,
私の妹、フランドール・スカーレットは気がふれている。
一般に『気がふれている』とは、どのようなことを言っているのか正確には知らない。
だが、私の妹が狂っているというのは確かなことなのだろう。
『情緒不安定』とも言う。
情緒不安定は、外の世界の言葉――精神医学とか言ったか――では全般性不安障害とも言われているらしい。どう名前が変わろうが、それが自分で喜怒哀楽をコントロールすることのできない病気であることは変わらないという。
――――――――病気。
フランは心の病気なのだろうか?
フランはとても優しい子だ。
違うというものもいるかもしれないが、私はそう信じている。この紅魔館の人間――少なくとも、比較的私の近くにいる人間はフランがどれだけ優しい良い子かをわかっているはずだ。私は自分のことを決して優しい吸血鬼だ、などとは思っていないが、フランは間違いなく優しい子だった。
しかし、なぜだろう――――
その優しい子には恐ろしい力が与えられていた。
そして、フランは心の病を課せられていた。
フランの魂には暗い運命がのしかかっていた。
フランは必死に隠しているが、そんなフランの姿は見るに耐えないものがあった。私はできるだけそれを見ないように、そしてフランを刺激しないように私室に閉じこもっていることしかできなかった。
私室でぬるくなった紅茶を飲みながら思う。
私は――――無力なのだろうか?
……………………………………………………………………………………。
私は咲夜を呼んで、紅茶のお代わりを求めた。
私は決心していた。
人の幸福が人それぞれならば、人の不幸もまた人それぞれだ。
495年の地下室の生活で私はそう結論付けていた。
100%幸福な人生などありえない、私は膨大な時間とその暇つぶしにかけるだけの読書の量、そしてほんのわずかしかない人生経験からそのことを学んでいた。
人生に満足できるかどうかは、その不幸に我慢できるかどうかによる。
幸福については……………………よくわからない。
満足のいく人生と幸福の関係は、私の10年にも満たない経験からは知ることができなかった。
それを知るのはいつになるのだろう。
………………………………………………………………。
それよりも私は今、自分の不幸――――目下の忌々しい問題にどう耐えなければならないかを考えなければならないようだった。
寝起きは最悪だった。
咲夜が来る前に私は目を覚ましていた。
目は冴えきっているが、体調は――――というより、心の調子は最悪だった。
胸がどきどきする。頭がぐらぐらする。
私はベッドから身体を起こした。
壁にかかっているカレンダーを見て、日付を確認する。
四、五日連続している日に赤線が引かれていた。
そうか……………………今日がその日か。
今日は赤線の最初の日だった。
経験からわかりきっていたことで、昨日の夜もそれを確認して眠ったが、まさか今日にその日が来るとは思わなかった。
私は自然と不機嫌になった。それが心の調子が狂っていることからくるのか、それともそれが意味する事実に気づいたからなのかはわからない。しかし、私は無意味な不機嫌さを感じているのは確かだった。
しかも、今日はいつもより一段と酷い気がした。
私は何も起こらないことをただ祈るばかりだった。
いや、違う。
私は何も起こさないことをひらすら願うしかなかった。
自分の右手を見る。
まだ何の『目』もない。魔力が緊張しているような気がするが、私の能力が発動しているということはなかった。
私はほっとして胸をなでおろした。
……………………今日は地下室に引きこもっていよう。
私は決心した。
もっとも――――
この決心がいつまで続くものかわからないけど。
はあ、とため息をついて、額に手をついたところで、コンコンとドアがノックされた。
人間にして時間の能力者――紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。
「フランお嬢様。起きていらっしゃいますか?」
私は咲夜の言葉に返事するかどうか、一瞬迷ったが、答えなくてもどうせ咲夜は私を起こしにくるのだった。なら、いつもどおりに返事したほうがいいだろう。咲夜に無駄な心配をかけたくないし。私はなるべく平静を装って、明るい声を出した。
「うん。起きてるよ、咲夜」
「失礼します」と声がかかり、ガチャリ、とドアが開いた。咲夜はドアを両手で慎ましやかに閉めると、優雅に一礼した。
「おはようございます、フランドールお嬢様」
「おはよう咲夜」
頭を上げた咲夜はいつもどおり、優しく微笑んでいた。私も咲夜の綺麗な笑顔に釣られて笑った――――自然に笑えたことに私は少し安心していた。
次の瞬間、咲夜の手には私の服が握られていた。私はベッドから起き出す。咲夜は私の前に立って、私の着替えを手伝ってくれた。
私の右腕にシャツの袖を通しながら、咲夜は訊いた。
「フランドールお嬢様、今日のご予定はどうなさいますか?」
「そうだね……………………どうしようか?」
答えは決まっているが、私は考える振りをした。うーんと首を唸って言う。
「今日は地下室にいようかな。たまには一人でぼんやりと考え事をするのもいいかもしれない」
「考え事ですか…………」
咲夜は小首を傾げた。
「フランお嬢様はどのようなことを考えられるのですか?」
「いろいろ考えるよ。パチュリーの喘息を治すにはどうしたらいいか、とか、美鈴の昼寝癖をやめさせるにはどうしたらいいか、とか、お姉さまが私のドロワーズを被るのをどうすれば止めさせられるか、とか、幻想郷を征服するにはどうしたらいいか、とか」
「最初と最後はともかく、真ん中の二つはきっと無理ですわ」
「そうだね。無理だね」
私と咲夜はそう言って笑いあった。咲夜は私のスカートのボタンをとめながら言った。
「今日はレミリアお嬢様がフランドールお嬢様をお茶に誘っていらっしゃいましたよ」
……………………………………………………………………………………。
「…………………………………………お姉さまが?」
「はい。最近あまりいっしょにお茶を飲んでいないから、お嬢様の私室に来て欲しいとおっしゃっていましたわ」
「…………………………………………そっか」
私の出した低い声に、咲夜は少し眉をゆがめた。そして、驚いたような、心配するような声を出した。
「…………お嫌なのですか?」
咲夜の声に私は慌てて手を振って答える。わたしは無理矢理に笑ってみせた。
「いや、そんなことないよ、咲夜。わかった。了解したよ」
咲夜はじっと私の顔を見ていたが、曇った顔は晴れなかった。
「……お具合でも悪いのですか?」
「いいや、大丈夫だよ。私は元気。だから、心配しないで」
私は自分の嘘が咲夜に信じてもらえることを願いながら、言った。我ながら演技が下手だなと思ったが、私は咲夜を何とか誤魔化さなければならなかった。咲夜はやはり案ずるような目をしていたが、やがて、「わかりました」と言ってくれた。
――結局、咲夜に迷惑をかけてしまった。
ごめんね、咲夜。
私は下手な演技で笑い続ける。成功しているかどうかはともかく、不機嫌そうな顔をしているよりはましだと思った。
それから咲夜は私の様子について触れることはなかった。相変わらずお姉さまの寝起きが悪いことや、お姉さまがが嫌だと駄々をこねることとか、美鈴が立ったまま昼寝をしていたことなどを話して私たちは笑い合った。
「それでは行きましょう、フランお嬢様」
そう言って、咲夜が手を差し出した。私も咲夜の手を掴もうと右腕を伸ばす。
その瞬間――――
私の右手に咲夜の『目』が見えた。
………………………………………………………………!!
私は思わず手を引っ込める。
もう一度右手を見ると、そこにはもう何もなかった。
手を急に引いてしまった私に咲夜は怪訝な顔をする。私はすぐに何でもなかったように咲夜の手を握った。咲夜はすぐに優しい笑顔を見せてくれたが、その笑顔には私の様子に疑問を感じているような陰があった。
私はそれに気づきながらも、しらを切り続ける。
私は何としても隠し通さなければならなかった。
いつもどおりでない私は咲夜と手を繋いで、いつもどおりのように食堂に行った。
食堂に向かう途中、私はいろいろなことを考えていた。
お姉さまの誘いを断るべきかどうか、断るとしたらどんな理由で断らなければならないのか、地下室でどうやって暇を潰すか。
お姉さまのお茶のお誘いは、いつもだったら喜んで受けているはずだった。だが、残念ながら、今の私は3秒後の行動にも責任をもつことができないのだ。咲夜に何でもないなどとは言わず、体調が悪いと伝えるべきだったのかもしれない。そうすれば、私は大義名分をもって堂々と引きこもることができたのだから。だが、そのときはそのときで、きっとお姉さまたちに心配をかけてしまうだろう。それだけでなく、お見舞いと称して、私の地下室にやってくることも考えられた。あんな逃げ場のない場所に来させるようなことは、できればしたくなかった。
……………………まあ、今のところは保留だ。ご飯を食べているうちに何か良い案が思いつくだろう。
地下室で暇を潰すのは……………………
朝食の帰りがけにパチュリーの図書館で本を借りていこう。
パチュリーや小悪魔に会う可能性はあるが、こっそり行けば気づかれないだろう。仮に出会ったとしても、忙しいから、と言って逃げればいいのだ。借りた本を破壊してしまう恐れもあったが、今の私は何かで頭を動かし続けていないと、とんでもない方向に思考が動き出してしまいそうで怖かった。
「あ、おはようございます…………」
廊下を掃除していた妖精メイドが私と咲夜に挨拶をした。どこか遠慮しているような声音だった。頬が少し緊張したように強張っていた。妖精メイドの挨拶に咲夜は微笑んで、私はできるだけにこやかに、おはよう、と返した。メイドは慌てたようにぺこりと頭を下げ、すぐに掃除に戻った。
妖精メイドたちの反応に私はもう慣れていた。というより、最初に比べればかなりよくなったほうだ。私が地下室から出てきた一年目、メイドたちは、まるで猛獣でもいるかのような目で私を見ていたものだ。紅魔館の中をよく知らなかったとき、道を聞こうとしただけで、あるメイドはガタガタと震えてその場にへたり込んでしまった。今、地下の生活から解放されてもう数年経つ。次第に妖精メイドたちも私が無闇に暴れることはないと知ったようで、私に対する態度はかなり柔らかくなっていた。だが、それでも、メイドたちはまだ私のことを怖がっているようだった。咲夜の話によると、彼女たちは無意識で私のことを恐れているのだと言う。彼女たちも本意ではないそうだ。
――――まあ……………………そうだろうね。
私は内心、ため息をついた。私も妖精メイドの立場だったら、きっとそうだったのだろう。
私は咲夜に気づかれないように自分の右手をちらっと見た。
こんな爆弾みたいなものの傍にいたいはずがないと思う。
実際、今の私はいつ爆発してもおかしくないのだから。
それでも――――
私はいつか彼女たちにも受け入れられる日が来るのだろうか?
私はぐらつく心で思った。自分でも壊れそうで危なっかしい心だけど、私はその心でそんなことを願った。
気づけば、咲夜が心配そうな顔で私を見下ろしていた。私が顔を上げると、咲夜は逃げるように視線を前に戻す。今度はこちらが咲夜の顔を見る。咲夜は何事もなかったかのように振舞っていた。私は何も咲夜に言うことができなかった。言ってあげることができなかった。
私と咲夜は黙って食堂まで歩いていた。
食堂で私はご飯を食べながら、考え事をしていた。お姉さまは先に食事をとったらしく、食堂にいるのは私だけだった。
調子は悪くなる一方だった。
具体的に言葉で表すことはできないが、確かに私はいつもの自分ではなくなっていた。
意識にいくつものフィルターがかけられた感じ。
考える自分とそれを感じる自分が離れていくような――――
自分が自分でなくなっていく、と言えばいいのかもしれないが、その言葉だけでは何か足りない。ただ、私は心の奥から何かたくさんの感情が自然と生まれてくる気配を感じていた。
とにかく部屋にこもろう。
私は改めてそう決心した。あの地下室は確かに495年もの間、私を閉じ込めてきたが、私にとって狂気からの逃げ場所であることも確かだった。今、私はあの地下室の存在に感謝していた。
私は心の病気なのだろう。
コケモモのジャムを塗ったトーストを齧りながら、私はそう思った。
私の心の病気は数ヶ月に一度、発作を起こしたように酷くなるのだった。普段もわずかながら心の片隅に何か悪いものがあるような感じがあるのだが、それも一日のうち、一人でぼーとしていたり、読書のときにたまに違和感を覚える程度のものだ。しかし、発作のときはそれとは比べ物にならないくらい、自分の全く知らない感情が洪水のように私の心に溢れだしていくのだった。
最初のときはもっと酷かった。一ヶ月に数度、その発作は起こった。地下室から出て暮らす時間が増えるにつれ、その発作は弱くなり、間隔もだんだんと長くなっていった。そして、その間隔が二、三ヶ月ほどに長くなったのは今年に入ってからだった。今回の発作を予期できたのは、発作が規則的になっていたことを考え、これまでの発作の時期から逆算して今日の日を割り出したからだった。
フランドール・スカーレットは気がふれている。
誰が言ったかは覚えていない。だが、この言葉が私の心に強く響いていた。その通りだと私は思う。私はこんなよくわからない出来損ないの心をもっているのだから。そんな心の持ち主が破壊の能力などという危険極まりない力をもっているのだ。私は地下に閉じ込められて当然だった。
私を地下室に閉じ込めるというお姉さまの判断は100パーセント正しかったのだ。
そう――――
正しかったのだ。
………………………………………………………………。
しかし、私の胸の中で暗い感情が積乱雲のように蠢いていた。理性が感情を押さえつけることができない。正しいとわかっていても、それを肯定しようとしない自分がいる。どこまで私は愚かなのか、とも思うが、ざわざわとした気分は一向に晴れる気配がなかった。
何なのだ、と思う。この気持ちは何なのだろう、と。
訳もわからず、何の原因もないのに、とても不安になり、いらいらしてしまうのはどうしてなのだろう。
すでに地下室の外に出て数年。しかし、その数年の間、発作に苦しみ続けても、私はその苦難の理由を知ることはできなかった。
私は咲夜の作ってくれた目玉焼きをかじる。
食事は美味しくなかった。いや、咲夜の作ってくれた料理だから、味はもちろんいいのだが、私の気分が受け付けようとしなかった。
いけない。こんなことばかり考えていると、ますます調子が悪くなる――――
とにかく、早く食べて、図書館へ向かおうとフォークを動かす手を早めようと思ったとき、
「あれ、フランドールお嬢様じゃないですか。こんな時間に食堂にいるなんて珍しい」
明るい声が聞こえた。顔を上げて確認する。
『龍』と書いた星がついた帽子、流れるような紅い髪、大陸風の服装――――門番長の紅美鈴だった。
美鈴はいつものにこにことした笑顔を私に向けていた。
「おはようございます」
美鈴は輝くような笑顔で私に挨拶した。私もできるだけ笑って――笑えているかどうかさえ怪しいが――おはよう、と答えた。
隣いいですか、と訊く美鈴にうなずく。ありがとうございます、と言って美鈴は私の隣の席に座った。
こんな時間に珍しい、という美鈴の言葉に私は食堂の壁にかかっている時計を確認した。
む。
考え事をしていたせいだろうか、朝ご飯を食べ始めてからもう一時間以上が経っていた。
時計を睨んでいると、咲夜が厨房から出てきた。咲夜は申し訳なさそうな顔で私に言った。
「申し訳ございません、フランドールお嬢様。次の仕事がありまして、この場を離れさせていただきます」
咲夜は私に深々と頭を下げた。私は慌てて咲夜に答えた。
「いや、ごめん、咲夜。こっちこそのんびりしすぎてた。自分で片付けるからいいよ」
「いえ、そんな、フランお嬢様に片づけをさせるなど……………………」
「あ、大丈夫ですよ、咲夜さん。ついでに私がやっておきますから」
私の言葉は咲夜をさらに困らせてしまったようだが、美鈴が助け舟を出してくれた。咲夜は美鈴の言葉に微笑み、「申し訳ないけど、お願いするわ」と言って、時間の能力を使って消えてしまった。
「ふむ」と美鈴が呟き、目の前の食事――咲夜が消える前に置いていったものだと思われる――に手をつけた。
「今、仕事終わったの、美鈴?」
「ええ、昨日の深夜から今日の今までです」
私の質問に美鈴はラーメンを啜りながら答えた。しかし、美鈴の食べる量はかなり多い。朝だと言うのに、ラーメンどんぶり一杯に皿に大盛りにされたチャーハン、野菜炒め、わかめの中華スープと、すごい量だった。夜勤だったからとはいえ、これは食べすぎなんじゃないだろうか?
「……そんなに食べて太らないの?」
私はおずおずと訊いたが、美鈴はにっこりとして言った。
「はい。門番隊の訓練もありますし、自らの修練もあります。私は摂取したカロリー分の運動は毎日していますから、太ることはありませんよ」
「まあ、元からこの身体は燃費が悪いんですけど」と、美鈴は舌を出して笑った。どんぶりの中のラーメンの汁を飲み干し、チャーハンに手をつける。おかしい…………。これだけしか喋っていない間にもうラーメンが消えている…………。私は美鈴の見事な食べっぷりを黙って横で見ていたが、その視線に気づいたのだろうか。美鈴は少し顔を赤くして言った。
「…………すみません、妹様。横でそう見られていると、なんか恥ずかしかったり……………………」
「あ、ごめん、美鈴」
私が慌てて頭を下げると、美鈴はチャーハンを米粒一つ残さず平らげて言った。
「いえ、こちらこそすいません。それはそうと、フラン様はもうお召し上がりになられないのですか?」
美鈴は私の前の食事を目だけで示した。そういえば、私は美鈴が席に着いてから一口も朝食を進めていなかった。
「あ、うん。今日はあんまり食欲がなくて」
「そうですか…………お体の具合でも悪いのですか?」
美鈴は野菜炒めをつまんでいた箸を置き、私の顔をまっすぐ見た。美鈴の意志の強そうな目が私の目を覗きこんでいた。私はたじろいでしまったが、やがて答えた。
「……ううん。そんなことないよ」
「そうですか? でも、何だか顔色が悪いですよ?」
美鈴は怪訝な顔をして首をひねった。周りから見ても私は調子悪そうに見えるんだろうか? 私は自分でも頬が引きつっているのを感じたが、無理に笑って、大丈夫だよ、と答えた。
「……………………そうですか? それならいいんですけど……」
美鈴は渋々といった感じで言い、野菜炒めに再び箸をつけた。美鈴の追及が済んだので、私はほっとしていた。しかし、美鈴はまた口を開いた。
「――――フランドール様はすぐ無理をなさいますからね」
美鈴はまた箸を止めて、真面目な顔で私の顔を見ていた。
「本当に吸血鬼の一族かと疑いたくなるくらい、フランドール様は遠慮なさるお方ですからね。レミリアお嬢様をごらんなさい。フランお嬢様も姉君のように、もう少し我が儘をおっしゃってもよいのですよ?」
よくあの悪ガキから、こんなよい妹様が育ったものだ、と美鈴は自分の言葉に一人でうなずいていた。前メイド長の美鈴は優しげに私に微笑みかけていた。
「常々思っていたことですが、フラン様は遠慮しすぎです。不必要なほどに遠慮なさるときがあります。臣下としては、もう少し私たちのことを頼っていただきたいのです。ですから、お悩み事があれば、何なりとこの美鈴にお話しください。決して不快になど思いませんゆえ」
美鈴はウインクして、にっこりと笑った。私は心の中が温かくなるのを感じていた。美鈴の言葉が素直に嬉しかった。
どうしようか。言ってしまおうか。
私は迷った。聞いてもらって解決できる問題ではないだろう。それどころか、怖がられたり、気味悪く思われたりするかもしれない。どんなものでも破壊してしまう私の能力は危険すぎる能力だった。その力の持ち主が暴走しそうになっていると聞けば、どう思うだろうか。
しかし、私は美鈴なら、告白してしまっても大丈夫な気がしたのだ。普段は暢気で昼寝ばかりしている美鈴だが、私は彼女が本当は聡明で忍耐強く、人の心の繊細さを理解できる人物であると知っている。美鈴なら、私の悩みを聞いてくれるかもしれない。確かに美鈴は私のために何もできないかもしれないが、私としては話を聞いてもらえるだけで気が楽になると思えたのだ。私は今、確かに救いの手が差し伸べられているように思えた。
「美鈴――――」
私は意を決して、口を開いた。美鈴が優しそうに微笑むのを見た。
だが、私は次の言葉を言う前に、自分の右手に魔力が集まっているのを感じていた。
まさか――――
恐る恐る私は自分の右手を一瞥した。
私の右手の上に美鈴の『目』があった。
悲鳴を上げそうになるのを私は必死で抑えた。全身が総毛立つのがわかった。私は急に椅子から立ち上がった。ガタン、と椅子が私が立った勢いで後ろに倒れた。
「フランドールお嬢様?」
美鈴が訝しげな顔で私を見ていた。私は荒くなる息を抑えて言った。
「…………やっぱり……………………いいよ」
私は美鈴に背を向ける。今すぐ私はここを去らなければならなかった。私は何としても美鈴から離れなければならないと思った。
「……自分で解決できるから………………大丈夫だよ」
私の言葉は嘘だった。とても自分で解決できるものではない。だが、嘘でもなんでもいい。とにかく偽らなければならなかった。自分が何かを壊す前に、騙さなくてはならなかった。しかし何を騙すんだ? 誰を騙すんだ? 美鈴を? 皆を? 世界を? 自分を?
「フランお嬢様……………………?」
美鈴が心配そうな声をかけた。私は混濁する思考の中で、その声を振り払った。
「ああ…………美鈴、私は大丈夫だから、心配しないで、ね? あ、それから、私、行かなくちゃいけないところができたから…………悪いけど、私の食器を片しておいてくれないかな?」
「フランお嬢様――」
「うるさいなぁ! 大丈夫だって言ってるでしょ!? 美鈴は黙っててよ!!」
美鈴の私を気遣ってくれる声を、私は怒鳴り声で切り捨てた。美鈴が息を呑む気配を感じる。私は美鈴に背を向け続けた。罪悪感が私の心臓を強く握り締めていた。とても美鈴の顔を見ることなんてできなかった。
私は倒れた椅子を戻すこともなく歩き出した。歩いていた足はやがて走り出し、私は食堂を飛び出した。
美鈴だけを食堂に残して。
何でこんなことになってるんだろう。
誰にも迷惑をかけたくないはずなのに、咲夜に迷惑をかけて。
誰にも意地悪したくないはずなのに、美鈴に意地悪をして。
ほんと、私は何をしているんだろう。
図書館の前で私は一人ため息をついていた。
このまま地下室に戻ろうかと思っていたのだが、なぜか私は図書館の前にいた。
まあ、いいだろう。パチュリーたちに見つからないようにすればいいだけだ。
私は図書館の扉を静かに開けた。わずかながらにギギギと扉が軋む。今の私の耳には、そんな微かな音もとてもうるさく聞こえていた。
パチュリーの机は扉のすぐ近くにあった。椅子は空席だった。ほっと胸を撫で下ろす。パチュリーは本を探しに行っているのか、不在だった。
こそこそと廊下を音を立てないように歩く。
まるで泥棒のようだった。泥棒は自分の存在を知られないように足音を潜める。私は自分の感情を知られないために息を潜める。隠し事をしているという点では私は泥棒と同じなのかもしれなかった。
魔法書の棚の前に来た。私も魔法の勉強をしている。パチュリーから授業を受けることもあった。最近は弾幕ごっこの研究をするために魔道書を読むことが多かった。
今日は別に弾幕ごっこについて考える気分ではなかったので、小説の棚に進んだ。
小説は外の世界のものばかりだった。幻想郷で印刷技術が進んだのは最近のことだ。妖怪の山ではすでに外の世界に近いレベルにまで進んでいるようだったが、それは今まで妖怪の山から公開されることはなかった。ここのところようやく妖怪の山の技術が人里にまで広まるようになり、幻想郷発の小説というものを見かけるようになった。だが、小説といえば、まだ外の世界の小説が主流だった。少なくとも、私は外の世界の小説ばかり読んでいた。
………………………………………………………………。
本は読もうと思ったときこそ、読む気が起こらなくなるときがある。脳が(吸血鬼には脳はないという話だけど)知識を求めているときこそ、なぜか本を読もうとすると、急にそれが煩わしくなったりする。ちょうどこのとき、私がそうだった。
何十分だろうか? ひょっとすると一時間くらい、私はずっと本棚と睨みあっていた。一つずつ本のタイトルを読んで歩いていこうかと思ったが、それでも自分の読みたそうな本は見つかりそうもなかった。
癪だが、諦めるか。
哲学の棚が近くにあったが、パスである。哲学は嫌いではなかったが、小説も読めないのに哲学の本など読めるわけがない。私はそう思い、もと来た道を戻ろうとして、図書館の扉の方を見た。
咲夜の後姿が見えた。
咲夜は扉を開くと、図書館から出て行った。
……………………………………………………………………………………。
どうしたんだろう。何か用事でもあったのだろうか?
まあ、咲夜は図書館に来ることもよくあるから、珍しくもなんともないのだが。
だが、このとき私は咲夜が図書館にいることがとても自分にとって不都合のように思えた。
…………………………………………行こう。
私は扉に向かって歩き出した。本を借りることはできなかったが、それも仕方ない。非生産的だが、今日は一日眠っていることにしよう。
このまま誰にも見つからないように地下室に帰れますように。
そう願いながら、あと十歩ほどで扉にたどり着けるくらいの距離になったとき、
「あら、妹様、いたの?」
図書館の主、紫の髪と目をもつ七曜の魔女――パチュリー・ノーレッジに声をかけられた。パチュリーは本を開いたまま、顔だけ上げて私を見ていた。私は唾を一度飲み込んだ。そして、強いて微笑み、パチュリーに挨拶した。
「うん。こんにちは、パチュリー。私が来たときいなかったから、勝手に上がらせてもらった。ごめんね」
「いえ、それは何の問題もないわ」
パチュリーはそう言って本に目を戻した。無事に帰れそうだと思い、扉に向かって一歩進んだとき、再び声がかかった。
「そういえば、妹様が私の図書館に来るのも久しぶりね」
「……………………そうかな」
「ええ。三日ぶりくらい」
「……………………たった三日じゃない」
「男子三日会わざれば刮目して見よ、というものよ」
「私もパチュリーも女の子でしょ?」
「まあ、細かいことはいいわ。たまには腰を落ち着けて話をしたいから私の隣に来なさい」
パチュリーは本に目を落としながら、自分のすぐ近くの椅子をぽんぽんと叩いた。私とパチュリーが女の子だということは決して細かいことではないと思ったが、私は黙って、パチュリーの示した椅子に座った。私が椅子に座ると、パチュリーは本から目を上げ、そして、驚くべきことに本を机の上に置き、私の正面を向いた。
パチュリーの紫色の瞳が私の目を見ていた。
その紫水晶のように透き通った目は、私の心の奥底すら見渡しているようだった。
「最近の調子はどう?」
パチュリーは知人にようやくわかるくらいに表情を和らげて言った。私は緊張していることを悟られないように気をつけながら、答えた。
「ぼちぼちだね。何も変わらないよ」
「そう? 私には最近の妹様は、確実に以前よりもずっと明るくなったように見えるけど?」
パチュリーの声は優しかった。
明るくなった――――、か。
いつもの私はどうなのだろう。
いつもの私、いつもの私……………………。
思い出せなかった。
時々、自分が何者なのかわからなくなるときがあるが、今まさにそうだった。発作が酷いとき、こんな風になることがある。どうやら、今、私が自覚している以上に自分の状態は悪化していたようだ。普段の私は確かにもっと笑っているのだろう。だが、そのことが自分のことのように思えなかった。確実に私の自我と狂気の境界が緩んでいるようだった。いつ暴走してもおかしくない、と私は思った。早く会話を切り上げて地下室に篭らないと。
私は自分でも薄っぺらいような笑いを顔に貼り付けて、パチュリーに言った。
「そうなのかな。そう言うパチュリーこそ、どう?」
「私かしら? そうね。最近魔理沙の泥棒も少ないし、喘息の調子も良いし、とても快適だわ。研究が少し悩んでいるところがあるけど、まあ、そんなの楽しみのうちね」
「へえ、それは重畳だね」
「おかげさまで、ね」
そうパチュリーが言ったとき、ボーンボーンと図書館の時計が鳴った。時刻は10時を指していた。
「あら、もうこんな時間かしら? 本を探すのに手間取りすぎたわね。そう言えば、レミィにお茶に呼ばれてるんだったわ」
あ、そうだ……………………。
私もお姉さまとの約束を思い出していた。
「10時半が約束だったわね。まあ、もう少しゆっくりしててもいいか」
パチュリーはそう一人呟くと、私を向いて訊いた。
「妹様も呼ばれているんだったわね」
「あ、うん。そういえば、私もお姉さまに呼ばれてるんだった……………………咲夜がさっき来てたのも、そのことを伝えに来たの?」
「ええ。見てたのかしら? その通りよ。レミィが妹様とお茶をするから、私もどうか、ってね」
私もレミィと一緒にお茶を飲むのは久しぶりね、五日ぶりかしら、とパチュリーは言いながら、机の上にあるコーヒーに口をつけた。一方、私は由来のわからない焦燥感を感じていた。パチュリーはコーヒーから口を離すと、優しく微笑んだ。
「一緒に行かない、妹様? それまで話をして時間でも潰しましょう。」
そう言って、パチュリーは一瞬、私の目を覗きこんだ。私はパチュリーの目が少し光ったように感じた。
ああ、知っているんだ、と思った。
パチュリーはきっと咲夜に私の様子がおかしいことを訊いたんだろう。そして、私との今までの短い会話から私の調子が悪いということを確信したに違いない。
気づくと、私は椅子から立ち上がっていた。
パチュリーが怪訝な顔をする。
「どうしたの、妹様?」
パチュリーの声は私を心配するような感じだった。いや、事実、心配しているのだろう。パチュリーの顔には焦りの色が浮かんでいた。
本来ならば、私はそれを申し訳ないと感じるべきだった。しかし、このとき私がパチュリーに感じるのは敵愾心しかなかった。心の知らない部分からパチュリーに対する怒りが沸いてきていた。おかしい、と思う。私は自分を心配してくれるような人に怒り出すような吸血鬼だっただろうか、と考える。思い出せない。思い出せない。三度思い出そうとしても、やはり思い出せない。いや、そうだったようにも感じてきた。ああ、そうか、私は自分のことを案じてくれるような人にこんな醜い感情を向ける奴だったのか。私はやっぱり最低な奴だったのか。
「私、お茶会には行かないから」
私の口は自然と動いていた。口は私の望んでいないようなことを言っていた。いや、望んでいることか。そんなことはない。お姉さまとのお茶会だ。楽しいに決まっている。でも自分が暴走してしまうかもしれないのだ。お茶会の相手を殺すわけにもいかないからこうして断るのだ…………あれれ、そんな理由だったか? 私は純粋にお姉さまとのお茶会が嫌だったんじゃないのか?
「…………妹様、何を?」
パチュリーが唖然とした顔で言った。信じられないのだろう。私も信じられない。いや、そんなことないだろう。私はこんな性格だってパチュリーも知っているはずだ。それなのにそんな顔をするなんて、パチュリーは私を笑わそうとしてるのだろうか。ねえ、そうなのかな、パチュリー?
「レミィのお茶会に行かない――――本気で言ってるの?」
そうだよ、パチュリー。日本語わからないの? いやいや、わかってるよね。うん、それでいいんだよ。100点満点。赤マルの花マルだね。だが、パチュリーは眉をしかめて口を開いた。いったい何を言う必要があるのさ。これ以上話し合うことなんて何一つないじゃないか。
「咲夜の言葉だと、レミィはとても楽しみにしているようだったわよ…………」
へぇ、楽しみにしてるんだ。私はあまり楽しくないんだけどな。こんなに楽しくないんだけどな。こんなに苦しいのに、お姉さまは楽しんだっていうんだ。私はとても苦しいのに。苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに苦しいのに。
「知らないよ。私は行かないといったら行かない」
「でも――――」
「うるさいよ、パチュリー! どうして、あいつの言うことに従わなくちゃならないのさ!!」
――――自分の言葉に私はようやく正気を取り戻した。
あいつ。
その単語が私の胸を強く刺していた。お姉さまを『あいつ』呼ばわりした事実が私の心臓を潰そうとしていた。パチュリーの表情は凍っていた。目がぎらぎらと悲しみで光っていた。しばらく私とパチュリーは睨み合って――――いや、一方的に私がパチュリーのことを睨んでいた。パチュリーは私の視線を正面から受けとめていた。
やがて、パチュリーは首を振って、一つため息をついた。そうか、そうなのね――――それだけ呟いて、パチュリーは諦めるような顔をした。パチュリーは全てを理解し、諦めたような顔をした。私は思わず、目を背けた。パチュリーの顔があまりにも悲しそうだったので、私は見ていることができなかった。パチュリーは机の上の本を取って、膝の上で開いた。パチュリーはまた小さく息を吐いて、本に目をやった。
「わかったわ…………レミィには私から伝えておくわ――――」
パチュリーがページをめくる。ぱさりと紙の音が酷く耳障りだった。私はパチュリーに背を向け、扉のほうを見た。
「そういえば、妹様はどうして私の図書館に来たの?」
ついで、とでも言うかのようにパチュリーの言葉が背中にかかる。私は自分でも驚くくらい死んだような声で答えた。
「……地下室で小説でも読んでようと思ってね。だけど、良い本がなかったから、このまま帰ることにするよ」
「そう――――、じゃあ、時間つぶしのネタがないってことかしら?」
「…………そうなるね」
「……………………なら今、私があなたにできることは、まあ、これくらいかしら?」
パチュリーが、ちょっと待ちなさい、と言った。私は再びパチュリーのほうを振り返る。パチュリーは机の引き出しを漁っていた。やがてパチュリーは真っ白な紙の束を取りだし、私に差し出した。
「本は読むだけじゃないわ。書くこともときには勉強になるものよ」
「………………………………………………………………」
「暇だったら、何か書いてみたどうかしら? 読書嫌いなレミィならともかく、妹様なら何かおもしろいことを書けるでしょう」
パチュリーの目には私を責めるような光はなかった。憐憫の情だけがあった。私はパチュリーの綺麗な目を見て――――パチュリーの差し出した紙の束を受け取った。
パチュリーは私に紙を渡すと、再び膝の上に開いていた本に目を落とした。
私はパチュリーのページをめくる音だけが響く図書館を後にした。
ある館に二人の姉妹が住んでいました。
姉妹は吸血鬼と呼ばれる妖怪でした。
吸血鬼とは非常に強い力をもつ妖怪で、たくさんの妖怪を従えているものでした。
そのため吸血鬼は人間、妖怪の両方からとても恐れられていました。
ですが、館の主であるお姉さんには臣下の妖怪はあまりたくさんいませんでした。もちろん妹にも家臣のようなものは一切ありませんでした。
お姉さんの家臣たちは普通の吸血鬼に比べれば、とても少ないものでした。
しかし、お姉さんの臣下たちは忠臣ぞろいでした。
メイド長は人間でしたが、とても有能なメイド長でした。
料理、洗濯、掃除、会計……何をやらせても一流の凄腕のメイドでした。
メイド長はとても優しい人柄で、お姉さんや妹の世話を甲斐甲斐しくしてくれました。彼女は主人たちの我が儘もちゃんと聞いてくれました。
お姉さんも妹もメイド長の作るお菓子がとても好きでした。
門番長は妖怪でしたが、とても妖怪らしくない妖怪でした。
昼寝が大好きでメイド長に見つかっては叱られていました。
ですが、いざというときに門番長はとても頼りになる人物でした。門番隊の隊員も彼女のことを隊長として尊敬していました。
お姉さんの信頼も厚く、妹も門番長にいろいろなことを教えてもらい、彼女のことを慕っていました。
お姉さんには友達もいます。館の図書館には魔女が住んでいました。
魔女はとても愛想が悪い人でした。いつも本ばかり読んでいて、それ以外のことに興味がないように見えました。
しかし、魔女は本当はよく他人を観察している人でした。
皆のことをちゃんと見ている魔女は、ときどき助言をして周りの人を助けていました。お姉さんも妹も魔女に何度も助けられていました。
お姉さんは館の外にも友達がいます。
巫女や魔法使いの友達もいますし、他の妖怪とも広く面識がありました。
お姉さんにはたくさんの友達がいました。
お姉さんは我が儘な性格でしたが、とても優しく、たくさんの人に慕われていました。
気まぐれな屋敷の妖精メイドたちもお姉さんを主として認めていました。
妹は人見知りをする性格でしたが、お姉さんが妹のことをとてもよく面倒を見てくれました。
いっしょに本を読んだり、いっしょにご飯を食べたり、いっしょに外を散歩したり、いっしょにお茶を飲んだり。
お姉さんは妹のことを見捨てようとはしませんでした。
人付き合いの苦手な妹をお姉さんは引っ張っていきました。
妹は危険な能力ももたず、そんなお姉さんの後ろをずっとついていきました。
妹は地下室に閉じ込められることもなく、お姉さんといっしょに外に出て、友達をつくる努力を一生懸命にしました。
やがて妹はたくさんの友達をもつことができました。
そして、妹はお姉さんや立派な家臣たち、大勢の友達に囲まれて、幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
――――そうなればよかったのにね。
本当にそうなればよかったのにね。
びり! びり! ばり!
私は紙を破り捨てた。自分の書いた出鱈目をこれでもかと言うくらいに千切り捨てた。
馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい!!
幸せ、何それ? 本当に、幸せって何? 幸せって日本語? 聞いたことはあるけど、それが何だかよくわからないんだ。
おかしいなぁ。途中までは全く馬鹿らしい話じゃなかったんだけどなぁ。傑作になることを期待して書いてたんだけど…………。いったい、どこから狂いだしたんだろう? この物語はどこから辻褄が合わなくなったんだろう? 現実はどこから捻じ曲がっていったんだろう?
私はどこから不幸になったんだろう?
馬鹿らしかった。下らなかった。理不尽だった。つまらなかった。腹立たしかった。不愉快だった。鬱陶しかった。面倒くさかった。忌々しかった。憎らしかった。
そして、ただただ――――
羨ましかった。
どこから私は不幸になったのか。
自分でも答えに気づいている愚問が頭の中でぐるぐると回る。私も私の不幸の理由も、迷路の中を抜け出すことができなかった。どれだけ歩いても、やっきになって走っても、迷路から出ることは叶わない。いくら疲れ果てても私は出口を見つけられなかった。
いや、違う。
出口とは迷路のことだったのだ。これより先に私は進むことができないのだ。
ここがフランドール・スカーレットの限界なのだ。
どこまで行っても、私は紅魔狂でしかないのだ。
気がふれている。狂っている。情緒不安定。
まあ、どんな言葉でもいいや……………………。
私は誰にも理解されないということは、確かなんだから。誰にでも迷惑をかけずにいられないということは間違いないんだから。誰も喜ばすことができないというのは事実なのだから。私は誰とも幸せになれないということは真実なのだから。
私は椅子の背もたれに身体を預けて、床に散らばった紙切れを眺めていた。
時刻は午後の三時を回っていた。パチュリーの図書館から帰ってきて、私はベッドで眠った。目を覚ましても私の心の調子は元に戻らなかった。そしてパチュリーにもらった紙のことを思い出して机に向かった。何を書こうかとも考えずに私はペンを動かしていた。数十分の後、あの物語が出来上がっていた。
本当にああなればよかったのになぁ。
私はため息をつくことさえできなかった。私の胸の中はどうしようもなくがらんどうだった。息を吐くにも私の胸には何も残っていなかった。
苦しい。
私は粉々になった白い紙を見つめながら思った。誰か助けてくれないだろうか、とぼんやりと考えた。
助けを求めてどうする?
口から自嘲の息が漏れる。美鈴が救いの手を差し伸べてくれたじゃないか。だけど、私はその手を握り返すことができない。何でも破壊するこの手では私は誰の手もとることができないのだ。
自嘲するしかなかった。乾いた笑いが地下室に響いた。自分の声とは思えぬその笑い声は、どうしようもなく自分のものだった。どうしようもなく行き詰まりだった。あまりにも私は終わっていた。終わりすぎて笑い話にしかならなかった。私は笑いすぎて目の端に涙がたまっていた。涙をこぼすことなく、私はだらしなく椅子の背もたれに身体を傾けて笑い続けた。
こんこんとドアがノックされた。
返事するのも面倒くさかったが、私は一応返事することにした。
「開いてるよ」
「…………失礼します」
入ってきたのは咲夜だった。咲夜の顔はすでに暗かった。何かを思いつめたような悲しい目で私のことを見つめていた。その咲夜の様子もとてもおかしかった。私は一度止んだ笑いがぶり返しそうになっていたのを必死でこらえていた。
「どうしたの、咲夜? 何の用かな?」
私がにやにやと笑って訊くと、咲夜はさらにつらそうに頬をゆがめた。咲夜は一つ長く息をすると、私の目をまっすぐに見た。
「レミリアお嬢様がフランお嬢様をお茶に誘っていらっしゃいます…………」
へぇ、と私は笑うのをやめることなく呟いた。気が狂った妹を一度ならず、二度までお茶に誘うなんて、あのお姉さまもなかなか趣味が悪いね。いや、良いと評すべきなのかな? まあ、私にしては不愉快愉快なことだけど。
「ああ、あいつがまた私を呼んでいるの。あいつも懲りないね」
私の言葉に咲夜は目を瞑った。何かを耐えるような様子だった。咲夜はしばらく目蓋を閉じていたが、やがてまた目をしっかりと開いて私のことを見た。
「…………レミリアお嬢様はフランドールお嬢様とお茶を飲まれることを楽しみにしていらっしゃいます。どうかレミリアお嬢様の私室にいらっしゃってください」
「ふーん、どうしようかな」
パチュリーからもらった紙も全て破いてしまったし、起きたばかりだから昼寝をする気にもなれないし…………まあ、行ってもいいだろうか。
「わかったよ。あいつのところに行くよ。咲夜、案内して」
私が言うと、咲夜はありがとうございます、と一礼した。だが、顔を上げた咲夜の顔は依然として厳しいものだった。
――どうして行くんだ!
どこかで声がしたような気がするが、どうでもよかったので無視する。どうして、と言われても、ね? 行きたいから、としか言えないんだけど。
ドアを開けようとして、咲夜が私に背を向けた。そのとき、私は悪戯心を出した。
別に私一人でお姉さまの部屋には行けるし、咲夜はいらないよね。
私はぞくぞくとする気分の高揚感を感じていた。
咲夜を壊してしまうというのも、一興かもしれない。
私は咲夜に気づかれないように、自分の右手に咲夜の『目』を移動させた。この目を握りつぶせば咲夜を破壊できる。私にいろいろと気を遣ってくれるこのメイド長を殺すことができる。
どんなに爽快だろう。
そんな――――な存在を破壊するのは。
咲夜の粉々になる身体。
咲夜だったものの一部が私の部屋を紅く紅く彩色する。
咲夜の生首はどんな表情をして床に転がるのだろうか。
咲夜は私に殺されてどんな顔をするのか。
メイド長の死を知った妖精メイドたちの恐慌した顔。
あのいつもにこにこと笑っている美鈴が唖然とした表情をする。
いつもつまらなそうな顔をしていたパチュリーが今まで見たこともないような悲しそうな顔でうつむいている。
そして、
お姉さまが――――――――――――
お姉さまは――――――――――――
「フランドールお嬢様?」
咲夜が私の顔を見ていた。相変わらず、咲夜は心が痛んだような顔をしていた。
――ああ、私が咲夜をこんな顔にさせているんだ。
私はようやく、そのことに心の遠いところで気づいていた。
ふと右手を見る。
右手の力はすでに解除されていた。
咲夜の『目』はもうそこにはなかった。
「……何でもないよ」
私はぶっきらぼうに言って、咲夜の開けてくれたドアをくぐった。
永遠に紅い幼き月、紅魔館の主たる吸血鬼、そして私の姉である――レミリア・スカーレットは、私が部屋に入ってきたとき、私に背を向けて椅子に座っていた。
「……フランドールお嬢様をお連れいたしました」
ぺこり、と咲夜が部屋の主に頭を下げた。その声に、お姉さまは私達のほうを向き直った。
「ご苦労様」
お姉さまは微笑んで言った。テーブルにはすでに紅茶のポットやティーカップが並んでいた。フラン、こっちに来なさい、とお姉さまが私に声をかけた。私はそれに従って、お姉さまの正面にあるテーブル越しの椅子に座った。お姉さまは咲夜に笑いかけながら言う。
「咲夜。さっき言ったとおり、戻っていいわ」
その言葉に咲夜は無言で深々と頭を下げた。次の瞬間、咲夜の姿は消え、お姉さまの私室のドアは閉まっていた。
部屋には私とお姉さまだけが残った。
私はお姉さまを見た。
お姉さまはにこにこと優しげに微笑んでいた。
「…………ずいぶん、嬉しそうだね」
私の声には少し棘が含まれていた。だが、お姉さまはそんなことも気にしないように、笑ったままお茶の準備を始めた。
「そうね。久しぶりのフランとのお茶だもの。嬉しくないはずがないわ」
お姉さまは無邪気な子供のように答えた。私は黙って、お姉さまがティーポットにお湯を入れ、数分茶葉を蒸らしてカップにお茶を注ぐ様子を見ていた。
お姉さまの手つきは手馴れていた。
「……自分でも紅茶が注げるんだね」
「もちろんよ。淑女のたしなみですもの」
お姉さまは得意げに胸を張った。さあ、どうぞ、と言って私の前にカップを差し出す。
私はお姉さまが淹れてくれた茶葉を一口すする。
「……………………おいしい」
「当然よ」
お姉さまも自分で注いだお茶を飲みながら、微笑んで答えた。咲夜には負けるけどね、と言って舌を出して笑った。
私とお姉さまはしばらく黙ってカップを傾けていたが、私はちょうどカップの中が空になったところでお姉さまに訊いた。
「どうして、私をお茶に呼んだの?」
その質問にお姉さまは、私に紅茶のお代わりをよそりながら答えた。
「別に深い理由はないわ。フランとお茶を飲みたかった、ただそれだけよ」
お姉さまは相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。私は一瞬、嘘だとも思い、お姉さまの笑顔を睨んだが、その優しげな笑顔からはお姉さまが嘘をついているような様子は感じ取れなかった。どうやら本気でお姉さまは私とお茶が呑みたいと言っているらしかった。
「……………………どうして、私とお茶が飲みたいなんて思ったの?」
私の言葉にお姉さまはきょとんとした。しばらくお姉さまは私の顔を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「どうしてかしらね。私もよくわからないけど、フランとお茶が飲みたいと思ったのよ」
お姉さまの声はとても穏やかだった。心にしみこんでくるように静かな声でお姉さまは言った。
「今までフランとお茶を飲んだことはあるけど、いつも楽しかったわ。だから、今回もフランといっしょにお茶を飲みたくなったのよ」
そう言うと、お姉さまはカップを傾けた。やっぱり紅茶は美味しいわね、そう言って、お姉さまは静かに息をついた。
私はとても落ち着かなかった。私の心はざわざわと震えていた。私はお姉さまを睨み続ける。お姉さまはカップに口をつけていた。その様子が酷く私の心を乱すのだった。私の胸がぎりぎりと締め付けられる。どうしようもない不安に私は頭を抱えそうになった。
「私は――――」
私は上の空で言った。お姉さまがカップをソーサーに置いて私の言葉を聞く様子を示した。
「私はお姉さまとお茶なんか飲みたくないよ」
「………………………………………………………………」
「お姉さまは私とお茶が飲みたいなんて言うけど、私は飲みたいなんて思ってないよ」
言い切った私の頭ががんがんと痛んだ。私はどうしようもない恐怖に襲われていた。取り返しのつかないことをしてしまった、と心臓が心を責め立てていた。
だが、お姉さまはあら、と頬杖をつき、少しだけ悲しそうな顔をしただけだった。
「そうなのかしら? 私はあなたとお茶を飲むのをとても楽しみにしてたんだけど?」
お姉さまの言葉に私の心はさらにぐらついていた。私は今にも倒れてしまいそうだった。
まだわからないのか。
私はなぜか苛立っていた。お姉さまがわかってくれないことに苛立っていた。
わかってくれない?
何に?
私はお姉さまに何をわかって欲しいんだ?
わからないわからないわからないわからないわからない わからないわからないわからないわからないわからない わからないわからないわからないわからないわからない わからないわからないわからないわからないわからない わからないわからないわからないわからないわからない。
そりゃあ、無理だろう。
心のどこかでため息が聞こえた。
自分でもわからないことを他人に知ってもらうなんて。
うるさい、黙れ。私はともかくこいつにわからせなければならないんだ。
「…………残念だけど、私はお姉さまといっしょにお茶を飲むのが楽しくないんだ。全然、楽しくないんだよ。悪いけど、これっきりにしてくれないかな」
私はそう言い切った。
心のどこかが崩れる音が聞こえた。
感情の波が引いてゆく。理性の光が消えてゆく。
心が崩壊してゆく音を聞きながら、私はじっとお姉さまの顔を見ていた。
お姉さまは悲しそうな――本当に悲しそうな顔をして、だが笑っていた。お姉さまは悲しみを湛えた目で私の目を覗き込んだ。私はお姉さまの瞳の清らかな紅に、魂が焼かれそうに感じた。ソーサーに置いたカップをとり、お姉さまはカップに口をつけながら言った。
「そう…………私は楽しかったのだけれど、フランがそう言うなら仕方ないわね……………………わかったわ。私の我が儘に付き合わせてごめんなさいね」
お姉さまの穏やかな言葉が胸に突き刺さる。
一瞬、目の前が暗くなるが、それと同時に高揚感が爆発的に生まれていた。
どうしようもなく壊れてゆく自分を喜んでいる自分がいる。
自分が崩れていくのを楽しんでいる自分がいる。
心が緋色に染まってゆく。
生物の血の色。
何もかも焼き尽くす炎の色。
お姉さまの目の色。
私の心の色。
赤、朱、紅、緋…………………………………………
「ねえ、お姉さま、お願いがあるんだけど」
私はお姉さまに提案する。お姉さまはお茶を飲みながら、私の言葉に耳を傾けていた。私はにやりと――自分でも醜悪な笑顔をしているのがわかるくらいに――笑って、伝えた。
「遊んでくれないかな」
お姉さまの眉がぴくりと上がる。お姉さまは落ち着いた様子でソーサーにカップを戻し、テーブルに置いた。
「弾幕ごっこをして欲しい、ということかしら?」
お姉さまの言葉に私は笑い声を上げた。楽しくもないというのに私は笑っていた。ああ私は狂っているんだ、と心のわずか一部に残った私が呟いた。
「まさか、もっと楽しいことだよ」
私は椅子から立ちあがり、テーブルの上を腕でなぎ払った。床に落ちたカップやティーポットが派手な音を立てて砕け散る。ポットの中の紅茶が飛沫をあげ、絨毯に暗い染みを作った。ようやくお姉さまが私を睨んだ。落ち着かない落ち着かない。狂った私の心はもはや何を感じているのかわからなかった。ただ何かに触れるたびに異常に反応するだけの機能しかなかった。私の口はまるで別の生き物のように歪んで声を発した。
「殺し合いをしようよ」
自分でもぞっとするような声だった。お姉さまの眉が歪む。お姉さまは敵を見るような――それまで私をそんな風には見たことがない目で私を見ていた。
――見ないで。
そんな目で私を見ないで。
私は言いようもない悲しみに襲われていた。心臓が破裂して血の涙を流しているようだった。殺すべき敵を見るようなお姉さまの目がとても怖かった。
「殺し合いね」
お姉さまはつまらなそうに呟いた。お姉さまは再びお茶を飲もうとして、テーブルの上に手を伸ばした。だが、カップはすでに床の上で破片になっているのに気づき、お姉さまは眉をしかめながら言った。
「くだらないわ。却下よ」
そう言ったがお姉さまは相変わらず恐ろしい目で私を見ていた。私の心は二つに割れてしまったのだろうか。震えるほどお姉さまを怖がっている私がいる一方で、もう一人の私が口を開いた。
「あんたが下らない、と言っても、私はやりたいんだよ。それとも…………一方的に殺されたいのかな?」
私の右手に魔力が集まるのを感じた。見ないでもわかる。お姉さまの『目』が私の右手の中に存在していた。私はお姉さまに右手を掲げてみせた。
「ほら、早くやる気にならないと、きゅっとしてドカーンだよ」
私は挑発するように言うが、お姉さまはつまらなそうに私の右手を見ていた。自分の『目』が握られていることがわかっているのだろう。しかし、お姉さまは椅子に座ったまま動こうとしなかったし、運命の能力を使う気配も見えなかった。お姉さまは頬杖をついて言った。
「やってみなさい」
「………………………………………………………………」
「別に私は邪魔しないわ。私を殺したいなら勝手にどうぞ」
「……………………私に殺されたい、って言うの?」
先程と変わって静かな声を出した私の言葉に、お姉さまは、何を今更、と笑ってみせた。お姉さまはもう私を敵としては見ていなかった。代わりにいつもどおりの、不敵な笑顔が浮かんでいた。
「私はフランに殺されても別にいい、と思ってるのよ」
「………………………………………………………………」
「あら、あなたはどれだけ私があなたを愛しているのか、知らないのかしら? まあ、フランはお馬鹿さんだからね。わからないのも無理はないわ。しかし、よく言ったものね。『出来の悪い子ほど可愛い』。本当にその通りだわ」
お姉さまは得意げに自分の言葉にうなずいていた。そして、下らない冗談を聞いたときのように笑う。
「大体よく考えて見なさいよ。あなたみたいな、破壊の能力をもった狂人を館に放し飼いにしているのよ。それくらいの覚悟がなきゃできないわ。気のふれた妹の相手は本当に命がけなのよ。そんなことも気づかないのかしら? 本当、馬鹿な妹だわ」
「狂人……………………だと?」
私の心は怒りに燃えていた。お姉さまが私を狂人呼ばわりしたことに、私はひどくショックを受けていた。悲しみと怒りと憎しみが心を焦がしていた。私は醜悪に頬を歪め、にやにやと笑っている姉を睨み、言った。
「……………………私は狂人じゃない。気が狂って、なんかいない」
「いえ、狂人でしょ?」
お姉さまは不敵な笑顔をやめずに言った。
「そんな恐ろしい顔をした女の子なんて、この世にあなたしかいないわ。そんな子が狂っていないわけないじゃない」
お姉さまの言葉を聞いた私の心は静かになっていた。悲しみも怒りも憎しみも消えた心の中でただ静かに狂った狂気だけが残った。私はひどく疲れていた。疲れながらも私はくたびれた喉を動かして言った。
「撤回しないと、『目』を握りつぶすよ…………」
「撤回? しないわ。言ったでしょ? 私はあなたに殺されてもいいって。潰すなら早く握りつぶせばいいじゃない。でも、まあ…………」
お姉さまはそこで優しげに笑った――――雲間から差す、月光のように優しい笑いだった。
「あなたは私の『目』を握りつぶせないでしょうけどね」
「………………………………………………………………」
「私はそのことだけは信じてるわ。どんなにあなたは気がおかしくなっても、私を――いえ、誰も傷つけることができないって」
お姉さまは綺麗な笑顔を浮かべた。
もはや言うべき言葉はなかった。私はお姉さまの『目』を握りつぶそうと、右手に魔力をこめる。私はお姉さまの優しい笑顔を見つめながら、手に魔力をかけてゆく。
憎い、憎い、私を閉じ込めたことが憎い、私を狂人と呼んだことが憎い、私を永い間出してくれなかったことが憎い、私を一人にしたことが憎い、お姉さまだけ外に出られることが憎い、憎い、ただひたすら憎い、壊したくない、憎い、私を地下室に閉じ込め続けたことが憎い、私を狂人と呼んで裏切ったことが憎い、私を可愛がってくれることが憎い、私を殺してくれないことが憎い、憎い、憎い、どうしようもなく憎い、壊したくない、壊したくない、私を放って両親を独占したことが憎い、お姉さまだけが外の世界で遊べることが憎い、私が友達を作れないのにお姉さまはたくさんの友達がいることが憎い、私は狂うのにお姉さまは狂わないのが憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、お姉さまだけが良い思いをするのが憎い、私は他人を傷つけるのにお姉さまは他人を傷つけないのが憎い、お姉さまは人を楽しませることが出来るのに私は人を楽しめられないのが憎い、お姉さまは人といっしょに幸せになれるのに私は人といっしょに幸せになれないのが憎い、憎い、憎い、とめられないくらいに憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、憎い、どうじようもなく憎い、とにかく憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、憎い、心から憎い、憎いけれど、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない――――!
お姉さまを壊したくない。
ふっと、私は意識を離れるのを感じた。右手にこもった力が抜けてゆく。全ての感情が――悲しみも怒りも憎しみも虚しさも、融けてゆくのを感じる。いや、全てではない。残った感情がある。何か、残ったものがある。
これは――――
安らぎ、だろうか。
倒れる感覚。立とうとしてもどうにも身体に力が入らなかった。このまま床に倒れる――そう思ったとき、私を抱きとめるものがあった。
お姉さまだった。
お姉さまは笑っていた。とても優しく笑っていた。
お姉さまの口が動く。
よく聞こえないが、何と言ったのかわかった。
大丈夫よ――――
ああ、大丈夫なのか。
私はわけもわからず納得していた。
私は安らぎを感じながら――お姉さまのとても綺麗な微笑を見ながら、意識を手放した。
ある館に二人の姉妹がいました。
二人は吸血鬼でした。
吸血鬼と言えば、たくさんの妖怪を臣下としているものですが、この二人にはあまりたくさんの家臣はいませんでした。
ですが、家臣たちは忠誠心に溢れ、二人を主君として認めていました。
二人には友達もいました。お姉さんと特に仲の良い魔女は館にいっしょに住んでいました。
二人は家臣たちと友達に囲まれて幸せに暮らせるはずでした。
ですが、妹は気が狂っていたのです。
妹が普通の吸血鬼だったら特に問題はなかったのでしょうが、不幸なことに妹はなんでも破壊する能力をもっていました。
そんな能力をもった狂人はどんな猛獣よりも危険でした。
お姉さんは仕方なく、妹を地下深くに閉じ込めました。
永劫とも思える時間、妹は地下に閉じ込められたままでした。
お姉さんは妹が悲しまないようにと一生懸命でした。
何とかして妹が寂しい思いをしないようにしようといつも考えていました。
そして、いつの日か妹が外に出られるようにと――――
495年の後、お姉さんの努力は実りました。
ようやく妹は地下から出ることができました。
妹はお姉さんと一緒にご飯を食べたり、いつでも好きなときにおしゃべりをしたり、お茶を飲むことができるようになりました。
ですが、やはり妹は気が狂ったままでした。
妹の心の病気がときに皆を苦しめました。
そのことを妹もとても気に病んでいました。
しかし、お姉さんは信じていました。
妹が皆を傷つけても、皆は妹を嫌わないはずだ、と。
どんなに妹が狂おうと、妹は皆といっしょにいたいはずだ、と。
妹は自分達といっしょに幸せになれるはずだ、と。
お姉さんはそう信じていました。
そして、それは――――
きっとその通りだったのでしょう――――
私が目を覚ますと、お姉さまが隣に横になっていた。お姉さまは私の髪を撫でながら、私の顔を見て微笑んでいた。私が目を開けると、お姉さまは囁くような声で言った。
「おはよう、フラン」
私は反射的に、おはよう、と答えた。起き上がって窓の外を見る。もう空はすっかり暗くなっていた。
心の調子は普段どおりに戻っていた。
それを確認すると同時に、私は今日一日の自分の行動を思い起こしていた。
私は思わず、頭を抱えた。
――――何てことをしてしまったんだろう。
私はただひたすら後悔していた。
何てことをしてしまったんだろう――――その言葉だけが頭の中でリフレインされていた。
「何でこんなことに……………………」
私はそう呟いたが、愚問だった。答えはどうしようもなく明快に出ていた。
「どうして、どうして、どうして……………………」
どうして、しか言葉は出てこなかった。それを自問するのは愚かだとわかっていたが、私はやめることができなかった。罪悪感で胸がいっぱいだった。絶望が頭の中を塗り潰していた。私は自分を呪うことしかできなかった。自分の魂を呪うように、どうして、という言葉を紡ぎ続けた。
「どうして、どうして私は……………………」
私は息も絶え絶えに言った。
「どうして私は狂っているんだろう?」
どうして私は狂ってしまったのか。私は頭を抱える。だが、その答えも明白だった。あまりにも簡単な真実だった。残酷な論理に私は胸が潰れそうだった。
「どうして私は破壊の能力をもっているんだろう?」
いや、これは理由ではなかった。確かにこれは私が狂っていることの一因にはなるかもしれないが、これでは足りなかった。もっと根本的な理由がある。そして、私はそれをすでにわかっていた。私はそれを言い出すのが怖いだけだった。けれど、私はそれを言わなければならない。私は恐怖に喉を裂かれそうに、心臓を斬られそうになりながらも、言葉を吐き出した。
「どうして、私はフランドール・スカーレットなんだろう――――」
それはあまりにも馬鹿馬鹿しい答えだった。だが、何よりも正しい答えだった。真理とはひょっとしたら馬鹿馬鹿しいものなのかもしれない。真実なんてこんな陳腐なものかもしれなかった。
でも、
でもさ、
これはあんまりじゃないか?
あんまりすぎる答えじゃないか?
………………………………………………………………。
ああ。
私は気づいた。
これが運命なのか。
私はそういう風なキャラクターなのか。
こんな苦しい思いするのも、私がフランドール・スカーレットというキャラクターだからだろうか。
どうして――――
どうして、私はフランドール・スカーレットとして生まれてきてしまったのだろう。
こんな脆い心なんていらなかった。
こんな呪われた能力なんていらなかった。
どうして、私はもっと幸せになれるように生まれてこなかったのだろう。
こんなはずじゃなかったのになぁ。
私はどさっと、ベッドに寝転がった。もう何もかもがどうでもよかった。迷路の出口は見えた。だけど、その出口は行き止まりでしかないということしかわからなかった。やはり迷路が私の行き着く場所なのだった。
迷路の名前は、『諦観』。
私は諦めるしかないのだろう。
何もかも。
もう幸せになることなんて諦めるしかないのだ。
フランドール・スカーレットは幸福を諦めるしかないのだ。
「死のうかな」
私はなんとなくそう思った。なんとなくだが、それは最高の考えのように思えた。私は再びその諦観の言葉を口にする。
「死んでしまおうかな」
その言葉は甘く私の耳に響いた。だが、
「馬鹿言わないで」
お姉さまの声だった。お姉さまは起き上がって、寝転がっている私を見下ろしていた。お姉さまの顔は怒っているようだった。
「勝手に死のうなんて考えないで」
ああ、私はまたお姉さまを困らせてしまったのか、と思った。素直に申し訳なかった。あんなに酷いことをしたのに、さらにお姉さまに迷惑をかけるなんて、私は本当に罪深い妹だった。
「ねえ、お姉さま」
私は怒った顔をしているお姉さまに訊いた。がらんどうの心だったが、私はお姉さまに尋ねた。
「私はどうしてフランドール・スカーレットなんだろうね」
「…………………………………………………………………」
「私がフランドール・スカーレットじゃなきゃ、こんなことにもならなかったのに」
お姉さまは目を瞑った。目を瞑って何かを考えているようだった。やがてお姉さまは口を開いた。
「…………こんなこと、て言うほど、あなたは大したことをしてないわ」
「そうかな? きっとそんなことないよ。私は皆をたくさん傷つけた」
「………………………………………………………………」
「私が狂ってるから――――私がフランドール・スカーレットだから、皆を傷つけてしまった。皆の気持ちを踏みにじってしまった」
「………………………………………………………………」
「――つらいよ」
私の言葉は自分でも驚くくらい弱々しいものだった。
「自分が自分であることがつらいよ」
私は深くため息をついて言った。
「私なんか生まれこなければよかったのに」
私は額に手を突いた。心はすっかり空洞になっていた。自分の大切な何もかもがどこかへ吹き散らされてしまったような気分だった。
これからどうしようかな。死のうかな。
そう思ったとき、声をかけられた。
「フランはフランドール・スカーレットとして生まれてきて、後悔してる?」
お姉さまだった。お姉さまはじっと私を見ていた。目には悲しみや憐憫といった感情がなかった。ただ何かを伝えようとする意志の強さだけがあった。私はこっくりとうなずいた。
「うん。正直言うと」
「じゃあ、もう一つ質問――」
お姉さまはやはり私の目を正面から見て尋ねた。
「あなたは私の――――レミリア・スカーレットの妹として生まれてきて、後悔してる?」
「………………………………………………………………」
「どう? あなたは私の妹であったことを後悔してるかしら?」
私は首を横に振った。私は自然と首を振っていた。
「ううん、そんなことない。絶対それはありえない」
でしょうね、とお姉さまが笑った。満月の光のように明るい微笑だった。
「じゃあ、質問に答えてくれたお礼に、私の考えを教えてあげるわ」
お姉さまは優しげに笑んだ。そして、お姉さまはこの世で一番優しい言葉を私にかけて下さった。
「私はあなたがフランドール・スカーレットであることを感謝しているわ」
その言葉に私はぽかんとしてしまった。お姉さまは穏やかに、だが、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「あなたは自分がフランドール・スカーレットでなければよかったと言うけど、私はそんなこと思ってなんかいないわ。私はあなたがフランであることがとても嬉しいのよ」
私はただ驚くばかりだった。お姉さまの手が差し伸ばされた。私は右手でその手を掴み返す。お姉さまは少しだけ力を込めて私を引き起こした。
もう右手に『目』が見えることはなかった。
そのままお姉さまは私を抱きしめてくれた。胸が熱くなるような、優しい抱擁だった。
「今日、フランをお茶に呼んだのも、あなたの調子が悪いと知って呼んだのよ」
お姉さまはそう告白した。このことに私は驚かなかった。
「朝に呼んだときは本当に何も知らなかったんだけど、午後にわざわざあなたを呼びに行かせたときは、もう私は知ってた。結果的にあなたを苦しめてしまったけど、それでも私は我慢することができなかった」
もっと前から、フランが発作を起こしていることを知ってたの、とお姉さまは言った。お姉さまはとてもつらそうな顔をしていた。
「あなたはこのままだとずっと一人で病気を抱えていくでしょうからね。いつか言わなければ、とは思っていたの。私はあなたに伝えなければと考えていたことがあった。あなたが自分の心を壊してしまう前に私はあなたに教えなければならないことがあったのよ」
お姉さまの紅い瞳が私の目を真っ直ぐに覗き込んでいた。
「私が認めてあげるわ」
お姉さまは言った。穏やかな声だったけど、その声には力強さがあった。
「あなたが、フランドール・スカーレットは幸せになれないと言っても、私はフランドール・スカーレットが幸せになれることを認めてあげるわ」
私はもう何も考えられなくなっていた。ただ頭と胸が温かくなるのを感じた。その温かさは心地よくて優しくて、胸がいっぱいになるようだった。
「私だけじゃない。皆もフランが幸せになれることを信じてる。あなたを知っている人は皆、フランといっしょに笑い合えることを信じている。皆、皆、あなたのことを認めているのよ」
私はがらんどうの心が再び満たされていくことを感じていた。何もかも無くなってしまったと思ったけど、そうではなかったのだ。
「フランはきっと幸せになれるわ。安心しなさい、フランドール・スカーレット。あなたは絶対に幸福を手に入れることができる。もし、その幸福の中に私がいるなら、私はあなたの傍から絶対に離れないことをここに誓うわ」
あなたは一人じゃないのよ――――そう言って、お姉さまは額をこつんと私の額とぶつけた。
「もっとも――――」
お姉さまは悪戯っぽく笑った。
「私の幸福の最低必要条件は、あなたが私の傍にいることだからね。フランが嫌だといっても、私はあなたを手放すことなんかないわよ」
フランドール・スカーレットとして生まれてきたことよりも、レミリア・スカーレットの妹として生まれてきたことを後悔しなさい、そう言って、お姉さまはこの世で最も美しい笑顔を見せて下さった。
ぽたり、と私の目から涙が落ちた。涙は次から次へと湧いて出てきた。嗚咽を止めようとするが、とても抑えることができなかった。嗚咽はやがて号泣に変わった。お姉さまはそんな私を抱きしめてくれた。
フランドール・スカーレットは気がふれている。
きっとその事実は変わらないのだろう。
私はフランドール・スカーレットであるかぎり、きっと一生狂っていなければならないのだろう。
私は死ぬまで狂人として、皆を傷つけ続けるのだろう。
だけれど――
もし、お姉さまが、
もし、皆が、
私がフランドール・スカーレットでよかった、と言ってくれるなら、
私がフランドール・スカーレットでもいいよ、と言ってくれるなら、
私はひょっとしたら、
自分がフランドール・スカーレットでもいいと思えるのかもしれなかった。
我が儘かもしれないけど、
私は自分がフランドール・スカーレットであることを許せるのかもしれなかった。
お姉さまの妹でいられるならば、
私は自分がフランドール・スカーレットであることを認められるのかもしれなかった。
今はまだその覚悟はできていないけど、
もしかしたら、私はフランドール・スカーレットを受け入れることができるのかもしれなかった。
胸の中で泣き続ける私に、やがてお姉さまは優しい声で囁いた。
「さあ、お茶にしましょう?」
私はお姉さまの胸の中で涙を流し続けた。見えなかったけど、お姉さまが微笑んでいるのを感じていた。
「泣き止んだら、また一緒にお茶を飲みましょう」
私はうなずいた。力一杯うなずいた。それでも涙は止まらなかった。ずっとお姉さまは優しく力強く私を抱きしめてくれていた。
お姉さまの淹れてくれたお茶の味を思い出しながら、私は涙を流しながら微笑んでいた。
いいな、いいな
こう言うのっていいな
ホント羨ましいな
分かってもらえるという事って
そして何よりもレミリアのフランを愛しているという想いが
伝わってくるようなお話でした。
良いですね……フランの狂気と悲しさがあるのに、心温まるような
場面や言葉があってとても素敵でした。
いつまでもこの暖かい紅魔館でいて欲しいと切に願います。
素晴らしいお話でした。
>「――つらいよ」
あの言葉はフランちゃんの右手だった。
心臓がキュ、涙腺がドッカーン……なんてね…。
この悪魔は愛に溢れてやがる…!
あなたのレミリアはへたれみりゃではなく、レミ姉と呼びたいと思う。
レミリアとフランはこういう関係であるべきですね。
このレミリアがフランのドロワーズを被ってるとは思えない………
いや、こういう所も含めて「レミリア」なんでしょうね!これもひとえに愛だよ愛!
感じるの重複で、やや違和感。
ありきたりな言葉ですが、最高でした。
自分の理想のフラン像がここにあります。
レミリアの姉としての姿も気高くて良いです。
でも、久しぶりにドロワかぶってはっちゃけてる姿も見たいなあ。
そんなことを思った
色んな意味で良かった。
最高に。
狂気を持ってないフランとか、文字通りの狂人じゃなくて
狂気を持っている普通の少女としての描き方が個人的なイメージにピッタリ来る
最後の方のお嬢様なんだが、ドロワ被ってる奴が言うと危ないw
レミリア様かっこいい、愛のカリスマンですねわかります。
なるほど、涙腺を破壊する程度の能力をお持ちの神なのです・・・ね・・・(号泣
ドロワ率が珍しく低い事実。
(ホントは貴女様?今後は一先ず、こちらの独断と偏見で貴方様とさせて頂きます。何卒、御寛恕願いjます)
久々に、貴方様の作品群を拝見し、励まされ、感謝をお伝えせずにはいられなくなってしまう感情に囚われてしまい、、慣れない作業(ネットの遣り取り)を、当方の周囲の方々に助けられつつ、一言御礼申し上げさせて頂きたいと思いました次第です。
素晴らしい作品を拝読させて頂き、ありがとうございます
私の勝手な思い込みで恐縮ですが…
私は貴方様の本作品から、病んでいる者、というより「自分は病んでいるのだ……」と思い悩む所に逃避するしかなかったフランが、身近な人々の無私の愛に気付いて、姉のレミリアや、宿老兼準家族の美鈴の惜しみない愛に気付き(+パチェ・さっちゃん)、「私もその仲間に入れて、いや、させてください」に至った経緯や
+レミリアがフランだけは幸せにすると、当主兼姉として万難の一切を受け入れようとする姿
に…本作品を含んだ作者様が発表して下さったお話のテーマを、思い本位に大いに当て嵌めて、奮起させて頂きました(恐らく自分本位な解釈極まりないものです。御寛恕!)
改めて、心からの感謝を申し上げます
今後の作者様の御健勝を、僭越ながらお祈りさせて頂きつつ
次回作に期待しちゃいます…失礼しやっす