くちゃり、くちゃり。
暗闇の中から音がする。くちゃりくちゃり。何か形容し難い、けれど誰もが耳にした事のある音。
その音を発している者はぬうと闇の中から出てくると、手に持った最後の一切れを口に放り込み何処かへと去っていってしまった。音は口の中から尚続いている。咀嚼の音であった。
彼、もしくは彼女は、ここの所定期的にそうやって何かを食っては、また何処かへと去っていくような事を繰り返していた。
理由はただ利己的で、かつおぞましい。
別に、美味い物ではなかった。だが、食ってしまう必要があった。自分のために食われるのだ、こいつも本望だろう。そんな事を考えながら、ひたすらに食っていた。
もう、腹はいっぱいなんだけどなあ。ふと言葉が漏れた。
~1~
夜の帳の中をひそりと駆け抜ける鼠が一匹。時々立ち止まっては耳をそばだてまた走り出す。林を抜け川を抜け、森を抜けて洞窟を抜けた先にあるものは、果たして一つの巨大な街。そして、一軒の長屋であった。その一室に、鼠がもぐりこむ。
「やあ、ご苦労だったね」
部屋の中には女性が一人。とは言っても、決して人間ではない。頭の上部に付いた丸耳がその人外を主張している。彼女は鼠から何かを受け取ると一つ命令を耳打ちし、また何処かへと鼠を遣った。
長屋は、奇妙な形をしていた。シルエットは普通の長屋と大差ないのだが、どこにも窓らしき物が見当たらない。全て一面は壁で塗り固められている。外から明かりを取る事が出来ない造りになっている。
ここでの明かりは、特別な火を用いて作られる。触れても熱くない火。燃え盛るのに空気を必要としない火。きっとそれは、現代の科学で言えば火とは呼べないものだった。
人はこの街を旧都と呼ぶ。かつて地獄の鬼が暮らしていた街。地上からは遥か遠く地底世界の、中心に位置する街だった。
受け取った物をあらため、彼女も長屋を後にする。少し、行く所が出来た。毎回、鼠が何かを持って来る度に行く所だ。
地の底は暗い。幾ら明かりがそこら中に点いているとしても、足元に気をつけなければ転んでしまう。彼女の名はナズーリン。生まれは、遠く、遠く、北の国。彼女の本当の出自を知る者は少なかった。
――
時を同じくして旧都の中心部少し外れ。通りの奥まった所に、他より少し大きな建物が建っている。豪壮な、しかし決して華美ではない建物。その建物は鬼の門と呼ばれ、旧都の住民から畏怖されている。鬼の門はその名の通り鬼の住む場所。正確には、鬼の勤務地であった。
旧都の治安管理を司るこの場所で、一つの案件が問題となっていた。これが、今回の話の肝心要の部分。旧都を襲った未曾有の犯行、妖怪の無差別連続失踪事件。長い鬼の歴史の中で、ついぞ鬼に敗北を許してしまった、数少ない出来事の内の一つだ。
「姐御、また一人居なくなった……そうです……」
部下から報告が入る。これで何人目だと言うのか。今から千単位時間ともう少し程前、その頃から妖怪が一人二人と不可解な失踪をとげる様になっていた。今入ってきた報告で、正確には二十九人目。どれもが一筋縄では行かない様な者達ばかり、誰も知らぬ、気付かぬ内に、突然と姿を消す。後に、膨大な量の血だまりを残して。
単位時間と言うのは、地底での時を表す。この旧都の、前の所有者が残していったもの。日の昇らない地底に時を刻むため特別に作られたそれは、四つの文字盤にそれぞれ連動して針が動いている、巨大な時計塔。地底では、それが時間を表す唯一の指標であった。ちなみに千単位時間とは、人間で言う所の一ヶ月弱に相当する。
そう、ものの一ヶ月で三十人。異常な数字だった。既に住民には警戒を呼びかけているし、巡回の人数も増やしているが、依然変わりなく犯人はその網をすり抜け、被害者をこの街から消し去って行く。
姐御と呼ばれた鬼が、机を叩く。失態だった。鬼の沽券に関わる。だがそれ以前に、こうやって姿を隠し、自分達を嘲笑うかのように犯行を繰り返す犯人が許せなかった。鬼は、卑怯を最も嫌う。彼女はその鬼を束ねる者。かつて四天王と呼ばれた内の一人、星熊勇儀その人だった。
彼女の怒りは渦を巻き、その場の全員を慄かせる。叩いた場所から机にヒビが入っていく。部下達が大急ぎで外へ出て行き、誰も居なくなった頃、机が音を立てて割れた。
――
ナズーリンは元々この地底を本拠としていない。彼女の本拠は地上にある古いお堂。もっと言うならば、そこに住む主人の傍らにある。
何故その場所を離れてこのような地底に居るのかと言われれば、なるほど尤もな疑問であり、詰る所彼女が優秀だったからと答える外無いのだが、それでも尚言葉を続けるのであれば、彼女の目的に必要であったからとしか言い様が無い。
色々と厄介な事情の下にその身を奔走させ、各関係者の間を連絡する。それが彼女の仕事だった。
長屋のある裏路地を出ると、俗に三番街道と呼ばれる街路に出る。中心に高くそびえる地霊殿を軸として円形に形作られたこの旧都は、十二本の主要道とその間に張り巡らされた細道によって成り立っている。三番街道は割合貧乏人の多い場所で、ちょっとしたスラムと化していた。所謂余所者のナズーリンにとっては、その方が都合が良いのだが。ここから四番、五番路を抜け、ナズーリンは市場へと向かう。
彼女は、あまり地底の市場と言うものが好きでは無かった。地上と比べ、売られている物に明らかに生気が無いのだ。日の光が当たらないからだろうか、どれも、妙にやせ細っている。その癖、それ以外では独自の文化を持っていたりして侮れないのだが。
例えば、発酵食品の類。これらは地上よりもずっと種類も多ければ質も良いし、何より安価であった。それに、工芸なども盛んである。お陰で地底に来てから、やたらと凝った造りの物ばかりが手持ちに増える。何を買っても、何かしらの細工が付いているからだ。
市場に出る時、彼女は少々の銭と背負い鞄を持って出かける。銭はともかく、鞄はちょっとした商売道具だった。知り合いの染物屋に頼んで仕立ててもらった物で、鞄としての機能の他にもう一つ、それなりに有用な機能が付いている。
鼻歌交じりに彼女は出かけて行く。今日は、良いチーズが手に入ったら良いなあ等と思いながら。あの、淡白に思えて深みのある味が好きだった。近年、地底にも伝わって来た物だ。それとなく、製法をナズーリン自身の手によって。
品で膨れた鞄を背負いながら七番街道へ抜ける。そこにある一軒の家の前。出迎えるのは二人、一輪と水蜜。ここに来る事は伝えてあった。ナズーリンには、便利なしもべが居る。
「久しぶりだね、同志水蜜。それに同志一輪よ」
「あ、うん、久しぶりなのは良いけど、何買ってきたのよそれ……」
「何って、見て分からないかい。のぼりだよ、のぼり」
市場に、見慣れない店が出ていた。のぼりばかりを何本も並べて、誰も買いもしないだろうに平然と座っている。
少し、好奇心が首をもたげた。何故こんな事を、というのもあったのだが、存外に、そののぼりは出来が良かったのだ。
小金ならばある。目の前に燦然と輝く純白ののぼり。気づいた時には買ってしまっていた。それからナズーリンは、のぼりを立てながらここまで歩いてきた。
「のぼりなんて、何処に置くの。そんな、通行の邪魔だって折られるのがオチよ」
とは一輪。
「いやあ安かったものでね。いずれ何かしらには使えるだろうさ。今の所使い道は家の前に宣伝をたてておく位しか浮かばないが」
そう言って、高く目の前に屹立するそれを、ポンポンと叩く。一輪が溜め息をつく。今までにも、ナズーリンがこうして妙な物を買ってきた事はあった。彼女は仕事柄、物をため込む癖がある。
流石にのぼりは外に残させて、ナズーリンを家に上げた。一輪がお茶を汲みに奥へ向かう。水蜜はといえば、ナズーリンと一緒に居間で座って待っている。
居間には簡素なちゃぶ台と小さなタンス。程なくして一輪が戻ってきた。
一輪がお茶を汲みに台所へと向かう。元来が面倒見の良い性格のため、こうした時には大体一輪が動くようになっている。一方水蜜はと言えば、ナズーリンと一緒にただ座ってお茶が来るのを待っている。
一服つき、ナズーリンが懐から一枚の紙を取り出す。先程、ボロ長屋で配下の鼠から受け取ったものだ。中身は、同士を繋ぐ定時連絡。ナズーリンがこの地底へと辿り着いてから幾度と無く交わされてきた、秘密の会合である。
「ご主人から伝言だ。宝塔の霊力は無事戻ったとさ」
おお、とざわめきが漏れる。ついに来たか、どちらかが言った。
彼女達の目的の一つ、宝塔。
唯一手に残された聖遺物で、かつ最も再生の困難な法具であった。それが一番最初に手に戻るとは、皮肉とも言える。
目的は他に、船の起動、異世界への扉、封印場所の特定などがある。全てが、彼女ら大恩有る聖のためのもの。既に、行動を開始してからそれなりに長い時が経っている。
宝塔は、その過程の最後の最後、聖自身の封印を解くために必要なものだった。手に入った事は、朗報と言えた。幾ら時間の有り余る妖怪の身とは言え何の成果も出ない日々。諦観の気は、薄く流れかけていた。
「あとは、せめて船だけでも動けばねえ……」
と、水蜜。幾ら聖の封印を解く術が手に入ったとは言え、肝心の聖の下へ辿り着けないのではどうしようもない。
村紗水蜜。彼女の持つ船「聖輦船」は、空間の壁を無力化し世界間の航行を可能とする。時空軸の壁を突破する物とは、また少し違う。この船は、確かに存在する、それでも行き方が分からない場所へ無理矢理に移動するための物。移動する船としてはその規模も能力も、まさしく桁外れのものだった。
名前の由来からして大層なものである。聖輦の字は本来、世を統べる者と言う意味合いを持つ。聖自身も、これには流石に苦笑をしたものだが、最終的に周囲に押し切られてこの命名を許してしまった。
しかしその船も、いまや動力を抜かれ聖同様に封印されている。幸いにして封印場所自体は手の届く距離にあるのだが、破ろうにも今現在封印を管理しているのは地底の権力者達であり、迂闊な行動は出来ない。そもそも、動かしたとして地上に出ることすらままならないのだ。
生活に困る事は無い。ここには妖怪を追い立てる人間も居ないし、住んでいる妖怪達も、まあ、一部の厄介な者達を除けば良い奴らだった。それでも本当は、こんな事などやっていたくは無いのだった。早く、聖を救い出して差し上げたい。実現は、遠そうだった。
何故彼女らはこのような場所に燻っているのだろうか。それには少々込み入った事情があるのだが、ここでは割愛する。端的に言ってしまえば、この船が封印された時、それに巻き込まれて封印された。以上である。
遠く遠く昔。いつ頃の事かも思い出せない。特別な封印を施された聖とは別に、地底に一纏めにして封印された聖一派の妖怪達は、どうにか封印を抜け出そうと試行錯誤した。封印されたとは言っても蓋をされただけで、身体は動かせたのである。結果、縦に進むのは難しそうだったので、横に掘り進む事にした。何処かと開通した。それがこの地底であり、旧都であった。
その時より、彼女達は地底世界の一員へと強引に列せられ、否応無しに船は没収。仲間とも離れ離れになってしまった。まあ、不幸中の幸いと言うべきかみな別に悪い生活を送っていると言う訳ではないのだが。しかし、一派の力は大きく散ってしまった。今まともに活動を続けているのは少数を残すのみとなってしまっている。
ナズーリンも彼女らの一派である。が、彼女らと違い封印はされていない。この辺りの話もややこしいので割愛するが、彼女達がナズーリンと合流したのは、それなりに最近の事である。ナズーリンがこの広い世界をひた走って探し回った結果、苦労の甲斐あって地底への抜け道が発見されたのだ。
今ナズーリンは年の半分を地底で過ごしている。地上の主人を、あのうっかり者のご主人を放って置くのは気が引けたが、そこは地底世界での情報収集のため止む無し、と割り切った。
「それじゃ、私はこの辺で帰るとするよ。次は地上の土産話でも持ってくる」
言伝を終え、要件を済ませたナズーリンが部屋を出て行く。そう、急ぐ用事がある訳でもなかった。だが別に、残る理由もまた無い。
外に出る。小さな身体に不釣合いなのぼりが、彼女をよろけさせる。あれは絶対途中で誰かにぶつかるわね。などと、見送る二人がその後ろ姿を眺めていた。
――
「ふむう、まずは宣伝にでも使おうかなあ。でも、宣伝ならもうこの背負い鞄があるしなあ」
悩ましい所である。のぼりと言えばまず宣伝と相場は決まっている。それこそ、のぼりをわざわざ物干し竿に使う輩は居ないだろう。それに、こののぼりは大きいため横にすると両隣と思い切り被る。元よりのぼりとして以外に使い道などなかった。
さて、宣伝。即ち、彼女がこの地底で生業としているもの。「何でも屋ナズーリン」である。
失せ物探しから、陰謀策謀。その他日々のお悩み相談まで何でもやってのける便利屋。それがナズーリンの地底での顔となる。その速さと正確さから、評判はそれなりに高かった。もっとも、主に失せ物探しの依頼しか来ないのだが。
彼女の背負い鞄にも、その広告が載っている。それを背負って町中を練り歩けば、自然と名も知れ渡ると言うものだ。中々に名案であった。後日、良い考えだと思った大工が、真似をして背負い鞄に広告を貼り町中を歩いた。見苦しい、止めろ、罵られた。この方法は、ナズーリンの愛くるしい姿だからこそ許されるのである。
おや、ナズーさん。お、ナズーの姐御。大根要るかぃ、ナズーの譲ちゃん。
道を歩くと、様々な妖怪に声をかけられる。信頼と実績の「何でも屋ナズーリン」は、お手頃価格でどんな物でも探してみせる。でも、猫妖怪だけは勘弁して欲しい所。そこそこに、名は売れていたのだった。
現時点で相当数の妖怪が、ナズーリンと関わった事がある。探す過程で彼らの家にお邪魔させてもらった事もある。すると必然、ある程度の情報通にはなって来る。
良く話をする妖怪。噂好きで、金で情報を売り買いしているような妖怪。そして、配下の鼠達。彼らは様々な情報を、ナズーリンに教えてくれる。
きな臭い空気が、旧都の全体を薄く包み込んでいる。謎の失踪事件。このところ常に飛び込んでくるこの情報は、嫌が応にもナズーリンの心をざわつかせた。
捜査は依然難航していた。
捜査初期の頃、六人目が居なくなった辺りで鬼と協力関係にある覚り妖怪へと協力を要請した。こうなれば、虱潰しに心をあらって探し出してやろう、との心積もりだ。
結果は、無残なものだった。誰も、平素の通りの思考しかしていない。それどころか、そうやって見回っている中でも犯行は行われ続けた。これはきっと、私の能力では見つけられませんね。そう言って、覚り妖怪は帰っていった。
覚り妖怪は、心を読む。とは言っても、言葉や思考をそのまま読むのではない。感情と感覚を直に感じ取り、それを人の言葉に翻訳する。だから動物などとも話が出来る反面、本当に細かい所や本人でも気付いていない様な事になると読み取る事は出来なくなる。
どんな行動を取ったとしても心に何の波も立たない者。そう言った者に対して、覚り妖怪は無力だった。
取締りを強化した。鬼を総動員して、旧都のほぼ全てを巡回させた。それでも、止まらなかった。被害者は、十五人に上っていた。全ての住民に、家から出ないようにと通達をしても、やはり一人消えていた。無駄な事だと思い、すぐにそれは解除された。
聞き込みもした。被害者の遺族に、何か変わった事は無かったかと尋ねた。特に無い。被害者自身の共通点も、てんでバラバラだった。
そもそも、鬼にこう言った「騙し」の事件は不得手であった。生来が卑怯を嫌い、正道を貫こうとする鬼には、騙しの術は理解できない。何か汚れ仕事に精通する、参謀が必要であった。
「しかし、居ないんだ……」
勇儀が、誰も居ない部屋で一人呟く。
居ないのである。地底は、かつてその存在を忌み嫌われた者が集う所。鬼がその存在を許せるほど信頼が出来て、また知略にも長けている者などは夢のまた夢なのだ。下手な妖怪が参謀に付いた場合、その性格を疎まれて鬼に打ち殺される。
もう、このまま見ている事しか出来ないのか。無力感に苛まれる中、部下の鬼が部屋に入ってくる。三十人目の失踪が、報告された。
そして、この奇妙な犯行は、それを境にピタリと止んだ。
驚いたのは勇儀である。これまで八方手を尽くしても解決を見せなかった事件が、あっけ無く姿を消してしまったのだ。詰め所内でも困惑の声が上がる。
一応見回りは続けさせた。今まで何の効果も見られなかったものだが、無いよりはマシだ。当然のように、全く進展は無かったのだが。
最後の失踪があってから百二十単位時間程。人間の感覚で言えば三日程度だろうか。その辺りになって、捜査は打ち切られた。あの事件は、解決をしたのだと言う事になった。鬼は、ただ振り回されていただけだ。
勇儀は決してこの結末をよしとしなかった。だが、部下達にこれ以上無理をさせるのもどうかと思う。幾ら頑強な鬼の身体と言えども休まず動けばガタつきは出てくる。既に三人ほどが過労で倒れかけていた。
何か事件が起きたら呼ぶようにと言って、勇儀は単身町へと出て行った。鬼の名にかけて、自分だけでも捜査は続けるつもりだった。義憤、と言う訳ではない。ただの意地。そもそもがこんな掃き溜めに居る妖怪など、無垢な者を襲い謀って生きてきた様な奴らなのだ。そいつらのために憤ってやる謂れなど、勇儀には無い。
だが、それでも。そうだとしても。彼らが何の意味もなく、無残に殺されて行くのを許す事は出来なかった。
外套を羽織り外へ出て行く。なんだか、やけに寒いな、と思った。見上げると、冷たい物が顔に当たった。旧都に、雪がちらついていた。
~2~
「いや全く、私としても何でこんな物買ったんだか分からないよ。こんな妙な大きさのもの、どうしろって言うんだ」
「はは、だから安く売られてたんじゃないの? ナズーちゃんもまだまだ甘いなあ」
地底の端の端。旧都から遠く離れた場所に位置する縦穴。昔ここは地上と地底とを結ぶ通路だったらしいが、地上への出口が封印された今では使う者も無く、逸れ妖怪の溜まり場になっている。
例えば、今ナズーリンと話している妖怪蜘蛛のヤマメなども、その一人であった。彼女はこの辺りに巣をつくり、毎日歌ったり踊ったりと気ままに暮らしている。旧都で仕事をしないような遊び人は、大体ここへ集まる。
「返す言葉も無いよ。……ヤマメ、これ、買う?」
手に持ったのぼりを見て、ナズーリンが尋ねる。最初は家に置いておこうと思ったのだが、大きすぎてボロ長屋に入ってくれなかった。仕方が無いので家の前に出しておいたら、今度は近隣住民から邪魔だと苦情を言われてしまい撤去。捨て場所を探して今に至る。
なんとも困ったのぼりだった。結局、旧都では狭すぎて使えないのである。こう言った辺鄙な場所でこそ価値があるのだが、この辺りに店などは無い。
「いやあ、私も要らないな。加工して武器にでもしちゃえば? ナズーリン竹やりって感じで」
「武器を常備してる何でも屋ってなんだい。それ傭兵じゃないのか」
ナズーリンはほとほと困り果てていた。一応、それなりに真剣に悩んでいるのだ。しかしこの友人は一向に良い案を出さない。それどころか、未だ所在無さ気に立てかけられているのぼりを見て笑うのだ。
ええい腹立たしい。そう思いつつも、半ば自業自得。いっそ本当に竹やりにしてしまおうかと言う気もしてくる。
ふいに、ヤマメが顔を上げた。ナズーリンも、それにつられて視線の先を追う。誰かこっちに歩いて来るのが見える。堂々とした歩き方が、その妖怪の性格を物語っている。
「あれ、勇儀さんだ」
「勇儀、と言うと、あの星熊の?」
彼女の名なら、ナズーリンも聞いた事がある。確か旧都に二人居る管理者の一人。旧都の治安維持を一手に任されている妖怪だ。間近に見た事は無かったが、それでも仕事の中で何度もその名は耳にした。
こんな場所に、それも一人で何の用事だろう。勇儀は、真っ直ぐこちらへと向かってくる。そして、二人の前まで来て、止まった。
「ヤマメ、少し聞きたい事があるんだが」
開口一番。そしてちらと、横に居るナズーリンを見る。
こんな大物がこんな場所に来るとは、流石にナズーリンも予測していなかった。しかしヤマメもまた顔が広い。性格が人懐っこいので、誰とでもすぐに打ち解けてしまう。
もしかしたら、何か仕事上の繋がりがあるのかも知れなかった。ヤマメの交友網から、何か情報でも貰えないかという、そんな。
「おや、私はお邪魔かな?」
「いや、邪魔って程じゃあ無いんだが、悪いね。あまり部外者には聞かせたくない話なんだ」
それじゃあ仕方が無いねと、ナズーリンが腰を上げる。ごめんよナズーちゃんと、ヤマメ。去って行くナズーリンを見届けた後、勇儀が姿勢を正した。
勇儀とヤマメ。この一見関係が無さそうな二人の間には、実はそれなりに深い親交がある。昔、旧都が鬼の物であった頃、まだ地底と地上は繋がっていた。勿論、入り口は簡単には見付からない所に有ったし、そも自分から好き好んで地の底へと行くような物好きな輩は居なかったのであるが、それでも繋がっていた。
その時分に、ちょくちょく旧都へと遊びに来ては鬼と酒を飲み交わしていた変り種。それが彼女、黒谷ヤマメである。鬼に寄って来る妖怪は、本当に珍しかった。本来鬼とは畏れ敬われる存在なのである。ヤマメは、すぐに打ち解けられた。前述の性格の事もあるが、ヤマメ自身もまた、相当には強力な妖怪だったのだ。勇儀とも、何度か杯を交わしていた。だが、本当に親交を深めるのは、もっと後の事になる。
「ヤマメ、ここいらに居る連中で、怪しい様な奴ってのはいないかい」
そのまま、切り出す。尤も、地底に居る者で怪しくない者などは殆どいない。これは、勇儀個人がヤマメに協力を依頼する際の、言わば常套句のようなものだった。
「またその話かあ。まあ、良いんだけどね。私もあの事件の事は気になっていたし」
そう言ってヤマメが身支度を始める。これまでにも何度か、このようにして勇儀の依頼を受けたことはあった。個人的な、地底の管理組織としてではない依頼。
この依頼をヤマメが引き受けた後、二人は地底の闇へと消えていく。そして暫くの間、誰の所からも姿を消す。次に現われる時は、決まって旧都の隅にある酒屋で、そこで二人して静かに杯を傾けるのだ。
詰る所、二人が行っているのは私刑だった。公明正大を重んじる鬼には出来ない事、させられない事が出来た時、勇儀はヤマメの下に来る。そして、秘密裏に対象を殺した後その身体を下級妖怪のエサにし、文字通り消してしまう。
ヤマメは、その仕事に付いて何も思っていなかった。もとより騙し討ちや不意打ちで生活をして来たような身である。では、勇儀は。
「助かるよヤマメ」
「勇儀さんも、無理しないでよ。あんた頼られてるんだから」
「はは、気をつけるよ」
ヤマメのこう言った気遣いが、勇儀には嬉しかった。昔、初めてこうやって二人で組んだ時、頼んでなど居ないのにヤマメはふらりとやって来て、そのまま後ろを付いてきた。
ヤマメは、大いに役に立った。網を張り、忍び寄り、絡め取る。すぐに、相手は捕まった。そして去り際に、次からは自分を頼るようにと言い残して、ヤマメは巣へと帰って行った。それ以来、この二人はお互いを相棒のように認識している。その事を知る者はごく僅かしかいない。
「あれ、ところでヤマメ、またってどう言う事だい。今またその話かって言ったように聞こえたけど」
先程は気にも留めなかったが、思い返してみると少し引っかかる。あの事件、現場は全て旧都に集中していた。旧都から遠いこの場所で、そう何度も聞く様な話では無いのだ。
「え、ああ、それね」
準備を終えたヤマメが背伸びをする。
「さっき居たでしょ、鼠の子が。彼女にもあの事件の事聞かれたんだよ。何か近くに怪しい様な奴は居なかったのか、ってね」
~3~
ボロ長屋の一辺に、奇妙なのぼりが立っている場所があったので、すぐに分かった。表札に、「何でも屋ナズーリン」と書いてある。古い物なのだろうか、少し黒ずんでいた。
「それで、私の所に来たと。言っておくが、私は何もやってないよ」
「確かに疑っていないと言えば嘘になる。ただ、今の所は理由を聞きに来ただけだ。何故嗅ぎ回っていたのか、話してもらうぞ」
狭い一室に、勇儀と、ヤマメと、ナズーリンの三人。勇儀が、少し強い口調で詰問する。
勇儀は、ナズーリンの事を良く知らない。何度か名前を聞いた事はある。凄腕の探し物屋が居ると、部下達が話しているのを耳にした。だが、それだけだ。
本来、有り得ない事だった。この高い立場にある勇儀が、その存在を把握できない。名前だけは良く聞くが、そこから人物像が見えてこない。曖昧が曖昧のままで終わってしまう。その上、彼女の家は留守である事も多いと言う。
まずそれが解せなかった。
「別に、大した理由じゃあない。私も何でも屋だからね、危険には敏感なのさ」
しれっとした表情でナズーリンがそう答える。確かにそれも、一つの事実ではあった。いくら失せ物探しが主とはいえ、何でも屋の看板を掲げている以上いつ荒事が転がり込んでくるかは分からない。
しかし勇儀は引き下がらない。胸に残る違和感。それが、この言葉を嘘だと見抜いていた。いや、嘘ではないにしても、この理由だけではないのは確かなように思えた。
「今更か。もう町はあの事件を終わった物として認識している、何を危険に感じる事がある? ……良いか、嘘をつくのはやめろ。特に、私の前では」
「ナズーちゃん、正直に話した方がいいよ。勇儀さん、嘘が大っ嫌いだから」
ヤマメが嗜める。だが一向にこの鼠は折れる気配が無い。それどころか、ますます不敵な表情は強まっていく。
牙をむいて脅してみても、いまいち効果のほどが分からない。確かに本気ではない。推定無罪であるという感覚も、どこかにはある。それでも対応を誤ればそのまま首をねじ切られると錯覚させられるだけの威容はある筈だった。
半端物の妖怪ならば一睨みで歯の根も合わなくなる。それが鬼の目であり、声なのだ。
「正直に、ねえ。とは言っても、後は純粋に興味が湧いたからとしか言いようが無いな。もう一つ理由はあるが、黙秘させていただく」
「黙秘だと?」
「そう、黙秘。別に全て話さなければならない義理も無いだろう。見た所、あんたは公務でここに来ている訳でもないみたいだし」
ただ、と付け加え。
「私に捜査資料を見せてくれるなら、手伝ってやらん事もないよ」
足下を見ていやがる。相手の口元の歪んでいる事が見え、カッと、顔が熱くなるのを感じた。
その言葉が終わるか終わらないかの内に、勇儀は足音を強く響かせ部屋を出て行ってしまった。ヤマメが、慌ててその後を追いかける。
危なかったと思った。もし、あと少しあの場に留まっていたらきっとあの鼠を八つ裂きにしていた。握った拳に、間接が軋む。管理者が、正当な理由もなしに制裁を加える事は許されない。それをこの上なく理解した上で、あの態度を取っているのだ。
一人残されたナズーリンは大きく息を吐き、身の無事に感謝した。
もしも地上で出会っていたら、きっと殺されていただろうな。そう思った途端、背筋にゾクリとしたものが走った。座ったままだと言うのに脚が震えている。
「はは、は、やっぱり、私は臆病なんだ、な」
一人そうやって、脚を叩く。二、三度叩いた所で、ようやく震えが収まってきてくれた。きっとあの鬼は自分などより余程修羅場を潜り抜けており、力も強くて、私のような小さい鼠はそれこそ赤子の手を捻る様に潰す事が出来てしまうのだろう。
やめだ、やめだと思った。どうせ自分が力で勝てる妖怪など、殆ど居はしないのだ。そんな者達を相手に、自分は知恵で勝負してきた。だから、良いのだ。結局自分にはそれしか無いのだから。
ただあの鬼には感謝していた。つい、いつもの癖で口が出てしまう。あれほど挑発するつもりは無かった。自身を律する相手でなければ、確実に死んでいただろう。そう思うと、また少し震えが走る。
頬を叩いて気を取り直す。まずは、やるべき事をやるべきだ。
ナズーリンには今直属の部下としての鼠が三匹居る。セシリア、ロビンソン、そして、日本に来てから新しく入った権蔵さん。他にも鼠は居たが、それらは地上に残してきている。今、この三匹の内権蔵さんだけを残し二匹が外へと散っていった。
「よし、じゃあ私は少し出てくるから、権蔵さん、君はここに残って、帰って来た者と交代で私の所へ伝えに来てくれ」
行き先は一輪と水蜜の家。お気に入りの肩掛けを羽織り、背負い鞄も無しにボロ長屋を後にする。両手には愛用のダウジングロッド。その口元には震えの代わりにまた、不敵な笑みが浮かんでいた。
鬼は力が強い。だからどうした。どうせそこらを歩いている様な妖怪にだって、襲われれば自分は死ぬのだ。何も恐れる事は無い。手を出させなければ良いのだから。そしてそれこそが、自分の本分であるのだから!
足取りは軽く雪の降る道をひた歩く。面白い事になりそうだと思った。いや、面白い事にこれからするのだ。連れてきた部下の三匹を総動員するなど、今までにありはしなかったのだから。
「あんた、その格好どうしたの。随分気合入っちゃって」
「何、ちょっとした野暮用さ。上手く行けば面白い収益が見込める。期待しないで待ってると良いよ」
「うん、ん? 分かった。期待しないで待ってる」
出迎えた一輪をすらと避け、家の中へと上がり込む。そしてそのまま、お茶を用意してくれたまえと言って、居間へ行ってしまった。
「一輪、水蜜、少しの間私をここへ泊めてくれないか? そうだな、百二十単位時間程で良い。地上で言うなら三日か? それくらいで」
「良いけど、何でよ。あんた家あるでしょうが」
「ちょっとあの家だと狭くてね。ふふ、聞いて驚け、ここを捜査本部にしようかと思うんだ」
「……水蜜、まーた何か変な事しだしたよこの子」
一輪が溜め息をつく。水蜜は話を続けるように促してくる。面白そうなら良しとの考えのようだ。一つ、コホンと咳払いをした後、ナズーリンが説明を始める。
「ついこの間、恐ろしい事件があっただろう。妖怪が、無差別に失踪していくやつ」
「ああ、確かにあったわね。八百屋さんも知り合いがやられたとか、かと思ったらただのぎっくり腰だったとか、色々言ってたけど」
ちなみに、その八百屋さんは今までも勘違いを起こしては騒ぎ立てた事が度々あったので、とくに相手にはされていなかった。
「そんな、あのおっさんの話はどうだって良いよ。どうせいつもの勘違いだろう。んで、その事件はある時を境にピタリと止んでしまった。そうだね、水蜜」
「え、ここで私に話を振るの。まあ、そうね。話は聞かなくなった」
前置きはいいから、さっさと本題に入りなさいよと一輪。
「うむ、仕方ないな。それで、私はおかしいと思ったんだよ。鬼の連中からの発表もないし、本当にぱったり、話題だけが消えてしまった。私は考えた、これはまだ解決してないんじゃないかなって。それで、旧都から少し離れた所に住む友人に尋ねてみた。あの事件、もしかしてまだ終わってないんじゃないのか。彼女は顔が広いからね、何かしらは情報を持ってると思ったのさ。そして――」
「そして?」
二人が続きを催促する。一口、お茶を啜ってナズーリン。
「直後、星熊勇儀と一悶着あったのさ、あの事件のことでね。勇儀だぞ、あの、鬼の頭の。これ、絶対解決してないんだ。それをもしも横から解決してしまったらどうする、私が、解決してしまったら。でかい貸しが一つ作れるぞ!」
一息に語り終えたナズーリンの眼は爛々と輝いている。一輪と水蜜は顔を合わせ唸っている。熱が入ったナズーリンが、なおも続ける。
「だからこそ、私達はこの事件に全力で当たるべきなのだ。貸し、貸しだぞ。上手く行けば、船の封印だって解いて貰えるかもしれない。いや、そうでなくても、こうやって信頼を稼いでいけば色々と捗る事は間違いない。既に、手の者は町へと放ってある。鬼どもは単細胞だからな、奴らに解けない事も私になら解けるんだ。そして、そしてあわよくば、私の店を。奴ら探し物屋だと思ってるんじゃないか私の店を、失せ物探し以外の依頼が来る有名事務所へと変貌させるんだ!」
最後の方は、モロに自分の願望が入り込んでいた。流石に、いくらそれなりに名は売れたとは言え一介の何でも屋風情に重い案件を持ち込む者は居ない。そもそも、最初の売り出し方が不味かった。「小さな探し物から大きな悩み事まで」そして小さな探し物の依頼が来た。成功した。そして口コミで広まってしまったのだ、「あの妖怪は探し物が抜群に上手い」と。
不服であった。ナズーリンは自らを知性派だと思っているし、それこそ、自他共に認める賢将であると自認しているのだ。それが、失せ物探し。冗談ではなかった。当初はまだ地底なのだし仕方が無い、ここでだけの仮の姿だ、などと思って居たりもしたのだが、最近では地上の方でも主人からやれ「ナズーリン、私の印鑑は何処でしょう」だの「ナズーリン、買っておいた筈の干物がありません」だの言われる始末。
挙句の果てには宝塔自体を何処かにやってしまいかけた。これには流石のナズーリンも激怒した。使ったらしまう事を徹底させた。そしてその頃からである、ますます主人から失せ物探しを頼られるようになったのは。
だからこそのこの熱の入りようなのであり、だからこそあのおっかない鬼に向かって一芝居打ったりなど出来た。陰で「失せ物屋ナズーリン」などと呼ばれているのだ。何でも屋を自称しては居るが、結局出来るのは失せ物探しだけなのよな、と言う意味だ。なお、そう呼んだ輩には権蔵さんの手により制裁が加えられる。主に、寝ている間に身体の一部を齧り取られたりする。お陰で、近頃はその様な不埒物も随分と少なくなったのだが。
「へえ、それで、私達は何をすれば良いのよ。今までの話だと精々家を貸す位しか出番無いみたいだったけど」
水蜜が尋ねる。ナズーリンがそこまで張り切っているのならば協力しても良かった。聞いた限りでも、別段悪い策とも思えない。が、自分達が蚊帳の外に置かれるのは我慢ならない。
「ああ、君たちは、捕り物の時に活躍してもらうよ。私は非力だからね。それまでは、匿ってくれてるだけで良いよ。あ、でも私がここに居るのは気取られないようにしてくれ。多分その方が色々と捗るから」
「捗る?」
「うん、こう言う時、私みたいなのは姿を隠すものなんだ。そうして二重三重にも罠をかける事にこそ浪漫があるのだよ」
「でも、そんな罠ってそう上手く嵌るものなの? どうせ殆ど無駄になるんじゃないの?」
「分かってないなあ、その無駄が浪漫なんじゃないか」
勇儀とヤマメは、もう一度資料を洗い直していた。被害者に共通点は無いのか。何故容疑者の候補が居ないのか。何処か、見落とした手がかりは無いものか。
一番最初に消えたのは、水橋パルスィと言う妖怪らしかった。地底に送られて来た際の名簿には橋姫と言う名前で載っている。
「パルスィ、ねえ」
「なんだヤマメ、心当たりがあるのか」
どうもこのパルスィと言う妖怪、個人情報が殆ど無い。この場合の個人情報とは、その妖怪と付き合いのあった者達からの証言で得られる情報の事を指すのだが、それが誰からも得られなかった。
他の被害者の情報は遺族や関わりのあった者から手に入れる事が出来た。しかし、その中で水橋パルスィの欄だけは名前以外白紙となっている。
「この娘、何度か見かけた事あるんだけど、いっつも暗い目をしては妬ましい妬ましいって呟いててさ。ありゃあ根暗って言うんだろうなあ、友達も居ない感じだった。そのまま死んでいったのなら、何だか可哀想だな、って思ってね」
確かに、哀れではある。一人目の失踪者が彼女だと分かったのも、五人目が消え去り情報の整理をしていた所で「あの金髪の娘を最近見ない」と誰かが言ったからである。それが無ければきっと彼女は被害者のリストには入らなかった事だろう。
「全く持って、悲しいものだな」
呟き、また資料へと目を落とす。
被害者は、合わせて三十人。老若男女が入り乱れ、その素性も能力も様々。少なくとも、世を儚んで一人姿を消すような、そう言ったタマは一人も居ない。
それを、梁の上からその姿を見ている鼠が一匹。セシリアである。彼女に与えられた命令は二つ。一つは鬼の捜査状況を見てくる事。もう一つは、最初の失踪者、そして最後の失踪者を見てくる事、であった。
最初の失踪者は前述の通り水橋パルスィ。では最後の失踪者は。
「こいつが三十人目か。名前は、吉田郷? なんだこれ、よしだごうって読むのか。まあ良い、普通に考えれば、こいつが死んだ事によって犯人は目的を達成する事が出来た、とするべきなんだろうけど」
吉田郷。狸の妖怪。職には就いておらず、もっぱら賭博場を渡って暮らしている。嫁あり。俗に言うヒモ。粗暴で、人に好かれやすい性格ではない。過去三度の八百長疑惑。一つ前に失踪した妖怪との関係性は不明。
勇儀が腕を組んで唸る。ヤマメは捜査資料を見比べ続けている。もってこの妖怪に、何かしら特別な点があるとは思えなかった。
二人の手が止まる。セシリアは、じっと資料を見つめた後、音を立てずにその場を後にした。
ナズーリンのもとに、権蔵さんが伝令を届けて来る。今はセシリアがお留守番。ロビンソンは未だ、別行動中だ。
いくら妖怪化しているとは言え、元が鼠なので体力はあまり無い。連続して活動をさせるとそれこそ半日と持ちはしないのだ。
だから、ナズーリンは二匹以上鼠を動かす時、必ず何処かに拠点を定めて交代制を取る。こうする事により活動時間を大幅に伸ばす事が出来るのだ。
「ふんふんなるほど、随分と情報にばらつきがあるんだな。特にこのパルスィとか言うの、有り得んほど情報が無い。権蔵さん、ちょっとこいつの住処跡を調べてきてくれないか」
手にはワイン、そして皿に秘蔵のチーズ。安楽椅子に揺られながら、部下の鼠に指示を出す。和風建築に不釣合いなこの椅子も、その昔市場で、これまた安く売られていたのを買ったものだった。
至高の一時、感無量である。いつかこう言う日が来る事を夢見て安楽椅子を買ったは良い物の、あのボロ長屋に置いておくにはあまりにも邪魔すぎる代物。結局一輪と水蜜に預かってもらい、そのまま倉庫で埃を被っていた。そんなこの椅子がようやっと役に立つだなんて。
ワインとチーズは、長屋を出る時に持ち出してきたものだった。懐に隠しておいたのは、流石にワインボトル片手に町中を歩くのは気が引けたからである。なんだか浮かれてる人みたいになるのは、ナズーリンとしても本意ではなかった。実際、浮かれてはいたのだが。
「おーい、一輪、ご飯はまだかい? 私はもうお腹がぺこぺこだよ」
「あんたチーズ食べてるじゃないの」
「これは、雰囲気を楽しむためのものであって、食事とは違うのだよ」
そして、優雅にグラスを傾け、ワインを一口。何を言ってるんだこいつは、と一輪が呆れ顔で見つめてくる。と言うか、居候の癖に態度が大きすぎる。
「こら、ナズーリン。訳の分からん事言って一輪を困らせないでよ」
洗濯物を干していた水蜜が戻ってきた。だってこう言うの夢だったんだもん、などとのたまうナズーリンにデコピン一撃。
「そんなの良いから、何か進展はあったの。あんたさっきからずっとそうやって座ってるだけじゃない」
「そんなのって……。まあいい、進展はまだ無いよ。もうすぐもう一匹鼠が戻って来る頃なんだ。その辺りで少し進展するんじゃないかな」
「何その曖昧なの」
「安楽椅子探偵とは、得てしてそう言う物さ」
そしてチーズを一齧り。君もいるかいと、水蜜に皿を差し出したが断られた。連れないものである。
しかしまた、結局の所ナズーリンはこの場所を動く事はできなかった。外に出ておおっぴらに捜査を行えば鬼に何と言われるか分かった物ではなかったし、もしや犯人に命を狙われるとも限らない。
それに、あのネズミ達は優秀なのであった。何かを取って来いと言えば大体は取ってくる。何か記憶して来いと言えば、二、三個程度なら問題なく記憶して来る。それで十分なのだ。もとより荒事をする訳でもない。それに、どこにでも居る動物のためまず怪しまれない。
ナズーリンはただ待っていた。優雅に、ゆったりと、この状況を楽しみながら。心配などはしていなかった。少し、成功の暁には自分の活躍を主人に自慢でもしてやろうかな、などとは考えていた。
ちゅーちゅー。鼠の鳴き声が聞こえる。水蜜が声のする方を見ると、小さな身体がそこを通り過ぎていった。そしてそのままナズーリンの下へと走って行き、膝の上へひょいと跳ね上がる。
「おお、セシリア。ふんふん。はー、なるほど」
水蜜が訝しげに覗いて来る。無理も無い。傍目には、鼠相手にナズーリンが妙な独り言を喋っている風にしか見えないのだ。きっとそれは、鼠同士にだけ分かる何か特殊な言語のようなものなのだろう。
暫くそうやっていると、セシリアと呼ばれた鼠がまたちゅうと一鳴きして何処かへと走り去っていった。満足そうに、ナズーリンが振り向く。
「ふふ、喜べ水蜜。これでロビンソンが戻ってくれば、大まかな真相が分かるかも知れないぞ」
~4~
「よーし、それでは諸君、私の可愛い部下たちが集めてきた情報を纏めるぞ」
「あんた本当に椅子に座ってるだけだったわね……」
一輪と水蜜の二人を集め、ダウジングロッドで即席の黒板を叩く。ちなみに、チョークは無いため黒板は雰囲気のためだけの物である。
「えー、まずはロビンソンからの報告。私が使っていた地上への抜け穴は、まだ他の誰にも見付かっていない」
「つまり、外部犯の可能性は消えたと」
セシリアが勇儀達のもとへ偵察に行き、権蔵がローテーションのための留守番をしている間、最後の一匹ロビンソンは抜け穴の確認に行っていた。
元々入念に隠してあった穴なので心配はさほどしていなかったが、それでもあの穴が使われていたとなると厄介である。精査の結果、誰かが通った痕跡は見付からなかった。匂いも、草や壁の形も、全て。
つまり、犯人は地底内部にいる。……と、考える事にする。
ナズーリンの知らない抜け穴が無いと決まった訳でもない。だが、一応そう言うものだと仮定しておく。
「次、権蔵からの報告。水橋パルスィの家から手がかりになりそうな物は出てこなかった。」
「手がかりになりそうな物は? それ以外の物は残ってたって事かしら」
「うん、生活用品の類はそのまま残っていた。でもそれだけだ。趣味嗜好の分かるようなものは全く出なかったね。これは情報も少ないはずだよ」
水橋パルスィの家には、嗜好品が存在していなかった。彼女は、何時の間にか消えていた。誰も、彼女が居ない事に気付きはしなかった。
「最後、二回目に放ったセシリアからの報告。勇儀とヤマメは未だ手がかりを見つけられず資料相手に唸っている」
「はい? それが何か意味あるの?」
「大アリだよ。彼女達は散々聞き込みをして、一時期は鬼の力を総動員して事に当たっていた。それで何の進展も無かったんだ、つまり」
ナズーリンが、ロッドをぱしんと叩く。
「あの資料に書かれている事柄の大半は、さして重要じゃない。本当に重要なのは、それに書かれなかった事だ」
「さとりさんに見付けられなかったってのが引っかかるんだよなあ」
資料と睨みあいを続けながら、ヤマメが呟く。既に資料室にこもって随分な時間が経過していた。
「と言うと?」
「だって読心が出来ないって事は相手側がどうにかしてその原因を作ったって事でしょ? それほどの実力者だったらすぐに見付かるんじゃないかと思って」
確かにその通りだった。しかしそんな妖怪は居ない。覚りの能力は覚り自身が覗き込むのではなく、相手が発する心の形を読み取っているだけに過ぎないのだ。自分の心をも騙すような術が使える妖怪はこの地底に居ない。
ただ一つ、自身の心を明鏡止水の境地にまで達すれば覚りの能力を無効化する事は出来るが、ここはあぶれ者の聖地。その様な殊勝な心構えの者など居るはずも無かった。
「じゃあなにか、お前は、さとりの奴が怪しいと見てるのか?」
「いや、それも違うと思う。だって、さとりさんが捜査に加わってた最中も被害は出てたんでしょ?」
「それだって、あそこにはさとりの言う事なら何でも聞くペットが居るじゃないか」
「うーん、そうなんだけども」
覚り妖怪は、鬼と並ぶ地底の管理者である。その覚り妖怪が、この様な重大事件を起こす。考えたくない事だった。一歩間違えれば、いや、それが明るみに出ただけでも、この地底世界の崩壊を招きかねない。
もしそうだとすれば、勇儀は覚り妖怪を捕らえなければならないのだろうか。きっと勇儀はそうするだろう。鬼の矜持にかけて。
「やっぱり怪しすぎるんだよ」
少し考えた後、ヤマメが続けた。
「うん、だってさ、幾ら勇儀さんでもここまであからさまに容疑が出たら流石に調べるでしょ」
「まあ、ね」
「それで結果はどうだったの」
「クロとは言えないシロ、って所だな。さっきも言ったようにペット達の協力があれば不可能じゃない」
「そこだよ、もし本当に管理者の立場を利用して犯行をしたとするなら、もっと上手くやる筈なんだ。こんな、すぐに言い逃れ出来なくなるようなお粗末を彼女がする訳が無い」
じゃあ、誰だと思うんだいと、勇儀が問いかける。
「犯人はきっと何をしたとして何を感じる事も無い。狂人だよ。犯人は狂ってる、間違いないね」
「そのこころは」
「女の勘」
そう言って、ヤマメが資料を片付け始める。こうなるとこの資料だけでは少々心許ない。もう一度、外に出て情報を集める必要があると思った。
~5~
地底の街は今、冬を迎えている。吐く息は白く、上の、見れば覆い被さる様に広がる土の壁の、その何処からとも無く雪が舞い降ちてきている。
地の下に季節があり、その上雪まで降るなどと思うかもしれないが、これも、旧都の前管理者が残していった物だった。だから旧都には、地上と同じ周期で季節が巡ってくる。これが街中央の時計塔だけでは表せない、年の概念を地底に与えているのだった。
「それで、ヤマメよ。何処へ向かうんだい」
「あまり決めてない。ただ、街の中を歩き回るのも何かしらの手がかりになるかと思って」
「まあ、私はヤマメに従うよ。もとよりこっちは手詰まりなんだ」
歩く、歩く。寒さのためか通りに出ている者は少なく、足元には薄く雪が積もりはじめている。家の中からは談笑が聞こえてくる。裏路地の酒場などは賭け事に興じる者達で賑わっている。
平和なものだった。この中に未だ犯人は潜伏を続け、もしかしたら次の獲物まで狙っているのかも知れない。考えたくは無かった。
ふと、そう言えば捜査を始めてから何も口にしていない事に気付いた。腹の虫が、空気以外の物も寄越せと急かしてくる。
「勇儀さん、そのぉ」
「ああ、そうだね。腹も減った事だし少し休憩としようか」
近くの食事処を探し、中へと入る。表の看板に、お品書きが書かれてあった。発酵食品の店のようだ。
確かに地底はそう言った物も盛んだが、それのみを専門にしている店も珍しい、そんな事を考えながら、暖簾をくぐった。
「あ」
先に店に入ったヤマメが、素っ頓狂な声を上げた。
「あ?」
勇儀が、つられて辺りを見回す。
「あっ」
そしてまた、何事かと振り向いた客の一人が、驚きの声を。
入り口のすぐ横の席。見覚えのある、特徴的な丸耳に小さな体躯。先程一悶着を起こしたばかりの問題児、ナズーリンがそこに座って居た。
「……何で向かいに座るんだい」
「ま、ま、ナズーちゃん、ここはどうか私に免じて」
机の上には皿が三つ。先程から居たナズーリンの物と、同じものをと運ばれてきた二人の物。ちいず、とやらの詰め合わせだった。
そもそも一輪と水蜜の家に潜んでいるはずだったナズーリンが何故こんな場所で一人飯を食べているのか。端的に言ってしまえば、ワインとチーズが切れたからである。
常にワイン片手に椅子に揺られていた所、予想外に早く持ってきた分が無くなってしまった。流石に一輪や水蜜に買いに行ってもらうのも気が引ける。しかし、酒もつまみも無しに椅子に揺られているのは退屈にも程がある。
そして、水蜜にこの店の存在を教えてもらい、今に至るのである。どうせ食って飲んでるだけなんだから、何処でだって変わらないでしょ。本当は安楽椅子にこそ価値があったのだが、食欲には勝てなかった。どうせ、外に居たって鬼とは鉢合わせないだろうとタカをくくって居た。
「先刻ぶりかな、お前と会うのは」
「そうなるね。で、私に何か用かい。見ての通り、私は食事を楽しむのに忙しいんだがね。出来れば邪魔をしないで貰いたいものだが」
実の所、特に用事がある訳でも、疑いがかかっている訳でもなかった。ただ、お互いに気付いてしまったのにそのまま素通りする事に些かの気まずさを感じただけで。
「ナズーちゃんとご飯食べたいなあってだけじゃ駄目?」
「うーん、ヤマメがそう言うなら仕方ないかなあ」
しかし、そんな勇儀の心配とは裏腹に、いとも簡単に合席の承諾は得られた。
「おいちょっと待て、何でお前達そんなに仲良いんだ」
ともすれば「ねーっ」などと言い出しそうな女の子じみた雰囲気に、勇儀がたまらず突っ込みを入れる。確かにヤマメは友人が多かったが、この鼠とここまで仲が良いとは聞いてない。
「いや、何でって言われても」
とはナズーリン。それにヤマメが助け舟を出す。
「ナズーちゃんは暇な時とか結構遊びに来るからね。頭良いから話も面白いし、私ナズーちゃんの事好きだよ」
「ははは、よしてくれよヤマメ、照れるじゃないか」
笑いあう二人。そして頭を抱える勇儀。それなら、あのボロ長屋に何も自ら出向く必要は無かったのだ。ヤマメに頼んで、それとなく聞き出して貰えば良かった。
なぜ言ってくれなかったのかとも思ったが、言う間もなく足早に乗り込んで行ったのもまた自分である。
「はは、は、ところで、勇儀さん。捜査の方は進んだのかい?」
この和気藹々とした空気を半ば無視し、先に口火を切ったのはナズーリンだった。ヤマメが目を丸くする。
「え、ちょっと、ナズーちゃん」
「わざわざ私の居る席へ来たんだ、何か用事があるんだろう? 腹の探り合いは得意だが、あまり好きじゃなくてね。そちらの鬼さんも、その方が楽だろう」
どうもこの鼠、貧弱そうな身体に似合わず随分と好戦的なようだ。口の端を吊り上げて相手の反応をうかがっている。
確かに、面倒な腹の探り合いをしなくて済むのは良い。鬼は、やはり生来その類の事を苦手とする。ただ、少し癪だと思う気持ちもまたあった。お膳立てをして貰っているような、そんな感覚。
もしかすれば、この申し出も腹の探りあいの一環なのかもしれないな、とも思った。が、良くは分からない。どちらにせよ、今は乗っておいてやろうと思った。下手な策を打ってくるのなら、その策ごと打ち砕いてしまえば良い。
それで、どうなんだ。ナズーリンがせっつく。ヤマメは釈然としない様子でふてくされている。勇儀が、ナズーリンに待ったをかけた。
「確かに、行き詰ってはいる。それは認めよう。だがね、情報交換と行きたいのならそっちが先に情報を出しな。それが筋ってもんだろう」
「だろうね。今までどうにもならなかった捜査が、そんなすぐに進展する筈も無い」
にやにやと薄笑いを浮かべながら、ナズーリンが答える。これも、何か心理的な揺さぶりの一種なのだろうか。思ったが、すぐに打ち消した。
一度そうだと思ってしまうと、何もかもがそうだと思えてくる。それは、決して好ましくない事だった。だから勇儀は自分を信じる。自分の直感。事態が好転するのならばそれで良いと、その範囲までなら許容をすると、そう心に決めるのだ。
「そう言うそっちはどうなんだ、何か掴んだのか。言っておくが、つまらない事を言う様ならこのまま出て行くからな。もう二度と交渉もしない」
だから、全く軸をブレさせる事なく、勇儀はナズーリンに応対できる。殆ど恫喝に近かった。声を荒げこそしなかった物の、その両目は明らかに敵意を持って、対象を睨みつけている。
しかし、ナズーリンは怯む様子も見せず、ひょいと皿のチーズを口に入れる。そして、あくまで余裕の表情を崩さずに言葉を返した。
「ふふ、私は情報交換をしようなんて言ってはいないよ。ただ、一つ取引がしたい。私がもしこの事件の解決に一役かった場合、その度合いに応じて私の頼みを聞いてくれると」
「もしかしてナズーちゃん、もう何か手がかりを見つけてるの?」
「いや、まだだよ。でも、何と無く予想は付いている。あとはやる気の問題かな。ご褒美があれば、面倒な事でも身が入るってものだろう?」
勇儀は押し黙っている。少し聞いただけでは随分と曖昧な条件のように思えるが、これは鬼に対する取引だった。通常の案件ならまだしもこのような未解決事件、解決の功績は大きい。
鬼は義理を重んじる。もしもこの取引を受けてナズーリンが手柄を立てた場合、かなり無茶な要求であろうと通さざるを得なくなる可能性があった。
いや、そもそもこうやってナズーリンの口から面と向かって話を持ちかけられ、それを聞いてしまった時点で勇儀は無視をする訳にはいかなくなる。嵌められた。そう感じた時、ナズーリンは皿に盛られたチーズの最後の一つを口の中へと放り込み、また次の皿を注文していた。
ゆっくりと味わいながら、目で催促する。返事を。いや、返事などは最初から求めていないのだ、この小賢しい鼠妖怪は。
「あれ、勇儀さんそのチーズ食べないのかい? それなら私に分けてくれると嬉しいんだが」
そんな軽口を叩きながら、またヤマメと談笑をはじめる。もう、勇儀の事などは気にかけていない。
その後店を出るまで、勇儀はそのまま口を開く事は無かった。
「もう、勇儀さんいい加減機嫌直してよー」
何時の間にか雪の止んだ旧都を、二人行く。店を出てからそれなりに歩いたが、勇儀はずっと無言で歩いている。何度かヤマメがなだめすかしてみたものの、全く効果は無かった。
ナズーリンは未だ店に残り、少量の酒と共にチーズを頬張っている。この妖怪鼠の事が、勇儀の頭の中から離れない。
「なあヤマメ、あいつ何だ?」
「お、勇儀さんやっと口きいてくれた」
「あの鼠、相当の切れ者だぞ。この私を前にして怖気づかない所か、あんな阿呆みたいな交換条件を出してくるだなんて」
何かもやもやとした思いが体の中に渦巻いている。これが何なのか、自分でも良く分からない。
「うーん、ナズーちゃんが何処の誰なのかは知らないんだよね。ここってやっぱり過去を詮索するの良くない場所じゃない。私は別に大丈夫だけどさ」
「ふむ……あいつ、もしかしたらここの住人じゃ無いかもしれんな」
「えっ、どう言うことそれ」
「そのままの意味だよ、どうやってかは知らんが、何らかの方法で地上からここまで抜け出てきた。案外抜け道とかがあるのかもな」
「まさかそんなあ」
「でも、そんな感じするだろう」
「女の勘ってやつすか」
「ま、そんな所かな」
そうか、負けたのだと思った。永らく忘れていた感覚。不思議と、悔しさは無かった。相手の土俵に、上がりすらしないで負けていたのだ。
少し、気に入り始めていたかもしれない。能力のある者を、鬼は分け隔てなく好む。真正面から自分の裏をかいたあの妖怪鼠を、少し認めてやっても良い。そんな気分にはなっていた。
~6~
最後に鼠を遣って、ナズーリンは一人考えていた。犯人が誰だか分かったとして、そいつが何処に居るのか、見つけ出す事は出来るのか?
何と無く目星は付いていた。多分あいつが犯人で、きっと奴は今でも何処かで生きているのだろうと。
しかし動機が分からない目的も分からない。何故こうも次々と妖怪を殺傷しなければならなかったのか、それが分からない。
思考は堂々巡りを続けていた。きっと犯人は“目的を達成する事が出来た”のだろう。だからもう、犠牲者は出ないはずだ。
チーズをまた一切れ、口へと放り込む。
「親父さん、お勘定頼むよ」
少し、考え疲れた。最後の命令はそれなりに時間がかかるものなので、当分は鼠達も帰って来ない。
一度、寝てしまおうと思った。一輪の作る料理は美味しいし、あそこの布団は自分の普段使っている物に比べてずっとふかふかだ。
毎度あり、威勢の良い店主の掛け声を背に、店の外へ出る。そんなに長居をしたつもりは無かったのだがそれなりに時間は経っていたようで、何時の間にやら道も、屋根も、一面が白く染まっていた。
雪はもう降り止んでいた。
ナズーリンは床についた。勇儀達も、似たようなものだろう。では、彼女たちが追っている妖怪は。件の妖怪は、一体何をしていたのだろうか。
件の妖怪は、笑っていた。笑いながら食卓につき、細君と共に市場で買った少しばかりの肉と、そして漬けて置いたいくらかの漬物をおかずに、穀物をかっ込んでいた。
妻が、粗末なものでしょうなどと聞いてくる。顔には少しはにかみの色。とんでもない、凄く美味しいよなどと、その件の妖怪は答える。
全く、この所ずっと、こう言ったまともな食事を取る事は無かった。まあそれでも飢える事は無かったのだが、やはり暖かな食事と言うのは嬉しい。
おかわりはいかがですかと、妻が言う。頼むよ、と椀を渡し、そこによそわれる穀をじっと眺める。視線に気付いた妻が、恥ずかしい、そう抗議する。
風呂は、少し行った所に銭湯のような物があって、そこに二人連れ添って通っている。
やあ、今日は寒いね。ええ、まったく。言葉を交わしながら、道に積もった雪を踏みしめる。
出て来た時に、待ったかいと聞けば、いいえ、私も今出た所ですなどと返してくるのだが、その実濡れた髪は少しばかり冷えてしまっていて、悪い事をしたななどと思いながら、少しばかり肩を寄せる。
全く持ってこのような地底には似つかわしくない、甲斐甲斐しい娘だった。なんでも、この地底で生まれたのだと言う。
もう、最初に妖怪達が地底に追いやられてから数百年が過ぎようとしていた。そう言った妖怪も出るのだなあと、その件の妖怪も思ったものだ。
幸せであった。なるほどこう言うものが幸せというのだと、件の妖怪は噛み締めていた。長く、感じた覚えの無い、遠い昔のものだった。
ナズーリンが目を覚ました時、傍らには三匹の鼠が整列し、主の起床を待っていた。
後で聞くと言い残し、のそのそと布団から這い出る。冬の布団ほど気持ちの良い物は無い。後ろ髪を引かれる思いはあったが、そこはそれ、出なければ朝食を食べ損ねてしまうのだ。
朝食、と言うような言葉も変なものである。なにせ地底には朝も夜も、おおよそ日の関係するもの等は何も無いのだから。それに、そもそも妖怪は食事を取る必要もあまり無い。
しかし、そう言った文化は未だに根強く残っていた。ただ決まった時間に起きて、食事を取ると言うだけなのだが、どんなに時間に適当な者でも、これだけは皆守る。
そうでもしなければ、本当に、自分がいつを生きているのか忘れてしまうのだ。だから幾人かの例外を除いては、基本的にみな夜は寝静まる。
夜、と言う言葉も変なのだろう。何故ならここに住む妖怪の殆どが、本来は夜行性で、夜は寝静まる時間ではなく活動をするための時間なのだから。
だがこれも、言葉の変遷なのだった。彼らにとって、寝て起きるからと言う意味以外に朝は無い。
「お早うお二方」
「おはよう」
「おはよう」
別段早くもないのに、何に対して早いと言っているのかも分からないのに、起床時の挨拶がおはようであるのと同じように。
朝食は、まあ、質素なものであった。彼女らは妖怪であるからして別段食べなくても生きてはいける、そう言った部分に要因があるのか。はたまた人数が三人に増えた事による物なのか。定かではない。
食べ終わり、片づけをしている所で、水蜜が捜査状況を尋ねてきた。一輪も、そうだそうだと聞いてくる。
さて、どうしたものかな、とナズーリンは思った。まだ真相に辿り着くまでには至っていないが、寝室に待機している鼠達も居る。優秀な彼女たちの事だ、整列して待っていると言う事はそれなりに良い情報を持ってきているに違いない。
しかし、それでもまだ足りないのだ。どうせなら、推理が確実性を持ってから二人には話したかった。
「ねえ、どうなのよ」
水蜜が急かして来る。仕方の無いものだな、と思った。
「一応断っておくぞ、まだ確定したものじゃないんだ。ただ、大体こいつじゃないかなと思う奴は居る。これから私の可愛い部下達に最後の情報を貰う所だから、ちょっと待っていてくれたまえ」
そして、足早に寝室へと向かう。布団の傍には、まだ鼠達が整列していた。待たせたね、と言って、鼠を手元へと寄せる。
三匹とも全体的に薄汚れ、尻尾も力なく垂れている。無理も無い。幾ら妖怪化しているとは言え、元々鼠はそこまで強い身体を持っているわけではないのだから。
情報を受け取った後、労いの言葉をかけすぐに休ませた。暫くは使い物にならないだろう。だが、一応欲しい情報は揃ったはずだ。少なくとも、目星を付けられる程度には。
居間に戻ると、二人は興味津々にナズーリンの事を待ち構えていた。
「私は、鼠達が持ってきた情報から、ある妖怪に目を付けた。状況から考えてこいつが一番怪しかったし、他にこんな事件を仕出かしそうな妖怪も見付からなかった」
ただ、と付け加え。
「決め手になるものが無かったんだな。そうなんだろうな、と思える物はあっても、確信できるものが無かったんだ。そこで私は、寝る前に鼠達を街へと放った」
「あんたも鼠使いが荒いわねえ」
水蜜が茶化してくる。
「良いんだよ。で、探して来て貰ったのは、被害者の血痕跡だったんだよ。今は除去されてしまっていても、あの子達の嗅覚なら一ヶ月程度なら余裕で判別できるからね。そして――」
少しもったいぶる。
「水橋パルスィの血痕だけが何処にも見付からなかった。こいつだよ、この失踪事件の犯人は。疑わしい部分もあるが、こいつだとしか考えられない」
「まず最初に断っておくぞ、これはあくまでも現時点での結論だ。もしかしたら私が知らない地上への抜け道が他にあって外部犯が進入できたかもしれないし、もうそのまんま過ぎるが姿を消せる妖怪が街中に潜伏しているって事だって十分に有り得る」
「いいからいいから、続けてみなさいよ」
水蜜が身を乗り出す。ナズーリンが、頭を掻いた。
「細かい所を説明すると長くなってしまうんだけど、そうだな、最初に思ったのは何で犯人が見付からないのだろう? と言う事だった」
話を続けながら、部屋の隅へと向かう。黒板。あの後、結局どこにもしまう場所が無くて放って置かれていた物だ。それを引っ張ってくる。
「そこで閃いたんだ。ああ、きっとこの被害者の中に犯人は隠れてるんだなって。手始めに最初と最後の被害者だけ調べてきてもらった。三十人全部は流石に覚えきれないからね」
「随分な当て推量で動くのね」
「まあ、否定はしないよ。でも違っていたら違っていたで良かったんだ。方針を変えれば済む話だからね。とにかく、資料が欲しかった」
そして、黒板を拳でトンと叩く。
「それからはもうあっと言う間だよ。ビンゴだ。情報が少なすぎて怪しいと思った奴が、今度は殺された形跡すらなかった。一つ一つなら偶然かもしれないが、重なってしまったら話は別だ。犯人はね、水橋パルスィだよ。これは間違いない」
ナズーリンが自信ありげに鼻を鳴らした。
余程自信があるのだろう、黒板に触れる手もどこか落ち着きが無い。何度も何度も、似たような場所をこんこんと叩き続けている。
そこに、一輪が待ったをかける。
「んで、その肝心の水橋パルスィはどこに居るのよ」
「それが問題なんだ。分からないんだよ。動機も、方法も、何もかもが。当然居場所だって皆目見当もつかない」
「それじゃ意味無いじゃない!」
横で聞いていた水蜜が声を荒げた。こん。最後に一度だけ叩き、ナズーリンがその手を止める。
「その通りだ、全くだよ。この事件、重要なのは誰が犯人かじゃない。何故こんな事件を起こしたかなんだ。それが分からなければ奴の足跡は追えない。お手上げだよ。そんな気狂いの事なんか、私に分かるものか」
~7~
――件の妖怪の名は、水橋パルスィと言った。
もっとも、今の名前は違う。当然である。未だに同じ名前を使い続けていたのなら、きっと勇儀をはじめとする鬼たちはその不自然さに気が付き、水橋パルスィを捕らえていたはずだ。
水橋パルスィに逃げていると言う感情は無かった。鬼が仮に少しでもこの妖怪の事を怪しみ、その捜査の手が掠りでもしていたら話は別だったのだろうが、別段そんな事も無い。
水橋パルスィは家に居る時、居間でぼぅっとしている事が多い。そう大きい家ではない。それでも、寝室があり台所があり居間があり、普通程度の大きさではあったのだが。
ぼぅっとしていると、妻がお茶を淹れて入ってくる。これもまた、さして高給な茶葉ではなかったが、この光差さない地底にとっては中々に価値がある。
祝い品として貰った物だった。普通はここで、白湯だとか、薬味を溶かした物だとかが出される。
妻とともに茶を啜っていると、思うのだ。ああ、少し前までは本当に忙しかったなあと。忙しかったなあと思い、同時にこの良く出来た妻はその労働に見合う対価なのだと感じる。
茶を飲み終えると、二人連れたって市場へ出かける。本来ならば特に買う物がある訳では無いのだが、どうも妻に急かされて、それで渋々と身支度を始めるのだ。
いや、本心では決して嫌がってなど居ない。水橋パルスィ自身も、決してまんざらでは無い。ただ、それを表に出すのが少し気恥ずかしいだけで。
旧都の雪はすっかりと止んでいた。
鬼と蜘蛛が二人、まだ起きてくる者も少ない街の中を歩いている。
結局、収穫は無いに等しかった。遺族に話を聞こうにも、その大半は既に事件に興味を失くし、それ以外ももう掘り返さないでくれと言った態度を取っている。
「妖怪ってのはこんなにも情が薄いものなのかねえ……」
ヤマメが呟く。
そう言ったもの、とでも言えばそうなのだろう。この地はあぶれ者の寄せ集められた場所であるし、配偶者を行きずりの関係と、外へ出るまでの間に合わせと考えていた者も少なからず居た。
それに、ただでさえ妖怪は寿命が長く、力も強い。言ってしまえば、妖怪は生きていく上で他者など必要としないのだった。
ただそんな妖怪でも、こと地底では配偶者持ちと言うのは多かった。大体、全体の六割は誰かしらとつがいになっている。やはり、口では何と言おうと、寂しいのだ。この閉ざされた世界で、何の甲斐も無く生きていくのは。
「しかしどうせ、目新しい話が聞ける訳でもない。そう割り切ろうじゃないか」
とは勇儀。
まあ、仕方の無い事だろうなとは思っていた。自分とて、他の事は言えないのである。随分と長く生きてきたが、結局夫と呼べるような者は居なかったように思う。
地底に来てからは尚更だ。何時の間にやら自分が鬼の頭目だとされていたし、本来この立場に居るべき筈の親友はさっさか何処かへと消えてしまった。
だからと言う訳では無いが、勇儀は配偶者の死と言うものが今ひとつ良く分からなかった。それは自分の大切に思う友人達の死とは違うものなのだろうか。考えるたびに、自分には合わないと思いなおして、考えるのをやめた。
「幸いにも、被害者の殆どは遺族から話聞いて情報は揃ってるんだ。尤も、一人だけは白紙に近いんだが」
もう一度資料を洗いなおそう。そう言って、ヤマメの背を叩く。ヤマメは不服そうだった。むうと唸って、まだそこに留まろうとしている。
ホラ行くよ。二度目の呼びかけでようやっと不承不承ながらも帰路へとついた。どうせ資料なんてこれ以上見ても意味は無いんだ。そんな思いが渦巻いた。
しかしまた、こうやって外に居ても変わりはしないのも確かなのだった。
ナズーリンは、さて、迷っていた。
一応犯人は分かった。これをあの鬼に教えに行ったものかどうか。
分かった所でどうしようもない情報なのである。奴はどうにも周到な奴で、今のところ自分に繋がるような手がかりを残しては居ない。それを、得意顔で情報提供として教えに行く。間抜け以外の何者でもないではないか。
しかし同時に、こうも思うのだ。実はあちらはあちらで独自に情報を入手していて、それと組み合わせることで大きな進展が望めるのではないかと。
その場合、ナズーリンの功績はそれなりに大きい。交渉も、少なからずしやすくなる事だろう。
……だが、そんな程度では駄目なのだ。
ナズーリンは今、彼女らによってなされた封印を解く事を目的として動いている。そのためには、もう少し。せめて自分が居なければ決して解決できなかった、そんな程度の手柄は欲しいのだった。
さあどうしようかなあ、どうしようかなあ。
ちなみに、今ナズーリンが悩んでいるのは鬼の門のすぐ近く。建物と建物の間に挟まり、ちらちらと鬼の門を覗いながら考えている。
どう見ても不審者であるが、本人にその自覚は無い。
どうするかな。三度目に鬼の門を覗った時、数名の鬼がこちらに近づいてくるのが見えた。何だろう、そう思っている間に捕獲された。
通りがかった妖怪達に、既に何度も通報されていたのだった。
「ナズーちゃん、本当何やってんの?」
「言わないでくれ。もう、恥ずかしくてもう」
顔から火が出るとはまさにこの事か。ヤマメは可哀想な子でも見るようにしてナズーリンに目をくれている。
違うのだ、と弁解をしてやりたかった。一体何が違うと言うのかと言われればそれまでなのだが、長く生きてきてこれほど恥をかいた事は他に無かった。
「で、お前本当に何をしていたんだ?」
勇儀が尋ねてくる。
まあ、そうだろう。ひっとらえられた時から予想はしていた。何故あの場所に居たのか、話さなければならない。本当はもう少し見極めてから情報を出すつもりだったのだが。
もう、隠し通すのも無駄かな、と思った。それに、いい機会だとも思った。どうせ捕まらずあの場に居た所でうじうじと悩み続けていただけだったのだ。
「いや、ね、犯人に大体の目星が付いたから教えてあげようかと思って」
勇儀とヤマメが目を見開く。重畳だ。こう言った反応が返ってくるのは喜ばしい。それはつまり、予想だにしていなかったと言う事だから。
さてここから、どうやって自分を売り込んだものかな。周りに気付かれないようそっと深呼吸をし、ナズーリンは一人、静かに気合を入れた。
~8~
布団は、言うまでも無いだろう。少し大きめの物を、二人で一緒に使っている。
新婚初夜に感動するような年齢でもないのだが、まあ、これはこれで一種の通過儀礼的な面もあると、一応一通りの事はやった。
それから、そう言った行為に及んだ事は無い。慎ましやかに、静かに布団に入り、就寝する。
ただ近頃はやはり寒いので、寝ようと思ってから暫く経つと、すすと妻の方から身体を寄せてくる。そんな時は黙って肩を抱いて、もう少しばかり引き寄せてやるのだ。すると妻の方も、嬉しそうに身体を沿わせてくる。そうして、ようやく眠りに就く。
可愛いものだと思った。自分にも、かつてこの様な時期があった気がする。遠い、遠い昔の事だった。思い出そうとしたが、良くは思い出せなかった。
仕事は、農家をやっている。
と言っても地底は昼も夜も無く、土壌に至っても手を加える方法が殆ど無いため、専ら自生するに任せていた。
結局手を加えようが加えまいが貧弱にしか育たない事に変わりはないというのが理由なのだが、楽な反面暇でしょうがなかった。
なので、その他の妖怪の例に漏れず、自分も彫り細工などをやっている。皆、手持ち無沙汰なのだ。この地底では特に。未だ、細工物の一つ出来ぬ妖怪が羨ましく思える。それだけ仕事が充実していると言う事なのだろうから。
妻も似たような物だった。手慰みに絵を描いたり編み物をしたり。最近ではこちらの真似をして彫り物などもはじめたようだ。
不思議と、退屈では無いのだ。日々の生活に追われる訳でもなく、ただ悠久の時を潰すだけの妖怪の身。本来ならば腐っていてもおかしくないのだが、何故だか充実していた。
きっと、連れ添う相手が居るからだ。妻も、そう思ってくれているように感じる。
二人して木を彫っている時に、ふと言葉が漏れた。君と一緒になれてよかったよ。
妻が、顔を上げた。少し遅れて、私は自分が何を口走ったのか気付いた。顔が熱っぽい。きっと赤くなっている。
耐え切れなくなって顔をそらすと、妻の居る方から、私もですよ、と聞こえてきた。
なんだか、それだけで頬がほころんでいくのを感じた。
少なくとも水橋パルスィは生きている。
それが、勇儀とヤマメの見解となった。ナズーリンの渡した情報は、犯人を断定するものとは認められなかったのだ。
だがそれでも、ナズーリンの功績は認められ、ヤマメのはからいにより勇儀から捜査協力の依頼が出される事となった。
そうして三人は今資料室に居る。この事件を、もう一度整理してみようとの勇儀の提案によるものだった。
「でも、やっぱり進展は無いねえ……」
ヤマメが一人ごちる。
やはり、水橋パルスィに関する情報が少なすぎる。
一応、女性だと言う事は分かっている。橋姫の伝承が正しければ、相応には強力な妖怪だ。鬼には敵わないだろうが、並みの妖怪なら片手で捻れる。
だが、だから何だと言うのだろう。大切なのは過去ではなく現在なのだ。そして、その現在にパルスィの情報は何も無かった。
他の妖怪に関する情報は要らないほどあると言うのに。
安楽椅子探偵はどうしたんだ。今三人で雁首を揃え資料を漁っているこの状況。ナズーリンは何とも言えない侘びしさを感じていた。これでは優雅さの欠片も無いではないか。しかし頼りの部下達はただ今休養中であり、一輪と水蜜に情報収集などさせたら目立って仕方が無い。
それはそうとして、ナズーリンは、一つ気になっている事があった。
何故、被害者に共通点が見当たらないのだろう。三十人も被害者が居て、そのそれぞれに詳細な個人情報が残っていて、それで何故。
本当に無差別的に、目に付いた者を片端から殺して行ったのだろうか。そんな事は無いだろうと思う。しかし、そう言い切れない保障もまた無い。
人数が問題なのかとも思った。何か、儀式にでも使う材料としての。だが現場には血だまりが残されている。身体が目的ならば、わざわざ血を撒き散らすような事もしないだろう。
そもそも、何故死体は消えたのだろうか。被害者が死んでいる事を確認した訳ではないが、現場に残る血の量から見てもまず死んでいるのは間違いない。その死体を何処へやったのか。
考えれば考えるほど泥沼に嵌っていく。ああ、一つどころではなくなってしまったな。そう呟いて資料を眺める作業に戻る。何か、不自然な所がある筈なのだった。あと一つ。そのほんの少しの後押しで、全ては繋がる気がした。
勇儀は、ただ座って目を瞑り、じっとしていた。
もう頭脳労働は彼女たちに任せてしまおうと言う考えに至った。そしてその間、部下を率いて捜査に当たっていた時の事を思い出す。
一大事件だとあってか、聞き込みは割かし躓く事も無く、すんなりと済んだ。部下たちの士気も高く、資料として纏めるのにもそう時間はかからなかった。
そこまでは良かったのだ。
しかしそこから、全く手がかりがなくなってしまった。誰も、犯人の姿を見た者が居ない。
複数回現場の近くから出てきた妖怪は居たが、全員別人で、その上そいつらも結局すぐに失踪してしまった。後に、巨大な血だまりを残して。
悔しい。自力で解決する事は無理なのだと、薄々感づいてはいた。それが、この鼠によって確信に変わった。まさか血痕を調べるだなんて、思いもよらなかった。
確かに、水橋パルスィの血痕は見付からなかった。しかしこの地底にも下級妖怪は居る。旧都の内部ならばともかく、それ以外の場所で出た死体などは、それこそ大時計の針が一周するのを待たずして全て綺麗に平らげられてしまうのが常だった。
先入観に負けたのだ。やはり、鬼に捜査は向いていない。出来ない訳では無いのだと思う。ただ、体が無意識の内にそれを避ける。鬼は、力を誇示し、他の抑止力であればそれで良いのだ。
資料室にこもって、どれ程の時間が経ったのか分からなかった。このザマでは自分も鬼を悪く言う事は出来ないと、ナズーリンは思った。
――彫りながら、色々な事を話した。
少しばかり興が乗ってきたと言うのも有るかもしれない。やれ日頃の料理の事、天気の様子。折角雪が降ったのだから、少し遊んでも良かったかね、などと言うと、年甲斐も無いと怒られる。
そして、自分の過去の話になった。そこは妖怪、長生きもしている物で。話の種は全く尽きる気配を見せない。
妻が、「私は昔あの地霊殿の中に入った事があるのですよ」と自慢をしてくる。なるほど、確かに凄いかもしれない。関係者以外であの建物の中に入れる者は殆ど居ないはずだ。
どうやって入ったのだと聞くと、恥ずかしそうに俯いて、「実はペットにならないかと誘われたんです」と言った。
少し、驚かせてやろうと思った。地底で生まれ育った者には決して真似できない自慢と言う物も、中には有るのだ。
しかし、僕の方が凄い自慢を持っているよ。そう言うと、妻は半信半疑で嘘でしょうと言ってきた。
嘘なものか、と続けると、じゃあ仰って御覧なさいと返してくる。腰を抜かすなよと前置きして、取って置きの自慢話を教えてやった。
僕は、その昔京の都に居た事があるんだよ。
すると妻は急に笑い出した。あなたったら嘘ばかりつくんですからと、呆れ顔で見つめてくる。
嘘なものか。若干ムキになって反論するも、取り合ってくれない。腹が立ったので、事細かにその当時の事を話してやった。
覚えている限りなので少し曖昧な部分もあったが、良く説明できたように思う。語り終えた頃には妻はもう笑うのを止めていた。
「あなた、どうしてそんな事を知っているんです?」
などと尋ねてくる。決まっているじゃないか、実際に見たことがあるからだよ、と答えておいた。
妻は、え、と一言発した後固まってしまった。どうしたんだいと近寄ると、少し後ずさる。
「あなた、私と同じ地底の生まれでしょう。何であなたがそんな昔の京の事を知っているんですか」
あ、しまったな、と思った。
~9~
突如、資料室の扉が開いた。勇儀の部下と思われる鬼が、血相を変えてそこに立っている。
仮眠を取っていたヤマメが、物音に起きだして来た。勇儀が何事か問う。
「あ、姐さん、三十一人目が出ました……」
その言葉と同時に勇儀が立ち上がる。ナズーリンも、それに応じた。ヤマメだけはまだもぞもぞとしていて、戻ってきたナズーリンに連れられて行った。
「うお、これは……」
「凄いだろう。最近じゃ中々ここまでやる奴は居ないよ。私も長い事鬼をやっているが、それでも最初見た時は驚いた」
現場はまさに血の海であった。
机、畳、箪笥に至るまで撒き散らされた血は、歴戦の勇儀をして顔をしかめさせる。いわんやナズーリンをや。
主人がこの場に居なくて正解だったな、とナズーリンは思った。主人も元妖怪であるからして、多少の血程度は気にもとめないのだが、こう言った現場は。それこそ、悪意しか感じられないような場は、非常に嫌悪する。
ヤマメは集まってきた野次馬の後ろでゆらゆら舟を漕いでいる。ナズーリンが、すっと野次馬の中へと入って行った。ここから先は、勇儀の仕事だ。
「姐さん、こちらが発見者です」
「ご苦労だったね」
連れられて来たのは、華奢な女性だった。やられたのはこの女性の夫らしい。
可哀想な身の上だった。何でもこの二人は、ついこの間夫婦の契りを交わしたばかりだと言うのだ。そして事件も一段落して、安心しきっていた所に被害にあった。
夫が消えた時の事は良く分からないらしかった。目が覚めると隣で寝ている筈の夫が居なくて、居間に出てきたらこの有様だったと。
一応証言を取って保護した。この血に塗れた家に帰す訳にも行かない。安い宿を取って、そこに向かわせた。
野次馬連中も何処かへ去り、鬼達が血痕の掃除を始めたところで、勇儀がナズーリン達に近づいてきた。ヤマメも、もう目を覚ましている。
「一応これが今回の調書だよ。何か分かったら遠慮なく言ってくれ」
手渡された調書には、大小様々な事柄がビッシリと書き込まれていた。家族構成、近隣との付き合い、果ては最近市場で買い物をした品まで書いてある。
勿論、今までの被害者との関係も調べてあった。良くもまあこの短時間にこれだけ作り上げた物である。
が、全く掠りもしない。この狭い世界、辿ろうと思えば確かにかつて何かしら出会った事はある筈なのだが、事件には関係の無い事ばかりであった。
ヤマメも、むうと唸りながら考えを詰めているが、やはり芳しくは無いようだった。
「ナズーちゃん、何か分かった?」
ヤマメが問いかける。も、どうも反応が薄い。ああ、とか、うん、とか言う生返事を返すのみ。
どうしたのかと見ていると、おもむろに現場の方へと歩き始めた。
「な、ナズーちゃん?」
「おい、どうしたナズーリン。そっちはまだ立ち入り禁止だぞ」
別の場所で指揮を取っていた勇儀も、その様子に気付いて呼び止める。そこから数歩歩いたところで、ようやくナズーリンが立ち止まった。その目は、現場の血だまりを見つめている。
「おい、ナズーリン、どうしたんだい。何か調べたい事でもあったのか」
「ああ、勇儀の姐さん、これ、もしかしたらなんだけどさ」
そこで初めて勇儀の存在に気付いたように、ナズーリンが口を開いた。目線はまだ、事件現場を見つめたままだ。
少し、言いよどんでいる。幾分か逡巡した後、意を決したのだろう、その後の言葉を紡いだ。
「私、水橋パルスィの居所が分かったかもしれない」
~10~
「理由は」
簡潔に、勇儀がそれだけを聞いてくる。
「三点有る。一つは、資料が詳細すぎる事。これは推測だけど、普段の事件の時も調書は詳しかったりするんじゃないかな?」
「まあ、確かにそうだな。地底は半分以上の妖怪が妻帯してるし、詳しくなる事は多いよ」
それがどうかしたのかと言う風に、勇儀が答える。
「そこなんだよ。地底は、上と違ってこれと言った戸籍も無いし、個人主義が徹底されている。だから精々が治安維持のための警邏機構程度しか公機関は無い。それで事足りるからだ。なのに、何でこうも情報が集まるんだ?」
「そりゃあ、遺族も知り合いも居るからだろう」
「確かにその通りだ。でも、三十人全員に遺族が居るんだよ。それだけ集まれば、一つくらい一人身のが居たって良いだろう。奴は、その地底の六割を重点的に狙っていたんだ」
そのまま、目線を血だまりへ向ける。
「二つ目、血痕と遺体の消失。うん、これは正直考えたくない」
「あ、私何と無く想像付いたよナズーちゃん」
ヤマメが手を上げる。それを横目に見ながら、ナズーリンが続けた。
「血が残っているのは、つまり、遺体をその場で処理したからだと考えられる。どうやって。私達は妖怪だ、食べてしまえば良い」
「そんな、出来る訳が無いだろう! 外で見付かった血痕もあるんだぞ、いや、外で見付かった物が殆どだ。誰にも見付からずに妖怪一体を丸ごと食いきるだなんて」
「でも、それが一番矛盾が無いんだから仕方ないじゃないか! 私だって考えたくないよ。おぞましさじゃない、それだけの力を水橋パルスィは持っているって事がだ。元来がそう言った性質の妖怪ならともかく、そうでない妖怪が持つ力じゃない。異常過ぎる」
「そして、最後の理由。彼女は、その来歴からして相当に悲運な生を歩んで来ている」
「宇治の……と言えば有名だ。私も聞いた事がある。それに、こっちでも寂しい生活を送っていたみたいだしな」
勇儀が補足する。
「彼女は、耐え切れなくなったのではないかと思う。そして、幸福そうな、少なくとも外からは幸福に見える家庭を襲った。いや、襲っただけならこうは酷くならなかった筈だ。奴は、その家族の一員と入れ替わろうとしたんだよ」
「そんな無茶な」
「無茶だよ。当然障害は幾つも出てくる。そしてその度に、取り入る家を移ったんだ。覚り妖怪が、奴の事を狂っていると評したそうだね。全くもってその通りだよ。尋常の神経だったら、こんな無茶はやらない」
ナズーリンが、息を吸い込んだ。ヤマメと勇儀が、次の言葉を待っている。一拍置いてから、ナズーリンが続けた。
「一番の見落としはそこだったんだ。被害者は、居なくなった時に死んだんじゃない。その前に、既に殺されていた。その身体を隠れ蓑にして潜んでいたんだ、そりゃ見付かる訳も無いよ」
「で、結局奴は何処に居るんだ?」
「うん、それなんだけどね、今回の事件……今起きた事件だよ、はどうも妙だ。前回から間が開きすぎているし、これと言って夫婦仲が悪かったような様子も無い。この生活を手放す理由が無いんだよ」
「でも、手放してしまった」
「その通り。そしてそれには必ず理由がある。今回の現場は屋内で、しかも丁度住んでいる家だったな。多分、何か突発的な問題が起きて手放さざるを得なくなったんだ」
誰かが、喉を鳴らす。
「あの細君が怪しい。急ごう! 逃げられたら今度こそ見付からないぞ!」
宿、と言っても、旅行者が来る訳ではない。
ただ例えば、家の改築やら何やらをする時に仮の住居が欲しい。そんな場合に地底の宿と言うものは利用される。
その安宿は、鬼の懇意にしている宿だった。部屋が足りなくなった時に使わせて貰う事もあれば、宴会の時に場所を借りる事もある。そして今回は、関係者の保護に使われていた。
勇儀が、駆けていく。その後ろを付いて行くように、残りの二人も。何処に居るのかは分かっていた。二階の、右手前から二番目の部屋。ふすまを、思い切り開ける。
中には、先程保護した細君が座っていた。
「どうしたんで御座いますか? そんなに血相を変えて」
そう言い終わるか終わらないかの内に、勇儀が距離を詰める。
あらかじめ、ナズーリンに言われていた事だった。水橋パルスィは他の妖怪に化ける時に皮を使っていると思われる。中身は食ってしまうのだし、その方がバレ難いからだ。だから見破るためには……。
まさに、疾風と表現するべきであった。もしくは、豹とでも言うべきか。勇儀は恐ろしい速さで相手の下へと近づき、一瞬の内にその左腕を引き千切ってしまった。
皮を纏っているとは言え生身とは程遠い。どう上手く化けたとして、切断面から偽の皮がめくれ上がり、容易に判別が出来る。野蛮にも思えるが、問答無用で身体ごとバラバラにしないだけでもマシなものだった。
皮はどうなった。三人の目が一点に集まる。めくれ上がった皮の下にはもう一つ皮が。皮、が。
皮ではない。
「勇儀さん危ない!」
いち早く気付いたヤマメが叫ぶ。皮の下にあった身体は、何時の間にか緑色をした光弾へと姿を変えていた。いや、変わったのではない。最初からこの光弾が身体に擬態していたのだ。
細君の残った胴体も四散し、光弾へと変わる。勇儀がたまらず距離を取る。埋め尽くされる緑色の向こう、細君の身体があったその真後ろに、一人の女が立っている。
強い、緑色の眼が、光っていた。他にも、身体的特徴はあったように思う。癖のある金髪、尖った耳、しかしそれよりも何よりも、この眼がナズーリンには気になった。
いや、それしか見えなかったと言うのが正しい。言いようの無い感情が込められた眼。その眼に射竦められただけで、何か目を逸らしてしまいそうな、後ろめたくなるような、そんな。
だから魅力があった。魅力、なのだろうか。力強さがあった意志の強さがあった、それ以上に、何者にも侵されない拒絶があった。
「嫉妬……なのか……?」
気が付いたら口から出ていた。
正体を現した彼女が、ニイと笑って来た気がした。壁が破壊される。
「あいつ、逃げるぞ!」
彼女――水橋パルスィが地底の空へと躍り出る。三人も、慌てて後を追った。
予想以上に、彼女は速かった。牽制に撒かれる弾が建物の屋根をかすめ削り取っていく。
そのまま逃げてくれたのは僥倖だった。街中で捕り物となれば、被害は甚大な物となっていただろう。
先程の光弾。本人は気にしていないようだが、近くに居た勇儀の腕が焦げていた。やはり何匹もの妖怪を食って、力を付けている。
「追い込め、追い込め! ヤマメ、左から牽制しろ、あの縦穴に追い込むぞ!」
勇儀が指揮を取る。鬼の連中を連れて来なかったのは痛かった。勇儀一人で十分片が付くと思っていたのだが、この様だ。ただ今は、旧都から奴を離す事が先決だった。
縦穴はヤマメの住んでいる所を、もう少し行くと見えてくる。封印されて久しいが、かつては地上との連絡路もあったと言う。今は、袋小路。誰も近寄りすらしない所だった。
あの女は、水橋パルスィは、自分がそこへ誘導されていると知っているのだろうか。あの、誰も来ない、暗い暗い場所へ。そこで、誰に知られるとも無く自分の生を終えるのか。
哀れな女だ。
ヤマメの住処が見えて来た。もうすぐ縦穴に到着する。あの縦穴はそう広くなかった筈だ。彼女は追い詰められ、鬼の拳をその身体に受けて赤い噴煙になる。
本当に、哀れだと思った。
一番奥の奥。と言っても地上から見ればごく浅い所。そこまで来てようやっと水橋パルスィは止まった。
こうなって居たのか、とナズーリンは思った。こんな場所へ来た事は今まで無かったので、行き止まりになっていると聞いてもいまいちピンとは来なかったのだ。
辺りは薄ぼんやりと明るい。確かに、そう、ただ埋め立てるだけなんて品のない事をする筈もなかった。この場所から地上にかけて、結界が何重にも張り巡らされている。そこから発せられる光が、淡く辺りを照らしていた。遠目にも術者の力量が知れる、強力なものだ。
素直に、恐ろしいと思った。ナズーリンは、これほどの結界を扱える術者を知らない。結界の形自体も見た事の無い物だった。理解が出来ない。きっとこの鬼、星熊勇儀もこの結界の前には無力だろう。そう考えると、なお恐ろしかった。
「さあ観念しろ、もう逃げ場はないぞ」
そう言って勇儀がじりじりと間合いを詰める。ヤマメは網を作って逃げ場を塞いでいる。
こう言う時、ナズーリンは何も出来ない。元々の本分は頭脳労働であるため構いはしない筈なのだが、何だかいたたまれなくなって来る。
だからせめて、相手を視る。じっと観察する。その一挙手一投足も見逃さないように。相手が何を仕出かして来ようと、自分だけは対応できるように。
勇儀の前進に合わせて、彼女もじりじりと後退する。ふ、と後退が止まった。勇儀が訝しげに様子を覗う。
まさか、と思った。だが、きっとそうだ。そうとしか考えられない。
「離れろ勇儀さん! 巻き込まれるぞっ!」
反射的に叫んでいた。そして、勇儀が後ろに飛び退くのと水橋パルスィが自ら結界へと飛び込んだのは、ほぼ同時だったように思う。
轟音が鳴り響く。そこに混じる、妙に高く、けたたましい音。それは彼女の断末魔だったのだろうか。結界が激しく光を放ち、一瞬の内に収束する。
後に、一枚の札だけが残った。
~11~
「あれは、そう言った目的の結界だった」
と、勇儀が言った。
契約を破り外へ出ようとした妖怪を、一方的に封印してしまうための結界。
あの結界を張った妖怪は、妖怪としては珍しい事に殺生を好まない質だったらしい。だから、重罰の中にも決して死刑は入れなかった。代わりに、あの結界に触れた物は札としてその場に縛り付けられ、そしてそのまま放置される。
むごい物だった。これでは死ぬのとなんら変わりは無い。違うのはただ、言葉どおり死んでない事だけだ。
この鬼は、それを知っていてあの場所へと誘導したのだろうか。死よりも思い罰をと、それともせめて殺さないようにと。ついぞ聞く事は出来なかった。
「あいつは、この後どうなるんだい?」
それだけ、どうにか言葉に出来た。
「封印が解けるまであのままだろうさ。百年か二百年か、あるいは何かの拍子に解けてしまうまで」
そんなものなのだろうな、と思った。
結局あの妖怪から何を聞きだすことも出来なかった。何故こんな事をしたのか、何故こんな事を遂行出来たのか、そして何故、一度は手に入れた筈の家庭を手放してしまったのか。
その事を勇儀に話したら、気にするなと言われた。
「あいつは、一人目を殺した時点でこうなる事が決まっていたんだ」
そうしてそれきり黙ってしまった。
妖怪、それも人の情念から妖怪となった様なものは、感情の変化によって力が直接左右される。最初に殺した時、彼女は何を思っていたのだろう。どんな気持ちで、遺体を食っていたのだろう。
身震いがした。正気の沙汰じゃない。そうなってしまってはもう普通の生活など出来る訳が無いじゃないか。どんなに取り繕っても、必ずボロが出る。
だからあんなに簡単に捨ててしまえたのだろうか。あの夫婦、唯一上手く行っていたと思われるあの夫婦に、何があったのか私は知らない。でもそんな、殺してしまう程の物だったのだろうか。それ以外に解決策は無かったのだろうか。
きっと無かったのだろう。彼女は、もうそれ以外の選択肢を捨ててしまって居たのだ。
「自分から正道を捨てた者に、幸せになる権利は無いって事か……」
「そう言う事だよ、悲しいけどね」
ヤマメは、まだあの封印場所に残っている。後から追いつくから、先にいつもの店へ行っていてくれと言っていた。
「ところで、報酬の件なんだけど」
「ああ、それな。まあ、あんたには随分と助けられたからね、それなりには都合してあげるよ。何が望みだい?」
勇儀が、ニカッと歯を見せ聞いてくる。
「ううん、今はその言葉だけで十分だよ。そうだな、もしも私が何かやらかしたとして、一回だけ見逃してくれるってのはどうだ」
「おいおい、何をやるつもりだよ」
「別に、大した事じゃないさ」
店の前に着いた。少し、寂れた感じのある店だ。中を覗いてみても、一組席に付いている以外は誰も居ない。
勇儀は、いつもこの仕事を終えた後はこの店に寄るのだと言う。なるほど、確かに落ち着いて飲むのには適しているかもしれなかった。
「お前も来るんだろ?」
その言葉に、少しドキリとしてしまった。つられるまま一緒に歩いて来てしまったが、本当は頃合いを見て帰るつもりだったのだ。勇儀とヤマメの時間の中に、別の物が入るのは何だか気が引けた。
しかしそれを告げるには店の近くまで来過ぎてしまった。勇儀は、もう店の中へと入ろうとしている。
これで帰ったら、野暮は私の方だろう。勇儀が、早く来いと催促している。私も、中でヤマメが来るのを待つ事にしよう。
熱燗を、と頼む勇儀の声が聞こえた。
END
暗闇の中から音がする。くちゃりくちゃり。何か形容し難い、けれど誰もが耳にした事のある音。
その音を発している者はぬうと闇の中から出てくると、手に持った最後の一切れを口に放り込み何処かへと去っていってしまった。音は口の中から尚続いている。咀嚼の音であった。
彼、もしくは彼女は、ここの所定期的にそうやって何かを食っては、また何処かへと去っていくような事を繰り返していた。
理由はただ利己的で、かつおぞましい。
別に、美味い物ではなかった。だが、食ってしまう必要があった。自分のために食われるのだ、こいつも本望だろう。そんな事を考えながら、ひたすらに食っていた。
もう、腹はいっぱいなんだけどなあ。ふと言葉が漏れた。
~1~
夜の帳の中をひそりと駆け抜ける鼠が一匹。時々立ち止まっては耳をそばだてまた走り出す。林を抜け川を抜け、森を抜けて洞窟を抜けた先にあるものは、果たして一つの巨大な街。そして、一軒の長屋であった。その一室に、鼠がもぐりこむ。
「やあ、ご苦労だったね」
部屋の中には女性が一人。とは言っても、決して人間ではない。頭の上部に付いた丸耳がその人外を主張している。彼女は鼠から何かを受け取ると一つ命令を耳打ちし、また何処かへと鼠を遣った。
長屋は、奇妙な形をしていた。シルエットは普通の長屋と大差ないのだが、どこにも窓らしき物が見当たらない。全て一面は壁で塗り固められている。外から明かりを取る事が出来ない造りになっている。
ここでの明かりは、特別な火を用いて作られる。触れても熱くない火。燃え盛るのに空気を必要としない火。きっとそれは、現代の科学で言えば火とは呼べないものだった。
人はこの街を旧都と呼ぶ。かつて地獄の鬼が暮らしていた街。地上からは遥か遠く地底世界の、中心に位置する街だった。
受け取った物をあらため、彼女も長屋を後にする。少し、行く所が出来た。毎回、鼠が何かを持って来る度に行く所だ。
地の底は暗い。幾ら明かりがそこら中に点いているとしても、足元に気をつけなければ転んでしまう。彼女の名はナズーリン。生まれは、遠く、遠く、北の国。彼女の本当の出自を知る者は少なかった。
――
時を同じくして旧都の中心部少し外れ。通りの奥まった所に、他より少し大きな建物が建っている。豪壮な、しかし決して華美ではない建物。その建物は鬼の門と呼ばれ、旧都の住民から畏怖されている。鬼の門はその名の通り鬼の住む場所。正確には、鬼の勤務地であった。
旧都の治安管理を司るこの場所で、一つの案件が問題となっていた。これが、今回の話の肝心要の部分。旧都を襲った未曾有の犯行、妖怪の無差別連続失踪事件。長い鬼の歴史の中で、ついぞ鬼に敗北を許してしまった、数少ない出来事の内の一つだ。
「姐御、また一人居なくなった……そうです……」
部下から報告が入る。これで何人目だと言うのか。今から千単位時間ともう少し程前、その頃から妖怪が一人二人と不可解な失踪をとげる様になっていた。今入ってきた報告で、正確には二十九人目。どれもが一筋縄では行かない様な者達ばかり、誰も知らぬ、気付かぬ内に、突然と姿を消す。後に、膨大な量の血だまりを残して。
単位時間と言うのは、地底での時を表す。この旧都の、前の所有者が残していったもの。日の昇らない地底に時を刻むため特別に作られたそれは、四つの文字盤にそれぞれ連動して針が動いている、巨大な時計塔。地底では、それが時間を表す唯一の指標であった。ちなみに千単位時間とは、人間で言う所の一ヶ月弱に相当する。
そう、ものの一ヶ月で三十人。異常な数字だった。既に住民には警戒を呼びかけているし、巡回の人数も増やしているが、依然変わりなく犯人はその網をすり抜け、被害者をこの街から消し去って行く。
姐御と呼ばれた鬼が、机を叩く。失態だった。鬼の沽券に関わる。だがそれ以前に、こうやって姿を隠し、自分達を嘲笑うかのように犯行を繰り返す犯人が許せなかった。鬼は、卑怯を最も嫌う。彼女はその鬼を束ねる者。かつて四天王と呼ばれた内の一人、星熊勇儀その人だった。
彼女の怒りは渦を巻き、その場の全員を慄かせる。叩いた場所から机にヒビが入っていく。部下達が大急ぎで外へ出て行き、誰も居なくなった頃、机が音を立てて割れた。
――
ナズーリンは元々この地底を本拠としていない。彼女の本拠は地上にある古いお堂。もっと言うならば、そこに住む主人の傍らにある。
何故その場所を離れてこのような地底に居るのかと言われれば、なるほど尤もな疑問であり、詰る所彼女が優秀だったからと答える外無いのだが、それでも尚言葉を続けるのであれば、彼女の目的に必要であったからとしか言い様が無い。
色々と厄介な事情の下にその身を奔走させ、各関係者の間を連絡する。それが彼女の仕事だった。
長屋のある裏路地を出ると、俗に三番街道と呼ばれる街路に出る。中心に高くそびえる地霊殿を軸として円形に形作られたこの旧都は、十二本の主要道とその間に張り巡らされた細道によって成り立っている。三番街道は割合貧乏人の多い場所で、ちょっとしたスラムと化していた。所謂余所者のナズーリンにとっては、その方が都合が良いのだが。ここから四番、五番路を抜け、ナズーリンは市場へと向かう。
彼女は、あまり地底の市場と言うものが好きでは無かった。地上と比べ、売られている物に明らかに生気が無いのだ。日の光が当たらないからだろうか、どれも、妙にやせ細っている。その癖、それ以外では独自の文化を持っていたりして侮れないのだが。
例えば、発酵食品の類。これらは地上よりもずっと種類も多ければ質も良いし、何より安価であった。それに、工芸なども盛んである。お陰で地底に来てから、やたらと凝った造りの物ばかりが手持ちに増える。何を買っても、何かしらの細工が付いているからだ。
市場に出る時、彼女は少々の銭と背負い鞄を持って出かける。銭はともかく、鞄はちょっとした商売道具だった。知り合いの染物屋に頼んで仕立ててもらった物で、鞄としての機能の他にもう一つ、それなりに有用な機能が付いている。
鼻歌交じりに彼女は出かけて行く。今日は、良いチーズが手に入ったら良いなあ等と思いながら。あの、淡白に思えて深みのある味が好きだった。近年、地底にも伝わって来た物だ。それとなく、製法をナズーリン自身の手によって。
品で膨れた鞄を背負いながら七番街道へ抜ける。そこにある一軒の家の前。出迎えるのは二人、一輪と水蜜。ここに来る事は伝えてあった。ナズーリンには、便利なしもべが居る。
「久しぶりだね、同志水蜜。それに同志一輪よ」
「あ、うん、久しぶりなのは良いけど、何買ってきたのよそれ……」
「何って、見て分からないかい。のぼりだよ、のぼり」
市場に、見慣れない店が出ていた。のぼりばかりを何本も並べて、誰も買いもしないだろうに平然と座っている。
少し、好奇心が首をもたげた。何故こんな事を、というのもあったのだが、存外に、そののぼりは出来が良かったのだ。
小金ならばある。目の前に燦然と輝く純白ののぼり。気づいた時には買ってしまっていた。それからナズーリンは、のぼりを立てながらここまで歩いてきた。
「のぼりなんて、何処に置くの。そんな、通行の邪魔だって折られるのがオチよ」
とは一輪。
「いやあ安かったものでね。いずれ何かしらには使えるだろうさ。今の所使い道は家の前に宣伝をたてておく位しか浮かばないが」
そう言って、高く目の前に屹立するそれを、ポンポンと叩く。一輪が溜め息をつく。今までにも、ナズーリンがこうして妙な物を買ってきた事はあった。彼女は仕事柄、物をため込む癖がある。
流石にのぼりは外に残させて、ナズーリンを家に上げた。一輪がお茶を汲みに奥へ向かう。水蜜はといえば、ナズーリンと一緒に居間で座って待っている。
居間には簡素なちゃぶ台と小さなタンス。程なくして一輪が戻ってきた。
一輪がお茶を汲みに台所へと向かう。元来が面倒見の良い性格のため、こうした時には大体一輪が動くようになっている。一方水蜜はと言えば、ナズーリンと一緒にただ座ってお茶が来るのを待っている。
一服つき、ナズーリンが懐から一枚の紙を取り出す。先程、ボロ長屋で配下の鼠から受け取ったものだ。中身は、同士を繋ぐ定時連絡。ナズーリンがこの地底へと辿り着いてから幾度と無く交わされてきた、秘密の会合である。
「ご主人から伝言だ。宝塔の霊力は無事戻ったとさ」
おお、とざわめきが漏れる。ついに来たか、どちらかが言った。
彼女達の目的の一つ、宝塔。
唯一手に残された聖遺物で、かつ最も再生の困難な法具であった。それが一番最初に手に戻るとは、皮肉とも言える。
目的は他に、船の起動、異世界への扉、封印場所の特定などがある。全てが、彼女ら大恩有る聖のためのもの。既に、行動を開始してからそれなりに長い時が経っている。
宝塔は、その過程の最後の最後、聖自身の封印を解くために必要なものだった。手に入った事は、朗報と言えた。幾ら時間の有り余る妖怪の身とは言え何の成果も出ない日々。諦観の気は、薄く流れかけていた。
「あとは、せめて船だけでも動けばねえ……」
と、水蜜。幾ら聖の封印を解く術が手に入ったとは言え、肝心の聖の下へ辿り着けないのではどうしようもない。
村紗水蜜。彼女の持つ船「聖輦船」は、空間の壁を無力化し世界間の航行を可能とする。時空軸の壁を突破する物とは、また少し違う。この船は、確かに存在する、それでも行き方が分からない場所へ無理矢理に移動するための物。移動する船としてはその規模も能力も、まさしく桁外れのものだった。
名前の由来からして大層なものである。聖輦の字は本来、世を統べる者と言う意味合いを持つ。聖自身も、これには流石に苦笑をしたものだが、最終的に周囲に押し切られてこの命名を許してしまった。
しかしその船も、いまや動力を抜かれ聖同様に封印されている。幸いにして封印場所自体は手の届く距離にあるのだが、破ろうにも今現在封印を管理しているのは地底の権力者達であり、迂闊な行動は出来ない。そもそも、動かしたとして地上に出ることすらままならないのだ。
生活に困る事は無い。ここには妖怪を追い立てる人間も居ないし、住んでいる妖怪達も、まあ、一部の厄介な者達を除けば良い奴らだった。それでも本当は、こんな事などやっていたくは無いのだった。早く、聖を救い出して差し上げたい。実現は、遠そうだった。
何故彼女らはこのような場所に燻っているのだろうか。それには少々込み入った事情があるのだが、ここでは割愛する。端的に言ってしまえば、この船が封印された時、それに巻き込まれて封印された。以上である。
遠く遠く昔。いつ頃の事かも思い出せない。特別な封印を施された聖とは別に、地底に一纏めにして封印された聖一派の妖怪達は、どうにか封印を抜け出そうと試行錯誤した。封印されたとは言っても蓋をされただけで、身体は動かせたのである。結果、縦に進むのは難しそうだったので、横に掘り進む事にした。何処かと開通した。それがこの地底であり、旧都であった。
その時より、彼女達は地底世界の一員へと強引に列せられ、否応無しに船は没収。仲間とも離れ離れになってしまった。まあ、不幸中の幸いと言うべきかみな別に悪い生活を送っていると言う訳ではないのだが。しかし、一派の力は大きく散ってしまった。今まともに活動を続けているのは少数を残すのみとなってしまっている。
ナズーリンも彼女らの一派である。が、彼女らと違い封印はされていない。この辺りの話もややこしいので割愛するが、彼女達がナズーリンと合流したのは、それなりに最近の事である。ナズーリンがこの広い世界をひた走って探し回った結果、苦労の甲斐あって地底への抜け道が発見されたのだ。
今ナズーリンは年の半分を地底で過ごしている。地上の主人を、あのうっかり者のご主人を放って置くのは気が引けたが、そこは地底世界での情報収集のため止む無し、と割り切った。
「それじゃ、私はこの辺で帰るとするよ。次は地上の土産話でも持ってくる」
言伝を終え、要件を済ませたナズーリンが部屋を出て行く。そう、急ぐ用事がある訳でもなかった。だが別に、残る理由もまた無い。
外に出る。小さな身体に不釣合いなのぼりが、彼女をよろけさせる。あれは絶対途中で誰かにぶつかるわね。などと、見送る二人がその後ろ姿を眺めていた。
――
「ふむう、まずは宣伝にでも使おうかなあ。でも、宣伝ならもうこの背負い鞄があるしなあ」
悩ましい所である。のぼりと言えばまず宣伝と相場は決まっている。それこそ、のぼりをわざわざ物干し竿に使う輩は居ないだろう。それに、こののぼりは大きいため横にすると両隣と思い切り被る。元よりのぼりとして以外に使い道などなかった。
さて、宣伝。即ち、彼女がこの地底で生業としているもの。「何でも屋ナズーリン」である。
失せ物探しから、陰謀策謀。その他日々のお悩み相談まで何でもやってのける便利屋。それがナズーリンの地底での顔となる。その速さと正確さから、評判はそれなりに高かった。もっとも、主に失せ物探しの依頼しか来ないのだが。
彼女の背負い鞄にも、その広告が載っている。それを背負って町中を練り歩けば、自然と名も知れ渡ると言うものだ。中々に名案であった。後日、良い考えだと思った大工が、真似をして背負い鞄に広告を貼り町中を歩いた。見苦しい、止めろ、罵られた。この方法は、ナズーリンの愛くるしい姿だからこそ許されるのである。
おや、ナズーさん。お、ナズーの姐御。大根要るかぃ、ナズーの譲ちゃん。
道を歩くと、様々な妖怪に声をかけられる。信頼と実績の「何でも屋ナズーリン」は、お手頃価格でどんな物でも探してみせる。でも、猫妖怪だけは勘弁して欲しい所。そこそこに、名は売れていたのだった。
現時点で相当数の妖怪が、ナズーリンと関わった事がある。探す過程で彼らの家にお邪魔させてもらった事もある。すると必然、ある程度の情報通にはなって来る。
良く話をする妖怪。噂好きで、金で情報を売り買いしているような妖怪。そして、配下の鼠達。彼らは様々な情報を、ナズーリンに教えてくれる。
きな臭い空気が、旧都の全体を薄く包み込んでいる。謎の失踪事件。このところ常に飛び込んでくるこの情報は、嫌が応にもナズーリンの心をざわつかせた。
捜査は依然難航していた。
捜査初期の頃、六人目が居なくなった辺りで鬼と協力関係にある覚り妖怪へと協力を要請した。こうなれば、虱潰しに心をあらって探し出してやろう、との心積もりだ。
結果は、無残なものだった。誰も、平素の通りの思考しかしていない。それどころか、そうやって見回っている中でも犯行は行われ続けた。これはきっと、私の能力では見つけられませんね。そう言って、覚り妖怪は帰っていった。
覚り妖怪は、心を読む。とは言っても、言葉や思考をそのまま読むのではない。感情と感覚を直に感じ取り、それを人の言葉に翻訳する。だから動物などとも話が出来る反面、本当に細かい所や本人でも気付いていない様な事になると読み取る事は出来なくなる。
どんな行動を取ったとしても心に何の波も立たない者。そう言った者に対して、覚り妖怪は無力だった。
取締りを強化した。鬼を総動員して、旧都のほぼ全てを巡回させた。それでも、止まらなかった。被害者は、十五人に上っていた。全ての住民に、家から出ないようにと通達をしても、やはり一人消えていた。無駄な事だと思い、すぐにそれは解除された。
聞き込みもした。被害者の遺族に、何か変わった事は無かったかと尋ねた。特に無い。被害者自身の共通点も、てんでバラバラだった。
そもそも、鬼にこう言った「騙し」の事件は不得手であった。生来が卑怯を嫌い、正道を貫こうとする鬼には、騙しの術は理解できない。何か汚れ仕事に精通する、参謀が必要であった。
「しかし、居ないんだ……」
勇儀が、誰も居ない部屋で一人呟く。
居ないのである。地底は、かつてその存在を忌み嫌われた者が集う所。鬼がその存在を許せるほど信頼が出来て、また知略にも長けている者などは夢のまた夢なのだ。下手な妖怪が参謀に付いた場合、その性格を疎まれて鬼に打ち殺される。
もう、このまま見ている事しか出来ないのか。無力感に苛まれる中、部下の鬼が部屋に入ってくる。三十人目の失踪が、報告された。
そして、この奇妙な犯行は、それを境にピタリと止んだ。
驚いたのは勇儀である。これまで八方手を尽くしても解決を見せなかった事件が、あっけ無く姿を消してしまったのだ。詰め所内でも困惑の声が上がる。
一応見回りは続けさせた。今まで何の効果も見られなかったものだが、無いよりはマシだ。当然のように、全く進展は無かったのだが。
最後の失踪があってから百二十単位時間程。人間の感覚で言えば三日程度だろうか。その辺りになって、捜査は打ち切られた。あの事件は、解決をしたのだと言う事になった。鬼は、ただ振り回されていただけだ。
勇儀は決してこの結末をよしとしなかった。だが、部下達にこれ以上無理をさせるのもどうかと思う。幾ら頑強な鬼の身体と言えども休まず動けばガタつきは出てくる。既に三人ほどが過労で倒れかけていた。
何か事件が起きたら呼ぶようにと言って、勇儀は単身町へと出て行った。鬼の名にかけて、自分だけでも捜査は続けるつもりだった。義憤、と言う訳ではない。ただの意地。そもそもがこんな掃き溜めに居る妖怪など、無垢な者を襲い謀って生きてきた様な奴らなのだ。そいつらのために憤ってやる謂れなど、勇儀には無い。
だが、それでも。そうだとしても。彼らが何の意味もなく、無残に殺されて行くのを許す事は出来なかった。
外套を羽織り外へ出て行く。なんだか、やけに寒いな、と思った。見上げると、冷たい物が顔に当たった。旧都に、雪がちらついていた。
~2~
「いや全く、私としても何でこんな物買ったんだか分からないよ。こんな妙な大きさのもの、どうしろって言うんだ」
「はは、だから安く売られてたんじゃないの? ナズーちゃんもまだまだ甘いなあ」
地底の端の端。旧都から遠く離れた場所に位置する縦穴。昔ここは地上と地底とを結ぶ通路だったらしいが、地上への出口が封印された今では使う者も無く、逸れ妖怪の溜まり場になっている。
例えば、今ナズーリンと話している妖怪蜘蛛のヤマメなども、その一人であった。彼女はこの辺りに巣をつくり、毎日歌ったり踊ったりと気ままに暮らしている。旧都で仕事をしないような遊び人は、大体ここへ集まる。
「返す言葉も無いよ。……ヤマメ、これ、買う?」
手に持ったのぼりを見て、ナズーリンが尋ねる。最初は家に置いておこうと思ったのだが、大きすぎてボロ長屋に入ってくれなかった。仕方が無いので家の前に出しておいたら、今度は近隣住民から邪魔だと苦情を言われてしまい撤去。捨て場所を探して今に至る。
なんとも困ったのぼりだった。結局、旧都では狭すぎて使えないのである。こう言った辺鄙な場所でこそ価値があるのだが、この辺りに店などは無い。
「いやあ、私も要らないな。加工して武器にでもしちゃえば? ナズーリン竹やりって感じで」
「武器を常備してる何でも屋ってなんだい。それ傭兵じゃないのか」
ナズーリンはほとほと困り果てていた。一応、それなりに真剣に悩んでいるのだ。しかしこの友人は一向に良い案を出さない。それどころか、未だ所在無さ気に立てかけられているのぼりを見て笑うのだ。
ええい腹立たしい。そう思いつつも、半ば自業自得。いっそ本当に竹やりにしてしまおうかと言う気もしてくる。
ふいに、ヤマメが顔を上げた。ナズーリンも、それにつられて視線の先を追う。誰かこっちに歩いて来るのが見える。堂々とした歩き方が、その妖怪の性格を物語っている。
「あれ、勇儀さんだ」
「勇儀、と言うと、あの星熊の?」
彼女の名なら、ナズーリンも聞いた事がある。確か旧都に二人居る管理者の一人。旧都の治安維持を一手に任されている妖怪だ。間近に見た事は無かったが、それでも仕事の中で何度もその名は耳にした。
こんな場所に、それも一人で何の用事だろう。勇儀は、真っ直ぐこちらへと向かってくる。そして、二人の前まで来て、止まった。
「ヤマメ、少し聞きたい事があるんだが」
開口一番。そしてちらと、横に居るナズーリンを見る。
こんな大物がこんな場所に来るとは、流石にナズーリンも予測していなかった。しかしヤマメもまた顔が広い。性格が人懐っこいので、誰とでもすぐに打ち解けてしまう。
もしかしたら、何か仕事上の繋がりがあるのかも知れなかった。ヤマメの交友網から、何か情報でも貰えないかという、そんな。
「おや、私はお邪魔かな?」
「いや、邪魔って程じゃあ無いんだが、悪いね。あまり部外者には聞かせたくない話なんだ」
それじゃあ仕方が無いねと、ナズーリンが腰を上げる。ごめんよナズーちゃんと、ヤマメ。去って行くナズーリンを見届けた後、勇儀が姿勢を正した。
勇儀とヤマメ。この一見関係が無さそうな二人の間には、実はそれなりに深い親交がある。昔、旧都が鬼の物であった頃、まだ地底と地上は繋がっていた。勿論、入り口は簡単には見付からない所に有ったし、そも自分から好き好んで地の底へと行くような物好きな輩は居なかったのであるが、それでも繋がっていた。
その時分に、ちょくちょく旧都へと遊びに来ては鬼と酒を飲み交わしていた変り種。それが彼女、黒谷ヤマメである。鬼に寄って来る妖怪は、本当に珍しかった。本来鬼とは畏れ敬われる存在なのである。ヤマメは、すぐに打ち解けられた。前述の性格の事もあるが、ヤマメ自身もまた、相当には強力な妖怪だったのだ。勇儀とも、何度か杯を交わしていた。だが、本当に親交を深めるのは、もっと後の事になる。
「ヤマメ、ここいらに居る連中で、怪しい様な奴ってのはいないかい」
そのまま、切り出す。尤も、地底に居る者で怪しくない者などは殆どいない。これは、勇儀個人がヤマメに協力を依頼する際の、言わば常套句のようなものだった。
「またその話かあ。まあ、良いんだけどね。私もあの事件の事は気になっていたし」
そう言ってヤマメが身支度を始める。これまでにも何度か、このようにして勇儀の依頼を受けたことはあった。個人的な、地底の管理組織としてではない依頼。
この依頼をヤマメが引き受けた後、二人は地底の闇へと消えていく。そして暫くの間、誰の所からも姿を消す。次に現われる時は、決まって旧都の隅にある酒屋で、そこで二人して静かに杯を傾けるのだ。
詰る所、二人が行っているのは私刑だった。公明正大を重んじる鬼には出来ない事、させられない事が出来た時、勇儀はヤマメの下に来る。そして、秘密裏に対象を殺した後その身体を下級妖怪のエサにし、文字通り消してしまう。
ヤマメは、その仕事に付いて何も思っていなかった。もとより騙し討ちや不意打ちで生活をして来たような身である。では、勇儀は。
「助かるよヤマメ」
「勇儀さんも、無理しないでよ。あんた頼られてるんだから」
「はは、気をつけるよ」
ヤマメのこう言った気遣いが、勇儀には嬉しかった。昔、初めてこうやって二人で組んだ時、頼んでなど居ないのにヤマメはふらりとやって来て、そのまま後ろを付いてきた。
ヤマメは、大いに役に立った。網を張り、忍び寄り、絡め取る。すぐに、相手は捕まった。そして去り際に、次からは自分を頼るようにと言い残して、ヤマメは巣へと帰って行った。それ以来、この二人はお互いを相棒のように認識している。その事を知る者はごく僅かしかいない。
「あれ、ところでヤマメ、またってどう言う事だい。今またその話かって言ったように聞こえたけど」
先程は気にも留めなかったが、思い返してみると少し引っかかる。あの事件、現場は全て旧都に集中していた。旧都から遠いこの場所で、そう何度も聞く様な話では無いのだ。
「え、ああ、それね」
準備を終えたヤマメが背伸びをする。
「さっき居たでしょ、鼠の子が。彼女にもあの事件の事聞かれたんだよ。何か近くに怪しい様な奴は居なかったのか、ってね」
~3~
ボロ長屋の一辺に、奇妙なのぼりが立っている場所があったので、すぐに分かった。表札に、「何でも屋ナズーリン」と書いてある。古い物なのだろうか、少し黒ずんでいた。
「それで、私の所に来たと。言っておくが、私は何もやってないよ」
「確かに疑っていないと言えば嘘になる。ただ、今の所は理由を聞きに来ただけだ。何故嗅ぎ回っていたのか、話してもらうぞ」
狭い一室に、勇儀と、ヤマメと、ナズーリンの三人。勇儀が、少し強い口調で詰問する。
勇儀は、ナズーリンの事を良く知らない。何度か名前を聞いた事はある。凄腕の探し物屋が居ると、部下達が話しているのを耳にした。だが、それだけだ。
本来、有り得ない事だった。この高い立場にある勇儀が、その存在を把握できない。名前だけは良く聞くが、そこから人物像が見えてこない。曖昧が曖昧のままで終わってしまう。その上、彼女の家は留守である事も多いと言う。
まずそれが解せなかった。
「別に、大した理由じゃあない。私も何でも屋だからね、危険には敏感なのさ」
しれっとした表情でナズーリンがそう答える。確かにそれも、一つの事実ではあった。いくら失せ物探しが主とはいえ、何でも屋の看板を掲げている以上いつ荒事が転がり込んでくるかは分からない。
しかし勇儀は引き下がらない。胸に残る違和感。それが、この言葉を嘘だと見抜いていた。いや、嘘ではないにしても、この理由だけではないのは確かなように思えた。
「今更か。もう町はあの事件を終わった物として認識している、何を危険に感じる事がある? ……良いか、嘘をつくのはやめろ。特に、私の前では」
「ナズーちゃん、正直に話した方がいいよ。勇儀さん、嘘が大っ嫌いだから」
ヤマメが嗜める。だが一向にこの鼠は折れる気配が無い。それどころか、ますます不敵な表情は強まっていく。
牙をむいて脅してみても、いまいち効果のほどが分からない。確かに本気ではない。推定無罪であるという感覚も、どこかにはある。それでも対応を誤ればそのまま首をねじ切られると錯覚させられるだけの威容はある筈だった。
半端物の妖怪ならば一睨みで歯の根も合わなくなる。それが鬼の目であり、声なのだ。
「正直に、ねえ。とは言っても、後は純粋に興味が湧いたからとしか言いようが無いな。もう一つ理由はあるが、黙秘させていただく」
「黙秘だと?」
「そう、黙秘。別に全て話さなければならない義理も無いだろう。見た所、あんたは公務でここに来ている訳でもないみたいだし」
ただ、と付け加え。
「私に捜査資料を見せてくれるなら、手伝ってやらん事もないよ」
足下を見ていやがる。相手の口元の歪んでいる事が見え、カッと、顔が熱くなるのを感じた。
その言葉が終わるか終わらないかの内に、勇儀は足音を強く響かせ部屋を出て行ってしまった。ヤマメが、慌ててその後を追いかける。
危なかったと思った。もし、あと少しあの場に留まっていたらきっとあの鼠を八つ裂きにしていた。握った拳に、間接が軋む。管理者が、正当な理由もなしに制裁を加える事は許されない。それをこの上なく理解した上で、あの態度を取っているのだ。
一人残されたナズーリンは大きく息を吐き、身の無事に感謝した。
もしも地上で出会っていたら、きっと殺されていただろうな。そう思った途端、背筋にゾクリとしたものが走った。座ったままだと言うのに脚が震えている。
「はは、は、やっぱり、私は臆病なんだ、な」
一人そうやって、脚を叩く。二、三度叩いた所で、ようやく震えが収まってきてくれた。きっとあの鬼は自分などより余程修羅場を潜り抜けており、力も強くて、私のような小さい鼠はそれこそ赤子の手を捻る様に潰す事が出来てしまうのだろう。
やめだ、やめだと思った。どうせ自分が力で勝てる妖怪など、殆ど居はしないのだ。そんな者達を相手に、自分は知恵で勝負してきた。だから、良いのだ。結局自分にはそれしか無いのだから。
ただあの鬼には感謝していた。つい、いつもの癖で口が出てしまう。あれほど挑発するつもりは無かった。自身を律する相手でなければ、確実に死んでいただろう。そう思うと、また少し震えが走る。
頬を叩いて気を取り直す。まずは、やるべき事をやるべきだ。
ナズーリンには今直属の部下としての鼠が三匹居る。セシリア、ロビンソン、そして、日本に来てから新しく入った権蔵さん。他にも鼠は居たが、それらは地上に残してきている。今、この三匹の内権蔵さんだけを残し二匹が外へと散っていった。
「よし、じゃあ私は少し出てくるから、権蔵さん、君はここに残って、帰って来た者と交代で私の所へ伝えに来てくれ」
行き先は一輪と水蜜の家。お気に入りの肩掛けを羽織り、背負い鞄も無しにボロ長屋を後にする。両手には愛用のダウジングロッド。その口元には震えの代わりにまた、不敵な笑みが浮かんでいた。
鬼は力が強い。だからどうした。どうせそこらを歩いている様な妖怪にだって、襲われれば自分は死ぬのだ。何も恐れる事は無い。手を出させなければ良いのだから。そしてそれこそが、自分の本分であるのだから!
足取りは軽く雪の降る道をひた歩く。面白い事になりそうだと思った。いや、面白い事にこれからするのだ。連れてきた部下の三匹を総動員するなど、今までにありはしなかったのだから。
「あんた、その格好どうしたの。随分気合入っちゃって」
「何、ちょっとした野暮用さ。上手く行けば面白い収益が見込める。期待しないで待ってると良いよ」
「うん、ん? 分かった。期待しないで待ってる」
出迎えた一輪をすらと避け、家の中へと上がり込む。そしてそのまま、お茶を用意してくれたまえと言って、居間へ行ってしまった。
「一輪、水蜜、少しの間私をここへ泊めてくれないか? そうだな、百二十単位時間程で良い。地上で言うなら三日か? それくらいで」
「良いけど、何でよ。あんた家あるでしょうが」
「ちょっとあの家だと狭くてね。ふふ、聞いて驚け、ここを捜査本部にしようかと思うんだ」
「……水蜜、まーた何か変な事しだしたよこの子」
一輪が溜め息をつく。水蜜は話を続けるように促してくる。面白そうなら良しとの考えのようだ。一つ、コホンと咳払いをした後、ナズーリンが説明を始める。
「ついこの間、恐ろしい事件があっただろう。妖怪が、無差別に失踪していくやつ」
「ああ、確かにあったわね。八百屋さんも知り合いがやられたとか、かと思ったらただのぎっくり腰だったとか、色々言ってたけど」
ちなみに、その八百屋さんは今までも勘違いを起こしては騒ぎ立てた事が度々あったので、とくに相手にはされていなかった。
「そんな、あのおっさんの話はどうだって良いよ。どうせいつもの勘違いだろう。んで、その事件はある時を境にピタリと止んでしまった。そうだね、水蜜」
「え、ここで私に話を振るの。まあ、そうね。話は聞かなくなった」
前置きはいいから、さっさと本題に入りなさいよと一輪。
「うむ、仕方ないな。それで、私はおかしいと思ったんだよ。鬼の連中からの発表もないし、本当にぱったり、話題だけが消えてしまった。私は考えた、これはまだ解決してないんじゃないかなって。それで、旧都から少し離れた所に住む友人に尋ねてみた。あの事件、もしかしてまだ終わってないんじゃないのか。彼女は顔が広いからね、何かしらは情報を持ってると思ったのさ。そして――」
「そして?」
二人が続きを催促する。一口、お茶を啜ってナズーリン。
「直後、星熊勇儀と一悶着あったのさ、あの事件のことでね。勇儀だぞ、あの、鬼の頭の。これ、絶対解決してないんだ。それをもしも横から解決してしまったらどうする、私が、解決してしまったら。でかい貸しが一つ作れるぞ!」
一息に語り終えたナズーリンの眼は爛々と輝いている。一輪と水蜜は顔を合わせ唸っている。熱が入ったナズーリンが、なおも続ける。
「だからこそ、私達はこの事件に全力で当たるべきなのだ。貸し、貸しだぞ。上手く行けば、船の封印だって解いて貰えるかもしれない。いや、そうでなくても、こうやって信頼を稼いでいけば色々と捗る事は間違いない。既に、手の者は町へと放ってある。鬼どもは単細胞だからな、奴らに解けない事も私になら解けるんだ。そして、そしてあわよくば、私の店を。奴ら探し物屋だと思ってるんじゃないか私の店を、失せ物探し以外の依頼が来る有名事務所へと変貌させるんだ!」
最後の方は、モロに自分の願望が入り込んでいた。流石に、いくらそれなりに名は売れたとは言え一介の何でも屋風情に重い案件を持ち込む者は居ない。そもそも、最初の売り出し方が不味かった。「小さな探し物から大きな悩み事まで」そして小さな探し物の依頼が来た。成功した。そして口コミで広まってしまったのだ、「あの妖怪は探し物が抜群に上手い」と。
不服であった。ナズーリンは自らを知性派だと思っているし、それこそ、自他共に認める賢将であると自認しているのだ。それが、失せ物探し。冗談ではなかった。当初はまだ地底なのだし仕方が無い、ここでだけの仮の姿だ、などと思って居たりもしたのだが、最近では地上の方でも主人からやれ「ナズーリン、私の印鑑は何処でしょう」だの「ナズーリン、買っておいた筈の干物がありません」だの言われる始末。
挙句の果てには宝塔自体を何処かにやってしまいかけた。これには流石のナズーリンも激怒した。使ったらしまう事を徹底させた。そしてその頃からである、ますます主人から失せ物探しを頼られるようになったのは。
だからこそのこの熱の入りようなのであり、だからこそあのおっかない鬼に向かって一芝居打ったりなど出来た。陰で「失せ物屋ナズーリン」などと呼ばれているのだ。何でも屋を自称しては居るが、結局出来るのは失せ物探しだけなのよな、と言う意味だ。なお、そう呼んだ輩には権蔵さんの手により制裁が加えられる。主に、寝ている間に身体の一部を齧り取られたりする。お陰で、近頃はその様な不埒物も随分と少なくなったのだが。
「へえ、それで、私達は何をすれば良いのよ。今までの話だと精々家を貸す位しか出番無いみたいだったけど」
水蜜が尋ねる。ナズーリンがそこまで張り切っているのならば協力しても良かった。聞いた限りでも、別段悪い策とも思えない。が、自分達が蚊帳の外に置かれるのは我慢ならない。
「ああ、君たちは、捕り物の時に活躍してもらうよ。私は非力だからね。それまでは、匿ってくれてるだけで良いよ。あ、でも私がここに居るのは気取られないようにしてくれ。多分その方が色々と捗るから」
「捗る?」
「うん、こう言う時、私みたいなのは姿を隠すものなんだ。そうして二重三重にも罠をかける事にこそ浪漫があるのだよ」
「でも、そんな罠ってそう上手く嵌るものなの? どうせ殆ど無駄になるんじゃないの?」
「分かってないなあ、その無駄が浪漫なんじゃないか」
勇儀とヤマメは、もう一度資料を洗い直していた。被害者に共通点は無いのか。何故容疑者の候補が居ないのか。何処か、見落とした手がかりは無いものか。
一番最初に消えたのは、水橋パルスィと言う妖怪らしかった。地底に送られて来た際の名簿には橋姫と言う名前で載っている。
「パルスィ、ねえ」
「なんだヤマメ、心当たりがあるのか」
どうもこのパルスィと言う妖怪、個人情報が殆ど無い。この場合の個人情報とは、その妖怪と付き合いのあった者達からの証言で得られる情報の事を指すのだが、それが誰からも得られなかった。
他の被害者の情報は遺族や関わりのあった者から手に入れる事が出来た。しかし、その中で水橋パルスィの欄だけは名前以外白紙となっている。
「この娘、何度か見かけた事あるんだけど、いっつも暗い目をしては妬ましい妬ましいって呟いててさ。ありゃあ根暗って言うんだろうなあ、友達も居ない感じだった。そのまま死んでいったのなら、何だか可哀想だな、って思ってね」
確かに、哀れではある。一人目の失踪者が彼女だと分かったのも、五人目が消え去り情報の整理をしていた所で「あの金髪の娘を最近見ない」と誰かが言ったからである。それが無ければきっと彼女は被害者のリストには入らなかった事だろう。
「全く持って、悲しいものだな」
呟き、また資料へと目を落とす。
被害者は、合わせて三十人。老若男女が入り乱れ、その素性も能力も様々。少なくとも、世を儚んで一人姿を消すような、そう言ったタマは一人も居ない。
それを、梁の上からその姿を見ている鼠が一匹。セシリアである。彼女に与えられた命令は二つ。一つは鬼の捜査状況を見てくる事。もう一つは、最初の失踪者、そして最後の失踪者を見てくる事、であった。
最初の失踪者は前述の通り水橋パルスィ。では最後の失踪者は。
「こいつが三十人目か。名前は、吉田郷? なんだこれ、よしだごうって読むのか。まあ良い、普通に考えれば、こいつが死んだ事によって犯人は目的を達成する事が出来た、とするべきなんだろうけど」
吉田郷。狸の妖怪。職には就いておらず、もっぱら賭博場を渡って暮らしている。嫁あり。俗に言うヒモ。粗暴で、人に好かれやすい性格ではない。過去三度の八百長疑惑。一つ前に失踪した妖怪との関係性は不明。
勇儀が腕を組んで唸る。ヤマメは捜査資料を見比べ続けている。もってこの妖怪に、何かしら特別な点があるとは思えなかった。
二人の手が止まる。セシリアは、じっと資料を見つめた後、音を立てずにその場を後にした。
ナズーリンのもとに、権蔵さんが伝令を届けて来る。今はセシリアがお留守番。ロビンソンは未だ、別行動中だ。
いくら妖怪化しているとは言え、元が鼠なので体力はあまり無い。連続して活動をさせるとそれこそ半日と持ちはしないのだ。
だから、ナズーリンは二匹以上鼠を動かす時、必ず何処かに拠点を定めて交代制を取る。こうする事により活動時間を大幅に伸ばす事が出来るのだ。
「ふんふんなるほど、随分と情報にばらつきがあるんだな。特にこのパルスィとか言うの、有り得んほど情報が無い。権蔵さん、ちょっとこいつの住処跡を調べてきてくれないか」
手にはワイン、そして皿に秘蔵のチーズ。安楽椅子に揺られながら、部下の鼠に指示を出す。和風建築に不釣合いなこの椅子も、その昔市場で、これまた安く売られていたのを買ったものだった。
至高の一時、感無量である。いつかこう言う日が来る事を夢見て安楽椅子を買ったは良い物の、あのボロ長屋に置いておくにはあまりにも邪魔すぎる代物。結局一輪と水蜜に預かってもらい、そのまま倉庫で埃を被っていた。そんなこの椅子がようやっと役に立つだなんて。
ワインとチーズは、長屋を出る時に持ち出してきたものだった。懐に隠しておいたのは、流石にワインボトル片手に町中を歩くのは気が引けたからである。なんだか浮かれてる人みたいになるのは、ナズーリンとしても本意ではなかった。実際、浮かれてはいたのだが。
「おーい、一輪、ご飯はまだかい? 私はもうお腹がぺこぺこだよ」
「あんたチーズ食べてるじゃないの」
「これは、雰囲気を楽しむためのものであって、食事とは違うのだよ」
そして、優雅にグラスを傾け、ワインを一口。何を言ってるんだこいつは、と一輪が呆れ顔で見つめてくる。と言うか、居候の癖に態度が大きすぎる。
「こら、ナズーリン。訳の分からん事言って一輪を困らせないでよ」
洗濯物を干していた水蜜が戻ってきた。だってこう言うの夢だったんだもん、などとのたまうナズーリンにデコピン一撃。
「そんなの良いから、何か進展はあったの。あんたさっきからずっとそうやって座ってるだけじゃない」
「そんなのって……。まあいい、進展はまだ無いよ。もうすぐもう一匹鼠が戻って来る頃なんだ。その辺りで少し進展するんじゃないかな」
「何その曖昧なの」
「安楽椅子探偵とは、得てしてそう言う物さ」
そしてチーズを一齧り。君もいるかいと、水蜜に皿を差し出したが断られた。連れないものである。
しかしまた、結局の所ナズーリンはこの場所を動く事はできなかった。外に出ておおっぴらに捜査を行えば鬼に何と言われるか分かった物ではなかったし、もしや犯人に命を狙われるとも限らない。
それに、あのネズミ達は優秀なのであった。何かを取って来いと言えば大体は取ってくる。何か記憶して来いと言えば、二、三個程度なら問題なく記憶して来る。それで十分なのだ。もとより荒事をする訳でもない。それに、どこにでも居る動物のためまず怪しまれない。
ナズーリンはただ待っていた。優雅に、ゆったりと、この状況を楽しみながら。心配などはしていなかった。少し、成功の暁には自分の活躍を主人に自慢でもしてやろうかな、などとは考えていた。
ちゅーちゅー。鼠の鳴き声が聞こえる。水蜜が声のする方を見ると、小さな身体がそこを通り過ぎていった。そしてそのままナズーリンの下へと走って行き、膝の上へひょいと跳ね上がる。
「おお、セシリア。ふんふん。はー、なるほど」
水蜜が訝しげに覗いて来る。無理も無い。傍目には、鼠相手にナズーリンが妙な独り言を喋っている風にしか見えないのだ。きっとそれは、鼠同士にだけ分かる何か特殊な言語のようなものなのだろう。
暫くそうやっていると、セシリアと呼ばれた鼠がまたちゅうと一鳴きして何処かへと走り去っていった。満足そうに、ナズーリンが振り向く。
「ふふ、喜べ水蜜。これでロビンソンが戻ってくれば、大まかな真相が分かるかも知れないぞ」
~4~
「よーし、それでは諸君、私の可愛い部下たちが集めてきた情報を纏めるぞ」
「あんた本当に椅子に座ってるだけだったわね……」
一輪と水蜜の二人を集め、ダウジングロッドで即席の黒板を叩く。ちなみに、チョークは無いため黒板は雰囲気のためだけの物である。
「えー、まずはロビンソンからの報告。私が使っていた地上への抜け穴は、まだ他の誰にも見付かっていない」
「つまり、外部犯の可能性は消えたと」
セシリアが勇儀達のもとへ偵察に行き、権蔵がローテーションのための留守番をしている間、最後の一匹ロビンソンは抜け穴の確認に行っていた。
元々入念に隠してあった穴なので心配はさほどしていなかったが、それでもあの穴が使われていたとなると厄介である。精査の結果、誰かが通った痕跡は見付からなかった。匂いも、草や壁の形も、全て。
つまり、犯人は地底内部にいる。……と、考える事にする。
ナズーリンの知らない抜け穴が無いと決まった訳でもない。だが、一応そう言うものだと仮定しておく。
「次、権蔵からの報告。水橋パルスィの家から手がかりになりそうな物は出てこなかった。」
「手がかりになりそうな物は? それ以外の物は残ってたって事かしら」
「うん、生活用品の類はそのまま残っていた。でもそれだけだ。趣味嗜好の分かるようなものは全く出なかったね。これは情報も少ないはずだよ」
水橋パルスィの家には、嗜好品が存在していなかった。彼女は、何時の間にか消えていた。誰も、彼女が居ない事に気付きはしなかった。
「最後、二回目に放ったセシリアからの報告。勇儀とヤマメは未だ手がかりを見つけられず資料相手に唸っている」
「はい? それが何か意味あるの?」
「大アリだよ。彼女達は散々聞き込みをして、一時期は鬼の力を総動員して事に当たっていた。それで何の進展も無かったんだ、つまり」
ナズーリンが、ロッドをぱしんと叩く。
「あの資料に書かれている事柄の大半は、さして重要じゃない。本当に重要なのは、それに書かれなかった事だ」
「さとりさんに見付けられなかったってのが引っかかるんだよなあ」
資料と睨みあいを続けながら、ヤマメが呟く。既に資料室にこもって随分な時間が経過していた。
「と言うと?」
「だって読心が出来ないって事は相手側がどうにかしてその原因を作ったって事でしょ? それほどの実力者だったらすぐに見付かるんじゃないかと思って」
確かにその通りだった。しかしそんな妖怪は居ない。覚りの能力は覚り自身が覗き込むのではなく、相手が発する心の形を読み取っているだけに過ぎないのだ。自分の心をも騙すような術が使える妖怪はこの地底に居ない。
ただ一つ、自身の心を明鏡止水の境地にまで達すれば覚りの能力を無効化する事は出来るが、ここはあぶれ者の聖地。その様な殊勝な心構えの者など居るはずも無かった。
「じゃあなにか、お前は、さとりの奴が怪しいと見てるのか?」
「いや、それも違うと思う。だって、さとりさんが捜査に加わってた最中も被害は出てたんでしょ?」
「それだって、あそこにはさとりの言う事なら何でも聞くペットが居るじゃないか」
「うーん、そうなんだけども」
覚り妖怪は、鬼と並ぶ地底の管理者である。その覚り妖怪が、この様な重大事件を起こす。考えたくない事だった。一歩間違えれば、いや、それが明るみに出ただけでも、この地底世界の崩壊を招きかねない。
もしそうだとすれば、勇儀は覚り妖怪を捕らえなければならないのだろうか。きっと勇儀はそうするだろう。鬼の矜持にかけて。
「やっぱり怪しすぎるんだよ」
少し考えた後、ヤマメが続けた。
「うん、だってさ、幾ら勇儀さんでもここまであからさまに容疑が出たら流石に調べるでしょ」
「まあ、ね」
「それで結果はどうだったの」
「クロとは言えないシロ、って所だな。さっきも言ったようにペット達の協力があれば不可能じゃない」
「そこだよ、もし本当に管理者の立場を利用して犯行をしたとするなら、もっと上手くやる筈なんだ。こんな、すぐに言い逃れ出来なくなるようなお粗末を彼女がする訳が無い」
じゃあ、誰だと思うんだいと、勇儀が問いかける。
「犯人はきっと何をしたとして何を感じる事も無い。狂人だよ。犯人は狂ってる、間違いないね」
「そのこころは」
「女の勘」
そう言って、ヤマメが資料を片付け始める。こうなるとこの資料だけでは少々心許ない。もう一度、外に出て情報を集める必要があると思った。
~5~
地底の街は今、冬を迎えている。吐く息は白く、上の、見れば覆い被さる様に広がる土の壁の、その何処からとも無く雪が舞い降ちてきている。
地の下に季節があり、その上雪まで降るなどと思うかもしれないが、これも、旧都の前管理者が残していった物だった。だから旧都には、地上と同じ周期で季節が巡ってくる。これが街中央の時計塔だけでは表せない、年の概念を地底に与えているのだった。
「それで、ヤマメよ。何処へ向かうんだい」
「あまり決めてない。ただ、街の中を歩き回るのも何かしらの手がかりになるかと思って」
「まあ、私はヤマメに従うよ。もとよりこっちは手詰まりなんだ」
歩く、歩く。寒さのためか通りに出ている者は少なく、足元には薄く雪が積もりはじめている。家の中からは談笑が聞こえてくる。裏路地の酒場などは賭け事に興じる者達で賑わっている。
平和なものだった。この中に未だ犯人は潜伏を続け、もしかしたら次の獲物まで狙っているのかも知れない。考えたくは無かった。
ふと、そう言えば捜査を始めてから何も口にしていない事に気付いた。腹の虫が、空気以外の物も寄越せと急かしてくる。
「勇儀さん、そのぉ」
「ああ、そうだね。腹も減った事だし少し休憩としようか」
近くの食事処を探し、中へと入る。表の看板に、お品書きが書かれてあった。発酵食品の店のようだ。
確かに地底はそう言った物も盛んだが、それのみを専門にしている店も珍しい、そんな事を考えながら、暖簾をくぐった。
「あ」
先に店に入ったヤマメが、素っ頓狂な声を上げた。
「あ?」
勇儀が、つられて辺りを見回す。
「あっ」
そしてまた、何事かと振り向いた客の一人が、驚きの声を。
入り口のすぐ横の席。見覚えのある、特徴的な丸耳に小さな体躯。先程一悶着を起こしたばかりの問題児、ナズーリンがそこに座って居た。
「……何で向かいに座るんだい」
「ま、ま、ナズーちゃん、ここはどうか私に免じて」
机の上には皿が三つ。先程から居たナズーリンの物と、同じものをと運ばれてきた二人の物。ちいず、とやらの詰め合わせだった。
そもそも一輪と水蜜の家に潜んでいるはずだったナズーリンが何故こんな場所で一人飯を食べているのか。端的に言ってしまえば、ワインとチーズが切れたからである。
常にワイン片手に椅子に揺られていた所、予想外に早く持ってきた分が無くなってしまった。流石に一輪や水蜜に買いに行ってもらうのも気が引ける。しかし、酒もつまみも無しに椅子に揺られているのは退屈にも程がある。
そして、水蜜にこの店の存在を教えてもらい、今に至るのである。どうせ食って飲んでるだけなんだから、何処でだって変わらないでしょ。本当は安楽椅子にこそ価値があったのだが、食欲には勝てなかった。どうせ、外に居たって鬼とは鉢合わせないだろうとタカをくくって居た。
「先刻ぶりかな、お前と会うのは」
「そうなるね。で、私に何か用かい。見ての通り、私は食事を楽しむのに忙しいんだがね。出来れば邪魔をしないで貰いたいものだが」
実の所、特に用事がある訳でも、疑いがかかっている訳でもなかった。ただ、お互いに気付いてしまったのにそのまま素通りする事に些かの気まずさを感じただけで。
「ナズーちゃんとご飯食べたいなあってだけじゃ駄目?」
「うーん、ヤマメがそう言うなら仕方ないかなあ」
しかし、そんな勇儀の心配とは裏腹に、いとも簡単に合席の承諾は得られた。
「おいちょっと待て、何でお前達そんなに仲良いんだ」
ともすれば「ねーっ」などと言い出しそうな女の子じみた雰囲気に、勇儀がたまらず突っ込みを入れる。確かにヤマメは友人が多かったが、この鼠とここまで仲が良いとは聞いてない。
「いや、何でって言われても」
とはナズーリン。それにヤマメが助け舟を出す。
「ナズーちゃんは暇な時とか結構遊びに来るからね。頭良いから話も面白いし、私ナズーちゃんの事好きだよ」
「ははは、よしてくれよヤマメ、照れるじゃないか」
笑いあう二人。そして頭を抱える勇儀。それなら、あのボロ長屋に何も自ら出向く必要は無かったのだ。ヤマメに頼んで、それとなく聞き出して貰えば良かった。
なぜ言ってくれなかったのかとも思ったが、言う間もなく足早に乗り込んで行ったのもまた自分である。
「はは、は、ところで、勇儀さん。捜査の方は進んだのかい?」
この和気藹々とした空気を半ば無視し、先に口火を切ったのはナズーリンだった。ヤマメが目を丸くする。
「え、ちょっと、ナズーちゃん」
「わざわざ私の居る席へ来たんだ、何か用事があるんだろう? 腹の探り合いは得意だが、あまり好きじゃなくてね。そちらの鬼さんも、その方が楽だろう」
どうもこの鼠、貧弱そうな身体に似合わず随分と好戦的なようだ。口の端を吊り上げて相手の反応をうかがっている。
確かに、面倒な腹の探り合いをしなくて済むのは良い。鬼は、やはり生来その類の事を苦手とする。ただ、少し癪だと思う気持ちもまたあった。お膳立てをして貰っているような、そんな感覚。
もしかすれば、この申し出も腹の探りあいの一環なのかもしれないな、とも思った。が、良くは分からない。どちらにせよ、今は乗っておいてやろうと思った。下手な策を打ってくるのなら、その策ごと打ち砕いてしまえば良い。
それで、どうなんだ。ナズーリンがせっつく。ヤマメは釈然としない様子でふてくされている。勇儀が、ナズーリンに待ったをかけた。
「確かに、行き詰ってはいる。それは認めよう。だがね、情報交換と行きたいのならそっちが先に情報を出しな。それが筋ってもんだろう」
「だろうね。今までどうにもならなかった捜査が、そんなすぐに進展する筈も無い」
にやにやと薄笑いを浮かべながら、ナズーリンが答える。これも、何か心理的な揺さぶりの一種なのだろうか。思ったが、すぐに打ち消した。
一度そうだと思ってしまうと、何もかもがそうだと思えてくる。それは、決して好ましくない事だった。だから勇儀は自分を信じる。自分の直感。事態が好転するのならばそれで良いと、その範囲までなら許容をすると、そう心に決めるのだ。
「そう言うそっちはどうなんだ、何か掴んだのか。言っておくが、つまらない事を言う様ならこのまま出て行くからな。もう二度と交渉もしない」
だから、全く軸をブレさせる事なく、勇儀はナズーリンに応対できる。殆ど恫喝に近かった。声を荒げこそしなかった物の、その両目は明らかに敵意を持って、対象を睨みつけている。
しかし、ナズーリンは怯む様子も見せず、ひょいと皿のチーズを口に入れる。そして、あくまで余裕の表情を崩さずに言葉を返した。
「ふふ、私は情報交換をしようなんて言ってはいないよ。ただ、一つ取引がしたい。私がもしこの事件の解決に一役かった場合、その度合いに応じて私の頼みを聞いてくれると」
「もしかしてナズーちゃん、もう何か手がかりを見つけてるの?」
「いや、まだだよ。でも、何と無く予想は付いている。あとはやる気の問題かな。ご褒美があれば、面倒な事でも身が入るってものだろう?」
勇儀は押し黙っている。少し聞いただけでは随分と曖昧な条件のように思えるが、これは鬼に対する取引だった。通常の案件ならまだしもこのような未解決事件、解決の功績は大きい。
鬼は義理を重んじる。もしもこの取引を受けてナズーリンが手柄を立てた場合、かなり無茶な要求であろうと通さざるを得なくなる可能性があった。
いや、そもそもこうやってナズーリンの口から面と向かって話を持ちかけられ、それを聞いてしまった時点で勇儀は無視をする訳にはいかなくなる。嵌められた。そう感じた時、ナズーリンは皿に盛られたチーズの最後の一つを口の中へと放り込み、また次の皿を注文していた。
ゆっくりと味わいながら、目で催促する。返事を。いや、返事などは最初から求めていないのだ、この小賢しい鼠妖怪は。
「あれ、勇儀さんそのチーズ食べないのかい? それなら私に分けてくれると嬉しいんだが」
そんな軽口を叩きながら、またヤマメと談笑をはじめる。もう、勇儀の事などは気にかけていない。
その後店を出るまで、勇儀はそのまま口を開く事は無かった。
「もう、勇儀さんいい加減機嫌直してよー」
何時の間にか雪の止んだ旧都を、二人行く。店を出てからそれなりに歩いたが、勇儀はずっと無言で歩いている。何度かヤマメがなだめすかしてみたものの、全く効果は無かった。
ナズーリンは未だ店に残り、少量の酒と共にチーズを頬張っている。この妖怪鼠の事が、勇儀の頭の中から離れない。
「なあヤマメ、あいつ何だ?」
「お、勇儀さんやっと口きいてくれた」
「あの鼠、相当の切れ者だぞ。この私を前にして怖気づかない所か、あんな阿呆みたいな交換条件を出してくるだなんて」
何かもやもやとした思いが体の中に渦巻いている。これが何なのか、自分でも良く分からない。
「うーん、ナズーちゃんが何処の誰なのかは知らないんだよね。ここってやっぱり過去を詮索するの良くない場所じゃない。私は別に大丈夫だけどさ」
「ふむ……あいつ、もしかしたらここの住人じゃ無いかもしれんな」
「えっ、どう言うことそれ」
「そのままの意味だよ、どうやってかは知らんが、何らかの方法で地上からここまで抜け出てきた。案外抜け道とかがあるのかもな」
「まさかそんなあ」
「でも、そんな感じするだろう」
「女の勘ってやつすか」
「ま、そんな所かな」
そうか、負けたのだと思った。永らく忘れていた感覚。不思議と、悔しさは無かった。相手の土俵に、上がりすらしないで負けていたのだ。
少し、気に入り始めていたかもしれない。能力のある者を、鬼は分け隔てなく好む。真正面から自分の裏をかいたあの妖怪鼠を、少し認めてやっても良い。そんな気分にはなっていた。
~6~
最後に鼠を遣って、ナズーリンは一人考えていた。犯人が誰だか分かったとして、そいつが何処に居るのか、見つけ出す事は出来るのか?
何と無く目星は付いていた。多分あいつが犯人で、きっと奴は今でも何処かで生きているのだろうと。
しかし動機が分からない目的も分からない。何故こうも次々と妖怪を殺傷しなければならなかったのか、それが分からない。
思考は堂々巡りを続けていた。きっと犯人は“目的を達成する事が出来た”のだろう。だからもう、犠牲者は出ないはずだ。
チーズをまた一切れ、口へと放り込む。
「親父さん、お勘定頼むよ」
少し、考え疲れた。最後の命令はそれなりに時間がかかるものなので、当分は鼠達も帰って来ない。
一度、寝てしまおうと思った。一輪の作る料理は美味しいし、あそこの布団は自分の普段使っている物に比べてずっとふかふかだ。
毎度あり、威勢の良い店主の掛け声を背に、店の外へ出る。そんなに長居をしたつもりは無かったのだがそれなりに時間は経っていたようで、何時の間にやら道も、屋根も、一面が白く染まっていた。
雪はもう降り止んでいた。
ナズーリンは床についた。勇儀達も、似たようなものだろう。では、彼女たちが追っている妖怪は。件の妖怪は、一体何をしていたのだろうか。
件の妖怪は、笑っていた。笑いながら食卓につき、細君と共に市場で買った少しばかりの肉と、そして漬けて置いたいくらかの漬物をおかずに、穀物をかっ込んでいた。
妻が、粗末なものでしょうなどと聞いてくる。顔には少しはにかみの色。とんでもない、凄く美味しいよなどと、その件の妖怪は答える。
全く、この所ずっと、こう言ったまともな食事を取る事は無かった。まあそれでも飢える事は無かったのだが、やはり暖かな食事と言うのは嬉しい。
おかわりはいかがですかと、妻が言う。頼むよ、と椀を渡し、そこによそわれる穀をじっと眺める。視線に気付いた妻が、恥ずかしい、そう抗議する。
風呂は、少し行った所に銭湯のような物があって、そこに二人連れ添って通っている。
やあ、今日は寒いね。ええ、まったく。言葉を交わしながら、道に積もった雪を踏みしめる。
出て来た時に、待ったかいと聞けば、いいえ、私も今出た所ですなどと返してくるのだが、その実濡れた髪は少しばかり冷えてしまっていて、悪い事をしたななどと思いながら、少しばかり肩を寄せる。
全く持ってこのような地底には似つかわしくない、甲斐甲斐しい娘だった。なんでも、この地底で生まれたのだと言う。
もう、最初に妖怪達が地底に追いやられてから数百年が過ぎようとしていた。そう言った妖怪も出るのだなあと、その件の妖怪も思ったものだ。
幸せであった。なるほどこう言うものが幸せというのだと、件の妖怪は噛み締めていた。長く、感じた覚えの無い、遠い昔のものだった。
ナズーリンが目を覚ました時、傍らには三匹の鼠が整列し、主の起床を待っていた。
後で聞くと言い残し、のそのそと布団から這い出る。冬の布団ほど気持ちの良い物は無い。後ろ髪を引かれる思いはあったが、そこはそれ、出なければ朝食を食べ損ねてしまうのだ。
朝食、と言うような言葉も変なものである。なにせ地底には朝も夜も、おおよそ日の関係するもの等は何も無いのだから。それに、そもそも妖怪は食事を取る必要もあまり無い。
しかし、そう言った文化は未だに根強く残っていた。ただ決まった時間に起きて、食事を取ると言うだけなのだが、どんなに時間に適当な者でも、これだけは皆守る。
そうでもしなければ、本当に、自分がいつを生きているのか忘れてしまうのだ。だから幾人かの例外を除いては、基本的にみな夜は寝静まる。
夜、と言う言葉も変なのだろう。何故ならここに住む妖怪の殆どが、本来は夜行性で、夜は寝静まる時間ではなく活動をするための時間なのだから。
だがこれも、言葉の変遷なのだった。彼らにとって、寝て起きるからと言う意味以外に朝は無い。
「お早うお二方」
「おはよう」
「おはよう」
別段早くもないのに、何に対して早いと言っているのかも分からないのに、起床時の挨拶がおはようであるのと同じように。
朝食は、まあ、質素なものであった。彼女らは妖怪であるからして別段食べなくても生きてはいける、そう言った部分に要因があるのか。はたまた人数が三人に増えた事による物なのか。定かではない。
食べ終わり、片づけをしている所で、水蜜が捜査状況を尋ねてきた。一輪も、そうだそうだと聞いてくる。
さて、どうしたものかな、とナズーリンは思った。まだ真相に辿り着くまでには至っていないが、寝室に待機している鼠達も居る。優秀な彼女たちの事だ、整列して待っていると言う事はそれなりに良い情報を持ってきているに違いない。
しかし、それでもまだ足りないのだ。どうせなら、推理が確実性を持ってから二人には話したかった。
「ねえ、どうなのよ」
水蜜が急かして来る。仕方の無いものだな、と思った。
「一応断っておくぞ、まだ確定したものじゃないんだ。ただ、大体こいつじゃないかなと思う奴は居る。これから私の可愛い部下達に最後の情報を貰う所だから、ちょっと待っていてくれたまえ」
そして、足早に寝室へと向かう。布団の傍には、まだ鼠達が整列していた。待たせたね、と言って、鼠を手元へと寄せる。
三匹とも全体的に薄汚れ、尻尾も力なく垂れている。無理も無い。幾ら妖怪化しているとは言え、元々鼠はそこまで強い身体を持っているわけではないのだから。
情報を受け取った後、労いの言葉をかけすぐに休ませた。暫くは使い物にならないだろう。だが、一応欲しい情報は揃ったはずだ。少なくとも、目星を付けられる程度には。
居間に戻ると、二人は興味津々にナズーリンの事を待ち構えていた。
「私は、鼠達が持ってきた情報から、ある妖怪に目を付けた。状況から考えてこいつが一番怪しかったし、他にこんな事件を仕出かしそうな妖怪も見付からなかった」
ただ、と付け加え。
「決め手になるものが無かったんだな。そうなんだろうな、と思える物はあっても、確信できるものが無かったんだ。そこで私は、寝る前に鼠達を街へと放った」
「あんたも鼠使いが荒いわねえ」
水蜜が茶化してくる。
「良いんだよ。で、探して来て貰ったのは、被害者の血痕跡だったんだよ。今は除去されてしまっていても、あの子達の嗅覚なら一ヶ月程度なら余裕で判別できるからね。そして――」
少しもったいぶる。
「水橋パルスィの血痕だけが何処にも見付からなかった。こいつだよ、この失踪事件の犯人は。疑わしい部分もあるが、こいつだとしか考えられない」
「まず最初に断っておくぞ、これはあくまでも現時点での結論だ。もしかしたら私が知らない地上への抜け道が他にあって外部犯が進入できたかもしれないし、もうそのまんま過ぎるが姿を消せる妖怪が街中に潜伏しているって事だって十分に有り得る」
「いいからいいから、続けてみなさいよ」
水蜜が身を乗り出す。ナズーリンが、頭を掻いた。
「細かい所を説明すると長くなってしまうんだけど、そうだな、最初に思ったのは何で犯人が見付からないのだろう? と言う事だった」
話を続けながら、部屋の隅へと向かう。黒板。あの後、結局どこにもしまう場所が無くて放って置かれていた物だ。それを引っ張ってくる。
「そこで閃いたんだ。ああ、きっとこの被害者の中に犯人は隠れてるんだなって。手始めに最初と最後の被害者だけ調べてきてもらった。三十人全部は流石に覚えきれないからね」
「随分な当て推量で動くのね」
「まあ、否定はしないよ。でも違っていたら違っていたで良かったんだ。方針を変えれば済む話だからね。とにかく、資料が欲しかった」
そして、黒板を拳でトンと叩く。
「それからはもうあっと言う間だよ。ビンゴだ。情報が少なすぎて怪しいと思った奴が、今度は殺された形跡すらなかった。一つ一つなら偶然かもしれないが、重なってしまったら話は別だ。犯人はね、水橋パルスィだよ。これは間違いない」
ナズーリンが自信ありげに鼻を鳴らした。
余程自信があるのだろう、黒板に触れる手もどこか落ち着きが無い。何度も何度も、似たような場所をこんこんと叩き続けている。
そこに、一輪が待ったをかける。
「んで、その肝心の水橋パルスィはどこに居るのよ」
「それが問題なんだ。分からないんだよ。動機も、方法も、何もかもが。当然居場所だって皆目見当もつかない」
「それじゃ意味無いじゃない!」
横で聞いていた水蜜が声を荒げた。こん。最後に一度だけ叩き、ナズーリンがその手を止める。
「その通りだ、全くだよ。この事件、重要なのは誰が犯人かじゃない。何故こんな事件を起こしたかなんだ。それが分からなければ奴の足跡は追えない。お手上げだよ。そんな気狂いの事なんか、私に分かるものか」
~7~
――件の妖怪の名は、水橋パルスィと言った。
もっとも、今の名前は違う。当然である。未だに同じ名前を使い続けていたのなら、きっと勇儀をはじめとする鬼たちはその不自然さに気が付き、水橋パルスィを捕らえていたはずだ。
水橋パルスィに逃げていると言う感情は無かった。鬼が仮に少しでもこの妖怪の事を怪しみ、その捜査の手が掠りでもしていたら話は別だったのだろうが、別段そんな事も無い。
水橋パルスィは家に居る時、居間でぼぅっとしている事が多い。そう大きい家ではない。それでも、寝室があり台所があり居間があり、普通程度の大きさではあったのだが。
ぼぅっとしていると、妻がお茶を淹れて入ってくる。これもまた、さして高給な茶葉ではなかったが、この光差さない地底にとっては中々に価値がある。
祝い品として貰った物だった。普通はここで、白湯だとか、薬味を溶かした物だとかが出される。
妻とともに茶を啜っていると、思うのだ。ああ、少し前までは本当に忙しかったなあと。忙しかったなあと思い、同時にこの良く出来た妻はその労働に見合う対価なのだと感じる。
茶を飲み終えると、二人連れたって市場へ出かける。本来ならば特に買う物がある訳では無いのだが、どうも妻に急かされて、それで渋々と身支度を始めるのだ。
いや、本心では決して嫌がってなど居ない。水橋パルスィ自身も、決してまんざらでは無い。ただ、それを表に出すのが少し気恥ずかしいだけで。
旧都の雪はすっかりと止んでいた。
鬼と蜘蛛が二人、まだ起きてくる者も少ない街の中を歩いている。
結局、収穫は無いに等しかった。遺族に話を聞こうにも、その大半は既に事件に興味を失くし、それ以外ももう掘り返さないでくれと言った態度を取っている。
「妖怪ってのはこんなにも情が薄いものなのかねえ……」
ヤマメが呟く。
そう言ったもの、とでも言えばそうなのだろう。この地はあぶれ者の寄せ集められた場所であるし、配偶者を行きずりの関係と、外へ出るまでの間に合わせと考えていた者も少なからず居た。
それに、ただでさえ妖怪は寿命が長く、力も強い。言ってしまえば、妖怪は生きていく上で他者など必要としないのだった。
ただそんな妖怪でも、こと地底では配偶者持ちと言うのは多かった。大体、全体の六割は誰かしらとつがいになっている。やはり、口では何と言おうと、寂しいのだ。この閉ざされた世界で、何の甲斐も無く生きていくのは。
「しかしどうせ、目新しい話が聞ける訳でもない。そう割り切ろうじゃないか」
とは勇儀。
まあ、仕方の無い事だろうなとは思っていた。自分とて、他の事は言えないのである。随分と長く生きてきたが、結局夫と呼べるような者は居なかったように思う。
地底に来てからは尚更だ。何時の間にやら自分が鬼の頭目だとされていたし、本来この立場に居るべき筈の親友はさっさか何処かへと消えてしまった。
だからと言う訳では無いが、勇儀は配偶者の死と言うものが今ひとつ良く分からなかった。それは自分の大切に思う友人達の死とは違うものなのだろうか。考えるたびに、自分には合わないと思いなおして、考えるのをやめた。
「幸いにも、被害者の殆どは遺族から話聞いて情報は揃ってるんだ。尤も、一人だけは白紙に近いんだが」
もう一度資料を洗いなおそう。そう言って、ヤマメの背を叩く。ヤマメは不服そうだった。むうと唸って、まだそこに留まろうとしている。
ホラ行くよ。二度目の呼びかけでようやっと不承不承ながらも帰路へとついた。どうせ資料なんてこれ以上見ても意味は無いんだ。そんな思いが渦巻いた。
しかしまた、こうやって外に居ても変わりはしないのも確かなのだった。
ナズーリンは、さて、迷っていた。
一応犯人は分かった。これをあの鬼に教えに行ったものかどうか。
分かった所でどうしようもない情報なのである。奴はどうにも周到な奴で、今のところ自分に繋がるような手がかりを残しては居ない。それを、得意顔で情報提供として教えに行く。間抜け以外の何者でもないではないか。
しかし同時に、こうも思うのだ。実はあちらはあちらで独自に情報を入手していて、それと組み合わせることで大きな進展が望めるのではないかと。
その場合、ナズーリンの功績はそれなりに大きい。交渉も、少なからずしやすくなる事だろう。
……だが、そんな程度では駄目なのだ。
ナズーリンは今、彼女らによってなされた封印を解く事を目的として動いている。そのためには、もう少し。せめて自分が居なければ決して解決できなかった、そんな程度の手柄は欲しいのだった。
さあどうしようかなあ、どうしようかなあ。
ちなみに、今ナズーリンが悩んでいるのは鬼の門のすぐ近く。建物と建物の間に挟まり、ちらちらと鬼の門を覗いながら考えている。
どう見ても不審者であるが、本人にその自覚は無い。
どうするかな。三度目に鬼の門を覗った時、数名の鬼がこちらに近づいてくるのが見えた。何だろう、そう思っている間に捕獲された。
通りがかった妖怪達に、既に何度も通報されていたのだった。
「ナズーちゃん、本当何やってんの?」
「言わないでくれ。もう、恥ずかしくてもう」
顔から火が出るとはまさにこの事か。ヤマメは可哀想な子でも見るようにしてナズーリンに目をくれている。
違うのだ、と弁解をしてやりたかった。一体何が違うと言うのかと言われればそれまでなのだが、長く生きてきてこれほど恥をかいた事は他に無かった。
「で、お前本当に何をしていたんだ?」
勇儀が尋ねてくる。
まあ、そうだろう。ひっとらえられた時から予想はしていた。何故あの場所に居たのか、話さなければならない。本当はもう少し見極めてから情報を出すつもりだったのだが。
もう、隠し通すのも無駄かな、と思った。それに、いい機会だとも思った。どうせ捕まらずあの場に居た所でうじうじと悩み続けていただけだったのだ。
「いや、ね、犯人に大体の目星が付いたから教えてあげようかと思って」
勇儀とヤマメが目を見開く。重畳だ。こう言った反応が返ってくるのは喜ばしい。それはつまり、予想だにしていなかったと言う事だから。
さてここから、どうやって自分を売り込んだものかな。周りに気付かれないようそっと深呼吸をし、ナズーリンは一人、静かに気合を入れた。
~8~
布団は、言うまでも無いだろう。少し大きめの物を、二人で一緒に使っている。
新婚初夜に感動するような年齢でもないのだが、まあ、これはこれで一種の通過儀礼的な面もあると、一応一通りの事はやった。
それから、そう言った行為に及んだ事は無い。慎ましやかに、静かに布団に入り、就寝する。
ただ近頃はやはり寒いので、寝ようと思ってから暫く経つと、すすと妻の方から身体を寄せてくる。そんな時は黙って肩を抱いて、もう少しばかり引き寄せてやるのだ。すると妻の方も、嬉しそうに身体を沿わせてくる。そうして、ようやく眠りに就く。
可愛いものだと思った。自分にも、かつてこの様な時期があった気がする。遠い、遠い昔の事だった。思い出そうとしたが、良くは思い出せなかった。
仕事は、農家をやっている。
と言っても地底は昼も夜も無く、土壌に至っても手を加える方法が殆ど無いため、専ら自生するに任せていた。
結局手を加えようが加えまいが貧弱にしか育たない事に変わりはないというのが理由なのだが、楽な反面暇でしょうがなかった。
なので、その他の妖怪の例に漏れず、自分も彫り細工などをやっている。皆、手持ち無沙汰なのだ。この地底では特に。未だ、細工物の一つ出来ぬ妖怪が羨ましく思える。それだけ仕事が充実していると言う事なのだろうから。
妻も似たような物だった。手慰みに絵を描いたり編み物をしたり。最近ではこちらの真似をして彫り物などもはじめたようだ。
不思議と、退屈では無いのだ。日々の生活に追われる訳でもなく、ただ悠久の時を潰すだけの妖怪の身。本来ならば腐っていてもおかしくないのだが、何故だか充実していた。
きっと、連れ添う相手が居るからだ。妻も、そう思ってくれているように感じる。
二人して木を彫っている時に、ふと言葉が漏れた。君と一緒になれてよかったよ。
妻が、顔を上げた。少し遅れて、私は自分が何を口走ったのか気付いた。顔が熱っぽい。きっと赤くなっている。
耐え切れなくなって顔をそらすと、妻の居る方から、私もですよ、と聞こえてきた。
なんだか、それだけで頬がほころんでいくのを感じた。
少なくとも水橋パルスィは生きている。
それが、勇儀とヤマメの見解となった。ナズーリンの渡した情報は、犯人を断定するものとは認められなかったのだ。
だがそれでも、ナズーリンの功績は認められ、ヤマメのはからいにより勇儀から捜査協力の依頼が出される事となった。
そうして三人は今資料室に居る。この事件を、もう一度整理してみようとの勇儀の提案によるものだった。
「でも、やっぱり進展は無いねえ……」
ヤマメが一人ごちる。
やはり、水橋パルスィに関する情報が少なすぎる。
一応、女性だと言う事は分かっている。橋姫の伝承が正しければ、相応には強力な妖怪だ。鬼には敵わないだろうが、並みの妖怪なら片手で捻れる。
だが、だから何だと言うのだろう。大切なのは過去ではなく現在なのだ。そして、その現在にパルスィの情報は何も無かった。
他の妖怪に関する情報は要らないほどあると言うのに。
安楽椅子探偵はどうしたんだ。今三人で雁首を揃え資料を漁っているこの状況。ナズーリンは何とも言えない侘びしさを感じていた。これでは優雅さの欠片も無いではないか。しかし頼りの部下達はただ今休養中であり、一輪と水蜜に情報収集などさせたら目立って仕方が無い。
それはそうとして、ナズーリンは、一つ気になっている事があった。
何故、被害者に共通点が見当たらないのだろう。三十人も被害者が居て、そのそれぞれに詳細な個人情報が残っていて、それで何故。
本当に無差別的に、目に付いた者を片端から殺して行ったのだろうか。そんな事は無いだろうと思う。しかし、そう言い切れない保障もまた無い。
人数が問題なのかとも思った。何か、儀式にでも使う材料としての。だが現場には血だまりが残されている。身体が目的ならば、わざわざ血を撒き散らすような事もしないだろう。
そもそも、何故死体は消えたのだろうか。被害者が死んでいる事を確認した訳ではないが、現場に残る血の量から見てもまず死んでいるのは間違いない。その死体を何処へやったのか。
考えれば考えるほど泥沼に嵌っていく。ああ、一つどころではなくなってしまったな。そう呟いて資料を眺める作業に戻る。何か、不自然な所がある筈なのだった。あと一つ。そのほんの少しの後押しで、全ては繋がる気がした。
勇儀は、ただ座って目を瞑り、じっとしていた。
もう頭脳労働は彼女たちに任せてしまおうと言う考えに至った。そしてその間、部下を率いて捜査に当たっていた時の事を思い出す。
一大事件だとあってか、聞き込みは割かし躓く事も無く、すんなりと済んだ。部下たちの士気も高く、資料として纏めるのにもそう時間はかからなかった。
そこまでは良かったのだ。
しかしそこから、全く手がかりがなくなってしまった。誰も、犯人の姿を見た者が居ない。
複数回現場の近くから出てきた妖怪は居たが、全員別人で、その上そいつらも結局すぐに失踪してしまった。後に、巨大な血だまりを残して。
悔しい。自力で解決する事は無理なのだと、薄々感づいてはいた。それが、この鼠によって確信に変わった。まさか血痕を調べるだなんて、思いもよらなかった。
確かに、水橋パルスィの血痕は見付からなかった。しかしこの地底にも下級妖怪は居る。旧都の内部ならばともかく、それ以外の場所で出た死体などは、それこそ大時計の針が一周するのを待たずして全て綺麗に平らげられてしまうのが常だった。
先入観に負けたのだ。やはり、鬼に捜査は向いていない。出来ない訳では無いのだと思う。ただ、体が無意識の内にそれを避ける。鬼は、力を誇示し、他の抑止力であればそれで良いのだ。
資料室にこもって、どれ程の時間が経ったのか分からなかった。このザマでは自分も鬼を悪く言う事は出来ないと、ナズーリンは思った。
――彫りながら、色々な事を話した。
少しばかり興が乗ってきたと言うのも有るかもしれない。やれ日頃の料理の事、天気の様子。折角雪が降ったのだから、少し遊んでも良かったかね、などと言うと、年甲斐も無いと怒られる。
そして、自分の過去の話になった。そこは妖怪、長生きもしている物で。話の種は全く尽きる気配を見せない。
妻が、「私は昔あの地霊殿の中に入った事があるのですよ」と自慢をしてくる。なるほど、確かに凄いかもしれない。関係者以外であの建物の中に入れる者は殆ど居ないはずだ。
どうやって入ったのだと聞くと、恥ずかしそうに俯いて、「実はペットにならないかと誘われたんです」と言った。
少し、驚かせてやろうと思った。地底で生まれ育った者には決して真似できない自慢と言う物も、中には有るのだ。
しかし、僕の方が凄い自慢を持っているよ。そう言うと、妻は半信半疑で嘘でしょうと言ってきた。
嘘なものか、と続けると、じゃあ仰って御覧なさいと返してくる。腰を抜かすなよと前置きして、取って置きの自慢話を教えてやった。
僕は、その昔京の都に居た事があるんだよ。
すると妻は急に笑い出した。あなたったら嘘ばかりつくんですからと、呆れ顔で見つめてくる。
嘘なものか。若干ムキになって反論するも、取り合ってくれない。腹が立ったので、事細かにその当時の事を話してやった。
覚えている限りなので少し曖昧な部分もあったが、良く説明できたように思う。語り終えた頃には妻はもう笑うのを止めていた。
「あなた、どうしてそんな事を知っているんです?」
などと尋ねてくる。決まっているじゃないか、実際に見たことがあるからだよ、と答えておいた。
妻は、え、と一言発した後固まってしまった。どうしたんだいと近寄ると、少し後ずさる。
「あなた、私と同じ地底の生まれでしょう。何であなたがそんな昔の京の事を知っているんですか」
あ、しまったな、と思った。
~9~
突如、資料室の扉が開いた。勇儀の部下と思われる鬼が、血相を変えてそこに立っている。
仮眠を取っていたヤマメが、物音に起きだして来た。勇儀が何事か問う。
「あ、姐さん、三十一人目が出ました……」
その言葉と同時に勇儀が立ち上がる。ナズーリンも、それに応じた。ヤマメだけはまだもぞもぞとしていて、戻ってきたナズーリンに連れられて行った。
「うお、これは……」
「凄いだろう。最近じゃ中々ここまでやる奴は居ないよ。私も長い事鬼をやっているが、それでも最初見た時は驚いた」
現場はまさに血の海であった。
机、畳、箪笥に至るまで撒き散らされた血は、歴戦の勇儀をして顔をしかめさせる。いわんやナズーリンをや。
主人がこの場に居なくて正解だったな、とナズーリンは思った。主人も元妖怪であるからして、多少の血程度は気にもとめないのだが、こう言った現場は。それこそ、悪意しか感じられないような場は、非常に嫌悪する。
ヤマメは集まってきた野次馬の後ろでゆらゆら舟を漕いでいる。ナズーリンが、すっと野次馬の中へと入って行った。ここから先は、勇儀の仕事だ。
「姐さん、こちらが発見者です」
「ご苦労だったね」
連れられて来たのは、華奢な女性だった。やられたのはこの女性の夫らしい。
可哀想な身の上だった。何でもこの二人は、ついこの間夫婦の契りを交わしたばかりだと言うのだ。そして事件も一段落して、安心しきっていた所に被害にあった。
夫が消えた時の事は良く分からないらしかった。目が覚めると隣で寝ている筈の夫が居なくて、居間に出てきたらこの有様だったと。
一応証言を取って保護した。この血に塗れた家に帰す訳にも行かない。安い宿を取って、そこに向かわせた。
野次馬連中も何処かへ去り、鬼達が血痕の掃除を始めたところで、勇儀がナズーリン達に近づいてきた。ヤマメも、もう目を覚ましている。
「一応これが今回の調書だよ。何か分かったら遠慮なく言ってくれ」
手渡された調書には、大小様々な事柄がビッシリと書き込まれていた。家族構成、近隣との付き合い、果ては最近市場で買い物をした品まで書いてある。
勿論、今までの被害者との関係も調べてあった。良くもまあこの短時間にこれだけ作り上げた物である。
が、全く掠りもしない。この狭い世界、辿ろうと思えば確かにかつて何かしら出会った事はある筈なのだが、事件には関係の無い事ばかりであった。
ヤマメも、むうと唸りながら考えを詰めているが、やはり芳しくは無いようだった。
「ナズーちゃん、何か分かった?」
ヤマメが問いかける。も、どうも反応が薄い。ああ、とか、うん、とか言う生返事を返すのみ。
どうしたのかと見ていると、おもむろに現場の方へと歩き始めた。
「な、ナズーちゃん?」
「おい、どうしたナズーリン。そっちはまだ立ち入り禁止だぞ」
別の場所で指揮を取っていた勇儀も、その様子に気付いて呼び止める。そこから数歩歩いたところで、ようやくナズーリンが立ち止まった。その目は、現場の血だまりを見つめている。
「おい、ナズーリン、どうしたんだい。何か調べたい事でもあったのか」
「ああ、勇儀の姐さん、これ、もしかしたらなんだけどさ」
そこで初めて勇儀の存在に気付いたように、ナズーリンが口を開いた。目線はまだ、事件現場を見つめたままだ。
少し、言いよどんでいる。幾分か逡巡した後、意を決したのだろう、その後の言葉を紡いだ。
「私、水橋パルスィの居所が分かったかもしれない」
~10~
「理由は」
簡潔に、勇儀がそれだけを聞いてくる。
「三点有る。一つは、資料が詳細すぎる事。これは推測だけど、普段の事件の時も調書は詳しかったりするんじゃないかな?」
「まあ、確かにそうだな。地底は半分以上の妖怪が妻帯してるし、詳しくなる事は多いよ」
それがどうかしたのかと言う風に、勇儀が答える。
「そこなんだよ。地底は、上と違ってこれと言った戸籍も無いし、個人主義が徹底されている。だから精々が治安維持のための警邏機構程度しか公機関は無い。それで事足りるからだ。なのに、何でこうも情報が集まるんだ?」
「そりゃあ、遺族も知り合いも居るからだろう」
「確かにその通りだ。でも、三十人全員に遺族が居るんだよ。それだけ集まれば、一つくらい一人身のが居たって良いだろう。奴は、その地底の六割を重点的に狙っていたんだ」
そのまま、目線を血だまりへ向ける。
「二つ目、血痕と遺体の消失。うん、これは正直考えたくない」
「あ、私何と無く想像付いたよナズーちゃん」
ヤマメが手を上げる。それを横目に見ながら、ナズーリンが続けた。
「血が残っているのは、つまり、遺体をその場で処理したからだと考えられる。どうやって。私達は妖怪だ、食べてしまえば良い」
「そんな、出来る訳が無いだろう! 外で見付かった血痕もあるんだぞ、いや、外で見付かった物が殆どだ。誰にも見付からずに妖怪一体を丸ごと食いきるだなんて」
「でも、それが一番矛盾が無いんだから仕方ないじゃないか! 私だって考えたくないよ。おぞましさじゃない、それだけの力を水橋パルスィは持っているって事がだ。元来がそう言った性質の妖怪ならともかく、そうでない妖怪が持つ力じゃない。異常過ぎる」
「そして、最後の理由。彼女は、その来歴からして相当に悲運な生を歩んで来ている」
「宇治の……と言えば有名だ。私も聞いた事がある。それに、こっちでも寂しい生活を送っていたみたいだしな」
勇儀が補足する。
「彼女は、耐え切れなくなったのではないかと思う。そして、幸福そうな、少なくとも外からは幸福に見える家庭を襲った。いや、襲っただけならこうは酷くならなかった筈だ。奴は、その家族の一員と入れ替わろうとしたんだよ」
「そんな無茶な」
「無茶だよ。当然障害は幾つも出てくる。そしてその度に、取り入る家を移ったんだ。覚り妖怪が、奴の事を狂っていると評したそうだね。全くもってその通りだよ。尋常の神経だったら、こんな無茶はやらない」
ナズーリンが、息を吸い込んだ。ヤマメと勇儀が、次の言葉を待っている。一拍置いてから、ナズーリンが続けた。
「一番の見落としはそこだったんだ。被害者は、居なくなった時に死んだんじゃない。その前に、既に殺されていた。その身体を隠れ蓑にして潜んでいたんだ、そりゃ見付かる訳も無いよ」
「で、結局奴は何処に居るんだ?」
「うん、それなんだけどね、今回の事件……今起きた事件だよ、はどうも妙だ。前回から間が開きすぎているし、これと言って夫婦仲が悪かったような様子も無い。この生活を手放す理由が無いんだよ」
「でも、手放してしまった」
「その通り。そしてそれには必ず理由がある。今回の現場は屋内で、しかも丁度住んでいる家だったな。多分、何か突発的な問題が起きて手放さざるを得なくなったんだ」
誰かが、喉を鳴らす。
「あの細君が怪しい。急ごう! 逃げられたら今度こそ見付からないぞ!」
宿、と言っても、旅行者が来る訳ではない。
ただ例えば、家の改築やら何やらをする時に仮の住居が欲しい。そんな場合に地底の宿と言うものは利用される。
その安宿は、鬼の懇意にしている宿だった。部屋が足りなくなった時に使わせて貰う事もあれば、宴会の時に場所を借りる事もある。そして今回は、関係者の保護に使われていた。
勇儀が、駆けていく。その後ろを付いて行くように、残りの二人も。何処に居るのかは分かっていた。二階の、右手前から二番目の部屋。ふすまを、思い切り開ける。
中には、先程保護した細君が座っていた。
「どうしたんで御座いますか? そんなに血相を変えて」
そう言い終わるか終わらないかの内に、勇儀が距離を詰める。
あらかじめ、ナズーリンに言われていた事だった。水橋パルスィは他の妖怪に化ける時に皮を使っていると思われる。中身は食ってしまうのだし、その方がバレ難いからだ。だから見破るためには……。
まさに、疾風と表現するべきであった。もしくは、豹とでも言うべきか。勇儀は恐ろしい速さで相手の下へと近づき、一瞬の内にその左腕を引き千切ってしまった。
皮を纏っているとは言え生身とは程遠い。どう上手く化けたとして、切断面から偽の皮がめくれ上がり、容易に判別が出来る。野蛮にも思えるが、問答無用で身体ごとバラバラにしないだけでもマシなものだった。
皮はどうなった。三人の目が一点に集まる。めくれ上がった皮の下にはもう一つ皮が。皮、が。
皮ではない。
「勇儀さん危ない!」
いち早く気付いたヤマメが叫ぶ。皮の下にあった身体は、何時の間にか緑色をした光弾へと姿を変えていた。いや、変わったのではない。最初からこの光弾が身体に擬態していたのだ。
細君の残った胴体も四散し、光弾へと変わる。勇儀がたまらず距離を取る。埋め尽くされる緑色の向こう、細君の身体があったその真後ろに、一人の女が立っている。
強い、緑色の眼が、光っていた。他にも、身体的特徴はあったように思う。癖のある金髪、尖った耳、しかしそれよりも何よりも、この眼がナズーリンには気になった。
いや、それしか見えなかったと言うのが正しい。言いようの無い感情が込められた眼。その眼に射竦められただけで、何か目を逸らしてしまいそうな、後ろめたくなるような、そんな。
だから魅力があった。魅力、なのだろうか。力強さがあった意志の強さがあった、それ以上に、何者にも侵されない拒絶があった。
「嫉妬……なのか……?」
気が付いたら口から出ていた。
正体を現した彼女が、ニイと笑って来た気がした。壁が破壊される。
「あいつ、逃げるぞ!」
彼女――水橋パルスィが地底の空へと躍り出る。三人も、慌てて後を追った。
予想以上に、彼女は速かった。牽制に撒かれる弾が建物の屋根をかすめ削り取っていく。
そのまま逃げてくれたのは僥倖だった。街中で捕り物となれば、被害は甚大な物となっていただろう。
先程の光弾。本人は気にしていないようだが、近くに居た勇儀の腕が焦げていた。やはり何匹もの妖怪を食って、力を付けている。
「追い込め、追い込め! ヤマメ、左から牽制しろ、あの縦穴に追い込むぞ!」
勇儀が指揮を取る。鬼の連中を連れて来なかったのは痛かった。勇儀一人で十分片が付くと思っていたのだが、この様だ。ただ今は、旧都から奴を離す事が先決だった。
縦穴はヤマメの住んでいる所を、もう少し行くと見えてくる。封印されて久しいが、かつては地上との連絡路もあったと言う。今は、袋小路。誰も近寄りすらしない所だった。
あの女は、水橋パルスィは、自分がそこへ誘導されていると知っているのだろうか。あの、誰も来ない、暗い暗い場所へ。そこで、誰に知られるとも無く自分の生を終えるのか。
哀れな女だ。
ヤマメの住処が見えて来た。もうすぐ縦穴に到着する。あの縦穴はそう広くなかった筈だ。彼女は追い詰められ、鬼の拳をその身体に受けて赤い噴煙になる。
本当に、哀れだと思った。
一番奥の奥。と言っても地上から見ればごく浅い所。そこまで来てようやっと水橋パルスィは止まった。
こうなって居たのか、とナズーリンは思った。こんな場所へ来た事は今まで無かったので、行き止まりになっていると聞いてもいまいちピンとは来なかったのだ。
辺りは薄ぼんやりと明るい。確かに、そう、ただ埋め立てるだけなんて品のない事をする筈もなかった。この場所から地上にかけて、結界が何重にも張り巡らされている。そこから発せられる光が、淡く辺りを照らしていた。遠目にも術者の力量が知れる、強力なものだ。
素直に、恐ろしいと思った。ナズーリンは、これほどの結界を扱える術者を知らない。結界の形自体も見た事の無い物だった。理解が出来ない。きっとこの鬼、星熊勇儀もこの結界の前には無力だろう。そう考えると、なお恐ろしかった。
「さあ観念しろ、もう逃げ場はないぞ」
そう言って勇儀がじりじりと間合いを詰める。ヤマメは網を作って逃げ場を塞いでいる。
こう言う時、ナズーリンは何も出来ない。元々の本分は頭脳労働であるため構いはしない筈なのだが、何だかいたたまれなくなって来る。
だからせめて、相手を視る。じっと観察する。その一挙手一投足も見逃さないように。相手が何を仕出かして来ようと、自分だけは対応できるように。
勇儀の前進に合わせて、彼女もじりじりと後退する。ふ、と後退が止まった。勇儀が訝しげに様子を覗う。
まさか、と思った。だが、きっとそうだ。そうとしか考えられない。
「離れろ勇儀さん! 巻き込まれるぞっ!」
反射的に叫んでいた。そして、勇儀が後ろに飛び退くのと水橋パルスィが自ら結界へと飛び込んだのは、ほぼ同時だったように思う。
轟音が鳴り響く。そこに混じる、妙に高く、けたたましい音。それは彼女の断末魔だったのだろうか。結界が激しく光を放ち、一瞬の内に収束する。
後に、一枚の札だけが残った。
~11~
「あれは、そう言った目的の結界だった」
と、勇儀が言った。
契約を破り外へ出ようとした妖怪を、一方的に封印してしまうための結界。
あの結界を張った妖怪は、妖怪としては珍しい事に殺生を好まない質だったらしい。だから、重罰の中にも決して死刑は入れなかった。代わりに、あの結界に触れた物は札としてその場に縛り付けられ、そしてそのまま放置される。
むごい物だった。これでは死ぬのとなんら変わりは無い。違うのはただ、言葉どおり死んでない事だけだ。
この鬼は、それを知っていてあの場所へと誘導したのだろうか。死よりも思い罰をと、それともせめて殺さないようにと。ついぞ聞く事は出来なかった。
「あいつは、この後どうなるんだい?」
それだけ、どうにか言葉に出来た。
「封印が解けるまであのままだろうさ。百年か二百年か、あるいは何かの拍子に解けてしまうまで」
そんなものなのだろうな、と思った。
結局あの妖怪から何を聞きだすことも出来なかった。何故こんな事をしたのか、何故こんな事を遂行出来たのか、そして何故、一度は手に入れた筈の家庭を手放してしまったのか。
その事を勇儀に話したら、気にするなと言われた。
「あいつは、一人目を殺した時点でこうなる事が決まっていたんだ」
そうしてそれきり黙ってしまった。
妖怪、それも人の情念から妖怪となった様なものは、感情の変化によって力が直接左右される。最初に殺した時、彼女は何を思っていたのだろう。どんな気持ちで、遺体を食っていたのだろう。
身震いがした。正気の沙汰じゃない。そうなってしまってはもう普通の生活など出来る訳が無いじゃないか。どんなに取り繕っても、必ずボロが出る。
だからあんなに簡単に捨ててしまえたのだろうか。あの夫婦、唯一上手く行っていたと思われるあの夫婦に、何があったのか私は知らない。でもそんな、殺してしまう程の物だったのだろうか。それ以外に解決策は無かったのだろうか。
きっと無かったのだろう。彼女は、もうそれ以外の選択肢を捨ててしまって居たのだ。
「自分から正道を捨てた者に、幸せになる権利は無いって事か……」
「そう言う事だよ、悲しいけどね」
ヤマメは、まだあの封印場所に残っている。後から追いつくから、先にいつもの店へ行っていてくれと言っていた。
「ところで、報酬の件なんだけど」
「ああ、それな。まあ、あんたには随分と助けられたからね、それなりには都合してあげるよ。何が望みだい?」
勇儀が、ニカッと歯を見せ聞いてくる。
「ううん、今はその言葉だけで十分だよ。そうだな、もしも私が何かやらかしたとして、一回だけ見逃してくれるってのはどうだ」
「おいおい、何をやるつもりだよ」
「別に、大した事じゃないさ」
店の前に着いた。少し、寂れた感じのある店だ。中を覗いてみても、一組席に付いている以外は誰も居ない。
勇儀は、いつもこの仕事を終えた後はこの店に寄るのだと言う。なるほど、確かに落ち着いて飲むのには適しているかもしれなかった。
「お前も来るんだろ?」
その言葉に、少しドキリとしてしまった。つられるまま一緒に歩いて来てしまったが、本当は頃合いを見て帰るつもりだったのだ。勇儀とヤマメの時間の中に、別の物が入るのは何だか気が引けた。
しかしそれを告げるには店の近くまで来過ぎてしまった。勇儀は、もう店の中へと入ろうとしている。
これで帰ったら、野暮は私の方だろう。勇儀が、早く来いと催促している。私も、中でヤマメが来るのを待つ事にしよう。
熱燗を、と頼む勇儀の声が聞こえた。
END
ドキドキしながら読んでたら、気が付いた時にはもう読み終えていました…
とても面白かったです!
一挙両得とはこれの事か
はじめてどきどきよむことができた
みんなキャラがいいですね
サスペンス仕立てのストーリーと合わせて面白かったです
ナズリーン→ナズーリン自身→自信
いくつかそうなっていました。いやしかし面白かったです。ナズーリンの性格が少女なのに賢将、賢将なのに不思議で東方らしいと思いました。