Coolier - 新生・東方創想話

帝都怪奇録「大鼠の死骸」

2011/07/29 01:47:30
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注意書き
割とオリジナル要素が出張ります。自分で書いてて思うんだから、出張りますよコレは。
でもこう言う注意書きを読むと案外「そうでも無くね?」と思うものです。だから多分大丈夫だと思います。どうぞ気にせず進んでくださいませ。かしこ。
























~序文~


 帝都は、広い。
 何と言っても前時代の首都をそのまま残しているのであるからして、人の多さも全く桁が違う。
 総面積は……例を挙げるとするならば、この時代世界に覇を唱えていた強国の首都にロンドンと言う街があるが、それよりも少し大きい程度か。紛れも無く、大都市と呼ばれるべきものであった。
 この地が帝都と呼ばれるようになったのは明治二年の夏から。時の天皇が京の街より居を改めた事に由来している。
 ちなみに博麗大結界が張られたのは、外の元号で換算して明治十七年。十五年を長いと見るか短いと見るかはそれぞれだが、この頃には人間の伸張も激しかった事を見るに中々粘った方なのではないかとも思う。

 さて妖怪は、少し妖怪の話に移るが、妖怪はこの頃果たして何をして過ごしていたのだろうか。この頃の妖怪に関する証言と言うのは、皆無に等しい。まさか人間の進歩を前に、むざむざと自分が滅びるのを待っていたのか?
 実は、大半の妖怪はそうだった。この時代は過去未来を通して妖怪の歴史上一、二を争う重大な転換点なのだが、それに反して動いた妖怪は数え切れる程しか居ない。
 その中でも代表的なのがかの妖怪の賢者八雲紫であり、今や幻想郷に一大勢力を築いた天狗の長、天魔であった。この二人は同時代の接触こそ無かった物の、自己のため他者のために時代を奔走したと言う点では共通している。だが、それ以外の妖怪は総じて沈黙を守り、決して行動を起こそうとはしなかった。
 本当にそうなのか?
 帝都は広く、そして強大でもあった。しかし同時に、大きな物ほどまた、間隙も増えるものである……。




~明治九年~



―1―

 山の、少し奥行った場所に一軒の小屋が立っている。
 辺りには小さな畑と、獣避けの柵。もう少し離れた所にはこれまた小さな川が流れており、そこに二人、喧々囂々と話を重ねていた。

「ナ、ナズーリン、やっぱりこれ邪魔ですよう」

 とは、虎の方。

「ええい、良いじゃないか。そんなね、物を無駄にしちゃいけないよ。それこそ、こんなに丈夫で良い物なんだから」

 とは、鼠の方。名をそれぞれ寅丸星、ナズーリンと言った。

「でも、お寺にのぼりだなんて」

 星が傍らに屹立するそれを見上げる。
 のぼりとは、俗に言うのぼりそのものである。
 かつてナズーリンが遠出の際の土産として持ってきた物が、そのまま軒下に飾られていた。もちろん開業している訳でもなく、また人の立ち入る様な場所では無いので全く役には立っていない。
 そもそも白紙のまま文字も書かれていないのだから、飾りとして以外の意味など端から持たなかった。

「そんな事言ったって、これが寺かい」

 ナズーリンが“寺”を一瞥する。
 この寺。寅丸星があくまでも寺だと言い張るこの小屋は、星が建てたものだ。
 この地を開墾したのも星。寺には何間四方かの壁に、戸と、あと茅葺の屋根が付いており、どれも少しばかりづつ穴が開いていたりしている。俗に、これをあばら家と言った。

「私が居れば寺ですよ!」

 星が声を張り上げる。暴論に聞こえるが、これであながち間違っていないのだから恐ろしい。
 寅丸星、何を隠そう職業は「ご本尊」である。動くし、話もするご本尊。世俗の需要は高いと思われる。

「何を妙な事を口走ってるんだ……。それに、物はちゃんと使わないと化けて出るんだ。こんなに立派なのぼり、化けて出たらさぞかし怖いだろうね。ご主人様も、食べられちゃうかも」
「のぼりがどうやって食べると言うんです。精々巻き付かれて終わりですよ。第一、使うって言ったってこののぼり、何も書いてないじゃないですか。これじゃただ飾ってるだけです。こんなので使ってると言えますか。貴女はこの寺を、のぼり屋か何かにでも変えるつもりですか。困りますよ? 商品なんて置いてないのに、もしお客が来たら私が謝る事になる」
「どうせ人なんて来ないだろう、こんな場所に。今まで誰か来た事が有ったかい。来るとしても、余程の変人だ。そんな奴に売ってやるものは無いよ」
「じゃあ結局使わないも同然じゃないですか!」
「う、うむ、まあ……それはそうなんだけどね……」

 のぼりは、それは立派な物であった。
 自分が持ち帰ってきた、と言う贔屓目があるにしろナズーリンはこれをそれなりに気に入っていたし、質の良い事に関しては星も認める所である。
 これは余談だが、以前ナズーリンがこののぼりを運んでいる時、誤って寺の壁に思い切りぶつけてしまった事がある。ああ、これは折れてしまったな。勿体無い。そう思う間もなくのぼりは寺の壁に穴を開け、反動でナズーリンの頬をしたたかに打った。たまらずその場にうずくまるナズーリン。のぼりは、傷一つ無く傍らに転がっていた。
 何と言う強度だろうか。一介ののぼりにしておくには惜しい最高級品。それがこののぼりの正体であった。無論、使い道はのぼり以外には無いのだが。

「のぼりの話は、もう止めにしないか」

 ナズーリンが話をそらす。あまりこののぼりの事で議論をしたくは無かった。まさに帯に短し襷に長しと言った状態なのである。無論、のぼりは帯にも襷にもならないが。無用の長物とも言う。まさに長物であった。

「あ、またそう言って片付けるのをうやむやにしようとする! いけないんですよそう言うのは」

 そう言って星がなじる。ご本尊であり住職でもあるからして、元来こう言った事には厳しいのだ。ナズーリンが喉の奥からくぐもった声を出した。

「ぐぅ……おや、あれは」

 ナズーリンが唸っていると少し離れた所に一匹、駆け寄ってくる鼠が見えた。あれは確か、人間の街に偵察に出していた一群の内の一匹だ。一応、自分の鼠達の事は全員覚えている。間違いない。

「ご主人、話は後だ。あれはアルジャーノンの所のだな。どうにも様子がおかしいぞ」
 
 鼠を手のひらにすくい上げ、報告を聞く。秘密保持のため、習慣となっている聞き方だ。尤も、鼠の話など分かる者は滅多に居ないためそう心配する程の物ではないのだが、念のために。
 鼠が、ちゅうちゅうと鳴く。そしてその度に、ナズーリンの表情が強張って行く。

「そう、か。分かった。良く教えてくれたね。お前はここで待機だ。セシリアが戻ってきたら、そっちに合流しろ」
「何かあったのですか?」

 横から星が尋ねる。
 今までにも何度かナズーリンが鼠の報告を聞く姿は見てきたが、ここまで深刻そうな顔をするのも珍しい。鼠の情報は、星達にとって命綱にも等しいのだ。
 自然、口が出た。

「今の所は、まだ支障は無いかな。でも、後々響いてきそうな気がする」

 ナズーリンが少し俯く。考え込む時の、彼女の癖だった。そうして少し人差し指を齧る。
 今後の予測を纏め終えたのだろう。顔を上げると、

「アルジャーノンが、人間の街で独立した」

 それだけを星に伝えた。






―2―


 時は西暦1876年。
 先の内戦が終わり、国内には数多くの西洋文明が流入してきていた。旧幕府を倒し新しく作られた政府は基盤弱く、幾つもの困難に見舞われたが、しかしそれもようやっと収まり落ち着きを見せ始めた時代。元号は明治。九年目の年であった。

 かつて四隻の黒船が浦賀沖に姿を現した時、この国がこうなる事を予測できた妖怪がどれほど居ただろうか。いや、妖怪に限らない。人間も含めて。
 かくして幕府は開国を余儀なくされ、後に幕末と呼ばれる時代へと入って行く事となる。
 だがこの混乱の最中でも、もっと後、江戸が東京と名を変えた後でも、闇の者達は未だ各地で跳梁跋扈を続けていた。人の世など知った事であるものか。そうして自らの自由を崩すことなく、気ままに暮らしていた。この者達が完全に姿を消すのは、三十年以上も後の事になる。
 文明開化、とは言えども、そうも急激に何かが変わった訳ではない。建物は未だ色濃く前時代の面影を残していたし、農村などではそれは遠い異国の事のように話されている。電信などは比較的早くに整備されたが、それでも全体としてみれば変わり行くにはまだまだ時間がかかるようにも思えた。
 ただ、道行く人々。その心の中には、紛れも無く時代の変節が認識されていた。

 さて、東京である。
 ナズーリンは黒船の存在について警戒が出来た数少ない妖怪の一人だった。この先に何が起こるのかは分からない。だが、少なくともこの国は急激にその様相を変えて行くだろうと。そう感じ取った後の彼女の行動は早かった。
 まず手の者を放ち情報を探った。なるべくならば優秀な者が良い。そして、こちらから指令を出さなくとも自らの判断で動く事が出来る者。そこで白羽の矢が立ったのが、先のアルジャーノンである。
 彼は、優秀だった。どんな仕事だろうと難なくこなしたし、身体能力も他の鼠達よりは遥かに高い。何より、求心力が有った。彼ほど小鼠達を多く、巧みに使える者は居ない。ナズーリンも、彼には一目置いていた。
 だが、決して信用はしなかった。
 彼は野心家だった。抜け駆けのような事も何度かやったし、ナズーリンの見ていない所では良からぬ噂も聞いた。その事を巡りナズーリンと衝突をした事も多々ある。彼を咎める事が出来る鼠は、同僚の内に誰も居なかった。同格ではなかったのだ。他の鼠の、その誰もが。
 しかし他に適任と呼べるような鼠は居らず、能力の高い事においても否定する事は出来なかったので、ナズーリンはアルジャーノンを起用し、アルジャーノンはナズーリンの特命を受けてこの国の中心へと向かった。

 当時はまだ江戸と言う名前だったその街に着いた時、アルジャーノンは二つの事が気にかかった。
 一つ、人々の雰囲気が違う事。どこか慌しい。五十年ほど前にもナズーリンに連れられてこの地に来た事が有るが、その時とはまるで空気が違う。後に分かる事であるが、これが時代の変節と言うものであったらしい。
 そしてもう一つ。妖怪の臭いが殆どしない。居たとしても小物ばかりで、その上身を潜めている。これは実は五十年前も変わらなかった。だが、それでも他の都はここまで少ないものではなかった。明らかにこの都には妖怪が少ない。

 何と不甲斐ない事だろう。かつて我が物顔で闇夜の中を練り歩いた妖怪が、この地に至っては小さく縮こまって人間の顔色を窺っている。そのまま消えてしまう者も居た。どこか別の地に去って行く者も。今この地に居るような妖怪は、大抵が新参の九十九神か、あるいは最初から人間の影響を受けないような事象の小妖怪だけであった。
 しかしそれは好都合でもある。その他の妖怪と違い鼠妖は身が軽い。この街の少ない闇の中にも、同化する事が出来る。
 配下の鼠を街に放つ。総勢五十匹が、一斉に駆けて行く。そして腹心の十匹を周りに残し、アルジャーノンは自らが身を置く拠点を探しに行った。
 まずは、情報を集める。行動を起こす際、情報の量こそが何よりも役に立つ物だとアルジャーノンは知っていた。長い諜報活動の中で自然と身に付けたものか、あるいは元から感覚的に理解していたのか。集まった情報から必要な物を抜き出す、それが出来るだけの能力は備えているつもりだった。


 最初の内は、素直にナズーリンへと報告を送っていた。
 確かに少しいけ好かないような所はあったが、アルジャーノン自身彼女の実力は認めていたし、衝突はあれど別段嫌悪するような理由も無かった。むしろ衝突が出る事も含めて独断専行を繰り返していた節もある。
 数年ほどそうしていたところで、変化が起こった。アルジャーノンを取り巻く環境に、明瞭な変化が。
 思えば必然だったのかもしれない。当時はまさに動乱の最中だったし、変わり続ける情勢の中で江戸の町は日を追う毎に妖怪が姿を消して行った。

 西の方で誰かが三度目の兵を挙げた頃、江戸の町に妖怪は存在しなくなっていた。
 みな、戦火の広がるのを恐れ別の場所へ移ってしまったのだ。それだけ、人間が力を付けて来ていたと言う事でもあった。
 これからこの街が、戦の勝敗に関わらず増々大きく発展していくだろう事は容易に予想できた。交易の要地として政治の中心として、この先何十年と重要になる地。人間の勢いは止まる所を知らない。
 そしてそれは、同時に妖怪の衰亡をも意味する。きっとこの先、この地に妖怪が戻って来る事は、無い。自らその街に住む身でありながら、あるからこそ、半ば確信に近い物があった。

 それは悲しむべき事なのか? 否、まさに千載一遇の好機であったと言って良い。
 その当時、アルジャーノンの配下はこの地で組み入れた普通の鼠も合わせて数千程度にまで増えていた。上手く使えば、このままここに潜み続ける事も不可能ではない。
 巨大なものほど、細かな所までは手が回らないものである。それが国家と言うのなら尚更だ。そういった例も、アルジャーノンは飽きるほど見てきた。
 裏さえ押さえておけばどうとでもなる。人間社会の裏。陰と言い換えても良い。そこに自身の存在を組み込ませる事が出来れば、そう簡単には存在が揺らぐ事は無くなる。それは、ある種鼠の生業でもあった。
 人の動きを理解し、共生を図る。そこまで来れば、もうこの世がどう変わろうとも、どうにでも動く事が出来る。そうすれば、最終的に笑うのは、自分だ。
 そしてまた数年後、自分の力が十分に育ったと感じた所で、アルジャーノンはナズーリンと手を切った。



―3―


 ナズーリンは、この造反を無視した。構っている暇が無い、と言う訳でも無かったが、戦力が少なすぎる。
 部下の鼠達は遠く四方に出ている。
 とは言っても、特に重要な任務は与えていない。基本的には、ナズーリンが命令した通りのものを見てきたり、あるいは探し当てて来たりする程度のものだった。
 それに、元々それで十分だった。ナズーリンは人では無いのであるからして、人の世の政事にさしたる興味も無ければ、また気にする道理も無い。重要な機密であれば自ら出て行くが、その諜報活動自体は趣味と言ってしまっても良かった。
 ナズーリンが何故未だこの世に留まり続けているのかと聞かれたら、それは主人が留まっているからと答えるほか無い。帰ろうと思えば何時だって仏教界(と、便宜上呼んでおく)に帰る事は出来たし、今でもその繋がりは絶たれていない。
 つまり、ナズーリンにとっては「主人のために聖を探す」事こそが全てなのだった。他はおまけと言っても良い。ただ、広く見聞を深め、世のあり様を学ぶ事は決して悪い事ではないと思ったからそれ以外の情報も集めている。今ナズーリン以上の有識者と言えば、人妖問わずそう名は挙がらないだろう。そんな程度には、ナズーリンは物事を知っていた。

 問題はむしろ、“残り時間”の方にあった。
 人間の勢力が以前より伸張を続けている事は、実はそれなりの昔から知っていた。人間が力を付ければ付けるほど、それに相対する妖怪の肩身は狭くなり、行動も制限されて行く。国が栄え、技術が進歩して行く毎に、ナズーリンに残された時間は減っていく。
 だがそれを考慮に入れても、まだ暫くは動き続ける事が出来る筈だったし、そう計算していた。それが、大幅に狂ってしまった。
 流石のナズーリンも、外から来る変化に対しては予測を立てる事が出来なかったのだ。
 そのため、そう言った事の判断材料としてアルジャーノンを江戸の街に送り込んだのだった。さて外から来た者達に幕府はどう対応するのか。それを見ながらナズーリンは残された時間を計算し、その度にまだ大丈夫だと言い聞かせながら探索を行なっていた。
 最近になると、ナズーリン自身が遠く主の下を離れて行動する様な事は無くなっていた。情報収集は全て部下に任せ、自分はそれを聞きながら対策を考える。それも、効果的な案が出せる訳ではない。情報を元に何かを成すには、ナズーリンには圧倒的に力が不足していた。

 常に考えていた最悪の事態。
 主人の寅丸は力の強い妖怪である。西洋文明が浸透しきっていない今の内ならば人間に姿を変え、何処の誰とも知らぬ女性として一生を終える事が出来る。過去にもそう言った事例は存在する。俗に、狐の嫁入りと呼ばれているものはこれを由来としていた。
 少なくとも、消滅は免れる事が出来る筈だった。妖怪が駆逐されるのが何時の事になるのかは分からないが、そう時間はかからないように思う。人間の、一生よりは。
 だがそれは最後の手段だ。今一度聖に会う。そのためだけに生きてきた。人になれば、もう時間は無くなってしまう。力も衰える。そうして何も出来ないままただ最期の時を待つなど、許せる訳が無かった。

 現在鼠達には人間の動向を探らせている。この、まさに歴史の転換点とも呼べる場所で、彼らがどう動くのか、また自分がどう身を振るのか。少し前にも、人間達の手によって住処を追われたばかりであったし、各地ではきなくさい人間によるきなくさい行動が後を絶たない。きなくささの盟主とも呼べる人物も、不気味な沈黙を保っている。
 だからこそ、自分で物事を考え、逐次臨機応変に動く事の出来るアルジャーノンは重宝した存在だった。今ナズーリンの下に東京の情報は入っていない。人間の動きを知るにおいて、一番重要な、その部分だけがスッポリと。

 別に入っていなくても良いのだ、と思う事にした。鼠は他にも居る。
 それでもやはり、世界情勢が入って来ないのは辛かった。政府がどのような動きを取るのか見当もつかない。全ての対応が後手後手に回ってしまう。
 近い内に自ら足を運ぶ必要がありそうだな、と思った。ただそのためには鼠達の帰還を待たなければならない。三組、せめて二組だけでも良い。丸腰同然で行く事だけは避けたかった。





~明治十年~


―1―


 アルジャーノンの離反から半年が経っていた。とっくに外へ出ていてもおかしくは無い頃合なのだが、未だ身動きがとれずに居る。
 本来ならばすぐにでも行動を起こすべきであった。それが出来なかったのは、聡明なナズーリンが貴重な時間を浪費してまで出立を見送ったのは、ひとえに鼠が帰って来なかった事によるものが大きい。

 外に出した鼠には大きく分けて二つ、近場を哨戒する組と遠くを偵察する組がある。その内、遠くに出た者全員が消息を絶った。
 考えられない事だった。偵察は大体数ヶ月単位、長ければ一年に渡るが、未だかつてそれで命を落とした者は居ない。鼠達は自身に危険が及ぶ場所には行こうとしないし、最初から政争などとは無縁の場所に居る。死ぬ時は何らかの戦闘か、あるいは病によるものが殆どだった。
 まさかつられて造反でもしたかと言う考えがよぎる。が、すぐに打ち消す。鼠達も今の世の不安定さは知っているし、だからこそ団結して動かなければならないことも分かっている。自分の部下は、そこまで馬鹿では無いつもりだった。
 だが、伝令役の鼠すらも来ないとはどう言う事なのか。何か嫌な気分になった。もしや外では何か大きな異変が起きていて、鼠達はそれに巻き込まれてしまったのではないか。
 それを確かめる術も無いのである。最早ナズーリンは四肢をもがれたに等しい。前にも後ろにも進む事が出来ない、と言う意味で。

 戻ってきた鼠は、これは近場に出していた鼠達だが、たったの二組であった。それぞれ五十匹ずつの鼠を引き連れた計百二匹。それが今、ナズーリンの使える鼠と言う事になる。
 碌な事はできなかった。再び偵察に出した所で、また行方が知れなくなってしまうのが関の山なのだ。むしろこれ以上居なくならないようナズーリン自らが傍に付いてやる必要さえあった。

 そして、そうこうしている内に半年が過ぎてしまった。これにはもう一つ、主人の星をどうするか、と言う問題も有った。
 果たして外の世界で何が起こっているかも分からないのに、主人の下を離れてしまっても良いのか。自分の居ない間に何か起こってしまった場合、全く対処の方法は無い。
 この問いが、ナズーリンの思考を鈍くさせた。それならばこそ、情報を得るために動くべきだったのだ。
 結局、この主人をここに残して行くのは無理だと判断した。多少何かあろうと、一緒に居た方がよっぽど安全だ。纏めた荷物は、とても小さかった。

 まずは帝都に向かう事にした。
 アルジャーノンの事も気になるが、それ以上に国の中心を直に見ておきたかった。そこで判断する。現状の、その真の姿を。



―2―


「ナズーリン、これは、夢なんでしょうかね」
「ご主人、ここでは私はナッちゃんだ。それに、そんな事私に聞かないでくれ。私だって出来るなら夢だと思いたいんだから」

 帝都東京。その姿は、まさに帝都と呼ぶに相応しく。
 ナズーリンは十年程前に一度来た事がある。西に倒幕の兵が起こりそれが遂に幕府の喉元まで来た時、江戸の街がさて焼かれるか焼かれないか、後学のためそれを見物に。結果として江戸城は無血開城し、ナズーリンの心には大きな感嘆が残った。
 あの時も、流石に時期が時期のため街は比較的静かな物だったが、普段であればさぞかし賑わっているのだろう事は感じ取れた。当時は信じられない物を見た気がしたものだ。今も街路を行きかう人々の多さにそう驚きは無かったが、やはり帝都と言う肩書きの、その何たるかを知った気がした。
 まず他の都市と比べて、とにかく広い。家屋の数は計り知れないし、そこに住む人々と言えば尚更だ。文化水準も高く、聞けば上下水道なるものが存在すると言う。まさしく、世界有数の大都市と呼ぶに相応しい。そう思っていた。

「わ、わ、ナズーリン、離れないで下さい」
「だからナッちゃんだと言ってるだろう! 心配なら、私の手でも握っていなさい。こっちだって、ご主……星ちゃんに離れられたら困るんだから」

 人々が行きかう波に流されかける。この活気ある街。これをもってしても、西欧諸国には敵わなかったのだ。
 ナズーリンは自身をひとかどの知識人だと自負している。世に出て何かをすると言う訳でもないが、決して知識も見識も余人に引けは取らない、その自信もあった。
 だからこそあちらとこちらで何が違うのか、それが知りたかった。諸外国の文化や思想に関する情報など、それこそ喉から手が出るほどに欲しい。だと言うのに。

 人の避け方も分からず右往左往している主人が助けを求めてくる。その手をしっかりと掴み、道の脇へと逸れる。
 この街に、新しく鼠を入れる事は出来るだろうか。きっと無理だ。私に向かって手を切るとまで言ってきたのだ、奴がそれを黙って見ているとは考えられない。

 今、ナズーリンと星は人間に変装をしてこの場に立っている。格好も、住処近くの町で調べた、それなりに現代風の格好をしているつもりだった。それが、全く浮いてしまっている。
 おのぼりさんとはこの事か。茶屋を探してそこに転がり込む。金なら、鼠達に集めさせた物が小額ながらあった。

「おばさん、お団子二つ頂戴」
「あっ、ナッちゃん一人だけずるいですよ。すいません、私にも同じものを」

 ハイよと元気の良い声。程なくして二つの皿に乗せられた串団子が運ばれてきた。

「あーあー、四つも頼んじゃって。私は最初から二人分を頼んでいたんだ」
「え、そうだったんですか? あはは、すいません。恥ずかしいですね、何だか食い意地が張ってるみたいで」

 そう言ってひょいと団子をつまむ。
 全く、まいったものだった。普段山中に住んでいる二人にとって、人々の雑踏などは殆ど記憶の彼方に仕舞い込まれている。これが、人に酔うと言う事なのだろう。ときたま人の街へ出て行くナズーリンはまだ軽いものの、星はこの人の多さにすっかり目を回してしまっていた。

「やっぱりお団子は美味しいですねえ。甘味なんていったらナッちゃんがお土産に買ってきたもの位しか食べる機会もないですし」

 頬を綻ばせながら、星が団子にかじりつく。ナズーリンも、それに続いて。なるほど、確かに品の良い味がする。




 一息ついて、ハッと我に返る。そうだ、ここへ何をしに来たのか忘れたか。帝都の実情をこの目で見て確かめて来るのでは無かったのか。
 しかし、これはもう、確かめる以前の問題なのではないか。実際に訪れ、直にその暮らしに触れてみて思うのだ。綻びが感じられないと。やはり人間は、妖怪と違って安定した存在を持っている。
 星は、辛うじて平静を取り戻しつつあるものの、まだ少し目を回している。ナズーリンも、同じようなものだった。二人とももう店を出ることも出来る筈なのだが、未だに席に座り続け、立つ気配も無い。

 怯えているのだ。

 何に。きっと、人間の住む街そのものに。全体から感じる気がする。ここはお前達の居るべき場所ではないと。明白ではない、でも確かにある拒絶の意志。二人は、どこかこの帝都に恐怖を感じていた。
 だが、星はその事に気付いていない。
 ナズーリンは、怯え慣れている。自分が力で勝てる者など居る訳も無し、それでなくても常日頃から危ない橋を渡って来ている。命の危険を感じた事も、一度や二度では到底済まない。
 しかし、星は。元来が強力な妖怪であるが故に敵などは居なかった。聖の下へ来てからは、争い事とも無縁の生活を送っていた。聖が倒れた後も星がその槍を手にする事は無かった。手にさせなかったのだ。ナズーリンが、その命を懸けて。

 ナズーリンが何故寅丸星の下に侍り続けるのか。敬愛する毘沙門天様から特命を遣わされたから、尊敬する聖から、星をよろしく頼むと言われたから。それとも、聖が封印された後、例え一人になろうと聖を救い出して見せると。傍らに佇むナズーリンには目もくれず言ってのけたあの時から。
 そう、聖が封印されこの世から居なくなってしまった時、二人には毘沙門天の下に戻ると言う道も残されていたのだ。ナズーリンは元々が毘沙門天の使いだったし、星も品行方正であったため前々からそう言った話が出ていた。だが、星はそれをきっぱりと断った。
 最初ナズーリンは理解が出来なかった。寺の連中とは仲良くしていたし、聖の考え方にも賛同できる部分はあった。だが、どうする事も出来ないのだ。まさか連中に義理立てして居るのか。そんな事は無意味だ。受け入れるしかない。せめて、彼女を祀る碑を立てよう。それで良いじゃないか。そう星に提案した。
 それを、星は、聖を助け出すのだと言った。どうやって封印されたのかも分からないし、当時は聖と親交が有ったとして人間の監視も厳しかった。障害など数え切れないほどある。なのに、やると言って聞かない。無謀としか言いようが無かった。
 なのに、やめておけ、と、ついぞ言い出すことが出来なかった。変わらず“人間の僧侶として”雑務を続ける星の背中が、妖怪であるナズーリンに、決して人間ではない私に、去るのならば去れと言っている様な気がした。

 …………。

 意地に、なっていたのだろうか。
 自分よりも聖を取ると言われているようで、それが許せなかったのだろうか。
 がむしゃらに働いた。あなたは座っていれば良いと、住んでいた寺から出すような事もしなかった。彼女は、感謝してくれた。私は。私は……。

 寅丸星は、怯える事に慣れていない。ナズーリンは、常に怯えていた。

 いい加減に、外に出よう。ナズーリンが席を立つ。
 星が、慌ててそれに続く。戸の向こうの喧騒が、少し懐かしく感じた。



―3―


 西で、大きな戦が始まったと言う。
 二人は、安物の木賃宿に泊まる事にした。時刻は、午後八時を回っている。夜だというのに、外がやけに明るいのが気になった。
 一日街を歩き回って、得た情報がこれだ。新聞で、人の噂で、そこかしこに聞こえる。既に開戦して一月ほど経っているらしい。
 愕然とした。全く知りもしなかった。その気配を主人に察知させないようにするだけで精一杯で、他の情報をまともに聞き取る事が出来なかった。戦の臭いなど、微塵も感じなかったと言うのに。
 確かに、今までにも何度か武士の反乱などは起こっている。鼠からの報告を聞く度に、人の世も大変だななどと思っていたものだ。だが、今回の物は規模が違った。それこそ、何年も前からいつか来る、いつか来ると言われていた最大の乱。ナズーリンもこれにばかりは流石に注意を払っていた物。
 それが、知らぬ内に起こっていた。
 その時のナズーリンの混乱はいかばかりか。鼠は、まさしく彼女の手足だったのだ。そして痛感する。自身が今現在全く力を失っている事を。
 帰って来てない鼠の内、西へ行った者は戦があったから戻れなくなったのかと思った。だがすぐに打ち消す。彼らは鼠だ、そんな事が関係あるものか。
 それに、北へ行った者も同様に消息を絶っているのだ。北に何か問題が起きたなどとは聞かなかった。

 四肢をもがれた気分だ。
 迂闊にも程がある。鼠が中々帰って来ないのも、何かあったのだろうか程度にしか考えていなかった。今までにも帰還が遅くなる事はあったし、鼠は基本的に天候に左右されやすい。何か集める情報に時間がかかっているのかも知れなかった。今は人間達の動きも慌しいから。
 予断。……予断、予断!
 最初に遅いと思った時点で気付くべきだったのだ。いくら平時ではないとは言え連絡の一つも寄越さないなど有り得ないのだから。アルジャーノンや近場の鼠の報告は入っていたから、勘違いしていた。これが、尋常でない危機なのだと、気が付く事が出来なかった。
 そのアルジャーノンも、今やナズーリンの手元には居ない。ナズーリンが持っている情報と言える情報はと言えば、精々近隣の村に子供が産まれたとか、そんな程度のものになってしまっていた。何の役にも立ちはしない。

 そう言えば、帝都に来てから丸一日経過したが、未だにアルジャーノンから何の接触も無いのが気になる。
 ナズーリン自ら出て来た事について、何か警戒があっても良さそうな物だった。それとも、最早元主人の事など眼中に無いと言いたいのだろうか。
 部下の鼠達は、郊外の山林に潜ませてある。結局遠くに行った者は誰も戻って来なかった。セシリアも、ロビンソンも、腕には自信があると豪語していたフランクさんまで。今居るのは、権蔵さんと、伊勢の生まれの秀秋君だけだ。
 何か指示を待たせている訳ではなかった。むしろ逆で、これ以上居なくならないよう、手の届く範囲に留めて置いたと言うのが正しい。

 星の寝息が聞こえて来る。少し、疲れさせてしまっただろうか。
 自分も寝ておこうかと思った。明日からは、本格的に調査を始める。その英気を養うために。



―4―


「ご主人、起きて、起きてったら、ご主人」
「うむ……あれ、おかしいですね。天井が随分と遠い」
「何をベタな寝ぼけ方してるんだ。ここは帝都だよ。ほら、顔を洗いに行こう」
「あ、あー、道理で昨日は隙間風が無いと思ったら」
「悲しいね、私らの家はこんなボロ宿よりもボロい」
「早くまともなお寺に住めるようになりたいですねえ……」

 言った後に宿の主人に聞かれてないか心配になったが、気にせず水汲み場へ出る。
 良い天気だ。空を見上げると、いつもよりずっと遠くまで見える気がする。ナズーリンは、冬の朝のこの感じが大好きだった。肺に入ってくる空気も、心なしか清浄なように思えてくる。

「それで、ナズーリン、今日はどうするんです?」

 顔を拭きながら星が聞いてくる。

「それなんだがね、アルジャーノンの動向が気になる。最初は私の事など気にも留めていないのかと思ってたんだが、西で今大きな戦が起きているね。もしかしてあいつ、それを見に行ったんじゃないだろうか。それだったら好機だ、鼠達を使って動けるだけ動いておこう」
「もし違った場合は?」
「大変な事になるね。鼠達だって、そりゃあ私の部下だ、それなりには出来るよ。でも、いかんせん戦力が違いすぎる。最悪鼠百匹が無駄死にだね、骨も残らない」
「それは……」
「だから、三つ、案を作った。それぞれ上、中、下の策だ。よければ、ご主人様が選んでくれないか」
「……ものにも寄りますね。例え最上の策だと言われようと、気に入るものが無ければ良しとは言いませんよ」
「うん、それで良いさ」

 こうやって相談や判断を持ちかけると、にわかに星の顔つきが変わる。
 少し下世話な言い方をするならば、美人になるのだ。引き締まった口元と、これは元からだが整った鼻筋。眼光も鋭くなる。姿勢による背の高さと相まって、どこか近寄り難いほどの威厳を放つ様になる。
 星が、半眼になり指を組む。熟考する時の体勢だ。そのまま、無言で続けるように促す。

「まず、上策。これは打開策だ。アルジャーノンを探し出し、屈服させ、私の部下に戻す。」
「次」
「中策。地底に妖怪達の街があるとは前に言ったね。その街に身を寄せる。ただ、我ながらあまり良いとは思えない。暗くて汚い上に、一度入り込んだら身動きも取れなくなる。でも、これが一番安全だ」
「……次」
「最後は下策だ。危険を避け、帝都から撤退。そのまま私達自身が流浪の旅を続ける。先の見通しが全く立たないが、運が良ければ、まあ、運が良い事もあるだろうね」

 そして、どうかと星を見る。星は未だ微動だにしない。
 ナズーリン自身は、やはり上策が良かった。他は二つとも逃げの策で、その上その場しのぎに過ぎない。特に地底。基本的にじめじめしているし、日の光も当たらない。大事な主人をそんな不衛生で不健康な環境に置きたくなかった。
 ややあって、星が口を開いた。眼はしっかりとナズーリンの方を向いている。

「それは、上策ですが、アルジャーノンを倒す以外に方法は無いのですか? 例えば、情報を渡してくれるよう頼み込んでみるとか」
「難しいだろうね。彼も、あれで中々頑固な所がある。説得の望みは薄いよ」
「本当に?」
「本当に」

 そしてまた、星が考え込む。

「ふむ……。こら、ナズーリン」

 そうして、ナズーリンへ。表情が険しい。

「な、なんだい?」
「あなた、何時からそんなに偉くなったんです。目算が少ないからと言って手も付けずに諦める。それを良しとした覚えはありませんよ」
「うぐ!」
「私の眼はごまかせません。大方、かつての部下に頭を下げるのが嫌なんでしょう。貴女もこれで中々自尊の気が強いですからね。違いますか、ナズーリン」
「そ、それはだね、その」

 しどろもどろ、言葉に詰まる。
 胸の奥に、ドキリとした物が生まれた。何故分かるのだ。確かにその通りだった。奴と対等の関係に立つなど、そのまま敗北宣言をしているような物ではないか。正直な所を言えば、叩きのめしてやりたいのだ。あの恩知らずを。
 だが、そんな、自尊の気など。そしてそれを言い返せない自分。
 ああ、とか、うう、とか、言葉にならない呻き声を上げている私に、ご主人様は優しく語りかけてきた。

「こら、隠そうとしない。良いですよ別に。そんな感情は誰にでもあるものです。問題はそれに囚われて道を見誤る事なのであって」
「むぅ……面目無い……」
「大丈夫ですよ、なんなら私も一緒に頭を下げてあげますから。それで駄目だったら、また考えましょう?」



―5―


 鼠を呼び寄せるには幾つかの方法が用意されているが、その中でも特に頻繁に使用されるのが指笛で、その次がナズーリンの携帯するペンデュラムから発せられる光信号であった。
 このペンデュラム、特別な水晶を切り出しその上から法力を込めた特別製であり、これ一つで様々な用途に使えるようになっている。ナズーリンがこれまた趣味の一つである宝探しをする際にも、このペンデュラムは使用される。
 ペンデュラムを掲げ、郊外、鼠達の待機場所に信号を送る。内容は至って単純。散開し、捜索せよ。
 この指令は主に速さを重視する場合に用いられる。鼠達は二匹で一組となり、捜索範囲内を縦横無尽に駆け回るのだが、この時決して鼠達は立ち止まらない。情報の精度も二の次に、ひたすら走って走って走り回り続けるのだ。
 また、とにかく動き回るため、そこらに居る程度の鼠ではまず捕捉出来ない。多少荒いが、鼠達の安全を図ると言う意味でも有効だった。数では劣るが、個々の練度であればこちらの方が上なのだ。

「さ、星ちゃん。私達も行こう」
「あれ、あの子達を待たなくて良いんですか?」
「大丈夫だよ、彼らなら私達が何処に居ようと勝手に見付けてくれる。それよりもこっちはこっちで動かないとね。時間が勿体無い」

 一見すると、街並みは特に江戸の頃と変わったようには見えない。
 政権が変わりまだ日も浅い。中央部は一応の見てくれが整えられているものの、それ以外は依然として九割がた江戸の姿を残していた。ああ、ただ、主の居なくなった江戸城はそのまま皇居として使用されているようだったが。
 時たま見える洋服を着た者は官人だ。あれが制服なのだとは聞いていた。欧化政策の始めと言う事だろう、実物を見るのは初めてだ。それと、人力車。この辺りは、アルジャーノンの報告と相違無い。

 しかし、歩いている内にもどうも居心地の悪さを感じる。
 一日も経てば慣れる物かと思っていたが、中々そうも行かないようだ。

 丁度人車が走っていたので、声をかけ乗り込んだ。ここ最近になって帝都に登場した物だ。人が車を牽引する。手軽な輿のようだとして庶民からの人気を集め、今では全国的に広まっているらしい。他の場所に送った鼠からも、同様の乗り物の話は聞いていた。




 二刻ほど経過した頃、鼠達がナズーリンの下に戻って来た。路地裏に入り込み、一匹を肩に乗せる。

「よし、ご苦労だったねお前たち。権蔵さん、君の組の話を纏めておいてくれ。秀秋君、報告を」

 何を見て、何を聞いてきたのか。この方法を取った時、鼠達の話は要領を得ない事が多い。その情報を取捨選択し事態の沿革を探し出すのはナズーリンの力量にかかっている。

「どうです、ナズ、ナッちゃん。何か分かりましたか?」
「まだ慣れてないのか星ちゃん。まあ私も人の事は言えないが。別に良いよ、どうせ路地裏なら誰も見てないだろうから。それで、鼠の話だっけか。そうだな、幾つか分かった事はある。ただ、どれもあまり良くない物ばかりだ。聞きたいかい?」
「そりゃ悪い話なんて聞きたくないですけど、聞かない訳にも行かないでしょう」

 鼠達の報告は以下の通り。
 見た事も無い建物が建っていた。人が多かった。人が多かった。ここの鼠は臆病者だ。
 そこにもう一つ、鼠が一匹も欠けなかった事を付け足しておく。

「それに権蔵さんと秀秋君が、鼠の姿を見かけないと言っていたね。しかし居ない訳じゃない。どこかに隠れ潜んでいるんだと」
「ほう、それは」
「うん、指令を出す者が居ないんだね。闖入者の出現に戸惑ってる。あいつめ、部下の教育はまだまだだな。アルジャーノンは十中八九帝都を留守にしているよ、間違いない」
「それだけ聞くと、特に問題は無いようですが」

 星が眉を寄せる。

「悪い知らせはまだあるんですね?」
「割とキツイのが、ね」

 ナズーリンが首を振った。

「鼠達が人の多さに驚いていた。……まあ、これだけなら良いんだけれど、問題は鼠達が探索中に全く恐怖を感じていない事なんだ。その類の話が全く出なかった。リーダーの二匹も同じように言っている」
「脅威が無いと? それは、人間にですか。それとも動物」
「人間は、実を言うと最初から怖がっていない。身体が大きい分小回りが利かないし、元々素早さではこちらの方が上だからね。動物の方が近いかな。正確には、捕食者が居なくなっている事。妖怪も含めて、の話だ」
「妖怪が居ない?」
「酷いものだよ、これだけ走り回って誰も遭遇してないんだからね、本当に一体も居ないんだ。江戸の頃はまだ少しは居た筈だが、早い物だ。もしかしたら、この広い街に唯一潜り込んでる妖怪かも知れないよ、私達は」



「あ゛あ゛全く、そ、の、通り、だ、な、ボス」

 ふいに、後ろから聞き覚えの無い声がした。



―6―


「あ゛あ゛まだ、このはっせい、には、慣れない、か」

 濁った声。不規則に途切れては、しゃがれた調子でまた話しだす。不快な音の羅列にしか聞こえなかった。だが、意味は通じる。
 少なくとも、ナズーリンには見知った相手であった。後ろに数匹のお供を連れた、他より一回りほど大きい鼠。


「……随分と早いお戻りじゃないか、アルジャーノン」


「あ゛あ゛あ゛ ああ、あー。こんなものか、な。そう身構えるなよ、ボス。別にあんたらを取って食おうって訳じゃないんだ」

 そう言って喉を二、三度鳴らす。徐々に、声質が整って来ている。

「実際に会うのは随分と久しぶりな気もする。元気にしてたかい? 俺はこの通り、健康体そのものだが」
「誰もお前の近況なんて聞いてないし、お前に心配される筋合いも無いよ。そんな事より、良く私の前に顔を出せたな? 私を舐めているのか。なんなら、今すぐお前の頭を潰してやっても良いんだがね」
「待て、待ってくれよ。ちょっと話をしに来ただけじゃないか。おお、後ろに居るのは権蔵と秀秋か? 懐かしいな。……おや、他の奴らはどうした。ボスほど用心深ければ全員で来るものだとばかり思っていたが」

 面倒な所を見てくる、と思った。

「お前には関係の無い事だよ」
「ははは、お供がそいつらだけじゃあさぞかし寂しかろう。なんたってまだちゅーちゅー言ってるような奴らだからな。戦力にならん」

 二匹が牙を剥く。今にも飛び掛りそうになるのを、ナズーリンが手で制す。
 それを眺めつつ、アルジャーノンが話を切り出した。

「西へ行ってきた」
「そうだろうと思ってたよ。良く無事で戻って来れたね。お前の行方が知れないものだから、てっきり野垂れ死んで居るとばかり思っていた」
「残念、ヘマをする様な性格をしていないものでね。そっちこそ、随分とこっちに来るのが遅かったじゃないか。まさか、準備が整わないから先送りにしていた、なんて言わないでくれよ? 本来ならばすぐにでも動かなきゃいけない状況の筈だ」
「ふん、減らず口を。何か言いたい事があったんじゃないのか。西に行って、戦を見てきたんだろう」
「おや、どうやら図星だったか。それは悪い事をしたなぁ、ボス」

 そうして、かかかと笑う。
 ナズーリンが苦々しげに顔をしかめた。

「ああ、その通り、戦を見てきた。それでもほんの僅かだがね。流石、西軍は兵の質が違ったよ。腐っても元武士だな。士気も高い」
「そうだろうね、率いている人間も違う。随分な大物じゃないか。下野したとは聞いていたけど、まさか本当に内乱まで起こすとは思わなかった。もう少し抑える物だと踏んでいたよ」
「あれはどちらかと言うと担ぎ上げられたんじゃないのかと思うんだが……。まあいい。なあ、ボス。どっちが勝つと思う?」
「何とも言えないね。実物をこの目で見ていないのだから。ただ、官軍に負けられたら困るな。これ以上面倒が起きたら収拾が付かなくなる。私は攘夷論者じゃないが、かと言って異人に大きな顔をされるのも好きではない」
「官軍は、勝つよ」

 言葉が、途切れた。
 思わず開きかけた口を閉じてしまった。
 暫しの沈黙の後アルジャーノンが続ける。

「官軍はな、言っちゃ悪いがただの寄せ集めだ。軍としての能力も、士気も、錬度も、薩人と比べりゃ遥かに劣る。だがそれでも、官軍は勝つ。それが分かったから俺は戻って来た。分かるか、ボス。官軍は勝っちまうんだ。もう分かるだろ、ボス? それがそのまま俺達の時代の終焉になるんだよ」

 圧倒的な強者だった者が、それまで弱者だと思っていた者に負ける。強者は誰か。弱者は、人間だった。
 往々にして、そんな事はある物だった。何度と無く見て来たことだ。長く生きた妖怪なら誰もが。そしてそう言った事が起こる時、歴史はまた新たな局面を迎える。
 何度と無く見て来たことだった。長く生きた妖怪なら誰もが。ただ外に居て傍観者の体で眺めていた物が、ついに自分達に追い付いて来た。それだけの事だった。
 人間は、こんなにも成長したのだ。何故だか、真っ先にそんな事を思った。最早どんな人間でも妖怪を殺せるようになってしまった。昔は修行を積んだ一部の者だけが、命がけで私達と戦っていたと言うのに。
 悲しさはあまり無かった。もともと予測はしていたのだ。ただ、こうやって他者から突き付けられる様な、それは、少し堪えた。

「じゃあな、ボス。あんたと会うのもこれが最後だろう。俺はこの街で生き続ける。あんたは滅びずに居られるかな」
「余計なお世話だ、お前に心配してもらう必要は無い。……話は済んだか。なら、今度こそ引導を渡してやる」
「おお、怖い怖い。そうなる前に退散と行こうか。まあ、精々死なないように足掻けば良いさ。もう妖怪の時代は終わってしまったがね。無病息災を願っているよ」

 そう言って、アルジャーノンはさっと何処かへ去っていってしまった。




「ナズーリン、あなたの鼠は人語が話せるものでしたか」

 星が、うろたえた様子で尋ねてくる。

「まさか。人からの変化ならともかく、声帯が違うんだぞ。あいつ、私の下を離れている間に何をやったんだ」
「ふむ……危険ですか?」
「わからないよ。幾ら強くなったって、私がこの通りなんだ。鼠妖怪に大きな力は持てない。昔例外は居たがね。でもそんなのは例外中の例外さ。ただ妖力を強めようとしているのは確かだと思う」
「それなら野放しにするのは不味いのでは? 彼は中々その、過激な性格をしていると聞きますし」
「なら今から追いかけて行って奴を仕留めるかい? 無理だよ、そんなの。何万匹の鼠に守られて逃げ回られる。さっきだって何だかんだで見えない所には数百単位で潜んでいたからね。くそっ、消耗戦だ、数の暴力だ。奴めしっかりと人間の手を学んでいやがる」

 ナズーリンが、ぎりと奥歯を噛み締める。
 腹立たしい事だった。常に先手を打ち、自分に有利な状況を作り出す。ナズーリンが自身の生活から編み出し、訓戒としていたものだ。そして部下の鼠達にも教えていた。今それをそのまま自分に使われている。
 飼い犬に手を噛まれた気分だ。この場合は鼠だが。

「手詰まりですか……。せめて何事も起こらなければ良いのですが。ううん、でも、やっぱりナズーリン、何か手を打ったほうが良いのでは無いでしょうか」
「わかってるよ。でもどうするんだい。ご主人様は会話に入って来れなくて空気になっているし」
「う、ぞれは仕方ないじゃないですか。私は彼のこと全然知らないんですから。それに、こう言うのナズーリンの方が得意でしょう」
「まあ、ね。それはそうなんだけど。うん……」
「どうしました、ナズーリン?」

 暫し、考え込む。殆ど帝都での用事は済んだと言って良かった。アルジャーノンにも会ったし、帝都の実情もある程度は把握出来た。

「一度、帰ろうか」
「え、それはまた何で」
「私らは妖怪なんだよ。それこそ、言っちゃあなんだが人間達の事なんてどうでも良いんだ。あいつもそんな、自分から人間に敵対するような行動も取らないだろう。下手に目立てば駆除されるのは目に見えているしね。それに……」

 もう、偵察する必要も無くなった。
 ほんの短い滞在ではあったが、見えて来てしまったのだ。きっとこれから先、妖怪が人間に干渉をする余地は無いのだと。

「彼の言葉が気になりますか?」
「いや、私もそんな所だとは思っていた。ただこんなに早いとは思わなかっただけで。もう少し、私らは頑張れると思って居たんだよ。それがこんなにもあっけない。これはあと十年も持たないかも知れないなあ」

 我々の存在が。その精神が。
 心の中に敗北を認めた時、その精神力は限りなく無に等しくなる。
 その時きっとあやかしの時代は、寿命や病気など無縁の物だと思っていたそれは、死を迎える事になるのだ。
 思い返せば、長いようでも短いようでもある。数多くの時代を見てきた。人間達の営みを見る。その度に感嘆したり、愚かしく思ったりしたものだ。
 ……その中に、一つとして妖怪が築き上げた時代は無かったのではないか。全て、誰もが外から傍観していた。確かに人間より優れた力を持っていた筈なのに、結局何を創り上げる事もしなかった。
 きっとそれが、私達の限界だったのだ。変わる事の無い、変わる必要の無い種族の。
 少し俯いた私の肩を、主人が抱き寄せる。別に、何とも思ってなかった筈なのに。自分は妖怪の中でも外れ者だと、そう認識していた筈なのに。
 暫くの間、そうしていた。意地でも涙は流さなかった。



―7―


 また別の宿を見つけそこに転がり込んだ頃、日はもう暮れかけていた。
 明日、もう一度街並みを見物してから帰るつもりだ。
 どうせなら何か土産でも買って行こうか。などと話してみたりする。もう二度とこちらに来る事も無いのだから。

「この先、どうしますか?」

 夕食を済ませ部屋に戻った後、星がそう尋ねた。
 何処かへ逃げ延びていくならそれも良し。このまま身辺を整理し静かに最期を待つのならそれも良し。二人とも仏門であるが故に、どこか自身の滅びに対してはあまり頓着しない所がある。

 ただ、星は、せめて最期はナズーリンに決めて貰おうと思っていた。
 今まで自分に文句一つ言わず付いて来てくれた従者に、ついに何も報いる事が出来なかった。それだけが心残りだった。
 だからせめて、その選択に従おうと。愚かな事である。この時の星は、まだそれがともすれば責任の放棄に他ならないと言う事に気付いていない。

「そう、だね……。ちょっと、待っててくれないか」

 ナズーリンの考える所は二つあった。一つはやはり地底に逃れ再起を図る事。以前見つけた鬼の町がある。かつての同志は殆どがそこに居るし、とにかく一番人間と距離が保てる。
 人間と距離を保つ。これが一番重要だった。人間に人間として生活しやすい場所があるように、妖怪にも妖怪として暮らしやすい場所と言うのは存在する。
 人間で言えば瘴気にあてられるようなものなのだ。人の街の空気で、人と同じように生活すると言うのは。それは徐々に妖怪の体力を蝕み、やがて何の力をも失わせた後、死に至らしめる。これは巨大な都市であればあるほど強い。
 昔は、と言っても数百年単位での事だが、こうではなかった。人里に暮らす妖怪も居たし、特異な例ではあるが人間と契りを結んだ者も少からず居る。
 きっと今でも、地方の農村などに行けばまだそう言った場所は残っているのだろう。妖怪を、他の何でもない、妖怪として捉えてくれる場所が。だがそれが文明の波及と共に薄く消え去っていくのも時間の問題だ。だからこその地底であった。人から離れた、あるいは人界では無いのかも知れない、場所。

 そしてもう一つは……。これは殆どその場の思い付きに近いような物なのだが、敢えて自らの身を人に変え、人として暗躍する、と言う案だった。前述のように、その類の術は存在する。
 しかしこんな物は、やはり机上の空論に過ぎない。人間の身体は、脆すぎる。今まで、妖怪の身であったからこそ多少の無茶もしてこれた。人間の女性となった自分など、満足な食事も取れずに野垂れ死んで行く運命しか見えなかった。
 やはり、逃げるしかないのか。そう思うと、途端にどっと疲れが出て来るような気がした。自らの誇りが、逃げの一手に否を唱えているのか。それとももっと先、背を見せる事そのものに、己の敗北を感じてしまっているのか。

「ねえ、ナズーリン」

 悩み続けるナズーリンを見かねて、星が声をかける。

「なんだい?」

 声は返すが顔は上げない。必死だった。星の言葉を聞く間も、常にどこか抜け道が無いかを模索している。一種の職業病のようなものかも知れない。もしくは、諦めたらそこで終わってしまうと言う、本能の警鐘によるものか。
 そんな様子のナズーリンに、星は僅かに逡巡しながら、

「私は、貴女に付いていきますよ」

 とだけ言った。どこか優しいような、気遣うような、それでいて芯の有る声音。
 不思議な物だった。それだけで、ナズーリンの中にわだかまっていた何かが解けた。あれ、と思った。心が軽い。何も特別な事を言われた訳でも無いのに。
 星は、時に愚かだった。常にナズーリンの助けを必要とし、細かな失敗を多々繰り返す。だからこの言葉も、先のようにどこかずれたような感覚から出た物であった。
 星は思う。もう少し自分に知恵があったらと。他に言葉が、もっと何か、労う方法が思いつければ良かったのにと。違う。そうではないのだ。ナズーリンにとっては、その言葉だけで良かった。
 主人が自分を認め、見守っていてくれると、その言葉だけで。

「……地底に行こうか」

 ただ一言、そう言った。もうそれで良いと思った。このまま星や仲間達と静かに暮らすのも、一つの道なのだろうと。もう、逃げの手を気負う事はなくなっていた。



―8―


 変わらず、外は良い天気だった。
 今日も一日かけて帝都を回り、その足であのボロ家へと帰る。
 帝都の街並みは、以前のアルジャーノンからの報告である程度は知っていた。が、造反が確定した今、その正誤は定かでは無い。その確認の意味も含まれていた。
 
 そして帰り支度を済ませ通りへ出た時、それは突然襲い掛かってきた。

 それは、言わば、殺気のような物だったのだと思う。全身の皮膚が、外に向かって感覚を研ぎ澄ますような。毛が、ざっと逆立つような。警鐘が、身体を駆け抜けた。
 この様な往来で何者が。まずそれが気にかかった。周りの人間達はこの異常に気付いていないのか。
 誰も、何も感じて居ないようだった。明確に自分達に向けられた物だ。そう認識した時、手が震えるのが分かった。隣では星が懐の宝塔を握り締めている。

 これが妖気なのだと気付くのに暫くかかった。それ程までに大きい。その出所がどこなのか、探してしまいたい衝動に駆られた。が、顔を上げることが出来ない。
 もし、目が合ってしまったらどうしようと考えてしまうのだ。それでなくてもこちらが見ているのに気付かれたら。いや、そもそも最初から捕捉されていたのかもしれない。宿を出る、ずっと前から。
 危険だ。身体が叫ぶ。ここから逃げ出せと。通りは日常そのもので、人々は何を思うことも無く過ぎ去って行く。ナズーリンと星の二人だけが、金縛りにあったかのようにその場を動けないでいた。

 星に話しかけようとするも声が出ない。せめて、どこか、退路を確保しなければ。意を決して、辺りに視線を送る。
 その時、見てしまった。彼方から歩いてくる影。人の波の中、一人だけ特異な者が居る。目が、合った。
 瞬間、走り出していた。星も同時に続く。あれは、無理だ。ナズーリンは勿論の事、星でも相手にならない。あれは、大妖に区分される者だ。何故こんな場所に現れる。
 駆ける。駆ける。女だった。金色の髪の女。体は和装なのに、髪が金色に光っている。周囲の人間は、誰もそれを気に留めない。

 何度も角を曲がり、路地をすり抜け、気配を消し。その度に撒いたかと後ろを振り返る。
 目の前に、川が見えた。江戸の町を、ぐるりと取り囲む川。外敵に備えた堀の役目をしているらしい。それが、目の前に。
 随分走ったものだと思った。殆ど出口に近いような場所だった。下町と離れているためか、人通りも少ない。

「撒いた、か……?」
「分かりません。あんなの、見た事も無い。あんな妖怪が居るんですか? 私も若い頃は相当鳴らしましたけど、あれは、桁が違う」

 一本、木が生えていたのでその下に転がり込む。もう追っては来ないなと、来た道を覗きこんだ。
 何も見えない。
 一気に力が抜けた。大きく息を吐く。そしてそのまま深呼吸を。少し、息が切れていた。何せ、こうやって走ること自体が久しぶりなのだから。
 隣に居る星はまだ警戒をくずしていないが、ナズーリンはもう座り込んでしまっていた。

「うん、大丈夫そうですね。いやあ、怖かったですよ。何だったんでしょう、私達、何か恨まれるような事してましたっけ?」
「私はともかく、ご主人は帝都に来たのは今回が始めてなんだぞ。意味が分からないよ。気狂いの類か? そう言った妖怪も、時たま居るんだ」

 星が腰を下ろす。
 全く、二度と勘弁して欲しい物だった。悪趣味にも程がある。心臓にも悪い。
 口直しにもう一度、何処かの団子屋にでも寄ろうか。そう言えば、かなり無茶な走り方をしたが特に迷う事は無かった。自分がどの辺りを逃げているのか、一応の把握は出来ていた。
 どうやら、この辺りの情報は真面目に送っていた様である。図らずも確認が済んでしまった。
 なら、評判の良かったと言う甘味処もその通りの場所にあるのだろうか。どれご主人、ちょっと行ってみないか。そう言いかけた時にふと、近くに誰かが立っているのが見えた。
 あれ、何時の間に。何か用だろうか、顔を上げる。

「貴女達、人の顔を見るなり逃げるだなんて、レディに対して酷いと思いません?」

 先程の、金髪の女だった。




 間合い。
 背筋が、首が、身体の芯の部分が、一斉に金切り声を上げる。瞬間に死を覚悟した。間合い。それは即ち、安全圏と言い換えても良い。その中に、気付かず侵入される事が何を指すのか。
 その女は、目の前に居る。瞬間に、後ろへと飛び退いた。星が、臨戦態勢に入る。

「なん、だ、あんた。何故私達を狙う」

 極度の緊張の中、それだけを言葉に出した。舌が乾く。上手く回らない。

「狙うだなんて人聞きの悪い。ただ未だに帝都に妖怪が残っているなんて、と興味が湧いただけですわ」

 扇子を広げころころと笑う。人を小馬鹿にしたような態度。
 星が顔をしかめた。こんな表情をするのは珍しい。本当に不快な事に遭った時にしか、彼女はこんな顔をしない。
 つまり相当に不快だったのだろう。この女が。それとも、この女と話さざるを得ないこの状況が。

「用件があるなら手短にお願いしたいですね。出会い頭に妖気をぶつけてくるような野人と、話したい事などありませんから」

 語気に、少なくない苛立ちの色が混じっていた。

「あら怖い。そんなに身構えなくても良いのよ? まあ、少々威嚇じみた行為をしてしまった事は謝りますわ。本当に人間なのかと思ったのですもの」

 そう言ってこちらを見つめて来る。頭の上から、つま先まで。念入りに、念入りに。

「やっぱり、妖怪に間違いないのよねえ。生活様式の違いかしら。何か、都の妖怪とは違った生活」

 そしてまた何か訳の分からない事を呟き始めた。
 ナズーリンは目眩がした。この女、きっと同様に妖怪なのだろう、なのに一体何を言いたいのかさっぱり分からない。
 あまりの状況に一瞬自分の常識を疑う。もしや、帝都や他の地ではこれが普通なのだろうか。そんな事ある筈が無かった。あくまでも、同じ国で同じ言葉を使っているのである。
 それなのに、ナズーリンにはこの女の言っている事が理解できなかった。
 この女の話す言葉には、不思議な魔力がある。話術の一種なのかもしれない。耳から直に入ってきた音が、感情を揺さぶる。
 距離感が掴めないのだ。確かにそこに居るのだろう事は分かる。だが、それを見よう、聞こうとすると、途端にその輪郭を失う。

「私達が妖怪だったら何だって言うんだ? あんただって妖怪なんだろう」

 だからこんな、毒にも薬にも、何にもならないような言葉しか吐く事は出来なかった。
 それを聞いて女は目をまん丸くし、次いで頬をにやけさせる。その表情の意味も、ナズーリンには分からない。

「大いに関係があるのですよ、鼠さん。今日我々妖怪勢力は滅亡の時へと至りました。理由は……きっと分かっているでしょう。そのため私達は、それに対抗するための楽園を創り上げた」
「楽園……?」
「そして私達はね、その楽園を完成させるために奔走している。貴方達のような逸れ者に声をかけるのも仕事の一つなのよ。ふふふ、……ねえ、そうでしょう! 紫さま!」

 女が叫ぶと同時に、突如、女の背後の空間が裂けた。
 ぎょっとして、中を覗き見る。暗い。そして、無数の眼。思わず半歩、下がってしまった。
 それを見てまた女が笑う。

「その地の名は幻想郷。覚えておきなさい。そして、来るのなら早く来ることね。もうすぐ入り口は閉じてしまうから。そうなってしまえば、入る事が出来るかどうか分からないよ?」

 そう言って裂け目の中へと身を翻す。女を飲み込んだその裂け目が、音も立てずに閉じて行く。
 後には何も残らなかった。中空に浮かんだ切れ目も、あの女の発していた妖気も、何もかも。
 星が、幻想郷と口の中に繰り返すのが聞こえた。





~明治十一年~



―1―


 そも幻想郷とは何なのか。ナズーリンは、その郷の存在を知っている。
 と言っても、昔、遥か昔に退治屋連中が話していたのを聞いた事があるだけだ。その頃は秀秋君も、アルジャーノンだって居なかった。
 ちなみに余談だが、秀秋君はナズーリンの鼠達の中ではまだ年若い方である。出会いは関が原の決戦の折、かの小早川秀秋の陣中近くに居たのをナズーリンが拾った。命名、秀秋君。足が速いのが取り柄である。
 アルジャーノンもその辺りでポルトガルの船から密航して来たのだった。結局どこの出身なのか語ろうとはしなかったが。見ず知らずの新天地へと乗り込む、その行動力に驚嘆したのは覚えている。

 さて、幻想郷。だが、それについて良い噂を聞いた事は無かった。
 例えば強力な妖怪が蔓延っている。他にもその妖怪を追って全国から退治屋が集結している。そう言えば近くに行くと方向感覚を狂わせられると言うものもあった。過去何度も土地の豪族や領主が山中を捜索したそうだが、結局何も見つけられなかったらしい。
 そのため、もうここ数百年来幻想郷に関する情報は入って来なかった。最早過去の伝説。あるいは何か、物好きの語る御伽噺のような、そんな物として捉えていた。まさか今も尚滅びる事無く存在していたとは。鼠の網にかからなかったのは、鼠達が怯えて近づかなかったからだろうか。時々、あるのだ。こう言った危険な場所にやると。

「どうするねご主人様」

 茶を啜っている主人に、一応伺いを立てる。
 幻想郷へと向かうのならば、今住んでいる家は捨てなければならない。
 それとも、そんな物はでたらめで、信用するには足りないと見るのであればここに留まるのも良いだろう。

「どうするもこうするも、行くしかないでしょう。このままこっちに居てもジリ貧ですし」
「妖怪の楽園だぞ? どんな危険があるか、分かったものじゃない。最悪、この話自体が罠かも知れない」
「その心配は無いでしょう。わざわざそんな事をしなくても、あれだけの強さがあればその場で相手を殺してしまえば済む事です。それに、もしその時は、私があなたを守りますよ」
「ば、馬鹿、私が守られてどうするんだ……」

 もどかしいやら何やらで頭を抱える。
 どちらにしろ、一度は見に行く必要があるのだろう。降って湧いた好機、願っても無い事なのだ。例えそれが全くの嘘で、ただの徒労に終わろうとも、見に行く価値はある程度に。
 出発は初夏の辺りに決定した。北は気候が厳しい。かつて冬場に行ってえらい目にあった事を、ナズーリンは覚えている。なるべくなら、暖かい時に行きたい。




「え、ご主人、それも持って行くのかい」
「何で嫌そうな顔してるんですか、あんなに大事にしてたのに。これ一つだけ置いていく訳にはいかないでしょう」
「いや、確かにそうなんだけど、そんな、目立つよ。邪魔になるよ。私には大きすぎて持てないから、疲れても代わってあげられないよ?」
「いいんですよ、こんな立派なのぼり、打ち捨てて行くには勿体無いです」

 家には、取りたてて何がある訳でもなかった。ナズーリンが時々拾い集めてくる小物なども有るには有ったが、それらは鼠に持たせてしまえば事足りる。
 ただ、のぼりだけは別だ。こればかりは鼠に運ばせる事も、ナズーリン自身が持って行く事も出来ない。だから、ここに残して行こうと考えていた。どうせこの先役に立つ事もあるまいと。それを、星が拾った。
 少しの着替えと、路銀。それに寝袋などを用意して風呂敷に包む。
 この寝袋はナズーリンが考案した物で、袋状の布団に身体を丸ごと入れて寝る。これにより隙間風も防げて、その上畳めばかさばる事もないと言う優れ物だった。欠点は全く身動きが取れない事。跳ね起きる事も出来ないので外敵に襲われれば一たまりも無い。使い方は考えねばならなかった。
 鼠達は、隠れて後を付いて来てもらう。街道を歩く女性二人。しかしその後ろには人知れず鼠の大群が後を追っているとは、中々に妖怪然としている。
 尤も、一人はのぼりを掲げているため鼠どうこうはあまり関係が無いのだが。これでは元からただの変な二人組みだ。

 道を行くか山を行くかで意見が分かれる。
 折角人の作った道を使えるのだからそうするべきだと言う星と、なるべく姿を隠して進んだ方が良いと言うナズーリンと。
 どうせどこかで山中には入るのだから良いじゃないかと言うと、星が山は通りにくいと言ってくる。それは、通りにくいだろう。そんなのぼりを抱えているのだから。
 それをナズーリンが指摘すると、途端に黙り込むのだ。梃子でも動かない気らしい。

「とにかく、街道を行きます。良いですね?」

 決して譲らぬ姿勢で、同じ事を繰り返す。

「まあ、ご主人様がそう言うなら……」

 そうしてついに、ナズーリンも街道を行く案を通してしまった。

「大丈夫、今は関所も廃止されましたし、途中で引っかかる事もありませんよ」

 と星は言うのだが、別にそう言う事を問題としている訳では無いのだ。のぼりを掲げながら街路を練り歩くなど、これではちんどん屋ではないか。しかも持っているのは真っ白なのぼりだけ。随分貧相なちんどん屋である。
 まあ、星が良いと言うのであればナズーリンに異論は無かった。多少の恥ずかしさはある物の、確かにのぼり自体の質は良いのである。なんなら質屋で金に換えて貰っても良かった。



 北の方へ行くのは久しぶりだ。数十、いや、百年単位か。星も、殆どこちらの方には来た事が無い。
 こちらにやって、そのまま行方不明となった鼠達も気になる所だった。生存は絶望的だと思いながらも、どこかで生きていてくれる事を願わずには居られない。
 日差しが、少し暑い。

「どの辺りにあるんでしょうねえ、幻想郷」
「大まかな位置は分かっているから、その周辺の山をうろついてればいずれ見付かると思うよ。……本当にあれば、の話だけどね」
「もう、まだ疑ってるんですか? 気にしない事ですよ。当たるも八卦当たらぬも八卦ですが、これは当たる公算の強い八卦です」

 例幣使街道、と言う道がある。かつて御幣を持った使いが通った事からその名の付いた比較的小さな街道だが、地理的に道と道を繋ぐ間道のような扱いになっている。
 整備されている道は良い。ある程度見知らぬ土地でも宿場があるので、寝床に困らないのだ。
 だがそれも、山中へ入ってしまえば変わり無い。

 最初に山に分け入ってから、数日が経とうとしていた。獣道のような物でもあれば良かった。それさえ見付かればすぐにでも辿って目的地へ着く事が出来る。だが、実際はそう上手く行くものではない。
 最早退治屋の名を聞かなくなって久しい。もしそんな郷があったとして、外との交流も途絶えているはずだ。帝都で会った女のように、一部外へ出ている者は居るようだが、今まで何の話も聞かなかった事から察するに本当にごく一部なのだろう。それだけでは道を残すには足りない。
 暫く山中を歩き回っては街道に戻り、また入る事を繰り返す日々。そんな中でものぼりが邪魔になる事が無かったのは、ひとえに星の力量の賜物である。
 星は槍の名手である。毘沙門天の代理として生きる事になった当時、ただ格好だけではと独学ながらも鍛錬に励んだのが始まりで、長き研鑽の末寺に並ぶ者無しと言われるまでの腕になった。
 それが、あの長いのぼりを自由自在に木々から避けさせている。

 そして一月ほど経ったある日、ついにそれらしき山を見つけた。遠目には何も感じないのだが、近くによると妖気がうっすらと漂っているのが見える。見えるほど濃い妖気とはそうそう無いものだ。それが溢れる気配も無いのは、何らかの形で妖気を押さえ込んでいるからだろうか。
 話が聞けるかと思い、麓に、とは言っても少し離れているのだが、村があったのでそこで尋ねてみた。こんな辺鄙な所にと少し怪しまれたが、旅の尼だと言って通した。それでものぼりは奇妙な目で見られたが。

 彼らは、山の事をこう呼んでいた。神の住む山と。

 そう言った伝承はこの近辺では有名な物らしかった。ある者は不可思議な霧がかかっていたと言い、またある者は不思議な家を見つけたと。実際に、神をその目で見たと言う者も居た。驚いた事に、どんな話が出たとしても近辺の住民にそれを疑うものは居なかった。
 だから、かつて行われたお上の半ば山狩りにも似た捜索が身を結ばなくても、それは当然の事として受け止められた。二度、三度と続く山狩り。最終的に、駆り出された農民が山に分け入る事を拒否したのだと言う。幾ら脅しつけても、それならと年貢を軽くしてやると破格の条件を出しても、誰も動かない。
 ナズーリンがこの情報を各所に放っていた鼠から受け取った当時、この国は丁度動乱期で、関東の幕府が倒れようとしていた時だったように思う。何分昔の事だ、詳しくは覚えていない。それに、当時はまだ妖怪の力も強かった。そんな場所があるのか、それだけでナズーリンの興味は他へ移ってしまった。
 今、山の入り口に立ち、奥に目を凝らしてみる。紛れも無く、尋常のものではない。これは、もし鼠を入れていたとしても、何も分からなかっただろうなと思った。山に入る者を拒む何かがある。後ろを隠れて付いて来ている鼠達にも、怯えの色が見え始めていた。
 ふと脇を見ると、置石に縄が巻かれている。それを無視して、二人は生い茂る木々の中へと向かって行った。

「今の石は、結界ですね」
「うん、それも通常用いられる目印的な物じゃない。かすかに術の臭いがした」
「実際に張っている術者が居るんですね。効果はあるんでしょうか」
「どうだろう。何かを阻むような物ではないみたいだけど……」

 山の中は、異界であった。
 妖怪の身である二人がそう思うのだから、人間にはさぞかしこたえた事だろう。
 山中異界。空気が圧し掛かるように重い。これは、決して妖気が濃い事と無関係ではない。だが、それだけでは無い様に思う。それだけでは、この気分の悪さを説明できない。
 何か、別の術が施されているのだ。入り口に張ってあった結界とは違う、山に入るものの意志を削ぐ何かが。
 星が少し苛立っている。ここの空気は獣性を刺激する。それに当てられているのだ。ナズーリンは元が比較的気性の穏やかな動物のためそれ程の影響は受けなかったが、それでも気を抜けば意識を傾けてしまいそうだった。
 がん、と音がした。見ると星ののぼりが木に引っかかっている。

「大丈夫か、ご主人?」
「あ、ああ、大丈夫ですナズーリン。私もまだまだ修行が足りませんね、中々器用に避けるものだと、我ながら感心していたのですが」
「少し休憩しよう。やっぱり顔色が悪いよ」
「そう、ですか。そうですね、お願いします」

 集中を、保てなくなってきている。
 あまり良くはない事だった。今はまだ微小ながらも、確実に身体に影響を与え始めている。長居をすれば理性を失うまでは行かなくとも、その精神を多分に揺さぶる事になるだろう。
 早々に幻想郷を見つけてしまいたい所だった。ナズーリンも先程から探査の術を用いて探しているのだが、どうも上手く行かない。やはり、何か阻害する物があるのだろうか。
 得体が知れない。この山に長く留まるのは危険だと、そんな気がした。



―2―


 アルジャーノンは考える。

 帝都の全域に網を張るのに、十年かかった。その後の経過は良好。今ではどんな要人の動きも、財政状況すら、手に取るように分かる。
 自らのボス……ナズーリンの下を離れるのにはそれ以上の時間を費やした。長かったのだろうか、と時たま思う。もっと早くに離れる事は出来たのでは無いか。
 そして打ち消す。いいや、全然短い。この妖怪の身には時間など腐るほどあるのだ。何を数年程度で言う事があろう。
 むしろ、肝要なのはこの後であった。折角の情報も使えなければ意味が無い。このままでも逃げ道の確保程度には役に立つかも知れなかったが、そこで終わらせるつもりはさらさら無かった。

 この膨大な情報をどう扱うか。
 古来、こう言った諜報は不可能の物とされていた。人の都は言い換えれば死地であり、そこに潜んだとしてひと度その存在が発覚すればたちまち滅ぼされてしまう。それはどんな妖怪だろうと免れる事の出来ない物だった。
 だが現在、妖怪のために作られた陰陽寮やその類の官吏は姿を消してしまっている。今より一千年も昔、平安の時代には確かにその有用性を認められていたそれらが、何故。
 この事については実は妖怪の間でも諸説分かれている。その中でも有名なのが武士台頭説とそこから派生した銃火器台頭説であるが、未だ決定的な確証を得るには至っていない。しかし何らかの理由で術法は勢いを衰えさせ、アルジャーノンはその隙を付け込んだ。
 最早魔法であったり術法であったりとした物は、殆ど失伝してしまっていると言って良かった。今ではかすかに、個人がその極意を口伝するのみとなっている。
 新しく作られた太政官政府にも確かに神祇官などと言う役職は設けられていたものの、実態としては名ばかりで、とても妖怪の動きを察知して見つけ出すような能力は持っていなかった。

 アルジャーノンを害する者はこの帝都には存在しない。
 ここに、論は集約される。
 アルジャーノンがどれほど恵まれた環境に身を置いているか。こうなる事をアルジャーノンは予測していた。最初に感じたのは帝都を訪れた当初。確信を持ったのは、この都が陥落し妖怪がその姿を消した時。
 その頃から、ナズーリンにまともな情報を送るのをやめた。伝令は必ず腹心の鼠を使い、嘘が露見する事も避けた。十年が経った後になってようやく明確に離反の意志を告げたのは、さて多少の義理心が残っていたからだろうか。

 天敵の居ない中アルジャーノンは帝都の奥まった、少なくとも尋常の方法では発見できない所、に鎮座している。そこから配下の鼠達に指令を出し、自らは決して動く事は無い。
 今は人間達にどうにか干渉できないか、と試みている最中だった。人間の情報は人間にこそ使うべきだ。最初はほんの少しで良い。最終的に、自分の思うとおりに出来れば。
 誰にも、自分の存在を知られない事が良かった。何も直に動かす必要など無いのだ。道を示してやれば、道があるのかなと思い込ませてしまえば、後は勝手に自分達で動いてくれる。
 その、一番最初の一押しを、アルジャーノンは狙っていた。そしてゆくゆくは、帝都を裏から支配する存在になる。

 帝都を支配するとは何か。
 ひいてはこの国を支配する事に繋がる。帝都を支配するとは何か。
 それはつまり、人心を支配する事に他ならない。
 アルジャーノンはここの所そればかりを考える。帝都に派遣された時から、薄ぼんやりとあった夢物語。一介の鼠にそんな事が出来るものか、自問自答を繰り返した。今、それは目の前にある。
 目の前にあってしまった。いつの間にか手の届く位置に。その時それは、夢ではなくなってしまう。

 鼠の一匹が報告を持ってくる。伝染病が蔓延し始めた地域があるとの事だ。
 きっと、これは天恵なのだと思った。



―3―


「ここが、幻想郷ですか……?」
「わ、わからない。いつ入ったのかも。本当にここなのか?」

 目の前に少し開けた、盆地のような場所がある。その中央に、集落が。それを、山の中腹から見下ろすような形で眺めている。
 唐突だった。麓で聞いた話から、最悪数ヶ月は山篭りをする事になる覚悟をしていたのだが、まだ足を踏み入れて半日と経っていない。

「あそこの人達に聞いてみましょうか」
「ま、待て、待つんだご主人。今考えてるから……」

 ふむ、と星が内心に溜め息をつく。
 ナズーリンはとても優秀なのだが、こう言った自分の予想していなかった事に当たると途端に混乱してしまうのが玉に瑕だ。
 頭を抱えるナズーリンを横目に、星は幾分か頭が冴えてきていた。どうも晴れやかな気分だ。
 何故かと思ったら、先程まで辺りを包んでいた妖気が綺麗さっぱり無くなっている。心なしか、身体も軽くなっている事に気付いた。

「ねえナズーリン、気付いてましたか? ここ、妖気が全然……」

 と、ナズーリンは変わらず唸っている。聞こえていないようだ。
 まあ、どうせ急ぐ用事でも無いと周囲を見渡す。
 木が太い。戦火に巻き込まれなかった証拠だ。なるほど長らく人間に立ち入られなかったのは本当らしい。
 また、姿は見えないがこちらを覗っている者が数名。気配が伝わってくる。あまり力の強い妖怪ではない。それに、そんな妖怪は自分の存在を察知されるような愚挙は犯さないものだ。大方新入りの見物にでも来た、と言った所だろうか。

「ああ、分かった。やっぱりあそこに近づくのは止めよう。ここには退治屋が大量に流れ込んでいる。不用意に近づいたら、有無を言わさず襲い掛かってくるかもしれん」

 得心したようにナズーリンが答える。確かにそれも一理あるのだろう。だが、

「空気が綺麗ですね、ここは」
「へあ? あ、うん、そうだね。たしかに妖気もあまり感じなくなった」

 何とも穏やかな所であった。それこそ、警戒を抱くのが馬鹿らしくなって来るほどに。
 ナズーリンは未だ身構えているが、既に星にはそう言った気持ちはなくなっていた。むしろこれからこの地に住むのであれば、どうにか仲良くやって行く方法を模索するべきではないかと思っていた。
 それよりも、早い所どこかに雨風がしのげる場所を探さないといけない。寝袋があるにはあるが、ずっとそれで通すのはいささか勘弁したい所であった。
 こう言う時、家を持ち運び出来たら良いと常々思う。一から作り直すのは、中々大変なのだ。木材を加工するような道具もあまり持って来ては居ない。

「ねえナズーリン、やっぱりあの集落に行ってみましょうか」
「何を言ってるんだご主人! あんたちゃんと私の話を聞いていたのか!?」

 ナズーリンが声を荒げる。

「旅の僧侶です、とでも言えば大丈夫ですよ。幾ら退治屋の末裔と言えども、まさか毘沙門天代理を殺しにかかるような真似もしないでしょう」
「理屈の通じない相手だったら……?」
「その時は逃げましょう。いざとなったら、私のこののぼり君が八面六臂の活躍を見せますよ! ああ、でもそうすると毘沙門天様じゃなくなっちゃいますね。阿修羅様ですか? それよりは多くなってしまいますが」

 ナズーリンが、恨みがましいような目で星を見つめる。
 全く、そう思うのも無理のない事であった。部下が、その守るべき主に守られる。これでは本末転倒ではないか。しかし主に強く言われては従たるナズーリンは何も言う事が出来ないのだ。
 自然、非難の気を込めた視線を送る事になる。星は微笑みながらそれを受け止めている。

「ナズーリンは心配性すぎるんです。あの帝都で会った怪しい女性。彼女はここを妖怪の楽園だと言った。眉唾ながらも来てみたらその郷は確かに存在した。ならば、楽園と言うのだって信じても良いじゃないですか。きっと親切な人ばかりですよ。そして、あわよくば工具も借りちゃいましょう。家も建てて貰えるなら尚良しですね」
「は、はあ……。ご主人様のその、何と言うか行動力には毎度舌を巻かされるよ。言っておくが、別に褒めてる訳じゃないからな」

 とにかく行こうと歩き出す。逃げ出すような破目にだけはならなければ良いなと、段々近くなる民家を目に、ナズーリンは思った。





~明治十五年~



―1―


 存外に集落の人間達は心優しく、快く工具の貸し出しをしてくれた。
 それが妖怪に対するものなのか、それとも徳の高い尼僧に対するものなのかは定かではない。どちらにせよその心遣いに大きく助けられたのは事実だ。
 ただ、妖怪に対する偏見は無い様に思われた。かと言って身近な存在だと感じている風でもない。住み分けがなされている、と感じる。
 家は山中に適当な空き地を見つけて作った。何か取り決めがあるかと思ったが、別に何処でも構わないとの事だった。


 色々と調べていく内に、この郷が自分の想像していたものと遥かに趣を異にする物だと言う事に気付いた。
 まず、そこまで危険な場所ではない。確かに人間妖怪双方に大きな力はある。だが、それを行使する理由がどこにも無い。むしろ人間側の力の方が弱い節があった。退治屋は居るものの、最早殆ど裏方に回ってしまっている。
 何故ここまで妖怪が跋扈している場所で退治の需要が無いのかと聞いた所、殆どその必要が無いからだと返された。
 土地の狭さと力の強さが釣り合っていないのだ。だから争い事などは起きず、たまに小競り合いが出て来る程度なのだと言う。
 至って平和なものであった。それこそ、拍子抜けしてしまうくらいに。退治の技術は、半ば忘れ去られようとしていた。

 また、消息を絶っていた鼠達が見付かった。
 この土地で。訳も分からず、気付いたらここに飛ばされていたようだ。他の鼠達も同様だった。
 再会、彼らが私を探し出し、この体に駆け寄ってきた時、まさに私は歓喜に身を震わせた。全員揃っている。誰も欠けている者は居ない。
 どうやら鼠以外にも似た形でこの場所に飛ばされた妖怪は居るようだった。何処か別の場所に居たのを、瞬間的にこの地へ呼び寄せられている。神隠しに近い。

 そう言った術が施されているのだ。発動の条件は良く分からない。その仕組みさえも。だが、確かにそれは有る。
 妖怪の楽園と噂には聞いていた。なるほどそれは正しいだろう。この地には未だ数十年、数百年単位で過去が残り続けている。妖怪が力を持った時代。栄光の時代。妖怪はこの地に引き寄せられるのだ。かつて住んでいた地を捨てて。捨てさせられて。
 そして妖怪は存続する。あの女が言っていたのはこう言った意味だった。人間に対抗する楽園。我々の最後の砦。

 碌な物ではない。

 それが何になる。むりやり命を引き伸ばして、こんな所に押し込めて。もう私達はこの場所から出ることは出来ない。この場所に逃げ込んだ時点で妖怪は外の地の、自らの居場所を捨てたのだ。一生を人間達の進出に怯えながら過ごす事になるのだ。この狭い土地で。
 楽園、楽園だと。これの何処が楽園なのだ。これは箱庭だ。どこかの、趣味の悪い誰かが作り出した、妖怪を飼い殺しにするための箱庭。

 こんな歪な場所、長く持つ筈が無い。いずれ綻びが出る。この地の事を知れば知るほど、その思いは強くなって行く。
 ここに待つのは衰亡だけだ。それは、半ば確信として、私の中にあった。
 ここに来て数年。楽園の内にありながら、私の心が休まる事は殆ど無かった。



 一方、それに反してご主人様は上機嫌だった。

「ほらナズーリン、見てくださいよ。中々上手く出来たでしょうこの釣竿」
「え? ああ、うん、そうだね……」
「前のはすぐに折れちゃいましたからね、かなり丈夫に作ったつもりですよぉ。十年は持ちますね、これで」

 そう言って手に持った竿をぶんぶんと振る。確かに丈夫そうだった。と言うか、それは釣竿の太さじゃない。もはや棒だ、それは。

「ご主人様は元気だなあ」
「逆にナズーリンは元気ないですね」
「そりゃ元気も無くなるよ。この先、どう足掻いても前途が開ける気がしない。袋小路に逃げ込んだ気分だよ。もしくはトリモチか。トリモチにかかった鼠とは笑えない冗談だが」
「いや、見ようによっては割と面白いと思いますよ? しかし、うーん、ナズーリンはちょっと心配性が過ぎるんじゃないですかね。どうです、一緒に釣りでも。釣りは良いですよ、心が落ち着く」
「そして太公望になる訳かい。ご主人様は一体何処へ行くおつもりだろうね」
「今日び釣りをする虎なんて別に珍しくもありませんよ。それに、風流人なんてのもまたオツなものです」



 霧の湖と呼ばれる小さな湖がある。どこから来たのか多種多様な魚が生息していて、よく人里の人間が護衛を連れて釣りをしに来ている。
 そこに竿と、魚を入れるための籠とを持って、ぶらりと行く。いつも二、三人の釣り人が居て、少し会釈を交わす。彼らもこちらから危害を加えない限りは妖怪に対しても友好的なもので、釣果が優れない時にはお互い多少の魚を分け合う程度の仲にはなった。
 手ごろな場所を見つけ釣り糸を垂らす。この時、あまり釣れないからと言って船を持ち出してきてはいけない。湖には滅多に現れないが巨大な巨大な魚が居て、運が悪いとその船ごと一口に食べられてしまうのだ。

「さあ、今日の夕飯は煮魚ですよお!」

 などと言ってご主人様が腕をまくる。随分な張り切り様だ。ちなみに、私としては焼き魚の方が好きである。
 釣り糸を黙々と垂らす。ただ、黙々と。只管打座、と呼んでも良い。ただ座って釣り糸を垂らしている事にこそ意味がある。少なくとも私はそう解釈していた。決して、待ち時間が退屈な事への言い訳ではない。
 水面が風に揺れている。向こうの方で誰かが釣り上げたのが見えた。糸に何かがかかる感触はまだ無い。

「ねえ、ナズーリン」

 ご主人様が話しかけてきた。

「この郷がそんなに嫌いですか?」

 ギクリとした。それは、確かに好きではない。何度か、そう言った愚痴をこぼした事もある。だけど、こんな唐突に、面と向かって言われるのは、多少驚いた。

「そう、だね。本音を言わせて貰えば、好きじゃない。この郷は不健全だ。表向きは全くの平和で、何の問題も無い様に見えるけどね。でもそれは無理に作り出した、そんな紛い物の臭いがする。出来る事なら出てしまいたい。この郷を離れて、どこか遠くへ」
「それは、その出た先、外の世界に私達の生きる道は無いと分かっていてもですか? それでも尚、この郷を出たいと言うのですか?」
「それは……」

 そう、叶わないのだ。そして叶わないと分かっているから、出たくなる。不満が募る。薄々、良い事では無いのだろうなと感じてはいた。だが、頭では分かっていても心が受け付けないのだ。
 そんな私を制して、ご主人様が優しげな口調で諭してくる。

「私はね、こう思うのです。この世界を作った人はきっと、とても優しい人なんだって。私達の未来に滅びしか無いと分かって、それで必死にどうにかしようと頑張ってるんだって。だってそうでしょう? ここは、いわば独立した一つの世界です。それを創り上げるのは、並大抵の苦労では済まない。だから、少々不恰好なのは仕方の無い事なのです。ねえナズーリン、不恰好なのはいけない事でしょうか。私はね、その見苦しい姿こそが、生命の一番美しいものなのだと思うのですよ」

 だから、もうちょっとだけ我慢してあげましょう? そう言って、ご主人様が私に微笑んでくる。
 何も返す事が出来なかった。ただ、ちょっと下を向いて、もにょもにょと口を動かす。
 少し時間を置いてようやく小さく、うん、と返事をした時、また向こうの方で誰かが釣り上げるのが見えた。



―2―


 さあ、さあと風を起こしながら音も無く上空を飛翔する影。最近大挙してこの郷に移住して来た天狗達だ。
 機を見るに敏と言うべきか、今まで何処に隠れ潜んでいたかも分からない様な数が、一斉に雪崩れ込んで来た。そして今も、この幻想郷に“何故か”姿を隠し潜んでいる。
 不穏当な種族であった。相当数が居る筈なのに、未だに空を飛ぶ以外の彼らの姿を見た事が無い。何処からともなく現れては、またいずこかヘ消えていく。
 頭上を流れていく天狗の一人が、ふいにこちらへ下降し、一枚の紙を落として行った。

「おや、またですよ。これ何のために発行しているんでしょうね?」

 大きな見出しに「外ノ外ヨリノ外来人」と書かれている。
 天狗はときたまこうやって紙を置いて行く事がある。新聞……の真似事をしているようだが、理由は分からない。
 まさか、これを人間との友好に用いようなどと言う殊勝な事は考えていないだろう。天狗は、やはり天狗の名に違わず何かと気位が高い。奴らは、他者を見下す物の考え方をしている。

「金の髪に青い瞳……。へぇ、この人海の向こうから来たんですって。物好きだなあ。こんな所の話、誰から聞いたんでしょう」
「さあねえ。なんだい、民俗学者か何かかい? その人は」
「いえ、商人って書いてありますね。あはは、日本語は話せるそうですよ。それもそうか、でなければ会話も出来ませんものね」
「商人、ね。大方東洋の魔術的な物を求めて来たんだろう。努力と根性は認めるが、果たしてそう上手くは行くかな」

 ご主人様からその新聞もどきを受け取って眺めてみる。前回と比べて、少し印刷技術が上達したように思う。文字が幾分か綺麗だ。
 ひっくり返して、裏面。こちらも、ちゃんと印刷されている。まだ最初の新聞が発行されてから数ヶ月しか経っていないのだが、この辺りの天狗の技術研究には目を見張るばかりだ。

「どれどれ、おやナズーリン、外の情勢ですってよ。その商人さんから聞いたんですかね」

 ご主人様が横から覗いてくる。ええい、行儀が悪い。

「外の世界なんて、もう私達には関係の無い事さ。それこそ、戦争でも起きると言うのなら話は別だが」
「あれ、意外ですね。戦には興味あるんですか? それこそ、私達には関係の無さそうな話ですが」
「この国の中でならね。外国に負けるのは困る。異国に負ける、それは即ち文化の破壊だ。悲惨だぞ、そう言った国は。たまに大陸の方から入ってくる話しを聞くが、どれも碌な結末は迎えていない」

 そう言って、印刷された文字を追う。決して大きくは無い紙面に、事細かに外の出来事が書かれていた。
 また、政府内部で何人かが下野したのだと言う。あちらも大変だ。街並みについても書かれている。やはり、私達が見た数年前より、すっと発展しているのだろう事が覗えた。単語のいくつかに、知らない物が混じっている。
 記事の中程まで来て、ふいにご主人様が記事の後ろの部分を指さした。

「ナズーリン、これ、これ見て下さい!」
「なんだい藪から棒に……。ご主人様の読むのが早いのは分かったから私にはもう少しゆっくりとだね……」
「いいから、早く!」

 そんな事はお構い無しとばかりに、なおも急かしてくる。

「一体何が……」

 ご主人様の指の先を追い、そしてハッとする。なるほど、これは確かに何か大事を感じさせる。
 そこには、「御鼠様」の文字。大きな鼠が、福を運ぶ。帝都に広く信じられる、都市伝説だと言う。
 


―3―


 御鼠様は、民衆を導く。御鼠様を祀れば、ご利益が有る。
 ナズーリンが訊ねに行き、商人はそう言った。数年前、疫病が流行った時に形成された「虎狼狸」と言う化物がそもそもの始まりらしい。ナズーリンが幻想郷に入ってからすぐの事だった。
 虎狼狸とは何か。そもそも虎狼狸の歴史は江戸時代にまで遡る。その時も、虎狼狸は疫病の化身として語られた。局地的にではあるが猛威を振るった疫病の、その恐ろしさを語る際にしばしば人々の口端にのぼった。今回の疫病も、それと同種の物だったのだろう。だから同じ名前が使われた。
 別に、虎狼狸だけであればそう問題は無かった。しばしば、人は自分に見えぬ物に仮初の形を与え、自らの理解の手助けとする。虎狼狸とは、本来そう言った、名前としてのみ効果があるものだった。

 それが、何時の頃だろうか。最初は新聞に想像上の獣として載っていた虎狼狸が、どの紙面にも大きな鼠の姿として描かれる様になった。元は狸を基本形として描かれていたのだが、徐々に徐々に、皆が疑問に感じる事も無く、それは鼠の姿とされていった。
 程なくして、病気の根源であり忌むべき物であった筈の虎狼狸は、御鼠様とその名を変え信仰の対象となっていった。御鼠様を崇めれば病気が治る。御鼠様が疫病を退治してくれる。みな口々にその名を唱えた。そして実際に効果のあったと言う「噂」も流れた。推測では有るが、現実にそれを見た者は居なかったのではないかと思う。
 御鼠様の名が浸透するのにさほど時間はかからなかった。未だ奉る様な動きは無いとは言え、既に都民の大半がそれを効果のある物として認識している。一部の人間がその名を利用しようとするのも時間の問題だろう。御鼠様は、力を持っていた。

 これは完全に自分の不始末だ、とナズーリンは思った。
 アルジャーノンが、明らかにその勢力を伸張しようとしている。それも、人間の方へと向けて。
 まさかここまで大々的に勢力を伸ばすとは思って居なかった。妖怪は妖怪らしく、闇の中に生きるものだと思っていた。また、そうであるべきだと思っていた。それが時代に敗れた種の定めなのだと。
 これは明らかに違う。求めている物は妖怪としての生き場所ではなく、信仰。
 そんな馬鹿な事がまかり通るものか。鼠妖の力はとても弱い。都に浸透するほどの影響など、与えられたためしが無い。
 だが、今の世に陰陽方は存在しない。強力な妖怪も、軒並み姿を消した。

「妥当な、線なのか」

 言葉が漏れる。
 最早どう行動すれば良いのか、自分では分からなくなっていた。自分の元部下として、責任を持って止めるべきだろうか。しかしそれは、妖怪の未来を一つ潰してしまう事に他ならない。彼らの行く末はそのまま妖怪の未来にも繋がるかも知れないのだ。ここで下手に手を出すべきでは無いのではないか。
 それに、見てみたくもあるのだ。力が弱いと馬鹿にされてきた鼠妖が、その――

「ナズーリン、聞いていますか?」

 そこで、思考は途切れた。見ると、主人が訝しげに顔を覗き込んでいる。

「ああ、聞いてるよ。あーっと、明日は、そうだな、多分晴れると思う」
「むう、全く聞いてませんでしたね。お弁当は何が良いかと言う話ですよ」

 お弁当と言えばやはり定番は握り飯だが、最近では干飯も美味い物だと思えて来ている。かさばらないし、日持ちもする。長期間の行動が多いナズーリンにとっては、味よりも長く安定して食える事の方が重要だった。

「って、ちょっと待った。何でお弁当なんだい。別に私はどこにも行く用事は無いよ」
「何言ってるんですか。行かないといけないでしょう、東京」
「えっ?」

 思わず聞き返す。それにも構わないと言った風で、星が続ける。

「ナズーリン、貴女が何を悩んでいるのかは聞きませんし、私は何も言いません。それは、貴女自身が答えを出す問題です。良いですね?」
「うん、分かったよ……」
「では問題はただ一つ。私達は彼を見過ごすか否か、ですよ。そこに理由なんか必要ない。貴女は彼を見過ごしますか?」
「いや、それは、無いな。知った以上、置いておくのはそれは違う。私は行動を起こさなければならない」
「なら決まりです。我々は帝都に行って彼の真意を質す。それが善きものであればそのまま帰郷し、悪しきものであればその野望を潰えさせる。何を考える必要も無い、当然の事なのですよ」



―4―


「本当に着いて行かなくて大丈夫ですか?」

 星が、心配そうに尋ねる。

「心配はいらないよ、私の可愛い鼠達も付いてるしね。それに、何だかんだでご主人様は目立つ」
「ですが……」
「私達がこの郷に来て何年が経つ。あの時、あの女はこの郷の入り口がもうすぐ閉じると言っていた。危険なのさ、今の段階で外に出てしまう事はね。もういつ閉じてもおかしくは無い。そんな中に、貴女を連れては行けないよ」
「……なら、せめてこれを持って行って下さい。大事なお守りです」

 そう言って小さな箱を差し出して来た。中に何か入っている。

「これは、宝塔じゃないか」
「私の代わりです。いざとなったらこの宝塔の霊力が、きっと貴女を守ってくれますよ」
「ああ、ありがとう。……行って来るよ、ご主人様」
「ええ、気を付けて。貴女が無事に戻って来る事を祈ってます」

 お気に入りの肩掛けを羽織り、特製のロッドを肩に担ぐ。
 鼠は、総勢で四百六十名。そのどれもが長く諜報活動を行なってきた歴戦の勇士達だ。
 これより我々は帝都に進攻する。その通達が渡った時、彼らが一斉に沸きあがった。アルジャーノンの奴にこのまま舐められていてたまるか。その思いは、皆に共通してあった。
 そして、その日の内に彼女らは山を降りて行った。二度と逸れない様、全員がひと塊となって。



―5―


「とは言ってもまあ、結局帝都に着いたら変装しなきゃいけないんだけどね」

 帝都郊外の林の中に身を潜め、様子を窺う。
 アルジャーノンは、あの街の何処かに居る。そう思うと、何とも言えない気分になる。
 星を連れて来なかったのには、実はもう一つ理由があった。見られたくなかったのだ。自分が戦う姿を。
 最初から、話を聞くつもりなど無かった。アルジャーノンは、見つけたら即座に殺してしまうつもりで居た。その時、自分がどう言う顔をしているか分からない。だから、来ないでもらった。

 私怨も含まれている。奴は、自分を舐めた。それだけで、報復の理由としては事足りる。
 だが、そんな理由ではない。アルジャーノンは、深く人間と関わってしまった。そのつもりが有ろうと無かろうと権力を権力として行使し人間に影響を与える事が、出来るようになってしまった。
 それを肯定しようとした自分が、許せなかったのだ。
 それを是とするのならば、ナズーリンは最初から動いてはいけなかった。アルジャーノンを見逃し、その行く末に僅かな期待を持ちながら静かに幻想の地で暮らすのが、最良の選択だった。
 だがひと度。ひと度それを否とし主命によってアルジャーノンとの接触、干渉を行なうと決めた時、ナズーリンの中に見逃すと言う選択肢は消えてなくなった。
 人間がアルジャーノンによって利用される事も、構わないと思ってしまった。それが妖怪の存続に繋がるのならと。自らのために、他者が傷つく事を容認してしまった。
 それが許せなかった。決して選択してはいけない事だったのだ。なのにそれに甘い魅力を感じてしまった弱さが、たまらなく恥ずかしかった。
 だから、せめてアルジャーノンを殺し、自らの手でその未来を潰す事をけじめとした。奴は妖怪の本分を越えた。
 それを粛清するのは、かつての上司であった自分しか居ない。


 帝都に攻め入るに当たって、帝都内の連絡網がどれほど整備されているのかが気になる所だった。闇雲に入った所でたちまち捕捉、殲滅されてしまう事は目に見えている。質で劣るつもりは無いが、数の点で段違いの差があった。
 また、帝都自体の地理も通用するか怪しい物だった。数年も経てば街路はともかく建物はそれなりに変わっているだろう。鼠の道は建造物の内部にこそある。そう言った場所の把握をするには、通常数年の時間を要した。
 現状、こちらに有利な事などは何一つとして無かった。唯一、ナズーリンの能力は他の鼠と群を抜いているが、一人では所詮格好の的となるのが関の山だった。
 出来る事なら、相手方に気付かれる前に電撃作戦を決めてしまいたい。まともにやり合えば戦力差からして話にならないし、何よりアルジャーノンは確実に姿を隠す。こちらの動きを把握しながら、死角へと潜り込み続け、そして真綿で首を絞めるように徐々にこちらの戦力を削いでくる。
 ダウジングに頼るのは抵抗がある。確かに便利では有るのだが、人の街で使用するには少々目立ちすぎた。昔とは違い比較的容易に出入りは出来るものの、妖怪にとって人の街が敵地である事に変わりは無かった。もし妖術を使っている事が人間達に認識された場合、それだけでなぶり殺しにされる事も有り得る。ましてやナズーリンは、それに対抗できる力を持っていない。
 やはり一度、損害を覚悟で突っ込んで行った方が良いのだろうか。この場合も目立つから短期決戦が良い。

「ううん、お前たちはどう思うね」

 などと部下連中に聞いてみたりもする。勿論、大した答えが返ってくる事は無い。
 やはり、行くか、と思った。ナズーリンは賢将ではあるが、常々果断であるべきだとも思っていた。少なくとも、新たな情報の伝手も無いのにこんな所でうじうじと時間を費やすよりは、余程マシだった。
 ロッドを担ぐ。さてまさか、アルジャーノンも人間態のナズーリンを襲うような事もしないだろう。ともすれば人間達の信頼を失いかねない。それでも楽観は出来ないが。
 鼠を残し、単身帝都へ。このまま一気呵成に片が付いてしまえば良いなと思った。




 一方こちらはアルジャーノン。
 その情報網はナズーリンが予測するよりも遥かに優れ、進入は瞬く間にアルジャーノンの知る所となった。

「なに、ボスが来た? それも一人でだと……。ふむ……。おいお前達、ボスが手に何か持っていなかったか見て来い。俺の勘が正しければ何か棒のような物を持っている筈だ。何を思って今更姿を現したのか知らんが、どうせ碌な用事では無いのだろうな」

 本当に、今更だと思った。
 アルジャーノンがその活動を表層に出し始めてからそれなりの時間が経過していた。その間風の噂に聞きつけたナズーリンや他の妖怪が邪魔をしに来そうな、そんな危ない箇所も何度と無くあった。なのにその機会の全てで、邪魔者はおろか帝都に入り込むような妖怪も居なかったのである。
 最早アルジャーノンの起こした御鼠様信仰は半ば磐石の位置にまで達している。アルジャーノン自身の力も強くなっていたし、何より帝都に張り込んだ網が、組織として実際以上にアルジャーノンの力を堅固な物にしていた。そこらの妖怪が傷を付けられるような域は、とっくに通り越していた。
 そこに、単身。まさか保護を頼みに来た訳でもあるまい。自分のボスの性格くらいは知っているつもりだった。自分が言える事でも無いが、あれは中々自尊が強い。かつての部下に頭を下げるなど、死んでもやらないだろう。
 報告が来た。確かに、何か棒状の物を持っていたらしい。

「ロッドだ。俺の居場所を探しに来たのか、何だってまた。……ついに血迷ったかあの女」

 十中八九、自分を始末しに来ている。
 耄碌した物だと思った。前回もそうだが、自分を捕まえに来るのに準備が圧倒的に不足している。そんな程度で捕まるものではないと、分かっている筈なのだが。
 とは言え、ロッドの力は厄介だった。あれは近くに寄っただけで即座に反応を示してくる。圏内に入ってしまえばたちどころに発見される恐れがあった。
 尤も、今のアルジャーノンにその心配はまず無い。ナズーリンがどの辺りを移動しているかは逐次報告が入ってくる。そのまま相手が疲労するまで逃げ続けるのは容易な事であり、隙を見せた所で喉笛を食い破るような、その程度の芸当は出来た。
 が、次に入ってきた報告はおかしな物だった。先程帝都に入って来たばかりのナズーリンが、急に踵を返し出て行ったと言うのだ。まだ中心部はおろか、入り口部分すら満足に調べられて居ない筈なのに。何かの連絡を受けたような様子もないらしい。

「うん……?」

 疑問に思う間もなく、結局そのままナズーリンは帝都を去って行ってしまった。何か罠でも仕掛けたのか、確認に行かせてもそれらしき物は存在しないと言う。それに、そんなあからさまな策を弄する筈も無い。



―6―


 だが肝心のナズーリンも、不可解な事象に悩まされていた。頼みの綱、ダウジングのためのロッドがどうもおかしい。上手く動かないのだ。何かに反応したかと思えば静まり、また次は別のところに反応する。
 全くでたらめを指し示す。これでは探査など不可能だった。丸腰同然で敵地に入ったと気付いて、慌てて引き返してきた所だった。
 失策だと思った。むざむざ相手の前に姿を晒して、存在を知らせるだけ知らせて戻ってきた。我ながら謎の行動だと感じるのだ、相手方にもそれは奇怪に映るだろうから、一種のかく乱にはなったかもしれないが。

 何か、また新しい策を考えなければいけない。今度は、あちら側に敵襲のある事が感知されている、と言う前提で。無理難題にも程がある。
 奇襲も出来ないのに数百倍の大きさを持つ敵に向かって行くなんて自殺行為だ。第一鼠は逃げの手をこそ得意とする。帝都にどれだけ鼠が居るのか正確には分からないが、あの中に紛れ込まれただけでも探すのは至難の業だ。
 それに……何故ロッドが不具合を起こしたのかも気になる。ダウジング能力は何もロッドのみによるものでは無い。ナズーリンが練り上げた特技を、ロッドを媒介に発現しているだけだ。時や場合に関わる事無く使用できる能力のはずだった。
 試しに部下の鼠を少し走らせそれを追ってみた所、特に問題なく探す事が出来た。能力が衰えている訳ではない。では何故。

 結界、その言葉が脳裏をよぎる。確かに、術の発生を阻害するような力場を作り出す事は可能だ。実際に使用されている所も、何回か見てきた。
 だが、それは言うなれば非常に大規模な準備を必要とする高等技術であり、それこそ幾ら力を付けたとしても今までに術を学んだ事も無いような成り上がり者が施せるものではない。
 アルジャーノンに結界を張る事はできない。

 では何故。
 この謎を解明する事が、奴の根城を切り開く突破口になるかもしれない。そんな事を考えながら再び帝都の街を眺める。
 少し、休憩をする事にした。どうせこうなってしまえば相手の準備が整おうが整うまいが同じ事だ。どちらにも決め手が無い。奴もこちらも、人の見ている前で大々的に戦闘を始める事など出来ないのだから。







 持久戦になるな、と思った。
 逃げる者と追う者の単純な構図。そこに多少の不確定要素は入り込むだろうが、大局に影響は無い。結局はどちらか、根気が尽きた方の負けとなる。
 アルジャーノンとしては、ナズーリンに事の無益さを早々に察して貰い、そのままお帰り願いたい所だった。時間の無駄だ、と言う気持ちが強い。どうせ幾ら時間をかけた所で自分が下手を打つ事は無いし、それを頼みにするのは仮にも賢将を自称する者のする事ではない。
 だが依然として、その様な気配は見られなかった。何処に潜んでいるのかは知らないが、鼠の大群が移動を始めたなどと言う報も入らない。あくまでも、自分を倒さない限り退くつもりは無いらしい。
 厄介な物だと思った。本当に厄介だ。ナズーリンが視界の端をうろついている限り、アルジャーノンは嫌でもそちらに労力を割かなければならなくなる。単純に、手間を取られるのが、どうにも不愉快だった。
 外にばかり注力していては、肝心の御鼠様信仰にも支障をきたす恐れがある。面倒な。決してヘマはしない。ヘマはしないながらも、目障りな事この上ない。
 いっそ、こちらから出て行ってしまおうか、とも思う。その方がきっと簡単にカタは付く。千匹ほど出して外の捜索に回すなど造作も無い事だった。
 それも考慮に入れ始めた時、急報が飛び込んできた。何事かと耳を傾けると、また一匹、伝令の鼠が入って来る。

「今度は何だ?」

 訊ねる間にももう一匹。これはただ事では無い。早く報告をするよう促し、側近の一匹に様子を見てくるよう伝える。
 続々と入ってくる報告。どれも、「所属不明の鼠が現れた」と言う事だった。同時に、何箇所も。それらが全て、縦横無尽に駆け回っているらしい。
 あの地区に出現した。その地区に。こちらに。そこに。次から次へと伝令が飛び込んでくる。情報が錯綜する。網が走る鼠達の姿を捉え切れていない。

 まずい、そう感じると同時に、部屋への出入りを制限した。伝令が多すぎる。流れを止めなければ、辿られるとたちまちここが発見されてしまう。
 代わりに、また傍に居る鼠に指示を与え外へと遣った。持っている戦力はこちらの方が圧倒的に多い。各所に壁を作らせ、機動力を削いだ後に包囲、殲滅する。細かな指示が出せないのが辛い所だが、壁さえ作ればこちらの物だ。
 ふ、と一息つく。困った物だった。相手の動きが分かればどうとでもなると踏んで整備した伝令が、この様な形で足を引っ張るとは。完全に実戦経験の不足による物だ。見落としがある事に気付きさえもしなかった。
 少し、方法を見直す必要がある。ある速度以上で駆ける者を、無視する班と、報告する班。壁……については必要ないだろう。あれは同等程度の大きさの物にしか効果を発揮しない。精々、使うのは今回のナズーリンに対してだけだ。

 座して待つ。果たして、自分の所の鼠は上手くやっているだろうか。
 半日ほど経った後に、一匹だけ伝令がやってきた。何か大きな動きがあったのだ。思わず身を乗り出して報せを聞く。
 だがそれに反して、あまり喜べるような報告ではなかった。
 鼠の大群は、帝都内を走るだけ走り回った挙句、どこぞへと去って行ったらしい。各所に作り出した壁もむなしく、全てすり抜けられてしまった。聞くと、随分とこの部屋の近くにも来ていたようだ。それでも、この場所を見つける事は出来なかったようだが。
 一応こちらの損害も無いに等しい状態であった事は嬉しい限りだが、目的が達成できなければ同じ事。


 もう危機は去った。そうであればどんなに良いか。まずそう簡単には行かないだろう。むしろ襲撃に備えるべきはこれからだ。必ず三度目は訪れる。
 側近の十匹を集め、他の鼠達にも連絡を回す。この間に準備を完了させる。
 そして丸一日が過ぎた頃、三度目の侵入の報せが来た。



―7―


「来たか!」

 室内がざわめく。時刻は丁度、日をまたいだ辺り。夜闇に乗じての襲撃だ。今回はナズーリン自身が引き連れて居るらしい。帝都の雑踏を避け、しかし真っ直ぐに、建物と建物の間を縫って進んでいる。
 伝令の数も昨日よりはずっと落ち着いている。突貫で作ったにしては、特に問題も無く動いているようだ。
 今度こそ、あの鼠達を殺し、奴の耳を、目を、奪ってやる。権蔵、ロビンソン、セシリア。ナズーリンが信頼する古株どもを八つ裂きにし、もってこの戦闘の勝利とする。
 勝算は、あった。
 アルジャーノンが帝都に配下として動かしている鼠は、殆どが妖怪化もしていない、普通の鼠だ。だが、幾ら個体としての力の差が有るとは言え、動員できる数は数百数千ではきかない。
 万単位の攻勢。これで、そのまま押し潰してしまうつもりだった。ナズーリン自体を倒すのは無理があるかも知れないが、鼠さえ居なければ後は罠を張るなり何なり幾らでも方法はある。
 アルジャーノンは、こと緒戦が始まったばかりのこの状況において、早くも勝利を確信していた。

 少しづつ、戦局が入ってくる。未だ相手側の鼠を討ち取ったと言う報は聞かないが、中々善戦しているようだ。
 しかし、固い。昨日とは打って変わって一纏まりになって行動している。お陰で多少ぶつかった程度ではビクともしない。
 後方に二陣、三陣を組ませ、横からも当たるよう指示を与える。
 と、ここで妙な事に気付いた。ナズーリンの移動経路が全くぶれていない。それどころか、真っ直ぐにこちらへ向かって来ている。

「何だ? 昨日来た時は発見されなかった筈だが」

 だが、確実にこちらへ近付いている。速い。これでは、ここまで辿り着くのも時間の問題だ。むしろ伝令の足の速さを考えるとそろそろ移動をした方が……。

「いかん、おいお前達、後に続け! 何故か知らんがボスはこの場所を見抜いている。足止めもそう長くは持たんぞ!」

 ふいに、部屋の一角が崩れた。





 ナズーリンが、部下の鼠達が、一斉に部屋の中へとなだれ込んで来る。
 暗い。日の光の差し込まない、閉ざされた空間。その奥に鎮座する巨大な影。


「……よう、久しぶりだな、ボス。変わりないようで何より」
「ああ、久しぶり。……お前は、とても醜くなったね」

 五年ぶりに見るアルジャーノンの姿。
 大鼠、と言った言葉が浮かんだ。かつての何倍にも肥大した体。禍々しく変貌した牙、体毛。妖力も、格段に上がっている。
 これも、妖怪の一つの姿なのだろう。力を得た先の。ナズーリンとは、また別の道を進んだ者の。

 そして、ロッドを突きつける。

「年貢の納め時だアルジャーノン。お前は妖怪として逸脱しすぎた。ご主人様の命により、お前を誅殺する」
「穏やかじゃないな。誰が逸脱してるって? 少なくとも、あんたにとやかく言われる義理は無い筈だが」

 ナズーリンは無言でじり、じりと間合いを詰める。それに伴いアルジャーノンもじり、じりと後退を。

「ま、待てよ。もう少しなんだ。もう少しでこの信仰は磐石の物となる。良いだろ、別に他の奴らに迷惑をかけている訳じゃない。俺はひっそりとだな……」

 側近が前に出た。それに呼応するように、ナズーリンの部下九匹も前へ。アルジャーノンは、なおも下がり続ける。

「何故だ、今までにだってこんな奴らは居た。中枢に取り込んで、悪さをする様な奴だって。それに比べれば、可愛い物じゃないか。俺の成功が、そのまま俺達の存続に繋がるかも知れないんだぞ。あんたにそれを邪魔する資格があるのか!」

 じり、じり。アルジャーノンの尻尾が壁に触れた。もう後が無い。

「大層な理由なんて必要ないよ。大儀だって、そんな物は。ただお前が、悪事が出来るだけの力を持ってしまった。それだけで退治するには十分だ。それに私には、お前をこの街に放してしまった責任がある」

 だから、お前を殺すのも私なんだ。その言葉を、ぐっと飲み込む。

「さ、お喋りは終わりだ。旧知のよしみだ、せめて一瞬で終わらせてやる」
「そ、そう、か。それは、大変だ、な。……お、おい、待てよ、本気か、やめろ!」

 心の中に念仏を唱えロッドを振りかぶる。次の瞬間にはアルジャーノンの体は両断され、全てが終わっている事だろう。

「そうか、本気か……。ところでボス、一つ忠告なんだがね。あんたの後ろにある、壁を開けて出てきた穴。そこ、気を付けた方が良いぜ」

 何、と振り向く間も無く、突如その穴から濁流の如く鼠の群れが噴出してきた。アルジャーノンの配下だ。ナズーリンが引き連れてきたよりも遥かに多い。
 その群れはたちまち部屋を覆いつくし、アルジャーノンの姿を紛れさせる。

「俺がただ無駄なお喋りをしているとでも思ったか? 時間稼ぎだよ、こいつらが来るまでの」

 ざざざざ。音を立てて、鼠の群れが移動して行く。アルジャーノンは、何処にも見当たらない。

「残念だったな、ボス! 俺はこのまま逃げさせて貰うよ。あんたも、これ以上は追って来ないで欲しいな。俺ももう見付かるようなヘマはしない。こいつを、今生の別れにしようじゃないか!」

 床も、壁も、全て鼠で埋め尽くされている。味方の鼠が何処に居るのかすらも分からない。脚に痛みが走った。
 齧られている。時間が無い。一転窮地に立たされてしまった。ぐずついていれば、身体を食い尽くされる。既に脚の片方に感覚が無くなって来ていた。

「くっ、ご主人様、力を貸してもらう!」

 懐から宝塔を取り出し高く掲げる。もしもの時にと、渡された宝塔。
 辺りが、一瞬にして真っ白く染まった。強烈な閃光が、部屋を照らす。だが、

「耄碌したか、ボス? そんな子供だましが効くかっ」

 アルジャーノンには、効果がない。変わらず、鼠の山の中を動き続けている。
 霊力の放出ならいざ知らず。ただの発光程度ではアルジャーノンには、力のある妖怪には、何の痛痒も及ぼさない。
 アルジャーノンの目に、出口が見えた。このまま部屋から脱出すれば、帝都の地理にはこちらの方が通じている。このまま逃げ続けて再起を図るつもりだった。
 ただ、このまま逃げるのも癪だ。せめて一つ、ナズーリンの足の指でも食い千切ってから行こう。そう思い首をかえした所、
 ナズーリンが、真っ直ぐアルジャーノンの事を見ていた。

 ず。
 嫌な音がした。
 ナズーリンの目線の先に、一つ、蠢く陰。

「あ……ああ……?」

 ナズーリンが、鼠を踏み分け歩み寄る。そしてロッドを。何かに刺さっていたロッドを引き抜いた。

「ああ、効かないだろうね。確かにお前には効かない。でも、周りの鼠はどうかな? お前とは違って、妖力も、信仰も、何も持ってないようなのは」

 鼠達が、波を引いたように去っていく。後にはナズーリンと、その部下の鼠。
 そして、腹に大きく穴を空けた、アルジャーノンが。

「お前の側近どもは……はは、鼠達に流されて行ったか。邪魔が入らなくて丁度良いね」
「う、ぐぅ、ボ、ボス……俺は、こんな、お、」
「……さよなら、アルジャーノン」



―8―


 息苦しかった地下を出て、深呼吸を。空に星が見える。良い天気だ。
 ここは旧江戸城。現在は、皇居として扱われている建物のその一角。アルジャーノンは、この地下を通る抜け道に潜んでいた。

 江戸の街。かつて神君徳川家康が幕府を起こした、その本拠地。
 それが決められた際に、時の有力者達はこの地の永きに渡る繁栄を願い、大規模な結界を張っていた。風水と呼ばれる様式の結界は、江戸の東西南北に点在する寺社を媒介とし、周囲の気脈を整え江戸の街に正しい風を運ぶ。
 それは、果たして妖怪などと言った邪の存在、人より外れた妖の存在にも作用した。劇的な変化があるわけではないが、継続的に妖怪の気力を奪い続け、戦意を喪失させる。ナズーリンのダウジングが妨げられたのも、大本の原因はこの作用によるものであった。

 ナズーリンは、ここに目を付けた。この地には確かに何らかの結界が存在しており、それはおそらく帝都の全域に及んでいる。では、アルジャーノンはその結界に対して無事で居られるのか?
 この結界がアルジャーノンの力による物では無い事は分かりきっていた。ならば帝都を根城にするアルジャーノンが、常に結界の影響を受け続ける様な居心地の悪い場所に居を構える訳が無い。

 そこで連れて来た鼠達に、多少荒っぽい方法ではあるが、その体で結界の影響の少ない場所を探してもらった。二度目の進入はこれに当たる。
 だが、結果としてはこれと言って結界が弱まる場所は発見できなかった。ナズーリンは頭を抱えた。ざっと見た限りでは穴は無い様に見えるが、自分の仮説が間違っていたのか。
 ならば見方を変えて、アルジャーノンが潜むとしたらどのような場所になるか、を考えた。民家の屋根裏。無理だ、直ぐに家人に気付かれる。港。良い案だろう、鼠が居たとしても怪しまれにくい上に食料も比較的簡単に手に入る。では、地面の下はどうか。
 これか、と思った。まさに地下道の存在しそうな所が有る。地下のため結界の影響も受けないだろう場所。それが江戸城だった。正確には将軍が緊急時に落ち延びるための脱出路。どの城にもあるそれに目を付けた。

 あの鼠達は、アルジャーノンの命令の下に食い扶持を保っていた帝都の鼠達は、これからどうなるのだろうか。
 深くは考えまいと思った。自分は少なくとも、目的は果たしたのだ。それ以上は自分の領分では無い。ナズーリンは政治のような大局的な話よりも、もっと身近な、細かい視点での事を考える方が好きだった。
 帰る途中どこか商店に寄って、美味い物でも買ってやろうと思った。部下達に、労いの意味を込めて。散々走り回らせてしまった。やれやれ全く、鼠は体力に乏しいと言うのに。
 少し、振り返る。地下への暗闇が、何だかとても小さく見えた。



~終わりに~


 こうして、ついに帝都に残っていた最後の妖怪が居なくなり、帝都より妖怪の姿は完全に消え去る事となる。
 帝都は危うい線のその最後の一つを越える事無く、無事人の手に戻された。これより人の世はますますの繁栄を迎えるだろう。
 二年後、博麗大結界が発動し妖怪の楽園幻想郷が完成。妖怪は殆どがそこに移り住み、永く続いた、しかし誰も知る者は居ないあやかしの時代が終わりを告げる。
 もしアルジャーノンが生きていたらどうなっただろうか。この未来も少しは変わっただろうか、変わらなかっただろうか。
 妖怪が再び、結界を越えてこの世界に覇を唱える時は来るのだろうか。それでなくても良い、ただ、外の世界に市民権を獲得するだけでも。妖怪の存在が、ただの幻想としてではなく身近にある物として捉えられる日は。
 きっと無理なのだろう。
 無理なのだ。
 そんな時代が訪れない事は分かっていた。人間の、その理不尽なまでの伸張を、止める術が無い事もまた。
 だが妖怪の幾らかは、いつかそんな日が来れば良いと思っていた。妖怪の生は長い。その日が来るまで気長に待とうと。
 ナズーリンは、さてどちらの考えに居る物だったか。



END
 ――また、この鼠の大量発生と関係が有るのか定かでは無いが、同時期別紙にこのような記事がある。
「皇居の堀より大鼠の死骸出現」
 当時皇居(この時代は旧江戸城となる)の庭役を勤めていた男性が、堀の傍で大きさ三尺にも渡る巨大な鼠の死骸を見つけたと書いてある。
 三尺と言えば現代で言う1メートルに相当するため、幾分か誇張が入っている事は想像に難くないが、それでもそう言った物が出た事だけは確かなようだ。
 面白いのはこの直後に先の御鼠様信仰が急速に勢いを衰えさせていく所にある。往時は世論も動かした程の民間宗教であったが、これより一年以内にどの文献にもその名が見られなくなる。
 これにより、この鼠の死骸を御鼠様なのだと見る者も少なくは無い。現に当時、この死骸を祀ろうと言う動きもあったそうである。現在に伝わってない事を見るに、上手くは行かなかった様だが。
 果たして、御鼠様は実在したのか。死骸は最終的にどう処理されたのか。これらは明治初期の東京を語る上で欠かせないミステリーとなっている。
 ――――某時代のオカルト雑誌より抜粋



Q&A

Q:アルジャーノンってなーに?
A:某有名小説「アルジャーノンに花束を」に出て来るアルジャーノンと言う鼠・・・・を元ネタにしたロマンシング サ・ガ3に出て来るボスキャラです。
とても頭がよく、教授(岡崎教授に非ず)の研究所から脱走した後、一般の鼠を引き連れて村々に悪さを働いていました。

Q:アルジャーノンが倒せないよ!
A:つ【大車輪】
・・・と言うのはさて置いて、「ねこいらず」は持っていますか?
アルジャーノンには本体の他に幾つものダミーポイントが存在し、どうにかして本体を見つけ出し攻撃を当てなければ倒せません。
「ねこいらず」を所持しているとアルジャーノン以外の鼠がダメージを受けるため容易に判別する事が出来ます。アルジャーノン自身は引っかかりません。頭が良いので。
無ければ教授の家に貰いに行きましょう。



・・・・えー。(何を書こうと思っていたか忘れた)
明確に続き物です。でも基本的に一話独立のスタンスでやって行きたいのでその辺りは書いてません。のぼり君は準レギュラー。と言うかむしろ、続き物の体を取るためにわざわざ出している感が。
いずれ何かに使える時が来るのでしょうか。やりたいんですけどね、バッタバッタと敵をなぎ倒していくのぼりとか。

少し、テーマ的なものを決めて書いてみました。ナズ星とか。ナズーリンちゅっちゅっ。最後の雑誌は、時代的にとても離れた所のものです。

アルジャーノンの辺りはまさに自分得。ねこいらずを使ってアルジャーノンを倒すネタ、がやりたかっただけですね。
ちなみに、東京の結界は実際に張られているそうです。何かで見ました。

それではどうも、ここまで読んで頂き本当にありがとう御座いました。


追記
>のぼり目立ちすぎ
実は自分でも薄々感じてたんだけど、強行しちゃったんだね!仕方ないね!
多分今回だけだと思います。次からはただ名前だけちろちろと出す予定。移動回だから、その都度出してたら目立っちゃった。

>星君空気
うぐっ、見抜かれているっ・・・!
そうですね、この作品は、どちらかと言うとアルジャーノンの方に比重が行っています。
なるべく歴史物っぽいものを作ろうとしました。心情ではなく、結果に意味があるような、そんな。
ごまポン
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コメント



0.670簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
長さを感じないで、楽しく読みました。面白かった。
2.100名前が無い程度の能力削除
良いねえ
こういう明治大正的な文明の過渡期にある、伝奇風の物語は大好物です
5.100名前が無い程度の能力削除
明治初期という激動の時代に、その時代背景を絡めながら物語が進行していく点。歴史オタ(それも明治以降)の私にはドストライクでした。

文章は安っぽく無く、されど読みづらさは感じられず。最後まで飽きずに読む事が出来ました。
6.70名前が無い程度の能力削除
オリジナル要素が東方の設定、明治の情勢と上手く絡んでいい感じ。
後半頻繁に視点切り替えが入るせいかちょっと失速した感があるが、
それを差し引いてもなかなか面白かった。

ただのぼりに関しては、無理やり重要アイテムにしたがってるってのが見え見えで正直うざかった。
7.100名前が無い程度の能力削除
>>某雑誌
月刊ムーとか早苗さんの愛読書っぽいですよねぇ

ナズーリンが為し得なかったけど、夢想した鼠妖の未来の一つがアルジャーノンで、つまり未練だったのなら。
同時にナズーリンの行くべき道と相反するものだったのなら、ナズーリンは幻想郷に入る前に始末をつけるべきだったよね。
アルジャーノンからは、『隠居したと思った先輩が移住先で積もった不満を帝都で成功した俺にぶつけに来た』様に見えたんじゃないかと。
これは、かっこ悪い。
あと星さんが、割と空気。 のぼりで大車輪とかやっちゃえば良かったのに。
全体的にはアル×ナズ(戦的な意味で)な小説だったかなと。

今までナズ星の幻想郷入りを描いたものって信仰を失ってひっそりと、っていう静的な物が多かっただけに、こういう描き方は斬新に映った。
『帝都』っていうカオスな状態は、古今和洋の交じり合ったナズ星とこれだけ相性が良いっていうのも新しい着眼点。
冒頭でちらっと出たロンドンていうのも、親和性高そうだ。

ともあれ、良い物見せてもらったと思うし、このナズーリンもっと見たいなとも思うのでこの点数。
9.90コチドリ削除
黒死病大発生又は産業革命時代のロンドン、魔都上海と並んで、帝都東京は男の浪漫を刺激しますよね。
ナズ達妖怪が排斥されているという状況を鑑みれば無理目な要求だとは思うのですけど、
もうちょい帝都にオドロオドロしい雰囲気があっても良かったのかな、と。何かが蠢いている的な。

文章、描写についてはちょっとくどいかな? ってのと、長編なんだからこれ位の余裕は必要、
という感想が半々ですかね。
アルジャーノン粛清については若干納得のいかない面もあるのですが、続き物ってことで意見は保留だ。

あ、そうだ。
藍様を忘れていた、藍様を。カリスマに溢れていて大変よろしかったです。
更に上で君臨する紫様の特大オーラはいかばかりか。
のぼり君の活躍も楽しみだけど、個人的にはもう一組の主従の動向にも注目しています。
ともあれ、長編執筆お疲れ様でした。
10.90名前が無い程度の能力削除
明治は良い…心が洗われる……
12.無評価名前が無い程度の能力削除
時代とナズーリンのキャラクターがマッチしていて面白かったです。
13.90名前が無い程度の能力削除
失礼、得点入れ忘れ…
16.90愚迂多良童子削除
ここからどういう風に星蓮船に繋がっていくのか。

>>う、ぞれは仕方ないじゃないですか。
それは?
17.100パレット削除
 100kbが短い。
 思えば鼠って、どちらかというとおぞましいものですよね。リアルで見たら泣いちゃいそう。幻想郷の鼠はかわいいイメージがなぜかあったのでついつい忘れてしまっていた。
19.90名前が無い程度の能力削除
時代背景とかいいですね。とても好みです。
星とナズーリンも、とてもよいキャラでした。
あと藍様はほんの少しだけの登場なのに、すごく
存在感がありましたねえ。
20.無評価名前が無い程度の能力削除
展開が気になる感じで面白かった
21.100名前が無い程度の能力削除
点数付け忘れ
30.100名前が無い程度の能力削除
これはいい星5主従。面白くてつい読みふけってしまいました。