私からあなたに手紙を出すのはおそらくこれが最後です。
あなたの協力のお陰で、幻想郷縁起の編纂は随分とはかどりました。本当にありがとう。
最初はどうしようかと思いました。なにせ、あの子ったら自分の事となると「さいきょう」の五文字以外なかなか喋ってくれないのですから。
博麗の巫女や妖怪の賢者に話を聞いて、あの子の小さい頃――今も大きさは変わりませんが――にあなたという存在が居た事がわかって本当によかったです。
あの子の出生なんて、あなたからの返事無しでは空白になる所でした。
お礼に……なるかどうかもわからないのですが、なにぶん、私はこうして文を綴るのが仕事であり、趣味でもありますから、その。
……あなたとあの子の物語をあなたの為だけに書き上げてしまいました。
今回の手紙がやけに分厚かったのはそのせいです。
ただ、心を込めて書き上げましたので、確認の意味も含めて読んで頂けたら幸いです。
◇ ◇ ◇
あなたが目を覚ましたのはあなたが床に就いた場所ではありませんでした。
静寂を絵に描いたような森の中。辺りは肌寒く、吐く息は白くなります。
木漏れ日があなたを優しく包み込んでいました。目を細めながら上体を起こすと、あなたは辺りをきょろきょろと見回します。
「あたらしい子がうまれそうだよ!」
突如聞こえた声の方にあなたは焦点を合わせました。木陰から現れた声の主は、小さな人間の女の子のようでした。が、その子はどうやら人間という生き物ではなさそうです。
四尺足らずの小さな背丈。背に透明なちょうちょの羽のようなものを付けたその子は、それで飛んでいますと言うかのように地面からふわふわ浮いていたからです。
「ほんと?」
「うそでしょ?」
「どっちみち、寒くて動きたくない」
どこからともなく、さらに三人もちょうちょ娘が現れました。四人になったちょうちょ娘は、動かない一人を残った三人で引っ張って飛んでいってしまいます。
うまく声をかけれなかったあなたは、四人を追いかけ始めました。
追ってまもなく、あなたは森の奥が謎めいた光を放っている事に気付きました。
近付けば近付くほどに光は強くなっていきます。幾ばくかあなたが眩しく感じ始めた頃、目の前が不意に開けました。
光の正体は大きな湖でした。中に太陽でも沈んでいるかのように、湖そのものが強く輝いているのです。
ちょうちょ娘たちは湖の中心へと飛んで行きました。気付けば他にも何十人ものちょうちょ娘達が、湖の中心でさざめいています。
あなたは得体の知れない湖には足を踏み入れず、湖の畦からその光景を見つめました。
――ちょうちょ娘達のざわめきを吹き飛ばすかのようでした。
目もくらむような強い光が発されたかと思うと、今度は湖全体の光が中心へと急速に収縮していくのです。
凝縮されたその光量にあなたは思わず両腕で顔を隠しました。腕と腕のわずかな隙間から光の様子をうかがいます。
集まった強い光は火柱のように天へ立ち上ったかと思うと、ぱきぱきっと音を立てて凍りつきました。文字通り光は凍ったのです。しかも、それは一輪の花のような姿をかたちどって。
白く透明な氷の花はまだ蕾でしたが、色さえついてしまえば、それはもう本物と見分けがつかなかったでしょう。一人の職人が生涯をかけてただ一つ残す作品。氷の花はそれ程の繊細さを有してそこに存在していました。
閉じた花びらの奥では、唯一凍らずに残ったかのような青い光がぼんやりと明滅しています。
そして、誰もが息をひそめる中、ゆっくりとゆっくりと氷の花は咲き始めたのです。
花は自身が氷である事を忘れているようでした。外側から一枚ずつめくれていくその花は、微塵の音も立てず、一遍のひび割れさえ起こさずに滑らかに、それこそ本物の花びらのようにその一枚一枚を広げていきます。
咲き誇った氷花の中には一人の少女が眠っていました。親指を口にくわえ胎児のように丸まっています。
淡い青い光は少女の心の臓で点滅しているようでした。しかし、次第に彼女の中へと吸い込まれるように見えなくなっていきます。
光が溶け込むのと、氷の少女が目を覚ましたのは同時でした。
少女はうまれながらにして、白いブラウスに青いワンピースを着ていました。頭には大きなリボンまで付いています。彼女は泣く事もせず、ただ薄目を開けてぼんやりと辺りを見回していました。次いで大きなあくびをしたかと思うと、彼女は両の手を思い切り頭上にして体を大きく伸ばしました。
うまれたというよりは、長く永い眠りからただ覚めたかのようです。
少女が体を伸ばすとしゃらんと澄んだ音が湖に響きました。彼女は背丈こそちょうちょ娘達と同じくらいでしたが、背中にちょうちょの羽は着けていません。代わりに彼女は六本ものつららを背負っていました。
「「「おはよう!」」」
ちょうちょ娘達が口々に朝の挨拶をしました。まるでえさに集まる小鳥の大群のようです。
「アナタのお名前は?」
「アナタは何の妖精なの?」
「どっちみち何でもいいけど」
うまれたばかりの氷の少女へと質問が浴びせられます。あなたも質問を飛ばしたのですが、他の誰よりも彼女には遠い。残念ながらあなたが発した声は届きませんでした。
氷の少女はというと、質問の波にはさらわれたりせず、悠然と立ち上がり両手を組んで踏ん反り返っていました。
「あたいはチルノ! こおりの妖精よ!!」
しゃらんと澄んだ強い音を立てて、チルノの背中のつららは三本ずつ左右に分かれて綺麗に広がりました。まるで孔雀の羽のように。
同じような背丈、大なり小なり個人差はありますが背中に付いている羽。ここにいるちょうちょ娘達はおそらく皆妖精という生き物なのでしょう。
そんな妖精達でしたが、なぜかすっかり大人しくなってしまいました。行きなさいよと言わんばかりにそれぞれがそれぞれの服の裾を引っ張り合っています。
意を決したようにその中の一人の妖精が動きました。
「ど、どっちみち、よろしくね」
妖精がおずおずと差し出した手を、チルノは元気良く「うん!」と返事をしながら握り返しました。
……静寂。
時が止まったかのようなしじまが広がったかと思うと、次の瞬間、妖精は腕から羽から全身まで凍ってばしゃーんと湖の中へ落ちてしまいました。
「き……きゃああああ!」
阿鼻叫喚です。妖精たちは「これだから冷たいのは……!」や「サイッテー!!」や「ちからを抑えなさいよ!」などと口々に喚き散らして飛び去っていきました。
当のチルノはぽかんとしてまるで状況をわかっていないようです。
喚き散らしながらも、湖に沈んでしまった仲間をきちんと引き上げた二人の妖精は、ちょうどあなたの方へ向かって飛んできました。
そこで、あなたは妖精たちと初めて目を合わせます。
「「に……人間よぉぉお!!」」
二人の妖精は叫んで凍った仲間を放り投げてしまうのですから、あなたは凍った妖精を慌てて受け取らざるを得ませんでした。
気付けば湖に残ったのは、あなたと氷漬けの妖精と凍らせた妖精――チルノの三人だけです。
チルノはあなたに気付くと氷の花からふわりと降り、湖の上に音もなく着水しました。
いえ、チルノの足は湖に接していなかったので着水とは言わないかもしれません。そうして少し浮いたまま、彼女はあなたの元へと水平に飛んできます。彼女の軌跡はそのまま、湖に御神渡りのような美しい道を残しました。
チルノが近付いてくるだけで、あなたは頭の先まで総毛立ってしまいました。
あまりにも冷たいのです。あなたが両手に抱えている氷漬けの妖精よりも、この森の空気そのものよりも、チルノがまとう空気の方がずっと冷たかったのです。彼女自身が冬そのもののようでした。
「あなた、にんげんなの?」
あなたの目の前まで来たチルノは興味津々という感じであなたの事をのぞき込みます。寒さでかちかちと音を鳴らし始めたあなたの口元へ、チルノは不思議そうにその手を伸ばしてきます。
「逃げなさい!!」
突如、空から聞こえた声であなたは弾かれたように尻餅をつきました。しかし、あなたはそこから動く事ができません。あなたはすっかり腰が抜けていました。動けないあなたの体が不意に宙に浮き上がります。
正確には空の声の主が急降下して、あなたが抱えている氷漬けの妖精ごとあなたをかっさらって、再び空へと急上昇したのです。
あなたを救い上げた人物は速度を緩める事なくそのまま空を飛び続けこの湖を後にしました。
湖を離れる間際、あなたは手を伸ばしたチルノがこちらを見上げていたような気がしました。
「なんの用意もせずにあんな所にいるなんてあんた暢気にもほどがあるでしょ!」
赤を基調とした衣装に身を包む少女があなたを叱咤しました。
あなたをかっさらって飛行していたのはこの少女です。飛行こそしていましたが、赤い少女の背中には羽らしきものはありません。
博麗と名乗った少女があなたを降ろしたのは神社でした。博麗はここにたった一人で住んでいる巫女だそうです。
離れの居間で出されたお茶をすすりながら、あなたは理不尽な叱咤に対して自らの状況を懇切丁寧に説明しました。
「気付いたらここに……ね。なるほど、あんた向こうから来たのね。それなら仕方ないわ。ここは幻想郷と言ってね、簡単に言ってしまえばあんたが住んでいた世界とは別世界よ」
手短に説明を済ませると、博麗は大きなため息をつきました。そして、いかにもめんどくさそうといった態度でこう付け加えました。
「しょうがないわね……あんたが元の世界に帰る方法を探してあげるわ。タダじゃないけど」
これが私の仕事なのよ、と彼女は言うと、あなたの常識では説明のつかない方法で再び飛んで行ってしまいました。
しかし結局、この日あなたがあなたの世界に帰る事は叶いませんでした。
明くる日は、晴れ渡ったいい朝でした。季節柄、空気はまだひんやりとしていてあなたの身を引き締めます。
縁側では氷漬けだった妖精が朝日を浴びて見事に解凍されていました。博麗いわく、妖精は別に死なないからと昨日からずっと放って置かれていたのです。
その博麗がひょっこり姿を現しました。
「ほら、言ったでしょ。妖精は基本あったかくて陽気な所を好むんだから。ようは日向ぼっこさせておけば元気になるのよ。もう、この子ったら……よだれまで垂らしてすやすや寝てるじゃない」
きちゃない、とか早く起きないかしらとかいいながら博麗は妖精の鼻をつつきます。
「まぁ、あれは例外よね。……妖精としてはおかしい強さの力だったし。もし、またあんなのに会っても相手しちゃダメよ。とっとと逃げること、いいわね?」
チルノの事を言っているのだとあなたは理解しました。
しかし、あなたは結局、博麗の言いつけを破る事になります。
昨日と同じように博麗が飛んでいなくなった後、神社の裏にチルノがやってきたのです。
「やっと見つけたわ! あのときのにんげん!!」
ちょうどあなたが寝食の対価に裏庭のちり掃きをしている時でした。
チルノが草木の陰から突如現れたのです。チルノは反応が遅れたあなたを不躾に指差しながら叫びます。
「あの妖精はダイジョブなんでしょうね!」
おそらくここまで凍ったまま連れて来てしまった妖精の事でしょう。あなたの返事はぶんぶんと首を縦に振る事でした。チルノはあなたをねぶるように見回した後、根拠もなく納得した様子でした。
「ところであなた、にんげんでしょ!」
あなたが人間かどうかを聞くというよりは、あなたが人間である事を肯定しろといわんばかりの勢いです。やはり、あなたの返事はひたすら首を縦に振る事でした。
「だんまくゴッコって知ってる?」
チルノの話は唐突です。あなたにはまるで理解できません。あなたは喋る事も忘れて、からくりのように首を横に振るだけでした。
「いま、妖精の間で流行ってるのよ。おしえてあげる! ……から、あたいとだんまくゴッコして!!」
そう言うやいなや、辺りが急激に冷え込んできました。あなたの方にチルノが近付いてきているわけでもないのに。
「パーフェクト・フリーズ!!」
チルノが叫び片手を振り上げると、辺り一帯に兎ほどの大きさのまあるい氷がいくつも生まれました。しかもそれは重力に逆らって空中にぷかぷかと浮いています。
そこまでできるとチルノは腕を組み、ふふんと鼻を鳴らします。
「すごいでしょ。こうやって、お互いにだんまくを作ってそれを相手にあてたら勝ちなのよ! わかった?」
あなたは雪合戦のようなものだとなんとなく理解しました。が、お互いにと言われても、あなたは氷を出す事も宙に浮かす事も出来ません。そもそもあんな大きな氷の塊に誰も当たりたくはありません。
あなたが渋い顔のまま立ち竦んでしまうと、「や・る・のー!」とチルノは地団駄を踏みました。
「だんまくは別に何でもいいの。今持ってるほうきでもなんでもいいから投げなさいよ! さあ勝負よ!!」
だから、『ごっこ』なのだとあなたは認識しました。しかし危険極まりないごっこ遊びです。あなたはどうしてもできないとチルノに頼み込みます。
「んん~。……わかったわ! はんでぃよ、はんでぃ。あたいはだんまくを動かさないから、さぁ勝負よ!」
かくして、かなり強制的にあなたは初めての弾幕ごっこを経験する事になりました。
しかし、氷の塊が動かないならなんて事はありません。氷と氷の間にはひとひとり通れるぐらいの隙間ならいくらでも空いています。あなたは多少注意しつつ、ゆっくり歩いてチルノの目の前まで到達しました。
あなたは踏ん反り返ってるチルノにさすがにほうきを投げる事はしませんでした。だから剣道の要領です。ほうきを竹刀に見立ててチルノの頭に面を打つ……というよりはもはやチルノの頭に面を乗せるぐらいの優しさであなたは彼女に弾幕(?)を当てました。
「や、やられたー」
それでも問題はなかったようです。あまりにも大袈裟に、チルノは後ろ跳びに倒れました。辺りのパーフェクト・フリーズも消えてなくなります。
「は、はじめての敗北だわ」
なんて事を言ってましたがチルノはまったくの笑顔でした。がばっと起き上がると、そのきらきらした顔で「もう一回!もう一回!」とあなたにせがみます。
二回戦のパーフェクト・フリーズは人が歩くぐらいの速さではありましたが、チルノが突然氷の塊を動かした為、あなたにこつんとまあるい氷が当たってしまいました。「はじめての勝利だわ!」なんてまた大喜びです。
気付けば結局、無邪気な少女との弾幕ごっこは、目の前で氷がどんどん増えていったりして、あなたが待ったをかける難易度になるまで続けられました。
「ばいばい! また明日も来るからね!!」
くたくたのあなたとは正反対です。大満足といった顔でチルノは手を振りながら夕焼け空へと飛んで消えていってしまいました。
次の日は昨日にも増して、気持ちのいい青空が広がっていました。
縁側では今朝も昨日とかわらず妖精がぐーぐーと日向ぼっこをしています。
「流石にもう復活していると思うんだけど……」
妖精をたたき起こすのは気がひけるのでしょうか。博麗は「お・き・ろー」と言いながら妖精の頬を軽くつまんで引っ張ります。
「どっちみち、寒くて動きたくにゃい……」
「起きてんじゃない!」
妖精さん博麗に蹴られました。縁側の奥までごろごろ転がって行ってしまいます。
「まあいいわ。それじゃあ今日も行ってくるから。神社のことよろしくね」
妖精相手は気が済んだのか、それだけ言うと博麗は今日もどこかへ飛んでいってしまいました。
神社の掃除が終わったのはお昼過ぎでした。昼食を済ませたあなたは、いつの間にか元の位置に戻っていた妖精と一緒に丸くなって日向ぼっこをしていました。朝からお天道様の光を吸収し続けていた妖精は抱えているだけでゆたんぽのようで、あなたはうたた寝してしまいます。
うつらうつらとしているあなたの視界の隅で、大きな石ころのようなものがごろんと転がったように見えました。
「すごいでしょ! あたいが凍らせたのよ!!」
聞き覚えのある声が、まだまどろんだままのあなたの頭に響きます。あなたはゆっくりと半身を起こすと庭にやってきた声の主を見つけました。
チルノでした。ごろんと転がったのは氷の塊のようです。
「土の中で眠ってたやつを掘り起こしたらぴょんぴょん逃げるから、もう一回眠らせてあげたの!!」
なんだか怖い事を言ってますがチルノは笑顔です。彼女は足元に転がっている氷を拾い上げると得意げになってあなたに見せ付けました。
チルノの言うとおり氷の中には蛙が入っています。蛙は飛び跳ねた瞬間に凍らされたようでした。躍動感溢れる姿で止まっています。
「ねぇ、きいてるの! ……というか何してるの!?」
それでも寝ぼけまなこのあなたをチルノがにらみつけます。あなたはチルノを宥めるように言い訳をしました。日向ぼっこをしていたと。
「し、知ってたわよ。ひながぼっこでしょ?」
頭が冴え渡らないあなたは綺麗に流しました。
「よく、みんなで固まってごろごろしてるの見るもの。あったかいそうね」
チルノはなんだかそわそわしています。あなたの方をちらちらと横目で見ては蛙の方に視線を戻し不自然です。チルノは蛙を地面に転がすとぽんっと大袈裟に手を打ちました。
「そうだ、あたいもしてみる!」
なんて言ってチルノが駆け出してくるからさあ大変です。彼女がぴょんと縁側に飛び乗って来るので、あなたは一気に覚醒して思わず飛び跳ねて避けました。
「みんなで、ごろごろしよう!」
チルノがはしゃぎます。その声か冷気か分かりませんが、真横の日向ぼっこ妖精が目を覚ましてしまいました。起き上がった妖精はチルノの顔を見るなり、そのまま時が止まったように一瞬固まってしまいます。そして何かを思い出したように叫びました。
「どっちみち寒いから……逃げるー!!」
「まっ、ご……」
チルノの呼びかけは逃げていく妖精には聞こえませんでした。
チルノは消えていく妖精を目で追うだけで体を動かしはしません。そのまま空を見上げたまま、しばらく縁側から両足を放り出してぶらぶらさせていました。
そして、チルノは急にあなたの方を振り向いて言い放ちました。
「ひなぼっこはつまんないから、今日もだんまくゴッコよ!!」
昨日の終盤に比べると今日のチルノは少しも強くありません。あなたが何回か勝ってしまうと「ばいばい、またね」とチルノは凍った蛙も忘れて帰ってしまいました。
「方法はわかったから、後は準備が終われば帰れるわ。スキマが起きてればもっと早かったんだけどね。……いえ、こっちの話」
明くる日は生憎の雨模様でしたが、博麗は吉報を持ってきました。博麗が言うには準備も二・三日あれば終わるとの事です。あなたが元の世界へと帰れる日が近付いてきました。
この日は空模様のせいでしょうか、陽が暮れてもチルノが来る事はありませんでした。
明くる日は、篠突く雨が氷の少女の参拝を拒みました。
翌日、二日ぶりの晴天はチルノを呼んできました。
「にんげん!! 元気だったー?」
「あんた、いつ、この危ないのと友達になったのよ……」
冷気を振りまきながら外から障子をあけたチルノに、博麗は間髪いれずにそう繋げました。
突然の来訪者にあなたは朝食を喉に詰まらせそうになります。博麗はチルノを見るなり眉をひそめました。
「……とりあえずコイツに触っちゃダメよ」
と、チルノを指差しながらあなたに注意を促します。
チルノ本体の冷たさをあなたは重々承知しています。水分を無事喉に流し込み終わると、あなたは首を縦に振りました。
「妖精も、この人に触るんじゃないわよ」博麗は今度はチルノにも注意をしました。
チルノは「もう、わかってるわよ!」とにわかに不機嫌になります。
「わかってるなら、いいわ。じゃあ、最後の詰めをしてくるから。あ、後片付けと神社のこと全部よろしくね」
そう言うと博麗は外へと出かけていってしまいました。
チルノは居間にうつ伏せて、あなたが食器を片付けるのをぼーっと眺めていました。畳が思いなしか白くなってきています。
「……ねぇ、あたいとあなたは……その、ともだちなの?」
チルノがぽつりと問い掛けました。両手を頬にあなたを見上げています。
あなたはその質問に食器をあやうく落としかけました。チルノはあなたの返答を待っているのかあなたをじっと見つめます。
あなたは自然と笑顔で頷いていました。
それだけで、チルノの目はきらきらと輝き、氷の羽はしゃらんしゃらんと美しい音を立てて開いたり閉じたり。足なんかは、ばたばたと暴れて凍った畳のいぐさをぱきぱきと崩壊させていきます。
あなたは慌ててチルノを止めましたが、それでもチルノの笑顔は、あなたが食器を片付け終わっても神社の掃除が終わっても変わらぬままでした。
畳の上では損害が広がる一方なので、あなたとチルノは縁側に腰掛けて、それぞれ淹れたてのお茶と、淹れたてのお茶だった氷をたしなんでいました。
「あなたってここの人なの? いつも掃除してるよね」
チルノはばりぼりと氷茶を噛み砕きながらあなたに問い掛けます。あなたはそれを否定し、博麗にはただお世話になっている事を告げました。
「ふーん。もちつきもたれつきなのね!」
あなたは色々と指摘しましたが、チルノはまるで気には留めません。チルノの質問が続きます。
「じゃあさ、じゃあさ。あなたのお家はどこなの、どこに住んでるの? あたいはね湖のそばにかまくら作ったのよ。百人乗ってもだいじょーぶなの。さいきょうなんだから」
あなたは正直にあなたの家を教えました。当然チルノは首を傾げます。あなたはさらに付け加えました。そこは幻想郷ではない事を。
「幻想きょうじゃないって、すごい遠いってこと?」
あなたは頷きました。
「すごい、すごい、そんな所から旅してきたの?」
しかし、あなたはチルノの期待には答えられませんでした。気付いたときにはもうこの世界にあなたはいたのですから。
その代わり、あなたはあなたの地元の話をしてあげる事にしました。そこのおいしい食べ物や美しい景色が見れる場所、流行っていた事など、どんな事でも。
「あたい、そんなの食べたことない!」
「あたいの湖はね、よく霧がかかっているのよ」
「あたいもしてみたい、それ!」
チルノも負けじと返事をしてくれます。
そうしてどんどん話は広がっていきました。あなたにとってはなんでもない話でも、チルノは興味津々です。ときに相槌を打ち、ときに突っ込み、ときに質問をしてきて、あなたの世界の話は大いに盛り上がります。
「ほんと、あなたの住んでるところってステキね!」
好奇心や歓喜で満たされたチルノの声が弾みます。弾幕ごっこをしている時よりも、友達になった時よりも、今、この時間のチルノの笑顔の方が何倍も輝いていました。
気付けば日暮れ。あなたとチルノの時間はあっという間に過ぎ去っていました。
「ただいまー」
声は後ろの居間からです。
博麗がなにやら神仏にかかわりのありそうなものを大層抱えて帰ってきていました。
「よかったわね、あんたもう明日には帰れるわよ」
帰ってくるなり、博麗があっけらかんに言いのけたその言葉は、チルノを驚異的な速さで博麗へと振り向かせました。
「ど、どういうこと!?」
「氷精、あんたのことじゃなくて、こっちの人間のことよ」
博麗はあごであなたの事を指し示します。
「そんなのわかってる! わかってるの!」
チルノはかぶりをふって今度はあなたの方を見ました。
「か、帰るってあのステキなところに? もう、もう帰っちゃうの? やっと、やっとなのに……だって、遠いんでしょ? とんでもなく遠いんでしょ?」
あなたは静かに頷きました。
「なんで、なんで……」チルノはその先の言葉を作り出す事ができません。
「素敵なお家だから帰るのよ。氷精だって家に帰るでしょ。それと一緒よ」博麗がチルノを諭します。
しかし、チルノは心ここにあらずといった感じでした。
あなたはチルノの方へ体ごと向きを変えると彼女の名前を呼びました。チルノがびくっと体を震わせあなたを見上げます。氷の羽が微かな音を立てました。
あなたは小さな妖精を真っ直ぐ見つめながら、楽しかった事を伝え感謝の意を表します。
そして、あなたが『さ』から始まるその言葉を言い始めたその時。言い終わるよりも早く。
「待って!!!!」
チルノは反射的に手を伸ばしました。りんごも満足に持てそうに無いその小さな手は、しかし、あなたの腕をつかみました。つかんでしまったのです。
あなた以外にとってはたった一瞬の時が、あなたには長く長く感じられました。
その長い長い時間の中で博麗が両手の荷物を畳の上に放り投げた気がしました。
チルノの目と口がゆっくりと開いていった気がしました。
放り投げられたものが、音を立てるよりも早く、博麗が何かを叫んだ気がしました。
チルノはがくぜんとした表情で、呼吸さえも止まっているように見えました。次の瞬間、チルノのこめかみに飛んできた紙切れのようなものがチルノを吹き飛ばしたように見えました。
がしゃんがしゃんといくつも響いた音が、あなたを通常の時間へと引き戻します。
「大丈夫!? 今、おしぼり持ってくるわ!」
博麗がそう言って部屋を慌しく出て行きます。つかまれた部分こそ紫に変色していましたが、ほんの一瞬だったチルノとの接触はあなたを氷漬けにする事はありませんでした。
庭に吹っ飛ばされたチルノがむくりと起き上がります。外傷はまったくないようでした。ですが、その表情はあなたが見ていられないほど、ひどく打ちのめされように歪んでいました。
「あ……あ…………」
ほとんど放心状態だったチルノは、あなたの凍傷に目を向けると、何も言えずに逃げるように飛び立ちました。
あなたが呼んだ妖精の名は、しかし、妖精と一緒に黄昏の向こうに消えてしまいました。
翌日。眩しい朝日があなたを否応無く叩き起こします。境内では博麗が持って帰ってきた道具を意味ありげに並べていました。
「……というわけで、儀式がすんだら、あなたは元の世界の元の場所にいるはずだわ。儀式はもういつでもはじめられるけど」
そこで区切り、博麗はあなたの返事を待ちます。あなたは博麗に感謝しつつ、チルノが来るまで待って欲しいと頼みました。
「そうね、そうよね……あんなに、あんたになついていたもんね」
博麗は、わかったわと呟くと神社の仕事へと戻りました。
あなたも、もはや日課のようになった掃除を始めました。
しかし、抜けるような蒼空だったというのに、昼を過ぎてもチルノは訪れませんでした。
「今から、チルノに会いに行く!?」
博麗は目を見開いて、飲もうとした湯呑みをだんと乱暴に円卓へ戻しました。居間の食器がかちゃんと音を鳴らします。
日も暮れてしまってから、あなたは両手をついて博麗にそう頼み込みました。例え、明日になろうと来年になろうともきっと来ない、いえ、チルノは来れないんじゃないかと。脳裏にはあの時のチルノの表情が焼きついて離れません。
博麗の表情がみるみる険しくなっていきます。
「あんたずっとここにいたから知らないだろうけど、夜はね妖怪がうじゃじゃ湧くのよ。あの氷精が霞むぐらい恐ろしいのも当然いるわ。死にに行くようなものよ!」
あなたは博麗があなたを心配して言ってるという事が痛いほどに分かりました。しかし、あなたは再び頭を下げます。
「そもそもね、あの氷精の住みかを知っているの? 知っていたとしても、妖精っていうのは自然そのものなのよ。もし、あの子があんたに会いたくなければ、あの子のいる所なんてあなたの目には見えないわ!」
あなたは頭を下げ続けます。
「帰りたいんでしょ!? 私があちこち飛び回って調べて、やっと帰る方法がわかって、今日も朝から準備して、……あんたね、言うこと聞かないんなら儀式なんてしてあげないわよ!!」
博麗のそれはほとんど禁じ手でした。あなたの良心そのものを責めるやり方でした。頭を下げている人間にまだ下げろと言っているようなものでした。
だから、あなたは博麗に今までの感謝を最大限に述べ、そして躊躇なく頭をもう一度畳に叩きつけます。
「~~!!」
博麗はもう弾を撃ち尽くしたのでしょう。そして、そのどれもがあなたにはかすりもしませんでした。
博麗はあなたのたった一発の弾幕に敗れ去ります。
「外の人間はホント、常識がないんだから!!」
博麗は部屋を飛び出したかと思うと、またすぐに戻ってきました。
「ああ、もう、普段からもっと作ってればよかった」
ばんと、円卓に縦長の紙切れ一枚を博麗は置きました。難解な模様が書かれていて、あなたには呪文にしか見えません。
「とっておきの御札よ。私のありったけの力が込められているわ。家が消し飛ぶくらいの馬鹿げた熱光線だろうが、熊が凍結する程の猛吹雪だろうがなんだろうが、完全に防ぎきるわ。まあ、時間はごく短いんだけどね」
「……あんたみたいなのが使えるのはこれしかないのよ。ちなみにこれをかざして博麗が黙っちゃいないぞとでも言えばその辺の雑魚妖怪は手も出さないわ」
「使い方も何も無いから。持っているだけでいい。持っているだけで勝手に防いでくれるわ。防いでいる間その御札は端からどんどん朽ちていく。全部、朽ちればそこで効果は終わり。わかりやすくていいでしょ、覚えた?」
あなたは博麗から手渡された札を手に持ち大きく頷きました。
「あなたを帰す為の儀式法陣を多少応用して、……ようは繋ぐ先を変更して、あなたをあの湖にぶっとばしてあげる。あのへんでいいんでしょ? 私は私であんたを送ったらすぐ湖へ向かうわ。私は儀式法陣を使えないから時間はかかるけど、あんたを抱えて飛んでいくよりは二人ともよっぽど早く湖に着くわ。だから、着いてしばらくはあんたで何とかしなさい」
あなたは強く言葉を返します。
「それじゃあ、早速儀式を始めるわよ!」
文字通り一瞬でした。それまで神社だった景色は、あなたが瞬きをしている間に、あの日チルノと初めて会った湖に変わっていました。
ただひとつ、あの時の湖とは違っているものがありました。中心で咲いていたチルノの花が無残にもひび割れ、茎の途中から折れかかってしまっていたのです。月夜に映し出された儚げな花は、ぼろぼろで今にも湖に落ちてしまいそうでした。
あなたは、矢も盾もたまらずにチルノの姿を探し始めました。チルノは湖の側にかまくらをつくったと言っていました。その言葉を頼りに、湖に沿って周りを注意深く見回していきます。
一刻が過ぎ、湖をもう半周はしていました。なのに、かまくらはおろか氷の欠片一つ見当たりません。手足の冷えも、吐く息が白いのも、チルノとは無縁でした。心臓を打つ音ばかりが強く感ぜられます。
博麗が言った言葉があなたに思い出されます。チルノが会いたくなければあなたに住みかは見えないと言ったあの言葉が。
あなたが疲労と焦燥で思わず足を止めてしまったその時、
ばしゃん
と音がしました。
振り向いたあなたを嘲笑うようでした。
氷の花が湖上から姿を消していたのです。茎だけになったそれは鋭利な凶器のようでした。湖に美しい氷の花が咲いていたなどもはや誰も信じてはくれないでしょう。それは酷くむごい凶兆のように思えました。
あなたの心の中にどうしようもないものが膨れあがっていきます。
――気付けば、あなたは氷の妖精の名前をありったけの力を込めて叫んでいました。別のモノが来ても構わないと、それでもと願ったあなたの心からの叫びでした。
「なん……で……?」
背後から聞こえた声は、さっきまでは見えもしなかったかまくらの中からです。
中から一歩踏み出してくる影がありました。月明かりがその存在をおぼろげに照らします。
頭に大きなリボン、白いブラウスに青いワンピース。美しい六枚の羽に、振りまかれる冷気。何一つ変わらぬチルノがそこにいました。
ただ、表情さえも別れたあの日のように酷く虚ろなままでした。
「どうして……あたいのこと……キラいじゃないの……?」
チルノが塞ぎがちな瞳のままぽつりと呟きました。あなたは理解できずに逆にチルノに問います。なぜ嫌いになるのかと。
「だって、だって、冷たかったでしょ。あたい知ってるもの。冷たいのはみんな大キラいなんでしょ。みんな言ってたもの。凍っちゃうと痛くなるんでしょ、痛かったでしょ……! ごめんなさい、本当にごめんなさい――!」
チルノは悔いていたのです。あなたを傷付けてしまった事をずっと悔いていたのでしょう。
そんなチルノに、あなたは優しく語りかけてあげます。冷たかった。当然、痛くもなった。でも、きちんとチルノは謝ってくれた。それだけで充分なのだと。嫌いになんてなったりするわけがない。
だって、友達なのだから。
弾かれたように、チルノが顔を上げます。あなたの言葉を噛み締めるように返します。
「まだ……ともだち?」
あなたは友達になったあの日の笑顔で頷き返しました。あなたの笑みにつられるように、チルノにいつもの元気でにこやかな顔が戻ってきます。背中の氷が嬉しそうに少し羽ばたきました。
「だんまくゴッコ……しよ?」
チルノは面映い顔で首を傾げながらあなたを誘いました。
久しぶりの弾幕ごっこは一番よく遊んだパーフェクト・フリーズでした。博麗神社で遊んだときとは違って、ここは広いので数も規模もまるで桁が違います。しかし、月明かりに照らされたチルノの弾幕は不思議と怖くはありませんでした。
あなたがチルノへと歩みを進めていくと、チルノが身振り手振りであなたの近くの氷をゆっくり動かしてきます。時にしゃがみ、時に体をひねり、時に跳び、その弾幕をあなたは軽やかに避けていきます。まるでチルノと円舞曲を踊っているようでした。チルノが動けばあなたが動く。あなたが動けばチルノが動く。
そうして踊り続けたのは、そう長い時間ではなかったでしょう。あなたは遂にチルノの目の前に到達しました。
あなたは懐から取り出した博麗の札を握り締めると逆の手をチルノの頭にぽんと置きました。
「あ……」
チルノのパーフェクト・フリーズが月明かりに導かれて天へと溶け消えていきます。
あなたはそのままチルノの頭を優しく撫で続けました。チルノも黙って下を向きながら撫でられ続けていました。
永遠に感じられた優しい時間は、たまゆらに終わってしまいます。あなたはゆっくりとゆっくりとチルノから手を離しました。博麗の札は今や完全に朽ちてあなたの手許にはありません。
チルノはずっとずっと黙ったままです。何かにじっと耐えるように唇を真一文字に結び、その小さな握りこぶしは弱々しく震えています。
この幼い少女を見ているとあなたは決心が鈍ってしまう気がしました。
ここで振り切らなければ、今、言ってしまわなければ明日もあさってもずっと、……ずっと言えなくなってしまう気がしました。
だから、あなたは告げます。
チルノとの思い出を最初から。初めて会った時の感動や、チルノの力を知った時の驚き、弾幕ごっこで遊んだ楽しさから、いっぱいお喋りをして笑いあった事に、チルノが行ってしまった寂しさまで。そして、こうしてもう一度会えた喜びも。
その全て、その全部。
そして最後のさよならを。
――チルノからの返事はありませんでした。
あなたはもう一度――あまりの冷たさに一瞬でしたがチルノの頭を撫で、さよならをそっと呟くと、後ろ髪をひかれる思いで踵を返しました。
チルノとの距離が遠ざかっていきます。
「あの!」
あなたの背中にチルノはその一言をはっきりと発しました。
振り向いたあなたと目が合うと、チルノはさっとそっぽをむきその小さな口をとがらせてもごもご。次の言葉が聞こえてきません。
チルノは両手のゆびさきをあわせてあやとりでもしているかのように閉じたり開いたりしています。彼女は彼女なりの言葉を何か探しているのだろうと、あなたはその場で微笑を携えて待ちました。
やがて意を決したようにしてチルノはあなたに聞こえる声でこういいました。
「あたいって氷の妖精だからさ」
今もなお彼女の力が足元の草木を白く染め上げているのですから、あなたにもその事はよくわかります。
俯きかげんなままチルノは言葉を続けました。
「その……みんながしてるのはよく見てたんだけど、今まで一回もしてもらったことなくて――」
あなたは気付きました。小さなチルノの小さなその肩が、か弱く震えている事を。
あなたはもう一つ気付きました。ぴんと張っていた彼女の透き通った氷の羽根が、しおれた花のように力なく地面に向いているのを。
「冷たかったらすぐやめていいの」
チルノの目元にみるみる涙のかたまりが膨らんでいきます。
「一回でいい。一秒でもいいの」
チルノは拒否される事を直感していたのかもしれません。冷たければ嫌われると思い込んでしまう幼い心は、そんな事は叶うはずの無い事だと、願うだけ無駄な事なのだと諦めていたのかもしれません。
「これで最後だから。これが最後だから」
遂にチルノの目元からぼろぼろ涙が零れていきました。零れた涙は彼女自身の冷気に当てられて小さな氷の結晶となって地面に落ちていきます。
「だから」
チルノは顔を上げ、濡れる瞳であなたの瞳を真っ直ぐに見据えながら、両の手をすがるようにあなたの方へと伸ばしました。
そして、あなたにやっと聞こえるぐらいのか細い声で、一番言いたかった言葉を一番伝えたかった言の葉を紡いだのです。
「抱っこ……して」
――――あなたは駆け出しました。
彼の幻想郷最速の鴉天狗でさえあなたの初速を超える事はできなかったでしょう。
まるでとある尼僧に身体強化の術でもかけられたかのように、――それほどにまで速くあなたはチルノのもとへと走り寄りました。
もう、博麗の札はありません。だが、それがどうしたといわんばかりに。
あなたは優しく、それでいて力強くチルノを抱きしめました。
チルノの心にわだかまっていたものが溢れ出します。時に鼻をすすりながら、時に言葉に詰まりながら、全部を吐き出して行きます。
「ひとりにしないで……! もう、ひとりはいや……みんな遊んでなんかくれないもの、あたいは冷たいから。凍らせてごめんなさいってあやまったのにみんなゆるしてくれなかったもの――!」
「どうやったら冷たくなくなるのかわからないの……! 教えてほしくても誰もいない……! こんなちからなんていらない、いらないから――!!」
「行かないで……やっと、ともだちになれたのに。はじめての……あなたがはじめてのともだちなの。あなたしかいないの……行かないで……」
わんわん声をあげ、ぼろぼろ涙を零しながら、チルノはあなたにぎゅっとしがみつきました。初めて触れた人のあたたかさを決して手放したくないかのように。
当然、彼女に直に触れればただではすみません。彼女は力の扱い方も知らない妖精の赤子。不恰好なほど有り余るその力を彼女自身でどうにかする事はできない幼い少女。
とび跳ねる蛙を跳ねた姿のまま、人の子ほどの妖精すら瞬間で凍結するその力は、否応なく抱きしめ抱きしめられたあなたを襲います。
あなたに霊力があればそんなものは押し止められたのでしょう。
あなたに魔力があればそんなものは薙ぎ払えたのでしょう。
あなたに妖力があればそんなものは打ち砕けたのでしょう。
あなたに神通力があればそんなものは弾き返せたのでしょう。
あなたに法力があればそんなものは掻き消せたのでしょう。
ですが、あなたは人間でした。
あなたはただの人間だったのです。
この幻想郷ではよく知られている力をたった一つも持っていなかった、ただの人間だったのです。
あなたは真冬の蝦夷で何一つ身に着けずにいるようなものでした。
猛吹雪の中、冷水を滝のように浴び続けているようなものでした。
どうする事もできない寒さがあなたの体の感覚を奪い、殺します。
もう、限界のはずでした。不可能なはずでした。
ですが、あなたは離さない――!
あなたは離さなかったのです――!!
ひとりぼっちだと泣いている小さな小さな友達に、日向ぼっこよりもあたたかい想いがこの世界にある事を知らせるために。
いま伝えられなければ、もう自身で伝える事は叶わない事が、あなたにはよくわかっていました。
だからあなたはぎゅっと抱きしめる。冷たいも痛いも苦しいも全て通り越して、有り余る想いを携えてチルノの体をぎゅっと抱きしめる。
あなたがいなくなった世界でもチルノが生きていけるように、チルノは決してひとりなんかじゃない事を伝えるために。絶対に後悔しないための言葉を、チルノへのありったけの想いを、あなたは声を大にして伝えます。
『 !!』
そしてそれは確かにチルノに届きました。うまれて間もないひとりぼっちの少女に確かに届いたのです。
◇ ◇ ◇
私があなたの体験をもとに書き上げた物語はこれにて終了です。
あなたは無事にそちらの世界に戻り、今もこうして私の手紙を読んでくれているのですが、一つだけ疑問があります。
どうして、あの時、あなたは何の外傷も負わなかったのでしょうか?
あなたの心に滾る想いが最終的に寒さなど跳ね除けてしまったのか、それともあなたを傷付けたくないというチルノの願いが、彼女自身の力を一時的に消し去ったからでしょうか。
妖怪の賢者は「強き人間の魂は、いつだって、自力で境界を越えて行く力を持っているものよ」なんて言っていました。
だとすれば、あの時のあなたはチルノの為に人間なんていう境界を飛び越えたのかもしれませんね。
博麗の巫女は「非常識にも程があるわ」なんて言ってましたけど。
チルノはずいぶんと力の使い方がうまくなりました。その力と優しさで湖の妖精のリーダーとなり、今では大ちゃんという妖精のお友達もできて毎日楽しそうです。チルノは恥ずかしがってあまり話題には出しませんがあなたの事をずっとちゃんと覚えているようです。
妖怪の賢者が手紙なら届ける事が出来ると言ったら、とたんに文字の勉強をはじめたのですから。
私からあなたに手紙を出すのはおそらくこれが最後です。
だって、これからはチルノがあなたに手紙を書いてくれるのですから。
そう、最後の一枚はあの子からのです。
ふふ、チルノはあなたにお願いがあるようですよ。聞いてあげて下さいね。
幻想郷縁起 編纂者
阿礼の子 稗田
追伸
あの文字ね、チルノったら「ひとつじゃたりないや」ってあとから何個も何個も付け足していたんですよ!
『
ありがと!大大大大大好き!!
お返事ちょうだいね ちるの』
「あなた」はオリキャラでしょうけれども、名無しの人間、そして「わたし」ではない外来人の方がね。
まぁ、私ならそんな事はしないだろう、と思ってしまったのでしょうか。「あなた(わたし)」に違和感が集中しました。その違和感が、楽しめた分だけこみ上げてくるようです。
全体としては、個人的には良かったです。
抱きしめあった二人の様に温かいお話ですね。
彼(彼女)の事だけは、きっといつまでも忘れないのでしょうね…
さすがだな俺。
子供が出てきたり、動物が出てきたりするのはどうもダメだ
ついつい読んじゃうじゃないか
よくやった
読者の心を引きつける設定も良いです。
暖かい気落ちにさせられました。
ご馳走様でした。