「ぶぅー!」
私は盛大にコーヒーを噴き出した。
紅魔館の主にあるまじき行為だが、致し方ないだろう。
だって、しょっぱいんだもん。
「咲夜ぁ!」
そのとんでもコーヒーを淹れた者を怒鳴りつける。正当な権利のはずだ。
「は、はい……」
咲夜はびくびくしながら近寄ってきた。
「しょっぱいじゃない!」
「え……?」
「……塩入れたでしょ、これ」
「うん……」
咲夜は俯きながら、そう答えた。
「なんで!?」
「お、おさとういれすぎちゃって……」
思わず頭を抱える。
砂糖を入れすぎたら塩で中和できると思ったってことか?
「ご、ごめんなさい。いれすぎちゃったのかな……」
そこじゃない、と思いっきり突っ込んでやりたいが、彼女の顔は真剣で、今にも泣きそうな表情だ。
私は怒りをぐっと飲み込む。
「ぐぐぐ……」
そして、代わりに大きなため息を吐いた。
「はぁ……」
「だいじょうぶ……?」
咲夜は小首を傾げ、眉をハの字に曲げた。
何が悪かったのかはわからないが、自分のせいで主の機嫌が悪くなったということくらいはわかるらしい。
「……コーヒーに塩は入れないのよ。以後気をつけるように」
「うん……ごめんなさい……」
はい、だろ。そこは。
そんな言葉の代わりに、私はやっぱりため息を吐いた。
私がそいつを拾ったのは、数日前のこと。
美鈴が紅魔館の前で倒れている子どもを見つけ、慌てて私のところにやってきたのだ。
――メイドとして育てましょう。
私はそう言った。
その時、確かに見えたのだ。燦然と輝く、紅と銀の未来を。
この子は、紅魔館に必要な人間となる。そう確信した。
美鈴に怪我の手当てをさせ、身だしなみを整えられたその子は、椅子に座る私を怯えた表情で見ていた。
「私はレミリア・スカーレット。紅魔館の主よ。あなたは?」
まずは名前を知っておかなくてはコミュニケーションは成り立たない。
「なまえ……?」
「そう、あなたの名前よ」
「なまえ……や」
そう言って、そいつはふるふる、と首を振った。
「……は?」
少し頭にきた。淑女よろしく、こちらから名乗ったというのに、この娘は名前を明かそうとしない。
プライドを傷つけられた気分だった。
「おい、この私が質問しているんだよ。答えたらどうなんだ?」
「ひぅっ」
さすがに口調も乱暴になるというもの。そんな私に、そいつはびくっと肩を竦ませた。
「な、なまえ……やぁ!」
「言えッ!」
「お、お嬢様、どうか穏便に……」
見ていられなくなったのか、美鈴が口をはさんできた。
確かに、傍から見れば私が弱い者いじめをしているように映るかもしれない。
「ん、む……」
私に任せてください、と美鈴はパチン、とウィンクをしてみせた。
「ね、お名前、ちゃんと言お? 教えてくれないと、私もお嬢様も、あなたのことを呼べないよ」
ね? と、涙を浮かべるそいつの手を取って、美鈴は優しく微笑みかけた。
すん、と鼻をすすって、そいつは不安げに美鈴を見上げる。
「わ、わらわない……?」
「笑わないよぉ」
からからと笑みを零す美鈴の顔が凍りついたのは、その直後だった。
「おまえ」
そいつは、そう言った。
「……え?」
「わたし、ずっとおまえってよばれてた」
「あ……え、と……」
美鈴がつらそうな、困ったような視線を向けてくる。
「……ふむ」
つまりは、そういうことなんだろう。
そういう環境で育ったのだ。
「わかったわ」
二人がこちらに視線を向ける。
「私が新しい名前を付けてあげる」
「新しい、名前……?」
「ええ、そう。カッコいい名前を付けてあげる」
「ほ、本当……?」
期待にほんのりと頬を染めるそいつの傍ら、美鈴は冷や汗なんかを流して、微妙な顔をしていた。
あれは私のネーミングセンスを疑っている顔だ。あいつはあとで尻グングニル。
「そうね……」
今宵は、十六夜。
「あなたはこれから、紅魔に使える銀の花。夜に咲き誇りなさい。――咲夜。あなたは十六夜咲夜よ」
「いざよい……さくや?」
「十六夜咲夜」
咲夜は、噛みしめるように「さくや……さくや……」とつぶやいていた。
美鈴は、奇跡が起きた! と胸を撫でおろしていた。あいつはあとで抱っこ状態で不夜城レッド。つまり、不夜城抱っこ。
そして咲夜は、ほろ、と表情を崩し、言った。
「あ、ありがと……お姉ちゃん」
「おね……っ」
美鈴の顔が、さーっと青ざめていた。
「ちょちょちょ、咲夜ちゃん!?」
「ふぇ?」
「ダメだよ、これから咲夜ちゃんはあの方にお仕えするんだから『お嬢様』か『レミリア様』って呼ばないと!」
「そうなの……?」
くり、と私の方を向き、聞いてきた。
私自身、結構面食らったものだから――
「え、ええ、まあ」
――と、なんとも間の抜けた返事しかできなかった。
「え、えーっと……そ、そうだ! お嬢様、私はこれから咲夜ちゃんにお屋敷のことを色々と教えてきますね!」
取り繕うように美鈴が切り出した。
「あ、お願いね……いや、待って」
思うところがあり、咲夜の手を引く美鈴を呼び止める。
「え?」
「その役、私がやるわ」
美鈴はきょとん、と目を見開いた。
「え、ええ!? お嬢様が自らですか!?」
「そうよ」
「で、でも……」
美鈴は、そんなこと主にさせてもいいのだろうか、考えるような顔をしている。
「いいのよ。この子は将来、私にぴったりの従者となる。今の内から私自ら育てていけば、それも早いでしょ」
「な、なるほど……」
美鈴は、合点がいったというようにうなづいた。
「わかりました。では、私は仕事に戻ります。何かあったらお申し付けください」
「ええ、よろしくね」
一礼をして、美鈴は部屋を出て行った。
「さて、これからあなたは私専属の従者となるために、色々と覚えてもらうことになるけど、何か質問はあるかしら?」
私の言葉に、咲夜はおずおずと質問してきた。
「おね……おじょうさまは、わたしのことぶつ……?」
「――――」
思わず息を飲んだ。
この子は、一体どんな生を歩んできたというのか。
正直に答えてやる。
「ええ、ぶつわよ」
咲夜は途端に表情を曇らせた。
「ぶつの……?」
「ええ」
「ぶつんだ……」
咲夜は視線を落とした。その表情には子どもらしからぬ諦観の色が浮かんでいた。
今までと同じだ。
そんな言葉が聞こえてくるようだった。
「でも」
「え?」
ぼんやりと顔をあげる咲夜。
「きちんと仕事をしていたら、ぶたない。それどころか、褒めてあげるわ」
「ほめてくれるの?」
「褒めてあげる。だから、しっかりやりなさい」
「う、うんっ」
咲夜は、顔をパァっと輝かせ、うなづいた。
「じゃあ最初の仕事よ。咲夜、私に紅茶……いえ、たまにはコーヒーもいいわね。そっちの方が簡単そうだし」
「う、うん、頑張る」
そして、話は冒頭に戻る。
妖精メイドに紅茶を入れさせ、口直しをする。
「ふう。ひどい目に合ったわ」
「ごめんなさい……」
しゅん、と咲夜はうなだれた。
「もういいわ。次からしっかりやりなさい」
「う、うんっ」
さて、次は何を教えたものか。
やはり、一番人手の足りていない掃除が無難だろう。難しいものでもないし。
「さすがに掃除くらいはできるわよね」
「そうじ?」
小首を傾げる咲夜。
「マジか……」
思わず頭を抱える。
私好みの従者にするため、自分で育てるとは言ったが、本当に一から教えなくてはならないのか。
「むぅ……」
しょうがない。言ったからには、やるしかない。
「こっちへ来なさい」
私は咲夜を連れて部屋の外に出た。
向かったのは掃除用具入れ。いくつかの道具を持ち出し、その場を後にする。
「石造りのところと、タイルのところはモップで擦って。扉や柱なんかは雑巾よ。窓は文々。新聞。何かわからないことがあったら呼んでちょうだい」
簡単な説明をし、掃除を咲夜に任せる。まぁ、掃除くらいならすぐ覚えるだろう。
そうして私は自室に戻った。
「ふぅ……」
一息つき、これからの未来を想い描く。
「……ふふふ」
みんなでバカやって、笑い会う姿が容易に想像できる。
そうね……紅い霧で人間を脅かしてやろうかしら。
咲夜が大きくなったら、一緒に異変を解決する側に回ってもいいわね。
妖怪も人間も、みんな集めて、紅魔館でパーティをしちゃおう。
きっと楽しいはずだ。
そんな未来に行き着くまでには、大変なこともあるだろう。だけど、頑張れる気がする。
「おじょうさま……?」
そんなことを考えていると、ノックもなしにドアが開けられた。
どうやらこの子には、一般常識というものから叩き込まなくてはならないらしい。
「あら、どうしたの?」
「おそうじ、おわった……です」
「うそおっしゃい。こんなに早く終わるわけないでしょう」
いくらなんでも早すぎる。
時でも止めない限り不可能だ。
「はじめてだったけど、できた」
「できたって、あなた……」
そんなわけないでしょう、と続けようとした口を、思わず閉ざす。
咲夜の私を見る目が、きらきらと光っていたのだ。
俯きがちなのは咲夜の癖なのだろう。
人と視線を合わせずに過ごしてきたに違いない。
そんな咲夜が、何かを期待しているように、チラチラと視線を向けてくるのだ。
そして、その目は「褒めて褒めて」と訴えていた。
「むぅ……」
うそを吐いている風でもない。本当に終わったのだろうか?
……それはないだろう。大方、本人が掃除とはこんなもんだ、と思い込んでいるに違いない。
しょうがない……。
「あー、えらいえらい。咲夜はいい子ね」
褒めて伸ばす。そして、出来ていない部分はやんわり指摘してやればいい。子育てはこうであるべきだ。
「えへへ……」
頬を紅く染める咲夜は、可愛かった。
「じゃあ、一応チェックするわよ」
私は、咲夜の仕事ぶりを確認しに行った。
「なんじゃこりゃあ……」
最初に出たのはそんな声。
一言で言うなら、目の前の惨状は……。
びっちょびちょ! 紅魔館びっちょびちょだよ!
という感じ。
絞っていないモップで磨かれた廊下には、ちょっとした池がそこかしこに出来あがっているし、同じく絞っていない雑巾で拭かれたであろうドアや柱なんかは、滴る汗を隠そうともしない。極めつけは窓。そこにはただ新聞紙が、ぺっとりと貼りついていた。
保湿するにも程がある。
「……咲夜、これはなんなの?」
「お、おそうじ……」
「びっちょびちょじゃないの……」
絞るということを知らんのか。
……知るわけがないか。
「しょうがないわね……」
ため息を一つついて、私は雑巾を手に取った。
「見てなさい。こうやるのよ」
「は、はいっ」
バケツに入った水に雑巾を浸し、しっかりと絞る。
「こうして……」
壁を拭く。
「んっ……こう、よ……。しっかり力を込めるのよ」
ごしごしと背伸びをしながら壁を拭く。
あれ? 私、紅魔館の主じゃなかったっけ……。
何が悲しくてこんなことをしているのだろう、と半ば本気で凹みかけたが、早く仕事を覚えようと真剣に見て聞いている咲夜の顔を見ると、たまにはこんなのも悪くない、と思えてきたのだった。
「ん……しょ、と。雑巾がけはこんなところかしら。やり方はわかった?」
こくこく、とうなずく咲夜。
うむ。ならばよろしい。
「じゃあ次は窓。それから廊下よ。まずは私がやってみせてあげるから、しっかりと覚えるのよ」
こくん、とうなずき、控えめなガッツポーズをする咲夜に、私はこれからの咲夜の失敗を確信しながらも、生温かく見守ってやろうと思ったのだった。
しかし不可解なのは、不完全な掃除とはいえ、その行為は紅魔館全域に渡っていたという点だ。
この子には何かある。
私はそう考えていた。
「で、これなわけだ」
目の前には、不格好に積み上げられた衣類の数々。
きちんと洗濯できたのはいい。しっかりと絞ったのもオーケーだ。
「それで、どうして広げて干すという発想がないの」
「あぅ……」
しゅん、と咲夜はうなだれた。
「ごめんなさい……」
「ぐ……」
それは反則でしょう……!
目尻に涙を浮かべ、エプロンを両手でぎゅっと握る仕草の破壊力は異常である。
「ま、まぁ最初は誰しも失敗するものよ。次からしっかりできればいいわ」
咲夜は顔を上げ、こくこく、と一生懸命うなずいていた。
「それじゃあ、私がやってみせるから、真似しなさい」
「う、うんっ」
真っ直ぐと前を向いて生きる者を見るのは、面白い。
咲夜のそれは、それまでの生を払拭するかのようなひたむきさが感じられた。
「肩の部分を掴んで……」
「つ、つかんで……」
上から勢いよく振り降ろす。
洗濯物は、パン、と気持ちのいい音を響かせた。
「へやぁ!」
咲夜も私を真似して、振り降ろした。べちゃ、という音がした。
「……洗濯し直しね」
「あぅぅ……」
ま、焦らずゆっくり教えていこう。
となると、料理なんかは当然できないと考えるのが自然だろう。逆にできたらびっくりだ。
「できません……」
咲夜は俯きながら答えた。
「でしょうね」
ふう、と息を吐く。
「ごめんなさい……」
「ま、追々覚えていけばいいわ。料理長には話をつけておくから、しっかり学びなさい」
こくん、とうなずく咲夜。
「今日は食材の場所の把握くらいでいいでしょ。ざっと見て回るわよ」
「は、はいっ」
きゅるるるぅ~。
「あっ……」
妙な音が聞こえたと思ったら、咲夜の顔が茹であがった。
「……お腹空いたの?」
「あぅ……」
真っ赤になった耳が肯定の意なのだろう。
「しょうがないわねぇ……。ちょっと待ってなさい」
腹が減ってはなんとやら、だ。私は簡単な料理を作ってやることにした。
「ほら、食べなさい」
「わぁ……」
咲夜は、きらきらと目を輝かせて私の手料理を見つめた。
だらしなく開いた口から、ぽた、とよだれが落ちた。
「ぷっ」
「え? あ……やっ」
慌てて袖で口を拭う咲夜。紅魔館のメイドとして決して褒められた行為ではないが、自分の作った料理によだれを垂らすほど期待をされることに悪い気はしなかった。
「た、たべていい……ですか?」
「はい、おあがりなさい」
「いただきますっ」
私が咲夜に作ってやった料理は、ハムとほうれん草のミルクリゾット。適度な大きさに切ったハムとほうれん草を、ミルクで煮立て、コンソメで味付けをし、塩と胡椒で整えただけの簡単な料理。
新鮮なほうれん草と塩味の利いたハムが、ミルクでとろとろになったライスを引き立て、また、ライスもそれらを優しく包み込む。
私自慢のお手軽料理だ。
あむあむと食べる咲夜に問いかける。
「おいしい?」
「はぷ……む、んく」
頬いっぱいに詰め込んだリゾットを、一生懸命飲み込もうとする咲夜は、まるで小さなリスみたいで可愛かった。
「ふふ、いいわよ別に。無理に答えようとしなくても」
その様子を見ればわかるもの。
自分が作ったものをおいしそうに食べてくれる。料理人にとってこれほど嬉しいことはない。私は料理人ではないけれど。
もごもご、もきゅもきゅする咲夜を、ただぼーっと見ていた。
(幸せそうねぇ……)
テーブルの上に頬杖をつき、そんなことを思う。
食べ終えた咲夜は、けぷ、と喉を鳴らして、私を見つめた。
「あ、あの……」
「ん?」
咲夜は何か言いたそうにしていた。
「何? 言ってみなさい」
「あの、おじょうさまは、なにがすき?」
「好きなもの?」
こくこく、とうなずく咲夜。
「そうねぇ……吸血鬼だから、にんにくはアウト。他はなんでも食べるわよ。まあ、一番は血だけどね」
そう言うと咲夜は、ぼーっと何かを考えている風に俯き、やがて顔を上げて言った。
「わた、わたしも、おいしいの、つくれるように……が、がんばります」
つっかえつっかえ。だけど、それはしっかりと私に伝わった。
だから、言ってやる。
「ええ、頑張りなさい」
こくこく、と何度も何度もうなずく咲夜。口下手な彼女にとっての精一杯の表現だった。
そして、事件は起きた。
咲夜が手首を切ったのだ。それも、自分から。
血を出しすぎた咲夜は倒れ、通りかかった妖精メイドに発見され、部屋に運ばれた。
知らせを受けた私は、咲夜のところへ、文字通り飛んでいった。
「咲夜!」
ノックなどする余裕もなく、ドアを開け放つ。
ベッドに横たわる咲夜の顔は、普段以上に真っ白だった。
私の姿を確認した咲夜は起き上がり、ぎこちなく笑った。
「おじょ……さま、ごめんなさい」
「咲夜! なんでこんなバカな真似を!」
そっと手を取る。厚く巻かれた包帯から血が滲んでいた。
元々が白い肌のため、血の赤が目立って痛々しい。
私の問いに、咲夜がぽつりと話し始めた。
「おじょうさまは……きゅうけつきなんでしょ?」
「そうよ!」
それが何だというのだ。今はそんな話をしている場合ではない。
私が吸血鬼だということと咲夜が手を切ったことに何の関係……が…………。
「あ、あなた、まさか……」
ふとよぎった考えを、どうしても違うと思わずにはいられなかった。
「わたし、おじょうさまによろこんでもらいたくて……。でも、しっぱいしちゃった」
やはり、そういうことだったのか。
照れくさそうに笑う咲夜を見て、私はどうしようもなく腹が立った。
「――――ッ!」
そして、気がついた時には咲夜をひっぱたいていた。
パァン、とかわいた音が部屋中に響き渡った。
「う……?」
咲夜は何が起こったのかわかっていないようで、目をぱちくりとさせていた。
「う……」
そして、自分がひっぱたかれたということを認識すると、だんだんと痛みが追いついてきたのか、大きな声で泣き出した。
「わあああああああああああん!」
その小さな体から、どうしたらそんな声が出せるものかと不思議になるくらい、大きな声で咲夜は泣いた。
私は腹を立てていた。腹を立てていたのだ。どうしようもなく、どうしようもなくはらわたが煮えくり返っていた。
咲夜に対してではない。
こんなバカな真似をしたのは咲夜だが、それをさせたのは咲夜のいた世界だ。
私は咲夜のいた環境に腹を立てていた。
この子に、そこまでのことをさせる世界。世の無情を心が張り裂けるくらいに思い知らされた。
「うぅー!」
涙をぼろぼろとこぼしながら、こちらを睨む咲夜。
その瞬間――
「――――ッ!?」
咲夜が目の前から消えた。
ふわ、と肩に何かが触れる感触がした。
次の瞬間、鋭い痛みが私の肩を襲った。
「痛――ッ!」
他の何者でもない、咲夜だ。
咲夜が私の肩に噛みついていた。
「うぅぅぅぅ!」
「この……ッ!」
ぶん、と腕を払い、咲夜を放す。
「きゃんっ!」
吸血鬼の力は伊達ではない。
「あ……!」
――しまった。
そう思った時には、もう遅い。
咲夜は壁に叩きつけられた。
「あぐ……!」
「さ、咲夜!」
慌てて咲夜に走り寄る。
「咲夜!」
「あ……ぅ……」
体のあちこちが痛むのだろう。咲夜は自身の体を抱きしめ、うずくまった。
「うぁ……いたい、いたいよぉ……」
「さ、咲夜……! ど、どうしたら……」
滑稽なものだ。自分で払いのけておいて、この慌てぶり。
悪魔の館の主とは思えない狼狽ぶりだと、我ながら情けなくなった。
「そ、そうだ。パチェに……!」
親友はありとあらゆる知識を溜め込んでいる。こういう時の対処法も知っているはずだ。
私が図書館へ駆けだそうとした瞬間、スカートの裾を、きゅっ、と掴まれた。
咲夜は、苦痛に顔を歪めながら、嗚咽を噛み殺しながら、言葉を発する。
「おじょう、さまは……」
こぼれる涙を拭おうともせずに、咲夜は訊ねた。
「さくやの、ことが……きらいですか?」
「――――ッ」
反射的に「そんなことない!」という言葉を押し殺した。
「く……」
咲夜にそう思わせたのは、他でもない私だ。
その問いに、そっと咲夜を抱きしめてやった。
(皮肉なものね……)
この子は、誰よりも『人間』なのだ。
(恐らく)蔑まれ、叩かれ、罵られ……およそ人として扱われてなかった彼女は、誰よりも人間くさいのだ。
嫌われたくない。
それを一心に、咲夜は一生懸命、私の言うことを聞き、喜ばせようとする。……それが、自らを傷つけるような行為でさえ、躊躇わずにする。
「嫌いな……ものですか」
私の声は震えていた。
抱きしめた腕に力を入れる。
腕の中の、小さく、弱い存在が壊れないように、大事に大事に、抱きしめた。
この子は、私のものだ。誰にも壊させたりはしない。私がきっと、誰よりも綺麗に笑う人間にしてみせる。
私はこの日、そんなことを誓った。
その夜、私は咲夜と一緒のベッドに入っていた。
泣き疲れて眠ってしまった咲夜の目の周りは真っ赤だ。それから、私が思い切り叩いた頬も、痛々しいくらいに紅くなっている。
ずきん、と心が軋んだ。
「もっと自分の体を大切にしろ」なんて陳腐で腐りかけたような考えがなかったわけではない。可愛い咲夜には綺麗な体でいてもらいたかったというのは事実だ。
だけど、あの時咲夜をひっぱたいたのは……ただの八つ当たりだった。
彼女にそこまでさせる世界に腹が立った。
それを……彼女にぶつけてしまったのだ。
「ごめんね、咲夜……」
返事はない。
咲夜は、すぅすぅと規則正しく息をし、眠っている。
「私が、きっとあなたを幸せな従者にしてあげるから」
そしたら――
「私も、きっと幸せになれるから」
あなたも、私も、他のみんなも……。
そんな決意をし、意識は次第にまどろみへと沈んでいった。
コーヒーを一口飲み、想いを馳せる。
楽しい時間は、閃光のように輝き、過ぎるものだ。
けれど、その記憶は今でも鮮明に思い出すことができる。
初めはぼたぼたと水を滴らせていた咲夜だったが、次第に力もつき、雑巾をしっかりと絞れるようになった。
洗濯物もきちんと干せるようになった。初めて、パン! と音を鳴らせるようになった時のあの顔は、誇りに満ち溢れているような笑顔だった。
料理も、少しずつ上達していった。
塩に思い入れでもあるのか、最初はやたらとしょっぱかったが、段々、加減というものを覚えていった。
紅い霧を出し、巫女にしばかれた。ぼろぼろになって倒れた私と咲夜は、二人で笑い合った。
咲夜を初めて一人で異変解決に向かわせた、春の雪の日。がたがたと肩を震わせて帰ってきた咲夜の頭を撫でてやった。
「もうそんな年でもないですよ」と、はにかんだ咲夜の顔は、ほんのりと紅潮していて、美しかった。
終わらない夜、私たちは二人で一つの翼となった。
何もかもが、美しい。
その中で、呆れるほど笑った。泣くほど感動した。躍るほど心が高鳴った。死ぬほど遊んだ。
「……ふふ」
込み上げる笑みを隠せない。
感情は、止められないものだ。
だから――コーヒーだってしょっぱくなるというもの。
「……塩なんて、入れてないのにね」
頬を伝うしょっぱい水を拭う人間は、隣にはいなかった。
「悪いわね、咲夜……あなたには、コーヒーに塩は入れないと教えておいて」
――これからは私が、塩味コーヒーを淹れることになりそう。
そんなつぶやきは、一人分広い部屋の中に消えていった。
ラストでなんとも言えない気分にさせられました。
味は微妙かもしれないけれど悪くないのかも。
ココアなら牛乳100%割り、ノンシュガー。
使うのは当然オランダのメーカーだ。うん、悪くない。
じんわり胸に来ました。ビタースイートでした。
その上手さに乾杯、無糖のコーヒーで。
最後、寂しいね……。
オレはコーヒー飲めないから、紅茶(無糖)で乾杯です。
楽しませてもらいました。
自分はコーヒーはいつもブラックなんですが今回だけは塩の味がしました……
尻グングニルは反則だろう。
にがじょっぱい。そんな気分なのかなぁと推測してみます。
>コチドリさん
レミリアは笑っていたのか、泣いていたのか。
どっちの感情の裏にその感情があふれたのか。
答えは彼女にもわからないのかもしれません。
>8
私も一度だけやった記憶がありますw
>9
カカオ75%くらいを目指してみました。
>10
乾杯。
今夜は彼女も眠らないでしょう。
>朔盈さん
それでも、二人は笑いあえる時間を過ごせたのだと思います。
だから、レミリアは笑うのです。
>16
それさえも、レミリアは楽しんでみせるはず。
涙だって、彼女の生の一部なのです。
>ゆう@東方好きさん
レミリアが飲んだコーヒーは、ただしょっぱかっただけなのでしょうか。
ブラックだったかもしれません。砂糖とミルクが入っていたかもしれません。
私にはなんとも言えませんが、きっと、全てが入っていたことを願います。
>クリアさん
個人的には、不夜城抱っこが気に入っていたりしますw
>25
今回こういった作風は初挑戦です。
書いている自分が切なくなってきましたw
もってけ100点!
頑張る咲夜ちゃんと御嬢様を微笑ましいと思った分、最後が切なかったです。
咲夜さんは幸せだったよ! 絶対、幸せだったよ!!
タイトルを見直してまた涙がこみ上げてきました。
その描写が最後にちょっと欲しかったなあ
塩味コーヒーの隠し味はたくさんの思い出ですね。
濃い目に淹れて塩ひとつまみの米海軍式コーヒーとは。私もよくやります。香りが引き立つ塩入りコーヒーは月の味、私の目には涙が溢れる。
一回試してみるのも悪くないかもしれない。
でも、いざ塩入りコーヒー目の前にすると、何だかしんみりしちゃいそうです。
このお話のせいだ、間違いない。
良い時間でした。ちょっとコーヒー淹れて来ます。セルフ塩味で。
美味しかったです、ありがとうございました。
ちょっと塩コーヒー淹れてくる
そのために、中後半が駆け足だったのが気になります。
貴方の咲夜の成長と、レミリアの喜び、二人の幸せをもっと見たかったです。
優しい作品をありがとうございました。
今は塩水が頬を伝っております……
面白かったですー。
最後には、切ないけど悲しさはなく、じんわり暖かい物語だったと感じました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございます!
もらった100点は美味しくいただきました。
>暮森さん
そうですね。咲夜さんはきっと幸せだったに違いありません。
>37
読んだあとにタイトルを見て、なるほどなと思えるタイトルを目指しました!
>45
最後の詰めが甘いのは、相変わらずの弱点。
なんとかしなくちゃ、ですね。
>47
きゅんとなるお話を作ってみたかったのです。
>49
しょっぱいと一口にいっても、その涙には色んな想いでが詰まっていて、それは決して悲しいだけのものではないはず。
>51
匿名ではなく、しっかりと意見を言ってくれた上での10点は結構ありがたかったりします。
物語の運び方が、いかにもすぎたってことでしょうか?
精進いたします。
>スポポさん
尊敬だなんて! ただひたすら恐縮です……っ。
そんな飲み方があるんですねー。初めて知りましたw
>55
こうきました!
>56
大丈夫。おいしくはないと思いますけど、決してまずくはないはずです。
(責任は負いかねます)
> v さん
ありがとうございました。
入れ過ぎにはご注意をw
>可南さん
ありがとうございます。
今後は、もっと深みのある作品を、綺麗な描写を心がけて創作していきたいと思ってます。
>67
いってらっしゃいませ。
塩分過多に注意です!
>常さん
朝っぱらから切ないのはいかがなものでしょうw
>71
鋭い……。
上記してありますが、私の弱点ですね。
もっと綿密にプロットを立てなくてはなりません。
ありがとうございました。
>76
ありがとうございました!
>77
最近、咲夜さんが好きで好きでしゃーないんです。
なのに、ちょっとかわいそうな役すぎましたね。
でも、書いてて楽しかったです。
>79
ありがとうございます!
必要なところしか書けないから、そうなるのかもしれませんw
(必要なところすら書ききれていませんが)
> mthyさん
そこまで感情を動かしていただけると、作家冥利に尽きます。
こちらこそ、どうもありがとうございました。
不幸設定が涙を誘い、拙い仕事振りに心をほんわかさせる。
良かったです。
ほかのコメントにすでに出てくるけど、この来てすぐのころとの組み合わせは予想外でした。
とりあえず作者にはマックスコーヒーを送ろう(暗に甘いのがみたいという…)。
毎回、葉月さんの書く話のあったかさと巧さに感動です。
きっと咲夜さんは最高の人生を送れたのでしょう。
そしてナイス一貫性。
是非も無しに。
けど、砂糖でいいですよw
>91
ありがとうございます。
……というか、すみませんでした、の方がいいかもしれませんね。
書きたいシーンだけを強調するからこうなる。もう少し持っていき方を自然にすれば、あざとさも薄まったのかもしれませんね。
>92
さては……関東人!
マッカンは大好きですよ~。
>幻想さん
ありがとうございました。
今後も、深みを勉強して創作を続けていきたいと思います。
>コバルトブルーさん
もったいないお言葉です。
そして、そのような感想はなによりの励みになります。
ありがとうございました。
>111
ええ、きっとそうでしょう。咲夜は世界一幸せな従者だったに違いありません。
>114
ありがとうございます。
慢心せずに、今後も精進していきたいと思います。
100点付けようか迷いましたが、最後がちょっと唐突にも思えたので…
個人的な我儘ですが、出来れば長編でこの話を読みたかったと思いました。
面白かったです。
ありがとうございます。
そして、お気を付けくださいw
>120
もう少しのばしてもよかったかもしれません。
詰めが甘いですねorz
>121
それはまた、別のお話でw
>即奏さん
ありがとうございました。
今後は長編にも挑戦していきたいですね。
長編期待しております お腹一杯になるまで作者様の世界を堪能してみたいですね
ただ、上記のコメントの通り、少しくらい日常があってもよかったかもしれませんね。
日を置いて読んでみると、やはり物足りなく感じましたw
ありがとうございましたー。
>127
ありがとうございます!
長編……頑張ってみますw
ありがとうございました~。