たとえば、新しいスペルカードが完成したとき。
自分の思うように仕上がれば嬉しいし、満足するだろう。
「よし、完成だ!」
そうして、ひと時の充足感に身を委ねた後、次なる欲求が湧きあがってくる。
そう、それは
――誰かに見せてやりたいぜ……!
ということである。
この点において、スペルカードもグリモワールも変わりはない。
今、魔理沙の眼前には、完成したばかりのグリモワールがある。
自分が見てきたスペルカードを整理し、記したものだ。
せっかく一冊の本という形に仕上げたのだから、自慢したくてたまらない。
といって、まだ広く一般へ公開する気にもならなかった。
そこで、彼女は己の纏めた書物を誰かにお披露目しようと考えたのであった。
さて、この場合の「誰か」とは誰でもいいわけではない。
魔理沙は知り合いひとりひとりの顔を頭に思い浮かべながら、考える。
パチュリーはどうだろうか。脳内で血色の悪い顔が微かな嘲笑の色を浮かべ、ぽわんと消えた。
あいつはダメだ、と魔理沙は首を振る。パチュリーほど偉大な「読者様」は、幻想郷広しといえども、そうそういらっしゃるようなものじゃない。魔理沙から見れば十分に読みごたえのある本をパチュリーがボロカスに言っていたことなど、何度もあった。
かの魔女に言わせれば「色々な本を読めば読むほど、粗が気になるようになるものよ。あと、愛ゆえね」ということらしいが、だいたいからして「愛ゆえね」なんて、しれっとした顔で言うようなヤツのことなど信用できるはずもない。愛が籠っているなら、愛が籠っているなりの言い方ってものがあるんじゃないか、と魔理沙は思う。もっともパチュリーの口が悪いのは、今に始まったことではないのだが。
とにかく、パチュリーなんかに見せた日には、サンドバッグ確定である。全自動起き上がりこぼしの役を演ずるのは御免だった。下手をすれば起き上がれないし。
では、アリスはどうか。脳内で冷やかな青い目がすっと細められ、何か言いたげにその口元が動いた瞬間、魔理沙は首をぶんぶんと振って彼女のイメージを掻き消した。
やはりダメだ。あいつは、何かあると魔理沙魔理沙うるさいくせに、普段の物言いはやたらと小姑じみているのである。お前は私のママかよ、と魔理沙は渋い顔をした。
人形を何体も操るなんていう細かい作業をいつもやっていれば、自然と性格も細かくなるのかも知れんな、と魔理沙は思う。そんなアリスに本を見せたなら、パチュリーほどボロカスには言わないとしても、微に入り細を穿ち本の問題点を指摘してきそうだ。下手をすると、「別にあんたのために用意したわけじゃないけど」なんて言いながら、『やさしいグリモワールの書き方』(アリス・マーガトロイド著)などという本を手渡してきかねない。
いずれにしても、アリスに見せるという選択肢も採り得なかった。人形のごとく真綿に包まれるのは御免である。
「というか、そもそもだ。同業者に見せるってのは、よくないんじゃないか?」
魔理沙は呟いた。
曲がりなりにもグリモワール、つまり魔導書である。
他の魔女や魔法使いにホイホイ見せるのは、いかがなものか。
秘すれば花、というではないか。もっとも、これは意味が違う気もするが。
かといって、である。
「こういうのに興味ない連中に見せたって、仕方ないしなぁ」
ここで、「こういうのに興味ない連中」のひとりとして魔理沙の頭に浮かんだのは、なぜか霊夢の顔だった。イメージの中の霊夢は、お茶をずずっと啜り、本を持ち上げて「枕にするなら、折り畳んだ座布団のほうがいいんじゃない」と言った。
「……あいつだったら、本当に言いかねんな」
ぶるりと身を震わせながら、魔理沙は頷く。
それなりに熱意を籠めて書きあげた本なのだ。枕にされるのも、漬物石代わりにされるのも、勘弁してほしい。
そのほか、魔理沙は様々な知り合いの顔を思い浮かべていったが、やがて思い当たる者があったのか、思案顔となった。
しばらくのあいだ、ああでもないこうでもないと迷っている様子だったものの、ほどなくして魔理沙は三角帽子を頭へ載せ、箒を引っ掴むと、家の外へ飛び出した。
「あやややや、また貴方ですか。いい加減にして下さいよ」
「よっ、本日はお日柄もよく、だぜ」
「あーあー、わかりましたわかりましたって。もう、勝手に奥へ行こうとしないで下さい。いいから、こっち来て下さいよ、見つかっちゃいますんで」
文は顔を顰め、ため息を吐き、肩をすくめるという非歓迎三点セットを忠実に行いながら、それでも相手を積極的に追い払おうとまではせず、山への闖入者である目の前の人間の背中を押すようにして、あまり人目につかない中腹の東屋へと連れていった。
いつだかの秋のことだ。山へ新しい神様が神社と湖ごとやってきて、それから少し後に巫女と魔法使いが神様のところへ殴り込みをかけた。
弾幕遊戯で決着を付けて、それで一見落着となればよかったのだが、この霧雨魔理沙という人間の魔法使いは、それからもちょくちょくと山へ侵入してくるようになってしまったのである。
人間とのパイプを保っておきたい文としては、その度ごとに魔理沙を匿う羽目に陥り、真に頭の痛いことであった。
取材でもないのに口調が丁寧語となっているのは、文がそんな彼女との距離感を掴みかねている証でもある。
「……で、今日はいったい何の用事なんですか」
また、いつぞやのように「でっかい栗を拾いに来たぜー」なんて言い出したら、今度こそその綺麗な顔を吹っ飛ばしてやる、と密かに葉団扇の柄を握り締めた文だったが、魔理沙の表情を見て、木造りの椅子へ深く座りなおした。
そして、葉団扇の代わりにペンと手帖を取り出すと、東屋に据え付けられた簡素なテーブルの上へ軽く身を乗り出すようにして、魔理沙の顔を見据える。
促すように見ていると、魔理沙はやがて口を開いた。
「……実はな、お前に見てもらおうと思って、こんなものを持ってきた」
「ほほぅ?」
魔理沙がテーブルの上へそっと置いたものを見て、文は目を細める。
これは、本、だろうか。
「見ればわかる、と思うぜ。たぶん」
「それでは、失礼しまして」
取り上げて表紙を開き、ぺらりと頁を捲る。
すいすいと視線を動かしながら、文は手早くその本に目を通し終えた。
ちらちらとこちらを見てくる魔理沙の眼差しを感じながら、文は「ふむ」と頷く。
「拝読しましたよ、魔理沙さん」
「おお、そのようだな」
で、どうだった、と問いたげな視線を前に、文が浮かべた疑問は二つだった。
なぜこの本を見せようとしたのか。
見せる相手が、なぜ他の者ではなく、この射命丸文だったのか。
「感想を申し上げる前に、そちらの意図を知りたいのですけどね」
「意図? 感想を伺うことだぜ」
「感想を聞いて、それでどうしようというのですか。あ、もしかして我が『文々。新聞』にて書評を掲載してもらいたい、と?」
「いや、そいつは結構。今この場で感想を聞かせてくれりゃ、それで十分だ」
そんな真剣な顔で断らなくったっていいじゃないか、と文は思ったが、とりあえず第一の疑問の答えは得られたようだった。どうやら魔理沙は、単純に感想を聞きたいというだけらしい。
だとすると、ではなぜ文なのか、という疑問が残る。
重ねて訊ねてみると、魔理沙はニヤリと笑ってこう言った。
「まあ、知っての通り、アイディアというのは異質なモノ同士の組み合わせだ。だから、私も様々なところから材料を借りてきて、いろんな組み合わせを試している」
「さすが、偉大なる剽窃家さんの言うことは違いますね。貴方の扱うスペルの中には、貴方の知り合いが使われるものと酷似したスペルがいくつか見受けられますが、それも『材料を借りて』きただけ、というのですね」
文がそう言ってやると、魔理沙は少し渋い顔をした。
「おいおい、混ぜっ返さないでくれよ。あくまで探究心が旺盛だと言ってくれ。……それでだな、何を言いたいかというと――おい、お前が変なこと言うから、度忘れしちゃったじゃないか。どうしてくれる」
「忘れる程度のことなら、たいして重要なことでもなかったのでは」
「重要だから忘れるんだよ。そうじゃなきゃ、忘れたことにも気付かないさ」
魔理沙はいけしゃあしゃあと言う。
人間の魔法使いの、このような図太いところが、文は存外嫌いではなかった。
少しからかったくらいで俯き、押し黙ってしまうような相手だと、やり取りをしていても張り合いがない。天狗は、基本的に威勢のよい者が好みなのだ。
何だかんだで、こいつが山に侵入してくるたびに匿ってしまうのは、そうであるからこそなのかもな、と文は思う。
「……お、そうだ。思い出した。つまりだ、しばらく前に、気味の悪い手帖を拾ったことがあってな」
「ほほぅ、手帖ですか」
「ああ。気味の悪い手帖だ。そいつを見てみると、写真がびっしり貼ってあって、それぞれに独り言みたいな解説が書かれていたんだよ。実に不気味だろ」
「へぇ、写真と解説ですか」
「そうだ。気味の悪い写真と気味の悪い解説だな。もっとも、その手帖はいつの間にか手の中からなくなっていたんだが。どこぞの鴉にでも持ち去られたのかねぇ」
「そのようなことがあったのですか、なるほど」
妙にチラチラとこちらの手元を見てくる魔理沙から自分の手帖を隠すようにして、文は話を続ける。
「そういえば、今しがた見せて頂いたこの本も、弾幕の写真と解説ですね」
「アイディアの素材を借りたんだ」
「で、貴方は悪びれもせず、アイディアのパクリ元に感想を聴きに来た、ということですか。いやはや、相変わらずですねぇ」
ため息を吐きながら文は言うが、魔理沙は嬉しそうに笑って「形式をひとつの参考にさせてもらっただけだぜ」と応えたのだった。
兎にも角にも、こうして二つの疑問が氷解した今、残るは本の感想を伝えるのみである。
文は顎に手を当てて考えた。魔理沙は色々と言ったが、それは記者としての、すなわち書き手としての射命丸文という点も勘案した上で、己に見てもらいたかったということだろう。だとすれば、自分には、それ相応に応えてやる義務がある。
鬼などに言わせると、天狗の言うことなんか信用ならぬ、ということにでもなりそうだが、文からすれば、それは誤解や曲解と言うべきものだった。
確かに自分たち天狗は、莫迦に合わせて易しく物事を説くことはない。しかし、相手が自分なりに頭を働かせて言葉の真意を読みとろうと努めるならば、語られた言葉には意味が宿る。「嘘を嘘と見抜けなければ」天狗の言葉を噛みしめ、糧とすることなど望むべくもなかろうが、見抜けないのはひとえに聴き手の側の問題である。
また、文としては、仮にも書き手としての意見を求められたというならば、いい加減に誤魔化す気はなかった。そこでヘラヘラ笑って誤魔化せるのなら、それは既に表現者たる資格を失っているのではないか、とさえ文は思う。
だから、珍しく真面目な顔で魔理沙と向き合ったのである。
「さて、この本についてですが」
「ああ」
そのように言うと、魔理沙がテーブルの向こう側で身を硬くしたのがわかった。
文は思い出す。そう言えば、自分が初めて新聞を作り、ゲラを知り合いに見てもらった時はどうだっただろうか。その時の相手の目には、自分も今の魔理沙と同じように映っていたのかも知れない。
「まずは、形式面からですね。いいですか、たとえば――」
何かの感想を求められたとき、思ったことや感じたことをそのまま垂れ流してもよいが、それだと伝わりにくい場合もある。
そういうときに、分析の視座とでもいうべきものを自分の中で用意しておくと、思考の流れがスムーズになる。いわば、水のように形のない心や頭の動きを、一定の容器に入れてやることで整理のしやすいものにするという技術である。
新聞記事を書くだけではなく、紙面割りから取材から、すべてをひとりでこなす文にとって、思考や感情の整理能力は必須といってよかった。単に考えるだけではダメで、その考えた内容をいかに伝達するか、ということこそが重要なのだ。
たとえば今のように書物の感想を求められた場合、シンプルなやり方としては、形式面と内容面に分けて考えてみるというものが挙げられよう。
形式面とは、本の装丁やレイアウト、字体や誤字・脱字についてである。それに対して、内容面とは、文章そのものが意味の通るものになっているか、わかりにくくないか、書き過ぎ、あるいは書き漏らしがないかどうかといったことである。
このようにして文は、形式面に関して気になる点を幾つか指摘した。
魔理沙は時折メモを取りながら聴いていたが、文がひとしきり話し終えると、神妙な顔つきで唸った。
「うーん、なるほどな……」
「あくまで、私から見たら、という話ですけどね。本の、特に魔導書の類は残念ながら専門外なので」
「いや、だからこそ気付かされたことも多かったぜ」
魔理沙のひた向きな眼差しは、まるで新米記者のそれのようで、文は思わずくすりと笑みを漏らした。怪訝そうな顔で見られ、慌てて手を振る。
「いやぁ、これは単なる思い出し笑いですよ。それはともかく、次は内容面の話ですね」
「ん、ああ、そうなるな」
実のところ、弾幕の写真とその解説というグリモワールの内容については、文なりに興味をそそられた点があった。
文はペンをクルクルと回し、ピッと魔理沙を指した。
「これはなかなか興味深いと思いました」
「おお、そうなのか」
「ええ、ひとつには弾幕に対する人間の視点が、もうひとつには人間の中でも特に魔理沙さんの視点が――実に面白い。先ほどの魔理沙さんの言ではないですが、天狗ではない者の書いたもの『だからこそ気付かされたことも多かった』です」
「ほう、そいつはたとえば?」
魔理沙の問いに、文は「そうですねぇ」と呟き、額をトントンと指で叩くようにする。何をどこから話そうかと考えるときの癖だった。
「たとえば、そう、空を翔けることへの感覚と言いますか、認識の差異があるように感じました」
「ふむ、空を」
「人間であれば、もっぱら『飛ぶ』と言うようですね。基本的に、貴方たちにとって空中に在ることは常態ではないでしょう」
「まあ、確かにな」
およそ弾幕戦というのは空中で行われることが多く、それゆえに気付きにくいことであったが、人間の身体は本来飛ぶようには出来ていない。魔力だったり霊力だったり、そういうもので後押しすることによって、どうにか重力に逆らっているのである。
それに対して、天狗を始めとする多くの妖怪にとっては、宙を翔けることなど造作もないことで、人間が二足歩行をする感覚と大差ないのであった。
「何かを『当たり前のこと』とするかしないか、というのは認識の根幹に関わることです。この場合は空を翔けることですけれどね」
「つまり、飛ぶことが当たり前のお前らと、飛ぶことが特殊なことである私たちじゃあ、弾幕ごっこへのアプローチも異なるってことか?」
「まさしく」
それは墜ちることへの耐性の有無であったり、文字通りの「視点」の違いだったりする。
魔理沙が首を傾げたので、文は言葉を継ぎ足す。
「私たちは、物事を鳥瞰することが多いのですよ」
「鴉天狗だけに、ってか? ふふん、下手なジョークだぜ」
「……こほん。他方で貴方たちは、どちらかといえば仰視することが多いようです」
「そりゃあ地上を歩いてることのほうが多いからな。……なるほど、そういうことか」
物事を上から見下ろすか、それとも下から見上げるか。これが「視点」の違いである。
これらの見方には、それぞれ一長一短があろう。上から見下ろすだけでは気付けないことも、下から見上げるだけでは見えないものも、色々とある。
「ゆえに、両方の視点をバランスよく兼ね備えることが肝要なのですが……まあ、これは本題とは離れますし、それに自らの視点に縛られず物事を見るというのは、非常に難しいことです」
「私もけっこう飛ぶことの多い人間だと思っているが、それでも自分本来の目線に影響されてしまうものなんだなぁ」
「何ものにも囚われない者なんて、そうそういませんよ。人間でありながら、空を飛ぶことを完全に自明のこととして受け入れられるような者なんて」
「……ふん、ま、そうだな」
おそらくは魔理沙も同じ顔を思い浮かべたのではないか、と文は思った。
今代の博麗の巫女の持つ能力。しかし「空を飛ぶ程度」の能力なら、何も彼女に限ったものではないのだ。
だから、むしろ彼女の真髄は別のところにあるのでは、と文は考えていた。そのように捉えるならば、たとえば異変の時の彼女の動きも、本人は「勘」とだけ言っているが、実は――。
「――と、またもや話が変な方向へ行きかけました」
「おお、いかんな」
文と魔理沙は、顔を見合わせて苦笑いをした。
魔理沙がここへやって来た時には昇り切る前だった太陽も、今では傾き始めているようだ。このペースで話していると、彼女が家へ帰る頃には真っ暗になっているかも知れない。
「もう一つ、弾幕に対する人間の視点――とりわけ魔理沙さんの視点として興味深かったのが、力の放出に関する考え方の相違です」
「ふむふむ」
「ご存じの通り、私たちにとってスペルカードルールとは、遊びのルールであると共に、相手を殺さずに勝敗を決するための手法の一つでもあります」
文の言う「私たち」とは、妖怪などの中でも一定以上の力量を持つ者のことを指す。人間は総じて非力だが、スペルカードルールに則って競うことで、生死を賭けずとも勝負することが可能となるのだ。
「つまり、手加減のためのルールでもあるわけですね」
文の物言いは率直である。
魔理沙がそれを耳にして憤慨する様子を見せなかったのは、それが事実だからであり、また天狗の気質というものをよく承知していたからであろう。
肩を軽くすくめた魔理沙を見やり、文は続けた。
「自然、力をどのように制御するか、のほうに主眼が置かれるものでして」
「それに対して、人間ってのは、力をどう出し切るかに重点を置く、と?」
「ちょっと違いますね。いえ、魔理沙さんは確かにそうでしょう。ですが、力が不足している場合、採れる道はもうひとつあります」
何だかわかりますか、と振ってみると、魔理沙は腕組みをして少し考え込むような表情をしたが、ほどなくして顔を上げた。
「――効率性、だろ?」
文は大きく頷いた。
こうして、打てば響くように返してくる相手と話すのは、悪くない。
「そう、霊夢さんや咲夜さんなどは、どちらかといえばそちらのタイプでしょう。乏しい力を全力で出し切れば、パワーは出ても長続きしません。だから、なるべく力の無駄をなくして戦うというのも、十分に合理的な考え方です」
「まあ、私の性には合わないけどな」
頭の後ろで手を組み、魔理沙はうそぶく。
文は自分の手帖を捲りながら、足を組み直す。
風が涼しくなってきていた。
「――『ルールの無い世界では弾幕はナンセンスである』」
「んん?」
何気なく漏れた呟きに、魔理沙は反応する。
東屋の外へ顔を向け、どこか遠いところを見るような眼差しで、文は呟くように続けた。
「貴方の本に書かれてあった言葉ですよ。……制限があるからこそ、その中で足掻く貴方たちには、時として美しいと思わされます」
「足掻くって、お前なぁ」
思わず呆れてしまった魔理沙に、文はふと瞬きをすると、こちらを向いて「あ、これはオフレコですけどね」と悪戯っぽく言う。
そして、魔理沙が何か言いかえしてやろうと思う間もなく、文は咳払いをして
「それはともかく、魔理沙さんのほうはいかがですか。先ほどから私ばかり喋ってしまっているようですけれど」
と話を戻した。
魔理沙はメモを取るために持っていたペンを頬に押し当て、文の言葉を反芻する。
「私のほう、か」
「ええ。私の言葉で疑問があったところとか、あるいはご自身の本について、こういうところについてどう思うかとか」
文の言葉に促されるようにして、魔理沙は「ああ、そうだな」と口を開く。
書き上げた時点では気にも留めていなかったことで、文とやり取りをしているうちに気になるようになったことが、幾つかあった。
――まったく、最初は単に見せびらかしてやりたかっただけなんだけどな
内心、苦笑交じりに魔理沙は思う。
予想以上に文が色々と言ってくれたので、自慢するとか感想を聴くとか、そういった範囲に収まらなくなってきたようだ。
しかし、どうせここまで話したのだから、とことん訊ねたほうがいいだろう。そのように考え、魔理沙は文を見据えた。
「私が気になるのはだな」
グリモワールを取り上げながら、言う。
「――こいつが、本としてどうなのかっていう点だ」
表紙をポンポンと叩いて見せながら、魔理沙はようやく自分の中で理解できたような気がした――なぜ、この本を広く一般へ公開する前に誰かに見てもらいたいと思ったのか、ということを。
魔理沙の言葉に、文は首を傾げる。
「本として、とはどういう意味でしょうか。先ほど指摘した数点を除けば、書物としての体裁は整っているように思えますが」
「体裁の問題じゃないんだよ。この本の中身には意味があるんだろうか、っていう疑問なのさ」
「意味があるのか、とはまた異なことをお訊ねになる」
そんなの貴方自身が一番よくわかってらっしゃるんじゃないですか、とでも言いたげな文の目線を感じ、魔理沙はゆっくりと首を左右に振る。
「そりゃあ、私なりの意味はあるさ。この魔理沙さんが書いた、幻想郷唯一の魔法弾幕書だ。図書館にだって高く売れる」
「では、どういう……」
「本という形にして広く公開するなら、『私なりの意味』があるだけじゃダメなんじゃないだろうか。もっと――なんて言うのかな、一般的にも意味がなけりゃ公開しちゃいけないんじゃないのか?」
文が「ふむ」と頷くのが見えたが、魔理沙は気にせず話を続けた。
いや、話し始めたら言葉が止まらなくなった、と言ったほうが正しいかも知れない。
「私はこれでも満足だったさ、書き上げた時はな。だが、お前に見てもらって、話もしてて、それでだんだんわからなくなってきたんだ。私が書いた本だ。だけど私だけが良いって思ってるんじゃ、単なる自己満足じゃないか? それならノートにでも書いておけば済む話だろう。本として公開するなら、それだけじゃいけないんじゃないか……?」
魔理沙とて、日誌や研究ノートの類を記し、自分なりに纏めたことは幾度もあった。だが、それを「纏めた資料」としてではなく、一冊の「本」として公開することを考えたことは今までにはなく、そのことが彼女に悩みと戸惑いを与えていたのだ。
仮に今すぐ公開したところで、この本が直ちに多くの人妖の目に触れることはなかろうが、それでも不特定多数の者に読まれる可能性のある場へ投じるとなれば、「他者の目」というものを意識せざるを得なくなる。
公開された文章は、読まれてこそ完成する。半ば独りよがりに書き殴ったような本が、果たして本当に書物として公開するに値するものなのか。それこそが、文という他者と話すことによって魔理沙の胸に宿った疑問だったのだ。
「なるほど。そういうことでしたか」
文は納得したように頷いた。
そして一瞬何かを考えるように宙を見つめ、小首を傾げると、ニヤリと笑う。
「これは……二つは矛盾するようだけど、うん、そうか。……なかなか面白い」
独り言のようにそう呟くと、文は魔理沙のほうへ向き直った。
「わかりました。魔理沙さん、貴方のその悩みは、前提を捉え間違えていることによるものだと思います」
「前提?」
魔理沙は眉を軽く上げた。この鴉天狗は、それなりに頭の回転が速いのだろうが、一足飛びに言われてもわからない。
向き合って座る文はというと、指先で器用にクルクルとペンを回している。
「まあ、順番にお話しましょう」
「ふむ」
「結論から申しますと――」
「順番に話すんじゃなかったのかよ!」
「大事なことから順番に、です」
文は眉ひとつ動かさずに言うと、軽く咳払いをした。
「で、結論としてはですね、この本を公開するぶんについては、特に問題ないと考えます」
「ほ、本当か? もっとわかりやすく、たとえば新聞みたいに詳しめに書いたほうがいいとか、そういうことはないかな」
「まあまあ、そう結論を急がずに」
「いや、結論からって言ったのはお前じゃないか……」
魔理沙の言葉が聞こえなかったかのように、文は言う。
「つまりですね、見たところ、何だかんだ言っても、やはり魔理沙さんの本は公開することを踏まえて記述されたものだといえるのですよ」
そして、手に持った手帖を掲げて見せる。
「この――私の手帖などとは違ってね。ちゃんと人間が人間に向けて書いたものだとわかる。だから大丈夫なのです」
他者へ見せることを前提としない日記や手帖と、他者へ何かを伝えることを目的とする新聞や本とでは、自ずから書かれ方が異なるのだ、と文は言う。
だが、魔理沙としては、まさにその点こそが大問題であったのだ。
「そうは言うけどな、これは半ば以上、私が好き勝手に書いたもので、誰かへ向けて書いたとか、そんなんじゃないんだぜ」
「それそれ。そこなんですけど、魔理沙さんはこう思ってらっしゃるんじゃないですか。すなわち、本として公開するためには、普遍的な価値を有していなければならない、と」
「むぅ……」
思わず、魔理沙は言葉に詰まる。
それはおそらく、文の言う通りだったからだ。
確かに、この本を書いている時は楽しかったし、書き上がった時には嬉しく、満足もした。しかし、他者へ見せることを意識した段階から、自分だけが楽しいというのではダメなのではないか、という疑問が生じた。それは換言するならば、「他者にとっても楽しいものでなければ、見せてはいけないのではないか」という疑問であったのだ。
公開するというのは、広く万人の目に触れ得るということである。とすれば、この場合の「他者」とは万人を指すこととなろう。万人にとって楽しいものを――それこそが、普遍的な価値ということである。
ところが、文は首を横に振った。
「それは違います、魔理沙さん。先ほど申し上げた『前提の捉え間違い』とは、そこの点なのです。別に、普遍的な価値なんかなくっても構わないのですよ」
「自分だけが楽しいものでも公開して構わないってのか? ふふん、どこかの図書館の引き籠もり魔女なんかは、そんなの本じゃないわ、とか言いそうだがな」
あの血色の悪い七曜の魔女は言っていた。書物というのは体系化された知識の形態であり、常に万人にとって開かれうるものでなければならない、と。
そんな彼女ならば、魔理沙のグリモワールを見て、何と言うだろうか。
思ったより高値では買ってくれないかもな、と魔理沙は思い、苦笑いをした。
「ふーむ、定義し切れぬものを厳密に定義したがるのは知識人の悪いクセなのでしょうが……雑多なものを排除しようというのは、およそ文化的な行為ではありませんね」
薄笑いを浮かべながら、文はそんなことを言う。
そして、一転して真面目な顔つきになると、こちらを見据えてきた。
「他者の目を意識して書くということと、普遍的な価値を有するかどうかということは、別モノです。前者は必要ですけれど、後者は別にどうでもいいんですよ」
「だけどさ、公開するってことは、他の連中の評価に委ねるってことでもあるよな。どうせなら、つまらんものよりは良いものを見せたいぜ」
魔理沙がそう言うと、文は我が意を得たりというように、こくこくと頷いた。
「そう、他者からの評価という要素を抜きにして語ることはできないですね。おっしゃる通りです。ただ、ここで難しいのは、『普遍的な価値』というものを目指すことで、逆に失われてしまう価値というものも多々あるということでしょう」
「うん? そうなのか」
「ええ。この本など、まさにそうですよ。これは、魔理沙さんが好き勝手書いたものです。それゆえ、貴方の価値観が色濃く反映されている。そうすることで万人受け――つまり『普遍的な価値』とやらからは離れているかも知れません。ですが、この本の魅力は、まさにそこにある」
身を乗り出すようにして、文は熱心に述べた。
「先ほど私が申し上げた感想を覚えてらっしゃいますか? 私は、この本に表れている貴方の価値観に興味を惹かれたのです。これが、毒にも薬にもならない、誰にでも当てはあまりそうな一般的なことしか書かれていない本だったら、楽しめたとは思いません」
「……そうか」
面と向かって、このように言われると、さすがの魔理沙も照れくさい気持ちを隠すことができず、帽子を目深にかぶり直した。
勢いづいた文の声が、耳に入ってくる。
「確かに、独りよがりなものではいけないでしょうね。自分が楽しめて、他者をも楽しませることができたなら、それが何よりと言うべきでしょう。本というものが読まれてこそのものだとすれば、自分自身の評価と他者からの評価とを合わせることで、初めてその本の価値が明らかになるわけです」
本という形に纏めること。そして、他者へ公開すること。
自分自身の評価だけが全てだという者もいなければ、他者からの評価だけが全てだという者もおそらくいないのだろう。両者のバランスこそが、大切なのだ。
魔理沙は、いつしか自分の中で「価値」という言葉が、「評価」という言葉と混同されていたことに気付いた。
「――全ての書き手は、同時に読者でもある、か」
魔理沙は呟く。
「……だとすれば、自分が楽しければいいのか、他者を楽しませたいと考えるのか、その差異は――自分という読者に、どれだけ比重を置いているのか、という違いなのかもですね」
その気持ちはわかるような気がします、と文も呟いた。
「――さて、と。かなり時間を取らせてしまったな」
「あやや、もう日が暮れますね。早いものです」
価値や評価、自分と他者、本と新聞の違いなど、語ることはいくらでもあった。
そうして話していると、時間は矢のごとく過ぎ去ってゆくのであった。
魔理沙が立ち上がった時、ようやく文も辺りが暗くなってきていることに気付いたのである。
件のグリモワールを手に取りながら、魔理沙が口を開いた。
「どうもな。色々と勉強になったぜ」
「それは、どう致しまして」
じゃあ、失礼するぜ、と片手を軽く上げた魔理沙へ向かって、文は頷いてみせた。
「出ていくぶんについては大丈夫だと思いますけど、あまり見張り役の仕事を増やさないで下さいね」
「あー、善処するよ。じゃあな」
そう言うなり、魔理沙は箒に飛び乗り、去ってゆく。
暮れなずむ空に小さな点が吸い込まれるのを目で見送り、文は誰ともなしに呟く。
「――あの魔導書の価値は、人間にはわからないでしょうね」
人間は、意味や価値を見出したがる生き物だ。
そうすることで、己を取り巻く余裕というものが失われてゆくのを、知ってか知らずしてか。
一見すると無意味で無価値なものでも、楽しさを感じることができる。その余裕こそが何よりも大切なのである。妖怪たちは、そのことを知っているのだ。
魔理沙のあの本を、人間たちが本当に楽しんで読めるようになったなら。
……そのときには、私たちと美味い酒を酌み交わすことができるかも知れないな、と文は思った。
終わり
言い回しやら発想やらでよりいっそう深みっぽい何かが増してると思います
欲を言えば後半がどことなく『終わらせるために終わってる』感がにじみ出てる気がするんですが、そんなことは気にせず読みふけられる魅力あるSSだと思います。
これからもがんばってください!!
人文社会系の卒業論文にうんうん唸る自分には身につまされるお話でした.
引き込まれるような魅力がありますね。
色々考えさせられる……。
その一方で、そういうものだと「知って」いてほしい。
そんなお話でした。
深読みして考えると結構勉強になるわ
良い文章をありがとう!
いろいろなことを知らなくちゃいけない。そんなことを感じました。
良い文章をありがとうございました。
なんか、色々考えさせられるなぁ……。
ならば、この物語りに出会えたことに、そしてこのお話自体とその作者様に、感謝です。
こういうと変ですが、読みながら、また読み終わって、感謝に近いほっこりとした心持ちに。それこそ、個人的な視座からだとは思いますが。
とりあえず宿泊料金は100点で!
それで正しいかとかは明後日の方にぶん投げておいて、自分がどのようなスタンスで制作活動に関わるのか、考えるきっかけとなりました。
すっきりとした、素晴らしい文章だったと思います。
じゃ、宿泊料金を置いていきますね。
いや、もちろん読みやすさとかはともかくとしてですが・・・
それぞれの価値観が1つの本に詰まってる。
だからおもしろいと思う今日この頃のタイムリーなお話でした。
愛想の無い文章で申し訳ないですが、賞賛を点数に込めて
けど、読者時代の頃の自分がこのお話を読んだら、どんな印象を受けたんだろうなぁ、とも考えちゃいました。
こほん。それはさておき……よーし、これからも自信満々で変なSS書くぞー!(違う)
グリモワ出版の側面を書いたSSですね。真面目な文と真面目な魔理沙がいい感じ。
そして僕は、いつしか自分の中で「価値」という言葉が、「評価」という言葉と混同されていたことに気付くのです。
こいつぁ深イイ話だ……。