もう日も暮れかかる霧の湖。歌声が聞こえる。それは今泉影狼がよく知る友人、わかさぎ姫の歌声だった。湖を泳ぎながら歌う姿はさながら人魚姫のよう__ではなく元気一杯な少女のようであった。見た目はいいのに、と影狼は思う。もう少し態度というか行いを改めればおしとやかで綺麗な女性なるだろう。影狼にとっては今のままのがかわいくて好きなのだが。影狼は湖のすぐ側まで来たが、湖の中心で泳ぎ歌うわかさぎ姫が気がつく様子はない。やれやれ、と言った調子で影狼は
「おーい、わかちゃーん。」
と大きめな声でわかさぎ姫を呼んだ。彼女はちょっと怒った調子でバシャバシャ泳いで影狼の方に近づいた。
「そのわかちゃんって呼び方やめてって前から言ってるでしょ!影狼!」
「ごめんごめん、姫。今度から気をつけるよ。」
「その言葉何回聞いたことか…」
わかさぎ姫がブツブツ言う。
「迷いの竹林で筍が取れたから持ってきたよ。」
「あら、ありがとう。そういえば前から気になってたんだけど、貴方狼女なのに野菜とか食べるの?」
「失礼しちゃうわ。狼女だからって食べちゃ駄目かしら。」
「そんなことはないけどそういうイメージなかったから。」
二人は草の根ネットワークで繋がった友人だ。影狼は毎日わかさぎ姫に毎日会いに行っている。二人は何でも言い合える関係だ。互いに良き友人である。普段はおとなしいわかさぎ姫も影狼相手だとちょっと強気に出る。もっとも、前と比べるとズカズカ言うようになった気がする。小槌の魔力のせいだろうか。
「じゃあ私はもう帰るね。」
「もっとゆっくりしていけばいいのに。」
「そんな寂しがらなくても、明日も来てあげるから。」
「そんなんじゃないから!」
ちょっと切れた。最近は怒ることが多くなった気がする。素直になっているのか、影狼が怒りを煽っているのか。
「じゃあね、わかちゃん。」
「だからその呼び方はやめて!」
次の日、影狼は約束通りわかさぎ姫の元へ訪れた。これまた夕暮れ時である。影狼は決まってこの時間に訪れる。何故なら、わかさぎ姫が高確率で歌っているからだ。彼女の歌はいい。とりわけうまいわけでも無いが聞いていると元気が出てくる。そう影狼は感じている。影狼はしばらく歌を聞いていた。そして思う。あぁ、私はわかさぎ姫が好きなのだと。彼女の歌には彼女の全てが詰まっている。性格も表情も物の好みも彼女は歌に乗せているのだ。だから、歌を聞く度に彼女への愛しさを思い出すのだ。未だ伝える方法を知らぬ愛しい心を。また、伝える勇気だってなかった。今の関係が壊れてしまうかもしれないと思うとたまらなく怖かったのだ。
満足するまで歌声を聞いた影狼はわかさぎ姫に声をかけた。
「おーい、わかちゃーん。」
やっぱり怒った調子で近づいてくる。
「だーかーらー!その呼び方は…」
「わかったわかった。」
「絶対わかってないでしょ!」
「わかってる。わかってるよ。」
影狼はどれだけ言われようとわかさぎ姫のことをわかちゃんと呼ぶ。他の人は皆、姫と呼ぶ。影狼は自分だけがわかさぎ姫を特別な呼び方で呼んでいるという特別感と単純にわかちゃんと言う呼び方が可愛いからという理由でそう呼んでいる。もっとも、姫なんて高貴な呼び方はわかさぎ姫には似合わないと影狼は思う。
「で、今日はどんな用で来たの?」
「えっ?」
今日は用事など無かった。ただ、わかさぎ姫に会いに来ただけだ。
「えっ、て…」
わかさぎ姫は呆れ返っている。
「ここんところ毎日来てたからつい癖で…」
「じゃあ何の用もないのね…」
「うん、そう言う事になるね。」
即答。
「貴方って人は…」
「ごめんごめんわかちゃん。そうだ、わかちゃん何かやりたい事とかないの?」
「その呼び方はやめて!やりたい事?うーん…」
わかさぎ姫は腕を組んで頭のヒレをピクピク動かして考え始めた。
「そうだ!影狼の家が見たいわ!」
「へ?」
「いっつも、影狼が私のところに来るばっかりじゃない。だから偶には面白そうじゃない。」
「えっ、でも姫歩けないじゃない。」
わかさぎ姫は人魚である。そのため、下半身は魚だ。陸上を歩くようには作られていない。
「それは影狼が運べばいいでしょ?」
「運べって…それに私の家汚いし…」
「掃除すればいいじゃない。それとも私を家に呼びたくないの?」
「別にそういうわけじゃ…」
「じゃあ決まりね!直ぐには無理だろうから明日迎えに来てね!」
そう言うとわかさぎ姫はちゃぽんと湖の中に潜り消えてしまった。
影狼は自分の家である小さな木の小屋の中で困り果てていた。他の狼女がどうなのかは知らないが影狼は満月の時、姿は変われど性格は至って冷静だ。しかし、だ。彼女も妖怪である。如何に冷静で普段は雑食だったとしても、獣となった時血を見れば少なからず興奮する。我を忘れて肉を貪り食う時だってある。そのため、彼女の家は至る所に肉の破片だとか、血の跡がついていた。木でできていることもあってどれだけ拭いても落ちない。こんな状態の場所に心優しい虫も殺せぬわかさぎ姫を呼ぶことはできない。そもそも、人を招き入れるように自分の家を使ってなどいないのだ。影狼はうーん、うーんと悩み続けた。そうしているうちに夜も更けていった。
「ようやく来たのね!影狼!」
翌朝、約束通り影狼はわかさぎ姫の元を訪れた。わかさぎ姫を運ぶためにバスタブに車輪をつけたものを持参してきた。
「わかちゃん、この中に入って。運んであげるから。」
「だからその呼び方は…」
「ごめん。ごめん。」
わかちゃんと呼ばれたことに少し腹を立てたのかぶつぶつと言いながらバスタブの中に入った。それを確認すると影狼はキャルキャルと音を立てながらバスタブを押し始めた。しばらく二人は他愛もない会話をしながらどんどん道を進んだ。そして30分もした頃。
「ねえ、影狼。一体何時になったら貴方の家に着くの?」
「…ごめん。」
「えっ?」
「やっぱり私の家に姫を連れて行くことはできないよ。ごめんね。」
影狼は素直に謝った。結局一日考えてもいい策が思いつかなかったのだ。
「ひどいわ、影狼。やっぱり貴方は私の事が嫌いなのね!」
「違う、それは違うよ、わかちゃん。」
「もう知らないわ!」
そういうとわかさぎ姫はバスタブから飛びだした。そして、手と魚の下半身を器用に利用してピョンピョン移動し始めた。
「待って!」
影狼は叫んだ。しかし、わかさぎ姫から返事はなく、代わりに無数の弾幕が影狼を襲った。
影狼は全身に弾幕を受けた。普段であれば避けられていただろう弾幕を。影狼の体はボロボロだった。わかさぎ姫は本気で弾幕を出したわけではなかった。それに、影狼の体は妖怪のものであり、それなりに頑丈だ。しかし、影狼の体はボロボロになっていた。それは精神的要因が大きかった。自分が愛していた人からの拒絶の攻撃。それは影狼の心に傷を与えるのに十分すぎた。妖怪は精神的な攻撃に非常に弱い。それ故に影狼の体は大きなダメージを受けたのだ。
素直に家に案内しておけばよかったのだ。影狼は後悔した。後悔してもしきれないくらいだった。そのくらいのことで、と人は思うのかもしれない。しかし、影狼とわかさぎ姫は本気の喧嘩などしたことがなかった。それぐらい仲が良かったのだ。痛む体を引き摺って、影狼は自分の家に帰った。
少しやりすぎてしまっただろうか。少し後悔しながら、わかさぎ姫はなんとかピョンピョンピョンピョンと飛んで霧の湖へと戻っていた。いや、偶にはあれぐらいやったっていいのだ、いつもわかちゃんと呼ぶしかえしだ。しかし、弾幕を出したのは少しやりすぎだっただろうか。優しい心の持ち主の彼女には影狼を傷つけたという事実が心を蝕んでいた。何かにつけて色々持って来てくれる影狼。毎日、通ってきてくれる影狼。いつだって私のことを考えてくれる影狼。そんな影狼を傷つけてしまった自分が、わかさぎ姫は急に言いようもなく申し訳なくなってきた。誰にだって隠しておきたいことの一つや二つあるだろう。それなのに私はなんてことをしてしまったんだ、と。
______謝ろう。それが一番だ。素直に謝れば、影狼だって許してくれるだろう。しかし、いざ本人を前にすると謝れないかもしれない。念には念を入れろ、という。手紙を書こう。後、謝罪の気持ちが伝わらなかったら困る。石コレクションの中から選りすぐりの何個かを一緒に渡そう。そのまま渡すのは無粋だ。何か箱に入れて渡さなければ。そういえば、影狼は石が好きだろうか。好きでなかったらやっぱり困る。その辺りで綺麗な花を摘んでそれも渡そう。次影狼が来てくれるのは何時だろう。もしかしたら、来てくれないかもしれない。なら、こちらから出て行った方が良いだろう。なら、なるべく早くの方がいいだろう。そうだ、今晩行ってしまえるようにしよう。そんなことを考えているうちに時間はどんどん過ぎて行った。
日が急速に沈んでいく。影狼は家で酷く項垂れていた。相変わらず体はボロボロのままだった。全てを失った気分だった。まだ、自分の中の思いを告げてもいなかった。これから、永遠に告げられることはないだろう。影狼はことを重く考えすぎる節があった。自分の行動がわかさぎ姫を深く傷つけてしまったと信じて疑わず、自分自身を責め続けた。そんなことえおして何になるというのか、わかさぎ姫にも許されず、問題は何も解決しない。寧ろ、自分が苦しくなるだけじゃないか。影狼は退廃的になっていた。こんな家だったからいけないのだ。こんな血が染みついた忌々しい家だからわかさぎ姫を呼べなかったのだ。そこまで考えて影狼は思った。そうなったのは全部自分の所為じゃないか、と。いや、ここまで来たらそんなことはどうでもよかった。壊してしまおう、こんな家。また、家なんてゆっくりと作ればいい。気を紛らわそうと思った。しかし、そんなに思い通りにはならなかった。壁を三枚ぐらい剥がしたあたりで酷く虚しくなってきた。少し穴が空いた家で影狼は横たわった。眠るわけでもなくただ虚空を見つめていた。
そうこうする内に夜になった。影狼はまだ横たわっていた。しかし、そんな影狼の体に変化が起きた。体はより毛深く、顔は狼のそれに、ツメは鋭くなった。今日は満月だったのだ。普段、影狼は冷静で満月であってもある程度自分の意思で姿を抑え込むことができる。しかし、心身共に弱っている今抑え込むことができずに勝手に姿が変わったのだ。そして、その姿になるということは、妖怪としての性が全開になるということを意味する。普段の彼女ならそうなることはないのだが、状況が状況である。痛む体を無理やり叩き起こし影狼は夜の竹林にくり出していった。
迷いの竹林はひどく静かだった。空にはただ、満月だけが空に浮かび、煌々と妖しく輝いていた。地上には狼の姿をした妖怪が一匹目をギラギラと輝かせていた。息はひどく荒く、血腥い匂いがこべりついていた。それは、その獣はひどく苦しそうで、ひどく悲しそうで、ひどく虚しくそうであった。それは突然飛び出し偶々近くを通りかかった兎の喉笛を切り裂いた。血が噴き出し兎は絶命した。その血を全身に浴びながら、それは一つ遠吠えをあげた。さっきまでの感情は感じられず、全てを忘れているようだった。兎の肉を喰らうことはしなかった。それは物を言わなくなった兎の死体を自分の塒(ねぐら)に運んで行った。塒の中には兎以外にも幾つもの遺骸で埋め尽くされていた。それは満足そうに笑みを一つ浮かべるとさらなる獲物を求めて竹林を嬉しそうに駆けて行った。
不幸な人間の男が一人いた。迷いの竹林に、それも夜に迷い込んでしまったのだ。幻想郷の住人はどんな馬鹿でもそのような迂闊な真似をする者はいない。おそらくは外来人だろう。おろおろと彷徨い歩いている内に男はそれに出会ってしまった。血を求め続けるそれは形振り構わず襲い掛かった。ツメで首を切り裂いた。やはり、即死だった。鮮血を全身に浴び、絶頂にも似た強烈な叫び声をあげた。そして、男の死体も自分の塒へ運び込んだ。塒は血と肉の破片で覆い尽くされていた。それは再び新たな獲物を求めて駆け出そうとした。しかし、そうする事はなく、そのまま血と肉の海に倒れこみ、意識を失った。
朝日が差し込んでくる。横たわっていた影狼は目覚めてしまった。目覚めは最悪だった。とてつもない異臭が周りに漂っている。もっと眠っていたかった気がする。しかし、目がさえてしまって再び寝付くことはできなかった。しばらく時間が経つと口の中に鉄の味が広がった。それはまさしく血の味だった______そのまま嘔吐した。ゲロゲロゲロゲロと胃の中にある全ての物を吐き出した。足元に嘔吐物の水たまりができた。もう吐く物は何も無いのに嗚咽が何度も何度も繰り返し溢れてくる。その度に口から僅かにポタポタと唾液が落ちた。そして、声にならない叫びが唸りをあげた。頬は熱い水がつたり、吐き気は終わることなく押し寄せてくる。もう、血を吐き出しそうだった。いやその方がいいかもしれない。血を吐いてそのまま死んだ方が楽かもしれない。見渡す限りの真っ赤な血、数えきれない程ある死体の山。影狼はこれを築き上げてしまったのが自分なんだと未だに信じられなかった。しかし、間違いない事実なのだ。その事実が再び吐き気を催した。急に影狼は全てがおかしく感じられてきた。
「アッハハハ…アッハハハッハッハッハッハハハハッハ…」
笑った。血を浴びるのは大層気持ちよかったではないか。命を奪うのは何事にも変え難い快楽ではないか。どうして、そんな素晴らしい行動を嫌悪しているのか。自分が馬鹿らしくて笑った。
「アハッハッハッハハハハッハッハッハッハハハハハハハッハハハッハッハッハハハハッハ…」
笑いは止まらなかった。モラルなんか消し飛んだ。私は妖怪ではないか。こういうことをするのが妖怪じゃないか。影狼は血だまりの中に飛び込んで暴れまくった。愉快だった。さっきまでは醜悪な味だった血も今は最高級のステーキにも勝る至高の食べ物に感じられた。ドンドン死体をかき分け齧り付いた。たくさんの死体を食べるうちに何となく味の違いがわかるようになってきた。こいつはスジっぽくて食べづらいが味はとてもよい、こいつはとろけるように柔らかいが少し味が落ちる、といった感じだ。これは病み付きになってしまうなと思いながら影狼は片っ端から食べ続けた。途中食べ過ぎて吐いた。それでも食べ続けた。やめられなかった。次はなんだ、次はなんだ、と楽しみながら食べた。人間も交じっていた。人間は不思議な味がした。なんというか、心の奥底からゾクゾクする様な感じだった。本能が喜んでいる。
食べた。食べた。食べた。こんな愉快なことは他にはない。どうしてもっと早く気付かなかったのだ。もっと食べたい。次は何だと死体の山から一つおもむろに取り出した。それはどこかで見覚えがあった。女のようだった。上半身は人間のようだったが、下半身は魚だった。顔は半分以上失われているがすごく綺麗だったのは容易に想像がつく。ぐちゃぐちゃになってしまっているがグラスマスだったようだ。そして、頭にはヒレがついている。少しずつ興奮していた脳が冷静になっていくのが感じられた。そして、そうする内にこれ、いや彼女が何なのかわかってきた。間違うはずがない。それは、それは____
「わか…ちゃん…?」
それは影狼が愛した少女。それは影狼がつい昨日傷つけてしまった少女。それは影狼が昨晩殺したであろう少女___わかさぎ姫だった。
「ああああああああああああああ!?あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫。絶叫。絶叫。声も涙もあらん限り溢れ出た。殺した。私が。私が愛した人を。心を傷つけたばかりでなく。さっきまで感じていた快楽や興奮というのは全て消え去ってしまった。代わりに心を埋めたのは深い絶望と悲しみと自責の念だった。さっき食べたものがもう吐きだされてしまった。涙と嘔吐物は混ざり合い影狼の悲しみの湖ができた。もう二度と私が愛した人は帰ってこない。ニ度と。永遠に。それから数時間は泣いていたように思う。とうとう、涙が枯れ果て私は倒れこんだ。そこには一輪の花があった。白く美しい花だったのだろうが、血に塗れ殆どの部分が赤く染まっていた。きっとわかさぎ姫が摘んだものだろう。近くに手紙と思われるものも落ちていた。それもわかさぎ姫が書いたものだろう。血で汚れていたので読み辛かったが何とか読むことができた。それを見た時枯れたと思っていた涙が再び溢れてきた。しかし、前と違って悲しみの涙ではなかった。嬉しさからの涙だった。私はわかさぎ姫に許され、愛されていたのだ。だったら私のすることは一つだけだ。わかさぎ姫を弔うことだ。わかさぎ姫は私が殺したのではない。暴走した妖怪の私が殺したのだ。かわいそうに死んでしまったわかさぎ姫を弔うのだ。私はおもむろにわかさぎ姫を横に寝かせた。そして、少しずつ肉を削いで自らの口に運んだ。ゆっくり、ゆっくり咀嚼していく。私とわかさぎ姫が一つになるのを感じる。血と肉が混じり合っていく。あまりにも美味な味であった。一かけら食べるのに十分程度要した。そのペースを守りながら私はゆっくりゆっくりわかさぎ姫を食べた、いや、わかさぎ姫と一体になっていった。私はわかさぎ姫となり、わかさぎ姫は私となるのだ。わかさぎ姫と一体になるのには丸一日かかった。
影狼は足を霧の湖と向けた。体中血に染まった姿だった。しかし、影狼の表情は優しかった。霧の湖の前に着くと、深呼吸を一つした。空気がおいしかった。そうして、水の中に一歩足を踏み入れた。チャプ、と一つ水の音がした。ふと、わかさぎ姫との思い出がフラッシュバックした。基本的にわかさぎ姫は霧の湖から出なかったっけ。だから、何時だっていろいろ話をしてあげたのだ。色々なものをあげた。その全てにわかさぎ姫は笑顔で答えてくれた。あの愛くるしい笑顔で。水面に映る自分の顔を見た。影狼は笑った。その顔はあの笑顔とは似ても似つかなかった。もう一歩足を踏み込んだ。更にもう一歩。足が半分くらい水につかる。冷たい。涙がポタポタと零れ落ちてくる。もっともっと足を進める。もう顔がでているだけとなった。一つスゥと深呼吸をした。そして足がつかない深さまで足を進めた。服が重い。沈むと思うと体が沈むというのは本当だったようだ。ドンドン沈んでいく。呼吸ができない。意識が薄れていく。「死ぬ」ということが足音を忍ばせて来る。そういえば、と思い出したことがあった。人魚の肉を食べた者は不老不死になるという話を昔何かで聞いたことがある。もしそれが本当なら、このまま湖の底で生き続けるのも悪くはない。そうすれば私も
____影狼の意識は途切れた。
影狼へ
まず、ごめんなさい。飛び出してしまって。
…書くことがないわ。貴方に謝ろうと思って書いているのだけれど、もう謝罪の言葉は書いてしまったしね。私が貴方の家がそんなに見たかった理由でも書こうかしら。私は貴方のすべてが知りたかったの。
…書いてて恥ずかしくなってきたわ。
この辺でやめておくわ。
偶には素直になるのも悪くないかもね。
わかさぎ姫
「おーい、わかちゃーん。」
と大きめな声でわかさぎ姫を呼んだ。彼女はちょっと怒った調子でバシャバシャ泳いで影狼の方に近づいた。
「そのわかちゃんって呼び方やめてって前から言ってるでしょ!影狼!」
「ごめんごめん、姫。今度から気をつけるよ。」
「その言葉何回聞いたことか…」
わかさぎ姫がブツブツ言う。
「迷いの竹林で筍が取れたから持ってきたよ。」
「あら、ありがとう。そういえば前から気になってたんだけど、貴方狼女なのに野菜とか食べるの?」
「失礼しちゃうわ。狼女だからって食べちゃ駄目かしら。」
「そんなことはないけどそういうイメージなかったから。」
二人は草の根ネットワークで繋がった友人だ。影狼は毎日わかさぎ姫に毎日会いに行っている。二人は何でも言い合える関係だ。互いに良き友人である。普段はおとなしいわかさぎ姫も影狼相手だとちょっと強気に出る。もっとも、前と比べるとズカズカ言うようになった気がする。小槌の魔力のせいだろうか。
「じゃあ私はもう帰るね。」
「もっとゆっくりしていけばいいのに。」
「そんな寂しがらなくても、明日も来てあげるから。」
「そんなんじゃないから!」
ちょっと切れた。最近は怒ることが多くなった気がする。素直になっているのか、影狼が怒りを煽っているのか。
「じゃあね、わかちゃん。」
「だからその呼び方はやめて!」
次の日、影狼は約束通りわかさぎ姫の元へ訪れた。これまた夕暮れ時である。影狼は決まってこの時間に訪れる。何故なら、わかさぎ姫が高確率で歌っているからだ。彼女の歌はいい。とりわけうまいわけでも無いが聞いていると元気が出てくる。そう影狼は感じている。影狼はしばらく歌を聞いていた。そして思う。あぁ、私はわかさぎ姫が好きなのだと。彼女の歌には彼女の全てが詰まっている。性格も表情も物の好みも彼女は歌に乗せているのだ。だから、歌を聞く度に彼女への愛しさを思い出すのだ。未だ伝える方法を知らぬ愛しい心を。また、伝える勇気だってなかった。今の関係が壊れてしまうかもしれないと思うとたまらなく怖かったのだ。
満足するまで歌声を聞いた影狼はわかさぎ姫に声をかけた。
「おーい、わかちゃーん。」
やっぱり怒った調子で近づいてくる。
「だーかーらー!その呼び方は…」
「わかったわかった。」
「絶対わかってないでしょ!」
「わかってる。わかってるよ。」
影狼はどれだけ言われようとわかさぎ姫のことをわかちゃんと呼ぶ。他の人は皆、姫と呼ぶ。影狼は自分だけがわかさぎ姫を特別な呼び方で呼んでいるという特別感と単純にわかちゃんと言う呼び方が可愛いからという理由でそう呼んでいる。もっとも、姫なんて高貴な呼び方はわかさぎ姫には似合わないと影狼は思う。
「で、今日はどんな用で来たの?」
「えっ?」
今日は用事など無かった。ただ、わかさぎ姫に会いに来ただけだ。
「えっ、て…」
わかさぎ姫は呆れ返っている。
「ここんところ毎日来てたからつい癖で…」
「じゃあ何の用もないのね…」
「うん、そう言う事になるね。」
即答。
「貴方って人は…」
「ごめんごめんわかちゃん。そうだ、わかちゃん何かやりたい事とかないの?」
「その呼び方はやめて!やりたい事?うーん…」
わかさぎ姫は腕を組んで頭のヒレをピクピク動かして考え始めた。
「そうだ!影狼の家が見たいわ!」
「へ?」
「いっつも、影狼が私のところに来るばっかりじゃない。だから偶には面白そうじゃない。」
「えっ、でも姫歩けないじゃない。」
わかさぎ姫は人魚である。そのため、下半身は魚だ。陸上を歩くようには作られていない。
「それは影狼が運べばいいでしょ?」
「運べって…それに私の家汚いし…」
「掃除すればいいじゃない。それとも私を家に呼びたくないの?」
「別にそういうわけじゃ…」
「じゃあ決まりね!直ぐには無理だろうから明日迎えに来てね!」
そう言うとわかさぎ姫はちゃぽんと湖の中に潜り消えてしまった。
影狼は自分の家である小さな木の小屋の中で困り果てていた。他の狼女がどうなのかは知らないが影狼は満月の時、姿は変われど性格は至って冷静だ。しかし、だ。彼女も妖怪である。如何に冷静で普段は雑食だったとしても、獣となった時血を見れば少なからず興奮する。我を忘れて肉を貪り食う時だってある。そのため、彼女の家は至る所に肉の破片だとか、血の跡がついていた。木でできていることもあってどれだけ拭いても落ちない。こんな状態の場所に心優しい虫も殺せぬわかさぎ姫を呼ぶことはできない。そもそも、人を招き入れるように自分の家を使ってなどいないのだ。影狼はうーん、うーんと悩み続けた。そうしているうちに夜も更けていった。
「ようやく来たのね!影狼!」
翌朝、約束通り影狼はわかさぎ姫の元を訪れた。わかさぎ姫を運ぶためにバスタブに車輪をつけたものを持参してきた。
「わかちゃん、この中に入って。運んであげるから。」
「だからその呼び方は…」
「ごめん。ごめん。」
わかちゃんと呼ばれたことに少し腹を立てたのかぶつぶつと言いながらバスタブの中に入った。それを確認すると影狼はキャルキャルと音を立てながらバスタブを押し始めた。しばらく二人は他愛もない会話をしながらどんどん道を進んだ。そして30分もした頃。
「ねえ、影狼。一体何時になったら貴方の家に着くの?」
「…ごめん。」
「えっ?」
「やっぱり私の家に姫を連れて行くことはできないよ。ごめんね。」
影狼は素直に謝った。結局一日考えてもいい策が思いつかなかったのだ。
「ひどいわ、影狼。やっぱり貴方は私の事が嫌いなのね!」
「違う、それは違うよ、わかちゃん。」
「もう知らないわ!」
そういうとわかさぎ姫はバスタブから飛びだした。そして、手と魚の下半身を器用に利用してピョンピョン移動し始めた。
「待って!」
影狼は叫んだ。しかし、わかさぎ姫から返事はなく、代わりに無数の弾幕が影狼を襲った。
影狼は全身に弾幕を受けた。普段であれば避けられていただろう弾幕を。影狼の体はボロボロだった。わかさぎ姫は本気で弾幕を出したわけではなかった。それに、影狼の体は妖怪のものであり、それなりに頑丈だ。しかし、影狼の体はボロボロになっていた。それは精神的要因が大きかった。自分が愛していた人からの拒絶の攻撃。それは影狼の心に傷を与えるのに十分すぎた。妖怪は精神的な攻撃に非常に弱い。それ故に影狼の体は大きなダメージを受けたのだ。
素直に家に案内しておけばよかったのだ。影狼は後悔した。後悔してもしきれないくらいだった。そのくらいのことで、と人は思うのかもしれない。しかし、影狼とわかさぎ姫は本気の喧嘩などしたことがなかった。それぐらい仲が良かったのだ。痛む体を引き摺って、影狼は自分の家に帰った。
少しやりすぎてしまっただろうか。少し後悔しながら、わかさぎ姫はなんとかピョンピョンピョンピョンと飛んで霧の湖へと戻っていた。いや、偶にはあれぐらいやったっていいのだ、いつもわかちゃんと呼ぶしかえしだ。しかし、弾幕を出したのは少しやりすぎだっただろうか。優しい心の持ち主の彼女には影狼を傷つけたという事実が心を蝕んでいた。何かにつけて色々持って来てくれる影狼。毎日、通ってきてくれる影狼。いつだって私のことを考えてくれる影狼。そんな影狼を傷つけてしまった自分が、わかさぎ姫は急に言いようもなく申し訳なくなってきた。誰にだって隠しておきたいことの一つや二つあるだろう。それなのに私はなんてことをしてしまったんだ、と。
______謝ろう。それが一番だ。素直に謝れば、影狼だって許してくれるだろう。しかし、いざ本人を前にすると謝れないかもしれない。念には念を入れろ、という。手紙を書こう。後、謝罪の気持ちが伝わらなかったら困る。石コレクションの中から選りすぐりの何個かを一緒に渡そう。そのまま渡すのは無粋だ。何か箱に入れて渡さなければ。そういえば、影狼は石が好きだろうか。好きでなかったらやっぱり困る。その辺りで綺麗な花を摘んでそれも渡そう。次影狼が来てくれるのは何時だろう。もしかしたら、来てくれないかもしれない。なら、こちらから出て行った方が良いだろう。なら、なるべく早くの方がいいだろう。そうだ、今晩行ってしまえるようにしよう。そんなことを考えているうちに時間はどんどん過ぎて行った。
日が急速に沈んでいく。影狼は家で酷く項垂れていた。相変わらず体はボロボロのままだった。全てを失った気分だった。まだ、自分の中の思いを告げてもいなかった。これから、永遠に告げられることはないだろう。影狼はことを重く考えすぎる節があった。自分の行動がわかさぎ姫を深く傷つけてしまったと信じて疑わず、自分自身を責め続けた。そんなことえおして何になるというのか、わかさぎ姫にも許されず、問題は何も解決しない。寧ろ、自分が苦しくなるだけじゃないか。影狼は退廃的になっていた。こんな家だったからいけないのだ。こんな血が染みついた忌々しい家だからわかさぎ姫を呼べなかったのだ。そこまで考えて影狼は思った。そうなったのは全部自分の所為じゃないか、と。いや、ここまで来たらそんなことはどうでもよかった。壊してしまおう、こんな家。また、家なんてゆっくりと作ればいい。気を紛らわそうと思った。しかし、そんなに思い通りにはならなかった。壁を三枚ぐらい剥がしたあたりで酷く虚しくなってきた。少し穴が空いた家で影狼は横たわった。眠るわけでもなくただ虚空を見つめていた。
そうこうする内に夜になった。影狼はまだ横たわっていた。しかし、そんな影狼の体に変化が起きた。体はより毛深く、顔は狼のそれに、ツメは鋭くなった。今日は満月だったのだ。普段、影狼は冷静で満月であってもある程度自分の意思で姿を抑え込むことができる。しかし、心身共に弱っている今抑え込むことができずに勝手に姿が変わったのだ。そして、その姿になるということは、妖怪としての性が全開になるということを意味する。普段の彼女ならそうなることはないのだが、状況が状況である。痛む体を無理やり叩き起こし影狼は夜の竹林にくり出していった。
迷いの竹林はひどく静かだった。空にはただ、満月だけが空に浮かび、煌々と妖しく輝いていた。地上には狼の姿をした妖怪が一匹目をギラギラと輝かせていた。息はひどく荒く、血腥い匂いがこべりついていた。それは、その獣はひどく苦しそうで、ひどく悲しそうで、ひどく虚しくそうであった。それは突然飛び出し偶々近くを通りかかった兎の喉笛を切り裂いた。血が噴き出し兎は絶命した。その血を全身に浴びながら、それは一つ遠吠えをあげた。さっきまでの感情は感じられず、全てを忘れているようだった。兎の肉を喰らうことはしなかった。それは物を言わなくなった兎の死体を自分の塒(ねぐら)に運んで行った。塒の中には兎以外にも幾つもの遺骸で埋め尽くされていた。それは満足そうに笑みを一つ浮かべるとさらなる獲物を求めて竹林を嬉しそうに駆けて行った。
不幸な人間の男が一人いた。迷いの竹林に、それも夜に迷い込んでしまったのだ。幻想郷の住人はどんな馬鹿でもそのような迂闊な真似をする者はいない。おそらくは外来人だろう。おろおろと彷徨い歩いている内に男はそれに出会ってしまった。血を求め続けるそれは形振り構わず襲い掛かった。ツメで首を切り裂いた。やはり、即死だった。鮮血を全身に浴び、絶頂にも似た強烈な叫び声をあげた。そして、男の死体も自分の塒へ運び込んだ。塒は血と肉の破片で覆い尽くされていた。それは再び新たな獲物を求めて駆け出そうとした。しかし、そうする事はなく、そのまま血と肉の海に倒れこみ、意識を失った。
朝日が差し込んでくる。横たわっていた影狼は目覚めてしまった。目覚めは最悪だった。とてつもない異臭が周りに漂っている。もっと眠っていたかった気がする。しかし、目がさえてしまって再び寝付くことはできなかった。しばらく時間が経つと口の中に鉄の味が広がった。それはまさしく血の味だった______そのまま嘔吐した。ゲロゲロゲロゲロと胃の中にある全ての物を吐き出した。足元に嘔吐物の水たまりができた。もう吐く物は何も無いのに嗚咽が何度も何度も繰り返し溢れてくる。その度に口から僅かにポタポタと唾液が落ちた。そして、声にならない叫びが唸りをあげた。頬は熱い水がつたり、吐き気は終わることなく押し寄せてくる。もう、血を吐き出しそうだった。いやその方がいいかもしれない。血を吐いてそのまま死んだ方が楽かもしれない。見渡す限りの真っ赤な血、数えきれない程ある死体の山。影狼はこれを築き上げてしまったのが自分なんだと未だに信じられなかった。しかし、間違いない事実なのだ。その事実が再び吐き気を催した。急に影狼は全てがおかしく感じられてきた。
「アッハハハ…アッハハハッハッハッハッハハハハッハ…」
笑った。血を浴びるのは大層気持ちよかったではないか。命を奪うのは何事にも変え難い快楽ではないか。どうして、そんな素晴らしい行動を嫌悪しているのか。自分が馬鹿らしくて笑った。
「アハッハッハッハハハハッハッハッハッハハハハハハハッハハハッハッハッハハハハッハ…」
笑いは止まらなかった。モラルなんか消し飛んだ。私は妖怪ではないか。こういうことをするのが妖怪じゃないか。影狼は血だまりの中に飛び込んで暴れまくった。愉快だった。さっきまでは醜悪な味だった血も今は最高級のステーキにも勝る至高の食べ物に感じられた。ドンドン死体をかき分け齧り付いた。たくさんの死体を食べるうちに何となく味の違いがわかるようになってきた。こいつはスジっぽくて食べづらいが味はとてもよい、こいつはとろけるように柔らかいが少し味が落ちる、といった感じだ。これは病み付きになってしまうなと思いながら影狼は片っ端から食べ続けた。途中食べ過ぎて吐いた。それでも食べ続けた。やめられなかった。次はなんだ、次はなんだ、と楽しみながら食べた。人間も交じっていた。人間は不思議な味がした。なんというか、心の奥底からゾクゾクする様な感じだった。本能が喜んでいる。
食べた。食べた。食べた。こんな愉快なことは他にはない。どうしてもっと早く気付かなかったのだ。もっと食べたい。次は何だと死体の山から一つおもむろに取り出した。それはどこかで見覚えがあった。女のようだった。上半身は人間のようだったが、下半身は魚だった。顔は半分以上失われているがすごく綺麗だったのは容易に想像がつく。ぐちゃぐちゃになってしまっているがグラスマスだったようだ。そして、頭にはヒレがついている。少しずつ興奮していた脳が冷静になっていくのが感じられた。そして、そうする内にこれ、いや彼女が何なのかわかってきた。間違うはずがない。それは、それは____
「わか…ちゃん…?」
それは影狼が愛した少女。それは影狼がつい昨日傷つけてしまった少女。それは影狼が昨晩殺したであろう少女___わかさぎ姫だった。
「ああああああああああああああ!?あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫。絶叫。絶叫。声も涙もあらん限り溢れ出た。殺した。私が。私が愛した人を。心を傷つけたばかりでなく。さっきまで感じていた快楽や興奮というのは全て消え去ってしまった。代わりに心を埋めたのは深い絶望と悲しみと自責の念だった。さっき食べたものがもう吐きだされてしまった。涙と嘔吐物は混ざり合い影狼の悲しみの湖ができた。もう二度と私が愛した人は帰ってこない。ニ度と。永遠に。それから数時間は泣いていたように思う。とうとう、涙が枯れ果て私は倒れこんだ。そこには一輪の花があった。白く美しい花だったのだろうが、血に塗れ殆どの部分が赤く染まっていた。きっとわかさぎ姫が摘んだものだろう。近くに手紙と思われるものも落ちていた。それもわかさぎ姫が書いたものだろう。血で汚れていたので読み辛かったが何とか読むことができた。それを見た時枯れたと思っていた涙が再び溢れてきた。しかし、前と違って悲しみの涙ではなかった。嬉しさからの涙だった。私はわかさぎ姫に許され、愛されていたのだ。だったら私のすることは一つだけだ。わかさぎ姫を弔うことだ。わかさぎ姫は私が殺したのではない。暴走した妖怪の私が殺したのだ。かわいそうに死んでしまったわかさぎ姫を弔うのだ。私はおもむろにわかさぎ姫を横に寝かせた。そして、少しずつ肉を削いで自らの口に運んだ。ゆっくり、ゆっくり咀嚼していく。私とわかさぎ姫が一つになるのを感じる。血と肉が混じり合っていく。あまりにも美味な味であった。一かけら食べるのに十分程度要した。そのペースを守りながら私はゆっくりゆっくりわかさぎ姫を食べた、いや、わかさぎ姫と一体になっていった。私はわかさぎ姫となり、わかさぎ姫は私となるのだ。わかさぎ姫と一体になるのには丸一日かかった。
影狼は足を霧の湖と向けた。体中血に染まった姿だった。しかし、影狼の表情は優しかった。霧の湖の前に着くと、深呼吸を一つした。空気がおいしかった。そうして、水の中に一歩足を踏み入れた。チャプ、と一つ水の音がした。ふと、わかさぎ姫との思い出がフラッシュバックした。基本的にわかさぎ姫は霧の湖から出なかったっけ。だから、何時だっていろいろ話をしてあげたのだ。色々なものをあげた。その全てにわかさぎ姫は笑顔で答えてくれた。あの愛くるしい笑顔で。水面に映る自分の顔を見た。影狼は笑った。その顔はあの笑顔とは似ても似つかなかった。もう一歩足を踏み込んだ。更にもう一歩。足が半分くらい水につかる。冷たい。涙がポタポタと零れ落ちてくる。もっともっと足を進める。もう顔がでているだけとなった。一つスゥと深呼吸をした。そして足がつかない深さまで足を進めた。服が重い。沈むと思うと体が沈むというのは本当だったようだ。ドンドン沈んでいく。呼吸ができない。意識が薄れていく。「死ぬ」ということが足音を忍ばせて来る。そういえば、と思い出したことがあった。人魚の肉を食べた者は不老不死になるという話を昔何かで聞いたことがある。もしそれが本当なら、このまま湖の底で生き続けるのも悪くはない。そうすれば私も
____影狼の意識は途切れた。
影狼へ
まず、ごめんなさい。飛び出してしまって。
…書くことがないわ。貴方に謝ろうと思って書いているのだけれど、もう謝罪の言葉は書いてしまったしね。私が貴方の家がそんなに見たかった理由でも書こうかしら。私は貴方のすべてが知りたかったの。
…書いてて恥ずかしくなってきたわ。
この辺でやめておくわ。
偶には素直になるのも悪くないかもね。
わかさぎ姫
切ない