Coolier - 新生・東方創想話

「」の話

2010/10/02 11:50:49
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 「」はそこにいた。
 まばらに花を咲かせる野原の上に座り込んでいた。
 黄色の帽子と緑の衣服。オレンジ色の髪が映える少女の姿。
 それが「」だった。
 「」は、草原の上に三角座りして、夏の、深く青く晴れた空を物憂げに眺めていた。
 そうやって彼女は長い時間じっとしていたのだった。


  □


 ……自分は何をしているのだろうか?
 ふと疑問に思うが、答えは得られない。長い間、探していたけれど見つからなかったものだ。ずっと歩き回って、けれど欠片も判らなかったことだ。
 ――自分は自分自身が何者か判らないでいる。
 だから、「」、といった。
 無音、空白。影の無いもの。「」は、それを自分自身だと受け入れる。そうして「」は諦めていた。
 「」は諦めている。
 諦めている、ということは、以前は希望を持っていた、持つことの出来る可能性を持っていたということを意味する。
 その時は、様々な場所を歩き回った。
 人のいる里を歩いた。鬱蒼とした森の中をさまよったこともあったし、気の遠くなるほど延々と続く竹藪を歩き続けたこともあったし、多くの妖怪の住み着く山を登ったこともあった。
 かつての自分は何者かであったはずだと。
 記憶は無い。が、感覚が覚えている。
 名前には爽やかな響きがあった。
 口にする言葉には快活さがあった。動きには無邪気さがあった。
 そんな感覚がある。
 どれも今は持っていないものだ。
 それを探していた。ずっと探していたのだ。
 けれど見つからなかった。

「私は何なのだろうか? 私はどこにいるんだろうか?」

 呟いても答えてくれる者はいない。
 だから、いつの間にか、「」は自分の正体を探すことを止めた。
 それからというもの、日がな一日野原の上で座ったり寝たりして、無為に時間を過ごしていた。
 自分は何者でもない。
 諦めていれば、分からずに、歯痒い思いも焦りも抱かなくて済む。何の感情の起伏も得ずに、ただぼうっと時間を過ごす。
 それで良かった。
 悲しまなくて済んだから、それで良かった。


  □


 風が吹いた。
 季節は夏だった。生命力豊かに青々と茂る草木がそう教えてくれていた。
 けれど吹いた風は冷たさを含んでいた。
 ……そういえば、夜が来て、けれどすぐに朝が来る夏の雰囲気はもう消え去ってしまったように感じる。
 日が短くなって、月の軌道も随分と高くなった気がする。
 もうすぐ秋が来るのだろう。そう、「」は思った。
 夏が去っていく。
 これから秋がやって来て、そして冬が訪れるのだ。季節の流れがあるのだ。
 でも、自分の心は全く浮かない。
 季節の流れることに楽しみとか喜びとかそういうものを全く感じなくなっている。
 本当に秋が来るのだろうか。冬が来て生物が閉じこもり、後に芽吹く春が本当に実在するものなのだろうか。
 そして、自分にもその先があるのだろうか。
 分からない。覚えていない。
 きっと自分にはその先は無いんだろうな。
 このまま何も感じず、誰にも知られることなく消えて無くなるのだろう。自分自身にだけ感じる寂寥の気配がある。
 ……私には未来がないのだろうな。

「……あ」

 一層強い風が吹いた。
 先よりもずっと冷たく、生命の気配を奪っていくような横暴さを見せるものだ。
 私も奪われていくのだろうかと、何気なく思った。

「どうかな? 私、消えちゃうのかな」

 「」は尋ねる。
 その、風の答えは。

「……え?」

 思わず疑問の声を上げるほど、優しい風だった。
 そよ風は「」の肌を撫で、「」の耳に静かに囁く。背中を押してくれるような風の言葉は、まるで母が子に語りかけるような柔らかさで断続的に続いた。
 風は言っている。

「ぴゅっぴゅっ、ぴゅ~のぴゅ~」

 その言葉を、音を、口笛でなぞってみると何でもないものだった。
 けれど。
 ……何故か、頬に温かいような冷たいようなものを感じた。
 湿っているような感覚も付随する。
 「」は泣いていた。

「あれ?」

 どうしてだろうか、全て諦めて、感情など捨て切ったはずなのに。
 泣いている。
 私は、心の何処かではまだ諦めきれていないのだろうか。全てを捨て去ることを拒絶しているのだろうか。
 風は囃し立てるように私に吹きつける。
 まだ私に歩くように言っている。
 私は――。

「……イヤだ」

 このままじゃ、イヤだ。
 私は消えたくない。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。私はどこで間違ってしまったのだろうか。
 既に憶えていないことだ。忘れてしまったことだ。
 けれどそんなことはもう関係ない。
 私は、私自身を取り戻したい。

「くやしい……、くやしいよお……」

 このままでは諦め切れない。

「私は生きていたいよぉ……」

 季節の流れも全て関せず、何も感じずになどいられない。
 「」などと空白などと呼ばせない。私はここにいるのだ。
 私はまだ生きていたいのだ。



  □ □ □



 本当の自分はどこにいるのか。
 「」じゃない、確かに存在していた自分はどこに行ってしまったのだろうか。
 そう考え、探し歩いているうちに、一つの古風な館に辿り着いた。
 先までは日が見えていたはずだが、今は厚い雲に隠されてしまっている。おかげで辺りが暗い。それだけではなく辺りの空気は僅かに瘴気を含んでいるようにさえ思えた。

「その割には、辺りにたくさんの花が咲いているわ」

 門の外にも中にも多くの花があった。
 赤やら青やら、鮮やかな色で埋め尽くされているが、根を貼る大地の色は青ざめた毒々しい色をしている。
 ここには自分が踏み込んではいけないような危険な気配を感じる。

「けれど、何かあるような気がするのよね……」

 見ると、向日葵が群生している花壇があった。
 向日葵は太陽を探しているのか、皆一様に空を眺めていた。それはどこか虚ろな感じがあって、
 ……なんか嫌だな……。
 そう思って側を通りすぎようとした時。
 一輪の向日葵がこちらを見た。

「……?」

 向日葵が急にこちらを見るわけがない。
 そうは思ったが、けれど確かに振り向くような動きを見たような気がする。

「気のせい?」

 そう口にする。
 途端。
 向日葵の群が、一斉にこちらを見た。
 振り向くどころかこちらに身体を乗り出すような動きだ。じわりじわりと距離を詰めてきているようにも見えた。

「ひ、ひぃっ……!」

 声を上げて「」は駆け出した。
 向日葵から逃げるように。
 門をくぐってから随分と進んでいたため、逆戻りするよりも屋敷の方が近かった。だから「」はそうした。
 雲と同じように暗い色をした屋敷。何かおぞましいものを感じるが外にいるよりは幾分増しだろう。
 「」は門を開き、中に飛び込んだのだった。


  □


 屋敷の中は外見よりもずっと広く感じた。
 「」が歩く細長い空間は廊下だ。エントランスもよく見ず真っ直ぐに奥へ飛び込んだため、どうやって外に戻れるかも分からなかった。
 どこまで歩いても、何度角を曲がっても両側の壁に扉が付いている。窓があれば外にも出られるのだが。今は屋敷の中央部を歩いているらしかった。
 唯一の光源は天井に一定間隔で張り付いているシャンデリアの淡い光だ。床には赤の絨毯が敷き詰められており、一歩踏む度に足が沈み込む感覚があった。

「豪勢だ……」

 所々に見られる装飾は思わず嘆息してしまうほどに気品を感じるものだった。
 例えば扉は一見大した飾りが無いように見えるが、しかしその四隅には蔦花文様が施されている。東洋風、のように思えて、たまに扉の間隔に現れる塑像は聖母や天使を象っている。
 外観は洋風だっただろうか。どちらとも言えない和洋折衷といった感じだったように思う。
 屋敷の雰囲気はエキゾチックでありながらノスタルジックさを孕んでいた。一見するとゴシック式のようで、それよりもっと古い様式――例えばローマ風、ケルトのドルイド教式、ないしは異界風であるとか、あるいはそういう様式が幾つか互いに混じり合ったものとかが、代わる代わる姿を見せているように思えた。
 それを一言で表すと、

「よくわかんない場所」

 「」にとっては高尚過ぎて理解出来ない趣味だった。
 そうやって廊下を見て歩いているうちに、「」は開いている扉を見つけた。部屋から光が廊下に漏れてきていている。また、そこから声が聞こえてきていた。
 若い女性の声が言う。

「はあ、外で立ちっぱなしの仕事は辛いわね」

 それに対し、もう一つ、今度はより若い少女の声が答えた。

「そんなこといって、屋敷の門の番をするのがあなたの仕事でしょ」
「お茶の時間くらい休憩するものなの。――それより貴方こそ、湖の見張りをしてなくていいの? 誰かこっちに入ってきても知らないわよ」
「その言葉もそっくりそのまま返させてもらうわ」

 「」は扉から中を覗き見た。
 部屋の中には二つの影があった。会話通り、お茶をしている二人の少女の影。どちらも金髪の髪を流しており、幼く見える方は頭に白のリボン、背に悪魔の羽。もう一人は髪を横に巻いて丸く縁のついた帽子を被っており、外側に刃の付いた大仰な鎌を壁に立てかけていた。
 悪魔の羽を生やしている方が言葉を続けた。

「私は気付いたのよ。私が仕事をしているから、エリー、貴方にブランクが空いちゃうの。だから私が仕事をしなければ、貴方の腕が落ちることはないのよ」
「何を言っているのよ、くるみ。……まさかー、私の腕が落ちるわけないだろぉー」
「いつか人間に負けて、ブランクを言い訳にしたのは誰よ」

 二人はどうやらこの館の番をしていて、だが今は休憩中らしかった。
 ――そんな間抜けだから、私の侵入を許してしまうのだ。
 「」は思わずにやりとした。

「ねえ、くるみ」

 エリーと呼ばれていた少女が、奥にある窓の外を見遣って言った。

「この外の景色は、貴方の目にどう映るの?」
「突然どうしたの」
「……こんな風に貴方と二人きりで向かい合っていると、ふとセンチになることがあるのよ。――嗚呼、どうして私の正面に座っているのが――」

 一呼吸。

「――幽香様じゃないんだろう、って」
「突然どうしたの」
「今でもまだ、いろんな土地を渡り歩かれているんだろうなって。花を咲かせるにはこの場所は暗すぎだから」
「はあ……歩き疲れたらまた戻ってくるわよ。その時のためにこの館を守っていくのが私たちの役目でしょうに」
「それでもねえ……」

 エリーはぼんやりと外を眺め続けていた。
 くるみもつられてそうした。
 二人の間には何とも言えない沈黙が流れている。「」はそんな風に感じた。

「……きっと」
「なに? エリー」
「侵入者の一人や二人でも来ればいいのよ。何か新しい流れがあれば、このマンネリを打破できるはずなのよ」
「何よそれ。幽香様に迷惑をかけて気を引こうって魂胆なの? 我儘なの?」
「そういうわけじゃないわよ。第一、例え家屋が全壊してようが幽香様は気にかけることはないわよ」

 どんな主人だ。そう「」は思ったが、くるみが頷いているところを見るに二人にとってはそれが当然の認識らしい。

「ただ、私たちは変わらなくていいのかなって思ったのよ。私たちの主人が、季節に連れ添って土地を回って、時の移ろいを楽しんでいるというのにね。私たちはただ主人の帰りを待っているだけ」
「忠実忠実しくていいことじゃない」
「でもそれは停滞してるじゃない」

 「停滞?」、そう尋ねたくるみの言葉がまるで自分のもののように感じた。

「私たちは物質的じゃなくて精神的に存在しているものなの。だから感情の起伏を失い、停滞を得たとき、私たちは存在しないことと同じになるのよ」
「哲学の話?」
「かもしれない。けれど、もしも幽香様が帰って来なくなったら、私たちはすることがなくなって、きっと駄目になってしまうのよ」

 そうねえ、とくるみが相槌を打つ。

「自分もそうだけど、客観的に見て救いようがないくらい依存してるわね……」
「そうね。それで私たちの手元に何も残らなかったとき、私たちは存在する意味を失って――」
「失って――?」
「きっと消えてしまうのよ」

 その言葉に「」は、はっとした。
 「」はほんの少し前までぼんやりと過ごしていた。
 身体を動かすことも面倒になっていた。何かに意味を見つけることも無駄のように感じていた。
 それはエリーやくるみの話している内容に当てはまる。
 ――ああ、そうだ。
 私もそうなのだ。
 きっと私は消えてしまう直前だったのだ。そして今は、最後の悪足掻きをしているようなものなのだ。
 しかし、これが最後に与えられた絶好のチャンスとも言える。
 悪足掻きから這い上がれる可能性がある。私はまだ消えておらず、まだここに「いる」のだから。
 ならば彼女たちに加わろう。
 それがいい、と「」は思う。
 ――そうだ。自分が侵入者となるのはどうだろうか。私では力不足かもしれないが、けれども少なからず何かしらの意味を持つはずだ。そして彼女たちが己の役目を果たし、私は自らの存在を確認する。そうすることでお互いを保てる。
 素晴らしい発想だ。
 すぐにでも実行に移そう。
 「」は意を決し、身構えた。
 そして、

「そうだ。私は、ここにいる。それを示してやるんだ……!」

 部屋の中へと飛び込んだ。


  □


「私が、侵入者よ!」

 「」はエリーとくるみに向かい、高らかに宣言した。
 相対する二人の反応は。

「――」

 お互いの顔を見遣ったままだった。


  □


 ――何か間違っただろうか、この反応は?
 「」は分からなかった。二人に意図して無視されているのかも知れないと思った。

「こ、こらっ!」

 だから「」はもう一度、言う。

「私が侵入者だって言ってるのよ! あんたら、私を追い出さなくちゃいけないのよ!!」

 二度目の叫びだ。
 けれども、エリーとくるみはぼんやりと向かい合ったまま、気怠いお茶の時間を惰性で過ごしているままだ。
 ――まるで幽霊でも見ているみたいだ。
 様子を見ているだけでも気分が悪くなる。場に流れる空気が、沈黙が、とてつもなく重いものに思えた。

「なによっ! バカにして……っ!」

 「」は咄嗟にエリーの紅茶のカップをひったくった。
 それを一旦後ろに振り上げ、エリーに向かって投げつけてやる――。
 思い、動き、カップが最頂点に達したところで。

「あ……?」

 手の中からすっぽ抜けた。しっかりと握っていたはずなのに。
 振り上げられた加速度を持ったまま、カップは「」の後方へと飛び、天井に衝突。それから床へと落下してばらばらに砕けた。
 陶器の割れる音。
 ついでに残っていた中身が飛び散る音も付いた。
 ああ、さすがに不味ったかなあ、と「」は今更ながら後悔する。
 けれどそれも私を無視するのがいけないんだ、と開き直っておこう。
 さあ、二人の反応は。
 見る。
 エリーは立ち上がり、こちらを見た。

「あれ、私のカップが――」

 そう言って彼女は「」に向かって行き――その影を通り抜けた。
 え。
 「」の中に疑問の言葉が浮かぶ。けれどうまく言葉に出来ない。
 その間に、くるみもエリーの動きに追従した。

「なに? 何で急にカップが飛び跳ねたの?」

 あれ、と思う。
 くるみも、「」の立ち尽くす隣を「さも誰もいないかのように」横切った。
 エリーはカップの破片を拾い集めている。

「何が起きたんだろう……?」

 それは「」が一番に口にしたかった言葉に違いなかった。



  □ □ □



 「」はえも言われぬ気持ちになって屋敷を飛び出した。
 呼吸は乱れ、足が絡みつき、何度も転んだ。その度に遮二無二立ち上がって、また走りだした。
 まるで恐怖から逃げ出すように。いや、そのものだったのかも知れない。
 とにかく「」は走った。
 「」の耳には己の激しい呼吸音しか入ってこなかった。それだけが自分自身を確かめる調べだった。
 ――恐らくは、これも誰にも聞こえていないのだ。

「何でよっ!? 何で誰も「私」が判らないのっ!!」

 「」は今日何度目とも知れぬ叫びを放った。

「だって「私」はここにいる! 私は見ることも聞くことも出来る。同じ空間にいる!」

 けれど相手にはそうではなかった。
 「」の姿は誰にも分からなくなっていたのだ。

「何でよ……何でよぉ……っ」

 走った。
 「」は向日葵畑の合間の道にいた。
 手を伸ばせば群生している向日葵に触れられるほどに細い道だ。
 今、向日葵たちは「」を見ていない。どこか遠くを見ている。
 その様を「」は見た。

「ねえ、あんたらは私のことが見えないの!? さっきは私のことを見たじゃない!!」

「見なさいよ! 私のことを! ここまで騒ぎ喚いているんだから、鬱陶しいでしょう! 迷惑でしょう!」

「見なさい! こっちを、見ろっての!!」

「いいから見ろよぉお……!」

 向日葵たちは答えなかった。
 それぞれが思い思いの方向を見ていた。「」にとっては彼らが己と目を合わせないようにしているように思えた。
 彼らは一様に物憂げな表情をしていた。

「……ははは、あんたらはどこまでも私の言うことを聞く気がないのね」

 「」の声の響きは掠れていた。もう叫び疲れていた。
 それでもここにはいたくなかった「」は、また走り出した。
 ――帰ろう。
 どこへかは知らない。帰れる場所など覚えていない。
 ただ、元居た場所へ戻ろうという考えが頭を過ぎった。
 私はもう世界から消えてしまっている。私だけが認めていないだけで、世界はもう私を見捨ててしまったのだ。
 だから帰ろう。
 せめてもの安らぎを得られる場所へ。



  □ □ □



 ふらふらと当てもなく「」が歩いた先にあったのは、特に何もない開けた野原だった。
 どこか適当な、座り心地の良さそうな場所へどっかと座り込む。
 そして空を見上げた。
 抜けるような空があった。

「……ああ、ここは」

 本当に元居た場所ね。
 どれほどか分からないほど長い間、座って時間を過ごしていた場所でもある。
 ここでじっとしていれば、少しだけ気持ちが和らいだ。
 やがて、そよ風が吹き、僅かに草が揺れ擦れる音を響かせた。

「ん、ごめんね……」

 「」は誰にというわけでもなく呟く。

「私、私自身のことを見つけられなかった。私が何者なのか分からなかった。
 ごめんね。せっかく背中を押してくれたのに……」

 私は駄目だった。
 泣いていた。
 涙。
 もう自分の中に何も残っていない。
 空っぽの感覚だけがある。
 私はもう疲れ切ってしまってた。

「もう、いいかな……」

 私は頑張った。
 これだけ頑張ったんだから、もう休んでいいはずだ。
 それくらい許されてもいいだろう。

「頑張ったよね。私、辛かったけど頑張り抜いたよね」

 経過もあれど、具体的な結果は得られなかったけれど。
 でも、何故だろうか、異様な充実感だけが残っている。何かを悔いる気分はない。
 なるほど。私は、もういいんだろうな。

「もう、十分だよね――」

 言って、その場に横になった。
 草の中に頭が埋もれ、視界が緑に彩られる。
 大地に耳を付けて、呼吸を小さくする。
 何か聞こえたりはしないだろうか、なんて自らの思いに苦笑して。
 ――このまま消えていけるといいな――。
 そっと瞼を閉じた。












 鼓音。








 ひとつ。
 ……いや、ふたつ、みっつと続く。

「これは――……」

 心音だ。
 何かが大地の中で鼓動を響かせている。
 しかも、それは懐かしい響きだ。かつて何度も聞いたようなリズムがそこにある。
 「」はこの音をよく知っていた。他の何者よりもその音に馴染みがあった。
 それは。

「――私だ」

 「」の心音が、地の中から訥々と響いていた。


  □


 そうだ。
 「」の――私の身体はずっとここで眠っていたのだ。それを忘れて、精神だけがずっとさまよっていたのだ。

「私はここにいる」

 それを切っ掛けに、徐々に記憶が鮮明になってくる。
 かつて、まだ身体がちゃんとあった頃の話だ。
 ある日、ここを通りかかった巫女に襲いかかった。
 けれど逆に返り討ちにあってこの土地に封印されてしまった。
 そして、運が良かったのか悪かったのか、封印が甘かったために精神だけが抜け出して辺りをさまよい歩いていた。
 それも長い時間続いた。精神だけで生きる妖怪だ。肉体など精神の入れ物に過ぎないし、精神はそれだけで独立しても十分に動けた。
 ただ、器がなければその中身はこぼれていってしまうものだ。
 精神は少しずつ削がれ、記憶も、自分のあるべき姿も忘れてしまっていった。
 私の中からどんどん抜けだしていって、私は「」になってしまった。

「けれど、ここにはある!」

 器は鋳型だ。形さえあれば、中身は増やして満たせる。
 ならば、やってみせよう。
 後は、離れていたものが一つに戻るだけだ。
 手を伸ばすと、己の手は地面にしっかりと触れることが出来た。不意に紅茶のカップが持てなくなってしまったのには驚いたが、まだ自分の精神は失われていないらしい。

「行ける。――そして、取り戻す!」

 「」の手はがむしゃらに地面を掻いた。
 地中から聞こえる鼓動を目指して。
 さっきまで消えかかっていたような手だが、指先には痛みが走った。
 けれども幾ら痛くとも、血が滲もうとも止めるわけにはいかなかった。
 自分の存在がかかっているのだから。

「急がなくちゃ」

 「」は何度も何度も地を掻いた。
 小石の擦れる不快な音が聞こえたが気にしない。
 掻く度に、自分に近づいていっている感覚が私を捕らえていた。

 一掻き。

 私は妖怪だった。
 名も知れぬ野良妖怪だ。けれどもそれはそれで楽しい生活を送っていた。

 二掻き。

 私はバトンを持っていた。
 それを器用に回して踊りを踊っていたものだ。けれど今はそれはどこにも見当たらない。

 三掻き。

 私はそれなりに人間を脅かして楽しんでいた。
 巫女やその前に現れた魔法使いなんかは普段とは違っていた。だから遅れをとっても仕方がなかった。

 四掻き。

 痛い。
 あ、やだ、思い浮かばない。続けなきゃ。

 五掻き。
 六掻き。
 七掻き。
 ……もう数えていられない。
 何度もそれを繰り返した。そのうちに、少しずつであるが、地面が削れていくのが見て取れた。
 私は取り戻すんだ。
 その想いだけで腕が動いていた。

 幾掻き。
 幾掻き。

 私は――……。


  □


 気がつけば、日が暮れていた。
 昼から夕になったとか、そんな感覚は無かった。本当に、気が付いたら、夕という時間の中にいたのだ。
 もしかしたら一度夜を越えたのかもしれないし、それ以上の長い時間を掛けたような気がした。
 とにかく私は地面を掻いていた。
 一度掻くと一つのことを思い出した。それだけ私の身体の距離が近づいていた。
 例えば、私が妖怪だったことを思い出した。
 私がバトンを持っていたことを思い出した。
 私がそれなりに人間を脅かして楽しんでいたことを思い出した。
 あとは。
 何だっただろうか。
 駄目だ。考えると忘れてしまう。忘れる前に掻いて掘っていかないと。

「ねえ」

 私は問う。

「私の名前はなんだっけ?」

 分からない。
 名前は大切なものだ。そのものの本質を表す。存在を定義するものだ。
 だから名前がなくちゃいけない。
 なのに。

「どうして思い出せないの……!?」

 手は何度も地面を掻いた。もう手の平の深さほどは掘った。
 けれども、そこからちっとも進んでいない気がした。
 どうしてだろう。
 ふと、自分の手をじっと見てみる。
 ずっと掘っていた。血塗れで、もう感覚の無くなってしまっていた手だ。
 その手は。
 ……?

「あれ、ない」

 手首から先がすっかり無くなってしまっていた。
 腕の途中が透けて見えていた。
 腕の感覚は不確かで、掘った穴の中に腕を入れても何か滑るような感覚しか返ってこなかった。
 いったいどうなっているんだろうか。
 「」には考えられなかった。
 けれども必死に、その穴の中に腕を入れて地面を掻こうとして、でもそこをなぞることしか出来なかった。

「あれ、おっかしーなぁ……」

 何度やっても、穴の底はまったく削れる気配がない。

「これじゃあ、ぜんぜん掘れないよ……?」

 穴の中で腕をさまよわせているだけだ。
 穴は深くも広がりもしなくなった。そこには橙色の陽が遮られて黒い影を落としていた。「」にはその穴が実際に掘ったよりもずっと深いもののように思えた。

「掘れない。掘れないよ……何でだよお……」

 「」の腕の動きは次第に小さくなっていく。

「このままじゃ、私消えちゃうんだよぉ。だから、掘らなきゃいけないのに。なんで、なんで手がなくなちゃったのかなあ……」

 「」は穴の中から腕を引き抜いた。というには表現が相応しくない。
 実際には、腕が抜けた、というのが正しい。
 何故なら、「」の腕が肘から関節を無視した方向に折れたからだ。
 そして、折れた下腕はもう消えてなくなっていた。

「やだ……腕が、私の腕が、なくなっちゃった」

 ――これじゃあ穴を掘るなんてとても出来ない。
 じゃあ、どうすればいいんだろうか。
 他の誰かに助けを求めようか。だが、周りには誰いない。仮にいたとしても、自分の姿なんて見えやしないのだろうが。
 あ、そうだ。私にはまだ脚がある。
 そう思い、立ち上がろうとする。が、それは叶わなかった。
 「」の脚は無かった。

「――」

 どこへやってしまったのだろう。というよりは、いつの間になくなってしまっていたのだろう。
 もうだいぶ前には感覚がなかったから、もしかしたら手がなくなるよりも先に消えてしまったのかも知れない。
 もう身体を動かすのも自由に出来なくなっていた。
 ――これじゃあ、もう、どうにもすることなんでできないじゃないか。
 このまま完全に身体が消えるのを待つだけなのだろうか。
 そんなの――。

「――そんなの、やだよぉ……。もっと生きていたいよぉ」

 「」は声を上げることしか出来なかった。
 それすらも、もうすぐ出来なくなるような、そんな予感が纏わり付いて離れなかった。

「なんで、こんなの、いやなのにぃ……。私、消えたくないのにぃ……!
 誰か、助けてよお――」



  □ □ □



 その時、音が聞こえた。
 何か重量が、草を踏み折る音だ。
 それが何度か繰り返される。しかも、一回ずつこちらに近づいてくる。
 それは足音だ。
 誰かがこちらに近づいて来ているのだ。

「……誰?」

 「」は残った身体を動かして仰向けになった。
 それから首を回して足音の聞こえる方を見た。
 視界の中には少女の姿があった。
 白のブラウスに赤いチェックのベストを羽織った少女。ベストと同じ模様のスカートと、肩口まで伸びている緑のウェーブの髪が、風に優雅に靡いていた。
 彼女は「」の掘った穴の隣に屈んだ。ちょうど穴を挟んで「」の反対側だ。
 胸元でなびく黄色のリボンを見、次に彼女の顔に浮かんでいる柔和な笑みに目を奪われた。
 彼女がこちらを見ているのかこちらを見ているのか、それとも穴に目を落としているのかは判別付かなかった。
 ――何をしに来たのだろう。
 彼女は何も言わない。
 ただ、手の中にあるものを持っていた。
 それは小型のスコップ――園芸用こてだった。
 そして、彼女はそれで「」の穴をさらに掘り始めた。

「えっ?」

 穴を掘る音が連続する。
 彼女は黙々と地面を掘っている。「」の身体の眠るところへ。

「あなた、もしかして――私を助けてくれるの?」

 彼女は「」の問いには答えなかった。ただ地面を掘り続けているだけだ。
 聞こえなかったのだろうか。ただ、「」は諦めずに言葉を続けた。

「貴方の名前はなんて言うの?」

 名前。
 存在を確定させる名前。
 自分には無いものだ、と思う。
 けれど、彼女には確かにあるものだろう。
 それを問う。

「――私の名前は幽香っていうの」

 ――答えてくれた!
 ゆうか。ユウカ。幽香。
 「」はその名前を、音を反芻する。そして、さらに問うた。

「……ねえ、幽香――ええと、ちゃんかな。幽香ちゃん、あなたは一体何をしているの。どうしてそんなことをしているの?」
「私は、貴方に新しい生活の場所を与えようっていうだけよ。ただそれだけ」
「新しい、生活の場所?」

 ――それはここから私を救いだしてくれるという意味なのだろうか?
 ここから離れた場所へ連れて行ってくれるということなのだろうか。
 そして新しい私の存在する意味を与えてくれるというのなら。
 それは、とても幸せなことだと思った。

「ねえ」

 今度は幽香が先に言葉を作った。

「貴方の名前はなんて言うのかしら?」
「え……私? わたし……私の、名前は……」

 言い淀む。
 「」はまだ過去の名前を思い出せていない。だから、どのように答えればいいのか分からなかった。
 すると、彼女は悟ったように。

「そう」

 と言った。

「貴方の名前なら、ちゃんとあるわ。それはそれは綺麗な響きの名前がね――」

 彼女はそう言って、背中から何かを取り出した。
 それは高さ一尺ほどの小さな立て看板だ。それは全体が白で塗られていて、看板部に黒で文字が書かれていた。
 そこにあった文字列を、「」は読む。

「……『オレンジ』……」

 オレンジ。
 「」はその響きに馴染みがあった。
 ……当たり前だ。だってそれは、私がずっと探し求めた名前。
 私が訳も分からずに、失いそうになった名前そのものだ。

「そう――私の名前は――オレンジ」

 そうだ。
 私は空白でも、ましてや「」などではない。
 オレンジだ。
 オレンジという立派な名前があるんだ。

「私の名前は、オレンジっていうんだ!!」

 「」は、いや――オレンジは全てを思い出していた。
 己が生まれてから初めて見た風景を。
 ずっと過ごしてきた場所の匂いを。
 失われる前の自らの姿を。
 オレンジが喪失していたあらゆる全てが、オレンジの中を駆け巡っていった。
 そしてオレンジは、自分が地面の上に立っていることに気付いた。
 消えてなくなっていない。しっかりと自らの両足で、だ。
 さらには、失われていたはずの彼女の両腕も今でははっきりと見て取れた。
 オレンジの身体はすっかり元通りになっていた。

「やった……。やった、やったんだ! 私は全部思い出したんだ!
 ――有難う、幽香ちゃん! 幽香ちゃんのおかげで、全部元通りだよ……っ!」

 オレンジは歓喜に打ちひしがれていた。
 失っていたもののほとんどを取り戻せたから。

「あとは……あとは私の身体を掘り起こすだけだね!」
「そうね。これで貴方も元気にやっていけるわ」

 言って、幽香は背中からあるものを取り出した。
 それは、木だ。
 幽香の胸ほどの高さのまだ若い木だ。持ち運ぶために、根全体が丸められている。

「え、なにそれ」

 オレンジの疑問の声も聞かず、幽香はその木を丁寧に持ち上げ――。

「よっ、と」

 その根を穴の中に収めた。
 なるほど。オレンジが掘り、さらに幽香が掘り進めた穴は、その木の根を受け入れるのに十分な大きさだった。
 そして、幽香はその少し離れた位置に先の立て看板を刺した。
 『オレンジ』と書かれた立て看板を。

「さあ――これから貴方はここで育っていくのよ」
「待って幽香ちゃん」
「立派に根を張っていくことね」
「……ゆ、幽香ちゃん! 止めて! そんなことしたら私の身体がしんじゃうっ!」

 幽香は聞いていない。
 彼女はまた背中から――一体どこに隠せるスペースがあったのかはわからないが――如雨露を取り出し、木の根と穴の隙間に水を注ぎ始めた。
 そして一通り水やりを終えると、彼女は園芸用こてを手に取り、穴の隙間を土で埋め始めた。
 人はこの一連の流れを、植樹、と呼ぶ。

「これで良いわね」
「良くないよ!」

 抗議の声を上げ、オレンジは植樹された木を掴み取ろうとする。が、その手が触れることは無かった。
 オレンジの影は急激に密度を減少させていた。

「それじゃあね」

 穴の隙間も埋め終わり、幽香は植樹作業を終えてしまった。
 立ち上がって二度スカートを叩いて汚れを落とす。
 そして、彼女は踵を返した。

「待って、やめて! 駄目ぇ! 私しんじゃうっ!
 ギャグかも知れないけど止めてくれないと私ほんどうにじんじゃう゛ぅっ!! 幽香ちゃん! ぴゅっ、ぴゅっぴゅっ、ぴゅ~のぴゅ~っ! やめっ……ユ゛ウ゛カ゛チ゛ャ゛ン゛ッ゛!!」

 オレンジは必死に叫んだ。が、それに反して声はどんどん小さくなっていき、やがて彼女自身の耳にも聞こえなくなった。
 彼女の影は日が落ちると共に霧散してしまったのだった。



  □ □ □



 幽香は一人、向日葵の咲く丘を歩いていた。
 夜は人間は外を出歩かない。ここらに訪れる人間などいやしないだろう。
 人里も遠く、辺りを照らすのは月の光ばかりだった。夜気の冷たさはその月光によってもたらされたもののように思えた。
 幽香は空を見上げた。
 幾つもの星が瞬いている夜空を見ながら、つと。

「あのオレンジっていうのは、まあ、大丈夫なんじゃないかしら」

 本人は望んでいないようだったが。けれど、腐って形の崩れた己の身体に戻るよりはずっとマシでしょう。
 幽香は思う。
 妖怪は自分の存在を見失っては、消えてなくなってしまうものだ。適度に世話をしてやらなければ枯れてしまう。
 そう、花のように。
 花は生きる力を与えられて育つ。その力を与えられなかった、足りなかった弱い花は淘汰されてしまう定めだ。
 一輪の花を咲かせてやるには、自然では無慈悲過ぎる。
 だから世話をしてやらなければならない。
 そんなことをする物好きは、人間しかいないだろう。妖怪の存在を満たすのも、また人間だけだ。

「――だったら、私はどうなのだろう」

 私は花の世話もするし、それ以外の面倒も見た。でも、私は同時に妖怪でもある。
 そんな私は花か、それとも人間か。
 ――どちらかというわけではない。きっと自分は、そのどちらでもあるのだろう。
 だとしたら、私の花である部分を満たしてくれるものは一体何なのだろうか。
 それは私自身ではない。けれど人間でもない。
 きっとそれは――。
 幽香は、一つ頷く。

「ちょっと歩き疲れたかしら?」

 言って、幽香は再び歩き始めた。
 しっかりとした足取りは、どこか目的を定めた歩みだ。
 帰ろう。
 私にも根を張る場所があるのだ。
 それが私の花。でも私は花だけじゃなくて、人間でもあるから、やっぱり花の世話をしてやらなくちゃいけない。
 あの場所には、他にも花が咲いている。しばらく様子を見ていないが、きっとしおれていることだろう。
 それは私が面倒を見てやらなければならない。



「さて――干からびている花たちには水をくれてやらないとね」
 数日後。そこには夢幻館を元気に走り回るオレンジの木の姿が!
 幽香ちゃん!
じじじ
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コメント



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7.100名前が無い程度の能力削除
これはひどいwwwww
10.100名前が無い程度の能力削除
オレンジ主役って初めて見る
それだけでお腹いっぱいです
13.100名前が無い程度の能力削除
オレンジの実もたわわに実って……え?
そういう事ちゃう?
15.100名前が無い程度の能力削除
いつかオレンジは妖怪としての体を取り戻すような気がする
幽香さんの優しさがちょうどよくて心地よいお話だった