霧雨魔理沙の失敗は、いったいどこからはじまったのか。
奇妙なほどに目覚めのよい朝を迎えたところだろうか。そうでなければ彼女は、いつもより余裕のある午前の時間を、森の散策にあてずに済んだのではないか。
それとも、いつも歩いているコースから外れるという気まぐれを起こしたところか。
いや、そもそも彼女の好奇心が、愛らしくまるい瞳を輝かせなければよかったのではないだろうか。その大きな目が、ほとんど真っ黒な土にまみれたあの異物を照らさなければ……。
しかし、今更いったところで、なにができるというのだろう。
もはや、時間を巻き戻すことでもしない限り、この失敗はくつがえせないのだ。
魔理沙の自慢の視力は、異物をしっかりと捉えていた。そして彼女は、きわめて自然的な手つきでその代物を拾い上げた。
それは、魔理沙のちいさな手のひらにもすっぽりと収まる程度の大きさだった。
色は土よりも黒く、厚さがあまりない。手触りと重さはちょうど積み木のよう。
形こそただの四角形だが、見ているとどうも落ち着かず、くるりと角度を変え、ひし形にしてやるとしっくりきた。
そして、何気なしに魔理沙はその手をまるめた。
「わっ、なんだこりゃ」
黒いひし形はなんの抵抗もなく、魔理沙の手に押しつぶされた。
やわらかなものを握りつぶしたときの、指の隙間がぬれる嫌な感触はなかった。見ていなければ、つぶしたことにすら気付かなかっただろう。
魔理沙はまるめた自分の指をまじまじと見つめ、おそるおそる手を広げた。
◆
「黒いひし形の、なに? そんなのどこにあるっていうのよ」
「は?」
アリスの返答に、たっぷり時間をかけてから、魔理沙のくちびるは魅力的な円を描いた。
魔理沙の突き出された手には、しっかりとあの異物がはりついている。だが、アリスはその手をじっと見つめた後、気だるげに首をふった。
「まったく、今度はどんな思いつきなの? 悪だくみならよそでやってほしいわね」
アリスは素っ気ない声音をさせながら、丁寧な手つきで魔理沙のカップに二杯目を注いだ。
それを見て、魔理沙は自分の舌がすでに上質な紅茶で濡れていることを知った。
「待て、待ってくれ」
「べつに追い出したりなんてしないわよ」
アリスはいくらかほほ笑んだ。
普段の魔理沙ならここで頬をかたくさせただろう。アリスの返事や態度は、魔理沙の見ている方向とはまったく違ったものなのだから。
だが、いまの彼女にわけもなく叫ぶような余裕はない。視線は落ち着かず、辺りを何度もにらみつけた。
森でもなければ、自分の家でもない。ここはアリスの家だ。だが、なぜ、いつ、どうやって。
重くなる頭を必死に支えながら、魔理沙はなんとか言葉を継いだ。
「いや、違う。そうじゃない。なんだ、どうしてアリスがいるんだ」
「は?」
アリスのふっくらとしたくちびるが、わずかに歪んだ。
「私は、さっきまで森に、そうだ、外にいたんだ。なんで、私はここにいるんだよ。それに、あの拾いもののことをなんで知ってるんだ。私はいつ紅茶を」
「ちょっと、魔理沙。あなた、また確かめもしないでおかしなきのこを食べたんじゃないでしょうね。症状は記憶障害、幻覚、盗み癖……」
「私は正気だ!」
「ほら、やっぱり。素面でない人間はそんなことをいうものよ」
魔理沙はしばらく黙り込んだ。いま、口をひらけばなにが出てくるか、自分にもわからなかったからだ。
やがて、魔理沙はいった。
「……私は異常だ」
「正直者ね。ご褒美にあまいお薬をあげるわ」
アリスは口元に笑いをこぼしながら、席を立った。
その後ろ姿を眺めながら、魔理沙は紅茶を一気に飲みほした。
そして、窓をあけ放ち、そこから勢いよく飛びだった。ほうきの柄を力強く握りしめて。
◆
「あら、まだ帰ってなかったの?」
その言葉に魔理沙のくちびるは、先ほどの惚れ惚れするような円など見る影もないほどにねじまがった。
ぎりぎり、と筋肉のひしゃげる音が魔理沙の中を飛び交った。だが、彼女は少しも悲鳴をもらさなかった。
そんな魔理沙を見つめて、パチュリーは普段よりもおだやかな調子でいった。
「私には見えないし、そんなもの知らないのだから、自分で勝手に調べなさいとはいったけれど……あれからずっとやっていたのね」
パチュリーの話と自分の体の具合から、魔理沙はすぐに状況を察した。
彼女の体は夜通しの作業には慣れていたので、喉に綿のつまったような気持ち悪さにも文句はいわなかった。
だが、文句をいうべき相手は探さなければならない、と心に決めた。
「冗談かとも思ったけど、その様子だと本当のことみたいね」
「嘘なんてつかないぜ。私は正直者だからな。アリスにも正直だっていわれたし」
「おそらく、病か、呪いね。記憶の欠落、幻、手癖の悪さ、なんて内容は」
「ああ、まったくだ。だから、これ、借りていくぜ」
そういって、魔理沙はめぼしい本の数冊を持って、床におろしていた腰をあげた。
「待ちなさい」
パチュリーはぴしゃりといい放った。
相手の冷ややかな態度とは裏腹の、熱烈な視線がぴんと突き立てられる。
むらむらとこみあげる興奮を抑えるのに、魔理沙は苦労した。
「私も本当はしたくないんだけど、そういう病気なんだよ。笑って許せ」
「冗談じゃないわ」
魔理沙は、自分の背後にあるすさまじい熱量が、ぐんぐん上っていくのを感じた。
こういうときは気持ちよく、一戦やらかした方がずっといい。風邪だって、汗をたっぷり流せば治るじゃないか。
そう考え、魔理沙はふわりと浮きあがる。
そして、対峙するパチュリーにカードの枚数を宣言した。
◆
咲夜は感にたえないようにいった。
「あなたなら、むしろ喜びそうな気がしますけど」
三度目ともなると、さすがに手慣れてくる。今回はどうも話が見えず、魔理沙は落ち着いて、相手のいうままにまかせた。
「ときに人間は舌ではなく、脳で味わうものです。珍味とか、苦労の味とか」
「へえ」
「私はいつも美味しく頂いてますけどね。お嬢様のためですもの」
魔理沙には、相手がなんのことを話しているのか、ぼんやりとその形だけ予想がついた。
いまの自分が誰かと話すことなど、あのいまいましいひし形以外になにがあるというのだろう。
「もちろん、苦労を味わわずに済ませるのがいけないといってる訳じゃないわ。みんな、歩く速さは違うもの。目的地に早くたどり着きたいって人もいるでしょ?」
ここまでくると、大体わかる。
なるほど、と魔理沙は胸のうちでうなずいた。咲夜はあの代物がもたらす事態に、別の見方もあるといっているのだ。
研究時の家事や、苦痛だらけの頼まれごと、発見した魔術理論のわずらわしい論文作成、その他のあらゆる、やりたくはないがやらなければいけない物事を、苦労の味も意識せずに片づけることができる。
つまり、これからは美味しいところだけを楽しむことができるのだ。
肉ばかりでなく、野菜も食べなさいといわれることがない! これこそ本当の自由なのではないか、と魔理沙の目は輝いた。
「でも、たまには苦みも悪くないわよ。あなただって、コーヒーくらい飲むでしょ?」
「年に数えるほど。私は緑茶ですわ」
「苦いじゃない」
「いや、あんまり。霊夢のところのは薄いからな」
なんともおかしそうに、魔理沙はいった。
咲夜は笑わず、たんたんと話を続けた。
「それに得体が知れないなら、あまり頼らない方がいいんじゃない?」
「そうだな。そうかもしれない」
咲夜の懸念に、魔理沙はひとまず答えたが、その頭はすてきな同居人の活用法でいっぱいだった。
◆
「よし、成功だ!」
魔理沙は、なんとも手のこんでいそうな、牛と香草の料理の美味しさに手を叩いた。
材料を用意して、相棒と称したあの黒いひし形に念じるだけで、次の瞬間にはもうすばらしい夕食が用意されているのだ。
もちろん、これは自分のやったことだろうから、持っている以上の技量は使えない。だが、たいていの料理というものは手間暇をかければ味も増すというもので、その一番苦心するところを省いてやることができるのだから、美味しさもまた何倍以上にもなるのだった。
「これはいいな。いい拾いものだ」
あらためて、魔理沙は褒め称えた。
黒いひし形は、変わらず魔理沙の手のひらに、ひっそりとはりついている。しかし、手の感触に落ち着かないということはなく、その代物を目にしてようやく意識するくらいだった。
この慎ましい相棒の存在に、魔理沙の心はそれからしばらく踊り続けた。
あるときは、報酬に見合った面倒な仕事を効率的に済ませるために。またあるときは、雑多な用事を一掃するために。
ときには、頭を悩ませる出来事に遭遇してしまい、判断する苦悩を遠ざけるために相棒に頼ったこともあった。
問題が理想的な形で解決されたかどうかは、重要ではない。その後のちょっとした始末にだけ、魔理沙は気にかければよかったのだ。
自分ほど人生を楽しんでいる奴はいないのではないか、とさえ考えることもあった。
それほどに、魔理沙は日々をおおいに楽しみ、味わい、面白おかしく過ごしたのだ。
◆
「魔理沙! あんた、また私の甘味をとったわね!」
「へ?」
霊夢は叫び、足をふみならした。
自室の掃除をするつもりだった魔理沙は、いま博麗神社の縁側に座っている。彼女はいっさいあわてずに、ああ、これは失敗したなと思った。
相棒はあくまで協力者であって、こちらの命令通りに動く式ではない。
意識せずとも時間をまたいだり、あるいは願った以上の飛距離を出してしまったりすることが、ままあったのだ。
しかし、願ったときには必ず答えてくれる。魔理沙が相棒と付き合って以来、これは絶対だった。
「ちょっと! ちゃんと聞いてるの」
「ああ、悪い悪い」
魔理沙は謝りながら、飛べと命じた。
◆
アリスとパチュリーがこちらに視線を向けている。
「ねえ、どっちなの?」
「こたえて、魔理沙」
逃げろ! いますぐ逃げろ!
魔理沙の意識はすぐにその場を立ち去った。
◆
「逃げるよ、魔理沙!」
チルノにすさまじい力で引っ張られる。
見慣れた湖の上空を二人は横切った。水面はゆれながら、大火につつまれる森を映し出していた。
肌がなめらかになるような涼しさはまったくなく、熱気があらゆる方向から吹いてくる。
「待て、ちょっと待て。なんだ、なにがあった」
魔理沙はあえぎながら、なんとか声をしぼりだした。
チルノは落ち着いた様子で、ふりかえらずにいった
「サニーたちが攻めてきた。でも大丈夫だよ。魔理沙はあたいが守るからね」
「攻める? なんだよ、お前らはなにやってるんだ」
「戦争に決まってるでしょ」
さっと魔理沙の顔に影がさした。
戦争? 妖精が? バカいうな、と魔理沙は叫びたかった。だが、木々が吐き出すどす黒い煙のにおいや、耳が痛くなるほどのおそろしくかん高いなにかの音が、彼女の舌をもつれさせた。
「大妖精と約束したからね。魔理沙は絶対、死なせないよ」
チルノはようやくふりかえった。
その顔つきは、魔理沙が見知った彼女の線をいくらかは残していた。
そのことが魔理沙にとって、おそろしかった。
その面影は間違いなく、自分の手の届く範囲にある。この悪夢が自分に追いつくのも時間の問題ではないか。彼女にはそう思えてならなかった。
飛べ! ここ以外ならどこだっていい! 飛んでくれ!
魔理沙はかつてないほど力強く、相棒に願った。
◆
霧雨家の葬列が映った。
ここもダメだ!
飛べ。
◆
首が痛くなるほどの津波が押し寄せる。
飛べ。
◆
皮膚が黒くなる流行り病の到来。
飛べ。
◆
飛べ。
◆
飛べ。
◆
飛べ。
◆
「そうだ!」
魔理沙は大きな輝く瞳で、あまりにも近すぎる太陽を見上げた。
太陽が落ちてくると判明してから、どのくらい経過しただろうか。その間、魔理沙は自室でうずくまり、相棒に願うこともせず、目蓋をおろして過ごしていた。
だが、突如として稲妻のようなひらめきが魔理沙の頭上におとずれた。
やはり、頼れるのはこの相棒だ、と。
この代物は、時間を捨て去ることができるのだ。ならば、時間を拾うこともできるのではないか。
その思いつきは、魔理沙の体のすみずみに活力を送り込んだ。
時間を飛び越えることができるのだ。いままでは、ずっと先の方にしか目を向けていなかった。今度はふりかえる。
ただ、それだけだ。できないわけがない。きっとそうだ!
やり直すんだ。魔理沙はくちびるをかみしめた。
相棒と生きるのは、ため息がつくほどに楽だった。だが、この代物はその働きに見合った報酬が必要なのだ。
忘れて久しい、苦労さえ楽しもうとしていた心を失ったことに、彼女はこのとき、ようやく気付いた。
だけど、まだ間に合う。魔理沙は自分に言い聞かせた。
あのときに。こいつを拾ってしまったときに。
「飛べ!」
魔理沙は手の中にある黒いひし形を握りしめた。
◆
魔理沙の自慢の視力は、手の中にある異物と、それから周囲の光景をしっかりと捉えていた。
「戻ったのか……そうだ、これはちょうど拾い上げたときの! 戻った。戻ったんだ!」
思いつきの成功に、魔理沙の大きな目はすぐにうるおいで満ちた。
「やった! やったんだ」
彼女の歓喜はとまらず、頬をゆっくりと湿らせた。きらきらと輝く視界には、未来の、そしてかつての相棒がいた。
散々利用しておいて、いまさら捨てるなど、という後ろめたさも魔理沙の中には確かにあった。
以前は、そんなわずらわしさを捨てていた。いまは違う。魔理沙にはその重さが心地よく感じられた。
これからだ。これから自分は、はじまるんだ。魔理沙の目つきは、かつてのきらめきをすっかり取り戻していた。
魔理沙は手の中にある黒いひし形を見つめる。懐かしさすら込み上げるその相棒に、彼女は別れを告げ、
その手をまるめた。
「え?」
『わっ、なんだこりゃ』
一拍遅れて聞こえる自分の声。意思の通じない自分の体。
わからなかった。彼女にはまったくわからない。
魔理沙はわからないまま――
◆
◆はよく使います。
すごいですね。アイディアに脱帽です。
あと・を縦に並べる方もいらっしゃいますな。
面白かったです。
結末が気に入らなかったり理解できなかったりして、そこで読むのをやめたり前のページに戻るのもよくあること。
なんら間違ったことではない。
間違っていたのは、彼女は読者ではなく登場人物であったこと。
決められている行動以外をとることは許されない。
にも関わらず彼女は結末を拒否してしまった。
こうして彼女は結末を拒否し続け、結末への過程のみを歩み続けることになってしまった。
いやはや怖いですね。
ちなみに自分は◇を横に三つ、間を空けて並べます。
いやはや着眼点が素晴らしい。メタとも違う不思議な不思議なお話でした
もう一捻り欲しかったなとも思ったけど、面白かったです。
ところで、菱形の発動条件って何なんでしょう?念じても移動するし、握っても移動するし。
個人的には飛ばされてしまった部分も気になるところです
面白かったです
最後は時間じゃなくて場面が戻っただけで、既に決められた物語は変わらないということですかね
======= や
☆★☆★☆★☆
のように、数個並べる系のほうをよく見かけるような気もしますね
文体にも若干の既視感が…?
レクイエムが発動したような
発想が面白かったです、参りました
考えれば考えるほどぞっとしない話です。面白かった!
日本のSFが好きな人なら、懐かしいネタを使ってくれるじゃないか♪とニヤリですし、こういうお話しを初めて読む人には衝撃を与えられる素敵なお話しでした!
小松左京や星新一風かなぁと最初読んだ時は思ったんですが、オチまで到達したらアウターゾーンって漫画の方がイメージは近い印象を受けました。
怖いですね
◆
なぜ最初のアリスとパチュリーのシーンで自覚症状が記憶障害、幻覚、それと『盗癖』なんですか?普段の盗癖をしらばっくれるために魔理沙が嘘を付いていると思ったんでしょうか。