昼下がりの幻想郷。
太陽は中天を過ぎて、地上では気だるい時間が流れている頃だろうか。
そんな考えを頭の中に巡らせながら文は風を切り、雲を裂き空を疾る。
「ちょっとちょっと! 早いってー!」
なんとか並走を保っているはたての表情からは余裕が感じられなかった。
普段から引き篭もってばかりいるからこうなるんです、と文は口には出さずに表情で語ってみる。
「うわ、なんかやな感じ」
どうやら通じてくれたようだ。
喋るのも惜しいくらい、今の文は急いでいるのだ。この気持ちは、きっとはたてには気づいてもらえないだろう。
「何をそんなに急いでるのか知らないけど、取材の予定を1つ削ってまで優先するっていうのも珍しい話よね」
「そうですか?」
「……まぁ大体見当はついてるんだけど」
はたてはやや呆れた顔。
「ま、でも久々の共同取材、楽しかったですよ」
「ぐ、偶然だからね!?」
「偶然、ねぇ?」
胡散臭げな視線をはたてに送ってみる。
「え! えぇ!? ままままさか私が……わ、ワザと同じ取材をしようと思ったとでも? ま、まさかぁ!」
一瞬で百面相をこなしてみせるはたての表情に、文は頬を緩めつつ「そうですね、勘違いでした」と言葉をかけ、バサと羽で空を打つ。
「それじゃ、今日はここでお別れですね」
文は両手を合わせて、はたてと距離をとるように旋回する。
「んー。じゃあまた機会があれば」
「はい、また機会があれば」
そうして、2人の天狗は軌道を変え、別れていった。
不思議だった。
空気も気温も湿度も何も変わらないのに、隣に文がいないだけで、少し寒くなる。
はたては、文の行く先を見つめて嘆息する。
「あんまり深入りするとさ……なんか寂しいんだよね」
自分の口をついて出る言葉に驚嘆し、思わず顔を両手で覆ってしまう。
「!? い、いやいやいやぁ!? そんなんじゃないから! そんなじゃないですかーらー!」
頭をぶんぶん振りながら蛇行してしまう。
「きっと、久々に一緒に取材できて……嬉しいだけだから」
そう言ってはたては、折り畳み式の写真機を取り出し、取材の最中に撮った文の写真を見るのだった。
「…あーあ……写真でわかるくらいそわそわしちゃって」
そしてもう一度ため息を吐く。
たまに、自分で自分が分からなくなる時があるのだ。
――守屋神社に降り立つと、文は裏手に回る。
今日は早苗からお昼の食事に誘われていたのだ。
なんでも珍しい食材が手に入ったので、一緒に食べたいのだという。
殊勝なところもあるじゃないか、と文は走り出しそうになる足を抑えながら、台所の前を通る。
「あ。文さん!」
台所の窓から早苗が文の姿を見つけると、少し安堵したような表情を見せた。
「早苗さん、こんにちわ」
今まさに台所で料理中だった早苗を発見した。
「あー良かったです! 来てくれなかったらどうしようって思いましたよー。もうすぐできますから、中に入っててください」
そう言われて文は勝手口から入ると、早苗に案内されて居間に通された。
新しい畳の匂いが仄かに鼻腔をくすぐる。
「うーん。身の置き場に困りますね……」
苦笑する。
表の守屋神社へは、早苗に会うため頻繁に通ってはいたのだが、早苗の家に来るということ自体は初めてであるため、若干の緊張は隠せなかった。ちゃぶ台の前に敷かれた厚みのある座布団の上にちょこんと正座して、土間で調理中の早苗の背中を見つめていた。
やはり生活する場所なのだろう。室内には神社特有の張りつめた雰囲気はあまり無く、暖かい雰囲気に満ちていた。
台所からは嗅いだことのない香ばしい香りが漂ってくる。
この香りが手に、早苗の言う珍しい食材のものだろうか。
文はせわしなく動き回る早苗になんとなく声をかける。
「早苗さん」
「なんですかー?」
「なんかこうしてると、一緒に暮らしてるみたいですねぇ」
「なぁ!? ああわわわ!?」
ガシャガシャと、台所が大きな音を立てた。
「ななな何を言ってるんですかぁ!」
離れていても、焦ってこちらを振り返る早苗の頬が赤くなっているのを認識できる。
文は満足げに「冗談ですよ」と笑って見せた。
「もう! 文さんが変なこと言う所為で調味料入れすぎちゃいましたよ。予想より辛くなっちゃいそうです」
と早苗は口を尖らせた。
「いいですよ。早苗さんが作ってくれるものであれば」
普段は人の目もあるから、あまり一緒にいれないが、今日は早苗と長く一緒にいることができる。
この予感だけで、羽がパタパタと自然に動いてしまう。
「今度は変なこと言わないでくださいね」
早苗が念を押すように言う。
「おや? 変なことって……どんなことですかね?」
文はわざと尋ねてみるが、見え透いた誘いにのる早苗ではなかった。
プイ、と顔を背けて料理の仕上げに取り掛かるのだった。
――そして数分後。
「お待たせしましたお客さま」
少し早苗が気取った口調で、お盆を持ってきた。
「はいどーぞ」
そう言って水の入った湯呑と一緒に食卓の上に置いたのは、
「真っ赤!」
「はい、麻婆豆腐ですから」
「まーぼーどーふ。ですか」
今まで見たことも無い赤い料理だ。香りからすると唐辛子を含んだ香辛料が使われてるようだが、味はどうなのだろう……。
文が訝しんでいると、
「美味しいですよ?」
どーぞどーぞと勧めてくるので、文は恐る恐るスプーンでそれを掬い、早苗の期待に満ちた瞳を見ながら、熱々の湯気が立つそれを口の中へと運ぶ。
ぱくり、と。
その瞬間。
花のような香りが一瞬口の中に広がる。
「ほほぅ。不思議な……だけど見た目ほどではないですねぇ」
そう言いながら、文はパクパクとスプーンを進めていき、4口目を口に含んだところで、異変を感じる。
突如舌が痺れるほどの辛さが文に襲いかかったのだ。
ぶわ、と羽根が総毛立つ。
これが早苗が入れた食材なのか。
時間差で、辛さと痺れが口内に吹き荒れる。
(……水! 水!)
慌てて水を飲むが、余計に痺れを増幅させてしまうという逆効果。
これが料理だというのか。
いったい、これは。
「~~~~っ!?」
これ! これなんですか!!
口を押えたまま、空になったスプーンを指差して抗議する文。
「あれ! そんなに辛かったですか!?」
早苗は慌てて自分の皿から麻婆豆腐を口に運ぶ。
「うっ……」
そして気づいたのだ。
「さっき文さんが変なこと言うからやっぱり調味料入れすぎてたようですね」
「ちょう、ちょうみりょうってなんでひゅか!」
舌の感覚が無くなりつつあり、言葉もうまく発せられなくなってしまう。
「花椒の、比較的原種でして……。辛くて程よい痺れがいいんですけど、あまりにも量を食べすぎると耐性の無い人は大変かもですね」
「の、のんきにかいせつしてるばあいじゃないでひゅよ!? だいたい早苗さんはどうしてだいじょうぶなんでひゅか!?」
「わたしは慣れてますけど、文さんには刺激が強すぎちゃったかな?」
自分で頭を小突いて、てへぺろなんて言ってくる早苗を見て文の怒りがさらに高まる。
「しょれは早苗さんの未熟ゆえでしゅよ」
「違いますよ! 文さんが悪いんです!」
「早苗さんです!」
舌の痺れが治まってきた。
「わかりました。早苗さんがそういう態度を取るのなら、私はもう金輪際ここへは来ませんので」
そう言い放つと、文は席を立とうとして—―
「待ってください」
早苗に手を掴まれて、再び座布団に座ることになる。
「わ、わかりましたよ。わたしが悪いんですよ。そういうことにします」
早苗は不本意そうに口を尖らせる。
それを見て、文は少し満足する。
が、それ以上に早苗に少しお灸をすえたくなる気持ちも湧き上がってくる。
「そうですか。早苗さんが謝るのなら前言は撤回します」
「そ、そうですか」
文は一瞬早苗が安堵した表情を見逃さなかった。
「まぁでも……早苗さんの謝罪は分かりました……けれど、どんな理由であっても食べられない料理を出すのは感心しません」
「だって……」
「言い訳無用です」
ピシャリと言い放つ。
「まぁでも、早苗さんが心を込めて作ってくれた料理です。このまま捨て置くというのはおもてなしに対する礼を失することになるので不本意ではありません」
「文さん……ありがとうございます!」
ぱーっと輝くように笑顔が広がる早苗の顔に見惚れそうになるが、文は言葉を続ける。
「しかし今現在、この麻婆豆腐を食べきることはできません。そこで提案なのですが、早苗さんに手伝ってもらいたいのです」
「えぇー」
早苗が露骨に嫌そうな顔したので、
「――それでは今日はこれで失礼します」
バサリとわざとらしく羽を広げて見せた。
「わかった! わかりました!」
早苗の慌てた声が聞こえたので、文は笑いを堪えた口を無理やり真一文字に結ぶと早苗に向き合った。
「じゃあ私の言うこと聞いてください」
敢えて冷たく言い聞かせるのだ。
「わかりましたよぉ。好きにすればいいんじゃないですか?」
不満そう表情だが、口調はまんざらでもなさそうだ。
その精一杯の虚勢を張る早苗を、「なんて可愛いんですかぁ!」と言いながら抱きしめる。そんな選択肢もあるだろう。
しかし文の口から出た言葉は真逆だった。
「それじゃあ、自分で手を後ろで結んでください」
「え?」
「早く」
「うぅ……はい」
早苗は文の前に座ったまま、両手を背後に回す。
「それじゃあ舌を出してください」
「え?!」
「早くしてください」
「……ふぁい」
早苗が瞳を閉じて舌を突き出した。
「良くできました。それでは私が良しと言うまでそのままですよ」
「ふぁーい」
文は早苗の下の上に、自分の皿から掬った麻婆豆腐をそっと置いた。
「ふやぁー!?」
突然の刺激に早苗が目を見開き、悲鳴を上げる。
「そのままですよー」
しかし文は目を細めて、刺激に体をくねらす早苗の頬を両手で挟んだ。
「あ、あやひゃん! にゃにを!?」
「だって、早苗さんの作った麻婆豆腐辛いですから、こうやってひと手間置けば、辛さも軽減されるんじゃないかと思いまして。それに早苗さん、私と違って麻婆豆腐に強いようですしね?」
「でも……これじゃ」
ぽん、と早苗の顔が真っ赤に染まる。
「えぇ。美味しそうですね」
そう言いながら、早苗の顔に近づいていく。
「はゅ~~~~!?」
早苗が目を閉じる。
文は精一杯突き出された早苗の舌に口を寄せて。
ちゅるり。
豆腐をすする。
口内に広がる花の香りと、程よい刺激。
「なるほど。これが麻婆豆腐なんですね」
「はぅ……」
早苗は上半身の力が抜けたように、正座したまま上半身を折った。
「は……はは……。これで気が済みました……?」
早苗は額に汗の玉を浮かばせながら俯き、上目遣いで文を見る。
「え、私が良しと言うまでそのままって言いましたよね?」
「あっ……」
まだ続くの? という言葉は早苗の瞳から十分すぎるほど伝わってくる。
「ふふ。早苗さんの美味しい手料理はまだまだたくさんありますからねぇ?」
眉を八の字にして、舌を出す早苗。
「よくできました」
そう言って文は再び麻婆豆腐を早苗の舌の上に乗せる。
「んっ……」
刺激に体を震わす早苗。
文は早苗の顎に右手でそっと触る。
「それではいただきます」
2口目。
わざと歯を立てて、早苗の舌を削るように豆腐を食べた。
早苗の瞳が零れんばかりに開かれ、体全体を震わす刺激を表現した。
つるり。
文の口に豆腐が収まる。
「あぁおいしい」
「……ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
文をまっすぐに見つめる、早苗の視線は熱い。
そんな早苗を見て、文の加虐心が刺激される。
「早苗さん。まだまだたくさんありますから。おもてなし、よろしくお願いしますね」
そう言って、にんまり文は微笑むのだった。
――食後。
「文さん、ひどいです。わたしの舌が痺れてしばらく使い物にならなくなっちゃったじゃないですか」
ぷりぷりと怒る早苗とは対照的に文はにこにことご機嫌だった。
「いやー早苗さんの尊い犠牲のおかげで良い昼食になりましたー」
「はぁ。文さんに喜んでいただけたならそれはそれで当初の目的を達成できたというか……でもできればもっと違ったやり方にしてもらいたかったような……」
早苗の言葉は尻すぼみで、文には全て聴こえなかったが、おおむね満足したらしいというのは伝わってきた。
ゲストがホストを満足させたという構図はおかしいかもしれないが。文としても普段見ることのできない早苗を見れたので非常に満足していた。
「あ、そうだ早苗さん」
「はい?」
「今度は私が早苗さんを招待しましょうか?」
「え! いいんですか!」
「えぇ。今日は楽しませていただきましたし」
文は自分の唇を人差し指でなぞる。
その仕草に、早苗は頬を赤く染めた。
「この射命丸、腕によりをかけて作りますね」
「は、はい。期待してますよ」
早苗は少し不安げな表情で頷いた。
何もしないですよ、と文は笑う。
「あ、ところで」
早苗が何かを思い出したように、立ち上がると、台所から硝子の器に入った真白い寒天のようなものを持ってきた。
「デザートです」
「ほほーう。用意がいいんですね」
「はい。それじゃあ今度はわたしが文さんに食べさせる番ですね?」
「え」
すわ先ほど好き勝手やった報復か、と一瞬文の脳裏を横切ったが。
早苗はそれをスプーンに乗せ、
「はい。あーん」
文に差し出してきた。
「ちなみにその料理は?」
食べる前にその名を聞いた。
「杏仁豆腐です」
また豆腐ですか。
今度は、失敗していないことを祈りつつ、文は早苗の差し出したスプーンに口を寄せていく。
「甘くて、美味しいですよ?」
そう言って、早苗も甘く微笑むのだった。
(終)
太陽は中天を過ぎて、地上では気だるい時間が流れている頃だろうか。
そんな考えを頭の中に巡らせながら文は風を切り、雲を裂き空を疾る。
「ちょっとちょっと! 早いってー!」
なんとか並走を保っているはたての表情からは余裕が感じられなかった。
普段から引き篭もってばかりいるからこうなるんです、と文は口には出さずに表情で語ってみる。
「うわ、なんかやな感じ」
どうやら通じてくれたようだ。
喋るのも惜しいくらい、今の文は急いでいるのだ。この気持ちは、きっとはたてには気づいてもらえないだろう。
「何をそんなに急いでるのか知らないけど、取材の予定を1つ削ってまで優先するっていうのも珍しい話よね」
「そうですか?」
「……まぁ大体見当はついてるんだけど」
はたてはやや呆れた顔。
「ま、でも久々の共同取材、楽しかったですよ」
「ぐ、偶然だからね!?」
「偶然、ねぇ?」
胡散臭げな視線をはたてに送ってみる。
「え! えぇ!? ままままさか私が……わ、ワザと同じ取材をしようと思ったとでも? ま、まさかぁ!」
一瞬で百面相をこなしてみせるはたての表情に、文は頬を緩めつつ「そうですね、勘違いでした」と言葉をかけ、バサと羽で空を打つ。
「それじゃ、今日はここでお別れですね」
文は両手を合わせて、はたてと距離をとるように旋回する。
「んー。じゃあまた機会があれば」
「はい、また機会があれば」
そうして、2人の天狗は軌道を変え、別れていった。
不思議だった。
空気も気温も湿度も何も変わらないのに、隣に文がいないだけで、少し寒くなる。
はたては、文の行く先を見つめて嘆息する。
「あんまり深入りするとさ……なんか寂しいんだよね」
自分の口をついて出る言葉に驚嘆し、思わず顔を両手で覆ってしまう。
「!? い、いやいやいやぁ!? そんなんじゃないから! そんなじゃないですかーらー!」
頭をぶんぶん振りながら蛇行してしまう。
「きっと、久々に一緒に取材できて……嬉しいだけだから」
そう言ってはたては、折り畳み式の写真機を取り出し、取材の最中に撮った文の写真を見るのだった。
「…あーあ……写真でわかるくらいそわそわしちゃって」
そしてもう一度ため息を吐く。
たまに、自分で自分が分からなくなる時があるのだ。
――守屋神社に降り立つと、文は裏手に回る。
今日は早苗からお昼の食事に誘われていたのだ。
なんでも珍しい食材が手に入ったので、一緒に食べたいのだという。
殊勝なところもあるじゃないか、と文は走り出しそうになる足を抑えながら、台所の前を通る。
「あ。文さん!」
台所の窓から早苗が文の姿を見つけると、少し安堵したような表情を見せた。
「早苗さん、こんにちわ」
今まさに台所で料理中だった早苗を発見した。
「あー良かったです! 来てくれなかったらどうしようって思いましたよー。もうすぐできますから、中に入っててください」
そう言われて文は勝手口から入ると、早苗に案内されて居間に通された。
新しい畳の匂いが仄かに鼻腔をくすぐる。
「うーん。身の置き場に困りますね……」
苦笑する。
表の守屋神社へは、早苗に会うため頻繁に通ってはいたのだが、早苗の家に来るということ自体は初めてであるため、若干の緊張は隠せなかった。ちゃぶ台の前に敷かれた厚みのある座布団の上にちょこんと正座して、土間で調理中の早苗の背中を見つめていた。
やはり生活する場所なのだろう。室内には神社特有の張りつめた雰囲気はあまり無く、暖かい雰囲気に満ちていた。
台所からは嗅いだことのない香ばしい香りが漂ってくる。
この香りが手に、早苗の言う珍しい食材のものだろうか。
文はせわしなく動き回る早苗になんとなく声をかける。
「早苗さん」
「なんですかー?」
「なんかこうしてると、一緒に暮らしてるみたいですねぇ」
「なぁ!? ああわわわ!?」
ガシャガシャと、台所が大きな音を立てた。
「ななな何を言ってるんですかぁ!」
離れていても、焦ってこちらを振り返る早苗の頬が赤くなっているのを認識できる。
文は満足げに「冗談ですよ」と笑って見せた。
「もう! 文さんが変なこと言う所為で調味料入れすぎちゃいましたよ。予想より辛くなっちゃいそうです」
と早苗は口を尖らせた。
「いいですよ。早苗さんが作ってくれるものであれば」
普段は人の目もあるから、あまり一緒にいれないが、今日は早苗と長く一緒にいることができる。
この予感だけで、羽がパタパタと自然に動いてしまう。
「今度は変なこと言わないでくださいね」
早苗が念を押すように言う。
「おや? 変なことって……どんなことですかね?」
文はわざと尋ねてみるが、見え透いた誘いにのる早苗ではなかった。
プイ、と顔を背けて料理の仕上げに取り掛かるのだった。
――そして数分後。
「お待たせしましたお客さま」
少し早苗が気取った口調で、お盆を持ってきた。
「はいどーぞ」
そう言って水の入った湯呑と一緒に食卓の上に置いたのは、
「真っ赤!」
「はい、麻婆豆腐ですから」
「まーぼーどーふ。ですか」
今まで見たことも無い赤い料理だ。香りからすると唐辛子を含んだ香辛料が使われてるようだが、味はどうなのだろう……。
文が訝しんでいると、
「美味しいですよ?」
どーぞどーぞと勧めてくるので、文は恐る恐るスプーンでそれを掬い、早苗の期待に満ちた瞳を見ながら、熱々の湯気が立つそれを口の中へと運ぶ。
ぱくり、と。
その瞬間。
花のような香りが一瞬口の中に広がる。
「ほほぅ。不思議な……だけど見た目ほどではないですねぇ」
そう言いながら、文はパクパクとスプーンを進めていき、4口目を口に含んだところで、異変を感じる。
突如舌が痺れるほどの辛さが文に襲いかかったのだ。
ぶわ、と羽根が総毛立つ。
これが早苗が入れた食材なのか。
時間差で、辛さと痺れが口内に吹き荒れる。
(……水! 水!)
慌てて水を飲むが、余計に痺れを増幅させてしまうという逆効果。
これが料理だというのか。
いったい、これは。
「~~~~っ!?」
これ! これなんですか!!
口を押えたまま、空になったスプーンを指差して抗議する文。
「あれ! そんなに辛かったですか!?」
早苗は慌てて自分の皿から麻婆豆腐を口に運ぶ。
「うっ……」
そして気づいたのだ。
「さっき文さんが変なこと言うからやっぱり調味料入れすぎてたようですね」
「ちょう、ちょうみりょうってなんでひゅか!」
舌の感覚が無くなりつつあり、言葉もうまく発せられなくなってしまう。
「花椒の、比較的原種でして……。辛くて程よい痺れがいいんですけど、あまりにも量を食べすぎると耐性の無い人は大変かもですね」
「の、のんきにかいせつしてるばあいじゃないでひゅよ!? だいたい早苗さんはどうしてだいじょうぶなんでひゅか!?」
「わたしは慣れてますけど、文さんには刺激が強すぎちゃったかな?」
自分で頭を小突いて、てへぺろなんて言ってくる早苗を見て文の怒りがさらに高まる。
「しょれは早苗さんの未熟ゆえでしゅよ」
「違いますよ! 文さんが悪いんです!」
「早苗さんです!」
舌の痺れが治まってきた。
「わかりました。早苗さんがそういう態度を取るのなら、私はもう金輪際ここへは来ませんので」
そう言い放つと、文は席を立とうとして—―
「待ってください」
早苗に手を掴まれて、再び座布団に座ることになる。
「わ、わかりましたよ。わたしが悪いんですよ。そういうことにします」
早苗は不本意そうに口を尖らせる。
それを見て、文は少し満足する。
が、それ以上に早苗に少しお灸をすえたくなる気持ちも湧き上がってくる。
「そうですか。早苗さんが謝るのなら前言は撤回します」
「そ、そうですか」
文は一瞬早苗が安堵した表情を見逃さなかった。
「まぁでも……早苗さんの謝罪は分かりました……けれど、どんな理由であっても食べられない料理を出すのは感心しません」
「だって……」
「言い訳無用です」
ピシャリと言い放つ。
「まぁでも、早苗さんが心を込めて作ってくれた料理です。このまま捨て置くというのはおもてなしに対する礼を失することになるので不本意ではありません」
「文さん……ありがとうございます!」
ぱーっと輝くように笑顔が広がる早苗の顔に見惚れそうになるが、文は言葉を続ける。
「しかし今現在、この麻婆豆腐を食べきることはできません。そこで提案なのですが、早苗さんに手伝ってもらいたいのです」
「えぇー」
早苗が露骨に嫌そうな顔したので、
「――それでは今日はこれで失礼します」
バサリとわざとらしく羽を広げて見せた。
「わかった! わかりました!」
早苗の慌てた声が聞こえたので、文は笑いを堪えた口を無理やり真一文字に結ぶと早苗に向き合った。
「じゃあ私の言うこと聞いてください」
敢えて冷たく言い聞かせるのだ。
「わかりましたよぉ。好きにすればいいんじゃないですか?」
不満そう表情だが、口調はまんざらでもなさそうだ。
その精一杯の虚勢を張る早苗を、「なんて可愛いんですかぁ!」と言いながら抱きしめる。そんな選択肢もあるだろう。
しかし文の口から出た言葉は真逆だった。
「それじゃあ、自分で手を後ろで結んでください」
「え?」
「早く」
「うぅ……はい」
早苗は文の前に座ったまま、両手を背後に回す。
「それじゃあ舌を出してください」
「え?!」
「早くしてください」
「……ふぁい」
早苗が瞳を閉じて舌を突き出した。
「良くできました。それでは私が良しと言うまでそのままですよ」
「ふぁーい」
文は早苗の下の上に、自分の皿から掬った麻婆豆腐をそっと置いた。
「ふやぁー!?」
突然の刺激に早苗が目を見開き、悲鳴を上げる。
「そのままですよー」
しかし文は目を細めて、刺激に体をくねらす早苗の頬を両手で挟んだ。
「あ、あやひゃん! にゃにを!?」
「だって、早苗さんの作った麻婆豆腐辛いですから、こうやってひと手間置けば、辛さも軽減されるんじゃないかと思いまして。それに早苗さん、私と違って麻婆豆腐に強いようですしね?」
「でも……これじゃ」
ぽん、と早苗の顔が真っ赤に染まる。
「えぇ。美味しそうですね」
そう言いながら、早苗の顔に近づいていく。
「はゅ~~~~!?」
早苗が目を閉じる。
文は精一杯突き出された早苗の舌に口を寄せて。
ちゅるり。
豆腐をすする。
口内に広がる花の香りと、程よい刺激。
「なるほど。これが麻婆豆腐なんですね」
「はぅ……」
早苗は上半身の力が抜けたように、正座したまま上半身を折った。
「は……はは……。これで気が済みました……?」
早苗は額に汗の玉を浮かばせながら俯き、上目遣いで文を見る。
「え、私が良しと言うまでそのままって言いましたよね?」
「あっ……」
まだ続くの? という言葉は早苗の瞳から十分すぎるほど伝わってくる。
「ふふ。早苗さんの美味しい手料理はまだまだたくさんありますからねぇ?」
眉を八の字にして、舌を出す早苗。
「よくできました」
そう言って文は再び麻婆豆腐を早苗の舌の上に乗せる。
「んっ……」
刺激に体を震わす早苗。
文は早苗の顎に右手でそっと触る。
「それではいただきます」
2口目。
わざと歯を立てて、早苗の舌を削るように豆腐を食べた。
早苗の瞳が零れんばかりに開かれ、体全体を震わす刺激を表現した。
つるり。
文の口に豆腐が収まる。
「あぁおいしい」
「……ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
文をまっすぐに見つめる、早苗の視線は熱い。
そんな早苗を見て、文の加虐心が刺激される。
「早苗さん。まだまだたくさんありますから。おもてなし、よろしくお願いしますね」
そう言って、にんまり文は微笑むのだった。
――食後。
「文さん、ひどいです。わたしの舌が痺れてしばらく使い物にならなくなっちゃったじゃないですか」
ぷりぷりと怒る早苗とは対照的に文はにこにことご機嫌だった。
「いやー早苗さんの尊い犠牲のおかげで良い昼食になりましたー」
「はぁ。文さんに喜んでいただけたならそれはそれで当初の目的を達成できたというか……でもできればもっと違ったやり方にしてもらいたかったような……」
早苗の言葉は尻すぼみで、文には全て聴こえなかったが、おおむね満足したらしいというのは伝わってきた。
ゲストがホストを満足させたという構図はおかしいかもしれないが。文としても普段見ることのできない早苗を見れたので非常に満足していた。
「あ、そうだ早苗さん」
「はい?」
「今度は私が早苗さんを招待しましょうか?」
「え! いいんですか!」
「えぇ。今日は楽しませていただきましたし」
文は自分の唇を人差し指でなぞる。
その仕草に、早苗は頬を赤く染めた。
「この射命丸、腕によりをかけて作りますね」
「は、はい。期待してますよ」
早苗は少し不安げな表情で頷いた。
何もしないですよ、と文は笑う。
「あ、ところで」
早苗が何かを思い出したように、立ち上がると、台所から硝子の器に入った真白い寒天のようなものを持ってきた。
「デザートです」
「ほほーう。用意がいいんですね」
「はい。それじゃあ今度はわたしが文さんに食べさせる番ですね?」
「え」
すわ先ほど好き勝手やった報復か、と一瞬文の脳裏を横切ったが。
早苗はそれをスプーンに乗せ、
「はい。あーん」
文に差し出してきた。
「ちなみにその料理は?」
食べる前にその名を聞いた。
「杏仁豆腐です」
また豆腐ですか。
今度は、失敗していないことを祈りつつ、文は早苗の差し出したスプーンに口を寄せていく。
「甘くて、美味しいですよ?」
そう言って、早苗も甘く微笑むのだった。
(終)
各種中華では辛さにも2通りありますから、花椒の「麻」な辛さには慣れないとつらいことでしょう。