雨が降り出しそうな雲行きだった。
紅魔館の高いところにある時計台の前広場に、紅魔館のすべての妖精メイドたちが沈痛な面持ちで参列している。
一様に皆が黒い服を着て、綺麗な整列を描いていた。
いつもは陽気な妖精たちも今日に限っては哀しみですすり泣くばかりだった。
それもそのはず
――すべての妖精メイドたちを統べる者が死んだ。
三日前のできごとである。
その重すぎる現実に、紅魔館はいつもよりもいっそう暗い空気に包まれている。
いま、紅魔館は支柱を失ったに等しい状況なのである。
時計台から、ゴォンゴォンという鈍い音が響いた。
参列者たちの顔が一斉に空を向き、レクイエムの歌声が厳かに始まった。
告別の辞 1
傲慢にきこえるかもしれないけれど、私とあなたとは主従の関係よりも深い間柄だったと思う。
だから今日だけは、あなたと呼ぶことを許してちょうだいね。あなたは主従が親しすぎると、下々の者に示しが付かないと怒るかもしれないけれど。
今日だけは特別に許してください。
正直に言います。
あなたがいなくなって私は寂しい。
あなたが黄泉へと旅立ってから、私はあなたの死を受け入れられないでいた。
どうしてかしら。
死ぬのなんて怖くなかったと言えば嘘になるけれど、あまり意識したことはなかったの。死そのものを意識したことはなかったのね。生きとし生けるものはすべて死ぬ。蓬莱人のような例外を除けば、妖怪も人間も変わりなく死ぬ。そんな当たり前のことに思い至ることすらなかった。
だから、他者が死ぬということがこんなにも怖いことだなんて思いもしなかった。
もう二度と言葉を交わせない。
もう二度と抱擁することもできない。
もう二度とあなたになにもしてあげられない。
なにかをしてあげることは、なにかをしてもらうことよりも、ずっと幸せなことだったのね。
だから、そう――
私は幸せだった。
あなたの死から数日経って、ようやく私は昔のことを思いだせるようになった。
始まりの日のことを思い出す。あなたと出会った日のことを。私の運命が徹底的に変革した日のことを。
出会いは恋のように唐突。
でも――
甘くはなかった。
むしろ、戦争のように鉄の臭いで満ちていた。
あの頃の鮮烈な紅い色が目に焼きついていて離れない。
想起 1
レミリアは空を見上げた。
夜空には血の色のような紅い月がかかっていた。十度ほど頭を傾けると、そこにはありえない人影。存在自体がありえないといえた。紅魔の館は異形の者達のふきだまり。人外の宝庫。かつての紅魔館は力の強い妖怪たちも客として住まわせていた。そんな強固な防衛陣を簡単に突破し、ここ最終地点である時計台までやってきた人間がいるという事実。可能性としてはありえても、事実としてはありえるはずがない。
だが――現実は目の前で相対している。レミリアと咲夜は視線を合わせている。
十六夜咲夜はハンターだった。
異形のものを狩りだし、代わりにいくばくかの報酬を得る者である。
異形――
すなわち妖怪。
人間に退治されることを宿命づけられているもの。
しかし、退治とひとくちに言っても幻想郷のように甘くはない。敗北が直接的に死につながっている、そういう世界である。
レミリアはふっと息を吐いた。
興奮しきった細胞を抑えるかのように深い息を吐く。
いまにも暴れだしそうな力の奔流を理性の力で抑えつけなければならなかった。
その理由は単純。
吸血鬼の力の源泉である紅い月が天頂にかかっていたこともあったが、それよりもただの人間に過ぎない咲夜が紅美鈴を倒し、配下の者をことごとく蹴散らして、ここまでやってきたことに驚いていたのだ。
「おまえ」レミリアは冷たい笑いを浮かべた。「強いね」
咲夜は答えない。レミリアは続けた。
「どうだろう。私に仕えてみるというのは。おまえのような力の強い人間は珍しいし、なによりおもしろそうだ」
「……」
咲夜は無言のままナイフをかまえている。人差し指と中指、それと親指のみで支えている投擲のかまえ。
レミリアは瞳を怪しく光らせた。
次の一瞬のうちに、なにかが起こる。そんな予感を感じたのだろうか。
果たしてその通りになった。
時が止まる。
咲夜は凍りついた空間のなかを渡り、ナイフを投擲する。銀の一閃はまっすぐにレミリアの矮躯へと突き進む。
それで、大方の場合は片がついた。
咲夜は止まった時の中で優雅に着地し、背後にいるレミリアの姿を確認した。
そこで、咲夜の顔がわずかばかり歪んだ。
レミリアの心の臓には確かに銀のナイフが突き刺さっていた。銀の聖性は妖怪には致命的ダメージに至る。もちろん吸血鬼も例外はない。
のたうちまわるのが必然。
だが――レミリアはナイフが刺さってはいたが、そのまま哄笑した。
「こんなナイフ程度で私を殺せると思ってるのか。愚か者め」
「生きているなら、殺せる」
咲夜は再びナイフをかまえる。
だが、その次の瞬間、レミリアは影を渡った。そうとしか表現のしようがない。認識するよりも早く、身構えるよりも早く、とてつもないスピードで、咲夜のほんの鼻先までレミリアは接近していた。咲夜がわずかに身を引いたときにはもう遅い。
レミリアの細い腕が咲夜の腹のあたりに触れた。
接触とまったく同時に、岩石で殴られたかのような衝撃が生まれ、咲夜はそのまま冷たいレンガづくりの壁に叩きつけられた。
「がはっ」
と、血を吐いて倒れる咲夜。
わずかに残った闘志で、咲夜はレミリアを見あげる。
「人間が――いや、人間ごときが吸血鬼に勝てる道理はないわ」
「……停止させてやる」
「そう。おまえの認識では、死とは停止なのね。ますますおもしろい」
レミリアは石畳の上を優雅に歩いた。
カツカツとよく響く音。
咲夜は自分の顎がわずかばかり上にあがるのを感じた。レミリアの小さな指先が咲夜の細顎を引き上げていたのだ。咲夜はわずかにみじろいだ。だが、吸血鬼の単純な物理的な能力は、人間など取るに足らないレベルである。もはや一ミリも動かせない。
ただ、視線だけはあわせなかった。
伝承によれば、吸血鬼と視線を合わせると精神操作される恐れがあるからである。
「べつに取って食べはしない。おまえは私を停止させると言ったね。その表現が気に入った。吸血鬼を停止させる。おもしろい。そもそも吸血鬼とは時を停止させた存在だ。永遠の一時停止という表現はどうだろうな。蓬莱人が永遠の時を繰り返す存在であるなら、私は静的に同じ時にとどまり続ける。つまり私は死に近い。そんな存在を停止させられるわけがないだろう」
「吸血鬼も生きているなら――殺せる」
「そうだな。じゃあ私を殺すまで近くにいるというのはどうかしら、ね」
レミリアは両の腕を僅かにあげて、胸のあたりに手を添える。
私はここにいるとアピールするかのように。
咲夜の瞳が大きく見開いた。
「敵をわざわざ近くに囲うのか」
「敵と決まったわけではないでしょう」
「異形は敵だ」
「そういうふうにおまえに教えたのは誰だ」
レミリアは紅い瞳を咲夜の瞳と交差させる。運命が覗ける。そういう動作なのかもしれない。
咲夜は目を閉じようとしたが、すでにその視線に魅入られていた。
「そう。例の一神教の連中か。まあよくある話ではあるわね」
「なにをした」
「なにもしていない。ただ見ただけ。おまえ、名前が無いのだろう」
「名前――」
咲夜の声が暗い闇夜に吸い込まれていく。
「番号とアルファベットの組み合わせか。酷なことをする。やつらにとってはおまえのような異形と相対する者は存在自体がうとましいのだろう。人間にとってはおまえも異形とそれほど変わらないというわけだ」
「だからどうした。私は私だ。私はおまえのような異形を殺すために生まれた。この能力もそのためにある」
「時を停止させる力か。人間にとってみれば、まさにその能力こそ異形だろうな。おまえは本当に人間か?」
「知らない。知る必要なんてなかった」
咲夜の視線が落ちた。
「教えてくれる人がいなかったからだろう。いちおう私が見たかぎりではおまえは人間だよ。よかったね」
レミリアは子どもっぽい動作で、空間を渡る。
少し後退して距離をとった。咲夜にとっては接近よりも中距離戦闘のほうが有利だ。レミリアが距離をとった理由がよくわからず、なにかの罠かと身構える。
「殺し合いはしたくない。私はおまえに興味が湧いたと言っただろう。おまえも少しは見聞を広めてみてはどうだ? わざわざこんな東方の国にまで来たかいがないよ」
「周りの状況なんてどうでもよかった。敵とナイフと私。いつだってどこだって変わらない」
咲夜は自分のてのひらをぼんやりと見ていた。
真っ白い穢れない指先に、ほんの少し血のりがついている。
「おまえには『おまえ』がないからだよ」
「敵を殺すのに、恣意は不要だった」
「敵と味方の区別をつけるのは恣意だよ。主体性だ。独立した意思が闘争を可能にする。おまえがやってる殺害はただの個人遊戯、おままごとと同じだよ。自分と世界の区別がなく、ただルールに身を任せているだけだ。おまえに必要なのは、まず――名前ね」
レミリアが天空を見上げる。
「十六夜の月……」
そして、レミリアは咲夜にひとつの名前を与えた。
告別の辞 2
「お姉様。おねぇさまぁ……う、う……どうして、どうしてあいつが死んじゃうの」
私は困惑していた。
小さな紅い瞳が私になにかを懇願するかのように向けられている。
背中にいつもとは違うよわよわしい力を感じた。
細い腕が私の背にまわっていた。
私は振りほどくこともできず、どうしようかと困惑するしかなかった。こんなにも小さな矮躯を突き放すことなどできはしない。
護らなければならない存在だと心の深いところで思う。
「妹様!」
遠いようで近い声。
伸びのある声が私の耳に聞こえた。美鈴のものだった。いつもの柔らかい物腰が私をひどく安心させた。
「妹様は喪主であらせられるのですから、きちんと告別の辞を述べてください」
「喪主とか言われてもわからないよ」
それは私の責任だ。本来なら私がやるべきことだった。いや――やりたいことだった。
けれど、三日前の私は狂乱の極みにあった。ようやく死を受け入れることができたのは、ひとえに紅魔館を支えなければならないという想いからだ。
今日という日になって、私の精神に少しばかり日が差した。いや、紅魔の館としてはあまりにも不釣合いな表現か。
そう、紅い月が差したのだ。
ほんの少しばかり息をつける程度に。
私が本当の意味で時が停止した存在ではないからだろう。私の時は確実に動いている。そして時間は限りなく優しい。どんな傷も癒してくれる。
ただ三日で完治することは叶うはずもなかった。
回復したときにはすでに葬送の段取りは決まってしまっていたのだ。
「考えるままに述べればいいのです。告別とは別れを惜しむ歌のようなものですから」
「お別れなんて、言いたくないよぉ」
「妹様……」
すすり泣く声が聞こえた。
時間は優しい。
けれど残酷なものだ。
すべてを奪い去ってしまう。
想起 2
「今日もおいしいわ。ダージリンね」
レミリアは優雅に紅茶をすすっていた。血を吸うときはなぜか盛大にこぼしてしまうレミリアだったが、紅茶を飲むときは一滴もこぼさない小さなレディそのものだった。
咲夜はそんなレミリアに優しい笑顔を向けていた。
「お姉様ばっかりズルい。咲夜。私にもちょうだい」
レミリアの横にはフランが子どもっぽくはしゃいでいた。
この頃のフランは地下の幽閉生活からようやく解き放たれたばかりで、レミリアといっしょにお茶を飲むだけでも楽しかったのだろう。
咲夜はゆるりとフランのカップに紅茶をそそいだ。
「少し熱いかもしれません。お気をつけください」
「お姉様みたいに猫舌ではないわ」
「フラン、しゃべりながら飲もうとするとこぼれちゃうわよ」
レミリアは優しげな声をだした。
「こんな紅茶程度で――きゃつ!」
思いのほか熱かったのか、フランは紅茶のカップを取りこぼしてしまう。
それだけなら、まだ咲夜が時を止めることで対処のしようがあったのかもしれない。
ただ、フランは破壊する程度の能力を無意識に使ってしまっていた。
カップはその場で完全に破砕した。
さすがに――時を止めたところでもはやカップは元に戻らない。
レミリアが気づいた一瞬のあとには砕かれたカップの欠片はなくなり、床にこぼれた紅茶は丁寧にふき取られ、テーブルのクロスはかえられていた。それだけしかできなかったとも言えるだろう。
「あ、ご、ごめんなさい――お姉様」
カップを壊したことはフランにもわかったらしい。
いつもは少しだけ生意気なフランも、怒られると思ってか、しゅんとしてしまっている。
「大丈夫だった。フラン」
「え?」
「怪我しなかったかと聞いてるの」
「うん。べつに大丈夫だよ。だいたい火傷ぐらいで吸血鬼が傷を負ったところですぐ回復するし。って、そうじゃなくて、カップ壊しちゃったんだよね。あれ、お姉様のお気に入りでしょ」
「それこそ、たいしたことじゃあないわ」
レミリアは立ち上がり、フランの頬に手を添える。
「物質は壊れるもの。そして私の妹はあなたひとり。どちらが大切かは言うまでも無いことでしょう」
「お姉様は私のことが大事? 嘘みたい」
「なに言ってるの。当然じゃない」
「だって、ずっと外に出してくれなかったじゃない」
「そうね――確かにそのとおり。私があなたを閉じこめたことは変わりのない事実。未来の運命は変えられても、過ぎ去った時間だけは変えようのないものね」
レミリアはアーチ型の窓のほうを向く。月はかかっていない。
「運命が見えたの?」
「さぁ、どうかしら」
レミリアは、はぐらかすように笑みをこぼした。運命を操る程度の能力といったところで、その能力はあまりにも抽象的すぎて、他者に伝えるのは難しい。
だからレミリアが直接、その能力について説明したことはない。
ただ、フランとしては説明不足が愛情不足ではないかと心配なところもあるようで、捨てられた子犬のような表情になっていた。
「お嬢様は妹様のことを大切に思っておいでですよ」
咲夜があとを継ぐように述べた。それで、フランはひとまず納得したらしい。
「じゃあ、またいっしょにお茶飲んでくれる?」
と、ほんの少し不安そうな声が聞こえた。
「当然よ」
「わかった。おやすみ」
フランが、すっと身をのりだして、レミリアの頬に軽くキス。
親愛の情をあらわす西洋風のキスである。
レミリアの色白の肌が、ぽっとピンク色に染まった。
「咲夜、ご苦労だったね」
レミリアがねぎらいの言葉をかけた。
咲夜は沈黙のまま一礼した。とくに言葉が必要な間柄でもなかった。
「カップ、残念でしたね。家宝のひとつでしたか」
「いいや。本当にたいしたことじゃないよ。吸血鬼の寿命は長い。物質が壊れていくのは何度も見ている。咲夜、哀しいものね。私たちは――そう、人間も妖怪も、寿命あるものはすべて――なんら物質は残せないのよ。だって、物質は風化してしまう」
「人間も妖怪も、小さな粒の集まりだそうですよ。つまり、物質です」
「そうね――、でも、それってとても怖いことじゃないかしら。私が消えたあとには、私はなにも残せない」
「私だって人間ですからそれぐらいは考えますよ。人間の寿命は妖怪に比すればとても短いですからね」
「わかってないな」
「なにがです」
「私の血族にならないかと言っているんだ」
咲夜が目を見開いた。
「いやですわ。奴隷なんてまっぴらごめんです」
「奴隷――? ああ、そうか眷属のことを言っているのね。精神的序列がある眷属になれと言っているのではなくてね、血族は――いわば家族みたいなものよ。序列はない。咲夜の精神的独立性はなんら侵されることはない。ただ、単に寿命が延びるだけ」
「家族になれというお言葉は嬉しい限りですけれども、やっぱりお断りしますわ」
「どうして」
「寿命が延びたところで、結局のところ最終的な終わりはあるわけです。ならば、流れに身を任せて、私はあくまで人間としてお嬢様にお仕えしたいのですわ」
「所詮、血も物質的な事柄に過ぎないと言いたいわけね」
「そうですわ。血縁によってなにかを残せると思うのは幻影です」
「そうね……。哀しいことだわ」
レミリアは視線を下に落とした。
心が暗くなってしまったようで、暗い闇夜のなか、レミリアの視線が中空をさまよう。
軽い混乱。
影の具合か、泣きそうな顔。
「いっしょにいたいだけなんだよ。それだけじゃ理由にならないのか」
「人間をやめてしまうと、私の忠義も気持ちも真心もどこか汚れてしまう気がするのです」
「それこそ幻想じゃないか。おまえの言っている忠義や気持ちや真心とやらも脳髄という物質の上に成り立っている。ほんの少しの薬物や魔力、あるいは言葉にさえ簡単に侵されてしまうものよ」
「けれど、私は現にそう想っているわけです」咲夜は瀟洒に微笑んだ。「人間に残された最後の宝物ですわ。神にも悪魔にも奪うことはできません」
「頑固者ね。あなたがそうしたいなら、そうしなさい」
咲夜は瞠目した。
ワガママな吸血鬼がわりとあっさり引き下がったという事実に。
捉えようによっては、咲夜の言葉は拒絶である。
しかし、レミリアはそう捉えなかった。
だから、そうしろと言ったのだ。少なくとも咲夜はそう考えた。咲夜とレミリアの関係はチョコレートパフェのように甘くはない。いつかは必ず別れの時がくる。寿命の違い。それがもっとも顕著な例ではあるが、そうでなくても、同じときに死ぬということはそうそうありえることではない。
極限的に時間を分割していけば、死の一瞬は、個人によってべつべつに到来するのだから。
永遠に同じ時を過ごせるなんて、ありえない。
咲夜はその現実を受け入れている。
レミリアは、『咲夜が永遠の不在を受け入れていること』を受け入れた。
しかし、その結果には不満足だったようで、レミリアは不機嫌そうに咲夜を下がらせた。
告別の辞 3
美鈴が一歩前に出て、告別の辞を述べている。
「スカーレット家が滅びない限り、その名は永久に刻まれることでしょう」
名、か。
彼女らしい考え方。
名前にこだわるとはいかにも人間らしい考え方。妖怪にしてはずいぶん人間くさい美鈴らしい考え方と言えるだろう。
名前に意味があるのだろうか。
私にはよくわからない。
十六夜咲夜という名前も、究極的には作為の産物に過ぎない。そのたった五文字の文字列になんらかの意味があるのだろうか。
それは、内容ではない。手紙で言えば、便箋そのもの。
便箋そのものには意味はない。
ただの形式だ。
伝達すべきものは他になにかないのだろうか。
想起 3
ドンガシャン。
と、銅鑼の音が鳴った。
レミリアはその大きな音に少し驚いていた。思ったよりも音が大きい。それだけでなく空間自体が震えているようだ。
銅鑼の音と同時に、咲夜と美鈴は動き出していた。
何度目かの余興。
実力を測るための試合である。
単純な肉体能力だけで見れば、美鈴のほうが数段上だ。身のこなしも反射速度も人間のそれを大幅に超えていて、まるで勝負にならない。しかし――咲夜もスピードという一点においては時を止めるまでもなく、美鈴に近しい能力を有していた。
特にナイフを投擲するスピードは神速に等しい。
美鈴は半身のかまえで、わずかに身をずらしてナイフを紙一重に避ける。
ただし本命は二本目。
一本目のナイフは避けられることを前提としたナイフだった。レミリアの視点から見れば、ナイフが絶妙な時間差で投げられているのがわかるが、仮に美鈴の視点に立ってみれば、ほとんど同じ角度で投げられるナイフは、まるで空間から降って湧いたように感じただろう。
だが、それすらも美鈴はギリギリのところで、手刀を用いて叩き落とした。
「反射だけでナイフを落とすなんて、さすがね」
咲夜が第二射を構える。それよりも早く今度は美鈴が動いていた。滑るように床を走り、両の手を突き出して掌底を繰り出す。並の人間なら、あばらの二、三本は折りかねない威力である。
咲夜は数十本のナイフをどこからともなく発生させ、防御壁のように張り巡らす。
かまわず美鈴は突っ込む。ある程度傷ついていても妖怪の体躯ならすぐに回復すると踏んでの行為だ。
咲夜は笑っていた。
蜘蛛の巣のなかに蝶がかかるのを楽しむようなうすら笑い。
悪魔の犬にふさわしい冷たい笑いだった。
トン。
美鈴は突き出した手になにかが絡むのを感じる。糸? 気づいたところでどうにもならない。それは細いピアノ線だ。ナイフの柄の部分に巻きついて、二本一組で投擲していたのである。防御壁のようなナイフの束は、すべてこのワイヤーに気づかせないための罠だった。
「ナイフを隠すなら、ナイフのなかってわけですか」
もしもこのワイヤーが切れ味鋭いものだったら、美鈴はバラバラの肉片と課していただろう。
美鈴の勢いが死んだのを見計らって、ここぞとばかりにナイフを投擲する。
まだ美鈴の体めがけて投げてはいない。その向かう先は、やはり地面。ワイヤーで完全に固定するつもりだ。
美鈴が地面に刺さったナイフを引き抜いて脱出をはかろうとする。しかし、一本か二本のナイフを引き抜く間に、咲夜はそれより多くのナイフを投げ続ける。
「うひー。咲夜さん鬼畜ぅ」
「そろそろ終わりにしてあげるわ」
美鈴は真上を見ると、ナイフの雨が降り注いできていた。
青くなる美鈴。
この場合、見えることが恐怖だろう。逃げることはできない。
「わー。これ死んじゃう。絶対死んじゃうー」
美鈴がじたばたともがくが、もうどこにも動かせる状況ではない。まさにナイフが到達する瞬間、なにも出来ずに美鈴は目をつむった。
ドスドスドスドスドスドスドスドス。
ナイフが地面に刺さる鈍い音がする。しかしいつまで経っても痛みがない。美鈴がそっと目を開けると、ちょうど人型にナイフが突き刺さっていた。
口をパクパクしている美鈴。
レミリアは高らかに笑った。
「おもしろいショーだったわ」
「ショーじゃないですよ。試合ですよぉ」
美鈴がだばだばと涙をこぼしながら言う。
「気づかなかったのか。最後のナイフ。あれ、咲夜が試合が始まる前から空中に固定していたのよ。つまり、おまえは最初から、そうなる運命だったわけ」
「次は絶対に負けません」
「あら負けず嫌い」
「そりゃそうですよ。私は世界で一番強い格闘家を目指しているんですから」
「ほぅ。大きくでたわね。美鈴」
「妖怪として生まれたからには、世界一を目指すのが当然でしょう」
「じゃあ私と勝負してみるか」
「い、いえ、ご遠慮させていただきます。仮にも主とこぶしを交えるなんて、とても恐れおおくて」
「いいのよ。美鈴。あなたのドリームのために、一役買ってやろうと言ってるんじゃないの」
「ご遠慮させていただきますぅ」
美鈴は脱兎の勢いで逃げ出していった。
レミリアと咲夜はいっしょに笑った。
「世界一、ね。そういう妄想とか抱いたことある?」
レミリアは首をかしげながら、後ろに静かに立っている咲夜に聞いた。
「妄想という言葉。美鈴が聞いたら泣きますよ」
「いいのよ。世界一なんて言葉、いまどき中学生でも言わないわ」
「まあ、目標としては大きなほうがいいんじゃありませんか」
「美鈴は名前にこだわっているようだね」
「そういう考え方もありますわ」
「どうしてだろう」
「自分が終わったあとも世界は続いていて欲しいという儚い願いではないですか」
「死んで冥界に行けば、この世は見れないだろう。例外的な存在はいるが――。さらに冥界よりも奥深くの世界へいけば、此岸からは確認しようもない」
「その通りですね。だから儚いのです」
「ふん。言葉遊びは嫌いだ」
「べつに遊んでいるつもりはありませんが」
「なぜ名前なのかしらね?」
「自分を忘れないでいてほしいからじゃありませんか」
「名前なんてラベルにすぎないだろ。無人島で暮らしてみたらいい。名前なんていらない」
「他者がいることが前提になっているということでしょう。だから忘れないで欲しいという想いなんです。ひとりよがりな、けれど切実な想いですね。そして生きている者も忘れたくないという想いがどこかにあるのでしょう。誰かの名前が残っているのを知って、消えない自分がいると想像するわけです。それが物質的にはなにも残せない人間への慰めです」
「私はそういう考えは嫌いだ」
「さようでございますか」
「生きている者は生きている者のことだけ考えればいい」
「お盆の意味がなくなってしまいますわ」
「死者をとむらうのは生者の妄執だよ」
「死んでなくても、あの人は今なにをしているのだろうと思ったりするものですわ。会いたい、声を聞きたい。お嬢様は時々そういうふうに思ったりしませんか。それと同じようなものです」
「会いたいなら会いに行けばいい」
「それが叶わないのが死者なのでしょう」
「死んでいる者とコミュニケーションを取ることはできないからな。私は、名前を残そうとするのは、こちら側に必死になってしがみつく愚かな行為のように思うんだよ」
「生にしがみつくのが生きとし生ける者の業というものでしょう」
「死んだあとのことなんて考えない。なにかを残そうとは思わない。私が消滅したあとの世界なんて知ったことか。私が滅びればスカーレット家も全部滅びてしまえばいい」
「あらあら、ずいぶんと悪魔らしい考え方ですこと」
「死ぬほうはいつだって身勝手なものだよ。それでいいと言っているんだ」
レミリアは物憂げな表情で咲夜を見つめた。
「私のことをおっしゃってるのですか?」
レミリアは音もなく頷く。
「私が死んだときのことを今からもう考えているなんて、ずいぶんと気が早いですね。お嬢様は」
「私の寿命からすれば、あっというまよ。人間の生きている時間なんて線香花火と同じ」
「お嬢様は私が死んだあと、なにも残さなくてもいいとおっしゃっているのですか」
「違う。そうじゃない。おまえが死んだからって、私は悲しまないと言っているのよ。すぐに忘れてやるわ。それが死者に対する礼儀というものでしょう。彼岸の者は彼岸での生活をただ楽しんでいればいいのよ。なにが待っているのかは知らないけどね」
「私はお嬢様に私の名前を覚えておいて欲しいですわ。お葬式は質素でかまいませんけれど」
「名前が残ったからっておまえが残るわけじゃない。墓に名前が刻まれていたからって、おまえの気持ちとやらはどこにも残留しない。私が呼んだときにおまえが近くにいなければ、私にとっては無意味なのよ」
「思い出の索引としては、名前は有用でしょう。時々思い出していただければ幸いです」
「そんなことになんの意味がある」
「長年会ってなかった友人に、誰だっけと言われると哀しいものですわ」
「おまえは私の友人か」
「いいえ、私はお嬢様の従者です」
「だったら、私に命令するな」
「おおせのままに――」
咲夜は流れるような動作で一礼した。
レミリアは視線を柔らかくして、カップを手に取った。少し割れていた。知らず知らずのうちに力をこめていたのだろうか。
咲夜に視線を送る動作をする。一秒の時間差もなく、カップは新調される。
「名前――」
気まずい沈黙を破ったのはレミリアだった。
「咲夜が死んだら、きっとすぐに忘れるわ。だから、せいぜい長生きすることね」
咲夜の瞳が見開かれた。
「おおせのままに」
咲夜は再び一礼した。
告別の辞 4
「次はパチュリーさまの番ですよ」
小悪魔がそっと後ろから囁くようにして言った。
七曜の魔女は、それでようやく眠そうな眼差しを上へと上げた。
「ん。ああ、そう。わかったわ」
動かない大図書館がずるずると服の裾をひきずるようにして前に出る。
いつもの動き。
いつもと変わらない揺らぎのない表情。
私は少し安心する。
まだ紅魔館は終わっていないと思うことができた。
「私としては特になにも言うところはないわ。哀しみを述べる、いわゆる告別も、きっと生者の傲慢だものね。あなたがそれを嫌うか、それとも喜ぶかもわからない。だって、死者とは語らうことは――まあ幻想郷では例外はあるにしろ――原則的にはできないわけだからね。あなたはなにを残せたのかしら。たとえば、知識。私だったら知識を残したいと思う。魔女ですからね。あなたはなにを残したかったのかしらね。それをいまこのとき問うことも、あまり意味のないことかもしれないけれど」
あなたはなにを残せたのだろう。
なにも残さないでいい。そう言った。
けれど、私は信じたかった。
死んでいった者もなにかを残せると。
なにもかも消え去るわけではないと。
あなたのすべての物質的事柄が消え去っても――あるいは名前も残らなくても――なにかが残っていると信じたい。
想起 4
「紅茶の入れ方を習いたいわ」
「いきなりどうしたのです。お嬢様」
咲夜はいぶかしむような聞き方をした。レミリアは腰に手をあててえらそうに答える。
「私だってレディよ。お茶の入れ方ぐらい知っているべきだわ」
「お嬢様がそんな雑事に手をわずらわせる必要はないと思うのですが――」
咲夜は明らかに戸惑っていた。そんな様子にレミリアは憤慨したかのようにいきまいてみせる。
「レディの嗜みってやつよ。この程度のことはできて当然。やれて当然。なにしろ私はスカーレットデビルだぞ」
すごいんだぞー、えらいんだぞー、と言いたげである。
「で、ぎゃおー食べちゃうぞ、ですか」
「ぎゃおー……」
手をふりかざして力なく威嚇のポーズをとるレミリア。
さすがに子どもっぽすぎた。いささか恥ずかしいのか、レミリアの顔は紅く染まっていた。
「いいから教えなさいよ。完璧なメイドは教えるのも完璧なはずでしょう」
「お嬢様にやる気があるというのなら、教えるのはやぶさかではありませんが……」
「なら、そうしなさい」
「わかりました。ではご用意するので少々お待ちを」
――レミリアがまばたきする間に、咲夜は用意を終えていた。
品の良い白い陶磁器のティーポット。
花柄の意匠がほどこされてあって、いつものよりは一回り小さめである。
「どうして小さい」
「お嬢様の子どもサイズのちいさな手のひらにはちょうど良いかと思いまして」
「うー。大人サイズ!」
「はいはい。まずは子どもサイズにしましょうね」
「最近の咲夜には、主を敬う心構えが足りないようね」
「そんなことはありませんわ。お嬢様のことをこれ以上なくお慕い申し上げているつもりです」
「口ではなんとでも言えるわよね」
「口ではなんとでも言えるからこそ、なんとでも言うのですわ」
「もういいわ」レミリアは嘆息した。「さっさと教えてよ。咲夜」
「とりあえず、なにも言いませんから、一度、ご自分の力だけで入れてみてくださいませ」
「いいわ。やってやろうじゃない」
レミリアはティーポットの蓋を取り払った。なかにはなにも入っていない。
それどころか真っ白である。一度も使っていないかのような白さだった。咲夜も後ろから覗きこんで納得の表情。
「綺麗な色合いをしているな。使ってないのか。それとも咲夜が洗っているのか」
「使っておりますよ。紅魔館に無駄なものなんてひとつもありませんわ」
「ふぅん。そう、別にいいんだけどね」
「お嬢様はもしかして新品を使いたい年頃だったのですか」
「そんなことないわよ。ほんとにどうでもいいの。前にも言ったことがあると思うけど、物質的なこだわりはさほどないほうなのよ」
「とはいえ、こんな館に住んでいる時点で、けっこうこだわりがあるほうだと思いますが。そもそも吸血鬼の一族というのは貴族の出自なのでしょう。だとすれば、良き物を鑑賞できるだけの器量を有していなければなりませんわ」
「一般的な意味ではそうだろうね。でも、吸血鬼なんて、もう滅びる種族なのよ。映画のスクリーンぐらいでしか同族をめったに見なくなったし、だからこそ私は幻想郷にいるわけでしょう」
「哀しいことですね。外の世界から省みられなくなった種族が暮らす秘境ですか」
「逃避してここにたどり着いたわけじゃない。私はしたいようにやって、その結果、ここにいるだけ。そしてここが今のところは気に入ってるの。だから、外の世界がどうであろうと知ったことではないわ。さ、無駄話はこれぐらいにして、じゃあ今からやるから見ててよね」
「はいはい。わかっております」
子どもを見守るような顔つきである。レミリアは少しむっとした。だが、咲夜の視線が無くなるほうが嫌だったのか、すぐに紅茶を入れ始めた。
ティーポットのなかに、紅茶の葉っぱを適当にスプーンですくい、そのあとに事前に沸かしておいたお湯を注いだ。
「簡単よ。簡単。この程度」
どのくらい時間が経過すればいいのかわからないので、蓋を開けて、中を覗きこむレミリア。
チラリチラリと、たまに咲夜のほうを見るが、咲夜はニコニコと微笑んだまま、約束どおりなにも言わない。
レミリアは不安そうに、ティーポットを少し持ち上げて、ゆるゆるとまわすように振ってみている。
もしかすると急須のような心持ちなのかもしれない。
最後に、用意していたティーカップの中に注ぎこみ、砂糖のブロックを砂糖壷の中からニ個ほど取り出して、スプーンで混ぜた。
そして、咲夜の前にだした。
レミリアは仰ぎ見るように咲夜を見ている。やりきった表情ではあるものの、やはり心配であるのか不安を隠しきれていない。
咲夜は無言のまま、ティーカップを見つめている。そして、音も立てずに口につけた。
「どうかしら? 私のいれたお茶だ。うまいだろう」
「そうですね。とりあえず六十点ぐらいでしょうか」
「なんだと!?」
レミリアはちょっと驚き気味である。小さな手がわなわなと震えていた。
「不服ですか?」
「あたりまえだ。理由を言ってもらおうか」
「まずティーポットですが、お湯を入れて温めておいたほうがいいですよ」
「なぜ?」
「ティーポットは常温では冷たいですからね。お湯の温度が下がってしまうわけです。そうなると、お茶の本来の味がでません」
「ちょっとぐらい……、いいじゃないか」
レミリアはアヒルのように口をとがらせた。
「私は完璧なお茶の入れ方を教えてほしいと、お嬢様に申しつけられたはずですが」
「それで? ほかにはなにか言いたいことある?」
「ひとつにお湯です。事前に沸かしておくのはいいのですが、沸騰したと思って安心しちゃいましたよね。それで火を止めてましたが、そうなるとやはりお湯の温度が下がってしまうわけです。高温のお湯でお茶の葉を蒸すようにしないと味がよくないのです」
「そんな些細なことで味が変わる葉っぱのほうに根性が足りないのよ」
「そうそう、紅茶のリーフについてですが、もっと蒸らさないとダメですよ。お嬢様には辛抱が足りません」
「うー。咲夜を待たしちゃ悪いかなと思ったのよ」
「時間の消費をそんなに気にしないでもけっこうですよ。時間に囚われすぎると、その時間は死んでしまいます。お嬢様と私は確かに寿命が隔絶しておりますが、私はこれでも時間を有用に使っているつもりです」
「おまえより時間を有用に使っているやつはそういないよ」レミリアは椅子に深く座りなおした。「まあいいや。わかったよ。私にお茶を入れる仕事は向かないみたいだ」
「あら、もう諦めてしまうのですか」
「少し前に、咲夜が死んでも、なにも残さなくていいと言ったじゃない」
「ええ、そうですね」
「あれは本心で、今も変わりないけれど、でも失われていくものも確実にあるわけよね。例えば――お茶の入れ方だってそう。あなたが死んだら、私はあなたのお茶をもう永久に飲めなくなるわけよね。それって、哀しいじゃない。だから、あなたから習おうかなと思ったの」
「お嬢様……」
咲夜は胸のあたりを抑えた。なにかがつっかえて、外にでたがっているような動作だった。
「でもね――、やっぱり気が変わったわ。咲夜の入れたお茶は、咲夜自身ではないもの。私が本当に所有したいのは、咲夜自身なのよね」
「私が異性だったら、告白だと勘違いしてしまうかもしれませんわ」
「あら、わりと本気なのに」
「人間をやめるつもりはありません」
「わかってるわよ。そのことについては、諦めてるつもり」
「つもり、ですか」
「そう。なにしろ吸血鬼はワガママなの。おまえだって私の性格は知ってるだろう。欲しいものは近くに置いておく」
「お嬢様らしいですわ。でも私の死体を取っておくのは、臭いが絨毯につくのでやめてくださいね」
「ふん。死体も物質だ。そんなものいらない。すぐに燃やすさ」
告別の辞 5
あなたの葬式は密葬というかたちで執り行われることになった。
だから、あなたと生前親しかった霊夢や魔理沙は呼ばれなかった。
彼女達なら、あなたの死をどのように捉えるのだろう。
魔理沙も霊夢も今を生きている。人間として精一杯。短い時の中を生きている。
霊夢は――生も死も別離の苦しみも『諦め』ているのだろう。
諦めているといっても、だからどうでもいいというわけではなくて、死ぬという当然のことを当然のこととして受け入れて、それで現在に生きるという思想だろう。魔理沙も同じような感じだ。霊夢ほど達観はしていないが、今このときを生きることの必死さは霊夢以上のものがある。
なにも残さなくていい。今を生きればいい。
それは――
人は究極的には独りで生きて、独りで死ぬのだという諦め。
あなたの死を想い、もう一度会いたいと願うのは、死を諦めきれない愚劣な行為なのだろうか。
あるいは、あなたはそう考えるかもしれない。
あるいは、あなたも私と同じようになにかを残したいと考えているのかもしれない。諦める行為の裏側にあるのは、いつだって、抱えきれないほどに膨らみきった希求の想いなのだから。
あなたの声が聞きたい。
あなたの考えが聞きたい。
だって、そうしなければわからない。
けれど死者との交信は、不可能だった。
聞く耳を持たない夜郎自大の閻魔が、紅魔館の出自の者を例外として私と引き合わせてくれるはずもない――。
あるいは、一般人から遠いあなたは閻魔の手を零れ落ちて、どことも知れない世界へ旅立ったかもしれないのだ。
私には確認のしようがなかった。
それが死という現象。諦めてしまわなければならない。
なにひとつあなたは残らない。なにひとつあなたとのつながりは保てない。
それが死。
諦めてしまえ。
小悪魔の告別が終わり、葬式は静かに幕を下ろした。
私ははじけた風船のように、すべてが無感動に包まれていくのを感じた。
最後に、小悪魔は「さようなら、咲夜さん」と、いつものような快活さも無く、冷たい音を響かせて、まるで闇の中に沈んでいくような声を出した。
私は沈黙するしかなかった。
それから七曜の魔女は、一言も口を開くことなく、胸のあたりが苦しいのか、小悪魔に抱きかかえられるようにして外にでた。
いつのまにか雨が降り始めていた。
降り注ぐ雨に、私は裸身を晒し続けた。
身を切るような寒さ、肌に突き刺さるような雨。魂が凍りつきそうな雨。
大粒の雨が石畳を乱打し、それ以外は驚くほどに静閑な空間だった。
妖精メイドたちは持ち場に戻り、魔女と小さな悪魔はここにはもういない。
「妹様、お体に触ります。お部屋の中にお入りください」
横に視線を移すと、美鈴が苦渋の混じる声を出していた。その声さえ、私には遠い世界の出来事のように思えた。私は声をかける気力さえ湧かず、ずっと立ち尽くしていた。
「いや、ここにいる。ここにいさせてよ美鈴! お別れしたくないの」
「妹様! 生きている者は生きていかなければならないのですよ……」
美鈴たちの姿も消えて、残されたのは私ひとり。ようやく独り。ずっと独り。
私はあなたの名前が刻まれた石碑を見つめる。
こんな石碑で、あなたのなにが残せるというのか。
不意に、私はこの石塊をぶちこわしてしまいたい衝動にかられた。こんな物質になんの意味がある。こんな物には、あなたにまつわる事柄はなにひとつ残留しない。
人間の浅ましい考えは、物質に精神が残留するかのように錯覚する。
愚劣。低劣。忌々しい。
私は騙されない。愚かな偶像を崇めるような真似はしない。
「こんな物で!」
私はこぶしを振り上げ――
そのとき。
時が止められた。いや単に私の振り上げられた腕が誰か握りしめられていただけだ。
「おいおい。ちょっと待てよ。いきなり墓をぶっこわすのはどうかと思うぜ」
振り向くと魔理沙がいた。
「密葬よ。出て行って」
「知ってるさ。でも、死んだやつのことを想うのは人の勝手だろ。私はおまえを誘いに来たんだぜ」
「誘い?」
「これから、あいつの死を悼んで、宴会しようって話になってな。しんみりするのはどうも苦手なんだよ。おまえだって、本質的にはそうなんだろ」
「私は綺麗な思い出話なんかにしたくないのよ」
私はその場に崩れおちた。
力が急速に抜けていく。はっきりと絶望の淵が見えてくる。葬式も終わり、綺麗な思い出に置換されて、そうやって、あなたは死んでいく。死とは結果ではない。過程だ。忘れられていく過程。世界のなかで、消え行く過程。
あなたの存在が消えていく……。
「元気がないのはおまえらしくないぜ。そうだ――香霖から預かってきたものがあるんだ。ほら、これだ」
私が視線をわずかに上げると、そこには輝く銀の懐中時計があった。
いつかの時に壊れて、修理に出していたものだ。
想起 5
「ねぇ。咲夜」
「はい。なんですか。お嬢様」
「おまえの銀時計って、どんな由来なの?」
「さて、どんな由来とおっしゃられましても――、こればかりは説明できませんね」
「なにかすごい曰くの品だったりするのかしらね」
「物質にこだわりはないのでは?」
「おまえに興味があるんだよ。おまえが私に出会ったときから持っていたものだから、ちょっとぐらい興味が湧いても当然でしょう」
レミリアが拗ねたような表情になった。
咲夜はプッとふきだした。
「実は私にもよくわからないのですよ。この銀時計は私が生まれたときにはそこにあったものでして、私自身、誰に渡されたものなのかはわからないのです」
「ふぅん。親とか?」
「あるいはそうかもしれませんね」
「なんだかむかつくな」
「嫉妬ですか」
「所有欲だよ。おまえは私の物だ」
「確かに人間も物質に過ぎないと言ったことはありますが、そういう意味ではないのですよ」
「わかっているよ。でも、咲夜は私に絶対服従を誓っているのよね」
「まぁ、そうですね。巷では悪魔の犬呼ばわりされたりもしましたから、たぶんそうなんでしょう」
「ふん。じゃあ、私がその時計をくれといったら、くれるのか」
「いいですよ」咲夜は即答した。「お嬢様が望むのなら、私はなにも惜しみません」
「じゃあ、頂戴」
「はいどうぞ」
身のこなしにも躊躇はなかった。レミリアと咲夜は瞳を交わす。レミリアは咲夜の心が本物かを見定めようとしている。
「壊すよ」
「ご随意に。もうそれはお嬢様のものですからね」
「嘘じゃないからな」
「ええ、かまいません」
レミリアは動きにくそうなドレスの裾をなおし、右手に持った時計に、細い爪先をあてる。
不快そうな表情のまま、カリカリと表面を小さくこする。
そして、それで終わりだった。
銀の懐中時計は空中に放り投げられ、咲夜の手中に収まった。
「あら、お嬢様のお名前」
「咲夜にやる。私にはこんな安っぽい時計は似合わないからな」
告別
そこには『レミリア』と刻まれていた。銀の時計には、確かなつながりが残されていた。壊れなかった絆。最期のときまで壊れなかった主従関係。
十六夜咲夜はレミリア・スカーレットの所有物だった。
私は声をあげて泣いた。
道理のわからない子どものように、周りを気にせず、わんわんと泣き喚いた。
世界は不条理で、死はもっと不条理で、だから、泣いて反抗するのもきっと正しい行為だ。
「魔理沙。ありがとうね……、これ持ってきてくれて」
「ん。ああ……」魔理沙は頬をかいていた。「泣かれるのは苦手なんだぜ」
「哀しかったのよ。死はなにもかも奪い去ってしまうように思えて、なにもかも残らないように思えて。でも、私が忘れなければ、きっとそれはなにかが残っているということなんでしょうね」
「思い出か?」
「思い出だけじゃないわ」
思想というほど強固じゃなくてもいい。
きっとこれ以上なくありきたりなことなんだろう。誰しもが一度は考えることだ。
私の精神には、あなたの言葉が残留し反響している。
長い長い歌のように、あなたの仕草も思いだせる。あなたがなにを思っていたのか、あるいは、ある出来事に対してなにを思うのかも、どのように感じるのかも想像できる。
あなたの考え方を私は知っている。つまり、私のなかに、あなたは生きているのだろう。私という物質の中に。私も物質であるから、いずれ壊れる。いずれ私も死ぬ。けれど、私の考え方もまた誰かに伝わるのかもしれない。そうやって、ずっと繋がっていけるのかもしれない。
儚い願いだ。
そんなことはわかっている。
けれど、人間が残せる唯一のものは、ぎりぎりのところでようやく伝わる儚い願いだけなのだろう。
願いは言葉や歌に形をかえて、末永き希望になる。
だから――
「お嬢様。おやすみなさい」
私は灰色の墓石に向かって、瀟洒に別れを告げた。
ちょっとじゃなく混乱した。と言うか、あれ? 小悪魔が「さようなら、咲夜さん」って言ってない? あれ? 俺、間違ってる? 駄目だわからん。
咲夜さんの名前が出ない時点で仕掛けが分かってしまうのが残念。
内容はすごく良かったです。
妖怪と人間の寿命差は東方の永遠のテーマの一つだなぁ
全体的には面白かったです
以下読後の言い訳になります、
個人的に違和感のかなり大きかった場所が「支柱」がなくなったのに、喪主がフランな所ですかね、死を受け入れてないのに喪主がフランは違和感がどうも。
「あいつ」呼ばわりはミスリードの為に仕方ないかもしれませんが…これが「柱」なら違和感が小さくなる気もしますが、気がつかれる諸刃の剣なのが難しいですね。
後は(年をとったと仮定される)魔理沙がヤケになったレミリアを簡単に止められるのか?と思ったり。
文句ばかり書いてスミマセンでした
お話は面白かったので、これからも期待しています
ええ、騙されたから二回読ませていただきましたよ。
確かに気づく人は気づく…というか、告別の辞1の二行目で分かる人は分かっちゃうかもですね。
トリック的な部分もそうですが、想起ごとに二人の関係が深くなっている様も良かったです。
ありがとう!お嬢様。
まったく気付けなかった。してやられた。お見事としか言いようがない。
それだと告別1の
>許してちょうだいね。
がおかしいなぁと思ったりして混乱しました。
二人の関係の深さが読み進むにつれ印象深く味わえる素敵な作品でした。
そういう意味では、無理にリドル・ストーリーにする必要は無かったのでは‥もっともこれは作者の判断の範疇ですね。生意気を言ってすみません。
>「お姉様。おねぇさまぁ……う、う……どうして、どうしてあいつが死んじゃうの」
既に出てますが、特にこれですね。
個人的には普通に書いた方がよかったのかと思います。
フランの台詞も凄く違和感。
ミスリードする文章にしないほうがよかったんじゃないかなぁ……
お嬢様は何故死んだのか…
>なにも残さないでいい。そう言った。
この考えはレミリアの考えだよなぁ…………と、途中思ったのですが……気がつかなかったw
しかし、なぜ死んだのでしょう……?寿命の訳がないし……そこに違和感。
でもそれ以外でも十分楽しめた。このあと咲夜まで死んだらどうなるんですかね……
よくあるネタだなぁとおもったけどこういうオチならおもしろいですね
>>本来なら私がやるべきことだった。
喪主は親族という固定概念があったので、亡くなったのは咲夜さんだと思ってしまった。
最後は驚きました。
何というか、二重三重の意味で。視界がぼろぼろだぁ・・・。