あたいは、法廷にいた。
地獄を担当する閻魔様の前で、両手をしっかり荒縄で固定され。
飼い猫のような首輪をつけられ。
そのキツイ輪の外側にも荒縄が括りつけられている。
あたいが、逃げる。
そう思ってこんなことをしたのかもしれないけれど、本当に見る目がないねぇここの閻魔様は。あたいの目を見てわからないのかい?
こんな死んだ目をした火車が、逃げようとするはずがないじゃないか。
ほとんど意思のない瞳で一番偉い裁判長のところを見れば、あたいに関する資料を開こうともせずじっと時を待つように瞳を閉じていた。
そりゃぁ、そうだろうね。
こんなちっぽけな妖怪一人に長々と時間はかけられない。そういう場所だってよくわかってるさ。
「……被告、燐は火車でありながら死神が命を奪った魂を地獄へと運び、怨霊に変えようとした」
「あんな悪人、輪廻から外れるのがお似合いだよ……」
「被告人は発言を許可されてからするようにっ!」
はいはい、黙りますよ。
そうだよね。
死神はあたいたちと違う。
悪人であろうが善人であろうが、その鎌で刈り取られたものは転生が約束されるのさ。神でありながら、神に仕える農夫と言われるように。熟した魂を持っていくだけ。だから気に食わない。ああやって、従うままに作業を行う。
でも、あたいたちは違う。
火車は、その敏感な嗅覚で極悪人の魂を嗅ぎ分けて、自分で判断する。
法廷を介することなく、死人を相応しい地獄へと運んでから。
その魂を怨霊へと変え、輪廻の輪から外すんだよ。
そりゃあ、火車の中には横暴なやつもいる。
なんでも地獄に運びたがるやつがさ。
でも、あたいや、あたいの知り合いにはそんなやついない。
プライドを持って、火車として嗅ぎ分け続けてきた。
悪人の魂ってやつを。
相手がどうやって抵抗しようがお構いなしに運びつづけた。
だからあたいたちみたいな火車が働きものだと、閻魔はお株を奪われる。
そんな火車が一部の閻魔から疎い目で見られているのは知っていたさ。
知っていたけれど……
「火車、燐は過去に三度同じことを行おうとして、死神から抗議を受けている。この事実に相違ないか?」
「そのとおりだよ。でも、あのときは無理やり死神があたいを――」
「被告人は、必要以上の回答をしないように」
ははっ、なんだいこれは。
勝手にしゃべってはいけない。
しゃべる機会を与えられても、いらないことを口にするな。
これが、天下の閻魔様のすることだっていうのかい。
「被告人『燐』は死神の公務を幾度となく妨害した経緯があるが、その度に温情で解放されてきた。だが今の証言でも見えるとおり、反省の色もない。よって――」
さあ、どうするんだい?
あたいを処分するかい?
そりゃあ、無理ってもんさ。
「死体の収集場所を制限するものとする」
ほらね。いくら閻魔の権限が強かろうと。
死神の通常業務を妨害した程度なら、制限を与えられるくらいだろう。その程度のことにこれだけ大掛かりにあたいを縛り上げて何をしようと――
「許可される場所は、旧灼熱地獄のみ。以後、現在以上の職務に励むよう」
罪状を告げた閻魔の、冷静な表情の中に一瞬表れた表情。
あの蔑んだ笑みを、あたいは一生忘れない。
旧、地獄――
淡々と、閻魔様が告げた答えに、あたいの体の中に衝撃が走る。まるで雷に打たれてしまったかのように、呆然と立ち尽くした。
しかし、その真意を察した瞬間に。あたいの体は動いていた。
その喉笛に食らいつこうと。
爪をその顔に突き立ててやろうと。
「ふ、ふざけるんじゃないよっ!
旧地獄がどういうところか、知ってていってるのかいっ! あんな人間が誰も住んでいない。鬼や妖怪しかいないような場所に、あたいを放り込んでっ! 人型の死体なんてどこにあるっていうのさっ!
くそ、はっきり言えばいいじゃないか。
お前のような火車は死ねって! はっきり言ってみなよっ! この腐れ閻魔っ!」
そうか。
だから、これか。
罪状を告げれば暴れると、わかっていたから。こんなにも厳重に。あたいに拘束具をつけた。
そしてこの結果を見せるために。
あたいの、友人である。
火車たちを傍聴席に呼び出した。
そうだ、あたいは見せしめだ。
これ以火車がでしゃばるようなら、同じ処分をくだしてやるという。そんなくだらないことのために、利用された。
「ふふ、あはは……あはははっ」
あたいは笑った。
地面に押さえつけられたまま、乾いた笑い声だけを響かせた。
その中でも唯一の救いは、ぐしゃぐしゃに、涙で塗れた顔を。仲間たちに見られないですんだこと。
それから、あたいは、3日間拘留され。
新しい居住先へと、運ばれた。
忌み嫌われた者達が集う世界へと。
◇ ◇ ◇
旧灼熱地獄――
あまりに過酷なため、最近になって地獄から除外され。
今はその炎すら上がることはない。
それが、あたいが聞かされた灼熱地獄の噂だった。
火車には致命的な、寒さの厳しい洞窟だってね。
だからさ、ああ、こりゃ。殺されたなって思ったよ。
しかも罪状が書かれた書類を受け取ってみたら、旧灼熱地獄で拾った死体はそこで処分するように、だそうだ。
つまり、旧地獄あたりから出てくるなってね。
あたいもお払い箱ってこと。
そうやって自棄になって、暗い洞窟へ足を進めたら。
「おや?」
思わず首を傾げたね。
実際に足をつけたその世界は意外にも暖かかくて、拍子抜けしちゃったよ。実に過ごし易い、快適な空間だ。肌に触れる空気は地表よりも湿ってはいても、不快感は感じない。
そんな珍しい洞窟をきょろきょろと見渡しながら、がたがた、と台車を押して地底へ向かう。その途中で見つけた鼠や蝙蝠の死体なんかをついつい台車へと乗せてしまうのは癖ってやつかな。仕事柄、何かの死体を乗せていないと落ち着かないんだからしょうがない。動物たちに罪があるかといわれれば、首を傾げるしかないけどね。
そうやって死体を見つけるたびに立ち止まるという、他人からは奇妙に見える行動を繰り返していると。
この世界の先住者かな。
土蜘蛛と、つるべ落としの妖怪がいきなり天井から降りてくる。
どうやら新しい住人であるあたいに、歓迎の挨拶をしてくれているようだ。知らない土地とはいえ、挨拶されるというのは悪い気がしないね。あたいも簡単な会釈だけを返し、ものはついで、と旧灼熱地獄の場所を尋ねることにした。
「そんなところへ行ってどうするの?」
すると、逆に至極当然な質問を返されてしまったけど。
あたいはそれに対する答えを最初から持ち合わせている。
「あたいは旧地獄で死体を集めることになった火車だから。ひとまず死体を処分できそうなところを目指そうと思ってね」
無難にそう答えたけれど。
何故か二人はじっとこちらを見つめてきた。
あたいの体というより、耳とか、身なりとか。
「あのね、灼熱地獄にはこの場所を暖かくしてくれる妖怪がいるから、その子を襲っちゃだめだからね」
そうやって一通りあたいを観察し終えた土蜘蛛が、急にそんなことを言ってくる。
おかしなことを言うお人だね。まったく。
あたいが初対面の妖怪に襲い掛かるような、乱暴な風貌をしているとでも言うのだろうか。警戒されないように、一番落ちついた色の服を選んで持ってきたっていうのにさ。
「はいはい、ありがとねぇ~、おねぇ~さん」
なるほど、炎が消えたと噂される灼熱地獄だけど。
それを管理している妖怪がいるのから、ここまで過ごしやすい状況になっているということか。
あたいは妖怪に教えられたまま、途中にあった旧都と呼ばれるところを一気に通過して。旧地獄跡へと降り立った。
『地獄街道を行くと、穴があるから。そこに潜ってしばらく進むといいよ。ただし熱いから気をつけてね』
そんな土蜘蛛のお姉さんの言葉どおり。
噂とは全然違う風景が、あたいの視界一杯に広がっていた。
目の中に飛び込んできた順番に色で表現するなら。
赤、茶、黒。
こぽこぽ、と煮えたぎる鍋を思わせる赤い沼地に。
ごつごつした、こげ茶色の岩場。
それを真っ黒な天井を覆っていた。
しかし、その黒い天井の岩には宝石の原石でも含まれているのだろうか。
赤い沼地の輝きに照らされ、所々キラキラと瞬いている。
それはまるで星空のように……
「って、優雅に感想いってられるような温度でもないね、こりゃ」
火の妖怪であるあたいだから、余裕で過ごせるけれど。
おそらく人間なんかがここに入ってきたら、呼吸もできないだろう、冗談抜きで。その証拠に、あたいが台車に乗せてきたねずみの死体が若干、干からびて見えるし。
「この広さを一人で管理か。相当凄い妖怪だね。うん。見習いたいものだよ」
釜茹で地獄の程よい熱さより、肌にツン、と来るような熱が好きなあたいにとっては、これほど過ごし易い世界はない。きっとここの妖怪となら気が合うはず。もしあたいより年上の火車だったりしたら、愚痴を言い合うこともできるだろうし。地獄に仏とはこういうことかもしれないね。
頭の中でその妖怪の姿を思い浮かべていると。
その先に一段と大きな赤い沼地が見えた。
「おや?」
たぶん、ここが最奥なんだろう。
壁がぐるりっと沼地を覆うように半球状になっているし、陸地も一番広々としている。自分がもし住むとすれば、ここかかもしれない。そう思って、妖怪が近くにいないか探してみるのだが……
まったく姿が見えない。
いるとすれば、焼け焦げた止まり木で足を休める。
黒い、烏だけ。
……烏?
この熱さに耐えるなど、なんと珍しい。
地獄にも死体をついばむ烏はいたが、こんな灼熱の外気に耐えるようなやつは見たことがない。そんな珍しい烏は……
いったい、どんな味がするんだろう。
火車でありながら化け猫の要素を含むあたいは、ときおりこんな風に、欲望が一気に湧き出てしまうときがある。珍しいものを見たときなんて特に顕著で、ついつい仕事を忘れて追いかけてしまう。今も目の前の烏を見ているだけで、飲み干せないほどの唾液が出てしまっていた。
自然と、音を立てないように爪先立ちになり。
もっと、もっと、あの烏を仕留めるのに適した形へ。
そうやって頭の中で、最高の狩り方を思い浮かべているうちに、あたいは、無意識に黒猫状態になっていた。本能が、この姿が適していると判断したんだろう。
なら、後は小さな身長を生かして。
岩場を使って、限界まで接近し。
地面に体を付けるくらい、力を溜めて。
蹴るっ。
がっ、とその衝撃で小石が飛び、大きな音を立ててしまったせいで、休んでいた烏が気づくけど、もう遅い。
あたいは、慌てて羽を振り回す烏の体を前足で押さえつけ、その瞬間に猫から人型へと変わる。たったそれだけで、両手で烏の羽を掴むことに成功する。
ほら、簡単な作業だ。
あとはその柔らかそうな肉に、牙を突き立てるだけ……
なのに……
たったそれだけなのに……
いきなり、掴んでいた烏が膨れた。
視界一杯に、腕一杯に。
抱えきれないほど大きくなったかと思うと。
「んにぁっ!!」
ごすっと、音がして。あたいの目の前に綺麗な星が飛んだ。
「っ!?」
奇妙な声を出しながら、あろうことかあたいに頭突きをかましてきたんだよ。獲物を捕らえたと思って油断した瞬間に、無防備な額を打ち抜かれ意識が飛びかけちゃってね。烏ごときに舐められちゃあ化け猫兼火車の恥ってもんだ。
黒い、大きな羽を広げて威嚇する、人型になった烏。
それに向かって、ふらつきながらも突進し。
……えっとね。
その後は、もうめちゃくちゃだった。
もう子供のケンカだ。
あたいが羽を噛んだら、烏の子が大きな耳を噛み返し。
あたいが引っかいたら、大きな羽で打ち払う。最後はもう取っ組み合いのまま地面を転がって。
最後は二人とも、傷だらけになって大の字で寝転んだ。
「はぁ……あ、あたいの、勝ち……」
「はぁ……はぁ……私の勝ち……だよ」
荒い息を零すことになったけど。あたいが勝った。
うん、勝った。
ひきわけじゃないよ?
あたいが、勝ったんだよ?
あの頭突きは、反則だから。不意打ちは卑怯者のすること、うん。
あたいのは狩りのための攻撃だから、仕方ない。卑怯じゃないし。
「ねえ……ちょと、聞きたいんだけどさ」
深呼吸して息を整えて、あたいは体を起こす。
少し気になることがあったからだ。
「あんたって、ここの火力調整してる妖怪?」
「ん、やってる。誰もする人いないから」
よかった。
知らないまま食べなくて本当によかった。
土蜘蛛のおねぇさんが、あたいの姿を見て注意したのはこういうことだったのか。確かに猫は鳥を襲うからね、うん。
ただ、そうやって襲い掛かって今ごろお腹の中にこの子がいたら、と思うと。
考えただけで全身から冷や汗が吹き出てくる。
だって地獄の旧都には鬼だっているって話じゃないか。そんなやつらからお叱りを受けようもんなら生きている心地がしないだろう。
そもそも生きていられるかが怪しい。
そうやってあたいが地面にしゃがみ込んで恐怖に戦いていると。
「んー?」
いきなり、その烏だった娘があたいに近寄ってくる。四つん這いになって。
しかも無防備に顎を上げているせいで首筋という急所を晒したまま。
もう手を付けるつもりはないけどさ。
いくらなんでも、無頓着すぎるだろう。赤い沼地のせいでオレンジ色に輝きを放つ瞳を向けながら、あたいの頭の上と側頭部を交互に指差してくるし。
「もしかして、あたいの耳が気になるのかい?」
「ん、なんか4個あるし」
「あたいはね、火車と化け猫の二つの要素を持った妖怪だから。4つあるんだよ」
「あー、そっか。2たす2だから4個っ! あれ、2かける2かな?」
「両方とも4個になるね」
「おお、二つも正解しちゃうなんて、さすが私っ」
そう言いながら、今度はあたいの前で偉そうに胸を張ってくる。
えっへん、という声が聞こえてきそうなほど。
しかし余計に防御が甘くなったのは言うまでもない。まったく、知らない人に不用意に近づいちゃいけないっていうのは常識だと思――
――おや?
この娘がいた状況からして、何かあると思っていたんだけどさ。
まさか、とは思うんだけど。
「ねえ、もしかして烏の仲間っていないのかい?」
「ん、ずっと一人だけど?」
やっぱり、そうか。
この危なっかしさは、無意識でやってるんじゃない。
誰も教えてあげなかったから。
教えるべき仲間がここにいなかったから、この娘はこんなにも無邪気に他人に近づこうとする。もし、あたい以外の腹を空かせた化け猫なら、のど笛を掻っ切っているところかもしれない。それでも一度でも命の危険性を感じれば警戒するはずなんだけど。
「それと、ここってお客さんとか来るのかい?」
「んー、全然来ないいよ。たまに勇儀って鬼の人がご飯わけてくれるけど。入り口まで来いって言うし」
この、普通の妖怪じゃ近付こうと思わない温度の旧灼熱地獄が、良い意味でも、悪い意味でもこの娘を守ってきた。妖怪なら耐えられないわけじゃないけど、耐えてまで生活するところでもなさそうだし。それにこの娘が灼熱地獄を管理しているからこそ、地底が快適な空間となっているんだろうし。本当に箱入り娘みたいに育てられたのかもしれないね。
仲間もいない。
一人っきりの空間でさ。
それは、あまりに、 寂し過ぎじゃぁないか。
「そっか、そうなのか。うん、決めたよっ! あたいが一肌脱ごうじゃないか!」
「ん? 脱ぐ? やっぱり熱いの?」
「……そういうことじゃなくてね」
あたいはパタパタと手を左右に振って、苦笑いを浮かべた。
今時、それくらいのことがわからない奴なんていないと思ったからね。
「いやね、あたいも一人身だしさ、ちょうどいいから仲間になってみないかってことだよ。昨日の敵は今日の友、っていうじゃないか」
「……えーっと、仲間ってことは」
うー、っと唸りながら。ぺたんっと腰を下ろし。
必死に何かを考え始める。
ああ、やっぱり一人の時間が長過ぎて、簡単に返事ができないんだろうね。わかるよ、あたいも小さい頃は意外と恥ずかしがりで、別の妖怪に話し掛けるなんて全然――
「ん~、仲間になるってことは、そっちが烏になるってこと?」
「……そうきたか」
まさか、そこから説明しないといけなくなるなんて思わなかったよ。
てっきり過去との葛藤とかそういう熱い心情なのかと思ったのに、この娘ときたらもう。
「それでも伝わらないのか。じゃあ、なんて言えばいいのかなぁ。あ、ほら。友達。友達になろうっ! ってことさ。手を取り合えば妖怪みな友達~♪ ってね」
すくっと立ち上がり。
その場でくるりっと一回転。
そして、あたいとしては精一杯の笑みを作って見せた。
輝やくくらいの笑顔を浮かべて、手を差し出したんだけどね。
「…………」
きょとんっとした顔で見上げたまま、座ってるよ、この子。
あたいの手を握り返そうともせず、じーっと見てるだけ。
うん、無反応だと、あたいがおもいっきり滑ったみたいで凄く寂しいんだけどね。でもこの言葉でも伝わらないならどうしようか。仲良くなろう、とかそういうのの方がいいのかな。それともここは大胆に、好きとか言ってみるか。いや、まて、早まるな、あたい。この子にいちかばちかの勝負をしたらほぼ絶対悪い方向に転ぶ気が――
「と、友達っ、ともだちぃっ!!」
「う、うわぁっ!? な、なんだい、いきなりっ」
次の策を練りつつ、出した手を引っ込めようとすると。それを追いかけるように目の前の娘が飛びついて来て。あたいの体をぎゅっと抱きしめてくる。あれだよ、あたいよりも知識はないみたいだけど身長や体つきは大人っぽいからねぇ。
なーんか、顔の前に不愉快な肉の塊が当たるんだけど。
「友達って、アレでしょ? ヤマメとかキスメみたいに、一緒に遊んだり、一緒にご飯食べたり、一緒にお話したりするんでしょ? なるなる、友達っ!」
しかも、ぴょんぴょん飛び跳ねるから。余計にあたいの顔にぶつかってきて、もうなんなんだろうね。ま、いいけどさ。たまにはこういうのも悪くないか。諦めて為すがままにされていると、急にその息苦しさが無くなり、変わりに肩を掴まれた。
目の前には満面の笑みを浮かべた奴がいて、ご機嫌に羽を揺らしている。
「あ、そうだよ。お友達なら、名前で呼び合わないとね! 私は『うつほ』! みんな『お空』って呼ぶよ」
「あたいは、『燐』、お燐って呼び捨てでいいよ」
「おりーんりんりん!」
「できれば繰り返しは止めて欲しいんだけどねぇ……」
まあ、この子が私以外の友達と付き合えるようになるまで。最低でもそれくらいは世話を見てやろうか。
あたいはそんなことを考えながら。
視線を下に落として。
「こういうことなら、ちゃんと荷物整理して持ってくるんだったねぇ」
ひとまず、異性を下手に誘ってしまいそうなほど穴だらけになった。そんなお気に入りの一張羅の胸のあたりの穴に手を入れたら、思わずはぁっとため息が漏れてしまった。
まずは衣服の調達でもしてやるとするか。
同じようにボロボロになった服を身に付けるお空に目をやりながら、首から下げたがま口を開いた。
……でも、空っぽだった。
◇ ◇ ◇
火車ってやつはね。
本来死体を定期的に運ばないと、存在が危うくなる。
だから死体の少ない場所に縛り付けられると、死んだも同然になるのが普通なんだけどね。
「お空、ネズミ食べる?」
「あ、うん。食べる、お燐がくれるものなら何でも食べるよ! 犬でも猫でも!」
「ははは、猫は勘弁してほしいねえ」
あたいは化け猫が変異した火車だから。普通に食べ物を取るだけで命を維持できる。だからお空の管理する温暖な地底で繁殖したネズミなんかは、あたいの格好の食べ物ってわけ。お空も烏から変異した妖怪だから、どうやらネズミは好物らしい。あたいが地面にいたやつを目にも止まらぬ早業で打ち上げると、ぱくっと器用に口で受け止めたりね。
「まだいるかい?」
「んー、もういいよ」
「おやおや、小食だねぇ」
そして驚いたことに、このお空という子は非常に燃費がいい妖怪みたいで。ねずみ一匹で五日は生活できるんだって。何故かって聞いたら。
『私は火力調整しかできないし』
少々難解な答えが返ってきた。
たぶん、それくらいしかできない。つまり妖怪の癖に固有の能力を持っていないせいで、余計なことに力を使う必要がないってことかなと思う。まあ火に強くて、変身できれば十分じゃないかって思う妖怪のお兄さんもいるかもしれないけどね。
あたいたちみたいなか弱い女妖怪は、やっぱり自分の身を守る手段が必ず必要なんだよ。あたいだったら、死体を運んだりする能力の延長上で、死霊とか怨霊を操れたりしちゃうんだよ。知り合いの火車からは『ネクロマンサー』ならぬ、『ネコロマンサー』なんて、妙な二つ名で呼ばれたりって。
「おっとと、馬鹿の考え休むに似たりってね。お空、旧都にはあんたの知り合いがいるのかい?」
「うん、頼りになるお姉さんって感じ」
ガタガタと、岩場の上で台車を転がし、スキップをしながら横を進むお空に問い掛けると、明るい顔のまま返事が返ってきた。ただつまみ食いしながら歩いてるだけだっていうのに、何が楽しいのかねこの子は。
ん、なんだい? そこの怨霊くん。
あたいたちが何しに旧都に向かってるかって?
散歩?
死体集め?
いやいや、違うんだよ。
これでも花も恥らう乙女だからね、ぼろぼろになった服を修繕してもらおうかとか。新しい服を買っちゃおうかとか。あわよくばお空の知り合いなんかにお古なんかあったら譲ってもらおうかなぁ、なんて思ってね。
む? 変化できる妖怪なら衣服は体の一部で思うがままなんじゃないかって?
いやだいやだ。
これだから無粋なお人は嫌いだよ。
確かにそういうこともできるけどね、そのときに服を傷つけられれば、体を傷つけられれたことと同じ意味を持つじゃないか。
それにね、妄想の中の服にはない。独特のリアリティっていうのかね。
そういうのがいいんだよ。
……正直言えば、服の変化が苦手なだけなんだけど。
そういう細かいことは気にしない
それが通ってもんさ。
「ねえ、お空?」
「うにゅ?」
ほら、お空だって首を傾げてるよ。
なんでそんなことがわからないのって言いたいんだろうね、うん。さすがお空だ。
決してよくわからないからとりあえず首を傾げてみたとか、そういうのじゃないね、間違いない。
「あ、ほら、見えた見えた。旧都だよ。あそこにキスメとか、ヤマメとかも暮らしてる」
あたいがうんうんっとうなづいていると。お空が進行方向を指差して嬉しそうな声を上げた。それからぐいぐいって、強引に手を掴んで引っ張るんだよ。もう、なんなのかねぇ。急がなくても町はなくならないし、それに一応昨日通過したから町の外観は把握したつもりさ。仕事柄一度見た地形は頭に入るんだよね。まあ、中に入ってみないとわからないことがあるんだけどさ。
そりゃあ、見事に……噂どおりと予想外が入り混じった場所だったよ。
「鬼とか、変わった妖怪が多いねぇ……」
炎が消えた灼熱地獄、っていう情報はガセネタだったけど。
忌み嫌われた妖怪が暮らす場所、っていうのは本当らしいね。見たことのない妖怪ばかりだよ。鬼が比較的多いのが気になるところだけど、町の人を見て回るだけでも楽しいねぇ。
しかも、そんな妖怪たちが住む家や町並が、あまりに普通なのが余計に面白くてね。中央通りっていうのかな。十人ほど横に並んで悠々と歩けそうな道幅の通路があって、そのまわりには大きな店や屋敷が並んでるし、そこにつながる小さな路地には長屋って感じで家が繋がってるんだよ。
お空はたぶん、あたいを案内しているつもりなんだろうね。
中央通りをまっすぐ歩くんじゃなくて、長屋に繋がる裏通りも歩いたり。ここのお饅頭が美味しいんだと言いながら、すごく楽しそうだよ。
でもね。お空。
道行く人がどんどん振り返るんだよ。
何故だかわかるかい。
ほら、あたいたち昨日ケンカした状態のままの服装だろう? 胸とか、腰とか。ちょぉっと危ういところに穴が空いててね。結構恥ずかしい状態だったりするんだけど。
わかってるのかなぁ、ホントに。
ほら、お空がそうやって無防備に歩くせいで。
なーんだかきなくさい雰囲気が流れてきたよ。
あたいやお空の破れた服を見て、嫌らしい目で見るような奴等もいるしね。いやだいやだ。
まあ大半はお空の顔見知りみたいで、気楽に挨拶をしたりしてくれるんだけどね。
――鼻の下を伸ばしながら。
さすがに扇情的すぎるってことか。
ただ、そうやって健康的な子ばっかりならいいんだけど。
どうにも、嫌な感じがずっとついてくるね、まったくもう。
あんまりこういうことはしたくないんだけど、しかたない、か。
あたいは、とんとんっと先を進んでいたお空の背中を指で叩いた。
「お空、先に行っといで」
「え?」
驚き、振り返るお空に向けて、自然な笑みを作り。
正面を向いたところで、今度は肩をぽんぽんっと軽く叩いた。
「いやね、ちょっと忘れ物しちゃったからね。この先の広場に行ってて欲しいんだよ。あたいもそこならわかるし、お空も知り合いがいるかもしれないだろう? 友達の約束ってことでさ」
「あ、うん、わかった! 友達の約束ね!」
ばさりっと、お空は大きく羽を広げて飛び上がり、目にも止まらぬ速度で空を舞うと、屋根の上を越えていく。
それをあたいは手を振りながら見送って、くるりっと回れ右。
ま、酷いってことはわかってるさ。
お空が憧れていた。『友達』って言葉を使って、騙したんだからね。
胸に残った小さな罪悪感に、顔をしかめたあたいは。
その場で辺りを見渡しながら、しばらく足を止めた。
そうしたら案の定。
その嫌な気配たちは一気に輪を狭めて来た。
「さぁって、と。おにーさんかな? それとも、おねーさんかな? 周りに控えさせてるお仲間をさっさと出さないから逃げられるんだよ。お・わ・か・り?」
嘲るように、含み笑いをする。
そんなあたいに感化されたように、
一つ目の見慣れない妖怪が家の屋根から飛び降りてきた。
「そうか? 俺はどっちかというとあんたが好みだ。むしろあっちが邪魔でね」
薄い布地の下から覗く筋骨隆々の肉体からして、力の強い妖怪だろうか。
たぶん、周囲に残る気配の親玉だろう。
値の身の丈の、一回りも、二回りも大きい。近くで見たら壁みたいな奴だよ。
しかもあたいが狙いだったなんてね、こりゃ困った。
絶対、お空が狙われてると思ったんだけどねぇ。
だってさ、ほら。
「ふーん」
あたいは喜ぶでもなく。
嫌がるでもなく。
ただ、人よりも発育の悪い自分の体をじーっと見て。
「……変態かい?」
「お前、自分で言ってて寂しくならないか?」
「猫耳少女を襲って許されるのは同属か、外見があたいと同じくらい可愛い男の子って、相場が決まってるんだよ」
悲しいかな、あたいは身長の割には女性の魅力に欠けるらしいからね。
異性から熱烈なアタックをされた経験もあんまりない。
ただ、こういう馬鹿はたまーにいるんだけどね。
こりゃあ、妙なのに絡まれちゃったよ。
「ところで、お兄さんはここの住人かい?」
「そうさ、俺はこのあたりの縄張りを占めてる」
「おやおや、それは素晴らしいことだねぇ。じゃあ、そこであたいの安全を願っていておくれよ」
しかもあれだよ。
縄張りを主張するタイプの雄ときたもんだ。さっきじっくり見てたのは、自分の縄張りに入るのを待っていたってところかね。となると、本当に厄介だ。
こうやって陣地に引き込むってことは、間違いない。
「おい、ちょっと待てよ。俺に挨拶なしで出て行こうっての?」
はっはー、やっぱりね。
獲物ってことかい。
さすがにどこか嫌われた妖怪の都、困った性格の奴がいるもんだよ。
「できれば穏便に通りたいのが本音だね。今後のお互いのために」
「なら、俺の縄張りに入ったお前が誠意を見せろ」
「どっちで、だい?」
調子付いた雄の考えてることは誰でも一緒さ。
金か、女か。どっちか二択。それを尋ねたら。
下卑た笑いを響かせて、あたいを指差してきた。
大体、最初からわかってたけどね。
出会い頭に、あたいを狙ってたなんていう、変態なんだからさ。
でも、この一つ目巨人は単なる変態じゃない。
「約束してくれるかい? あたいがあんたに今だけ誠意を見せたら、今後ちょっかいを出さないって、あたいと、さっきのお空って妖怪に」
この区画の妖怪の頭。
つまり、この辺りで最も力のある妖怪に違いないからね。
鬼も混ざって暮らしているはずなのに、出し抜いて頭を取る。
それだけの強さを持つ相手に……
まともに勝負を挑むなんて馬鹿のすることさ。
「いいぜ、お前の頑張り次第で考えてやるよ」
だから、この身だけで事態を丸く収められるならそれでいい。
どうせ、猫だったときになんども異性を何度も受け入れた体だ。
今更勿体振る必要なんてないからね。
あたいは、すっと。その男に向かって歩を進め。
男は、そんなあたいを捕まえようと、あたいの腰より太い腕を伸ばす。
はは、あんな腕に掴まれたら、壊れちゃうかもしれないね。
そんな不吉なことを脳裏に描きながら。
あたいは瞳を閉じて、体を大男に預け――
「お。おっととぉ!」
ぐらり、と。
あたいが最後の一歩を踏み出そうとした瞬間。
急に地震が起きた。
対したゆれでもないのに、地面が盛り上がるようにうねって。
あたいは思わず尻餅をついちゃったよ。
尻尾をつぶすことになるこの倒れ方はめちゃくちゃ痛いっていうのにさ。
そうやってあたいが座り込んでしまったせいで、男の太い腕が頭の上を通り過ぎて、ぶんっと空気を鳴らした。
「あいたたたた……」
あたいは、お尻をさすりながら。涙目になりながらもなんとか起き上がる。
確かに、地下は結構地震が多いって聞いたことあるけどさ。
ホントに、ついてないよ。
覚悟決めた瞬間にこれだもんね。
ほーら、このでっかいお兄さんも呆れて顔を上げちゃってるよ。せっかく、あたいだけしか見ないように、雰囲気を出して誘ったのにさ。
まったく、何を見てるんだか。
背を丸め、ぱんぱんっと軽く足についた汚れを払った後で。
何の気もなしにあたいが上半身だけ捻って振り返ると。
気のせいかな。
いや、なんだろうね、この馬鹿げた映像は。
だってね、ほら。あたいのちょうど尻尾の先くらいのろころまでさ。
地面が、小さな山脈みたいに盛り上がってるんだけど……
しかもその起点がね。
「おいおい、一つ目。いつ私がそんな歓迎方法教えたんだい? 言ってごらんよ?」
見慣れない一本角の鬼が。
地面に拳を触れさせているところからなんだよ。
しかもそれがさ、もう、いとも簡単に地面を叩き割ってる感じだし。
「ゆ、勇儀! てめえ、また邪魔する気か」
「あん? 邪魔だぁ? おいおい、異国の鬼か何か知らないが。新参者のあんたがでかい顔で旧都の決まり事を無視するのが悪いんだろう。見慣れない妖怪が流れ着いたら、みんなで囲んでまず一献だ」
「古臭いばばぁにいつまでもしたがってられるかよ! なあ、お前達! ……おい、どこいった! くそ、何で逃げやがる」
「なんだい、なんだい。そんなこともわからないのか。お前はこの場所の者たちに力で言うことを聞かせているんだろう? なら、単純なことだ」
勇儀と呼ばれた鬼は、地面から腕を引き抜き。
手に持った酒を巨大な盃に入れ始めた。
立ち上がろうともせずに、座ったまま。
その大男に対してはそれで十分と言わんばかりに。
「あんたが、私より小物ってことさ」
ごくごくっと。
盃を一気に傾け、くはぁっと息を吐き。口元を腕で擦る。
喧嘩を売っている相手がまだ目の前にいるって言うのにさ。
でもね、お兄さんが、まったく足を前に進めようとしないところを見ると。
どうやら、本当に格が違うらしい。
この男気溢れるお姉さんと、あの一つ目大男じゃ。
「……勇儀、覚えてやがれ!」
そうやって、じっと立っていたのは意地だったのかもしれないね。
尻尾を巻いて逃げるしかできない相手に対する。
お兄さんなりの意地。
まあ、あたいがいくら背伸びしても届かない世界の、物凄いレベルでの睨み合いっていうのはわかったけどさ。
「……安っぽいねぇ、あの、お兄さん。力は強そうなのに」
「その安っぽさがあいつのいいところだよ。強いと思った相手には絶対反抗しないからね。わかりやすくて助かる」
「うんうん、何事も素直が一番だねぇ」
はっはっは、と。
座る鬼と、棒立ちのあたいが、大声で笑い合い。
「で? あんた何者?」
「で? お姉さん何者?」
綺麗に声がはもった。
◇ ◇ ◇
とんっと。
お空が、あたいの頭の上に顎を置く。
後ろから抱き付いて、いきなり重い二つの感触を肩のあたりに乗せてくる。
「…………」
でも、あたいが何も言わずに黙っていると。
とんとんっと。
置いた状態から、頭頂部に何度も繰り返し顎をぶつけてくる。
本当ならしつこいとか、注意するべきなんだろうけどね。
離れろとか、暑苦しいとかね。
「…………ごめんって」
でもね、頭の上にさ、あったかい雫がね。落ちてくるんだよ。
顎をとんっとんっとね。ぶつける度にね。
あたいの髪の中に染み込んでいく。
「駄目、許さない!」
「いやね、だってさ。なんか面倒ごとになりそうだったからね。あたいはああいうのに慣れてるから、あれで穏便に済むなら、言うことないかなって。まあ、確かにね、好きな相手にならああいうことをするのは躊躇うかも知れないけどさ。どうとも思ってないやつに体を預けるくらい、別に……」
「うーーっ!」
「いたぁっ!」
お空の顎が一瞬だけ、離れたと思うと。
ガンッ、と。今までとは比べ物にないほどの勢いでお空が顎をぶつけてくる。
さすがに今のはないだろうと、頭をずらして見上げると。
その怒りが、あっさり霧散させられてしまう。
涙目のまま、真剣な顔であたいを見つめる、反則じみた破壊力の顔がそこにあったから。
もう、そんなものを見せられたら。また顔を前に戻してお空の顎の置物になるくらいしか道は残されていない。
「体は大切にしろってパルスィが言ってた!」
「あのね、お空、私が言った時は、あなたが具合悪くしたときで。そういう意味含んでないのよ……、入れておいてもいいけど」
「ほら、そんな感じのこと言ってる!」
「うん、確かにそんな感じだね……でもなんか困ってる感じだけどね、お姉さんが」
畳の上で、布を縫いながら目を伏せ、ため息をついているのはこの家の持ち主の、パルスィっていうお姉さん。お空が着てる服を一番最初に作ったのは、この人らしいね。お空が先に広場に行ったときに偶然見つけたらしい。それで服のことを説明しているときに、あたいの話が出て。そのお姉さんは気付いたんだよ。
『なんで、地獄に来たばかりの。替えの服も持たないやつが。忘れ物をするのか』ってね。
それに気付いて、あたいを救うための戦力を集めてくれたってわけだ。姉さんも、人が怨念で変化した鬼とかそういうのらしいんだけど。鬼の中では直接的な力はあんまり強くないのかもしれない、オドロオドロしいのは感じもしないしね。
本当に頭のいい世話焼きの……
「いやぁ、あたいの服も縫ってくれるなんて。悪いねぇ」
「ついでよ、ついで。あなたみたいなどこの馬の骨かわからないやつなんて、正直家にも入れたくないわ」
なんというか、素直じゃないお姉さん。
そんな穏やかな瞳できついこと言われても説得力がありゃしない。あんまり感謝されるのに慣れていないのか。それとも、わざと感謝されないように憎まれ口を吐いているのか。まあ、一応世話になったのは確かだからね。
畳の上であぐらをかいて座ったままだけど、ぺこりっと頭を下げて、『ありがとね、パルスィお姉さん』って明るい声で言ってみた。そしたら、わかりやすいくらい顔を赤くするんだよね。
「別に感謝なんてする必要はないさ。好きにやってることだし。そうでもしないと、外に目を向けようともしないんだ、こいつは」
「余計なお世話。針でついてやろうかしら」
「はっは、無理無理、そんな針じゃ皮膚すら通らないよ」
そして、そんなパルスィお姉さんの隣で、家主よりもくつろいで横になってるのが、鬼の勇儀お姉さん。あたいをさっき強姦から助けてくれたお人だね。パルスィお姉さんが呼び出してくれた、一騎当千の救援ってところさ。普通なら、助けてくれたことがきっかけで恋とか、憧れとか、そういうのが芽生えたりするのかもしれないけど。なんかお姉さんの場合は豪快すぎて、惚れるというより。『いきなり地面割るなんて何者だろう?』っていうイメージの方が強くてねぇ。良い意味で呆れるっていうのかね。
どうやらパルスィお姉さんと仲が良いようだし。惚れる要素がなくてよかったと思うよ、うん。
「ん? ところで、あんたたち寒くないのかい? 寒かったら酒だ、酒、たくさんあるから、ぱーっとやりなよ」
そうやってぼーっとお姉さんたちを見てたら。いきなり心配されちゃったよ。まあ、しかたないんだけどさ。こんな危ない姿でじっとしてるんだから。今のあたいとお空の状態を説明するなら、なんていうかね。
ん、まあ薄い布だけは身につけてるんだけどさ。
ほとんど、アレなんだよね。
言ってしまえば、うん、真っ裸、言い換えれば全裸。
だからさ、お空のムッとする二つボリュームなんて。直接触れてくるし。でも寒くないようにって、お空が羽で覆ってくれるし。体温が伝わり合って熱いくらいなんだよね。
「大丈夫だよ、鬼のお姉さん。服が仕上がるまでの辛抱ってところさ」
でも辛抱するのは、熱さじゃなくて。
お空の不機嫌な態度に、だけど。
大方、お空に相談せずにあたい一人だけ犠牲になろうとしたのが気に食わないんだろうね。きっと初めての友達に嘘を吐かれたと、ショックを受けているに違いない。
全部あたいが悪いんだろうけど……
あたいだってお空のことを思って行動したんだよ?
まだ友達宣言して一日しか経ってないけどさ。
あんたの無防備さを見てると、なんとかしなきゃって、思っちゃうんだよ。
「……ねぇ、お燐?」
たぶん、そのことはお空もわかってくれてるんだ。
わかってるから、怒った。それに……
お空は、悔しいんだろう。
「私が、強い妖怪だったら。逃がそうとしたりしなかったよね?」
あたいにしか聞こえないように、ぼそりっとつぶやきながら。
また、嗚咽を零し始める。
でもそれは違う。
あたいは首をゆっくり横に振って、あたいの体の前に伸びる。お空の腕を優しく抱いた。
「……そんなことないさ、お空だって。あたいが誰かに襲われたとしたら、逃がそうとしてくれるんじゃないかい? 例え、敵わないってわかってもさ。だから、お空が弱いからじゃない。あたいだって、鬼からみたら子猫みたいなもんさ」
「……お燐」
「そりゃあね、あたいだって悔しいよ。もっと力があったら、お空を騙さなくてもよかったはずだから。でもね、そうじゃないんだ。あたいは、強くない。強くないから、この地下で出来た初めての友達くらい、守りたかった。お空が、こんな嘘吐きなあたいことを嫌いになるなら、仕方ないけどね」
お空は、何も。
何も言わなかったけど。
後ろから強くあたいを抱きしめてくれた。
これが返事だと、受け取っていいのかな。
この温もりが答えなら、きっと。
まだ友達だと思っていいんだろう。
「……で、なんでパルスィお姉さんが赤くなっているんだい?」
「ばっ、馬鹿言わないでよ! 誰もあんたたちのことなんて見てないわよ!」
……なんてわかりやすいお姉さんだろうねぇ、ホントに。
勇儀お姉さんも、腹を抱えて笑ってるし。
「ほら、服ができたから渡そうとしただけよ、受け取りなさい」
そう言って、ぽいっと。あたいの方へと二着の服を投げてくる。
あたいはそれを受け取って、上から覗き込むお空と一緒に、じっと見つめた。
「えっと、お姉さん。どっちが、あたいの服だい?」
「胸が窮屈そうな方」
「……う゛、お、おねぇさんって。意外と根に持つタイプ?」
「ぜんぜん、これっぽっちも!」
腕を組み、睨み付けてくるパルスィお姉さんの、後ろで。勇儀お姉さんが手を左右に振っているところを見ると、そういう気質があるみたいだね。こりゃあ、あんまりからかわない方がいいかもしれないよ。
ま、でも、胸の話が出なくても大体どっちかはわかってたけどね。
あたいの服は、ワンピースみたいな、濃い緑色の服。
お空のは、白とか黒とか緑とか。
羽を覆うための外套みたいなのも付いてたし。
「おー、かっこいー!」
「ほとんど前の服といっしょだし、ありあわせを組み合わせただけだから」
「そんなことないよ、お姉さん。お気に入りの一着だよ」
「……ふん、お世辞だけは上手いんだから」
「うれしいんなら、うれしいって言ってもいいんじゃないか?」
「うるさい、黙れ酔っ払い!」
「まったく、嘘吐きの鬼は怖い怖い」
あたいはその新しい服を掲げたり、畳の上に広げたりして。楽しんだ。
ああ、いいなぁ、やっぱり。
新品っていうのは心が躍るね。早く着て、っておねだりするみたいに可愛くてさ。ああもう、まってなよあたいの新しい一張羅め。
そしてあたいが部屋の隅に畳んでおいたドロワーズを身に付け始めると。
「よし、着替え終わり! 散歩してくる!」
新しい服でご機嫌のお空が外に出て行こうとする。
もう、その場で踊りだしてしまいそうな笑顔を振り撒いて。
待ってよ、出掛けるならあたいも、っと言いかけて。
「おや?」
下着を身に着けたはずなのに、あたいの視界の中。
部屋の隅には、もう一セット。
それが綺麗に畳まれていて。
これって間違いなく……
お空のための……新しい下着。
……え?
「待ったなしだもんね~、悔しかったら追いついてみて♪」
「いや、待って! お空! 駄目だって、今外でちゃ不味いって!」
「駄目~♪」
「お、お空~~~っ!」
まだ下着姿のあたいは、家から出て行くお空をそれ以上引き止めることができず。慌ててお姉さん二人組みを振り返り。
部屋の隅の、下着を指差した。
すると、物凄い勢いでパルスィお姉さんが駆け出して。
「お空! こら、飛ぶな! 飛んじゃ駄目!」
「へ? なんで?」
頭が痛くなるような声が外から響いてくる。
あたいは、はぁっと深く息を吐きながら慌てて着替えを続けた。
「ふーん、お空って、ああいう風に笑えたんだな」
勇儀お姉さんの、そんな気になる言葉を聞きながら。
◇ ◇ ◇
困ったときは助け合う。
どうやらこれが、地底でのルールらしい。
だからみんな結構いろんなことが得意で、お互いの技術を役立てあいながら暮らしているってことさ。三日ほど前に出掛けた旧都でお世話になったパルスィお姉さんは、料理とか、裁縫とか、家事全般が得意らしい。昔そういう花嫁修業みたいなことをしたそうだからね。その恋が叶ったかどうかまでは聞かなかったけどさ。
「んー、確かに、らしいって言えば、らしいけどねぇ。ぴったり過ぎるんじゃないかい?」
「だって、純粋な鬼ってそういうのが得意らしいし」
で、ゴロゴロしてた勇儀お姉さんは何が得意かっていうと。
大工らしいね。
本当は、旧都の代表者だから。昔地上の妖怪と結んだ約束とやらを守って生活していけばそれでいい。なんか人に取り憑いて悪さをする、怨霊になった魂とか、地底にすむ妖怪を外に出さないって約束を守るためにいろいろ忙しいって、話。喧嘩の仲介もするそうだから、ホント凄いね。
それでも、それだけじゃ退屈だから大工も引き受けてるそうなんだけど。
その手際が物凄いんだって。
「昨日、道沿いにあった家。全部勇儀がやったって。パルスィが言ってた」
「……あれを、全部かい?」
「うん、一日で」
「い、一日!?」
ぱっと見、少なくとも40くらい家がくっついていた気がする。
えっとぉ、つまり……
妖怪だから、丸一日働き続けられたとして計算しても。
「とんでもないね……」
「材料さえ準備してあれば、一瞬だってさ『あとは組み立てるだけだし、玩具みたいなもんさ』って言ってたし」
こうやって、お空と、旧灼熱地獄の中で会話をしているだけで、あたいの知らない世界がどんどん広がっていく。だからあたいも、お返しとして外の世界のことを話したりするんだけどさ。
「んー、よくわかんないなぁ」
あたいの説明じゃあ、お空に伝わりにくいらしい。
それでも楽しそうにしているから、退屈はさせないで済んでいるようだ。
いやぁ、よかったよかった。
それとお空の名前で気がついたんだけど誰がつけたとか。そういうのは覚えてないらしいし。『空』って見たことあるって聞いたら。
「知らない、どんなの。それ?」
あっさりと首を傾げてくる。
てっきり、関係があると思ったんだけどね。
いや……
「そうか、知らないか。青かったり、白いもやもやが浮かんでたり。ほら、ここの天井みたいに真っ暗になったりする。地下の天井みたいなものかな」
きっと、ここにきた誰かが。
能天気なお空を見て名づけたのかな。
誰にも縛られていない、それでいてどこか空虚な。
一人でぼうっとしてる小さな鴉を見て。
何も縛られていないけど。
ただそこにある。
そんな意味で。
『空』を思い浮かべたのかもしれない。
「へー、じゃあ、天井みたいに。赤い光を受けて光ったりするのかな?」
「んー、地面が光ってるんじゃなくて。上から光が降ってくる感じかな」
「そうなんだ、じゃあ。凄い一杯妖怪が上にいて。そこから妖気みたいなの撃ってるのかな?」
「ははは、浪漫の欠片もない映像だねぇ」
普通、空って言ったらさ。
夕日赤い、寂寥感が漂う色とかさ。
突き抜けるような、青空とかさ。
吸い込まれるような、星空とかさ。
そういうロマンチックなものが多いんだけどねぇ。まったく、このお空は。
「本当に、お空は凄いなぁ」
「え、私って凄い?」
「そうさ、あたいがびっくりするくらいね」
「へへへへ~」
そう言って羽をパタパタさせて近くに座ってくるところだけを見てると、まだ子供っぽいんだけど。一体何年くらいこんな空間で一人でいたんだろうね。灼熱地獄が機能してたときも、きっと鴉の仲間なんていなかったんだろうし。
だってそうだろう。
地下で本格的に暮らすような鳥なんて、普通いない。
だからさ、あたいは思うんだよね。
出会ってまだ五日も経ってないけどさ。
これからずっと、友達として。
この子とやっていければって思う。きっと楽しいよ。あんたみたいな独特の発想するような連れがいたらさ、毎日、当たり前みたいな風景の中にも楽しみが見つけられるかもしれない。お空もこんな灼熱地獄の管理だけじゃなくてさ、他の楽しみも覚えて欲しいし。
ま、そのためにも、死体集めをさっさと終わらせるとしようかね。
「じゃ、お空。地獄に入れる死体を探してくるよ」
「ん、わかった。入れ終わったらまた旧都に遊びに行こうね」
しゃがみながら、こぽこぽっと泡立つ赤い水面を覗き込む。
そんなお空を残して、あたいは台車を押して上を目指す。
お空に言われたのは確か、小動物6個、後はできれば人間くらいの大きさの死体、か。見つかればいいけどねぇ。
今日のルートを思い浮かべつつ。
あたいは、地底と灼熱地獄を繋ぐ穴を潜って……
「……は?」
いきなり、間抜けな声を上げちゃったよ。
だってね、あれだよ。
ありえないだろう。
常識的に考えてさ。
確かね、あたい。お空と一晩ダラダラと話をしてたと思うんだよ。
いろいろ地底とか地上のことについてさ。
でもね、灼熱地獄へ入ったときはね。
普通の岩場だったんだ。
なのに……
「……何の冗談だい、こりゃ」
穴から顔を出した瞬間。
ものすごいお屋敷が、いきなり目の前にあったんだからさ。
◇ ◇ ◇
屋敷の名前は。
『地霊殿』。
地獄から外れた旧灼熱地獄周辺を管理し、忌み嫌われた妖怪たちを旧都と共に管理するための施設。というよりも、旧都だけじゃ管理しきれない地下の生活をサポートするための誰かが住むことになっている――
――らしい。
なんで曖昧な言い方かって言うとね。
「あー、そういう風な感じで作れって、幻想郷担当の閻魔に言われた」
という、大雑把な勇儀お姉さんしか詳しいことを知らなかったからだって。なんかその他にも、この世界の妖怪たちが暮らしやすいように決まり事を定めてくれたらしい。地獄に入れる燃料用の死体も提供してくれるらしいし。あたいにとっちゃ至れり尽くせり。ただ、どこに落ちるかどうかわからないから、それを探さないといけないのが玉に瑕だけど、その程度は簡単ってものさ。死体を嗅ぎ分ける嗅覚は並じゃないからね。
とにかく、なんかよくわからないでっかいお屋敷は。その管理する人のための家に間違いないわけだ。しかもさらにお姉さんから事情を聞いてみたら。地霊殿を管理する妖怪は旧都のヤツと同じ、『忌み嫌われた妖怪』。
でもまあ、あれだよ。
大事なのはそんなことじゃない。
(ねぇ? お燐、これ、絶対ばれるんじゃないかな?)
(ばれないってば、何言ってるのかね。完璧だし)
(えぇぇぇっ……)
その妖怪っていうのがね。
ペット飼ってるんだって。
嫌われた獣とか、力の弱い妖獣込みで。
ってことは、だよ。
ということはっ!
あれだよね。
うん、もう絶対っ!
妖獣用の食料が充実してるってことだよねっ!
美味しい料理とか、絶対あるよ。うん、もう私っては天才じゃないかねぇ!
(でも、お燐。なんかすっごい、私睨まれてるんだけど! 見られてるって言うか! 狙われてるって言うか! ねえ、玄関からずっと黒い犬が私の後つけてるんだけどっ!)
(あはははっ! 大丈夫だよ、お空。すっごく魅力的なだけだから)
(綺麗ってこと?)
(美味しそ……うん、綺麗ってこと)
(ええええぇぇぇっ! 今、絶対違うこと言ったでしょっ!)
それでね、その食料をちょぉぉっとだけ拝借するためにね。
あたいとお空は猫と烏状態で館に潜入したってところさ。
お空はやめとこうって、最後まで反対したけどね。
あたいが行くって言ったら、結局付いてきてくれた。
やっぱりお空、話がわかるね。って感じで、上機嫌で猫になって侵入したら。
いきなり番犬代わりの大型犬に吠えられたし。
意外と動物が多いね、まったく。
犬っコロは一瞬だけ人型になって、鼻の頭をがりっと引っ掻いて黙らせたからいいんだけど。
それ以降も恨みがましそうに見てるんだよね。
ああ、いやだいやだ。
雄だからって女のあたいに負けたのがそんな悔しいのかねぇ。
爪を硬い石の廊下に立てながら、音を出してもう一回威嚇したら。隠れるくせにさ。
(……ふむふむ、臭い的にこっちかな?)
(もぅ、お燐。 やっぱり帰ろうよっ)
動物状態でなくても、広いと感じるような廊下をとんとんって軽い足取りで進むと。お空が耳打ちで帰ろう、帰ろう、って言ってくる。まあ、お空は一人で暮らしてたから。相手の縄張りに入り込むこの興奮っていうのがわからないんだろうね。
でも、あたいに任せとけばもう完璧ってもんさ。
しなやかなこの体で、どんな場所でも自由自在。
もう完璧すぎる挙動に、お空もびっくりってところかね。
「あら?」
ちょうど角を曲がったところで。
そこの主と思われる、人型の妖怪と鉢合わせしなければね……
いやいや、ありえないでしょ。
いきなりこんな、偶然とか。
そうやって冷や汗をかいていると、お空から『だから言ったのに』的な痛い視線が飛んできちゃったよ。
そうやって前後で追い詰められたあたいにできた行動といえば。
「……に、にゃぁ♪」
とりあえず鳴いてみよう。
ということだった。
そしたら、お姉さんはあたいの前でしゃがみ込んで。頭をいきなり手で撫で始めたよ。
おや、おやおやっ!
これはあたいの魅力で、何とかなったって感じじゃ――
「……黒猫なんて、いたかしら? それに、烏?」
だよねぇ。うまくいくわけないよねぇ。
めちゃくちゃ疑われてるよ。
紫色の髪の、大人しそうなお姉さんにおもいっきり凝視されてる。
猫の鳴き声で誤魔化してみたけれど、余計に仇になってる気がするのは、うん、気のせいだろう。
そんな手からゆっくりとした足取りで逃れて、後ろのお空のところに歩いていき。
(お空も、ほら、鳴き声っ)
(えぇぇぇっ、絶対無理だよっ)
こそこそと耳打ちしたら、あっさりと拒否された。
(私、鳴き方しらないし)
(……へ?)
一人で生活していたことの弊害って言ってもさ。
鳴き方知らないとか本気でどうなのって思ってしまう。
烏っていったら、生まれつき『カァー』って鳴いてそうだし。
(ほら、本能が告げる声だよ。内から溢れ出る野生を搾り出すんだ)
(全然よくわからないけど、とにかく思いついた鳴き方すればいいんだよね、わかった)
お空は意を決したように。ぐっと、羽に力を入れ。
ばさっばさっと動かして。
気合を入れて一鳴きっ。
「わんっ!」
……違う。お空。
それ絶対違う。
思いついたからって、適当すぎだろう……
そんなんじゃもう、妖しい獣がいるから捕まえてくださいと言わんばかりじゃ。
「あら、珍しい烏のお客さんね。お食事がしたいのかしら?」
って、気に入られてるし。
首のとことか指でいじられて幸せそうにしてるし。
お空はなんかドヤ顔で振り返ってくるし、なんか正直に勝負した自分が悔しい。
でも、お空が通れるんならあたいも便乗して死角からこっそりとね。
「あら、猫さんも慌てなくていいのですよ。蓄えならまだありますから」
おや、感の良いお人じゃないか。
あたいの忍び足に気付くとはね。
でも簡単に料理もわけてくれるなんてとても、優しい人みたいだ。
油断ならない人には違いないかもしれないけど。
な~んて――
「ねえ、お燐とお空、だったかしら?」
「っ!?」
あたいは、名を呼ばれた瞬間。猫の姿をやめた。
そして目の前のお姉さんに見えないように背中に右手を隠し、指先から爪を伸ばす。そのあたいの様子で何かを感じ取ったのか、お空も人型に変わり臨戦態勢だ。
でもお姉さんは、特に構えも取らず。
広い廊下の真ん中で、懐から何か紙を取り出していた。
おもちゃみたいな丸い、奇妙な目がこっちを向いてるけど。
そうやって、他所見するなんて。
あたいを甘く見すぎじゃないかねぇ……
「おやぁ、お姉さんみたいな新参に名を知られるほど、あたいってば有名な妖怪だったかねぇ? できればお姉さんのお名前を聞かせて欲しいんだけど」
名前を尋ねるって、言うのはね。
あまり知られちゃいないが、不意打ちをするタイミングを作るには持って来いなんだよ。
きっと自分を知るまでは襲ってこない。
そんな心理を逆手にとって。
それで……
「……爪を首筋に当てて、何者かを聞き出す。名前を言い当てた真相も」
「なっ!」
あたいは、口を動かしていない。
なのに、このお姉さんは続けた。
あたいがやろうとしていることをはっきりと言い当てた。
本当に何者だい、このお人は。
「……なるほど、やはりあの閻魔様の情報は正確ですね、なかなかしたたかな火車のようで。はじめまして、二人とも。ペットに出向かせて招待しようと思っていたのだけれど、手間が省けたと喜ぶべきかしら。それとも予期せぬ出会を恨むべきかしら」
目の前のお姉さんの両目は、間違いなくあたいの方を向いていない。
あきらかに手の中の紙を向いているはずだというのに。
何故か、動けない。
すべてを見透かされているような、気持ち悪い感覚があたいの中に駆け巡ったよ。
なんだい、これは。
新手の魔術か何かだっていうのかい。
「さあ、立ち話もなんですから。こちらへどうぞ。料理と一緒にお茶も準備させましょう」
あたいの動揺すら感じ取ったように。
そのお姉さんは『まずはお互い落ち着いて話をするべきだ』と訴え。
広い、居間のようなところへ移動し、あたいとお空を手招きする。
なんなんだい。
本当に、なんなんだろうね。この、お人は。
「どうする、お燐……」
「……行くしかないんだろうね、やっぱり」
廊下に残されたあたいとお空は、顔を見合わせ先へと進んだ。
◇ ◇ ◇
客間とは思えない広い空間に案内されたあたいたちは、感嘆の声を上げながら長い椅子に座らされた。ソファーっていうらしいね。それに腰を下ろして再度周囲を見回すんだけど、この部屋だけでパルスィお姉さんの家よりも広いんじゃないかな。すっごい豪華っぽいよ。
目の前のテーブルもぴかぴかだしさ。
それに……
なんだ、これ?
あたいは茶色い丸を見ていた。
おもいっきり前かがみになって、鼻をスンスン鳴らして。
木製のテーブルの上に置かれた透明な容器に入ってるんだけど、食べられるのかな。甘い匂いはするんだけどねぇ。
「クッキー、甘いお菓子ですよ」
「ふーん、お菓子ねぇ」
あたいはそれを指先掴んで持ち上げると、ぽいっと口の中に放り込む。
どうせ出すなら魚とかさ、肉とかさそういうのを出すべきだよね。
ホントに新参者は気がきかな――
「……ふーん、わ、悪くないじゃないか」
「おーいしーーっ!」
「あ、こら、お空!」
美味しい。
なんだこれ。
何この香ばしい甘さ。
口に入れて噛んだ瞬間に口の中に広がってさぁ、ああ、魚とかお肉とか。そんなのとは全然違う美味しさだねぉ。
もう、あたいとお空は、奪い合うようにして目の前の『クッキー』ってやつを頬張って。
でも毒とか入ってないだろうね。
いきなり無礼な侵入の仕方してきたあたいたちに、こんな手厚い歓迎……
「旧灼熱地獄、そう呼ばれるところが閉鎖されたのは半年ほど前。本来ならすぐに私のような管理者が派遣される予定だったのですが、ここに集められた忌み嫌われた妖怪たちを少しでも減らそうと、画策した一派がいたそうで、火のともらない閉鎖空間に置いておけばお互い同士討ちでも始めるだろうと、そう思ったそうです」
あたいは、ふと、クッキーを掴む手を止めた。
このお姉さんの話が本当なら、やっぱり裁判にかけた閻魔どもはあたいを苦しめるつもりでここに置いたことになる。ああもう、腹立たしい限りだねホントに。
「しかし、最近になって灼熱地獄がわずかに機能を残していることが判明。それで、本格的に忌み嫌われた妖怪たちの楽園として、本格的に隔離する形で残せないか。そういう話になったのです」
「ふーん、で? あたいとお空に対して何をして欲しいんだい?」
「……何を、とは?」
紫色の髪の妖怪は、片目を閉じつつ、じっとあたいを見つめてくる。
それをクッキーの粉が残った指を舐めながら見返して。
空になった透明の容器を指差して見せた。
「ギブアンドテイクってやつさ。あんたがこうやって美味しい料理を出してくれたのは、それなりの下心があるってことだろう?」
「ええ、それはもちろん。その話をしたくて使いを出そうとしたんですが、あの灼熱地獄を無事に通り抜けられるペットがいなかったもので、旧都の方に応援を頼もうかと思っていたんですよ」
やっぱり、そうか。
進入したことのお咎めがなしなのは、こちらに条件を飲ませやすくするため。罪悪感がある分、首を縦に振りやすいからね。
「じゃあ、さっさとその要件とやらを言ってくれないかい? 条件次第では飲んでやっても構わないし。まあ拒否する可能性もあるけどねぇ」
お空は小食だから今のでお腹一杯になったんだろうね。
満足そうに、げふっと小さな息を漏らして、ソファーに寄り掛かっている。こういう幸せそうな顔を見ていると、簡単に首を縦に振りそうで怖いんだけどさ。
「一応、二人が許可しないと駄目だからね。あたいと、お空が」
ちゃんと条件を付けとけば問題ないだろう。
これで相手がめちゃくちゃな事を言うものなら、さっさと帰ってやればいいだけ。
さあ、どうする?
視線で、相手の出方を探り。
体はいつでも動かせるように、両足を床につける。
尻尾をぴんっと立て、周囲の気配を探りながら、あたいが目の前のお姉さんの言葉を待っていると。
くすりって。
いきなり笑ったんだよ。
「しかし、あなたたちは拒否しません。いえ、する必要がない」
口元を笑みの形にしながら、妙なことを口走った。
「……どういうことだい?」
「言葉どおりですよ。なぜならあなたたちはすでに、それを実行している」
「できれば、もう少しわかりやすく言ってくれないかねぇ? この子でも理解できるくらいに」
部屋の中の空気がなんだか重く感じたあたいは、それを変えるためにお空を指差しておどけて見せるけど。お姉さんから立ち上る不自然な力に、どんどん足を絡めとられていくような気がした。
「なぜなら、私がお願いするのは。これまでどおりの、灼熱地獄の管理だからです。あなたが不安を感じるようなことをするつもりはありませんよ」
「……なんだって?」
「ですから、特に変わったことをしなくても良いと言ったのです。一応私の指示の元で管理している。その形だけあれば十分。他のペットたちは水源の管理や、清掃と言った雑務はできますが、あの灼熱地獄の管理だけはできません。私だってどんな原理で熱を生み出しているかわかりませんから。ですから、私が望むのはあなたたちとの協力関係。そして、私が最も恐れるのは、あなたたちと敵対すること」
「あたいたちに、形だけペットになれってことかい?」
「……言い方を悪くすると、そうなりますね。でも私はペットを愛玩動物という意味で捉えてはいません。共に生きる仲間だと思っています。隣人、友人と言い換えてもいい。あなたたちが私と共にここの管理を行ってくれるのなら、この屋敷の中で部屋も準備しましょう。それに安定した食事も提供します」
「……なんだか、美味すぎる話だね」
「ええ、これくらい譲歩しても問題ないと思いますから。それだけあの灼熱地獄の調整ができる存在は大きい、ですからしばらく考えていただいても――」
と、相手の内心を探りあうような。
緊迫した空気の中。
あたいの横で満足そうにお腹をさすっていたやつがいきなり立ち上がって。
「ん、いいよっ! そのペットってやつになる」
びしっと手を上げて答えちゃったんだから。
「は?」
「へ?」
それは予想していなかったのか。
それともあたいにだけ集中していて、お空はノーマークだったのか。
目の前のお姉さんも、目をパチパチさせて元気に右手を頭の上に掲げたお空へと視線を移す。
「ちょ、ちょっとっ! お空! そんな簡単なものじゃないんだって! これはね、あたいたちの将来がかかった大事な話し合いで」
「んー、そうなの?」
「そうなのっ!」
でもお空は納得いかないというように、首を傾げてる。
そしてにこにこ笑いながら、得体の知れないお姉さんの方を見て。
「私たちが同じことしてるだけで、巣と、食べ物が貰えるってことでしょ?」
「えっと、あ~もぅ、確かにそうなんだけどね!」
「じゃあ、それでいいじゃん」
「だからぁ、旨い話には、裏があるって言うか。あのお姉さんが何企んでるかわからないだろう? あの見るからに暗そうな感じなんて、危ない人に違いないよっ!」
「さすがに目の前で言われると傷つくんですが……」
お空と話をしてるといつもこれだ。
もう、こっちのペースが崩されちゃうって言うかね。わかっていないようで、なんか妙に気になること言ってくるし。
私が見えてないものが見えるっていうのかな。
「私、あの人信じてもいいと思うよ」
「お空、クッキーってやつが美味しかったからって……」
「違うよ。だってさほら。みんな優しい目してる」
「……え、あぁ、なるほどね」
お空は、お姉さんの方を見てたわけじゃなかった。
あたいとは違うものをしっかりと見つけてた。
見知らぬあたいたちがお姉さんの側にいたから、それを心配して集まり始めた動物や、妖獣たち。
そんな無垢な瞳をじっと、見つめてた。
「あの子達があれだけ大切に思うってことは、きっと悪い人じゃないんだよ」
「はぁ、まったくもう……」
あんた、凄いよ。
あたいも周りのこと警戒してるつもりだったけどさ。
本当に視野が狭かったのは、どっちか。
それを、お空に思い知らされるとはね。
「……受けるよ、お姉さん。これで賛成二つ」
「そうですか。助かります。早速あなたたちの部屋を準備しましょう」
もう、降参だね。
あたいは肩を竦めて手のひらを上に向け、お姉さんの提案を聞き入れることにした。ここはお空の直感を信じてみてもいいかもしれない。
ぼふっと、一度ソファーの上で跳ねるように深く座って。
足だって床から離してくつろぐことにした。
そんなあたいを見て、お空は満足そうに笑ってるし。
「それで、お姉さん。あたいたちはなんて呼べばいい?」
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は古明地さとり、ですから。『さとり』と」
「ふーん、じゃあ一応ペットの真似事ってことで、さとり様って呼ぶことにしようかね」
「さとり様かぁ、様ってなんかいいねっ!」
無邪気に笑いながら言うもんでもないんだけどね。
まあ、これでいいか。いまのところは。
気を抜いてさとり様の周りを見たら、ほっとした顔の連中で溢れてるし。それだけ人望、いや、獣望があるってところかね。
でも、たった一つだけ。
確認しておかないといけないことがあるんだ。
「それで、お姉さん。あたいたちがまだ名乗っていないときにあたいの名前と、お空の名前。両方呼んだり、まるでこっちの心を読むように言い当てた理由ってなんだい? 読唇術とか、そういうのかい?」
「いいえ、違いますよ。あなたが今口にした台詞の中にもう答えはありました」
ん、答え?
あたいはさっき言った内容を、んーっと思い出し。
「読唇術じゃ、ないんだよね?」
「ええ、ですから。もう少し前の」
さとりは、くすくす、っと少し笑いなら。
それでいて少し悲しそうにあたいを見て。
「私は第三の目で、他人の心を覗くことができるんです。心を読めるということなんですよ」
なるほど。
そういうことか。
あたいは、うんうん、と頷いて。
隣のお空も、神妙な顔でこくり、と頷いた。
「……さとり様が、ちょっと夢見がちな人でも頑張ろうね、お空」
「うん、そういう人、結構旧都にいるしね」
「えっとね、あなたたち。心の中で、『危ない人』って連呼するの止めてくれないかしら?」
「お、おおおおおっ!?」
「お、おおおおおっ!?」
笑顔で頬を引きつらせる、そんなさとり様を。
大声を上げながら、あたいとお空は指差す。
ぶんぶんっと腕を振りながら。
声を合わせた。
『危ない人じゃなくて! ホンモノの変な人だっ!』
さすがあたいとお空。
完璧すぎるコンビネーション。
それを受けたお姉さんは、楽しそうに笑い声を上げながら。
ぱちんっと指を鳴らして。
周囲の獣たちをあたいたちに近寄らせ。
にこっと。
満面の笑みをあたいに向けた瞬間。
はっきりとした口調で命令を下す。
あまりに残酷な、命令を――
「いきなさい、くすぐりの刑よ」
「な、なにをっ!? きゃは、にゃはははっ!」
「ちょ、羽っ!? 羽駄目だって、あはっあははははははっっ!」
動物たちの地味な嫌がらせ。
『くすぐり地獄』
くすぐったい毛で肌を擦られるあたいたちの悲鳴が。
地霊殿っていう大きなお屋敷の中に響き続けた。
◇ ◇ ◇
お空と、あたい。
二人がさとり様の前で頷いた日。
その日から、奇妙な共同生活が始まった。
何が奇妙っかっていうと。
ぜんぜん。
ぜんっっぜん、ペットっていう気しないからさ。
あたいは相変わらず、地底で死体を探してばかりだし。
お空はそれを火力の足りないところへと、投下。
たったそれだけ。
その後は自由時間で、旧都に行こうが。地霊殿の中でゴロゴロしてても自由。ご飯だって黙ってても出てくる。
これってペットっていうよりむしろ、駄目な旦那状態じゃないかね?
『ヒモ』っていうやつ。
まあ、あたいとしてはそれで言うことないんだけど。
手に入れることができた四角形の広い縄張り。その隅に置かれた、やわらかいベッドの上。
暖かい寝床でゴロゴロしてられれば、もう、幸せの絶頂だし。
あ、ごろごろしてるって言っても、お空とは毎日遊んでるよ。仕事の時間が違うから合わない時間をこうやって、のんびりする時間として使ってるんだ。
しかしだね、そんなときにあたいの幸福を決まって邪魔する人がいるんだよ。
あたいが、ベッドの上で上機嫌に尻尾をぽんぽんっと弾ませているとね。
急に、動かなくなる。
ここに来たときは、なんでいきなり自分の尻尾が動かなくなったのかって、軽いパニック状態だったけど。さとり様に理由を聞いて納得。
その原因はわかってみれば単純で。
何の気配もなくね。
尻尾を掴む人がいるんだよ。
あたいの、敏感な感覚をあっさりと掻い潜って。
「……こいし様? やめません、その尻尾掴み」
「えー、いいじゃん。お燐。私の物は私の物、お燐の尻尾は掴む物って言うじゃない」
「言わないし、聞いたことないですよ」
さっきまで何もない空間だった場所。
あたいがベッドの上で首だけ動かし、振り向くと。
もう、やっぱりいるし。邪魔者その1。
薄い色の髪をした、妙なご主人様の妹が。
「無意識だから仕方ない」
「一日で十回以上握るのは無意識っていうんですかね」
「偶然って怖いよね~」
あたいが敬語を使う、限られた人物。
なんていうかね、さとり様の妹ってことで、形式だけで使ってるってこともあるんだけど。なんというかね、怖いんだよ。
にこーって。いつも笑ってるんだけどね。
「ねえねえ、尻尾、一本頂戴」
いきなり、ぞくっとするようなことを。
何の気なしに言うんだよ。
でもね、冗談だと思って少しでも頷く仕草をしようもんなら。本当に抜かれるんじゃないかって力で引っ張られる。
何を考えてるかわらかない、しかも神出鬼没。
嫌いじゃないんだけどさ、やっぱり怖い。
「駄目です、絶対駄目です! もう~、さとり様と一緒に遊んでてくださいよ」
「え~、お姉ちゃんと一緒に遊んだら私あっさり勝っちゃうもん。お姉ちゃんって避けるのそんなに上手くないし」
「あたいが一緒にその遊びをやったら全弾回避されたんですけど?」
「それは単なるお燐の努力不足だよ」
「さとり様が心読むからです」
「じゃあ、私が勝つのは心が読めないからだって言うの? お燐は。もぉ~、それはないんじゃないかな。というわけで、それを証明するために一戦やろうか」
「嫌ですよ……今はお仕事が終わった後の大事な昼寝タイムなんですから」
「シエスタか、でも邪魔する」
「ああもぉ~、こいしさまぁ……」
あ、そうそう。
そういえばね、さとり様がこの地底にやってきて、あたいたちと生活するようにからもう結構経つんだけどさ。
最近になって、妖怪たちの間に急に広まったことがある。
さとり様が閻魔様から伝えられた、比較的安全な戦い。
スペルカードっていうカードを使った、弾幕勝負。
美しさとか、弾幕の圧力とか。そういうのを競うらしいんだけど。
それがもう驚くほど話題になっちゃってね。元々娯楽に飢えてた旧都の人たちにとっては、おもちゃみたいなものだったんだろう。争いごとでケンカするかわりに、弾幕勝負で決着をつけることが多くなった。
もちろん、あたいだってやってるし、自分でもかなりの実力者だと思ってるよ。
だって調子がいいときは、パルスィお姉さんをあっさり負かしたりできるからね。純粋な力だけの勝負じゃないから、あたいみたいな戦略家にとっては実に良い勝負方法だ。でもね、それでもね。
こいし様とやり合って、一度も勝ったことないんだよ。
もう、あたい以上にトリッキーっていうのか。全然攻撃してくるタイミングがわからない。いつ攻撃するのかなーって、見てたら。いつの間にか目の前に弾幕があって。
そんな感じで、一回目の勝負はたった一発で終わったからね。
とんでもないよ、この人は。
弾幕じゃなくても、本気で攻撃しようとする気配が全然ないんだ。
だから、それが怖い。
笑いながらなんでもできそうな雰囲気が、あたいは苦手だ。
「あー、も~。しっかたないなぁ。じゃあ旧都の鬼さんと遊んでくるから。お姉ちゃんにそう言っといて」
「はぁ~い」
「こら、返事はしっかり」
「あいたっ」
いきなり後ろ頭をぺしっと叩かれて、非難交じりの視線を向けようとするけど。
そのときはもう、いないんだよね。
無意識を操るって言うか、人が意識しないところへすぐ移動しちゃうというか。本当に掴めない人なんだよ。
でも、これで邪魔者はいなくなったってわけだ。
そしたらとりあえず、後もう少しまどろみの世界に出掛けてもいい気がするね。うん。
あー、ぬくぬくだぁ。
布団っていいなぁ。
「さて、じゃあお風呂でぬくぬくしてみましょうか」
「にゃ、にゃふっ!?」
がちゃっと。
いきなり部屋の入り口が開いて、さとり様が入ってきた。
って、今扉開いたってことは、こいし様どうやって入ってきたんだろうね。なんて、余裕かましてる場合じゃないよ。
お風呂、お風呂だってっ!
「さ、さとり様。あたいは大丈夫ですって、ほら、いつもこう、ぺろぺろっと綺麗に」
「それが汚いんです」
「にゃ、にゃんですとっ!」
猫はね、体をぺろぺろするのはとっても大切な行為なんだよ。
それをいきなり全否定って、これは納得できない。
「今日こそ、大人しくお風呂に入ってもらいますからね」
「ふふふ、そう上手くいきますかね。あたいが簡単に捕まると思ったら大間違いですよ」
邪魔者その2が出入り口を塞いでるから、ちょっと不利な気がするけどね。
さとり様が動いたときが逃げるチャンスさ。
……でもね。
あたいが逃げるのは、こう猫の尊厳を否定されたことへの反抗であって。
決して水が怖いわけじゃないからね。
そこ大事だから。
出入り口を固められたあたいは、じっと。
部屋を見渡してね。
さとり様の顔を見ながら窓の方をちらりっと。
おそらく、さとり様は心を読んでる。
だからあたいがこうやって視線で騙しても、移動しようとはしない。でもね、自然と視線だけはあたいに釣られてしっかり動いちゃってるんだよ。
あっち向いてほいっ、ってやつの目で騙すパターンさ。
必殺「猫の目フェイント」。
「隙ありっ!」
「あ、こら、お燐」
いくら心が読めても、実際の動きが見えていないと正確な行動を取りにくいのは確か。
それを利用し、あたいは壁を蹴り、宙を舞いながらさとり様の上を跳び超え、わずかな入り口の隙間を抜ける。
まさかそんな隙間を抜けるとは思っていなかったのか、さとり様はあたいを見上げて見送るだけ。
かわしたっ。
視界に広々とした廊下が見えてあたいは内心でガッツポーズをとるが。
しかし、油断はできない。
振り向いて追ってくる可能性があるんだから。
ここは右足のワンステップだけで着地し、全速力で逃げ――
「おり~んっ!」
「にゃっ? なにおぅっ!」
逃げようと片足を廊下についたとき。
背中に誰かがものすごい勢いでタックルしてくる。片足だけで、そんな重量に耐えられるはずがなく、あたいは前のめりに傾いて。
そのままばたんっと、潰される。なんとか手で勢いを緩和することには成功したけど。
襲い掛かってきた誰かさんが後ろから馬乗りしてきてね。
その誰かさんって言うのが、間違うはずもない。
「お空、ちょ、ちょっと離して」
「えー、駄目だよ。お燐は私とさとり様と一緒にお風呂に入るんだから」
「……む、ってことはまさか」
じたばたと動かしていた足をぴたりっと、止め。
近づいてくる足音の主を見上げれば。
なんかしてやったり、って顔をして微笑んでいた。
「ひ、卑怯だよ」
「お燐が素直にお風呂に入ってくれないからでしょう? 何十年同じことを繰り返すつもりですか? お空なんてしっかり毎日入るっていうのに」
「水浴びすきー♪」
「あたいとお空を一緒にしないでおくれよ。あたいはね、自分の匂いが周囲にないと落ち着かないって何度もいってるじゃないか。それにお風呂に入るか入らないかは自由なはずだよ」
「ん、入らせるか入らせないかも自由ってことだよね、お燐?」
「ぐ、この子は……いつから覚えたんだろうねぇ、そんな小賢しいことぉ」
「ん? さっきさとり様が、『自由』とかお燐が言ったら……」
「言えって?」
後ろから押さえつけられているせいで様子を見ることは難しいが、
縦にお空の体が揺れたので、おそらくは頷いたんだろう。
くぅ、いくらなんでもお空を使うなんて反則だよ。
だってさ。
もう、次にお空が仕掛けてくる恐ろしい言葉なんてわかりきってるんだから。
「ねえ、お燐。私と一緒にお風呂は嫌い?」
「だからもぅ、反則だってぇぇ……」
そんなことを言われたら……
どうやって……どうやって、断れっていうのさ。
卑怯にもほどがあるじゃないか。
「……嫌だって言ったらどうする?」
「泣く」
「……うわぁ」
もう、禁じ手まで使うかいこの子は。
なんであんな、あったかい水に浸かるだけの動作をしたがるのか、理解に苦しむっていうか。
「清潔にしないと駄目ですよ、病気になったら大変ですからね」
「そうだよ、大変なんだよ」
長い間ここで暮らしたせいか、すっかりさとり様と仲良くなったお空が楽しそうな声を上げながら、あたいの上で揺れる。
実際、この子はさとり様をなんだと思っているのかねぇ。
仲間か。
友人か。
姉妹か。
まさか、恋人……いや、親って可能性もあるか。
まあ、そうやって、お空が笑っていられる知り合いが増えるのは、凄く良いことなんだけど。
ちょっとだけ、あたいは寂しくなる。
友達のお空が、さとり様に奪われた気がして。
そうやって勝手に誤解して、一人で落ち込むこともある。
「……いいよ、いいよ! 入ってやろうじゃないかっ!」
「わーい、やったー。背中流しっこね!」」
喜びで体を前後に揺らす、お空。
まあ、そうやって素直に喜んでもらえると嬉しいんだけどさ。
そうやってね、暴れられるとね。
「……重い」
「お燐? あ、ごめんっ!」
あたいは、素直な感想を口にして床の上にぐったりと全身を預けた。
◇ ◇ ◇
視界をうっすらと覆う、白いもや。
入った瞬間、ネチャッ足の裏に吸い付く入り口の湿り気。
湿気のせいで若干息苦しい空気。
固体識別に大事な匂いを強制的に奪い取る石鹸。
そして、単なる。
暖かい水。
さらに同性の裸しかないという面白味のなさ。
「何が良いんでしょうかねぇ、まったくもぅ」
「お風呂をそこまで悪意を持って表現できるのは凄いですね」
湯船という、大きなお湯だまりに十分くらい浸からされ。そこから開放されたと思ったら今度は、なんだと思う? 頭の上に何か帽子みたいな、輪っかみたいのを被せられてさ、隅っこの岩のとこに座れだって。
で、そこでしばらく待ってると、無理やりお湯を頭の上からかぶせられてさ。
わしわしって、毛を揉んでくるんだよ。
それが動く度に、あたいと違う匂いが体に染み付いてる感じがして、あんまり好きじゃないんだよね。
「せめて、お湯の中に入るだけならねぇ……」
「体の汚れを落とさないといけないでしょう?」
「それくらいすぐ取れるって」
「駄目です」
「むぅ~、さとり様は意外と頑固だから困るねぇ」
シャンプーハットっていうやつをかぶってるから、あんまり目に水が入らないから良いんだけど、こう他人に髪の毛をおもいっきりさわられると、こう、むずむずするっていうかね。なんだかこそばゆいっていうか。
「良く我慢しました」
なんだか我慢できなくなって座りながら足をぶらぶら揺らしていると。
声と同時にお湯がざぱっと降って来る。
そしてようやく、髪の毛を洗う苦行から開放された。
ああ、終わった。
そう思ったあたいが腰を浮かすと。
肩をつかまれ、そのままくるりっと湯船の方に体を向けさせられた。
その中には文字通り羽を伸ばしたお空が手を振っていて。
「もう一度浸かって、次はお空に体を洗ってもらうように。私はもう行きますので」
くぅ、やっぱりそう簡単には逃がしてくれないか。
はぁっと深いため息をついて、尻尾を力なく揺らし。
あたいはもう一度温かいお湯へと足を伸ばす。
けどね。
「えいっ!」
左足といっしょに出した右手をいきなり引っ張ってくる馬鹿がいるんだよ。
さらにすべりやすい風呂のタイルでなんとか耐えようとした右足がつるっていってね。
綺麗に、お湯の中へ。頭からドパーン。
溺れるみたいにバタバタ手を動かすあたいの上からは、楽しそうな笑い声だけが、広々としたお風呂の中で反響していた。
「えほっ! けほっ……」
あたいが咳き込んでお湯を吐き出しても、笑い声が止まらない。
むっとあたいが目を細めても大笑い。
顔の半分、鼻の頭までお湯に入ってぶくぶくって、息を吐き出しても。
何故か大笑い。
ふむ、じゃあ……
この大笑いを利用して。
「お風呂は広くて凄いけど、さとり様の体はいろいろ小さくて可愛いよねぇ~」
「あっははははっ」
「あっははははっ」
お空が笑う声と合わせてと一緒にストレス発散をするしかないね。
って、あれ?
お空、なんでいきなり笑いを止め、
「あ、お燐。後ろ」
お空があたいを指差しながら告げ、
そしてあたいが振り返れば、
視界に茶色の物体が。
もう目の前。
よけることなどできるはずがなく。
すこーん、と。
もの凄い勢いで飛んできた木製の小さな桶が、おでこにクリーンヒット。
「――――っ!?」
痛い。
痛いというか、……うん、すごく痛い
声を失い、湯船の中で膝を突いて額を押さえるあたいの頭を、よしよしっと言うようにお空が撫でてくる。
もうなんというか、裸だし、なんで慰められてるのかわからないし、いろいろ情けない絵面だが、痛いんだからしょうがない。
その凶器を投げた張本人は。
ぴしゃん、という。
不機嫌さを顕著に示し、その場から出ていった。
「さとり様怒らせるから……」
とは言っても、これはあたいの意地。
肉体的にはダメージをこうむったが、無理やり風呂に連れて来たさとり様にやり返したという、無駄な達成感が痛みと一緒に溢れる。ぷかぷかと水面に浮かぶ凶器の桶を抱きしめて、涙目になりながら、ふふん、っと鼻を鳴らしてみる。
「勝負には勝った」
「何の勝負?」
「いろいろと」
ひりひりと痛むおでこを撫でて、肩までしっかりお湯に浸かった。
お湯の温かさは嫌いじゃないけど、どうしても最初の一歩が嫌っていうかね。
毛や肌を濡らすことに、抵抗を感じてしまうからお風呂は嫌なんだけど、ここまで全身にお湯を被ってしまえばもう同じだから。お空と同じように膝を抱いて、背中を浴槽に預けた。
「しかし、改めて見ても無駄に広いよねぇ」
「私たちだけじゃなくて、他のペットと一緒に入るためだって」
改めてお風呂を見渡せば、人型の妖獣が30人くらい一気に入っても問題なさそうな広さはある。
浴槽だけでも畳で言えば10枚分はありそうかね。手足を伸ばしても余裕のある浴槽にお空と二人きりっていうのも、贅沢と言えば贅沢か。
伸ばした腕に纏わりつくお湯の温かさを感じながら、あたいはふぅっと息を吐き。天井を見上げた。
こういう施設をペットたちのために作ってくれるさとり様には、確かに頭が下がるけど。
お風呂を強要してくるのだけは止めて欲しいんだよね。やっぱりさ。
「さとり様ね、お燐のこと心配してるんだよ」
「心配ねぇ~、桶投げつけられたけど」
「それはお燐が……」
「あたいが余計なことを言うから、だろう? わかってるよ」
さとり様に対する、ちょっとした反抗心。
それがどこから来るかなんて、あたいが一番よくわかってる。
もちろん、さとり様は嫌いじゃない。
むしろ、大好きな部類に入ると思う。
でも、一番大好きなお空と親しくする姿を見て。
嫉妬してる。
そんな嫌な自分がいるんだよ。
さとり様はペットたちみんなに優しいだけなのにさ。
「言ってたよ、さとり様。お燐ってずっと死体を触ってるから。みんなから臭いとか言われて、いじめられてないか心配だって。だからお風呂に誘ってあげて欲しいって」
「……余計なお世話、あたいがそんな玉なわけないし」
天井からぽとり、と落ちる湯気の雫。
それが耳に当たってお構いなしに、あたいはずっと湯船に背を預け、天井を見ていた。
だって、今お空に直接顔を見られるのは。恥ずかしいし。
たぶん嬉しくて、にやけちゃってるだろうしね。
「うん、それでも心配しちゃうんだよ。さとり様は」
「お節介なお人だよ、ほんとにさ」
なまじ心の声が聞こえるから、救いを求めるものを見捨てられない。そこからくる優しさなのかもしれないけど、弱さの裏返しなのかもしれないけど……
ここにいる、あたいやお空以外のペットたちには必要なんだろうね。
ここに赴任する前は地上にいたって言うし。
「ま、その良い人加減が、みんなに好かれる要因なんだろうね」
お湯を掻き、んーっと伸びをして。
笑いながらお空を見て、あたいは思わず息を止めた。
さっきみたいに笑ってると思ったのに。今にも泣きそうな顔で、膝を抱いていたから。
「でも……地上を追い出されたんだよね、さとり様。あんなに優しいのに……悪いことしたらちゃんと怒ってくれるのに……なんでかな」
あたいは迷った。
適当な嘘をついて、お空を少しでも慰めようか。
それとも、あたいの心の内を明かしてみようか、と。
いつものあたいなら、たぶん。前者を選んでた。
でも、お風呂っていう裸の付き合いができる場所だったから、曝け出してみたくなったのかな。
「きっとね。心を読む妖怪だから、さとり様は嫌われたんだよ」
自分でも驚くほどあっさりと、本音を口にしていた。
「秘密にしておきたいことでも、さとり様に覗かれるのが怖くて、みんな離れていったんじゃないかな」
「でも、それて仕方ないことだよ……さとり様はそういう妖怪だから……」
「そうだよね、だからきっと。どうしようもなかったんだよ。心を読んでくれてありがとうって人よりもさ、なんで勝手に心を覗くのかって、怒る人の方が多いはずだし」
いつもと違う、辛そうなお空の姿。
あたいの中の誰かが、もう笑い話にしてしまえって叫ぶんだけど。でもね、涙を溜めながら話を続けようとするお空を見てたら、どうしても嘘なんてつけなかった。
「それで、こいし様も、目を閉じちゃったのかな」
「……そうかもしれないね」
「他の人の心を覗くのが嫌になって……」
水滴が、不定期に落ちる。
そんな静かな音の中で、あたいは後悔した。
いつも笑っている元気の良い、お空。
でも、その裏側ではこんなに心を痛めていたなんて。
そんな大事なことに全然気づいてやれなかった自分が。
凄く情けなくて、悔しかった。
「お燐も、地上とか別のところで嫌なことがあったの?」
「……まあね、少しだけ」
「そっか、そうなんだ」
そうやって、水面を見ながら俯き。
すっと瞳を閉じる。
そんなお空の姿に……
なんでかな。
お空からそんな気配がするはずがないのにさ。
お湯の中だから、そんなの気のせいに決まっているのに。
お空を見てたら。
いつもは可愛い子くらいしか思わないお空の横顔に。
何も語らず瞳を閉じた、姿に。
寒気が、したんだ。
だから――
「ねえ、お燐? ずっと前に言ってた、地上にある『空』って本当に綺麗なのかな?」
あたいは、そのお空の問いに答えることができなかった。
◇ ◇ ◇
お空は、優しい。
でも、その優しさが危険すぎる。
火に強い烏として変異してから、あたいと出会って。
さとり様たちと出会って。
一緒に寝食を共にする仲間というものを、得た。
『家族』を得た。
そしてお空は、知ろうとした。
家族のことを少しでも多く。
でもね、それが……
お空に別な感情を芽生えさせていた。
それが、地上やそこにいる人たちへの、恨み、怒り。
なんでさとり様やあたいが、ここに来なければいけなかったのか。
家族として生活し、事実を知るにしたがって。お空の中でどんどん矛盾が大きくなって行ったんだろう。
『何故?』と。
でもその怒りはどこにもぶつけられない。
さとり様を苦しめた人たちは今ここにいないから。
こいし様に瞳を閉じさせるほど苦痛を与えた人がいないから。
あたいを苦しめた閻魔や死神だってここにいない。
だからあたいは、怖かった。
このままだとお空が壊れてしまうんじゃないかって。
内側に感情を押し殺して、爆発してしまうんじゃないかって。
それが怖かったから、あたいは――
「……ね? お願いだよ、パルスィお姉さん♪ なんでもするから、ね♪」
「ね♪ じゃないわよ。どうしてその流れで私になるのかがわからない」
旧都の、とある家を訪ねて。
家主の前で両手を擦り合せていた。
また織物をしていたパルスィお姉さんは、あたいを一瞥して肩を落としていたけれど。
「あー、ほら、パルスィお姉さんは、こう妬みとか黒っぽい感情を操れる気がしてね。お空のその部分を取り払うことできないかなぁって。ちょっとだけすっきりさせる程度でもいいからさ」
「……無茶言うわね」
「無茶は承知さ、できなくてもいいから試すだけでもっ! この通りっ!」
あたいは、入り口の土間のところで。
躊躇うことなく膝を付き。
泥で服が汚れても気にせず、額を硬い部分に押し付けた。
あたいだって駄目かもしれないとか思ってるさ。
でもあの子に何かしてやれるなら、できるだけやってみたいと。そう思ったんだよ。
「……わかったわよ、この織物ができたら引き受けてあげる。後二日待って」
「ありがとうお姉さんっ! いあぁ、やっぱり持つべきものは友人だね」
「いちいち大袈裟なのよあなたは。わかったから、さっさと立ってどこか行きなさい」
面倒見がいいけど、どこか口が悪いパルスィお姉さんらしく。しっしって追い払われちゃったけど、でも仕方ないね。
わざと冷たく言うことで、相手の行動を促すのがお姉さんのやり方なんだから。
自分から動こうとしないやつは、助けない主義、っていうのかね。
そんな感じがするよ。
まあ、何はともあれよかったよかった。
あたいは胸を撫で下ろして、旧都の中央通りをぶらぶら歩く。
パルスィお姉さんの能力でどこまでできるかはわからない。
ひょっとしたら全然効果ないのかもしれないけどさ。
何かしてあげられるかもしれないっていう、この高揚感は悪くない。
単なるあたいの身勝手な考えって言われたら、泣きたくなるかもね。
「さあって、後はお空の大好きなお饅頭でも買って行ってあげるかねぇ」
さとり様からたまに貰えるお小遣いを握り締め、あたいは足取り軽く通りを駆け抜けた。でもそうやってはしゃぎ過ぎたせいかな、小さな路地から出てきた大きな影に気がつかなくてね。つい、どんっ、て正面からぶつかっちゃったよ。
いやぁ、失敗、失敗。
「ごめんね、ちょっと余所見しててさ。怪我はないかい?」
至近距離だと体つきしかわからないんだけど。
どうやらぶつかったのは、一回りも二回りも大きいお兄さんみたいだね。
あたいがぶつかってもびくともしないし。
でも、不注意でぶつかったあたいが悪いんだからね。
目を見てもう一度しっかり謝るべきだろう。
そう思ってゆっくり顔を見上げたらさ。
「よぉ……久しぶり……」
どこか見覚えのある。
一つ目の大きなお兄さんの顔があってね。
影を帯びた、見覚えのある顔。
でも、何だか危険な香りがした。
だから慌てて、身を離そうとしたんだけどさ。
みしって……
「……あ、ぇ?」
嫌な音が、聞こえてきた。
あたいのちょうどお腹の真ん中。
一つ目のお兄さんの大きな握り拳がめり込んだところから。
何かが壊れる感触がしたんだよ。
その後。
その後、どうなったか?
それは、あたいもわからない。
だってね。
不意打ちだったし、最初の一撃で、気絶しちゃってたから。
凄く痛かったって記憶しかないんだ。
気が付いたらさ、旧都の中央通りに転がっててね。
何の記憶もないしさ。
ただ、ちょっと。
体が動かなくてね。
起き上がれそうにないんだよ。
自分の呼吸する音だけが、妙に大きく聞こえて。
指先なんて、感覚がほとんどないんだ。
痛いのか。
気持ちいいのか。
それとも、苦しいのか。
いろんな感覚が混ざり合って、もう、何がなんだかわからない。
わかることは、中央通りの地面の冷たさと。
あたいを取り囲む人の足の多さと。
ざわざわと、騒がしい音。
それで、自分がなんとか生きているということだったよ。
「……りん……おり……っ!」
でも、よかった。
この声はパルスィお姉さんだ。
声量からして、すぐ近くにいるのかな。
見覚えのある靴があるけど、これがお姉さんかな。
「おり……んで、こんな……」
あ、やっぱり当たりみたいだ。
これでなんとかお願いできるよ。
見知らぬ人に大事なお金を預けられないからね。
「おね……ぇさんっ……右手……お金ある…………くぅのっ……ぉまんじゅぅ」
「わかっ……、……かったから。早く、誰か医……を呼んでっ!!」
パルスィお姉さんが座り込んで。
あたいの右手を握ってくれた。
ああ、そうだよ。お姉さん。
その右手の中の、お金で。
お空の……お饅頭……を。
そしてあたいが再び意識を失う直前。
ちゃりんっと。
お金が零れる音と。
お姉さんが必死に誰かを呼ぶ声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
聞きなれない怒鳴り声がして、あたいは瞼を上げた。
ぼぅっと、呆けた視界に飛び込んできたのは、見覚えのある天井。
そして、布団から感じる、自分自身の香り。
その二つで自分の部屋に寝かされていることがわかった。
ただ、体に包帯らしきものが巻かれていて、違和感があるし。傷薬の匂いが少々きつい。
でもそんなことよりさ。
なんだか横が騒がしくてね。
ベッドやタンス以外置かれていない、殺風景なあたいの部屋に似つかわしくない騒音だよ。しかも至近距離で何かを言い合っているようだからね。耳がキンキンする。
「言い訳など聞きたくもありませんっ!」
「そんなこと言われてもね、私だっていつも旧都全体に目を光らせているわけじゃないんだ。ケンカがあったとしても気づかないときだってあるよ」
「これがケンカですか! このお燐の怪我が!」
「だから、モノの例えだって、落ち着きなよ」
驚いた。
いつも静かなさとり様が。
あの鬼の勇儀お姉さんの襟首を掴みそうなほどの勢いで怒鳴り散らしていた。
本気で、怒ってくれていたんだよ。
あたいが目を覚ましたことに気付かないくらい。もの凄い勢いで。
……嬉しかったね。
あたいは、幸せ者だと思ったよ。
これだけ真剣に想ってくれる人がいる、そうわかったら。
泣きそうだった。
立場だけのペットって昔は言ってたけど。本当にさとり様にならついていってもいいかなって思った。
でもね、いつまでもあたいのことでそんな言い合いして欲しくないんだよね。
ちょっとした事故なんだからさ。
「……さとり様、そのあたりでやめておきませんか?」
「お、お燐っ! 体は、どこか痛むところは!」
「ありません、って言ったら嘘になりますからね。正直言いますよ、すっごい痛いです」
布団の上で呻きながら、自分の状態を説明した。
まだまだ動かせる状態じゃないですって。
もう少ししたら回復しそうですけどって。
どうせ、我慢してもばれるしね。
さとり様相手だと。
でも、あたいの声に反応してくれたおかげで、なんとかケンカを止める事ができたみたいだよ。いやぁ、よかったよかった。
「……お燐、わかっているの? あなたは誰かに傷付けられたんです。悪意を持って」
「でも、生きてるじゃないですか、あたいは。それでいいでしょう? あんまり贅沢を言うとバチが当たりますよ。死んでからあたいみたいな火車に運ばれたら、終わりですけどね」
奇麗事かとさとり様は思うかもしれない。
でも、これがあたいの本音なんだよ。
ずっと前に、火車として地上にいたからね。命っていうやつに、あたいはいつも触れてきた。だから思う、死んだら終わりだなって。
でも、あたいは生きてるから、これでよし。
次に同じ目にあわないようにすればいいだけなんだから。
「……あなたらしい意見ですね」
「ありがとうございます。じゃあ、今日はこれで終わりってことにします?」
「被害者がそう言うなら、そうしても構いません。と、言いたいところですが……、今回ばかりはそうも行かないんですよ。きっと相手は私が持ち込んだスペルカードルールを嫌う者のはずですからね。比較的頑丈なあなただったから死には至らなかったかもしれませんが、別なものが人里にいたらと思うと、ぞっとしますよ……」
「……なるほど、あたいは見せしめってことですか」
「そのとおり。ですから、私がスペルカードという決まりごとを捨てない限り、相手側はエスカレートする恐れがある。事実、手紙による脅しは何度もありましたから……それを無視した結果が……」
「ああ、もう、ですから。あたいは怪我しただけですから良いんですって」
あたいはなんとか笑みを作ってさとり様を励ましつつ。
旧都の出来事を思い出す。
確か、あの一つ目のお兄さんに殴られたはずだから。
あの人が代表格ってところかねぇ。
確かに、力は強そうだけど、不器用そうだから。スペルカードルールに馴染めなかったのかもしれない。
まあ、あっちからしてみれば急にルールを押し付けられた気分だろうし。可哀想な話かもしれないけどさ。
「なるほど、一つ目の巨人。サイクロプスの血筋の方ですか。あなたをこんな目にあわせたのは」
「あっ!」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
さとり様の前で物思いにふけるなんて、油断もいいところだよ。
「……あいつか。争いごとのルールが変わってから、縄張りを失ったらしいからね。たぶん、その報復ってところだろう」
黙っていた勇儀お姉さんも、腕を組んでうんうんって頷いちゃってるし。
どうしようかねぇ……
「んー、穏便に済ませたりとかは……」
「ま、難しいね。一応、旧都の代表として守ってきた身としては、多少痛い目を見てもらう必要があるだろうし」
「こちらも、甘い顔をして見逃すと。調子に乗られてしまいますからね。被害が増える可能性だってある」
「あー、まあ、確かにそうかもしれませんけど……」
一緒に暮らしてるさとり様やこいし様。
それに動物や妖獣があたいみたいな目に遭うって考えたら、やっぱり嫌だし。お空が犠牲になったらきっと、こんな冷静に考えられないだろうし。
あれ、そういえば。
「え、えっと、勇儀お姉さん? パルスィお姉さんは?」
「礼でも言いたいのかい?」
「まあ、それもあるんだけど。確かお空のためのお饅頭を買ってってお願いした気がするんだよね」
「ああ、それなら。ほら、あんたの枕の横にあるよ」
「え? あー、なるほど。枕の陰で見えなかったんだねぇ」
言われて少しだけ体の向きを変えてみれば、確かに枕の陰に小さな白い膨らみが見える。
枕と布団のシーツの色が邪魔で見えなかったんだね。
それと、傷薬の匂いであんまり鼻も利かないし。
そうやって饅頭を発見して満足したあたいを、何故か勇儀お姉さんはあきれたように見下ろしてきた。
「パルスィからの伝言、『なんであの状態で饅頭なのよ。死んじゃうかと思った!』ってね。しかし素直に買う方もどうかと思うんだが」
「いやいや、本当にお姉さんには感謝してるって伝えといてくれるかい。あたい、後一日は安静にしてないときついしさ」
「へー、その傷が一日で治るか」
「ん、一応動けるようになるかな。鬼っていう種族と比較したらあたいなんて小さいもんだけどさ。火車って死神と同じで命を扱う種族だからね、結構凄いんだよ」
「それじゃあ、お空にも伝えておきましょうか。明日になればまたお燐と遊ぶことができる、と」
「そうしてくれると助かります、あの、それでお空は今どこに……」
そう、質問した途端。
さとり様が困ったように半分だけ目を伏せ、視線を反らした。
「少し、興奮しまして……」
嘘、ですね?
あたいが、そうやって心の中で返すと。
さとり様は、こくりっと首を縦に振ってくれた。
たぶん、少しだけじゃないんだろう。
泣き叫んで、大暴れしたのかもしれない。
だから、この部屋に入れてもらえなかった。
あたいを傷つける恐れがあったから。
「そんなに心配してくれるなんて、やっぱり、あたいは幸せ者ですね」
「……いままでも幸せって受け取ってもいいのかしら」
「お風呂に無理やり入れようとしなければ、もう完璧なんですけど」
「それは却下」
「え~!」
あたいと、さとり様のいつものようなやり取り。
そんな会話に豪快な笑い声が割って入ってきて。
最後には三つの笑い声が重なった。
「ははは、それぐらい冗談が言えれば大丈夫そうだ。ってことで、私もそろそろ退散するよ。一つ目の連中たちを今後どうするか、古参のやつと話し合ってみるさ」
「そうしていただけると助かります、ではまた……」
何やら、きな臭い雰囲気になってきたけど。
とりあえず、怪我を治すことに専念しないといけないんだろうし。
「さとり様、今日だけ、死体運び休みますね」
「ええ、ゆっくりおやすみなさい」
あたいは、さとり様の背中をベッドの上で見送って。
暗闇の世界に意識を手放した。
◇ ◇ ◇
地底は特殊な光ゴケの発光によって、夜か朝か、大体わかる。
部屋についているランプのひとつがそのコケを利用しているから、全然発光していないところを見ると、まだ深夜みたいだ。
「……もうちょっと、寝れると思ったんだけどねぇ」
妖怪は基本的に寝るのは娯楽の一種。
夢を見ることができるから寝る、とか。
なんか暖かくて気持ち良いから寝る、とか。
もしくは大怪我をしたときに体の機能が一時的に低下して、寝てしまうとか。
今回のあたいは、その体が弱ったからに該当するんだけど。
どうやら、日中に寝すぎたせいだろうね。
全然眠くない。
これっぽっちも。
眠気の一欠けらすら残っていない。
たぶん、それだけ回復も早いってことなんだろう。
まだ鈍い痛みは残っているものの手足はゆっくりなら動かせるしね。
人間で言うと死んでても良い怪我でも、一日でこのとおり。
でも何もやることがないからね、とりあえず……
動かせたところで、しばらく寝てるしかないんだけど。
天井くらいしか見るものがないっていうのは、退屈だね。
あたいはごそごそ、と。
枕の側にあるはずのものを探して、手を動かした。
せめてお空にあげるお饅頭の位置くらい確認しておきたかったから。でも、いくら動かしても手に柔らかい感触がぶつからない。それどころか。
かさっ、ていうね。
なんか紙っぽいものが手に当たった。
なんだろうね、これ。
あたいが何の気なしに、横になったまま顔の前にそれを持ってきてみると。
ちょうどあたいの顔くらいの大きさの、ちょっとしわが入った紙だった。
何か書いてあるみたいだけど、暗くてよくわからないというより……
字がちょっと読みにくい。
みみずの大運動会状態だ。
それでもこの癖のある字は誰が書いたかすぐわかる。
お空だ。
「なんだい、起こしてくれればよかったのにさ」
たぶん、さとり様に聞いて、あたいが寝ている間に部屋に来たんだろう。
それでお饅頭もしっかり食べてくれたと。
その証拠にさ、ほら。
『れいうじ うつほ。
おりん、ありがと、おいしかった』
冒頭に読みにくい字で、お礼の言葉が書いてあったからね。
いやぁ、嬉しいね。
でもお空、自分の名前くらい漢字で書きなよ。
あたいは、そのメモを見つめながら、思わず吹き出しちゃったよ。
確かに、れいうじ、って苗字は書きにくい。ペットになるときにさとり様がノリで付けたからね。余計に難易度が高いんだろう。で、あたいは『火焔猫』ってそのまんまの苗字がつけられた。あんまり好きじゃないから、お燐って呼んでもらってるけどね。お空が、『おくう』のままなのは、『れいうじ』って呼んでも、数秒間は反応しないからで……
おっとっと、いけないいけない。
あたいは、退屈すぎて余計なことを考える思考を整理して、またメモの続きを読む。
でも、文字を追うたびに。
あたいは胸を締め付けられる気がしたよ。
『かえってきた おりんをみて しんじゃうかとおもった』
ごめんね……
『もう、あそべないとおもった』
ごめんね……
『こわかった おりんがいなくなるなんていやだ……』
本当に、ごめんね……
もう、謝るしかできない。
一番心配をかけたくないはずのお空に、こんな辛い思いをさせたかと思うと。後悔の念がふつふつと湧き出てくる。それなのに、自分が犠牲になったからそれでいい、と。軽々口にした自分が恥ずかしくなったよ。
もう無茶なことはしないから、安心しておくれ。お空。
そう心の中で言葉を紡いで、続きを――
『だから、みんな、きえちゃえばいい』
え?
『おりんを きずつけるようなやつは いなくなればいい』
お、くぅ?
『さとりさまや こいしさまや ともだちを きずつけようとするやつは いらない』
ちがう、そうじゃない。
『だから みんなをきずつけた ちじょうも そらも……』
あんたは、そんな……
『わたしが けす』
冗談でも、そんなこと言わないはずじゃないか。
『かみさまが ちからをくれるっていうから
みんなをまもれる ちから
くれるっていうから
もらってくる まっててね おりん』
あたいは、ベッドから飛び起きた。
その表紙にちょっとお腹のあたりに痺れるような痛みが走ったけど。
そんなこと気にしてはいられない。
今、動かないと。
何か大切なものを失う気がして。
ただ、夢中で体を動かした。
お空の部屋。
旧灼熱地獄。
あたいは体を引き摺りながら、お空を探したけど、どこにもいなかった。
だから旧都の方かなって思って。
パルスィお姉さんのところを尋ねてみた。
そしたら、『何してるの!』って、安静にしてろって怒鳴られた。でもね、お空を探してるって正直に言ったら、察してくれたみたいで。
一緒に旧都の中を走り回ってくれた。
そして聞き込みをしてるうちに。
別な事件が起きた。
あたいを襲った、あの一つ目の男が、誰かに襲われたんだって。
中央通りを歩いているときに、何気なく両腕を上げた瞬間。
その男の腕が、肘の先から消えてたんだって。
傷口は焼けただれて、いくら鬼でも回復に時間がかかるらしい。
もしかしたら地霊殿の誰かの報復かとも思ったんだけど。
あたいの知る限り、一つ目鬼の腕を一瞬で焼き切るほどの熱量を出せる奴なんていない。
大抵の炎なら、皮膚の上で消し飛ばされるだろうからね。
そんな力、一つ目鬼以上の力を持った鬼か。
神か、仏か。
『神』?
あたいの中で、何かが弾けた。
警鐘が鳴り続け。
嫌な汗が流れ始める。
あの手紙の中の『かみ』の話。
あれが本当だとするなら
あたいは、事件によって騒がしくなり始めた旧都を後にしてもう一度あの場所へ向かう。
お空と、初めて出会った場所へ。
◇ ◇ ◇
世界は、変わっていた。
灼熱地獄の穴へと足を踏み入れた瞬間。
いつもの場所は違うということがわかった。
人間なんて立っているだけで肌が焼かれてしまう外気。
橙色に、燃えるように輝く赤い液体の溜まる広い沼地。
そしてそこから生まれる、いくつもの気泡の爆発。
きっと、これが灼熱地獄の本当の姿。
厳しすぎると言われ、除外された地獄。
立っているだけでも。
息をするだけでも。
熱に弱い者なら、すべてが苦痛。
苦痛を逃れる場所もなく。
苦痛で、苦痛を紛らわせるしかない。
でも、あたいは進む。
まだ火車としては耐えられる気温だったから。
意を決して、ただまっすぐ進む。
そこに、あの子がいると信じて。
そしてとうとう、行き止まり。
地獄の一番奥地まで辿り着いたら。
「お燐! 元気になったんだね!」
いつものように笑う。
いつもと違う姿の、お空がいた。
右腕に取り付けられた、大きな木製の棒のようなもの。
右足に岩がくっついたような靴を履き。
胸に真っ赤な宝石を取り付け。
赤い炎の沼地の水面に足をつけながら嬉しそうに笑う。
「あはは、お燐も気になる? これが私の新しい力なんだ、凄いでしょ、昔の灼熱地獄そのままなんだよ!」
熱量を生み出す中心核に、お空はいる。
あたいですら前進することを恐れる場所に、溶岩すら生み出しそうなほどの膨大な熱の中で。何事もないかのように翼を広げていた。
「お空……あんた、その力……どこから……」
静かに燃えていた地獄を。
完全に復活させるような熱。
それは一体、どれほどの力だっていうのか。
肌をちりちり焼かれながら、あたいは思わず身を引いていた。
あの、お空から。
「神様からだよ。私に、太陽っていうやつの力をくれるって。熱に強い烏なら受け入れられるはずだって言ってね。私に、みんなを守る力をくれたんだ」
守る力。
本当に、それだけならいいんだよ。
相手をけん制する為に膨大な力を見せ付けるっていうのは、ときに必要なことさ。
でも何か違うと、あたいの本能が警告する。
お空の笑顔を見ているだけで、不安だけが積み重なっていくんだ。
「そっか、守る力なんだね。じゃあ、まだその力を攻撃に使ったりとかは」
「ん? 使ったよ♪」
「え?」
まるで遊びの内容を告げる子供のように。
お空は長い髪大きく揺らして、腕についた棒を振り上げた。
自慢気に胸を張る。
「お空に酷い事をした人を懲らしめてきた」
右腕を天井に向け。
達成感に満ち溢れた顔で、胸を張る。
「て、手加減は、したんだろう? ほら、本当は当てるつもりはなかったとか。ちょっと火傷させるつもりだったとか」
「うん、ちょっとだけ失敗したんだよ」
「そ、そうだよね。お空があんなこと……」
ほっとした。
お空があんな強力を他人を巻き込む可能性のあるところで撃つはずがないからね。
そうやってあたいが胸を撫で下ろしていると。
お空は少し残念そうに、目を伏せた。
本当に、悔しそうに。
「ちゃんと体に当てるつもりだったんだけど、失敗しちゃったよ。火力はばっちりだったんだけどね」
「お、お空っ! な、なんでそんなことっ!」
「なんでって言われても、だってあの人、お空が死んじゃうかもしれないことをしたでしょ? じゃあ、お返しで私が死んじゃうようなことをしてもいいかなって♪ そしたら、誰もお燐のことを虐めなくなるよ。虐めたら、ちゃんと私が消すから安心して、お燐」
「お空……」
違うよ、お空。
あたいが望んでるのは、そんな力を持ったお空じゃない。いつもの、くだらないことで大笑いするようなお空なんだよ。
それにね。
お空は大事なことがわかってないよ。
そんな考え方じゃ駄目なんだよ。
それじゃ、一緒なんだよ。
「だからね、ほら。さとり様とこいし様を苛めるような、悪い『地上』も『空』も焼き払うんだ。そしたらみんな、絶対ここのみんなを馬鹿にしなくなる。みんな安心して暮らせるんだ」
「地上の人や、あの一つ目鬼のお兄さんが、あたいたちを傷つけるかもしれないからかい?」
「そうだよ、酷い事するかもしれないから」
やっぱりお空、何もわかってない。
その考え方がどれだけ危険か。
わかろうともしない。
その考え方はね、お空。
『危険かもしれないから、駆除しておこう』
『こいつの能力は絶対自分の害になるはずから追い払おう』
そんな『かもしれない』ってだけで。
みんなを、旧都ってところに追い詰めた。
地上のごく一部のやつらと同じ考え方なんだよ。
「駄目だよ、地上を焼いたって、ただあんたが恨みをかうだけ。地底のみんなだって、今更そんなこと望んじゃいない。静かに、片寄せあって暮らしてるじゃないか。それの何が不満だっていうんだい、どうしちゃったのさっ! お空っ!」
「違うよ、私が守らないと駄目なんだ! 私が守らなかったら、またお燐が怪我するもん! 嫌なんだよ、私の目の前で誰かが怪我したりするの、もう嫌なのっ!」
「あたいは大丈夫だよ。お空がいてくれれば大丈夫だよっ!」
「でも、お燐、私のために何でもするでしょ! 今度は怪我で済まないかもしれない! だから、みんな焼く。みんなを悲しませるものは私が全部燃やしてやる!」
「それは絶対させないよ、お空! やっちゃいけないことなんだよ。それに地上にだって、あたいたちみたいに、仲良く暮らしてるやつだっているんだよ。簡単に焼いちゃ駄目なんだ!」
「……そう、お燐。私の邪魔するんだ」
「そうだよ! あんたが正気に戻るまで絶対にっ!」
「そっか、わかった……」
あたいは声を張り上げた。
お空の心に少しでも響くように、必死で喉を震わせる。
何度も、何度もあたいの心をお空にぶつけた。
でも、やっとそれが届いたのかな。
お空が持ち上げていた右手を下ろしたんだ。
羽をたたんで、一歩一歩近づいてきてくれる。
あたいが踏み入れられそうにない、赤い沼から出てくれたよ。
ああ、よかった。
落ち着いてくれたんだね。
正気に戻ってくれたんだね、おく――
「邪魔するなら、お燐でも容赦しないよ?」
あと数歩でお空まで手が届く。
あたいが思わずゴツゴツの岩場を蹴って駆け出したとき。
ぴたり、と。
「え? な、なんの冗談だい? はは、いやだねぇ」
あたいの眼前に、お空の右腕の。
冷たい多角形が突きつけられるた。
「冗談じゃないよ、お燐。私は本気。だから、邪魔しないで」
どうして、こうなったんだ。
お空、さっきあんた、なんて言ったか覚えてないのかい。
あんた、あたいを守りたいから力を手に入れたっていったじゃないか。
それなのになんだい、これは。
何の冗談だい。
矛盾だらけじゃないか。
なんでこんなに――
「本当に、どうしちゃったんだよ……、あんた、どうして……」
「どうもしてないよ、私はただ、みんなを守りたいだけだから。さとり様もこいし様も、お燐も……え、あれ。私、なんでお燐に……」
「――っ!」
残ってる。
まだ、大丈夫だ。
ちゃんと、優しいお空は残ってる。
左手で頭を抑え、あたいに向けた右腕をガクガクと震えさせ始めたお空を見て、あたいは確信した。
まだ、力を持つ前のお空に戻すことができると。
でもあたいが近づこうとするとお空は頑なに拒み、右腕の棒を振り回す。
だから、あたいはスカートの中に手を入れて。
4枚のスペルカードを取り出した。
「いいかい、お空。あたいと勝負しな」
「勝、負?」
「そうだよ、あたいが勝ったら、その力を無闇に使わないって約束しておくれ。だから地上を燃やすのはなしだ」
「……じゃあ、私が勝ったら?」
「あんたが地上に出ようとしたとしても、あたいは止めない」
「いいよ、今の私にお燐が勝てるはずないけど。遊んであげる」
「ふん、初めてケンカしたとき。あたいが勝ったのを忘れたのかい?」
「……私が勝ったし!」
「いいや、あたいだね!」
やっぱり、まだ大丈夫。
この勝負さえ勝てば、きっとお空はすぐ戻ってくれる。
だから、この戦いだけは。
「いくよ! お空!」
勝たなきゃ、いけないんだっ。
あたいは、地面に手をついて。
怨霊やゾンビフェアリーを呼び出し……
右腕を構えたお空へと、全力で飛んだ。
つもりだったのにさ。
あたいの足がね、
言う事を、聞かないんだよ。
がくんって。
膝から力が抜けて。折れ曲がってさ。
あはは、忘れてたよ。
怪我、してたんだった。
病み上がりだったんだ、あたい。
あはは、こんな状態で勝てるはずないのにさ。
何……やってんだろう。
あたいが、地面に手をついて。
あははっと笑ってたら。
真正面から大きな弾幕が飛んできて。
あたいは、あっさり気を失った。
大見栄きって、頑張ってみたけどさ。
慣れないことはやっちゃ駄目ってことかな。
でもね、気を失う前に。
少し見えたんだよ。
お空が、泣いてるのが。
泣きながら、弾幕を撃つのがね、見えちゃったんだ。
やっぱり、駄目なんだよ。
あの子、優しいんだ。
平気な顔で弾幕を撃つように見えて、やっぱり撃ちたくないんだ。
あたいだけじゃない。
きっと、さとり様やこいし様でも駄目だ。
勇儀お姉さんでも、パルスィお姉さんでもだめだ。
仲間の誰かにその手を向け続けたら、あの子の心が壊れてしまう。
地底の人たちとお空を戦わせちゃいけない。
でも、あの子をこのままにはできない。
だからね。
だから、勇儀お姉さん。さとり様、許しておくれ。
お空が灼熱地獄の熱を取り戻させたことにより、できた間欠泉。
地上まで続く狭い穴の中。
あたいはそこに、怨霊をたっぷり詰め込んだ台車を傾けた。
台車の上から、ころころと、転がり落ちていくその姿を見ながら。
あたいは、ふぅっと息を吐く。
これで次にお湯が噴出すときは。
怨霊も一緒に飛び出るはずさ。
地上に、元気良くね。
そしてついに時間がくる。
あたいは、少し離れてその様子を見守ったけど。見事なものだね。ひとつ残らず水流に飲まれて上にあがっちゃったよ。
地上に出ちゃったんだね。
過去に地上と交わされた。
怨霊を出さないという約束を破って。
あの子達は地底から出て行った。
「……誰か気付いておくれ、お願いだから、お空を止めておくれ」
他力本願だって笑ってくれていい。
でも、あたいは馬鹿だから、この方法しか思いつかなかったんだ。
あの子を助けるために。
禁を破るしかないって思ったんだよ。
あたいが、すべて背負うから。
お願いだよ。あの子を――
これ以上、泣かせないでおくれ。
小ネタもコミカルで終盤のシリアスを際立たせるような
というかあなたの作品は面白いものばかりですねぇ。
一つだけ、後半お燐とお空がごっちゃになっている箇所がありました。
そういうふうに書いたのですかね?
面白かった。
続きは作者の思うようにすればよいかと。
この作品だと続きは原作地霊殿の流れで読む側もあれこれ想像しやすいからね。
ところどころ誤字があった気がするけど、どこか忘れちまったよ。
地底に幸あれ。
話の内容としては、考え方がしっかりしており、違和感なくまとまっているのが良いです
真っすぐな空と不器用な燐。こんな関係もありかな
とても面白かった!
誤字の報告を
>それと、傷薬の匂いであんまり花も利かないし。
続きにも期待して待ってます!
続編が気になりますっ。
24ヵ所の間違い探しゲームに関しては、するもしないも貴方の自由です。
もし良ければ是非続編をお願いしたいっ!
是非とも続編を
いつの間にか、全部すんなり読んじゃったよ
他にも数ヶ所誤字・脱字があったので少々マイナス。
話自体はとても面白かったです。
続きが気になります。
強姦(未遂だけど)とか割とダークな表現がある分、
単純で、だからこそ純粋なお空が暴走していく過程が分かりやすく面白い。
このままお空が地上に憎しみを抱いたまま終わってしまうのでは救いが無さ過ぎます。
ラストのお燐の独白が切ない……
続きをぜひ読んでみたいです。
どんだけ受け入れてるんだw
他の人も散々突っ込みを入れているけど、推敲を一度もしていないと思えるほど
誤字・脱字があるのは読者軽視と取られても仕方が無いと思うよ。
自分で何度見直しても見逃しが出るのなら、友人に見てもらえばいいと思うし。
内容はすっごい好みで、燐とお空の関係も今までにない解釈であって新鮮で、
終わり方も丁度良いと感じました。
地底だから汚いとか、地上だから綺麗だとか。場所や種族とか関係無しに、個々の問題なんですよね。
流石にこれで終わりは生殺しですww
脱字に関してはワードとかに一度文章を放りん込んでみるのも手かもね。
誤字
>その墨に置かれた
これは隅じゃないですかね。
地霊殿特有の、みんな明るいんだけど影がある感じが見事に描写されていました。
最後のお燐とお空のやり取りには、自分が「新訳アーマードこぁ」で表現したくてもしきれなかった事がきっちり凝縮されていて羨ましく感じました。二人の性格もメリハリが付いていて参考になります。
異変後、二人は元通りの関係になれたのでしょうか。
ここから地霊殿が始まると思うとすごくワクワクしますね。
いいお話をありがとうございます。
これはなんというお美事なプレストーリー…。
少し物事を斜めに見るけど面倒見の良いお燐、まっすぐで無邪気な優しいお空。
他の地霊殿登場キャラも魅力的に描かれていますね。
一つの物語として自分の中で違和感なくすっと入ってくる感じでした。
この設定での続編に期待しちゃいますねえ…