恋に裂かれ溢るる血潮に、毛筆を浸して此の文綴らん。
九寸五分の恋、杳窕の境に誘われるが、其の一。
例えば斯様な物語。
一.名も無き妖怪の文
「拝啓 紅葉の深まる時節、舞い散る落葉を眺め遣りながら、この文を貴方に向けて書いています。
貴方は如何お過ごしでしょうか。私は先述した通り、この文を書くのに夢中で他の事が手に付きません。と、云っても元々する事がないので、目的のある分、今の状態の方が幾らか好いようです。もう幾度となく書いた手紙ですが、これを最後にしたいと考えています。仮に納得出来ない駄文が完成してしまったら、これを機に貴方へ宛てて手紙は金輪際書かないと、自分の中に誓いを立てました。
尤も、そんな誓いを知るはずもない貴方には関係のない話なのでしょうが、何しろ手紙の勝手が判らないので、思った事を連綿と書き綴って行く事しか出来ないのです。もしもご迷惑と思われるのならば、すぐに破り去ってくれても構いません。元々関係のなかった者の手紙など、読む価値もないでしょう。そうする事が当然です。私は決して貴方の行為に傷付いたりして、身勝手な行動を起こしませんので、ご安心ください。
私はまだ生まれて間もない妖怪です。妖怪と称されるほどの力も持ちません。精々この手に生える鋭い爪で人を驚かす事ぐらいしか出来ないし、頭の上に生えた二つの耳も、妙に細い瞳孔のある両の目も、千里先の物事を察する訳ではありません。自分の体躯の倍はあろうかという岩石を砕く事も出来なければ、世界が止まって見えるほど速く動ける訳でもありません。本当に私はそこらに居る人間と変わらないのです。耳を隠し、爪を切れば、きっと人間にも私が妖怪だなどという事は信じられないに違いないでしょう。私はそれほどまでに特徴のない、云わば何故存在しているかも判らない妖怪なのです。
そんな私が何故、名も知らぬ貴方に手紙を書いているのか、まずはその経緯について話さなければなりません。私は貴方の姿も知っているし、声も聞いています。けれども貴方はきっと私の事など知ってはないでしょう。それが当然のはずなのです。私はこれまで直接的に貴方と関わった事は無いし、それどころか目にされるくらいに大胆な行動を起こしていないのですから。貴方にはこの青く澄み渡る秋晴れの空の下、一文字一文字に四苦八苦している私の事を、知る機会さえありません。臆病な私に出来る精一杯の行為が、この手紙なのです。貴方はそうして初めて、私という存在を知るのでしょう。
私は何処かも判らぬ森の中に生まれました。妖怪となる前、何をしていたのかは忘れてしまいました。しかし、頭の上で頻りに動く耳と、尻の少し上の辺りから伸びる尾を見るに、猫だっただろうとは思います。そうして大事に飼われていただろうと思います。何故なら、鬱蒼と茂る仄暗い森の中に生まれた時から、私の首には一つの鈴が音を奏でていたのです。上質な皮を使って作られた首輪に、とても澄んだ音色を響かせる黄金の鈴が、生まれたばかりの私の鼓膜を絶えず叩いておりました。不思議とその音を聞くと心が安らぎます。それも、私がかつて幸せだった事を示す一つの証左だと思うのです。
右も左も判らず、それどころか道であるのかどうかも判らない森の中を、私は何も考えずに歩いていました。当時の私は衣服など身に付けていなかったので、幾ら夏と云えど薄ら寒い心持ちだった事を、今でも鮮明に思い出す事が出来ます。今思えばこれ以上にないくらいの恥は晒していたのでしょうが、当時は羞恥など感じる暇さえなかったので、仕方のない事だと割り切っています。どうか失望なさらないで下さい。生まれたばかりの私にとって、目にする物の全てが未知の物の如く思われてしまっていたのです。自らの身体などを見ている場合では有りませんでした。
私が自らを女だと自覚したのは、それから暫く経って、丁度木々がない開けた場所に差す陽光を浴びている時でした。ふと自分の身体に視線を落とすと、白い肌が陽光を受けて殊更白く見えるのです。脚は細く、まるで木の枝の如く頼りなく思われました。胸を触ってみれば、柔らかな弾力が手を弾き、丁度近くにあった水溜りに自分の姿を映してみると、そこにはくりくりと丸い目の中に、鋭く輝く瞳孔が徒に光を放っておりました。
これをどうして女だと判じたのかは、今を以て見ましても判りません。ただ普通の猫であった時の記憶の名残が残っていたのかも知れないと思います。でなければ世の中の何をも知り得ない私が、自らを女だと判じる事など出来るはずがありません。それどころか、目にする物の何一つとして判らないに違いありません。首輪に付いた鈴に、云い知れない安心感を抱く事もないでしょう。――と、私の事ばかりを書いても仕方がありません。どうかお許し下さい。私がこの手紙を書くという事は、右も左も判らない森の中を彷徨う事と同義なのです。
それから、私は森から脱出するに至りました。白光の照り付く太陽の下、荒れた道の真ん中で突っ立っていた心持ちがします。そうして宛てもなくふらふらと歩く内、一軒の建物を目にしたのです。その当時は文字など読めなかったので、その建物に掲げられた看板を読み解く事は出来ませんでしたが、後になってその看板に書かれているのは「こうりんどう」だと知りました。何故だかその文字を見た時に、私は鈴の音を聞いている時のような安らぎを感じました。
玄関の庇の下で立ち尽くす私は、その内中から聞こえて来た物音に驚いて、すぐさま近くの茂みに飛び込みました。そして茂みの合間から玄関の辺りを窺っていると、一人の男性が辺りを見回しながら出て来ました。それが貴方です。貴方は私が初めて目にした生物であり、男性でもありました。陽光を反射して煌めく銀の髪を風に靡かせながら、不思議そうな面持ちで辺りを見回す貴方を、私は未だに忘れていません。今思えば、それがこの手紙を書くに至った一番の理由かも知れませんが、その真偽を確かめるには私はあまりに幼過ぎました。
私は息を潜めて貴方を見詰めておりました。その横顔は妙に懐かしく、私の失われた記憶を擽り、飛び出して行きたい衝動を必死に我慢する事が、酷く難儀であった事を覚えています。けれども本能が人前に姿を現す事を拒みました。生まれたばかりの私にとって、動く物の全ては私の生命を脅かす外敵だと思われたのです。
貴方はそれから身を屈めて、地面に手を伸ばしました。見ると貴方が地面から拾い上げた物は、他ならぬ私の鈴でした。首元を手探りで探ってみると、そこにはあったはずの鈴がなく、つるつるとした皮の感触ばかりが感じられました。私は茂みの中で酷く焦燥感に苛まれました。あの鈴が無ければ生きていけないとまで思いました。それほどまでに、私にとってあの鈴は大事なものだったのです。生まれた時から持っていたからか、その鈴が命であるかの如く思われました。
私は今すぐにでも貴方に飛び掛かって、その鈴を取り戻そうかと悩みました。実際貴方がそのまま鈴を持ち帰ってしまったのなら、私は戸を突き破って貴方を襲っていたのかも知れません。けれども貴方はそうしませんでした。ただ暫時その鈴を見詰めた後、再び元あった地面にその鈴を置きました。私はその時の光景を鮮明に覚えております。まるで硝子細工を扱うかの如く、貴方は優しい手付きでその鈴を地面に置いたのです。
それが私にとってどんなに嬉しい事であったか、貴方は知りません。貴方のその行動は、私の命を救うのと同様のものです。まるで私自身が優しく扱われたかのように思われて、当時の私は酷く感動しました。けれども姿を見せるほどの勇気は出て来なかったので、貴方の姿が建物の中へと消えるまで、私は茂みの中に身を隠していました。私は貴方の気配を感じなくなった頃、漸く鈴を自らの首元に付け直す事が出来たのです。
それから私が貴方を再び目にしたのは、私がこの世の中を多少知った頃でした。衣服を手に入れ、言葉を知り、人間という生物を知りました。衣服などは勝手に拝借したものです。金など当然の如く持っていなかったので、偶然人里に辿り着いた時に一つの民家から盗ってしまいました。元々が猫だったようですから、そういった類の行為は得意だったようで、誰かに見付けられるという事もありませんでした。
貴方はそんな行いを咎めるでしょうか。私とて悪事であったという事は自覚しております。この服とて何時かは持ち主の元へと返す心積もりです。どうか幻滅なさらないで下さい。生まれたばかりで、その上世の中を知らなかった私には、そうする以外に方法が判らなかったのです。
そうして私はもう一度貴方を一目見ようと、かつて身を隠した茂みへと戻って来ました。その頃から私は貴方の虜となっていたのかも知れません。貴方と関われるぐらいの常識を得た私は、貴方に会いたいという一心でそこまで走ったのです。訳も判らず恋心も判らず、ただ感情の求めるままに走りました。貴方の元へと近付いている事が、疲労など忘れさせるくらいに嬉しく思われたほどです。
しかし、私は元来奥手な妖怪らしく、いざ貴方の住む建物の前に辿り着いても、突然訪問するほどの勇気が有りませんでした。来る日も来る日も、茂みの中から玄関を眺める毎日で、変化など起ころうはずがありません。そんな生活が変わったのは、私が茂みの中に身を隠し続けて三日三晩が経った頃でした。
私は貴方が見れるかも知れないと、場所を移動して香霖堂の縁側の正面へと遣って来ました。元々見通しの悪い森でしたから、私の姿は見えなかっただろうと思います。ともかく私はそこで、貴方の姿を見付け出しました。書見に浸りながらお茶を飲む姿を見て、何もせずぼんやりとしている姿を見て、私の心は満たされるようでした。私にはただそれだけで充分だったのです。それでも、貴方は私の心を奪って、そして決して返してはくれませんでした。
その頃から貴方の元へ二人の女性がよく通い出しました。紅白の巫女装束を着た黒髪の女性と、黒の三角帽子を被って、これもまた黒い衣服に身を包んだ金髪の女性です。私が居た場所からは、窓が開け放たれていたお陰で貴方の会話の内容も聞こえました。その時、紅白の女性がふと云ったのです。彼女は「何だか身を隠してこちらを見ている奴が居る」と云いました。すぐさまそれが私だと気付きましたが、だからと云って逃げ出す事は出来ませんでした。どうしても貴方の反応が気になった事もありますが、何より動く事でその女性に見付かる事が、何より恐ろしかったのです。
それから、貴方は紅白の女性に「鈴の音を聞いたかい」と尋ねました。女性は「聞いたような気もする」と云いました。話題に上がっているのが私だという事にはすぐに気付いたし、貴方が鈴の事を尋ねた事にも驚きました。しかし、何より驚いたのは、女性の言葉を聞いた貴方が唐突に立ち上がって、少しその場から居なくなったと思ったら、手に何かを抱えて戻って来て、縁側に姿を現した事です。貴方は誰にともなく「食べると好い」と云いました。そして手に持った何かを適当な場所に置くと、また家の中へ戻って行きました。目を凝らして見てみると、貴方が置いて行ったのは美味しそうな料理で、それが私の為に作られた物だと思うと、嬉しくて堪りませんでした。
何故私に、とは無論思いましたが、その時浮かれていた私にそんな考えが何時までも残るはずがなく、私は一人茂みの中でにやつく顔を抑えるので精一杯でした。感謝の言葉を何度も何度も心中の中に呟いて、家の中で談笑している貴方の横顔を見ては、涙ぐんでしまうほどの随喜に浸りました。――それからというもの、貴方は毎日同じ時間同じ場所に、料理を置いて行きます。私はそれを口にする度、心の底から溢れる気持ちに押し潰されそうになりました。それが恋という感情だと気が付いたのはつい最近ですが、貴方からすれば迷惑な事かも知れません。
何故貴方が私にそこまでしてくれるのか、これを書いている今も不思議に思っています。それを確かめたいという理由も、この手紙には含まれていますが、結局これを貴方に渡す事が出来るかどうかも判らないので、やはり私は無い知恵を必死に振り絞りながら、全身全霊を込めた言葉を此処に書くより他ありません。手紙を書けるようになるまで文字を学んだ事も、全て私の溢れんばかりに膨れ上がったこの想いを告げたいと思ったからです。それでも最後の勇気が、あと少しという所で振り絞れないのです。
こんなにも滑稽な私を、貴方は笑うでしょうか。笑って下さっても構いません。むしろその方が気が楽かも知れません。たかが同情の一つを掛けられたぐらいで迷惑をかけるなと思われても構いません。私は私の想いを告げる為に書いたこの手紙を出せた時、貴方が迷惑を感じながら、それを我慢してこの手紙を読むのが一番辛いのです。なので、この手紙をもしも貴方に届ける事が出来て、貴方が迷惑に思った時には、冒頭に書いた通り破り去って下さい。
このような長々しい手紙を、多忙な貴方に送り付けるのは些か気の引ける思いがあります。また私は臆して、この手紙を誰も知らぬ所で破り去ってしまうのかも知れません。しかし、もしもこの手紙が貴方の元へ届いた暁には、ほんの少し、心の片隅でも構いません。貴方を想う私が居るという事を思い出して頂きたいのです。それが私の願いであり、至上の幸福です。それ以上は望みません。私は貴方にとって、矮小な存在でも好いのです。ただ、何時の日かこんな手紙が送られて来た事もあるな、と思い出せる程度の想い出になれれば、それに勝る幸福はありません。
それでは、これにて失礼致します。親愛なる貴方へ捧ぐ、名も無き野良猫の妖怪の手紙はこれで終わりです。もう二度と書かれる事はないでしょう。これが貴方の元に届いても、届かなくても、私の書く手紙はこれが最後なのだと、決めていました。手紙を引き裂く度に感じる痛みに、これ以上は耐えられません。恋心とは斯くも恐ろしいものでした。私の身体を容易に支配し、知らぬ間に心の奥に棲み付いていたのですから。」
二.香霖堂店主の文
「 拝啓 晩秋深く、色付いた葉が枯れ、散って行く様が明媚なこの時節、返事の手紙が送れてしまった事をお詫びしたい。最初に、僕の為に文字を覚えてまで書いた手紙に対して大変驚いたという事を明示する。また君が衣服を拝借した事などについては、いずれ直接話したいものだと思っているので、此処で多くは語るまい。
ところで、この返事が来る事は、君にとって予想の範疇にあったろうか。僕はそうは思わない。何故なら、この手紙を届けて来たのは天狗であったからだ。彼女は「可愛らしい子猫が、貴方に宛てて必死に書いた手紙です」と云って、君が書いた手紙を僕に渡した。恐らくは、目ざとい彼女に見付けられて、有無も云わせて貰えぬ内に、手紙を持って行かれてしまったのだろうとは思うが、もしも君にこの手紙を送る気概が無かったのなら、僕が書いたこの返事の手紙も破り去ってくれて構わない。
君の手紙に対する感想を書く前に、まずは昔話をしようと思う。然るべき経緯を経て、君の熱心な思いに僕は初めて応えられると考えている。根拠もない他者の言葉など信用するには値しない。それだから、僕はまずその根拠として昔話をする。もしかしたら君には関係のない話かも知れないし、ともすれば君を傷付ける結果になる事もあろうが、真摯な気持ちで僕に手紙を送った君への敬意を表して、僕は、この昔話をする。
昔、僕の経営する道具屋の入り口の戸を、夜も更けた頃に叩いた者が居た。僕は今に眠りへ就こうと思案している所だったから、無論迷惑だと思わぬ訳には行かなかったが、戸を叩く主があまりに執拗に大きく音を立てるので、文句の一つでも云ってやろうと思い立ち、業腹な心持ちで玄関に向かった。するとまだがんがん戸を鳴らしている。好い加減我慢の限界だ、と勢いよく戸を開けると、果たしてそこには二匹の猫が居た。
猫は二匹とも黄金の毛並みを持つ美しい猫だった。自分の数倍はある僕を見ても毅然とした態度を崩さないのが、印象的な猫だった。そうしてその猫は、口に小さな子猫を咥えていた。首根っこを優しく噛んで、ぐったりと項垂れる子猫は、見た目にも酷く衰弱しているようで、力なくにゃあと時折鳴くばかりだったが、親猫と思われる方は僕に助けでも求めているかの如く、何時までも僕の瞳を真直ぐに射抜いて来た。
ともすれば、化け猫とさえ思われるほど、その猫は尋常の域を脱していたが、そんな猫に興味を覚え、僕は身を屈めると猫に話し掛けた。確か「どうかしたかい」と尋ねた心持ちがする。車軸を回すかの如く酷い雨が降る日の事だったので、二匹の猫はずぶ濡れで、子猫ばかりでなく、親猫の方も衰弱しているようだった。親猫は子猫をそっと玄関に横たえさせると、鼻先で二三度突く。僕は猫の云いたい事をすぐに理解した。今にも力尽きてしまいそうなこの猫を、僕に救って欲しいと訴えているのだろう、僕はそう思い、二匹を抱えて家に上がると温かい布に二匹を包み、栄養となりそうなものを細かく砕き二匹に飲ませた。猫の世話の勝手など全く知り得なかったから、殆ど勘で動いていたようなものだったが、何とかそれが功を奏したとみえて、子猫の方は眠りに堕ちたようだった。
しかし、親の方は水分も栄養も取ろうとしなかった。最初の内は口に含み、飲み込もうとしていたようだったが、胃が食物の流入を拒絶するようで、何度も吐き出していた。礫のような雨粒を全身に受け、子猫を咥えて此処まで歩いて来た事で、既に体力は尽きていたのだろう。物を受け付けない胃と、刻一刻と時間が過ぎ行く度に光の弱くなる双眸が、死を想わせた。そうして、僕が本当にその親猫を恐ろしいと思ったのは、その猫が死を間際にしても何ら呻く事はなく、まるで僕に感謝の意を表すかの如く、恭しくその場に伏せている事だった。
親猫は既に自らの死を予感し、それに恐れを抱く事なく、今際の際まで子猫を助けた僕に向かって、その小さな頭を下げていたのだ。これには僕も酷く驚いた。既に尋常の猫ではない。化け猫の域にまで達した、高貴な猫だった。最初は単なる気紛れで二匹を助けたものだったが、何時からか――恐らくは親猫が静かに息を引き取った時であったのだろうと思う。その時から、僕は子猫の世話をして行かねばならぬ、一種使命感染みたものを覚えて、親猫の傍らで安らかに寝息を立てる子猫を、この恐ろしく高潔なる親猫の代りに守ってやろうと思ったのだ。
今思えば、僕がそんな心持ちになった事が不思議だが、あの親猫の尋常ならざる姿を思い出す度に、僕は感服してしまう。身を呈して子猫を僕の元へと送り届けた親猫の為に、何かをしてやろうと思い立ったのは、何も不思議な事ではないだろう。誰であれ他者の行為に感動し、共感する事はある。僕はそれをこの猫に感じたに過ぎない。その純朴で何より強い親愛の情が、猫であるからといって褪せる訳ではあるまい。あの瞬間、僕はあの猫に対してこれ以上になく感動し、敬服したのだ。
――しかし、そんな親猫に報いようと思う僕とは裏腹に、子猫は決して僕に懐こうとはしなかった。子猫が目を覚ました時には、既に親猫は息絶え、僕が埋葬した後だったから、殊更驚いたのかも知れない。そうして親猫の失踪の原因は僕にあるのだと子猫が判じても何らおかしくはない。僕は子猫の命を救ったと同時に、子猫にとって永遠の敵となってしまったのだ。抱き上げようとすれば噛み付き、餌をやれば頑なに拒む。当然その猫は衰弱して行った。
それで弱り切った僕は、一つ策を講じる事にした。知人には馬鹿にされたものだが、ある人物に「猫へ餌をやってくれないか」と頼んだのだ。元来捻くれた性格を持つ知人だから、先に書いたように馬鹿にされたが、知人は快くそれを引き受けた。すると子猫はがつがつと凄い勢いで餌を食べる。それを陰で見守っていた僕からすれば複雑な心持ちだったが
、一先ず講じた策は役立った。それからは僕が餌を用意し、知人が餌をやる毎日だった。
僕には猫に如何程の知能があるのかは判らない。けれども今は亡きあの親猫の姿は、生物の隔たりを超越するほど子の猫への愛情に満ちていた。全ての猫がそうである道理はないが、僕はあの親猫の子供である子猫が何かを感じてくれる事を祈り、一つ贈り物をした。名前と、一つの鈴である。元来客の来ない道具屋で、何事かをしている僕だから、暇潰しにと自作した鈴で、これは金箔で包んだ、森の木々の合間を縫って何処まででも届きそうなほど澄んだ音を響かせる、自慢の出来栄えだった。
死んだ親猫の愛情を生涯忘れぬようにと願をかけて作った鈴は、やはり知人に頼み付けて貰った。その日から僕の家の周辺には澄んだ鈴の音が始終響くようになった。結局子猫は僕に懐いてはくれなかったが、僕はそれで満足だった。ただ寿命を全うしてくれればそれで構わない、親猫に助けて貰った命を大切にして生きて欲しい、僕が子猫に望んだのはそれぐらいの事である。
そして数年が経ったある日、子猫は死んだ。鈴の音が一日中聞こえない日があって、不思議に思って辺りを探索すると、地面に横たわる一匹の猫が、病苦に責められる者の如く喘いでいた。最早処置の施せる状態ではなかった。医学の知識など僕は持ち得なかったし、子猫も迫る死を予感して、受け入れているかのように見えた。薄情な男だと思われても構わないが、本当に僕はその場で何もしなかったのだ。するべきでないと思った、というのは言訳に過ぎない。だからこの件に関して責められたとしても、僕は一向に構わない所存である。
子猫を看取る僕の姿は、きっと滑稽だったに違いない。その時の僕は横たわる猫を何時までも眺め続ける変人であったからだ。が、そんな変人にも筆舌に尽くし難い感情が胸に芽生えた。本当に何と形容して好いのか判らないので、この手紙にもその感情が姿を現す事はなかろうが、僕の記憶には色濃く残っている。僕はそれを決して忘れる事がないだろう。それほどまでに大きな感情であったのだ。
子猫は死ぬ間際、確かに僕を見上げた。地面に横たわりながら、首を必死に上げようと震えるその姿に、あの日頭を下げ続けた親猫の姿を思い出した。そして猫は僕に手招きするかの如く、愛らしい瞳を向けて潤ませて見せる。僕にはその様子が明らかに判った。まるで恋する者の如く切なげなその瞳に魅せられたと云っても過言ではない。それまで僕は、猫にこんな表情があるのか、など知る由もなかった。そして、子猫は差し出した僕の手の上に顎を乗せて、赤く小さな舌をぺろりと出すと、僕の手の平を舐め、再び僕を見上げて、弱々しくにゃあと鳴くと、全てを許された者の如く、安らかな様子で息を引き取った。
その時、――正にその時、僕は先刻書いた得体の知れぬ感情が心に芽生えた心持ちがした。昔日より今に至るまで、未だ解明されていないその感情は、今や過去の思い出となってしまったが、――きっとこの手紙が君に届く頃には判然とするのだろう。僕は子猫の亡き骸を親猫と同じ墓場に埋葬した。首には陽を受けて光る金の鈴がりんと鳴り、閉ざされた瞼の裏に何を想うのか、子猫は本当に安らかな表情で土の中の眠りに就いた。
あの時、子猫が僕に何を伝えようとしていたのかは、今以て判らない。子猫は僕を赦したのか、それとも子猫が僕に赦されたのか。今となっては知る由もないが、そうであれば僕らは幸せであったのだろう。僕が君を助ける理由を知りたいと君が欲したように、僕はその理由を知りたくてこの手紙を書いた。尤もそれが全てではないが、此処まで読めば、君も僕がこの昔話を通して何を云いたいのか、感付いた事だろうと思う。
あの日僕が作った唯一無二の鈴も、物陰からこっそりと僕を窺うその姿も、僕が作った餌を美味しそうに食べるその表情も、何一つ変わらない。君はあの日のまま、大事な事を忘れた状態で、この世界に生まれ落ちた。これが埋没した記憶を発掘する結果に繋がるのなら、僕は君に罵られようと構わない。岩石を砕く事も出来ないその腕の先に輝く鋭い爪で、喉を裂かれようと構わない。けれども、もし僕を赦してくれるのであれば、――否、これは書くべきではない。全ては君の意向次第であるし、僕が口を出すものでもないだろう。どうか誤解の無きように。何も赦されたくて僕はこの手紙を書いた訳ではないのだ。
最後に、僕の心中の片鱗を此処に記すと共に、先刻書きそびれた君の名を記す。尤も親でも飼い主でもない、全くの他人である僕が考えた名であるから、捨て置いても構わない。
君の名はりん、「鈴」と書き「りん」と読む。その意味は、親猫が僕へ託した君という存在を、君が何処に居ても判るように付けた鈴と合わせて、何時までも君がりんと鈴を鳴らせるように。
僕の心中は――これは書かないでおこう。元より書くべきではない。恋情に溢れる君の手紙を読んでおきながら、とんだ卑怯者だと思われるかも知れないが、僕の心中は既にこの手紙の中に浮き出ている。それを理解してくれた時、僕の心中は初めて暴かれる事になろう。」
――了
九寸五分の恋、杳窕の境に誘われるが、其の一。
例えば斯様な物語。
一.名も無き妖怪の文
「拝啓 紅葉の深まる時節、舞い散る落葉を眺め遣りながら、この文を貴方に向けて書いています。
貴方は如何お過ごしでしょうか。私は先述した通り、この文を書くのに夢中で他の事が手に付きません。と、云っても元々する事がないので、目的のある分、今の状態の方が幾らか好いようです。もう幾度となく書いた手紙ですが、これを最後にしたいと考えています。仮に納得出来ない駄文が完成してしまったら、これを機に貴方へ宛てて手紙は金輪際書かないと、自分の中に誓いを立てました。
尤も、そんな誓いを知るはずもない貴方には関係のない話なのでしょうが、何しろ手紙の勝手が判らないので、思った事を連綿と書き綴って行く事しか出来ないのです。もしもご迷惑と思われるのならば、すぐに破り去ってくれても構いません。元々関係のなかった者の手紙など、読む価値もないでしょう。そうする事が当然です。私は決して貴方の行為に傷付いたりして、身勝手な行動を起こしませんので、ご安心ください。
私はまだ生まれて間もない妖怪です。妖怪と称されるほどの力も持ちません。精々この手に生える鋭い爪で人を驚かす事ぐらいしか出来ないし、頭の上に生えた二つの耳も、妙に細い瞳孔のある両の目も、千里先の物事を察する訳ではありません。自分の体躯の倍はあろうかという岩石を砕く事も出来なければ、世界が止まって見えるほど速く動ける訳でもありません。本当に私はそこらに居る人間と変わらないのです。耳を隠し、爪を切れば、きっと人間にも私が妖怪だなどという事は信じられないに違いないでしょう。私はそれほどまでに特徴のない、云わば何故存在しているかも判らない妖怪なのです。
そんな私が何故、名も知らぬ貴方に手紙を書いているのか、まずはその経緯について話さなければなりません。私は貴方の姿も知っているし、声も聞いています。けれども貴方はきっと私の事など知ってはないでしょう。それが当然のはずなのです。私はこれまで直接的に貴方と関わった事は無いし、それどころか目にされるくらいに大胆な行動を起こしていないのですから。貴方にはこの青く澄み渡る秋晴れの空の下、一文字一文字に四苦八苦している私の事を、知る機会さえありません。臆病な私に出来る精一杯の行為が、この手紙なのです。貴方はそうして初めて、私という存在を知るのでしょう。
私は何処かも判らぬ森の中に生まれました。妖怪となる前、何をしていたのかは忘れてしまいました。しかし、頭の上で頻りに動く耳と、尻の少し上の辺りから伸びる尾を見るに、猫だっただろうとは思います。そうして大事に飼われていただろうと思います。何故なら、鬱蒼と茂る仄暗い森の中に生まれた時から、私の首には一つの鈴が音を奏でていたのです。上質な皮を使って作られた首輪に、とても澄んだ音色を響かせる黄金の鈴が、生まれたばかりの私の鼓膜を絶えず叩いておりました。不思議とその音を聞くと心が安らぎます。それも、私がかつて幸せだった事を示す一つの証左だと思うのです。
右も左も判らず、それどころか道であるのかどうかも判らない森の中を、私は何も考えずに歩いていました。当時の私は衣服など身に付けていなかったので、幾ら夏と云えど薄ら寒い心持ちだった事を、今でも鮮明に思い出す事が出来ます。今思えばこれ以上にないくらいの恥は晒していたのでしょうが、当時は羞恥など感じる暇さえなかったので、仕方のない事だと割り切っています。どうか失望なさらないで下さい。生まれたばかりの私にとって、目にする物の全てが未知の物の如く思われてしまっていたのです。自らの身体などを見ている場合では有りませんでした。
私が自らを女だと自覚したのは、それから暫く経って、丁度木々がない開けた場所に差す陽光を浴びている時でした。ふと自分の身体に視線を落とすと、白い肌が陽光を受けて殊更白く見えるのです。脚は細く、まるで木の枝の如く頼りなく思われました。胸を触ってみれば、柔らかな弾力が手を弾き、丁度近くにあった水溜りに自分の姿を映してみると、そこにはくりくりと丸い目の中に、鋭く輝く瞳孔が徒に光を放っておりました。
これをどうして女だと判じたのかは、今を以て見ましても判りません。ただ普通の猫であった時の記憶の名残が残っていたのかも知れないと思います。でなければ世の中の何をも知り得ない私が、自らを女だと判じる事など出来るはずがありません。それどころか、目にする物の何一つとして判らないに違いありません。首輪に付いた鈴に、云い知れない安心感を抱く事もないでしょう。――と、私の事ばかりを書いても仕方がありません。どうかお許し下さい。私がこの手紙を書くという事は、右も左も判らない森の中を彷徨う事と同義なのです。
それから、私は森から脱出するに至りました。白光の照り付く太陽の下、荒れた道の真ん中で突っ立っていた心持ちがします。そうして宛てもなくふらふらと歩く内、一軒の建物を目にしたのです。その当時は文字など読めなかったので、その建物に掲げられた看板を読み解く事は出来ませんでしたが、後になってその看板に書かれているのは「こうりんどう」だと知りました。何故だかその文字を見た時に、私は鈴の音を聞いている時のような安らぎを感じました。
玄関の庇の下で立ち尽くす私は、その内中から聞こえて来た物音に驚いて、すぐさま近くの茂みに飛び込みました。そして茂みの合間から玄関の辺りを窺っていると、一人の男性が辺りを見回しながら出て来ました。それが貴方です。貴方は私が初めて目にした生物であり、男性でもありました。陽光を反射して煌めく銀の髪を風に靡かせながら、不思議そうな面持ちで辺りを見回す貴方を、私は未だに忘れていません。今思えば、それがこの手紙を書くに至った一番の理由かも知れませんが、その真偽を確かめるには私はあまりに幼過ぎました。
私は息を潜めて貴方を見詰めておりました。その横顔は妙に懐かしく、私の失われた記憶を擽り、飛び出して行きたい衝動を必死に我慢する事が、酷く難儀であった事を覚えています。けれども本能が人前に姿を現す事を拒みました。生まれたばかりの私にとって、動く物の全ては私の生命を脅かす外敵だと思われたのです。
貴方はそれから身を屈めて、地面に手を伸ばしました。見ると貴方が地面から拾い上げた物は、他ならぬ私の鈴でした。首元を手探りで探ってみると、そこにはあったはずの鈴がなく、つるつるとした皮の感触ばかりが感じられました。私は茂みの中で酷く焦燥感に苛まれました。あの鈴が無ければ生きていけないとまで思いました。それほどまでに、私にとってあの鈴は大事なものだったのです。生まれた時から持っていたからか、その鈴が命であるかの如く思われました。
私は今すぐにでも貴方に飛び掛かって、その鈴を取り戻そうかと悩みました。実際貴方がそのまま鈴を持ち帰ってしまったのなら、私は戸を突き破って貴方を襲っていたのかも知れません。けれども貴方はそうしませんでした。ただ暫時その鈴を見詰めた後、再び元あった地面にその鈴を置きました。私はその時の光景を鮮明に覚えております。まるで硝子細工を扱うかの如く、貴方は優しい手付きでその鈴を地面に置いたのです。
それが私にとってどんなに嬉しい事であったか、貴方は知りません。貴方のその行動は、私の命を救うのと同様のものです。まるで私自身が優しく扱われたかのように思われて、当時の私は酷く感動しました。けれども姿を見せるほどの勇気は出て来なかったので、貴方の姿が建物の中へと消えるまで、私は茂みの中に身を隠していました。私は貴方の気配を感じなくなった頃、漸く鈴を自らの首元に付け直す事が出来たのです。
それから私が貴方を再び目にしたのは、私がこの世の中を多少知った頃でした。衣服を手に入れ、言葉を知り、人間という生物を知りました。衣服などは勝手に拝借したものです。金など当然の如く持っていなかったので、偶然人里に辿り着いた時に一つの民家から盗ってしまいました。元々が猫だったようですから、そういった類の行為は得意だったようで、誰かに見付けられるという事もありませんでした。
貴方はそんな行いを咎めるでしょうか。私とて悪事であったという事は自覚しております。この服とて何時かは持ち主の元へと返す心積もりです。どうか幻滅なさらないで下さい。生まれたばかりで、その上世の中を知らなかった私には、そうする以外に方法が判らなかったのです。
そうして私はもう一度貴方を一目見ようと、かつて身を隠した茂みへと戻って来ました。その頃から私は貴方の虜となっていたのかも知れません。貴方と関われるぐらいの常識を得た私は、貴方に会いたいという一心でそこまで走ったのです。訳も判らず恋心も判らず、ただ感情の求めるままに走りました。貴方の元へと近付いている事が、疲労など忘れさせるくらいに嬉しく思われたほどです。
しかし、私は元来奥手な妖怪らしく、いざ貴方の住む建物の前に辿り着いても、突然訪問するほどの勇気が有りませんでした。来る日も来る日も、茂みの中から玄関を眺める毎日で、変化など起ころうはずがありません。そんな生活が変わったのは、私が茂みの中に身を隠し続けて三日三晩が経った頃でした。
私は貴方が見れるかも知れないと、場所を移動して香霖堂の縁側の正面へと遣って来ました。元々見通しの悪い森でしたから、私の姿は見えなかっただろうと思います。ともかく私はそこで、貴方の姿を見付け出しました。書見に浸りながらお茶を飲む姿を見て、何もせずぼんやりとしている姿を見て、私の心は満たされるようでした。私にはただそれだけで充分だったのです。それでも、貴方は私の心を奪って、そして決して返してはくれませんでした。
その頃から貴方の元へ二人の女性がよく通い出しました。紅白の巫女装束を着た黒髪の女性と、黒の三角帽子を被って、これもまた黒い衣服に身を包んだ金髪の女性です。私が居た場所からは、窓が開け放たれていたお陰で貴方の会話の内容も聞こえました。その時、紅白の女性がふと云ったのです。彼女は「何だか身を隠してこちらを見ている奴が居る」と云いました。すぐさまそれが私だと気付きましたが、だからと云って逃げ出す事は出来ませんでした。どうしても貴方の反応が気になった事もありますが、何より動く事でその女性に見付かる事が、何より恐ろしかったのです。
それから、貴方は紅白の女性に「鈴の音を聞いたかい」と尋ねました。女性は「聞いたような気もする」と云いました。話題に上がっているのが私だという事にはすぐに気付いたし、貴方が鈴の事を尋ねた事にも驚きました。しかし、何より驚いたのは、女性の言葉を聞いた貴方が唐突に立ち上がって、少しその場から居なくなったと思ったら、手に何かを抱えて戻って来て、縁側に姿を現した事です。貴方は誰にともなく「食べると好い」と云いました。そして手に持った何かを適当な場所に置くと、また家の中へ戻って行きました。目を凝らして見てみると、貴方が置いて行ったのは美味しそうな料理で、それが私の為に作られた物だと思うと、嬉しくて堪りませんでした。
何故私に、とは無論思いましたが、その時浮かれていた私にそんな考えが何時までも残るはずがなく、私は一人茂みの中でにやつく顔を抑えるので精一杯でした。感謝の言葉を何度も何度も心中の中に呟いて、家の中で談笑している貴方の横顔を見ては、涙ぐんでしまうほどの随喜に浸りました。――それからというもの、貴方は毎日同じ時間同じ場所に、料理を置いて行きます。私はそれを口にする度、心の底から溢れる気持ちに押し潰されそうになりました。それが恋という感情だと気が付いたのはつい最近ですが、貴方からすれば迷惑な事かも知れません。
何故貴方が私にそこまでしてくれるのか、これを書いている今も不思議に思っています。それを確かめたいという理由も、この手紙には含まれていますが、結局これを貴方に渡す事が出来るかどうかも判らないので、やはり私は無い知恵を必死に振り絞りながら、全身全霊を込めた言葉を此処に書くより他ありません。手紙を書けるようになるまで文字を学んだ事も、全て私の溢れんばかりに膨れ上がったこの想いを告げたいと思ったからです。それでも最後の勇気が、あと少しという所で振り絞れないのです。
こんなにも滑稽な私を、貴方は笑うでしょうか。笑って下さっても構いません。むしろその方が気が楽かも知れません。たかが同情の一つを掛けられたぐらいで迷惑をかけるなと思われても構いません。私は私の想いを告げる為に書いたこの手紙を出せた時、貴方が迷惑を感じながら、それを我慢してこの手紙を読むのが一番辛いのです。なので、この手紙をもしも貴方に届ける事が出来て、貴方が迷惑に思った時には、冒頭に書いた通り破り去って下さい。
このような長々しい手紙を、多忙な貴方に送り付けるのは些か気の引ける思いがあります。また私は臆して、この手紙を誰も知らぬ所で破り去ってしまうのかも知れません。しかし、もしもこの手紙が貴方の元へ届いた暁には、ほんの少し、心の片隅でも構いません。貴方を想う私が居るという事を思い出して頂きたいのです。それが私の願いであり、至上の幸福です。それ以上は望みません。私は貴方にとって、矮小な存在でも好いのです。ただ、何時の日かこんな手紙が送られて来た事もあるな、と思い出せる程度の想い出になれれば、それに勝る幸福はありません。
それでは、これにて失礼致します。親愛なる貴方へ捧ぐ、名も無き野良猫の妖怪の手紙はこれで終わりです。もう二度と書かれる事はないでしょう。これが貴方の元に届いても、届かなくても、私の書く手紙はこれが最後なのだと、決めていました。手紙を引き裂く度に感じる痛みに、これ以上は耐えられません。恋心とは斯くも恐ろしいものでした。私の身体を容易に支配し、知らぬ間に心の奥に棲み付いていたのですから。」
二.香霖堂店主の文
「 拝啓 晩秋深く、色付いた葉が枯れ、散って行く様が明媚なこの時節、返事の手紙が送れてしまった事をお詫びしたい。最初に、僕の為に文字を覚えてまで書いた手紙に対して大変驚いたという事を明示する。また君が衣服を拝借した事などについては、いずれ直接話したいものだと思っているので、此処で多くは語るまい。
ところで、この返事が来る事は、君にとって予想の範疇にあったろうか。僕はそうは思わない。何故なら、この手紙を届けて来たのは天狗であったからだ。彼女は「可愛らしい子猫が、貴方に宛てて必死に書いた手紙です」と云って、君が書いた手紙を僕に渡した。恐らくは、目ざとい彼女に見付けられて、有無も云わせて貰えぬ内に、手紙を持って行かれてしまったのだろうとは思うが、もしも君にこの手紙を送る気概が無かったのなら、僕が書いたこの返事の手紙も破り去ってくれて構わない。
君の手紙に対する感想を書く前に、まずは昔話をしようと思う。然るべき経緯を経て、君の熱心な思いに僕は初めて応えられると考えている。根拠もない他者の言葉など信用するには値しない。それだから、僕はまずその根拠として昔話をする。もしかしたら君には関係のない話かも知れないし、ともすれば君を傷付ける結果になる事もあろうが、真摯な気持ちで僕に手紙を送った君への敬意を表して、僕は、この昔話をする。
昔、僕の経営する道具屋の入り口の戸を、夜も更けた頃に叩いた者が居た。僕は今に眠りへ就こうと思案している所だったから、無論迷惑だと思わぬ訳には行かなかったが、戸を叩く主があまりに執拗に大きく音を立てるので、文句の一つでも云ってやろうと思い立ち、業腹な心持ちで玄関に向かった。するとまだがんがん戸を鳴らしている。好い加減我慢の限界だ、と勢いよく戸を開けると、果たしてそこには二匹の猫が居た。
猫は二匹とも黄金の毛並みを持つ美しい猫だった。自分の数倍はある僕を見ても毅然とした態度を崩さないのが、印象的な猫だった。そうしてその猫は、口に小さな子猫を咥えていた。首根っこを優しく噛んで、ぐったりと項垂れる子猫は、見た目にも酷く衰弱しているようで、力なくにゃあと時折鳴くばかりだったが、親猫と思われる方は僕に助けでも求めているかの如く、何時までも僕の瞳を真直ぐに射抜いて来た。
ともすれば、化け猫とさえ思われるほど、その猫は尋常の域を脱していたが、そんな猫に興味を覚え、僕は身を屈めると猫に話し掛けた。確か「どうかしたかい」と尋ねた心持ちがする。車軸を回すかの如く酷い雨が降る日の事だったので、二匹の猫はずぶ濡れで、子猫ばかりでなく、親猫の方も衰弱しているようだった。親猫は子猫をそっと玄関に横たえさせると、鼻先で二三度突く。僕は猫の云いたい事をすぐに理解した。今にも力尽きてしまいそうなこの猫を、僕に救って欲しいと訴えているのだろう、僕はそう思い、二匹を抱えて家に上がると温かい布に二匹を包み、栄養となりそうなものを細かく砕き二匹に飲ませた。猫の世話の勝手など全く知り得なかったから、殆ど勘で動いていたようなものだったが、何とかそれが功を奏したとみえて、子猫の方は眠りに堕ちたようだった。
しかし、親の方は水分も栄養も取ろうとしなかった。最初の内は口に含み、飲み込もうとしていたようだったが、胃が食物の流入を拒絶するようで、何度も吐き出していた。礫のような雨粒を全身に受け、子猫を咥えて此処まで歩いて来た事で、既に体力は尽きていたのだろう。物を受け付けない胃と、刻一刻と時間が過ぎ行く度に光の弱くなる双眸が、死を想わせた。そうして、僕が本当にその親猫を恐ろしいと思ったのは、その猫が死を間際にしても何ら呻く事はなく、まるで僕に感謝の意を表すかの如く、恭しくその場に伏せている事だった。
親猫は既に自らの死を予感し、それに恐れを抱く事なく、今際の際まで子猫を助けた僕に向かって、その小さな頭を下げていたのだ。これには僕も酷く驚いた。既に尋常の猫ではない。化け猫の域にまで達した、高貴な猫だった。最初は単なる気紛れで二匹を助けたものだったが、何時からか――恐らくは親猫が静かに息を引き取った時であったのだろうと思う。その時から、僕は子猫の世話をして行かねばならぬ、一種使命感染みたものを覚えて、親猫の傍らで安らかに寝息を立てる子猫を、この恐ろしく高潔なる親猫の代りに守ってやろうと思ったのだ。
今思えば、僕がそんな心持ちになった事が不思議だが、あの親猫の尋常ならざる姿を思い出す度に、僕は感服してしまう。身を呈して子猫を僕の元へと送り届けた親猫の為に、何かをしてやろうと思い立ったのは、何も不思議な事ではないだろう。誰であれ他者の行為に感動し、共感する事はある。僕はそれをこの猫に感じたに過ぎない。その純朴で何より強い親愛の情が、猫であるからといって褪せる訳ではあるまい。あの瞬間、僕はあの猫に対してこれ以上になく感動し、敬服したのだ。
――しかし、そんな親猫に報いようと思う僕とは裏腹に、子猫は決して僕に懐こうとはしなかった。子猫が目を覚ました時には、既に親猫は息絶え、僕が埋葬した後だったから、殊更驚いたのかも知れない。そうして親猫の失踪の原因は僕にあるのだと子猫が判じても何らおかしくはない。僕は子猫の命を救ったと同時に、子猫にとって永遠の敵となってしまったのだ。抱き上げようとすれば噛み付き、餌をやれば頑なに拒む。当然その猫は衰弱して行った。
それで弱り切った僕は、一つ策を講じる事にした。知人には馬鹿にされたものだが、ある人物に「猫へ餌をやってくれないか」と頼んだのだ。元来捻くれた性格を持つ知人だから、先に書いたように馬鹿にされたが、知人は快くそれを引き受けた。すると子猫はがつがつと凄い勢いで餌を食べる。それを陰で見守っていた僕からすれば複雑な心持ちだったが
、一先ず講じた策は役立った。それからは僕が餌を用意し、知人が餌をやる毎日だった。
僕には猫に如何程の知能があるのかは判らない。けれども今は亡きあの親猫の姿は、生物の隔たりを超越するほど子の猫への愛情に満ちていた。全ての猫がそうである道理はないが、僕はあの親猫の子供である子猫が何かを感じてくれる事を祈り、一つ贈り物をした。名前と、一つの鈴である。元来客の来ない道具屋で、何事かをしている僕だから、暇潰しにと自作した鈴で、これは金箔で包んだ、森の木々の合間を縫って何処まででも届きそうなほど澄んだ音を響かせる、自慢の出来栄えだった。
死んだ親猫の愛情を生涯忘れぬようにと願をかけて作った鈴は、やはり知人に頼み付けて貰った。その日から僕の家の周辺には澄んだ鈴の音が始終響くようになった。結局子猫は僕に懐いてはくれなかったが、僕はそれで満足だった。ただ寿命を全うしてくれればそれで構わない、親猫に助けて貰った命を大切にして生きて欲しい、僕が子猫に望んだのはそれぐらいの事である。
そして数年が経ったある日、子猫は死んだ。鈴の音が一日中聞こえない日があって、不思議に思って辺りを探索すると、地面に横たわる一匹の猫が、病苦に責められる者の如く喘いでいた。最早処置の施せる状態ではなかった。医学の知識など僕は持ち得なかったし、子猫も迫る死を予感して、受け入れているかのように見えた。薄情な男だと思われても構わないが、本当に僕はその場で何もしなかったのだ。するべきでないと思った、というのは言訳に過ぎない。だからこの件に関して責められたとしても、僕は一向に構わない所存である。
子猫を看取る僕の姿は、きっと滑稽だったに違いない。その時の僕は横たわる猫を何時までも眺め続ける変人であったからだ。が、そんな変人にも筆舌に尽くし難い感情が胸に芽生えた。本当に何と形容して好いのか判らないので、この手紙にもその感情が姿を現す事はなかろうが、僕の記憶には色濃く残っている。僕はそれを決して忘れる事がないだろう。それほどまでに大きな感情であったのだ。
子猫は死ぬ間際、確かに僕を見上げた。地面に横たわりながら、首を必死に上げようと震えるその姿に、あの日頭を下げ続けた親猫の姿を思い出した。そして猫は僕に手招きするかの如く、愛らしい瞳を向けて潤ませて見せる。僕にはその様子が明らかに判った。まるで恋する者の如く切なげなその瞳に魅せられたと云っても過言ではない。それまで僕は、猫にこんな表情があるのか、など知る由もなかった。そして、子猫は差し出した僕の手の上に顎を乗せて、赤く小さな舌をぺろりと出すと、僕の手の平を舐め、再び僕を見上げて、弱々しくにゃあと鳴くと、全てを許された者の如く、安らかな様子で息を引き取った。
その時、――正にその時、僕は先刻書いた得体の知れぬ感情が心に芽生えた心持ちがした。昔日より今に至るまで、未だ解明されていないその感情は、今や過去の思い出となってしまったが、――きっとこの手紙が君に届く頃には判然とするのだろう。僕は子猫の亡き骸を親猫と同じ墓場に埋葬した。首には陽を受けて光る金の鈴がりんと鳴り、閉ざされた瞼の裏に何を想うのか、子猫は本当に安らかな表情で土の中の眠りに就いた。
あの時、子猫が僕に何を伝えようとしていたのかは、今以て判らない。子猫は僕を赦したのか、それとも子猫が僕に赦されたのか。今となっては知る由もないが、そうであれば僕らは幸せであったのだろう。僕が君を助ける理由を知りたいと君が欲したように、僕はその理由を知りたくてこの手紙を書いた。尤もそれが全てではないが、此処まで読めば、君も僕がこの昔話を通して何を云いたいのか、感付いた事だろうと思う。
あの日僕が作った唯一無二の鈴も、物陰からこっそりと僕を窺うその姿も、僕が作った餌を美味しそうに食べるその表情も、何一つ変わらない。君はあの日のまま、大事な事を忘れた状態で、この世界に生まれ落ちた。これが埋没した記憶を発掘する結果に繋がるのなら、僕は君に罵られようと構わない。岩石を砕く事も出来ないその腕の先に輝く鋭い爪で、喉を裂かれようと構わない。けれども、もし僕を赦してくれるのであれば、――否、これは書くべきではない。全ては君の意向次第であるし、僕が口を出すものでもないだろう。どうか誤解の無きように。何も赦されたくて僕はこの手紙を書いた訳ではないのだ。
最後に、僕の心中の片鱗を此処に記すと共に、先刻書きそびれた君の名を記す。尤も親でも飼い主でもない、全くの他人である僕が考えた名であるから、捨て置いても構わない。
君の名はりん、「鈴」と書き「りん」と読む。その意味は、親猫が僕へ託した君という存在を、君が何処に居ても判るように付けた鈴と合わせて、何時までも君がりんと鈴を鳴らせるように。
僕の心中は――これは書かないでおこう。元より書くべきではない。恋情に溢れる君の手紙を読んでおきながら、とんだ卑怯者だと思われるかも知れないが、僕の心中は既にこの手紙の中に浮き出ている。それを理解してくれた時、僕の心中は初めて暴かれる事になろう。」
――了
熱くなく、冷たくなく、暖かい文だと思いました。
・・・・・・言葉で表せれないよ。彼らの気持ちは。
堪能いたしました。ありがとうございます。
暖かいような、でも切ない話でした。
手紙の言い回しもきれいで洗練されてました。
読み始めはtwinさんが以前投稿した「猫と香霖堂」の続編かなとも思いましたが、そうではないのですね。
あの作品の続きも読みたいです。
これ可笑しくないか?原作の流行する神の話で医者でも始めようかなと冗談めいたこと言ってたし
魔理沙や霊夢の病状見るだけの医学知識は持ち合わせてるいぞ。
手に負えなかったら竹林の医者に頼むと言ってるし。
twinさんらしい落ち着いた感じが大好きです
手紙の文面だけで綴られた文章も独特でいいものだと思いました
ただ最後のは少し蛇足に感じました
胸中に納めておくだけでもよかっと思います
ところで人間椅子思い出したのは俺だけかな?
心を込めた手紙というものは、ここまで心を揺さぶるものなんですね。
返事を読んだ猫妖怪が、ぼろぼろ鳴きながら手紙を胸に抱く様が目に浮かぶようです。
本文中に東方キャラの「名前」が一つも出てこないというのが、なんとも小憎い。
そりゃ、猫の名前と手紙の印象が強くなるってもんです。
ssを読んだ自分が癒されました。
時系列的に、紅白や黒白が生まれる数~数十年前の香霖堂なのかな。
それなら医学の知識を霖之助が習得してなくても納得です。
久しぶりに感想を書きなぐりたいssに出会えました。
ご馳走様でした。
最後の一文は蛇足かな