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「はーなーせー! このくそじじー!!」
「黙れこの馬鹿娘が!!」
この枯れ木のように萎れた腕のどこにそんな力があるのか、魔理沙には不思議でならなかった。
きつく握られた手首は、まるで野良犬にでも食い締められているかのように痛んだし、いくら足を踏ん張って抵抗しようとしても、引かれる力につんのめって転びそうになるばかり。
いや、いっそ本当に転んでしまえば少しは時間稼ぎになるのかもしれないが、グイグイと常に引かれ続ける腕のせいで、それさえも叶わない。
結局できることと言えば、とにかく舌を回して悪態をつくことぐらい。しかし魔女でもない普通の人間である自分の言葉になど、なんの力もありはしないのである。
「癇癪玉ばらまいて寺子屋を逃げ出しただと!? どれだけ霧雨の名に泥を塗れば気が済む!!」
「しるかい! あんなタイクツなトコいられるもんか!」
幻想郷の歴史がどうした。妖怪と人の関わりがどうした。そんなことを知って何の意味があるのか、彼女にはまったく持って理解できない。
そんなことを覚えるぐらいなら、川原で綺麗な石でも拾っていたほうがずっと有意義だ。もしくは里の外れにある一本松の天辺を、如何に攻略するかの研究でもいい。
里一番の高さを持つあの一本松に登れれば、きっと今まで見ることの叶わなかった里の外の世界を見ることができるだろう。
そしてあるいは、と想像が膨らむ。たまに魔法の森へと向かって里の上を飛んでいく、あの人形を携えた魔女。あいつの住処が判るかもしれない。もし突き止められたら、絶対に家に押しかけてやるのだと魔理沙は決めていた。
ちらりと横顔を見たことしかないが、あいつは如何にも友達の居なさそうな暗ぁい顔をしていた。今まで集めた石の中から、お気に入りのものを二、三見繕って訪れてやれば、きっと諸手をあげて(何せこの自分が友達になってやるといっているのだから!)迎え入れてくれるに違いない。
そして魔法を教えてもらうのだ。空を飛ぶ魔法、火をおこす魔法、氷を作る魔法。ああそうだ、人を蛙に変化させる魔法もだ。このじじいでいの一番に実験してやろう。
この祖父が蛙に変わってピョンピョン飛び跳ねているさまを想像し、思わず笑みがこぼれそうになったが、不意に一際強く引かれた腕の痛みに、霞んで消えてしまった。
わずかに滲みそうになる涙を必死にこらえながら顔を上げると、もうすっかり馴染みになってしまった殺風景で薄汚れた扉が目に入った。
この広い屋敷の一番奥まった場所にあるのが、目の前の部屋だ。もう何年も前、魔理沙が生まれる前に霧雨の店に住み込みで働いていた男が使っていた部屋だという話だった。
その話を聞いた時、何だそれはと憤りを覚えたものだ。こんな場所に住まわせるなんて、嫌がらせ同然ではないか。そんなにその男は嫌われていたのかと父を問い詰めた。しかし父の返答に、憤りは呆れへとあっさり姿を変えた。
何でも男は自分からこの部屋が良いと希望したらしい。理由は、静かで落ち着くから、とのこと。まったくどれほど暗い人間なのか。少し興味がわかないでもなかったが、間違っても友達になりたいとは思わなかったので、それっきりその男について尋ねることはなくなった。
ただそれとは裏腹に、この部屋自体は魔理沙にとって幾分馴染みのあるものになっている。
なんせこんな薄暗い場所にある部屋だ。男が出て行った後、この部屋を使いたいというような人間が早々居るはずも無い。物置に使うにしたって、霧雨の家には立派な蔵が別にあるのだからわざわざこんな不便な場所に物を置く必要も無い。
結局使われる機会といえばたった一つで、つまりは少女が何か問題を起こした時。彼女への仕置きのための部屋となっていた。
「もう交わす言葉も無いわ! しばらく頭を冷やしとれ!!」
ガラリと乱暴に扉が開かれ、魔理沙は部屋の中に放り込まれた。勢いのままゴロゴロと部屋の中を転がり、壁にぶつかってやっと止まる。
馬鹿め手を離したな。すぐにそのハゲ頭を蹴とばしてやる。そう思い立ち上がろうとしたところで、クラリと世界が回った。
「お゛お゛ぉ……」
傾いている。世界が傾いている。あれ、何で横に床があるんだ?
斜め斜めによれながらクラクラと頭を揺らす魔理沙を尻目に、ピシャリと扉は閉じられた。
「ちっくしょ~……」
ようやく平衡感覚を取り戻した世界の中で、魔理沙は憎々しげに呻いた。
一応扉に手をかけてみるが、いつもの様につっかえ棒が掛けられているのだろう、わずかな隙間が開くのみだ。
さてどうしたものか。床にどかりと腰を下ろし腕を組む。
今はすでに夕刻。早く脱出しなければ、じきにこの部屋は真っ暗になってしまうだろう。というか、すでにかなりの暗さだ。何せこの部屋、光の入るところが小さな窓一つしかない。ついでに言えば脱出経路もそれ一つ。ただし、
「ぬ~……そりゃ! せい! ぬえりゃああ!!」
やたら高い位置にあって、飛んでも手が届かない。
「やっぱダメか……背、2センチ位は伸びたのに……」
同い年の友達は5センチ伸びていたが。……妬ましい。
そうしていくうちにも、部屋の中はどんどん暗くなっていく。早く脱出しなければ。何か台になるものは無いか。すでに幾度も探して結果はわかっているのだが、それでも一縷の望みにかけて魔理沙はこの部屋唯一つの押入れを開いた。
「…………」
当たり前のように何も無かった。
無言でふすまを蹴飛ばす。つま先が痛かった。
「いや……まてよ」
不意に、魔理沙の頭の中で電球がともった。
押入れには上下二つに分けるための仕切りがある。その仕切りを踏み台にして、あの窓枠に飛び移れないだろうか?
「……よし!」
思い立ったら即行動。迷いもためらいも無く、少女は押入れの上の段によじ登った。狭いスペースの中、四つん這いのままで向きを変え、窓を睨みやる。
目標までの距離と高さは……よし、これならいける!
はやる気持ちに、魔理沙がわずかに頭を上げたときだった。
――ゴリッ
押入れの天井にあった出っ張りに、少女は盛大に頭をぶつけた。
「~~~~~~~~ッ!!!?」
あまりの痛みに声も出せず、魔理沙は押入れの中で転げまわる。
たっぷりと一分ほども悶えた後、ようやく彼女は起き上がった。
「な……なんなんだよ~……」
少し涙目になりながら、震える声をこぼして天井を見やる。
天井の出っ張りは、どうやら取っ手の様だった。よく見れば、その周りに正方形の切れ目も見て取れる。
「ここ、ひらくのか?」
ためしに引っ張ってみる。が、開かない。
だけどすぐに気づいた。この取っ手はどうやら回るらしい。つまり捻って留め金をはずしてやれば、
――ドサドサバサドサゴキィン!!
「~~~~~~~~~~~ッ!!!??」
いきなり扉が外れて物が落ちてくるという予想外の寸法である。と言うか打った。また同じとこ打った!
「ふぐくきぃぃぃぃい……!!」
視界を明滅させる痛みとやり場のない怒り。そのどちらもが、水飴のようにべったりとくっついて、いくら手で拭っても頭から離れてくれない。
意地で堪えていた涙も限界だ。それなのに、誰も手を差し伸べてくれない。
「う……うううぅ~……!」
怒りが裏返るように、こみ上げてくる心細さ。無意識に何か縋る物を探して手をさまよわせ――パチリ、と。指先が何かをはじいた瞬間、ぽっ、と世界が緋色に染まった。
涙で滲んだ視界に、だいだい色の波がゆらゆら揺れる。その波に誘われるように、魔理沙はゆっくりと体を起こした。
気がつけば、日は完全に落ちてしまっていた。
代わりに部屋の中を照らしているのは、八角形の奇妙な箱のような物から生まれた小さな炎だ。
「……なんだ? これ」
ようやく痛みの引いてきた頭から手を放し、ゆっくりと“ソレ”を持ち上げる。
手の平に伝わる、金属のひんやりとした感触。
火が灯っていると言うことは、行灯の類だろうか? 試しに、そっと傾けてみるが、
「油、入ってない……。何で燃えてるんだ?」
そもそも、火種もないのにどうやって点いたんだろう?
小鳥のようにしきりに首をかしげながら、その奇妙な道具を手の中でクルクルと弄ぶ。すると、その側面に小さなツマミがあるのを発見した。
先ほど指先が触れたのはこれだろうかと、パチリと指で弾いてみる。
「あ、きえた」
途端に真っ暗闇になり、慌てて魔理沙はツマミを弾きなおした。
「やっぱりこれがスイッチなのか」
仕組みは分からないが、これを弄るだけで簡単に火を点ける事が出来るらしい。
パチパチと何度も点けたり消したりを繰り返しているうち、魔理沙はツマミが横にもスライドすることに気付いた。
「こっち動かすとどうなるん――だあああ!!?」
いきなり勢いよく噴き出した炎に、魔理沙は悲鳴を上げて仰け反った。
取り落としそうになるソレをあたふたと持ち直し、ツマミを元の位置に戻す。炎が小さな灯火に戻ったのを見て、彼女はホッと息をついた。
下手をすれば、それこそ火事になっていたかもしれない。そうなっていれば、この部屋から出られない自分は、めでたく閻魔様の下である。と言うか前髪は平気だろうか?
「……こげてない……よな?」
手で触れてみた限りでは、問題無さそうである。
「とんでもない道具だな、これ。でもまぁ、だいたいわかった」
ツマミを上下で、点火と消火。横に動かして火力調整。仕組みはともかく、使い方としては単純明快だ。そして、道具という物はそれさえ分かれば問題ないのである。
今度は慎重に、ほんの少しだけツマミを横にずらす。炎が二回りほど大きくなったのを確認し、魔理沙はこんなもんかとその道具を置いた。部屋を照らすには、丁度良い具合の火力だろう。
「さて、おつぎは……」
押し入れの中であぐらを掻き、床に散らばっていた他の道具へと目を向けた。
そのどれもが、魔理沙が今まで見たことのない様な物ばかりである。
興味津々、彼女は道具を一つ一つ手に取っていく。しかし、
「……なんだこれ? スイッチがいっぱいあるけど、なんも反応しないぞ」
先ほどの火を点ける道具と違い、全く使い方の分からないものばかりだった。こんなものはガラクタも当然だ。すぐに興味を無くし、ポイポイと捨てていく。
そして最後に彼女が手に取ったのが、紐でくくって纏められた、色あせた紙の束だった。
「え~っと……なんとか…立ち? 道具屋計画書……?」
噂に聞く、かつてこの部屋に住み込んでいた男が書いた物だろうか。そう言えば、自分の店を持つためにここから出て行ったという話を、聞いたことがあった気がする。ただし、そんな店をこの里の中で見たことはなかったが。
ペラリとめくってみれば、計画書と言うよりも思いついたことを箇条書きにして書き殴っている、草案書のような内容だった。
――自分の能力にもっとも適した道具屋
魔道具作成を請け負う それだけでは弱い、顧客が限られてしまう
日用品も扱う それでは普通の道具屋と変わりがない。それに、それでは人間だけしか利用しない
自分の身の上を思えば、人と妖怪、どちらにも需要がある店が理想
妖怪に需要がある店とは? 妖怪が興味を持つ道具
普通の生活用品などさして妖怪は必要としない。芸術品の類も、よほど高等な妖怪でなければ興味を示さない
物珍しさ。それが一番妖怪の興味を引く。加え、他の者では作成できない物、自分にしか扱えない道具――
「外の世界の道具を……取り扱う古道具屋?」
その一文だけが特に大きく、しかも丸で囲って記されていた。
「……『そとのせかい』ってなんだ?」
が、里からロクに出たこともない魔理沙には、それが何のことなのか良く分からなかった。
それよりも興味を引いたのは、『魔道具作成を請け負う』と言う言葉である。魔道具、すなわち魔法の道具を作成できる。と言うことは、つまりこの男は魔法使いと言うことではないか!
俄然興味を引かれページをめくると、次は簡単な挿絵と共に道具の説明と思われる文章が書かれていた。
「あ、これさっきの道具だ」
転がっていた道具を手に取り、描かれている絵と見比べる。
名称:ぽけっとべる
用途:遠くにいる者と連絡を取る
「使用方法……ふめい?」
その下にツラツラと長ったらしい道具に対する考察が書かれてはいるが、子供の目から見てもどうにも突拍子が無く、唐変木な内容だった。
ペラペラとページをめくり、その他の道具も見ていくが、その殆どが使用方法不明の品ばかり。こいつは使い方も分からないものを売るつもりなのかと、呆れも通り越して逆に感心さえ覚えてくる。
そしてその中で唯一、ちゃんと使用方法が書かれていたのが、
「あ、これ……」
最初に手に取った、火を点ける道具だった。
試作魔道具其ノ壱
名称:魔法の火炉
用途:火を起こし、暖を取る。
使い方については最後の方がかすれて読めなくなっていたが、おおむね先ほど魔理沙が確認した通りのことが書いてあった。
なるほど、魔法の道具であれば油も無しに火が燃え続けるのも納得だ。いよいよこの男が魔法使いであるという推測が、現実味を帯びてきた。
はやる気持ちを抑えながら、また一枚ページをめくる。
そしてまた、魔理沙は首を傾げざるを得なかった。身もふたも無く言えば、そこに何が書いてあるのか分からなかったからだ。
「なんかの絵……かな?」
ぐねぐねとのたくった様な線が幾つも描かれた絵……というか模様……だろうか?
父が以前こんな感じの変な絵を見て、芸術があーだこーだ前衛的などーのこーのと呟いていた様な気がする。その時は、「すわっ! じじいより先にボケたか!?」とかなり慌てたものだ。
これもそーゆう、『げーじゅつてき』な代物なのだろうか? しかしどうにもそうは思えない。唯一理解できるものといえば、右上の端に書かれた『あ ノ 一』と言う文字だけだ。
次をめくると、やはり同じような模様が描かれていた。右上の文字は『あ ノ 二』。
次、右上の文字は『あ ノ 三』。やはり同じような――と思いかけて、模様の中に、意味の分かる文字が書かれていることに気づいた。
『博麗神社』
よくよくその部分に目を凝らしてみれば、文字の横に書かれている模様は、山の上に建っている神社……を描いていうように見えなくも無い。
「もしかして!」
不意に頭の中を照らした閃きに、魔理沙は顔を上げた。
紙束と火炉を手に、ガラクタを押しのけながら押入れから這い出る。
取り敢えず火炉は火を点けたまま畳の上に。紙束を括っている紐を解き、あの妙な模様が描かれている紙だけを手に取る。
まずはそう、『あ ノ 一』から。
「たぶんこれが角っこ……一番右上、かな?」
部屋の端っこにそのページを置く。そして、『あ ノ 二』だ。
「これが、『あ ノ 一』の……左……いや、下か」
縦に並んだ二つのページの模様がピッタリと合わさったのを確認し、やっぱりだと少女は歓声を上げた。
続けて『あ ノ 三』から『あ ノ 五』までを縦に並べたところで、次は『い ノ 一』へと表記が変わった。
「つまりこれが……『あ ノ 一』の左だっ」
後はひたすら同じ要領で、ズレの無いよう一つ一つ丁寧に並べていく。
少しずつ、パズルのように完成していく様に、魔理沙は祖父への怒りも、頭を打った痛みも、暗い部屋に放り込まれた寂しさも、全て忘れて夢中になっていた。
そして『あ ノ 一』から『く ノ 五』まで、計四十枚を並べ終えて、魔理沙はこれが何なのかをはっきりと確信した。
「これ……幻想郷の地図だ」
北の妖怪の山、東の博麗神社、中ほどに広がる魔法の森と、里を挟んで向かいに位置する迷いの竹林。霧の湖、太陽の畑、無名の丘、無縁塚――寺子屋の退屈な授業で覚え込まされた、幻想郷内のあらゆる場所が、そこには描かれていた。
そしておそらく、これは男が実際に自ら幻想郷を歩き回って作成したものなのだろう。地図内のあちこちに注釈が入っていた。
『妖怪の山。排他的な風潮が、以前よりもさらに磨きが掛かっている。山に登ることすら出来なかった。どのみち人里から遠すぎるので候補としては除外されていたが、天狗や河童の持つ技術には興味があったのだが。呑み勝てたら通してやるとはよく言ったものだ、あの鴉天狗め。二度と付き合うものか』
『魔法の森。分かっては居たが、茸の胞子のおかげで人はおろか妖怪も居ない。居るのは研究に没頭する魔法使いぐらいのものか。当然除外』
『霧の湖。霧で本が傷む。身体も冷える。除外』
『迷いの竹林。三日間遭難した。兎など二度と信じない』
『太陽の畑。地上に浮かぶ太陽の如く広がる向日葵は非常に美しい。が、夏の夜になると度々妖怪達がコンサートに集まってきて非常にやかましい。昼間は昼間で、大量の妖精達が集まって来る。こんなところにいては、悪戯の格好の餌食にされるだろう。何より、約一名の笑顔が怖い。顔見知りではあるものの、あまり親しくなりたいとも思わない。やはり除外』
等々。他にも地図内の様々な場所に、恨み事混じりの注釈が綴られている。
要するに男は、何かに適した場所を探して、幻想郷中を調べたのだろう。
そして何か――の答えは、人里と神社の間にある森沿いの場所、地図の中心からやや東に外れたところに記されていた。
『里と神社を結ぶ道沿いであれば、人も来やすく、妖怪も気兼ねなく訪れられる。日の光と森の陰気が交わる境界。あらゆるものに分け隔ての無い場所。幻想郷の中心。この場所こそ、“香霖堂”を建てるのに相応しい』
「ここに店をたてたんだ……」
呟きと共に、胸一杯に高鳴りが広がった。興奮によって上気した頬が暑い。自分がずっと探し求めいていたものは、こんな場所にあったのだ。
目をキラキラ輝かせ、魔理沙は歓声を上げそうになる喉をかみ殺した。上がりすぎた熱を鼻息として吐き出しながら、畳一杯に広げた地図をガサガサとかき集める。
静かに、迅速に。ここで祖父に見つかっては、全てがご破算だ。もうすぐ夕食の時間だから、そろそろ様子を見に来てもおかしくない。
祖父が来る前に、ここから抜け出さなくては。
抜け出してどうするのか? 決まっている。魔法使いの店へ行くのだ!
2
道具を隠していた扉から顔を出すと、案の定そこは屋根裏へ続いていた。
落ちていなかった道具がまだ幾つか扉の周りに残っていたが、もうそんなのはどうでもいい。どうせ使い方の分からないガラクタばかりだろう。
ガラガラと乱暴に道具たちを手で押しのけ、魔理沙は押し入れから屋根裏へと這い上がった。
服の中にしまっていた火炉を取りだし、火を付けて辺りを見回す。屋根裏とはいえ、ある程度風は通さなければいけない。どこかに外へ出られるところがあるはずだ。
勘に任せて、魔理沙は屋根裏を這い出した。邪魔な蜘蛛の巣は火炉の火で焼いて払い、物音を立てないよう慎重に進んでいく。大きな蜘蛛が手の甲にぼとりと落ちてきたときは悲鳴を上げそうになったが、それもどうにか堪えきる。
どこかでネズミの走る音が聞こえた。舞い散る埃のせいで息苦しい。目も痛い。暗い。怖い。けれど、それがどうした。そんなことで、今の私を止められると思うな。
涙を滲ませながらも、魔理沙は決して歩みを止めようとしなかった。
程なく、ぼんやりと月の光が差し込む場所を魔理沙は見つけた。はやる気持ちを抑えながら、そこを目指して一直線に進んでいく。
魔理沙が見つけた風通しの穴には小さな鉄格子がはめられていたが、それさえ外すことが出来れば、外に出ることが出来そうであった。
鉄格子はかなり錆付いており、手で揺するとグラグラと動いた。しかし流石に魔理沙の細腕では、どれだけ力んでも外すまでには至らない。
仕方ない、と魔理沙は身体の向きを変えた。気付かれないように祈りながら、仰向けの状態で思いっきり足を鉄格子に叩き付ける。ガンッ、と音が響き、鉄格子が僅かにずれた。
さらに二度、三度と足を叩き付け、四度目で遂に鉄格子は外へと抜け落ちた。
開いた穴から、恐る恐る魔理沙は顔を出した。外には――誰もいない。結構派手な音を立ててしまったが、誰かがやってくる様子もない。
「よし……!」
小さくガッツポーズをして、魔理沙は火炉の火を消し服の中にしまった。
慎重に穴を潜り、縁に手を掛けてぶら下がる。平屋とはいえ、小さな魔理沙にとっては結構な高さだ。
大きく三度の深呼吸。奥歯を噛み締め、睨むように地面を見やる。
大丈夫だ、自分は魔法使いになるんだ。魔法使いは空を飛ぶものだ。自由に、鳥のように。
意を決して、魔理沙は縁から手を離した。一瞬の浮遊感と、直後に足を襲う衝撃。ジンとした痺れが、爪先から腰の辺りまで奔ったが、転びはしなかった。
屋根裏の埃で真っ黒に汚れた手の平や膝小僧をパンパンと払い、顔を上げる。
まずは第一関門クリアである。
見たかジジイ、と得意げな顔を屋敷に向けて胸中で呟き、魔理沙は自分の部屋に向けて駆けだした。
部屋に辿り着いた魔理沙は、火炉の火を点けいつも寺子屋に行くのに使っている肩下げ鞄を引きずり出した。
自分が抜け出したことが知られたら大騒ぎになるだろうから、準備は迅速に行わなければならない。
まずは食料。少し前にお小遣いで買った金平糖があったので、それを鞄に詰める。それからいつも持ち歩いている癇癪玉と花火。野良犬ならこれで追い払えるし、妖怪相手にだって何とかなるかもしれない。そうだ、水も必要だ。水筒を持っていって、どこかの井戸で汲んでいこう。それと方角を知るためのコンパス。ずいぶん前に河原で拾ったもので、縁が少し錆び付いているが方角はちゃんと記してくれる。あと、あの部屋から持ってきた地図の書かれた紙束。
最後に、彼女が拾い集めた小石の中でもとっておきの一品。赤く輝く石を入れた小瓶を、大事に鞄の奥に仕舞い込んだ。
これで準備完了だ。もうここに用はない。鞄と水筒を肩に掛け、魔理沙は部屋から出た。
入ってきたときと同じように、人が居ないことを慎重に確認しながら廊下を駆けていく。夜はあまり使われない裏口から外へ。庭を塀沿いに進んでいくと、裏門から丁度奉公人らしき男が入ってきたので、慌てて木の陰に身を隠す。
幸い男はこちらに気付いた様子もなく、屋敷の方へと向かっていった。
ホッと胸をなで下ろし、木の陰から飛び出す。
遂に魔理沙は霧雨の敷地から逃げ出すことに成功した。
「へへん」
小馬鹿にした笑みと共に塀に一発蹴りを入れてから、意気揚々と彼女は夜の里へと繰り出す。
ここまで来れば、もうこちらのものだ。
とは言え、顔見知りと出会う可能性もゼロではないので、一応屋台の提灯が連なる大通りは避け、薄暗い小道を選んで魔理沙は進んでいく。
途中、長屋が軒を並べる脇で井戸を見つけたので、水筒いっぱいに水を汲んでおいた。
そのまま、里の中を北へ北へ。四半刻も歩いたところで、ようやく魔理沙は、里の端に辿り着いた。
里の周りは堀で覆われているので、出入りできるのはここを含めて東西南北の四カ所のみである。
堀は妖怪対策、と言うよりも周りに広がる田園に水を引くためのものだった。何せ妖怪はたいてい空を飛べるので、ぶっちゃけ意味がない。まぁ、獣除けにはなっているのかもしれない。
夜なので門は閉められているのだが、別に鍵が掛けられているというわけでもないし、見張りも居ないので出入りする分には何の問題もなかった。なにせ空を飛べる妖怪には以下略。
まぁ結局の所。平和なのだ、幻想郷は。
身体ごと押すようにして門を開く。瞬間、魔理沙を誘い入れるように、夜風が優しく頬を撫でた。
里から一歩出た世界は、魔理沙のまったく知らない空気を纏っていた。
振り返ればすぐそこに里はある。だと言うのに、魔理沙にはそれがガラス一枚隔てた別世界のように感じられた。このまま進めば、もう戻って来られないのではないか。違う世界に行った魔理沙一人を残し、霧のように里は姿を消してしまうのではないか。そんな益体もない想像が、彼女の脳裏を渦巻く。
パンッ、と徐に、魔理沙は両頬を手で叩いた。馬鹿言え、そんなことあるもんか。自分に言い聞かせるように、口の中で小さく呟く。
もう一度、前を向く。今立っているのは里の周りに広がる田んぼのあぜ道で、まだ見慣れた光景だ。その先に、博麗神社へと続く白い道が夜の闇に霞んで伸びている。道のずっと向こうに広がる森のシルエット。天には瞬く星と欠けた月。ああそうだ、この天蓋に広がる星空は、何よりもよく知る光景だ。
縁側で座って見た、屋根の上で寝そべって見た、父が悪ふざけで語った怪談のせいで寝付けなかった夜に、一人窓から見上げた星の海。里の中だろうと外だろうと、見上げる星空は何も変わらない。
服の中に仕舞っていた火炉を取りだし、火を付ける。この火炉の灯りが、自分が今まで進むことの出来なかった道を教えてくれた。あの仕置き部屋から抜け出す道。魔法使いの元へと辿り着く道。
星の光が不安の闇を消し、火炉の灯りが行く先の闇を照らしてくれる。この二つの光があれば、自分に行けない場所なんて何処にもないと、魔理沙には信じられた。望めばいつか、夜空に浮かぶあの月にだって行ける気がする。
「行こう。この先に魔法使いが居るんだ」
一歩踏み出す。躊躇いを振り払うように、続けて二歩、三歩。歩みを進める度に、足が軽くなっていくのを自覚する。
知らず、鼻歌がこぼれる。それは不安を忘れるための無意識の行為であったが、魔理沙は気付かなかった。この先にある漠然とした希望だけを見て、魔理沙は歩き続ける。
それはとても不用意で、危険な行動でもあった。
「いて!」
唐突に、魔理沙は転んだ。
何かに足を引っかけたらしい、と思ったのだが、不思議なことに道には石ころ一つ落ちていなかった。
確かに、何かが足に当たった感触があったのだが。首を傾げて考え込んでいると、今度はパコンと後ろ頭を叩かれた。
「ッ――だれだ!?」
反射的に後ろを振り返るが、やはり誰もいないし何も無い。
気のせい? いや、そんなはずはない。絶対に誰かいるのだ。
実際にされているのは子供の悪戯のようなことだが、得体の知れない何かがいるという事実は、魔理沙の危機感を煽るには十分だった。
ここにいちゃ危ない。慌てた様子で立ち上がろうとした魔理沙はしかし、腰を上げたところでドンッと胸を押されて、またひっくり返ってしまった。
「うぎゅ! う、うぅ~……!」
倒れた拍子に、今度は鞄の中身が地面にぶちまけられてしまう。
っと、その中の一つ、癇癪玉が、いきなりパンッと破裂した。
「うきゃあ!?」
悲鳴と共に、なにも無いところからいきなりひっくり返った少女が現れた。背丈は魔理沙と同じか少し大きいくらい。金髪の、クルクルとした巻髪をしている。そしてその背中には、薄く透けるような羽根――妖精だ!
「な、なに? 何か踏んだ? って……」
目と目が、パッチリとあった。
「お、お前のしわざかー!!」
「はわわわわわ~!?」
はうはう言いながら這々の体で逃げようとする妖精に、思いっきり飛びかかって押し倒す。
「ああ! ルナが捕まった!?」
「まずいわね、ここは一時撤退よ」
「ルナ、貴方の犠牲は無駄にしないわっ」
「って、即座に見捨てようとするなーー!!」
なにも無いところから上がった二つの声に、魔理沙に捕まった妖精が涙ながらの抗議を上げた。
どうやらまだ他にも仲間がいるらしい。逃がしてなるものか。
「うごくな出てこい! 出てこないと、こいつにヒドいことするぞ!」
「なんてこと! どうしようスター、敵はルナを人質に取るつもりよ」
「落ち着いてサニー。例え相手がどんな非道な行為に及ぼうとも、『てろりずむ』に屈してはいけないのよ」
「なるほど! 何か良くわかんないけどその通りのような気がするわ!」
「いや、普通に出てきてよ! 助けなさいよ! 友達でしょう!?」
むぅ、と魔理沙は唸った。どうやら敵は、断固としてこちらに屈しないつもりらしい。
ならばいいだろう。こちらは行動を見せつけてやるだけである。
「『へーわてきかいけつ』をのぞむわたしのことばをむしするとは……。そのセンタクのオロカさを思い知るがいい」
以前何かの本で読んだ台詞をうろ覚えで真似ながら、魔理沙は妖精の頭に手を伸ばした。
「いや、ちょ、な、何をする気……?」
「うふふふふ……」
その怯えた表情に嗜虐心をくすぐられ、自然と笑みが浮かんでしまう。
しかし正義は我にあり。例えどれだけ泣き叫ぼうとも、大義の前には些末なことだ。
魔理沙は砂粒ほどの容赦もなく、妖精の髪をガシリと掴み、
「出て来ないのならば、この巻髪のクルクルが二度とクルクルにならないように伸ばし尽くしてくれるわー!」
びよよ~んと思いっきり引っ張った。
「いやー! ちょ、痛い痛い痛い痛い!」
「な、なんて非道なー!? ルナの数少ない特徴であるクルクルを奪おうだなんて!」
「ドジッ娘とクルクルしかルナの『あいでんてぃてぃー』なんて無いのに!」
「クルクルの無いドジッ娘はただのドジ!!」
「ザ・ドジッ娘妖精ルナチャイルド!!」
「あ、アンタらどさくさに紛れて私の悪口言いたいだけだろ!?」
「さぁさぁどうする! はやく出て来ないと、髪がこうあれだ、へにょへにょとした感じになるぞ! しかも片側だけ!!」
「うう……指を咥えてみていることしかできない自分が恨めしいわ!」
「いいから出てこーい! たーすーけーろー!!」
「この上もしルナの弱点の脇の下を責められたりしたら、わたしもうどうしていいか……」
「ちょ、スター何そのあからさまな――」
「ここか?」
「うひゃいひ!? ひゃは、ちょっやめっ、ひぃー!」
脇の下をくすぐってやると、妖精は面白いように身体をくねらせて悶えだした。
「ああ、気をしっかり持ってルナ! 耐えるのよ、例えその足の裏をくすぐられようとも!!」
「サニー、アンタまで――」
「なるほど、足の裏っと」
「うひゃははははははは! ひゃめっ、アンタらいい加減に――!」
「あとうなじをそっと指で――(スター)」「つむじをグリグリ――(サニー)」「耳たぶを優しく――(スター)」「ほっぺたムニムニ――(サニー)」「お尻の穴にストローを刺して思いっきり息を――(スター)」
「ひぃぃぃやぁぁあああああああああああ!!!!?」
道ばたに咲いた月見草が、人知れずハラリとその花弁を散らした……。
3
一通り魔理沙と一緒になってクルクルの妖精を遊び倒した後、残り二人の妖精はごく普通に姿を現した。
その顔は得も言わぬ満足げな表情であったが、それはこの際どうでもいい。未だヒクヒクと痙攣しながら地面に倒れ伏しているクルクルの妖精と併せて、些細なことである。
「それで、結局お前らなんなんだ?」
魔理沙の問いに、妖精達はよくぞ聞いてくれましたと胸を張った。
「あたしはサニーミルク。日の光の妖精!」
「わたしはスターサファイア。星の光の妖精」
「んで、そこで倒れてるのがルナチャイルド」
「ドジッ娘の妖精か」
「ちがあああう!!」
ガバチョとルナチャイルドが叫び声を上げながら起き上がった。片側だけがビヨヨンと伸びきった髪が、ドジッ娘妖精の名に違わぬ間抜けさを演出している。
「月よ月! 月の光の妖精!!」
「月が三でドジが七くらいの妖精ね」
「一日五回の転倒は当たり前」
「いい加減そのネタから離れなさいよ……!」
「ふ~ん、妖精なぁ……」
そんなギャーギャーと喚く妖精達を他所に、魔理沙はしげしげとその姿を眺めていた。
話には聞いていたものの、里から出たことがなかった魔理沙は今まで妖精を直に見たことがなかったのだ。
「さっき姿が見えなかったのは、妖精の力なのか?」
「妖精って言うか、あたしの能力。あたしは、光の屈折を操ることが出来るのよ」
「ひかりのくっせつ……?」
「こんなふうに」
言うや否や、パッとサニーミルクの姿がかき消えた。
「おお!?」
すぐにまた姿を現し、ほらね、と得意げにサニーミルクは語った。
「いいなー、それ……」
この力があれば、寺子屋も屋敷も抜け出し放題ではないか。実に羨ましい。
「他の二人も、なんか力あるのか?」
「そりゃあもちろん」
「妖精だもの」
サニーミルクを挟んで、二人はスチャッと決めポーズを取った。
「私が司るのは静寂なる月の光」
「あ、なにその前置きカッコイイ! あたしも言えばよかっ――」
不意に、サニーの言葉が途切れた。餌をもとめる鯉みたいに口だけをパクパクさせているが、いっこうに声が出てこない。
――なにやってんだ? と口にして気付く。自分の声も、いや、風の音も何もかもが消えて完全な静寂が支配していた。
「――と、まぁこんなふうに音を消せる訳よ」
「すげぇ! なんも聞こえんかった!!」
「そしてわたしは、降り注ぐ星の光。生きとし生けるものの存在を知覚する力。そう例えば……」
言って、スターサファイアはグルリと辺りを見回した。
「あそこの木には、今三羽の小鳥がとまっているわね」
「へ~……」
自信満々のどや顔で語ったスターにしかし、魔理沙の反応はすこぶる低かった。
「……お前のは、なんかジミだな」
「じ、地味……」
と言うか、そんなの言われても本当かどうか確かめられないから、どう反応していいのか分からんし。
「地味さがスターの魅力だものね」
「ルナ、根に持ってるのね……」
クスクスと皮肉げな笑みを浮べて語るルナに、頬をヒクつかせるスター。そんな二人を、間にいたサニーがまぁまぁと抑える。唯一被害を被っていない者の余裕だろう。
「ていうか、あなたこそこんな処で何してるの? 人間の子供がこんな時間にさ」
ニヘラ、と。サニーの問いを聞いた瞬間、魔理沙は喜色満面の笑みを浮べた。
「……ききたいか?」
「え? いや、え~っと……」
その笑顔のあまりの気味悪さに、若干引き気味になるサニー。
しかし魔理沙はそんな様子に気付いた様子もなく、あまつさえ返答すらも待たずに、そーかそーかそんなに聞きたいかとガサゴソ鞄を漁りだした。
「あたしはな……これから魔法使いにあいにいくんだ!」
バーンと紙束を前に付きだして宣言した魔理沙の言葉に、妖精達は「魔法使い!?」と口をそろえて声を上げた。
「なにそれ面白そう!」「どういう事?」「この辺に魔法使いなんていたの?」
先程とは打って変わって興味津々食いついてきた三人に、魔理沙はますます笑みを深めた。
「この紙束をウチで見つけたんだ。ウチの店で前に働いてたやつが書いたらしくてさ……て、これじゃ暗くてよめないな」
紙束を一旦腋に挟み、今度は例の火炉を取り出す。
パチンとつまみを弾いた瞬間、わっと声が上がった。
「火が点いた!」
「これもいっしょに見つけたんだ。油も火種もないのに火がつく。魔法の道具だ」
火炉と紙束を地面に並べ、四人で囲んでしゃがみ込む。
「これによるとな、この道具をつくった魔法使いが、魔法の森のそばに店をたてたって書いてるんだ。え~っとどれだっけ……あそうそう、これだこれ」
地図の中から店の位置が記された一枚を見つけ出し、三人に見せてやる。
「へぇ~。……こう……なんとかどう? なんて読むのかしら」
「これどの辺かな?」
「このまわりの地図もある」
ペラペラと周辺の地図も並べていくと、妖精達は直ぐに、「あ~」と納得したような声を上げた。
「ここからなら、森を抜けた方が近いんじゃないかしら」
「そうなのか? でも森の中ってキノコのほうしがあぶないって聞いたことあるぞ?」
スターの言葉に、魔理沙が問い返す。
「森の浅い部分なら平気よ。逆に、妖怪に会いにくいから安全なぐらい」
「森の中全部は無理だけど、この辺りなら道も分かるわね」
「ほほ~う……」
沈黙。しばし互いの顔を見つめ合った後――四人はガシッと手を組んだ。
和平、及び同盟成立、である。
「わりと、ちゃんとした道が通ってるんだな」
三妖精の案内の元、暗い森の中を火炉の火で照らして歩きながら魔理沙は呟いた。
てっきり獣道のような場所を通るのかと思っていたのだが、魔理沙の予想に反して、森の中には人の手で作られたのであろうまっとうな道が延びていた。当然、ロクに整備もされていない様子であったが、それでも二、三人が並んで通れる程度の広さはある。
「いつ誰が引いたのかは分からないけどね。さっきも言ったけど、キノコの胞子対策さえしとけば、森は安全なのよ」
「あたし達の家も、森の中にあるしね」
スターとサニーが、それぞれ続けざまに語った。
「へぇ、妖精も家なんてもってるのか」
「まぁ、持ってないのも居るけど。私達の家は特別よ? おっきな木の中に家具も一通り持ち込んで暮らしてるの」
「木の中にすんでんのか!」
それは何とも“妖精らしい”暮らしである。是非一度お招きに預かりたいものだ。
もっと詳しく聞きたい。そう思って口を開こうとしたときだった。どこかでけたたましい鳥の鳴声が響き、魔理沙はビクリと身を竦ませた。
聞こえた方向へ目を向けても、暗く深い森のこと、星明りは届かず、火炉が照らせる範囲も僅かで、見つけられるわけもない。
鬱蒼と茂る木々の隙間に広がるのは、何も見えない暗闇ばかり。その向こう側に何かが潜んでいても、その何かが突然飛び出してきてもおかしくないのではないか。そんな想像が、改めて魔理沙の不安を煽った。
「……ここ、ホントに妖怪とかでないんだよな?」
思わず口を突いて出た魔理沙の言葉に、三妖精が顔を見合わせた。少女の見えない背後で、ニヒリと笑いあう。
「どうかな~。たまに出ることもあるしね~」
「そ、そうなのか……」
サニーの言葉に、魔理沙は若干掠れた声で返した。
実際には、例え妖怪がいても近づく前にスターの能力で分かるのだが、今の魔理沙にはそこまで考えられる余裕はなかった。
「そう言えば、最近も妖怪見たわね。こーんな大きいの」
「そうね、熊よりも大きかったわ」
サニーの言葉に乗っかってルナが大きく手を広げながら語り、スターも後に続いた。
「うんうん、人間なんて一呑みにできそうなくらい」
「常にガルガル唸ってたよね。血に飢えてる見たいに」
「それで大きな目がギラリと光ってて――」
「その、うなりごえって言うのは……」
そんな物騒なことをキャイキャイと楽しそうに語る三妖精を、魔理沙は小さく震える声で遮った。
ゴクリと唾を飲み込み、指先をゆっくりと前方に向け、
「あんなかんじ、か……?」
「「「へ?」」」
魔理沙の怯えた様子に、してやったりとニヤついていた妖精達の顔が凍り付く。
魔理沙が指さした先では、道が左右二つに分かれていた。例の魔法使いがいるという店は右に曲がった先にあるわけだが、その反対側、左の道の奥から、微かに音が聞こえてきていた。
ガルガルだかガラガラだかいう、低い、そうまるで獣の唸り声のような。
「す、スター……?」
サニーから掛けられた声に、スターはハッとなって気配を探り出した。
確かに、何かが近づいてくる気配を感じる。その大きさは――
「く……熊より、大きい、かも……」
サーッと四人の顔が青ざめる。
瞬間、大きな黒い影がヌッと道の先に現れた。
四つ足で歩く獣のような影。丸めた背中は大きく盛り上がっており、大の大人ほどもありそうだ。立ち上がれば、いったいどれ程の大きさになるのだろうか。少なくとも、熊や虎など及びもつかないだろう。
グルリと、首がこちらに向けられる。木々の隙間から僅かに漏れる月明かりを反射して、その大きな瞳がギラリと光った。
――ヒッ……!
そう息を呑んだのはいったい誰だろうか。或いは四人全員のものだったのかもしれない。兎にも角にもそれが引き金となり、
「「「「っっっきゃぁあああああああああああ!!!!」」」」
耳を劈くような悲鳴を上げ、少女達は一目散に森の中へと逃げ出した。
「……なんだ?」
えっちらおっちらと大八車を牽いていた足を止め、彼は訝しげに首を傾げた。
幼い少女らしき人影が、悲鳴を上げて逃げていったようだが。里の外に人間の子供がいるとも思えないので、妖精か何かだろうか。どちらにしろ、こんな時間に森の中を彷徨いているというのは、珍しいことではあった。
「まぁ、僕が言えたことではないか」
溜め息をつき、大八車にこんもりと積み上げられた道具達を見やる。
いつもどおり無縁塚へ仕入れ――いや供養に行っていたのだが、いつもと違ったのは今日が希に見る豊作の日であったと言うことだった。
運べる道具には限りがあるので可能な限り選別をしたのだが、その選別に時間が掛かり、その上選別して尚この量である。大八車を牽くのも一苦労で、すっかり日が暮れてしまった。
さっさと帰って風呂にでもゆっくり浸かりたいところなのだが、
「……ん?」
月明かりに反射する眼鏡の奥で、瞳が道の先に落ちている何かを見つけた。
僅かに悩んだ後、彼は大八車をその場に置いて、何かの元へと足を向けた。
「これは……」
拾い上げる。それは色褪せた一枚の紙だった。常であれば、こんなもの気に止める必要もないだろう。何の価値を見いだすこともなく、ゴミ箱にでも放り込まれるのがオチだ。
「何故これがここに……」
自分の書いた文字が書かれていなければ、だが。
「はぁ、はぁ、はぁ……もう、へいき、か……?」
木にもたれ掛かりながら、魔理沙は息も絶え絶えにそう訪ねた。
「大、丈夫……もう、追ってきてない、わ……」
気配を探ったのだろう。スターが同じく息を荒げながらも、そう断言した。
「びっっっくりしたぁ。なにあれ妖獣?」
「じゃないの? あんなおっきいの初めて見たけど……」
「初めて?」
ルナの呟きに、魔理沙が疑問の声を上げた。
「あっ、いやえっと……」
「そ、それよりどうする? また道に戻る?」
「それは……またあの妖獣に会っちゃうんじゃないのか?」
「でも、このまま森の中を進むのもね……。夜だし、迷っちゃうかも……。せめて方角くらい分からないと」
「コンパスならあるぞ?」
「え、ホントに?」
「ちょっとまて……と、あった」
鞄の中から取りだしたコンパスを、ほいっとサニーに手渡す。
「錆びてるじゃない。大丈夫なの?」
「え~っと……うん、ちゃんと北を指してる。これなら平気ね!」
横から覗き込んできたルナに、クルクルとコンパスを回しながらサニーは答えた。
「それじゃあ、このまま進みましょうか。取り敢えず、北東に歩いていけば大丈夫でしょ」
スターの言葉に、三人はオー! と威勢良く拳を上げた。
グチョリと。
初めは湿った草か何かを踏んだのかと思った。
だから何の気無しに足元を見て、何か赤黒いブヨブヨとしたものとその隙間から覗く白い何かが目に入った時も、それが何なのか直ぐには理解できなかった。
ただ頭では理解しないまま、身体だけが殆ど尻餅をつくようにして後ろに下がっていた。
「わわ! 何どうしたの――って、うっわ……」
「あらあら……これは酷いわねぇ」
「さっきの妖獣にやられたのかしら?」
妖精達の暢気な呟きが、酷く遠くに聞こえた。変わりに喧しいのは、自分の心臓の音だ。
ドクドクドクと張り裂けそうなほど激しく心臓が鼓動する度に、今見た光景がフラッシュバックのように脳裏に映し出される。
ぐずぐずぐに引き裂かれた赤黒い固まり。それにべっとりと張り付いた、或いはこそぎ落とされた黒い藻の様なもの。ポッカリと空いた二つの黒い空洞。剥ぎ取られ、露わにされた白い中身。あれは、
「変な格好した人間ね。外来人かな?」
――にんげん。
「うわああああああああああああ!!?」
気がつけば、魔理沙は喉が潰れんばかりの叫び声を上げていた。
「ちょ、大声出さないでよ!」
「妖獣に気付かれるじゃない!」
「だっ、それだってっ、に、にんげ――なんでお前らは平気なんだよ!?」
魔理沙の言葉に、サニーとルナは、キョトンとした表情を浮かべた。
「なんでって……そこまで珍しい事じゃないし」
「里にいると見る機会無いのかしら? 妖怪がいるんだし、こういう事もあるわよ。特に、迷い込んだ外来人なんか狙われやすいし」
外来人? 外来人って何だ? 何でそんな姿になってるんだ? ここは平和な幻想郷だろう?
人里じゃ、みんな暢気な顔して過ごしてるんだ。寺子屋では退屈な授業を聞かされる。帰り道では露天が客引きをしていて、お駄賃に余裕があれば麩菓子や水飴なんかを買い食いするんだ。買い食いできなくたって、家に帰ればご飯が食べれる。三食欠かさず、美味しいご飯。食べ終わった頃にはお風呂が沸いていて、お風呂から出ればきれいな布団が敷いてある。寝間着に着替えてお休みなさい。寒い思いをすることもなく、ただ平穏な睡眠が身を包んでくれる。そんな日がずっと続いていた。一日だって欠けたことはなかった。
家の中ならば。里の中ならば。
「――待って、これ妖怪じゃないかも」
「え?」
一人、死体を眺め続けていたスターがそんな言葉を上げた。
「噛口が小さいし、バラバラだわ。これは……」
不意に、スターが立ち上がった。強張った顔で、グルリと辺りを見回し、
「ごめん、気付くのが遅れた!」
「な、なに、妖怪?」
「違うもっと厄介なの! 野犬に囲まれてる!!」
「ええ!?」
野犬? 犬っころ? 呆然とする魔理沙をよそに、三妖精はにわかに慌ただしく騒ぎ出した。
「どうしよう、姿を消しても野犬じゃ匂いで気付かれちゃう!」
「飛んで逃げるしかないでしょ! ほら、貴方も早く立って!」
「あ、うん……」
ルナに急かされ、魔理沙はようやく立ち上がった。
サニーとルナがそれぞれ彼女の両手を、スターが後ろから腋をガッチリと掴む。
「持ち上がるかなぁ?」
「やるしかないでしょ。ほら急いでッ」
せーのと声を合わせて、魔理沙と一緒に妖精達は浮かび上がった。
フラフラと頼りなげな飛行で、木々の隙間を抜けて空へ上がろうとしたところで、不意に横から黒い影が飛びかかってきた。
「うわあ!?」
鈍く輝く牙が、魔理沙の着物の裾を浅く引き裂く。その拍子に、手に持っていた火炉がポロリとこぼれ落ちた。
「あ!」
「わ、馬鹿!!」
咄嗟にそれを追いかけて手を動かそうとしたのがいけなかった。掴んでいた妖精達の手から、魔理沙の体がずるりと抜け落ち、落下していく。
「ぐえ!」
背中から落ちた衝撃で息が詰まる。けれども、悠長に咳き込んでいる余裕など魔理沙には無かった。
目の前に、ハァハァと荒い息遣いで舌をだらりとぶら下げた犬の顔があった。
「あ、ああ!?」
野犬が牙を剥く。その寸前、殆ど偶発的に、魔理沙は落ちていた火炉を掴み取っていた。
前に突きだし、火力を目一杯にまで上げる。立ち上る炎。顔を軽く炙られた犬が、甲高い鳴声を上げながら地面を転がった。
「早くこっち――きゃあ!?」
魔理沙を助けようしてか。降りて来ようとした妖精達にしかし、別の野犬が飛びかかる。
噛みつかれはしなかったが、あれではとても魔理沙を拾い上げる余裕など無いだろう。
「走って逃げて! 西の方はまだ数が少ないから!!」
「う、あ……」
スターの言葉にも、魔理沙は身体を動かすことが出来なかった。
走って逃げる? 一人で? 嫌だ、怖い。一人で、こんな森の中を逃げるなんて。たまらなく恐ろしい。
けれども、野犬たちは待ってなどくれない。顔を炙られた犬は、血走らせた目をこちらに向けて今にも立ち上がろうとしている。サニー達に飛びついている犬だって、いつこちらに向かってきたっておかしくない。
周りの木々の隙間から覗くのは、幾対もの暗い瞳。湿り気を帯びた、無数の荒い息遣い。全ては魔理沙に向けられる、敵意ですらない摂食の意志。
「早く!!」
「う、あ、ああああああ!!」
叫びながら、殆ど這うようにして魔理沙は駆けだした。
西の方角など今の魔理沙には判断が付かなかったが、とにかくスター指さしていた方へと遮二無二足を動かす。
――ザッ、と横合いから地を蹴る音が聞こえた。
寸前まで魔理沙がいた場所に、牙を剥いた野犬が躍り出てくる。
人間の子供と野犬の足、どちらが速いかなど比べるまでもない。泣き叫びたくなる衝動を必至に堪えて、魔理沙は着物の懐に手を突っ込んだ。
「ひぐっ、野犬が何だ! 犬ッころなんて!!」
先ほど背中から落ちたのは、僥倖であったのかも知れない。腹から落ちていれば、コレのおかげで大変なことになっていた。
魔理沙は掴んだ癇癪玉を、背後を向いて思いっきり叩き付る。
足下で起きた連続する破裂音に、野犬がまた悲鳴を上げて転がった。
「みたか! 野良犬なんて――」
魔理沙が言い終えるより先に、間髪入れず、その背後から数匹の野犬が飛び出してくる。
「うわぁあ!?」
さらに二度、三度と癇癪玉を投げつける。しかし、今度の野犬たちは転がることはなかった。ただ、迂闊に飛びついてくることもない。
まるで魔理沙を包囲するように、周りをグルグルと回り出す。
「なんだよ……なんなんだよ!?」
里にいる野良犬なら、癇癪玉を投げつけてやれば情けない声を上げて直ぐに逃げていった。一度そうやって追い払った野良犬は、怖がって二度と近寄ってくることはなかった。
「うう……うううううー!!!」
里の周りは、田園に水を敷くために堀で囲まれている。獣除けにもなっているかもしれない。妖精を見たことはなかった。妖怪に会ったこともなかった。そして魔理沙は、『獣』と言う存在も、知りはしなかった。
ただの犬が、こんな風に群れて襲ってくるなんて想像もしていなかった。
――自分は、何も知らなかった。
ただそれだけを、魔理沙は理解した。
里の外のことを。妖精のことを。妖怪のことを。獣のことを。怖さを。恐ろしさを。自分の弱さを。
誰かが、あるいは自分自身が、彼女を笑う声が聞こえた。愚か者と。野犬の息遣いさえも、彼女をあざ笑う声に聞こえた。
寺子屋の友達が笑った。教師が笑った。露天商が笑った。家の奉公人が笑った。魔理沙の知るあらゆる人間が笑った。
最後に、祖父が現れた。祖父は笑わなかった。ただ静かに、失望した声音で「馬鹿娘が」と吐き捨てた。だから、
「う、る、さぁあああああい!!!!」
気がつけば、魔理沙は叫んでいた。
激情のまま、鞄の中に腕を突っ込む。
「だからなんだ! 知らなかったからなんだ! 馬鹿にすんな! 知りたいから外に出たんだ!!!」
掴みだしたのはネズミ花火の束だ。それを躊躇無く、腕ごと火炉の炎に入れた。
「それのなにが悪いんだ! ふざけんな! 死ぬもんか!! 笑わせるもんか!!」
手の中から無数の花火が飛び交い、火花を撒き散らす。
周りを囲んでいた野犬が、驚きに吠えながら動きを乱した。
その隙を逃さず、魔理沙は全力で駆け抜ける。魔理沙の行く先に、一匹の野犬が躍り出てきた。それ以上行かせないと言うことだろう。身を低く唸る野犬に、魔理沙もまた火炉を両手で大きく振りかぶる。
火に焼かれた右手はジンジンと痛んだが、それさえも気勢を煽る力となった。
「じゃま、すん、なああああ!!!」
――ゴッ!!
火炉の角で、野犬の頭を思い切り打ち据える。舌を出して吹き飛ぶ野犬。
しかし付けすぎた勢いを殺せず、魔理沙もまたゴロゴロと地を転がった。
口いっぱいに広がる土の味。歯を噛みしめると、小石がガリリと音を立てた。骨の髄に響く激痛は、もしかしたら歯が欠けたものかも知れない。けれど、気付けには丁度いいと思えた。
「おまえらなんかに、じゃまさせるもんか……!!」
顔を上げる。好機と見てだろう、野犬が一斉に群がってきていた。
「あたしは、知るんだ! 覚えるんだ!!」
立ち上がっている時間はない。
「外のことを! 妖怪のことを! 妖精のことを!」
火炉を、向かってくる野犬達に向けて真っ直ぐ突き出す。
「魔法のことを!!!」
「――知りたいかい?」
彼女をあざ笑う声が消えた。変わりに聞こえた声は、誰のものだろう? 初めて聞く声だった。
火炉を抱える魔理沙の手を包み込むように、背後から大きな手が添えられる。
「語り聞かせるのは吝かではないが。まずはそう、実際に見てみるといい」
野犬の群れは止まらない。むしろ新たな獲物が増えたと、勢いを増しているように見えた。
「太極、両儀、四象――八卦」
知らぬ声の呟きと同時に、手の中の火炉が、バカリと八つに開いた。
驚きに手を放してしまうが、火炉は何故かその場に浮いたままで、淡い光を放ちながらクルクルと回転を始める。
「離」
ボウッ、と回転する火炉が、拳大ほどの炎に包まれた。炎は添えていた手の平にも触れたのだが、不思議なことに熱さは感じなかった。
「巽」
周囲から、渦を巻くように風が吹いた。その風に煽られ、炎がさらに大きく立ち上る。
その勢いを受け、野犬達が僅かにたじろいだが、その中の一匹、魔理沙に最初に襲いかかってきた者であろう顔半分が焼け焦げた野犬だけは、勢いを止めなかった。
煽動するような高い吠え声に、周りの野犬も再度勢いを取り戻す。
犬たちが地を蹴る。四方八方から、牙を剥いて飛びかかってくる。その勢いは、こんな炎で止められるような物でもない。次の瞬間には、牙は魔理沙の肉に突き立ち、食い千切っているだろう。
「乾」
瞬間、炎は天多(あまた)の火の粉へと姿を変えて広がった。
飛びかかってきていた野犬たちのこと如くが、火の粉によって撃ち落とされていたが、もう魔理沙はそんなこと頭の片隅にも気に止めていない。
ただその『魔法』が生み出した光景に、呆然と目を奪われていた。
火の粉は、魔理沙を中心に、まるで天体を巡る星のように渦巻いていた。遥か夜空の向こうに見ていた星々が今、手を伸ばせば届きそうな程間近に有る。
この身がまるで雲を超えた宇宙の中心に浮かんでいるような、星々の全てをこの手の中に収めたような、そんな錯覚さえ魔理沙は覚えていた。
この日、この時、この場所で。
魔法によって生み出されたこの光景に、霧雨魔理沙は生まれて初めて、『恋』を知ったのだ。
十数秒もたたぬうちに、魔法の効果は切れた。
目の前の小さな少女の身体がクラリと傾くのを、慌てて支える。見れば、どうやら気を失っている様子だった。まぁ無理もないだろう。
周りには、火球に打ち据えられて累々と横たわる犬たち。死んではいないだろうが、それなりの痛手は負わせているはずである。
グルグルと低い唸り声を上げて、一匹の野犬が身を起こそうと藻掻いていた。顔に火傷のある一匹。おそらく、この群れのリーダーであろう。
震える足で立ち上がったその身に向け、彼は火炉を突き出した。
「去れ」
小さく告げる。野犬は動かない。
その目は敵意に満ちた物であったが、同時に恐怖による翳りも垣間見えた。
「……去れッ」
再度告げた、語気を強めた言葉に、野犬はついに尾を向けて逃げ出した。周りに倒れていた仲間達も、フラフラとその後に続いていく。
それを見届けて、青年は深く安堵の息をついた。
実のところ、この火炉はもう壊れて使い物にならない状態であったのだ。
なにぶん試作品であり、しかも忘れたまま十年近く放置していた代物である。むしろ一度だけとはいえ、まともに機能したこと自体が幸運であろう。
「店を始めるごたごたで、何処に行ったかと思っていたが……」
まさかこんな形で再会することになるとは。
しかし、この火炉を持っていたと言うことは、この子供はやはり――。
「……なるほど、母親によく似ている」
穏やかな表情で眠る少女の顔を眺め、納得した。おまけに彼女の無鉄砲さも、色濃く受け継いでいると見える。
霧雨の若旦那は、つくづく大変な結婚をしたものだと苦笑してしまった。いや、もう『若』ではないか。
「さて、と。どうするかな……まぁ連れて帰るしかないんだが」
使い物にならなくなった火炉を腰に下げた鞄にしまい、少女を負ぶって立ち上がる。
と、不意に木の葉の揺れる音が響いた。
なんだと目を向けると、木々の隙間からこっそりとこちらを覗き見ている妖精らしき姿。
どう言った仕掛けか、妖精達は目があった瞬間パッと姿を消してしまった。
フム、と僅かに思案した後、青年は朗々と口を開いた。
「ここから北東にずっと行った先、森の側に店が建っている。店の名は香霖堂。僕は店主の森近霖之助だ。もし客として訪れてくれたなら、それなりにサービスさせて貰うよ」
返事はない。まぁ臆病な妖精のことだ、仕方がないだろう。気にするようなことでもない。
「どうぞ、ご贔屓に」
最後にそれだけを呟き、霖之助はその場を去っていった。
4
次の日の朝は、彼の店には似つかわしくない、それはそれは騒がしいものとなった。
「あたしをここに住まわせてくれ!」
互いの自己紹介や状況の説明をし、朝食を食べた直後の魔理沙の第一声がこれである。
「……なに馬鹿なことを言い出すんだ君は」
「魔法を教えてほしいんだ! なーたのむよ、いいだろこーりん」
「僕の名前は森近霖之助だよ。さっき教えたろう」
「呼びにくいんだよー、その名前。『こうりんどう』の店主だから『こーりん』だ。分かり易くていいだろ?」
良くない。が、子供の言うことにムキになるのも馬鹿らしいと思い、その件についてはスルーした。まぁそれよりもだ。
「住まわせることは出来ないよ。朝食の片付けが済んだら里に送っていくから、君も準備をしていなさい」
「え~!? なんでだよ、家の手伝いもするぞ? 料理とか、洗濯とか」
「出来るのかい?」
「いや、やったこと無いけど……。お、覚えるからさ!」
論外である。絶対に無駄な手間が増えるだけだろう。
「そもそも、僕は道具屋だ。魔法を教えられるような立場じゃあない」
「昨日使ってたじゃんか」
「アレは道具のおかげだ。その道具も、もう壊れてしまって使えない。そう言うわけで魔法は教えられない」
話は以上、と食器をまとめて台所に行こうとしたものの、足にしがみついた魔理沙がそれをさせてくれなかった。
「それでも知識はあるんだろ!? 『知りたいかい?』って言ったのこーりんじゃないかー! なー、まほう教えてくれよー。まほうまほうまーほーうー!!」
何て我が儘なんだ。子供というものが、これ程までに鬱陶しいものだったとは。ひたすら額をペチペチ叩いてやりたい衝動に駆られたものの、流石にそれは自重する。
代わりに、なんで寝ている内に里に連れ帰らなかったのだと、霖之助は昨夜の自分の罵っておいた。
「なんと言われようが、君をここに住まわせることは出来ない! 両親も心配しているだろう、大人しく里に帰りなさい」
「む~……。ふん。わかったよ、帰ってやるよ」
少々厳しい口調で言いつけたおかげか。魔理沙はようやく彼の足から手を放した。やれやれ、ようやく聞き分けて、
「まぁいいさ。教えてくれるまで通えばいいだけの話しだしな」
――なんだって?
「君は昨日死にかけたばかりだろう! まだ懲りていないのか!?」
「しるかい! 次は上手くやるからへーきだね!」
「どこからそんな自信が出てくるんだ……」
「誰がなんと言おうと、あたしはまた来るからな! ぜったいだ!」
ギンと睨み付けてきた魔理沙の瞳に、霖之助はグッと言葉を詰まらせた。
別に怯んでしまったわけではない。ただこの目を見たときに確信してしまったのだ。本当にこの娘は、またここにやって来るだろうと。
どれだけ厳しく躾けたとしても、必ず家を抜け出してくる。それこそ、部屋に監禁でもしない限りは。
暫しの睨み合いの後、霖之助は大きく溜息をついた。敗北、であった。
「分かった……。ちょっと待っていなさい」
そう言いつけて、霖之助は居間から店の方へ。商品棚の中から、一つの小さな護符を取り出し、戻ってくる。
「魔法を教える教えないは別にして、ここに来るというのなら、必ずコレを持って出なさい。妖怪除けの護符だ」
「ようかいよけ?」
「そう。この護符は、周りにいる生き物の不安を煽るものだ。人間には殆ど効果は無いが、精神的な攻撃に弱い妖怪や、敏感な獣なんかは自然と近寄ってこなくなる」
「へ~! もらっていいのか!?」
「商人がタダで物を譲ったりするものか。貸すだけだよ」
心底忌々しそうに、霖之助は吐き捨てた。
「ただし、例えコレを持っていても、絶対に夜は里から出ないこと。来るなら昼間にするんだ。それが守れないようなら、その護符も返して貰うし、二度とこの店の門は潜らせない。いいね?」
これだけは決して譲れないことだった。
こちらの真剣さを魔理沙も感じ取ったのだろう。先ほどまでの騒ぎようとは打って変わって、神妙な面持ちで魔理沙はコクリと頷いた。
「やくそくする」
「ならいい。今回は僕の負けだ……」
全く。こんなものを渡してしまって、恩ある霧雨の家にどう詫びればいいのか。当分顔を見せられそうにない。
まぁそれが無くても、ここ数年会っていなかったわけだが。
「あ、そうだ!」
急に魔理沙が声を上げ、ドタドタと居間から出て行った。いったい何だろうかと疑問に思う間もなく、彼女が持っていた鞄をひっさげて戻ってくる。
「これやるよ! 河原でひろった中でもいっちばんキレイな石! あたしの宝物なんだ!」
そう言って手渡されたのは、真っ赤な石の入った小瓶であった。
「これを、僕に?」
「『おちかづきのしるし』ってやつだ! そんじゃ、今日のところはもう帰るな!」
「なに? いや待て、送っていくと――」
「これがあればへーきなんだろ? だいじょーぶだって、じゃあまたな!!」
護符を手にそう言って、魔理沙は止める間もなく店から出て行った。
「……まったく、何て子だ」
頭痛のしてきた頭を抑えながら、霖之助は改めて手渡された宝物とやらを見やった。
まぁ子供の拾った石である。どうせなんの価値もない石ころであろ、う、が?
――名称:ティムール ルビー
「……本物の、宝石?」
それも、すこぶる曰く付きの代物であった。
「じ、冗談じゃない!」
こんな物、気軽に受け取れるものか。小瓶を手に、霖之助は慌てて魔理沙の後を追った。
しかし結局の所、一度渡した物だからと魔理沙は頑として返品を受け入れなかった。
おかげでこんな代物を受け取った手前、霖之助は魔理沙のことを邪険に扱うわけにはいかなくなってしまったわけだが、それはまぁ、後のお話、である。
― 了 ―
あと未来に繋がる予感を感じさせる部分がちょくちょくあってニヤリとさせられました。
ルナ悲惨wwww
無邪気で真っ直ぐで世間知らずな子供の愛らしさを良くぞここまで描いてくれました。
ここまで爽快な読後感は久しぶりです。
次作も期待させてもらってよろしいでしょうか。うわあ、まだ胸がキュンキュン言ってやがるw
子供ならではって感じの無鉄砲な行動が良いですね。
話の流れもうまかったし純粋に楽しめたよ
王道っていいね。胸のドキドキがたまらん
誤字報告
>慎重に穴を潜り、縁に手を掛けてぶら下がる。平屋とはいえ、小さな魔理彩にとっては結構な高さだ。
×魔理彩→○魔理沙
普段「借りて」いく商品も、実は全額支払い済みというわけだ
まさにワクワクドキドキなお話でした。
登場キャラがキラキラと輝いており、読み終えるまであっという間でした。
実に楽しかったです。
あとルナがとても可愛い。
楽しい話でした
『エルマーの冒険』みたいな冒険譚に憧れて、わざとぐちゃぐちゃにした紙に宝の地図とか書いたっけ。すごい懐かしい。
そんな子供の頃の夢がぎゅっと詰まったお話でした。
『星』や『恋』に対する魔理沙の反応に、今の魔理沙を形作る片鱗みたいなものが見えたのも良かった。
本当に、今と地続きの子供時代の魔理沙を見れた気がしました。
それと、今さらですが、誤字報告。
感に任せて → 勘に任せて
博霊神社へと続く → 博麗神社へと続く