午と黄昏の間の光を含んだ風をうけて、白い布がはためいている。
ぱたぱた。
ばさばさ。
それはまるで、ただの人間のようで、でも私たちのようでもあって。
「必殺技がほしいのです」
「はあ」
そんな彼女から、稗田からそんな話を聞いた。
「なんでもこの徳川天下の初め頃に活躍したとある剣豪は『燕返し』なる技を会得していたそうじゃありませんか!」
「そう、ですけどね」
またこの少女は妙ちくりんな本でも見つけて、それに感化されてしまったのだろうか。
屋敷の近衛にでも言って、書庫への出入りを禁じてもらおうなどと一瞬本気で考えてしまう。
それほどまでに、この稗田という少女は知と識に貪欲で、敏感なのだ。
「む、巫女様はまーた始まったなどとお思いですね!」
「そんなことはありませんよ。 すばらしいじゃありませんか、燕返し」
日が傾きはじめる前に、洗濯物を取り込むことにする旨を稗田に伝えると、彼女は少しつまらなさそうにして小さくお礼を言ってくれた。
『燕返し』とやらにさほど興味を持ってもらえなくて拗ねているのか、あるいは私にかまってほしいのか。
どちらにせよ、可愛らしい。
妖怪の癇癪に比べれば、ずっとずっと。
普段の神社とは違う、余所行きの仕草で、ゆっくりと縁側から降り立った。
例え心を許した稗田の前とはいえ、『博麗の巫女』を見る目がいつどこにあるか、わからない。
籠に、どれも高そうな衣服を放り込みながら、稗田の様子を伺う。
「ほうほう……」
枕元からでも取り出したのか、いつもに比べればまだ控えめな厚さの本を読みふけっていた。
ばさばさ。
稗田は洗濯物であって、風でもあるらしい。
機嫌を直したようだし、とりあえず放っておくことにする。
ああなっては最低でも半刻はこっちに戻ってはこないだろうし。
今のうちに夕飯の支度もしてしまおうか。
「武蔵め……遅い……」
稗田は完全に本に熱中しているようだ。
最近になって、彼女が興味を持ち出したのは有り体に言えば『強さ』。
物理的な、肉体的な強さ。
彼女の運命を考えれば、今さらのような気もする羨望。
幻想郷縁起の編纂を終えた彼女は、どうしてそこまで必殺技とやらが欲しいのか。
「霊夢」
「なによ」
「必殺技がほしいのです」
「帰れ」
「れいむぅー」
ええい、うっとおしいという思いをお祓い棒に込めて、阿求のやわらかそうな頬をつっつきまくった。
いきなり神社にやってきたと思えば開口二番にそれか。
「お賽銭払いなさい、お・さ・い・せ・ん」
阿求は随分の金持ちだと聞いたから、こいつが神社に来ると割と期待してるのに。
幻想郷の金持ち全員に言えることだけれど、この阿礼乙女も決して入れてはくれない。
「お賽銭入れたら必殺技を会得できるのですか?」
「全然?」
「じゃあ入れません!」
「じゃあお茶飲んで帰りなさい」
「むぅ、つれないです。 そういうところは五代目にそっくりですね」
物腰は彼女の方が圧倒的にやわらかでしたが、などと言いながらお茶をすする阿求。
やっぱり紅茶のがおいしいですね、じゃないわよ。
閻魔さまの前に私がこき使ってやろうかしら。
「てかアンタ、幻想郷縁起に関係すること以外は忘れちゃうんじゃなかったの?」
代々の阿礼男阿礼乙女、それぞれの友人関係なんて私の知る範疇じゃないけれど。
少なくとも私の記憶が正しいならば、先代の阿礼乙女の記憶を阿求はほとんど受け継がないはず。
「やー、それがですねぇ。 昨日の晩ご飯は焼き魚だったんですが」
不味そうに緑茶を啜りながら、薄そうな胸元から阿求が取り出したのは、一冊の古い手帳だった。
「たまーに魚をこっそりと焼くんですが、何かを思い出すことがあるんですよね」
「あとで女中さんに言いつけてやろうっと」
「……お賽銭いくらですか?」
「あんたの気持ちよ」
うわぁ、という阿求の声は、私への呆れか、それともその手帳のかび臭さに向けられたものなのか。
傷みを感じさせるものの、軽快にめくれるページ。
それを見て、阿求は顔をほころばせる。
「これ、私たちみたいですよね」
「阿礼乙女?」
「そう」
ああ、確かに阿求たちだ、なんて思ってしまう。
古い記憶を連綿と受け継ぎ、記録し、時という風に軽やかに命を流されていく。
でもそれは阿礼乙女だけの専売特許じゃない。
私を含めた博麗の巫女だって、そうだ。
何代も続けて知識と技術を受け継ぎ、時には風に身を任せ、運が悪ければ阿礼乙女のように命ごと流されていく。
風に対する選択肢がどこから来るのか。
とても簡単な答えが浮かぶ前に、阿求が再び口を開く。
彼女のか細い指は、手帳のあるページの何かを指していた。
「ああ、ありました。 これです」
「……なにこれ」
「阿七が晩年描いていたものだと思いますが」
「えー……」
さっきまでの会話を台無しにしてしまいそうなそれは、落書きにしか見えなかった。
丸い頭の棒人間が、これまた棒のような何かを構えている、幾通りもの図。
「阿七編纂、阿礼流護身術奥義早見表だそうです」
「……奥義?」
「ええ、まあ……」
阿求も、七代目の意思を理解できなかったようだ。
私の問いかける瞳から一生懸命に目を逸らす。
「阿礼流護身術?」
「そんなものはありませんね……」
「奥義?」
「これはともかくそれなんです!」
仮にも故人の遺品を『これ』呼ばわりして、阿求は再び元気を取り戻した。
そして膝立ちになって私の方へすり寄ってきた。
「奥義なんです! 必殺技なんです!」
「なによ、誰か恨みでも晴らしたいやつでもいるの?」
眼前の大きな瞳を見据えて、また尋ねた。
紫とかなら喜んで協力するんだけどね。
「そう、じゃないんですけどね……」
不意に、瞳が遠ざかったと思ったら、また阿求の小さな顔がすぐ近くまでやってきた。
その手には、阿七とやらの落書き帳。
「んー……」
「あによ」
阿求は、何か面白そうな事を伝えようとしている子供のようだった。
教えたいけど、教えたくない。
そんなところだろうか。
「まあ、必殺技と五代目と、いろいろあったんですよ。 阿七も」
そう言って阿求は縁側に座り直し、再び不味そうにお茶をすすりはじめた。
「なによそれ?」
さっぱりわからない。
「意地があるんだそうですよ? 女の子にもね」
そう悪戯っぽく笑って、阿求は先ほどまで自分をつっついていたお祓い棒を手に取った。
「ねえ、霊夢」
「ん?」
「チャンバラ、しません?」
「ねえ、巫女様」
「なんですか、稗田」
暗闇の中を貫く月の光の中で、稗田阿七は私の名前を呼んだ。
いつからこの名で呼び合うようになったかはわからない。
ただ、いつの間にかこうしないと落ち着かなくなったのは覚えていた。
「巫女様も必殺技持ってるんですよね」
もう既にまたか、なんて思うことはなくなっていた。
彼女の『必殺技』探しには何かがある。
そう確信したときから、稗田の様子を注意深く見てきた私だからこそ、断言できること。
「ええ、持っていますよ」
「見せてくれませんか?」
「……そうですね」
本来なら秘伝のこの技も、彼女になら見せてあげてもよかったのだけれど。
「稗田がまた元気になったら考えてあげます」
「あらら、意地悪ですね……」
「忘れる前に死なれて、幻想郷縁起に書かれたらたまりませんわ」
それは、方便。
本当は、本当ならもっとあなたが元気な時に見せてあげたかった。
でも、それは叶わない。
「ごめんなさい、ウソですよ」
「ひどいです。 泣いちゃいますよ」
「泣いたら、鬼がきますよ」
「鬼にさらわれても、助けてくれるんですよね?」
「ええ」
誰よりも大切な友人である、あなたのためなら、龍神様だって怖くない。
そのための、この技でもある。
稗田の冷たい体を抱きしめる。
「寒くないですか、稗田?」
「あなたは、暖かいですから」
段々と、日を追うごとに衰弱していく稗田の体。
医者の見立てでは、一時の、でも『五代目博麗の巫女』にとっては永遠の別れも近いだろうとのこと。
それまでの、この幾ばくかの貴重な時間と、彼女の冷たさを体に刻み込む。
「巫女様、私……強くなりたかったんです」
「そうなのですか」
「幻想郷縁起の編纂中に、何度も、助けられましたよね。 妖怪が屋敷に侵入してきたときも、鬼にさらわれたときも」
「ええ」
「その度に、巫女様は何度も、何度も危険な目に合われて、私は見ていられませんでした」
私の装束の袖に、弱々しい力が込められた。
弱い。
あまりにも弱い。
本当にこれは十八の少女の手なのか。
阿七の顔は、泣くといったときのまま、うつむいていた。
「私は、自分が情けなかった。男として生まれた私だったなら、なんて考えたこともありました」
「そう、なのですか」
阿七は本来なら阿礼男となるはずが、閻魔の手続き違いで少女として生まれた、というのは幻想郷の有力者しか知らない重大な秘密。
阿礼男なら確かに、阿礼乙女より多少は頑丈だし、私もその乙女と男の違いを補うためにこうして護衛として、先代の巫女の命で、幼い頃からつきそってきたのだけれど。
「でもやっぱり、阿礼男だろうが、乙女だろうがそんなことは関係なく、私は弱かった」
「それは、仕方ないことなのです。 代々の阿礼男の方々も……」
「そうですけど!」
思ったよりも大きな力を受けて、阿七を抱きしめたまま、私の体は仰向けになった。
私を押し倒した稗田は、涙こそ流していなかったものの、それがないことで余計に沈痛な顔をしていた。
「幾度となく切り刻まれ、苦しめられ、時として辱められた貴方を、私は見ているしかできなかった!」
「稗田……」
「寿命のすくない私より、あなたの体の方がはるかにボロボロだなんて、おかしいですよ!」
「おかしくなんか、ないですよ」
「そんなこと……!」
「私は、博麗の巫女であり、あなたの護衛です」
私の装束にシワを作りながら震える、氷のような右手を両手で包んだ。
「あ……」
「私は、これでも稗田のことを守れて幸せなんですよ?」
そう言って、笑みを見せた私に稗田は呆気にとられたようだった。
上半身だけ体を起こして、膝の上に稗田を載せた。
「ちょっと、行儀悪いかしら?」
「いえ……あの」
「稗田? 顔が赤いようですが……」
「だ、大丈夫……熱いだけです」
もうそろそろ、部屋に入った方がいいかもしれない。
まだ雪も降ってないとはいえ、もう霜月なのだし。
「あの、ですね巫女様」
「なんですか? 稗田」
「その……必殺技、見せてくれるんですよね?」
まだ諦めていなかったのか。
「そうですね……見たら、もう今日はお休みしますか?」
「や、約束しますけど……あの、もう一つだけ、お願いいいですか?」
「ちゃんと、約束して下さるのなら、なんでもお聞きしますよ?」
「な、なんでも……じゃない」
一瞬邪な気が見えたが、すぐに消え去った。
そして、顔をさらに赤くした稗田が要求を口にした。
「稗田?」
「その、阿七って、呼んで、ください」
「あら、じゃあ私のことをれ……」
「み、巫女様は巫女様なんです!」
「そんな、阿七だけ……」
「い、いいんです! 私は偉いの! 阿礼乙女ですよ!」
なんだそれ。
まあ、いいや。
「それでは、阿七。 ここで少々お待ちを」
丁重に、稗田、阿七を床に降ろして、一人庭に出た。
精神を、集中。
「では、参りますよ」
「はい……!」
阿七が息を呑んだのがわかった。
そう、これはあなたのアイディアが詰まった、私と阿七だけの必殺技。
「夢想転生、礼!」
「夢想転生斬りっ・集!」
「あいたっ!?」
私の博麗剣(元文々。新聞)が阿求の脳天を捉えた。
これで十五本目が決まった。
何を思ったのか、唐突に阿求が提案したチャンバラごっこがはじまってはや三刻。
すでに日は沈みかけていた。
「はい、おしまい」
「う、うううー……」
悔しそうに頭を抑える阿求。
残念だけど、箱入りお嬢様に負ける気はしないわよ。
「ほら、もう帰りなさい。 黄昏時の妖怪は怖いわよ」
「うぅ、そうしますよー……」
いそいそと荷物をまとめる阿求は本当に悔しそうだった。
何がそんなにシャクに触るんだか。
「阿七の時よりは鍛えてるはずなんですけどねー……」
「何をわけのわからないことをブツクサ言ってんのよ。 送ったげるから感謝しなさい」
「結局守られるとか……」
「阿求、今日のアンタ、何かおかしいわよ」
急に落ち込んだり思い出したり元気になったり。
遊んだりニヤニヤしたり無茶したり。
ったく、どっかの魔法使いを思い出してヒヤヒヤするわよ。
「はいはい、今度勝負して勝ったら、なんでも言うこと聞いてあげるから元気だしなさいな」
「!」
阿求の上半身が、跳ね上がった。
「……霊夢?」
「な、なによ」
なんでも、は言いすぎだっただろうか。
「なんでも……言うこと聞いてくれるんですか?」
「あ、でもお金とかそういうのはダメよ!?」
「そういうのじゃないですから大丈夫ですよ! ただちょっと一生私に捕まってもらうだけですから!」
「ちょ! なによそれ!?」
急に元気を出した阿礼乙女は、私の問いを無視して駆け出した。
私がちょっと甘い顔見せたらすぐこれだ。
本当、あいつにそっくりだわ。
「約束ですよー霊夢ー!」
十数歩先から、夕日をバックにして叫ぶ阿求。
「あーもう、勝てたらねー!」
そいつの顔は女の子というよりは、男の子みたいだった。
今でも、二枚の布は揺れている。
激しい風に今にも飛ばされそうな布は、必死に飛ばされまいとしている。
もう一枚の、自由な人といるために。
まあ、普通に考えればどっかの魔法使いなんでしょうけど、
代々の博麗の巫女にも記憶の残滓が受け継がれるとするならば……
これが所謂、夢想点睛(く、苦しい)のハッピーエンドかなぁ、と。
>久に元気を出した阿礼乙女は→急に、ですね。
もっと流行れよれいあきゅ。