じわりと踏めばじわりと退がる。そうそう、いい感じ。そのまま追い詰めると、壁を背にした哀れな子犬はもう足元も覚束無くて、肩を小さくわななかせながら見るも愛しく耳元を赤くする。そこまで恥ずかしく思うことでもないでしょうに、まあまあこれがこの子なりの意地かしら?
「こっ、来ないでください……!」
「どうしたの、急に。いつも通りでしょう。なんにも変なことはしないわ。いつもみたいに、ただちょっと頭を撫でるだけ。ねえ?」
「やめ……っ!」
手を伸ばす。視線を畳へ落として、つつと滑らせていく。顔を見る必要なんてない。指先がやわらかい髪に触れて、髪を撫ぜて、肩を抱いて、十秒もすれば、ほら――ああ、やっぱりだ、なんて愉快な話だろう。なんて素敵な語りぐさ。こんなに嬉しいことがあるかしら。幽々子には悪いけれど、いまだけ心ひそかに言わせてもらうとしよう――かわいいかわいい≪私の妖夢≫。あなたとちゃんと遊ぶのは、きっと今日がはじめてね。
***
前略紫様、いいかげん帰ってください。幽々子様に新年のご挨拶もけっこうですが、こう長々と居座られてはうんざりです。明けて早々来る日も来る日も、こうしてあなたの相手をさせられる私の身にもなってください。何かにつけてちょっかいを出して来るのもうっとうしい、茶化すな冷やかすなからかうな。いいからそっとしておいてください。といって黙っていればまたそうやって変な目で人を見る……。
穏やかな正月午後の日差しに明るい、白玉楼の狭い客間にふたりきり。澄ました顔で茶を啜る魂魄妖夢の、おでこから頬から顔中を埋め尽くしたこの訴え文を斜交いに盗み見て、八雲紫は苦い顔をした。ふんだ、細かい字でしこたま書いてくれちゃって。どうせ私は邪魔者よ。けれど一年に一度くらい、旧友とゆっくり語らう時間があってもいいじゃない?
もっともである。しかしこのまま一月いっぱいは居座りつづけるのではないかと疑われるほど、帰ろうという気配を微塵も見せない客人に、妖夢がこういらいらを募らせるのもやはりもっともなのである。表情の具合から読みとって勝手に拵えた先の訴えも、もし本当にそう思われていたところで無理もない、と紫は思っていた。
とはいえここにひとつだけ悲しい誤解があるようだ――紫は同じくらいの楽しみに、妖夢にだって会いに来ているのである。本当だ。それを幽々子が留守にするや邪険に扱うこの態度、少しばかり拗ねてみたって罰は当たるまい。そうしてそんな妖夢の気に喰わない態度がしばらくつづけば、八雲紫の性格からして至極当然の成り行きに、こちらも何かいじわるがしたくなってくるのである。
「妖夢、こっちへいらっしゃい」
「またですか。いやですよ」
妖夢は言下に言い捨てて、露骨にいやな顔をする。
「いいじゃないですか、このままで」
「ふうん、あなたはたいせつなお客様にそういう杜撰なおもてなしをするのね?」
「昨日も同じことを言ったじゃないですか」
「昨日も同じことを言われたのにね。幽々子の教育がいけないのかしら」
「……わかりました。いま行きます」
「よろしい」
妖夢はしぶしぶ膝を摺って隣へ来る。紫はそれをつかまえて膝許に置く。小さな子供を抱くような格好になる。なるほど傍目には微笑ましくも、妖夢くらいの年ともなれば、なかなか安々とはしていられない気恥しさに違いない。それでも――芯から逆らうような性格でもなし、こうなることがわかっているのに、あなたも相変わらず無駄な抵抗をするのね。
「なんなんですか、一体」
「んー。たとえばほら、こうすると同じ景色が見えるでしょう」
「だから、何ですか」
「素敵じゃない?」
別に、という顔をしているのがつむじだけ見ててもわかる。まったく、しょうのない子。
「南天の実がきらきらしてきれいね。あの梅は立派に咲くかしら」
「もちろん、咲かせます」
「あら、頼もしい。期待してるわ」
前と後でぽつりぽつり時々交わす会話のなかにも、妖夢は身じろぎせずにじっとしている。この形に落ち着いてからはあまり動こうとしない。紫はそれをいいことに、髪を梳かしたり唇に触れたり肩を揉んだり脚を撫でたり、好き放題と存分に自分なりのスキンシップを取っている。小さい子は多少嫌がってもできるだけ肌に触れていたほうがいいと、勝手に思っているのである。
そう、藍だって小さな頃はどれだけぎゅっとしてあげたことか、どれだけそれをいやがったことか。それでも肌のふれあう感触というのは、時の経つにつれてますます色濃く記憶に
ところで、どちらかというと幽々子はこういうことが少し苦手だから、それじゃあ私の役目かな、なんて思うところもあって――もっともここに本音は半分、あとの片割れは月並みで、ちっちゃな子犬を見ると抱きしめたくなる普通一般の感情とそんなに変わらない。言ってみればただの愛玩欲だ。すべすべのお肌は触ってて気持ちいいしね。藍の尻尾も然り。
「ただいまぁ」
そんなしあわせな夢のさなかに、ほわんと語尾の間延びした、いつ聞いても呑気そうな調子の声が聞こえて来た。こんな声でも人を空想から現実へ、引き戻す力のあるのがなんだか可笑しい。
「ご主人様のお帰りね」
「幽々子様がおもどりになりましたから、私はこれで」
「そう? 居てもいいのに」
そう言ってわざと腕に力を込めると、
「庭の手入れがありますから」
妖夢はそれを半ば強引に解いて立つ。そうして湯呑みを片すと「それでは」と一礼するなりにべもなく出て行ってしまった。あくまで淡々とした振るまい、実に愛想がないと言わざるを得ない。この取ってつけたような恬淡さは、たまに見え隠れする可愛げを際立たせてもいるのだろうけれど、それにしても勿体無いな、と紫は思うのだった。そうして入れ替わりに幽々子が来るのを待っていると、ふいに目をやった板敷の廊の明るみを、何か色の薄いものがついついと滑っていく。
妖夢の半霊だ。半身の後を追っているのだろう、低くゆっくりと滑っていく。その物静かな様子はどことなく項垂れているようで、元気がなさそうに見える。
久しぶりに見たな、と紫は思った。そうだ、久しぶりだ。でも、どうして久しぶりなんだろう?
「私が留守にしてるあいだ、妖夢はちゃんと相手してくれた?」
「そこそこ。でも、見るからにしぶしぶなのね。もう少し楽しそうにしてくれてもいいのに」
「あら、そうなの。私はてっきり、あなたが来ると喜んでるものだと思ったわ」
「まさか。始終仏頂面だわ」
「それはそうだけれど……」
幽々子は何か意外な応答をされたかのように、きょとんとした顔をしている。紫もつられてきょとんとなる。そうして、幽々子がぽりぽりとおせんべいを噛んでいるあいだに、
「少しくらい動じたり照れたりしてくれないと、からかいがいがないというか、遊んだ気分にならないわ。どうしてあんなに無愛想なのかしら、それも私にばっかり。そうよ、だってふだんはもうちょっと可愛げがあるじゃない?」
と思うところを言い切ると、幽々子はぺろりと唇を舐めて、あらあらというようなお得意の、何かを察したいじわるな笑みを浮かべて、
「ちょっとやそっとじゃ、あの子は動揺しないわよ。日々の鍛錬の賜物ね」と言う。
「肝が据わってるのはけっこうだけど」
「でもまだまだ未熟。あの子が何を考えてるかなんて、私にはまるわかりだもの。意地張ってるのよ。あなたに構ってもらえるのは嬉しいけれど、そう思われるのはきっと恥ずかしいんだわ」
「ふうん? そうかしら」
「絶対そう」
「でも、そうはいってもね……私はあなたみたいにあの子と付き合い長くないから、表現してくれない気持ちなんて、ホントのところはわからないし」
「じゃあ、今晩は紫の奢りね」
「なんでよ?」
「いいこと教えてあげるから」
ふたたび幽々子は出かけてしまった。新年早々せわしないのは、この時期ならではの正月味をしゃぶり尽くそうという心意気に違いない。この一年も身をやつすのは食道楽か、親友よ。
しばらく庭をぶらぶらして客間にもどると、妖夢が机の上を拭いていた。さっき乱した座布団も綺麗に片付けられている。ちょうどいい。夜は外で待ち合わせて、夜雀の屋台へ行くことになっているのだった。
「妖夢、今日は外食ですって」
「知ってます。私もご一緒しますから」
机の上からどけた皿類を、拭いた先から半霊がもとの場所に整えて行く。鮮やかな手並みである。
「あーんしてあげるわね」
例によって軽い調子でからかうと、
「遠慮します」
相変わらずぴしゃりと言う。この厳しい物言いが照れ隠しとは思いにくい。思いにくいが、それこそ逆に照れてることの裏返しだろうかと思うと、どうにもわからない。
そのうちぐっと冷えてきた。紫は薄着の肌をさすりながら、どことなく落ち着かない様子の妖夢と開け放されたままの障子とを見比べて、ピン、と来るなりさすがの年季の小賢しさ、早速それを裏打ちするための良策を思いついたのである。なるほど確かにいい機会、試してみるなら今しかない。そうして、
「寒いから、そこ締めてくれる」
出し抜けに、こう言いつけたのだった。
「かしこまりました」
妖夢は快諾しながら、どこか戸惑ったような仕草をしてみせた。思った通りだ。あとは何かと言い訳をつけて一度外に出られてしまう前に、わかりやすく視線を外してやる。妖夢はそんな紫の様子を窺うと、ほっとした様子でことにかかる。紫は掛け軸に見入ったフリをして、終始背中を向けている、けれども障子を閉める妖夢の姿をじっと見ているのは、机の下に潜むスキマから差し込む執拗な視線であった。そしてたしかに幽々子の言う通り――。
ふふん、なるほどね。知って見てれば明らかだ。紫は今までも何度かその光景を見ていたことを思い出した。そうしてずっとわからなかった、妖夢の≪その行動≫の意味をようやく知ったのである。
ぴしゃりと障子が閉じられた。
各々座布団に着席して、しばらく静かな時間が過ぎた。妖夢が変に訝しむほど、ちょっかいのない平和な時間。無理もない。紫の神経は今、少しもここにはないのである。
やがて紫もことを成し終えると、いくぶん唐突に、
「ねえ」
とやさしい声を出した。妖夢の肩がぴくりと跳ねる。
「私と遊ぶのは楽しい?」
妖夢はその質問の意味がわかりかねるといった様子で、渋い顔をした。たとえノーでも、そう答えられるはずもないでしょう、という顔である。あるいはこちらの腹を探っているのかもしれない。答えを催促するように長らく黙っていると、
「その時によります」と、毒にも薬にもならない応答をしてよこす。
「今日は?」
「退屈はしませんが」
無難路線を捨てる気はないようだ。それでも、気の悪い答えではない。
「いい子いい子」
今度は紫が膝を摺って、四つん這いに寄って行く。頭を撫でに行くのだ。妖夢の方は、そのくらいはと諦めているのか机に頬杖ついたまま、紫の方は見向きもしない。そうして指先が髪に触れようとしたまさにそのとき、するりと二人のあいだを抜けて行ったのは、見覚えのある半霊で――。
「なっ……!」
ゆるやかに滑る半霊にひきかえ、主人の方はばっと反射的に立つや、驚きで目をまんまるくしている。机の下から現れた。どうしてそんなところから? 解せないという目の色だ。けれどもそこに先のスキマがまだぽっかり口を開けてることを、伏せて確認している余裕などはあるまい。
「な、なんでここに」
「ごめんなさいね。せっかくあなたが
紫はにやりと不敵に笑う。妖夢もここにいたってようやく事の情況を真に理解したらしい、じりと後ずさるその表情には明らかに動揺の色が浮かんでいる。心は左右にぐらぐらと揺れているに違いない。動揺を抑えようとするようなゆっくりとした動きで、じりとまた一歩後ずさる。
それでも妖夢はまだ冷静だった。それほど大きく表情を崩しもしなかった。素晴らしい精神力、さすが≪日々の鍛錬の賜物≫は伊達じゃない。
けれどもやはり動揺はいとも簡単に知れるのだ。ふよふよと慌てふためき左へ右へ、落ち着きないのは半霊である。そう、幽々子の言った通りこの半霊、どうやら妖夢の心理表現のかたまりで、感覚や感情が本心そのまま動きに出てしまうらしい。気落ちも、驚きも、嬉しさも――犬の尻尾みたいなものね。とすれば私は、ようやく尻尾をつかまえたわけだ。
「ねえ妖夢、もういちど聞くわ」
くすくすと小さな部屋に笑い声のみこだまする。
「私と遊ぶのは楽しい? 今度は、答えなくていいけれど」
そうして静かな数十秒の、平和に過ぎたその後に――二百由旬を翔けめぐる、たったひとりの大爆笑。
読み終えて冒頭へ戻ると、また格別ですね。
あんた達のことなんか全然興味ないんだからね! と窓の外に顔を向けつつ
耳だけ百八十度反対にして、ずっとこちらを向いていたことを思い出しますw
みょんがこんなに可愛いなら
ゆかりんが浮気しても仕方ない
ゆかみょん……いいじゃない!!
しかしこの紫、まるで久しぶりに孫の顔を見たおばあ……誰だ?こんな時間に