巨大な炎の中で、霊烏路空と言う存在が燃焼する。
融解していく。
消滅していく。
ぱらばらと崩れ落ちる。
旧灼熱地獄の中心へと、灰になって彼女は消えた。
鴉が小さく、カァ、と物悲しげに鳴いた気がした。
泣いた、気がした。
鳥頭だとか何とか言われようと、大切なことは決して忘れたことがなかった。
だから地獄鴉は、その日のことをよく覚えてる。
雪がざんざと降り積もる、寒い日だった。まるで頭から墨を被ったようなその地獄鴉は、すでに死に体だった。空腹で、羽根に包まって暖をとることしか出来なかった。もう動くことも出来ない。獲物を獲るのも、最早煩わしい。死んだ方がましだった。
吐く息が、吐いた瞬間から白くなって、黒い自分から逃げていくみたいで、何故か悲しくなって、どうしたらいいかわからないから、ずっとそうしていた。羽根に包まって、路地裏で死んだ方がましだったと思いながら。でも、死にたくはなかった。
お腹が減っていて、寒くて、凍えてて、死にそうで、だからその暖かさをよく覚えてる。忘れるはずもなかった。
すっと差し出された手は小さくて。
見上げた顔は、どこか寂しそうで。
だから一瞬、呆然としてしまって、考えることが出来なくなった。
どうして? と言う疑問も、頭から、心から消えていた。茫漠として、見とれてしまった。こんな日に、こんな死にそうな自分に差し出された手に。その人物に。動きを止めてしまった。
「――あら?」
と、だから彼女は、小首を傾げてそう言った。
「死んでるの?」
地獄鴉は思った。
死んでない。
だから、
生きたいの。
その想いは、今この瞬間に強くなった。助けてくれる人が現れたら、想いが強くなるなんて、現金な、なんて思った。
「――そう」
じゃあ。
と、彼女は小さく呟いて、地獄鴉を抱き上げた。
何の遠慮もなかった。躊躇いもなかった。汚れて汚くて、そんな地獄鴉を抱き上げた。胸元に抱いて、そっと手で包んでくれた。
その手は、暖かかった。暖かかったから、忘れられなかった。忘れたく、なかった。
鳥頭と言われようが、馬鹿だと罵られようが、それは決して忘れることが出来なかった。
地獄鴉の方を見もしないで、けれど、三つ目の眼が地獄鴉を視ていた。はぁ、と彼女は白い息を吐いた。
「うち、来る?」
地獄鴉はその言葉に、考える素振りもなく、頷いた。
それは当然で、その時の感情も、地獄鴉は忘れられなかった。
嬉しかったからだ。手を出してくれて。暖かさをくれて。だから、その日のことはよく覚えてる。
忘れようはずもない。
「――あ、」
彼女は雪道を踏み締め歩きながら、唐突に思い出したように唇に手を当てた。無関心そうな顔で、でも地獄鴉はもう知ってしまっている。そのひとが、本当は優しいと言うことを。見上げた地獄鴉の視線を受け止めて、口を開いた。
「そうだ、あなたの名前を考えないといけませんね」
地獄鴉には名前がなかったからだ。そんなものは必要なかった。けれど、この人のところで暮らすのなら、その証が欲しかったのも事実だ。
その想いを受け止めて、彼女はそらを見上げた。どこからか降りしきる雪の上を。地底の暗闇の天井を。それを貫いて、かつて居た場所のそらを。
ゆるゆると息を吐いた。
「ああ、そう、私の名前はね――――」
地獄鴉は、そのことを忘れることが出来なかった。
「あなたの名前は、そう、これにしましょう!」
ぱちんと手を打ち合わせた。
「そう、あなたの名前は――」
ずっと、一生涯終えるまで、覚えていたいと想った。
◆
地獄鴉は、その名前を思い出せなかった。
ゆらり。
めらめらと燃え盛る――反射し映し出す――けれど何も見えない――炎の中で、地獄鴉は目を覚ました。
手足を伸ばして、けれど力がなかった。羽根もなかった。飛ぶことが出来ない。それがとても不便に感じた。辺りを見渡してみると、そこは地獄の釜の底のような光景だった。めらめらと自分を取り囲んで燃える炎。
ぼさぼさの髪の毛をさらにぼさぼさにかき回して、胡乱な瞳で地獄鴉は言った。
「ここ、どこ?」
勿論答えてくれる誰かも、応えてくれる誰かもいなかった。
仕方ないからめらめら燃える炎の中を探索してみた。
裸の肌に、熱かった。
まるで、自分を焼き殺そうとしてるみたいだった。
めらめら燃える炎は、どこまでも続いていて、終わりがないように見える。
どこまで行けばいいのかも、そもそもどうして歩いているのかも。
何故ここに自分はいるのかも。全然、何もかもわからなかった。
絶対に忘れないと思った記憶は、頭の中のどこにもなかった。身体の中身を全部置いてきたみたいに身軽だった。
どこまでも行ける気がしたし、どこにも行けないような気がした。
めらめら燃える。燃焼していく、融解していく、消えていく。
どこか懐かしい感じのする炎の群れをかき分けて、かき分けて、かき分けてかき分けて、かき分けて行った先に、烏が居た。
その烏は、地獄鴉とは何もかもが違っていたし、自分と殆ど変わらなかった。腕には、まるで銃身のような制御棒が取り憑き、分解と融合の両足を持つそれは、どこかで見たような気がする。
それは――かつての自分の姿と酷似しているそれは、確か、そう、地獄鴉が食った。
食って、己としたものだ。
確かその名は、
「八咫烏さま……?」
ぽつりと地獄鴉呟いた。
何故か――覚えていた。
その言葉に、烏は耳聡く反応する。まるで無関心で、ぼうと見ていた視線を収束させる。そこで、ようやくその存在に気がついたと言わんばかりに目を見開いた。
「なァんだ、お前」
見開いて、驚いて、どこか呆れたように。そして、何時かこうなると言うことがわかっていたかのように、烏――八咫烏は口にする。
「死んだのか」
くつくつと含んだような笑い声。地獄鴉は、その言葉を頭の中で何度も反芻させてみた。
死んだ……。
死んだ?
死んだって。
うそ。
死んだの?
幾度も繰り返した。
とてもそうだとはとても思えなかった。
どうしてそうなったのかもわからなかった。
死んだだって?
そんなことは信じられなかったし、信じる気もなかった。
ただ、そう、どこへ向かっていたのか思い出した。家に帰ろうとしていたんだ。
――でも、家ってどこだろう?
地獄鴉は忘れていた。すっかり、何もかもを忘却の彼方に置いてきたようだ。
「死んだの?」
「ああ、死んだ。死んで、全部炎に焼かれて、焼き尽くされた。だから、もうこの身体は私のものだ」
「どうして?」
「だって私は八咫烏。炎で死ぬなんてことはない。お前は、私になるんだ」
「私は?」
「死んだ」
「そうなの?」
「そうだ」
断定された。
それは、何だか、かなしかった。もう誰かに会えなくなるような気がしたから。だから帰らなければいけないと思った。思って、実行した。するしかなかった。したいと思った。
地獄鴉は歩みを止めなかった。
炎中で八咫烏に向かい合った。
「どこへ行く?」
「家に帰るの」
「どこにある?」
「わからない」
「どうやって帰る?」
「どうやってでも、帰りたい」
ならさ――と八咫烏は言う。にぃと笑う。広げた両腕、右に制御棒。左に一枚のカード。宣言は幻想郷流に。故に遊び。しかし真剣に。
遊ぶのではない――いや、遊びに真剣にならないでどうする。ここはどこだ幻想郷だ。
ならば、そのルールに則って戦うのがいい。
何故なら烏は八咫烏。まともに戦えば万に一つの勝ち目もない。
だから勝てる勝負を選んだし、負ける勝負を選らんだ。それに、あっちが選んだんだ。選択肢なんて初めからなかった。
烏は、戦えば自分が勝つことがわかっていたから、だからそれを選んだ。
鴉は、戦えば自分が負けることがわかっていたから、これしかなかった。
だから、承諾した。
今の自分に何の力もなくて、例え負けるだろうとわかっている勝負だとしても。
「押し通ってみろよ」
「うん」
そして炎獄で――恒星が爆発した。
「なァ」
「ん?」
「お前の名前は、なんだ?」
鴉は答えられなかった。
ゆらめく炎が過去を回想する。
◆
切欠が何だったのか、鴉はすでに覚えていない。
あれは、確か冬の日だった。
彼女に助けられて、名前を貰って、すぐ後のことだった。
地獄鴉は、猫に出会った。
名前も知らない猫だった。
「ここに、あなたは住むのよ」
そう言って連れて来られたのは、暖炉のある暖かな部屋で、あの雪に塗れた路地とは大違いだった。身体の芯から、解凍されていくような心地。ようやく、生きていると言う実感を持てた気がする。
「それじゃ、ちょっと待っててね。何か、食べ物を持ってくるから」
ここに地獄鴉を連れて来た張本人は、そうして部屋から出て行った。鴉は扉が閉まるのを、じっと見詰めて、カァと鳴いた。
ふるりと身を震わせて、もう一声鳴いた。見渡せば、暖かな暖炉にソファ、そして、窓の外の雪景色が目に入る。
鴉は羽を震わせると、窓枠に飛びついた。
そうして、暖炉の傍の窓に張り付いて、しんしんと降り積もる雪を見ていた。
地面の底に、どこからかちらちらと落ちてきて、積もっていく白い雪。あの中にいたら、今頃死んでたかな、なんて思いながら。
ぼうと見ていたからか、その気配に気がつかなかった。
後頭部を前足に踏みつけられて、嘴を窓にぶつけたのだ。カツンと硬質な音が鳴る。
窓に映っているのは、猫だった。
猫が、なぁお、と鳴くと、どこか非難されているような気持ちになった。本当に、そうなのかはわからないけれど、何となく、地獄鴉はそんな気分になった。もしかしたら、自分が窓に張り付いていて、外が見えないのかも知れなかった。
地獄鴉は見ていない振りをして、窓に映った猫を見た。同じように黒かった。
猫も、同じように空を見ていた。
空は暗くて、見えない。見えないのに。
地底の空は何もない。ごつごつした、艶やかな苔生した岩肌が見えるだけ。
だから地獄鴉は、何故主がこのような名前を付けたのか、常々疑問だった。
愚問とも言えた。意味なんてないのかもしれなかったからだ。
だけど、今、地獄鴉は自分の名前を覚えていない。
地獄鴉は窓に向かって、カァと鳴いた。
反響して、すっと部屋の中に広がって、耳朶を叩く。呼応するように、猫も同じように鳴いた。この時から、友達になるんだろうな――なりたいな、と言うのは、薄々思っていた。
同じように、話したいなって。
同じようなこいつは、どんな奴なのかなって。
そこで、非難されているような気持ちの正体に気が付く。
ああ、そうか、こいつも私と同じなんだ。こいつも、同じようにあの人に拾われたんだ。縄張りに、唐突に知らない奴が入ってくれば、そりゃ非難もするわ。
でも、もうそんな雰囲気はない気がする。
一緒に空を見てるうちに、まるで融け込んでしまったかのように。
「や」
それからしばらくして、猫は人型をとって、その時と同じように窓の外を見ていた地獄鴉の前に現れた。同じように人型をとってみた地獄鴉の目の前で、ひらひらと手を振ってみせる。五本の指を持った、人間の掌だ。肉球も毛もない。ただ爪だけが、名残のように鋭い。
猫のままでは言葉を交わせないから。だ
地獄で、それも、覚妖怪の妖力に殆ど毎日当てられていれば、化けられるのも早い。
「だれ?」
だから、わからなかったから、小首を傾げて地獄鴉はそう聞いた。
「猫だよ」
くっくと猫はおかしそうに笑った。
「黒い、あの?」
「そう」
猫らしい人物は頷き、人型の鴉に問う。
「そう言うあんたは鴉だよね?」
「うん」
「名前は?」
「うつほ」
滑らかに、自分の名前が言えた。思い出せれた。初めて名乗った瞬間だからだろう。その記憶は鮮明に頭の中に焼きついていた。
「うつほ?」
「そらって書いて、うつほってんだって。ご主人様がそう言ってた。そっちは?」
空は、きゅっと窓に自分の名前を書き込んだ。器用に動く手足は、便利だった。
「あたい?」
「うん」
「あたいの名前はね――」
名前を交わしたから、友達になった。
それだけ。
だけど、それで親友だった。ずっと一緒にいた。彼女はずっとそらを夢見てた。地獄生まれの地獄育ち。そらなんて見たことない。
地獄鴉も同じ気持ちだった。だから通じ合えたのかも知れない。
そらと同じ字の名前なのに、
そらを見たことがないし、そらがなんなのか知らない。
だから何時か一緒に行って飛ぼうと約束したんだ。
地獄鴉は決して彼女の名前を忘れなかった。
◆
地獄鴉は忘れてしまっていた。
「う、つほ?」
流れる光の弾に身を任せ、間に入り、掠らせる。
通常弾幕第一形態。単純明快な真っ直ぐ。けれどその動きを封じるように。
避けることは出来る。
自分の弾だからだ。
よくわかる。
わかってる。
地獄鴉には避けることしか出来ない。だから狙うは全弾幕のタイムアップ。それまでひたすら避けるだけ。
避けながら、地獄鴉は先ほどの言葉を呟いた。
それが名前だと、彼女は気がついた。
名前。
ご主人様から賜った、大切な、名前。
あの冬の日に。
そうだ。
確か、私の名前は、
「そう、お前はうつほだ」
八咫烏が言う。
無数の光と共に、燃焼するように。
「うつほ?」
と地獄鴉は首を傾げる。
そこを抉るように光弾が駆け抜け、地獄鴉は慌てて地面を蹴飛ばし身を引いた。
「そう、それがお前だ」
「そうなの?」
「自分の名前だろ? そこまで馬鹿だったか?」
「馬鹿じゃないよーだ! 鳥だもの!」
「同じようなものじゃないか。それで、それがお前の名だ。これはハンデだよ?」
その言葉が、彼女の存在を強固にした。
彼女は翼を取り戻す。
うつほの翼。それがどこに向かってるのか、わからないけれど、思い出した。飛びたかったのだ、そらを。だから、空がいい。
真っ黒な翼。艶やかな黒い羽根。
背中から生えた羽根は、彼女が鴉であることの象徴だ。
でもそれは、
「だけど、私も同じだ。私も空だ」
八咫烏の背にも、それはある。八咫烏は三本足の烏だからだ。
同一でないはずなのに、酷似している。
同一でないがゆえに――酷似している。
星を描いたマントを翻し、八咫烏は言う。それは願望だ。
「だから私はお前の身体が欲しい。ここに居たい。地上に出たい」
八咫烏は言う。
食われてそのままで、力になって。力を取り込まれて。
何があった? 何もない。
だから、見てみたかった。
遠くからでなくて、近くで。
それが、八咫烏の願い。
でも――――
通常弾幕第一形態・タイムアップ。
両手を広げる、
左手に、一枚のカードを取り出す。
宣言。
第一スペルカード弾幕。
――――叶わないことを知っているから。
「核熱――核反応制御不能。こいつは制御出来ない力の象徴。お前の象徴。制御出来ないのさ。なら暴走するしかないもんな」
そんなことは、自分のだからわかっている。
それを嬉々として使われるのは、どうかと思ったけど。
放射状に広がる巨大な火球と、ばら撒きの弾が容赦なく空を襲う。
それも、自分が作ったものだ。よくわかってるし、よく知っている。核熱に晒されながら、しかし空は冷静に思い出していた。
空。
空。
名前がある。それだけで、こうも思い出しやすくなる。
じりじりと熱い中、彼女の心は冬の日の中に。
自分を、冷やしてくれる――思い出を探しに。
記憶を探る。
自分を思い出さなければいけない、と空は思った。何をしたのか、何をしたかったのか。
けどさ、と八咫烏は言った。巨大な火球を撃ちだしながら、言った。
「お前さんは、私でもあるんだよ?」
眼前の弾の群れを捌きながら、空は前を見る。
小さな弾が、真横を逸れて頬に小さな切り傷を残した。
「つまりだな」
その先を行って欲しくないような、そうでないような気持ちで、空はその場から飛び退いた。直後に殺到する弾・弾・弾。
「私も空ってことさ」
「つまり?」
「ああ、お前も八咫烏だ」
ますますわからなくなった。折角掴みかけた自分が霧散していくのを感じた。名前が混じって、そこに何の価値もなくなってしまう。空は地獄鴉になって、八咫烏は空になった。どっちがどっちだか、わからなくなってきた。
混乱したままでは、前進も後退も出来ない。
どうしていいかわからなくて、弾を避けることに集中することにした。
けれどその背中には未だに翼がある。
それは、彼女が彼女足りえるもので、そのためには失ってはならないし、必要なものだった。
だから、失くしたくなかった。
「なあ、お前の名前って、何?」
「う、」
「それも私だ」
鴉は言葉に詰って、自信を持って言えなかった。
自身を持って、言えなかった。
◆
思えばどうして話しかけてくれたんだろうか。
あの日以来、一匹の猫が話してくれるようになって、だから彼女たちは友達になった。
そう言う実感はなかったのかも知れないけれど、だからこそ友達だった。
何故なら、初めて会った時から、そんな想いを持っていたからだ。
邸の屋根で、ぼうっと縁に座り込んで、雪が落ちてくる天井を見ていたお空。
そんな彼女に黒い影が近付く。ほうっと白い息を吐いて、マフラーをきつく巻いた。
「お空はさー」
などと黒い猫は言った。
渾名で、空を呼んだ。
友達になったから、渾名で呼んだ。
でも、空はもう覚えてない。
でも、空はもう思い出した。
「なーに?」
と空は振り返って、笑いながら返した。
二人して屋根の上から天井を眺めていた。
目に映るのは、ごつごつてかてかした、濃い緑色の岩肌。その先に何があるのか知らないし、それは今この場において、どうでもいいのだ。
しかし、と空は思った。
あの先に何があるのかは知らないけれど、だったら雪はどこから落ちてくるんだろう? どうしてあの岩肌から雪が吹き込んでくるんだろう?
わからなかった。
お世辞にも頭があまりよくないことを自分で知っている。
だから深く考えないようにした。
「鴉だよね?」
「うん、そりゃ。ってか初めて会ったときそうだったじゃん」
「だっけ?」
「うん」
「ありゃー、お空より鳥頭になっちまったかな?」
ま、それは置いといて、とジェスチャー。にはは、と笑いながら猫は言う。
「鴉なら、どこまで行ったことがあるんだい?」
「どこ?」
「おいおい、お前の翼は何のためにあるんだよ?」
「飛ぶためだけど」
「そうだろう? で、どこまで行ったことがあるの?」
「…………」
空は地獄鴉だ。
地獄の、鴉だ。
どこまでと言っても、行ったことがあるのはあの天井までだ。それ以上は行ったことがないし、そもそもないと思っている。街中や、この場所を飛んだりもしてた。
人型をとれるようになって、考えることが出来るようになって、そしてようやく難しいことを考えることが出来始めたのだ。
だから知らない。
覚えて、いない。
地獄に居て、そこまでしかないのが当たり前で、考えたことがなかった。
だから行けたのは、あの天井までだった。
「あそこまで」
「天井まで?」
「そう。それ以上なんてないんだから」
「それ以上がないんだったら、どうして雪が降るのさ?」
「ゆ、き?」
「そう。白い、ふわふわしたこれだよ」と、彼女はちらちらと降る雪を指した。「でも、あんな暗い天井から、あんな真っ白なものが降りてくるなんて、考えられないじゃないか」
「なるほど……?」
何が言いたいのか得心した、と言った風に掌を打ち合わせた。
つまりこの黒猫は、あの先に、何か、このきれいな雪を降らせる場所があるのではないか、と思っているのだ。
そして、それは空も同じだった。
あの日あの場所を忘れたことはない。
それに、あのふわふわの雪が、あの天井から降るはずがないのだ。
だったら、きっとその先がある。
その先を考えるのは、あの冬の記憶があるからだ。
この邸に来て、どれだけ経ったのかわからないけれど、それでも忘れることがない、忘れることが出来ない、記憶。
だから空は冬が好きだった。
「あの先にはさ、そらってのがあるんだよ」
「そら?」
「うん。うつほって書いて、そらって読むんだって、ご主人が言ってた」
「へえぇ……」
「んでさ、その先に真っ白な塊があるんだよ、きっと」
「ふわふわ落ちてきて、固まっちゃって、さらさらな塊かな?」
「そんな感じだと思うよ。だってさらさらでふわふわしてないと、落ちてこないじゃないのさ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
ふうん、と思って、翼をばさりとはためかせ、ふわりと雪が散って、吐いた息に乗ってふるりと舞った。白い息があっと言う間に消えた。
そのまま、幾許か、無言で過ぎる。
ここから、雪の海に沈む旧都が見えた。
あの場所に、空は居たのだ、と思い出させた。
あの場所の、どこか、小さな路地で死に掛けてた。
だけど、今、生きている。
それは、あの人が拾ってくれたから。
だからここに居れて、こんな友人と出会えた。
雪煙の中に、点々と明かりが燻って見えた。暖かさだ。
明かり。
それは生活の証であり、生きている証拠でもある。生の象徴。だけれど、ここは暗い地底。だからこそ、自分たちで明かりを灯して生きている。
自分こそが、明かりを灯せる。
自分は?
死に掛けてて、拾われて、で、明かりは付けて貰ってる。それでいい。それでいいのだけれど――
「なあ」
「ん?」
「お前さんの、きれいな、いい翼だよね」
「どしたの急に」
「いやさ、いつかさ、その翼でさ」
「うん」
「天井の向こうまで、行ってみようよ」
「どして……?」
「だって気になるじゃあないか」
そんなことを言って、黒猫は笑ったのだ。
◆
避ける。
避ける。
避ける。
避け続ける。
それだけしか出来ないから。
羽根を掠めて放射状に火球が飛び退り、直後に小さな弾が殺到する。
合間を抜け、必死に避け、それでもまだ終わらない。
何秒経ったかさえ忘れた。
一秒が引き伸ばされて、まだ終わらないのかと言う気持ちで一杯になる。
「例えば、お前があの冬の日に拾われず、放置されっぱだったら、どうなっていたと思う?」
「死ぬんじゃないの?」
頬をちりちりと灼く熱さに目を細めながら、空は答える。
つうっと汗が伝って、瞬時に蒸発した。
「そう。だから、きっと今死んでも同じだよ」
「でも、帰りたいな」
「どうして?」
「だって、会いたいもん」
「名前も覚えてないのに?」
「思い出すよ」
「出来るか?」
「きっと」
「そっか」
「うん」
唸りを上げる火球が通り過ぎて、ぱちんと弾けた。
タイムアップ。
次の通常弾幕へ移行。
八咫烏は移動しながら、空を囲うように弾を撃つ。
避ける。
次に来るものが一番危険だと、空にはわかっている。
囲って、動けなくなったところをなぎ払う、一直線の大玉だ。
だがここはあまり難しくない。
次にこれが来たときは、本気で対処しなければならない。
避けながら考える。
考える余裕がある。
考えなければいけないのだ。
何故なら、ここで、最後まで構ってる場合じゃないのだ。
死んだ。
本当にそうだろうか?
帰って確認したい。
本当に死んだのか。
もしそうだったら、きっと空は泣くだろう。
そしてあの人も泣いてくれるだろう。
泣いてくれるはずだ。
だから、帰らなくちゃ。
空の目は、ここからの死角を探し続ける。
隙を見つけ、死角を突いて逃れる方法を。
だがしかし、向こうは自分。八咫烏。
どうあっても、隙だなんて見つかるものか。
だから避けるしかない。
それしか出来ないのなら、するしかないんだから。
「例えばさ」
「うん」
「帰っても、誰も泣いてくれなくて、悲しんでくれなかったらどうする?」
「そんなのってずるいじゃん」
「ずるいの?」
「例えばなんてのは――ずるいよ」
「そ?」
「うん」
「どうして?」
「だって、そんなこと考えてたら、何も出来ないじゃん。帰れもしない」
「どうやって帰るの?」
「ここから逃げ出せたら考える」
「逃げるなよ」
と八咫烏。
そして、通常弾幕終了。
第二スペルカードへ移行。爆符「ペタフレア」。
やっぱり力に任せたスペルカード。赴くままに、暴走に任せて。
火球の乱舞と小弾の合わせ技。
目晦ましと本命の交差。
目を見開いていられない、高温と光。
感覚と、勘が頼り。
自分が使っていたものだから、避けられる。
あいつは、どうやって避けたのだろう?
あいつ?
そう言えば、
私はどうして死んだんだっけ?
「逃げるって?」
「だって、お前、勝ち目がないから逃げようとしてるじゃないか」
「そりゃそうだよ」
「でもあのときは逃げなかったじゃないか」
「あのとき?」
「お前が死んだとき」
それっていつなんだろう。
弾けるような火球の落下は続く。
「あっちの方が上だった。だのに、どうして逃げなかった?」
「そんなの知らないよ」
「だろな」
八咫烏はくくっと笑った。
「考えない。だってお前は地獄鴉だもんな。でも、だったら本能でわかるだろ」
「覚えてないからね」
「わかってる」
耳元で轟音。
熱風が頬を叩く。
衝撃。
身体が傾ぐ。
翼がはためく。
立て直す。
じわじわと、燃え盛る炎が、空の体力を奪っていく。
まったく、こいつはなんなんだろう、と疑問。
空はその疑問を放棄した。
考えない。
考えてる暇はない。
だって、避けなければいけない。
それがルール。
「覚えてないなら言ってやる。お前は人間に負けたんだよ」
「人間?」
「そう、人間。地上からお前を止めにきたんだ。そんなもん迷惑だからやめろってさ」
「私はそんな迷惑になるようなことをしたのかな」
空は首を傾げた。咽喉を伝って、汗が胸元に落ちた。
「したんだよ。いや、でもやったのはお前じゃない。お前は準備をしただけだ。迷惑になることのね」
「でも……」
「お前は覚えていない」
わかってる。でも、何をしたのかは気になる。それはきっと私の記憶の中にあるだろう。思い出そう。思い出せ。そうしなければいけない気がして、空は思考の海に沈没していく。思い出せ。何があったのか。それを、掴めば、何か見つかるかもしれない。
煌、っと炎が散った。
「なあ、お前、誰だ?」
「――私は、」
何も言えなくなった。
進めることも出来なくなってしまったけれど、だけれど、後ろに戻ることは、どうしてもしたくなかった。
だから進めるために思い出す。
◆
あの人にそのことを話したら、まるで遠い昔を思い出すような、懐かしそうな顔で、声で、こう言った。
「あの向こうにはね、そらってものがあるのよ。うつほって書いて、そらって読むの。青い空。白くふわふわした雲ってものが浮いていて、雨だとか晴れだとか曇りだとか、そんな天気って言うものがある、地獄じゃ考えられない場所よ」
なんて、笑いながら言った。
「天気って何ですか?」
「ああ、ほら」
とその人は窓の外を指差した。
「雪が降っているじゃないの。ああいうものを、天気と言うのよ。多分、そう。もう何十年と見ていないけれど」
「そう言うものなのですか……」
空は頷いて、では、と聞く。
「晴れとか雨とか曇りって何なんでしょうか?」
「ああ」
一言頷くと、その人は説明してくれた。
晴れと言うものは、太陽と言うものに地上が照らされて、ずぅっと明るいこと。
雨と言うものは、その雲からいっぱいの水が落ちてくるってこと。
曇りってのは、その雲が空を多い尽くしてしまうこと。
それでも太陽の光は負けないみたいで、地底みたいに真っ暗になってしまうことはないみたい。
そんな簡単で、単純な説明だけど、だから空はよく覚えている。
「――さまは地上に居たことがあるんですか?」
どうしてか、呼ぶことが出来なかった。
名前を思い出せなかった。必死に探っても、見当たらない。どこにもない。まるで燃え尽きてしまったかのように、ぽっかりと穴が空いてるみたいに。
なんだっけ。
なんだっけ。
思い出したいのに。
「ええ、ずぅっと昔に」
「そうですか……」
「どうしたの?」
難しい顔した空に、その人は聞いた。
もうすでに心を読んでわかっているが、空の心は乱雑で、だから言葉で聞きたいのだ。
「――さまは、もう一度、空を見たくないですか?」
呼びたい名前は空虚に消えて、そう言った言葉に微笑んで、その人は首を振った。
懐かしむように噛み締めて、言った。
「いいわ。いいの。だってここがあるんですもの」
その人の妹にも、同じことを聞いてみたら、ぱちんと手を打ち合わせてこう言った。
「そら! そらだわ! 懐かしい。でも知らない。だって懐かしいんだもの。もう一度見たいかしら? いいえ、いいわ。もう行きたくないもの。でもきれいだったってのは覚えてる。だって昔住んでたもの。でももう済んだ話。私は何時でも行けるけど、でもそらを見た覚えがないわ。意図的に見ないようにしていたのかしら?」
そんなことを不思議そうに言って、彼女は去っていった。
彼女の名前は、まるで無意識に滑り込まされたように覚えていた。
こいし。まるでそれに蹴躓いたようだった。
そうだ。
そんな名前だった。あの人の妹の名前は。
それだけは、簡単に思い出せた。でも、あの人は、そこまで話したことがあるわけではないし、空の話には、あんまり関係してこない。
でも、その人が、どこかあの人に似ているから、どうして思い出せないのか不思議だった。
部屋の中で、鴉と猫が向かい合わせ。ぱちぱちと暖炉の燃える音。
ソファの上で座ってる二人。間のテーブルには湯気の揺らめくカップが二つ。
「だってさ」
先ほどのことを語り終え、空は一息吐いた。
「ふうん」
黒猫は、窓の外を見ながら、息を吹きかけてココアのカップを冷ましながら(猫舌だ)、神妙に頷いた。
「くあ……」
空は、欠伸をしながら、毛布に包まった。目を擦って、出てきた涙を拭い取る。
外は寒い。
廊下も寒い。
けれど部屋は暖かいのだ。眠くなる。
張り詰めていた空気が弛緩していく感じ。
猫みたいに丸まって眠りたい気分。
「そう言えばさ、――はどうしてそらなんて知ってたの?」
呼べなかった。友達の名前なのに。
どんなだっただろうか。簡単に、本当に簡単なことで思い出せるはずなのに。どこかで拒むみたいな感じ。でも見つけ出したい。
だって呼びたいもの。
思い出の中でさえ呼べないなんて、なんて不運だろう。
何だっけ、何だっけ。空は必死に思い出そうとする。
この猫の、好きな音と、同じ名前。
どこにいてもわかる、
動けば鳴る、それは、
転がすような響きの、
「ん? ああ」
どっこいしょ、と身体を向き直し両手に持ったカップに口をつける。熱かったのか、舌を出して、ふーふーと冷まし始めた。
「――さまに聞いたのさ。ずうっと前にね。あたいはあんたが来る前からここに居たからね。だからずうっと前。少なくとも、猫だったあたいにとってはね」
「そんな長いんだ」
「うん。んでさ、あたいは聞いたわけよ。ずっと昔から疑問だったんだ」
こほんと咳払い。
じいっと天井を見詰める。湯気が顎の下から、額までを覆って、視界を曇らせた。ふうっと息を吐いたら、それに乗って、散らばった。
空も、ココアを飲んだ。くちばしで啄ばむような動作だった。まだ慣れてないや。
「雪がね、どこから降ってくるのか、わからなかったのさ。お空は、今は空から降ってきたのが、ここに入り込んでるだけだって知ってるだろ? でもあたいはそんときゃ知らなかったんだ。だから聞いたんだ。このずんずん積もる雪は、どこから来るのですか? って。そしたら教えてくれた」
「へえぇ……――も知らなかったんだね。先輩なのに。おっかしいね」
先輩って言っても、ちょっとだけだけどね。
からからと空は笑った。
笑って、ココアを飲んで、甘さに思わず目を細めた。鴉の身体だったら、こんなの体験出来なかっただろう。
「笑うなよぉ……」
少し恥ずかしそうに身を縮ませながら、両手で持ったカップに口をつけた。一瞬、目を見開き、そして目を細めた。
しばし無言で、けれど不快じゃない時間が過ぎていく。
くゆる湯気は暖かくて。
ココアは甘い。
どこか幸せな時間。
「ねえ、――」
「ん?」
ぴくりと猫の耳を弾かせて、黒猫は空に目をやる。
空は毛布の中から翼を出した。一瞬だけ、冷たい風が生まれ、次の瞬間には温風に戻っていた。
「じゃあさ、もし行けたらさ、……乗ってく?」
自分の翼を指差して、空は言った。
目を逸らすなんてことはしなかった。真っ直ぐに見据えて、それを伝えるだけ。
意表をつかれたように、黒猫はびっくりしたように耳をピンッと尖らせた。
「ぁ……」
まるで主人と同じように、見透かされた気分に黒猫はなった。
けれどそれは不快じゃなかった。
むしろ、心地いいとさえ感じた。
「う、うんっ! もしも、だよ。そんときが来たら、あたいも連れてっておくれよ!」
りん、と鈴のような声が鳴った。
返答に、空はにっこりと笑った。
◆
「……りん?」
ぱんっと軽い破裂音。
スペル終了。
第三通常弾幕へ移行。
網目状に相手を囲う弾幕。正確無比な弾道。だが、故にこの弾幕は正面に少しだけ出れば避けることが出来る。知っている相手に使ってもあまり意味がない、所謂休憩ポイントのような弾幕。
無数の網目が空を襲う。
「そうだ」
と、八咫烏は弾幕を張る。
張り続ける。
それがルールだからだ。
「それが、お前の友の名前」
まるで噛み締めさせるように、八咫烏は言う。
「りん。りん……りん……おりん――お燐っ!」
舌の上で鈴を転がすように、噛み締めるように名前を繰り返した。
まるで小石に蹴躓いたように、唐突な思い出し方だった。無意識に刷り込まされたような感じ。
身体を掠めて、弾幕が通り過ぎる。
まるで確定事項。
決まっていることを逐一確認しているような感覚に襲われる。
そもそもどうして自分は弾幕戦などしているのか? 空には、よくわからなかった。
八咫烏は指を二本立てた。
「一つは思い出すため」
と、奴は言った。
「もう一つは、私を倒すため」
「無茶を言ってくれるじゃないの……」
落ち着いて、交わす。でなければ撃墜される。
そのまま、聞きたいこともなく、交わす言葉もないまま、過ぎていく。
考えろ。
ぱん、と弾幕終了。
八咫烏は両手を伸ばし、右手のスペルカードを相手の外側へ。
左手のカードを内側へ。
発生するのは十凶の星。
巡り巡りて、眼前の敵を粉砕し、圧殺せんとする破滅の焔。
「熱い……」
「でしょうよ。だって私だもの」
ぐるりぐるりと巡る炎。
狭めることなく、僅かな隙間を残して。
それは、わざと開けられた隙間。罠ではなく、そこを使って避けろと言うこと。つまり、それは、交わして見せろと弾幕が言っているようにも感じられる。
渦巻くような小弾と、巨大な炎。
洗濯機みたいな感じ。
洗っていく。
洗われていく。
脳内を記憶をかき回し、思い出す。
十凶の星。
十の太陽。
太陽。
空に輝く、らしい星。聞いたことしかないけれど、空はその力を取り込んだ。目の前にいる、その力を。
――――――目が眩むような光の中で、空は思い出の中にあった。
「お前の名前は、何だ?」
「――おくう?」
「それはお前の友人が付けた渾名だ。お前じゃない」
それっきり、だんまりだ。
◆
別の日、ソファで向かい合って、火焔猫燐は言った。
「お空は太陽って知ってる?」
「知らない……それも――さまに聞いたの?」
また言えなかった。こいしと同じ種族のはずなのに、その名前だけが、すっぽりと消えたように空の中からなくなっていた。
「うん」
そんな風に、ある日突然お燐に言われた。主の話を聞かせてくれる。それは、大抵空にとって興味のあることだ。彼女らの主の話は、どんなときでも知らないことばっかりで、興奮させてくれるから、とても楽しいのだ。
「ねえ、たいよう……ってなんなの?」
空は首を傾げた。
一杯の冷えたお茶を口に含んでから、耳を撫でながら、燐は言う。
「そらに――あ、そらってのは」
「知ってる。覚えてるよ、そんくらい」
空は頬を膨らませて、不満を露わにする。
「あはは、ごめん。だってお空ったら、すぐに忘れちゃうじゃないか」
まあ鳥頭だし。そんくらいわかってるし。
「えー……? そうかなぁ?」
「うん。っでさ、太陽ってのは、そらにね、でっかい炎の塊が浮いてるんだって。その塊を太陽って言うんだってさ」
「へぇえ、それって落ちてこないのかな?」
「らしいよ。ずっと浮いてて、夜になると沈むんだって」
「沈むの!?」
きょとんと目を丸くして、空はその情景を思い浮かべる。そらに浮かんだ、炎の塊が、地面へとずぶずぶと沈んでいく様子だ。
「そう、そうしてさ、今度は月ってのが昇ってきて、あたり一面真っ暗になるんだって」
「外みたいな感じ?」
「そうらしい」
「地上ってのは、不思議なんだなぁ……」
空は腕組み、思案する。情景は上手く思い浮かべることは出来ないけれど、それでも言葉だけで、話だけで、どこまでも想像は広がっていき、魅力的な世界を想起させる。
「そう、不思議な場所なんだよ」
とソファの後ろから声がした。
「でもね、」
ひょこんと背もたれの裏から顔を覗かせたのは、主の妹君――こいしだった。
「ありゃ、いつからいたんです?」
燐は聞く。
「んー? さっきから、ところで、でもね、の続きを言ってもいいかな?」
「え、ああ、はい、どうぞ」
こほんと咳払い。
「ん、んーんむ。あのさ、地上ってのは、きっと不思議で面白くて魅力的なんだろうけど、でもこわい場所だよ」
「こわいの?」
空は聞く。先ほどまでの想像を、一瞬だけ解れさせるその言葉。
「こわい。こわいのよ。楽しいばっかりじゃないのよ……でも余りあって魅力があったかもしれない。もう思い出せないけれどね」
こいしは言う。
まるで忠告するように、警告するように。
地上はこわいところだと、植えつけるように。
けれど、その瞳は、やっぱり主と一緒で、ずっと遠くを見ていたような気がする。懐かしむような、取り戻せない過去を切望しているような表情。だけれど、傍目にはそうは見えない。いつも同じような表情で、妹君はそこにいる。主だけが、彼女の機微に気がついているのだろう。空には、わからないけれど。
だが、空は、その瞳だけは理解した。
だから結局思いは揺るがないのだ。
いつか行きたいし、行かせてあげたい。もう一度、見せてあげて、そうして見に行きたい。一緒に行きたい。それだけは変わらないのだ。
「そっか、こわいものなんだ……」
「うん。そうなの。だから行こうなんて考えないの。あ、でも、楽しそうなことがあったら行きたいかもね。ああ、でもそしたら、お姉ちゃん、なんて言うかな? ありゃ、言わなければいいじゃん、私天才。んー、でも、めんどいし後回し。じゃあね、お空、お燐、ばいばーい」
気だるげに手を振って、欠伸を一つしたあと、次の瞬間には、もう影も形もなくなっていた。そんなこいしを見て、やっぱり地上で暮らしてきた人らは違うなぁ、と空は思った。
空も燐も、地獄生まれの地獄育ちだ。
だからどうしても、隔たりを感じるときがある。
共有したくても、出来ない歯痒さを、決定的なまでの溝を感じるときがある。
だから埋めたくて、仕方がなくて、でもそんな思考は持っていない。ただ近付きたいと言う想いだけだ。
それだけあったって、絶対に足りないのに。
「こわいところなのかな?」
空は口に出して言った。
「それだけじゃないだろうさ。だって、ご主人様もこいしさまも、どっちも言ってたじゃないか」
「だよね。一回、見てみたいな」
「そうだね……」
叶わないかもしれない。
叶ったらいいかもしれない。
その程度の願い事。
その程度の願望。
でも、その程度だからこそ、いつでも思い出せたし、考えていた。
どうやったら地上が見られるのかって。
そのことを主人に話したら、にやりと笑いながらこう言った。
「とても魅力的よ。でもこわいわ。だって出ようとしたら、危ない隙間の妖怪に連れ込まれちゃうんですから」
と言われた。
どうやら、その危ない妖怪とやらに邪魔されているらしい。けれどご主人様は、ここにいることを望んでいるし、他の大多数の妖怪たちもそうらしい。
出ようとなんて考えないし、そもそもそう言う誓約らしい。
誓って、ここにいると約束しているのだ。
だとするならば、空の望みは決して叶わない。
でも、諦めることなんて出来やしない。
絶対にいつか行きたいと思ったし、見たいと思った。
それが、空の最初の理由。
だから、それを受け入れた。
◆
巡る星の合間に身体を滑り込ませる。
すでにこの場所は、めらめら燃える炎の宇宙だ。
咽喉は焼け付いてひりひりと痛む。肌も同じ。
星の隙間。炎が吹き荒れる。まるで一飲みにしてやると言っているようだ。
熱くて堪らない。ちりちりと髪の毛が、咽喉が焼けていく。
霊烏路空と言う存在が焼け付いていく。
焦げ後のように。
こびり付いていく。
――はっ、はっ、と短い呼気。
汗が垂れて、瞬間、蒸発した。
もうこのまま炎に飲まれてもいいかもしれないと思った。
けれど、
それでも身体を一時も休ませない。
休ませている暇なんてない。
痛む身体を動かして、前へ前へと前進していく。勿論それは錯覚で、結局身体は弾を避け続ける。
痛い身体。
どうしてこうしているんだろう、と何度も疑問に思う。
そうしなければならない気がして、ひたすらに空は前へ進む。
冷やりとした雪の記憶が、身体を冷たくしてくれる気がして。
思いを冷静に熱してくれる気がして。
そうして、
また一個、スペルカードが終わった。
その度に、一つずつ、一つずつ、思い出していく。
けれど、まだまだ遠い。
次は何だっけ? と思った。
「お疲れ。さあ次だよ」
「まだ続くんだね……」
「誰が作ったと思ってるの?」
「私」
「そう」
通常弾幕四つ目。
二回目の焼き直し。
だけれど、大弾の数が多い。
囲いは少なく、弾は鋭く。
冷静にいけば避けられないことはないけれど、それでもちと辛い。
ここまでの痛み。熱さ。
どうしようもないくらい疲れ切った身体。
集中力が落ち込んでいく。
避けられない。
そんな気さえしてくる。
そう思っているうちにも、奴は待ってくれない。
飛び退り、中弾、大弾のコンビネーション。
囲いを作って、そこに撃ち込む。
バラけ方は大概ランダム。
それも設計者の意図通り。
つまりは空の作った狙い。
だから避けれないようで、案外避けられる。
作った本人だから。
だから、何故このようなことをしているのかわからなかった。
これじゃあまるで、
「確認みたいじゃないか……って?」
「ありゃ? 心を読めるの?」
まるで主みたいだ。
「私はあんた」
「ああ、そっか」
「うん。で、あなたは間違ってない」
「どゆこと?」
「それは、秘密だよ」
「ちょっと残念。自分に隠し事された」
「私は八咫烏よ」
「知ってる。でも今は私の力」
「あんたには今、力がないけどね」
「あ、ほんとだ」
ばさりと羽根をはためかせ、空は弾の隙間に身を滑り込ませる。大弾を誘導して、危なげなく回避する。
今の空には、欠片の力もない。
あるのは地獄鴉であると言うことだけ。
過去の、弱い自分だけ。
「でも避けることは出来る」
「それしか出来ないの間違いじゃないか?」
「そうとも言うね」
「強がり」
「違うもん」
当たりそうになった瞬間、ぶわさと翼で急停止&旋回。ついでに大弾も切り返す。
ちっとも難しくない。
でも咽喉は焼けていてひりひり痛むし、身体も疲れてる。
あまりよくない頭だけが動いている感じだ。
早く終わらせたいと思ったし、そうしてはいけないとも思った。
後、二枚。
それまでに、何か、重要なことを思い出さなければいけないような。
飲まれてしまうような。
食われてしまうような。
そんな、痛いことが起こってしまうような気がしていた。
ぱちりと炎が舞った。
「んじゃあ次。後、二枚だよ」
上下、天地にスペルカードを配置。
発生するのは人工の二つの太陽。
肌が焼ける。まるで全身の皮膚を引っぺがされて、直接熱されているような。
そんな痛み。
眼球の水分が蒸発して、何も見えなくなってしまいそう。
息が焼ける。
「――熱い」
「だろね。そんな身体だもんね」
思わず手を翳して、顔を守った。
だけれど熱さはちっとも揺るがない。
「なあ、」
もう聞き飽きたその質問。
「お前は誰だ?」
苛烈に、鮮烈に、空を焼き尽くす、火炎。
その炎の中に、空はあの日のことを思い出す。
◆
「お燐お燐、見て見てこれー!」
その日、炉の管理を任されてから数年、突然空の姿が変わっていた。
少しばかり身体が大きくなったし、右手に巨大な棒。分解と融合の両足を持つそれは、八咫烏の力を飲み込んだ結果だった。
だから当然、燐は驚いた。
強大な力を手に入れた友人に。
変わり果てた姿になった友人。
「お、くう……?」
「うん、そうだけど?」
「どしたのそれ?」
「貰ったの」
「もらったぁ……?」
「うん。神様の力なんだって」
「誰から?」
「神様」
「そう」
空の様子はいつもと変わらない。変わらないようで、全然違う。
力と自信に満ち溢れた顔をしている。
何でも出来ると自惚れた顔だ。
だから燐は危機感を、このときすでに抱いていた。
「なー、お燐、この力があればさ、地上に行けるね」
「え、ああ……そんな危ないもん持って、地上行って、どうする気だよ?」
実際、傍にいても、熱いのだ。
「焼き尽くすの」
何故そう言ったのか、その理由は単純明快。呆れるほどの単純さ。何故なら空には、目の前のことしか見えていないからだ。
彼女は地上に出て、そらを見たかった。
だけれど、邪魔をする奴ら、怖い奴らがいるかもしれない。
「だからね、お燐、そんな奴ら、全部焼き尽くしちゃえばいいんだよ。そうすれば、地上なんて怖くもなんともない。そうすれば、きっと空が見えるんだよ」
「……そりゃあ、そうだけど……でも、やっちゃいけないよ」
「どうして?」
「それは――」
燐にはわかっている。
それをしてはいけないと。
主人は言った。
これは誓約だと。
誓って自分たちはここに住むことにしているのだ。
破ることの許されない約束なのだ。
だから迷惑になる。
それを破ることは、禁忌に触れるに等しいのだ。
いや、禁忌どころではない。
空は焼き尽くすと言ったのだ。地上にある、怖いもの、邪魔するもの。そう言ったものを排除して、排除し尽して、そうしてそらを見に行くのだ。
そんなことをして、本当にいいのだろうか?
燐には見当もつかなかったし、止めようがなかった。
燐より背の高くなった空。
燐よりも、強くなった空。
変わり果ててしまった彼女を止める術は燐にはない。
だから、同意した。
同意してしまった。
「――ううん、お空。そいつぁ、素敵だね」
「そう! 素敵なことなの!」
嬉しそうに両手を合わせた(片方は棒だが)。
それでいいと燐は思った。
それでいいと燐は思わなかった。
絶対にさせてはいけないと思うと同時に、嬉しそうな空の邪魔をしたくなかったのも事実だ。けれど、そんな、地上を焼き尽くすなんてことはさせてはいけないに決まってる。
主人は怖れていたのだ。
と言うことは、もしも誓約を破ったら、この地獄は、きっと真実の地獄になってしまうだろう。
そしてお空は――――
燐は、考えた。
どうにか止めることはできないだろうかと。
しかし空は言う。
「大丈夫。この力があればさ、絶対に大丈夫だから。上手くいくからさ」
燐は信じることが出来なかったし、そんなことをするなんて信じたくなかった。
そのことを空は欠片も感じ取ることが出来なかった。
だから、今、回想し、そうだろうと当たりをつけ、その行動に感謝しているのだ。
致命的な間違いに発展しないですんでよかった、と。
そのことをありがとうって言いたかった。
◆
涙が出て、一瞬で蒸発した。
どうやら、この炎の熱さの中では、泣かせてもくれないらしい。
「あんたはさ」
「……うん」
「いい友達を持ったね」
「……うん」
頷き、空は少しだけ誇らしげに胸を張って言う。
「初めて出来た友達だからだね」
「私も同じだよ」
「そう」
人工の太陽は収縮を始めている。
そろそろスペルが終わる。
空は、殆どの事象を思い出していた。
けれど、自分が自分だと言うことに、致命的なまでに確信が持てなかった。自分は霊烏路空なのだろうか? もしかしたら、違うのかもしれない。本当の霊烏路空は、目の前のそいつかもしれない。
それは、あの雪の日が思い出せないから。
名付けてくれた人の名前を、未だに思い出せていないから。
そんなどうしようのない欠落を埋めようと、空は弾幕を避ける。
上下左右から来る斜めの弾。
強制的に近距離で、お互いの顔を合わせることになる。
「なあ」
と空は、鼻先にいる八咫烏に向けて言った。
「なんだ」
と八咫烏は応えた。
「私さ、負けたのよね」
「ああ」
「お燐の呼んだ人間に」
「そうだ」
「そんな程度の力だったのかな?」
「違うよ」
「じゃあどうして負けたの? こんな過酷な環境で、あんな人間が、耐えられるはずがないのに。勝って当然だったはずなのに」
「そりゃそうだ。だってあんたは、焼き尽くしたくなんかなかったはずなんだから」
「……そなの?」
「ああ、そうだ。だってあんたはご主人さまの見た、地上が見たかったはずだ。妹君の見た、怖いものを怖れてたはずだ。だったら、きっと焼き尽くす必要なんかない。そうする以前の地上が見たいって。いくら強い力を持ってたって、使い道がなきゃ意味がないね。なあお前さ、いったい何を求めてたんだよ? 教えてみなよ。私はお前なんだからさ」
「求めて、いたもの……」
破裂。
人工太陽が爆発する。
くすりと八咫烏は笑う。
「さあ、最後の一枚だよ」
ピッと胸の前で宣言する。とっておきの一枚だ。最後の手段。全身全霊込めて扱う、己の身を太陽と化し、相手を、瓦礫とともに引き摺り込む最終手段。
一回使ったら、疲れてしまう。まるで自爆のような技。ああ、だから自分は――――
そして、弾幕ごっこの最後を飾る弾幕だ。
「さあ行くよ」
「サブタレイニアンサン」
瞬間、八咫烏は太陽になって爆発した。
太陽の化身が成るそれは、空の使ったときよりも数倍ほど大きい。
よって、引力も大きくなる。
近い。
熱い。
焼ける。
融ける。
死ぬ。
あ、
!
これ、
死?
ぬ?
や
そ
い
あ
あ、
あああ、
「――――か、 ひゅぅ」
背後から迫る炎の弾を寸前でかわす。
咽喉が限界。
焼け切れてる。
肺が限界。
焼け付いている。
もう稼動も難しい。
疲労が溜まり過ぎている。
動き辛いし、動けない。
まるで自分の身体じゃないみたいだ。
引き寄せられる。
引き摺られる。
飲み込まれそう。
どうしてこんなことして、必死に避けているんだろう?
ああ――帰りたかったからだ。
でも、もう諦めてもいいんじゃないか、と言う想いが首を擡げてきた。
ちり、と掠る。
痛みが奔る。
「なあ、お前さ」
太陽から、八咫烏の声が聞こえる。
「そこまで思い出してさ、そしてどうして言えないんだよ」
そんなことを言う。
「だってお前、どうして帰りたいのか、はっきり言ってないんだもの。だからお前は、散漫しちまうんだよ。なあ……」
そこで言葉を切る。
そして息を吸って、火炎のように吐き出した。
「お前、いったい誰なんだよ?」
言葉は空を焼く。これ以上、何を焼かれるのかと言うくらい徹底的に、空は火を通らされた。焦げ付いて、もう終わりにしたいと思った。
抵抗する気力なんてなかった。
だって、思い出せないんだもの。
どうすればいいんだろうか?
まるで心を読んでるみたいな八咫烏の言葉は、空を飲み込んだ。
心を読む。
覚えてる。
それは、あの人の能力だ。
今まで思い出して、何度も何度も出てきて、その度に思い出せなかった人の名前。何度も知りたいと思って、その度に思い出せなかった。どうしても思い出したかった人の名前。
あの人とは、
心を読む人。
そう、覚えてる。覚? あ、
そう言ったことを、怖れられていた人たちは何て言ったっけ……。
確か、
確か、
確か、
覚妖怪。
だったら、あの人の名前は――
あ、
あ
か
さ
た?
あ、
最初の文字は「さ」。
その瞬間、空の身体に電流が奔ったように引き攣った。
ああ、
あああ、
どうして忘れていたんだろう。
あの人の名前は、その種族の名前と一緒じゃないか。
ずっと前に、私はその名前を言っていたじゃないか。
その人は種族を象徴するような人だったじゃないか。
焼け付いた咽喉が言葉を絞る。
煤だらけの言葉を吐き出した。
「さ――」
「うん」
「――さとり様」
言葉は平坦に。
呆然と、
茫漠と、
けれど、その言葉には、驚きと信頼が含まれている。
どうして、
本当に、どうして忘れていたんだろう? こんな重大なこと、忘れちゃいけないのに。どうしてだろう? 不思議だ。不思議だった。何で、絶対に忘れないって思ったのに。ずっと思い出せなかった。思い出そうとしたのに、出来なかった。自分の記憶なのに――
「正解」
だから、
だとしたら、
そこで、ようやく繋がった。
ようやく、あの雪の日の記憶が想起出来る。
想い起こすことが、出来る。
「私の名前は――」
その続きは、
「さとりって言います。古明地さとり」
そうして、ようやく、霊烏路空は想い出せた。
そうして、ようやく、霊烏路空を想い出せた。
名前。
私の、名前。
私の名前、は、
「なぁ、お前って何だ?」
私は、
霊烏路空が燃焼していく。
「私は」
(私)
いつの間にか八咫烏はいなくなっていた。ぽつりと炎の中に独り。炎の群れが硝子のように反射する。空の姿の中に、いつかの記憶の回想を。ぐるりと巡るそれは、確かに空の記憶だ。ならばここは。
空は、まるで太陽のように燃え尽きる。真っ赤に燃えて。
吐く息は火炎。
だけれど、空は思い出せた。
それで、いいのだ。
その結果だけあればいい。
思い出せて、自分を取り戻せた。
だから、戻ることが出来るのだ。
「私は……」
(私は?)
心の中で誰かが問いかける。
それは八咫烏かもしれないし、それ以外かもしれない。けれど空は、自分だと信じて疑わなかった。
あれは、強い力を手にしてしまった、自分なのだ。
図に乗っていたとも言うのだ。
けれど、こうして弱い自分で戦って、ただ理不尽な強さに焼かれた。
焼かれた中で、自分の最初を思い出した。
だから、ようやくだ。
ようやく空は名乗れるのだ。
焼かれて、焼かれて焼かれて、神を喰らった空は、ようやくそのことの重さに気付いた。
あまりに強過ぎる力は、あってはならないものでもある。
ここには、地底にはそぐわない。
しかし、制御出来れば――いいや、しなければならない。
出来なければいけない。
出来なかったから、空は暴走した。
暴走して、焼き尽くそうとした。
欲望に乗っ取られた。
だから、今度こそ、間違いを犯さないように。
今度こそ名乗り上げる。
ようやく答えることが出来る。
確固たる名前を持って。
制御する。
「わたし、は」
燃焼する。
燃焼する。
燃焼する。
空の全てが燃焼し、空の総てが沸騰し、空の凡てが蒸発していく。
まるで、花が開くように。
「私――はッ!」
(お前は……!)
それは宣言。世界に対する宣言。世界に、ここに、存在を成り代わられてたまるものかと名乗り上げる。それは名前。名前がない力に、成り代わられて堪るものかと。自分は、自分しかいなと。自分の、ただ一つの、大切な、名前。それを、世界に。
ここに、地獄に、我が主に――!
さとりさまに――!
「私はッ!」
「霊烏路空だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――!!!!」
咽喉を振り絞って――叫ぶ。
炎の中で、恒星が生まれた。
恒星が、爆発した。
そこで、ようやく霊烏路空は、霊烏路空になれた。
◆
「――ぁん?」
最初の感覚は、冷たい岩肌だった。
よっこらと身を起こして見れば、よく知らない景色。でもしかし、どこか見覚えがある、と目を凝らしてよく見れば、そこは火の消えた炉の最下部だった。
火の消えた、炉?
「――ッ!!」
空は跳ね起きた。
跳ね起きて、ふらりと立ち眩みして、地面に尻餅をついた。
「いちち……。あ!? 痛がってる場合じゃないよ! 早く火を入れないと!」
でも焦る頭とは正反対に、身体が上手く動いてくれない。
あわわと焦りながらも、身体を動かそうとして、もぞもぞと動くしゃくとり虫みたいになってしまった。
まるで全力を出したあとで、疲れ切っているかのような。
「寒い寒いと思って来てみれば、何をやってるのですか、あなたは」
呆れたような声がした。
首を思いっきり反らして背後を見れば、上下逆さまになった古明地さとり。自分の主がいた。
「さ、さとりさま!? い、いや、これにはわけが!」
あっさりと口から出た。呼べた。自然に呼べて、その事実が嬉しかったけれど、それどころじゃなかったのだ。空は、怒られ、捨てられる方がずっと怖いのだ。だから言い訳なんてしてみるけれど、そんなもの、覚妖怪の前ではまったくの無意味なのだ。
「いや、いいです。知ってます」
「はい?」
「お空は、あの人間らに負けたようで」
「あー、あーあー! あー! そっか。そうでした……っけ?」
「そうなんです。ああ寒い」
はくしょんとくしゃみをして、小さな身体をさらに小さく抱き締めた。ほう、と吐く息が白い。
「あ、あのあのあの、すぐに火を入れますから、さとりさまは上に帰ってください!」
立ち上がろうとするが、上手くいかない。どうやらこっ酷くやられたらしい。身体が、まるで自分のものじゃないみたいだ。
「いやいや、まだしばらくは大丈夫ですから……」
とさとりは両手を振って止めにかかる。
その様子がどこかおかしくて、空は思わずくすりと笑みを零して、大の字に倒れこんだ。
不意に、その鼻先に白い塊が落ちて、融けて、うっすらとした水滴を残した。
ちらちらと、ゆっくりと落ちてくるのは止まらない。
火の消えた炉は冷え込んでいて、寒い。
焼けた頬に触れて、融け出すたびに、ちりちりと痛んだ。
雪。
そう言えば、あの日も。
あの日のことはよく覚えてる。
だってあの日は、私の大切な人の――
「――ぁ」
そっと、掌が空の額に覆い被さる。
驚いて、思わず目を見開いた。
「寒く、ないかしら?」
じんわりと、額から暖かさが広がっていく。
吐く息は白いのにどこか暖かく感じた。
まるで、初めて会った日みたいに、暖かくて。
思わず頬も熱くなる。
「そう」
さとりはにこりと笑うと、空の頭を抱えて、膝の上に落とした。
「あ、ちょ、さとりさま!?」
慌てて立ち上がろうとする空を、
「いいから」
と力を込めて額を押され、難なく押さえ込まれる。
膝の上に落下。
そこは、暖かかった。
「ここは寒いわ」
「なら早く火を――」
「いいの」
「でも――」
「あなたの頭は、結構暖かいから」
するりと、頬を撫でられる。
そこからじんわりと暖かさが広がっていく。
そして、彼女は確かに、あの日と似たようなことを言ったのだ。
体温が暖かいって。
「お空」
「はい?」
「随分、大きくなったようで」
「あ、は、はい……」
それは、八咫烏を取り込んだ所為だ。
だから、自分の力じゃない。
「何があったかは聞きません。何をしようとしていたのかも聞きません。何故ならあなたは、あなたの中で、すでに決着を着けていますから」
だけど姿が変わっても、さとりさまは気付いてくれた。
それは心を読む能力を持っているおかげ。
そのおかげで、彼女は人を間違えない。
だけど、きっと、そう言うんじゃないだろう。
うむうとさとりは唸る。
「それにしても――人型になったときも思いましたが、随分大きくなるようで」
と、さとりは自分の頭の上に手をやる。
その仕草がどこかかわいらしくて、空は口元を抑えて笑う。思いっきり大声で笑いたい気分だったが、それをするとはたかれそうでこわい。
いや、覚妖怪の非力な腕力ではたかれても痛くもないだろうけれど、何となく、やだった。
嬉しくて、暖かくて。
あの雪の日みたいで。
だからこんなことを口走る。
「さとりさま」
「はい」
「さとりさま」
二度、言った。きちんと呼べることを確かめた。もう決して忘れないと刻み込んだ。刻み込んで、飲み込んだ。八咫烏のように。そうして、自分の中に留めるように。逃さないように。
「はい」
「私は」
「はい」
「私は霊烏路空です」
「ええ」
断定するようにさとりはゆっくりと頷いた。
「その通りです。それ以外に何がありましょうか」
空は安心した。
目を閉じて、ふっと息を吐き出した。
もう火炎の息じゃあない。
「さとりさま」
「はい?」
「えと」
「うん」
「今度、地上に出れたら、ってか、ほら、地上から人とか来ちゃったし、大丈夫かなぁ、なんて思われてるかもしれないし、ちょっとくらいならいいかもしれないし……私、その、あんなことした後で言うのもなんですけど……あの、よければですけど」
そこで一息吐いて、ぐっと上半身を起こして顔を近付けた。
真正面から相対する。
「一緒に、そらを見に行きましょう」
ぱちくりと目を瞬かせ、さとりはふにゃりと微笑んだ。
力尽きたように、きゅう、と空は倒れた。膝の上に納まるようにして、顔を見上げるようにして、空は額に腕を乗せる。少し恥ずかしげに、言えた、と呟いた。
「えと、それじゃ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。お疲れさま」
寒いけれど、暖かいから、まだしばらくはこのままで。
初めて会った日みたいに。
そして、ようやく自分になれたから。
あなたが名付けてくれた日のように。
了
素晴らしかったです
なんとも言えぬ語りと展開に引き込まれて、いつの間にか燃焼しておりました。おかえりおくう。
彼女なら暗い温泉騒動のあとも生きてけるだろうなぁ……
晴れた日に空をしばらく眺めたくなりました。