ちぎってはパクリ、ちぎってはパクリと口に放り込む。ふむ、おいしくないな、そうひとりごちてまたまたパクリ――
「なにをしているのですか?」
背後から声がかかる。それでもおかまいなしにパクリを続ける。彼女にとってはきき慣れた声だ、うしろの人物が誰なのかはわかっている。だから無視する。だからぱくつくのをやめない。
「無視ですか、総領娘様」
ご名答である。心のなかで称賛を送り、こりずにちぎった。
「どっこいしょ」
年寄りじみた声とともに、隣に座られる。やっぱりだ、こんな世話焼きはひとりしかいない。
「なにか用なの? 衣玖」 天子が不機嫌な声を出して、相手のほうを向いた。
「いえ、特に用事はありません」
衣玖はしれっと応える。そして大きな欠伸もひとつ。「じゃあ、なにしに来たの?」ときくと、「暇だったので」と目を擦りながら応えた。
ここは屋敷からも遠く離れた雲のはしっこである。建造物や桃の木もない、ただ地面である雲だけが延々と広がっている。こんな辺鄙な場所に近づくもの好きはいないらしく、ここにいるのは衣玖と天子だけであった。
「こんなところに暇つぶしに来るなんて、衣玖も変わり者だね」
「総領娘様には言われたくありません」
その言葉にむっとする。足を伸ばして座る衣玖をにらみつけながら「うるさいわね」と唇をとがらせて、天子は手にもっていたものを口に放った。
「ところで、総領娘様はなにをしているんですか?」
時間をかけてもぐもぐと口を動かし、ごくんと飲み込んだ。――やっぱりおいしくないな。はあっとため息を吐き、口元と目元をぬぐった。少し湿っていた。
「見てわからない?」
「わからないからきいたんです」
なるほど、道理だな。妙に納得してしまった。まあ、今はそんなことどうでもいいのだが。
衣玖を見ながら、ふふんと得意げに笑った。
「雲を食べてるの!」
「……はい?」
衣玖がいささか困惑した表情をして首をかしげた。その反応が気に食わなかったようで、天子がいらだった声でもう一度言った。「だ・か・ら、雲を食べているの!」
しばらく首の角度が四十五度から戻らなかった衣玖だが、だしぬけに下を向いた。そして地面の雲をちぎって、それを天子に見せた。「これを、ですか?」
「うん、そうだよ!」 天子が屈託なく笑う。
彼女は自分の指先の雲をしげしげと眺め、相手に倣い食べてみた。もぐもぐごくん。きょとんとした顔をする。
「おいしくないですね、雲」
「そうでしょう?」
天子は心底残念そうな顔でうなずいた。そして彼女も同様に、雲をちぎって食べた。
「桃味だったらよかったのに」ともぐもぐと雲をかみながら不服そうに言う。「そうですね」と衣玖も同意する。「でも私は桃よりお茶のほうが好きです」とつけ加えて、天子がくすくすと笑った。「衣玖は本当に年寄りじみてるね」
「時に総領娘様」
「ん?」
「どうしておいしくもない雲を食べているのでしょうか?」
それをきいて天子はうれしそうに笑った。コホンと咳払いをし、瞳を輝かせながら相手の顔を見た。
「私は雲になりたいの!」
「…………」
今度は衣玖も返事をしなかった。いや、できなかった。なにを言えばいいのかわからなかったのだ。天子の奇天烈な発想には慣れているつもりだったが、さすがにこの回答は予想の斜め上をいくものである。
「くも……ですか?」
「そう! 雲!」
「足が八本あるほうの?」
「……喧嘩売ってる?」 冷ややかな目でにらまれた。どうやら軽いジョークが通じなかったらしい。「冗談ですよ」とうっすら笑いながら両手をあげる。
「それで、雲になるために雲を食べていると?」
「そうだよ」
もう機嫌は直ったようで、再びうれしそうな笑顔を浮かべていた。――なんと声をかけるべきか。衣玖は気だるそうな顔つきでほおをかいた。
「その『雲を食べたら雲になれるよ』説は誰からきいたんですか?」
「自分で考えた」
彼女もまたジョークを言ったのかと疑ったが、子供のような無垢な表情をしている。本気だ。本気で雲になれると思っている。
「自分で考えた……」
「そうだよ」
「その考えに行きついた根拠は?」
「なんとなく!」
それをきいた途端、彼女は天子を理解しようとすることをやめた。そうか、自分が馬鹿だったのか。どうやら彼女の奇天烈な発想に慣れていると思ったのは自惚れだったらしい。
「そうですか」と呆れた声で返事をした衣玖はうしろに手をついて空をあおいだ。雲ひとつない、抜けるような晴天であった。――雲の上にいるのだから当然なのだが。
「私が雲になれたら、桃味の雨を降らせてあげるからね!」
元気な声が横からきこえた。そしてさっきよりも勢いづいて雲を食べる音がきこえ始めた。ばくばくむしゃむしゃ――
それでも衣玖は視線を青空からはずさなかった。小さくため息をもらす。「お気遣いなく」とこぼしたが相手には多分きこえていないだろう。ばくばくむしゃむしゃ――音だけきくと、ずいぶんとおいしそうに食べている。
「あっ」
しばらくしてから、衣玖が頓狂な声をあげた。食べる音が止まる。
「どうしたの?」
「そうだ、もうひとつ、重大な質問をするのを忘れていました」
そこでやっと視線を天子の顔へもっていく。相手は目を丸くしながら衣玖を見ていた。
「どうして雲になりたいんですか?」
天子が目をぱちくりと目をしばたかせた。彼女はそれを無表情な顔で見守る。
しかしそこで目を合わせたまま、二人とも動かなくなってしまった。あまつさえ、互いが口をつぐんでしまってなにもしゃべらない。静寂につつまれた、なんとも奇妙な間が生まれてしまった。時間だけがいたずらにすぎて行く。
最初にその間を終わらせたのは、天子であった。
なにも言わずにすくっと立ちあがった。そしてすたすたと前に歩く。衣玖はその背中をただ目で追いかけていた。
すると彼女はきゅうに屈んでしまった。しかしそれも束の間、また立ちあがり、くるっと振り返って衣玖のほうを向いた。手にはソフトボールぐらいの大きさの雲がある。
「えいっ」
そんな声とともに、天子はもっていた雲を衣玖めがけて投げた。
ふわりふわり――ふわり
飛距離は短く、衣玖に届きはしなかった。天子のすぐ前で空中浮遊を楽しんだ雲は音もなく、ゆっくりと地面に舞い落ちた。衣玖はそれを無表情に見つめていた。まばたきと息を吸うことを忘れて。
「ね!?」
はっと我に返った衣玖は天子の顔に目をやった。天子は満面の笑みを浮かべている。
「これがどうしたのですか?」
「……もう! 衣玖は鈍感なんだから!」
顔をしかめながら、どかっと腰をおろす。
「今、雲のいいところを見せたんだよ」
そうだったのかと少し驚く。てっきりいやがらせでもされたのかと思っていた。衣玖は自然と言葉を発していた。「できれば口頭で補足説明をしてもらっていいですか?」
「素敵だったでしょう?」
ほほ笑みながら言葉を紡ぐ。「ふわりふわり――雲は自由に空を飛ぶことができるんだ」
「……雲にならなくても私たちは飛べますよ?」
チッ、チッと天子がわざとらしく指を左右に振った。「自由の意味はそんなちっぽけなものじゃないんだよ」 そう言うと彼女は笑みを深めた。
「雲っていうのはぷかぷかと、ずっと空を飛んでいられるんだ。なにも気にすることなく、誰にも咎められることもなくね。そしてどこまでもゆける。きっと幻想郷の外までゆけちゃうんだ」
くすっと天子が子供みたいに笑う。なのに、衣玖はもう笑えなかった。
「だから雲は素敵だよ。雲を縛りつけることなんて物理的にも概念的にもできやしないんだ。……だから…………」
さっきまで笑っていたというのに、天子は唇を強くかみしめうつむいてしまった。約一メートル――二人の間の距離。だけど、きっと心の距離はもっとあるに違いない。衣玖はそう思った。
「……だから、雲になればさ――」
「今日みたいにお父上に叱られませんね」
衣玖が話をさえぎると、ぴくっと天子の肩が揺れた。
「……見てたの?」 顔を下に向けたまま尋ねる。
「仕事中に部屋の前を通ったとき、怒声がきこえたもので。……すいません」
「じゃあ、ここに来たのも?」
「ええ。総領娘様を追いかけて。泣きながら部屋を飛び出したので」
「な、泣いてなんかない!」
上目づかいで衣玖をにらんだ。それに鼻白むこともなく言葉を続ける。「泣いていました。最初、ここで会ったときもまだ涙がたまっていましたよ」
相手は口ごもってしまった。言いすぎただろうかと反省したころ、「あーあ」と残念そうな声がきこえた。
「……衣玖には泣き顔、見られたくなかったんだけどな」
顔をあげた。照れ笑いを浮かべていた。「私がしっかりしているところ見せたかったんだけどな」 そうつけ加える。
「……最近はよく叱られるんですか?」
「うん。なんでも由緒正しき天人様なんだからしっかりしろということで。私がいろんなところに遊び回ってるのが気にいんないらしい」
天子がはあっと大きなため息を吐く。
「どうして駄目なんだろうね。天人だから? なんでそんないち肩書に拘束されなきゃいけないの? いいじゃん。人がいつ、どこで、誰と遊んでもさ」
天子は奥歯をかみしめ、再びうつむいてしまった。
「こんなこと言われんなら天人として生まれたくなかったよ。もうやだよ……」
目元をぬぐった。そしておもむろに雲をちぎり始めた。それを自分の口に入れる。「生まれ変われるなら雲になりたいなぁ」 そう涙声でぼやく。それでも手は止めない。ちぎった雲をどんどん口に入れる。絶え間なく入れる。ちぎっては食べてちぎっては食べて――ときおり袖で目元をぬぐった。ずっとずっと、それを繰り返していた。
「私はしがない竜宮の使いです」
いきなり衣玖が声をあげた。天子が手を止める。
「だからあなたの父親になにも言うことはできません。どうせ言ったところで聞く耳を持ってはくれないでしょう」
彼女は淡々と話を続ける。なにがなんだかわからない天子は押し黙っていた。
「だけど総領娘様が苦しんでいるのを、指をくわえて傍観するのもいやです」
衣玖が立ちあがった。そして天子へ近づく。少し歩いただけで相手の目の前にきた。約一メートル――二人の間の距離。それはこんなにも短い距離だったんだ。
「なのでない知恵を絞り、ある決意をしました」
勢いよく座る。天子は驚きながら、相手の顔を見ていた。そしておずおずときく。「な、なに……?」
ズボッ
それは彼女が両手を雲のなかに突っ込んだ音であった。そして、うんうんと唸りながら彼女がなにかを引っ張る。
ボンッ、と今度は変わった音を立てながら、衣玖は大きな雲の塊をかかえていた。それを見て天子はあぜんとする。
「私も雲になりましょう」
「……へっ?」
衣玖が抱えた雲の塊を食べ始めた。両手でかかえているためちぎることができないので、それ自体に口を近づけ食べている。そんな光景を前にすると、言葉は全然出てこなかった。
「ど、どうして?」 やっとの思いで声を絞り出す。その問いに平然とした顔つきで応える。
「あなたが寂しくないようにです」
「寂しく……ないよう?」
「そうです。どうせ総領娘様のことだから、すぐに他の雲たちと友達になることはできないでしょう。きっとひとりぼっちになってしまいます。だから私もいっしょに雲になって、寂しさを紛らわせてあげましょう」
塊にかぶりつく。勢いがよすぎて、コホンコホンとむせてしまった。それでも、涙目のまままたかぶりつく。
「よ、余計なお世話だよ!」
天子が声を荒らげた。しかし、すぐに声は小さくなった。「寂しいのはもうなれっこだよ……」
「私は総領娘様のそれが気にいりません」
怒気のこもった声でぴしゃりと言い放つ。それをきいて天子がどぎまぎした。珍しいことだったのだ。衣玖が天子に怒るなんて。どんなにわがままを言っても表情ひとつ変えずにこなすのに、今の彼女は表情にも露骨に怒りをあらわしていた。
「どうしていやなことを自分ひとりでため込むんですか? どうして私に愚痴ってくれないんですか? 私はそんなに頼りないですか?」
天子の目を見ながら言う。絶対に視線をはずさない。
「私に泣き顔は見せたくなかった? 冗談じゃありません! しっかりしてるところを見せたかった? 笑わせないでください! 私は、いろんなところが抜けていて失敗をたくさんして、それでも笑っているあなたが好きなんです」
表情から怒りはもう消えていた。でも今度はひどく悲しげな顔をしていた。
「……どうか、不格好な仮面をつけてまで、自分を偽らないでください。どんなに格好悪いと思っても、私の前ではありのままの総領娘様でいてください」
鼻をすすり、衣玖は大きく息を吸った。
「もしあなたが雲になっても、悲しくて泣きたくて雨を降らせたくなったら、私もいっしょになって降らせましょう。もし気に食わないことがあって怒りたくて雷を落としたくなったら、私もいっしょに落としましょう。うれしくて世界を銀色に包みたくなったら、私も雪を降らせます。だからどうか、私にはなんでも相談してください」
天子が拳をぎゅっと握りしめる。衣玖には自分のすごいところを見せていたいと思っていた。心配をさせたくなかったのだ。でもそれはかえって相手を傷つけていたのだ。始めて自分の愚かさを知った。
「ごめんね、ごめんね衣玖」
震える声でそう伝える。衣玖はそれを黙ってきいていた。もう彼女の表情から悲しみも消えていた。
「たとえ雲になれなくても」
さっきとはうってかわって小さな声になった。続きはつぶやくように言った。「約束どおり、一生泣き笑いをともにしましょう」
天子の顔がぱあっと明るくなる。そして目をごしごしと擦って、元気な声でありがとうを伝えた。衣玖は恥ずかしくなってしまったようで、ほっぺたにほんのり朱がかかっていた。
「ど、どういたしまして……」
消え入りそうな声であった。お礼を言われるのに慣れていないせいで反応がよくできない。はがゆそうに自分のうしろ頭をガシガシとかいていた。
「――ねえ、さっきの言葉ってさ」
その様子を見た天子が意地悪な表情をした。
「愛の告白?」
ボンッ、と衣玖が湯気を立てた。ほっぺたをもっと赤くして、
「ち、ちがいます!」
とあわてふためきながら反論した。天子がもっと言及をしようとしたところで、「さあ、早く雲を食べましょう!」とまくしたてかかえていた雲の塊に食らいついた。その様子がなんだか可愛くて、これ以上のちょっかいはやめておいた。
「あっ!」
そう思った矢先、天子が声をあげた。
「そう言えば衣玖、仕事はいいの?」
彼女の動きが止まる。そしてポケットから懐中時計をとり出した。蓋をあけ、時間を確かめる。
「…………」
眉根を寄せる。しばらく逡巡したあと、盛大なため息をついた。
「今日はもう行きません」
蓋をしめ、懐中時計をもとあったポケットにしまいこむ。そこでふふっと小さく笑った。「私は今、雲なので」
天子がきょとんとする。それを尻目に、無表情に戻った衣玖がまた雲をかじる。すると、くすくすと笑い声がきこえてきた。それも無視する。「ひどい暴論だね」と楽しそうな声もきこえた。知らんぷりで雲を食べる。ばくばくむしゃむしゃ――
仕事をさぼって雲を食べる――不思議と悪い気はしなかった。
よいお話でした。