――また二日酔いか。
無理矢理呼び出された宴会の席で自分がどうなるか。それを良くわかっている椛は肩を落としつつ、妖怪の山にある天狗御用達の飲み屋に入る。そして大宴会場へとまっすぐに進み、躊躇いながらもフスマを開いた、その瞬間。
信じられない衝撃が目に入ってきた。
「犬走椛、勤労千年記念祝賀会」
「え?」
天井からぶら下げられた、大きな文字。
一文字一文字が、椛の盾ほどありそうな巨大な横断幕が壁に張り付いていた。椛が見とれていると、飲み屋の大広間で主役を待ちわびていた若い白狼天狗や鴉天狗、さらに河童の面々総勢50名近い皆から拍手が飛んできた。
するとどうだろうか。
千里眼の力を使わずともはっきり見えるはずの文字。
目が開いた後の、赤子でも見えるはずのその文字。
それなのに、椛は、その文字が急に歪んで見え始めた。
「……」
声を出そうとしても身体が震えるばかりで、口元を抑えることしかできない。
尻尾もざわざわと騒ぎ立ち、ピンっと立ったまま。
「あ……」
やっとはき出そうとした声も、拍手にかき消され。
ぱちぱちという高い音だけが、椛の思考を完全に溶かしていく。
我慢しろ。
私は誇りある白狼天狗。
こんなところで、軽々しく、情けない態度を取れるものかっ!
椛は必死に胸の奥から湧き出る衝動を抑え込もうとした。
拍手の音が小さくなってきたから、ここが落ち着く絶好の機会だと。会場を見渡しながら椛は胸を押さえる。しかし椛は火薬の匂いを感じて鼻をヒク付かせる。
そして、皆が手に持つものを見て、ぞっとした。
やめて、やめてお願い、と。冷静な状態で、皆に感謝したいんだ、と。椛が心で願っても。とうとうその最終兵器は弾けた。
「椛! 千年間ご苦労様~! これからもがんばってね!」
制作者と思われるにとりが、掛け声を掛けた途端。
パァン、パァンっと、所々で火薬が弾け、耳が震える。
独特の匂いで鼻を、そして鮮やかな紙吹雪がスローモーションのように飛んできて、目と肌を次々と刺激してくる。
だから、椛は口を開く。
こんなの耐えられるはずがないと、すべて振り切って。
「ありがとう、みんら、ありがとぉっ!」
頬を伝う暖かい流れを感じながら、鼻声混じりの声で精一杯に応えたのだった。
<『千年越しの大酒気異変』 ~よってにゃんららいれふよ?~>
遡ること、半日。
椛の哨戒任務中に、射命丸文がニヤつきながら飛んできて
「今夜、一部の白狼天狗と鴉天狗と河童の間で飲み会を開催するから」
などといきなり言われ、椛は断る気満々だった。
白狼天狗と河童はまだしも、鴉天狗などと一緒に飲んで何が楽しいのか、と。
しかし、目を細めて拒否と回答しようとしたときだった。
「椛は強制参加ね。上司の印も貰ってるし」
文が付きだした書面に、愕然となる。
『犬走椛に告ぐ 今宵行われる宴席は、どの任務より優先して参加するべし。第3白狼天狗詰め所、所長――』
しっかりと名前が筆記され、押印まで済まされている。
しかもどの任務より優先と言うことは、哨戒任務より宴席を優先しろというお達しだ。
ということは、
「……またお偉い様の会議か」
妖怪の山の白狼天狗社会でも中堅的な位置にいる椛は、最近大天狗との宴席が多かった。おそらく将来的な椛の立ち位置をそろそろ決める時期であるのだろう。切りの良い時期というのも、影響しているのかも知れないが。
「もしかして、文も?」
「なんでそんな嫌そうにいうのやら。当然でしょう? 私が記事以外とは関係ないところで自発的に動くとでも?」
「ってことは、文も強制か。鴉天狗の上の御方なんて正直会いたくないなぁ」
「大丈夫だって、気楽に行けばいいじゃない。そんな上司とか居ないかも知れないし」
「大丈夫なわけがない。上司の居ない宴会で上司が強制命令を出すなんて、そんなのありえない。とうとう新聞の書きすぎで常識さえ狂ってきたのか」
「本当にいないんですけどねぇ、何せ主催はわた……、おっとっと」
「ん?」
何かを言い掛け、文が慌てて口を閉じる。
それを気にして椛が目を細めるが、文はぱたぱたと手を上下に振って、何でもないと身振りで意思表示し始めた。
「それでは椛、お楽しみに」
「……はいはい」
そして椛は、諦めた様子で肩を落とした。
また接待かと、宴会の時間が近づくに連れて気が重くなっていった椛である。
それが、来てみれば、どうだ。椛のための祝賀会。
椛が主役の宴席ではないか。
一人だけ高い位置に座って、皆の注目の的。
大天狗や上司なんて仲間はずれの、若いものたちだけの宴会。白狼天狗が40名ほどで、鴉天狗の数は文の知り合い3名しか来ていないというアンバランスさはあるけれど、この場で一番偉い文が開始早々『無礼講』発言をしたので、皆立場を気にせず御膳の食事を楽しむことができた。
しかし、椛はずらりと並ぶ左右の御膳の列を前に、気恥ずかしそうに微笑みながら箸を持つが、食事にありつく前に、別な作業で手一杯となってしまった。
「椛先輩、おめでとうございます!」
「ああ、うん、ありがとう……」
「あ~もぅ~、また泣く! それじゃ祝ってる気分になれないじゃないですか!」
「う~、お前達がこんな卑怯なことをするから悪い! ほら、お猪口!」
「はぁ~い、とっとっと」
嬉しい悲鳴を上げながら、椛は目尻に涙を溜めたまま酒を受け返杯する。
そうやって参加した後輩達が我先にと椛の前にやってきて祝いの言葉を送っていく。そのため途中から箸すら握れなくなってしまう。
中には、
「椛先輩、やっぱり先輩はお婿貰うんですよね?」
「ぶふっ!? けほっ! な、ななっ!」
「あれ? 他の先輩達が、『椛は絶対嫁には行かないから』って」
「……うん、ちがうから。真に受けちゃ駄目だから!」
そろそろ良い年齢ということもあるので、椛の恋愛について突っ込んだことを聞いてくる者もいた。それで椛がしどろもどろになり、その様子を見ていた次の後輩がぐっと握り拳を作り。
(椛先輩、可愛い……)
それで、自分もそんな質問をするぞっと躍起になるという。椛にとって嬉しいのか悲しいのかわからない悪循環が生まれ始めた。
もみくちゃにされながら祝われ、恋話をさせられ、困りながらも雰囲気を楽しみつつある椛。それでも性格なのだろうか、机の前から人が居なくなると、きちんと正座し直して、礼儀正しく食事を行っている。
茶碗を持ち、箸を動かし、少し冷めてしまったけれど美味しい料理に口元を緩めていると。
「あはは~、椛大変だったねぇ」
そんな白狼天狗の波を切り抜けた親友に、にとりも祝杯を持ってきた。すると、一際嬉しそうに椛は尻尾を横に振り。
「ありがとう、にとり」
頬を朱に染めつつ、お猪口を差し出す。そのあまりの堂々とした動きに、にとりは目を丸くして、
「うわー、すっごいね。椛ってばお酒強いんだ。後輩って40人くらいいたよね? それを連続で相手にしたのに」
「天狗はみんな強いよ。鬼は例外だけどね」
「そっかー、じゃあ気にしちゃ駄目だったかな。私のところの若いのも連れてきたから、お酌させて貰っても良い?」
「もちろん」
「おっけー、ほらー、みんなおいでー!」
無礼講と言われても、まだ若い河童は天狗の前で萎縮してしまうのか。にとりが呼びかけてもなかなか出ようとしない。それでも、そのうちの一人が椛の前に立って、無事に酌をして戻ってくると。
今度はぞろぞろと一斉にやってきてしまい、また椛のお酒のペースが上がる。
「あはは~、騒がしい後輩でゴメンね」
最後にまた、にとりが一杯を勧めると。
椛は嬉しそうに受け取って、一気に空にして。
また茶碗と箸を持って、料理を食べ始めようとする。さすがに邪魔しちゃ悪いなと感じ取ったにとりが、少しだけ名残惜しそうに身を引こうとしたとき。
少々不自然な映像が目に入ったので、椛へと向き直った。
「あれ? 椛? その茶碗空だよ?」
「え、あれ? あ、ほんとだ」
「んふふ~、やっぱり酔っぱらっちゃったかなぁ?」
「ち、違うよ! 私がこんな嬉しい席でそんな、自分を見失うほど酔うはずないじゃない」
「そういうことにしといてあげる♪」
「ああもう、にとりっ!」
そして、椛は拗ねるように一度箸の先を噛んでから、また新たな料理を楽しみ、それを肴に美味しいお酒を喉に流し込んだ。
こんな楽しい宴会は初めてだと、椛は心から感じていた。
自分が一番偉い場所にいるから気分が良いとか、そういう話ではなく。節目の年を皆が祝ってくれるという事実が嬉しくて、もう時を忘れるくらいに楽しんでいた。
しかし、こんな楽しい会で己を失うのはあってはならぬこと。
「椛~、大丈夫~?」
大丈夫も何も、飲み始めてから何もおかしなことはない。椛はふふんっと胸を張り、
「らいりょうふれふりょ」
「……え?」
「らいりょぉぶぅ! っへ、言っへるんれふ!」
はっきりと大丈夫だと答えて見せた。なのに椛の正面に座る文は、何か難しそうな顔をして、
「……えっと、酔ってるでしょ?」
「らぁにをばかにゃ! よってにゃんららいれふよ? わらしのろこが、うぃっく、よっわにゃってるってぃぅ~んれふか!」
「うん、わかった……、よくわかった」
椛は思うのだ。鴉天狗はそうやってモノを曲解して受け取りたがるのが問題だと。ちょぉっと顔が熱かったりするだけで、他人を酔っぱらい扱いするのはいけないことだと。だからそうやって、座ったままゆらゆら揺れ動くことになるというのに。しっかり座ることすらできないのか、と。飲み会の席でなければ指導したいところである。
でも我慢出来なくなって少しだけ、指をさして注意してみる。
「あやぁ、いつまで斜めになっへるのぅ?」
「……あのね、椛。私はおもいっきり背筋を伸ばしているつもりなんだけど」
「あ~やぁはぁ~、普段かりゃしせぇーがわるぅぅ~いからぁ! 座ってても、くねくねしてるんらよぉ!」
「あと、私の下半身指差して注意するのはどうかと……」
こんなときにも下ネタを引き出そうとするなどと、なんという。鴉天狗ではなく、エロス天狗と言ったところか。椛はしっかりと顔を刺しているというのに、妙なことを言うモノである。あやがそうやって、斜めになっているから畳すれすれを指差さなければいけない椛の苦労をわかっていない。
「あー、もう、あんなはしゃぐから……、水持ってくるから大人しく待ってなさい」
「あーいっ」
確かに、と。椛は素直にその要求を受け入れる。
身体が熱くなっていたのは事実であったし、喉が渇いていたのも事実。飲み直しても良いかなと思い、周囲を見渡して。
「わふ……?」
あれほどうるさく騒いでいた天狗たちや河童たちが綺麗さっぱり消え去っていた。まるで狐に摘まれたような気分である。
「あーやー、みんらはー?」
「……さっき、はたてが締めたでしょ、宴会」
「えー?」
「えー、じゃない。ほら、やっぱり酔ってる」
「よっれまふぇん!」
宴会がさっき終わった。そう文から聞いた椛は、ちょっと記憶の中を探してみる。そうすると、はたてと何か会話をしたことや、皆から改めて盛大な拍手を受けたことが頭の中に思い浮かんできた。
これのことか、と。椛は理解して、わふっと唸った。
「はい、水」
唸った後、すぐ文が椛の目の前にやってきて水の入ったコップを差し出すが。椛はじとーっと恨めしそうに文を見上げて、
「分ひんのジツなんて、ひきょうらよ。こっふつかめらい」
3人に別れた文に向けせわしなく首を振る。それを見た文はぐっと椛の手を掴んでコップを握らせ、早く飲むように促す。
「送ってあげるから、水飲んでさっさと捕まる」
「あーいっ」
椛は美味しそうに喉を鳴らしながら水を飲み。ぷはぅっと大袈裟に息を吐いてから、膝を立てて立ち上がろうとし、
「おろ?」
「ああ、もぅ」
その膝から崩れて、御膳にダイブ。
しそうになったところで、文がとっさに支えた。
ただ、いきなり伸びてきた腕が、椛の胸と、腹部を圧迫してしまったせいで……
「あーやぁ……?」
「何?」
「……ごめん、やばひ」
「……ちょ、ちょと! ちょっとぉ!」
いきなり顔色が悪くなった椛を抱え、慌てて文は厠へと駆け込んだのだった。
◇ ◇ ◇
「……もう、あひたまでここれいぃ?」
厠の洗面所で引きこもりを断行しようとした椛をなんとか引っ張り起こし、文はやっと滝浦の洞窟まで辿り付く。
時計の針は日付をまたぎ、時刻はもう丑三つ時。
文にとっては信じられないほど、遅い到着であったのだがこれには理由があり。
「……もっと、もっと、ゆっくりぃ」
文に背負われた椛が酒臭い息を吐きながら懇願してきたためである。
それを無視してスピードを上げようものなら、文の右肩に二次汚染が拡がる恐れがあったため、仕方なく椛が納得する速度で飛んだ。
だからといって歩かせようとすると、ノンブレーキで木にぶつかろうとするので余計に世話が焼ける。
そうやって騙し騙し進んだ結果、飛行1分のところを、2時間掛けて移動したということだ。
その二時間のせいで大分言語機能は回復しているようであったが、今度は睡魔が襲いかかっているのか椛の意識が危うい。
文は最後の詰めに、滝裏の洞窟へと入ると岩壁でできた自然の宿舎。白狼天狗の寮へと足を運び、一室の前で翼を畳む。
「椛、つきましたよー」
「んにぃ?」
まるで子供の頃に逆行してしまったかのように、目を擦りながら妙な声を上げた椛は、ふらつきながらもドアノブを握って自分の部屋へ。
「はふ」
ぺたん……
そして、玄関付近の畳の上で丸くなっておやすみなさいっと。
「ああもう、あなたという馬鹿犬は……」
文は、土間を越えた畳の上で丸くなる椛をつま先でこんこんっと突き。布団を敷いて寝るべきだと告げるが、
「うぅぅ~~~」
「ああもう、わかった。敷けばいいんでしょう敷けば!」
椛が喜ぶだろうとお膳立てしたのは文自身であり、こうなったのもある意味は自分の責任かもしれない。
だから、布団を敷いてあげるのもその一環、うん、そうに違いない。
そうやって納得出来ない自分を言い聞かせつつ、文は手早く布団を完成させ、
「さっさと、寝る」
「ふはぁ……」
風を使って椛を布団まで運ぶと、そのまま掛け布団を被せてやった。すると気持ちよさそうな吐息を漏らし、すやすやと寝息を立て始める。
「……ったく、他人には礼儀だの、なんだのと言う癖に」
気持ちよさそうに寝息を立て、ご満悦なご様子の椛。
そのあまりに幸せそうな、無防備な寝姿は実に愛らしく、魅力的で。
ぱしゃり、と。
ちょっぴり布団をまくし上げて、一枚。
眩しそうに身をよじっているところで、一枚。
また、落ち着いた様子で胸を上下させているところで、一枚。
「これくらいの報酬があって然るべきでしょうな、と?」
文が手間賃を領収しているそのときだった。
「ぁや……」
椛の瞳がうっすらと開いたので、文は慌てて写真機を背中に隠し、何事もなかったかのように微笑んで。
「起きた?」
何事もなかったかのように尋ねると……
「あやぁ…………ちょこざいなぁ……」
寝言でした。
再び瞳を閉じて、むにゃむにゃと言葉を吐き出す。
しかも手を動かしているところを見ると、戦闘中のようである。
「がんばれ、夢の中の私」
くすくすと微笑みながら、手を動かしたことで崩れた布団を整えて、文は椛から離れる。
抜き足差し足、と、物音を立てないようにして……
「ぁや……」
その間も夢の文は椛と交流を繰り広げているようだ。
寝言が収まることはなく、文がドアノブに手を掛けたときも、少々控えめな寝言が聞こえて。
「……大しゅきぃ……」
一瞬、空気が固まる。
「え?」
文は物陰に隠れながら慌てて椛の様子を探るが、やはり眠っているだけ。寝言は今のが最後だったようで、すーすーっと不安定ながら穏やかな呼気が椛から吐き出され続けるだけ。
そうやって静かな椛とは対照的に、急に頭が沸騰しそうになった文は慌てて椛の部屋を出て、ただ無心で妖怪の山の空を飛び回った。
(どういうこと、どういうことっ! ああもうっ! どういうことぉぉぉっ!)
心の中で大絶叫を響かせつつ、家に戻り、新聞記事を書けば落ち着くと思って筆を執るが……
「……うわぁ」
宴会の記事、宴会の記事、と。
そう頭の中で考え、椛の様子を思い出そうとするだけで、現像したばかりの椛の無防備な寝姿写真に目が行き。
『大しゅきぃ……』
掠れて、弱々しさを感じさせる……
あの舌っ足らずの寝言の響きが頭の中で思い出されて……
「……この状況でどうやって記事書けっていうのよぉ、もぉぉぉぉ!」
文は顔を赤くしたまま、作業机の上で突っ伏したのだった。
ばたばたっと、机の下の脚だけで抵抗の意志を見せながら。
◇ ◇ ◇
翌日。
「……ぅわふ」
椛が頭痛と闘いながら、高い杉の木の上で哨戒任務についていると。
上空から突風が吹いてきて、椛の横で止まる。
椛が鴉天狗嫌いと知りながら強引に近づいてくる風使いなど一人しかおらず。
「ああ、文、おはよう」
特に刺々しくもない挨拶を、文に向ける。そして少しだけ恥ずかしそうに俯いて、
「えっと、昨日の祝賀会、だっけ? にとりから聞いたんだけど、あれって文が設定してくれたんだって?」
「ええ、協力者を募って」
「……まあ、そこのところは感謝しておく。正直うれしかったし」
横にいる文の方を見ようとしないのは、照れ隠しのつもりなのだろう。
しかし、尻尾と耳の不自然な動きで容易に理解出来てしまうのが白狼天狗の悲しき性質(さが)である。
「素直じゃないことで……、それでもう少し可愛げがあればいいんですけどねぇ」
「うるさい、今ケンカ売られても買える状況じゃないんだから、感謝だけ受け取ってどっかいって……、て、何その目のクマ」
「昨日の夜の記事をかきたかったけど、上手くいかなかった。それで今朝に至る」
やっと文の方をみた椛が驚くほど、文の目の下のクマは酷く。疲れの色すら伺えた。
「椛が酔っぱらいさえしなければあんなことには……」
「なっ!? わ、私は酔っぱらってなんかない! 全部おぼえてるし!」
「どうだか……」
文は、疲れた様子で肩をすくめ、じーっと椛を見下ろしつつ。
すると椛も負けじと、スギの木の上で腕を組んで視線を迎え撃つ。
だが、
「では、皆が解散したのは何時頃?」
「……えっと、じゅ、じゅうに時、くらい?」
「宴会場の厠と洗面所で何した?」
「……えっと、吐いた? かな……」
「その後、どうやって帰った?」
「……え、えっとぉ」
問答を繰り返す度、段々と耳が下がっていく様子から察するに。
やはりその周辺の出来事をまるで覚えていないらしい。
推測だけでしかモノを言えず。
「文の匂いが服とかに残ってたから……運んで、くれた……とか?」
なんとか記憶と手がかりを探って答えようとする。
ということは、もちろん。
文が布団を敷いたことも、文が写真を撮ったことも、その後椛が……
アレをつぶやいたことも、全て記憶にない、と。
それを知った文は、
「ふーん」
「な、何よ」
「へぇ~、覚えてたんだ」
そうやって必死に覚えてる振りをする。
そんな椛を見ているだけで、文の胸が妙にざわざわ騒ぎ始める。
だから文は、椛が察した匂いの証拠を逆手にとって、
「そうなんだ、椛が私にあんなことしたの。酔ってるからだと思ってたのに……」
「……え?」
両腕で自分自身の身体を抱きしめ。
こっそり欠伸を噛み殺すことで、瞳を充分潤ませた。
さあ、これで準備万端。
ぎゅっと瞳をつぶり、無理矢理涙を頬に滑らせれば
「酔ってるから仕方ないって、我慢したのに……、振りだったんだ……」
「え、ちょ、文、ちょっと待って文ぁ!」
「うん、わかってる。記事にしないから……」
「そうじゃなくて、ごめん! 酔ってた! 酔ってたから何したか教えて~っ!」
そんな椛の絶叫を遠くに聞きながら、全速力で飛び立ったのだった。
「何もしてないわよ、馬鹿」
そのつぶやきを、風でかき消しながら。
無理矢理呼び出された宴会の席で自分がどうなるか。それを良くわかっている椛は肩を落としつつ、妖怪の山にある天狗御用達の飲み屋に入る。そして大宴会場へとまっすぐに進み、躊躇いながらもフスマを開いた、その瞬間。
信じられない衝撃が目に入ってきた。
「犬走椛、勤労千年記念祝賀会」
「え?」
天井からぶら下げられた、大きな文字。
一文字一文字が、椛の盾ほどありそうな巨大な横断幕が壁に張り付いていた。椛が見とれていると、飲み屋の大広間で主役を待ちわびていた若い白狼天狗や鴉天狗、さらに河童の面々総勢50名近い皆から拍手が飛んできた。
するとどうだろうか。
千里眼の力を使わずともはっきり見えるはずの文字。
目が開いた後の、赤子でも見えるはずのその文字。
それなのに、椛は、その文字が急に歪んで見え始めた。
「……」
声を出そうとしても身体が震えるばかりで、口元を抑えることしかできない。
尻尾もざわざわと騒ぎ立ち、ピンっと立ったまま。
「あ……」
やっとはき出そうとした声も、拍手にかき消され。
ぱちぱちという高い音だけが、椛の思考を完全に溶かしていく。
我慢しろ。
私は誇りある白狼天狗。
こんなところで、軽々しく、情けない態度を取れるものかっ!
椛は必死に胸の奥から湧き出る衝動を抑え込もうとした。
拍手の音が小さくなってきたから、ここが落ち着く絶好の機会だと。会場を見渡しながら椛は胸を押さえる。しかし椛は火薬の匂いを感じて鼻をヒク付かせる。
そして、皆が手に持つものを見て、ぞっとした。
やめて、やめてお願い、と。冷静な状態で、皆に感謝したいんだ、と。椛が心で願っても。とうとうその最終兵器は弾けた。
「椛! 千年間ご苦労様~! これからもがんばってね!」
制作者と思われるにとりが、掛け声を掛けた途端。
パァン、パァンっと、所々で火薬が弾け、耳が震える。
独特の匂いで鼻を、そして鮮やかな紙吹雪がスローモーションのように飛んできて、目と肌を次々と刺激してくる。
だから、椛は口を開く。
こんなの耐えられるはずがないと、すべて振り切って。
「ありがとう、みんら、ありがとぉっ!」
頬を伝う暖かい流れを感じながら、鼻声混じりの声で精一杯に応えたのだった。
<『千年越しの大酒気異変』 ~よってにゃんららいれふよ?~>
遡ること、半日。
椛の哨戒任務中に、射命丸文がニヤつきながら飛んできて
「今夜、一部の白狼天狗と鴉天狗と河童の間で飲み会を開催するから」
などといきなり言われ、椛は断る気満々だった。
白狼天狗と河童はまだしも、鴉天狗などと一緒に飲んで何が楽しいのか、と。
しかし、目を細めて拒否と回答しようとしたときだった。
「椛は強制参加ね。上司の印も貰ってるし」
文が付きだした書面に、愕然となる。
『犬走椛に告ぐ 今宵行われる宴席は、どの任務より優先して参加するべし。第3白狼天狗詰め所、所長――』
しっかりと名前が筆記され、押印まで済まされている。
しかもどの任務より優先と言うことは、哨戒任務より宴席を優先しろというお達しだ。
ということは、
「……またお偉い様の会議か」
妖怪の山の白狼天狗社会でも中堅的な位置にいる椛は、最近大天狗との宴席が多かった。おそらく将来的な椛の立ち位置をそろそろ決める時期であるのだろう。切りの良い時期というのも、影響しているのかも知れないが。
「もしかして、文も?」
「なんでそんな嫌そうにいうのやら。当然でしょう? 私が記事以外とは関係ないところで自発的に動くとでも?」
「ってことは、文も強制か。鴉天狗の上の御方なんて正直会いたくないなぁ」
「大丈夫だって、気楽に行けばいいじゃない。そんな上司とか居ないかも知れないし」
「大丈夫なわけがない。上司の居ない宴会で上司が強制命令を出すなんて、そんなのありえない。とうとう新聞の書きすぎで常識さえ狂ってきたのか」
「本当にいないんですけどねぇ、何せ主催はわた……、おっとっと」
「ん?」
何かを言い掛け、文が慌てて口を閉じる。
それを気にして椛が目を細めるが、文はぱたぱたと手を上下に振って、何でもないと身振りで意思表示し始めた。
「それでは椛、お楽しみに」
「……はいはい」
そして椛は、諦めた様子で肩を落とした。
また接待かと、宴会の時間が近づくに連れて気が重くなっていった椛である。
それが、来てみれば、どうだ。椛のための祝賀会。
椛が主役の宴席ではないか。
一人だけ高い位置に座って、皆の注目の的。
大天狗や上司なんて仲間はずれの、若いものたちだけの宴会。白狼天狗が40名ほどで、鴉天狗の数は文の知り合い3名しか来ていないというアンバランスさはあるけれど、この場で一番偉い文が開始早々『無礼講』発言をしたので、皆立場を気にせず御膳の食事を楽しむことができた。
しかし、椛はずらりと並ぶ左右の御膳の列を前に、気恥ずかしそうに微笑みながら箸を持つが、食事にありつく前に、別な作業で手一杯となってしまった。
「椛先輩、おめでとうございます!」
「ああ、うん、ありがとう……」
「あ~もぅ~、また泣く! それじゃ祝ってる気分になれないじゃないですか!」
「う~、お前達がこんな卑怯なことをするから悪い! ほら、お猪口!」
「はぁ~い、とっとっと」
嬉しい悲鳴を上げながら、椛は目尻に涙を溜めたまま酒を受け返杯する。
そうやって参加した後輩達が我先にと椛の前にやってきて祝いの言葉を送っていく。そのため途中から箸すら握れなくなってしまう。
中には、
「椛先輩、やっぱり先輩はお婿貰うんですよね?」
「ぶふっ!? けほっ! な、ななっ!」
「あれ? 他の先輩達が、『椛は絶対嫁には行かないから』って」
「……うん、ちがうから。真に受けちゃ駄目だから!」
そろそろ良い年齢ということもあるので、椛の恋愛について突っ込んだことを聞いてくる者もいた。それで椛がしどろもどろになり、その様子を見ていた次の後輩がぐっと握り拳を作り。
(椛先輩、可愛い……)
それで、自分もそんな質問をするぞっと躍起になるという。椛にとって嬉しいのか悲しいのかわからない悪循環が生まれ始めた。
もみくちゃにされながら祝われ、恋話をさせられ、困りながらも雰囲気を楽しみつつある椛。それでも性格なのだろうか、机の前から人が居なくなると、きちんと正座し直して、礼儀正しく食事を行っている。
茶碗を持ち、箸を動かし、少し冷めてしまったけれど美味しい料理に口元を緩めていると。
「あはは~、椛大変だったねぇ」
そんな白狼天狗の波を切り抜けた親友に、にとりも祝杯を持ってきた。すると、一際嬉しそうに椛は尻尾を横に振り。
「ありがとう、にとり」
頬を朱に染めつつ、お猪口を差し出す。そのあまりの堂々とした動きに、にとりは目を丸くして、
「うわー、すっごいね。椛ってばお酒強いんだ。後輩って40人くらいいたよね? それを連続で相手にしたのに」
「天狗はみんな強いよ。鬼は例外だけどね」
「そっかー、じゃあ気にしちゃ駄目だったかな。私のところの若いのも連れてきたから、お酌させて貰っても良い?」
「もちろん」
「おっけー、ほらー、みんなおいでー!」
無礼講と言われても、まだ若い河童は天狗の前で萎縮してしまうのか。にとりが呼びかけてもなかなか出ようとしない。それでも、そのうちの一人が椛の前に立って、無事に酌をして戻ってくると。
今度はぞろぞろと一斉にやってきてしまい、また椛のお酒のペースが上がる。
「あはは~、騒がしい後輩でゴメンね」
最後にまた、にとりが一杯を勧めると。
椛は嬉しそうに受け取って、一気に空にして。
また茶碗と箸を持って、料理を食べ始めようとする。さすがに邪魔しちゃ悪いなと感じ取ったにとりが、少しだけ名残惜しそうに身を引こうとしたとき。
少々不自然な映像が目に入ったので、椛へと向き直った。
「あれ? 椛? その茶碗空だよ?」
「え、あれ? あ、ほんとだ」
「んふふ~、やっぱり酔っぱらっちゃったかなぁ?」
「ち、違うよ! 私がこんな嬉しい席でそんな、自分を見失うほど酔うはずないじゃない」
「そういうことにしといてあげる♪」
「ああもう、にとりっ!」
そして、椛は拗ねるように一度箸の先を噛んでから、また新たな料理を楽しみ、それを肴に美味しいお酒を喉に流し込んだ。
こんな楽しい宴会は初めてだと、椛は心から感じていた。
自分が一番偉い場所にいるから気分が良いとか、そういう話ではなく。節目の年を皆が祝ってくれるという事実が嬉しくて、もう時を忘れるくらいに楽しんでいた。
しかし、こんな楽しい会で己を失うのはあってはならぬこと。
「椛~、大丈夫~?」
大丈夫も何も、飲み始めてから何もおかしなことはない。椛はふふんっと胸を張り、
「らいりょうふれふりょ」
「……え?」
「らいりょぉぶぅ! っへ、言っへるんれふ!」
はっきりと大丈夫だと答えて見せた。なのに椛の正面に座る文は、何か難しそうな顔をして、
「……えっと、酔ってるでしょ?」
「らぁにをばかにゃ! よってにゃんららいれふよ? わらしのろこが、うぃっく、よっわにゃってるってぃぅ~んれふか!」
「うん、わかった……、よくわかった」
椛は思うのだ。鴉天狗はそうやってモノを曲解して受け取りたがるのが問題だと。ちょぉっと顔が熱かったりするだけで、他人を酔っぱらい扱いするのはいけないことだと。だからそうやって、座ったままゆらゆら揺れ動くことになるというのに。しっかり座ることすらできないのか、と。飲み会の席でなければ指導したいところである。
でも我慢出来なくなって少しだけ、指をさして注意してみる。
「あやぁ、いつまで斜めになっへるのぅ?」
「……あのね、椛。私はおもいっきり背筋を伸ばしているつもりなんだけど」
「あ~やぁはぁ~、普段かりゃしせぇーがわるぅぅ~いからぁ! 座ってても、くねくねしてるんらよぉ!」
「あと、私の下半身指差して注意するのはどうかと……」
こんなときにも下ネタを引き出そうとするなどと、なんという。鴉天狗ではなく、エロス天狗と言ったところか。椛はしっかりと顔を刺しているというのに、妙なことを言うモノである。あやがそうやって、斜めになっているから畳すれすれを指差さなければいけない椛の苦労をわかっていない。
「あー、もう、あんなはしゃぐから……、水持ってくるから大人しく待ってなさい」
「あーいっ」
確かに、と。椛は素直にその要求を受け入れる。
身体が熱くなっていたのは事実であったし、喉が渇いていたのも事実。飲み直しても良いかなと思い、周囲を見渡して。
「わふ……?」
あれほどうるさく騒いでいた天狗たちや河童たちが綺麗さっぱり消え去っていた。まるで狐に摘まれたような気分である。
「あーやー、みんらはー?」
「……さっき、はたてが締めたでしょ、宴会」
「えー?」
「えー、じゃない。ほら、やっぱり酔ってる」
「よっれまふぇん!」
宴会がさっき終わった。そう文から聞いた椛は、ちょっと記憶の中を探してみる。そうすると、はたてと何か会話をしたことや、皆から改めて盛大な拍手を受けたことが頭の中に思い浮かんできた。
これのことか、と。椛は理解して、わふっと唸った。
「はい、水」
唸った後、すぐ文が椛の目の前にやってきて水の入ったコップを差し出すが。椛はじとーっと恨めしそうに文を見上げて、
「分ひんのジツなんて、ひきょうらよ。こっふつかめらい」
3人に別れた文に向けせわしなく首を振る。それを見た文はぐっと椛の手を掴んでコップを握らせ、早く飲むように促す。
「送ってあげるから、水飲んでさっさと捕まる」
「あーいっ」
椛は美味しそうに喉を鳴らしながら水を飲み。ぷはぅっと大袈裟に息を吐いてから、膝を立てて立ち上がろうとし、
「おろ?」
「ああ、もぅ」
その膝から崩れて、御膳にダイブ。
しそうになったところで、文がとっさに支えた。
ただ、いきなり伸びてきた腕が、椛の胸と、腹部を圧迫してしまったせいで……
「あーやぁ……?」
「何?」
「……ごめん、やばひ」
「……ちょ、ちょと! ちょっとぉ!」
いきなり顔色が悪くなった椛を抱え、慌てて文は厠へと駆け込んだのだった。
◇ ◇ ◇
「……もう、あひたまでここれいぃ?」
厠の洗面所で引きこもりを断行しようとした椛をなんとか引っ張り起こし、文はやっと滝浦の洞窟まで辿り付く。
時計の針は日付をまたぎ、時刻はもう丑三つ時。
文にとっては信じられないほど、遅い到着であったのだがこれには理由があり。
「……もっと、もっと、ゆっくりぃ」
文に背負われた椛が酒臭い息を吐きながら懇願してきたためである。
それを無視してスピードを上げようものなら、文の右肩に二次汚染が拡がる恐れがあったため、仕方なく椛が納得する速度で飛んだ。
だからといって歩かせようとすると、ノンブレーキで木にぶつかろうとするので余計に世話が焼ける。
そうやって騙し騙し進んだ結果、飛行1分のところを、2時間掛けて移動したということだ。
その二時間のせいで大分言語機能は回復しているようであったが、今度は睡魔が襲いかかっているのか椛の意識が危うい。
文は最後の詰めに、滝裏の洞窟へと入ると岩壁でできた自然の宿舎。白狼天狗の寮へと足を運び、一室の前で翼を畳む。
「椛、つきましたよー」
「んにぃ?」
まるで子供の頃に逆行してしまったかのように、目を擦りながら妙な声を上げた椛は、ふらつきながらもドアノブを握って自分の部屋へ。
「はふ」
ぺたん……
そして、玄関付近の畳の上で丸くなっておやすみなさいっと。
「ああもう、あなたという馬鹿犬は……」
文は、土間を越えた畳の上で丸くなる椛をつま先でこんこんっと突き。布団を敷いて寝るべきだと告げるが、
「うぅぅ~~~」
「ああもう、わかった。敷けばいいんでしょう敷けば!」
椛が喜ぶだろうとお膳立てしたのは文自身であり、こうなったのもある意味は自分の責任かもしれない。
だから、布団を敷いてあげるのもその一環、うん、そうに違いない。
そうやって納得出来ない自分を言い聞かせつつ、文は手早く布団を完成させ、
「さっさと、寝る」
「ふはぁ……」
風を使って椛を布団まで運ぶと、そのまま掛け布団を被せてやった。すると気持ちよさそうな吐息を漏らし、すやすやと寝息を立て始める。
「……ったく、他人には礼儀だの、なんだのと言う癖に」
気持ちよさそうに寝息を立て、ご満悦なご様子の椛。
そのあまりに幸せそうな、無防備な寝姿は実に愛らしく、魅力的で。
ぱしゃり、と。
ちょっぴり布団をまくし上げて、一枚。
眩しそうに身をよじっているところで、一枚。
また、落ち着いた様子で胸を上下させているところで、一枚。
「これくらいの報酬があって然るべきでしょうな、と?」
文が手間賃を領収しているそのときだった。
「ぁや……」
椛の瞳がうっすらと開いたので、文は慌てて写真機を背中に隠し、何事もなかったかのように微笑んで。
「起きた?」
何事もなかったかのように尋ねると……
「あやぁ…………ちょこざいなぁ……」
寝言でした。
再び瞳を閉じて、むにゃむにゃと言葉を吐き出す。
しかも手を動かしているところを見ると、戦闘中のようである。
「がんばれ、夢の中の私」
くすくすと微笑みながら、手を動かしたことで崩れた布団を整えて、文は椛から離れる。
抜き足差し足、と、物音を立てないようにして……
「ぁや……」
その間も夢の文は椛と交流を繰り広げているようだ。
寝言が収まることはなく、文がドアノブに手を掛けたときも、少々控えめな寝言が聞こえて。
「……大しゅきぃ……」
一瞬、空気が固まる。
「え?」
文は物陰に隠れながら慌てて椛の様子を探るが、やはり眠っているだけ。寝言は今のが最後だったようで、すーすーっと不安定ながら穏やかな呼気が椛から吐き出され続けるだけ。
そうやって静かな椛とは対照的に、急に頭が沸騰しそうになった文は慌てて椛の部屋を出て、ただ無心で妖怪の山の空を飛び回った。
(どういうこと、どういうことっ! ああもうっ! どういうことぉぉぉっ!)
心の中で大絶叫を響かせつつ、家に戻り、新聞記事を書けば落ち着くと思って筆を執るが……
「……うわぁ」
宴会の記事、宴会の記事、と。
そう頭の中で考え、椛の様子を思い出そうとするだけで、現像したばかりの椛の無防備な寝姿写真に目が行き。
『大しゅきぃ……』
掠れて、弱々しさを感じさせる……
あの舌っ足らずの寝言の響きが頭の中で思い出されて……
「……この状況でどうやって記事書けっていうのよぉ、もぉぉぉぉ!」
文は顔を赤くしたまま、作業机の上で突っ伏したのだった。
ばたばたっと、机の下の脚だけで抵抗の意志を見せながら。
◇ ◇ ◇
翌日。
「……ぅわふ」
椛が頭痛と闘いながら、高い杉の木の上で哨戒任務についていると。
上空から突風が吹いてきて、椛の横で止まる。
椛が鴉天狗嫌いと知りながら強引に近づいてくる風使いなど一人しかおらず。
「ああ、文、おはよう」
特に刺々しくもない挨拶を、文に向ける。そして少しだけ恥ずかしそうに俯いて、
「えっと、昨日の祝賀会、だっけ? にとりから聞いたんだけど、あれって文が設定してくれたんだって?」
「ええ、協力者を募って」
「……まあ、そこのところは感謝しておく。正直うれしかったし」
横にいる文の方を見ようとしないのは、照れ隠しのつもりなのだろう。
しかし、尻尾と耳の不自然な動きで容易に理解出来てしまうのが白狼天狗の悲しき性質(さが)である。
「素直じゃないことで……、それでもう少し可愛げがあればいいんですけどねぇ」
「うるさい、今ケンカ売られても買える状況じゃないんだから、感謝だけ受け取ってどっかいって……、て、何その目のクマ」
「昨日の夜の記事をかきたかったけど、上手くいかなかった。それで今朝に至る」
やっと文の方をみた椛が驚くほど、文の目の下のクマは酷く。疲れの色すら伺えた。
「椛が酔っぱらいさえしなければあんなことには……」
「なっ!? わ、私は酔っぱらってなんかない! 全部おぼえてるし!」
「どうだか……」
文は、疲れた様子で肩をすくめ、じーっと椛を見下ろしつつ。
すると椛も負けじと、スギの木の上で腕を組んで視線を迎え撃つ。
だが、
「では、皆が解散したのは何時頃?」
「……えっと、じゅ、じゅうに時、くらい?」
「宴会場の厠と洗面所で何した?」
「……えっと、吐いた? かな……」
「その後、どうやって帰った?」
「……え、えっとぉ」
問答を繰り返す度、段々と耳が下がっていく様子から察するに。
やはりその周辺の出来事をまるで覚えていないらしい。
推測だけでしかモノを言えず。
「文の匂いが服とかに残ってたから……運んで、くれた……とか?」
なんとか記憶と手がかりを探って答えようとする。
ということは、もちろん。
文が布団を敷いたことも、文が写真を撮ったことも、その後椛が……
アレをつぶやいたことも、全て記憶にない、と。
それを知った文は、
「ふーん」
「な、何よ」
「へぇ~、覚えてたんだ」
そうやって必死に覚えてる振りをする。
そんな椛を見ているだけで、文の胸が妙にざわざわ騒ぎ始める。
だから文は、椛が察した匂いの証拠を逆手にとって、
「そうなんだ、椛が私にあんなことしたの。酔ってるからだと思ってたのに……」
「……え?」
両腕で自分自身の身体を抱きしめ。
こっそり欠伸を噛み殺すことで、瞳を充分潤ませた。
さあ、これで準備万端。
ぎゅっと瞳をつぶり、無理矢理涙を頬に滑らせれば
「酔ってるから仕方ないって、我慢したのに……、振りだったんだ……」
「え、ちょ、文、ちょっと待って文ぁ!」
「うん、わかってる。記事にしないから……」
「そうじゃなくて、ごめん! 酔ってた! 酔ってたから何したか教えて~っ!」
そんな椛の絶叫を遠くに聞きながら、全速力で飛び立ったのだった。
「何もしてないわよ、馬鹿」
そのつぶやきを、風でかき消しながら。
千年妖怪もこのザマである。
振り回される椛も大変だけれど、想いを募らせる文も苦労しそうだw
とても読みやすかったです
貴方の作品のファンです!
いいですなあ、こういう関係。
是非とも後日談を!!!このキャインの後日談を!!!!!!!
おねがいします!おねがします!!ありがとうございます!おねがいします!!
どうか!どうか!!!!
流石pys氏、お見事っ!