Coolier - 新生・東方創想話

さとりのラーメンバカ一代 後編

2013/03/03 16:31:57
最終更新
サイズ
129.49KB
ページ数
1
閲覧数
2696
評価数
19/32
POINT
1750
Rate
10.76

分類タグ

 *******


 わたしは夜の路地を走っている。

 迷路みたいに入り組んでる古ぼけた旧都の路地じゃない。きれいに整って、街灯があちこちについていて、夜でも昼のように明るい。たくさんのひとが行き交い、とてもにぎやかな場所。
 地獄の一丁目。昔住んでいた場所だった。
 わたしは前を見ずに走るものだから、フラフラ歩く酔っ払いとかにぶつかる。罵声を浴びせられるけど、気にしてはいない。
 わたしの心には、ひとつしかなかった。
 こいし、こいし。どこなの?
 かすかに聞こえるこいしの心の声を、わたしはひたすら追っていた。
 だんだん道が狭く、暗くなってくる。目の前に、廃屋のビルがある。
 ビルの非常階段を駆け足であがる。鉄の階段はさび付いていて、一歩ごとに耳障りな甲高い音で跳ねる。
(おねえちゃん……おねえちゃん……だめ。きちゃだめ)
 こいしの声に、きたない心が、混じる。
(なんでこいつ、俺たちが今夜この銀行を襲おうとしたことがわかったんだろうな?)
(まあいいだろ。とにかくこのガキのせいですべておじゃんだ。じきに閻魔がやってくるぞ)
(強盗は、黒縄地獄行きかよ……ちくしょう!)
(地獄の道連れによ。こいつにも生き地獄を味あわせてやろうぜ。いまさら罪状が一つ増えようがかまいやしない)
(おねえちゃん。どうして?)
(悪いことをしてるひとは、罰を受けなきゃならないのに)
(心が読めないみんなにかわって、悪いひとたちだと教えたのに)
(なんでみんな、わたしの声を無視するの?)
(はやく気づいてくれれば、こんな)
 こいしの心が切り裂かれる。ぐちゃぐちゃになって、四散する。
(おい、いきなり無茶をするなよ。死んだらつまらんだろうが)
 こいし。こいし。こいし。こいし。
 なんでこんなことになるんだろう? こいしが、何か悪いことをしたっていうのか? こいしは、子どもの頃からただ正義感が強くて、とてもまっすぐで、誰かが傷つくのを黙っていられないだけなのに。わたしみたいに臆病じゃなくて、勇敢だっただけなのに。
 こいしの心が悲鳴をあげている。わたしは、耳をふさぎたくなる。
 ああ。こいしの心が死んでしまう。こいしが、消えてしまう。なんで。なんでこんなこと。ひどすぎる。ひどすぎるよ。
 ビルの最上階が見えてきた頃。ふいに、場違いに、あでやかなにおいが、した。
 バラのにおいだった。
 突然、頭のどこかがショートした。眩暈がするほどの憎悪と怒りが心を塗りつぶす。身体中が沸騰する。体験したことのない暴力的な気分が、わたしを抱く。
 ――何もしていないこいしにひどいことをするやつは悪いやつだ。だから死んでもかまわない。死んで当然だ。死んでしまえば。死んでしまえばいい。みんな、死んでしまえばいい。だから殺す。報いを受けろ。殺す。罰してやる。殺す。殺す。殺す。
 みんな殺してやる。
(おい、誰かが上がってくるぞ。閻魔どもか?)
(早すぎる……つけられたかもしれねえ)
(いや。様子がおかしいぞ。どうも、一人みたいだぜ)
(一人? 警邏中の鬼か? ならどうだってなるさ。適当に話して刻んでしまえ)
 おまえたちのようなやつは死んだってかまわないんだ。
 殺してやる。
 みんな殺してやる!
 上がってくる足音を聞いて、非常口が開いた。
 バラのにおいが強くなった、気がした。
 


 気づくと、わたしはビルのなかの倉庫の部屋の真ん中で、横たわっていた。
 
 だだ広い倉庫は、死んだように静まりかえっていた。

 ただ、死にかけた羊のようなうめき声が、あちこちから聞こえてきた。

 倉庫には、無数のひとたちが横たわっていた。その顔は、恐怖で歪んでいた。うつろな目を空に向けて、よだれまみれの半開きの口から、うめき声をもらしていた。たまに大きな悲鳴をあげると、何かから逃げるように、ぎこちなく体をエビのように曲げていた。

 男たちの胸には、本来あるはずの「花」が、どこにもなかった。

 おねえちゃん、と声が聞こえた。

 振り向くと、そこにはこいしがいた。

 衣類ははだけて、ほとんどはだかだった。そして、全身、血でまっかに染まっていた。

 その胸には薔薇の花――こいしの心そのもの――が、真っ赤に咲いていた。

 左手には血で染まったナイフを持ち、右手には、なにかぐちゃぐちゃした真っ赤なものを、握りしめていた。

 ――わたしは、こいしの背後で横たわっている男たちが、動かないことに気付いた。

 こいしは、笑っていた。

 だけど、その大きな目は、まわりでうめいているひとたちと同じく、うつろだった。

 ぼくは、わかったの、と、こいしは言った。
  
 お姉ちゃんは天使なの。

 悪いやつらを引き裂いて世界を浄化する天使様なんだよ。
 
 わたしは、高鳴る心臓を押さえながら、尋ねる。

 ねえ、こいし。こいし。これは、わたしが、やったの?

 そうだよ、と、こいしは微笑みながら言う。

 みんなお姉ちゃんが、食べちゃった。トラウマでむきだしになった心を、ばくん、とね。

 わたしはもう一度、倉庫でうめいているひとたちをひととおり眺めて。
 
 こみあげてくるものを、その場に吐きだした。



「うぇぇぇえぇえっ」

 ――ホテルのトイレで、何度目かの胃液を吐き出しながら、わたしはあの日のことを思い出している。
 土地を売り払い、逃げるように旧都にやってきて地霊殿に住んだあとも、決して忘れることのない、光景。
 二度と繰り返してはいけない。そう心に誓った、光景。なのに。
 あれから、おりんがつきっきりでいてくれたのに。「さとり様。どんなときでも平静でいられるような強靭な精神を持ちましょう。そのために、あたいは今から鬼になります!」と、一ヶ月間、屋台で特訓をしてくれたっていうのに。
 フリフリのエプロンドレス姿にもなった。例の、おりんがずっと推してきたメイド服だ。太ももまでぜんぶ足がみえちゃってるような超ミニスカで、ちょっと動くだけでパンツが見えそうになるやつだった。お客さんもとても戸惑っていて、ほんと死ぬほど恥ずかしかった。
 おりん自身もすごいえっちな妄想をぶつけてきた。「さとり様を鍛えるためにわざとやってるんですからね。がんばって耐えてください」と言うものの、なんていうか……ほんとうに気持ち悪くなるくらい生々しい妄想で、もしかしておりんは本当にヘンタイなんじゃないかと思えるほどだった。
 おりんが酔っ払いに変装してわざと絡んできてくれたこともあった。「おう姉ちゃんエロい格好しやがって誘ってんのか」と言ってスカートをひっぱって外そうとしたり、パンツを脱がそうとしてきたのだ。心までも(はあはあはあはあぱんつぱんつさとりさまのぱんつはあはあはあ)とわけがわかんなくなっちゃってるくらいの迫真の演技だった。

 そんなおりんの努力もむなしく、今わたしは胃液を何度も吐き出している。

 このままじゃ、あのときと同じことを繰り返す。
 また、たくさんのひとを食ってしまう。
 そう思うたびに、胃がきゅっとしぼられる。
 もう、今日はラーメンバトルの当日だというのに。こいしに負けないようにしっかりしてなきゃならないのに。はじまる前からこんなにダメージを受けててどうするんだよ。
 失敗したら、地上との戦争になるんだぞ。地霊殿だけですまないかもしれない。地獄一帯と地上の戦争になるかもしれないんだぞ。
 そう奮い立たせようとすると、逆にそのプレッシャーに押しつぶされて、さらに胃がきゅっと縮む。
 トイレにしがみつきながら、げえええええ、ともう一度吐き出した。すっぱい唾液を口のなかでかんじながら、涙があふれてきた。
 ……もういやだ。もう、何もかも。
 どうして、こんなに弱いのだろう?
 こんな調子でさ、最初はひとりで出るつもりだったんだからさ。ばかだよね。ほんとばかだよね。しんでしまったほうがいいばかだよ。あさはかで、かんがえなしの、いくじなしの、めんどくさい、どうしようもないばかだよ。
 こんこん、とドアをノックする音がした。
「さとり様ー。もう起きてますか?」
 おりんだった。いつもとちっとも変らない声だった。
 ……わたしは、プレッシャーに押しつぶされてみじめに胃液を吐いているのに。
 どうして、こんなに違うの? 昔からそうだったよ。みんなが普通にやれることが何故かやれないんだ。学校でだって、わたしは普通に歩いているはずなのに、みんなに(なんであの子ペンギンみたいに歩いてんのwww)とよく笑われた。鉄棒は一度も回れないし、リコーダーを吹けば(どうやったらあんなヘビ使いが吹いてるみたいな音色になるんだ?)と先生から不思議がられていた。
 ほかのひとは心の声なんて余計なものは聞こえないのに、わたしは聞こえてしまっていた。
 どっかのえらいひとが言ってた。みんなは生まれつき平等なんだって。
 じゃあ、なんでこんなに生まれつきハンデがあるの? わたしはなんにも悪いことしてないのに普通にできることができない。なんでなの?
「さとり様? ちょっとー寝坊してるんじゃないでしょうねー。メシ食いに行きましょうよ」
 おりんが呼んでいる。自分を奮い立たせてなんとかトイレにしがみつきながら立つ。瞬間に立ちくらみがして、ユニットバスの壁にもたれかかってしまった。便器のなかには黄色い胃液がたまっている。自分のなかから出た汚物は、すっぱくて、とてもきたない。だんだんまた気分が悪くなってきたので、目をそらして流した。
 よろよろとトイレを出て、よたつきながら歩いた。
 ドアの前で、キーを外そうとした。
 手が、動かなかった。
 みえないものが、外界に行こうとするわたしを、おさえつけている。ただ、カギを開けるだけなのに、心臓がばくばくいって、吐き気がこみあげてくる。なんだかわからない重いものがわたしをおしつぶそうとする。それはいったいなんだかわからないけど、時々わたしをしばりつけて、身動きを取れなくさせるのだ。
 わたしは、その場でへたりこんでしまう。クーラーをつけてないのに、異様な寒気がやってきて、震えが止まらない。
 もうだめだ。もうだめだ、もう、だめだ……。
「……さとり様。返事をしてください」
「ごめん。わたし、いけない」
 やっとの思いで、声が出た。
 胃液混じりの唾液が、しゃべるたびにねちゃねちゃと気持ち悪かった。
「おなか、すいてないんですか」
「一睡もしてないの」
「……」
「昨日から、数えきれないくらい吐いてる。胃のなかが空っぽになんだけど、胃液ばっか吐いてる」
「……」
「外が怖くてしょうがないの。なんだかわからないけど、すごく怖くて、ドアが開けられないの」
「……」
「あんだけ特訓とかおりんにしてくれたのにね。なんで、こんなによわっちいのかな?」
「……」
「ねえ。呆れてる? それとも、笑っちゃう? 今度こそ、この飼い主に愛想をつかす?」
「……さとり様は、もう、わかってますよね。あたいの、心」
「……」
 しばらく時間がかかったけど、やっとのことで、わたしは、ドアのロックを外した。
 ものすごい勢いですぐにドアが開いて、ねじこむようにおりんが飛び込んできた。
 びっくりした拍子に、わたしはまた床にへたりこんでしまう。
 部屋に入ってきたおりんは、わたしを見下ろした。
 手入れされてないくせっ毛はばさばさだし、目のまわりは涙でできた目やにだらけだし、口のまわりは乾いた胃液と唾液がこびりついているし、着ているパジャマの胸元も飛び散った胃液でよごれている。何度かトイレに間に合わずに床にこぼしてしまったせいでたぶん部屋中に酸っぱいにおいがするし、パジャマに着替えるだけで精一杯だったせいで上着やスカートも床に脱ぎ捨てたまんま。
 ほんとに、ひどい姿だった。
 おりんはきっと、わたしのひどい姿に呆れるだろう。そう思った。
 おりんはものすごい勢いでわたしの前に近づくと、がばり、と両手をつかんだ。すごく、力がこもっていた。
 それから、わたしのからだを見まわして……それから、心底安心したように肩を落として、ふううううううーーー、と長い溜息をついた。
「あ、あんまりびびらさないでくださいよ……すぐにドアを開けてくれないから、ほんと不安で……」
「……わたしに、幻滅しないの?」
「いや、むしろ想定してたより全然ましでした」
「……で、でも、あんなに特訓したのに……」
「あー……特訓ですか。特訓。うん」
 おりんは、遠い目をしながら、
「まあ、でも、ちょっとは精神力が鍛えられてると思いますよ実際」
「……おりん、もしかして最初からわたしが変わるなんてチリほども思ってなかった? なのにわたしにミニスカをはかせたりして」
「そ、そんなことよりも、ほらほらお風呂に入ってしゃんとしてください」
 おりんはユニットバスのドアを開けると、わたしを無理やりに押し込めた。



 あたたかいシャワーをあびたら、確かに少し気分がましになった。
 お湯に当たる腕をみる。さっきおりんに掴まれたところが、赤くなっていた。
 すごい力だった。
 ……おりんは、ほんとうに、わたしを心配していたんだ。
 わたしが、死んでしまったんじゃないかって。
 おりんの心には、前の飼い主が住み着いている。心をおしつぶされて死んでしまったひとだ。
 わたしがその影を見せてしまったから、わたしを彼女の影とあわせてしまっているのだ。
 わたしがドアの前で返事ができないままへたりこんでいたとき、おりんの心は、激しくゆらめいていた。
(さとり様。死なないで)(はやまったらだめだよ)(死んだら終わりなんだよ。ほんとうに、おわりなんだよ)
 たまに変態じみてるけど……あんなにやさしくて、強い子はいない。
 ほんとうに、かわいそうだ。わたしみたいなくずが、飼い主で。
 死ぬ死ぬって言うたびに、おりんの心がちくり、と刺激される。
 そう知りながら、やっぱり死にたくなるわたしは、ほんとうに、くずだとおもう。
 ――そうだよ。おりんが思っていたとおりだよ。わたしは、ホテルの窓から、飛び降りようと、していたんだ。
 何度も吐きながら、わたしはおもったんだ。
 どうせ生きていてもイヤなことばかり。嫌われないようにがんばってるのに嫌われて、好かれようとがんばるのにキモがられて。あげくの果てにゲーゲーきたないものを吐きちらかして、世の中を逆恨みしてめちゃくちゃにしようとしている。生きてるだけ世界にマイナスしか生み出さない生き物じゃないか、って。
 だから、世界のためにわたしは消えるべきなんだ。
 窓を開いて、窓枠に片足を乗せた。アルミのサッシがひんやりと冷たかった。
 落ちたら痛いかも、と思ったけど、勇気を出して、一,二の三でこんな苦しいのもぜんぶおしまいにできるんだから、ぜんぜんわりにあうと思った。
 
 わたしが飛び降りなかったのは、ただひとつだけの理由。

 胸のバラの花が散ってしまったこいしが、わたしにつぶやいたから。

(お姉ちゃん。約束だよ)
(お姉ちゃんが、ぼくの目になって。二度と離れないふたつの目になって)


 お湯がからだを打つ音が、わたしを現実に戻した。
「……こいし」

 ――あの夜。
 こいしを連れて屋敷に戻ったあと、疲れて眠ってしまったわたしは、『お姉ちゃん』という声で目覚めた。
 暗闇のなかで、こいしがこちらを覗き込みながら、立っていた。
 何かに憑かれたような目が、窓からもれる街灯の光に反射して、異様に光っていた。
『やっと、ぼくがどうしてここに存在するのかがわかったの』と、こいしは言った。
 わたしは、こいしがなにも衣類をつけていないことに、気付いた。
 胸にある薔薇の花が、白い肌のうえで、とても映えた。
 薔薇は、狂おしいほど、強く、匂いたった。
 わたしは、そのにおいを、不快に思った。
 このにおいのせいで、あんなことになってしまったから。
 こいしは、わたしにまくしたてた。
『ぼくとお姉ちゃんは、ふたりで無敵になるんだ』
『やっぱりぼくたちは、生まれたときから死ぬまでずっと、ずっとふたりでいる運命にあるんだ』
『お姉ちゃんは、ぼくといっしょにいて、はじめて天使様として世界に君臨するんだ』
『きれいな、とてもきれいな、ぼくだけの天使様」
 わたしは、まったく理解できなかった。
 なにを言っているの? 
 わたしは、天使なんかじゃないよ。悪魔だ。悪いやつも、正しいひとも、みんな食ってしまう、怪物だよ。
 誰も恨んではいけない。誰も嫌ってはいけない。
 そういう呪いをかけられているのが、わたしなんだよ。
 そんなものを天使呼ばわりするなんて、こいしはおかしいよ。狂っているよ。確かに悪いひとたちだったかもしれないけど……あんな、あんなにひどい光景をみて、うれしそうにしているだなんて。まちがっているよ。
 その呪いの鍵をもう、二度と開けないでよ。
 わたしを二度とあんな怪物にさせないでよ!
 しばらく、沈黙が、流れた。
 こいしは、とても、悲しんでいた。
 とても、とても、悲しんでいた。
『ぼくを、きらわないで』
『お姉ちゃんにきらわれたら、ぼくは、もう、ほんとうにひとりぼっちになってしまう』
『そうしたら、いきていけない』
『ごめんね。お姉ちゃん。だから。きらわないで』
 こいしのむきだしになった第三の目から、ぽたり、ぽたり、としずくが、落ちていた。
『お姉ちゃんが天使様を望まないのなら、ぼくは、今すぐにこの天使の「鍵」を捨てる』
『でも、約束してね』
『お姉ちゃんが、なくなったぼくの目になって』
『二度とぼくから離れない目になって』
『約束して。お姉ちゃん』
 第三の目から流れるしずくが、こいしのむきだしの白い胸に垂れ落ちる。
 すると白い肌に、あかぐろい、みみずのようなあとがくっきり残った。
 わたしは、こいしの第三の目が、真っ赤な血を流していることに気付いた。――


 あんなことをわたしが言ったせいで、こいしは、心を捨ててしまった。
 あやまっても許されることじゃない。だから、せめて、こいしがこの世界にいる限り、生きなければならない。
 それが、わたしに課せられた、約束なんだ。

 と。
 わたしは、視界に、何か不思議なものがみえて、我に返った。
 ユニットバスの入り口が、開いてる。
 そして、おりんが、隙間から、こちらを見ていた。
「さとり様。落ち着いて聞いてください」
 おりんは、こちらを凝視しながら、言った。
「さとり様があたいのまったく呼びかけに応じなかったもので、ちょっと強硬手段に出ざるをえませんでした。なので、これは別にさとり様のはだかを覗くためにしたわけではなく、さとり様の身を案じて行ったことなのです」
「……う、うん?」
「ちなみにドアはさっき閉めたときにちょっと細工をして、ロックが簡単に外せるようにしました。これもさとり様が心配だからです。では失礼しました」
 そう言いながら、おりんは、ユニットバスのドアを再び閉めた。
 あれ?
 ここ、浴場だよね? わたしは、シャワーを浴びているのであって、だから、当然はだかなのであって……
「え、えええええええっ?」
「ど、どうしたんですかさとり様っ」
「い、いや開けなくていいからっ。早く閉めてよばかあっ」
「そう言われてもそんな声をあげたら心配で」
「お、おりんのせいで上げてるんだよっ。なにふつーに開けて覗いてるのっ。ま、まじでへんたいじゃないのっ」
「さとり様だってこいし様の風呂場を毎日チェックしていたじゃないですか。さとり様はこいし様が心配なように、あたいはさとり様が心配だから風呂を覗くのです」
「……」
 こいしを監視していたのは確かなので、わたしは何も言えない。
「さとり様。こいし様のことを考えていたんでしょう」
「な、なんでわかるの?」
「ひどく後悔した顔をしてましたよ」
「……」
「後悔ってのはつらいですよね。あたいも、ずっとしていますよ。さとり様はもうわかっているんでしょう? あたいはね、前の飼い主を助けられなかった。なにもできなかった。でも、過去に縛られていると、なにもできなくなってしまいます」
「だからあたいは思うんです。後悔を、二度と繰り返さなければいいんだって」
「あたいはさとり様を死なせはしません。いつでも見守ります。だから、さとり様も、今度はうまくやるようにすればいいんです。それで、きれいさっぱり過去の失敗をチャラにしましょう」
 ほんとはおりんもわかっている。過去は、決してチャラにはならない。だけど、前に進むために、過去を乗り越えなきゃならないってことを。
 ほんとうに、おりんは、強い。
「わかりましたか」
「……うん。おりん、ありがと」
「お安い御用です。ああ、あと、死なせないって約束しましたからあたい今日はみっちりさとり様を見守らせていただきますからね。トイレや更衣室とかも全部」
「……うん?」


 *******


「いよいよですが、大丈夫ですか」
「だ、だ、だいじょうぶだよっ」
「……大丈夫じゃないんですね」
 心臓が飛び出そうなくらいドキドキしてて、もう視界がクラクラしているなかでおりんと一緒に控室で座っていると、ノックがして、白狼天狗が入ってきた。ラーメン屋でカメラマンをしていたひとだ。相変わらず今にも眠ってしまうくらいぼーっとした目をして、超だるそうに、ふらふらと入ってくる。
「あー……時間ですけど」と、やっぱりだるそうに言った。
「わ、わ、わかりましたっ」
 立ち上がろうと足を延ばした瞬間、足がうまく制御できず、その場でスリップして思い切りお尻を床に打ち付けてしまった。
「い、いだあああっ……」
「だ、大丈夫ですか、さとり様」
 そう言いながら、(うはっさとり様のスカートがめくれあがってるwww)なんて心で思ってるので、わたしはあわてて足を閉じた。おりんはちっ、と舌うちした。この猫とふたり暮らしってやばいんじゃないかな、とたまに本気で思う。
「ええと……マジで出るんですか?」
 銀色の髪をわしゃわしゃかきながら、白狼天狗がこちらを見下ろしている。やばい。何もないところで転んだりしたので「こんなダメそうなひとを出演させていいのか」と思っているのか……と思ったけど。
「……まあ、どうでもいいんすけどね。あなた、また文のやつに騙されてますよ」
 だまされてる、という単語に心臓がどきいんと反応してしまった。思わず「うわひっ」と変な声をあげてしまった。
「だ、大丈夫ですか」
「し、心臓が痛いよう……」
「……あの。ほんと、やめてもいいすよ。文のゲス野郎には体調不良って言うし。どうせあいつが困るだけですし」
 ほんとに心配してくれてるらしい。この白狼天狗、見た目はだるだるだけど、けっこう優しい。
 ということは、ほんとに文がわたしたちをだましてるってこと? く、くうう心臓が痛いい……いや、あまり考えるな! 
「だ、大丈夫です。わたしたちはどーしても出なきゃなんないんです……あそこには……生き別れた妹が……」
「なんの話なのかわかりませんが……まーそこまで言うなら、別にいいすけどね。まーテキトーに無理せずやってください」
 
 わたしたちは、へろへろ歩く白狼天狗の後ろをついていきながら、会場のなかの通路を進んでいく。
 この会場は、普段は嫉妬妖怪と鬼のプログレバンドとかもたまに演奏してたりするようなライブ会場になったり、冬には百人規模の妖怪たちがぶつかりあう雪合戦が行われたりする競技場になったりする。この通路は、そういった選手たちや、歌手とかが入場するための通路だった。
 つまり、スポットライトを浴びたりするようなひとたちが通る通路だった。
 そこをわたしが今通っているということは、つまり、わたしもそうなる、ってことだ。
 なんかもう、からだがふわふわしている。まるで綿菓子のうえを歩いているみたいだ。まっすぐ歩いているかどうかもあやしい。いや、やっぱりまっすぐじゃなかったらしい、途中からおりんが腕をわたしの腕に組んでくれて、なかば引っ張られるようにして前に進んでいく。
 暗い通路の先にある出口の光が、だんだん大きくなる。それとともに、会場の歓声も大きくなっていく。
 あわわわ……なんだか視界がぐるぐるしてきた。
「右のほうにある調理台があなたたちのですので。テキトーに待っててください」
 そう言うと、白狼天狗はわたしたちの返事も待たずにとてとてと通路を戻っていってしまった。
「じゃあさとり様。行きましょう」
「う、う、うん」
 おりんに連れられて、わたしは通路の出口の光をくぐった。
 つんざくばかりの観客の声と心の声が、ひとかたまりになって一気に耳と心に押し寄せてきた。
 そして、あっという間に……視界がブラックアウトした。



「……りさま。さとり様。聞いてますか。あと三秒無視したらチューしますよ。ほらもう三秒経った。じゃあチューしますね」
「……う? う、うわああああああっ?」
「そんなにビビんなくてもいいじゃないですか。そんなあたいとチューするのがイヤですか?」
 我に返ると、わたしは、用意された調理台の前のあたりで、おりんに支えられて立たされていた。
「また失神しないでくださいよ。猫舌のあたいは熱々のラーメンなんて味見もできないんですから」
 どうやらまわりの観客席から自分に注がれる心の声の圧力に耐え切れず、勝手にからだがシャットダウンをしてしまったらしい。いやーいかに自分が困難にぶつかると、気絶するなり寝たりして誰かが助けてくれるのを待つというやりかたで逃げてきたのがわかるってものだね。ははは。死にたい。
 だけど今回ばかりは死んだり逃げたりするわけにはいかないのだ。こいしのためにも、わたしは逃げられないのだ。
(ほう、あれが生脱ぎプレイをするチームか)
 ああ、でも。好き勝手な心の声が、またして聞こえてくる。
(テレビ観たけどえっちかったなー)(家族で見てたらいきなり生脱ぎだもんな。家族団らんの場が凍り付いたよ)(だが、そ れ が い い)
(おい生脱ぎってマジなの? あのむすっとしている猫むすめ? それとも怯えた子犬みたいなちっこいほう?)(猫むすめは新顔だな……きっといい脱ぎっぷりを見せてくれるんじゃないのか)(だがちょっと表情が硬いのが残念だなあ)(猫むすめはスタイルはバツグンだなあ。足もすらっとしている。これは脱いだときが楽しみだな)(上からすとんと寸胴のちっこいほうとはえらい違いだ)(うはーろりろりやでえ)(ちっこいほうぺろぺろ)(わたしは どっちでも 一向に かまわんッッ!)
 ……なんでみんなこんなに盛り上がってるの? 別に生脱ぎなんてちっともしたくないし、する気もない。ただ、あやに「このありえない辛さを有効利用できるやり方がありますよ」と言われて、押し切られるがままにやってしまっただけなのに。
 みんな「生脱ぎ」という単語に引っ張られて、心のなかで好き勝手にわたしのはだかを妄想している。それどころか、もっとものすごい、はしたない姿とかあられもない姿とかも妄想している。妄想されることはまあよくあることだけど(主におりんに)、これだけのひとたちに一斉にやられると、かなり精神的にくるものがあった。なんでみんなそんなにものすごいのを想像してんの? ヘンタイじゃないんだからそんな格好するわけないじゃん。ああまた頭がぐらんぐらんしてくる。だめだ。みんなの声を聞いてたら気がまた遠くなってくる。あああまずい気をそらすんだ何か考えるんだ。っていうかこの観客席の怒号に囲まれてる状態……どっかで観たような気が……そうだ、「エスケープ・フロム・LA」でカート・ラッセルがバスケをやったシーンだ! カート・ラッセルはあの意味があるのかよくわからない眼帯をつけたまま、荒くれ者どものギャラリーの怒号のなか見事シュートを決めたのだ。なんというアウトロー魂。なんという肝っ玉。
「ああ、わたしは……カート・ラッセルになりたい!」
「何アホなこと言ってるんですか。チャック・ノリス会長の開会宣言がまだ終わってないんですから。ほら、ちゃんと立ってないと目をつけられますよ」
 スペースに設置された本部テントの前にあるお立ち台の上で、ギョーザ協会の会長のおじさんが何か喋っていた。
「えええ……早くしてよー。こっちはとっととはじめてくれないとまた失神しそうなのに……」
 それにしてもあのおじさん……どこかで見たことある気がするなー。
「そうだ。あのひと昔ブルース・リーに負けて死んだもごごっ」
 おりんがわたしの口をふさいだ。
「チャック・ノリス会長の悪口なんて聞かれた日にはギョーザの具にされるっすよ」
「……え? ど、どういうひとなの?」
「裸一貫で幻想郷に流れ着き、ギョーザを武器に幻想郷一の富豪となった男です。人類最強の男ともっかのうわさです。十年前に死んだそうですが、死神が怖気づいたもんで、向こうの世界が泣いて懇願して幻想郷に移ってもらったみたいっすね。幻想郷っていつから最終処分場になったんでしょうかね」
 確かに埋め尽くされたまわりの観客席は、みんな直立不動で物音一つさせていない。ブルース・リーより弱いくせにたいしたやつだ。
 まーみんなの心の声は誰も話なんて聞いてなくて、わたしを含めた調理台の前でスタンバっている出場者たちに向けられてるんだけど……。
 会場には、わたしたちのほかに三組のチームが調理台の前で立っている。ラーメンの頂点を競うわりには少ない……いや、少なすぎるでしょ。案内には「厳選なる書類審査により選定します」とは書いてあったけど、そこでこんなに絞られるとは思わなかった。でも、送った書類にはチーム名と名前と住所と連絡先しか書いてなくて、後から「ラーメンの写真を送ってほしい」ときただけだ。あれじゃ審査のしようもないと思うんだけど……。
「書類審査って、何をしたのかな?」
「いや、これくらいしか応募しなかったんじゃないすか? 正直、あのうさんくさいチラシを見て参加を決意するひとなんてさとり様だけかと思いましたよ」
「そ、そうかな……」
 三組とも、調理員と調理補助員で二人がいた。それぞれ、赤い巫女と小鬼、緑の巫女とへんな帽子を被った子、こども吸血鬼とメイドだ。
 みんな、チャック・ノリス会長の話なんてちっとも聞いてないかんじで、フリーダムに動き回っている。
 赤い巫女は、ずっとおなかを押さえながらぺたんと地べたに座り込んでいた。
(わたしはダイオウグソクムシわたしはダイオウグソクムシわたしはダイオウグソクムシ一ヶ月くらいの絶食なんてなんてことないのなんてことない大丈夫大丈夫大丈夫ああおなかがすいた死ぬごはんごはんごはんごはんごはん)
 その隣で小鬼が、とても心配そうな顔で巫女の丸まった背中をなでている。
(れいむ……あともうちょっとでお酒以外の食べ物にありつけるからがんばるんだよ……「ラーメン大食い選手権だと思ったのになんで作るほうのよ材料なんてあるわけないもうだめ死にたいっていうか黙ってれば死ぬ死んじゃう」って錯乱してたけど、あきらめちゃダメだよ。ほら、他のチームにはラーメンがあるじゃないのさ。あれをぶんどればいいんだよ。……あの紅魔館の連中なんてお金持ちだからきっと贅沢なの置いてあるよ……だから生きることをあきらめないで……)
 ……何しにきたのこのひとたち? ここは断食芸人コンテストとかじゃないよ? 
 そんなダンゴムシ状態の巫女の隣の台にいる緑の巫女は……なぜかラジオ体操をしていた。まったく意味がわからないのだけど、ものすごくマジメな顔で「ほっ」「はっ」とずいぶんきびきびとした動きで行っている。そのわりになんだかずいぶんスカートの丈が短くてはしたないかっこうだ。みてるこっちのほうがハラハラしてきた。
 観客の注目も浴びまくりだった。
(お、おいなんかあの巫女、ラジオ体操してるだけだけどえろくないか……?)(おみあしが性的すぎるだろあれ)(しかも……なんか揺れすぎじゃね?)(も、もしかしてつ、つけるものをつけてないんじゃないのか……?)(巫女といえば目が死んでる欠食児童みたいなイメージしかなかったが……こんなに健康的なえろい巫女もいるなんて)(一体どこの神社なんだ……?)
 巫女の隣にいる、へんな帽子の子どもは、無邪気な笑顔をしながら、「お参り・お祓い・妖怪退治は守矢神社へ」の看板を掲げていた。
(あ、あれが守矢か! そしてあれは……現人神の早苗さんか!)
(うおー! 守矢サイコー! 現人神サイコー!)
 うおおおと観客たちがムダに盛り上がっている。
(どーやら盛り上がっているようですね。私も布教に貢献できてうれしいです。まー運動が苦手な私ですが、ラジオ体操だけは得意ですからね! ふふん)
(いやー早苗って信仰のためと言えばなんでもしてくれるのはいいんだけど……やっぱりちょっとズレてるよなあ。あとで早苗にこんな格好させたって神奈子っちに知れたらブッ殺されるかも。あはは、でも面白いからいいいよね。だいたいそうでもしないと飽きちゃうよ。あー抜き取った心臓の品評会とか、きれいな子の眼球を抉りとる競争大会とかになんないかなあ)
 ……へんな帽子の子は、ファンシーな見た目のわりにずいぶん物騒だった。
 あくまでも顔は無邪気な笑顔なのだから、きっと芯から物騒な子なんだろう……まじで怖い。
 その隣の吸血鬼は「むひひひ」と不敵な笑みを浮かべながら屈伸をしていた。メイドは吸血鬼の頭上を傘で覆いながら、無表情で立っている。
(ニンニクくさいギョーザは大嫌いだけど、プロレスは大好きよ! でもこの台って何だろ? お、包丁とか入ってんじゃん。なるほど……ルール無用の残虐ファイトも辞さないってわけね! くー燃えてきた!)
(……レミリア様は「ラーメンといえば超人のことよ。おっくれってるう」と得意げに仰っていたけど、まあ間違いなくいつものド勘違いね。普通に指摘すると「だから咲夜って嫌い!」って逆ギレするからな。まあ、いざとなれば無理やりにでもそういう展開にするか。あとが面倒だし)
 ……このひとたちに至っては、ラーメンが食べ物だってことも知らないらしい。どういうことなの……?
 っていうか、なんでこのひとたちみんなこんなに物騒なの? ラーメンを奪おうとしてたり他人の心臓を抉り取ること考えてたりプロレス大会をしようとしたり……ラーメンを食べるときは誰にも邪魔されず自由で救われてなきゃダメだって偉いひとも言ってたのに……。一体どうなっちゃうの? ただでさえ周りの心に押しつぶされそうなのに不安ばかりが大きくなるんだけど……やばい、吐き気だけじゃなくておしっこもしたくなってきた。トイレ行こうと思ったらおりんがマジでトイレのなかまで見張る気まんまんだったから怖くなって行くのやめたんだっけ……ううううこんなところでもらしちゃったらマジで生きていけないんだけど……。
「こいし様が、いませんね」
 尿意と戦っていると、ふいにおりんが言った。
 ……そういえばそうだった。残った調理台の最後のひとつには、誰もいない。
「こいし様がいないと出る意味なくなっちゃいますね。今から棄権しましょうか?」
「……」
 だけど、わたしには聞こえるのだ。かすかな、こいしの心の声が。
「この会場のどこかに、こいしは、いるよ」
「……そうですか。じゃあ、がんばらないといけないですね」
 そうだ。どこかでこいしが見ているのだ。しっかりするんだ、わたし。
 会場のなかの心の声を探っていると、チャック・ノリス会長の話が終わり、割れるような拍手が起こった。
「それでは! みなさんお待たせしました! 第一回ラーメンバトルをここに開催させていただきます! 本日の実況進行係をさせていただきます、射命丸文です!」
 大音量の声は、安っぽいテントから飛んできた。二人の天狗が座っていた。満面の笑みでマイクを握っているのが、スレンダーな天狗のほうだ。「あや」だった。
「いやーギョーザ協会のチャック・ノリス会長の話は相変わらず素晴らしいですね! この射命丸も途中で感動の涙を流しそうになりましたよ! どうでしたか、審査委員長の姫海棠はたてさん?」
 隣には気弱そうな目をした、やけに色の白い天狗が座っている。外出していない系の、不健康そうな白さだ。なんとなく自分と同族のにおいがした。彼女はあやの言葉にうんうんと頷きながら、微妙な笑みを浮かべていた。
(……そんな感動する話だったっけ? ギョーザとラーメンの組み合わせの妙についてだったと思うんだけど……)
 はたてという天狗は、とても妙な格好をしていた。「審査委員長」と書かれたプラカードを首からぶら下げていて、何故か椅子にロープでぐるぐる巻きにされているのだ。ロープとロープにはさまれた胸のおおきなおもちが窮屈そうにとびでてしまっている。胸はさらに細い紐がぐるっとくくりつけられていて、その紐の先につけられた「審査委員長」というプラカードが、胸の下にぶらさがっていた。本人もさっきから(……ところでわたし、なんで椅子に縛り付けられてるんだろう?)と思っている。
(で、でも、せっかくあやが用意してくれた晴れの舞台だもの。それにあやといっしょに仕事ができるだなんてこれもう滅多にないことだし……が、がんばらなきゃ)
「それにしても予選は激戦でしたねー。数千にも及ぶ参加申し込みから、書類選考で見事勝ち残ったのが五チームというわけで、まさにラーメン幻想郷一を決定するのにふさわしい決勝戦となりそうですね、はたて審査委員長!」
「……えっ? 申し込みは五チームしかなかもごごごっ」
「え? おやつのバナナを皮ごと食べたいって? しょうがないですねー」
 あやが、はたての口にバナナを突っ込んでいた。はたては暴れるけど、縛られてるのでバナナを避けられない。しばらくしてようやくあやがバナナを離すと、はたてはひいひい肩で息をしながら、
「な、なんでもないです……そ、そうです! 予選はとても激戦でした!」
(……空気読んでくださいよ。今度はちくわを入れますからね)
(ご、ごめんなさいわたしよくわかってなくて!)
「で、その審査委員長が選考したのが、残念ながら一チームは到着が遅れてるようなので、この四チームというわけですね」
 あやは、はたてにニコニコ微笑みながら尋ねている。
(え……嘘、わたし何もしてないよ……で、でも、また口につっこまれるのイヤだし……)
「え……ええと……は、はい……」
「はたてさんは知るひとぞ知る天狗界のラーメン通だそうですね。今まで様々な名店、珍奇なラーメンを今まで食べてきたとか」
(ラーメンはラーメンでもインスタントなんだけど……)
「は、は……い」
「本日は、そんなはたて審査委員長が実際に食し、その舌によって優勝が決まるわけですが、そんな重責を担うのにピッタリの方と言えましょう!」
(え……審査委員ってわたしひとりなの? 聞いてないんだけど……)
「しかしさすが幾多のラーメンを食してきただけあって、なかなか変り種ラーメンを出すチームを選考してきたようですね! ちょっと変わりすぎているのでぱっと見ではおいしそうに見えませんけど、そんな審査委員長が選んだものですから実は美味しかったりするのでしょう! それでは簡単に四チームの紹介をいたしましょう。スクリーンには選考にて提出されたラーメンが映し出されます。ただネタバレも含んでますから、一瞬しか映しません。まずは博麗神社チームです!」
 バックボードのでかいスクリーンにそれが映った瞬間、「ひいいいいいっ?」と悲鳴が上がった。
「な、何これええええええっ? お、おかしいよこんなのおおおっ」
 はたてだった。
「それ」は一瞬しか映らなかった。だけど、観客席をシーンとさせるには、十分だった。
 どうみてもラーメンじゃなかった。はっきりいうと、さらったドブをどんぶりにブチこんだだけにしかみえなかった。
「この博麗ラーメンは『自然』にこだわり、神社の境内にある素材のみを厳選して使用したとのことです。博麗神社の土と草をベースにしたスープ、具材には博麗神社の石、そしてメンは無し! いやあ独創性溢れるラーメンですね。い、いやー審査委員長も、今からどんな味がするのか楽しみではないでしょうか」
「た、食べられるわけないじゃんこんなのっ。し、し、死んじゃうよっ」
「な、なーに言ってるんですかあなたが審査したんでしょうが」
「だ、だ、だって、あやがそう言えってもごごっ」
 あやが恵方巻をはたての口に突っ込んでいた。
「あ、あーっと、はたて審査委員長はどうやらラーメンライス派のようですね!」
「もごごごごっ?」
(はたて……ホントあなたには申し訳ないと思ってる……で、でも私の立場ってもんがあるの。この大会が盛り上がらなかったらチャック・ノリス会長に目をつけられてギョーザの具にされてしまうの。だ、だから、ホント悪いけど私のために死んで! ゴメン、供養はちゃんとするからね!)
 マジでひどかった。あやは自分の責任逃れのためにはたてを犠牲にしようとしているのだ。おりんの言ってたとおり、あやは鬼だ。悪魔だった。あああああなんでこんなひとに引っかかってしまったんだろう? でももう今さら引き返せない。ううううううなんでわたしはこんなにばかなんだろう泣きたい吐きたい死にたい。
「で、では続きまして守矢神社チームです! こちらもなかなか独創的なラーメンのようですね。常識に囚われないラーメンということで、で、では、スクリーンにちょっと映しましょう!」
 スクリーンにラーメンが映ったとたん、「うえええええっ」と悲鳴があがった。恵方巻を吐き出したはたてだった。
「む、虫が! 虫が! ドンブリのうえにいっぱいのってるうううううっ! い、いやああああああっ!」
 ……おそろしいラーメンだった。黒いスープの上にたくさんの昆虫がプカプカ浮いているさまは、まじでグロかった。さっきのあからさまなドブと違ってなまじっかラーメンっぽいだけえげつなさが増しているようにみえた。
「え、えーと、どうやら東風谷早苗さんが実家の原産品を取り寄せて作ったとのことで……メンはソバ粉百パーセントでとってもヘルシー! スープはソバ粉にぴったりのそばつゆを使用しているとのことです! ま、まさにラーメン界の常識外れ!」
「いや、ソバだろそれ」とおりんが冷静にツッコんだ。
「そして隠し味として良質なタンパク質たっぷりの昆虫のフルコース! ザザムシ、カイコ、ハチノコ、イナゴ、セミ、タガメが入ってるとのことで……い、いやー、すごいラーメンですねー」
「全然隠れてないじゃん。っていうかもはやラーメンじゃないっすね。虫ソバですよ。赤いほうも緑のほうも巫女って人種は頭がおかしいんでしょうかね」
 かわいそうに、はたてという天狗は「あうううううっ、ああうううううっ」とガチ泣きしている。
(む、虫はイヤなの、虫だけは……虫だけはホントやめてよお……ほんともうダメなんだから……あんなの口に入れるならもういっそころしてよお……)
「え、えーと、はたて審査委員長も感涙で言葉も出ないようです……つ、次は……えー、チーム紅魔館の、えー、キャメルクラッチ、だ、そうです」
 スクリーンには、吸血鬼が中国服のひとにキャメルクラッチをしている写真が流れた。
 観客席は、水を打ったように静まり返っていた。
 あやが、無理やり笑顔を作りながら、
「う、うーん、こ、これはラーメンじゃなくてラーメンマンだろっ! っていうツッコミを待っているわけですねっ。い、いやーさすが紅魔館、オチャメですねー」
 あやの声が、静かな会場に、むなしく響いた。
 いたたまれない空気が、流れた。
「あははははははっ」と突然はたてが笑い始めた。目が完全にレイプ目になっちゃってる。
「も、もーどうでもいいよお……わたしが悪いんだから……引きこもり天狗のくせに審査委員長だなんて聞いて夢見てノコノコやってきちゃったわたしが悪いんだから……あはははは……う、ううううううっ」
「し、審査委員長、は、どうやらうれしさのあまり錯乱状態に陥っているようで……も、もみもみっ、審査委員長はお疲れのようだから一休みさせてあげなさいっ」
「も、もーいーよ! 残りあと一チームでしょ! もうどんだけひどいのか見届けてやるから!」
「は、はい。で、では、お次のチームです……地底の国からやってきたナゾのラーメン屋、地霊殿です。え、えーと、失神するほど刺激的なラーメンと店長の生脱ぎプレイで話題となったラーメン界の期待の新星です! その刺激的なパフォーマンスに期待です!」
 だからそういうアオリをやめてよ! まじこのひと外道だよ!
 うう……またしてもやらしい心がいっせいにやってきた。せっかくラーメンとか緑の巫女のパフォーマンスでまぎれたのに。ついでにおりんまで表情一つ変えないまま(さとり様の生脱ぎか……くそーさっき風呂場でもっとがばっと開けてみればよかったなあ。湯気と角度でかんじんなところがみれなかったんだよな)とシャワーを浴びてるわたしを想像している。わたしを助けるどころかいっしょになって追い詰めようとしてるよこのペット……。
 わたしに期待しないでほしいのに。期待を裏切って嫌われるのが怖くて、期待にこたえれば友だちになれるなんてことが勘違いだと知りながら、いやだいやだと言いながらやってしまう自分がほんとうに嫌なのに。そんなにわたしを追い詰めないでよ。追い詰めると、わたしはキレてしまう。またあの力が勝手に発動してしまう。
 スクリーンに映し出された瞬間、「ああああああーっ」という声が上がった。思わず耳を塞いでしまう。そんなことしても意味が無いのに。なんかもういやな予感しかしない。きっとわたしのラーメンが赤すぎるんで驚いているとかだろう。あの虫ソバやドブと同じレベルだと思われると泣きたくなる。ちょっと辛いだけなのに……。
「こ、これは、あの地霊ラーメンだーっ!」
 はたては、目をキラキラさせていた。
「……し、知ってるのですか、はたて?」
「知ってるよ! わたし好きだったんだよ、このインスタントラーメン!」
 ……えっ?
 確かにちょっと前にインスタントラーメンを売り出したことがある。ただ、ちっとも売れなかったり余ったものを配ったら危うく勇儀たちと戦争になりかけたりと散々な思い出しかない。まあわたしの思い出なんてさんざんだったりトホホなものしかないんだけど……。まあそれはそうとして、まさか地霊ラーメンを、好きだって言ってくれるひとがいただなんて!
 っていうかですよ、これはやっぱりアレじゃないのかな。地下ではウケなかったのはたまたまだったんじゃなかろうか。地上で売れなかったのはたまたまというか、宣伝も無いしパッケージが我ながらちょっとひどかったりしたからで。地上では生脱ぎとかさせられたけど、なんだかんだとお客さんは入っていたしね。うおーなんかいきなり元気でてきましたよ! これからは正義の美少女さとりんがガンガンラーメンを打ちまくっちゃいますからねー!
「こ、こりゃ意外な展開ですねー。いやー」
 おりんは目を丸くしている。
「な、なーに言ってるの。たまたまおりんたちにはウケが良くなかったけど、わかるひとにはわかるんだってばー」
「そ、そう……でしょうか」
 なんでまだ半信半疑なの。この猫そんなにわたしのラーメンが嫌いか。ああ、嫌いなんだよね。うん……知ってるから。わたし心読めるしね……。
 どよーんとしてきていると、はたてが「いやーうれしーな」とほんとうにうれしそうに言った。
「いつの間にか無くなっちゃったんだよね。またこんなところで食べられるだなんて感激だよー」
 うおおおおっ! うおおおおおっ! はたてさん大好き!
「ほらほら! 感激なんて言ってるじゃん! ほらほら!」
「わ、わかりました。わかりましたから引っ張んないでください。それあたいの尻尾ですから」
「もう決まりだよ! わたしが審査委員長なんでしょ? じゃーもう決めちゃう!」
 はたてさんは縛られながら身を乗り出した。

「地霊ラーメンが優勝ね! だからはやく食べさせてよー!」

(……え?)という心のつぶやきが、一斉にもれた。

(や、やる前から決まっちゃうの……? そ、そしたらごはんうばえないよ……れいむがしんじゃう……)
(わたしはダイオウグソクムシわたしはダイオウグソクムシ)
(あれ? せっかくごちそうを用意しておいたのに……ラジオ体操しただけじゃ少しつまらないですねー)
(うーんつまんないことしてくれるなー。もっともっと血しぶき飛ぶように盛り上げてやろうっておもってんのにさ)
(ちょ、ちょっと待ってよ! 戦う前からどーして勝敗を言ってしまうのよっ! そりゃーブックがあるとしてもさー、最初に観客にバラしちゃ意味ないじゃないの!)
(……まずい、レミリア様が不満げだ。このまま帰ってしまうと紅魔館で超人王位争奪戦を開催しかねない……。テキトーに暴れていただかないと)
 みんながはたてさんに一斉に負の感情を吐き出している。こ、怖い。はたてさんってトラブルを起こす天才なんじゃないだろうか。
 なにより一番ものすごいのは、あやだった。寒中水泳したあと野ざらしにさせられたように全身ブルブル震わせながら、「ほかの組ってラーメンですらないしねー」とのんきに言ってるはたてに殺気じみた目を向けている。
(……な、なに言ってるのこの子……やる前から優勝を決めちゃうだなんて大会ブチ壊しじゃないの……こ、こんなんナシやろ。反則やろ。チャック・ノリス会長のメンツ丸つぶしやないけ……あわわわ会長がこっちを見ている……あの目……私をギョーザの具としか見ていないような目……トリ肉としか思ってないような目っ……! ひ、ひいいいっ殺される……ギョーザにされちゃう……ど、どうすれば……この窮地、いかにして脱すればいい……? こ、こうなったらはたてを錯乱したとして審査委員長をこの場で解任するか……だ、だがそうした場合、誰があれを食べるっていうんだ? あ、もみもみ! もみもみにお願いすれば……! い、いや無理だ、もみもみってば私をいつも冷たい目で見てるし。早く死ねばいいのにこのクズとかぜったい思ってるし。っていうか言ってるし。じゃ、じゃあ、私? た、食べるの、アレを? 私も虫嫌いだし辛いのもダメなのよ? 死ぬ、三回死んじゃう。で、でもこのままじゃギョーザの具……ど、どうして神様こんなことにっ……私が何か悪いことでもしたって言うのお……いや確かにしましたけど、でも……こんのってないよお……あんまりだよお……)
「ちょっと待ったーっ!」
 突然、競技場に掲げられた大スクリーンの上から、声が飛んできた。
 いっせいにみんなが見上げると、そこには黒いマントを羽織り、顔を般若の面を被ったひとが、腕組みをして立っていた。右手にやたらごつい金属製の棒をつけて、両足にも人工の構造物をくっつけている。
「皆の衆、これは仕組まれた罠だ! 我は聞いてるぞ!」
 そう叫ぶと、「とおっ」とジャンプした。黒いマントをばたばたさせながら落ちてくると、そのまま勢いのまま地面に着地しようとして失敗して前につんのめった。「うわああああっ?」と叫びながら地面をごろごろと転がっていく。
 ようやく止まると、息も絶え絶えになりながら立ち上がった。全身擦り傷だらけで超痛そうだった。
 般若の面のひとは落ち着いたようだけど、なかなか喋らない。会場は、シーンとしたままだった。
「……ねえ。誰も『お前は誰だ!』とか言ってくんないの?」と、般若のひとが言った。
「ていうかおくうだろ?」とおりんが言った。「何やってんだよ。妙なもん手足にくっつけてさ」
「な、なんでこの私を知ってるのー?」と般若の面が驚いた。わたしも驚いた。おりんってなんでおくうってすぐにわかったの? っていうか心を読めるのにおくうって分からなかったわたしってどうなの……?
「……そうか。おくうってトリ頭だから三日会わないと顔を忘れるんだっけな」
「えー……うーん、まあとにかく『お前は誰だ?』って言ってよ」
「……あんた誰?」
「貴様のようなヤツに名乗る名前は、無い!」
「…………」
「だが、仮の名前を教えてやろう。ひとつ、カラスの世の温泉卵をすすり、ふたつ、うー、ふ、フラフラな……なんだっけ、うー、ま、満漢全席、みっつ、うーんと、醜い浮き輪のワニを、退治してくれよう!」
 そう叫ぶと、ばあっと般若の面を外した。長い黒髪に凛々しい瞳、きりっとした口元という、正統派美少女顔があらわれた。
「とあっ」と叫ぶと、左手を腰に当てて、右手をジャキーンとまわした。
「我は太陽の子、おくう! 太陽にかわって成敗いたす!」
(……普通に名乗ったし)と、みんなが思った。
 とにかく……この残念美少女は、間違いなくわたしのペットのおくうだった。
 でも、あの手足はどうしたんだろう。あんなごついアクセサリーなんて、おりんのおばあちゃんっぽい服と同じくらいダサい。おくうはもとから手足がすらっと長くてかっこかわいいのに。ああ、地上に行ってる間に悪い友達に影響されて不良になってしまったのかもしれない……。
「あれ? あの子って……神奈子様が力を与えた……」
 緑の巫女が驚いた顔で言った。そこで、あ、と口をつぐむと、隣の不思議帽子少女に耳打ちした。
(あれ、前に神奈子様が力を与えたカラスさんじゃないですか。どっかに行ったとおもったらこんなところに)
(みたいだねー)
(……諏訪子様。ずいぶんうれしそうですね)
(神奈子っち、あいつにずいぶん危険な力を与えていたからねー。これはおもしろくなりそうだよ)
 ……ちょっと待って。あのひとたち、わたしのペットに何をしたの? あの変な棒とかってアクセじゃなくて仮面ライダーみたいに人体改造とかされちゃったってわけなの? う、嘘でしょ……あれじゃ、ブルース・リーに鏡の間でボコボコにやられた弱そうな悪の首領のおじさんみたいじゃん。ああいう義手を使うのは必ず悪役なんだって教えておけばよかった……腕が取れちゃったら残った腕をパワーアップさせるという発想が正義の味方なのに!
「い、今からでも遅くないから、火ばちに手を突っ込んで神経を焼き切って、一か月間薬漬けにして正義の鉄拳を身につけるように言わないと……」
「……あいつらがおくうをたぶらかした奴らなんですね」
 おりんは、わたしの顔をみながら、そう言った。さっきの巫女の言葉と、わたしの表情で察したらしい。ほんとうに、おりんはなんでもすぐに気付く。
(きっと「これで君もヒーローになれる」とか言われてついていっちゃったんだろう。おくうはずっと正義のヒーローに憧れていたから)
「……おくう、これで気は済んだかい。じゃあ、帰ろうか」
「ち、ちがーう! 我はお前たちの不正を暴きに来たんだぞ!」
 おくうが、わたしたちを指差して、そう叫んだ。
「……はあ? あたいたちが不正? 何言ってるのさ」
「全部聞いたぞ! この大会に出場しているのがこんなひどいチームしかいなかったり、審査委員長がお前たちを知っていたりするのは、事前にお前たちが工作をした結果だと!」
「……は?」
 いっせいに、みんなの心がざわめいた。
 何より速かったのが、あやだった。
(き、きたっ……きたっ……神様がくれた圧倒的抜け道っ……救いの蜘蛛の糸がっ……!)
 ゲス笑顔に封をし、さも悲しげな顔を作ると、あやは叫んだ。
「な、なんということでしょうかーっ! まさかこの大会自体が仕組まれていたものだったとはっ……この射命丸文の目をもってしても見抜けませんでした……。思い返してみればあの地霊ラーメンの店主は過去にテレビ番組内でおかしなトラブルを発生させてもいます。これはやはり悪の組織たる何らかの陰謀的パワーによってでしょう!」
「え? え? 地霊ラーメンが不正って、なにもごごごっ」
 あやがはたてさんの口にちくわをつっこんだ。
「おのれ、お前も何も知らぬような顔して不正に加担していたのだろう!」
「も、もごごごおおっ?」
(不正だって?)(あの生脱ぎチームが不正?)(最初っから仕組んでいたんだってさ)(ひどいチームしかなかったのはそういうわけか……)(かわいい顔して汚いやつらだぜ)(そういえばあの番組もせっかくの生脱ぎで盛り上がってきたのに途中で放送事故みたいになっちゃって結局見えずじまいだったし)(あれも最初から大事な部分までは見せないための作戦だったのかよ……ちくしょう俺らの期待で膨らんだソウルを返してくれよ!)
 まわりから、いっせいにわたしへの敵意が襲い掛かってきた。
 ちょ、ちょっと待ってよ。わたしたちは何もしてないよ? なんでそんな簡単に信じるのさ。
 ほかのチームのひとは、もっと冷静のはずだ……。
(なんだかわからないけど、あいつをたおせばラーメンの具が手にはいる……)
(ごはんごはんごはんごはんごはんごはん)
(あれ、諏訪子様、これって異変なんですか? わかりました……じゃあ、戦闘モードですね! この早苗、がんばります!)
(あはは、そうだよ早苗。これは異変なんだ。平穏をブチ壊す魔法の時間だよ。正しいもの、決まりきったものをぶち壊す素敵なひとときがやってきたんだ)
(おおおっ? そ、そうか……最初からこういう筋書だったのね! いやーびびっちゃった。じゃあ、あとはあの悪役をブッ倒すだけね!)
(……不正をした、ってまったく根拠が無いんだけどいいのかしら……まあ、でもちょうどいいわね。レミリア様の発散相手になってもらいましょうか)
「なんだかわからないけど……ころす」と鬼が虚ろな目で言った。
「……ごはん……」と赤い巫女がつぶやいている。
「不正は絶対に許さなえ!」と緑の巫女がお祓い棒をバシッとこちらに向ける。
「悪党成敗も守矢神社は承ります」と書かれた看板を変わった帽子の子が掲げている。
「ルール無用の残虐超人め! 正義超人の鉄槌を受けよ!」と吸血鬼がこちらを指差している。
「……悪いけどね、ちょっと痛い目にあってもらうわ」とメイドが鋭い目をこちらに向けた。

 いっせいに、敵意がわたしの心に突き刺さってきて、わたしは、息が詰まった。
 心のキャパをたちまちオーバーし、わたしは立っていられずに、へたりこんでしまう。
 頭がぐわんぐわん揺れて、ひどい吐き気がやってくる。耳をおさえても、悪意の声はぐさぐさと心に刺さる。
(へたりこんでしまったぞ)
(不正がバレて動揺しているんだな)
 違う。そうじゃない。わたしたちは何もしていない。でも、呼吸がうまくできなくて、声がまるで出ない。汗がにじみ出る。これじゃ、ほんとうにバレて動揺してるみたいじゃないか。落ち着け。落ち着かないと。だけど平静を保とうと焦れば焦るほど平静でなくなっていく。
「おいおいあんたら、こんな痛い子のたわごとを素直に信じるってのかい?」
 さすがだった。おりんは、あくまで落ち着いていた。
「おくうもさー、誰に吹き込まれたか知らないけど、ただの伝聞をそのまま信じて不正とか騒ぎ立てるのは感心しないね」
「な、なんだと? おまえ、悪いやつのくせになにを」
「『おまえ』だとーっ?」
 おりんにぎろりと睨みつけられて、おくうが「うひいっ」と怯えた声で鳴いた。
「おくう、おみゃーはいつからあたいのことを『おまえ』だなんて言うよーになったんだよ?」
 つかつかとおりんがおくうに近づいてくる。
「え、え?」
 おりんの怖い吊り目をみて、おくうは何かを思い出しかけているらしい。
(あれ? この顔、この声、どこかで聞いたような気が……)
 だけどおくうが思い出す前に、その顔面めがけておりんの必殺トルネード猫パンチが炸裂した。
 手首のスナップをきかせてトルネード気味にねじってくるやつで、当たった瞬間のほっぺがねじられる感がものすごいやつだ。わたしもよく食らってるからあの痛さはよくわかる。
 うわあああんと鳴きながら、おくうはへたりこんでしまった。殴られたほっぺを手でおさえながら、もう涙目になっている。
「い、いたい……いたいよう……」
「どーだ! これ以上そんな他人行儀にするようだったらおくうの恥ずかしい秘密をぶちまけるからね! その年になって夜中ひとりでトイレに行けないだとか、たまにおねしょしちゃうんだとか」
「ぎゃああああやめてやめてりんちゃんそれ以上やめてっ」
 おくうはあわてておりんを止めようと立ち上がって、そこで、自分の発した言葉に気付いた。
「……りんちゃん? りんちゃんなの?」
 そのあと、わたしのほうを見て、
「あれ……そっちでマルムシみたいにうずくまってるのはさとり様?」
「そーだよアホ。誰にのせられたか知らないけど、あんたのせいでとんでもないことになってんだよ」
「あれ? うちが悪いやつだって思っていたのは、りんちゃんちだったの? ……ええと、もしかして、りんちゃんちって悪いひとたちだったの?」
「……あんたもう一度ぶたれたいのか?」
「ご、ごめん! ええと、じゃあ……どういうこと?」
 おりんは思わずズッコけそうになった。
「おくうがガセつかまされたってことだろーが。誰だよ、あんたにデタラメ吹いたのは」
「ええと……誰だったっけな……」
「……あんたマジで頭大丈夫か? 改造されてさらに頭が弱くなってないか?」
「ねえ、どういうことなのー?」
 待ちきれなくなった吸血鬼が、不満げな声をあげた。
「ちょっとくらい台本にズレがあってもアドリブでなんとかしなよ! それがプロレス魂ってもんでしょ?」
(……何を言ってるんだこの吸血鬼は)と、おりんは困惑した顔を浮かべていた。
「あ、ええとええと、ごめん!」
 おくうは、両手をあわせて頭をペコペコ下げている。
「ウチが間違ってました! さっき言ったことナシね!」
 みんな口をポカーンと開けていた。
「……はあ?」と、みんながいっせいに呆けた声をあげた。
(……ここまで言っておきながら間違いだって?)(いったいこの子何しに来たの……?)
 誤解が解けそうなのはいいんだけど……なんだか自分のペットなのが恥ずかしくなってくる。
(ば、バカなこと言ってんじゃねー!)
 あやがおもいきりツッコんだ。
(い、陰謀が結局ウソだなんてことになったら……この大会の不始末の責任が結局私になるじゃねーかよ! このままじゃ私はギョーザの具にされちゃうんだよ!)
(こ、こうなったら、もう何がなんでも陰謀があるってことでやるしかない……!)
「え、ええと……あ、新たな情報が入りました!」とあやが叫んだ。
「ど、どうやら……あのカラスは陰謀を働く組織にマインドコントロールをされていたようです! カラスの正義の心がマインドコントロールを打ち破り、カラスは組織を弾劾するべくやってきたようですが、やつらと対峙したことによって再びマインドコントロールの餌食に……な、なんたる非道! やつらを決して許してはならない!」
 ……もう何がなんだかさっぱりわからない。
「……はあ? あの天狗ついに頭がパーンしたのか? そんなたわごと誰が信じるんだよ」
「諏訪子は天狗の言葉を信じるね」
 邪悪な心を持つ不思議帽子の金髪少女が、にこにこ笑いながら言った。
「……諏訪子様?」と緑の巫女が不審げに言った。
(天狗が言うことがデタラメだって知っておられるはずなのに。諏訪子様は何を)
「……なんだと?」
 おりんが、少女をにらみつけた。
「てめーらがおくうをさらって改造したんだろ? おくうのことよく知ってんじゃねーか。わけのわかんねーこと言ってんじゃねーぞ」
 図星をつかれた緑の巫女が、うぐ、と口をつぐむ。
 諏訪子という不思議帽子の少女は、あはは、と笑っている。
「さらった、って、ひと聞きの悪いことを言うなー。その子はね。力を欲しがっていたのさ。誰よりも強くなって、ヒーローになりたかったんだ。神奈子っちは、それを叶えてやっただけ。逆に感謝してもらわないとね」
(……やれやれ。早苗って真面目なことはいいんだけどねー。すぐに顔に出る、ってのは治させないとなあ。みんなは戦犯顔をしてるやつが戦犯だって決めつけるもんなんだ。あんな顔してちゃー私が悪いですごめんなさい、って白状しているようなもんだよ)
(……まるでおくうを、ヒーローになりたかっているただのバカみたいに言いやがって)
 おりんは、ぎゅっ、と拳を固く握った。
(確かにおくうのやつは戦隊ものとか時代劇とかが好きで、さとり様とよく観ていたよ。だけど、それは単純に力を求めてじゃない。ヒーローになって、さとり様を笑顔にしたかったんだ。あいつはさとり様がいつものようにヘコんで泣いたり死にたいとか言うたびに、『桃太郎侍みたいなヒーローになれば、さとり様を悩ますものもバッサバッサと解決できるのかな』と言ってたんだ。ああそうさ、そんなに世の中は単純じゃない。現実には悩みや苦しみをバッサバッサ斬ってくれる桃太郎侍なんてどこにもいない。そんなこともわからないおくうは、バカだよ。だけどあいつは、ほんとうに、ほんとうに、やさしいやつなんだ)
(こいつらは、そんなおくうのやさしさにつけこんでだましやがった悪党だ!)
「じゃー、おくうがどういうやつか知ってるだろーが! なんで天狗のデタラメを信じるって言うんだよ!」
「あー、ぶっちゃけて言うよ。不正をしたとかしてないとかは、もう関係ないんだよ。問題なのはさ、キミたちをブチのめすことをみんなが望んでいるってことさ。キミたちが悪いとはいわない。まあ強いていえば、タイミングが悪かったってことだね」
「ちょ、ちょっと諏訪子様。それはあまりに」
 諏訪子という邪悪なこどもは、早苗という巫女の言葉を手で遮ると、早苗のほうを向いた。
「ぶっちゃけたほうが話が早いじゃん? みんながみんなあの子たちがいなくなったほうがいい、って思ってるのはきっとホントのことなんだからさ」
 ……確かだった。わたしたちは、確かに、いなくなったほうがいい、と思われていた。
 わたしたちがいると、大会がぶちこわしになる。
 わたしたちがいると、おもしろくなくなる。
 わたしたちがいると、盛り上がらなくなる。
「それにね。正義とか悪とかを決めるのは当事者同士じゃないんだよ。第三者……つまり、今なら観客席の方々が決めるのさ。早苗もちゃんと覚えておいてね」
「……は、はい」
(まずい……諏訪子様の目が据わってきている。こうなると、私の話なんて全然聞かなくなってしまうんですよね……困ったものです)
「つまり大切なのは真実じゃなくて外面(そとづら)ってことかい。ずいぶん高尚な発想だよ」
「だって、心のなかは誰にもみれないんだよ。そりゃ、外見から判断するさ」
 おりんは、その言葉を聞いて、にやり、と笑う。
「もし、さとり様がその心を読める、と言ったら?」
 諏訪子が、はじめて真顔になった。
 その、薄い氷が張り付いているような冷たい目が、こちらを、じっと見下ろしている。
(……あの挙動不審の弱っちそうな妖怪が、心を読む、だって? 真実か、それとも……騙しているのか?)
(いや……待てよ。そんな妖怪がいるって聞いたことがある)(名前は……そう。さとり)(……まさか。真実の方か)
「おみゃーらの汚い心もすべてさとり様はお見通しなんだよ! 座して沙汰を待ちやがれってんだい!」
 諏訪子は、しばらく真顔でいた後……再び、口元をゆがめた。
「……ふふふ、こりゃ、よっぽどただじゃ見逃せなくなっちゃったね」
 ひどく酷薄そうな笑みで、そう言った。
「教えてくれてありがと。おかげで、バレる前に『処理』できそうだよ」
 予想外の言葉に、おりんは、絶句した。
(くそ、なにやってるんだあたいは。あいつがそんなことで怯む奴じゃないって、どうして気づかなかった?)
「悪いけど、そこのさとり様には痛い目を味わってもらうしかないよねえ。誰かに吹聴されて守矢の名前を汚されると、神奈子っちが泣いちゃうからね。だから、その名前を言うこともできないほどのトラウマを植え付けないとな」
「て、てめー! さとり様に指一本触れてみろ! マジでぶっさらうからな!」
 おりんは諏訪子を睨みつけた。完全に虎の顔だった。おりんは、本気で怒っていた。
「うーん。怖いねー」と、諏訪子はにぱっと笑顔で言った。
「でもさ。ケンカは、怒ったほうが負けなんだよ。怒れば怒るほどキミが今びびってるのがよおくわかるよ。うふふ」
「て、てめえっ……」」
 おりんは、そこで舌打ちする。
(……あいつの言うとおりだ。熱くなってどうするんだ。あいつが何者なのか知らないけど、見た目通りのただの子どもじゃないんだぞ)
(だけど、だけど我慢できるわけねーだろが)(さとり様を……さとり様を傷つけるなんて……絶対にゆるせない)
「おりん! あいつがほんとうに悪いやつなんだね!」
 おくうが、おりんの前に飛び出してきた。
「おくう……あんたは下がってていい。あいつは、まじでヤバいやつだ」
 おくうは、にっこり笑う。
「さっきは忘れちゃってごめんね。ウチってバカだからさ、昔っからほんといつもおりんに迷惑ばっかりかけてばかりだったよね。でも、ウチは強くなったんだ。誰よりも強くなったんだよ。悪いやつらをやっつけてみんなを笑顔にするヒーローになったんだよ。だから。任せてよ」
 そう言って、右手の義手を諏訪子に向けた。
「す、諏訪子様! まずいですよ、あいつは核を操れ」
 諏訪子は早苗を手ではらいのけた。早苗はその力の強さに、ちょっと驚いたようだった。
(これ以上邪魔をするなよ)
 その目の鋭さに、早苗は口をつぐんだ。
(……す、すみません)
(ケンカの邪魔されるとちょっとイラつくんだ。ごめんねー。かわりにケンカの仕方ってのを教えてあげるからさ)
 そして、おくうに再び向き、にっこりと笑う。黙っていれば、幼い子供そのものの笑顔。恐ろしく邪悪な、無邪気な笑顔だった。
「それは、本気? 本気で私をやるつもりなの?」
 その笑顔が、どす黒いものに変わる。
「だったら、全力でやってきなよ。じゃないと、後悔するよ。二度目の機会は。与えないからね」
 おくうは、その顔に、一瞬怖気づいた。
(こいつ。何者か知らないけど。やばいやつだ)(本当に全開で飛ばさないと。やられる)
「うおおおおおおーーーっ!」
 おくうは叫ぶと、左手をまっすぐ伸ばし、天を指差した。すると、手の先からまばゆいばかりの輝きが生まれた。その輝きは瞬く間に増し、まるでもうひとつの太陽がおくうの手の先に誕生したかのように膨らんでいく。
「うおっまぶしっ」と吸血鬼が慌ててメイドの後ろに引っ込んだ。メイドも傘を盾にしている。
(……すさまじい熱だ。まるで、本当に太陽ができたような……)
 おりんは、おくうが放つものが、想像以上にとてつもない力だとすぐに察知している。
(おくう、なんだ、それは? あんたは、何をしようとしているんだ? まさか本当にあいつを吹き飛ばすほどの力を――)
「おくうちょ、ちょっと待って。なんだその力――」
「いやーすごい力だね。だから、その力をあげた神奈子っちにちゃんと感謝しなよ?」
 諏訪子の言葉に、おくうはあっけにとられた。すぐにその目が、怒りで鋭く光った。
(なんだあのバカにした態度はー!)(もー怒ったぞ! おもいきりやっつけてやる!)
「もーどーなっても知らないよーっ!」
 おくうが、指先を諏訪子に向けた。
 もうひとつの太陽が解き放たれ、まっすぐ諏訪子に向かって飛んでいった。
 諏訪子は呆気にとられている隣の早苗を、思い切り横に突き飛ばした。「ひゃんっ」と早苗は叫んで横にすっ飛んで地面に転がる。
 諏訪子は、迫ってくる擬似太陽を見ながら、笑っていた。
(確かに普通の妖怪や人間なら一瞬で消し飛ぶくらいのエネルギーだね)(いやあおもしろい。おもしろいよ。ふふふふふ)
 諏訪子の独特な帽子から、どろどろした粘液状のものが垂れ落ちる。そのゲル状のものは地面に落ちると、彼女の足に絡みついてよじ登っていき、たちまち諏訪子の身体の前面に黒い壁としてそびえたった。
 光球はその壁に激突する瞬間、「まるで自ら壁を避けるように」、軌道を上向かせた。
 そして、そのまま観客席に影を作りながらその頭上を通過して、競技場の外まですっ飛んでいった。
 しばらくして、地響きとともに、爆発音が聞こえてきた。
 爆発音がした方向が、まるで日の出のように明るくなっている。
「な、なんで……曲がったの?」
 おくうは、まるでわからない、といった表情だった。
「自然の流れには逆らえない、って聞いたことない?」
 諏訪子は、笑顔のまま、そう言った。ゼリー状のものは、まるで猫みたいに彼女の足元にたまり、からみついている。
「自然はこの世界そのものなんだよ。だからその自然を統べるものはね。王って言われるのさ」
「……あんたがその王だって言うのか」とおりんが言った。
「正確には、『神』だけどね。まあ今は私のことはどーでもいいじゃん。この、まわりのざわつきよう。何が起こってるのか。キミはカンがいいみたいだから、わかっているよね」
 ……まわりの心の声は、おくうが発した力でもちきりだった。
(おい……なんだよ。すげえのぶっぱなしたぞ)
(ていうか、やばくね? シャレになってなくね?)
(ケロたんがいなかったら俺らガチで死亡wwww)
(あのおかしなマント女、かわいいけどマジキチだな)(あの女も生脱ぎチームの一派だったみたいだしな。やっぱりあいつらヤバいよ)
(やっぱり時代は守矢でござるな)(ケロたん愛してる)(生脱ぎチームに正義の鉄槌を下してくだしあ)
 おりんの狭い額から、汗が玉になって、にじみでていた。
 心の声が聞こえなくても、周囲の感情を、肌で感じ取っているのだ。
「そう。みんなが証人になってくれたよ。これで誰がどう見ても正義はこちらってわけさ☆」
 諏訪子の笑みが、残忍に歪んだ。
「これで。ちょっとくらい怖いものを見せても、みんなは正義のためだって許してくれるってわけだ。ほんと正義って楽しいよねえ」
「……」
 おりんは後ずさる。完全に、目の前の金髪少女にのまれていた。
「教えてあげるね。この世界にはね。残酷だけど、いくら肉体を改造しようとも、心を鍛えようとも、生まれつき、絶対に超えられない壁、ってやつがあるってことをさ」
 諏訪子の足元で這いつくばっているものは、コールタールのようにどろどろとうごめきはじめた。その表面はぶつぶつのイボがびっしりと覆いはじめ、まるで巨大な昆虫のようにみえた。
 そのどろどろのものが一瞬膨らんだかと思うと、突然おくうに飛びかかってきた。まるで投網のように広がったそいつは、おくうの頭上から一気に彼女のからだを包み込んでしまった。「な、なにこれ! キモい!」おくうはもがいているけど、原生生物にとらわれた獲物のように、ずるずるとそのなかにのみこまれていく。
「あーちょっともー、勝手に動いちゃダメだってばー。殺しは神奈子っちから止められてるんだからさー」
「お、おくうっ!」
 おりんが駆けていくと、その粘状生物の一部がタコのようにずるずると地面に伸びていき、たちまちおりんの両足をからめとってしまった。
「な、なんだよこれ……ひっ」
 その触れられたおりんの足首に、奇妙な紋様がびっしりとこびりついてきている。その紋様は、まるでヘビのように、ふくらはぎ、ふとももと、じょじょに昇ってきていた。
「な。なんだよこれはっ!」
「禁忌の験さ。触れてはいけないものに触れてしまった証だよ」
 おりんはあわてて払いのけようと足を動かそうとして、逆に足を取られて転んでしまった。
 そのうえから、どろどろしたものがおりんの下半身から覆いかぶさり、のみこんでいく。
「く、くそーっ! な、なにしやがるんだ……ひあっ」
 おりんのからだが、びくんと跳ねた。
「な、なんてとこさわるんだこのばかっ!」
「ふ、ふふふふふ」
 諏訪子は、おりんまで歩み寄ると、そこで座り込んで、おりんのおなかのあたりをやさしく撫ではじめた。おりんはすでに手足もからめとられていて、にらみつけるしかできない。
「て、てめー、何を……ぐうっ?」
 どろどろの生き物は、おりんの口にも侵入していき、声をふさいでしまった。
「安心して。キミを殺しまではしないよ。ただ、キミのからだに決して消えない楔を打ち込むだけさ。諏訪子のことを、未来永劫、忘れず、名前を聞いただけでおしっこもらしちゃうほどの、深い、深い楔だよ。もう二度とちょっかい出そうとしたり、逆らったり、憎んだりしないようにね」
 おりんが、その意味を察知して、激しく手足を動かした。手足の枷はびくともしない。
「んー! んー!」
 諏訪子は、そんなおりんの姿を楽しげに眺めながら、おりんの耳元で、そっと囁く。心を読めるわたし以外には聞こえないくらいの小さな声で。
(かといって、別にぶん殴るとか切り裂くとか、そういう野蛮なものじゃないよ。ほら、やっぱ血が出ると、みんなキミがかわいそう、って思っちゃうからね)
(だからさ。かわりに、外傷はわからない打ち方をしてあげる)
(このおなかの感覚じゃ、キミはきっと子を産んだことはないんだよね)
 おりんは、何で諏訪子がそんなことを言い出すのかわからず、彼女を見ている。
 ……既に彼女のやろうとしていることを知るわたしは……あまりのことに、いろんな感情がふきだし、頭のなかが一気に沸騰した。
(哺乳類の出産は痛いそうだねー。キミは元気そうだから大丈夫だとおもうけど、母体が持たなくなって死んじゃったりするそうじゃないの。大変だねー)
 おりんは、ごくり、と息をのんだ。底知れない嫌な予感を、察知していた。
(だから、キミにその予行演習ついでにトモダチを産んでもらおうかなっておもうんだ。諏訪子のトモダチって、あたたかいところが好きなんだよねー。これならさ、手足と口をちゃんと縛れば見た目はちょっとおなかがぷっくり膨らむだけで、そんなに痛そうには見えないでしょ? 子どもより大きめのを産むキミはちょっと大変かもしんないけど、気をしっかり保てばきっと死ぬことはないよ)
 ――おりんの目が、呆然と見開かれた。
(……まさか、このドロドロのへんなのが、あたいのなかに?)(うそだろ。そんなの)(いやだ。そんなのいやだよ)
 諏訪子は、うっとりとおりんのスカートごしにおなかをさすっている。
「このぺったんこのおなかが、カエルみたいに膨れちゃうの。きっとすごくかわいいよ。うふふ」
 ……おりんは、怯えていた。いつもの鋭い視線は消えうせてしまい、弱々しく震えていた。
(……だいぶ怯えちゃってるな。もしかして出産どころか……まあいいか)(ちょっとかわいそうかもだけど。そーいう不条理こそがこの世界なんだよ。いいひとが報われるわけじゃない。悪いひとが報いを受けるわけじゃない)(それが、楽しいんだよ)
(それより向こうのカラス……ずいぶんトモダチに好かれちゃってるみたいだなー。過剰なエネルギーのかたまりってしびれるような「うまみ」があるからね。まずいな)(ほんとうに……溶かしちゃうかもな)
 ……どろどろの生き物に飲み込まれたおくうの心の声が、聞こえる。
(いたいいたいいたいさとりさまたすけてさとりさま)
 ……からだを縛りつけられ、振り向くこともできず、ぶるぶる震えているおりんの心の声が、聞こえる。
(さとりさま。きにしないで。あたいらのことは)(にげるんだ。さとりさま。にげて)(こんなことになってすみません)(あたいもおくうもへいきだからきにしないで)(あいつも殺しはしないから)(だ、だけどきっとこれからさきはきかせたくない)(たえきれそうもないから)(さとりさまこわいこわいなにかがうちをのみこんでいくなにもかんがえられ)(こわいこわいこわいそんなのいやだ本当はいやだよこんなのっていやだよたすけてたすけてたすけて)

 おくうの叫びが。おりんの叫びが。諏訪子の笑い声が。まわりの観客の怒号が。ぐわんぐわん響く。わたしはどうすればいい。わたしはどうすればいい。わたしは、
 
 ――お姉ちゃん、と声が聞こえた。

 わたしの目の前から、クラゲのように半透明のこいしがあらわれた。
 はだけたシャツの胸元の、あらわになった白い肌のうえに、たくさんのバラの花が咲いていた。
 それは、こいしの「心」そのものだった。
 心の花はふつうは一本なのに……どうしてか、バラは花束のようにたくさん咲いている。
 まるで腐ったような強い香りがして、わたしはくらくらする。まるで強いお酒を間違って飲んでしまったような、暗い心のたかぶりを、かんじる。
 ――まずい。このにおいは。あのときの。
 ――廃ビルのなか。心の花を失った妖怪たちが。うろうろとはいつきまわる。まるで子供のように。赤ん坊のように。
 
 何を迷っているの?

 こいしが、ささやく。いや……こいしの心が、わたしのなかにそのまま染み込んでいく。第三の目を失ってからしおれてしまったこいしの心が再び咲いたから、わたしたちは昔と同じように、声を必要としなくなる。

 何を我慢する必要があるの?
 お姉ちゃんは、優しすぎるんだ。
 だけど、その優しさはね、あまりに大きな犠牲を求めている。
 お姉ちゃんの大好きな世界すべて。お姉ちゃんそのもの。それらをぜんぶ代償にしてまで……その優しさって、価値があるものなの?
 確かにこのきっかけを作ったのは、ぼくだよ。あの守矢の連中はおくうの力を有効活用しようとしていたけど、うまくいかなくておくうは野放し状態だったから簡単に連れ出せた。ヒーローになりたがっているおくうをだますのはとても簡単だった。
 「どうして」だって?
 お姉ちゃんが天使様になって、その力で世界を変えてくれるように、だよ。
 お姉ちゃんが優しさを捨てて、ほんとうにやりたいことを我慢せずにしてくれるように、だよ。
 ぼくを恨んでいる?
 いいよ。ぼくは、お姉ちゃんになら喜んで殺される。死んでと言われたら、心臓をナイフ切り取ってお姉ちゃんにあげちゃうから。
 いや……どっちにしても、同じか。
 ぼくの胸、お姉ちゃんなら見えるよね。
 季節外れに狂い咲いた花は、あっけなく散るもの。
 最初からぼくは、わかっていたんだ。
 ほら、赤い薔薇はすでにしおれかけて、茶色になりかかっている。
 神様がくれたおまけの時間は、もうおしまいなんだよ。
 そしてぼくはまた、海の底へ沈んでいく。
 そのあとは、ぼくではない誰か……いや、それこそがほんとうのぼくかもしれないけど……そいつがボクのからだを借りてボクになるんだ。
 お願いだから、ぼくが消える前に……もう一度、見せてよ。天使様の……羽根を。
 
 こいし。
 あなたは。
 なにを。
 かんがえているの?
 わたしは天使でもなんでもない。できることは、せいぜいひとの心を壊し、食べること。
 それも、無差別に。
 そんなものが、神様であるわけない。
 ただの、悪魔よ。
 そう、前にも言ったじゃない?

 悪魔でかまわない。
 だって、この世界はとてもよごれている。ひとの心が、そうさせているんだ。
 だから……みんな、心を無くしてしまえばいい。
 お姉ちゃんは心をなくしたぼくをかわいそうに思っているようだけど、あの世界はね、とても居心地がいいんだ。
 暗いけど、とてもひんやりとしていて、何の苦痛もない。完全に閉じた、ただひたすら気持ちいい世界なんだ。
 おりんや、おくう、あの神様だって名乗るやつ、みんな海の底に行けばいい。そうすれば、救われるんだ。
 みんなを気持ちいい世界に誘うことは、天使様の仕事でしょ?
 お姉ちゃん。ぼくは間違ってないよ。
 
 ……あの神と自称する邪悪な女が、こちらをみて、無邪気に笑っている。
 心が読めるなら、恐怖を植え付けるのも簡単でいいなあ、なんて思っている。
 ほんとうに、ひどいやつだった。
 なのに、誰もおりんも、おくうも、助けようとしてくれない。
 おくうがあいつにのせられて力を放ってしまったせいで、あの邪悪な少女が「すごい力を持つ悪者に立ち向かう女の子」になってしまったのだ。あいつは小声で話しただけだし、外見はおりんもおくうもケガしてないので、ひどいことをしているだなんてみんな思いもしないのだ。
 死んでしまうほどの、ひどいことをさせられようとしているのに。
 そしてあいつは、そのあとで、わたしにも同じような目にあわせようとしている。
 理由なんてあるわけない。ただ、わたしたちが、そこにいただけだ。
 わたしたちが、何をしたっていうの?
 理不尽な不条理が、吸い寄せられるようにやってくる。
 いつだって、そうだ。
 この世界は、
 わたしたちを、
 拒絶しているんだ。

 ……ねえお姉ちゃん。ぼくは、ずっと考えていたんだ。
 どうしてぼくたちは、こんなにひとりぼっちになるしかないんだろう、って。
 お姉ちゃんとぼくの力が、この世界に似合わなかったから?
 ぼくたちは、最初から世界からこぼれるようにできているの?
 この世界に生まれたときから、神様がそう設定したの?
 だからぼくもお姉ちゃんも、がんばってもがんばっても決して幸せにはなれないの?
 もとから定位置が海の底だったの?
 そんなの、不公平だよ。何も悪いことをしていないのに、お前たちはできそこないだから海の底に沈んでいろだなんて。 
 だから、みんなも海の底に行けばいい。
 みんなみんな沈んでしまえばいい。
 怒りも悲しみも憎しみも争いごともないクラゲになってしまえば、こんなことにはならなかったんだ。花みたいに綺麗に咲くだけの無口な心で世界が満たされれば、ぼくを傷つけようとするやつらもいなかったし、お姉ちゃんも苦しんだりしなかったんだ。
 おりんや、おくう、あの神様だって名乗るやつ、みんな海の底に行けばいい。そうすれば、救われるんだ。
 
 ……誰だって、さいしょから生まれてきたことが間違いだっただなんて信じたくない。
 だけど、事実はどうなんだろう?
 ずっと思っていた、いや、思いたくなかったことがある。
 本性というか、根本的な部分で、わたしも、こいしも、何か大切なパーツが足りてないんじゃないのか、ってこと。
 心が読めるとか、心を食べる、とか、そんなものじゃなくて、もっともっと、この世界でふつうに生きていくために、みんなが当たり前のように持っているもの。
 そんな、大事な部分が、最初から無かったんじゃないのか?
 大事な部分が無ければ、いくら直そうと思っても直るはずがないよね。
 だから、いくらがんばっても、どんどん、みんなとズレていく。そのズレはわたしにはわからない。わからないままわたしは悩む。悩んでもわからないから、またズレる。その繰り返し。その繰り返しを、今までずっとやってきたんだ。
 ……こいしの言うとおり、最初からわたしたちは、海の底が定位置だった、かもしれない。
 だから神様は、わたしとこいしと、ふたり、存在させてくれたのかもしれない。
 ひとりぼっちはかわいそうだから、ふたりにしてくれたのかもしれない。

 だけど神様、どうしてわたしたちをそんな海の底の生き物にしてしまったの。
 ひとりぼっちは嫌いなのに、ひとりぼっちになるようにしてしまったの。
 わたしたちが何か悪いことをしたっていうの。
 そうじゃないよね。
 だったら、わたしたちにだって、世界を変える権利があるはずだ。
 みんなを海の底に沈めてもなんにも悪くないはずだ。
 
 世界を救おう、お姉ちゃん。
 海の底に沈めてしまおう。
 そうして最後に、ぼくも、ころして。
 ぼくはね、お姉ちゃんに、ころされたいの。
 きれいな天使様に、ころされたいの。
 そうすれば、きっと、天国に行けるような気がするの。

 ……わかった。
 こいし、あなたをひとりぼっちにしたのは、わたし。
 わたしがあなたを拒んだから、あなたはひとり、海の底へ沈んでしまった。
 わたしは、こいしが望むことなら、なんでもしてあげる。
 だけど、これ以上、あなたをひとりぼっちにはしない。
 そのあと、わたしも海の底へ沈むから。
 一緒に、クラゲみたいにふわふわとからまりながら、生きていこうね、こいし……。

 わかってくれたんだね。お姉ちゃん。
 とても、うれしいよ。ほんとうに、うれしい。
 ……お姉ちゃん。約束だよ。
 ずっと、いっしょに、いようね。ずっと、ずっと。ずっとずっと。……

 こいしのからだが、わたしにもたれかかり、わたしの手を、握った。
 こいしのからだは透明に消え失せて、薔薇の蔦がわたしを包み込んだ。
 しおれかけた薔薇の花からちぎれた花びらが、ばあっ、と舞い散った。
 まるで腐った香水みたいな強い香りが、一気にわたしのなかに染み込んできた。

 瞬間、わたしの頭が沸騰したように、怒りが満ち満ちていく。

 誰に対しての、でもなかった。
 それは、世界への怒りだった。
 どうにもならないすべてを壊したかった。なにもかもを海に沈めてやる。そうして世界をきれいにするんだ。
 そうすれば、やっとわたしたちは、幸せになれるんだ。

 ああ。と、こいしが、声をもらした。
 怯えているような、眩いような、とろけるような、不思議なまなざしを向けながら。
 お姉ちゃん。いや、ぼくだけの天使様。
 みんなも、こんなきれいなお姉ちゃんにだったら、ころされたってかまわないと思う。
 見て。あのおりんをいじめていたやつの、お姉ちゃんをみる、あの顔。
 
 諏訪子という自称神様は、わたしを呆然と見つめていた。
 「自分が恐怖するものが存在した」こと。そのことに対して、彼女は驚いていたのだ。
 いったいどんな「わたし」を見ているんだろう?
 わたしは諏訪子に近づいていく。一歩進むごとに、こいしの胸の薔薇の花びらが、地面にはらはらと落ちる。こいしの心の欠片が、ちぎれていく。
(これは、なんなの?)
 わたしを見る諏訪子の足が、震えはじめた。
(なぜ震えているの?)(まさか、わたし、恐怖しているの?)(ありえないよそんなこと。諏訪子は神なんだよ。すべての生きとし生けるものの頂点に立つ存在なんだよ)(なのにこんな)(こんなばかな)
 この子は、もしかすると本当に神様なのかもしれない。
 でも。生物である以上、逃れることのできない、根源的な恐怖は、存在するのだ。
 それは、「天敵」という概念への恐怖。
 たとえ食物連鎖の頂点に立つ生物であろうとも、その恐怖は細胞のなかで染み込んでいる。いくら薄まろうとも、強烈な本能の命令には、逆らうことはできない。

 わたしの手をにぎったこいしが、うれしそうに笑っている。
 いったい、どんなお姉ちゃんを見ているのかな?
 たくさんの牙が生えた口や、らんらんと光る目が星屑みたいに光っている、真っ黒な夜空みたいなお姉ちゃん?
 内臓みたいにぶよぶよとしてて、風船みたいにどんどん膨らみながら世界を吸い込んでしまう半透明のお姉ちゃん?
 影絵みたいに不思議な質感をしてて、光に当たるとキラキラしながら死をまきちらすたくさんのお姉ちゃん?
 ああ。どのお姉ちゃんも、すごく、素敵。

 諏訪子は立っていられず、そのまま後ろにへたりこんだ。
(なんで足が動かないの)(なんで)(逃げないと)(逃げないと)
(……殺される?)(この諏訪子が、殺される?)(そんなこと)(そんなことが)
 「逃げる」という本能からの命令を受けたからだは……だけど、たやすくは動けない。恐怖で萎縮したからだは、まるで他人のもののように動かない。それがより、恐怖を増す。恐怖は混乱を呼ぶ。
 彼女は、生まれてはじめての「恐怖」に、完全に混乱していた。さっきまで不遜に輝いていた瞳は、もうすっかり怯えで濁っている。まるで、いたずらが過ぎて本気で叱られた子供みたいだった。
 がくがく震える内股を、液体の筋が伝い落ちる。
 彼女は、そんな自分のみじめな姿を、茫然と見つめていた。
 その瞳から、生気が失せていた。負け犬の目だった。
 もう、その胸に咲いている花……大きな睡蓮の花は、いつでも摘める。そうすれば、あいつは「諏訪子」という殻が脱げて、「海の底の住人の一人」になる。心を持たない、ふわふわしたクラゲになる。
 だけど、すぐには食わない。簡単に安穏とした海の底へと行かせてたまるか。おりんとおくうにひどいことをした罰に、しばらくそこで恐怖を味あわせてやる。

 観客席は、完全にパニックを起こしている。言語にならない悲鳴や怒号やわめき声がかたまりになっている。心の声か現実の声なのか、まったくわからない。距離が遠いのと恐怖することにまだ慣れているだけ、諏訪子と違ってまだ動けるひとたちがいるらしい。必死になって逃げようとして狭い通路が詰まってしまい、互いの罵声が響いている。
 とても、うるさかった。
 誰もかれも自分たちのことしか考えていない。
 ほんとうに、みにくかった。
 こんな世界が存在する意味なんて、どこにあるんだろう?
 みんなの胸のあたりに咲く花が、くっきりとみえる。
 その花を摘んでしまえば、それで、そのひとは心を失う。あとは、ずっと海の底。
 そうしたら、このみにくい光景も、風に揺られて静かに揺れている花畑みたいになるんだ。
「ううっ……」
 おりんが、苦しそうに声をあげた。おりんをいじめようとしていたあの汚い生き物は、もうどこかへ逃げてしまっていたけど……それでもショックが強かったのだろう。気絶してしまっているようだった。
 かわいそうだよね。おりん。と、こいしがつぶやいた。
 こんな目にあうのも、みんなみんな、これで最後にしてあげようよ。
 みんな海の底で、ずっといっしょになろうよ。
 ――おりんの胸に咲く梅の花は、小さいけど凛としていて、とてもおりんらしかった。
 大丈夫、おくうも、こいしも、わたしも、すぐに一緒になるからね。
 わたしはおりんに近づき、その胸の梅の花に触れる。
 そっと力を入れて、つまもうとした。

「――ふんにいいいいいいいいぃぃっ!」
 
 叫び声がして、わたしは振り向いた。
 赤い巫女が、頭上からとびかかってきた。
 信じられなかった。
 ――どうして、こいつ? 恐怖で縛られ、神ですら動けないはずなのに?
「夢想封印パーーーンチ!」
 振り上げられたその拳は、ただのパンチじゃなかった。異様に黒いオーラをまとっていて、なんていうか妖怪がくらったらブ厚い鉄の扉に流れダマがあたったような音がしそうな、恐ろしい一撃だった。
 予想もしなかったことに、わたしは動けない。

 ――拳は、わたしに届かなかった。

 恐怖に抗いながら放った巫女の跳躍は、ぎりぎりのところで届かなかったのだ。
 巫女は、そのまま勢いを殺せずに、地面にごろごろと転がり、うずくまった。
「く、くそっ……」
 巫女は、くやしげにうめきながら、うずくまって、がくがくとからだを震わせている。
(外した……っ! からだが恐怖で、まるで動かなくなってしまった……これが唯一のチャンスかもしれないのにっ……)
(レミリアが「恐怖に縛られ全滅する」という運命を変えてくれた。早苗が「絶対の恐怖に抗える」奇跡を与えてくれた。咲夜が空間を狭めてわたしを移動させて近づいたってのにっ……)
 そうか。と、わたしは巫女の後ろをみる。ラーメン大会に出場したほかのメンバーが、やはりうずくまりながら、必死のまなざしで、巫女のほうを見ている。
 ……どうやら、それぞれ妙な力を持っているようだけど、瞬時に異変を察知して、それぞれのやり方で巫女をサポートしたようだった。
 巫女はみんなと知り合いなようだった。だけど、仲良し、とも違うようだった。種族も性格も主義主張もばらばらだった。
 だけど、みんな、この世界が好きなのだ。
 だから、その世界を壊そうとするものを、みんなで止めようとしたのだ。
 そんな世界を、海の底に落とす――それが、ほんとうにいいこと、なのだろうか?
「お姉ちゃん。その考えは。まやかしだよ」
 こいしは、倒れこんでいる巫女に近づくと、いきなりお腹を蹴り上げた。
「あぐうっ」
「こ、こいしっ?」
「こんなものじゃないよ。ぼくの天使様を攻撃して、惑わした罰はね」
 こいしの顔は、怒りでゆがんでいた。
「触れてはいけないものに触れようとしたんだ。絶対に許せない。海の底なんて行かせないよ。無意識の世界にひきずりこんで、自分で自分をなぐさめるしかできないみじめな生き物にしてやる!」
 そう叫びながら、めちゃくちゃに蹴り続けた。
 腐ったような不快な薔薇のにおいが漂った。
 巫女が、頭をおさえながら、「ううううううっ」とうめきはじめた。瞳孔が完全に開いている。
「ほら、みにくい心をさらけだすのよ。死ぬまできたならしい踊りを踊り続けるのよっ」
「や、やめなよ!」
 わたしは、こいしのからだをおさえつけた。むせかえるような薔薇のにおいが鼻腔を直撃した。
 いくらなんでも異常なにおいの強さだった。
 みると、こいしの胸の薔薇が、目にみえて、どんどんしおれている。
「こ、こいし! このままじゃあなたの心が死んじゃうよ!」
「いいの。お姉ちゃんのためならわたしは何でもやるから。お姉ちゃんは絶対なの。天使様なの。無敵なの。なのにそのお姉ちゃんに拳を向けるだなんて。きれいなお姉ちゃんを汚そうとするなんて。冒涜だよ。許せないよ!」
 こいしは興奮していて、何を言っているのかわからない。
 怖かった。こいしが、どうにかなってしまったのではないかと思った。
 ああああああああっ。うあああああああっ。
 突然こいしは叫んだ。両手で顔を覆いながら、頭を振り乱した。
 それから、荒い息を上げながら、こちらを見た。
 まるで泣いているように、弱々しく笑いながら。
「お姉ちゃん。ごめんね。ぼくは今とてもイヤな感情で頭がいっぱいになってしまっている。怖いよね。不気味だよね。ぼくはやっぱりどこかがおかしい。そんな目で見ないで。ぼくを拒絶しないで。お姉ちゃん。はやくぼくをころして。ねえ。もうこんな思いはイヤなの。なにももう考えたくないよ。何も、何も考えずに、花のように……きれいな花のように……」
「こ、こいし。何を言っているかわからないよ」
 こいしは、よろよろとわたしに近づいてくる。わたしは、あわててそのからだを抱き留める。ひどく、軽かった。抜けてしまった心のぶんだけ軽くなってしまってしまったんじゃないか、と、嫌な想像が脳裏をかけめぐった。
「ああ。暗い世界が近づいてくる。もうじき何も考えられなくなる」
 こいしは、わたしの顔を両手ではさむようにつかみながら、泣いてるような、笑っているような顔を、わたしに向けている。
「ねえお姉ちゃん。世界で一番きれいなお姉ちゃん。一緒に死んで。ぼくをころして、一緒に死んで。ひとりぼっちはいやだ。ひとりぼっちは……」
「死ぬときはひとりぼっちよ。誰だってね」
 いつの間にか巫女が、少し離れた場所で立っていた。
 こいしが離れたのとわたしが動揺したせいで、「無敵」状態が解除されていたのだ。
 巫女は、右手に札を……そして、左手には、おばあちゃんみたいな黒い服を着た子を、だらんと垂らしていた。
「お、おりん? ど、どうしてっ」
「猫だから軽いわねー」と、おりんの首根っこ部分を掴みながら、巫女は言う。
「こっちだって必死なのよ。巫女だなんだ言ってもただの人間だしね。使えるもんは、全部使わせてもらうわ」
 巫女は、脇が開いた袖で鼻をぐしぐしとこすった。さっきこいしに蹴られた鼻から、血が出ているらしい。
「死にたいのなら、勝手にひとりで死になさいよ。あんたが世界を恨もうがどうしようがかまわない。だけど、誰かを巻き込んだりしないで。この世界はね、あんたたちだけのものじゃないのよ。それを、あんたたちの勝手な価値観でうんぬんかんぬんしようだなんて思い上がりよ」
 こいしは、歯をむきだしにして怒りをあらわにした。
「おりんを盾に使うような卑怯もののくせに、えらそうなことを言うな!」
「って言うことは、盾としては使えるってわけね。妙なにおいがするからもしかしてと思ったけど、あんたの力って単体じゃなくて、においを嗅いだひと全員に効果があるものってわけね。じゃあ、わたしの近くでさっきのにおいをさせると、この猫まで巻き込んじゃうってわけか」
「……っ……だ、だけどね、お姉ちゃんは違うよ。お姉ちゃん、もう一度あいつを恐怖で縛りつけてやるんだ!」
「まーそー焦んないでよ。今からわたしがこいつをどう使うのか、知りたくない?」
 ぬひひ、と、巫女は悪そうな顔で笑う。
「今からこいつをぽーんと放り投げてね、この札をぶつけてやるのよ。あんたはわたしの力に気付いているでしょ? この札はね、わたしのめっちゃ強い気が練ってあるの。しかもホーミング付き。狙った獲物は外さないわ」
 ――お姉ちゃん。あいつのことを聞いちゃだめだ、と、こいしは心で訴えてくる。
 あいつはお姉ちゃんの動揺を誘うことで、お姉ちゃんを無敵状態にさせないつもりなんだ。
 お姉ちゃんもとっくに知ってると思うけど、こいつは確かに札を投げる。だけどそれは大したダメージじゃない。本命はそのあとの肉弾(肉体言語弾幕)攻撃だよ。あいつのからだはとても暴力的な力を持っている。あれにぶつかったら、お姉ちゃんだって、ただじゃすまない。
 だから、おりんは気にしないでいいんだ。
 逆にあいつがおりんを離したときがあいつをやっつけるチャンスだ。ぼくが一気にあいつめがけて突っ込むから、お姉ちゃんは何も心配しないでここにいればいい。
 お姉ちゃんがやられちゃったら、誰も救えなくなる。ぼくとお姉ちゃんの世界も作れなくなっちゃうんだ。だから、なにも心配しないで。ぼくの、お姉ちゃん。

 ――こいしの言うことは正論だ。巫女は罠を張っている。わたしはその罠に飛び込む必要はない。おりんはあの札では死ぬまではない。何も、間違ってない。

「ふんににににいいいいいっ」
 巫女が叫びながら、ぶうん、とおりんを思い切り上空へ放り投げた。
 おりんのからだは無防備に空へ投げ出される。
 巫女が、すぐさま右手から札を放とうとするのが、わたしにはわかる。
 巫女は、さっきわたしが暴力をふるうこいしを止めようとしたのを見て、わたしがおりんを救おうとするかもしれない、という期待をしているのも、わかる。

 ――そう。こいしは何も間違ってない。わたしはおりんをやられるのを黙ってみているのがベターなんだ。何も、間違ってないんだ。
 
 ――なのに。どうして。お姉ちゃん。

 こいしが、泣きそうな顔で、こちらを見ている。
 
 どうしてお姉ちゃんは、そこまでわかっていながら、どうして。どうして、そんなばかなことをするの? なんで……。

 ごめんね。こいし。
 わたしはね、飼い主として失格なんだ。洞察力も判断力もおりんのほうがぜんぜん上、そのうえ食事も洗濯も掃除もしてもらったりしてる。いつも頼りっきりだし、ひとりじゃ何もできない。はっきりいってどっちがペットなのかわからないくらいなんだ。
 でも、わたしは飼い主なんだ。れっきとした、おりんの飼い主なんだ。
 ペットが傷つくを黙って見過ごす飼い主には、なりたくないんだ。どんなバカな飼い主だったとしても、それだけは絶対しちゃいけない気がするんだ。それをしたら、わたしはもう、おりんと今までみたいに過ごすことができなくなる気がするんだ。なにかが決定的に壊れてしまう気がするんだ。

 だから。ごめんね。こいし。 

 わたしは、自由落下するおりんめがけて、駆けだした。

 脳裏にジャッキー・チェンの姿がよぎる。ジャッキーが今までしてきたことを考えれば、こんなものは朝飯どころか米粒一つにもならない。二十メートル以上の時計塔から飛び降りたり、ビルから滑り落ちたりするわけじゃないんだから。だからたいしたことじゃないんだ。運動神経が切れているわたしだってやれるはずだ。
 うおおおおおっ。
 ジャッキーのおかげか、わたしはうまいぐあいにおりんのからだを両手でキャッチした。よっしゃ。そして重っ! となると思ったけど、おりんは、びっくりするほど軽かった。
 ああ、今まで飼い主のくせに抱きあげたりしたこともなかったんだなあ。ほんとにわたしは、飼い主失格だよ。
 次の瞬間、背中から焼き付くような衝撃が突き刺さった。
 なすすべもなく前に吹っ飛ばされた。なんとかおりんを抱きかかえたまま、わたしは地面に転がった。
「ふにいいいっ」と奇声が上空から襲い掛かってくる。
 巫女だった。
 ああ。これで、おしまいなんだな、と思った。
 世界を海の底へ落そうとしたんだ。これだけ大会をめちゃくちゃにしてしまったんだ。わたしはきっと、許してもらえない。
 わたしのとった行動は、まったくばかげている。おりんを傷つくのを見るのが嫌だなんて、ただの一時的な感情の、エゴまるだしの、全体を見ていないばかな行動でしかないじゃないか。
 なのに、これでよかった、と今でも思うのだから、救いようがない。
 ――お姉ちゃんは、ほんとうにばかだよ。なんで罠だと知りながら、いつもいつも引っかかるの?
 わたしが顔をあげると、こいしがこちらを見下ろして、微笑んでいた。
 どうしてここに?
 こいしは、巫女めがけて突っ込むんじゃなかったの?
「まあ、知っていたけどね。お姉ちゃんはね、そういうひとだからさ」
 ――いつものこいしの、優しい笑顔だった。
「でもね。ぼくは、そんなお姉ちゃんだから……大好きだったんだ」
 こいしが、わたしの顔を抱いて、
「ほんとうによかった……間違いに気づいて、ほんとうに、よかった」
「夢想封印キーーーーッッック!」
 やめて。こいし。そこをどいて。と、叫ぶ間もなく、巫女のキックが、こいしの背中に突き刺さって、
 
 その胸の薔薇が、ばあっ、と、散るのを、見た。
 
 

 なんだか気持ちのいいものに抱かれたなーと思ったらその気持ちのいいものが自分から離れてしまってガッカリして……あたいは自分が眠っていることにようやく気付いた。
「……うん……?」
 と、そこで自分の状況を思い出して、ぎょっとあたりをみまわした。
 あのキモい生き物はいなくなっていた。からだも、自由に動く。
 上半身を起こすと、おそるおそる自分のスカートをめくってみた。何かされた様子はない。
 ふひーーーっ、と長いため息が出た。
 あ、あぶねー……さとり様用にとっておいてあるこのおりんの貞操があんなキモい生き物に奪われるところだった……。いやマジで怖かった……怖かったよお……。
 そ、そうだ、その発想が18禁グロのド外道金髪ロリはどこにいったんだ? いや、おくうは無事なのか? っていうか、さとり様は?
「そこの妖怪猫むすめ……自分のパンツ眺めてないで手伝いなさいよ」
 うひゃっとあわててスカートを戻して見上げる。
 はあはあはあ、と荒い息を立てている赤い巫女がいた。
 あたいのパンツに欲情している……というわけじゃない(当たり前だ)。まるで鬼か悪魔と戦ったかのような、ものすごい形相だった。全身から汗を滝のようにふきだしていて、黒い髪の毛もびしょ濡れ、腋が出たおかしな服も、まるで水に飛び込んだみたいに肌に張り付いている。
「な、なんなのあんた。フルマラソンでもしてきたの?」
「こ、米やナスやダイコンに襲われて食われるなんて悪夢を延々と見せられてんのよ……いくらわたしが最強で世界一でも耐えきれないっての……」
 ……なんだその怖いんだかよくわからない悪夢は……?
 あたいは、妙に会場が静かなことに気づいた。
 周囲は、気絶したひとで埋め尽くされていた。動くひとは、慌てて逃げ出す客だけ。
 緑の巫女も、吸血鬼も、メイドも、みんな動かなかった。
 そのなかに、おくうもいた。なんかあちこちケガをしているのか赤くなっていたけど……胸が上下しているから生きているらしい。
「ったく、あんたのボスはほんと強情ね……どんだけひとに迷惑をかけりゃー気が済むのよ」
「だったら。わたしの好きなようにやらせてよ」
 いつも聞いたことのある声だった。
 だけど、まるですり切れたテープのような、異様な響きを持っていた。
 あたいは、声のほうを振り向く。
 さとり様が、こいし様を抱きかかえている。
 その顔を見た瞬間、背筋が、ぞわりとした。
 無表情だった。まるで死体の顔だった。
 ――「あいつ」と同じ顔だった。
 あたいの顔を、さとり様が、じっ、と、見る。その瞳は真っ黒で、何の感情もなかった。
 とたんに、真っ黒などろどろとした何かが、あっという間にあたいを取り囲んだ。
 そして、からだの奥底から凍り付くような恐怖が、あたいをしばりつけてきた。
 ――これは、さとり様の……力か!
 あはは、とさとり様が、笑いはじめる。無表情のまま。うつろな瞳のまま。
「ごめんね。おりん」
 大きな瞳から、涙がぼろぼろと流れはじめる。
「わたしは、勝手にひとを傷つけようとしちゃうの。迷惑なやつだよね。ごめんね」
 ――いつもの自虐ネタじゃない。表情も、声も、なんかおかしい。
「こいしの花が、散っちゃったの」
 さとり様が、笑いながら、泣きながら、
「またわたし、こいしをひとりにしちゃった」
 さとり様の腕には、第三の目が握られていた。
「だから、はやくわたしもいかなきゃならないの」
 ……もうひとつのさとり様の手には、調理台に入っていた包丁が握られていた。
 さとり様の目が、ぎろり、と剥いた。
「だから、邪魔しないでよ! あなたはさっき言ったじゃない。死ぬなら勝手に死ねって! だから、わたしは勝手に死のうとしているじゃない! わたしが第三の目をつぶせば、こいしもわたしもいなくなる。それでこの異変はおしまいでしょ? なのになんで邪魔しようとしているのよ!」
 ……さとり様が、死ぬ?
「……へえ。ほんとに心の声がわかるのね」
 仁王立ちでふんばっている巫女の手の指には、数枚の札がはさまっていた。
「でも。わたしがあんたを止めようとしているのはね。ここであんたを止めないともっと厄介なことになるからよ。異変解決のプロは伊達じゃないのよ」
「……人間の心って、複雑なんだね。いいことをしようとしている自分を素直に受け止められないんだからね」
「うっさいわね。そこの妖怪猫むすめもとっととしゃきっとしなさい。あんたのボスはね、死ぬつもりなのよ。それが嫌ならわたしに協力しなさい。わたしも正気を保つので精一杯なのよ」
 ……手に持った包丁で、さとり様は、自分の第三の目をつぶそうとしている。
 え?
「な、なんで、なんでそんなことをっ」
「こいしはね。ひとりぼっちがさびしい、って言ってたの。だけど、またわたしのせいでこいしはまたひとりぼっちで海の底に行ってしまったのよ。だから早くわたしも行かなければならないの」
 あたいは、さとり様に抱かれているこいし様を見た。
 はだけた胸元に転がっている第三の目は、閉じていた。
「こ、こいし様のところって……こ、心を無くしちゃう、ってことですか?」
 あはっ、と、さとり様は声をあげて笑う。
「おりん、気にしないで。そこがわたしたちの定位置なんだから。それで世界も全部オーケー、まるくおさまって、それでおしまいなんだから。だから、おりん、お願いだから、そこの巫女を止めて。勘違いしちゃってて、こいしのところに行かせてくれないのよ。おかしいでしょ?」
 全然おかしくなかった。少しも、笑えなかった。
 さとり様がさとり様じゃなくなるだなんて。
 絶対そんなの、いやだ!
「近づかないで。わたしはおりんの心を摘み取っちゃうよ」
 さとり様は笑っていた。こんなにひどい笑顔もなかった。泣いているほうが、まだましだった。
「わたしはね。さっき、あなたの心を食べようとしたのよ。自分のなかでそのほうがいい、そうすべきだって勝手に思っていたの。おりんはわたしたちと違って普通なんだから海の底に行く必要なんてないのにね。単にわたしはおりんと一緒にいたかっただけなの。ひどいよね。自分勝手よね。そんなひどい女だから、おりんは近づいちゃダメなの。わたしは、ひとりで消えればいいんだから」
「ひとりで消えればいいだなんて、なにアホなこと言ってるんですか。あんまりひどいと猫パン食らわせますよ。ちょっとそこで待っててください」
「来ないでって言ってるでしょ!」
 あああああああああああ、とさとり様は叫んだ。
 次にこちらを振り向いたその顔は、笑っていたけど、涙でぼろぼろになっていた。
「ど、どうすればよかったのか、なにが正しかったのか、ぜんぜんわからないよ。これ以上わたしを混乱させないで。これ以上わたしをみじめにしないでよ。おりんのやさしさを受ける資格なんてないの。自分勝手な都合をでっちあげて、他人のことなんてなんにも考えてないまま空回りばっかりして、あ、あげくの果てに、あなたを食べようとしたのよ。寸前に思いとどまったって? そんなことない。その巫女がいなければ、わたしは躊躇なくあなたの心を摘み取っていたよ。何の躊躇もなく!」
「あんたさー、もうちょっと考えなさいよ」
 巫女が、かったるそうに言った。
「あんたはひとり勝手に死ねばいい、って思ってるけど、あんたが死んじゃったら妖怪猫むすめも悲しむでしょーが。そんなこともわからないの? ひとりで盛り上がって世界を海の底に沈めようとしたり死のうとしたり、ほんとあんためんどくさいわね……」
 ……まずい。その言葉は、とても、まずい。
「めんどくさくて悪かったね!」
 ぎいいいいいとさとり様が巫女をにらみつけた。
「……っ!」
 何を見せられたのか、巫女の表情がこわばった。
 ――まずい!
 あたいは駆けだした。
「近づかないでよ!」
 さとり様のからだが、まるでこんがり焼けたトーストのうえのバターみたいにぐずぐずに溶けていく。
 その下からは――「あいつ」があらわれた。
 溶岩の下で、今でもあたいを待っている、あいつが。
 ばらばらのジグゾーパズルみたいに砕け散った手足をひきずりながら、近づいてきた。
 そのうつろな目も、ちらばった髪も、すべてがあのときと同じだった。
 現実じゃない。こんなのは幻なんだ。そう知っているはずだろう?
 ――だけど、今でも溶岩の下には、あいつが眠っているんだよ。たったひとりで、あたいを待っているんだ。
(ねえ。いつまでわたしをひとりぼっちにするの?)
(わたしを溶岩に捨てて、あなたは楽しい生活をずっと送っている。それであなたはオーケーなの?)
(もし、わたしにすまないって気持ちがあるのなら)
(その胸にある花を食べさせてほしいの)
(そうすれば、わたしのいる溶岩の下までこれるようになる)
(真夏のチョコレートみたいにさ、わたしと溶けあって。ねえ)

 あいつのからだが、燃え上がった。
 業火のなかであいつの皮膚が一瞬にして黒く焦げる。どろどろの液状になった肉が剥げ落ち、白骨化していく。
「うわああああああああああっ!」
 ――食べられるべき、なのだ。
 そうしないと、あいつがかわいそうじゃないか。溶岩の下でたったひとりで、あたいを待っているんだ。いい思いはたくさんしてきた。そうさ、ほんとうに楽しかったんだ。だからもう、十分じゃないか。あたいはあのとき死ぬはずだった。あいつを落としたあと、溶岩のなかに落ちるつもりだったじゃないか。だからもう――

 おりん。お姉ちゃんを、お願い。
 ――急に、こいし様の顔が浮かんで、
 めんどくさいお姉ちゃんを、めんどくさいままでいさせてあげて。
 ボクは間違えそうになったけど……おりんなら、間違えないよね。
 ――すぐに、消えた。
 まるで、夢のように。

 そして急に――あのとき、溶岩の淵でダイブしようとしたあたいを止めようとしたひとを、思い出した。

 溶岩のなかに落ちようとしたとき、いきなり後ろから抱きついてきたせいで、あやうくあたいと一緒に落ちかかった、ひとだ。
『あ、あなたみたいなまともっぽいひとが死んじゃうなら、ゴミクズみたいなわたしなんて今すぐ死ななきゃならないじゃない! だから死なないで!』とよくわからないことを言ってきた、ひとだ。
 死ぬはずだったあたいにこんな楽しい人生をくれた、ひとだ。
 そのひとは今、とても苦しんでいる。苦しんで行き場を無くして……自らを消し去ってしまおうとしている。
 猫だったあたいは、「あいつ」が飛び降りるのを、ただみるだけしかなかった。
 あたいは、今度も何もできないのか?
 あのときと一緒だっていうのか?
 んなこたーないだろ。
 あたいはおりんだ。火焔猫燐だ。

「なーーーーーーーーーーおーーーーーーっ!」
 
 あたいは叫んだ。力の限り、叫んだ。
 猫だった頃と同じ、気合いの入れ方だ。
 そして、再び前を見据える。
 心のなかでくすぶったまま、決して消えない炎となって存在する、あいつを。
「わかってほしい、とは言わない。でも、待っててほしいんだ。あたいはどうしても助けたいひとがいるんだよ。
 そりゃ、あのひとは心が折れやすいくせに妙に頑固だし、ちょっとうまくいけばすぐ調子に乗るし、なまじっか心が読めるせいで心を読んでは勝手に落ち込むしで、ほんとにめんどくさいひとだよ。
 だけどね、あたいは、そのひとを、ぜったい失いたくないんだ。
 だってあたいは、そのめんどくさいさとり様が、大好きなんだから!」
 それからあたいは、まったく同じ方向にいる、もうひとりのひとを見据える。
「さとり様! 言ったでしょーがっ。あたいはあんたを死なせはしないっ。世界の果てに行ってもいつまでもいつまでもついていきますからねっ。だから、今あたいは、さとり様の目を覚ますために、あなたの後悔を吹っ飛ばすために、あなたをこの拳で思い切りブン殴ります! 死ぬほど痛いかもしれませんが覚悟してください!」
 うにゃあああああああっ、ともう一度叫びながら、あたいは駆けた。
 近づいていくにつれ、燃えさかる「あいつ」の姿が、はっきりとみえてくる。
 ……あたいのなかから、急速に、恐怖の感情が、消えていった。
 ――ああ、そうか。そうだよ。
 あんたが望んでいたもの、って、そうだったんだよな。
 それは、昔のあたいはできなかった。でも、今なら、できること。
「あいつ」の前に立つと、むせかえるような炎の熱気を感じた。
 吐き気がするくらい、幻だとわかっていてもリアルと思うくらいリアルな幻だった。
 でも、炎とか、白骨死体とか、そんなものは、怖くないんだ。
 そうさ、あたいも、後悔を乗り越えられてなかったんだ。
 過去と面と向かい合うことができずに、逃げていたんだ。

「忘れようとして、ごめんな」

 あたいは、炎に包まれたあいつのからだを、抱きしめた。
 
「……でも、もう忘れないよ。あんたは、あたいのなかにいるから。ずっと、ずっとね」

 一瞬だけ、あいつの顔が、元のきれいな顔に戻って、笑顔をみせてくれた気がした。

 あたいが好きだった、あのほんわかした笑顔を。

 都合のいい幻想だってことはわかっている。
 でも、それでも、あたいは、うれしかった。
 楽しかった思い出が、いま、たくさん、あたいのなかによみがえってきたから。

 あいつの姿は、霧のようにだんだん薄くなっていき、溶けるように消え去った。
 そして代わりに、桃色のくせっ毛と、よく見慣れた、ちょっとびっくりしているような顔があらわれた。
 うつむいたその顔の頬が、ちょっと赤い。
 あれ、なんでテレてんだ?
「あ、あ、ありがとう……おりん」
 なんで感謝されるのかよくわからない。でも、あたいは感謝されることが好きなのであえて否定はしない。
「もう、死ぬとかなんて言いませんか?」
「……うん」
 急に素直になってしまった。あれ、なんかいつもよりキュートな気がするぞ。なんか、うつむきながらちらちらこっちを見てる目がうるんでる気がする。めちゃかわいいんですけど。
 そこで気付いた。「あいつ」はさとり様だった。
 ということは今、あたいはさとり様を抱きしめてる。
「うおおおおおっ」
 思わずからだを離してしまった。
「す、すみません。これは他意はなくっ」
「わ、わかってるよ」
 ああ焦った。ああでもちょっと待って。さとり様もあんなに真っ赤だけど拒絶しなかったってことは、別に離れる必要なかったんじゃね? ああくそなんてもったいないことをしたんだ。あたいって猫時代は抱かれるほうだったから抱くって慣れてないんだよ……さとり様ってすげえぬくくてやらかいなあ、もっと抱きたかったなあ。
「べ、別に……わ、わたしは、嫌じゃないよ……」
「……えっ……ほ、ほんとですか? ほんとに抱いちゃっていいんですか」
「い、いや……その、改めてそう言われると恥ずかしいんだけど……」
 さとり様はもじもじしている。ここでいう恥ずかしい、というのは、アレだろうか。その、なんつーか、無粋なことは言わずにわたしを抱きしめてっ、っていうラブコール的なものなのだろうか。そしてその……ここで言う抱きしめてっていうのは、その、アレなやつだ。つまり……つまり、さとり様は、このおりんとついにペットと飼い主の関係を超えたアレを望んでいるということだ! 
「い、いや、そういうことじゃなくて、」
「わかりました。じゃあ話は早い。さっそくそのからだをむさぼらせてください」
 あたいがさとり様に両手を伸ばして掴もうとすると、「い、いやっ」と何故か拒絶された。意味がわからない。さっきまで嫌じゃないって言ってたのに。相変わらずさとり様はめんどくさい。
「だ。だからそうじゃないって言ってんじゃん!」
 ……あっ、そういや心を閉ざしてくれれば、さとり様の肉体をもてあそび放題だったりするんじゃね? 我ながら天才的な考えだな。頭がカラッポになったらいろいろな世話もかかったりするだろうし、よくわかってないからいけないことやアブノーマルなことだって全然へっちゃら。やばい……まじでやばいよ。考えるだけで発情しちゃうよこれ。
「さ、さとり様。こ、心を閉ざしても……だ、大丈夫ですから」
「え、ええええっ?」
「い、いっしょにお風呂にも入りますし、トイレにも付き添います。毎日着替えもさせていただきますし……あと添い寝もします! 寂しいときには全力でハグしますし、おやすみやおはようのチューだってします! この猫舌のザラザラ感が欲しそうだったらペロペロもします! それ以外のことだってなんでもやっちゃいます! だ、だから、安心して心を閉ざしてください! あたいだけのダッチワイフさとりんになってください! お願いします!」
「ひ、ひいいいいっ?」
「逃がすか!」
 さとり様が逃げようとするので、あたいは素早くさとり様に近づいて猫パンチをほっぺに軽く当てた。つもりだったが、顎を綺麗に打ち抜いた気持ちのいい感触がして、さとり様は両膝からがくんと崩れ落ちて前めりにぶっ倒れた。
 あれ?
 まあいいや。
「ダッチワイフさとりんゲットだぜー!」
 あたいがダッチワイフにのりかかろうとしたとき、突然目の前にさとり様の幽霊のようなものが現れて、あたいのからだをがっしり抱き込んだ。
 次の瞬間、あたいのからだがふわりと空中に持ち上げられたかとおもうと、すごい勢いで一回転して背中から激しく地面に叩きつけられた。
「うげえっ!」
「ワン、ツー、スリー、いえーい!」
 ……こいし様は、あたいから3フォールを取ると、ようやくあたいを解放して立ち上がり、そのままダッシュでそこらへんを駆け回りはじめた。
「ピンフォールいえーい!」
 ダブルピースを高々を上げようとしてバランスを崩したのか、つんのめって思い切りすっころんだ。「ばーん」って音が聞こえるほどの勢いで顔面を地面に打ち付けるという、見てるほうが痛くなるような転び方だった。
「……だ、大丈夫ですか。こいし様」
「ノーザンライトスープレックス、かっこいいよね」
 そういって、こいし様は頭を上げた。顔面激突のダメージはそれほどないらしい。
「あの……かっこいいのはいいんですけど、何故いきなりあたいにノーザンライトスープレックスをかましたんですか」
「馳浩の必殺技なの。知ってる?」
「……知ってますが」
「だったらわたしも、うれしいなっ」
 こいし様はにこりん、とほほ笑んだ。
 それ以上のフォローはなく、会話が終了してしまった。
「あっ。お姉ちゃんみっけ!」
 こいし様はうつ伏せに倒れているさとり様を見つけると、すっくと立ち上がる。
「ピンフォール! ピンフォールいえー!」
 ダッシュしてあおむけになっているさとり様の足元までやってくると、そこで、ぴたり、と立ち止った。
 ちょっとむつかしい顔をしながら、ぐったり動かないさとり様のスカートのあたりを見つめている。
 それから、自分のお腹をさすった。
「……おなかすいた」
 こいし様はさとり様の両足を掴んで股を開けると、いきなりスカートのなかに頭を突っ込んだ。
「ひやあんっ」とさとり様が声をあげてエビ反った。
 ……こいし様しかできないダイナミックな起こし方だった。
「お姉ちゃん、わたし、おなかすいたああああっ」
「わ、わかったから、こいし、そんなところっ」
 からだをくねらせて悶えているさとり様と、そのスカートのなかでもぞもぞ動いているこいし様を、巫女がきょとん、と見つめている。
「どーしちゃったのアレ。なんか別人なんだけど」
「……信じてもらえないと思うけどさ。あの何を考えているのかわからない、いや実際何も考えてないフリーダムなひとが、あたいの知ってるこいし様なんだ」
「ふうん。キツネ憑き?」
「うーん……ちょっと違うかな……話すとややこしいんだけど」
「じゃあ別にいいや。ところで、あんたのボスってお尻でも話せるわけ?」
 こいし様の話はもういいのかよ。なんつー軽いやつだ。
「……そんな奴いるわけないだろーが。あんた妖怪をなんだと思ってるんだよ。で……あたいらを、どうするつもりなの」
 巫女は、ほえ? とあたいを見ている。
「どうするって、どういうこと?」
「大会、メチャクチャにしたろ」
「別にこんな大会がメチャクチャになったって誰も困らないんじゃない?」
「でも、あんただって一歩間違ったらひどい目にあいそうだっただろ」
「確かにこの世界一の顔を蹴ったことは万死に値するけど、まあでもキツネ憑きみたいなもんなんでしょ? とにかく異変が解決したんだからいいじゃん。まー次やったら一族根絶やしにするけどね」
 この巫女、軽いのか怖いのかわからん。
「まあ当然次こんなことはしないだろうし、させないけどさ……こんなことあたいが言うわけじゃないけど、なんかこの……ほんとにいいの?」
「悪いって思ってるってわけ? だったら博麗神社にお賽銭を入れるのね。お賽銭はお金じゃなくてもいいわ。たとえば食べ物でも」
 ごぎゅうううううううう、と異様な音がした。突然巫女はうぐううううとうめくきながら、お腹を押さえながらへたりこんだ。
「お、おい、急にどうしたんだよ! まさかこいし様に蹴られたところが痛むとか……」
「……たべもの」
「え?」
「たべもの、たべものがたべたい……いますぐたべたい……」
「ちょ、ちょっと待ってこいしっ、そこひっぱっちゃダメっ、ぬ、ぬげちゃうっ」
「お姉ちゃん、ラーメンを作ってよ!」
 こいし様は、ようやくさとり様のスカートのなかから顔をあげると、にっこり笑った。
「あのとびきり辛いラーメンを、わたし、久しぶりに食べたい!」



「うわー。相変わらず辛いなー、けどおいしー」
 相変わらず真っ赤な地霊ラーメンを、こいし様はズビズバーとおいしそうに食べている。さすが姉妹といったところだ。
 あれ? じゃあ、どうしてあたいが来る前にはさとり様が料理を作ってなかったんだろう?
「こいしは、わたしの料理を食べると何故かお腹壊しちゃうのよね……」とさとり様がさも不可解げな顔で言った。いや、理由は明白なんですが。
 地霊ラーメンのあまりの赤さにびびって一番手に立候補しなかった巫女は、そんなこいし様の様子を食い入るように見ている。
「つ、次のラーメンはぜったいわたしだからね。だってわたしが一番がんばったんだからねっ」
 ワリバシをぶんぶん振ってそう主張している。
「まあいいけどさ……ほんと気をつけて食べなよ」
 そう言いながら渡したけど、巫女はひったくるようにどんぶりを受け取ると、
「ラーメン! 食べずにいられないっ!」
 あたいの注意を無視してガッついて一気にメンをすすった。
 すぐに異変を察知したのか、「ぐっ」とうめくと、その目が大きく見開かれた。たちまち顔も真っ赤になり、大量の汗が噴き出してくる。それでも吐き出さずにぐっと飲み込むと、
「うわーーーーん! か、からああああい!」
 巫女はどんぶりを置いて、水を一気に飲みほした。
 ひいひい、と肩で息をしながら、
「あ、ありのまま今起こったことを話すわ! 『ラーメンだと思って食べてみたら口のなかに激痛が走る刺激物だった』……な、なんでこんなひどいことをするのよお……食べられないじゃんこれじゃあ……」
「な、なかないでれいむ……それでも泥とか雑草とかよりは……さ?」
「ぐっ……」
 涙目になりながらラーメンを見つめる巫女。
「ぐ、ぐうううううっ」
 両手をぐっと握りしめ、目をつぶって天を見上げると、意を決したのか、目を開き、どんぶりを手に取った。
 ひいいいんと泣きながらラーメンをすすっている巫女の姿をみて、吸血鬼が青い顔をしている。
「さ、咲夜、紅魔館の主として命じるわ。わたしの分まで食べるのよ」
「ちょっと待ってくださいレミリア様。それは職権濫用ってものです」
「それが……あなたの運命なのよ!」
「なんでもかんでも運命って言えばいいってもんじゃないです」
「うう……辛い食べ物なんて意味わかんないよ。口のなかが痛くなるだけだし……」
「レミリア様はお子様口ですからね。カレーの王子様を辛いと認識できるひとははじめてです」
「う、うっさいわね! 辛いのなんて大嫌い! わたし帰る!」
 吸血鬼とメイドがきゃーきゃー言ってるのをニコニコみながら、緑の巫女はズビズバーとメンをすすっている。
「いやー確かに辛いですね。でも、おいしいです、これ」
 どうやらこちらの巫女はかなりの辛党らしい……っていうか虫ソバの考案者だけあって、味覚がどっかおかしいのだろう。
「こんなおいしいものを諏訪子様は食べられないなんて、とても残念です……」
「ぜ、ぜんぜんいいよっ」
 あのド外道金髪ロリは、ポールにロープで縛りつけられ、体中に札をべたべた貼り付けられていた。
「た、確かに残念だけど、しょ、しょうがないよね。ちょっとテンションあがりすぎて悪いことしちゃったしね」
「ちゃんとあるよ。ラーメンはみんなに平等だからね」
 たちまち、外道の顔が青ざめた。
「なんという平等愛でしょう! 早苗、感動です!」
「い、いいよっ。わ、悪いことしたからさ、ここは遠慮しないと、ね?」
「せっかくもうさとり様が作ってるんだから遠慮するなよ。仲直りの一杯さ」
「そうですよ諏訪子様。ラーメンで仲直りだなんて、とてもステキじゃないですか」
「そ、そうだけどっ……なにか今モーレツにイヤな予感がするんだよっ……」
「……おりん、マジでやるの?」
 さとり様は、不安げな顔を向けながら、あたいにラーメンを渡す。
「こんなもん、あいつがやろうとしたことに比べればカッパです」
 あたいは受け取ったラーメンに激辛ラー油を容器ごとだばあと入れた。ラー油の下に沈んでいた真っ黒のトウガラシたちがだばだば入ってしまいスープの色が異様に黒くなってしまったので、いつもは刻んで少量を入れる青唐辛子をまんま三本添えることにした。うん、見た目ちょっとヘルシーなかんじになった。
「へいお待ち。そこに縛られているド外道、じゃなかった、神様の分さ」
「おや、なんかほかのひととちょっと違いますね」
「縛られていてかわいそうだからさ。特別に愛情たっぷりだよ」
「それはそれは。お気遣いありがとうございます」
 ぺこり、と巫女は頭を下げると、笑顔で特製ラーメンを受け取った。
「ちょ、ちょっと待って! 早苗、何かおかしいって思わない?」
「え? 何がですか?」
「な、何がって、反省を促されて縛られている諏訪子にどーして愛情を注いでもらえるのかってことさ!」
「そうですね……まさに慈愛の心……素晴らしい。私達も見習わないといけませんね」
「ち、違う! 諏訪子が言いたいのはどーみてもそのラーメンがおかしいってこと! 赤さを通り越して、その、ドス黒いし! トウガラシのにおいがすんごくきついし!」
「だから、それは愛情たっぷりなせいだって」
「早苗! き、キミはその……愛情の正体が何かって考えたことはない?」
 早苗は、にっこりと笑う。
「愛情とは、優しさと、厳しさでできているんですよ。はい。あーんしてください」
 早苗がラー油とトウガラシがべっとりついたメンをハシですくい、金髪外道に近づけていく。ひいいいと絶望的な顔を浮かべながら、
「ご、ごめんなさい! ホントやりすぎました! だからだ、誰かさなえをとめ」
 ぎゃあああああっと悲鳴が聞こえた。
「ほらー諏訪子様は好き嫌いが多いのでいつまでも成長しないのですよ。嫌がらずにちゃんと残さず食べましょうねー」
 緑の巫女は、ニコニコと笑っていた。
 あたいは、その笑顔をみながらゾッとした。きっとあの巫女は「いい子」なんだろう。でも、もしかするとあの神様よりも、もっと怖いのかもしれない。
 外道の絶叫のあいまに、「うううううう、ううううううっ」と、押し殺すような泣き声が聞こえてきた。あたいはすぐに泣き声の主がわかったので、あわてて振り返った。
「ど、どうしたんだよ、おくう」
 おくうは猫背気味に椅子に座り、ラーメンを前にして、鼻をすんすんさせている。
「さ、さとりさまは……おくうのことを、きらいになったの? ウチは確かにすぐ顔を忘れたり、勘違いしたりするけど、これでもがんばっているのに……」
「い、いや、嫌いになってなんかないと思うけどな」
「で、でも、きらいじゃなかったら、こんな辛いだけでちっともおいしくないものを食べさせようとなんかしないよ! 絶対さとり様はウチのことをきらいなんだよっ……」
 ぐぐぐ、とさとり様がうめいた。
 おくうに悪気が無いというか……素で言ってる分だけ、ダメージがでかいのだろう。相変わらず自分のラーメンが一般受けしない事実を悟らないさとり様にとって、ガチで泣くほど嫌がられるというのもなかなかつらかろう、と思っていると、さとり様はすでにどよーんと肩を落として涙目になっている。やばい。このままだとおくうに続いてさとり様も泣き出すというどうしようもない光景が容易に想像できたので、あたいはそっとおくうに耳打ちした。
「え、えーとな、たぶんね、さとり様は訓練を与えてるんだ。ヒーローたるもの常に鍛えてなきゃなんないだろ? 胃や腸だって同じさ。それに、悪のアジトがジャングルの奥地にあったら、変な味の虫とか植物とかしか食えないときもあるじゃん?」
「な、なるほど……さとり様はウチのことを思って、あえて厳しい食事をくれたんだね……!」
 ウチ、がんばるよ! とおくうは力強く言うと、「成敗!」「悪即斬!」「打ち首獄門!」とか叫びながらラーメンをすすりはじめた。
 ちょっと悪い気もするけど……まあ、ついていい嘘の範囲だよな。
 と、思っていたら、びえええええん、と、またしても泣き声がした。こんなに阿鼻叫喚の状況を作れる地霊ラーメンってまじすごい。
「な、なんでみんな地霊ラーメン食べてんの……?」
 仮設テントの下で椅子に縛られている、はたてっていうおもち天狗だった。
 さとり様が暴走していたときに、椅子に縛られたせいで逃げることもできずに気絶でもしていたのが、地霊ラーメンの刺激臭で起きたのだろう。
「わ、わたしは審査員なのに、審査員なのになんで食べさせてもらえないのっ……? い、いいよっ、ど、どうせわたしの人生なんていつもそんなもんだしっ……わかってるよそんなことっ……わかってるもんっ……うううううっ」
 わかっていると言いながら、明らかに不満タラタラでびいびい泣いている。胸にはりっぱなおもちをつけてるくせに、こどもかこいつ。
 しかし……泣くほどこのラーメンが食べたいひとがいるだなんて。まったくものの価値観というのは多種多様というか……世界って広い。
「お、おりんっ。はたてさんにラーメンを持っていってあげて! すぐに!」
 さとり様も貴重な地霊ラーメンのファンの声には敏感だった。いつの間にか「さん」付けになってるし。
「あっ、で、でも縛られているんじゃ食べれなくないすか」
「じゃ、じゃあわたしが食べさせるよ」
「じゃあさとり様は今度あたいに食べさせてください。あいつにはあたいが食べさせますので」
 え? という顔をしたさとり様からラーメンをひったくって、はたてに近づこうとすると。
 いつの間にか、はたての背後に、何者かの影が立っていた。
 影は、はたてを縛りつけていた縄を両腕で握りしめると、ぶちい、とちぎり捨てた。すごい腕力だった。
 そして、わけがわかってないはたてを、そのままお姫様抱っこした。
「え? え? な、なに?」
 そして、はたてを抱えたままこちらに近づいてくるあれは――あのひとは。
「チャック・ノリス会長!」
 さすが会長だった。あのアナウンサーのクソ天狗とかカメラマンとか開催者側がみんな散り散りに逃げたにも関わらず、この会場にとどまっていたのだ!
 会長は悠々とこちらに近づき、はたてを、さとり様の持つラーメンの前でおろした。
「お前は役目を果たしたようだな。だが、ほかのやつらは逃げ去った」
 会長はそれだけつぶやくと、再び泰然とした足取りで、去っていった。
 なんだかよくわからないけど……会長ははたてを褒めているようだった。
 そして、あたいは去りゆく会長の背中をみながら、逃げだしたあのクソ天狗の命がもういくばくもないような、そんな気がした。



「カップラーメンも好きだったけど、やっぱり生の地霊ラーメンもおいしかったよー。う、うれしー」
 スープまでのみほすと、はたてはうれし泣きをしている。なんかこの天狗泣いてばっかだな……。
「……で、次はどうしますか? 私たちのラーメンにしますか?」
 早苗という緑巫女が言った。
「……へっ?」
「いや、あなた、審査委員長なんですよね。だから、次を」
 はたては、たちまち青い顔になった。
「つ、つつつぎって……その、虫かドブかプロレス……つ、次はなし! もうこれで終わりだから!」
「えーっ。味には自信あったんですけどねー。新鮮な具材も取り寄せましたし」
「あんな虫まみれソバなんて味以前の問題じゃない」と、あの霊夢という赤い巫女が言った。
「ちょっと……なに言ってるんですか。霊夢さんのなんてドブじゃないですか」
 早苗は、さすがにちょっとかちんときたらしい。そらそうだ。お前が言うなって誰もが思う。
「だから、わたしは味について言ってないじゃん。素直に負けを認めるし」
「いやいやいや霊夢さんちのは食べ物ですらないじゃないですか! あんな泥とか草とか!」
「食べ物だよ」
「な、なに言ってるんですか。ふざけないでくだ」
「食べ物だよ。泥とか草とか」
 霊夢の顔を見ていた早苗は、怯えたような、憐れむような顔を浮かべると、うつむき、押し黙ってしまった。
 ……やっぱり巫女って人種は頭おかしい。
「レミリア様。うちはどうしますか」とメイドが吸血鬼に言った。
「へっ? ど、どうするって、どういうこと?」
「審査ですよ審査」
 吸血鬼は、急に顔を真っ赤にした。きっとラーメンを超人と間違ったのが恥ずかしいのだ。ていうかありえない間違いだろ。どーいう脳みそしてんだこいつ。
「え、えー……」
 うつむいて、もじもじしている。
「せっかくだからお見せしましょうか。ほらレミリア様がドヤ顔で見せてくれたオリジナルホールドとか。レッド悪魔ナイトメア固めでしたっけ」
 このメイド、顔はあくまで無表情だけど主人に対してかなーり容赦なかった。
「も、もーいいじゃないのっ! 咲夜なんて嫌い! やっぱりわたし帰る!」
 なんとなくうちと似たような関係に見えて、ちょっとあの咲夜というメイド長に親近感がわいてきた。表情変わらないのがちょっと怖いけど……。
「……じゃあ、もうこれで決まりだよな」とあたいは言った。
 まあいまさらだけど……一応さとり様のためにも、もらうものはもらっておきたいしね。
「え、えーと……わたしだけで決めちゃっていいのかな」と、はたてはあたりをキョロキョロしている。
「どーみてもあんたしかいないだろ。みんな逃げちゃったし、会長は単身でテロ組織のアジトに乗り込むような顔しながら帰っちゃったし」
「まあ、審査員ですしね。ちょっと不本意ですが、しょうがないですね」と、早苗が言った。
「辛くないラーメンが食べたいけどね……」と霊夢が言った。
「すみません。さっききれいなノーザンライトスープレックスを極めてたそこの子とうちのお嬢様をプロレスごっこさせてもよろしいでしょうか」
 無表情のメイド長が、こいし様を指さしながら言った。
「う、うん……わ、わかったよ」
 はたては、緊張した面持ちで、もう一度あたりをみまわした。そして、自分に視線が集中していることにびびったようで、その視線に耐えきれなかったのか目をつぶると、すう、と息を吸った。
 そして、声を出そうとしたときに、「ねえねえ」と、おくうが口をはさんだので、はたてはズッコけた。相変わらずおくうはマイペースなやつだ。
「せっかくだからあれやって! ほら、勝ったひとの手を持ち上げて、成敗! ってやるやつ。カッコいいよ!」
「勝者を成敗してどうすんだよ。ウィナーってやるやつだろ」
「え、えええ……そんなことまで」
「おいなんでさとり様の手を持つのがイヤそうなんだよ。いくらさとり様がキモいからって!」
「わ、わたし、キモくないよっ」
「い、いや、なんかそういうの、慣れなくて……」と、はたては弱々しく笑いながらもごもご言っている。なんだこいつ。
「そういうのって、ただ手をつかんで挙げるだけじゃねーかよ」
「は、話すだけならまだ慣れてきたけど……この、なんかこれ以上自分の挙動がみんなに注目されるのが……」
「大丈夫ですよ。はたてさんなんて誰も見てませんから」
 緑巫女は、心をえぐるような言葉を笑顔で言ってのけた。
「そ、そうだよね。こんな自意識過剰なやつなんてキモいよね……」
 案の定、はたては涙目になってプルプル震えている。この天狗まじでメンタル弱すぎだろ。
「は、はたてさん、そんなに考えすぎないでください!」
 さとり様が珍しく気をきかせた行動を取ろうとしていた。やっぱり貴重なファンは大切にするらしい。
「みんなどうせ失敗すると思っていますから、気軽にやってくれれば大丈夫ですよ!」
 あ、とどめを刺した。
「ど、どうせ……わたしなんて、わたしなんてえ……」
 はたてはしゃがみこんで両足を抱えこみながら、地面の雑草をぶちぶち抜いている。
 こんなんじゃ、いつまでたっても終わりやしない。
 えーい、もうめんどい!
「もーいい。あたいが代わりにやるよ」
「えっ……で、でも、りんちゃんも優勝チームだよね?」
「いっ、いーんだよどーせこんなもんただのけじめでやるだけなんだから」
 さとり様の手を持つのなら、やるのはあたいに決まってんだろーが。
 そんなわけで、あたいはさとり様の前に立った。
 さとり様も、あたいを見つめている。
 なんだかわからない沈黙が流れた。
 やばい、なんか変に緊張してきた。
 あたいを見つめるさとり様も緊張してるのか、頬が紅潮している。
「さ、さとり様……そ、その、チューしていいですか」
「な、何言ってるの」
「いや、これってそういうシチュかと……」
「ち、違うよ。ほら、手を取ってよ。わ、わたしまで恥ずかしくなってきたじゃない」
 あたいはあわててさとり様の手を取った。
 さとり様の腕をあげようとすると、途中から上げきれなくなって、あたいは自然とどんどんさとり様に近づいていく。
 あれ? なんかヘンじゃね?
「ちょ、ちょっと待って。お、おりん、顔が近いって」
 いつの間にか、さとり様の息づかいが聞こえてくるくらい、めっちゃ近くになっている。
「そ、そんなこと言ったって。さとり様の腕が短すぎて、近づかないと上げられないんですよ」
「わ、わたしの手は、短くなんてないよっ」
「や、やっぱりチューしますか」
「ていうか対面ってヘンじゃない? ふつーそういうのって横じゃないの?」と吸血鬼が言った。
 あ、そうか。
 そんなわけで、横にどいてみると、あっさりとさとり様の手を上げることができた。
「地霊ラーメンの、勝ち!」
「うわ、普通に言った」
「まあいいじゃないですか」
「お姉ちゃん、おめでとう!」
 こいし様が、突然ものすごい勢いでぱちぱちと拍手をしはじめた。
 それにつられるように、ぱちぱちぱち、といくつかの拍手があたいたちをとりかこんだ。
 こいし様、なんのおめでとうなのか、絶対わかってないよなー。ほかのやつらだって、別にこんなわけわかんない大会で優勝したことにおめでとうだなんて思ってないよね……とか思ったけど、さとり様の照れながらもうれしそうな笑顔がみれたから、よしとしよう。



「……ううううう……」
 あたいが目を覚ますと、いつの間にかあたりは薄い闇に包まれていた。
 めっちゃ頭ががんがんする。目を開けるのもつらかったけど、薄目に見えたそこにさとり様の顔がおぼろに見えたので、がんばって起きることにした。
「さ、さとり様は……ご無事なんですね」
 結局あのあと、萃香という鬼が「祝勝会をやるからね。主賓は逃げちゃだめだよ?」と、ひょうたんからばんばん酒を出してきて、そのまま宴会になだれ込んでしまったのだ。ちなみにつまみは早苗の用意した新鮮な虫。……結局霊夢と早苗しか食べてなかったけど。萃香は鬼だけあって「勝ったひとはたくさんのまないとねえ」と容赦なかった。あたいは酒を一気にのまされて、あっけなくばたんきゅーしてしまったのだ。
「うん。どーも大丈夫みたいだねっ。あはは」
 あたいの頭のそばで座っているさとり様は、こちらを見下ろしながら、ほんのり頬を赤くして、ふわふわと笑っている。
 ……知らなかったんだけど、さとり様は、けっこうお酒に強かったのだ。っていうか、あたいが弱いのか……。
 でも、ふらふら振り子みたいに揺れていたり、なんだか変な固定笑いをしているところをみると、やっぱかなり酔ってるみたいだ。
「うふふ。こんなに弱ったおりんってはじめてだよ。おもしろーい」
「ひとが辛いってのにおもしろいって言いますか……鬼ですかあなた。心配するとかそういう殊勝な心は無いんですか」
「だってえ。おりんって何をするにもしっかりしてるというか、弱いところ見せないじゃん。だから、すごく新鮮なの」
「……ジンジャエールが好きな猫はいるみたいですけど、お酒が好きな猫は聞いたことありませんよ……連中、まだ騒いでるんですか?」
「うん。こいしは楽しそうに吸血鬼とプロレスしてるし、おくうは緑の巫女と暴れん坊将軍ごっこをしている。あ、今こいしがきれいにジャーマンきめたよ。あのきれいなブリッジはゴッチ式だねっ」
「……あ。そうですか」
「こいし、あの吸血鬼とすごく波長が合うみたいね。とても楽しそう。ふふふ」
「それって考えなしってことじゃないすか」
 やれやれ……。
 それにしても、だ。
 なんでこいつら、あんなことがあった直後に、あたいらとこんなに騒げるんだ? あいつらからみれば、あたいらは騒ぎを起こした張本人じゃないのか。こいつら、どっかタガが外れてるんじゃないのか。
「でも……いいひとたちだよ。ほら、諏訪子のこと、おりんが話したらさ、すぐに信じてくれたじゃん」
 ……まあ、確かにそうだ。あの騒ぎのあと、あいつらがさとり様を囲んで「一体さっきのはなんなのさ」「あなたは一体何者なんですか」などと質問責めにした。まあ、あれだけの騒ぎを起こしたんだから当たり前だ。で、案の定さとり様があわわわと目を回していたので、代わりにあたいがあのド外道金髪ロリがやろうとしたこと、それからさとり様がキレてああなったという話をした。想像だけど、まあきっと当たっていると思う。
 するとド外道が「だって、売り言葉に買い言葉っていうかー」と悪びれもせずにぜんぶ話したので、「発想がガチすぎて引く」「まさに邪神」「やはり守矢か」となり、あの早苗っていう巫女も「うーん。さすがに諏訪子様がやりすぎですね。たまには反省してくださいね」とあっさり認めた。
 あたいもさとり様もあっけにとられるくらいあっさりと。
 で、結局ラーメンふるまってなし崩しに「まあいいじゃん?」みたいになってしまった感じだけど……。
「……まあ、ほとんどはいい連中だとは思いますけどね……なんつーか、そんな軽いノリでいいのか、っていう」
「おりんは基本的にマジメだからねー。たまに怖いときがあるけど」
「あたいは常識を持っているつもりですよ……」
「あはは。猫が一番常識人だなんて。おっかしな世界よねー」
 さとり様はけろけろ笑いはじめた。うーむ、笑いのツボがまったくわからない。こりゃーやっぱけっこう酔ってるな。
「えーそんなに酔ってないよー。おりんと違ってさー」
「いや確実に酔ってますって」
 さとり様はふわふわと左右に揺れながら、お酒でとろんとした目でこちらを見つめている。
「おりん。ありがとうね」
 ものすごく唐突だった。
「……ええと、すみません。昼も言われたと思うんですけど、正直毎回どこに感謝されているのかさっぱりなんですが」
「今回は、おりんのおかげで、こんな気持ちいいことに出会えたこと」
「……それはお酒のせいじゃないすか」
「もー、おりんってどーしていつもこーなのかなー。せっかくわたしがかんどーてきなことを言ってるのにさー」
 そう言ってヘタクソな膨れたふりをすると、すぐににやあん、とふやけた笑いを浮かべて、あたいの顔をのぞきこんだ。
「えへへ。うそようそー。うっそー。あはは、びびっちゃった?」
「……だからわかってますって。ちゃんと心を読んでくださいよ」
「でもね。おりんにありがとうって思ってるのは、うそじゃないよ。こーやって外にでてさ、ほんといろいろあったけどさ、そのいろいろってあの家にずっといたらできないことだったしさ、わたしは、それがすごくうれしいなっておもっているの」
「……なに言ってるのかよくわかんないすけど……」
「ほらーまたそんなつれないことばっかりー。そんないじわるばっか言うと、こうだぞっ」
 急に、おなかのあたりに体重が乗ってきた。さとり様のお尻がどかっと乗っかってきたのだ。正直、けっこう重い。
「あーっ、重いなんて思ってるー。もーほんと失礼しちゃうなー」
 そして、お尻をぐりぐりと押し付けてきた。うぐう、と圧迫されたお腹から、気持ち悪いものが口のあたりまで押し出されてきた気がした。
「や、やめてくださいまじでっ。は、吐きそう」
「ほらー、わたしにあやまるのだ。あはは」
 さとり様のお尻にぐりぐりされるなんて超うれしいはずなのに……なんでこんなときなんだよー。
「ねえ。おりん」
 あたいにまたがりながら、さとり様は、こちらを見下ろしている。そのうれしそうな目が、妙に挑戦的に輝いている。
「あのとき、わたしをぎゅーってしたよね」
「……はい」
「じゃあ、次はわたしの番だね」
「……はい?」
 さとり様は、ぬふふー、と笑うと、あたいの上にもたれかかって。両手で、ぎゅーっと抱いてきた。
 すごく強い力だった。
 うれしいんだけど、強すぎて……気持ち悪くなってきた。
「なによー。せっかくわたしがぎゅっとしてやったのにー」
 さとり様が、さらに強い力でぎゅぎゅーっとしてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、さとり様、加減というものを、ていうか首を締めないで、ちょっと、まじで、い、息が」
「ごめん。ちょっと、このままでいさせて。お願い」
「……」
 あたいを掴むさとり様の手は、かすかに震えていた。
「……こんなに気分がいいのにね。やっぱり、わたしは、だめなやつだよね」
「……こいし様のことですか」
「あはは、やっぱりわかるの?」とさとり様は空笑いをする。
「……ほんとうのこいしはね。こんなにぎやかなのに、ひとりぼっちなの。ひとりで、みんなの届かない、心の内がわにいるの。もし、もっとはやく、……こういう世界に出会えたら、こいしも……あんなことにならずにすんだのかな? ……わたしがあんなこと言わなければ……今ごろこのにぎやかななかにいられたんじゃないかな、って思うと……。後悔はしないって決めたのにね。やっぱり、わたしは、だめなやつだよね」
「……さとり様。あたい、こいし様に会ったんです。さとり様を止めようとしたときに、こいし様から、さとり様をお願いされたんですよ。ほんとうに一瞬でしたが……あれは間違いなく、こいし様でした。あの声のおかげで、あたいは……さとり様に近づけたんです」
「……」
「だから、こいし様は、ひとりだけでいるわけじゃないと思うんです。ただ、少しだけ遠くにいるだけで、ちゃんと声は届いていると思うんです。……さとり様がこいし様のことでそんなに悲しんでいるのは、こいし様も望んでいません。こいし様は……さとり様が、さとり様のままでいてくれるのを望んでいたのですから」
「……」
「……だから、だから、さとり様はハッピーでいてください。そうすれば、こいし様も安心してハッピーになれると思うのです。だからさとり様、これからずっとハッピーでいましょう。ずっとずっと、ずっと、ずっと」
 嗚咽をすすった音がしたあと、「え、えへへへ」という笑い声が、聞こえた。
「なんか、わたしって、みんなに心配されてばっかだね。……あ、ごめんね。こう言うとまた心配しちゃうよね。ほんとわたしって、しあわせものだなあ、って思っただけ。……おりん、ほんとうに、ありがとう」
「今日はやたらあたいに感謝しますね」
「わたしは、今までも、ずっと、たくさん、ありがとうを言ってきたんだよ。心のなかでね」
「あたいはさとり様と違って心が読めないので、ちゃんと声を出して言ってください」
「……うん」
 あたいの首を抱えているさとり様の腕が、緊張するように、こわばった。
「……おりん、ほんとうに、ありがとう。でも、これからもきっとおりんには、たくさん迷惑をかけちゃうと思うんだ。だけど……これからも、ずっと、いっしょにいてほしいな」
「……それは、プロポーズと解釈してよろしいでしょうか?」
「もー、おりんってすぐにそっちのほうに考えるんだからー」
 さとり様はけろけろ笑っている。お酒のせいかノリいいなおい。もしかして今ならチューくらいできるんじゃね?
 そう思っていると、またしても首がぐぐぐと締まってきた。
「ちょ、ちょっと待ってください、だから、ま、まじで首がしまりますからっ」
「あーっ。お姉ちゃんがおりんに縦四方固めを極めてるーっ」
「ガッチリ極まってますねー。さすが姉妹です」
 こいし様とおくうの声で、さとり様はぎょっとして、あわてて跳ね起きてしまった。
 ああ……こんな状態じゃなければ逃がしやしなかったのにー。返すがえす酒が呪わしい。
「りんちゃん、大丈夫?」と、おくうが言ってくれた。
「……あんまり大丈夫じゃないから、今度はさとり様にもっと優しくいたわりをもった介抱をされたい」
「うーんでもさとり様はこいし様と頂上決戦で忙しそうだよ。ウチで我慢して?」
「おくうだと逆にトドメを刺されそうだからいいよ……まあさとり様も似たようなもんだけど」
 みると、こいし様はすでにファイティングポーズをとってやる気まんまんだった。
「吸血鬼に勝ったわたしと、おりんに勝ったお姉ちゃんとで対決だよっ」
 さとり様は、お酒でぐらつきながら、腰が引けまくっていた。
「い、いや、待って、これはちがうのっ」
「え? じゃあ、おりんとなにをしていたの?」
「な、なにって……」
 急に、さとり様は、真っ赤になった。ああ、素に戻っちゃった……。
「いまだ!」
 こいし様がさとり様の両手を抱えこむと、そのまま引っこ抜いて後方へ反り投げた。かんぬきスープレックスだった。こいし様はきれいなブリッジを作り、さとり様はなすがまま背中から地面に叩きつけられた。
「むぎゃあっ?」
「フォール! フォールいえー!」
 こいし様は、すぐさまむくりと起き上がると、あおむけでのびているさとり様の上にのっかろうとして、
 突然、空を見上げると、そのまま、じっ、と眺めたまま立ち止まった。
「……どしたんですか?」
「……あの空に浮かんでいる、バナナみたいな白いのは、なに?」
 見上げると、夜のとばりのなかに、ずいぶん大きな三日月が浮かんでいた。
 そうか……地底にいると、月なんて見ることないもんなあ。
「あれは月というんですよ。こことは違う、ちょっと遠いところにある別の星なんです」
「……ねえ。あそこに、わたしがいるよ」
 こいし様は、じっ、と、空を見上げながら。
「胸に、たくさんの花束を抱えて、あのおおきなバナナに座りながら、しあわせそうに笑っているんだ。お姉ちゃんも、みえる?」
 さとり様も、月を見た。
 まぶしそうに、目を細めて、ほほえんだ。
「……わたしにも、みえるよ。まるで花嫁さんみたいな、こいしが」
「誰のお嫁さんなんだろう?」
「……これから出会う素敵なひとかもね」
「ねえ、あの星は、いつか、遠くに行ってしまうの?」
「……ううん。ずっと、いっしょだよ。ずっと、ずっと」
「そうなんだ。よかったあ。じゃあ、あのわたしも、さびしくないね」
「……そうだね。地上に行って、空を見上げれば、いつでも会えるんだよね」
「……あのわたし、きっと、お姉ちゃんのお嫁さんだと思う」
「え、わたしと結婚するの?」
「だって、あのわたしは、ずっとお姉ちゃんといっしょにいたがっているから」
 さとり様は、自分の上に乗りかかっているこいし様の頭を、そっと撫でた。
「……大丈夫よ。そんなことしなくても、どっちのこいしも、今でも、これからも、ずっといっしょなんだから」
「……うんっ」
 そんなこいし様を見ながら、さとり様は、優しく微笑んだ。
 少し悲しそうだったけど、涙は流さなかった。

「あーっ。優勝チームがこんなところにたまってるよー」

 盃を手にした萃香が、あたいたちを指さした。やばい。
「主賓がすみっこだなんて許さなえ!」
 だいぶべろんべろんになった早苗が、お祓い棒をぶんぶん振りながらやってきた。
「ご、ごめんなさい、諏訪子またひどいことしようとして、ほんとにごめんなさい! だ、だからもうラーメンは……あの赤いラーメンだけはもう……やめてください。なんでもしますから。なんでもしますからあ……」
 諏訪子がぼろぼろ泣きながらやってきた。だいぶ地霊ラーメンにトラウマを植え付けられたらしい。……ちょっとかわいそうになってきた。
「ラーメン! 辛くない普通のラーメンをちょうだいよ! もう虫飽きた!」
 目の据わった霊夢が、片手にセミのから揚げが盛ってある紙皿、片手にコップ酒を持ちながらやってきた。
「こ、こいし! リベンジマッチよ! じ、実はわたしラフファイトじゃないとほんとうの力出せないのっ。咲夜、すぐに金網電流爆破式のリングを用意して!」
 服のあちこちがボロボロになったレミリアがやってきた。
「アホなこと言わないでください。早く帰るんじゃなかったのですか」
 その後ろから、咲夜が相変わらず無表情でやってきた。

 ああ、なんてさわがしい連中だ。……せっかくしんみりしていたってのに。こりゃもーさっきのよーなおいしい展開はないなー。
 でも、おくうも、こいし様も、さとり様も……みんな楽しそうだから……まあ、いっか。

 あの大きな月まで、笑っているみたいだしね。
三作目です。長い話を読んでくださった方、ありがとうございました。
藍田真琴
https://twitter.com/imako69
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.390簡易評価
2.100パレット削除
 面白かったです!
3.10名前が無い程度の能力削除
キャラや話が腐ってるのが好きなどこぞの人達が好きそうな内容でした。単純に気持ち悪い。
4.100名前が無い程度の能力削除
ライトに王道で面白かったです。ラーメン食べたい。
5.100名前が無い程度の能力削除
あーww長かったww
すごいおもしろかった!大事な所で軽いのはあれだったかな。夢想封印パンチとか!
それでもとってもよかったです!ごちそうさまでした
8.80名前が無い程度の能力削除
とある場所の住人である俺に隙はなかった
良かったです。ただ、作者さん、ギャグのセンスは今一つのようですね。
まあこれは前半の話ですが、単調で何度かブラバしかけました
11.60名前が無い程度の能力削除
うーん…。何とも言えない。ギャグとシリアスを混ぜてぐちゃぐちゃにした感じ?独特な雰囲気がありますね。
12.80奇声を発する程度の能力削除
これはこれで良かったです
13.無評価名前が無い程度の能力削除
シリアスからギャグ、またはその逆の展開が緩やかな坂じゃなく断崖絶壁
ついていけるわけがない
15.90名前が無い程度の能力削除
悪意と欲望うずまく世界観は嫌いですけど、何だかんだ面白かったです。
17.60名前が無い程度の能力削除
なんと言うか主題であるはずのラーメンが途中から中二展開のための小道具にしかなってなくて残念な感じだった。
話し自体はそこそこ面白かったが途中から重い話とギャグが交互に入ってくるせいで
ギャグとしても楽しめないし重い話としても薄い半端な感じになってしまってるのがもったいなかった。
18.100名前が無い程度の能力削除
あんな味のラーメンにするから評価も辛いのが集まるんでしょうなw

前半主従の掛け合いには笑わせてもらいました。
こういう、ダメダメな古明地へたり様も好きです。
19.40名前が無い程度の能力削除
世界観、キャラクターの解釈などは楽しませていただきましたが、途中から話が迷走しているように感じました。一人称にも違和感を覚えます。
あと文に救いを
20.20名前が無い程度の能力削除
展開が唐突すぎる。タイトルのわりにラーメンがほとんど関係ない。
あと、さとりの「~だよっ。」って口調、こいしの「ぼく」、空の「ウチ」に最後まで違和感あったし、
わざわざ馴染みのない言い方にした意図も感じられなかった。
22.30名前が無い程度の能力削除
所々に違和感。
何よりもお空の「りんちゃん」。
そんなあなたに夢想封印パンチ。
24.100夜空削除
コメディタッチなお燐との会話と急に中二病チックなこいしとの絡みが対称的で面白かったです
語り手や展開もぐるぐるとめまぐるしく変わっていくので、なかなか話の軸となる部分が見えにくかったのですが
過去の因果に対する決別と覚悟や、しれっと笑えてしまうエピソードの裏に潜む劣等感やセンチメンタルの類に共感を覚えたりと
内容は笑いもなみだもせつなさもありと盛りだくさんで、とてもすてきでした。ちょっととっちらかった感じでしたけれど、読み進めていくと不思議な読了感が湧いてきてよかったです
25.30名前が無い程度の能力削除
一言で言えば、不調和。
ショートケーキとキムチを同時に食っても、(よほど上手い調理をされない限り)不味い。
ばっさりとギャグは削った方が良かったのでは?
そもそも作者さんの一番やりたい事はドロドロした物なのでしょう?
前作には他の作者に無いしっかりした良さがありましたよ? 次作に期待します。
26.100名前が無い程度の能力削除
胸を張ってこれセカイ系だと紹介できるようなセカイ系作品
傷心した読心能力者にコメディタッチな変態をぶつける療法は一般化してしまったのでしょうか
繊細な心と綺麗な光景を描くのに定評がある作家さんだと再認識
こいしを月に喩えるシーンがすごく印象に残りました
消滅させてしまった本来のこいしをどう扱うのかと不安だったけどこの描き方なら後味が悪くないです
キャラ全員の落としどころが前向きで、現実的にハッピーエンドなのがよかったです
悪役も笑える程度に懲らしめれてるし
私はこの作品、好きだけど酷評してるヒトの意見もその通りだと思う
一人称が前半お燐のときはまだ読みやすかったけれど後半さとりの一人称に変わってからは、心を読めてすべてを把握できる妖怪の一人称だからか、神様の視点のようで困惑しました
暗い話をコメディタッチで緩和しようとしたらしいというのはわかるのですが、
そのギャグ部分が黒いというかさでずむ方向に特化しすぎな気がしました
はたてが地霊ラーメンのファンで文にひどい目に遭わされるのは前半の時点で予想できました
お空の扱いも伏線っぽいからどんな扱いなのか期待してたのに扱いがちょっと残念でした
諏訪子のようなメンタルの強い純粋な悪役は繊細なさとり達といい対比なってたのにイヤボーンの法則の犠牲になってしまったのも残念でした
28.100名前が無い程度の能力削除
エグさとギャグと感動の配分が堪らんです
30.603削除
非常に評価に困る作品。
面白かったかどうかという一点だけ見れば、どんなジャンルでも来いという自分にはそれなりに面白かったです。
ですがシリアスなことをやろうとして失敗している感がものすごい。
その理由は主に、というか全部壊れギャグのせいですけど。
作者様の力量なら、変なギャグを入れないで全編シリアスで通すことも可能だったと思うんですよね。
31.100名前が無い程度の能力削除
少し変わったキャラでテンポいいぎゃぐでした。
早く新作読みたいです。