりと言った。
「え? どうするんですか?」
「ICBMを作ってそれで飛ぶ」
「あ、そうか。あの海で使った」
「いや、元元持ってたのは取られちゃったぜ。っていうか、持ってたものは全部取られた」
「じゃあ、やっぱり無理なんじゃ」
「私を舐めるなよ。学士の卒論は無人島でのICBMの作り方だぜ」
ちゆりがおどけた様子で胸を張ったので、蓮子は泣いていた事を忘れて笑いながら訝しんだ。
「うええ。出来るんですかそんなの」
「材料さえあればね。あの時は半年位掛かったかな? でもここなら一日あれば作れるよ。月は重力が小さいし。でも宇宙空間での空気と、大気圏での熱、後は着地の問題をどうすれば良いか。ちょっと時間がかかるかもなぁ。まあ考えておくよ」
何だか一番問題となりそうな部分があっさりと解決した。
蓮子がちゆりを頼もしい思いで見つめていると、ちゆりが恥ずかしそうに頬を掻いた。
「まあそれはそれとして、次に私達に下される沙汰だけど、追放の可能性が大きい。少なくとも殺される事は無いぜ」
「どうしてですか?」
「月の住民は穢れを嫌うらしいんだ。穢れが何なのかは、月の住民が持つ概念で良く分からなかったけど、とにかく生き物を殺したりするのが禁止されているらしいぜ。だから殺される事は無い。その上、穢れを持つ地球の生物を好まないから、月に置いておくというのも可能性が低い。きっと月の記憶を消して追放だと思うぜ」
「じゃあ、脱出する手段も考えなくて良いんじゃ」
「駄目。ちゃんと月の事を覚えておかないと。それにあくまで追放は予想。そうじゃなかった時に備えて手段は幾つも持っておかないと。もしも本当に処刑だったら、逃げながらでも何とか作って。そうするとせめてここで機関部くらいは作っておきたいなぁ」
ちゆりがそう言いながら腰を上げる。
「あ、私も手伝います」
蓮子も起き上がろうとしてそれをちゆりに押しとどめられた。
「今は寝ておくんだぜ。少ししたら騒がしくなるかもしれない」
「でも」
「起きたら蓮子ちゃんにやって欲しい事がある」
「私に?」
「月の住民から出来る限り情報を取って欲しいんだぜ。私はICBM作りに専念するから。出来るよね?」
蓮子が頷くとちゆりが笑って立ち上がる。
「聞き込みをするならちゃんと頭が働いていないと。だから一回寝て頭をすっきりさせておいて」
ちゆりの言葉に思いやりを感じて、蓮子はまた涙が出そうになった。目を瞑りながら、やっぱり疲れているのかもしれないと考える。
「それじゃあ、私は行くぜ」
「はい、私もしっかり寝ておきます」
「あ、最後に」
どうしたんだろうちゆりを見ると、ちゆりは人差し指を立てながら柔らかな笑みを浮かべていた。
「何でも信じちゃう、蓮子ちゃんに一つ。教授は四次元ポジトロン爆弾を親の仇の様に嫌っていただろう?」
「はい。だからそれで起こる悲劇を止めたくて。月面侵攻も四次元ポジトロン爆弾が脅しの道具に使われるかもしれないから。絶対に使わせない様に」
「少なくとも教授は四次元ポジトロン爆弾が使われる事に何の感慨も持っていない筈だよ。現に教授は四次元ポジトロン爆弾を常に携帯しているんだから」
「え? どういう事ですか?」
「大枠で言えば各各にはそれぞれの目標があるって事かな。信じる事は美徳だけれど、信じ過ぎるのも考えてものって事。まあ、後は自分で考えよう。次に教授に会う時までの宿題だぜ」
ちゆりは言うだけ言って、「じゃ」と言ってその場を去っていった。
訳が分からなかった。頭痛がする。入ってくる情報、入ってくる情報、全てが理解出来なくて。頭の中がとっ散らかっている。目を瞑ると周囲がぐるぐると回っている様な感覚があった。
急速に思考が鈍っていくのが分かる。
闇がどんどんと深まっていった。
目を覚ますと辺りが暗かった。
夜。
月に居る事を思い出し、月にも夜があるのかと蓮子は何だか感慨深い思いになった。
夜でも物の輪郭が分かる程度の仄かな明かりがある。それを頼りに御簾を抜けて外に出ると、夜だから外も薄暗い。空は満天に星が散っていた。地球で見たどの星空よりも迫力がある。一つ悲しいのは月が見えない事だけだ。それが何だか寂しかった。星を見て自分の位置をさぐるが、地球上で無い事しか分からない。時も正確には分からない。連れ去られたから一日二日経っている事だけは分かる。
薄暗い中庭を見渡してみたが誰の姿も見えない。夜だから当然か。月の情報を得る約束をしていたのに。そういえば沙汰はどうだったのだろう。
あれこれ考えていると、耳が小さな話し声を捉えた。
月の住民だろうか。
簀子を渡って建物の裏へ回る様に歩いて突き当りまで行くと、ちゆりが庭の端に居るのが見えた。しゃがみ込んで誰かと話している。
「いえ、思ったよりもずっと綺麗ですよ」
誰と話しているんだろう。
「はは、じゃあ、教授も早くこちらに来れば良いのに」
岡崎教授?
「ああ、大丈夫。結局私達は幽閉って事に。存外月も甘いんだぜ。易易とスパイを容認するなんて」
スパイ? 結局処置は幽閉に決まったのだろうか。
「勿論、蓮子ちゃんも大丈夫。何でも信じちゃうみたいだったから、こちらに疑いを持つ様に言っておいた。あんなに純真だと逆に扱いづらいから」
思わず蓮子は顔を赤らめる。何だか酷い事を言われている。
「承知しました。大丈夫ですって。ちゃんと実験は進めますから。純粋な子供を利用するのは心苦しいけどなぁ」
利用? 誰を?
「いやいや、本当に。で、メリーちゃんの方は?」
メリー? そっちにメリーが?
蓮子は飛び出そうになったが自制した。今出てはまずい気がする。
「へえ。それは面白い。そんな事が。実験の修正が必要ですか?」
メリーに何があったの?
「はいはい、畏まりました。蓮子ちゃんもかわいそうですね。このままじゃ二人には悲劇しか待っていないんじゃないですか?」
私がかわいそう? 悲劇って何?
ちゆりさんと岡崎教授は何を話しているの?
不穏な会話に蓮子の胸がざわめきだす。その場を飛び出して、ちゆりを問い詰めようとする自分を抑えつけ必死で息を殺していると、二人の会話が終わったのか、ちゆりが立ち上がってこちらへ向かってきた。
いけない。
見つかったら大変な目に会う気がして蓮子は音を忍ばせて来た道を戻る。けれどちゆりの砂利を踏みしめる足音はどんどん近付いて来て、間に合わないと感じた蓮子は、すぐ傍の部屋に忍び込んだ。
御簾の裏に隠れて息を殺していると、ちゆりが砂利を踏みしめる音が近付いて来て、すぐ近くを通り、また離れていった。
良かった。行ったみたい。
足音が聞こえなくなるまで待ってから息を吐いて立ち上がり、何も解決していない事に気がついた。このままちゆりが部屋に戻れば、蓮子が居ない事に気が付く。それだけなら良いけれど、もしもさっきの会話を聞かれていたという疑念を持たれたら。
急いで帰らないと。
いや、そもそも戻っていいものか。
さっきの会話を聞くに、ちゆりと教授は蓮子とメリーに対して何か企みを抱いている。しかもその結果には悲劇しか待っていないと言っていた。下手に一緒に居たら酷い目にあうかもしれない。
どうしようと悩んでいると、突然背後から呼び掛けられた。
「ちょっとこんな夜中に誰よ」
人が居た?
驚いて振り返り、蓮子はそこに居るものを見て、
「ぎゅええ!」
変な声が出た。
部屋の中に巨大な男の顔があった。毛を全部剃った巨大な男の顔、首は無く、代わりに巨大な百足の体が伸びている。あの森の中の御殿で見た化け物だった。
蓮子がその異様に震えていると化け物が眠そうな声をだす。
「うるさい。夜中なんだから静かにしてよ」
「え?」
喋れるの?
意外な程理性的な反応に蓮子の恐怖が一気に消えた。
「で? 誰? 玉兎? 要件は?」
化け物が巨大な顔を近づけてくる。
やっぱり怖い。
蓮子が後ずさって御簾にもたれながら答える。
「私は地球の人間です。用は、すみません、特に無いです。すぐ出ていきますんで勘弁して下さい」
「え? 地球の人間? 嘘! 本当に?」
更に顔が近付いて来て、蓮子が泣きそうになりながら答える。
「本当です! すみません!」
「何で謝ってんの?」
「え? だって」
「いや、実は私も地球に居たんだよね。っていうか、こんななりだけど元人間なんだよね」
「え? 人間?」
「そう。まあ、話すと長いんだけどさぁ。呪いって奴? 森の中にある廃墟に化け物が住んでるの。まあ、私なんだけど。化け物に食われたら化け物の姿になんの。で戻る為には次に来た人間を食い殺さなくちゃいけない。逆に食い殺せばその人間と入れ替わって自分は元に戻れるの。そういう怪談があって。まあ実際行ってみたらマジで化け物が居て、食われたらこんな姿になっちゃった」
あははと化け物が愉快そうに笑った。
蓮子は思わず自分の体を見回した。食べられて呪いにかかるなんていうなら自分もこの前食べられたのではないか。
「結局三年位誰も来なくてさ。この前ついに来たと思ったら、何か黒っぽい影で」
それってもしかして。
「あれは何か幽霊かなんかなのかな?」
それ私ですとは言えなかった。
「化け物怖えと思って追い払おうと齧ってみたけど歯ごたえなかったし。何だったんだろうあれ」
あんたも化け物だろうと思ったけど、言えなかった。
ふと化け物の口の中を見て気がつく。
「あの、口の中に、そのなんていうか、血まみれの服の切れ端がありますけど、その持ち主とは入れ替われなかったんですか?」
食べようとしたけれど逃げられたのだろうか。
「え? マジで? ああ、何色の服?」
「ええっと血で良く分からないですけど、ベージュかな?」
「ああ、じゃあそれ私の服だ。食われた時のが残ってるんだね。っていうか、他の人の服はありえないよ。誰も来なかったし、誰かを食べたくもないし」
「え? 戻りたくないんですか?」
齧られたけど。
「だって嫌じゃん。自分が助かる為に誰かを食べるなんて」
良い人だ。何だか外見と言葉が一致していない。いや、元元は人間で、姿だけ化け物に変わったのだろうか当然だけれど。
「で、そっちは何で月に来たの? あ、そう言えば、月面ツアーやるって言ってたよね。それ?」
どうやら化け物の情報は三年前で止まっている様だ。
「いえ、UFOに誘拐されて」
「何それ、面白ーい」
いや、当人は面白くもなんともない。
「私と同じじゃん。何、一人で誘拐されたの?」
「いえ、もう一人」
「へえ。どうすんの? 戻れそうなの?」
「ええ、そのもう一人がロケットを作ってくれるって」
本当は大陸間弾道ミサイルだけど。
「おお、良かったじゃん」
何だか他人事な反応だった。
「あの、あなたも帰れると思いますよ」
「え?」
化け物が呆けた様に口を開いて、納得した様に頷いた。
「ああ、成程。そうだねぇ。確かに。でも私は良いや」
「どうして!」
「だって、こんな姿だし。地球に戻ったってさ、家族にも友達にも会えないじゃん。誰かを食べ殺して戻るっていうのも、嫌だし。三年間廃墟で考えて、自殺も出来なかったから、このままの姿でひっそりと居ようって思ってたの。そしたら月の人達が月に連れてきてくれて、ここだったら玉兎達が怖がらずに話し掛けてくれる。だからこっちの方が気楽だし、帰るつもりは無いの」
「そうですか」
「うん。誘ってくれてありがとね」
「いえ」
「っていうかさ、本当にロケットなんて作れるの? もしかして許可とかもらってるの? 誘拐されたのに帰っていいですよって?」
「そのもう一人が凄くロケットを作るのが上手いんです」
「何それ! ありえない!」
あははと化け物が笑う。
本当に何だんだろうそれと蓮子も笑う。
「でも本当なんです。北白河ちゆりさんって言って、あの岡崎教授の助手をしていて」
そう言って岡崎の名前が通じない事に気がついた。教授が一般に有名になったのは、ついこの間ポール・ディラック賞を受賞したからだ。三年前には物理を専攻している人でないと知らない筈だ。
情報の格差を煩わしく思って、どうやってちゆりの凄さを説明すれば良いのか迷っていると、化け物が急に真剣な口調で問いかけてきた。
「北白河ちゆりってあの?」
「どの?」
「あのテロリスト?」
「テロリスト? いや、違います。別の人です」
「いや、絶対そう。岡崎夢美と北白河ちゆりでしょ? 三、四年前に並行世界に行ったってので話題になって、その後何かの会議の会場を四次元なんとか爆弾でふっ飛ばそうとしたってので有名になった、あの」
何それ、知らない。
「いや、何ですかそれ。そんなの聞いた事」
「覚えてないの? 昔凄い話題になったじゃん」
そうだったろうか。幾ら考えてみてもそんな記憶は出てこない。
「間違いないよ! 嘘だと思うなら地球に戻ってから調べてみれば良いじゃん! 絶対出てくるから! 国外追放とか、国家反逆罪で死刑だとか、そんな話がばんばん出てたの覚えてるよ!」
思い出せない。覚えていない。
けれど化け物が嘘を言っているとも思えない。
化け物が勘違いしている?
かもしれない。
けれどそうじゃないかもしれない。
もしも本当に二人がテロリストで危険人物だとしたら。
さっきのちゆりが岡崎としていた会話を思い出す。
利用すると言っていた。
悲劇しか待っていないと言っていた。
善人がそんな事を言うだろうか。
あの二人は本当に信用出来るのか。
もしかしたら自分はとんでもない人間にメリーの事を頼み、そして渦中に巻き込まれているんじゃないだろうか。
駄目だ。
信用出来ない。
誤った。
メリーの病気を治すのに誰かを頼ったのは間違いだった。
そうだ。どうして他の誰かにメリーを任せようだなんて。
メリーを病院へ連れ回した時に散散思った事じゃないか。
誰も信用出来ない。
ここからは私一人で動かないと。
「何のお話をしているの?」
突然背後から女性の声が聞こえて、蓮子は驚いて振り返る。
振り返ると目の前に笑顔があった。
暗がりの所為かその優しげな笑顔が酷く恐ろしいものに思えた。
続き
第七章 道に明かりが無いのなら
何気に依姫が出てくるSSを初めて見た気がします。それが蓮子やちゆりと会話するシーンだなんて・・・。胸が熱くなるな・・・。
割とはっちゃけた依姫様や、意外と気さくな性格だった1話の化け物さん。結構衝撃な展開ですな。
それにしてもこのテロリスト、ICBMにこだわり過ぎである。
うーん、やっぱり前回の水上アタッチメントの件は岡崎が食わせ物だったってワケか・・・?
何がしかの情報操作がかかってる? 三年前で情報が止まってる化け物さんはそれを免れてる・・・。ふぅむ?
お探しの月人はおそらくメリーなんだろうけども、『私の姉と同じ特別の才能』≒ワープ≒スキマ≒紫≒メリー?
それにしても蓮子も穢れのない人間というのは何の伏線だろう。ちゆりが心配するくらい純真なのもそのせい?
最後に出会ったのは一体・・・いやはや、面白くなってきた?
さあこっからが波乱だー。
教授とちゆりへの疑心暗鬼の中で蓮子はどう動く?
そしてメリーの結末は。
楽しみにしております。
ちゆりんDASH感覚で大陸間弾道ミサイルを作るのはNG