朝方から雨が降り続いていた。太陽が沈んでも、嵐が過ぎ去ることは無かった。
隣村に訪れたという浮浪の医師を訪ねた帰り道だった、男が独り、帰るべき家に向かって村同士を繋ぐ一本道を歩いている。端正な顔立ちにしばらく切っていない黒髪。袴に下駄というどこにでもいるような身なり。人よりも幾分高い身長が彼のささやかなコンプレックスだった。
足元は降り止まない雨でぬかるんでしまって、男の足取りは重々しいものだった。袴は水を吸い、髪が顔に張り付いていて、時折それをくすぐったそうに直す。
男の歩みが進まない理由はもう一つあった。それは数刻前に医師に宣告された言葉だった。
「残念だけれど、もう手遅れだわ」
「そうですか」と男は頭を垂らすことしか出来なかった。言葉と共に生気が抜けていった。
その言葉は男にとっては死の宣告にも等しかった。実際に命を落とす訳ではない。男の体格は標準的な男性と比べると貧相といえるが特別病弱というわけではない。二十年以上生きてきて命に関わるような病を患ったことは一度しかない。それでも自分は死んだと、男は思った。
男も医者だった。
小さな頃からの夢。自分の村でささやかな診察所を持って、世話になった村の皆に恩返しをする。死にかけた自分を救ってくれた医師の姿に憧れて、それを目指した。その為に遠く離れた学び舎に通い、学を重ね続けて、その手は夢に届いた。長年の夢が叶おうとした最中での出来事だった。
ある日唐突に、世界が霞んできたのだった。
最初は疲れているのだと思っていた。長年の疲労が報われる直前になって気が緩んだ。それだけだと男は自分に言い聞かせた。そう自分の中で叫び続けていなければ恐怖と不安でおかしくなってしまいそうだった。もし知識を積まなかったならそのことに気がつかなかったのかも知れないが、それは後の祭りである。男の不安は日に日に大きくなり、そして現実のものとなった。
世界から光が消えた。
男の目は何も見えなくなった。
それは男にとっては未来が消えることと同義だった。これから見るはずの笑顔を、以前の自分のような顔を与えることも、見ることは出来ないのだから。人の五感の内たった一つを失っただけで人間は死ぬことが出来るのだと、男は知った。最後の希望と頼った医師にも、見放されてしまった。
全てを失った男は生きている意味が分からなくなった。いっそ死んでしまいたかったし何度もそうしようとした。この帰り道の中で既に5回。しかしその度に、己の胸に刃物を向ける度に、思いとどまってしまうのだった。手が震える。怯えている。生きている意味など無いのに死ぬ勇気すらない自分はなんて情けないのだろうと、それだけが頭の中で渦巻き続けている。
雨の中をただ歩いている。何度も通ったこの道の情景は男の頭の中に残っている。視力を失ってから男は過去を思い返してばかりいた。
村を出てから何分歩いただろうか、この場所には桜の木が並んでいた筈だ。今頃は並木道に桜が咲き乱れ、太陽が顔を出せば花見で人は溢れ、賑わいに満ちることだろう。
考えることは所詮は過去だった。確かめる術など無い。もしかしたら自分の見ていた景観は変わり果てしまっているのかもしれない。それがもどかしくて苛立って、男は地面を叩く。泥が跳ねる音だけが、雨音の中で聞こえた。
雨とはなんと残酷なのだろうと男は思う。もはや景色を感じる感覚は両耳しか残されていないというのに、泥となった地面を叩く音は余りに耳障りで、世界に独りきりで取り残されている錯覚を覚えてしまう。元より嫌いではあったが、視力を失ってからそれは憎しみにも似た感情へと変貌している。こうして世界の全てを嫌うのだろうと、男は予想した。
男は世界には地面を叩く水音しかないと思っていた。
だから、最初は気付けなかったのだ。
その音の中に、誰かのすすり泣く声があったことに。
~誰かのT/やがて絶望という名の雨~
男がそれに気付けたのは偶然だった。ただその声が一瞬だけ──ほんの一瞬だけ大きくなり、その違和感が男の耳にも届いただけだった。
最初、男はその声に気味の悪さを覚えた。唐傘が吹き飛ばされてしまうような大雨の中で他人に出会うなどとは思っていなかったのだ。現に自分も傘はとっくに壊されてしまっていた。
声はどうやら女のものらしかった。少女と呼ぶには少しばかり大人びた、しかしどこか幼さを残した声。泣き声とはこんなものだろうかと男は思ったが、どうにも気になって仕方が無かった。しかし男は目が見えない。「彼女」の姿を捉えることは出来ない。
「どうしたんですか!?」
もしかしたら怯えさせてしまうかもしれない、そう思いながらも気がつくと男は叫んでいた。久しく発していなかった大声も、すぐに雨音の中に消えていった。男は自分の聴覚を信じた。
「……お嬢さん、そこにいますか?」
手を差しのべるような動作と共に、今度はたどたどしい声をかける。男の記憶では一層大きな木が佇んでいた場所だった。幾分かの雨を凌げはするが、雨宿りできるというほどのものではない。その先に声の主が居る確証は無い。聞こえた一瞬の嗚咽の途切れを信じての当てずっぽう。男は返事を待ちながら自身の鼓動が高まるのを感じていた。なぜ、と顔を撫でる。雨に打たれ続けた頬は熱く火照ってしまっていた。
「…………」
返事は無い。男には自分がどう見られているのかはわからない。恥ずかしさが込み上げる。
「……失礼。なにぶん目が見えないもので」
此処には居なかったかと思い、男は謝罪した。
声は、男の背中に掛けられた。
「──妬ましい」
背筋を悪寒が走った。
なぜそんな事を言うのか、男には理解できなかった。背中に掛けられた声は先ほどまでの今にも消えてしまいそうなものでは無く、吐き捨てるような苛立ちが込められていた。「なにを」と男が問い返すよりも早く、彼女は言った。
「目が見えない貴方が妬ましい。見なくて済む貴方が妬ましい」
「目が見えない方がいいと?」
振り返りながら男は言った。不思議なことを言う子だと思った。棘のある言い方をするがやはり声はどこか幼く、齢は二十に届くかというほどか。どちらにせよ目が見えない方がいいという少女らしき者に、男は興味を持った。
「どうしてそんなことを言うのですか? 私は貴方の顔も見ることが出来ないのですよ?」
「私の顔が見たいの? 止めておきなさい。見ない方がいいわ」
それはどうしてだろうと男は思案する。もしかしたら人に見せられない様な傷を負っているのだろうか、それとももっと深い意味のある、抽象的な意味なのだろうか、それとも──単に泣き顔を見らたくないのか。もしそうだとしたら可愛いものだと男は思う。医師を目指して勉学に励む毎日だった男にとってその感情は久しく味わっていないものだった。わずかに頬が緩む。生に絶望していた自分がほんの一時だけ、鞘を収める。
「何故、こんな所に居たのです?」
興味は対象への好奇心へと変化する。そもそも雨の中で泣いていた彼女を心配して声を掛けたのだったと思い返し、男は最初以上の優しい声で聞いた。
「人を待ってたの」
「雨の日に?」
「雨だからこそ、よ」
少女は必要以上の事には答えなかった。その態度は男の好奇心を更に掻きたてた。
「しかしこんな雨では身体を壊してしまいます。どこか雨宿りできる場所で待っていては?」
「いいの、これで」
「しかし」
「身体を壊すのは貴方の方が早いわ、きっと」
機械のように質問に答え続ける。そんな彼女はどんな顔をして、どんな服装で此処にいるのだろう。男は会話の最中、頭の中で想像していた。モンタージュを何度も繰り返し、しかし彼女が言葉を発するたびにイメージは変化していく。確固たる映像は視力の無い彼には得ることは出来ない。この障害を此処まで疎ましく思ったのは初めてだと男は思い、これが恋というものだろうかと思った。そんなにも軽い男だったのかと思いつつもそれを感じずにはいられなかった。知りたい。雨の中誰かを待っているという彼女の事を。
「聞いても、いいですか?」
「なにを?」
男は問いかけた。
「貴方の髪はどんな色ですか?」
「泥のような濁った色」
「貴方はどんな服装でいるのですか?」
「土ぼこりと雨に塗れ続けた汚らしい着物」
「貴方の瞳はどんな色ですか?」
「……ヘドロみたいな色」
「貴方の目には、何が見えていますか?」
「可笑しなことばかり聞いてくる盲目の男」
催眠状態に陥ったように男は質問をしていた。そうせずにはいられなかった。そうして、どうでもいい事に答え続ける少女の声色を、男は嬉しそうだと感じた。雨の中でしばらくの間、そんなやりとりが続いた。男は雨が止まなければいいのにとすら思い始めていた。
「そう、目が見えなくなったのは最近なのね」
男は自分の境遇を話した。「視力の無い世界」とはどういうのものか。それを質問したのは意外なことに少女の方だった。しかし男にとってはそんなことはどうでも良く、自分の事を知ろうとしてくれたことが嬉しかった。
「ええ、しかしそれを貴方は妬ましいと言った。どうしてそんな事を?」
互いに数分話しただけだというのに男は彼女に親近感に似た感情を覚えていた。機械のようだと感じた語調も慣れてしまうと表情を思い浮かべることが出来た。言葉の中に初対面の少女を想う事を男は楽しいと感じた。
男の質問に少女は暫しの間悩んでいるようだった。男は答えていいものか、ふむと考え込む姿を思い浮かべた。やがて意を決したように少女は言った。
「ともだちの……話なのだけれど」
「ともだち」の部分が強調されていた。自身のことなのだろうと男はすぐに見当をつけた。
「見なくていいものを見てしまった。それだけでそいつはおかしくなってしまったの」
おかしくなるの意味がよく分からずに男は眉をひそめた。少女は構わず続けた。
「弱かったのね。目に映る世界が受け止め切れなくて、でも、それから目を背けることも出来なかった。外側からの情報は自分の中で処理しきれずに闇雲に発散するしかなかった」
馬鹿みたいな話でしょう、と悲しげに少女は言う。
「それなら最初から何も見えない方がいいと」
「そう、何も見えなければ何も感じなくて済むもの。そっちの方がずっと楽だわ」
自分の味わっているこの絶望感が楽だと少女は言う。
男は思う。
馬鹿な。
「──そんな筈は無い!」
風も雨も吹き飛ばすような悲痛な叫び。一番驚いたのは男自身だった。
「ぃ、いや、失礼」慌てて謝罪の言葉を重ねる。
「えぇ、でも急にどうしたのかしら?」
少女も驚いているようだった。男は怯えている少女を想像し、感情の高ぶりが収まった。
「少し、苛立ってしまいました。私はそんな風には思えませんから」
見えていたものが見えない。世界は男にとって地獄だった。
「もし、最初から盲目として生まれていればもしかしたら同意していたのかも知れません。そういうものだと、諦めもつくでしょうから。でも知っているんです、光に満ちた世界を。そこに居た大切な人達を。それを思い返すことしか出来ないなんて……死んでいるのも同じです」
未来を失って絶望していた自分を思い出してしまったことに、男は言い切ってから気付いた。
「貴方のお友達はきっと、何かを見つけることが出来ますよ。生きていて、世界を見ることが出来るのですから」
男は少女を励まそうと思った。しかしその言葉は重ねれば重ねるほど自分にのしかかり、自身を傷つける。それでも、男は自分を殺しながら言う。死んでもよかった。
「貴方の……お友達が妬ましいといった所ですかね。貴方風に言うのならば」
自暴自棄。
「私など、いつ死んでも良いとすら思ってしまって、こうして刃物を持ち合わせています」
懐から取り出した小刀を胸に当てる動作をする。そのまま突き刺してしまえそうな気軽さだった。
どうせ出来ないのだと男は自嘲した。しかし、動くことの無かったその手は、あっさりと動き出した。
「……じゃあ、死ねば?」
男は欲しがっていた。右胸に押し当てられた小刀を。添えられた手は雨に打たれ続けていても熱を失うことなく、抱擁のような暖かさを秘めていた。驚く間もなく、刃はあっさりと男の胸に沈んでゆく。
「死ねるんでしょう? こんな事で死ねるのなら楽なものじゃない? あぁ妬ましい妬ましい。やっぱり貴方は妬ましい」
牛歩のようにゆっくりと着実に、豆腐に切り込みを入れるほどに軽々しく。差し込まれた部分は冷たい刃に対立するように熱く。肉を抉る痛みに男は悲鳴をあげる事すら出来ず、ただ顔を歪ませる。こみ上げてくる嘔吐感を必死にこらえる。ただ一心に思った。顔も知らない少女を己の血反吐で汚したくはない。
足元すらもおぼつかなくなり、同時に少女に押し倒されて男は木に寄りかかるようにして座り込む。震える唇でなんとか言葉を繋ごうとするが「貴方は──」と、その先に進まない。
「私は、妖怪」
問いが完成するよりも早くに少女は答えた。
「人間を襲い、奪い、喰らうもの。こうして貴方を殺すことぐらいしか出来ないし、どんなに世界が嫌でも自分で死ぬことが出来ない。あぁ貴方はなんて気楽なんでしょう。こうして胸を刺されただけで簡単に命を落すことが出来る」
あぁ、妬ましい。
感情を一気に高ぶらせる少女の声とは対象的に彼女の動作は一切変わることなく、ただただ静かに男の命に手をかける。男はそれに抵抗もせず諦めと安堵の混在した息を吐く。そうしてやっと、言葉が出た。
「よかった」
少女の動きが止まった。男は既に立ち上がる体力すら残ってはいない。吹きすさぶ雨風だけが流れていく。何故、と少女は驚きの声を上げた。
「殺されそうだってのに、どうしてあんたはそんなに嬉しそうなの?」
言葉使いが先ほどまでよりも幼くなっていた。これが彼女の地なのだろうと男は思った。変わらず刀は男の胸に突き刺さって、着物はそこから赤色を広げている。彼女の言うとおりこのままでは男は数分も命を繋いでいられないだろう。だから。
「最後に、貴方と話せて、よかったと……そう思います」
男の人生は数時間前、医師に死を宣告された時点で終わっていた。残されていたのは惰性と虚無感、それと臆病風に吹かれる情けない自分だけの筈だった。それを変えてくれたのは顔も知らない少女。彼女が妖怪だと言っても男にはどうでもいいことだった。大事なことは自分の絶望を妬み、自分を殺してくれたことだけだった。流れる血液に心臓の鼓動を実感できた、交わした言葉に意思は篭っていた。向けられる殺意に強烈な他人が見えた。想像の中で誰かが笑っていた。
そんな自分でも異常と感じられる感情に、救いを覚えた。
だから男は感謝する。最期に出会えてよかったと。
「死ぬのが怖くは無いの? 本当にもう何も見えなくなるのよ?」
「怖くない、と言えば嘘ですけど未練はありません。どうせ終わっていた命、それならばいっそ最期に誰かの糧になれれば本望でしょう?」
男の口から笑いが漏れた。笑って死ねるなんて男は数時間前まで想像もしていなかった。
「ま、待ちなさいよ、そんな満足そうに死なれたらこっちの面目が立たないじゃない、もっと怖がりなさいよ、妖怪よ? もっとこう……恐怖に歪んだ表情を見せる場面でしょ?」
こうでしょうか。震える唇で男は怖がっている表情を作ろうとするがどうしても顔がにやけてしまう。自分が妖怪だと執拗に言い張る少女が滑稽だった。
「あぁ、一つだけ未練が……」
雨音が遠のいていく。意識が途切れ始める。これが最期の言葉なのだろうなと思いながら、男は言った。
「今の貴方の表情を見てみたかった」
最初は機械のような印象を持った。後に妖怪と言われても素直に納得できるほどに無機質だった。しかしそれはただの虚勢だったのだろう。もう男は瞳の裏の少女の姿を醜い妖怪として見ることは出来なかった。コロコロと表情を変えては慌てたり悩んだりする、自分と同じ人間だと。
「私の最期を見ている貴方の表情を知りたいのです」
少女は何も答えなかった。ただほとんど聞こえなくなってしまった男の耳には荒い息遣いと、最初に聞こえたすすり泣くような声が聞こえた。
「やっぱり、人間って馬鹿ね」
「貴方も人間のようでしたよ」
「そう……」
興味を失って少女は立ち上がったようだった。ピシャリと泥を叩く足音がして、一歩ごとにそれは遠のいていく。やっぱり教えてくれないのかと男は思う。しかしそれでもよかった。彼の最後に見た少女の表情は年相応の女性のもので、確かに人間のものだったからだ。
何も見えなくなった。雨に逆らって昇ろうとする精神は風のように軽く、男はそれを心地よいと感じた。よかったと、もう一度男は動かない唇を無理矢理動かす。いい最期だと。最後に男の空は晴れ渡って──
「好き」
昇天しかけた精神は地に堕ちた。現実に引き戻される。痛みは消えてなんていない。雨は降り続いている。激痛に男はもだえ苦しむと共に、聞こえた筈の少女の言葉をもう一度聞きたかった。それは未練。無かったはずのその感情をたった一言で少女は蘇らせた。
好き。
もう一度言う。言いながらそっと男の頬に指を這わせる。体温を感じる機能は男の身体には残っていなかった。男に残るのは聴覚と触覚のみ。ただ少女の言葉をハイエナの様に求めてしまう。
好き。
耳元で囁くように。男の中で少女の表情は消えていた。装飾の無い単純すぎる言葉に表情を捉え切ることは出来なかった。
すき。
幼すぎてその意味を知らない子供の様に。
好き。
妖艶な美女の様に。
スキ。
憎しみを込めた呪いの言葉の様に。
止めてくれと、男は言いたかった。
最後に感じた貴方を壊さないでくれと。幸せだったはずの最期は既に形を失い、少女がスキと言葉を発する度に混沌としたものが彼の心中を支配する。それを発している口ははたしてひとりのものなのだろうか。言葉をかけているのは雨粒なのではないか。身体を叩くように、言葉が男を叩く。本来自身を肯定する筈の言葉が男に恐怖を与える。
止めてくれ。
男の願いが聞こえているかのようだった。あざ笑うようにスキと繰り返しながら少女の指は男をなぞって行く。首、胸、腰。全てを理解しようとするその動きを男は理解できず、されるままになるしかない。必死に言葉を紡ごうとする口元は震え続け、男は自分が恐怖していることに気付いた。
恐怖。
こわい。
やめて。
少女の枝のような細指は自分の膝にまで達した。それだけを男は感じた。このまま通り過ぎていけばこの時間は終わるのではないか、いやそうであってくれと、男は願い続けていた。しかしまたもそれを裏切り、少女の手は男の膝元で停止する。喉が詰まった。次にどんな恐怖を味あわされるか想像しただけで涙が零れた。それすらも雨は無かったことにした。少女の手に初めて微量な力が込められる。膝関節を支点として。
どうなるか、男はすぐに気付いた。
「スキ」
「──ぁ、」
音がする。骨が折られたという事実だけを男は感じた。麻酔にかけられたように痛み無く、足が一本丸々無くなった錯覚を覚えた。姿の見えない妖怪は留まること無くすぐさま逆の足に手をかける。今度の作業はひどくゆっくりで、どれほどまでの力を込めればその骨が折れてしまうか、そんな実験をしているような穏やかさがあった。またも痛みは無い。事実だけを、自分でも恐ろしいほど冷たい頭で理解した。
少女は男の身体を調べるように壊していく。それは確かに「スキ」という言葉が相応しいのかもしれない。好意は好奇心に繋がり、それは男が数分前まで持っていた感情だから。しかしそんなものはもう男には残されていなかった。
ただ、恐ろしい。
自分の知らない場所で自分が破壊されてゆく。既に肢体は無くなった。雨に喰らわれたように無くなっていた。それでも、思考する頭だけは残されていた。残された最後の機能を使って、男は思う。
あぁ、最初からこれがこの妖怪の本性だったのだ。彼女の幼子のような泣き声も、人間のような感情の変化も嘘だったのだと。全てはこの瞬間の為。ささやかな希望を否定することで絶望を与える為。くそ、なんて卑劣で薄汚い妖怪だ。地獄に堕ちろ。
死にたくない。こんなことで、こんな風になんて死にたくない。もう光のある世界なんて要らない。声だけでもいい。音だけでもいい。
ただ単純に、生きていたい。
「……いき、た──」
否定。妖怪は喋るなと口を塞ぐ。ついに妖怪の手は男の頭部に──最期に残された部分に達した。口の中に進入した指先は歯垢をなぞり、舌を引きずり出す。
「すき」
男は今度こそ言葉を失った。続けざまに聴力を失った。男は何も感じなくなった。
「好き」
男が最期に感じたのは、絶望と恐怖だけだった。
男を引き裂いている時に、パルスィはどのような表情をしていたのでしょうか。
愉悦に歪んでいたのか、泣いていたのか、それとも優しい微笑を浮かべていたのか……
作者様のこの追記には、かなり「異議アリ」ですね。
殺したパルスィと傍観していただけのさとり。罪を抱えながらも前向きに生きようとする
二人を私は祝福したいのであって、その前提が風化しているかのような表現をされると、
ちょっと納得出来ないなぁ。殺された人達も、完全な犬死のような気もしますしね。
単なる私の手前勝手な誤解であれば良いのですが。
そこが引っ掛かりましたか……
言われると素直になるほどと思ってしまう私です。
細かいところまで読み込んでくれる貴方に感謝を。
歯を食いしばって、震えそうな声で必死に……
はあ、ゾクゾクする
わたしたちはのところでなにかがピコーンと鳴った。