-男が笛を奏でると、街中から鼠が溢れ出し、次々に川へと飛び込んでいった。
街の人達が約束した報酬を出し渋ると、怒った男は再び笛を奏で始めた。
すると今度は街中の子供達が男の後に付いていった。
男と子供達は山に消え、そうして二度と現れることはなかった-
ハーメルンの笛吹―ドイツ・ハーメルン市街門に記された碑文―より
-この男の正体は、悪魔であったとされる-
同碑文―より
「――ですから、こうして感染者の体液を浸したこの針を刺ことで、黒死病から身を守ることが出来るのです」
私の声が豪奢な部屋に響く。豪奢とは言っても、あの目も眩むような大聖堂と比べれば、質素なものだが……
それでも、私達のような人間が招かれる部屋としては、過分というものなのだろう。
「……本当なのかね、それは。俄には信じ難い話だが」
彼――司教が眉を顰める。
疑うのも無理はない。黒死病の穢れが伝染することは、既に知られていた。
穢れは鼠が運んで来て、人の間でも伝染する。だから、黒死病患者も……患者だった物も、その扱いには細心の注意を払わなければならない
――現に今、私達の前に居る司教は、奇妙な鳥のような面を被っている。
私達の吐いた空気から、少しでも口や鼻を遠ざける為に。
そんな状況下にあって、感染者の穢れをわざわざ……それも針で体内に取入れる予防法など、やはり信じ難い話ではあるだろう。
でも、此処で彼の承認を得られなければ、この国で救済活動は行えない。
「……間違いございません。私達は多くの村を旅して参りました。その中には、不幸にも黒死病で壊滅寸前の憂き目にあった街もありました。
しかし、一度黒死病が蔓延した地域で、二度に渡り同じことが繰り返された例は一度もなかったのです。
それは、私達がこの治療法を施した村にあっても、同じことです」
私が説明しようとすると、隣にいる先生が私の代わりに口を開いた。何枚にも重ねられたフードの奥から、くぐもった声が響く。
勿体ないなぁと私思う。
先生の声は、本当は静かで深みのある、とても綺麗な声なのだ。
仕方がないとは言え、先生がこんなフードを被っていなければならないのは、本当に惜しいことだと思う。
……もっとも、そうでなければ、助手である私は先生の隣に居られなかったかも知れない。それを思うと、少し複雑ではあるのだが。
「良かろう、その方法で試す許可を与える。ただし、人口の少ない村……此処から離れた場所から順に、ゆっくりと巡りなさい。
この街の人間にそれを試すのは、十分な安全性が認められてからだ」
そう言うと司教は、まるで蠅を追い払うように手を振って私達を部屋から追い出した。
「もう良いよ、先生。そんな暑苦しいもの、脱いでしまいなよ」
街に戻って安宿の小部屋を借りると、私は漸く人心地ついた気分がした。
「そうさせて貰うが……しかし、君は女の子なのだから、もう少し女の子らしい話し方をしたらどうだね」
お決まりの軽い小言を言いながら、先生がフードを脱いだ。
模様にも配色にも統一性のない、あり合わせの生地を縫い合わせただけの、サイケで悪趣味なフード。
その下から、病の痕跡を痛々しく残した先生の顔が顕になる。
先生は私の故郷の村の神父様だ。正義感の強い人で、黒死病が流行り始めた時も、一人で近隣の村の救済活動に行かれた。
先生には神の奇蹟を起こすような力はなかったが、勤勉で努力家な彼は、その活動の最中にこの予防法を発見したのだそうだ。
でも、その時既に先生も黒死病に犯されていて、命こそ取られなかったものの、故郷に帰って来た先生は、
もう人前に出られないような姿になっていた。
でも、そんな先生のお陰で、私達の故郷は黒死病の魔の手から逃れることが出来た。
皮肉にも、先生自身の体液を使った治療が村を救ったのだ。
それは私も例外ではなく、私はそんな先生の力になりたくて、先生が旅に出ると言った時、半ば強引に彼の後を付いて来たのだ。
「それにしても、司教様も器が小さいよね。私達の今までの実績と、これから行う救済活動の価値を考えれば、
邸に泊めるくらいしてくれても良いのにさ」
あの豪奢な司教の私室とは比べるべくもない、見窄らしい部屋を眺めながら、私が言う。
「そんなことを言うものじゃない。司教様にも、色々と事情がおありなのだろう――そんなことを言っていては、天国に行けないよ」
案の定、また先生に怒られた。
こういう人なのだ――私は心の中で苦笑する。こういう人だから、自分がしている活動の偉大さも、
それに見合った評価を受けていないことにも気付かないのだ。
……私の想いにも、きっと気付くことはないのだろう――こんなに露骨に、先生の真似をしていると言うのに。
それも別に良いかな、と私は思っている。
それに安宿暮らしは決して嫌いじゃない。こんな小さな部屋だから、こうして大好きな先生の近くに居られるのだし。
「さぁ、明日からまた忙しくなる。君も今日はゆっくり休みなさい」
先生の言葉に生返事をして、蝋燭の火を吹き消してから、私は自分のベッドに潜り込んだ。
それから一年間、私達は多くの村や街を訪ねて廻った。
最初のうちは懐疑的な目で見られ、時に石を投げられ追い返されることもあったが、そんな人々を粘り強く説得し、私達は治療を行ってきた。
予防の効果が現れ始めると、やがて噂は広まり、次第に私達は受け入れて貰えるようになっていった。
でも――。
「……先生。天国なんて本当にあるのかな?」
鼠に喰われた無惨な死体を眺めながら、私は問う。この村は、私達が訪れた時には既に全滅していた。
中にはこんな風に、私達の来訪を待つことが出来なかった地域もあった。
「勿論、あるさ」
地獄のような光景を前にして、なおも先生はそう断言した。
「私には信じられないよ、先生。この人達だって、こんな死に方をしなければならない程、悪いことをしていたとは思えないし」
死体の一つ々に丁寧に祈りを捧げていく先生の後ろ姿を見詰めながら、私は言葉を連ねる。
「……此処は天国ではないからね」
振り向かず、先生は答えた。
「天の道は遙けく、見え難いものなのだよ。それでも何処かに、天国はあるんだ。
何の不安も悲しみもなく、皆が幸せに暮らせる場所が――」
ふいに物陰から一匹の鼠が這い出して、私の足元に擦り寄ってきた。私が爪先で軽く小突くと、鼠は驚いて一目散に逃げて行った。
「――だってさ。今までいろんな場所を旅して来たけれど、天国への階段なんて、何処にもなかったじゃないか」
逃げていく鼠をぼんやり眺めながら、私は呟く。
「――探しなさい」
囁くような、祈るような――そんな小さな声で、先生が言う。
「君の生涯を賭けて探しなさい――それが、巡礼というものだよ」
その言葉に答えず、私は空を見上げる。夜の始まりを告げる朱に、私はその言葉の意味を探していた――。
「約束が違うじゃないですか!」
私が気色ばむと、鳥の面を被った兵士が私の前で槍を交叉させた。金属同士をぶつけた甲高い音が、余計に私を苛立たせる。
「全部の村と街を治療したら、報酬を払ってくれるって言ったじゃないですか!」
旅を終えた私達は、再びこの街を訪れ、司教と謁見していた。多くの人を救った聖者として迎えられるものと期待していたのに、
私達の待遇は一年前と同じ……いや、更に悪いものだった。
「よさないか。報酬なんてどうでも良いじゃないか。私達の活動で多くの人を救うことが出来た
――それ以上に君は何を望むというのだね」
小声で先生が窘める。
確かにこの約束は、私が勝手にとりつけたものだ。先生はこの旅に出る為に私財を擲って、あちこちに借金までしている。
先生はそんなこと気にもしないだろうが、それらを全て返済して、故郷の村でのんびりと暮らせる程度の報酬があっても良い筈だ……
こんな邸に住んでいるのなら、出し渋るような額では決してないのに。
私はなおも藻掻いたが、先生はそんな私を強引に引き摺って退室しようとする。
その時、鳥の顔をした司教が小声で呟いた。
「そもそも、君らの治療に効果があったという根拠はないのじゃないかね?
黒死病が退散したのは、全て神の思し召しと、我々の祈りの賜物だよ」
「――!」
――瞬間、怒りで目の前か真っ赤になった。
気が付くと私は先生の手を振り払って司教に飛び掛かっていた。
「放せ!」
とりまきの兵士が司教から私を引き剥がし、拳で私を打ち据えた。よろめいた私を、先生が受け止める
……その衝撃で、先生の顔を隠していたフードが地面に落ちた。
「――黒死病患者!」
「悪魔め! 貴様、司教を病で殺す気か!」
――辺りがざわめく。先程迄とは違う、明らかな殺意。
兵士の槍が私の喉に向けられる。鈍く光る穂先が迫って来るのを、私はただ驚いて眺めていた――。
「……先生」
永遠のような刹那の後、私の視界は朱に染まっていた。
私を庇い、槍に貫かれた先生の血で……。
「……探しなさい」
か細い筈の先生の声が、私の耳に届く。
「探しなさい、ナズーリン。天へ続く道を――」
先生の胸に飾られていた十字架が、ゆっくりと地面に落ちて――そして、哀しく澄んだ音と共に、砕けて散った……。
「……うわぁああああ!」
気が付くと、喧噪に背を向けて私は駆け出していた。
「はぁ、はぁ……っく、はぁ……」
――何処をどう走ったのか、思い出せない。気が付くと私はその場所に辿り着いていた。
塗り潰したような漆黒の闇――その中で、私は一人跪く。
「……悔しい、悔しい!」
地面に拳を叩き付ける。石畳とも土とも違う奇妙な感触が、私の小さな拳を受け止めた。
「……悔しいよ、先生――」
(――聖者の末路なんて、だいたいそんなものよ)
ざわり――。
……全身の毛が逆立つのが、自分でも解った。
ふいに開けた私の視界に、無数の赤い点が映った。
地面を埋め尽くす、数千、数万の鼠達……闇に輝くその赤い目が、静かに私を見詰めていた。
驚いて顔を上げると、空に幾筋もの亀裂が走っている……黒い鼠達が、まるで水が湧き出すように、その亀裂から次々と溢れ出していた。
(裏切られたことが、そんなに悔しいのかしら? 所詮信用できない人間達だって、最初から解っていたでしょうに)
揺らめくその亀裂の奥から、鼠達と共に女の声が吐き出される。
こんな穢い光景に不似合いな美しいその声が、優しく撫でるように私を嘲笑う。
その言葉に、私は拳をきつく握り締めた。
――悔しかった。
報酬なんて、本当は銅貨一枚でも良かったのに……ただ、私達のしてきたことを、誰かに認めて貰いたかっただけなのに。
それを、まるで踏みにじるようなあの言葉だけは、どうしても……許せなかった。
(それで、貴女は何になるのかしら? 今なら何にでもなれるわよ? ――悪魔になって、この街を滅ぼすことだって出来る。
貴女の望む姿にしてあげるわ)
闇を裂く亀裂から、女の声で悪魔が囁く。魂に飢えた悪魔の言葉で、女が私に問いかける……。
私は再び視線を落とした。視界を埋め尽くす鼠達の群れ……これだけの数を一度に放てば、予防なんて意味がない。
一週間と待たずに、この街もあの村のように、この世の地獄へと変貌するだろう……。
「――そうだね。私も悪魔になるよ」
亀裂の向こう側の悪魔に、私は願う。
「悪魔になって……この子達を連れて行くよ。誰の迷惑にもならない場所に――」
私に群がる鼠達が、不安げな目で私を見上げる。先生の体を介して、この子達の穢れは今も私の中にある。
それなら、彼らはきっと、私の子供のようなものなのだろう。
(――何故? 貴女はあの人間達に復讐がしたいのではなくて?)
悪魔の言葉に、私は唇を噛み締める。
……悔しかった。憎かった。殺してやりたかった――でも、それだけは出来ない。
――そんなことをしたら、先生のしてきたことが、本当に無かったことになってしまうから――。
ごめんなさい先生。貴方の待つ天国に、私は行けそうにないよ。
だから私は、私だけの天国を探します。
その場所で、せめて貴方を想うことが許されるのを願って――。
(……好きになさい。貴女はそれだけの代償を支払うのだから)
降りてくる闇の重さを感じ、私はきつく目を閉じる。遠ざかる意識の中、悪魔の声が最後に小さく呟いた。
(――貴女は泣かないのね)
……泣くもんか。私達は何も間違ってなんかいないのだから――。
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「あ痛いたた……」
無様に地面に突っ伏して、私は空を見上げる。抜けるような青空に、緑色の影が舞っていた。
あの緑色をした人間が、宝を探していた私の邪魔をしてきたのだ。鼠を馬鹿にするようなことを言うから、
少し痛めつけてやろうと思ったのだが――人間の女と甘く見ていたようだ。
私はあっさり返り撃ちにされ、こうして地面に墜落する羽目になったのだ……全く、酷い目にあった。
「はぁ……まぁ良いや。一休みしたら、また仕事に取りかかるとしよう」
心配そうな子鼠達にそう言ってから、私はまた空を見上げた。
私の仕事は宝探しだ。いつもは子鼠達の食料を探し廻っているが、たまに河童の依頼でレアメタルの鉱脈を探し出したり、
今回のように特別な宝を探したりもする。
今までも、そしてこれからも、ずっと何かを探し続けるのだろう。
暖かな春の日差しが心地良くて、私は目を閉じた。
――そう言えば、最初に私は何を探していたのだっけ。
……大切なナニカを、ずっと探し続けているような――。
了
本文中の最後の二行がとても切ない響きで、いい感じでした。
みたいな終わり方ですね
さまざまな妖怪たち、とくに幕の紫についての解釈が興味深かったです。
ストーリーもすっきりとまとまっていて読みやすく、しっくりとはまりました。
面白い物語をありがとうございます。