Room alone.
広いお部屋に一人きり。
自由。英語で言うならフリーダム。
それを――そんなものを――得るために、人間というものたちは死山血河を築き、その頂で声高に正典を読み上げた。私はといえば「神社に行ってくるわ」と告げるパチュリー様を見送るだけでそれを手に入れた。
「ずるいな悪魔流石ずるい」
こんなものだったっけか、自由。
大丈夫か人間――なんて、コーヒーカップ片手に自由の尊さを危ぶんでいる私はいわゆる一匹の小悪魔である。名前はまだ(つけてもらったことが)無い。
魔法図書館の司書などやっているが、今はただの暇な人である。誤解のないように明言しておくが、別に解雇されたわけではない。私の働きぶりときたら、勤勉と形容する以外に無いものである。悪魔なのに。
これもそれも不眠不休がデフォという雇用主のせいだ。しかも給与(魂等プライスレスなもの含む)無し。お茶の時間はあっても睡眠時間はないという超絶ブラックである。悪魔なのに。
改めて思う。これが搾取か――もっと搾り取られたいものである。いろいろと。できればえろえろと。
「パチュリー! 俺だー! 結婚してくれー!」
脈絡も無く図書館の中心で自由を叫んでみた。いつもならゼロ秒でお仕置きが飛んでくる声量である。今日は火曜日だから、きっとミディアム・レアの刑だったろうに。残念無念。
「私としてはそろそろミディアムでもー!」
自重していた本音も爆発させてみる。こういうことを本人に聞かれると逆にレベルを下げられるのだ。(脳内)奥様は魔女である。
久しぶりに叫んだらちょっと喉が痛くなったので、コーヒーで一服。
「……はふ」
例えば、の話。
コーヒーカップから立ち上る湯気をぼんやり眺めているだけでも時間は潰せる。
だが、悪魔の声は私を駆り立てる。愉快が足りない。快楽を探せ。悦楽は何処にある。真の快楽主義者は時間を無駄にすることを何よりも嫌うものだ。そして悪魔は生粋のエコノミストなのだ。ホモ・エコノミクスなんて目じゃない。
でも、私は、今日四杯目のコーヒーを――地獄のように熱いコーヒーを――淹れている。
自由が浪費されている。大丈夫か人間。
こういうときに何をしたらいいのか私はわからない……いや、わからなくなってしまったというべきか。
今、私は、
「ひとり」
なのだった。それだけのことが感慨深く感じている私が可笑しい。
昔は、ずっと一人だったのに。
辺りを見回す。色とりどりのくすんだ背表紙が埋め尽くす棚、棚、本棚……それが“世界”の果てだった。
つう、と手を水平に伸ばして、
「遠いなあ」
私はそれが昔よりもずっとずっと遠いことを知る。よくもまあ広くなったものだ。でも下手な大広間よりも広いというのは些かやりすぎだと思う。もっとも、あの人はまだ足りないと思っているのだろうが。
この“世界”はあの人によって少しずつ満たされていく。あの頃にこんな大机は無かった。こんな怪しげな実験器具は無かったし、そもそもペンもインクも無かった。口につけているこのカップだって――全てあの人が持ち込んだものだ。
そして、ここは今や魔法図書館だ。衒学達のヴァルハラだ。裏孵らんとする世界の卵だ。もはやこの部屋にあるもの全てがあの人の標本であり試料であり道具なのだ――恐らく私も含めて。
――Save the mind.
――締め切れ。さすれば留まらん。
「そっか。うん、つまり、あれだ」
あの頃の私はこの密室から締め出された。
そして、もう二度と戻ってこない。
「私、コーヒーカップなんだ」
むんぐりと厚い白磁のコーヒーカップ――紅魔館でここにしかない代物だ。お嬢様は紅茶派でおまけに子供舌だから、メイド長もコーヒーは淹れない。コーヒーを淹れるのは私の仕事だ。
私は地獄のように熱いコーヒーで私を満たす。そして、それを口にするのだ。魔法図書館館長が。知識と日陰の少女が。動かない大図書館が。七曜の魔女が。
今、私がそうしているように――パチュリー・ノーレッジは、私に接吻する?
「あ」
思わず舌打ち。
油断した。なんて迂闊。
今、私は一人きりだっていうのに。
「やっちゃった」
心が蕩けたら、どうしようもないじゃあないか。
胎の奥底が疼いたら、どうしようもないじゃあないか。
ほら、こうも胸が熱くなると――
「やっちゃった……」
――点けちゃいけない火が点いちゃうじゃあないか。
「……ぁは」
みるみる鼓動が加速する。血潮は全身を加熱して、火照った頬の色はきっと恋する少女のそれだろう。鏡を見ずともわかる。もしこの熱さが恋でなければ何だというのか、どうかこの卑しくはしたない悪魔に教えて欲しい。
私は悪魔で、でも魔女の言いなり。名も無い惨めな下僕。でもそんな私と貴方の間に、契約なんて無粋は塵一つだって無い。
ああ――倒錯! 倒錯! 捻切れんばかりの倒錯!
私と貴方の関係はこんなにも自由で、不条理だと。
責め立てろホモ・エコノミクス。その罵声が、私の求めて已まない悦楽だ。
「あは……!」
私は衝動のままに靴を脱ぎ、大机の上に踊り出る。
開いたままの魔導書、書き損じて放られた紙切れ、散乱とした実験材料たち。その隙間を縫うようにステップを踏む。ストッキング越しに感じるつるりとした机の感触にぞくぞくする。着地した爪先、そのすぐ横に今日四杯目のコーヒーがあるのだ。
もしも足を滑らせてしまったら? ドジっ娘宜しくすっ転ぶ私。勿論パンチラは欠かせない。今日は強襲用の黒レースだ。華麗な刹那の後に感じる衝撃。速報! 速報! 超局所的な大揺れが観測されました。後は言わずもがな、所謂エントロピーの増大。そしてカオスに還る机上。つまり大惨事!
どう言い訳しよう?
それとも素直に白状しちゃう?
私は、貴方の小悪魔は、紛れも無い嬌声を上げながら踊り狂って、貴方の仕事場を踏み荒らしました……なんて?
なんて。
「なんて」
なんて――素敵なシチュエーション! 妄想するのも勿体無いほど刺激に満ち溢れた未来!
「……ああ、ご主人様ぁ!」
睦言のように甘々と叫ぶ。私は行き摺りの娼婦のようなものだけれど、どんなに頼まれたってこの声は誰にも聞かせない。ごめんなさいご主人様――ご主人様! ああご主人様!――貴方にだって。
この声は、この声音は、この思いは――私だけのものよ。
「我があるじ! マイマスター! パチュリー・ノーレッジ様ぁ!」
奴隷だけが味わえる官能。頭蓋が揺れて、脳髄が溶けて、思考が蕩けて落ちる。魔法のようだ。でも魔法に掛かっているわけではない。
ただ不条理に、熱すら帯びて、繋ぎ止められる――恋とはそれだ。地獄のようなそれだ。
沸騰する――私は宙に浮いた。もう証拠を残さずに乱れる自信が無い。
昇りつめていく。緩急無く着々と、狂ったジャイロのようにくるくる振れながら。瀟洒な従者が拡張してくれたおかげで天井はずっと先だ。
捲れるスカートが煩わしい。いっそ脱いじゃおうかと思う。受肉した時のままの姿を曝け出す。悪魔のストリップだ。でも観客は寡黙な本だけ。喝采も嘲笑も無いショー。ただ一人喘ぐ私はさぞ浅ましいだろう。
だけど、それでいい。むしろそれこそが――!
「――ぁ」
予想より早くに感情は臨界を越えた。
私の絶頂はいつも乳白色だ。火傷しそうなホットミルク。ぶちまけられる恍惚。ホワイトアウト。
「あぁ…………」
そして、ミルクがこぼれていく。私の肌を伝い、雫となって滴り落ちる。大机にたどり着く前に霧散し、希薄になっていく様を私は眼を閉じて感じ取る。この感覚が私は一番好きだ。ざわざわとした熱を失い、代わりにひたひたと静寂で満たされる。蕩けた躰が爪先から形を取り戻していく過程。
エゴの完全結晶の析出。
「ああ……愛しい」
貴方。
いつも見つめている――か細い腕の、病的に白い肌。頁をめくる指が硝子細工のように折れてしまいそう。薄い唇と、細い目。日陰に沈む菫色の髪。貴方が自慢にしている以上に、私はその色に恋をしているのに。
――Don't you know?
――You are my lovely locked girl!
そんな貴方が、今此処にいない。
あの頃のように?――いいえ。私は、貴方を、待っている。
それなのに、此処には貴方を思わせる印がたくさんあるのに、貴方は今此処にいないから。
杞憂してしまう。
「貴方が何処にもいないようで」
そんな未来は白日夢のようだ。貴方がいなくなって、私は泣いている。泣き叫んでいる。泣き喚いている。得てもいない貴方を失った悲しみで流す涙で、貴方の痕跡沈んでいくのをただ見ている。そうして涙も声も枯れたら――ああ駄目だ駄目だそれ以上は!
「ああパチュリー様ぁ!」
恋の終わりは今じゃない。私はまだミディアムにもなっていないのに、終わりにするわけにはいかない。
貴方で感じられる全てを感じ尽くすその時まで、私はこの恋を――叶わない恋を――続けていたいの。
「パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様パチュリー様……」
貴方の名前をいくら呼んでも、恋は繋ぎ止められない。わかってる。不条理の鎖は断ち切られるのも不条理だ。一度切れてしまったら――その恋はそれまでだ。
だから……ねえ、愛しい貴方。
私が次の恋に繋ぎ止められる前に――
どうか、早く帰ってきて欲しい。あの椅子に座って欲しい。ほら、読んでいない本がまだあんなにたくさん残っている。本を置く場所もあんなに余っている。貴方の望みはまだ埋め尽くされていない。
「まだかなぁ」
貴方の帰る場所は他の何処でもなく此処なのだから。
真っ直ぐに帰ってきて欲しいよ――私がいる、此処に。
そうしてこうして、私は今日四杯目のコーヒーを飲み干して。
今はぼうっと今日五杯目のコーヒーの湯気を眺めながら、それをカフェラテにする方法を考えている。
無音映画に出てきそう
なんかよくわからんが、なんかすごい。
歌にすればなお良さそうな雰囲気。