ゆりかごは、大回転を加えられて、破壊された。
「目が覚めたかしら?」
「お姉ちゃん」
どこかの新聞記者にあんまりな言いようをされたこともあったが、決して彼女はあっぱらぱーなどではない。
少なくとも、周りの景色があまりにも様変わりしていることに気付く程度には賢いはずだと、彼女自身では考えている。
「えっと、あれ?」
巫女に悪趣味だと言われた自室で、昨晩眠りについたはずであったのに、ここは明らかに最後に自分が見た場所とは違う。
もしや夢遊病にでもかかったのではないかと危惧したこいしの目の前に、さとりの顔が現れた。
「まだ寝てるのかしら? ほら、早く着替えなさい」
姉の小さな両手が、大きめの布を握っていたのを見て、ようやく大回転の正体を悟った。
そして布団を引き抜いた犯人の格好も、目覚めた部屋ですら、自分が知っていたものと違うことにも、気付いた。
「こいし?」
「お姉ちゃんエプロン似合ってる」
「何を言ってるのかし、らっ?」
「あたっ」
デコピンを喰らわせて、さとりはきちんと身なりを整えるように言い残して、部屋から去って行った。
少々広めなのを気にしている額をさすりながら、こいしは考える。
どうして、姉はわざわざ私を起こしに来たのだろう。
いるのかいないのか、わからない私のことは待っている癖に。
そしてそれよりも気になることが一つ。
「ここ、どこ?」
真っ白な壁には、自分より少しばかり年上に見える少女たちのポスターが。
部屋の隅にはいつか魔法の森の店で見た学習用デスクという机が。
ベッドには金属製の鐘がついた時計らしきものが。
どれもこれも、覚えがない。
確かなのは、毛布に残っている温もりが自分のものであることと。
「こいし、遅刻しますよー?」
とりあえず、着替えなければならないことだった。
姉に渡された服は、兎が着ていたものにどこか似ていた。
紺色のブレザーに短めのスカート。
ハートマークと名前が刻まれたプレートを横目に、ドアを閉めた途端、こいしの嗅覚はみそ汁の匂いを捉えた。
「夢、じゃないのかな」
さきほど姉にはじかれたおでこも、朝ごはんの匂いも、全部本物のように思える。
居間らしき場所に出ると、足元に燐がすり寄ってきた。
「おはよう、お燐、お空」
背中を撫でてやると、燐は嬉しそうに鳴きながら、大きなソファによじ登った。
そのすぐそばで、鳥かごに入った空は首を傾げていた。
どうして二人とも元の猫と烏の姿に戻っているのか、尋ねたかったが、反応がわかりきっていたのでやめておいた。
きっと燐も空のように、不思議そうにするだけなのだから。
「いただきます」
「召し上がれ」
そしてこいし自身も、この空間に疑問を感じなくなっていた。
小さな茶碗に盛りつけられた白米と、少しだけ冷めてしまった目玉焼き。
こうして二人でのんびりと朝食をとるのも久しぶりのことだった。
「ほら、早く食べなさい」
「はぁい」
時間はないようだったのだけれど。
出かける前に帽子を被ろうとして、そのままであることに気付いた。
「『その』ってなんだろう」
言語学者のような言葉に、空の首がさらに曲がっていく。
そもそも私は何を疑問に思っていたのだろうか。
「忘れ物はない?」
「大丈夫だよお姉ちゃん」
燐の餌を用意する姉の問いに、こいしはかばんの中身を思い出していく。
「教科書持ったし、お弁当とあと……あ」
「こいし……」
「えへー、すぐ取ってくる!」
見慣れたドアを開けて、デスクの引き出しの中から探し物を見つけ出した。
「ケータイさん発見」
本当は校則違反なのだけれど、二人暮らしの姉妹には、どうしても必要なものなのである。
授業中にいじりたくなってしまうのが困りものだ。
電源を切ろうとして、新着メール1件の表示に気付いた。
件名は、いつまで寝てるの?
「誰だろ」
「こいしー!」
「わわっと、ごめんね」
誰かもわからないメールの送り主に謝ってから、電源を落とす。
学校の指定かばんの奥の奥の、姉が縫い付けてくれた隠しポケットに小さな端末を放りこんでから、玄関まで駆けだした。
「ちゃんと朝早起きしないからそうなるんですよ」
家を出てからの姉の台詞は、いつもこれだ。
暑くても、今日のように肌寒くても、変わらない。
「ごめんなさーい」
「もう」
先ほどはエプロンに隠れて気付かなかったが、ため息をついた姉もこいしと同じ服を着ている。
学年が違うので、ネクタイだけが色違いだったが。
「私もお姉ちゃんと同じネクタイがいいなあ」
「飛び級でもするつもり?」
「頭悪いだからムリだもーん」
「私も留年する気はありませんよ」
わずかな差異を残念に感じると、通学路の秋風に晒された足の冷えが増した。
「ううっ寒い」
「この時期にタイツも履かずに歩けばそうなりますよ」
自分のようにすればいいのに、と言わんばかりにさとりがスカートを少しだけたくし上げる。
ピッチリとした黒いラインは目に毒のようだ。
「お姉ちゃん、無防備すぎ」
「そうかしら」
男の人がいないか、周りを窺ってみたが、幸いにも、誰もいなかった。
「嫁入り前の女ははしたないことをしてはいけないって言ったのお姉ちゃんじゃん」
「私はお嫁に行く気はありませんよ」
「なんと」
姉の独り身宣言に歩みが一瞬固まる。
「一生こいしの面倒を見ますよ。 放っておくと心配ですからね」
そう言って妹の襟を正す姉に、こいしは何を言えばいいのかわからなくなってしまった。
嬉しいのか、寂しいのかわからない。
だから、一生は嫌だと、笑顔で流した。
流すしかなかった。
下駄箱でさとりと別れてから、廊下を歩くこいしの頭の中は、先ほどの台詞でいっぱいだった。
やはり自分は姉の負担になっているのか。
そういえばあんなに可愛いのに浮いた噂一つない。
自分のせいなのだろうか。
自己嫌悪のループに陥ってて教室を通り過ぎたことに気付いたのは、チャイムが鳴ったのとほぼ同時だった。
当然担任の教師には叱られた。
「今月に入ってもう10回目……」
ふおおおお、とくぐもった奇声を上げながら、こいしは机に突っ伏した。
15回を越えれば、面倒な罰則が待っている。
携帯電話という、いつバレるとも知れない爆弾がある以上、他の問題は抱えたくないのだが。
「起きられないのはしかたないよね」
ちなみにこの一連の流れも10回目だったりするのだが、本人は気付いていない。
明日からがんばろう、ということにして窓から外を眺める。
今にも雨が降り出しそうな、今の彼女の心情と似た、陰鬱とした曇り空。
「あ、また外を見てる」
「こいしは空が恋しいんだよ」
「からかわないでよー」
お前は空も飛べそうだ、などと冗談を言ってきたクラスメイトとの、楽しいおしゃべりが始まった。
二人は、特に仲が良いクラスメイトで、名前は。
名前は。
「こいし?」
「古明地さん?」
「えと、あれ」
「具合でも悪いのかな」
「ちょっと、大丈夫?」
こんなに優しい子たちの名前は、名前。
思い出せない。
聞かないと。
「あのさ」
「やばっ、チャイム」
「どうしよう、二限目の宿題やってないよ」
「なまえ……」
聞かないと、終わってしまう。
「古明地さん、六十三ページの古文の訳……」
「この子がやってるわけないでしょー?」
授業直前の喧騒に飲み込まれていった疑問と焦燥感は、数学教師の声に呼び起された睡魔によって、削り取られて行った。
古文の訳は、途中で終わっていた。
三人で協力して必死でやりきった。
数学、古文、世界史と続いて、ようやくこいしの好きな授業がやってきた。
本日の美術の課題は、グラウンドでの写生。
この寒い中での野外活動に、級友たちは不満たらたらのようだったが、こいしは構わなかった。
スケッチブックと筆記用具を持って、グラウンドに出る。
女子はみんな、書きやすそうな植物を探していたが、男子は何故かグラウンドの中央を見ていた。
「何を見てるんだろう」
「ほら、三年は男女合同の体育みたいだから……女子の先輩を見て……」
「最っ低よね」
まあ、つまりそういうことなのだろう。
ジャージキターなどと騒いでいるようだ。
「あっちはマラソンかー。 じっとしてるより走った方がマシかも」
「私は絵を描く方がいいなあ」
絵は好きだ。
声に出せない感情も、全部線に乗せて表現できる。
「こいしは良くてもあたしがダメなの」
「あ、古明地さんのお姉さんがいるよ!」
「お姉ちゃんどこ?」
「ほら、端の方だよ」
いわゆるサイドテールの親友が指で示した位置に、ジャージ姿の姉がいた。
三年の男女の中に混じっていると、姉は特に小さく見える。
「いいなあ。 古明地さんのお姉さまは優しそうで」
「えへへ、いいでしょー?」
そうかなあ、なんてお決まりの台詞は言えそうにない。
あの姉は本当に優しくて、暖かいのだ。
それこそ、わが身を犠牲にしてしまえるぐらいに。
「私のお姉さまはなんか偉そうでいつも怖いんだよ」
「生徒会長やってるんだよね」
「そうそう」
黒髪のもう一人の友人の言葉に、どこか嬉しそうに頷いている辺りサイドテールも、決して姉を嫌っているわけではないのだろう。
黒髪が羨ましそうな声を上げた直後、ホイッスルが鳴った。
マラソンのスタートの合図だったらしい。
早速三年の塊は二つのグループに分かれ始めていた。
足が速い方と、運動神経に自信がない方と。
姉は、後者だった。
ポテポテという擬音が聞こえてきそうだ。
「むぅ」
トップを走るサイドテールの姉と、最後尾付近にいる姉を見比べていると、こいしはなんだか悔しくなってきた。
親友には悪いが、本当に面白くない。
「おっねえちゃああああんん! がんばあああああ!」
なので、大声で応援することにした。
クラスメイトが全員、驚きに目を見開いていた。
少しだけ、その目が嫌だったが、すぐにどうでもよくなった。
姉の動きのキレが、ほんの少しだけだが、良くなっていたから。
「ふふん。 これが妹パワーなのだよ」
サイドテールに流し目を向けると、親友は少しだけ頬を膨らませて。
そして息を大きく吸い込んで。
「お、お姉さまがんばってー!」
すると、トップから影が抜け出た。
彼女の姉だった。
応援の効果はとても強力だったようだ。
「アンタたち何やってるのよ……」
「だ、だってだって……あああ、お姉さまに怒られる……だってでも」
「いやーつい悔しくて」
「悔しくてじゃないってば、先生すごい目でこっち睨んでるから!」
「あ」
「ありゃ」
「お前らな……」
ほんの少しだけ、なぜか三人一緒にまた怒られた。
二人の姉は、顔を真っ赤にしながらトップ争いを続けていた。
「なんであたしまで……」
「やっぱり、お姉ちゃんもしたいことあるよね」
「聞きなさいよこら」
「ま、まあまあ」
さとりは苦しそうで、でも、どこか楽しそうで。
こいしの胸は、ひたすら苦しくて、でも嬉しくて。
「ちょっとお話、聞いてくれる?」
この気持ちは、なんなんだろうか。
「こいしのために一生独身宣言ね……」
「難しいねー……」
「うん」
親友たちに、今朝の出来事の話をしてみた。
自分の気持ちを、確かめたかった。
「お姉ちゃんが私の世話をしてるって言われたら、すっごく嬉しかった」
「うんうん」
この学校では珍しい、金色の髪が揺れる。
「でも、すっごく寂しかったんだ。 なんでだろ?」
「そりゃ、あんた……あー……」
黒髪が、首を傾げて、サイドテールを見た。
姉がいる親友は首をふり、姉がいない親友はやっぱりね、とため息を吐いた。
「もう一回おねえさんと話してみなさいな」
「それがいいと思う」
「そうなのかな」
姉の言うことがおかしいのは、自分でもわかっている。
だが、このままでいいと思う気持ちも、大きかった。
「あのね、古明地さん」
サイドテールに手を握られた。
姉よりも少しだけ大きくて、冷たい手だった。
「私もお姉さまにそんなこと言われたら、きっと嬉しいと思うよ」
でもね、とそこで親友は口を閉じた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言い切った。
「でも、そのままじゃあダメだと思う」
二人の誇る姉の間には、奇妙な友情が生まれていた。
いつの間にか始まっていた勝負は、どうやら引き分けに終わったらしい。
美術の授業も、いつの間にか終わっていた。
「ほら、お姉さんのところに行ってきな」
「で、でもお昼休みすぐ終わっちゃうし」
「代返しておこうか?」
「そんな大学じゃないんだから」
教室に戻ると、いつも真面目なサイドテールの犯行予告に驚く間もなく、お弁当を持たされて教室を追いだされた。
こいしは、二人とお弁当を食べたかったのに。
なぜだか、ここで姉のところへ行けば、二人にもう会えない気がするのに。
繋ぎとめておかないといけないのに。
「あ、あのね」
「ん?」
「名前! 忘れちゃったから教えてほしい」
二人とも怒るだろうか。
その心配は杞憂だった。
親友たちは、笑っていた。
「ちゃんとおねえさんとお話しなさい」
「そしたら、私たちの名前、教えてあげる。 じゃないと、古明地さんが戻れなくなっちゃうから」
「約束?」
「うん」
「約束よ」
そうして笑い合うと、不思議と奇妙な悔いは消えていた。
「こいし、どこへ行くの?」
「いいからいいから!」
訝しがる姉の腕を引っ張って、進んでいく。
学校の中には、二人以外の気配がなくなっていた。
ようやく諦めてくれたらしく、さとりの腕から力が抜けていく。
「忘れない内にね、私のお気に入りの場所。 教えてあげるの」
「それは楽しみですね」
階段をいくつも上がって、最後のドアを開ければ、青空が、なかった。
「あう……」
「あら、雨が降ってきましたね……洗濯物を干しておかなくて助かったわ」
せっかく、急いだのに。
「雨の馬鹿」
「こいし」
姉に手を握られた。
「座りましょ」
「でも雨が降ってるし……」
「大丈夫。 ほら、ここでお弁当食べたかったんでしょ?」
「うー……」
結局、屋上と廊下の境界線に座ることになってしまった。
きっと、後にも先にもこれ以上こいしが雨を憎むことはないかもしれない。
腰を落ちつけた段差は冷たかった。
姉の手は、暖かかった。
「お姉ちゃんの手、暖かいね」
「こいしの手が冷たいんですよ。 私はマラソンしてたから」
「すごかったね。 生徒会長さんと一騎打ち」
「こいしが応援してくれたからですよ」
「ずっと、こうしてたいけど」
でも、それではいけない。
「いけないんだよね。 約束だから」
姉は、何もかもわかっているのか、ただただこいしを見て笑っていた。
「ここは、夢なんだよね」
「そうですね」
「お姉ちゃんの、無意識の願望の世界」
「ええ。 でもあなたも私も、偽物じゃないわ」
「うん。 暖かいもん」
「お弁当、食べる?」
「ううん」
それは、戻ってから食べるべきだろう。
姉が作った、暖かい出来たてを。
「お姉ちゃん、ありがとう。 でも、ごめんね。
一生、私の為に生きるなんて、ダメだよ。 お姉ちゃんだって、いっぱいやりたいことあるでしょ?」
さとりの顔が、こいしがかすかに覚えている困った時の母の顔と、そっくりになった。
「今朝のこと、かしら? それとも、この世界?」
「多分、両方。 困らせて、ごめんなさい。 私、悪い子だけど、でも、お姉ちゃんの全部を潰したくないの」
「こいし、困ってなど、いないわ」
ただ、と言葉を切った姉の眉は、やはり困惑気味だった。
「ただ、あなたのことしか考えていられないの。 あなたをどうしてあげればいいのかって」
「だからって」
そこで、私は無意識の境界を、ようやく越えて。
「だからって、一人で全部を背負おうとしなくていいの。 私のことばっかり考えてないで、お姉ちゃんの好きなようにやっていいんだよ」
本当の気持ちをさらけ出して、私はようやく無意識の夢の海から、脱した。
「お父さんとお母さんが死んだ時も、地霊殿の管理者になった時も。 そして、私が目を閉ざした時もお姉ちゃんは強かった」
屋上が、時計が、グラウンドが。
全てが崩れていく。
まだ、終わるにはまだ早いよ。
「ううん、強がってた」
全部、伝えるんだ。
戻ったら私はきっと、またフラフラしちゃうから。
今の内に、全部。
「私の為に、強がってた」
「でも、それも、私の為だったんですよ?」
「そんなの、建前にしかならないよ」
ああ、まずい。
久しぶりに泣きそうになってきた。
「私との接し方がわからなくて、ずっとこうしたかったんだよね。 でも、夢はもう終わり」
「私は、ここにずっといてもいいのよ?」
手を握る力が、強くなった。
痛みはなかった。
「ずっと一緒に暮らして、こいしだって、お友達がいっぱいいて」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
ああもう、あの一言だけが言いたいのに。
やっぱりここは居心地が良すぎんたんだね。
終わらせるあの言葉が言えないよ。
「大丈夫、お姉ちゃん。 私は、ここでお姉ちゃんがたくさんお世話してくれるの、嫌じゃなかったよ。
朝ごはんを一緒に食べて、おそろいの服を着て……でも、それは元の世界でもやれるでしょ?」
友達だって、きっとがんばればいっぱい作れる。
だから、空いた手を差し出すの。
「一緒に、戻ろう?」
おはよう。
おはよう、お姉ちゃん。
ご飯、食べましょうか。
うん。
お姉ちゃん。
なあに?
大好き。
フランちゃんはクマさんぱんつ。
ぬえさんはスパッツ。
こいしちゃんは────やめろ、石をぶつけるのはやめてくれ。
とりあえずこいしちゃん、目覚めの気分はどんな感じ?
俺は実に爽快だぜ。
黒タイツのさとりん…、ゴクリ
黒タイツ…ゴクリ
良かったです