Coolier - 新生・東方創想話

親愛なる“幼年時代”さまへ

2010/05/05 23:30:37
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君の沈黙が、私と同じ意見だと言うことならば、子供がもう寝た後、大人が話すように話をしようではないか、すべてとことんまで。君にたずねよう、幼い時から人人は何を祈り、空想し、何に苦しむのか? 人人にきっぱりと、幸福とはどんなものか教え――それから人人をこの幸福の鎖につなぎとめてやる人間がいたら、ということではないのか? われらがしているのは、ほかならぬまさにこのことではないのか?

ザミャーチン『われら』(川端香男里訳・岩波文庫)

――――――

 少女に夜は歩かない。
 “幼年時代”はゆるやかに色褪せていく。
 終わりのない子供である彼女のもとからも、例外なく失せ始めていく。

 もう何時間も裸で居る身体は、木の枝をむりやり接いだように不格好な体(てい)で、痩せた手足の伸びている様子だ。ベッドの上で手足を投げ出して仰向けになると、どこか遠いところに融けだしていく自分を見つめているような、不可解な感覚が忘れられなくなる。小さく膨らんだだけの未発達の乳房と、浮き上がった肋骨の震えに薄らと汗の幕を貼り付けながら、手も足も目玉もばらばらになった人形を、指先だけで認識して弄んでいる。

 奇妙な支配の結実に、幼形の自尊心はかすかな疼きを持った。

 人形の眼の珠が外れた跡に人差し指がすっぽりと入り込むと、濡れた氷みたいにつるつるとして、自身を取り巻く空気よりも、一段、冷たく感じた。

 呼吸の度に深化する肉体の熱は、目には見えない別の生き物を孕んだようなものだ。
 おぞましさと共に、それは外気とはまるで対照だった。

 “腿の間”にねっとりと、幽閉の暗みそのものが蛭よりしつこく吸いついている。
 掻き分け掻き分け進むのなら、直ぐに赤色の不出来な塗り込みを見出せたことだろう。少女自身、それが何なのかは知らない。血が出るだなんて、聞いたこともない。血といえば、もっぱらケガをしたときに出るものと思ってもいた。指先で圧したり広げたりしてみても、結局は、体内から流れ出ているらしいということ以外は何も解らなかった。だからこそ裸になって、腕や尻や背中の羽や、そのほか思いついたところに次々と手を触れてみたが、やはり何も解らない。

 数百年、ほとんど変わるところのなかった自分が、急速に他の誰かに取って代わられていくようだ。自己の内奥へ、違う世界からやって来たもうひとりの自分が湧きあがって来るみたいに。
 それでも彼女は表情ひとつも微動させることなく、ただ奥の歯だけを、カチカチ震わした。ほとんど鈍麻したはずの感情と精神が、肉体の最も奥底に蠢くものと比例するようにして、押し上げられようとしていた。

 明滅に近く閃く意識の一方では――――途切れない裏腹さを持つ暗闇の端で、流れ込んで加わるにおいに湿った土の気配を感じる。何かが漏れ出てなくなっていくような不安が、疲れ果て諦めて、沈みかけては横たわる裸体を撫でていた。

「だ、誰…………」

 乾いた舌と固まった顎が、まともに機能しない。
 能動的に声を発するのは、久しぶりだったので。
 “誰か”が扉――何か特別の魔法で強化されているらしく、何をしても傷もつかなかった――を開けて入り込んだせいだ。背格好からすると、未だ若い女のようだった。

 ことさらに唐突で異常な訪問者。
 訝しんで、長い睫毛に支えられた目蓋をゆっくりと落とした。天井のごく小さな明かりが蛾の羽ばたきのように、それを照らすべく、無遠慮に閃いた。窓もない停滞した空気と時間を抱き込む、唯一の明るみである。狭い牢獄に比すれば怖ろしく広い暗黒を、まるまる駆逐する力を持ってはいないけれど。

 降り来る橙色の波が、黒く切り出された岩塊に似た金属の扉を背にした女に、さながら水底に沈んで顔面の崩れかかった人形のように、腐蝕した滑稽味を与えている。
 小さなベッドにうつ伏せになっていた身体を首から上だけ緩慢に起こすと、ノコギリの刃を想わせる尖りを持つ多色の羽の先が、ぴくと震えた。

「だ、誰なの」

 機能を取り戻した顎でようやく問うと、少女はほつれかかった金色の髪の毛を振り立てて、よくよく両の瞳を凝らそうとした。

 久しく味わっていなかったような、ある怖気を感じた。
 まるで深い水中に止めどもなく落ち込んで行くようなものだ。
 足のつかない不安。決して結論の出ない、むやみに続く不安だけを押し付けられる感覚である。眼を伏せることだけが、彼女の正解とも思えた。異質なものに触れたとき、そういうことを考えるものであると、彼女の小さな尺度は告げ知らせている。

「魔女」

 小さな咳払いひとつと共に、実にそっけない答えだった。
 彼女がやけに古そうな分厚い書物を小脇に抱えていると知ったのは、その言葉を受けてからようやくのことでだ。
 ささくれ立った表紙を指先でさも大事という風に撫でる様子は、どこか病んでさえいるような愛着の色を少女に与えずにはおかない。

「魔女?」
「そう。魔女」

 三日月形の装飾が成されたナイトキャップから、長い髪の房が垂れている。
 いかにも眠たげな目蓋をさらにいっそう細めて、気だるそうに言葉を放つ人。
 無愛想な――“魔女どの”。
 肺の奥底から、粘りつかせながら泥を吐き出すような、どこか沈んだ声音である。
 ぜんたい、ゆったりとしたローブに似た紫色の衣服の上には、さらにカーディガンを羽織り、ときどき寒そうに肩を揺する仕草を見せる。
 もう幾百年も、暗闇に抱き止められたひとりぼっちの『王様』だった少女には、それがどこか不可解な安心を与える。少なくとも何故か、自分にとって危険な存在ではないのであろうという確信が、いつの間にかに心に染む。得体の知れない相手に恐怖と安心を同時に感じるのは、おかしな話ではあったけれども。

「あなたのお姉さんの友人よ。残念ながら吸血鬼ではない。この紅魔館とやらに、無期限で逗留させてもらうことになったから、挨拶にね。魔法大図書館に所蔵された文献を参考に、魔法の研究をやっている。まあ、早い話が居候。洒落た呼び名では食客とも言うけれど。ちなみにお姉さんに師事しているわけではないから、書生というのは当てはまらないわ。まあ、どう認識してくれても構わないけれどね。名前は――」

 一気にまくし立てる様は、あたかも早口言葉をひとりで遊んでいるようにも見えた。外見上の真面目さとは裏腹なアンバランスな口ぶりが、さっきまで触れていた壊れた人形のような、何かが欠落した印象を抱かせる。

「今後とも、よろしく」

 おかしな奴め、と、何度も心中では反芻が始まっている。ついでといっては隠しもせずに、鬱陶しげな表情を作らずにはおれなかった。
 “外”には、こんな風な変てこなのが渦巻いているのに違いないのだろう。少なくとも、姉が“それを理由に自分を閉じ込める”くらいには。

「ああ、そう!」

 それだけ言ってしまうと、少女はすぐさま枕に頭を伏せた。
 ぼふン……ッと、柔らかく空気の拡散する音がし、濃いほこりの幕が広がる。

「それで、それだけなの」
「ええ、それだけ」

 どちらともに、何の目的を交換するでもない確認の言葉だけが取り出され、後はただの無音が続く。
 ひとりでいる時の無音ほど耳に障るものはない。しかし、誰かと居るときに訪れる特有の無音は、ひとりのときのそれとは違う。頭の裏側を針で引っかかれるような焦りだけが、ことさらにほとばしる。それは、特に苛立ち、とでも呼ばれる類のものに似ている。
 進んで沈黙に小さな穴を開けたのは、枕に大半が吸収された、くぐもった少女の声だった。

「ねえ、ねえ。わたしが“何でここに居るか”ってこと。知ってるんでしょう」
「もちろん」
「どんなものも、たったのひと握りで“ぎゅッとして、ドカン”。わたし、あなたを殺しちゃうかもね」
「ええ、……」

 枕に押し付けた唇に、自分の吐息が跳ね返って生ぬるい。
 対して部屋の中は、いつだって濡れた氷に頬擦りするより冷たくぬめっているのだった。
 “魔女どの”の冷ややかな視線は、淀み穢れた滞りの気も、裸のままの少女も、あるいはその剥き出しの腿を伝う乾きかけた血の筋も。この場の何をも捉えてはいないようにも思われた。暗みにぶれながら、長いまつ毛に支えられた目蓋が、ゆっくりと閉じられそうになっている。
 彼女が眠るかのような遅々たる瞬きをするたびごと、少女もまた遠ざけた睡眠が恋しいような気になり始めた。
 今すぐに目を閉じてしまえば、これが夢だと証明できるだろう。
 まどろみのただなかに、水に溶けてしまうように、曖昧な消滅を心地よく感じられる。

 ふ――――っと、疲れたような調子で息を吐いて、“魔女どの”は、空気が悪いと呟いた。口元を覆って小さな咳をする様子から、それほど身体が強い人物ではないのではないかとも思った。眼を凝らすと、肌だって少女とほとんど変わるところもなく色白だ。病的とも言えるほどに。
 振り向いて、二歩、三歩と進んだ後で急に立ち止まり、彼女は何かを再び呟いたようだった。声になるかならないかというくらいのごく小さな声だったが、静かさの暴威に慣れた少女には、むしろうるさいくらいによく聞こえるのである。

「……――気が向いたのなら、お好きなように」

 光と闇の境界をまたぐ後ろ姿には、どんな感情の色も感じられない。
 ただ、事実を事実として観察しに来た帰り道のよう。言うなれば、どこか好奇心に動かされた学者的な超然さ。最後にひと言、「また来る」と、彼女は付け加えた。

 ガチリ、ガチリ……ガチリ…………!
 幾度も幾度も錠の下りる古めかしい音が聞こえ、また『王様』は『王様』に戻る。
 重々しく封じられた扉に向けて、色の禿げて真っ白くなった人形の目玉を投げつけると、スコオ――オン……と、軽い音が虚ろに刻んだ。
 何故だか、ばかにその音は濃い陰影を残す光であるかのように、深々と突き刺さろうとしていた。

 ベッドから身体を起こして――小さな裸足が絨毯も何も敷かれない剥き出しの石の床に触れた。足先の熱がやけに意識されてたまらない。その熱の繋がっているトクトクと動き回る心臓は、むしろ疼いているとでも言った方が適当なように、痛みによく似たものを放ち続けている。
 足の裏から伝わって来る孤独さとは、正反対の様相でだ。

 熱に浮かされかけた心の中で、魔女を『大図書館』女史と呼んでみる。
 ときおり歩きながら、わざと足を踏み違えて、転ぶふりをして遊ぶことがある。今回のもそんなくだらない思いつきだ。そんなことの諸々が、退屈にせめてもの張りを与えるような、ささやかなものと心得なければならない。

 未だ産まれもしない赤ん坊、もしかしたら蛹の中でどろどろに溶けて眠る芋虫。
 光を知らないそんな諸々の生き物と同じように、暗がりに融ける彼女の白い身体は輪郭を失いかけていた。

 ゴオンともブウンとも聞こえる音を発する柱時計の音が、どこからともなく響いて来る。分厚い壁と、それ以上の強度を以てふたつの世界を隔てる“障壁”なるものが、少女の崩れそうな安穏を支えてくれているような気がする。

 空間を跳ねる度にほこりを震わせて古びていく音を耳にすると、居ても立ってもいられなくなり、彼女は何もかもむちゃくちゃにしたい衝動に頭の中を空っぽにされる。
 しかし、『王様』がずっと王冠を頭に乗っけているには、自分が『王様』であることを、最高の諦めをもって受け入れなければならない。つまり、支配者は支配者たる者の責任として、出たくはないと言ってしまうこと。ここに居ても何らも構わないのであると、考るということ。

 かつて彼女はまだ『王様』ではなかった。
 あらゆることごとを知るには、だから猶予が足りなかった。
 知った後でも憧れも想像もしないことが、そんな立場には重要だ。

『世界に満ちる悪意から遠ざけるため』。
 そんな、あまりにも下手くそな嘘で世界が閉じられたことを、今でも覚えている。
 別れ際に、繋いでいた姉の手を離された瞬間の、安堵とも諦めとも違うのであろう自分自身の眼の潤みが、未だに少女には理解しがたいのだ。
 推測するなら、汗ばむほどに緊密だった互いの力が不自然にするりと緩んだとき、肌を撫でた冷気の絡みつく様子が、経験したこともないくらいに気持ちが悪かったから――なのだと思う。

『誰かの悪意は、自分と異なる別の悪意を決して認めようとしないから。世界はあらゆる害悪に満ち、また暴力に拠る否定を投げかけて来るものである。そして彼らは異物を怖れ、少女の持つ力とそれを行使する意思は、ひどく彼らを敵対の情念に燃え立たせてしまう』。

 曰く、“悪魔の妹君は、狂っておられる”のだと。

 記憶の中で鍵のかけられる音は、その言葉と一体になる。どちらが無機質な機動の音か、どちらが唯一の肉親の声なのか。混ぜこぜになって解らなくなっていく。それは憧れの砕かれる音だ。現実を俯瞰させて何もできないと悟らせる、陳腐な慰めなど一切きかない、乾ききった理性の音だ。
 諌めを意識に突き刺すという行為は疑問への明瞭な答えを諦めることで、同時に、もう何度も考えて解けかかったはずの疑問を、きっと遠ざけてしまうことだった。

 たとえばこの曖昧さの甘受には、以前は小さな指先の拙い動きでは到底とらえられなかった衣服の着用を、確かに習得してしまったということがある。服のボタンを自分ひとりだけで掛けられるようになったという他愛のない事実――それは小さな前進であると同時に、大きな危険でもある。
 服のボタンを掛け間違えるのは、一見して正しい着方と思っても、実は不格好であるという事態を引き起こす。
 この牢獄の不格好さといったら、それこそどこかで大事な何かを間違えているとしか思えない。もちろん、今ここに閉じ込められている少女自身も、何かの手順を誤ったのだろう。

 少女は何かのボタンを“掛け間違えて”しまったのだと思いたい。
 姉もきっと、どこかでボタンを“掛け間違えて”いるのだろうから。
 そうとでも考えなければ、この沈黙を肯定することは、冴えて冷たい刃を抱きしめているのと何ほども変わるところのない痛みなのだ。
 幾度も傷口を噛み潰したところで、そこには何の味もない。ただ流れ出る血だけが、懐かしさの代名詞になった光景とまるで同じにおいを放っているのだった。
 境遇に流す見えない血を飲む生活への介入は、やって来るたびに何かのにおいをともなう。

 においなら色々なのを少女も知っている。
 世界を分かつ扉はどっしりと、押そうが突こうが絶対に揺るがず重々しい巨人の爪先。部屋そのものを構成する石は、そのどれもが彼女の胴体よりも大きく、ハンマーで脳味噌を思い切りブチ割られるような大気の律動。ベッドのシーツはふうわりと、包み込みながらも力なく突き離そうとする遠慮の色を帯びている。壊れた人形は夢の軋んだとりとめのない偶像で、彼女自身の羽がそれに応じるようにして、空の虹を初めて目にしたときの湿った土のあたたかさになる。
 その諸々のいずれもが、例外なく固有の――においか、あるいは、においに似たものを放っているのを知っていた。『王様』である彼女が触れることのできる、それがすべてなのだから。

 無音で、無味で、無臭で、無意味なのは、ひとりを包み込む浅い暗闇だけなのである。
 元からある諸々のにおいも、肉体を引き裂くように緩慢に流れる血に宿る、錆びつく針先の感触も、すべてを暗みは喰い尽くそうとしていた。濁り、淀み、あらゆるにおいと光なき光を抱き込んだドブ泥にそっくりの何ものかが、少女を真ん中にして、いつもいつも堆積して絶えることがなかった。



 王様は宮殿の奥底に引きこもっているので、昼と夜を知らない代わりに、忠実な暗渠をねぐらにした“停滞”氏を家来にしている。
 けれど泥を飲み込む屈辱の感慨にやって来る『大図書館』女史の清浄は、そこだけがぽっかりと新しい空洞をくり抜いたように在る。そのとたん、瞬く間に“停滞”氏は姿を消し、空間を占有するのは少女と魔女のふたりだけになってしまう。

 初めて出会ったときから幾らの時が経ったか知れないが、“魔女どの”は今でも律儀に足を向ける。

 彼女が近くに居ると――少なくとも鼻先の景色は一変する。
 その長い髪の毛から発された、何とも解らない柔和な快さの香気が頬に触れて来るからだ。手でも振りさえすればあっという間に霧散して消え去ってしまうそれは、いつだったか、人形を退屈しのぎに“ぎゅッとして、ドカン”したときに比べれば、もっともっと脆い。形さえない。けれどもそれを行うのは――ひょっとすると子供特有の単なる気まぐれだったのかもしれないが――王様にふさわしからざる行動なのだ。

 幾らかが経ったあるとき、茶色くなった本から漂う濃い芳香が、少女は気になった。
 紙とインクなのに、甘くて良いにおいがする。菓子に似た。
 否応なしに、記憶の中の甘菓子――口に放り込んだ瞬間、ほんのかすかな苦みと、それを覆い隠す強い甘みをもたらす濃い茶色のかたまり思い出さずにはおれなかった。
 あれは何という名前だったかだろうか。タ、ツ、テ……どれも違う。頭を捻り、もっともらしく顎を手で触れて考える素振り。チ、チ、チャ、チョ…………。

「チョコレート」
「……なに?」
「その、本が」

 ふうン。
 少しばかり驚いた様子の『大図書館』女史。溜息には、感心したような音が染んでいる。

「あいにくと、これは本であってお菓子ではないの。かじろうが舐めようが、何の味もしないと思う」
「そんなんじゃない。においが。チョコレートみたいなにおいがする」

『大図書館』女史は、いつも何か難しそうな、見たこともないような異国風の文字が記された分厚い書物を片手にしている。そうして気難しげな学者然とした目つきでもって少女と部屋とをじろりと眺め回すと――何度やって来ても変わらないのに――四本足の一本がいやにぐらつく、一脚の椅子に腰かけるのだ。元の持ち主である少女でさえも使わなくなったこのボロ椅子を、魔女は(おそらくは叡智を求める魔女という種族的な“こだわり”めいた理由で)ことのほか気に入っているらしい。背もたれにゆっくりと背をくっ付けると、いつも何か大仕事をしたとでも言うように咳をひとつ、ふたつ。

 彼女は半端な暗さに顔をしかめ、わざとらしく瞬きを残しながら、仕上げに懐から取り出した近眼鏡をかけ、暗さになど、いっこう構わずに、持ってきた本を悠然と読み耽る。

 怜悧な“魔女どの”がとつぜん眼鏡を使い始めたというのは、道化が鼻先に真っ赤な球をくっ付けている光景を連想させる。早い話がくすんだ茶色のつると、厚いレンズの取りあわせが、首から上だけをまるで老人のように見せてしまっているせいだ。
 奇妙なおかしみに惹きつけられ、少女が唇の端を少しだけ引きつらせるのもまた、毎回のことである。

「こんなところじゃ、チョコレートを食べることもあまりなさそうね」
「なさそうじゃないよ、全然ない。おやつなんて出ないもの」

 食事は出るけれどね、と付け加えることも忘れない。
 が、魔女は「そう」とだけ応じ、あくまで書物以外のことには格段の興味もないという顔をしていた。同時に、何かに耐えかねている風でもありながら。やはり目蓋を幾度かパチパチとやると、眉の間に皺を寄せながら彼女は言った。
 憐れみとも親しみとも違う、しかし、どこかに面白げなものをにじませている。

「チョコレート」
「なに……?」
「好きなの? ……チョコレートが」
「嫌いじゃ、ないけど」

 下がった近眼鏡を指先で元の位置まで押し遣りながら、『大図書館』女史は、懐に手を差し入れた。綿で耳たぶに触れられるような響きの声だった。頭の後ろで両腕を組みながらつまらなそうに見守っていた少女だったが――空気に、わずかな苦みと甘みが混じった。

 久しく味わっていない香りが鼻を抜けて舌を撫で、ついには喉をごくりと鳴らさせる。
沈殿し、腐蝕し、崩壊するのを辛うじて押し留めるだけの毎日には、輝くばかりの光明だった……というのは大袈裟だろうか。
 ともかくも、くしゃくしゃに皺の寄り切った銀紙と、その小さく開いた折り目から覗く茶色いかたまりは、古い本のにおいから想像した甘い菓子。
 つまり――――チョコレート!

「本当なら私のおやつなんだけど。まあ良いわ」

 ……と、『大図書館』女史はいったん書物から顔を挙げると、腕を上げて少女の方までチョコレート入りの銀紙を放ってよこした。カーディガンがわずかにずれ、布越しに肩の形が浮き上がる。

 少女と同じくらいか、あるいはさらに華奢なように見えた。振るわれた腕からは、薄らと石鹸のにおいが漂う。

「いいの?」
「信用できない? 別に毒なんか入ってやしないわよ」

 とつぜん投げ渡されたものを両手でどうにか受け取って、まずは鼻を近づける。
 犬のようにヒクヒクと嗅ぎながら、手の中に収まる小さなかたまりは、確かに毒でも薬でもない、あの甘く美味しく懐かしい菓子なのだということを、何度も何度も頭の中でくり返した。においだけでもじゅうぶんすぎるほどによだれが舌の上に滲み出、少しでも口を開けると直ぐに滴り落ちてしまいそう。

 慎重にも慎重を重ねて、ゆっくり丁寧に開いていく銀紙。
 その中に置かれたひとかけのかたまり。
 溶けかかって不揃いな断面を晒し、白い油分さえ浮いているのが判ったけれど、確かにそれは、あのチョコレートという名前を付けられた、甘いにおいを持つものに違いはなかった。
 向こうから見はるかす『大図書館』女史の視線を受けながら、少女は一気にチョコレートを口に放り込んだ。
 舌でざらつく表面を溶かし、歯でざくざくと噛み砕き、一気に喉の奥へと送り込む。一度噛めば小さな苦みと大きな甘み、二度噛むとさらに大きく甘みが響き、三度、四度と噛むうちには、舌も喉も共に焼けるのではないかというくらい、熱っぽく気だるい味わいの残りが、いつまでも尾を引いている。
 どんな絵本や物語、おとぎ話のハッピーエンドにも、このチョコレートの味は勝っているとまで、彼女は断言したい心持だった。本当に口の中に放り込んで舌で味わう幸福に勝るものなど、古今、『あって無きが如し』だ。

「――私、帰るわ。チョコレートも取られてしまったのだもの」

 少女が満足げにチョコレートの最後の破片を飲み込んでしまうと、つまらなそうに見届けた『大図書館』女史は、本をパタリと閉じ、近眼鏡をしまった。

「自分からくれたのに? ずいぶんと嫌味じゃない」
「魔女はだいたい、嫌味で偏屈」

 冗談とも本気ともつかない微笑を洩らす『大図書館』女史である。
 ボロ椅子をガタガタといわせながら立ち上がり、カーディガンを羽織り直すと、彼女はさよならも言うことなく、出会ったときと同じように「また来る」とだけ言って出て行ってしまう。
 交差した言葉のあとには、ただ錠の降りる音だけが。

 シ――――――ンと、沈黙は自らを轟音と錯覚させようと、少女に襲いかかって来る。
 ひとりになると、喜びと熱情でさえあっという間に暴力的な静寂に取って代わられる。
 おとぎ話のような現実は、現実のようなおとぎ話へと変質する。

『また来る』。
 彼女はいつも、出て行きがけに言う。
 次の日も、次の次の日も。そうやって入り込んでくるのだ。
 いつが次の日で、いつが次の次の日かを知る方法を、しかし、少女は失っていたが。

 “昨日”の伸ばす手は、とても長い。
 “今日”が今日であるというのが解らない。昨日はもう終わったのだろうか。それとも、眠ったことがひどく短い時間でしかないのだろうか。魔女が去ったのは昨日で、彼女がまたやって来るのが明日なのか。
 あるいはチョコレートこそ、頬をつねって確かめるのも面倒な眠たい心地?

 どれにとっても確実なのは、夢は醒めるということである。
 この甘さも、醒めるべき夢だ。
 すべてが消え去ったときには、またいつものように、ひとりのベッドが待っている。

 でも、本当に――――誰かが明日が来るということを思い出せるのなら、それはまたもうひとつの曖昧な期待なのだろう。過ぎた時間のさらに先、その味を飲み込んでしまうことが。だから“明日”というのは、おそらくはチョコレートによく似た味をしている。

“洋服のボタン”よりも、もっとはっきりと、すべては前進しようとしている。こんなにもはっきりとしたものなら、掛け間違えだって起こるはずはない。どう繕っても後戻りのできないくらい、明晰な終わりと断言できる。
無数に連続する時間のひとつが流れ出る血とともに変転し――おそらくはそのために――少しずつ剥がれ落ち始めていた。

 焼けそうなほどの甘さが、喉の奥をしきりにせっついて来る。
 怠惰に滑り落ちる不安の熱に心を鷲掴みにされ、少しだけ痛みを感じた気がした。



 魔女は、たいがい物知りだ。
『大図書館』女史などは無口な部類らしいけれど、訊けば訊いたで色々なことを教えてくれる。
「血は腿の間を流れるべくして流れた」と、あるときに彼女は厳粛そうに口にした。

 子供はまだ子供のままでも、幼いというのと同じではない。
 決別は悲哀と、剥離は流血と。それぞれ無縁ではいられないのだから。幼さと繋いでいた手を離したから、肉体は血を流したのだ。病でもなく、悪意の報いでもなく。

 拭きとったはずの血のにおいを、きちんと身に付けた服と下着の中から、そのときの少女は感じた。肌を這った感触は既に消え去っていたけれど、耳を打つ言葉を噛み締めるように、いつかと同じに奥歯をカチカチと打ち合わせた。

 要はもっと、事態は深刻である。

 ずっとこの暗い世界で王様を気取っていれば、誰にも怖れられることはなく、嫌なことは何ひとつもやってこない。幸福の形はことごとく定義される。自己を『王様』に擬して、どうすれば良いのかをしっかり教育してやればこと足りる。
 何故ならそれは、狭い世界を生きる子供たちにはよくあることなので。未だ何も知らない者たちにとってこそ、望まれているものなので。

 そのとき『大図書館』女史は、壊れかけのボロ椅子から、少女と一緒のベッドの上に乗り換えたものだった。いかなる心境の変化か、気まぐれか。もちろん少女に解るはずもない。考えるのも面倒で、つまりはその行動こそが、よく教育された少女自身の成果というだけだったけれど。

 神妙げな顔をした“魔女どの”が、膝の間をフと見つめながら、小さく、小さく語り出す。まるで小虫の飛び回る翅の音、蟻の足音が隊伍を組みでもするような様子だった。

「ねえ。こんな物語を、読んだことがある」
「どんな?」

 彼女の話はいつも唐突だ。
 しかも何かの高邁さに相対したときの、情熱的に気違いじみた畏れを伴って始まる。

 畏れなら、少女は明かりに駆逐されずに残っている部屋の隅、ネズミやら虫やらを捕らえて離さない、こびり付いた暗みにこそ抱くものだと決め込んでいる。おそらくは巷間で敬虔さと呼び習わされている感情に近いその思いは、想像が想像として機能するより、もっとずっとありふれている。

 そのせいで、余計に難解だった。

 手つきのおぼつかない髪梳き係のメイドに怒って“真っ赤な丸太が転がっている”みたいにしてしまったとき、今はもう居ない少女の父と母は、手指を組み合わせてどこか遠くに祈っているような仕草をしたものだった。
 吸血鬼は信仰を冷笑し、十字架に唾を吐きかけるものなのに。
 血まみれで立ちつくす少女を最後に抱き締めたとき、彼らの額には拷問で釘でも打ちつけるみたいに諦めが刻まれていた。

 ほどなくして、少女は『悪意』という言葉を知った。
 他人に差し向けることで、悪意は形を得る。使われているところを見たのは、両親が、信じてもいないはずの神様からの痛烈さを、そのように言っていたからだ。
 生き物の形を取った悪意のかたまり。
 おそらく、二度と受け容れられることはない。それなら、いっそのこと。
 霧のように触れられない湿った恐怖に、少女は初めて跪きたい畏れを見た。
 世の人の罵りは、痛くも苦しくもなかった。
 家族と離れ離れになることだけが、不安で仕方がなかった。
 きっとそのときに初めて、少女は曖昧に何かを畏れたのだ。
 自分だけが、想像を打ち止めにする遠くの場所に入れられるのだから。

 食事をおっかなびっくり運んで来る妖精メイドも、ときどきは差し入れられるおもちゃの類も、あるいは、やはり――『大図書館』女史その人と、彼女自身が言う『物語』なるものも。すべては遠い遠いところからの敬虔さに準じてやって来る。いずれ劣らぬ暗みを湛えて、少女のもとにやって来る。気違いの畏れを手に取りながら。

 そういえばさっきの食事は量が少なかったから、もうお腹が空いた……などと考えながら、彼女は魔女の言葉を待っている。
 目を薄らと細める魔女の顔に、目蓋の裏へ憧憬を縫い付けているようだとさえ、少女はぼんやりと不思議がった。

「主人公が、ある国の残酷な王様に反逆の意思を示すの。でも王様は、相対した彼に向かって言う。自分がやっていることは、大昔に、十字架への磔が“聖なるもの”を創り上げたのを、神様が許したのと同じことだって。暴力がなければ、人々はその神様を信じることもできないのだって」
「それで――どうなる?」
「主人公は、納得した。いいえ、むりやり納得させられた。反逆を考える者は病気だと言われ、捕らえられ、特別の“治療”を受けさせられ……何も疑うことなく、また王様に仕える毎日に戻っただけ」
「なに、それ。よくわかんない」

 何と、例の魔女にあるまじき饒舌だったことだろう。
 彼女からの香気が、すぐ隣に座ることによって、いつもより何倍も増幅されて感じられた。近づけば近づくほど、“魔女どの”の肌の、病んだ白さに眼の珠が惹きつけられてしまう。その奥底に生命など始めから宿っていないとさえ感じるような、作り物めいた色をしている。血と肉の代わりに泥と土が詰まっていて、皮でなく金属が貼り付けられているような。

 反対に『大図書館』女史の目は、手を伸ばせば触れられそうなほどに胡乱な生気が溢れ出ている。
 その視線からおびただしい血のにおいを感じるという事実は、作り物のような肌とはまるで矛盾する観測だろう。
 何かの重大な終わりを告げるような、穢れたにおいを感じる。
 美味そうだとか不味そうだとかそんなものでなしに、ひたすらの生臭さを感じる。

 枕の端を指先で弄んで魔女は言う。
 大事な書物も端に寄せ、真っ直ぐに少女の頬を覗くように。

「くり返されることが、きっと良いことなのよ。王様にとっては。閉じた世界の主にとっては」
「それって主人公が、また王様の家来に戻ったみたいに?」
「そうかもしれない。過去は無用で、未来もまた必要ではない。ただ現在だけが永遠に続くことが、その王様にとっては重要だった。疑問を抱くことは、最高の維持を崩壊させることに繋がるもの。意思することを、たぐり寄せてしまうから」

 いつもより幾分かの速さを持って、その言葉は響いた。
 “大人が話すように話をしようではないか、すべてとことんまで。君にたずねよう、幼い時から人人は何を祈り、空想し、何に苦しむのか?”
 壮年の男を真似たような野太い、しかしどこかで慈愛と、けれどもそれ以上に強い野心のかたまりと言った風に、芝居がかった言葉を『大図書館』女史は放った。

 何に苦しむのか?
 すべては麻痺し、鈍麻し、薄れている。それでもなお、何に苦しむのか?
 しょせんは祈りと空想と、おまけにその残りかすだ。それでもなお――少女を繋ぎ止めようとしているものは、確かに、古すぎる約束だった。
 いつの間にか、与えられた冠が、ひどく重たく感じるようになっていた。
『気の触れた狂気の王様』。冠には、そんな言葉が刻まれている。
 それを造ったのは大人たちだ。
 大人たちの意思と言葉とは、いつでも子供らの手を強く締め上げ、自らの望む方向に連れ出さずにはおかない。
 魔女は語り、時たま騙る。それは“大人が話すように?”

 首をかしげると、ぽきりと骨が鳴った。
 深閑と、自身の身体が石ころになって投ぜられたような、やけっぱちな響きしかしない。

 大人とは、どんな生き物だっただろう。父や、母や、自分より五つだけ大人である姉は、どんな人たちだっただろう。
 彼らは寂しいのだろうか。
 泣いたりもするのだろうか。

 彼らにもあったのだろうか?
 想像するのをやめて、諦めてしまったそのときが?
過去が剥がれ落ちた傷跡から、『血を流して』生きていた瞬間が?

「世界には、絶対的に他のものを受け入れようとはしない、悪意がある」
「何かしら」
「そう、言われたわ。“ここ”に連れて来られたとき。おまえを守るためだって。いずれ必ず自由にしてやるからって。わたし、そのときは……今よりもずっと子供で、おまけにばかだったのね。そのときは本当に信じていたし、今でもまだ少しだけ、信じてる」

 明日は、確かに来る。日々の集積としての未来も、おそらくはやって来る。
だが望むための未来などというものは『ひとかけのチョコレート』よりも、もっと儚い。
 口に入れたらあっという間に溶けてなくなって、それでも心地よい甘さを味わわせてくれる。尾を引いて余韻を残してもくれる。どんなに小さくても。しかし、どうか。本当は――未だやっても来ない先々は、食んでいるのが長ければ長いだけ、考えれば考えるだけ、誰かを不安にさせる。あまりにもちっぽけな。叶えられなかった望みだと解ってしまった瞬間、甘さはただの泥になる。飲み込んだ者は、息を詰まらせてしまう。

「ねえ。いつかは本当のことを知っているのに、上手に嘘をつけるようになるものなんでしょう。こんな化け物に、いつか外に出られると、それまではここから出なくても良いし、出る必要もないと思い込ませることが、できるくらいに。大人になるって、そういうことなんでしょう」

 何も言わない、答えない。
『大図書館』女史は、無言を貫いて緩慢に立ち上がった。大事な書物を小脇に抱えて。
 少女の視界から少しずつ外れて、後ろ姿だけを見せて、扉に手を掛ける。

「“ぼくたちがこども時代に去る場所は、大抵すてきなところになるよりは、色褪せてしまう”」

 朗々と。何かの呪文を誦するように、いかにも魔法を能くする人物といった風に。
 彼女の引用する『物語』の言葉は、それ自体が沈黙の奥底に少女を磔にしようとしているかのように、厳然と積み上がっていった。乱暴で、歪みきった置き方でしかない様子で、それはあまりにも崩れそうだ。
 チョコレートの甘さと同じように。
 夢はひっそりと、しかし大胆に、醒めていくものであるから。

「いつか――子供でなくなるときが来る。流れた血と引き換えに、あなたは自分自身にさようならをしなければならない」

 魔女から感じる血のにおいは、自分自身のものなのかもしれない。
 今までは曖昧で、消極的で、手で触れても何も思うことがなかったもの。
しかし、それがいま初めて――ひとつの明晰で、明瞭で、覆す余地のない“象徴”であるのだということが、少女の頭の中をぐるぐると渦巻いている。
文字にも絵にも映像にもならない、ほとんど形を成さない思いが次から次へと溢れて来て、頭のてっぺんから爪先まで、空っぽの部分がないというほどに、満たされていった。

 誰にもあるものかもしれない。
 父にも、母にも、姉にも。もちろん『大図書館』女史にも。きっとあったのかもしれない。けれど、見えないのだ。子供の眼だけでは決して捉えられない。透明なのではない、実体がないのではない。ただ、あまりに濃密で、血のにおいが幾つも幾つも折り重なっているので――――子供たちには身近に過ぎる。
 
 彼らは未だ気づけない。少女も未だ気づけない。
 だから、断片にしか触れることはできないけれど。
 しかしはっきりと、ひしひしと、突き刺さって来る。
 通り抜けなければならないもの。新しい扉が。

 色褪せてしまう場所。すてきなところにはならない場所。
 そこは、どこだ。停滞した過去か。自由だった過去か。麻痺した過去か。
 それとも、においを知った過去なのか。“こども時代”に居たところ。いつか去らなければならないところ。すべてが、少女の中で色褪せようと。

 少女もまた立ち上がるが、足の中に鉄でも詰まったように重々しい動きしかできない。
 風もないのにざわざわと、肌と、肉と、その奥底にある魂を傷つけているような形のない不安がある。引きずられながら落ち込んで行く、足のつかない感覚。
 決して終わりを知らない、うち続く不安。
『大図書館』女史と初めて出会ったときと、よく似た怖さだった。
 けれど今は、眼を伏せないことだけが、彼女の正解と思えた。

「ねえ!」

 扉に真白い手を押しつけて、魔女は立ち止まった。
 少女の声を背中に受けて、あたかも強い力で引き留められでもしたように、肩がわずかに震えていた。
 追いつきたい。しかし、身体が動かない。
 走るどころか歩き出せもせず、地団駄を踏んでわがままを言うことさえもできず、ただ、彼女は“魔女どの”に呼び掛けることしかできないのだ。
失くしたおもちゃを探そうと必死で名前を呼ぶ、子供の無意味さ。

 背中の羽が揺れ動く。
 何かを吹き飛ばそうとするように。あるいは、どこかに飛び去りたいと願うように。
 衣服の下の肌は細かな汗が吹き出ている。
 不揃いな熱さのために、少女は息が切れ始めていた。

 ぎゅッと握った拳のせいで、彼女自身がばらばらに壊れてしまいそうだった。

 彼女の知る限り、世界で最も呪わしく、同時に疎んじられる自分自身の能力。疎まれる悪意の表象。狂気の源泉。これが、誰か別の人のものであったら良かったのに、と、強く思った。誰かが自分に対峙して、血肉の一片さえも残すことなく、きれいさっぱり木ッ端微塵にしてくれれば。
 悪意を悪意として、狂気を狂気として、それだけを支えにすることを望むことさえできるのなら。

 “こども時代”が無色に成り下がる。
 投げ渡されたチョコレートと同じくらい――いや、もっとずっと、はっきりと、濃密な甘さが尾を引きながら。反面に、色褪せない破片を突き刺しながら。

「あなたは――パチュリー・ノーレッジは、どうしてわたしの元にやって来たの」

 言葉の最後を飲み込んで、勇気は霧散していった。
 相も変わらず中途半端な暗みの中に、鈴を力なく転がすような、そんな声だ。

「さあ、ねえ」

 “魔女どの”の爪先が上下している。
 コツコツと履き物が床を叩き、歪で不細工な歌を奏でていた。
 ステップはまるで転ぶ直前のように格好が悪く、けれども、ときどきは長くなったり短くなったりの律動を見せながら、いつまでも続く。

「魔女は、探究心が強いから」
「そんな理由で、パチュリーは“ここ”にやって来たの。こんな化け物の巣に」
「あなたは化け物かもしれないけれど、しかし、未だ王様でしかない。誰もいない牢獄の、誰も見ない楽園の。私は本のページを繰るように、物語の結末を確かめるように、姿を見てみたくなった、ひとりの読者」

 伏せられた眼は、何も物語っていなかった。
 顔を上げ、眼を上げ、一心に見つめ続ける少女とはまるで対照的に、魔女の瞳は暗黒のはるか遠くを見透かしていたように思えた。

 ぎい――ッ。ぎい――、い、い、い、――――いッ。

 扉が軋んだ音を立て、彼女は暴いた墓場から出て行こうとした。
少女は死んでいたも同然だった。誰ひとりも知らない、自分でさえも何も解らなくなっていくような場所の真ん中で、ただ幼さを呼吸し続けているだけだった。
 それは彼女の中の小さな知識では、最も快適で、そして、最も苦痛に満ちている。石をむりやり詰め込むように、硬く尖った記憶の淵が、次から次へと喉へ溜まっていくように。

 魔女は振り返らない。
 少女もまた、彼女を追いかけようとしない。
 再び閉じられる世界の向こう側に、もうひとりの自分自身が、何かを言おうと立ちつくしているのが見えたような気がした。

「いつの日かあなたも――王様から主人公にならなければいけないものね。親愛なる妹様」

 ステップは消滅した。
 血のにおいが蘇って来る。
 開かれた傷口と剥がれた過去だけが、現実の証明として空間を照らし始めていた。

「さようなら。フランドール・スカーレット」

「また来る」。それは、とっくに忘れられた言葉なのだ。
 嘘に限りなく似通ったものを最後に残して、ひとりの魔女は居なくなる。
 きっと、それが彼女の“魔法”だったのだろう。
 腿の間と同じ血のにおいだけが、いつまでもいつまでも漂い続けていた。



 フランドールは、悲劇を知る。
 自分自身を何度も踏んづけて、その上を歩かなければならないという悲劇を知るのだ。想念と共に空虚な彼女の身体は打ち砕かれ、真っ黒いはずなのに、光をきらきら反射する破片が無数に出来上がる。切れ味鋭いガラスや、するどい石のようになった自分自身を歩きながら、彼女は血を流す。腿の間からも、足の裏からも、ひとりの身体を生あたたかいものが這いまわる。

 いずれ来たる『何か』を怖れているのかも、フランドールには解らなかった。痛みを伴う時間が、ボタンを掛け違えることに比べて“どのくらい”なのかも、皆目見当もつかなかった。
 神様――信じることさえ、反吐が出るとしか言えない神様――が、聖者のように少女を磔にしてくれるのだとしたら?
 遠くで釘を打ちつけられる自分自身を見つめながら、フランドールは、尋ねたい。
『自らに対して何か、信じるに足るものを与えることができますか?』。

 しかし、誰も居ない。
 パチュリーも、もう居ないのだ。
 自身にそれを訊くすべを、少女は持っていない。
 居るかどうかも解らない神様に語るべき言葉を、何ひとつも持っていない。
 どうしてか、慣れ切っていたはずの孤独の味が、ひどく懐かしく感じられた――――。

 懐かしさは寝床の上に横たわり、昔のことを夢に見た。
 まだ肉親と一緒に居た頃の、何と言うことはない記憶。
 世界は善意と悪意の両方で造られ――間違いもなく釣り合いが取れていると確信していた時代のことだ。

 月の光を反射する蒼白い一面の雪は、太陽の破片を地面に落として出来たのだろうかと、そのときはよく考えていた。
 日光が人間にとって活力を与えるように、狂気を孕んだ玲瓏な月光は、百人の血を吸うのと同じくらい吸血鬼の精神に充足をみなぎらせる。ある冬の日、天候が落ち着いたときを見計らって、姉はフランドールを夜の散歩に連れ出してくれた。
 雪でも見に行こう。父さまにも母さまにも使用人にも内緒で、ふたりだけで。他の誰にも内緒で。
 余計な部分の何もない、実にあっさりとした言葉が少女の手を取るあたたかさに、肯定を促した。

 まだ衣服のボタンがひとりではかけられないから、先にやり方を覚えた姉にしてもらった。いつもより厚着をして、手袋をはめて、首元には、彼女のために作らせた特別のマフラーだって巻いている。どんなに寒くても、これだけあれば大丈夫だ。

 霜も氷も雪の層も、ザクザクとひと揃いにふたりの足音が踏み砕き、何もない真っ白の平面に、フランドールが作り上げた、彼女だけの道ができていく。あんまりはしゃぐと転んでしまうぞ。そう叫ぶ姉の声などまるで聞こえないふりをして、どこかへ飛びあがるように両腕を広げながら走り出した。風を享ける羽の先が、銀色の月の光を反射して、たくさんの星をぶら下げているように輝いていた。

 太陽の破片なら、きっと熱いのだろう。
 そう思いながら、手袋をはずして雪に初めて触れた瞬間の冷たさときたら――驚きのあまり、素っ頓狂な声を出しながら身をのけぞらせたのを姉が見て、大笑いだった。フランドールも大笑いだった。雪を両手で一杯につかみ取って姉の顔に投げつけると、彼女もまた妹に同じことをした。何度も何度も雪をかけ合った。

 ふたりはただ、誰も居ない世界の真ん中で見つめあって――。
 それ以外のことを知らないかのように、笑い続けた。

 頬に冷たいものが触れる。
 風よりもっと明確な、けれども触れれば瞬く間になくなっていく、雪が。
 幾つも幾つも、降り注いで、少女の顔を撫でていた。
 ひたすらの無音の中、途切れずにやって来る雪の珠は、まるで尽きることのない細い糸が次々と降り注いでいるみたいだった。
 天と地とが境を失って、ひとつに融けてなくなっていく幻を見ることができた。世界のすべてが極まった蒼白の装飾を施されているように、それは、ひとつの奇跡だったに違いない。

「雪が太陽の破片でないのなら、きっと月の光のかたまりなのね」
「……ん。フラン、何の話?」
「雪って、冷たいんだなあって、思ったの」
「知らなかった? もしかして」
「だって初めて触れたんだもの。でも、こんなに、きれいで――冷たかった」

 惹かれるように、後ろを振り返った。
 屋敷からずっとずっと続くふたり分の足跡が、姉妹の歩いてきた道を証している。
 前を見据えるならどこまでも進んでいけそうな、そんな気がする。けれど後ろを振り向くと、確かに自らの存在を刻み込んだ跡が、降り続く雪に飲まれることもなく、いつまでも残っているのだった。
 地平の終わりにはきっと果てがないけれど、地平の始まりならいつだって触れることができる。

 フランドールには、それが何だか、嬉しかった。
不思議そうな顔をする姉の隣でひとり、くすくすと微笑を洩らした。

 …………――――――。

 頸に刃を押し当てられているような戦慄とともに、彼女は薄ぼんやりと目を開ける。
 はっきりと思い出したのは、昔、確かに感じた雪の冷たさは、今こうしてひとりぼっちでいる部屋の冷たさよりも、本当は、もっと――『あたたかい』のだということ。

 パチュリーにもらったチョコレートの銀紙が、床に転げているのが目についた。
 くしゃくしゃに丸められ、銀色が剥げ、チョコレートの溶けた部分がかびのように表面にこびり付いている。
 ベッドからのっそりと降り、床の上のそれを手に取ると、そッ……と、舐めてみた。そこだけが別の生き物のように、自分の意思で動かなくなったように、舌の表面は遅鈍な味覚を思い出させた。

 甘さが何もなく、しかし無味ではなく。
 ずいぶんと長い苦みを伴って、その味は喉の奥に残り続けた。飲み込んで忘れようとしても、絶対

 に喉を通らない。絶対に溶けないもの。

「“大人が、話す、ように話を、しようではないか、すべてとことんまで。君に、たずねよう、幼い、時から人人は、何を祈り、空想し、何に、苦しむ、のか?”」

 かつてパチュリーが口にした言葉を、今また、たどたどしくくり返す。
 大人の話し方。それはいったい何なのだろう。
 誰も、いつかは知るものなのだけど。
 そんな解りきったことよりもっとはっきりと、ボタンの掛け方を覚え、チョコレートは溶け、夢は醒める。
話し方を知るよりもっと鮮明に、いつかは終わりを迎える。
 だから、きっと子供のころこそは、いちばんの形ある夢――でも少女のそれは、終わる気配を決して見せない。

 ベッドの上に戻り――膝の間に顔を埋めて、眼を閉じることしかできなかった。

 思い出という形にはめ込むことは、とても容易い。
 それを噛み締めるのも、飲み込むのも簡単だ。
 けれども知らない言葉は困難さのかたまりで、持たざる者にはあまりにも重々しく突き刺さる。知っているものはあらゆる段階において古く、ひび割れ、懐かしすぎた。今やどこかに行ってしまったもの。足跡さえも残さずに、地平の果ては隠された。

 目覚めたときの「おはよう」も、眠りに落ちる前の「おやすみ」も、誰がどんな顔をして、どんな口ぶりで、自分を抱きしめてくれていたのだろうか。大人たちの嘘が過ぎ去ったあとで、幸福な偽りだったと思い返すだけの甲斐を、どうやって手に入れていたのか?
 頬を濡らし唇に伝う塩辛さを、舌先が弱々しく突っついた。
 何もかも失ったのだ。少女は暗みに慣れ過ぎた。ひとりの温度に浸り過ぎたから。だから、死んだようになっていた自分自身の心臓が、見えない刃で切り裂かれる痛みを思い出したことを、哀しまなければならなかった。

 幾つも幾つも透明の珠を、フランドールは両の手のひらで受け取った。
 小さな泉ができて、鏡のように、自分の顔が見えるかもしれないと思った。

「寂しいなあ。わたし、ひとりぼっちなんだなあ」

 呟きさえも取り込んで、数百年ぶりの涙は流れ続けた。

 たとえば空箱を覗き込むことに、よく似ている。
 人々は大事なものを求めてはしゃぎまわる。
 そして、道なかばで見つけたものを手当たり次第に詰め込んでいく。もともと箱に何が入っていたのか、すっかり忘れ去りながら。
 フランドールにはそれができない。
 忘れたものは多すぎる。失くしたものだってたくさんだ。
 しかし、代わりに手に入れたものが何もない。見つけても決して手が届かない。
 だからこそ、想像しないように。
 世界の悪意とやらを説く姉の言葉を真に受けた“ふり”をして、諦めきってしまおうとしていたのに。

 誰しもが『王様』で、例外なく『吸血鬼を閉じ込めている』。
 成長しない楽園に住む王様は、いつまでも追放されない。
 年老いないユートピアの象徴として。
 しかしその実は、仮定に彩られた偽証と偽善と欺瞞の王国だ。
 継続と、永続と、停滞が最善として尊ばれる、最も美しいディストピア。

 大人のように嘘をつくすべを少しずつ知り始めていた。
 彼女もまた王様なんて始めから居なかったのだと、自分はずっとこの姿だったと、したり顔で嘲るときが来るのかもしれない。
 誰だって、嘘をつく。
 幼いころの自分を牢獄に閉じ込めて、血のにおいと涙の感触を切り殺し叩き潰しながら、自分はこんなものさと嘘をつき続けている。
 善いことと悪いことの区別もつかなくなり、やがて――。
 悪意とは、果たして何だったのかも?

 しゃくり上げ、しゃくり上げ……泣き腫らした目蓋を手の甲でグイグイと拭うと、ほんのわずかに“合点がいった”ような気になることができた。

 子供たちを連れ出す大人は、力強く、否応なく、握り潰さないばかりに腕を取る。
 けれどその顔はときに、紛れもなくその子供自身なのだ。
 人々は気づかないうちに、あるいは自ら意思しながら、嘘のために自分をどこかに連れ出そうと目論んでいる。

 だからフランドール・スカーレットも、嘘をつく。
 しかし、誰も不幸せにならないような嘘を。
 何より、自分で自分に納得がいくような嘘を。
 大人の自分が、子供の自分に対してそれをするのだろうと思うことができた。
 血は流れ続け……すべては企図したように、蠢きに呼応したように、あらゆる矛盾と出来損ないに支えられながら進行していく。
掛け違えたボタンも、魔女のチョコレートも、ドブ泥の味も、ありとあらゆる良いにおいと悪いにおいも、彼女だけの空箱に詰め込むためなら、いつかどこかで待っていた最善がようやく手元に落ちてきたのだろう。きっと、今こそがそのときだ。

 枕の横に転がっていた、白く小さな球体を摘まんだ。壊れた人形の眼の珠だ。
 かつてパチュリーに投げつけたそれは、塗装が禿げ、薄茶色く汚れている。
 長い爪でピンと弾くと、硬く乾いた音がした。
 人差し指と親指とで押し潰し――ゆっくり、ゆっくりと加わった圧力のために、たわみ、歪み、最後にはパキンと割れ砕けた。破片が散らばり、膝の上にほとんどが鎮座する。

 指先にくっ付いたままになっている、ほんの少しの破片を見つめ続けた。
 悪意に満ちた世界に産まれたのなら、自分だって“悪意”を持っている。
 子供が大人になるように、どんな人でもまっさらのままで生きることはできない。閉じ込められたひとりぼっちでも、悪意を持っていることを自覚できるくらいには自由なのだ。

 一心に願い、何かを望むということを、少女はようやく思い出した。
 夢が重々しく目蓋を開けて、醒め始めて差し込むまぶしさに、ようやくのことで触れられた気がした。



 久しく握っていなかったペンの感触を、まずは、指先を動かして思い出そうとする。

 太さは自分の小指くらいと考えよう。
 人差し指の腹を刺すように空気は固まって、屈曲した関節が鉤みたいだ。
 汚れの詰まった親指の爪の上にはどこからともなく羽虫が止まり、何かおかしな所に来たというように頭をクルクルと動かしている。中指の真横にくっ付いた軽い感触を思い出すと、紙にクレヨンで好きに絵を描いていたころがフとよぎったりもした。あのときは、手に色が写ってまだらになったりしたものだった。

 見えないペンを手にとって、今日もありもしない紙の上に何かを書きとめる。
 手紙とも言えず、日記でもなく、フランドールは、見えない紙に、見えないペンで、見えない文字を綴り続けた。

『ごきげんよう。フランドールからフランドールへ、今日も私は書き記します。今日も、この“部屋”の中は、真っ暗です。冷たくて、寒くて、退屈です』

 書き出しは毎回同じ。
 フランドールは、ただ書き続ける。
 一字一句、誰にも見えないメッセージを発信し続ける。

 AとBとCとDと……その次は?
 1たす1は、2だ。では、2たす2はいくつ?
 文字のひとつひとつ、数字のひとつひとつ、言い回しのひとつひとつを、彼女はもういちど手に入れようとした。
 上手に嘘をつくには、上手に頭を働かせなくてはいけないのだから。
 間違うことと嘘をつくことは違う。
 彼女は慎重だった。正しい嘘をつこうと努力した。
 冷たい額に汗の珠をいくつもいくつも浮かべている。
 大人がするように、嘘を自分の空箱に詰め込もうとしている。何も持たないから、それしかやり方を知らないから、今は嘘だけが、少女にできる最善でしかない。

 子供時代とは、何なのだろうと、フランドールは考える。
 それはいつの間に始まって、いつの間に終わってしまうのだろう。
 誰も当然のように受け取り、かと思えば当然のように吐き捨てて、嘘のありようを習得してしまう。血のにおいに鼻を詰まらせた思いもどこかに放って――通り過ぎた過去を、懐かしむのだ。けれど少女にとって過去は哀しいことだ。それがために諦めるほど、寂しいことだ。
 きっと誰もが通り過ぎずにはいないことを、巧みな嘘で塗り固めて、みんなはどこに行くのだろう。自分もどこに行くのだろう。この牢獄の中で、いったいどこへ行けばいいのだろう。
 誰だって、自分自身は閉じ込められているというのに?

『ごきげんよう。フランドールからフランドールへ、今日も私は書き記します。今日も、この“部屋”の中は、真っ暗です。冷たくて、寒くて、退屈です。眠る間際、考えることがありました。パチュリーが言っていた、色褪せた子供時代は一体いつのことなのだろうと。わたしは、未だ子供です、血が流れてきたあのときから、パチュリーは幼さと離れなければならないと言いました。それは、大人になるということなのでしょうか。この真っ暗の中で、わたしの手足はどんどん縮んで行くような気さえします。内臓が、息をするたびにボロボロに崩れて行くような痛みがします。いつかの遠くの日から離れて行くわたしは、もうずっと子供でいなければならないような、そんな不安と無縁ではいられません。ごまかすためには、どんどん嘘のつき方を覚えなければならないと思います。大人は、不思議な人たちです。誰もわたしに、嘘のつき方をというものを教えてくれる人は居ないのです。
 ……お姉さまのお顔を、わたしはもうずっと見てはいません。思い出すのはメイドたちと、つい最近までやって来ていた魔女の顔ばかりです。ときにお姉さまは、もう大人になってしまったのでしょうか。彼女は、“子供”のことを忘れてしまったりもしたのでしょうか。もしもそうだとするのなら、わたしにとって彼女は、世界のどこかにある“悪意”以上に不思議な人になるのだと思います。彼女の手が離してしまった時代は、どこかに転がっているというのでもなければ、もういちど戻って来るのでもありません。時間は、そういうものです。誰もその行き先を知らないもの。わたしは、未だとらわれています。そのときに流してしまう血を、吸血鬼なのに飲むことはできません。誰しもが流しているのに、不思議です。もちろん、わたしも。
 最近、食事を運んで来るようになった新顔のメイドは、どうなのでしょう。
 銀色の髪の毛をした彼女は、まるで銀のナイフのように危なげな(銀の武器はわたしたちのとっての大敵です!)眼をしています。妖精じゃなくて、人間のメイドのようでした。名前を訊いたら、“イザヨイ・サクヤ”というそうです。変わった名前……まるで東洋人。顔立ちは、そうでないのに。彼女が用立ててくれた紙と鉛筆で、今は書いています。お姉さまには、内緒で持ってきてくれたのだそうです。見つかったら、きっと彼女はひどく叱られてしまうのでしょう。だとすると、少しかわいそうです。あとで謝った方が良いのでしょうか』

 腹の奥底に溜まり込んだ、不快と重石とざらつきと血のにおいの周期が、少女の“筆”を鈍らせる。どうしようもない不安が、暗黒に慣れた視界にあやふやな燐光を明滅させ、棘を吐くような痛い息を吐かせにかかってくる。

 ボタンは外れ、チョコレートは溶け、鉛筆の先はポキリと折れ、夢はとうに醒めている。
 削るための道具やナイフはひとつとして存在せず――書けなくなった安寧の中で、フランドールは、どれが自分の嘘なのかが判らなくなっていく。
 子供だけのユートピア。それを大人になることが否応なく蹂躙し――?
 押し込められたことは屈辱で、けれどそこから離れることはひどく寂しく――?

 折れた鉛筆の先で紙に触れると、砕けた黒鉛の粉が円状にぶちまけられた。
 この中のどれかひとつがただの砂粒だ。そんな仮定をするように、手探りよりももっと曖昧に、時間は続いていく。どこかの時計の音が、そう告げてくる。
 チョコレートと暗闇とドブ泥と、掛け間違えのボタンと薄汚れた銀紙と、血の流れとそのにおいと。絶え間のない嘘と、尽きることのない本当が。あらゆる瞬間のすべてが一緒くたになって空箱に詰め込まれるときだ。
 少女の空箱の中が、少女だけのもので一杯になっていく。
 書けば書くほどに手は痺れ、目蓋は落ちかかり、心臓は早鐘を打った。
 羽化するように、とろりとした安堵を自ら捨て去るように、いつまでも彼女は書き続けた。

 嘘が必要なときがあると言うのなら、きっとこれが最高の嘘なのだろう。
 自分だけを押し込めて、けれど誰にも触れられない。彼女に触れることは誰にもできなくなっていく。それが真実の解決かどうかは解らないけれど。姉も魔女もメイドも、生きている者も死んでいる者も、絶対に答えを提示できないだろう。
 世界の人々は同時に嘘をついている。
 ならば、そのうちの誰が正しいのかなんて、始めから判る道理などあるはずもない。
 彼女は、彼女のためだけに、正しい嘘をつき続けるのだ。
 停滞しきっていた諦めの代わりに、未来を覗き見るために。

 つまるところ、そういうことだ。世界は以外と簡単だ。
 少なくともフランドールにとって、今は、まだ。

『ごきげんよう。フランドールからフランドールへ、今日も私は書き記します。今日も、この“部屋”の中は、真っ暗です。冷たくて、寒くて、退屈です。これを読んでいるのは誰でしょう。いつかの時代のフランドール・スカーレット? 子供のころの、あるいは大人のころの?
 いつの時代も――――フランドール・スカーレットはフランドール・スカーレットではなくなっていくけれど、やはり彼女は、いつまで経ってもフランドール・スカーレットでしかない。血のにおいと、無縁でいることはできないのでしょう。見えない傷を全身にこしらえて、あらゆる悲鳴と混じり合いながら、今日も血は流れていきます。それを嘘だと笑いますか? それも良いのでしょう。いま書いているわたしの嘘と、文章を読んでいるあなたの嘘は決定的に違います。違いすぎるのです。あらゆるものは、どこかに行ってしまいます。チョコレートの味は、もう忘れました。それは溶けやすいものだから、希望することこそ、いちばんの手っ取り早い嘘であるには違いないのですから。しかし、それでもわたしは望むことを知ってしまいました。愚かです。やはり、ばかだとも思います。もしもお姉さまの言ったように、世界に悪意が住んでいるのであれば、安易な希望こそが最もたちの悪い悪意であるのでしょう。精神に取り憑き、心を昂ぶらせ、叶えられる保証のない望みを持たせようとする……何て怖ろしいのでしょう。どんな十字架より、日光より、流れ水より怖ろしい。
 “大人が話すように話をしようではないか、すべてとことんまで。君にたずねよう、幼い時から人人は何を祈り、空想し、何に苦しむのか?”
 パチュリーの言葉を今でもはっきりと思い返すことができます。それは――世界一複雑なわたしの疑問です。大人のことを未だ知らないから、未だ子供から脱することが、叶わないから。血が流れるから苦しいのではありません。かと言って、孤独に倦むことだって、もう飽き飽きなのでした。空箱の中には、わたしだけのものが入り込んでいます。わたしだけの記憶、わたしだけの思い、わたしだけのわたしが。ああ……怖いもの知らずなのですね。あんなにも不安だったのに、書いているうちに、何だかとてもとても楽しくなってきてしまうのです。世界は依然として真っ暗闇で、わたしはひとりぼっちで、いつか出られる保証もないというのに。フランドールだってそうだったのでしょう。だって、あなたはわたし自身なのですから。どんなに今のわたしを笑っていても、あなたは寂しがり屋なのですから。安易で陳腐なものこそいちばん大嫌いなものだけれど――でも、だからこそ、絶対に離したくないということを、あなたも知っているのでしょうから。それがわたしの見つけた嘘で、なおかつ、本当のことなのです。いつか(それがいつになるかは、全く判らないけれど)自由になったときに、どうかあなたはこの手紙を読んでください。そうしてあざ笑ってください。怒ってください。泣いてください。好きなように解釈してください。これが、わたしからの最後の言葉です。

 さようなら。またいつか。

 出来損ないの、気が狂った、すべてを破壊する、悪意に満ちた、ちっぽけな、ひとりぼっちの、嘘つきの、代わることも、奪うこともできない、世界にひとりだけの、大好きな、そして大切な、他の誰もが知らなくて、他の誰にもその手を取ることのできない、わたし自身。フランドール・スカーレットへ。

 彼女自身の、親愛なる“幼年時代”さまへ――――……』


――――――


 少女に夜は歩かない。
 “幼年時代”はゆるやかに色褪せていく。
 終わりのない子供である彼女のもとからも、例外なく失せ始めていく。


 扉がひとつ、ゆっくりと、開かれようとしていた。
最後まで読んで下さって、ありがとうございます。

「ぼくたちがこども時代に去る場所は、大抵すてきなところになるよりは、色褪せてしまう。」という文章は、ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』(上巻・中野圭二訳・新潮文庫)から引用しました。
こうず
http://twitter.com/kouzu
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コメント



0.820簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
ああこれ好きです!
ちょっと最後の展開が唐突だった気がしますが、すごいよかったです。
作者様の文章が好きです。
5.90名前が無い程度の能力削除
じっくり読ませていただきました。けれど、また読みたい。
10.100名前が無い程度の能力削除
うまく言葉にならないけど、すごくよかったです。
こういう雰囲気大好き。
13.90名前が無い程度の能力削除
吸血鬼にも信仰は必要なのかもしれませんね。神や悪魔を信じるためでなく、ただ己を区切り、閉じ込めるために。
すこし執拗に過ぎてコントラストが鈍い気もしましたが、フランの誠実さと、パチュリーのふくよかさの相性が、胸に響きました。
>誰しもが『王様』で、例外なく『吸血鬼を閉じ込めている』
この一文、いいですね。
とっぷりと堪能させていただきました。
14.無評価作者削除
>2.
コメントありがとうございます。
あるていど意識して今回の書き方を目指してみたので、
好きと言って頂けるのは嬉しいです。
終盤は、自分でも急ぎすぎかと感じました。
もう少し煮詰めるべきだったかもしれません。

>5.
コメントありがとうざいます。
無駄に時間ばっかりかかった作品ですが、
じっくりと読んでいただけるのは…作者の冥利につきますです。

>10.
コメントありがとうございます。
書いた方も、当初の意図なり構想なりをどれだけ文章化できたか不明瞭ですが、
楽しんでいただけたようで、幸いです。

>13.
コメントありがとうございます。
確かに、同じようなフレーズ濫用し過ぎですね…。
自戒して、今後の課題とします。
とはいえ、読者様の胸を打つ何かを感じていただけたのなら、
たいへん嬉しいと思います。
19.100akai削除
まず読み始めたとき、言い回しの素晴らしさに思わず感嘆の息がこぼれました。
完全にお話の虜になって、時間を忘れて読みました。

簡潔に言えば、極上のフランドール・スカーレットの物語でした。

この感想までに三度、この作品を読んでいるのですが、今だに理解が及ばないところが多々あります。
おそらくこれからも完全に理解することはないだろうし、それでわたしは何度もこの話を読むでしょう。
このお話に関してはそれでいいのだ。そう思えました。

決して読みやすいといえるものではなかったと思います。
一文一文を理解しながら読み進めていくのは、ちょっと難しかったですが、楽しく充実させていただきました。
文章はこの話の魅力を引き出すのにもっとも適した形で、丁寧に書かれている印象を受けました。

 少女に夜は歩かない。
 “幼年時代”はゆるやかに色褪せていく。
 終わりのない子供である彼女のもとからも、例外なく失せ始めていく。

この詩的なフレーズは、陳腐な表現で申しわけないのですが、すごく好かったです。
うまく伝わったかどうかは分かりませんが、とにかくわたしは、このお話が大好きなのです。
20.無評価作者削除
>19.

わざわざ長文ありがとうございます。

無駄に時間ばかりかかって、
まとめが性急すぎたなーと思ってたのですが、気に入っていただけたのであれば幸いです。
文章は……実は好きな某作家のものを参考にしたもので、完全なオリジナリティを獲得しているとは言い難いのでした。とはいえ、今後もそのご感想を励みにして頑張りたいと思います。はい。
21.90コチドリ削除
フランドールがなりたいのは誰なのか。
ピーター? ウェンディ? ティンク? それともフック船長? 或いはネバーランドは必要ない?
なれるものなら私は時計ワニになりたい。

相変わらず噛めば噛むほど味が出るスルメや乾し貝柱みたいな物語を書かれる。
美味しいんだけどやっぱり顎が疲れるな。断片が奥歯に挟まって気になる感じも似てる。
私はチューインガムと乾物、分け隔てなく好きだ。
それらが混交する創想話と一端を担う作者様に感謝を。
22.100名前が無い程度の能力削除
これはいい。
24.100パレット削除
素敵。面白かったです。
27.100保冷剤削除
フランドール・スカーレットの成長を血肉になぞらえて、痛みを持って語る。
一人で地下室に何百年もひきこもる少女から、いったいどう思考を拡げたらこれほど成長の痛みを引き出せるのか不思議でなりません。
フランドールはいい子だな
29.100名前が無い程度の能力削除
ステキ
30.100名前が無い程度の能力削除
面白い